私の見解というのはありません。 心の状態ではないありません、そこには観察者が予定されているから。
何かに帰属するようなものではありません。
何かに至るということもありません。 もともとなかったものがあるように見えていた、其の時存在しない者がいた。
無いものを有る様に有るものを無い様に夢のような対象にだけ焦点があった。
私が持ちあなたが持たないものではなく、今日なく未来に持つものでもない。
あなた自体が独立した存在でないと気がついたとき世界が終わり、あなたが世界だと理解する。其の時理解するものはないが、それまでと同様にあなたなしで喜び、怒り、悲しみ、楽しむ、カルマが起こす現象をコントロールする者がいないから。
それでいつもこの様に問う、あなたは観察対象なのですか?
観察する者なのですか?観察する行為なのですか?
観察対象なしで観察者をどの様にして知ることが出来ると思いますか?
これを言語化することなくよく観察してみる、途中何らかの発見や結論を見つけたなら、そこで立ち止まらずそれら全てを手放す。
真理は組織化できない、本当のあなたなどいない、あなたの世俗的な欲望を正当化してくれる気休めでしかない世俗の神は私たちの欲望を反映したものに過ぎないし、獲得した瞬間から失われ始める認識対象を求める順番待ちに加わる事の愚かさに気づく根気と勇気を持たねばならない。
何かになる努力をすれば常に別のものが寄り添う、片側だけ求めても別の片側が寄り添う、しかし片側だけ欲しいと嘆くのだ。
諸行無常は、諸行無我は諦めではなく理解するものが不存在であるという理解なのだ。
世俗の神はあなたの心の弱さに入り込むが、直接知る事の出来ぬものを古代人がそう呼んだのだとしたなら神は紙似かかれた言葉、概念、音節などでなく、火水であり無極から太極に変化する運動の象徴だったのではないだろうか。
この様に言葉にするといくらでも妄想は続けることの出来る連想ゲームにしか過ぎないのだ。
|
No.2848 - 2010/11/07(Sun) 11:25:07
| ☆ Re: / 夜の虎 | | | > それでいつもこの様に問う、あなたは観察対象なのですか? > > 観察する者なのですか?観察する行為なのですか? >
私は、「私」を探る時、ほのかな存在感覚を感じる時があります。感じられる以上、観察対象ともいえる気がします。 しかし、そうなると、主体を二つ設定しなければならず背理です。 では「私」は観察者なのか? しかし確かに私は、諸々を観察認識しますが、「私」自身は知覚しません。 すると確実なのは、「観察する行為」と言えるような気がします。
> これを言語化することなくよく観察してみる、途中何らかの発見や結論を見つけたなら、そこで立ち止まらずそれら全てを手放す。
ここで言われていることは、私が上記のようなことを考えついたとしても、全て手放せと言うことでしょうか?
|
No.2850 - 2010/11/07(Sun) 22:05:18 |
|