無常なる対象を通じて知る、その時知る者はいない、其の時でない時でさえ者はいない、其の時、あの時はない、この場所あの場所もない、一時の現れを物象化させる時、世界と観察者が現れる。
もともとそれ自体で独立したものなどあった事などないのだ。
世界は観察者と共に現れる、どちらもそれらを超えたもの、それらと不二の一時的な現れ。それでも何か超えたものがあるわけではない。 好みと習慣から来る観方が仮初の世界を形作る
あるといえばあるよう、ないといえばないよう、、、 言葉からこぼれ落ちるものに支えられて見落とし続ける夢から覚めたくはない。
現れの意味を問わず、選ばず。 恐怖と欲望の発明品に騙し続けられるのは、体験したいという軸を残す故に。
お腹が空いたので伊勢うどんでも食べようかと冷蔵庫を探したが何もなかった。空振りした気持ちの意味を問うことなかれ。
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No.2710 - 2010/10/13(Wed) 01:16:29
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ない・・・知覚の範疇にないことを、そう呼ぶことがあります。あくまで例え話ですが、世界が回転してるのに、その音はしない、です。その、ない、が朝で、昼で、夜で、星々で、この秋の気配で・・・風はざわめき、鳥は鳴き、人は御飯を食べ、誰かと話して、思考します。
そのように、 どこかで書きましたが、超高速回転する理想エンジンは、無音、です。知覚の範疇にないことは、あるとかないとかではないけど、この日常、自我が完成して知覚が十全に機能してることを、観察者が、ない、と呼ぶようです。
また、そうならば、自分で自分を知覚できない、ということを意味します。これは実情に合うのですが、それは、あるない、の範疇にない、ということは紛らわすことはできないです。観察者が現れるのは、自分で自分を知覚できそうな気がするだけの、機能不全。ない、自我が、ある、として機能する。ではないでしょうか。
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No.2712 - 2010/10/13(Wed) 15:36:03 |
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