言葉の限界、論理の限界を理解するためにギリシャ人は思考を純化したのではなかったのか。
それは思考を排除しないし何も排除しない、それがなければ何も顕現しないからだ
科学と一口に言っても、誰にでも検証可能(それなりの努力は必要だが)な物理学のような純粋科学と立ち位置で変化する歴史学のようなものをごちゃ混ぜにして総称しているわけだから、単なるイメージや連想を与える単語、音に過ぎないではないのだろうか。
私がいるから世界が現れるのか、世界が先なのかその2つが顕れては消える、あると言えばある私を、私は私とは呼ばない。
そのように愛、意識、世界といった抽象概念は文脈により意味を変えていく。
だからグルジェフはどのレベルでの単語の意味なのかを先に決めておいて会話すべきであると言ったのだ。
まずそれ以上疑ってはならないルールを勝手に決めておき、それに基づいて原因結果という物語を創る作業が科学、
しかしそれらは観察者や観測機器、ナーガルジュナの時代なら感覚器官に依存する。
このように考えれば便利だと不都合なものを排除し、これ以上は今のところ分からないし、この結論は明日になれば変る、だから絶対的、永遠の真理などではなくあなたの心と同様に移り変わる結論が科学なのだ、なんてね。
観察対象は観察行為と観察者から切り離されたものではなく、描写は描写されたものではないと言うのなら、言語化、会話することに何の意味があるのか、意味などないしあると言えば全てに対してあるカルマと似たようなものかもね。
どうしたら?とか何とかしようと選んだ後に抵抗する習慣をまずよく観察る事だよね。
朝から子供がモンスターハンターをしているんで、ちゃんと音読しなさいと言った。
カタカムナヒビキマノスベシアシアトウアンウツシマツルカタカムナウタヒヤタノカカミカタカムナカミフトタマノミコトフトマニニイハトハニカミナリテカタカムナヨソヤコトホグシウタヒフミヨイマワリテメグルムナヤコトアウノスベシレカタチサキソラニモロケセユウェヌオヲハエツウィネホンカタカムナ
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No.2773 - 2010/10/30(Sat) 10:26:09
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