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(No Subject) / 雄大
http://www.youtube.com/watch?v=9PBZy9j3H3I&feature=fvw

もしあなたが私は知っていると云い、私が私は知っていると云ったとしても、それらは重なり合うことはない。

私が愛してると云い、あなたが愛していると云う位遠いのだから。

音も、残像も、私も消えて行きます。
消えていく以前はそれらは何処から始まったのですか

その始まりと終わりを見守っているものに始まりと終わりがあるのでしょうか。

始まりと終わりがないものをどうやって認識できるのでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=2bwqxyVJnJI&feature=related


http://www.youtube.com/watch?v=M_LLFfFXaUA

No.2816 - 2010/11/02(Tue) 22:35:38
(No Subject) / あすか
良い悪い、ではない、善いを。
について、

正しいやり方、正しいありようなら、うまくいくと話して済ましているとき、
自分のやり方、ありようを、良い悪いの、良いの方に入れている?し、話が他の人に実現しているものとして、通じていると錯覚している?

さて、
良い悪い、ではない、悪いを。
について、どう返答しますか?

No.2793 - 2010/11/01(Mon) 11:04:24

Re: / hato

とくに錯覚していないようです。

さて、
上記の問いについては、わたしの辞書に、無い。

と返答するでしょう。

No.2802 - 2010/11/01(Mon) 21:08:06

Re: / あすか
辞書とは、記憶、言葉、良い悪いに属するものですか?

辞書とは記憶、言葉には属するが、良い悪いではない、善いはあるが、悪いはないよと、
と言葉を変えている?

辞書にはあってもなくても、それ以外のものとして、
良い悪いではない、善い、あるいは悪いは、名付けなくても、具体的な何かとして、あるのかな、ないのかな?

No.2807 - 2010/11/02(Tue) 08:27:03

Re: / hato

あるのかな、ないのかな・・・て、十八番でしょうか。
とくに趣味ではないので、自分は遠慮しておきましょう。

本当の意味で、世界だけ。が経験されたとき、不要な思考体系への囚われもなくなるでしょう。そのとき、思考があったとしても、なにか名付けてみたとしても、とくに問題になることはないでしょう。


この夏、キチキチバッタを沢山見かけました。バッタにしてはとても大きいようです。チキチキバッタ、精霊(ショウリョウ)バッタ、ショウジョウバッタ、コメツキバッタ・・・和名がいくつもあるそうです。

No.2815 - 2010/11/02(Tue) 22:29:26
音の実験について / 通りすがり
ubik0101さん  こんにちは

先日教えてもらった音の実験について質問させてください。
今のところ、音が頭の中に聞こえると言うことはないです。
ちょっと気になることがあります。
私は心を落ち着かせると、頭の中にキーンというかシーンという音が聞こえてきます。
この音は確かに頭の中で聞こえます。
ところが、私の周りにある音は、それぞれの音源から聞こえてきます。
そして、音源が私から近いものは、近くて大きな音として知覚され、私から離れているものは、遠くて小さな音として知覚されます。
このような考えが湧いてきました。
もし全ての音が頭の中で知覚(この場合は聞く)されるのであれば、頭の中での距離はないのだから、全て同じ音量で距離感なく聞こえるはずではないかと
私は要点を外しているのでしょうか?

No.2791 - 2010/11/01(Mon) 10:46:59

Re: 音の実験について / あすか
おっしゃっているのは、物理的なものです。
心理的に排除や、容認をしていない、壁がない、
自他の区分がない、距離がない感覚でいかがですか?

No.2792 - 2010/11/01(Mon) 10:57:41

Re: 音の実験について / ubik0101
なにか音を聞いてる、その自分が、聞くことに先立ってある、それが問題なのだと思います。

眼を閉じた場合、なんとなく暖かい薄暗い空間の中で、音源の方向はわかると思います。そこで、方向に集中して ・・・その音源に意識の焦点をあわせる・・・音源をたぐる・・・をしてみてください。

それで、聞く、ことができれば、その聞いてる自分が、どうやって生起するのか・・・その聞く自分がいないとは、どいうことなのか・・・自我を見破る、というほどではないかもしれませんが、経験、できるのです。

