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(No Subject) / あちこち
あさ、布団の中で、さっと起きて何かがしたい感じがする。
ぬくぬくと寝ていたい感じもする。

どちらが素直な気持ちだろう。

葛藤しているのが素直な気持ちだろうか?

葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?

No.2865 - 2010/11/10(Wed) 08:20:30

Re: / ubik0101
おそらく、いく種類か、思考、と呼ばれてることがあります。いわゆる心理的な思考、葛藤、自我の機能、これを命名して、思考、と呼ぶ場合があります。また。そのようでない、たとえば実用的な、物理的な、数学的な、思考、があります。それは、実は、葛藤の範疇にない、と見なされるだけで、大差なし、の場合があります。

たとえば、実用的な、物理的な、数学的な思考も、それを基にして、葛藤、自我の機能を引き起こすからです。なんでもいいのですが・・・たとえば世界は閉じてると・・・僕・・・。いや。世界は開いてると・・・俺。どっちが正しい?また、この発明・発見をしたのは、私だ。いや、僕だ。とかあり得るでしょう。これは、思考が、思考者をつくってる場合かもしれません。それでも、それが事実を明確にするための真摯で正確な、検討、ということもあります。

と、いうことを思考してるとしても・・・それが事実であれ、空想であれ・・・とくに思考者をつくらない、思考、があります。ここで思考者とは、葛藤者、自我に束縛されてる者、という意味です。まあ、なんと呼ぼうといいのですが・・・思考者が、いるとか、いないとかも、とある表現なのですが・・・思考者がいない、思考です。

このような思考・・・ならば思考は思考を見ません。これを逆に言うと、思考は思考を見る、そんな思考は、その思考には関係なく、思考者がいる、というだけです。たとえなんだかの、思考、がなくても、思考者がいるなら、思考者はいる、のです。つまり、思考が問題なのではなく、思考する人が、どのような有り様であるのか?が問題といえば問題なだけです。

それは、その人の行動によって、その発言によって、その思考によって、その人が、どんな有り様なのか・・・検討対象になるのかもしれませんが、それは・・・カエルが鳴くから、明日は雨・・・という程度の域をでません。正確な判断になり得ません。

ここまでは、言葉による思考です。あと、言葉によらない思考があります。たとえば、あちこちさんの投稿を読んで・・・その瞬間・・・言葉にならない思考が知覚されます。それを解凍して言葉にしてるのが、この投稿文です。また。朝、眼が覚めてる、と思考しないでも、眼が覚めてるのは、事実、です。それは知覚でもありますが、思考とも言えない思考です。

たとえば朝、眼を覚まして、歯を磨いて、作業服に着替えて、軍手をして、スコップを持って庭の裏に作った、畑を耕します。そして青梗菜とか、人参とか、種を蒔いて、水を撒きます。それは。ふたつの感じは、ない、です。

ふたつの感じが、ある、それでも問題ない、というのは、また別の話です。

No.2867 - 2010/11/10(Wed) 11:24:11

Re: / あちこち
ふたつの感じがある場合の話。
夜の虎さんの場合にも、時には、ありうること?

No.2889 - 2010/11/15(Mon) 08:12:03

Re: / あちこち
二つの感じは、違う人がそれぞれ持つ場合もある。
さて、どう関わるか?

No.2900 - 2010/11/17(Wed) 08:20:25

Re: / ubik0101
ま。優先順位の違い・・・それだけのことでしょう。

ところで久し振りの禅問答・・・とても、うろ覚えですが・・・ある修行者が「自分て何ですか?真理て何ですか?」とかいう質問をしました。すると、馬祖という禅師が「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」と、答えました。

さて、なんと返事しますか?

No.2902 - 2010/11/17(Wed) 09:49:52

Re: / あちこち
優先順位は、どう働くのでしょう?
No.2923 - 2010/11/25(Thu) 10:03:36

Re: / ubik0101
それは、自己都合、でしょう。それだけで、ほかの人との関係では、軋轢や葛藤は起こり得るでしょう。でも、ある場面で・・・ほかの人との優先順位が同じ、意見が同じならば、とくに問題としては意識されないでしょう。

また、なりゆきで、相手の都合に合わせるともなく合わせれば・・・また約束とか常識とか・・・それで不満がなければ・・・問題としては意識されないでしょう。しかし、それで一生過ごせたとしても、問題が解決された、ということではないです。ほかの場面では、ほかの人と意見や優先順位が違う、ということもあり得ます。

それで問題の根っこの自己都合・・・正確には、自我都合・・・それを解決せねば、解決されないでしょう。それは・・・損得とか、偽善とか、嫉妬とか、欲望とか、善悪とか、正誤とか・・・それを太平洋を一気に飲むように、一挙に解決されるのでないなら、かなり困難です。

その言い方はともかく、自己を知る。これが最優先です。そのために軋轢や葛藤が起こるなら、いくらでも起こればいいです。それに、実際、自己を知る、そのためにしか・・・たとえば自我都合にしても・・・その、わたしは誰?であり・・・それから逃げるとしても、その、わたしは誰?であり・・・問題は起こらないと言えます。

No.2925 - 2010/11/25(Thu) 12:25:20

Re: / あちこち
話は、元に戻って、素直な気持ち?はどうなのでしょう。
No.2941 - 2010/11/30(Tue) 19:42:51

Re: / ubik0101
ふたつの感じは、ない、です。つまり、ひとつの気持も、ない、です。

もし・・・なんだかの、たとえば「さっと起きて何かがしたい」ひとつの気持があるなら・・・その裏というか奥というか影には・・・それと反対の気持ちと、それと類似の気持と、それと無関係な気持・・・つまり、あらゆる気持、があるかもしれません。たとえば「ぬくぬくと寝ていたい」「あと10分だけ寝よう」「ああでもないこうでもない」があるかもしれません。それだと、気持が気持と、せめぎ合います。でしょ?

