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世界の機能パート4 / ubik0101
とても、うろ覚えですが・・・ある修行者が「自分て何ですか?真理て何ですか?」とかいう質問をしました。すると、馬祖という禅師が「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」と、答えました。

なんと返事しますか?

それで「もう飲みました」と返事すると・・・「じゃ、どんな味でした?」と再質問されるでしょう。そうすると「それは無味です」とかの返事を要するかもしれません。

そうでなくて、馬祖の最初の質問「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」を、根こそぎ片づける返事が望まれます。さて、なんて返事しますか?

ubik0101なら、こう返事します。

えーっ、太平洋の水だけで、いいんですか?

すると、これを読んでる誰かが《なーんだ》と思考したとします。そこで。その思考は、その思考が、その始源でしょうか?これは明らかに違います。

たとえばubik0101が、こんな話をしたから、《なーんだ》と、思考されたのです。つまり、その思考の始源は、その思考にはありません。もし、その思考が、その思考の始源なら、それだけで、世界を越えてしまうのです。この前、聞いた仏教用語では、解脱、するかもしれません。

それはともかく日常、その思考は、その思考の始源ではない・・・これは、あまりに当然で、気がつかないだけかもしれません。それに気がついた・・・ならば、なんだかの思考、それは、自分のもの、また誰のもの、として、成立するでしょうか。反応が続いてるだけではないでしょうか。どこに、私、がいるでしょう。

なかなか困難かもしれませんが
続く、と思います。

No.2905 - 2010/11/18(Thu) 09:17:04

Re: 世界の機能パート4 / peer
「いい答を貰った。覚えておこう。今度、聞かれたら、そう言おう」
という思考が密かに働いていた。

この密かに動いている思考に、気付いていませんでした。むかし。
まったく、あれです。わたしは「知識」です。なのですね。
じぶんのもの、なんか、ひとつもない。

まっ。そうやって知識を集めたがるのは、じぶんは無だと知っている
からじゃないかな〜
と思いますけど。
で、無ではいけない。というモノも、ある。のね。脅迫的に。

No.2908 - 2010/11/19(Fri) 04:55:55

Re: 世界の機能パート4 / ubik0101
たしかに・・・ささやくような微かな思考、聞き逃してしまってる・・・そんなこともあります。それが一人夜中に書いてると聞こえるようになって・・・自我とは無我なんだ・・・なんてことが見えたりもしました。

だって、自我だって、世界の機能だから、その人独自の、特別の。ということではないんです。んで、自我とは無我です。でも、それを聞いたのは、そのときは気がつきもしなかったけど、実は自我だった、んです。

ところで。どこかで誰かに話したような気がしますが・・・雪国のエスキモーには、白、という意味の言葉が、たくさんあるそうです。知りませんが、ふかふかの白、 大きい白、冷たい白、暖かい白、ただの白。とか、かも知れません。たしかに。無。といっても、さまざま、ありそうです。

No.2909 - 2010/11/19(Fri) 09:28:14

Re: 世界の機能パート4 / peer
禅師が「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」と、言うなら
「太平洋の水を一気にココに運んだら飲みほしましよう」と、
答えるかな〜。
まっ。しかし。運ばれたら困っちゃうね♪

自我は、社会生活を穏便に暮らすために創作されたものじゃないかしら?
だから、ある種のワクの中では、効果的に働いてくれる。のね。
ただ「この社会」の中だけのことだから、違う社会の中ではピエロになりさがる。
というような、非常にカチコチな存在ではある。

No.2922 - 2010/11/25(Thu) 03:33:38

Re: 世界の機能パート4 / ubik0101
たしかに。すでに馬祖は、太平洋を飲んで、ここにいます。そこで、ほかの人が、どうだから、自分はこうだ、とはいかないし・・・やっぱり自分が飲まねばならないでしょう。

ところで、ほかの人が、どうだから、自分はこうだという・・・ほかの人から見た、その自分を意識して暮らすとして・・・その地域、その時代の全員が・・・そんな状態なら、社会、は単なる虚像です。 それは集団分離とか分離集団とか呼べそうです。自覚できない自我が自覚できるようになってる、自我の機能です。

それも、みんなが同じような空想をしてるので社会は、現実、だと思ってしまう。つまり誰もが自分が空想した、ほかの人の間で生きてて、そのことに気がつかない、ということもあります。まあ原因はどうでもいいとしても風土や気質や技術・・・地域や時代によって違う社会ができてしまうのかもしれません。

それはまた、自分たちが都合良く暮らすためにつくった社会に、自分たちが縛られてる、ということでもあるのでしょう。それに順応することも、それを嫌うということも、闘うことも萎縮することも、つかず離れずということも、また社会の機能なんでしょう。

そんな社会は温室のようなことではないでしょうか。なんか自分ということが、蒔かれた種のように、発芽して生長するのでしょう。いくらでも、そこにいてもいいのだろうけど結局、それじゃ満足できないでしょう。

いくら他人のことを、どうだこうだと考えても空想かもしれないけど。その自分が自分を深く探るのは、真摯で正確なら、空想でなくありえます。そして、社会を通じて、自我を通じて・・・それに使われれるのではなく、それを使って・・・自己・・・ではないでしょうか。