なかなか独特な表現で難しいのですが、雄大さんの言うことも、あすかさんの言うことも、誤ってはいません。

No.2794 - 2010/11/01(Mon) 11:45:55

Re: 音の実験について / ubik0101
言い忘れました。「頭の中での距離はないのだから、全て同じ音量で距離感なく聞こえるはずではないか」というのも、空想なので、あらゆる空想をしないで、ただ聞く、実験してください。
No.2795 - 2010/11/01(Mon) 13:17:14

Re: 音の実験について / 通りすがり
ubik0101さん どうもです

> なかなか独特な表現で難しいのですが、雄大さんの言うことも、あすかさんの言うことも、誤ってはいません。

あすかさんのいわれる、

>おっしゃっているのは、物理的なものです。
心理的に排除や、容認をしていない、壁がない、
自他の区分がない、距離がない感覚でいかがですか?

とは、心理的に特定の音を排除したり、音に対して自他の区別をつけず、距離がない感覚を感じるようにして、実験されてはどうですか?
と言う意味なのですかね?

それとも、単に上記のような、物理的ではない感覚(心理的?)は感じませんか?
と言う意味なのでしょうか?

No.2798 - 2010/11/01(Mon) 18:50:34

Re: 音の実験について / あすか
>>心理的に排除や、容認をしていない、壁がない、
>>自他の区分がない、距離がない感覚でいかがですか?


>とは、心理的に特定の音を排除したり、音に対して自他の区別をつけず、距離がない感覚を感じるようにして、実験されてはどうですか?
>と言う意味なのですかね?


わざわざ実験しなくても、日常の中で、何かの音に、心理的に距離を作っていないのを感じませんか、という意味ですから、下記のものが合っています。
わざわざ実験すると、聞く人ができて、緊張し、意識されてしまいますが、それは違う経験です。
そのうち、忘れて、聞く人が消えているとき、意識せずに音が聞こえているでしょう。

>それとも、単に上記のような、物理的ではない感覚(心理的?)は感じませんか?
>と言う意味なのでしょうか?


そうです。
その音に対して、心理的に、距離を作っていない、容認あるいはその反対の排除もなく、壁がなく、敵も味方もないときの感覚。

No.2799 - 2010/11/01(Mon) 19:47:51

Re: 音の実験について / 通りすがり
> その音に対して、心理的に、距離を作っていない、容認あるいはその反対の排除もなく、壁がなく、敵も味方もないときの感覚。

あすかさん、アドバイスありがとうございます。
あすかさんの言われるような感覚であるならば、家でリラックスしている時に、日常的に感じると思います。
しかし、ubik0101さんのいわれるように、音が頭の中で聞こえると言うことはなく、私の外から聞こえます 

No.2800 - 2010/11/01(Mon) 20:27:51

Re: 音の実験について / あすか
> しかし、ubik0101さんのいわれるように、音が頭の中で聞こえると言うことはなく、私の外から聞こえます 

物理的にはそうですが、

心理的には、距離、区分がなく、音と一体である、自分が音であるような感じがありませんか?
人が、子供がしゃべっていることが、ただ頭の中で響いており、ただ理解されているというような。
視覚的にも、そこにいる人、子供と、心理的に区分がない、
仲間でも敵でもなく、容認も否定もない感覚。

あるいは、ただ、音楽が頭の中で響いていて、ただ感じているような。

No.2801 - 2010/11/01(Mon) 20:43:33

Re: 音の実験について / 通りすがり
あすかさん、返信ありがとうございます。


> 物理的にはそうですが、

ところで今回の話は、物理的に「音が頭の中で聞こえる」という話をしているのではなく、心理的に(心理的に頭の中で音がするというのはよく意味が分りませんが)という話をしているのですか?

>
> 心理的には、距離、区分がなく、音と一体である、自分が音であるような感じがありませんか?


