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長くなったので / peer
>それで。なにかを体験してても、まだ意識に教えてない、だけ・・・たぶん

何かを体験して
「終わった」という声が聞こえた。
ということがあります。
そして「確かに終わったね」と答えてました。

この、体験する。経過する。それだけでよくて
それだけで、ある意味、変容しているワケで。
意識に教えようとすると・・・
変な方へ進んでしまう。。かな〜と。

>基本的には、なにも理解してないです。
>理解できることなどないです。知らない、のです。


はい。なぜこの世界は、こうなのか。
あの人はああなのか、こうなのか。
現象をとらえて、説明は・・・できます。
でも、どうしてこうなっているのか、は。
理解できないんです。知りようがないんです。

No.2825 - 2010/11/05(Fri) 04:02:37

Re: 長くなったので / ubik0101
>何かを体験して
>「終わった」という声が聞こえた。
>ということがあります。
>そして「確かに終わったね」と答えてました。


>この、体験する。経過する。それだけでよくて
>それだけで、ある意味、変容しているワケで。


うん。まず自分があって、なにかをするのではありません。なにかをすることで・・・予め・・・仮の主体がつくられます。と、超意識状態で、そのまま見て、 「これで総て終わった」。と、たしかに聞きました。

まあ、それは、無我から入るのです。いや無常から入るんです。とかいう検討はできるのですが、どちらも違います。世界の総活動から、無我も、無常も、解されるのです。

>意識に教えようとすると・・・
>変な方へ進んでしまう。。かな〜と。


どういうわけかは知りませんが、意識の範疇にないことを、意識の範疇にない、と意識に教えるだけでは、終わりませんでした。たしかに、どんなに教えても、意識の範疇なんで、無駄なんでしょう。

けど。意識に教えることで、意識に教えることもできる、この世界の 、とんでもなさが見えてきます。人が、この世界に生きていながら、この世界に依存できない、その仕組みが見えそうです。

それは、ある、ない、の機能。あるいは、たとえば思考は、その思考が始源ではない・・・不確定・・・因果・・・なんですが、それを知られざる大前提にはできない、という感じです。

>はい。なぜこの世界は、こうなのか。
>あの人はああなのか、こうなのか。
>現象をとらえて、説明は・・・できます。
>でも、どうしてこうなっているのか、は。
>理解できないんです。知りようがないんです。


なにかが機能してることを、ある、と呼んでいる。それだけのことです。ふと。なにが、たとえば思考するのでしょう。それを探ってみます。かろうじて・・・でした。では、この・・・に、なにが嵌るでしょう。

わたし?いいえ。その思考?いいえ。世界?いいえ。ある?いいえ。?ない?いいえ。かろうじて、なにも嵌らない、それで・・・青空にネギを植える畑を耕す・・・です。

No.2827 - 2010/11/05(Fri) 10:53:01

Re: 長くなったので / peer
>超意識状態で、そのまま見て、 「これで総て終わった」。と、たしかに聞きました。

そこで、思考(たぶん左脳)が活動すると
「何が終わったのか」「終わるって、どういうこと」となって
経験が知識に置き換わる。
そうなると、メチャメチャで。
「そのままみる」ことからは、離れますね。

>なにかが機能してることを、ある、と呼んでいる。それだけのことです。
>ふと。なにが、たとえば思考するのでしょう。


だから、経験を人にダイレクトに伝えることは、不可能で。
ある人は、座ってみてください。としか言えない。
なんと言えるかなぁ。
素直であること。
あるものをそのままにしておく、みたいな。
思考の活動できる範囲は、思ったより狭い。
思考の境界線を消せば。
そのままは、無限大なのです、ね。

No.2833 - 2010/11/05(Fri) 15:54:21

Re: 長くなったので / ubik0101
そ、そいうことを聞いたことは、記憶にもなかったのです。peerさんから聞かれたからですが、よく思い出したもんです。で。そのときは、すでに、いつもは暗くて見えない自分の中が明るくなっていました。

それで自意識というか、自我が隠れる陰がありませんでした。そこに、それまで否定してきたことが、総て活動していました。これが、失っても、なくなることは、なにもない、です。