お茶畑の、お茶の花です。

No.2924 - 2010/11/25(Thu) 11:13:29

Re: 世界の機能パート4 / peer
>・・・やっぱり自分が飲まねばならないでしょう。

うーーーむ。やっぱり、人に聞いても、しょうがない。
ような気がします。聞いて分かるようなことではなく、
飲まねばならないような、体感が必要なこと・・・かと。

>その自分が自分を深く探るのは、真摯で正確なら、
>空想でなくありえます。


なんとなくね。どこまで行ってもね。幻・・・。
で、つまり私は世界で、世界は私。かな〜と。
だから、その私の世界に対して私には責任がある。
ということになって、正直に真摯に見ていく。
誤魔化さずに。
ってことになるんじゃないかしらん〜
それはたぶん。宇宙が分裂して、ひとりひとりの
生命になっている・・・理由。のような。
みんなが同じなら、分かれる必要はなくて。

へ〜〜お茶なのね。葉だけ見ると椿にも見える。

No.2927 - 2010/11/26(Fri) 03:13:24

Re: 世界の機能パート4 / ubik0101
それで。たとえば葛藤・・・それを思考とか時間とか勝手に命名して・・・それは自分が自分と分裂・分離して・・・自分が自分と闘ってるのだ・・・と判断するのは、かなり無理があります。

というのは、分離してる闘ってる仮想相手は、空想、なんです。それをしてると見なされる、自分・・・自我・・・も空想なんです。事実ではありません。つまり、空想だから、分離ができるだけなんです。

なのに、闘ってる自分が自分と分離してる・・・ そこから演繹して・・・つまり総ては自分・・・総てはひとつ・・・というのは。また、総てはひとつ、から分離を逆演繹するのも、とても苦しい説明です。この意味での、総てはひとつ、は空想です。

まあ空想だって世界の機能なんですが、やはり、それでは・・・太平洋を一気に飲む・・・中道・・・に達していません。たとえば、総てはひとつなら、自分という個別のことはなく、現実に、争いも起こらないだろう、という偏った妄想をしてしまいます。それならば逆に、総ての人が単独者でも、争いを起こさない、とも言えてしまいます。

なんであれ、総てはひとつ、は素材です。水素だって、酸素だって、見る聞くだって、感情だって、思考だって、誰にも、おなじ素材です。それを使って、人は、世界に依存しない、自己、になるのです。そこに世界の意味があります。

そうですね。お茶、花も小さな椿、といった感じです。レタス、順調です。これから今日は、スナップエンドウを植えます。

No.2928 - 2010/11/26(Fri) 10:25:57

Re: 世界の機能パート4 / hato

peerさんこんばんは。先日、ちょっくら太平洋に行ったら、亀がいました。

No.2929 - 2010/11/26(Fri) 23:01:08

↑あららら / peer
こんばんはhatoさん。
ウミガメ・・・??
転居先は海に近いのかしらん。

No.2930 - 2010/11/27(Sat) 04:24:14

Re: 世界の機能パート4 / peer
思うんですけど。
正しい質問は人の奥深いトコロを表出させる
というような気がします。
禅師が「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」と言ったのは
その当時のレベルには、合っている。のかもしれないけれど
これだけ情報が揃っている現代人には、浅いのではないか
という気もするのです。
あるいみ、知識で答えられてしまう。

「太平洋の水を一気に飲んだら教えよう」
太平洋の水を飲むのは、誰なのか?という疑問が発生。
誰が・・・? この肉体を持つ私ですか?

もし私がいなければ、飲む人もいないし。
肉体の私には、海の水を飲むのは不可能。なのでして。
「自分て何ですか?」
肉体が自分ですか?そうではない自分がいますか?

No.2931 - 2010/11/27(Sat) 04:41:07

Re: 世界の機能パート4 / suho
> というのは、分離してる闘ってる仮想相手は、空想、なんです。それをしてると見なされる、自分・・・自我・・・も空想なんです。事実ではありません。つまり、空想だから、分離ができるだけなんです。

はい。

> なのに、闘ってる自分が自分と分離してる・・・ そこから演繹して・・・つまり総ては自分・・・総てはひとつ・・・というのは。また、総てはひとつ、から分離を逆演繹するのも、とても苦しい説明です。この意味での、総てはひとつ、は空想です。

「分離」「ひとつ」とよばなくとも
それはそれ。

> なんであれ、総てはひとつ、は素材です。水素だって、酸素だって、見る聞くだって、感情だって、思考だって、誰にも、おなじ素材です。それを使って、人は、世界に依存しない、自己、になるのです。そこに世界の意味があります。

世界に意味があるかどうかまだわからんけれど、多様な空想世界を経過することで、だんだんその刺激・感覚・運動のありように「おなかいっぱい感」が増してくるのは確かです。

でも野菜がたっぷり入ったあつあつの味噌汁と炊き立てのご飯をほおばっているとき、湯船にしっぽり浸かって湯気にまみれているとき、うんまい日本酒をすすっているとき、布団にもぐってほっこりぬくぬくのとき。
これはあいもかわらず、たまらんですなぁ。。
世界に感謝する瞬間^^

No.2932 - 2010/11/27(Sat) 11:26:32

Re: 世界の機能パート4 / ubik0101
peerさん

うん。ここでは、物質、身体、感覚、感情、意識、つまり知覚できる世界の範疇にない、自己、と言ったりするけど、例え話ではなく、事実を言ってるのです。それは太平洋の水を一気に飲んでしまうと、つまり世界が総活動に触れる、なる。それが教えてくれます。

