[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
いま現状のままがいいと思うとき、
実は、この思いは、継続的な思考の連鎖を当てにして、その手段で時間をうずめることで、維持を図ろうとしている?
うまく維持されるような、その思考、その時間は、そもそも、あるのかな、ないのかな?

No.2639 - 2010/09/12(Sun) 06:19:19

Re: 維持の手段である思考=時間? / ubik0101
「いま現状のままでいいと思っている」・・・のでないとき・・・その「いま現状のままでいいと思っている」思考は・・・あるのかな、ないのかな?
No.2640 - 2010/09/12(Sun) 08:02:11

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
そのときは、何かで忙しくて他の事をしている感じのときとかあるし、
疲れるなど、一時的には、そのひとつの思考が休んでいることもある。
あるいは、表現として、そのひとつの思考はないとき、つまりその思考がある…のではないとき、表現としては、別の思考がある、さまざまなものがあるということで、しかし、満足を、時間を維持しようとしているような。

No.2641 - 2010/09/12(Sun) 08:23:49

Re: 維持の手段である思考=時間? / ubik0101
そ、いうことなら日常的に・・・なにかの思考をしてるわけです。その、なにかの思考をしてないとき、その、なにかの思考は、あるのかな、ないのかな?という質問です。
No.2643 - 2010/09/12(Sun) 09:43:34

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
あ、他のことをしたり、その思考が休んでいるときも、日常的に…なにかの思考をしているというわけですか?
別のとき、場面では、満足、時間の維持を図ろうなどとして思っていれば。

No.2645 - 2010/09/12(Sun) 16:01:52

Re: 維持の手段である思考=時間? / ubik0101
たとえば、「あ、他のことをしたり、その思考が休んでいるときも、日常的に…なにかの思考をしているというわけですか? 」と、思考してないとき に、「あ、他のことをしたり、その思考が休んでいるときも、日常的に…なにかの思考をしているというわけですか? 」という思考は、 あるのかな、ないのかな?という質問です。

もっと簡単に言えば。怒ってないとき、その怒りは、あるのかな、ないのかな?という質問です。

こういうことは、自分の奥深く、深く、深く・・・一人で真摯に探求すべきことです。

No.2647 - 2010/09/12(Sun) 20:04:33

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
…と、思考してないとき に、
…という思考は、あるのか、ないのかな?

という質問ですか。
ないと言っているのに、ある、ないを聞くので、そのままの質問としては、質問の意味を理解できませんでした。
答えてみましょう。
その思考が組み立てられ実働しているときに、その思考は、現象的にあります。
そして、それを画面に記入して、相手に返事をゆだねたら、一時的に、表面的には忘れます。表面的には、ない。
しかし、その質問をしたことは覚えていますので、なにかのきっかけで、思い出すとき、出てきます。
記憶にはその思考はあったと言えます。
思い出すとき、表面にもあります。
画面と合わせて、以前のものと合っていると言えます。
あるいは、実は、たいていのことは、すっかり忘れます。表面にも記憶にもその思考はない。
ただし、似た場面で、似た発想の、似た疑問の思考を構成することができます。


怒っていないとき、怒りはあるか、ないか?

怒るときには、思考だけではなくて、行動もありますが、思考だけを取り上げましょう。
怒っていないという、判断がありますね。
それが怪しいですが、事実に基づいて、できるとしましょう。
つまり、とりあえず、いまは、何かに関して、ある面から、けしからんとか結構だとか、感情的になって苦闘していなければ、怒っていない。
そのときその場は、何かがないとか、ある面から見ていないとか、そういう場合。

さて、返事は、上記の…と思考していないとき、その思考はあるかないか、の検討と、同じであって、違いはないですね。

No.2651 - 2010/09/12(Sun) 21:10:57

Re: 維持の手段である思考=時間? / ubik0101
どの投稿?宸ナ、誰が、なにが「ないと言っているのに」でしょう。

ある思考が現象するとか、記憶にあるとか、忘れるとかいう機能のことではなく・・・とある思考をしてないとき、その思考は、あるかないか?という質問です。

No.2653 - 2010/09/12(Sun) 22:39:50

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
2653
>どの投稿・で、誰が、なにが「ないと言っ>ているのに」でしょう。

おや、お互いのコミュニケーションの問題ですね。

2647 2643 2640 で、ないと言っている
>>>…と、思考してないとき に、
>>>…という思考は、あるのか、ないのかな?


一連の質問です。それに関して、

2641 2645で答えてみましたが、
さらに2651
>>という質問ですか。
>>ないと言っているのに、ある、ないを聞くので、そのままの質問としては、質問の意味を理解できませんでした。
>>答えてみましょう。


以上です。誰が、何を、は問題ではなくて、その内容、言っている意味が問題なのでは?

さて、

>ある思考が現象するとか、記憶にあるとか、忘れるとかいう機能のことではなく

そうですか。
ある場面で、その思考の反応がないとき、ある考え方を忘れている、覚えていないとき、思考してない、思考がないということではない?


>・・・とある思考をしてないとき、その思考は、あるかないか?という質問です

ある思考が現象していない、記憶にないときと、ある思考をしていないとき、の意味の違い、起きていることの違いを説明しないと質問の意味がわからない、
コミュニケーションがまだ成立していません。

No.2655 - 2010/09/13(Mon) 07:37:38

Re: 維持の手段である思考=時間? / ubik0101
>ある思考が現象していない、記憶にないときと、ある思考をしていないとき、の意味の違い、起きていることの違いを説明しないと質問の意味がわからない、

しかし「ある思考が現象するとか、記憶にあるとか、忘れるとかいう」ことは、ubik0101が提起したことではなく、投稿No.2651で、通りすがりさんが提起したことです。

>その思考が組み立てられ実働しているときに、その思考は、現象的にあります。
>そして、それを画面に記入して、相手に返事をゆだねたら、一時的に、表面的には忘れます。表面的には、ない。
>しかし、その質問をしたことは覚えていますので、なにかのきっかけで、思い出すとき、出てきます。
>記憶にはその思考はあったと言えます。


などと、あります。もしかして自分と、自分の思うこととのコミュニケーションが成立してないのは、通りすがりさんではないでしょうか。

それはともかく。とある思考をしてないとき、その思考は、あるかないか?という質問です。自我と無我の説明が判るなら、それは、ある、または、ない、で答えられることです。または、これが自分のこととして判るなら、ほとんどの疑問は解決だから、しつこく聞いています。

No.2657 - 2010/09/13(Mon) 10:29:35

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
とある思考をしていないときに、その思考はあるかないか?

質問の意味が、私なりにわかる範囲では、繰り返すと、答えは次の通りです。
いま思っていないとき、表面現象的にその思考はない。
覚えているものは、関連があるとき、思い出すので、そのとき思考として表面に出でてくる。
忘れたり、覚えてないとき、記憶された思考もないので、もちろん表面に思考はない。
ただし、関連のある事柄には、組み立てて思考がつくり出されるということはある。



自我と無我ついての説明は、わかりますが、別項目で説明したように、問題点を含んでいませんか。
つまり、いい悪い、不満満足などの起きていることについて、勝手に時間と命名するような、余計な、わざわざの思考を自我としたわけですね。
また、もう一つ、いい悪い、不満満足に含まれる思考を介して、現実がいま見えるようなものに、いい悪い、不満満足のものになっている、思考があるという意味で、その思考もまた、わざわざの思考であって、自我なのではないですか。
しかし、わざわざの思考なしに、命名なしに、自我なしにものごとが見れらている無我の中には、怒りと名づけてきたものは、実は変容して、別の状態があるのではないですか? 不満、満足も変容したものになっている。
そして、さらに、不満満足の中で動くのではなく、それは置いておかれて、不満満足の思考がもたらすもの、事実が見られている。それを言葉にすると、言葉にしなくても、たとえば、思考=時間ということであるが、それはわざわざ思考した、苦闘の中の自我には属さない。事実そうだというだけ。

これは自分のこととして、よくわかるので、
思考=時間についての話を、興味がおありのようなので、話題を出してみたわけです。
何だかお互いに同じことを話しているのかな?
何か疑問がおありでしょうか?