このような感じはありません

> 人が、子供がしゃべっていることが、ただ頭の中で響いており、ただ理解されているというような。
> 視覚的にも、そこにいる人、子供と、心理的に区分がない、
> 仲間でも敵でもなく、容認も否定もない感覚。
>


視覚的にも区別がつかないと言った経験は全くありません


> あるいは、ただ、音楽が頭の中で響いていて、ただ感じているような。

うーん これは微妙な感じですが、あまりピンときません

No.2803 - 2010/11/01(Mon) 21:08:20

Re: 音の実験について / ubik0101
そうですね 、簡単に言えば、無我、で聞きませんか?です。しかし、それでは、とりあえずのですが、無我を経験するための実験ですから、それができれば文句はないですし・・・なんだかループに陥りそうです。

そこで、通りすがりさんは、思考を止めることができるでしょうか?たとえば・・・(A)あいつが、あんなことを言ったから、俺はこう言ったとか・・・怒って心理的に闘ってる思考。それと・・・(B)ただ頭の中を言葉が流れてるという意味での、思考。

この (A)は論外ですが、 (B)を止められるでしょうか?と言っても、人は、ずっと思考してるのが当たり前と思われるかもしれませんが、実は、途切れ途切れなのです。意図しても止まります。それが、たとえば・・・あれは時計の音だ・・・とかなどの空想をせずに、ただ聞く、ということです。

たとえば、すー、と息を吸います。その感覚に注意します。そのとき思考を止めようとしなくても、止まってることに気がつく、という感じです。たとえば冷たい水に触るとき、ガシガシ歯を磨いてるとき、玄関で靴を履くとき、視線を花からコップに移すとき・・・

あるいは、いまubik0101は、パソコンしながら、2羽の小桜インコと遊びながら・・・可愛いな・・・とか思考してないで、知覚で・・・可愛いのです。そんな感じです。不注意というわけではありません。ふだんは、思考が止まってるのに、思考が止まってることに、気がつかないでいるから、ずっと続いてるように感じてるだけなんです。

なんだか変かもしれませんが、思考よ止まれ、と言葉にして思っても、つまり思考しても・・・思考は止まります。もともと途切れ途切れですから、それができるのかもしれません。で、思考を止めて、あれは冷蔵庫の音だとか、空想を止めて、ただ音を聞く、です。まあ、思考があろうがなかろうが、かまわないのですが、思考が静まってれば、やりやすいと思います。

No.2805 - 2010/11/01(Mon) 21:27:04

Re: 音の実験について / あすか
>ところで今回の話は、物理的に「音が頭の中で聞こえる」という話をしているのではなく、心理的に(心理的に頭の中で音がするというのはよく意味が分りませんが)という話をしているのですか?

二つの識別の話ではなくて、何でもない日常の話です。
したがって、先に説明した、次のような場合のこと。

>>そのうち、忘れて、聞く人が消えているとき、意識せずに音が聞こえているでしょう。

距離の識別をわざわざ意識していないときの話です。

>視覚的にも区別がつかないと言った経験は全くありません

もちろん、物理的には、目の前の子どもと、区別はできるのですが、わざわざ距離を意識していないときはありませんか?
心理的に、差別、区別がなくて、距離、分離を意識していないとき、身内だとか他人だとかも意識していないとき。
ただ、見ている、ただ、注意があるだけみたいな。
全体が一つの関わりの中の動きとして、親密に見えて、かかわっているだけのような。

>> あるいは、ただ、音楽が頭の中で響いていて、ただ感じているような。

>うーん これは微妙な感じですが、あまりピンときません

このあたりが近いかな?

No.2806 - 2010/11/02(Tue) 08:09:20

Re: 音の実験について / 通りすがり
ubik0101さん こんにちは

> そうですね 、簡単に言えば、無我、で聞きませんか?です。しかし、それでは、とりあえずのですが、無我を経験するための実験ですから、それができれば文句はないですし・・・なんだかループに陥りそうです。

「無我で聞きませんか」ですか。
私は頭の中で音が聞こえる(物理的に)ということと勘違いしておりました。
ですのでポイントをまた聞きなおさなければなりません。
無我で聞くとは、どういう状態になれば、無我で聞いたことになるのでしょうか?
そして、ここで無我で音を聞く意味とはなんでしょうか?

> そこで、通りすがりさんは、思考を止めることができるでしょうか?たとえば・・・(A)あいつが、あんなことを言ったから、俺はこう言ったとか・・・怒って心理的に闘ってる思考。それと・・・(B)ただ頭の中を言葉が流れてるという意味での、思考。
>

Aの時、ですが、どれくらいのめり込んでいるかによって違います。
Bもそうですね。

> この (A)は論外ですが、 (B)を止められるでしょうか?と言っても、人は、ずっと思考してるのが当たり前と思われるかもしれませんが、実は、途切れ途切れなのです。意図しても止まります。それが、たとえば・・・あれは時計の音だ・・・とかなどの空想をせずに、ただ聞く、ということです。

ここで言われている、「空想しない」、とはようは五感による知覚にとどめて、概念化しないという意味でしょうか?
仮にそうだとして、ただ聞くことの意味はなんでしょうか?