そんな、自己、は世界の範疇にないから・・・なにか、とあることでもないから・・・探そうとしても見つからない・・・それをたとえば否定の道で見つけようとするのが・・・それはそれで限界まで行けますが・・・自我の機能です。そのあげく世界には、知覚の範疇にない自我から、知覚の範疇にない自己を体験させる、そんな機能があります。

それで、それを体験すると、どう探しても自己はここにいない・・・これに決着しないと・・・なにか辛いことや悪いことがあったからの苦痛ではなく・・・世界は、苦痛です。そして、その苦痛が、自分に起こった体験を解凍させる原動力です。また、ほかにできることも、必要なこともない、です。

それは解凍しなくても、深いところでは暖まってはいるのですが、それを意識に教えることで、たとえば 自我と無我の区別、現象と実在の区別、意識による事態の対象化・個別化・強調などが消えていきます。

♪ああ人生を忘れそう、このアジアの片隅で〜・・・それが却って微細に見ることになります。この世界は、それができます。それもあって、たとえば現象界と、実在界を分ける意見には反対です。

まあ禅の公案は、表面では、知識で答えることもできるかもしれません。それを危惧して、室内での、師匠との検討にしたいのかもしれません。ところで「肉体が自分ですか?そうではない自分がいますか?」というのは、無門関・第35則・倩女離魂(せいじょ りこん)のような疑問ですが、まったくubik0101は、そんな疑問は生じないです。「この肉体を持つ私 」というのは、真摯で正確な表現でしょうか?

No.2933 - 2010/11/27(Sat) 20:17:40

Re: 世界の機能パート4 / ubik0101
suhoさん

>「分離」「ひとつ」とよばなくとも
>それはそれ。


そう呼んでも呼ばなくても事態は変わらないでしょう。けど、どうやら完全な分離も、完全な融合も、知覚不可能という意味で、この世界にはない、です。そこで知覚されるのは、そこそこの分離や融合、それゆえに世界は機能するようです。

それでまあ、世界って何だろう?そう思うと、ほとんど無限の質量とか空間とか時間とかいう重さではなくて、吹けば飛ぶような影のような幻のようなことかもしれないな。なんて感じてしまいます。まあ、はふ〜、です。

味噌汁。まずダシなんですが、ふつうに昆布や鰹もいいですが・・・コンソメとか顆粒の鶏ガラスープ・・・ときに牛乳か、バターを一片・・・野菜は、タマネギは不可欠で、サツマイモ、カボチャ、ゴボウ・・・このまま豚汁ができそうなのが嬉しいです。

No.2934 - 2010/11/27(Sat) 20:26:31

Re: 世界の機能パート4 / hato

海亀ではなさそう・・・調べてみたら、クサガメのようです。波打ち際の瓦礫の上に、ちょこんと日向ぼっこしていました。大きな、可愛い目をしていましたが、どうやら、捨てられたのかも知れません。暫くして再び見に行ったら、もういませんでした。

誰にとってもその、自分。まったくもって、その、自分は、その、自分に問い糺すことができること、こそ、幸事といえるでしょうか。本気なら、きっと世界は助けてくれます。

それ、を、本当に、自分で、知り、ただそれであるとき、たとえば世界のあちこちを廻って、多くの師匠や人から認めて貰う必要もないでしょう。もしそれを表明するときは、ただ道の仲間との出会い、なにかくすぐったい嬉しさです。人生は、かのようにとの、推察された基準に無関係に、ただ着々とそれを生きることが、あるようです。

太平洋までは、車で往復してます。夕日の時間はもう、とても寒いんですよ。でも、海。やはりいいです。

No.2935 - 2010/11/27(Sat) 22:58:15

Re: 世界の機能パート4 / peer
>それ、を、本当に、自分で、知り、ただそれであるとき、
>たとえば世界のあちこちを廻って、多くの師匠や人から認めて
>貰う必要もないでしょう。
>もしそれを表明するときは、ただ道の仲間との出会い、
>なにかくすぐったい嬉しさです。
>人生は、かのようにとの、推察された基準に無関係に、
>ただ着々とそれを生きることが、あるようです。


ほんとうには
「自分て何ですか?真理て何ですか?」に自分は答えられる、はず。
それを聞くのが「正解を知りたい」ということであるならば
どうやっても、自分では見つけられないモノ。
じゃないかな、と思うのね。

なるほど〜クサガメですか。コウラの感じが、日本原種らしさがあるね。
私は海のない場所で生まれ育ったから、海は、ちょっと怖いです。


ubik0101さん

>「この肉体を持つ私 」というのは、真摯で正確な表現でしょうか?

