ubik0101さん いつもありがとうございます。
> うん、そです。ならば、たとえば相手が、「こいつ殴ってやろうか」と思ったとき、夜の虎さんは、殴られますか?それほど、不公平でなく、主観的でなく、あるでしょうか。 >
なぜこのような問いがここで出てくるのかがよく分りませんので、的を外した答えになるかもしれませんが、答えて見ます。場合によれば、その時に私が殴られることの方が正当だ、あるいは、その方が良いと思えば殴られるでしょう。
> また。思うだけでなく、ほんとに相手を殴るとき、「こいつ殴ってやろうか」という思考は生じてるでしょうか? 無思考、ほかの言い方では無心で殴れるでしょうか?「こいつ殴ってやろうか」と思考するなら、殴ってない、ことでもありませんか。 >
ほとんど反射的に殴っているということが、若いころに何度かあったように思います。ただその場合のでも、やはり一瞬の間に、殴ってやろうという思考が湧いたのではないでしょうか。 現在は私は大人ですので、「こいつ殴ってやろうか」と思考する、と言うより思いが湧くことがありますが、実際に手を出すことはありません。 それが、
>「こいつ殴ってやろうか」と思考するなら、殴ってない、ことでもありませんか。
こういう意味ならばそうです。
> これは 「こいつ殴ってやろうか」という思考が生じてる、そのことは・・・実際に殴るとしても・・・すでに意図的であり、すでに素直でない、ということではないでしょうか。 >
意図的であれば素直ではないと言うことですか?
> ここで。おおくの人は現状では、自分の中心・座が・・・意識・・・にあります。それは、とりあえずですが、実際に人が、このようにある、ということと一致してないのではないでしょうか。 >
すいません よく意味が分りません
> とくに・・・なにか、そこで留まってる、躓いてる、執着してる状態があります。そこに現れる、その思考の前提を探ること、をします。それが、わたしは誰?また否定の道の、実践、です。 > > たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という、その思考は、なんだかの正当性があるから、その思考は成立してるのです。その思考を、成立させてるための、その前提、その根拠、その背後を探るのです。その、ありとあらゆる可能性を、微かな感覚も見逃さず、注意深く「思考して、思考して、思考しまくって」、探すのです。 >
つまり動機でしょうか?
> その前提は、意識にとっては見えない闇に隠れてるかもしれません。それゆえ、たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という思考が成り立ってるかもしれません。その隠れた前提を暴き出すと、たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という思考は、成立できないかもしれません。 それを意識という光にさらすことで、それを失うんです。 > > ほかの言い方では、同一化の否定、ほかの言い方では、自分が自分と思う自分を否定する・・・それで、これを否定の道、とも呼んでいます。それはどしても自分の根拠、立場を削るということであり、素直、にならざるを得ないのです。これは、どんな目標によって作られた素直ではありません。 >
仮に上で説明されたことが、動機を探ることであるならば、動機の探索と否定の道や、同一化の否定はどのように繋がるのでしょうか?
