観察対象には観察者が常に伴う
思考は感情や、他の諸器官が写す対象となんら変わることなく非恒常的なものだ
心理的な思考であってもなかっても単なる認識対象にしか過ぎないので、取り立てて思考だけが問題になる事はない
思考が問題であるという仮説自体がボタンの掛け違いの始まり
無思考の時、あるがままであり無境界であるというのは雑感が作り出した誤った問題設定である
クリシュナムルティが心理的思考を問題にしたのは、それが葛藤となり探求のエネルギーを消耗する、鈍感になるからだ
それは思考のなかに、怒りの中に、喜びのなかに、悲しみのなかに全ての中に横たわる
思考、怒り、喜びに分割するのは誰なのか
それがあるからそれ以外は認識可能となるが、それ自体は認識できない
思考も身体も五感が写す世界も全て移り変わるのだし、ましてやそれ自体で存在しているわけではない
分ける事から錯覚としての世界が生まれている
私が確かな実感であるほど世界も実感されるのだが私と世界の境界が何処にあるのだろうか
私という実感は外側のことなのだ では内側は何か?内側は外側なのだし、それは外側であり内側であり、外側でなく内側ではない
皮膚の境界を当然とするから世界の後に私が生まれ、世界を後にして私が去るという物語を確信してしまう
それは人間の身体機能に翻訳された断片から構成された虚構の世界だ
誰かが三角のコップに入れ水を見て、水は三角であると言っているように人間の身体機能に翻訳された世界の観方に、対象自体を問題にする習慣に気づくことだ
対象は問題ない 経験に対する渇望に気がつくことだ
認識できるものは全てあったり無かったりするものだ あったり無かったりする世界の陰としての私はどうであろう
あったりなかったりしているのか、 そしてここからそれは文脈によって意味を変えてしまうのだ
そして今日もまた長々と私は嘘をついたのである
そしてまだ私はこのように嘘を続ける
それは心の状態ではないのだと、もちろん心が無い状態ですらない
そのように世界を切り取るから嘘から離れることはない
掴んだら滑り落ちる、掴む対象でなく、掴む手でもない、掴む動作でさえない
それらが現れるのは観察者がいるからなのだ
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No.2824 - 2010/11/04(Thu) 22:00:54
| ☆ Re: / ubik0101 | | | たしかに、かすかにでも自覚できる可能性がある思考者は、思考が、つくった思考者です。これを、思考者が、ある、と人は呼びます。
けど、かすかにでも自覚できる可能性がない思考者は、思考が、つくらない思考者です。これを、思考者が、ない、と人は呼びます。 思考は、思考者をつくりません。
たとえば善と悪は、思考にしかありません。しかし世界が「悪をしてはならない、善をしよう」と呼びかけます。これは善と悪ではない、善、です。
それは思考者をつくりません。これが、世界に乗る、ということです。まったく知覚されない・・・世界の範疇にない・・・つくられる必要がない、自己、です。
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No.2826 - 2010/11/05(Fri) 10:29:45 |
| ☆ Re: / 通りすがり | | | >それがあるからそれ以外は認識可能となるが、それ自体は認識できない
度々お聞きしますが、なぜそういうことになるのでしょうか? 「それ自体」が認識できないのならば、「それ」があるとどうしていえるのでしょうか? 推測でしょうか? 「それ」が認識できないのであるのならば、「それがあるからそれ以外は認識可能」となぜいえるのでしょうか? どなたか分る方教えてください。 ちなみに独り言は結構ですので。
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No.2828 - 2010/11/05(Fri) 10:53:12 |
| ☆ Re: / 通りすがり | | | > 皮膚の境界を当然とするから世界の後に私が生まれ、世界を後にして私が去るという物語を確信してしまう
何回か読み直して気づきましたが、大変に深い言葉だと思います。 しかし「現実の私」としては、皮膚の内側の刺激は、痛みや心地よさとして知覚できますが、外側はそうではありません。 バットを振り回し、外側のものを叩いてもなんともありませんが、バットを振り回され叩かれれば、そこに大きな痛みを現実として実感します。 この差は非常に大きいと思います。
>それは人間の身体機能に翻訳された断片から構成された虚構の世界だ
そこから考えれば、なぜこのようにいえるのでしょうか?