No.2659 - 2010/09/13(Mon) 12:51:48

Re: 維持の手段である思考=時間? / ubik0101
> とある思考をしていないときに、その思考はあるかないか?
>
> 質問の意味が、私なりにわかる範囲では、繰り返すと、答えは次の通りです。
> いま思っていないとき、表面現象的にその思考はない。
> 覚えているものは、関連があるとき、思い出すので、そのとき思考として表面に出でてくる。
> 忘れたり、覚えてないとき、記憶された思考もないので、もちろん表面に思考はない。
> ただし、関連のある事柄には、組み立てて思考がつくり出されるということはある。


そんな意識の範疇に答えはありません。しかし、ある、ない、で答えられます。ま、楽しみに。というところです。

> 自我と無我ついての説明は、わかりますが、別項目で説明したように、問題点を含んでいませんか。
> つまり、いい悪い、不満満足などの起きていることについて、勝手に時間と命名するような、余計な、わざわざの思考を自我としたわけですね。
> また、もう一つ、いい悪い、不満満足に含まれる思考を介して、現実がいま見えるようなものに、いい悪い、不満満足のものになっている、思考があるという意味で、その思考もまた、わざわざの思考であって、自我なのではないですか。


それは、自我の機能、と呼んで言います。自我(そのもの)は、ふつうには知覚不可能です。それが人の行動、発言、思考、として現れることで・・・葛藤も軋轢も平穏もあるでしょうが・・・自我を知覚できたような気がする。だけです。つまり「わざわざの思考」がなければ、自我がない、というわけではありません。

> しかし、わざわざの思考なしに、命名なしに、自我なしにものごとが見れらている無我の中には、怒りと名づけてきたものは、実は変容して、別の状態があるのではないですか? 不満、満足も変容したものになっている。

ただ怒りは、ただ怒りです。不満、満足も、不満、満足です。変容すると言うことを、わざわざ言えば、無知が、叡智に転換する、です。

> そして、さらに、不満満足の中で動くのではなく、それは置いておかれて、不満満足の思考がもたらすもの、事実が見られている。それを言葉にすると、言葉にしなくても、たとえば、思考=時間ということであるが、それはわざわざ思考した、苦闘の中の自我には属さない。事実そうだというだけ。

> これは自分のこととして、よくわかるので、
> 思考=時間についての話を、興味がおありのようなので、話題を出してみたわけです。
> 何だかお互いに同じことを話しているのかな?
> 何か疑問がおありでしょうか?


とくにないですが・・・もし、なにかクリシュナムルティの言葉に疑問があったら、聞くかもしれません。ところで。通りすがりさんからの疑問がなければ、必要なら各自が、検討なり、探求すると言うことで、 まあ、話は、こんなところでいいように思います。

No.2661 - 2010/09/13(Mon) 15:48:05

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
新たな疑問はありませんが、感想を述べてみます。
そんな意識の範疇に答えはないとのことですが、そんな意識なのか、違う状態なのか、見分けているわけですね。
それはそうと、単純に質問に乗っかって、答えてみただけですので、どう判断されようと、ご自由に。
それ以上の質問は、私の関心ではありません。

私の言葉で述べると、
不満、満足(自我に)乗っかって、さまざまに意識して動いているのは、自我の機能と呼ぶわけでね。
不満、不安のもたらす事実「自我(そのもの)」は、不安、不満の動きの中にいては(普通には)知覚不能です。知覚できたように思っても違う。

わざわざの思考と、不満、満足の思考は、区別できない、同じ自我の機能だねということ。
このふたつを合わせて、わざわざの思考(自我の機能)と呼んだということ、そこをお間違いなく。
怒りは怒り、不満満足は不満満足というのは、きっと、前の誤解を引きずっていますね。
つまり、怒り、不満、満足という思考、命名を認めた上で、その上さらにさまざまなわざわざの命名、思考があるのかどうかだけを問題にしていませんか?
そうではないといいのですが、

怒り、不満、満足の状態を引き起こすその怒り、不満、満足の思考、(自我の機能)がないときには、怒り、不満、満足と認識され、感じられ(命名され)ていたものは、実は、実験的に、まるで違うものなのです。お分かりでしょうか?
関わり、感じるもの、行動が違う。
怒り、不満、満足によって、エネルギーを使い、ゆがんでいた行動が、新たな観察、感じの中で、その実際のものに気づいていることからの直接の行動が、実はある。
まあ、怒り、不満、満足からの行動こそ叡智の行動のように感じられるが、実は無知の行動であって、思考、命名なしの新たな観察からの行動は、何でもない行動とも言えるが、無知と対比して叡智の行動と言えなくはない。
とはいえ、それなしに、「無知が叡智に転換する」という話を聞いただけでは、事実の事柄としては具体的には何のことかわからない。
しかし、それを聞いても始まらない。
これで、一旦、お終いかな?

No.2663 - 2010/09/13(Mon) 18:14:15

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

春、緑に新芽が吹くまでには、それまでの実りをひとまず、捨て去ることが、必要かも知れません。そうでなければ、初春の芽吹きを見ることはできないでしょう。

その検討。その言葉。誤解を解けるのは、いつだって、その人自身でしかないようです。でも本気でなければ、とても難しいでしょう。

検討されてること自体、というよりも、その人自身が問題であること。正しく転換していない、こと。だからこそ、思考にありもしない幻想を付けることができたり、見当違いの検討をすることになったりします。思考とはただ、機能としてあるでしょう。人は成長して、それを見ることができるだけです。

この世界の要素とは本来、ただそのよう、です。眼耳鼻舌、心意。この、世界。経過を正しく辿るなら、そこからなにひとつ、捨て去る必要がないことを見ます。怒りは怒り。喜びは、喜び。それも人が変化(変容、成長)して、適材、適所にあるだけです。要点とは、正しい場所にあってこそ、意味を成すことができますよ。また、人は成長して、なにか去勢された犬のようになるわけでは、ないでしょう。

検討してるその人が、「検討しているその人が、」「ない。」ことを知ることから始まるしかないかも知れません。そのことを、一人で、正しく知らなければならないでしょう。そしてのち、検討も適材適所にあるなら、大変幸いです。

そうですね。一旦これでおしまいが、いいようです。


メダカが最近卵を抱えているのを発見して、とてもびっくりしています。出先から戻って夜、さっそく鉢を覗いてみたら、あっ!!!アマガエルのエルちゃんが蓮の葉に乗ってる!

漫画みたいな、ホントの話。

No.2664 - 2010/09/13(Mon) 23:30:02

葛藤の思考の正しい場所は? / 通りすがり
>怒りは怒り。喜びは、喜び。

怒り、半面の喜び、快楽、それはそれでよい、何一つ捨て去る必要はないと言える瞬間はあります、比較的に落ち着いて、正しくたどっているという確信と共にいるとき。
それでも、怒り、半面の快楽の最中には、それではよくない、何かを捨てる必要があると感じ行動しています。
相手が悪い、自分が悪いとなります、なんとかして変えなければ。
思い通りにはうまくいかない葛藤、矛盾があります。
しかし、怒りがないと、去勢された犬のようになると、想像し、感じます。そんな成長、正しい場所はごめんだねと思える。

怒りの葛藤には、このようにその思考に矛盾があります。

>要点とは、正しい場所にあってこそ、意味を成すことができますよ。

怒りの、葛藤の思考はどんな場所があるのでしょうか?

No.2667 - 2010/09/14(Tue) 08:14:41

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

> 人は成長して、なにか去勢された犬のようになるわけでは、ないでしょう。

問答無用です。

自分にとって、反面の怒り、反面の快楽、であることは難しいでしょう。本来そうした素材とは、正にそれ自身であるとき、余計な混乱を引き起こすことは難しいのです。不要な継続を生み出すことは、そもそもできません。


> いま現状のままがいいと思うとき、
> 実は、この思いは、継続的な思考の連鎖を当てにして、その手段で時間をうずめることで、維持を図ろうとしている?
> うまく維持されるような、その思考、その時間は、そもそも、あるのかな、ないのかな?


ここで、標題の件について疑念を抱いたその自分。について、一人静かに探求することで、よいのではと思います。

No.2668 - 2010/09/14(Tue) 10:56:35

葛藤の思考の正しい場所は? / 通りすがり
>問答無用です。

では、問答、対話はこれで止めましょう。
とはいえ、それでも生じた思いには返事しておきましょう。

>自分にとって、反面の怒り、反面の快楽、であることは難しいでしょう。

そうですか、でしょうとは曖昧ですが、とにかく、易しいとは言えないですか。
自分にとってという意味はおいておいて、
怒り=反面の快楽のとき、人のしていることに、自分のしていることに、怒るとき、それはそれでよくない、何か一つでも捨て去れ、と思っていませんか?
この点はどうですか?
反面の怒り=満足、快楽を求めているし、思いがかなうと一時的にも、すぐ反面の怒り=満足、快楽を容易に得ませんか?
快楽と怒りは、お互いに反面であって、紙の裏表よりも近く、一緒にありませんか?
あるいは、怒りの気持が一旦落ち着いていると、反面の怒り=満足、快楽の中で、怒ることもあるいまの自分で、それはそれでよい、何一つ捨て去る必要はないと、矛盾したことを、容易に思ってしまうとか。

>本来そうした素材とは、正にそれ自身であるとき、余計な混乱を引き起こすことは難しいのです。

余計な混乱とは、反面の気持を持つ、その行動をとるということですね。
すると混乱と、余計な混乱がありますが、怒り、葛藤は混乱だということですか。

正にそれ自身であるとは何かということが、まだ説明されていないですね。
何かに、あることについて、快苦の片面だけを持とう、嫌なものは嫌なんだと思おうとしても、それができれば正にそれ自身であると言えますが、実は、それはできないことなのではないですか?
怒りの瞬間には、あることにそそられ、しばらくは主張できても、しばらくすると、苦痛が嫌になって、他のことを考えてしまうとか。
あるいは、そのような葛藤、怒りをもたらす、それらの思考が消えている、持ち場がないというのを、怒りについて、正にそれ自身であると言えるでしょう。
そのときは、実は、余計な混乱も、もとの混乱もないのでは?