No.2942 - 2010/11/30(Tue) 20:40:18

Re: / あちこち
> 二つの感じは、違う人がそれぞれ持つ場合もある。
> さて、どう関わるか?


ここも、お忘れなく。

No.2943 - 2010/11/30(Tue) 21:01:10

Re: / ubik0101
一人は「さっと起きて何かがしたい」なら、そうすればいいし、も一人は「ぬくぬくと寝ていたい」なら、そうすればいいです。
No.2944 - 2010/11/30(Tue) 21:36:57

Re: / あちこち
> > さて、どう関わるか?

ここがまだ検討されていませんか。二人ならできることもあるでしょうし、話しかけなどはあるのでしょうか?

No.2948 - 2010/12/01(Wed) 08:37:48

Re: / ubik0101
それぞれの人が、おなじ家にいても、おなじ時代に暮らしても、それぞれのことをする、これは無関係、ということではないです。関係だと、意識しなくても、関係なんです。とりあえずこれを、ここで便宜上、静かな関係、と呼んでおきます。

だけど、たとえば、おなじことをしたい、という思いが予め前提にあって、たとえば一人は「ぬくぬくと寝ていたい」。で、も一人は「さっと起きて何かがしたい」とかの違う行動があって、おなじことができないことに不満があるなら、それは意識できるようになった関係づけです。騒がしい関係です。検討の材料にはなるでしょう。

それは、おおくの場合は・・・公平さとか、正しさを求めてるのであり・・・そこに実は取引とか損得が隠れてるかもしれません。その不満の原因は、相手にあるか、自分にあるかなどと原因を探っても・・・相手を矯正しようとしたり、自分を矯正しようとしたりすることに、なりやりやすいでしょう。それでは不満は解消しないでしょう。

これは、なんであれ、静かな関係に、騒がしい関係を、ことさら発生させて、それに便乗して、自分が自分を自覚したい、という自我の機能です。と、いうのも自我そのことは、自覚できない・・・それが行動、発言、思考に現れた・・・その軋轢や葛藤とかによって、自覚できる気がするからです。そんな気がするだけです。

それに関係が騒げば、興奮が生じて、生きてる感じ、がするのかもしれません。そんな効果もあるのでしょう。でも、そいうことに問題があるとして、その根っこは、自我、にあります。それが、虚構、だと言うこと、これを明らかにすれば、ほとんどの問題は解決です。

けど、これは辿り着く道はないのです。でも、自我を解決する、その効果を期待したわけではないけれど・・・なにかを検討するとしても、その自分が、その自分を検討する・・・それは自我でなければ、ほとんど不可能・・・それは役に立った。ほとんど本能の衝動、それが、否定の道・・・わたしは誰?・・・です。

No.2950 - 2010/12/01(Wed) 11:08:38

Re: / あちこち
二人でしたいというのと、二人だとできるというのと、話をいっしょにしてはまずいのでしょう。
No.2963 - 2010/12/03(Fri) 07:57:10

Re: / ubik0101
もっと単純には。それは、できることと、できると思うこと、とか・・・できないことと、できないと思うこと、とか・・・その組み合わせの・・・愚かな混同ではないでしょうか。

これは世界に人が、たった一人で生きてるなら、事実そうであっても問題として意識されないでしょう。人と人の間において、問題になるのでしょう。

なので。そんな、ほかの人の愚かな様子は観察しやすいのです。が、そんなことを観察してる・・・その自分を度外視しては、無意味・・・と気がついて。その自分についての検討に向かったのです。

No.2966 - 2010/12/03(Fri) 21:39:15

Re: / あちこち
最初に戻って、もう一つ残っていました。

>>>葛藤なしに、単に二つのの感じがあるというだけのことか?

>>ふたつの感じが、ある、それでも問題ない、というのは、また別の話です。

そうすると、直接には、素直な気持ちは、どうなるのでしょう?

No.2970 - 2010/12/04(Sat) 07:47:33

Re: / ubik0101
なんであれ、なにかの気持があるとして。その気持に隠れた・・・どんな、ほかの気持がなく・・・その気持だけがあります。これは、それを観察する者を要しません。

(a)その気持は、関係によって起こる反応です。つまり、その気持の初源は、その気持ではないのです。

(b)けど、その気持は・・・それと類似の。反対の。無関係の。なにか別の、気持として、立ち上がった気持ではなく・・・その気持そのこと、として立ち上がったことです。

どんなことであれ、この逆説のようなあり方です。これが、この世界に生きていながら、人が、この世界に依存できない、仕組み、そのことです。

これは。ほかの言い方では。怒りだって、悲しみだって、世界の機能なんです。とか。いわゆる心理的な思考とか、過去、とか・・・既知・・・と言われてること、そのことが・・・未知・・・なんです。とか。とか言えます。

No.2971 - 2010/12/04(Sat) 08:36:55

Re: / あちこち
取り上げるのは、素直ではない気持ちの方でしたか。
素直な気持ちも、また、そうではない方に変化するかもしれませんから?

No.2976 - 2010/12/06(Mon) 17:10:17

Re: / ubik0101
いいえ。ところで、えー、あちこちさんに、これまでubik0101が話したことが聞こえてないのかな・・・《困った、な》・・・と、いうのが、ここでの素直な気持ちです。で、これを検討しますか?
No.2977 - 2010/12/06(Mon) 19:45:46

Re: / peer
ふたつの気持ちって、本音の自分とタテマエの自分がある
というのと同じような気がしますが。どうでしょう?