>
> たとえば、すー、と息を吸います。その感覚に注意します。そのとき思考を止めようとしなくても、止まってることに気がつく、という感じです。たとえば冷たい水に触るとき、ガシガシ歯を磨いてるとき、玄関で靴を履くとき、視線を花からコップに移すとき・・・
>
> あるいは、いまubik0101は、パソコンしながら、2羽の小桜インコと遊びながら・・・可愛いな・・・とか思考してないで、知覚で・・・可愛いのです。そんな感じです。不注意というわけではありません。ふだんは、思考が止まってるのに、思考が止まってることに、気がつかないでいるから、ずっと続いてるように感じてるだけなんです。
>
> なんだか変かもしれませんが、思考よ止まれ、と言葉にして思っても、つまり思考しても・・・思考は止まります。もともと途切れ途切れですから、それができるのかもしれません。で、思考を止めて、あれは冷蔵庫の音だとか、空想を止めて、ただ音を聞く、です。まあ、思考があろうがなかろうが、かまわないのですが、思考が静まってれば、やりやすいと思います。


「思考よ止まれ」といって思考がとまるのですか?
それは便利ですが・・・
やってみましょう

No.2808 - 2010/11/02(Tue) 09:55:02

Re: 音の実験について / 通りすがり
あすかさん どうもです。

> 二つの識別の話ではなくて、何でもない日常の話です。
> したがって、先に説明した、次のような場合のこと。
>
> >>そのうち、忘れて、聞く人が消えているとき、意識せずに音が聞こえているでしょう。
>
> 距離の識別をわざわざ意識していないときの話です。
>


「聞く人が消えている時」と言うのがピンときませんねぇー。
「距離の識別をわざわざ意識していない」というのは、割と日常的だと思います。
現に今も色々な音が聞こえますが、距離を特に問題としていませんので。

> もちろん、物理的には、目の前の子どもと、区別はできるのですが、わざわざ距離を意識していないときはありませんか?

物を見るときに、特に距離を意識することは、あまりないように思いますが・・・

> 心理的に、差別、区別がなくて、距離、分離を意識していないとき、身内だとか他人だとかも意識していないとき。
> ただ、見ている、ただ、注意があるだけみたいな。
> 全体が一つの関わりの中の動きとして、親密に見えて、かかわっているだけのような。
>


心理的に区別がないと言うのはよく分りませんし、「全体が一つのかかわりの中で云々」と言うことは思いつきません


> >> あるいは、ただ、音楽が頭の中で響いていて、ただ感じているような。
>
> >うーん これは微妙な感じですが、あまりピンときません
>
> このあたりが近いかな?


こんな感じを色々と説明されたと言うことでしょうか?

No.2809 - 2010/11/02(Tue) 10:02:11

Re: 音の実験について / ubik0101
> 「無我で聞きませんか」ですか。
> 私は頭の中で音が聞こえる(物理的に)ということと勘違いしておりました。


たとえ話ではなく、実際に、頭の中で聞こえる。ということです。そのためには、思考がないほうがいいので・・・ただ聞く、という意味です。

> ですのでポイントをまた聞きなおさなければなりません。
> 無我で聞くとは、どういう状態になれば、無我で聞いたことになるのでしょうか?
> そして、ここで無我で音を聞く意味とはなんでしょうか?


その音だけが知覚されてる、という意味です。すごく大雑把に言うと、音を知覚してる、その知覚者がいない、ということです。この、知覚者がいない、というのを、よく見ると面白いのですが・・・とりあえずは省いていいでしょう。

または、ちょっと面倒なのですが・・・一冊半しか読んでいませんが・・・クリシュナムルティで言えば・・・「見るものは、見られるもの」です。

これは世界の有り様とは違うのですが・・・見るものは見られるものでも、見るものは見られるものではない・・・その両極端ではない・・・仏陀の言うように、中道・・・が事実です。

が・・・「見るものは、見られるもの」としても機能します。そう機能してる、それならば、無我、です。こんなことも、とりあえずは省いていいです。

> Aの時、ですが、どれくらいのめり込んでいるかによって
> ここで言われている、「空想しない」、とはようは五感による知覚にとどめて、概念化しないという意味でしょうか?