真摯で正確な表現が、どんなものか、わかりません。
まっ。ともかく、肉体には感謝してますけど。

No.2936 - 2010/11/29(Mon) 17:55:48

Re: 世界の機能パート4 / ルー
> 太平洋までは、車で往復してます。夕日の時間はもう、とても寒いんですよ。でも、海。やはりいいです。

素晴らしい写真ですね。

感動しました。

こんな写真が撮れるなんて、いいですね。

No.2940 - 2010/11/30(Tue) 18:50:50

Re: 世界の機能パート4 / hato

お久しぶりですね。嬉しい。お元気ですか。

ありがとうございます。

同じ日のこちらの感じ、ちょっと気に入ってるんですよ。

No.2946 - 2010/11/30(Tue) 23:50:33

Re: 世界の機能パート4 / ルー
あ、この写真も、すごくいいですね。

空気感というか、ジーンとくるものがあります。

共感できるものがあるって、いいですね。

No.2949 - 2010/12/01(Wed) 09:51:06

Re: 世界の機能パート4 / hato

ほんとですね。
共感できること、素敵です。

ubik0101さんが、「わしも画像だす〜。。」ということで、クリスマスの季節にちょっと可愛いのを一枚。

No.2954 - 2010/12/02(Thu) 01:15:58
お知らせ / ubik0101
この掲示板は ・・・ なんのことか分かりませんが・・・投稿フォームに証明書を付加し、それが正しくないとか、期限が切れてると、投稿を受け付けないようになってるようです。また、一度の投稿は5000文字まで。日本語を含まない投稿は受け付けないように、とか設定されています。

そんな、 スパムを防ぐための機能が、動作?誤動作?してubik0101も、ここに投稿できない場合があります。もし投稿できなかったら、お手数ですが、再度トライしてみてください。

No.2926 - 2010/11/25(Thu) 23:08:19
みどりの庭から / hato
とある午後、遠方に足を延ばして、とある池にドライブに行きました。曇り空に、うっすらと薄い青が透けるような日でした。
No.2910 - 2010/11/20(Sat) 01:24:27

Re: みどりの庭から / hato

そこはカラリと冬も半ばで、なだらかな小山を前に、池と、池に生えた水草がとてもいいのです。

No.2911 - 2010/11/20(Sat) 01:25:08

Re: みどりの庭から / hato

風になびく音がしないのに、音が見えるのです。

No.2912 - 2010/11/20(Sat) 01:25:45

Re: みどりの庭から / hato

なんて繊細に壮観でしょう。

No.2913 - 2010/11/20(Sat) 01:26:39

Re: みどりの庭から / hato

それぞれがその世界を織り成すよう、一草一草はまるで、絹糸のように美しく見えました。

No.2914 - 2010/11/20(Sat) 01:27:51

Re: みどりの庭から / hato

コハクチョウがいました。静岡は温暖な地域ですが、ここ十数年か、少しだけ飛来してくるそうです。

No.2915 - 2010/11/20(Sat) 01:31:42

Re: みどりの庭から / hato

もう一羽いました。

No.2916 - 2010/11/20(Sat) 01:32:19

Re: みどりの庭から / hato

ほどなく一列になり、

No.2917 - 2010/11/20(Sat) 01:32:57

Re: みどりの庭から / hato

きれいに揃って泳いでいきます。

No.2918 - 2010/11/20(Sat) 01:33:28

Re: みどりの庭から / hato

水面に映る影の上を、静かに滑っていきます。

No.2919 - 2010/11/20(Sat) 01:33:58

Re: みどりの庭から / hato

景色がゆるやかに移り変わり、コウホネという水草を縫っていきます。

No.2920 - 2010/11/20(Sat) 01:34:31

Re: みどりの庭から / hato

深緑の山に、薄金色になった水草とススキが群生していました。

No.2921 - 2010/11/20(Sat) 01:35:19
私は誰2 / 夜の虎
ubik0101さん いつもありがとうございます。

> うん、そです。ならば、たとえば相手が、「こいつ殴ってやろうか」と思ったとき、夜の虎さんは、殴られますか?それほど、不公平でなく、主観的でなく、あるでしょうか。
>


なぜこのような問いがここで出てくるのかがよく分りませんので、的を外した答えになるかもしれませんが、答えて見ます。場合によれば、その時に私が殴られることの方が正当だ、あるいは、その方が良いと思えば殴られるでしょう。

> また。思うだけでなく、ほんとに相手を殴るとき、「こいつ殴ってやろうか」という思考は生じてるでしょうか? 無思考、ほかの言い方では無心で殴れるでしょうか?「こいつ殴ってやろうか」と思考するなら、殴ってない、ことでもありませんか。
>


ほとんど反射的に殴っているということが、若いころに何度かあったように思います。ただその場合のでも、やはり一瞬の間に、殴ってやろうという思考が湧いたのではないでしょうか。
現在は私は大人ですので、「こいつ殴ってやろうか」と思考する、と言うより思いが湧くことがありますが、実際に手を出すことはありません。
それが、

>「こいつ殴ってやろうか」と思考するなら、殴ってない、ことでもありませんか。

こういう意味ならばそうです。

> これは 「こいつ殴ってやろうか」という思考が生じてる、そのことは・・・実際に殴るとしても・・・すでに意図的であり、すでに素直でない、ということではないでしょうか。
>


意図的であれば素直ではないと言うことですか?

> ここで。おおくの人は現状では、自分の中心・座が・・・意識・・・にあります。それは、とりあえずですが、実際に人が、このようにある、ということと一致してないのではないでしょうか。
>


すいません よく意味が分りません

> とくに・・・なにか、そこで留まってる、躓いてる、執着してる状態があります。そこに現れる、その思考の前提を探ること、をします。それが、わたしは誰?また否定の道の、実践、です。
>
> たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という、その思考は、なんだかの正当性があるから、その思考は成立してるのです。その思考を、成立させてるための、その前提、その根拠、その背後を探るのです。その、ありとあらゆる可能性を、微かな感覚も見逃さず、注意深く「思考して、思考して、思考しまくって」、探すのです。
>


つまり動機でしょうか?