No.2979 - 2010/12/08(Wed) 12:54:40

Re: / ubik0101
ほかの人から見た自分とか、こうありたいという自分・・・それが建て前の自分なんでしょうか。それは、自分が、本音の自分を自分に隠すことによって生じるのかもしれません。また本音も、建て前を隠すことによって起こるのかもしれません。

そうでないなら、建て前も、本音、ということもないのです。ひとつの気持もないです。なにかひとつの気持が生起するのは、そこに・・・たとえばpeerさんの投稿を見て、こんな思考をしてるのですから・・・関係の新展開とかを要するのでしょう。

ところで、それにしても。とある気持が、ほかの気持に変わる。たとえば慈しみが・・・しだいに連続して・・・憎しみに変わる。。ということは、可能なのだろうか?と思います。

その、それぞれの気持は、それぞれ生起することで、不連続なのではないでしょうか。なのに、自分、というか、世界、が継続してるから、なにか連続してるとして感じる。ということではないでしょうか。これ、けっこう面白いかもしれません。

No.2980 - 2010/12/08(Wed) 20:11:36

Re: / peer
まっ。建前の自分も本音の自分も、どちらも、思考みたいなもの。
なんとなく「本音の自分」なんていうと、それが本物の自分だと
錯覚するかもしれません。
精神構造とでも、言いますか。
生きていく上で学んだソーシャルスキルを持った自分と、
それを否定し引きずられまいとする自分というものが、
必然的に発生する。
それを健全という場合もあります。
どちらの気持ちを採るかと悩むと葛藤になります。
一方方向だけを突き進むことは、まず、危険ですし。
ブレーキとアクセルがあって、それが両輪になってこそ、
危険を回避しながら前進する。
心はそういう構造になっているんじゃないかしら?

仕事があるのに「ぬくぬくしていたい」という方を採用すると
クビになったり減俸があったり、立場を悪くします。
しかし「ぬくぬくしていたい」気持ちも、大事なのです。
もしかしたら疲れきっているのかもしれないし、
その仕事がイヤになってるのかもしれない。
としたら、それは解決すべき問題でしょうから。

No.2981 - 2010/12/09(Thu) 02:05:49

Re: / ubik0101
>心はそういう構造になっているんじゃないかしら?

たとえば、なにか辛い生活をしながらも自分を、ひとかどの人と思っていたい・・・そんな立場が危うくならないために、本音を、ほかの人や自分にさえ隠したりすることも。また、嘘の本音を捏造することもありそうです。

そうすれば自分を検討できないから大丈夫。また、おなじような本音や、おなじように隠してる仲間がいるから大丈夫。というのも健全というよりは、愚かに生きるための空想でしょう。この意味で、心、は空想です。なくていいです。

そんな建て前も本音も、両輪だとしても、正誤とか優劣とかが隠れてて、バランスが崩れて大変かもしれません。また、隠しきれないでしょう。 仕事を変わりたいなら、たとえば「ぬくぬくしていたい」ではなく、仕事を変わりたいと思考するだけです。

ほかの誰かのことは、ともかく。どんなことも人との関係も、仕事も、隠し事がないという意味で、プライベートです。これは、どんなことも、プライベートがない、と言ってもおなじです。

ブロッコリの葉、虫食いです。

No.2983 - 2010/12/09(Thu) 15:41:22
ガチャピンとムック / ルー
頭がものすごく光ってますね(笑

それに、巨大ですね!

可愛いを超えてると思います〜(笑

今日、母と電話で話しました。

そして、侵入されずにいられました。

これを自己の確立というのでしょうか。

自己が自己として収まった感じですよ。

自分が納得できる地点に到達するまで、自己は安定しないものなのかなと思いました。

No.2956 - 2010/12/02(Thu) 14:51:44

Re: ガチャピンとムック / hato

ねえ、いいですよね。思わず、撮ってね〜!!と叫んでしまいました。

ルーさんは、本当にお母様との関係性で学ばれることが多かったのでしょうね。それまでの経験を、自己を知るための道筋としてみることができるとしたら、幸いなことではと思います。

厳密にいえば、自己は、その自分のあれこれとは無関係に、単にそれであります。とある局面の自分が昇華されるとき、ふと、それであることが起きます。そして尚、深く、より深く、自分が理解されていくことが必要かも知れません。少しずつ、少しずつ、薄皮を剥ぐように、或いは突然の閃きによって、為されていくことが、あるかも知れません。

関係性は贈り物と思います。本当になんて、総てを孕みながら素敵なのかと思うのです。

ナナが風邪気味で、鼻が真っ赤になって可哀相です。餌に薬をまぜて、様子を見ているところです。

No.2958 - 2010/12/02(Thu) 21:16:21

Re: ガチャピンとムック / ubik0101
ふと・・・そのことがルーさんの、お母さんに伝わったとして・・・秘かに乾杯する、そんな、お母さんだといいな。と、思いました。

(いろんな人の間で、軋轢や葛藤があるのでしょうが、その奥には、自分勝手にしても、そうでないにしても、ほかの人に成長して欲しい、無知蒙昧なまま生きていて欲しくない、そんな気持も隠れていることもあるでしょう。これが、根が深いことがあるようです)。

そして。どのようにでも、いい加減にできるかもしれませんが・・・たしかに・・・自分で納得する。それが、いちばん厳しい基準です。

No.2959 - 2010/12/02(Thu) 21:18:45

Re: ガチャピンとムック / ルー
ありがとうございます。

もし、私が母と同類の人間であれば、母に対しての問題はなかったのでしょうね。

No.2960 - 2010/12/02(Thu) 22:41:29

Re: ガチャピンとムック / hato

> もし、私が母と同類の人間であれば、母に対しての問題はなかったのでしょうね。


なにかについて、同じ反応や対応ができる人間であれば、関係上無問題かといえば、必ずしもそうと言い切れないでしょうね。たとえば、親愛の情が強いゆえに、関係性に依存してしまって自己を見失えるなら、そのほうがより、重大な問題だったかも知れません。

ルーさんは元来とても、人を放っておけない、情の厚い、優しい人なのではと思うのです。そのような人の場合、自己からみて、まず自己を発見して貰うより、親子供のほうに向かっていってしまわれることは、なにより問題です。(念のため、自己はなにか擬人化できるものではありませんけれども、)