> ところで。その思考の前提は、優劣かもしれません。善悪かもしれません。世間、かもしれません。自由かもしれません。自我かもしれません。偶然かもしれません。必然かもしれません。 > > そしたら、たとえば優劣?とは、善悪?とは、世間?とは、自由?とは、自我?とは、偶然?とは、必然?とは、定義、をするのです。また、根拠がないなら、それはどいうことか、どんな人の言うことにも依らずに定義するのです。それが、その人の経緯です。 > > すると、人の状態としては、これまでの位置から、どんどん捨てて・・・実際に捨てた自分を生きるのです・・・より深い位置に沈みます。そこでまた、よく見ます。これで、自我はない、とか、世界と交信状態にあるとか、感覚的にですが・・・至高体験ではないですが・・・触れることはできます。 > > そんな否定の道を行くと、そう意図するわけではないですが、より深い体験が起こる可能性があります。それに、解凍、の訓練にもなるでしょう。これを実際に生きるということは、なにがなんでも、わたしは誰?その衝動がなければ、ほとんど不可能なほど困難、と感じます。
今回のお話は、私自身、よく意味を把握できて無いように思えるのです。それゆえ、私の回答が全くかみ合っていないかもしれません。 すいませんがよろしくお願いします。
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No.2890 - 2010/11/15(Mon) 17:41:37
| ☆ Re: 私は誰2 / ubik0101 | | | >なぜこのような問いがここで出てくるのかがよく分りませんので、的を外した答えになるかもしれませんが、答えて見ます。場合によれば、その時に私が殴られることの方が正当だ、あるいは、その方が良いと思えば殴られるでしょう。
とても説明なのですが・・・相手は夜の虎さんとっては他人です。相手にとっては、夜の虎さんが、他人です。お互いに自分であり、お互いに他人です。
それなのに区別するなら、なにか問題がありそうです。たとえ傷ついたとしても、相手と自分を、同等、公平に扱うという、姿勢、のことです。正当な理由があるないの話ではないです。 >ほとんど反射的に殴っているということが、若いころに何度かあったように思います。ただその場合のでも、やはり一瞬の間に、殴ってやろうという思考が湧いたのではないでしょうか。
もし、ほとんど反射的に殴ったとしても・・・相手を殴る以前に、または相手を殴らずに仲良くやってても・・・その殴る原因、動機は、自覚できなくても無意識に燻ってるかもしれません。それが、たまたま状況や相手を得て、殴ってやろうかという思考として、また殴る行動として現れたのかもしれません。
そこで。もしかして、殴るという思考や行動に・・・なにも原因がないはずはない・・・これは嫉妬が隠れてるのではないだろうか?もしかして、これは卑下の裏返しではないだろうか?自己顕示欲の現れではないだろうか?それを無意識から探し出して、意識するなら・・・これは否定の道の実践になります。
また、相手を殴るとかの思考や行動が起きたら、気持が騒いで、懸命に思考するでしょう?その場が過ぎて一人になっても、ああだこうだと相手を非難するかもしれません。自分を正当化するかもしれません。なら・・・相手と自分を、同等、公平に扱って・・・自分の方に、その批判の矛先を向けて・・・ああだこうだと探ることができるはずです。
>意図的であれば素直ではないと言うことですか?
そもそも殴るとか、殴らないとか、思わないです。
>仮に上で説明されたことが、動機を探ることであるならば、動機の探索と否定の道や、同一化の否定はどのように繋がるのでしょうか?
この上に挙げたような、無意識に燻ってる原因を指すのなら、動機、という言葉でもでもいいと思います。そして、その動機を探り当てたとします。その動機そのことには・・・たとえば嫉妬、卑下、自己顕示欲には・・・正当性があるでしょうか?
もし正当性がないなら、その行動、たとえば相手を殴ってやろうという思考、行動にも正当性がないのではないでしょうか。すると、その正当性がない動機を見てなお、その動機や、その思考や行動に・・・それまでは無意識だったとしても・・・執着、躓く、留まってる・・・ことはできないです。それは捨てることであり、意図しないでも素直になります。
その、動機、を定義することは、たとえ正義感から、また相手のことを思って、殴ったとしても、その正義感、相手を思うこと、それが正しいか?それを探ることにもなります。そして、たとえばその正義感の奥には、動機には、損得が隠れてるかもしれません。それは、欲望、なのかもしれません。
でも、その動機なんですが、正しく的を射てるかどうか解らない、見当違いの動機を想定してしまったりるする恐れがある、と思ったりするかも知れません。
しかし、実践、すれば分かります。たとえば殴る思考、行動だけでも、いろんな原因が複合してるもんですし、これかな?と微かにでも思った動機は、やはり原因なしには、ありません。
これを実践するには、やはり注意深さが必要です。どうしても、わたしは誰?問う衝動が必要です。そうならば・・・どなたにも言うのですが・・・日記を書くことをお勧めします。
なにか行動と思考の関係とか・・・なにか思考が生じるなら、そのままを・・・どんな情けない、みっともない、恥ずかしいことでも正直に書いて、深く自分自身に切り込むんです。
どこまでも自分を研究するのです。読み返す必要はないです。なんにしても、ほかの人に、あれこれ聞く必要はありません。自分のことに専念して解決すれば、それが総てです。
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No.2892 - 2010/11/15(Mon) 20:44:25 |
| ☆ Re: 私は誰2 / 夜の虎 | | | ubik0101さん お返事ありがとうございます。
> とても説明なのですが・・・相手は夜の虎さんとっては他人です。相手にとっては、夜の虎さんが、他人です。お互いに自分であり、お互いに他人です。 > > それなのに区別するなら、なにか問題がありそうです。たとえ傷ついたとしても、相手と自分を、同等、公平に扱うという、姿勢、のことです。正当な理由があるないの話ではないです。 >
これは私と他人とを区別するなと言うことですか? もしそうならば、それはなぜでしょうか?
