夜の虎さん
>「私は誰」の問いですが、ポイントは自分の行動の動機を探ると言う意味でしょうか?
《姿勢》
それは自分の行動、発言、思考の、です。なにかを行動します。すると、そう行動した、ということが、そのまま自分にわかります。なにかを発言します。すると、それは自分に、そのまま聞こえます。なにかを思考(感情)します。すると、それはそのまま自分に知覚されます。
つまり、総て白昼の光にさらされています。なにか秘密があるとして、なにか驚異があるとして、これしかないです。なのに、たとえば嘘を言うとします。これは、たとえば、自分の言ったことを、相手は知らない、確認できない、解らない、とか思うことで、総て光にさらされてるわけではなく、影ができてるということです。その闇に、わたし、が隠れ住みます。
それは、行動、発言、思考(感情)が、総て白昼の光には、されされてない状態です。また、嘘とは、行動、発言、思考(感情)が、互いに矛盾することではないでしょうか。それを意図して行うことが、相手を騙す、ということです。 それはすでに、自分を騙しています。
そんなことをしないという意味で、総て白昼の光にさらす・・・どんな嘘も言わない・・・これは、なにも誤魔化さないという意味で、素直である、注意深くある、意識的である、ということです。(それだけで、完成とも言えます)。この・・・明々白々、 赤裸々・・・自分の行動に、発言に、思考(感情)に・・・隠れない姿勢、それが導いてくれます。わたしは誰?には、これが必須です。
これは、たとえば、ほかの誰かが、ああ行動した、ああ発言した、ああ思考(感情)してる(に違いない)・・・だから、自分は、こう対応する・・・とかいうことはしない・・・相手のことは自分の行動、発言、思考(感情)の理由、根拠に、できないという意味で、無関係です。たとえば、相手が嘘を言っても、自分は、誰にも嘘を言わない、言えない、騙さない、約束を守る、という意味です。
この行動、発言、思考・・・これは仏陀の言う、12縁起《無明あって、行がある。行があって、識がある・・・》。の行による説明です。これはよく纏められるので、 ubik0101の生活で、そのようだったし、採用できます。わたしは誰?これは行をあまねく観察し、その前提になってる闇の無明を白昼の光にさらそうとする、という運動とも捉えることができます。
これが、わたしは誰?に取り組む、姿勢、です。ここまで疑問があるでしょうか?その後に、実践、を話します。
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No.2847 - 2010/11/07(Sun) 10:18:32
| ☆ Re: わたしは誰? / 夜の虎 | | | ubik0101 さん、ありがとうございます。 さて、
> それは、行動、発言、思考(感情)が、総て白昼の光には、されされてない状態です。また、嘘とは、行動、発言、思考(感情)が、互いに矛盾することではないでしょうか。それを意図して行うことが、相手を騙す、ということです。 それはすでに、自分を騙しています。 > > そんなことをしないという意味で、総て白昼の光にさらす・・・どんな嘘も言わない・・・これは、なにも誤魔化さないという意味で、素直である、注意深くある、意識的である、ということです。(それだけで、完成とも言えます)。この・・・明々白々、 赤裸々・・・自分の行動に、発言に、思考(感情)に・・・隠れない姿勢、それが導いてくれます。わたしは誰?には、これが必須です。 > > これは、たとえば、ほかの誰かが、ああ行動した、ああ発言した、ああ思考(感情)してる(に違いない)・・・だから、自分は、こう対応する・・・とかいうことはしない・・・相手のことは自分の行動、発言、思考(感情)の理由、根拠に、できないという意味で、無関係です。たとえば、相手が嘘を言っても、自分は、誰にも嘘を言わない、言えない、騙さない、約束を守る、という意味です。 > > この行動、発言、思考・・・これは仏陀の言う、12縁起《無明あって、行がある。行があって、識がある・・・》。の行による説明です。これはよく纏められるので、 ubik0101の生活で、そのようだったし、採用できます。わたしは誰?これは行をあまねく観察し、その前提になってる闇の無明を白昼の光にさらそうとする、という運動とも捉えることができます。 > > これが、わたしは誰?に取り組む、姿勢、です。ここまで疑問があるでしょうか?その後に、実践、を話します。
これは、あらゆる場合において、思考と感情と行動を一致させろと言う意味でしょうか?