その母は、ある程度鬼母であったことで、優し過ぎるルーさんを適度に突き放してくれた、ともいえるかも知れません。或いはルーさんが、無意識にせよ、意識的にせよ、なぜ生まれてきたのだろうか、と疑問に思うことを提供してくれたのかも知れません。ほかの誰の為でもありません、ルーさんの為には、それほどまでに憎い母でなければならなかったのです。

実際にお母さんがどうであるかより、ルーさんが選ぶだけで充分です。もちろんこれは、たとえ話ですよ。ルーさんの人生ですから。

人生は誰にとってもきっと、気付く機会を得るなら、上手に、自己に向かうようにできています。まずはそれだけ、といえるのです。

No.2961 - 2010/12/02(Thu) 23:51:31

Re: ガチャピンとムック / ルー
私が「鬼娘」となり、母親を適度に突き放すことができたことで、正常な状態に持っていけたのかも知れません。

母親が「鬼母」であり、「娘を適度に突き放す母」であったなら、その娘は、日常的に辛いことはあったでしょうが、問題がわかりやすく、対処の仕方もわかりやすく、自己の確立も早かったかも知れません。

「いい母」に見え、「娘を自分の一部として取り込む母」である場合は、娘にとって、問題がわかりにくく、自己の確立が難しいのだなと思いました。

私は、長年かけて、諦めず、よく頑張ったと思います。

真摯に生きるには、そうするしかないわけですが。

生まれたときに持っている魂というものは、人によっていろいろなのでしょうね。

その魂の声を聞きながら生きていくのだと思います。

No.2964 - 2010/12/03(Fri) 08:36:59

Re: ガチャピンとムック / hato

> 母親が「鬼母」であり、「娘を適度に突き放す母」であったなら、その娘は、日常的に辛いことはあったでしょうが、問題がわかりやすく、対処の仕方もわかりやすく、自己の確立も早かったかも知れません。

関係性のなかで、互いにそうしたことをしつつされつつしながら、人は学んでいくのだと思います。常にその人にとってちょうど良い学びがなされるよう、上手く配置されること、その意味でも、本当に上手くできている、といつも思うのです。

「hatoさんは、鬼嫁です〜」と、ubik0101さんは述べております。あ。そう。

庭に菜花が生えていて、蕾ができたので、すこし収穫してみました。

No.2965 - 2010/12/03(Fri) 21:01:33

Re: ガチャピンとムック / hato

> 生まれたときに持っている魂というものは、人によっていろいろなのでしょうね。
>
> その魂の声を聞きながら生きていくのだと思います。



自身に尋ねていくこと。本当に、大事と思います。

生まれたときに持っている魂。もしかすると、人それぞれの個性といえるのかなと思います。自分はとくに、魂、そのように考えることはないかも知れません。この自体は、未知ながらの道、と見ることがあるようです。それがぴったりします。

けれど、魂、その導きとのことが、誰かにとってぴったりくるものであれば、あらゆることを使って進んでいけることがなんと素晴らしい、と思います。

No.2967 - 2010/12/03(Fri) 22:01:27

Re: ガチャピンとムック / ルー
キリスト教では「精霊」というもの。
そのようなものを、私は小さい頃から認識していたように思います。
自分の中にあるのか外にあるのかどうかわかりません。
私と一体としてあるもの、みたいな。

それは「家庭教師」のようなものだという牧師さんがいます。

そのようなものを私は魂と感じるんですね。
たしかに「ある」と認識できるんです。

私が通っていた幼稚園がキリスト教で、毎日神様にお祈りしていたことと関係しているのかも知れません。

No.2969 - 2010/12/04(Sat) 00:47:19

Re: ガチャピンとムック / hato

> そのようなものを私は魂と感じるんですね。
> たしかに「ある」と認識できるんです。
>
> 私が通っていた幼稚園がキリスト教で、毎日神様にお祈りしていたことと関係しているのかも知れません。



ルーさんは、本当に敬虔にお祈りするのでは、と思います。

様式は違うかも知れないけれど、自分はそうしたところをとても大切にする方に巡り合って、その観点から助けて頂いたことがありました。導かれることは、もし、妄信のみに終わるなら寂しいことですけど、人は、さまざま助けられますね。

ごく小さい頃、朝目覚めたら、住んでいた団地のベランダに、ピンクの雲が来ていて、それがとても幸福感のある、とても愛され、守られている感覚。・・・夢なのだろうけど忘れられない記憶として、今も思い出します。

育った家庭は殆ど無宗教との感じでしたが、ある時期、日本の神事とか、言霊とか、音を用いたり、なにか精神を主体に観る世界を見聞した時期がありました。だいぶ成人を過ぎてからでしたが、日本人が多く親しんでいるところを、初めて知りました。自分でやってみても、まったく、たとえば霊が見えるとか、過去や未来が見えるとかの能力は育ちませんでした。腹の底から声を出すことは好きでした。踊ることもすきだったけれど、振り付けを覚えられませんでした。

聖書はubik0101さんに出会ってからすこし。仏教書もまったく読みませんでしたが、書かれたものがどこまで仏陀のものかは知りませんが、機会があって目を通すと、あれ、同じことを言ってる、と思うことがあります。

自己とは、ある意味シビアなところがあるけれども、人がただそれであり、比喩ですが、それまでの自分がそれに根差すための支えとして、人は、さまざまな事柄を用いて、自身を助けるのではと思います。

No.2973 - 2010/12/04(Sat) 23:57:57

Re: ガチャピンとムック / ルー
> ルーさんは、本当に敬虔にお祈りするのでは、と思います。


「敬虔」という言葉を聞いてビックリしてしまいました(笑

幼稚園の頃ですから、ただ素直だったんでしょうね。

神様のお話を聞いて、神の存在を否定するほどの経験も持っていなかったのでしょう。

まぁ、幼稚園の時に神様の話を聞いて、同じようにお祈りをしていても、全員が皆、私と同じように浸透したとは限らないので、私の霊が神を受け入れるのにピッタリだったんでしょうね。