> また、相手を殴るとかの思考や行動が起きたら、気持が騒いで、懸命に思考するでしょう?その場が過ぎて一人になっても、ああだこうだと相手を非難するかもしれません。自分を正当化するかもしれません。なら・・・相手と自分を、同等、公平に扱って・・・自分の方に、その批判の矛先を向けて・・・ああだこうだと探ることができるはずです。
> この上に挙げたような、無意識に燻ってる原因を指すのなら、動機、という言葉でもでもいいと思います。そして、その動機を探り当てたとします。その動機そのことには・・・たとえば嫉妬、卑下、自己顕示欲には・・・正当性があるでしょうか? > > もし正当性がないなら、その行動、たとえば相手を殴ってやろうという思考、行動にも正当性がないのではないでしょうか。すると、その正当性がない動機を見てなお、その動機や、その思考や行動に・・・それまでは無意識だったとしても・・・執着、躓く、留まってる・・・ことはできないです。それは捨てることであり、意図しないでも素直になります。 > > その、動機、を定義することは、たとえ正義感から、また相手のことを思って、殴ったとしても、その正義感、相手を思うこと、それが正しいか?それを探ることにもなります。そして、たとえばその正義感の奥には、動機には、損得が隠れてるかもしれません。それは、欲望、なのかもしれません。 > > でも、その動機なんですが、正しく的を射てるかどうか解らない、見当違いの動機を想定してしまったりるする恐れがある、と思ったりするかも知れません。 > > しかし、実践、すれば分かります。たとえば殴る思考、行動だけでも、いろんな原因が複合してるもんですし、これかな?と微かにでも思った動機は、やはり原因なしには、ありません。 > > これを実践するには、やはり注意深さが必要です。どうしても、わたしは誰?問う衝動が必要です。そうならば・・・どなたにも言うのですが・・・日記を書くことをお勧めします。 > > なにか行動と思考の関係とか・・・なにか思考が生じるなら、そのままを・・・どんな情けない、みっともない、恥ずかしいことでも正直に書いて、深く自分自身に切り込むんです。 > > どこまでも自分を研究するのです。読み返す必要はないです。なんにしても、ほかの人に、あれこれ聞く必要はありません。自分のことに専念して解決すれば、それが総てです。
ここはなんとなくポイントがつかめてきた気がします。 1つ確認したいのですが、ubik0101さんが内心に正直であれと言われる場合、思ったことを行動に移せと言う意味ではないのですよね? つまり、殴ってやろうかと言う思いが湧いた場合、本当に殴れと言っているわけではなく、その思いの、ここでいえば動機を探れと言う意味ですか? それと、動機を探ることが正しいとして、その場合の「私は誰か」という問いは、また別物なのでしょうか? つまり、動機を探ることが「私は誰か」に当たるのか、そうではないのかと言うことです。
> >意図的であれば素直ではないと言うことですか? > > そもそも殴るとか、殴らないとか、思わないです。
すいません。 ここはもう少し教えていただけますか?
