1度だけつれずれなるままに書き込みしてみます。
あったり無かったりするそれは、それなしでは認識できないもの、
認識対象と共にあるそれは直接的に知ることは出来ません、それが何か自ら気づかねばならないでしょう、そこにどうしたら?は通用しないでしょう。
すでにあるものを獲得できないし、失うこともできないのではないでしょうか。
自我、心、身体、真我などの言葉で世界を分割しておいてから、何故全一なるものを欲するのでしょう。
これが連想ゲームの始まりになります、しかしそれは思考があってもなかっても変わらずあります。
私は知っているという時、其の私は誰か、私は何か、どこまで継続しているのでしょう。
私は経験した、私は知らない、、、等々、其の私は何処から始まり何処で終わるのでしょう。何時からあったのでしょうか。
それらの過程全てを嫌悪する事無く、判断することなく理解していく必要があるのではないでしょうか。
実際知らなければ、理解が無ければ他人のどんな言葉も誤解と妄想の連想ゲームになるだけではないのでしょうか。
少なくともそれは私が知っているという描写が適合するものではないのです。 だからどうすればの堂々巡りに入っていくのかもしれませんが。
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No.2821 - 2010/11/03(Wed) 19:47:47
| ☆ こんにちは / peer | | | >実際知らなければ、理解が無ければ他人のどんな言葉も誤解と妄想の連想ゲームになるだけではないのでしょうか。
知っている(過去のモノ)の中で、妄想の連想ゲームをし続け それに気付かない、越えられない。 ということからの解放が、たぶん・・・テーマ。じゃないかな。 「じぶんは知らない」という心の隙間、空間を人は恐れるのでしょうけど。
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No.2822 - 2010/11/04(Thu) 13:46:37 |
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