もし、幼稚園が仏教であって、仏教の話を聞いて育ったとしたら、また違っていたかも知れません。

キリスト教は、自分自身を見る目について、厳しいところがあるように思います。

そこで「批判の目」というものが生まれるでしょう。

その批判の目は、「悪を叩く」ためにあるのではなくて、自分自身が向上するためにあるのだと思っています。

ですから、その「批判の目」は他人に対して向けるのではなくて、自分自身の行いを見つめるためにあるのだと思います。

それを、「批判の目」を他人に対してだけ向けて、自分には「許す」という態度をとっていたら、恐ろしいことになりますね。
それが、キリスト教の悪用というものだと思います。

No.2975 - 2010/12/06(Mon) 13:10:41

Re: ガチャピンとムック / hato

> キリスト教は、自分自身を見る目について、厳しいところがあるように思います。


自己の、ある種、人を超えた無機質な厳格さは、聖書の時代背景、様式、その言葉に顕れていると思います。


> そこで「批判の目」というものが生まれるでしょう。
>
> その批判の目は、「悪を叩く」ためにあるのではなくて、自分自身が向上するためにあるのだと思っています。



混乱なく、自他その区別なく。混乱なく、さらに、区別あるところをそれとして明晰に見るまでに、人は何十年かをかけ、または生涯をかけて、理解していくものかも知れません。

あるいは、この世界が、それ自身は変化に属せず、人を変化させることが腑に落ちるとき、世界の不可思議は、その謎の意味でもあります。

不思議ということ。言葉は起きてきながら、責任持って述べるとき、紛れもなく自分の言葉といえますが、不思議、とどこかで見聞きするとき、それはふいに嬉しい。
聖書、仏陀の言葉なら尚のこと、まぎれもなく、それから引き出されてることを、見ることができるからです。


老猫のため心配しましたが、一週間かけてナナの風邪が治りました。庭の姫イワダレ草の上の、ナナです。

No.2978 - 2010/12/07(Tue) 22:58:21
神秘体験 / ubik0101
コピーライターだった高木清文さん、チャネリング、ニューエイジにも関わっていました。ここしばらく前からメール交換をしています。「いまここ・あるがまま・愛」(たま出版)の著者です。

○神秘体験:生き方に深く影響を与えた最初の意識内奥への接触体験。
○ミニ神秘体験:上の体験を追認、補完する内容の体験。
○その他超常的体験:ニューエイジワークにまつわる超常的な体験から、身近に起きたタイムスリップ、テレポートまで。
(*神秘体験後、ニューエイジに関わるようになってから10年間以上は、超常的体験は日常化し、ともに生活があるという状態でした。)

など、さまざまな体験があるそうです。

僕は<自分の苦境を逃れるため、超常的体験に期待し、またそれが一体何を自分にもたらすのか>、そこを気にしながら探索してきたように思います。そこでオカルト系考え方にし好を持っていた僕=すぐそちらに傾く=としては、そこには何があるかを見間違わないように、神秘体験が役立ってくれているように思える‥。ただ、今となって思うことは、ニューエイジも、オカルトも、宗教も、その体験を通して学んだのは、意識とは、自分自身とは、につきるといえる。

とのことです。みなさんも、いろいろ考えるところがあると思いますので了解をもらって、メールから神秘体験を紹介します。ただ病気療養中ということもあり掲示板に投稿しての対話は困難。すこし前までHPを運営していたのですが、休止中です。

高木さんとお会いして、かれこれ20年近くになるでしょうか。長くご無沙汰しております。こちら夫婦に頂くメールに、お会いした頃と変わらぬ温かみを、思い起こします。(hato)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

僕自身若いときの苦悩は筆舌に尽くしがたい。僕は心の傷を隠しているうちに、脳に障害を来したことがある。普通の人として仕事は出来なくなった。心身ともボロボロでした。当時、どうしてこんなに苦しいのか、『神も仏も有るものか』と思いながら、宗教や祈祷に漠然と安易な助けを求めていました。奇跡とかUFOとか超常現象、自分自身の体験はなかったものの、まじめにのめり込んでいった。やがてそうこうしているうちに約十年。少しずつ回復して社会復帰を果たしたのは幸運なケースかもしれない。

それまでの経験から『いったいどうしてこういうことになるんだ。世界はどうなっているんだ?』という疑問をもちながら、いろいろ求め回りました。腑に落ちるものに出会わないまま、宗教からニューエイジへとシフトしてきた頃。不思議な体験をしました。

確か90年。40代初めの頃です。チャネリングやワークをやる前のこと。初めて<空>に関して真面目に書いてある本を見たのをきっかけに、突然放心状態になった。『これだ、求めていたものは。』深いところまで何かが届いた。
<ここにある現象には本来、善も悪もない。><世界にムダなものは一つもない。><今までの人生上の選択は、それはそれで良い。>等々。今までの価値観は色あせ、内奥からやってくる新しい見方を驚きとともに受け入れて行った。

ハートに穴が開いた感じで、『あるがままで良い』と繰り返し言葉が上がってきていました。 過去の苦悩も、そういうことが起きるように有るものだ、と何ら違和感なく冷静にうけとめられた。ただ、いまここにある生命宇宙全体が脈々としているのだ……そんな感じを得たと思いますが。

十時間程経って後、初めて肉眼でオーラを見たあと、波のように歓喜が押し寄せてきて・・すべてが包まれた。床は踊り、トイレの便器は大口を開けてハレルヤを歌い、部屋の空気は甘い香りが満ちてきた。(はっきりそう思える)ハートからは感覚にかからない何かが流れ出た。それは触れ合ったものすべてに浸透していき、自分と周囲を一つにしていった。