>不要な継続を生み出すことは、そもそもできません。

葛藤の必要な継続だけがあるということですか。
怒りの思考の持ち場がかかわりの中にないなら、葛藤の必要な継続も不要な継続も、共にない、葛藤ではないのでは?

>ここで、表題の件について疑念を抱いたその自分。について、一人静かに探求することで、よいのではと思います。

いま現状のままがいいと思う、あるいはよくないと思うことについて。
それは、私の分は、私にお任せください。
あなたの分は、あなたがどうぞ。

怒り、葛藤の思考がかかわりの中で、正しい場所を持つのか、あるいは場所がないのか、
思考が絡む部分は、時間的にも環境的にも伝わり、人は似ているので、何か断定だけではなくて、どういう意味か聞かせてもらえると思ったのですが。
では、これで終わりですね。

No.2669 - 2010/09/14(Tue) 12:40:20

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

> 思考が絡む部分は、時間的にも環境的にも伝わり、人は似ているので、何か断定だけではなくて、どういう意味か聞かせてもらえると思ったのですが。
> では、これで終わりですね。



そうです。

残念ながら、現状ではどうしても、その自分にて解決されるしかないとしか言えないでしょう。

怒りと快楽が裏表、或いは反面・・・それを葛藤、として執拗に看做される必要はありません。それはとりあえず見えやすいことのみを取り出して、言及されているに過ぎないのです。そうした状態に固定され、拘泥できるなら、まずはその自分自身(他人ではありません)が、問題です。

本来人は、そのとき怒りはただ、怒りであり、美しいはただ、美しいのです。

変化を正しく経て、初めて理解されることができます。

No.2670 - 2010/09/14(Tue) 15:45:40

葛藤の思考の正しい場所は? / 通りすがり
>残念ながら、現状ではどうしても、その自分にて解決されるしかないとしか言えないでしょう。

そういう現状だという認識ですが、でも次のことが通信として言いたいのですね。
見てみます。

>怒りと快楽が裏表、或いは反面・・・それを葛藤、として執拗に看做される必要はありません。

執拗かどうか、また、看做すかどうかの問題ではなくて、
ある面から、どうあるべきだという、私は気に入らないのだ、怒っていると呼ぶ、抵抗の思考があるかないか、葛藤があるかないかどうなのかは、現状の理解上は、どちらもあるので、必要なことでしょう。
それで、その思考がある葛藤の場合、思考の正しい場所があるかどうかを聞いたわけです。
その質問に、すっと乗れないですか?

それで葛藤の状態の場合に、執拗、看做すということが問題視されるということは、逆に、葛藤がない怒りの状態の場合に、執拗に、看做すことが起きているということでしょうか?

>それはとりあえず見えやすいことのみを取り出して、言及されているに過ぎないのです。

みえやすいというより、世の中によくある、葛藤がある場合に過ぎないということ。

また、それのみ言及されているというのは、間違いです。
なぜなら、かかわりの中で、葛藤の思考が消えている、その思考が関わりの中に持ち場がない、正にそれ自身である場合が取り上げられていますから。そこは見逃されたのですね。

>そうした状態に固定され、拘泥できるなら、まずは自分自身(他人ではありません)が、問題です。

葛藤の思考が消えている、関わりの中に持ち場がない、正にそれ自身である場合が取り上げられていますから。それは、その状態に固定され、拘泥できるということではないので、そもそも、問題がないのだなということでしょうか?

さて、葛藤の思考がある場合、状態であれ、ない場合、状態であれ、そうした状態に固定され、拘泥できるなら、それも、葛藤ということで問題になるのでしょうね。
それは自分が問題だというのは、その葛藤の思考がそもそも問題だという意味ですね。対象としての他人などの何かが問題ではなくて、自他の分離などをもたらす、葛藤の思考そのものが問題なのだと。
その「自分自身(他人ではありません)」という表現で誤解されやすいのは、次のことでしょうか。怒るとき、他の人が悪い、自分自身が悪いとして対象を決めて怒りますが、そのように分離した意味での対象の他人や対象の自分自身が問題だと、解釈されやすい。
そうではなく、固定し拘泥する、自他の分離をもたらす思考のありよう自体が問題なのだと。

>本来人は、そのとき怒りはただ、怒りであり、美しいはただ、美しいのです。

美しいにも、一定の様式に合えば美しい、魅力から手に入れたいものなら美しいとして快楽を感じ、一定の様式に合わなければ醜い、捨てたいなら、醜いとして嫌悪を感じるような美しい、つまり葛藤を含む美しというのもあります。

本来というのが、またさまざまにありますが、どういう意味でしょう?
とにかく、目の前の葛藤の美しいの場合は、ちょっと条件が変わると、醜いに急変するわけなので、それは本来の美ではないというわけですね。

本来というのは、目の前の現実のことではなくて、絶対に真実、事実だ信じる本質といった信仰、信念を指していることもあります。
現実は葛藤がある醜だけども、それは表面的であって、本来は美なのですと言うときなど。

本来というのは、そうですねー、私にとっては、どういうことだろう?
たとえば、本来というのは、葛藤の思考が、関わりの場で持ち場がない、そういう状態で、起きることですね。
その場合、日常、わざわざ、怒りとも命名しないし、意識しないで、過ごしていることですが、
たとえば、わざわざ怒りと呼ぶとしたら、急変したできごとに、労力の掛かるできごとに、とっさに、心身全体で精一杯応対しているような状態のことでしょうか。
そのときの気持、身体の感じは状況に応じて生じては消えるものであり、知覚されるもので、強弱はありますが、もくろむ思考によって急変するような反対の状態はありません。
だから、それを怒りと呼ぶなら、強弱があるのみです。
その場合、美についても、日常、葛藤の思考の持ち場がないときの関わり生じるもので、わざわざ美とは命名しないものですが、
たとえば、わざわざ名づければ、新鮮さ、鮮やかさ、急変する状態の知覚、非常に簡素な、整った感じなどの感覚でしょうか。ある場面で、生じて消えていくものですか。
それも強弱はありますが、もくろむ思考によって、醜に急変するような反対のものはない。

>変化を正しく経て、初めて理解されることができます。

これは私には意味不明です。

私であれば、こう言いますか。
怒りのあるいは美の、葛藤の思考が理解され、解放されているとき、かかわりの中で思考の持ち場がないとき、ものごととの関わりで、観察からの直接の応答がある中で、変化が生じているとき(それが葛藤の思考による間違った経過ではなく、変化を正しく経ているということですが)、そのとき初めて、知覚される(理解される)ことができます。

No.2671 - 2010/09/14(Tue) 18:35:44

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

通りすがりさんは、本当に検討がお好きなのですね。本日は長いこと、お付き合いさせて頂きました。


>変化を正しく経て、初めて理解されることができます。
>
> これは私には意味不明です。
>
> 私であれば、こう言いますか。
> 怒りのあるいは美の、葛藤の思考が理解され、解放されているとき、かかわりの中で思考の持ち場がないとき、ものごととの関わりで、観察からの直接の応答がある中で、変化が生じているとき(それが葛藤の思考による間違った経過ではなく、変化を正しく経ているということですが)、そのとき初めて、知覚される(理解される)ことができます。



そうですね。たとえばその「変容」とは、人の土壌に関わるもの、といいましょう。それは経てみなければ、理解することはないでしょう。

たとえば大変に頭脳明晰で、知的分析が得意として、

思考でもって、なにか真実というものに僅差に迫ることができるかも知れません。けれどここは、残念ながらどうしても、まずはそれに至っていなければ、ならないのです。こと人の意識の変容については、実態としての変化が不可欠、といわねばなりません。なにか言及しているとして、知的分析の領域にあるかどうか、或いは、(そういう表現をするとして)それ、から発露されているものかは、表現の機微、或いは視点その仔細に、どうしても現れてしまいます。

人は誰しも、愛し愛されるその人として、そして尚、すべての人がこうした探求、「自分とは、なに?」に向かうこともないでしょう。現状でいい・・・ならそのようです。その自分に問題ないとなれば、ただそのようです。けれど、(そういう表現をするとして、)真実を得ることもないでしょう。

もし、知的精神的満足を得るための趣味の領域として、ではなく、本気で自己への探求に向かうなら、

その、自分。を解決すること。だけ、です。


画像は夏半ばから、初秋まで咲くという、犬蓼(いぬたで)です。庭のかたすみにひっそりと、紫のような桃色が目をひきます。

No.2672 - 2010/09/14(Tue) 21:01:32

Re: 維持の手段である思考=時間? / 通りすがり
ああ、ご自身の思いを話しておられますね。
ありがとうございます。
それに感想を述べて、これで、私の話もお終いです。
問いたい質問はありません。