それで、なんの疑問もなく、 それを聞いたとき、とても深い安堵にいました。それとフェードして、歓喜状態になったと思います。それは理由が解らないです。

というのは総活動状態なので、特定の感情、歓喜がある理由がないのです。たぶん、自我の束縛から解放されたから、というより、世界が歓喜状態にあるということだと思います。

その状態で見たことは、サイトに書いてある通りです。どんなことでもない愛。それは初めての経験でしたが、愛としか呼べません。それは人が感じる感じないに関わらず世界に溢れています。

それから罪の燃焼。罪は、外れようもない中道から外れる、ということでした。依存関係。それまで、人の間に隠れて生きてきたことも知りました。

そいう経験をしてしまうと、なんでもしていいと、不道徳になってしまう人も見ました。でも、それは誤りです。人は、倫理的になるのです。そうなろうと世界が望んでいます。

ところで、なぜその受け取った情報を解凍したかは・・・そうしなければ、その体験は不完全燃焼ながら燃え続けて、苦痛だったからです。おそらく10年ほど、理解して消火するのにかかりました。

なぜ、その体験が起きたのか?とても大袈裟に言えば、それが起きなければ世界は、ubik0101を生かしておくことができなかったんです。そうですね、無我ならば、昨日も明日もなく、です。

だけど、否定のあまり、もう捨てることもなく、自我のまま、昨日も明日もなかったのです。これは辛い緊張、その限界でもありました。 それが目的ではないですが、まあ、自我より無我は楽なんですが、その無我もなければ、もっと楽なんです。

また、思考は問題ではありません。それは思考の変化ではなく、人の変化だからです。思考は思考者をつくりません。こんなことは日常意識にしか読み解けないと感じます。

サイトのどこかに書いていると思いますが、知って欲しいのは、それが起こる。ということだけです。伝わる、伝わらない、というより、それは起こることです。

No.2835 - 2010/11/05(Fri) 21:01:09
(No Subject) / あすか
>思考があってもなかっても変わらずあるものは何か?

船で川沿いに進む。
ああ、岸が動いていると思う思考がある。
ああ、船が動いていると思う思考がある。
思考なしに、景色の全体が見られている。
変わらずあるもの、船が船着場にいずれ着く。

思考があってもなかっても変わるもの。
誰かを非難し心の中で戦う思考がある。
誰かを非難し心の中で戦う思考がない。
誰かとの間に、その思考があると暴力があり、その思考がないと暴力がない。

No.2823 - 2010/11/04(Thu) 17:22:06
(No Subject) / 雄大
1度だけつれずれなるままに書き込みしてみます。

あったり無かったりするそれは、それなしでは認識できないもの、

認識対象と共にあるそれは直接的に知ることは出来ません、それが何か自ら気づかねばならないでしょう、そこにどうしたら?は通用しないでしょう。

すでにあるものを獲得できないし、失うこともできないのではないでしょうか。

自我、心、身体、真我などの言葉で世界を分割しておいてから、何故全一なるものを欲するのでしょう。

これが連想ゲームの始まりになります、しかしそれは思考があってもなかっても変わらずあります。

私は知っているという時、其の私は誰か、私は何か、どこまで継続しているのでしょう。

私は経験した、私は知らない、、、等々、其の私は何処から始まり何処で終わるのでしょう。何時からあったのでしょうか。

それらの過程全てを嫌悪する事無く、判断することなく理解していく必要があるのではないでしょうか。

実際知らなければ、理解が無ければ他人のどんな言葉も誤解と妄想の連想ゲームになるだけではないのでしょうか。

少なくともそれは私が知っているという描写が適合するものではないのです。
 だからどうすればの堂々巡りに入っていくのかもしれませんが。

No.2821 - 2010/11/03(Wed) 19:47:47

こんにちは / peer
>実際知らなければ、理解が無ければ他人のどんな言葉も誤解と妄想の連想ゲームになるだけではないのでしょうか。

知っている(過去のモノ)の中で、妄想の連想ゲームをし続け
それに気付かない、越えられない。
ということからの解放が、たぶん・・・テーマ。じゃないかな。
「じぶんは知らない」という心の隙間、空間を人は恐れるのでしょうけど。

No.2822 - 2010/11/04(Thu) 13:46:37
(No Subject) / 雄大
私・ならこう・考・え・ます。


思考があってもなかっても変わらずあるものは何か?