> その前提は、意識にとっては見えない闇に隠れてるかもしれません。それゆえ、たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という思考が成り立ってるかもしれません。その隠れた前提を暴き出すと、たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という思考は、成立できないかもしれません。 それを意識という光にさらすことで、それを失うんです。
>
> ほかの言い方では、同一化の否定、ほかの言い方では、自分が自分と思う自分を否定する・・・それで、これを否定の道、とも呼んでいます。それはどしても自分の根拠、立場を削るということであり、素直、にならざるを得ないのです。これは、どんな目標によって作られた素直ではありません。
>


仮に上で説明されたことが、動機を探ることであるならば、動機の探索と否定の道や、同一化の否定はどのように繋がるのでしょうか?

> ところで。その思考の前提は、優劣かもしれません。善悪かもしれません。世間、かもしれません。自由かもしれません。自我かもしれません。偶然かもしれません。必然かもしれません。
>
> そしたら、たとえば優劣?とは、善悪?とは、世間?とは、自由?とは、自我?とは、偶然?とは、必然?とは、定義、をするのです。また、根拠がないなら、それはどいうことか、どんな人の言うことにも依らずに定義するのです。それが、その人の経緯です。
>
> すると、人の状態としては、これまでの位置から、どんどん捨てて・・・実際に捨てた自分を生きるのです・・・より深い位置に沈みます。そこでまた、よく見ます。これで、自我はない、とか、世界と交信状態にあるとか、感覚的にですが・・・至高体験ではないですが・・・触れることはできます。
>
> そんな否定の道を行くと、そう意図するわけではないですが、より深い体験が起こる可能性があります。それに、解凍、の訓練にもなるでしょう。これを実際に生きるということは、なにがなんでも、わたしは誰?その衝動がなければ、ほとんど不可能なほど困難、と感じます。


今回のお話は、私自身、よく意味を把握できて無いように思えるのです。それゆえ、私の回答が全くかみ合っていないかもしれません。
すいませんがよろしくお願いします。

No.2890 - 2010/11/15(Mon) 17:41:37

Re: 私は誰2 / ubik0101
>なぜこのような問いがここで出てくるのかがよく分りませんので、的を外した答えになるかもしれませんが、答えて見ます。場合によれば、その時に私が殴られることの方が正当だ、あるいは、その方が良いと思えば殴られるでしょう。

とても説明なのですが・・・相手は夜の虎さんとっては他人です。相手にとっては、夜の虎さんが、他人です。お互いに自分であり、お互いに他人です。

それなのに区別するなら、なにか問題がありそうです。たとえ傷ついたとしても、相手と自分を、同等、公平に扱うという、姿勢、のことです。正当な理由があるないの話ではないです。

>ほとんど反射的に殴っているということが、若いころに何度かあったように思います。ただその場合のでも、やはり一瞬の間に、殴ってやろうという思考が湧いたのではないでしょうか。

もし、ほとんど反射的に殴ったとしても・・・相手を殴る以前に、または相手を殴らずに仲良くやってても・・・その殴る原因、動機は、自覚できなくても無意識に燻ってるかもしれません。それが、たまたま状況や相手を得て、殴ってやろうかという思考として、また殴る行動として現れたのかもしれません。

そこで。もしかして、殴るという思考や行動に・・・なにも原因がないはずはない・・・これは嫉妬が隠れてるのではないだろうか?もしかして、これは卑下の裏返しではないだろうか?自己顕示欲の現れではないだろうか?それを無意識から探し出して、意識するなら・・・これは否定の道の実践になります。

また、相手を殴るとかの思考や行動が起きたら、気持が騒いで、懸命に思考するでしょう?その場が過ぎて一人になっても、ああだこうだと相手を非難するかもしれません。自分を正当化するかもしれません。なら・・・相手と自分を、同等、公平に扱って・・・自分の方に、その批判の矛先を向けて・・・ああだこうだと探ることができるはずです。

>意図的であれば素直ではないと言うことですか?

そもそも殴るとか、殴らないとか、思わないです。

>仮に上で説明されたことが、動機を探ることであるならば、動機の探索と否定の道や、同一化の否定はどのように繋がるのでしょうか?

この上に挙げたような、無意識に燻ってる原因を指すのなら、動機、という言葉でもでもいいと思います。そして、その動機を探り当てたとします。その動機そのことには・・・たとえば嫉妬、卑下、自己顕示欲には・・・正当性があるでしょうか?

もし正当性がないなら、その行動、たとえば相手を殴ってやろうという思考、行動にも正当性がないのではないでしょうか。すると、その正当性がない動機を見てなお、その動機や、その思考や行動に・・・それまでは無意識だったとしても・・・執着、躓く、留まってる・・・ことはできないです。それは捨てることであり、意図しないでも素直になります。

その、動機、を定義することは、たとえ正義感から、また相手のことを思って、殴ったとしても、その正義感、相手を思うこと、それが正しいか?それを探ることにもなります。そして、たとえばその正義感の奥には、動機には、損得が隠れてるかもしれません。それは、欲望、なのかもしれません。

でも、その動機なんですが、正しく的を射てるかどうか解らない、見当違いの動機を想定してしまったりるする恐れがある、と思ったりするかも知れません。

しかし、実践、すれば分かります。たとえば殴る思考、行動だけでも、いろんな原因が複合してるもんですし、これかな?と微かにでも思った動機は、やはり原因なしには、ありません。