>なにか言及しているとして、知的分析の領域にあるかどうか、或いは、(そういう表現をするとして)それ、から発露されているものかは、表現の機微、或いは視点その仔細に、どうしても現れてしまいます。

それだけではなくて、生活の中で、実際に言っていること、思っていることと、していること、起きていることとの違いは、あれば出てくるでしょう。
葛藤、混乱、思い違いがあれば現れるでしょう。

お話は、この場のように、言葉で表現したとき、それが実際に起きていることか、知的な理解に過ぎないのかどうか、あるいは葛藤、思い違い、混乱があれば、よくみているとわかるということですね。
よくみているつもりで、見る側が間違うということもあります。
それは、人が違うと、よく起きることですね。
それで、実は、自分自身が、実際に思い違い、葛藤、混乱なしに、実際に生きているのでないと、そもそも、しようがないことです。
そして人の品定めやテストをしても、実はしようがない。その動機が問題の一部になるでしょう。

ここでは、意識的に問題があると発言する場合、その検討や、
検討の中で出てくる、うっかりした思い違い、混乱、葛藤と看做されるものの検討ができるのでしょう。

>現状でいい…なら、その自分に問題がないとなれば、ただそのようです、

この場ではそうなる傾向が強いとはいうものの、
人はかかわりの中で生活していますから、自分は問題ないという人が、問題に関係があるとして引き出される事態も、社会では起きてきます。
そのときは、問題ないと言い張ってすますわけにもいきません。

また、自分に問題はないが、外部の問題を認めるなら、解決しようと動くので、そのとき、当人が、自分の問題のありかに気づくこともあるそういう機会でもありうるでしょう。

>その、自分。を解決すること。だけ、です。

そうなのですが、実は人は関わって生きているので、その関わりが、他の人との影響のある社会でもあるわけです。
自分の中で、知的な理解ではなく、矛盾、思い違い、混乱、葛藤のない生が生じているとき、新たな影響、新たな社会を作っているわけです。

今回は、どうも御苦労さんでした。
とりあえず、終わり、休みましょう。

No.2673 - 2010/09/14(Tue) 22:20:57

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

そうですね。ubik0101さんより・・・そのうち庭仕事でも手伝いにきてください。こき使ってやる〜。。。奥様もご一緒にどうぞ。とのことです。

それでは、また。

No.2674 - 2010/09/15(Wed) 08:25:00

感想 / suho
>そして人の品定めやテストをしても、実はしようがない。その動機が問題の一部になるでしょう。

通りすがりさんの言葉を読んでいて、まさに、この動機・問題が、通りすがりさんの内面に生じているから、このスレッドような反応(内面の投影)として顕れているように感じました。

>それで、実は、自分自身が、実際に思い違い、葛藤、混乱なしに、実際に生きているのでないと、そもそも、しようがないことです。

実際に生きているか生きていないかの他者の品定め。

>そして人の品定めやテストをしても、実はしようがない。その動機が問題の一部になるでしょう。

まさにそうですね。

No.2675 - 2010/09/15(Wed) 15:11:14

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

suhoさんっ、じつはきのう、なんとメダカの赤ちゃんを発見!!!してしまいました。

「ええっっ?!もう???早すぎではないの???」

餌をやりすぎたのか、たしかに近頃メダカたち、妙におっきー。。とは思っていましたが・・・卵も見てはいましたが・・・ホテイアオイの根のなかで動いてるものがいて、ミジンコかなと見ていたら、メダカでした。透明で、ほんとに小さな、きのうは2ミリ程度、今日はもう少し形がはっきりしていて、おどろきもものきさんしょのきです。

成魚に食べられてしまうといけないので、急いで小さな鉢を用意して、今朝、移し変えました。こんな小さな魚、初めて。

まだわかりませんが、ubik0101さんと、ちょっと楽しみなところです。

No.2676 - 2010/09/15(Wed) 20:46:34

Re: 維持の手段である思考=時間? / suho
> まだわかりませんが、ubik0101さんと、ちょっと楽しみなところです。

めだかの赤ちゃんといえば、小学生の頃、学校でめだかの飼育をした記憶が浮かんできました。
たしかにすごくちっちゃいので水槽にガッチリ顔をはりつけて見ていたような。。
ちっちゃいと言えば、プランクトンも家で飼育したような記憶もあるな。学研で出していた小学生向けの定期雑誌の付録で付いてきたセットだったような。。

小さい生き物って見ていると時間を忘れて見入ってしまいますよね。なんでこんなちっちゃいのに生きてるんだろう、なんでからだが透けてるのかと不思議でしたね。

最近は身体のはたらきへの関心がますます高まってきたところです^^

No.2677 - 2010/09/16(Thu) 06:42:41

Re: 維持の手段である思考=時間? / hato

学校で飼育、て懐かしいですね。そうですね〜、なんかもう、学校から帰った子供がカバンをほったらかしで、芋虫の幼虫とか釘付けになって見てる・・・メダカ版の、そんなこの頃です。

hato

そ、いえば・・・なんかの雑誌の付録の小さな球形の顕微鏡を、いつもポケットにいれて歩いてて、蝶の鱗粉を見て、うわ、と思ったり・・・マッチ箱に色紙を切って入れて、蓑虫に、カラフルな蓑を作らせたり・・・日光写真、模型飛行機、木の潜水艦。ありました。ありました。

ubik0101

この夏は、庭のあちこちに、こんなど派手な芋虫がいました。お尻に小さな旗のようなものがついていて、ひらひら揺らして歩きます。調べているのですがまだ不明で、なんだろ、と思っています。

No.2678 - 2010/09/16(Thu) 17:44:36
評価、願望=時間? / 通りすがり
いま現状のままが「いい」と思うとき、そこに維持という時間が含まれていますが、
実は、「いい」という評価、願望が、そのときあり、その維持という時間をもたらしている、生じさせている?
しかし、評価、願望がないとき、その維持という時間があるのかどうか?

No.2642 - 2010/09/12(Sun) 08:36:25

Re: 評価、願望=時間? / ubik0101
いま現状のままがいい、が事態として、いま現状のままがいい・・・なら・・・どう評価、願望しても、しなくても・・・維持という時間があるとかないとか・・・どう思考しても思考しなくても・・・いま現状のままがいい、です。まさに、そう、いま現状のままがいい。ならば。いま現状のままではよくない。は、あるのかどうか?
No.2644 - 2010/09/12(Sun) 09:44:36

Re: 評価、願望=時間? / 通りすがり
いま現状のままがいい、が事態として、いま現状のままがいい・・なら・・いま現状のままがいい。
いま現状のままがよくない、が事態として、いま現状のままがよくない・・なら・・いま現状のままがよくない。

事態というのは何ですか?

評価、維持を願望して、感情を、思考を持っても、持たなくても、ですか。
その思考を持つとき、現状のままがいいという思い、感情があり、満足のある、自信のある、そしていくらか不満のある、不安な気持がある生活がありますが、それが、そういう事態があるという意味ですか? それは事態ではなくて、その思いの中の生活のできごとですか?
同様に、その思考を持たないとき、また別の生活がありますが、それが事態ですか? それは事態ではなくて、その思いのない中の別の生活のできごとですか?

元に戻って、評価、願望=思考=時間という点は、どうなのでしょうか?
ここが投稿の主旨、話の出発点でしたが。

No.2646 - 2010/09/12(Sun) 16:04:06

Re: 評価、願望=時間? / ubik0101
>元に戻って、評価、願望=思考=時間という点は、どうなのでしょうか?
>ここが投稿の主旨、話の出発点でしたが。


それは、評価、願望=思考を、勝手に、時間、と命名しただけです・・・ 自我の説明(A)

あるいは。思考だけではありません。怒りも、喜びも、樹も、鳥も、自分も・・・森羅万象・・・いまここ、時間、でないことなどありません・・・ 無我の説明(B)

どちらにしても自分自身の発見なら、(A)と(B)で混乱することはない、です。 その混乱は、自我の仕組みに関わるでしょう。です。

No.2648 - 2010/09/12(Sun) 20:06:56

Re: 評価、願望=時間? / 通りすがり
いま現状のままがいいと、持続を願うとき、持続は勝手に命名して、思っただけ、自我(A)だというわけですか。わかりました。
強いて質問すると、思っただけ、というのはどういう意味でしょうね。何か問題ですか?