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No.2893 - 2010/11/15(Mon) 21:16:52 |
| ☆ Re: 私は誰2 / ubik0101 | | | これも、説明なんですが・・・自分と他人の区別・・・それは、もともと人にはない、です。たとえば子供の頃、母親が、ubik0101と、ほかの家の子供を区別すると、とても痛かった、です。
また、ほかの家の親が、その子供と、ubik0101を区別すると、悲しかった、です。大人だって、疎外されたり、不公平に扱われたりすると、淋しいでしょう。不満かもしれません。
それは、すでに、なにかの問題が・・・無意識かもしれないけど・・・それだけに根強い問題が・・・忍び込んでるのではないでしょうか。
たとえば家柄、社会的地位、貧富、損得、善悪、年齢、性別、性格、仲間意識つまり反仲間意識、嫉妬、偽善、卑下、自己顕示欲、そんなことが、動機、になりえないのに、自分と他人の区別の、動機、になってるのかもしれません。
そんな状態ならば、自分と他人、区別するな、としても・・・その、そのことも・・・やはり、なんだかの姿勢、規制、固定観念、動機、になり得ます。
そこで、区別するな。というよりも、それを解決してないなら・・・自分が、たとえば無意識にでも他人を区別したりしてるのであり・・・それはすでに行動や思考の、その、動機、になってるので・・・その自分の行動や思考を探ることが優先です。
たとえば自分と他人を区別する、そんなことを世間の当然のこととして、鈍感になっては、区別してても・・・自分は区別してるとは思いもしないでしょうし、なにも始まりません。
ここで子供の頃の区別なし、と。区別を経過してから、それを否定した、区別なし、は似てはいても違うのではないでしょうか。子供の区別なしは、いつのまにか区別が忍び込みました。
しかし理解による、区別なしは、 たとえば家柄、社会的地位、貧富、損得、善悪、年齢、性別、性格、仲間意識つまり反仲間意識、嫉妬、偽善、卑下、自己顕示欲などを、動機、にする・・・それに依存する・・・可能性・・・も、解決するのではないでしょうか。
もし、なにかを求めてるなら、それが実現してない、ということを意味します。けど、求めてないからといって、それが実現してることではないです。なのに求めもしない・・・そいうところに安住しては、時が至り死ぬときにも、後悔さえ、できないかもしれないのです。
ここは、そんな世界でもあります。人の意に添うのです。求めるのです。その人の意に世界は添います。
なんでもいいのですが・・・たとえば「自分という実感がない」なら、それはどうしてか?命がけで、探査するのです。とても無意味に見える、この日常。その虚空から掴み取るように、動機、を掴み取るのです。
これは否定の道なんです。ここで実際に、動機、を明らかにして、捨てるんです。たとえば・・・世間に生きながら、世間を捨てるんです。これを思考でやり遂げるのは努力が必要です。
わたしは誰?の衝動が、それを可能にしてくれます。もうすでに、誰もが、そんなフィールドにはいるのです。それに漫然と使われるより、それを使うのです。誰に頼ることなく、できるのです。
そんな否定の道は、しかし、なにも約束しません。それを辿れば、なにかに行き着くというわけではありません。それでも、やる、のです。浴槽で、魚釣りをしてるのではないです。海で魚を釣ってるのです。
もうすでに、誰もが、そんなフィールドにはいるのだから、いまから、ここから、できるのです。これは自然発生なのです。ほかに、なにができるでしょう。ubik0101は、知りません。
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No.2896 - 2010/11/16(Tue) 09:57:07 |
| ☆ Re: 私は誰2 / 夜の虎 | | | ubik0101さん いつもありがとうございます
> もうすでに、誰もが、そんなフィールドにはいるのだから、いまから、ここから、できるのです。これは自然発生なのです。ほかに、なにができるでしょう。ubik0101は、知りません。
ここからできると言うのは魅力的です。 色々教えてもらいましたが、どこまで理解できているかは怪しいです。 拙い理解力で申し訳ありません。 最低限ポイントを理解したいと思うのですが、ubik0101さんがここで言われる、否定の道とは、自分の思考や、行動の動機を探ることであり、思考と行動を一致させると言うわけではないのですよね? この動機を探ることが、「私は誰」と理解してよいのですか? 動機を探るのは、「私は誰」の前提で、前提とは別に「私は誰」があるのでしょうか?
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No.2898 - 2010/11/16(Tue) 21:54:05 |
| ☆ Re: 私は誰2 / ubik0101 | | | >ubik0101さんがここで言われる、否定の道とは、自分の思考や、行動の動機を探ることであり、思考と行動を一致させると言うわけではないのですよね?
とりあえず行動と発言と思考の一致は、否定の道に取り組む姿勢、気持、決意、なんですが・・・その実現は、否定の道の結果もたらされる、との理解でいいと思います。
>この動機を探ることが、「私は誰」と理解してよいのですか? >動機を探るのは、「私は誰」の前提で、前提とは別に「私は誰」があるのでしょうか?