ただ、空想しない、ただ思考しない。この意味でなら、そうです。

> 仮にそうだとして、ただ聞くことの意味はなんでしょうか?

たぶん、上記で説明してると思います。無我なら、そのように聞こえる、ということです。

なんにしても、思考を止めて、音を聞けばいいだけのことです。それと実験としては、大音量で音楽を鳴らす、それで、聞いてる自意識(知覚者)から注意を外す、吹き飛ばす、というのも可能ですが・・・機会があったら、やってみてください。

> 「思考よ止まれ」といって思考がとまるのですか?
> それは便利ですが・・・
> やってみましょう

No.2811 - 2010/11/02(Tue) 11:01:33
(No Subject) / 雄大
架空の対象でしかない、ある観方から顕れる錯覚である私。

その私の確かな実感が世界の実感を与えているので、私が落ちれば世界は落ちる。

方便として1つの対象を選んだ。例えば音だ。別に視覚であってもよいし、触覚であってもよい、何故ならすべては触覚の延長だからだ。

しかしマインドはイメージより音のほうが抽象性が高く、触覚は時間が分かりにくいので音を選んだ。

それ自体で存在しない音をあるように仮設して集中する。

それ自体で存在しない私を理解するために。

音に対する集中で様々な体験をするかもしれないししないかもしれない。
その途中の変化にとらわれる人が多いけれど、来ては去るものに心をとどめる者はこの旅は始めからしないほうがよい。

旅の始めと終わりで顕れるものは何ら変わるところがない。
ただ錯覚である理解がある。

この理解は1つの身体に属するものではない。
全てに属する、むしろあなたがあると言う世界の全てが理解に属している。

そういう意味では少しずつとか段階的である理解は、それではなく単なる結論であり、次の体験を求めて心は彷徨い続ける。

体験を消費する欲求は自然のものだが、体験者と対象を結婚させる可能性は世界を超えている。

飽きるまで求めればよいのだ。出る必要のない入口に立っているのだから。

音を使う瞑想は様々な音楽を使う、それは方便としての段階と目的を持っているので、口伝がある。

音楽は魂を癒すための薬なのだから当然かもしれない。
マインドは時間、マインドは音、だから順序があり口伝がある。

でも口伝が返って邪魔になることもあるし、それが無くてはならないわけではない。

理解はマインドを超えている。
一個の身体に宿るものではなく、心の状態ではないと何時も心に留めて置く事だ。

気づき、隙間、無、三昧が認識可能なら、来ては去る非恒常性の中で一瞬ン花開いたように見える錯覚なのだから。

ないものを夢見て求めることなくあるものを理解するのが最短なのだ。

時間軸を左右に触れたり、空間軸を縦に触れたり。
もちろん正しいのは振れるでなく振れるが正しい。
時間空間を超えた理解は見る者の場所を提供しない、其れはそれなしでは顕れないから。

つまりスターバックスで1杯目のコーヒーを今から注文するために、しかし未だ部屋でこうしてパソコンを打っている状況は文字化するゆえにバラバラの固有の者で構成され、、、、、。

独り言を続けたいがトイレに行きたくなったので止めます。

敬具

No.2789 - 2010/10/31(Sun) 11:19:17

Re: / 通りすがり
雄大さん こんにちは

> 架空の対象でしかない、ある観方から顕れる錯覚である私。
>
> その私の確かな実感が世界の実感を与えているので、私が落ちれば世界は落ちる。
>


これは私にレスを付けてくれたのですかね?
まあどっちでもいいのですが、ちょっと質問です。

ここで雄大さんが言われている「私」ですが、私(通りすがり)は「私なる実感」と言うものがよく分らないのです。

例えば、本屋で本を読んでいる時に、後ろからぶつかられた時に、私はむっととします。
このような時、よく言われるのは、「私が、ぶつかられることによって、傷つけられたと感じたから、むっとしたのだ」と説明されます。

それはそうかもしれません。しかし、私には、このような場合に傷つけられたとする「私」なるものが、よく分らないのです。
私が鈍感なせいもあるかもしれません。
腹立たしさは確かに感じるのですが、「私」と言う感覚はよく分らないのです。
しかし、「世界」という実感は感じるのです。
つまり

> その私の確かな実感が世界の実感を与えているので、私が落ちれば世界は落ちる。

と言うことがよく理解できないのです。
私は何か見当違いをしているのでしょうか?

