| たとえば渦巻く暗雲に隠れてても、おなじように富士山は見えません。これも、知覚にとって、ない、です。なので暗雲が晴れたら富士山が見える・・・しかし、この表現では、自我の喩え、としては適切ではありません。
そうでなく、そこに暗雲が渦巻いてるから、その起因となる富士山が、ある、のだろうと、空想させる・・・そのように感覚や感情や思考の機能が活動してる、です。ほかの言い方では、そのように行動、発言、思考が機能してる。です。 つまり自我は虚構であり、ある、振りをしてる、ない、ではないでしょうか。
ない、自我は、知覚できない、知覚できるのは、渦巻く暗雲だけではないでしょうか。 そこで、たとえば、そこに富士山がなくても、暗雲が渦巻いていれば、富士山を示すという・・・富士山に登って、ない、のに富士山があると・・・思い違いするのが問題かもしれません。そして、この、ない、は・・・富士山に登ってるから、それを知覚できないという意味での、ない、と同じとは言えません。
もし人が始めから、そうだということに気付くだけなら、それを知ってたら迷うはずがない、それを忘れるはずがない、と思われます。ま、始めからそうだった。自我は虚構だと見破った、そのとき与えられる。どっちでもいいのですが、どちらかひとつではないと思います。どちにしても、自我は、ない・・・自己は、ある・・・その、ない、ある、どちらも知覚できないけど、違うものは違う、という感じです。
それで、まるで始めから理由もなく、そうであった。というほど、その変化は完全になされるのではないでしょうか。自覚でき、ない、自我を通じて、自覚でき、ない、自己に。ではないでしょうか。
続きます。
|
No.2725 - 2010/10/19(Tue) 22:20:03 |