やがて、死を越えるのが分かり、新たな意識の広がりに入っていくのを感じ、呆然。知覚というところを超えたような印象で、朝受け取った内容を復習すると同時に、また新しい気付きを得て行きました。
『自分と他とは何ら区別がない。』『もともと祝福されている……(正確な表現ではないかも)。』『奥底にある自分というのは<自分が自分である>以外の定義を持たない。』等々、不思議なやすらぎと懐かしい感覚を伴っていた。そして、いままで思っていた枠にはまった、<自分はこういうもの、という認識は間違っている>とはっきり分かった。

ただそんな中で僕は突然、目前にある仕事のことを思い出し、『これではとても仕事できないから、元の自分に戻してくれ』とお願いしてしまった。何と、仕事を失うことを恐れた。文字通り地獄から這い上がり、苦労して得た社会的ポジションを捨てたくなかった。お願いしたあと『エゴをまだ見ていない』との言葉が頭に響いて、歓喜は少しずつ潮が引くように去っていった。


その後の体験はひどかった。すきにすればいい、と傍若無人になり、トラブルメーカーになっていた。歓喜があまりに強烈だったので、普通の生活が物凄くつまらなく思えた。過去に自分でこうだと思っていた考え方の多くは木っ端みじん(自己をアピールするのに困るので、しばらくノートに書き出して思い出せるようにしていた)、悩みや葛藤は(一時的に)なくなったものの、逆に周囲との違和感は大きく、精神状態は前とは異なる面で最悪でした。
ただ内側はスッキリしきれないものの、どこかに通じる穴があいていて、時々は至福の風が吹いてくるようでした。自身が透明な状態になると、何度か前の体験につながるような小体験をしました。

今思えば、すべては祝福、脈々たる存在……そんな中で、手放せば良いものをもって帰ったようなもの。そこにはいったいエゴって何?という疑問が、とけないままに残されていなかったか。

それから十数年、一時はヒーリングなどのワークの考え方を優先にすることで忘れ去ろうとした神秘体験。でも、時々逆にワークなどをきっかけに、その体験を思い出したりしました。そして神秘体験の内容と(一見)矛盾するように見えるニューエイジワークやその考え方に怒り、自分もニューエイジの一員でありながら<壊し屋><異端児>をやってきました。
それはまさに、自身のエゴの有様を見る作業でした。そして右往左往の末、エゴを見ようとすればエゴを作るというところで、モタついていたといえる。

自我を求めようと求めまいと<活動>の一つ。そうするとスッキリします。すべては活動となると、結局自我もなく、自我を探すこともない。ubik0101さんのメールからかいま見た。
ただ、今となっていえることは、ニューエイジも、オカルトも、宗教も、その体験を通して学んだプロセスは、何物にも代え難い貴重なものです。テーマは結局、意識とは、自分自身とはに帰結。


チャネリングについては、いろいろなことがありました。恐怖から至福まで、宇宙存在から聖者、精霊、死者とのコンタクト(仮に)、参加者の意識の読み取りとか、予言とか、何でもあり。とはいえ、自分の意識構造を見るのにはいい(ルールを無視すれば無茶な、危険なともいえる)トレーニングでしょう。それゆえ興味を持ったのでは、と今思います。

ただ、覚醒のことに助けになるようなチャネリングは、ウケはもっとも悪く、ヘタすれば反感とともに受け取られるので、現実は超常的テクニックや占いに似たようなもので終わらざるを得なかったり。
覚醒は自分とはかけ離れた世界にすぎないと思っている方がほとんどのため、覚醒がテーマになりにくい。多くの方が自分の生き方を直そうとするのにはカンタンだろうという選択からチャネリングを選ぶようですが、この期待には応えざるものが一番いい答えだとわかっていながらも、ビジネス的には進行して行かなければならない。これは僕には苦しかった。

何れにしろ、あらゆる人の体験は、その時点それぞれにとって重要なもの。そういう考えもあり、と、その人が通り抜けるのを待っているのも大切な役割です。

No.2974 - 2010/12/05(Sun) 23:13:33
(No Subject) / hato
こんばんは、霜月も終わりますね。


> ほんとうには
> 「自分て何ですか?真理て何ですか?」に自分は答えら れる、はず。
> それを聞くのが「正解を知りたい」ということであるな らばどうやっても、自分では見つけられないモノ。じゃないかな、と思うのね。



うん。本当は、汝自身で、汝自身を知ることが、できます。それを第一義、といいます。

そうでなくて例えば、自身にではなくていつも、世界に向けて沢山、問いを発する人もいるかも知れません。ひとりではまったく、不安でしょう。でも、そこは二義的なことの域を出ない、つまり、それではいつまでたっても、無理です。

一義が自身で成されているとして、それ以後、思考形態や、流儀の癖によって、正確な理解が妨げられている部分は、たとえば対話とか、さまざまな方法で分かち合いがあり、気付きを得たり、調整される可能性があるでしょう。これもとても大事ですね。でも、まず自身が自身によって、それであること。

なので、何度も、何度でも、まったく阿呆のひとつ覚えのように、まず自己を知りなさい。正しく、知りなさい。それは、自分で、成されます。と言われます。馬鹿のひとつ覚えというよりは、知っていないから、そのように繰り返されるだけなのです。或いは、知りつつあっても、まだ世界の範疇に収まってるかも知れません。世界はきちんと超えなけば、きちんと認めてくれません。

世界を超える、て、考えてしまったら難しいですね。怖いでしょう。でも、人は真剣なら、ただそうなるだけです。世間の認可を受けることはとてもとても難しいかもし知れません。厳しいかも知れません。でも本来、世間のでなく、世界の認可は、ただそれです。

パソコン教室、修了です。充実した、泣き笑いこの数ヶ月。頑張りました。ナナがメダカ鉢の水を飲んでます。

No.2937 - 2010/11/30(Tue) 00:01:07

Re: / ubik0101
>真摯で正確な表現が、どんなものか、わかりません。

こんな気持で言ったんだ、という理由や根拠があって、なにかの言葉が言われるかもしれません。では、その言葉に、その理由や根拠も表現されてるかどうか?