これを実践するには、やはり注意深さが必要です。どうしても、わたしは誰?問う衝動が必要です。そうならば・・・どなたにも言うのですが・・・日記を書くことをお勧めします。

なにか行動と思考の関係とか・・・なにか思考が生じるなら、そのままを・・・どんな情けない、みっともない、恥ずかしいことでも正直に書いて、深く自分自身に切り込むんです。

どこまでも自分を研究するのです。読み返す必要はないです。なんにしても、ほかの人に、あれこれ聞く必要はありません。自分のことに専念して解決すれば、それが総てです。

No.2892 - 2010/11/15(Mon) 20:44:25

Re: 私は誰2 / 夜の虎
ubik0101さん お返事ありがとうございます。

> とても説明なのですが・・・相手は夜の虎さんとっては他人です。相手にとっては、夜の虎さんが、他人です。お互いに自分であり、お互いに他人です。
>
> それなのに区別するなら、なにか問題がありそうです。たとえ傷ついたとしても、相手と自分を、同等、公平に扱うという、姿勢、のことです。正当な理由があるないの話ではないです。
>


これは私と他人とを区別するなと言うことですか?
もしそうならば、それはなぜでしょうか?

> また、相手を殴るとかの思考や行動が起きたら、気持が騒いで、懸命に思考するでしょう?その場が過ぎて一人になっても、ああだこうだと相手を非難するかもしれません。自分を正当化するかもしれません。なら・・・相手と自分を、同等、公平に扱って・・・自分の方に、その批判の矛先を向けて・・・ああだこうだと探ることができるはずです。

> この上に挙げたような、無意識に燻ってる原因を指すのなら、動機、という言葉でもでもいいと思います。そして、その動機を探り当てたとします。その動機そのことには・・・たとえば嫉妬、卑下、自己顕示欲には・・・正当性があるでしょうか?
>
> もし正当性がないなら、その行動、たとえば相手を殴ってやろうという思考、行動にも正当性がないのではないでしょうか。すると、その正当性がない動機を見てなお、その動機や、その思考や行動に・・・それまでは無意識だったとしても・・・執着、躓く、留まってる・・・ことはできないです。それは捨てることであり、意図しないでも素直になります。
>
> その、動機、を定義することは、たとえ正義感から、また相手のことを思って、殴ったとしても、その正義感、相手を思うこと、それが正しいか?それを探ることにもなります。そして、たとえばその正義感の奥には、動機には、損得が隠れてるかもしれません。それは、欲望、なのかもしれません。
>
> でも、その動機なんですが、正しく的を射てるかどうか解らない、見当違いの動機を想定してしまったりるする恐れがある、と思ったりするかも知れません。
>
> しかし、実践、すれば分かります。たとえば殴る思考、行動だけでも、いろんな原因が複合してるもんですし、これかな?と微かにでも思った動機は、やはり原因なしには、ありません。
>
> これを実践するには、やはり注意深さが必要です。どうしても、わたしは誰?問う衝動が必要です。そうならば・・・どなたにも言うのですが・・・日記を書くことをお勧めします。
>
> なにか行動と思考の関係とか・・・なにか思考が生じるなら、そのままを・・・どんな情けない、みっともない、恥ずかしいことでも正直に書いて、深く自分自身に切り込むんです。
>
> どこまでも自分を研究するのです。読み返す必要はないです。なんにしても、ほかの人に、あれこれ聞く必要はありません。自分のことに専念して解決すれば、それが総てです。


ここはなんとなくポイントがつかめてきた気がします。
1つ確認したいのですが、ubik0101さんが内心に正直であれと言われる場合、思ったことを行動に移せと言う意味ではないのですよね?
つまり、殴ってやろうかと言う思いが湧いた場合、本当に殴れと言っているわけではなく、その思いの、ここでいえば動機を探れと言う意味ですか?
それと、動機を探ることが正しいとして、その場合の「私は誰か」という問いは、また別物なのでしょうか?
つまり、動機を探ることが「私は誰か」に当たるのか、そうではないのかと言うことです。


> >意図的であれば素直ではないと言うことですか?
>
> そもそも殴るとか、殴らないとか、思わないです。


すいません。 ここはもう少し教えていただけますか?

No.2893 - 2010/11/15(Mon) 21:16:52

Re: 私は誰2 / ubik0101
これも、説明なんですが・・・自分と他人の区別・・・それは、もともと人にはない、です。たとえば子供の頃、母親が、ubik0101と、ほかの家の子供を区別すると、とても痛かった、です。

また、ほかの家の親が、その子供と、ubik0101を区別すると、悲しかった、です。大人だって、疎外されたり、不公平に扱われたりすると、淋しいでしょう。不満かもしれません。

それは、すでに、なにかの問題が・・・無意識かもしれないけど・・・それだけに根強い問題が・・・忍び込んでるのではないでしょうか。

たとえば家柄、社会的地位、貧富、損得、善悪、年齢、性別、性格、仲間意識つまり反仲間意識、嫉妬、偽善、卑下、自己顕示欲、そんなことが、動機、になりえないのに、自分と他人の区別の、動機、になってるのかもしれません。