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No.2849 - 2010/11/07(Sun) 21:58:58 |
| ☆ Re: わたしは誰? / ubik0101 | | | >これは、あらゆる場合において、思考と感情と行動を一致させろと言う意味でしょうか?
あらゆる時において、つまり一週間とかではなく、ここから永遠に・・・隠された動機なく、隠された理由なく・・・注意深く・・・なにも隠すこともなく、どこにも隠れることもなく、生きる、ということです。それは一致させようと意図しないでも、行動と、発言と、思考(感情)の矛盾がない、一致です。
たとえば、心がない、ということです。知人が家に遊びに来たとします。もう夜も更けてきました。なんだか嫌だな、早く帰らないかな・・・と思考しながらも、談笑するとします。
ここで、たとえば“なんだか嫌だな、早く帰らないかな・・・”これを心と呼ぶとします。これは、談笑という行動と、そのとき発言してる、たとえば「こんどの正月、一緒にスキーに行こう」とかの言葉と、思考(感情)・・・心・・・が一致していません。
おそらく、その人にとっては、談笑も、 “なんだか嫌だな、早く帰らないかな・・・”も 「こんどの正月、一緒にスキーに行こう」も事実なんです。嘘ではないのです。でも、その人の有り様は、嘘、なんです。
これを一致させると、つまんなさそうな顔で「なんだか嫌だな、早く帰らないかな」。と発言することになります。まったく素直なんですが、傍若無人です。しかし、これでないと嘘になります。すると軋轢が起こるかも知れません。それを恐れる?でしょうか。
また、あるいは。夜が更けても、まだ帰らない知人と談笑しながら、それだけ、それだけ、しかないなら、心、思考、が生じないでしょう。談笑しながら、たとえば 「こんどの正月、一緒にスキーに行こう」それが、思考、そのままですから、それ、だけです。素直なのです。一致させようとしなくても、矛盾がないのです。
これを意図して無理して一致させようとすると、かなりの緊張、負荷がかかります。つまり、それは・・・意図的な・・・動機なく、理由なく、です。ならば、それでも、ほんとうに、ちょっとは都合が悪いことが起きても、なんだか面倒になっても、正月に一緒にスキーに行くのです。
それは、約束を守る、嘘をつかない、という決意の現れです。これは、一致が意識される、問題になるということは、一致がないということを学んでるということでもあります。
あるいは、行動や言葉と一致してないのに、不満を表さないように、素直に見えるようになるように、心、思考のほうを飼い慣らす、矯正することも問題になるでしょう。また・・・好きな人には親切で、嫌いな人には邪険・・・行動を選択するのも、問題になるでしょう。
でも問題は、このような、ああだ、こうだ、そんな場合は、どうする、こうする、という物語にはありません。それが問題ではありません。あくまで、わたしは誰?です。
そんな衝動なしには、一致が、どうだ、こうだ。なんであれ、ほとんど無意味です。衝動があれば、なんであれ、意味を持ちます。こんな総てが、つまり日常が、わたしは誰?の、フィールド、ということです。
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No.2857 - 2010/11/08(Mon) 15:07:36 |
| ☆ Re: わたしは誰? / 夜の虎 | | | ubik0101さん こんにちは ちょっと質問させてください
> あらゆる時において、つまり一週間とかではなく、ここから永遠に・・・隠された動機なく、隠された理由なく・・・注意深く・・・なにも隠すこともなく、どこにも隠れることもなく、生きる、ということです。それは一致させようと意図しないでも、行動と、発言と、思考(感情)の矛盾がない、一致です。 > > たとえば、心がない、ということです。知人が家に遊びに来たとします。もう夜も更けてきました。なんだか嫌だな、早く帰らないかな・・・と思考しながらも、談笑するとします。 > > ここで、たとえば“なんだか嫌だな、早く帰らないかな・・・”これを心と呼ぶとします。これは、談笑という行動と、そのとき発言してる、たとえば「こんどの正月、一緒にスキーに行こう」とかの言葉と、思考(感情)・・・心・・・が一致していません。 > > おそらく、その人にとっては、談笑も、 “なんだか嫌だな、早く帰らないかな・・・”も 「こんどの正月、一緒にスキーに行こう」も事実なんです。嘘ではないのです。でも、その人の有り様は、嘘、なんです。 > > これを一致させると、つまんなさそうな顔で「なんだか嫌だな、早く帰らないかな」。と発言することになります。まったく素直なんですが、傍若無人です。しかし、これでないと嘘になります。すると軋轢が起こるかも知れません。それを恐れる?でしょうか。
例えば、私は日常の些細なことで、一瞬腹を立てることがあります。イライラすることもあります。 しかしそこでそれらを表に現せば色んな不都合があります。 心の中で、「こいつ殴ってやろうか」と思った時、それを行動に表さないと、ここで言われる正直には該当しないと言うことでしょうか?