たとえば「この肉体を持つ私 」を、自分が書いた言葉ではなく、誰が書いたかも知らない初めて見る文章として自分が読んで、それで言いたいことが過不足なく言えてるかどうか?確認することは思考の訓練にもなるし大切だと思います。

それで言いたいことが、ぴったり言えてるとしたら、もう、ほかのどこにも隠れた、表現されてない、理由や根拠もない言葉なのですから、なににも隠れてない素直な、そのままの言葉ではないでしょうか。

そのように、 なにも隠れた理由がない、なにも隠れた根拠はない、日常、それは。まあ一冊半しか読んでいませんが・・・クリシュナムルティ風に言うなら・・・過去のない観察・・・もっと正確には、見ていながら聞いていながら思考していながら「観察しない」そのままではないでしょうか。

そこで、身体は持つ、ようなことでしょうか?その、私、は自覚できるでしょうか?なのに、たとえばバケツを持って歩いてると、バケツを持って歩いてると、そのまま、わかっています。

その道で、誰かに出会って「こんにちは」と言ったら、それが、そのまま聞こえます。たとえば《青空に風でゆがんだ飛行機雲》と思考したら、それが、そのまま知覚できます。

これほどの、驚異と言うか秘密と言うか、ほかに知りません。このまま、なにも隠すこともなく、なににも隠れることもなく、明々白々、です。嘘が言えません。

ならば、なにか言葉の表現にしても真摯で正確でしかない、それを素直と呼んでいます。自己を見て、それを忘れたところ、です。

No.2938 - 2010/11/30(Tue) 00:02:14

Re: / peer
>なので、何度も、何度でも、まったく阿呆のひとつ覚えのように、
>まず自己を知りなさい。正しく、知りなさい。
>それは、自分で、成されます。と言われます。馬鹿のひとつ覚えと
>いうよりは、知っていないから、そのように
>繰り返されるだけなのです。


う〜ん。で。
なんで自己を知らなければならないのか。
というところに、行っちゃう。
知ろうとするから「自己を知らない」という境地になる。
ような気がするんです。
知ろうとしなければ、そのままで自己ではないのか?みたいな。

パソコン教室、修了ですか。。充実した日々、楽しかったようで、よかったです。


>たとえば「この肉体を持つ私 」を、自分が書いた言葉ではなく、
>誰が書いたかも知らない初めて見る文章として自分が
>読んで、それで言いたいことが過不足なく言えてるかどうか?


いゃ〜ぁ。わかりません。
自分が書いた事が、人に、ピタリと伝わる。
ということは、ないんじゃないか。と思う事あります。
自分の書きたい事がピタリ書かれているかどうかも
曖昧な状態でして、申し訳ない〜
会話するって、まったく・・・難しいです。

No.2939 - 2010/11/30(Tue) 02:23:57

Re: / hato

> う〜ん。で。
> なんで自己を知らなければならないのか。
> というところに、行っちゃう。
> 知ろうとするから「自己を知らない」という境地になる。
> ような気がするんです。
> 知ろうとしなければ、そのままで自己ではないのか?みたいな。


そうですね、peerさんのこの問いは、多くの人の状態でもあるのかも知れません。

無知があるから、知ろうとします。無知であれば、どうしたって、知らないだけです。これは前にどこかでお話した、無明と不可知、とは非なるものですよ、ということです。無明に於ける、知らない、と、不可知の知らない、は同じとして語ることができません。

ここで、世界のどこを見回しても、生き物は、子供から大人に成長しているでしょう。たとえば逆さまの世界だって計算上あるかも知れないとして、計算上の逆さまの世界は、あなたの世界でしょうか?ということです。

天才児もいいとして、或いは、子供の頃から目覚める、も、可能として、けれど必ず人は、その自分、その意識を、自身に拠って学ばせて、完成するのです。つまり、自己で在ります。

意識の変容について、人は自己に帰る、と表現されることも多いので、そこに戻ればいい、と言われたりしますね。一旦届いたならば、ある表現に於いて、そこに戻る、ということはできます。けれど、まだ入ってないなら、戻るとは言えません。ここに逆さまは、ありません。すなわち、人は、成長しての、それです。

汝自身を知る、が、世界を超えていないとき、知覚に過分に依存せざるを得ないでしょう。このとき、表現は適正にあることができません。適正でないということは、誤謬が多い、ということです。人を惑わすことになるかも知れません。そんなこともなんでもありとして、そこに留まるなら、その人のためになるかといえば、ならないでしょう。

この世界に生を受けるとき、人は成長しての、それです。
自己を知りたい、とは理由なき希求です。その不可知に届くまで、充分に役立ってくれるでしょう。


> パソコン教室、修了ですか。。充実した日々、楽しかったようで、よかったです。

ありがとうございます。ほんとに、幸いな教室でした。

No.2945 - 2010/11/30(Tue) 23:33:34

Re: / peer
>自己を知りたい、とは理由なき希求です。

自分の事では、あまり問題を感じなくて。とくに最近は。
年なのかなぁ。。ぜんぶ許せちゃう。執着する元気がない。
(周りの人が、困ったもんだ、と思っている可能性はありますが)
何かを求めるのは、かなりエネルギーが、いりますね。

思春期の頃がいちばん、カリカリしてました。
いま思うと、傷つきやすかったんですね。まったく。
なにもないくせに、自尊心ばかりが高くて。
何かをしたかった。何かになりたかった。
ホントに、なにもできないのに。
助けて貰ってばかりなのに、気づかずに。
それこそ無明の中でバタバタ。。。。

あっそうだ。バタバタ掻き回すから、濁るのよね。
静かにしていると、濁った水が、透明になる。
見通しも、多少は良くなる、、とか。

そうそう。これも、ずっと考えてました。

>そこで、身体は持つ、ようなことでしょうか?