一方、ここから駅まで徒歩十分という時間は、思っただけ、というより、実用的に、使って、いろいろ役に立ちますが。

でも、ここはこれくらいで、問題なさそうですね。

No.2650 - 2010/09/12(Sun) 21:09:14

Re: 評価、願望=時間? / ubik0101
ubik0101は思考=時間と勝手に命名しただけ、と言いましたが、「思っただけ」と、どこかで言いました?その「思っただけ」は、どういう意味があるのでしょうか。

それに、思考 = 時間と、勝手に命名しただけ、という意見に通りすがりさんが、疑問を感じたのではないでしょうか?それが「わかりました」なら、自我と無我の説明の混乱もないということでしょう?なら、もともと疑問もないでしょう。

それと勝手な命名、思考=時間。思考=自我とか、思考=葛藤とか命名してもいいのでしょう。そのことと、「駅まで歩いて10分」なんの関系があるのかな、と思います。

No.2652 - 2010/09/12(Sun) 22:38:14

Re: 評価、願望=時間? / 通りすがり
>ubik0101は思考=時間と勝手に命名しただけ、と言いいましたが、「思っただけ」と、どこかで言いました?その「思っただけ」は、どういう意味があるのでしょうか。

現状のままがいいという持続(時間)を願った、思ったとき、現状に命名したとき、
それは「思っただけ=勝手に命名しただけ」と理解したということ。
そうではないみたいですね。

>それが「わかりました」なら、…もともと疑問もないでしょう。

えっ?
「事態」の疑問はどうなりましたか?

>それと勝手な命名…してもいいのでしょう。
>そのことと、「駅まで歩いて10分」なんの関系があるのかな、と思います。


そうですか。
現状のままがいいと、持続(時間)を思う、そう命名する意味と、
距離を10分と思う、命名する意味との違い、関係です。

No.2654 - 2010/09/13(Mon) 07:36:59

Re: 評価、願望=時間? / ubik0101
ある人が、自分の状態を、現状のままがいいと命名する、ということでしょうか?もしかして、命名しないでいることと、そう命名することで、その人の状態は変わる。という意味でしょうか?たとえば思考=時間と命名しないことと、することで、その人の状態が変わる。という意味でしょうか?

それは通りすがりさん自身のことでしょうか? もし「満足のある、自信のある、そしていくらか不満のある、不安な気持」なら・・・そう命名しないでも、その人の状態は、「満足のある、自信のある、そしていくらか不満のある、不安な気持」ではないでしょうか。「持続(時間)を思う」も同様?

ところで。たとえば距離10分と、思っても、思わないでも、命名しても、命名しなくても、距離10分ではないですか。それは、距離10分という、事態、です。

そのようにubik0101は、「いま現状のままがいい」とか「満足のある、自信のある、そしていくらか不満のある、不安な気持」とか、思いもしません。そう、思いもしないと・・・そうだということを、そうだ・・・と言うだけです。それは、そう思考しても、しなくても、命名しても、しなくても変わりません。

No.2656 - 2010/09/13(Mon) 10:27:28

Re: 評価、願望=時間? / 通りすがり
ある人が、自分の状態なり環境なりを、思考を介して認識し、その上で、現状のままがいいと命名する、そう思う、そういう感情があるということ。
あるいはさらに、さまざまに思うことで、悪い感じを避け、いい感じの持続を計っているのではというのが表題の話。
そう思うこと、命名することが、実はその状態、その生活をつくりだしているのではと?
不満、自信、満足、不安は、それ自体が思考、感情であり、それによって状態、生活は生じているものなので、思考なしに、命名なしに、その状態、生活は生じてはいない。

それで、命名していない、思ってもいないときは、別の観察、別の働きかけ、別の状態があり、別の生活をしている。
その中で、現状のままがいい、悪い、自信、不満、満足、不安など思いもしない。
思うとしても、突き動かされているわけではなくて、そういうことについて検討できるということ。
そうだということをそうだというだけで、それはわざわざ説明のために命名したり、思考したりしても、しなくても、生活は変わらない。

ここで、わざわざ、さらに命名しなくても、わざわざ思わなくても、不満、不安、自信の期待がある状態だと主張するのとは、基本的に食い違うのかな?
これは、思考があるその事実と食い違うのでは?
問題は、現状のままがいいと感じ、満足、不満、不安な気持がある中で、
思考はない、命名はないという事実がきっちりわかるのかなというのが問題です。
ここに難しい問題がありませんか?
これは怒りのことで、少し触れました。

「いま現状のままがいい、よくない」「満足、自信、不満、不安な気持」にならない、別のもの別の生がある、大変であれ生き生きとした生がある、という意味で、思いもしませんなのか、
わざわざ思わないのかが、問題になりますか。
思わないと言うとき、事実を述べているのか、紛れもない事実だとする信仰、信念を述べているのか、ですか。

話は一致して、同じことをしゃべっている感じもします。

No.2658 - 2010/09/13(Mon) 12:49:51

Re: 評価、願望=時間? / ubik0101
> ある人が、自分の状態なり環境なりを、思考を介して認識し、その上で、現状のままがいいと命名する、そう思う、そういう感情があるということ。
> あるいはさらに、さまざまに思うことで、悪い感じを避け、いい感じの持続を計っているのではというのが表題の話。


「そういう感情がある」、とは、通りすがりさんのことではないのですか。ここでubik0101と通りすがりさんではない、ほかの誰かのことを話しても、しょーもありません。自分が、こうだ、ということを、こうだ、と言うだけのことが大切です。

ほかの誰かのことだと、それは通りすがりさんが勝手な都合のいい空想をして、それを検討してるのかもしれません。あるいは噂話です。すると、そういうことをするのは、なぜ?となります。そ、いうの面倒です。

> そう思うこと、命名することが、実はその状態、その生活をつくりだしているのではと?
> 不満、自信、満足、不安は、それ自体が思考、感情であり、それによって状態、生活は生じているものなので、思考なしに、命名なしに、その状態、生活は生じてはいない。


> それで、命名していない、思ってもいないときは、別の観察、別の働きかけ、別の状態があり、別の生活をしている。
> その中で、現状のままがいい、悪い、自信、不満、満足、不安など思いもしない。
> 思うとしても、突き動かされているわけではなくて、そういうことについて検討できるということ。
> そうだということをそうだというだけで、それはわざわざ説明のために命名したり、思考したりしても、しなくても、生活は変わらない。


と、いう、たとえば「その中で、現状のままがいい、悪い、自信、不満、満足、不安など思いもしない」「思うとしても、突き動かされているわけではなくて、そういうことについて検討できるということ」のが、もしかして自我の機能で。自我が自我を検討してるのだ。とは思いもしませんか。ほかの投稿で書きましたが・・・自我の機能を理解することと、自我は虚構、と見破ることとは違います。

> ここで、わざわざ、さらに命名しなくても、わざわざ思わなくても、不満、不安、自信の期待がある状態だと主張するのとは、基本的に食い違うのかな?

とても文章の意味が判りにくいですが応えてみます。思っても思わなくても、不満、不安、自信不満、不安、自信な事態なら、不満、不安、自信な事態です。なので、命名しても、しなくても、変わりません。自我の機能を理解しても、自我なら、自我です。

> これは、思考があるその事実と食い違うのでは?
> 問題は、現状のままがいいと感じ、満足、不満、不安な気持がある中で、
> 思考はない、命名はないという事実がきっちりわかるのかなというのが問題です。
> ここに難しい問題がありませんか?
> これは怒りのことで、少し触れました。
> 「いま現状のままがいい、よくない」「満足、自信、不満、不安な気持」にならない、別のもの別の生がある、大変であれ生き生きとした生がある、という意味で、思いもしませんなのか、
> わざわざ思わないのかが、問題になりますか。
> 思わないと言うとき、事実を述べているのか、紛れもない事実だとする信仰、信念を述べているのか、ですか。


それが判らないようなら、馬と鹿、です。ない、ことが判らなければ、どうして自我が、ない、ことが判るでしょう。

> 話は一致して、同じことをしゃべっている感じもします。

うーん。ところで。通りすがりさんからの疑問がなければ、必要なら各自が、検討なり、探求すると言うことで、 まあ、話は、こんなところでいいように思います。

No.2660 - 2010/09/13(Mon) 15:44:51

Re: 評価、願望=時間? / 通りすがり
まあ、疑問はありませんが、話がずれているところだけ、話して終わります。

ここでは、私のことを話していますが、「そういう感情がある」というのは、ここでは思考が入り、問題がある場合で、それはある場面での、ある状況の話であって、その状況にいまいるということでは、必ずしもありません。
それが話せるのは、次のことによります。
その思考が入る、感情があるということは、実際に感情的になって、不安なる必要はありません。安定を求めると大変不安になる、あるいは安心を得たと一時的には満足することは、その事実は、実は、それに入らないときにこそ、その事実がよくわかります。
ここが実は大変な要点なのですね。
だから、それは勝手な空想、噂話ではありません。
また、単に、現状のままがいいという思いがあるだけのことなら、自分の過去だけではなく、周りを見ればわかりますし、
だから、ここでお互いに二人で、共通に取り上げられるわけですね。

