架空の対象でしかない、ある観方から顕れる錯覚である私。
その私の確かな実感が世界の実感を与えているので、私が落ちれば世界は落ちる。
方便として1つの対象を選んだ。例えば音だ。別に視覚であってもよいし、触覚であってもよい、何故ならすべては触覚の延長だからだ。
しかしマインドはイメージより音のほうが抽象性が高く、触覚は時間が分かりにくいので音を選んだ。
それ自体で存在しない音をあるように仮設して集中する。
それ自体で存在しない私を理解するために。
音に対する集中で様々な体験をするかもしれないししないかもしれない。 その途中の変化にとらわれる人が多いけれど、来ては去るものに心をとどめる者はこの旅は始めからしないほうがよい。
旅の始めと終わりで顕れるものは何ら変わるところがない。 ただ錯覚である理解がある。
この理解は1つの身体に属するものではない。 全てに属する、むしろあなたがあると言う世界の全てが理解に属している。
そういう意味では少しずつとか段階的である理解は、それではなく単なる結論であり、次の体験を求めて心は彷徨い続ける。
体験を消費する欲求は自然のものだが、体験者と対象を結婚させる可能性は世界を超えている。
飽きるまで求めればよいのだ。出る必要のない入口に立っているのだから。
音を使う瞑想は様々な音楽を使う、それは方便としての段階と目的を持っているので、口伝がある。
音楽は魂を癒すための薬なのだから当然かもしれない。 マインドは時間、マインドは音、だから順序があり口伝がある。
でも口伝が返って邪魔になることもあるし、それが無くてはならないわけではない。
理解はマインドを超えている。 一個の身体に宿るものではなく、心の状態ではないと何時も心に留めて置く事だ。
気づき、隙間、無、三昧が認識可能なら、来ては去る非恒常性の中で一瞬ン花開いたように見える錯覚なのだから。
ないものを夢見て求めることなくあるものを理解するのが最短なのだ。
時間軸を左右に触れたり、空間軸を縦に触れたり。 もちろん正しいのは振れるでなく振れるが正しい。 時間空間を超えた理解は見る者の場所を提供しない、其れはそれなしでは顕れないから。
つまりスターバックスで1杯目のコーヒーを今から注文するために、しかし未だ部屋でこうしてパソコンを打っている状況は文字化するゆえにバラバラの固有の者で構成され、、、、、。
独り言を続けたいがトイレに行きたくなったので止めます。
敬具
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No.2789 - 2010/10/31(Sun) 11:19:17
| ☆ Re: / 通りすがり | | | 雄大さん こんにちは
> 架空の対象でしかない、ある観方から顕れる錯覚である私。 > > その私の確かな実感が世界の実感を与えているので、私が落ちれば世界は落ちる。 >
これは私にレスを付けてくれたのですかね? まあどっちでもいいのですが、ちょっと質問です。
ここで雄大さんが言われている「私」ですが、私(通りすがり)は「私なる実感」と言うものがよく分らないのです。
例えば、本屋で本を読んでいる時に、後ろからぶつかられた時に、私はむっととします。 このような時、よく言われるのは、「私が、ぶつかられることによって、傷つけられたと感じたから、むっとしたのだ」と説明されます。
それはそうかもしれません。しかし、私には、このような場合に傷つけられたとする「私」なるものが、よく分らないのです。 私が鈍感なせいもあるかもしれません。 腹立たしさは確かに感じるのですが、「私」と言う感覚はよく分らないのです。 しかし、「世界」という実感は感じるのです。 つまり
> その私の確かな実感が世界の実感を与えているので、私が落ちれば世界は落ちる。
と言うことがよく理解できないのです。 私は何か見当違いをしているのでしょうか?
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No.2810 - 2010/11/02(Tue) 10:21:03 |
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