無我、真我、何かと1つになっていた、無距離  等々

そのようなことを経験したとしたなら、それがあった時、それ以前、そして今も変わらずあるものは何か?

そのあるものは恒常的なものなのか、そうでないのか?

私はそれではない、それそのものなら認識され得ない。
認識されるものなら観察者が存在する。

あったリ無かったりするものはそれを観察するものを含めて非恒常的なものなのだ。

純粋な思考でなく、純粋なあったり無かったりする私を見つけるのだ、そしてその私が分かる故にそれを超えたもがあることへの理解がある。

すべてに浸透するが決して捉まえる事の出来ぬものへの理解は何処にも足跡など残さないのだ。

語られたものが語られたものそのものでない以上、それらの象徴や標識に心を砕くことに何の意味があるのだろうか。


http://www.youtube.com/watch?v=jc8Qn6bsSpY

No.2812 - 2010/11/02(Tue) 20:28:57

Re: / 通りすがり
雄大さん こんばんは

> 純粋な思考でなく、純粋なあったり無かったりする私を見つけるのだ、そしてその私が分かる故にそれを超えたもがあることへの理解がある。
>


大変難解ですね。 あったりなかったりする私とは、一般に言うところの自我ですか?

> すべてに浸透するが決して捉まえる事の出来ぬものへの理解は何処にも足跡など残さないのだ。
>
> 語られたものが語られたものそのものでない以上、それらの象徴や標識に心を砕くことに何の意味があるのだろうか。


全てに浸透するものが、あるかどうかは分りませんが、どのようにして捉えるのですか?
あるいは、どのように、あるやなしやを判断するのですか?

No.2817 - 2010/11/02(Tue) 22:36:18

Re: / ubik0101
たとえば自我は、ない、自己は、ある・・・どちらも意識の範疇ではない・・・自覚不能・・・それはそれで実用的には充分です。でも・・・その、ない、ある、とは、どいうことか?

それが明確でないなら、その不明確さに乗って暮らしています。そんな愚かな意識に、なんとか教えてみよう、ubik0101なら、このように考えます。

Curved Air - It Happened Today - Live

http://www.youtube.com/watch?v=ShfSH60tGKc&feature=related

Curved Air - Vivaldi

http://www.youtube.com/watch?v=_u6OFTZCRAY&feature=related

No.2820 - 2010/11/03(Wed) 11:05:51
(No Subject) / 雄大
http://www.youtube.com/watch?v=5mPQW2-0YPs

どのように呼ばれようとそれが認識され得るものなら過去のものであり、分離しており、断片である。

思考があろうが無かろうが、感情があろうが無かろうがそれはなにも排除しないし、それなしには何も認識できない。

ただそれは直接的に認識できないのだ。
それは途切れなくあるのだが認識対象は途切れる。

認識されるものはそれ以外の認識され得ないものに支えられているのだし、認識されるもの全てがそれによって命を与えられているのだ。

だから私は何も知らない、知ることができないという理解は知識ではない。

純粋な運動なのだ。

No.2813 - 2010/11/02(Tue) 21:43:16

Re: / 通りすがり
> http://www.youtube.com/watch?v=5mPQW2-0YPs
>
> どのように呼ばれようとそれが認識され得るものなら過去のものであり、分離しており、断片である。
>


これはどうしてそうなるのでしょうか?
現在進行形のものが認識された場合も過去になるのですか?

> 思考があろうが無かろうが、感情があろうが無かろうがそれはなにも排除しないし、それなしには何も認識できない。
>


「それ」とはなんでしょうか?

> ただそれは直接的に認識できないのだ。
> それは途切れなくあるのだが認識対象は途切れる。
>


直接的に認識できないとなると、いかにしてその存在を認めるのですか?
推測でしょうか?

> 認識されるものはそれ以外の認識され得ないものに支えられているのだし、認識されるもの全てがそれによって命を与えられているのだ。
>


どういう意味でしょうか?

> だから私は何も知らない、知ることができないという理解は知識ではない。
>
> 純粋な運動なのだ。


ここもどういう意味でしょうか?

No.2818 - 2010/11/02(Tue) 23:08:54
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