そんな状態ならば、自分と他人、区別するな、としても・・・その、そのことも・・・やはり、なんだかの姿勢、規制、固定観念、動機、になり得ます。

そこで、区別するな。というよりも、それを解決してないなら・・・自分が、たとえば無意識にでも他人を区別したりしてるのであり・・・それはすでに行動や思考の、その、動機、になってるので・・・その自分の行動や思考を探ることが優先です。

たとえば自分と他人を区別する、そんなことを世間の当然のこととして、鈍感になっては、区別してても・・・自分は区別してるとは思いもしないでしょうし、なにも始まりません。

ここで子供の頃の区別なし、と。区別を経過してから、それを否定した、区別なし、は似てはいても違うのではないでしょうか。子供の区別なしは、いつのまにか区別が忍び込みました。

しかし理解による、区別なしは、 たとえば家柄、社会的地位、貧富、損得、善悪、年齢、性別、性格、仲間意識つまり反仲間意識、嫉妬、偽善、卑下、自己顕示欲などを、動機、にする・・・それに依存する・・・可能性・・・も、解決するのではないでしょうか。

もし、なにかを求めてるなら、それが実現してない、ということを意味します。けど、求めてないからといって、それが実現してることではないです。なのに求めもしない・・・そいうところに安住しては、時が至り死ぬときにも、後悔さえ、できないかもしれないのです。

ここは、そんな世界でもあります。人の意に添うのです。求めるのです。その人の意に世界は添います。

なんでもいいのですが・・・たとえば「自分という実感がない」なら、それはどうしてか?命がけで、探査するのです。とても無意味に見える、この日常。その虚空から掴み取るように、動機、を掴み取るのです。

これは否定の道なんです。ここで実際に、動機、を明らかにして、捨てるんです。たとえば・・・世間に生きながら、世間を捨てるんです。これを思考でやり遂げるのは努力が必要です。

わたしは誰?の衝動が、それを可能にしてくれます。もうすでに、誰もが、そんなフィールドにはいるのです。それに漫然と使われるより、それを使うのです。誰に頼ることなく、できるのです。

そんな否定の道は、しかし、なにも約束しません。それを辿れば、なにかに行き着くというわけではありません。それでも、やる、のです。浴槽で、魚釣りをしてるのではないです。海で魚を釣ってるのです。

もうすでに、誰もが、そんなフィールドにはいるのだから、いまから、ここから、できるのです。これは自然発生なのです。ほかに、なにができるでしょう。ubik0101は、知りません。

No.2896 - 2010/11/16(Tue) 09:57:07

Re: 私は誰2 / 夜の虎
ubik0101さん いつもありがとうございます


> もうすでに、誰もが、そんなフィールドにはいるのだから、いまから、ここから、できるのです。これは自然発生なのです。ほかに、なにができるでしょう。ubik0101は、知りません。

ここからできると言うのは魅力的です。
色々教えてもらいましたが、どこまで理解できているかは怪しいです。
拙い理解力で申し訳ありません。
最低限ポイントを理解したいと思うのですが、ubik0101さんがここで言われる、否定の道とは、自分の思考や、行動の動機を探ることであり、思考と行動を一致させると言うわけではないのですよね?
この動機を探ることが、「私は誰」と理解してよいのですか?
動機を探るのは、「私は誰」の前提で、前提とは別に「私は誰」があるのでしょうか?

No.2898 - 2010/11/16(Tue) 21:54:05

Re: 私は誰2 / ubik0101
>ubik0101さんがここで言われる、否定の道とは、自分の思考や、行動の動機を探ることであり、思考と行動を一致させると言うわけではないのですよね?

とりあえず行動と発言と思考の一致は、否定の道に取り組む姿勢、気持、決意、なんですが・・・その実現は、否定の道の結果もたらされる、との理解でいいと思います。

>この動機を探ることが、「私は誰」と理解してよいのですか?
>動機を探るのは、「私は誰」の前提で、前提とは別に「私は誰」があるのでしょうか?


わたしは誰?・・・その自分の中心に向かう具体的な実践が、否定の道です。

とくに関係ある話ではありませんが・・・夜の虎さんと話してて、幼稚園の頃を思い出しました。レンゲの花が咲く畑で、いつの間にか近所の子供達が集まって、はないちもんめ、を遊んだことがありました。なんとなく6人だな、とは感じてたのですが・・・そうだ、人数を数えてみよう。と思いました。

それで、2、3回数えたんですが、5人しかいません。うーん。そうだ、自分を数えてない、このことに気がついたら・・・視野にはいない・・・その自分は、なんだか、なんでもない空間、ふうせん、のようなことでした。それで、これからは、人の数を数えるためには、1、を足せばいいんだ。と妙に納得しました。

そいえば、数年前。サイト「ゴトの読書室」の掲示板「雑感」でも、おなじような体験だったか、童話だったか、そんな投稿を、見たことがあります。

No.2901 - 2010/11/17(Wed) 09:29:17

Re: 私は誰2 / 夜の虎
ubik0101さん どうもありがとうございます。


> >ubik0101さんがここで言われる、否定の道とは、自分の思考や、行動の動機を探ることであり、思考と行動を一致させると言うわけではないのですよね?
>
> とりあえず行動と発言と思考の一致は、否定の道に取り組む姿勢、気持、決意、なんですが・・・その実現は、否定の道の結果もたらされる、との理解でいいと思います。
>


ちょっと確認と言うか、疑問に思うのですが、私がこのようなことを質問したのは、自分の思考等の動機を探ることと、思考と行為を一致させようとすることは、力のベクトルが逆に思えたからです。

例えば、以前の例だと、「こいつ殴ってやろうか」と思った時に、「なぜそう思ったのだろう?」とその動機を探る方向性と、すかさず「思考と行為を一致させなければ」と行為を一致させるために相手を殴ることは、方向性や向けるエネルギーが真逆だと思うのです

このように考えると、

>その実現は、否定の道の結果もたらされる

このように成るのはよく分りません。
私はまだ勘違いしているのかもしれません。
動機を探るとは、「こいつ殴ってやろうか」と思った時に、「なぜそう思ったのだろう?」でよろしいのでしょうか?