肉体は、持つ。感覚があります。
それは、財産を持つとか、家族を持つとか、役割・居場所を持つとか。
肉体に対しては、わたしが死るまでは、わたしに所有権・責任がある。
肉体以外は断片的に、無常なものですから持ったり、持たなくなったり。

No.2947 - 2010/12/01(Wed) 02:32:30

Re: / ubik0101
>肉体は、持つ。感覚があります。

うーんと、ubik0101は、身体は、持つ。という感覚はないです。対象として、それを持つ、にはなっていません。それと、微妙かも知れませんが・・・呼吸感覚、皮膚感覚、体内感覚・・・それも樹や鳥や思考のように、知覚なんだと感じます。 それで、今朝は畑を耕して、青い空に真っ直ぐな飛行機雲、です。

たとえば、この家には、テレビはありますが・・・電波が遠くて映らないので・・・見ようとも、見ないとも思いません。これを、テレビを持ってる。と思考してみると、なんだか違和感があります。やはり、持ってる。とすると、どこかで、ほかの誰かと、自分を意識してる。そんな現実にはない空想の空間が想起されるようです。それはなんか面倒なのかも、と思いました。

ところで。それは、それ自身を知ることができません。と言えるのは、自己、の体験によります。で、ないと・・・どこかで聞いた知識とか理論でなければ・・・それを、それ自身が知ることができない。ということも、できない、のではないでしょうか。

No.2951 - 2010/12/01(Wed) 12:23:11

Re: / peer
なるほど。持つというと、対象にしてしまう。
という感じになるんでしょうか。
バケツを手に持つ・・・とか。
テレビを持っているのと、テレビを見るというのは、また別感覚。とか?
持っているものなら、手放せるかな、と思います。
んんー。苦痛を、手放す。とか。

苦しい、苦しい、苦しい。。というのを
「持つのを、や〜めた」ということが、可能になる。
それは、それ自身では、知る事が出来ない、のだから。
で、手放してみたら、それが、どんなものかを知ることができる。
みたいな。

No.2952 - 2010/12/01(Wed) 23:44:33

Re: / hato

> 年なのかなぁ。。ぜんぶ許せちゃう。執着する元気がない。

> あっそうだ。バタバタ掻き回すから、濁るのよね。
> 静かにしていると、濁った水が、透明になる。
> 見通しも、多少は良くなる、、とか。



可笑しいですね。そんな感じです。

そうですね、peerさんの場合、なにかとくに求めるとの衝動を得るのは難しいでしょうね。静(せい)からその自己に入る、在ることで、部分に於いて素直にありにくくさせている知識や、考え方の流儀が調整されることができるように思います。それがよく成されてくると、少しずつ、理解が楽に起きてくるのではと思います。

そう、手放す、との感じでしょうか。自己が確立されるとは、世界をきちんと超えたときです。そのとき、知識は、理解を阻害することなく、助けるための道具として使われます。


アイコという種類のミニトマト。色はちょっと薄くてちょっと硬いけど、甘く美味しく、この時期でもまだ実がなっています。ダーリン画像です。

No.2953 - 2010/12/02(Thu) 01:06:00

Re: / ubik0101

> で、手放してみたら、それが、どんなものかを知ることができる。

たしかに。それは・・・虚構・・・未完だったから機能してた・・・自我・・・だったんだ。と、なくなってから了解されました。

それで。いわゆる自我の死、というより、自我の完成、というのが実情にあってると感じます。

No.2955 - 2010/12/02(Thu) 14:48:38

Re: / peer
◆hatoさん

>可笑しいですね。そんな感じです。

はい。

>そのとき、知識は、理解を阻害することなく、
>助けるための道具として使われます。


それも、わかります。知識として知っていたモノが追体験されると
知っていると思っていたけど、知っていなかったと分かる。
ような感じがします。

◆ubik0101さん

>> で、手放してみたら、それが、どんなものかを知ることができる。

>たしかに。それは・・・虚構・・・未完だったから機能してた・・・自我
>・・・だったんだ。と、なくなってから了解されました。


そうですね。
それは、すこしの隙間もなく自分の存在理由でした。
それを手放したら、自分じゃなくなる、と思い詰めるくらいな。
苦痛でさえ、持っていたい自分というわけで。

手放す、と言えるほど大げさかどうか分かりません。
自力な感じが、まったく、しない。
ただ、それの隙間「間(空間)」が突然、生じて
で、それの方からポロリと落ちる。
「あっ。これは自分じゃないんだ」と気づくような感じ。かな。

No.2962 - 2010/12/03(Fri) 03:45:53

Re: / ubik0101
たしかに、それは、自分が起こしたことではなく、起こったことです。それまで・・・自分が自分だと思う自分を、削れるだけ削って・・・まったく自我だとも、思ってもなかった・・・けど、その体験で。それまで意識もしなかったけど、ずーと自我、だったんだ、という了解でもありました。これは、ない、ことにも迷わなくなった、依存しなくなった、効果もあります。

いつのまに庭に、名前は知らないけど、こんな花が咲いていました。

No.2968 - 2010/12/03(Fri) 22:03:32

Re: / hato

>知識として知っていたモノが追体験されると
>知っていると思っていたけど、知っていなかったと分かる。


そういうこともあるのかも知れません。あるいはまた、知らずに尚、新たにこの上なく、知らない、こともあるかも、知れません。

事態あらゆるその総てを、この日々十全に用い生きて、尚、知らず。

今朝、一緒に調べてみたら、これは山茶花(千代鶴)、と呼ばれているそうです。とても美しいと思います。

No.2972 - 2010/12/04(Sat) 13:48:40
手放すということ / ルー
「手放してみたら」と言えるほどのものは、執着とも言えないものだと思う。

それは、ぎゅっと握り締めて、そして、痛い思いを何度もしてから、やっと痛さに耐えかねて手を緩めるしかないような状態になって、手を放すことができるものだと思う。

そのようにして覚えたものは、元に戻ってしまうこともないと思う。

No.2957 - 2010/12/02(Thu) 16:25:27
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