No.2810 - 2010/11/02(Tue) 10:21:03
(No Subject) / hato

ヤフー掲示板の話が出たのですこし。

愚さんとお会いしたのは、たしか、露草が咲く頃だったでしょうか。こちらとても楽しみに、新宿の繁華街、早めに着いてしまって、店の向かいのスタバで時間を待ちました。

この風変わりな夫婦。高くとまってる風なおっさんと、ちょっと、可愛い、ノータリンな奥さん。と受け止められたでしょうか。ubik0101さんの無礼に、それもいいんだ、と許して頂いたのかも知れません。あちこち携帯連絡が入って忙しそう。人気者の、愚さん。そんな日中の会食を思い出しました。


自分が提案した、良い悪い、ではない、善いを。
について、返答はいまいちだったけど、

なにより、変化の体験が、その意識世界、すなわち、緯系の表現に於いて起きた場合、そこを超えていくことは簡単ではないのでしょう。意識とは世界に限定されている故に、そして、その意識に依存して成立した変化である故に、難しいのです。

ここで起きる意識の高まりを自己、さらにはそれ、に向けて、十分静かにもう一歩踏み込み徹底理解することは、一大事といわねばなりません。頭脳明晰であっても、世事の片手間、というわけにはいきません。それなら、顛倒です。またそれは、なにか処世術にはなりません。世間を上手く生き抜くための知恵とも、無関係です。

総てはひとつ、といわれるとき、その体験は、世界の総てを収斂されるように感じとれるゆえに、満足されるのかも知れません。本気でなければ難しいということは、ある意味ここから、と言えるのです。

或いは生死、その他の件について折々に正しい境を見出せず、見出さないことを多くよし、と見ることは、そのままではどこか危うい、というのは、はっきりと、そういうことでは、ないからです。そうした場合、表現は、諸所にどうしても、誤らざるを得ないかも知れません。

言葉は、人の変化が十全に全うされたときに、本来に沿い正確に置かれることができる、可能性を見出すことができます。

たとえばこのサイトで、言葉は非常に注意深く使われます。一字一句が命懸け、とはその意味です。可能な限り、おざなりにあることはありません。というより、できない、のです。言葉にできないんだ、では済みません。そのようにできているわけでは、ないからです。

世界とは、総てを孕んで尚、素敵。
もちろんいつだって、提案でしかないのです。


涼しくなってきたけれど、子メダカ順調に発育中です。
この大鉢。小さな車に乗せて、一緒にかついで据えました。

No.2786 - 2010/10/31(Sun) 01:22:04

こんばんは / peer
表現できる、ということは、理解している。
ということでもあるかな〜と思ったり。
突き詰めていって言葉では表現しきれない。
そんな言葉の限界が・・・ある?。
そこを超える。と別の地平が見える?。
どうなのかな〜とかとかとか。
結論がない。です。

前回、写真を載せたアレは、あれから葉のついた枝が
全部落ちてしまって、そのまま枯れてしまうのかと
心配したのですが、また新しい芽が出て
こんな具合に再起してくれました。

これから冬に向けて・・・また心配です。

No.2788 - 2010/10/31(Sun) 02:15:44

Re: / ubik0101
たとえば、言葉で表現はできても、理解してない、ということもあります。霊感とか感覚で、事実を語ることもあります。なんとも言い得ないことを、言葉にできてることもあります。たとえば。三好達治。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ

その人が、それを見たままを話してるかは、響きで、雰囲気で、文章構成で判るというのもありますが、それが絶対とは言えません。 聞く人が判らないだけということもあります。

そいうこと総てを含んで、逆説的に説明すると、だから理解を、言葉で正確に表現できます。 それにしても、なにかを話してると、その大前提は・・・数学の公理のように・・・問題にならないほど疑わないこと、となってるのですが・・・理解とは?、表現とは?どいうことか、このへんを探ると面白いかもしれません。

とても山椒は丈夫なんですが、育てるのは難しい、と言う人もいます。たしかに夏にいったん落葉して、ちょっとだけ葉がでても・・・次の春には新芽がでないので、枯れたことが判る・・・ということもあります。 でも、たぶん、これだけ葉が繁ってれば、大丈夫だろうとは思います。