No.2903 - 2010/11/17(Wed) 12:31:25

Re: 私は誰2 / ubik0101
> 動機を探るとは、「こいつ殴ってやろうか」と思った時に、「なぜそう思ったのだろう?」でよろしいのでしょうか?

いいです。

それでなるべく、ワープロなどで書きながら毎日毎日、その日に思ったことの動機を、探査する・・・そして、その見つけた動機を定義する・・・いろいろ考えながら、そのまま同時に書く・・・ことを、お勧めします。

というのも、書くと・・・いつでも読めるということもあって・・・忘れていても大丈夫、という感じがあって・・・どんどん考えたことを手放して、広く奥に進めるからです。

もしかして、たぶん、始めの間は、その日その日で考えることも、テーマも支離滅裂で、脈略がないかもしれませんが、それでもいいので続けましょう。

ubik0101は、書き始めて数ヶ月かかりましたが、ある日に、昨日の続きの思考ができた時には、かなり驚きました。

No.2904 - 2010/11/17(Wed) 13:13:14

Re: 私は誰2 / 夜の虎
ubik0101さん どうもありがとうございました。
また色々教えてください

No.2906 - 2010/11/18(Thu) 16:08:25

Re: 私は誰2 / ubik0101&hato
まあ、教えるとかいうことではなく、道の仲間ということで。いつでも、どうぞ。そいえば否定の道を歩いてたときのノート・・・リュック一杯ありますが・・・それを、無選択ですが、hatoさんが入力してくれたページがあります。このサイトの表紙→超古代の日記→否定の研究です。

ubik0101

そのときふと手にした日記から書き出したもので、内容はとくに意識して選んでいませんが、とても気に入ってしまった詩も載っていると思います。

hato

No.2907 - 2010/11/18(Thu) 18:08:55
(No Subject) / 雄大
あなたは何時まで信じるだろうか?

悟りが無思考の継続であるとか、

悟りは悟る者無く、悟りは状態ではない、個人の身体に帰属しない、故に悟った人は存在しない。

関係による理解は何も残さないというのはそういう意味だし、どうしたら?は何かの達成、隙間の継続への欲望、葛藤、恐怖、憎しみと名付けられたものからの逃避なのだ。

選ぶ人の継続は世界との分離を意味する。

http://www.youtube.com/watch?v=fXq81-cGJr4&feature=related

この曲を聴くたびに君と過ごした日を想い出す、
あの日に戻れたらなら、そう思うんだ。。。

という思考と無思考と呼んだり隙間と呼ばれるものは同じくらい古い抜け殻なのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=KYiPQGmnyRI

それでもあなたは古いものの継続と、別の古いものからの逃避を試みる、、、

其の時其処と今此処に共通して在るものは何か、それが知覚の扉なのだ、近すぎて死ぬまで気付く事の無い知覚の扉だ。

寝ても醒めても眠り続ける側でこんなにもあるがままを写しているのだ。

そして私が伝えることが出来るものはあなたがいる時だけのものだから、其れは其れ其のものは伝えることが出来ないのだ。

だからそれ以外の音霊の法を霊動法をクンダリーニヨガを伝えるのだ。

そして数霊を占いの真の意味を理解させる。
気まぐれで移ろい易い消費される体験ではなく、私が伝える全てはあなたに透徹した垂直を与えるのだ。

ただ残念なことにあなたは私が目の前にいるのに気がつかないのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=9YRTlnH8tFQ

それでもこの曲は一緒になれなかった君の事を想い出させる、私が生まれ変わる前の、、、。

No.2895 - 2010/11/15(Mon) 23:52:38

Re: / ubik0101
それが、それの原因である実在に繋がる経(たていと)・・・わたしは、ある・・・と、総ては、ひとつ・・・わたしは、ない・・・緯(よこいと)の、交点、それが日常です。

トッカータとフーガニ短調・ふつうの主婦の演奏だそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=usXPIh5Ngac&feature=related

こんなスピーカーです。

No.2897 - 2010/11/16(Tue) 14:06:46

Re: / 夜の虎
雄大さん こんばんは

雄大さんが言われる「それ」ですが、それは知覚の扉であり、近すぎて気がつかないものということのようです。
そして、それに気がつくには、どうしたら?とかの方法論もないようです。
ここで私は、それとはいかなるものか、知覚の扉とは何なのか、なんとか理解したいと思うのですが、「どうやって?」が通用しない以上、問い方を変えねば成りません。

雄大さんのこの意見は、いかなる状況から導き出されたのでしょうか?
おそらくは何らかの経験によるものだと思われますが、その時の状況を教えてはいただけないでしょうか?

No.2899 - 2010/11/16(Tue) 22:05:23
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