わたしは誰?・・・その自分の中心に向かう具体的な実践が、否定の道です。
とくに関係ある話ではありませんが・・・夜の虎さんと話してて、幼稚園の頃を思い出しました。レンゲの花が咲く畑で、いつの間にか近所の子供達が集まって、はないちもんめ、を遊んだことがありました。なんとなく6人だな、とは感じてたのですが・・・そうだ、人数を数えてみよう。と思いました。
それで、2、3回数えたんですが、5人しかいません。うーん。そうだ、自分を数えてない、このことに気がついたら・・・視野にはいない・・・その自分は、なんだか、なんでもない空間、ふうせん、のようなことでした。それで、これからは、人の数を数えるためには、1、を足せばいいんだ。と妙に納得しました。
そいえば、数年前。サイト「ゴトの読書室」の掲示板「雑感」でも、おなじような体験だったか、童話だったか、そんな投稿を、見たことがあります。
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No.2901 - 2010/11/17(Wed) 09:29:17 |
| ☆ Re: 私は誰2 / 夜の虎 | | | ubik0101さん どうもありがとうございます。
> >ubik0101さんがここで言われる、否定の道とは、自分の思考や、行動の動機を探ることであり、思考と行動を一致させると言うわけではないのですよね? > > とりあえず行動と発言と思考の一致は、否定の道に取り組む姿勢、気持、決意、なんですが・・・その実現は、否定の道の結果もたらされる、との理解でいいと思います。 >
ちょっと確認と言うか、疑問に思うのですが、私がこのようなことを質問したのは、自分の思考等の動機を探ることと、思考と行為を一致させようとすることは、力のベクトルが逆に思えたからです。
例えば、以前の例だと、「こいつ殴ってやろうか」と思った時に、「なぜそう思ったのだろう?」とその動機を探る方向性と、すかさず「思考と行為を一致させなければ」と行為を一致させるために相手を殴ることは、方向性や向けるエネルギーが真逆だと思うのです
このように考えると、
>その実現は、否定の道の結果もたらされる
このように成るのはよく分りません。 私はまだ勘違いしているのかもしれません。 動機を探るとは、「こいつ殴ってやろうか」と思った時に、「なぜそう思ったのだろう?」でよろしいのでしょうか?
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No.2903 - 2010/11/17(Wed) 12:31:25 |
| ☆ Re: 私は誰2 / ubik0101 | | | > 動機を探るとは、「こいつ殴ってやろうか」と思った時に、「なぜそう思ったのだろう?」でよろしいのでしょうか?
いいです。
それでなるべく、ワープロなどで書きながら毎日毎日、その日に思ったことの動機を、探査する・・・そして、その見つけた動機を定義する・・・いろいろ考えながら、そのまま同時に書く・・・ことを、お勧めします。
というのも、書くと・・・いつでも読めるということもあって・・・忘れていても大丈夫、という感じがあって・・・どんどん考えたことを手放して、広く奥に進めるからです。
もしかして、たぶん、始めの間は、その日その日で考えることも、テーマも支離滅裂で、脈略がないかもしれませんが、それでもいいので続けましょう。
ubik0101は、書き始めて数ヶ月かかりましたが、ある日に、昨日の続きの思考ができた時には、かなり驚きました。
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No.2904 - 2010/11/17(Wed) 13:13:14 |
| ☆ Re: 私は誰2 / 夜の虎 | | | ubik0101さん どうもありがとうございました。 また色々教えてください
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No.2906 - 2010/11/18(Thu) 16:08:25 |
| ☆ Re: 私は誰2 / ubik0101&hato | | | まあ、教えるとかいうことではなく、道の仲間ということで。いつでも、どうぞ。そいえば否定の道を歩いてたときのノート・・・リュック一杯ありますが・・・それを、無選択ですが、hatoさんが入力してくれたページがあります。このサイトの表紙→超古代の日記→否定の研究です。
ubik0101
そのときふと手にした日記から書き出したもので、内容はとくに意識して選んでいませんが、とても気に入ってしまった詩も載っていると思います。
hato
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No.2907 - 2010/11/18(Thu) 18:08:55 |
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