No.2790 - 2010/10/31(Sun) 12:19:37

Re: / peer
>たとえば、言葉で表現はできても、理解してない、ということもあります。

>それを見たままを話してるか・・・ 聞く人が判らない

言葉で理解していても行動で理解していると思っていても
じつは、なんにも理解していない。ということもあるようです。
自分を理解しているつもりで、ちっとも知らない。
無明というようなこと。も、あるし。

たとえば、愚さんが、
「ああ、あなたがわかってないことはわかった・・・だから悪いってわけじゃ
ないんだ・・・せっかくいろいろ考えているのはわかるし、それは
それで意味があるんだ・・・」
「ただ、まったく別の地平があるんだ・・・」と書きます。
そのことを言っているのかな〜。
なにが書かれているかは、書かれる前に相手が何を見ているかを
知る必要もあるようで。相手がどこにいるのか、とか。

まっ。hatoさんの
>言葉は非常に注意深く使われます。一字一句が命懸け

は、わたしてきには、言った言葉に対して、責任を持つ。
言ったことをナシにはしない、言い換えで誤魔化さない。
そんな感じ。どんな言葉も、「いま」に正直に。

山椒・・・つぎの季節に芽吹こうと準備している芽。が
季節を待たずに芽吹いてしまう。すると春に芽吹かない。
なんてことになるのかしらん〜山椒は初めてなので・・・
研究してみます。

No.2796 - 2010/11/01(Mon) 14:31:11

Re: / ubik0101
その「それを見たままを話してるか・・・ 聞く人が判らない」というコメントを書きながら・・・愚さんの姿勢を空想したと訪問者さんに思われるかな・・・と、ちらと感じましたが、とくに何かを想定したわけではなく、主なケースを網羅したかったのです。

それで。なにかを体験してても、まだ意識に教えてない、だけ・・・たぶん、これを言葉で表現できないと言ったりすることもあるでしょう・・・とかいうことを、書き忘れたのが、気になっていました。

>言葉で理解していても行動で理解していると思っていても
>じつは、なんにも理解していない。ということもあるようです。
>自分を理解しているつもりで、ちっとも知らない。
>無明というようなこと。も、あるし。


ま、基本的には、なにも理解してないです。理解できることなどないです。知らない、のです。なんでもいいですが、たとえば、いま秋の夕暮れです。それが見える・・・どこかの犬の鳴き声、それが聞こえる・・・思考する・・・なんであれ、総て、なんであるか、まったく知らない、です。

もちろん自我だろうが、無我だろうが、まったく知らない、です。 ほかの言い方では、これは何?です。もっと言うと・・・これは、これ、でなくてもいいのに、これ、です。この日常が神秘です。ぶちゃけた話、あんまり機能してないけど、葛藤だって、神秘です。ということは、それだからこそ・・・この世界に依存しない、依存できない・・・それが世界の機能です。

>なにが書かれているかは、書かれる前に相手が何を見ているかを
>知る必要もあるようで。相手がどこにいるのか、とか。


そうですね。とりあえず、KB会の映像、これを言いたい、という部分を見てみましたが・・・つまらないです。こんなことを思いました。↓

ある重病人が、集まった友人や家族に「ちょっと部屋から出ていてください」と頼んで・・・その友人や家族が戻ってきたら、死んでた。そうです。

また、一人暮らしの人の家を訪ねたら、仰向けで胸の前で手を合わせたまま・・・死んでた。そうです。

まあ、死に方なんかどうでもよくて。昨日も明日もないのに、どう死のうなんて、どうしてもと言われなければ空想しないけど・・・じたばた死のうが、ただ死ぬとき死のうが・・・その死につつある自分を、できれば観察するだろうし・・・どう違うというのだろう。でも、いわゆる自我の死と、身体の死とは、おなじことになると、いいな。

こんな手の届かないところの柿は、野鳥の取り分です。

No.2797 - 2010/11/01(Mon) 16:03:44

Re: / hato

pc教室から帰ってきて、柿、よい頃のをいくつか採って、
知人の家に、お土産に置いてきました。

山椒、楽しみですね。
木々や、鳥も猫も冬支度で、
こちらの山椒もだいぶ、葉が落ちて、初冬を感じます。

No.2804 - 2010/11/01(Mon) 21:13:23
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