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No.2830 - 2010/11/05(Fri) 11:14:57 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >度々お聞きしますが、なぜそういうことになるのでしょうか?
それは、事実、なんです。それだけなんで、それを質問するのは、たとえば・・・なぜ、図書館の前に郵便局があるのですか?という質問のようです。
>「それ自体」が認識できないのならば、「それ」があるとどうしていえるのでしょうか? >推測でしょうか?
これも事実なんです。でも日常意識では認識できないかもしれません。とても説明なのですが・・・通りすがりさんが、通りすがりさんだから、通りすがりさんだと、識別する必要がない、識別しない、ということです。
>「それ」が認識できないのであるのならば、「それがあるからそれ以外は認識可能」となぜいえるのでしょうか?
またまた、とても説明ですが・・・まったく透明なキャンバスに描かれた絵・・・そのキャンバスは認識不可能・・・その絵は認識可能、ということです。
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No.2831 - 2010/11/05(Fri) 11:17:00 |
| ☆ Re: / 通りすがり | | | > それは、事実、なんです。それだけなんで、それを質問するのは、たとえば・・・なぜ、図書館の前に郵便局があるのですか?という質問のようです。
図書館の前に郵便局があることは、知覚できるので確認できます。「それ」は認識できないのですよね? なぜ事実と言えるのですか?
> これも事実なんです。でも日常意識では認識できないかもしれません。とても説明なのですが・・・通りすがりさんが、通りすがりさんだから、通りすがりさんだと、識別する必要がない、識別しない、ということです。
非日常意識なら認識できると言うことですか? 後段の説明は、私は、私が存在することを確認する必要がないと言う意味ですか?
> またまた、とても説明ですが・・・まったく透明なキャンバスに描かれた絵・・・そのキャンバスは認識不可能・・・その絵は認識可能、ということです。
しかし、キャンパスが認識不可能ならば、透明かどうかも分らないのでは? そこに透明だろうが、なんだろうが、キャンパスがあること自体が推測と言えませんか?
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No.2837 - 2010/11/05(Fri) 21:53:58 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >図書館の前に郵便局があることは、知覚できるので確認できます。「それ」は認識できないのですよね? >なぜ事実と言えるのですか?
もし知覚が完全に機能したら、知覚を超えます。それは起こすことではなく、起こること、です。そんな超意識状態、それを至高体験、覚醒体験、とか呼んでいます。
>非日常意識なら認識できると言うことですか?
そです。超意識なら、認識できます。
> 後段の説明は、私は、私が存在することを確認する必要がないと言う意味ですか?
そこに安らいでるなら、その人は、無我です。けど、これは、生まれたままで初めからというのは、まずあり得ない、です。
>しかし、キャンパスが認識不可能ならば、透明かどうかも分らないのでは? >そこに透明だろうが、なんだろうが、キャンパスがあること自体が推測と言えませんか?
そんな推測をするのが、自我の機能、です。自己、は透明です。これは、日常、そうでしかないのです。ほかの言い方では、自分は、いない、です。また、ほかの言い方では、自我もなければ、無我もない、です。こいうことは誰に聞いても理解できません。ただ、自分で体験できます。わたしは誰?
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No.2842 - 2010/11/06(Sat) 08:18:27 |
| ☆ Re: / 夜の虎 | | | > そんな推測をするのが、自我の機能、です。自己、は透明です。これは、日常、そうでしかないのです。ほかの言い方では、自分は、いない、です。また、ほかの言い方では、自我もなければ、無我もない、です。こいうことは誰に聞いても理解できません。ただ、自分で体験できます。わたしは誰?
ubik0101さんの経験から来るアドバイス、とても参考になります。 ありがとうございました。
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No.2845 - 2010/11/07(Sun) 00:06:48 |
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