その逆は、つまり、問題がない、思考がない状態は、こうだと感じても、うっかりすると、勝手な空想、噂話になり、実際に起きないことには、偽者になります。
ここについては、お互いに、話が合っているようです。

「不満満足を思わない」、あるいは「思わない中で、不満満足を検討することができる」というのは、葛藤の中でそう思う自我の機能に沿った説明なのか、自我は虚構であると見破っている中での、事実のことなのか、そこが問題なのですよ。
ここはだから、二通りあるわけですね。
一方を勝手に選んだのでは、間違ってしまう。

文章の意味がわかりにくいというより、誤解がありますね。
私の話は、不安、不満はそう感じるとき、そもそもそれが思考、命名なので、思考、命名がないというのは間違いだということ。だから、命名なしに、思考なしにというのは、画期的な、革新的なことなのです。
それに対して、その発言がわかりにくいというのは、どういう迷路に入っているのでしょうね。
不安、不満があるなら、それについてさらにどう命名しようとしまいと、やっぱり不安、不満なのだというのは、実は、実験的にそうです。
それが不安、不満の性質なのですね。
でも、そのことすらも不安の中にいては、自我の機能の範囲内では、よくわからないこと、わかった思っても偽者。

ここの見極めについては、馬と鹿、どうして自我がないことが、わかるのでしょうということで、
角でであれ、足でであれ、跳ね除けられていますので、問題ないでしょう。

No.2662 - 2010/09/13(Mon) 18:13:14

Re: 評価、願望=時間? / ubik0101
たとえば「その事実は、実は、それに入らないときにこそ、その事実がよくわかります。」は、幻想でないとしても、なんだか、人としての問題点としての不安とか、葛藤とか、恐怖とかが、焦点のようです。それを理解してるなら、もうそこにいる必要はない、です。

(とくに質問ではないですが・・・たとえば愛も、実は、それに入らないときこそ、その事実がよくわかる?そんな判りかたでは確かに愛は実働してないし、変、です)。

たとえば「命名なしに、思考なしにというのは、画期的な、革新的なことなのです。」ではなく、それが当然なんです。 この日常が・・・たとえば見ること聞くことも、怒りも不安も恐怖も自我も、思考も、それは、それ、でなくてもいいのに、それ・・・神秘なんです。

ほかの言い方では、既知も、未知なんです。 そして、それも当然だから・・・ことさらに必要もなく・・・失うんです。そして、自発的に生起してる、たとえば、なぜ、これは、これなんだ。という疑問に取り組むのです。

まあ、こんなところで、いったん終了です。

No.2665 - 2010/09/13(Mon) 23:30:34

愛は思考のものか? / 通りすがり
思考=時間?ということで、関心がありのようでしたので、提起してみましたが、
話が通じるまでのずれや、質問への答えなどで、大部分すごしました、
それで、表題に関しては、感想も述べて、一段落です。

それで、あと、見直してみて、この過程の途中で、見過ごしたあなたの疑問、意見があれば、私の関心があれば、取り上げてみようと思います。
それはあなたの言いっぱなしとして、残ったままなので、あなたの思いとして、残っていれば、おっしゃるように、いずれ、独自に検討されるのでしょうが。



>とくに質問ではないですが・・・
>たとえば愛も、実は、それに入らないときこそ、その事実がよくわかる?
>そんな判りかたでは確かに愛は実働してないし、変、です。


その愛は、思考が作り出した、これが愛だと思い、感情的になるようなものですね。
こちらを向くのが愛だとして、向こうを向くと怒るというような。
だから、その愛を理解するには、実は、その思考からの自由が最初に要る。
つまり、その中でその愛を求めているのではないときにこそ、その愛の実体、もたらすものが、新たな観察の中で、わかる。
そんなわかり方では、その愛は確かに実働していない。
そうなんですね。その愛からの本質的な解放がある。
求めていたものとはずれがある意味で、変ですが、それを理解しているなら、いつまでも、変、です、とそこにいる必要はありません。
質問がないということは、
理解が、変だ、というところで、ストップしたということでしょう。
実際のものは、変でも、何でもないものでは?
そのとき、その愛と呼ばない新たな関わりが、気持が生じて関わっている。
そのかかわりに、あえて言うなら、新たな愛があるのでは? 言う必要もないけれど。

No.2666 - 2010/09/14(Tue) 06:52:51
こんばんは / peer
山椒です。
私は元気ですが、山椒は夏バテしているみたいな。
紅葉しているような・・枯れかけているような。
じつは。

ベランダに出しておいたら、少し前に、
妙な青虫さんが、おりました。
小さな葉っぱの上に、葉っぱより大きく成長した
立派な青虫でした。二匹。

これは、たぶん、立派な蛾になりそうで〜
その成長を見届けたい。思いもあり。
でも、な〜んか。山椒の葉っぱも可哀そうでしょ?
こちらを優先すれば、あちらが立たない。

いゃ〜困りました。
そんなことがあってすぐに。
町を歩いていたら、花屋の店先に
なんと売り物の山椒の鉢植えが〜
これは、シンクロニシティでしょうか。
買って下さい。とばかりに。

渡りに船で。それを買い込んで。
青虫さんには、そちらに転居してもらいました。
で、頂いた山椒さんは、室内に避難してもらってと。
とりあえず。健在なトコロをパチリ。

No.2624 - 2010/09/01(Wed) 03:13:15

Re: こんばんは / ubik0101&hato

山椒につく幼虫は、通常はガでなくて、チョウかと思います。アゲハ。昔の同僚のエヌさんがよく言ってました。

「山椒はすぐ蝶が卵を産むから、庭には植えられないのよ〜・・・」

庭のどこに植えてもすぐ見つける、とけっこう憤慨してました。環境によって蛾がつく???でも、あのアパートのベランダで問題なし。近くの林の山椒も問題なかったようなので、木陰の感じが適当なのかも知れません。

hato

山椒は、強い光に当たると、葉焼けすることがあります。よくあることで、あまり問題ではないと思いますが・・・暑い夏は、明るい日陰、くらいに置くのがいいかもしれません。

ubik0101

No.2627 - 2010/09/01(Wed) 20:27:40

Re: こんばんは / peer
蛾ではなく、蝶ですか。
アゲハが生息しそうもない場所で突然みつけたので
もともとの場所から持ってきたのかと思ってました。
・・・どこから来たのやら?
いまは室内で育てているので、葉焼けは避けられそうです。
元気に育って欲しいなぁ〜と。

No.2629 - 2010/09/04(Sat) 01:58:43

Re: こんばんは / ubik0101&hato

あと何年か掛かるでしょうが、山椒が大きくなったら、春の新芽を味わって欲しいです。ところで。先祖帰りして、あんまり可愛くないテイカカズラになってしまっていた、初雪葛。ここに来て、庭に植えたら、先端が、また初雪葛になりました(写真上部)。

ubik0101

初雪葛、とてもとても可愛いです。水やりのとき、見つけると嬉しくなります。

hato

No.2630 - 2010/09/04(Sat) 10:01:19

Re: こんばんは / peer
前から感じていたんですけど
hatoさんトコの写真に登場する植物たち
とてもイイ顔をしてますね。
拝観させていただいて、嬉しいんですよ。
うん。・・・いまさら、ですが。

No.2631 - 2010/09/07(Tue) 02:41:54

Re: こんばんは / hato

こんにちは。只今パソコン教室に通い中で、日中はちょっくら都会(???)の空気(酸素と窒素)(by ubik0101)を吸いに出る今日この頃です。これから大変みたいなんですけど、いいクラスで、学生気分を楽しんでいます。

画像、そうですか?とてもよかった。こちらこそ、いつもありがとうございます。ダーリン曰く、写真写りのよい植物たち・・・な感じでしょうか。

そういえば、ここ2日ほど、夜中に家の周囲や上部を、フクロウが徘徊しているらしくて、嬉しびっくりします。丘のある平野なんですけど、餌を追ってきてるのかも知れませんね。ホーホー・・・ギャオギャオ・・・て鳴いてます。

画像は、「こっちも健在我が家の花鳥園鳥部門」です。

No.2632 - 2010/09/07(Tue) 17:39:00
みどりの庭から / hato
夏も終盤です。

古い火鉢がいくつかあったので、睡蓮を活けるといいね、と話していました。
火鉢の中の古灰を出し、空っぽにしてから、赤玉土と水を入れ、小さな草を生けました。

No.2610 - 2010/08/28(Sat) 23:55:25

Re: みどりの庭から / hato

しばらく日をおいた睡蓮の鉢に、メダカを入れてみます。車で15分の野菜市場で、可愛いメダカを見つけました。数匹のメダカが入った袋は、水温を合わせる為に、小一時間、鉢中に浸しておきます。酸素補給のために、ホテイアオイも入れてみました。