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No.2884 - 2010/11/14(Sun) 11:50:15 |
| ☆ Re: わたしは誰? / ubik0101 | | | うん、そです。ならば、たとえば相手が、「こいつ殴ってやろうか」と思ったとき、夜の虎さんは、殴られますか?それほど、不公平でなく、主観的でなく、あるでしょうか。
また。思うだけでなく、ほんとに相手を殴るとき、「こいつ殴ってやろうか」という思考は生じてるでしょうか? 無思考、ほかの言い方では無心で殴れるでしょうか?「こいつ殴ってやろうか」と思考するなら、殴ってない、ことでもありませんか。
これは 「こいつ殴ってやろうか」という思考が生じてる、そのことは・・・実際に殴るとしても・・・すでに意図的であり、すでに素直でない、ということではないでしょうか。
ここで。おおくの人は現状では、自分の中心・座が・・・意識・・・にあります。それは、とりあえずですが、実際に人が、このようにある、ということと一致してないのではないでしょうか。
とくに・・・なにか、そこで留まってる、躓いてる、執着してる状態があります。そこに現れる、その思考の前提を探ること、をします。それが、わたしは誰?また否定の道の、実践、です。
たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という、その思考は、なんだかの正当性があるから、その思考は成立してるのです。その思考を、成立させてるための、その前提、その根拠、その背後を探るのです。その、ありとあらゆる可能性を、微かな感覚も見逃さず、注意深く「思考して、思考して、思考しまくって」、探すのです。
その前提は、意識にとっては見えない闇に隠れてるかもしれません。それゆえ、たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という思考が成り立ってるかもしれません。その隠れた前提を暴き出すと、たとえば 「こいつ殴ってやろうか」という思考は、成立できないかもしれません。 それを意識という光にさらすことで、それを失うんです。
ほかの言い方では、同一化の否定、ほかの言い方では、自分が自分と思う自分を否定する・・・それで、これを否定の道、とも呼んでいます。それはどしても自分の根拠、立場を削るということであり、素直、にならざるを得ないのです。これは、どんな目標によって作られた素直ではありません。
ところで。その思考の前提は、優劣かもしれません。善悪かもしれません。世間、かもしれません。自由かもしれません。自我かもしれません。偶然かもしれません。必然かもしれません。
そしたら、たとえば優劣?とは、善悪?とは、世間?とは、自由?とは、自我?とは、偶然?とは、必然?とは、定義、をするのです。また、根拠がないなら、それはどいうことか、どんな人の言うことにも依らずに定義するのです。それが、その人の経緯です。
すると、人の状態としては、これまでの位置から、どんどん捨てて・・・実際に捨てた自分を生きるのです・・・より深い位置に沈みます。そこでまた、よく見ます。これで、自我はない、とか、世界と交信状態にあるとか、感覚的にですが・・・至高体験ではないですが・・・触れることはできます。
そんな否定の道を行くと、そう意図するわけではないですが、より深い体験が起こる可能性があります。それに、解凍、の訓練にもなるでしょう。これを実際に生きるということは、なにがなんでも、わたしは誰?その衝動がなければ、ほとんど不可能なほど困難、と感じます。
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No.2887 - 2010/11/14(Sun) 14:15:54 |
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