No.2611 - 2010/08/28(Sat) 23:55:59

Re: みどりの庭から / hato

メダカには、「ヒカリ」「ブラウン」「楊貴妃」と三種があり、ubik0101さんは、「ブラウン」にひかれていたけれど、ヒカリとブラウンは、すでにわりと育ってるように見えました。この楊貴妃は、とてもとても小さいのに目が大きくて、腹のピンクと橙色も愛らしかったので、決めました。たぶん雄雌揃ってるだろうとのことです。

鉢に入れてみると、素早く泳ぎ回り、さまざま確認してる様子。

餌は市販のテトラキリミン。やりすぎは禁物、といわれてるけど、よく動いてるし・・・すぐ食べちゃうし・・・難しいところです。ボウフラやミジンコは、メダカたちが来てから、見かけなくなりました。バクテリアが頑張ってるのか、水がきれいです。

No.2612 - 2010/08/28(Sat) 23:56:40

Re: みどりの庭から / hato

睡蓮の葉に、アマガエルがちょこん、と乗ったりして・・・きれいな葉。ちょっと楽しくなります。「メダカまーだ、見てるーっ、」と呆れられてしまいます。

No.2613 - 2010/08/28(Sat) 23:58:02

Re: みどりの庭から / hato

今日はダーリン二度目の(今度は簡単な、)手術から戻る日。このメダカたち、ubik0101さん不在の数日にも結構大きくなってるようです。

とにかくよく動く、溌剌陽気なお姫さまたちです。

No.2614 - 2010/08/29(Sun) 00:00:53

Re: みどりの庭から / peer
また・・・入院していたのですか。
んんんーと。体は、ひとつの宇宙ですから。
切り刻むのは、よくないような気がする。
・・・おだいじに〜

No.2615 - 2010/08/29(Sun) 02:11:34

Re: みどりの庭から / hato

自我がわるい、とか、分別がわるい、怒りがわるい、と聞きます。また、意識が目覚めて、そのときは素晴らしかったのに元に戻ってしまった・・・さらに、意識が目覚めると・・・仕事ができない、係れない・・・とまで考えられたりするようです。

そうでなく、それはその自分を、了解、或いは意識としてきちんと理解していない、されていないために、そのような状態、表現に置かれるのかも知れません。たとえば理解されていないとは、無闇に人生を生きにくくし、それほどまで苦痛なことでもあるでしょう。

それは単に、世界からなにかを削除して、素晴らしくなろうとしてる・・・そんな状態かも知れません。イカをタコにしようとしたり、タコをイカにしようとしたり・・・そんな感じかも、知れません。

たとえば悲しみ、怒りをわるいとして取り除く必要が、あるでしょうか。笑いを取り除く必要が、あるでしょうか。それなら、なにかおかしなことかも知れません。

大事を取り違えているのかも、知れません。

そうした個別なことは、探求の動機にはなり得るけれども、まずは人が根本として、自分を取り違えたままでいること、それらを含めて理解されていないことが苦痛でしょう。

またそれは、生きるなかで、処置することがあればするだけとして・・・そこには問題もないでしょう。

ふと、そんなことを考えました。
それでは、迎えに行ってきます。

No.2616 - 2010/08/29(Sun) 08:52:09

Re: みどりの庭から / peer
>意識が目覚めて、そのときは素晴らしかったのに
>元に戻ってしまった・・・さらに、意識が目覚めると
>・・・仕事ができない、係れない・・・
>とまで考えられたりするようです。


目覚めも、どこまでも深まるものでしょうね。
深めていくという作業をしないと、戻ります。
最終地点ではなく、入り口を「覗いた」程度のことですから。

悪いとか良いとかの前に
自我がある、分別がある、怒りがある。
と認めると、先に進めるのかなぁ〜って。
「ある」ということから「ない」が見えたり。
最初に「ない」があると、そこ止まり。
そんなふうに感じます。

答がない、それは〜
「ゆらぎ」のようなもので。それが生命活動そのもので〜

No.2617 - 2010/08/30(Mon) 04:38:36

Re: みどりの庭から / hato

こんにちは。毎日暑いですね、夏バテせぬようご自愛ください。
山椒の苗は元気ですか?


そうですね、
昨日ここで表現したかったことは、・・・

人は苦しみを除きたい、できるだけ避けたい・・・悲しんだり、痛んだり怒りたくない、嫌な感情を持ちたくない、ということ。生きているなら自然にそのようであることが探求、人生とは何、自分て、何だろう、と考える糧になりますね。または、この世界を生きやすくする技術、術が見出されたりするでしょう。

それで、なにかそうではないことがふと、起きて、あ、自分は苦しみや喜びに捕らわれてた自分じゃなかった・・・・と、それは、人が総じて世界としての閾値に相当してる状態として、けれどまた、折々の事情に沿って思考や感情が起きてくる・・・或いは、どうしようもない生活に追われてる・・・それを戻ってしまう、と表現する・・・そんなことも、あるのかも知れません。戻る、というのは、状態を理解されなかった故の、停滞を指す場合もあるようです。

人が目覚めて生きる、それは、痛みや苦しみ、喜びや怒り、諸々の状態が失われることではありません。なのでここで、正しい飛躍が必要、といいます。ここが理解されないと、世界の諸事情・・・その欲望、その執着・・が(問題として、)勝るのです。勝る、という意味は、あってはならない、ということではなく、本来、あってもとくに問題ではないものが問題となる、のです。素材が適材適所にあることができない、ということです。

けれど、たとえばその、生(と表現するとして、)を、傾向はあるとしても、なにか個別の状態でもって限定することはできません。こうなったら、こうなる。そうなったら、そうなる。ということを不用意に一般化することは、誤解を招きやすいでしょう。

大事なことは、意識としての自分が、それ、を了解、ことに理解できないと、人は根本的に、落ち着くことができない、ということです。これが苦しみです。変化を理解できない場合に、落ち着かなさは日々の生活を、ことさら生きにくいものにするでしょう。

それは、生老病死、この人生事態と機能から派生する何某、でない、人の、根源的な苦しみです。

この世界に人は本来、関わりながら、拘わりません。どんな状況であれ、怒りであれ、喜びも苦しみも・・・・なので正にそのとき、その状況にあり、状態であることができます。でも拘わらないのです。情けなくたって、身悶えしたって、怒ろうが騒ごうが静かであろうが、それでも、関わりながら、拘わることができません。


> 答がない、それは〜
> 「ゆらぎ」のようなもので。それが生命活動そのもので〜



この不思議。たとえばそれは、世界は決着しない、ながらにして必ず決着してる、ことがその腑に落ちてる、ということでもあります。

No.2618 - 2010/08/30(Mon) 14:26:18

Re: みどりの庭から / hato

長くなりました。

ubik0101さん、今回は早めの退院で、少々痛むようでつらいですが、話したり、朝からご飯もちゃんと食べて、庭を見廻ったり鳥と遊んだり、メダカを見て喜んだりしています。

ナナ。暑いけど頑張ろうね。
庭作業していると、嬉しいのか、労いにきてくれるのが素敵です。

No.2619 - 2010/08/30(Mon) 14:28:22

Re: みどりの庭から / 図書館閲覧者
>ubik0101さん、今回は早めの退院で、少々痛むようで


そりゃ大変!お疲れさまです。

手の打てることは、手を打って
食べるモノは、食べて
できる用心は、できる範囲でやって

そのあとは
身体のことは身体に任せてゆくしかないですね。

お互い外仕事も多そうですし
熱中症にならないよう気を付けましょう。

No.2620 - 2010/08/31(Tue) 11:18:47

Re: みどりの庭から / ubik0101&hato

ふー。たびたび心配かけてます。でも、まあ。なんだか冷房で冷えすぎた病院のベッドで寝違えたのか、それが手術よりも、辛い状態・・・というくらいで大丈夫、です。

もうすぐ冬野菜の苗を植えるための、新しい畝を作るために。hatoさんの父が手伝いに駆けつけてくれる予定です。ぜひ大好物の芽キャベツを収穫できるといいな、と思っています。

ubik“満身創痍”0101

満身創痍 ↑ て、ずーといいたくてたまらなかったんですから、大喜びなんですよ。
今回お世話になった病院、不謹慎ですが、わたしはなんか気に入ってしまって、ubik0101さんの呆れ視線をよそに、楽しく脳天気に通ってしまいました。

あとは身体に任せて・・・ほんとですね。いつも、ありがとうございます。

hato

病院食です。エビフライもありました。

No.2621 - 2010/08/31(Tue) 14:27:38

Re: みどりの庭から / のり
 こんにちは。
ひゃあ〜いろいろありますね!
私も先日、身体の反逆に遭い、死ぬ思いをしました。
たまには身体にも感謝しなくては、と通り過ぎてから
反省です。
ウビさん、程ほどに程ほどにご自愛ですね(自?)。

> 意識が目覚めて、そのときは素晴らしかったのに元に戻ってしまった・・・さらに、意識が目覚めると・・・仕事ができない、係れない・・・とまで考えられたりするようです。
 →あっ、hatoさん、これ、私かもです。
教わりました目開け瞑想をしてから六識のこの世界から透明な変な空間?に移行します。
というより最近はその空間に居る方が多いかも?です。
ずっと居て、大丈夫でしょうか?hatoさん、ずっとここに居るのでしょうか?
結構、波動が高いみたいです(品がなくって、ごめんなさい)。

> そうでなく、それはその自分を、了解、或いは意識としてきちんと理解していない、されていないために、そのような状態、表現に置かれるのかも知れません。
→ここもう少し、聞きたいです。どのように理解・了解でしょう?できましたらお願いします。

No.2622 - 2010/08/31(Tue) 15:52:10

Re: みどりの庭から / hato

こんばんは。まだまだ、暑いですね、のりさんも体調崩されたのでしょうか。充分お大事にしてください。返信、ありがとうございます。

自分はとくに、透明な世界、を意識することはありませんが、どういうわけか、それがどういうことかについての理解を得るとの感じです。
その理解・・・宙が拓かれる凝視、或いは刹那の静止、に閃き落ちながら、思考に変換し、される作業を・・・見る
、との感じです。

もし、その透明が意識されるところ、を突き抜ける、としたら、その了解は自然に訪れるかも知れません。そうしたことを忘れるほどに、突き抜けるのです。その状態が社会生活、ことに経済的なことに関わることが難しいことが、とてもよくわかります。けれどもし、人が望むなら、そこで終わりでもないようです。

探求の際は、苦痛に突っ込んでいく、ことがある程度否めないでしょう。そして、けれどこの段に於いてはまたある程度、苦痛は警告として見ることができます。

たとえば、それまでの自我、ではないものを見た。そこで社会とのギャップが大きく感じる・・感じてよいのですが、それがなにかとても不具合、苦痛であるとき、その自分(この場合は無我、)がどこかまだ、突出している、ということであるかも知れません。無我の状態に傾倒する必要が、ないよ、てことです。

自分の突出してしまう状態を理解されると・・・すなわち、無我に秀でてる状態が失われる・・・忘れ去られる・・・まですすむと、そのとき、ubik0101さんが言うところの、無自覚の知恵、となることができるでしょう。そのあれこれを忘れても、まったく大丈夫でしょう。普通に生活しながら・・・でも、以前の苦痛なままの、無知な状態でなくして、図書館さんが言うように、できることをする、・・・・との、感じでしょうか。

ここに別段、無理がないのです。できない(自分の有り様としてできない)ことには自然と、手をつける必要もない状態と、言えるでしょうか。普通、ということ。ここに不可思議が働くことができます。

このとき、世界と自己はその不思議さ、妙味を充分に披瀝しながら、人は生き、また、切磋琢磨していける状態です。

No.2623 - 2010/08/31(Tue) 21:52:44

Re: みどりの庭から / のり
hatoさん、お返事ありがとうございます。

> のりさんも体調崩されたのでしょうか。
→アハハ!ただの“こむら返り”なんです。稽古が終わってマッサージもせずにビールを呑んで一人、うたた寝態勢に入った途端、左足がつって、それが徐々に右足へ,身体中に広がって30分間悶絶、苦闘でした。足の親指の筋を伸ばすため四つん這いになり、身体は固まって動けず冷えて行くし、脂汗はダラダラ流れるし、死ぬ思いでした。
仲間達が入ってきて大笑いしながらマッサージしてくれて解放されました。アハハ!

> その理解・・・宙が拓かれる凝視、或いは刹那の静止、に閃き落ちながら、思考に変換し、される作業を・・・見る
> 、との感じです。

→ぐわぁ〜凄い表現力!センスといい迫力・気品に圧倒されてしまいます。私の文章が小学生並みなのが恥ずかしい!

>その透明が意識されるところ、を突き抜ける、としたら、その了解は自然に訪れるかも知れません。そうしたことを忘れるほどに、突き抜けるのです。
→“突き抜ける”っていいですね!やってみます!
苦痛って私にとっては最近、飛躍へのバネの感じです。これが起きないと、ボーッとして過ぎちゃう気がします。まだまだ濁りがありますね、って気づかせてくれる感じです。

>意識が目覚めて、そのときは素晴らしかったのに
>元に戻ってしまった・・・さらに、意識が目覚めると
>・・・仕事ができない、係れない・・・

→目開け瞑想を続けるうちに意識が変容して慣れるまでは時間がかかりました。その事かな?っと勝手に思ってしまいました。自分なりに理解・了解しているつもりなのですが、何も確かめる術がなく質問させて頂きました。すみません。
目開け瞑想、目医者さんでドライアイ、と診断されてしまいました〜。アハハ!
では。

No.2625 - 2010/09/01(Wed) 17:53:59

Re: みどりの庭から / hato

とんでも、ありません。こちらこそ、判りにくくなること、ごめんなさい。いつもありがとうございます。

その項での自分の投稿はどちらかといえば、意識が目覚めると、一般的に、社会生活が困難といわれることをを例として取り上げていましたが、なにより、状態を理解されることが道を拓いてくれる・・ことを表現したかったのでした。のりさん個人の現状には適切でないこともあると思います。

なにか変化があって、状態を上手く理解できず放置して、「変容すると、仕事は無理なのだ。でも周りが助けてくれるのだ。」と言うなら、変な感じです。それはまだ、自分は尋常でなく特別なのかも知れません。

素晴らしい変化、それを一旦、余すところなく、失う、ことは、とても微妙なことが多く、誰にとっても簡単ではないのでしょう。たとえば、特別、その愉悦とは、本当に危ういところがあるけれども、不思議に導くことに貢献する、大事な要素にもなり得るからでしょう。それも上手に理解されて、たとえば上記での苦痛のように、ツールとして、あることができるように思います。

生活の得手不得手に関わらず、人の変容に係る特別な状態があるとき、それは必ず、理解されて初めて、無自覚の英知に転換される、ということ。状態を突き抜けることは、理解に貢献するとの感じです。

理解し失う、突き抜ける。
尋常でない状態が理解されて・・・日常。その謎。ただの人です。

夏休みも終わりましたね。
晩から朝にかけて、すこし涼しい気配です。

No.2628 - 2010/09/02(Thu) 07:42:06
みどりの庭から / hato
毎朝、すこし草取りをします。

朝露にびっしょりと濡れた、この原っぱのそこここで、夏の虫や、カエルが跳ぶのを見ながら、草を抜きます。茎と葉と土の、濃い匂い。抜いても抜いても、どんどん生い茂る草たちもいいので、ところどころ残します。

No.2598 - 2010/08/21(Sat) 15:10:14

Re: / hato

露草の青は、この画像では表現、しきれません。別名、ほたる草。
土の状態のためか、ここは青が濃く美しく、つい見とれてしまうのです。

No.2599 - 2010/08/21(Sat) 15:11:02

Re: / hato

ありました。屁糞かずら。大きな木の木陰で、涼しげに蔦を絡ませています。まだ匂いを知りませんが、機会があったらトライしてみます。

No.2600 - 2010/08/21(Sat) 15:14:37

Re: / hato

真木(マキ)の苗木です。垣根に使われているからでしょう。庭には、独立した何本かの太い真木の木もあり、こんな小さな苗木をよく見つけます。

No.2601 - 2010/08/21(Sat) 15:15:31

Re: / hato

日本の家屋では、垣根に真木の木を使うことが多いようですが、真木は中国あたりでは貴重とされて、喜ばれるのだそうです。蜘蛛の巣がよく張っていて、払っても翌日には元に戻ります。払いは、適度にしておきます。

No.2602 - 2010/08/21(Sat) 15:18:44

Re: / hato

地面の草に張った蜘蛛の巣が、なにか上手に螺旋を巻いていました。

No.2603 - 2010/08/21(Sat) 15:20:24

Re: / hato

すこし足を延ばして、数週間そのままにしておいたあたりを見て廻ると、栗が落ちていました。

No.2604 - 2010/08/21(Sat) 15:21:51

Re: / hato

そういえば、盆を過ぎた頃から、夕暮れどきに鈴虫がひとつふたつ鳴き始め、昨晩はすでに、大勢の声音で美しく響いていました。季節の移り変わりはいつも絶妙です。

No.2605 - 2010/08/21(Sat) 15:23:13

Re: / hato

その古い栗の木のまたから、万両が生えていました。鳥か風か・・・種が運ばれてきたのでしょうか。この家にやってきた頃、ubik0101さんと一緒にみつけて、そんな不思議さを喜びました。

実(み)はまだすこし先のようですが、楽しみのひとつです。

No.2606 - 2010/08/21(Sat) 15:23:52

Re: / hato

こちら前のアパートから持ってきた、ubik0101さんがお気に入りの、大きな実のなる万両。実(み)は甘く美味しいので、こちら2名と2羽の快鳥に啄ばまれたものの、健在です。種はこの庭の土に植えてもらって、すでにいくつかの芽を吹いています。

No.2607 - 2010/08/21(Sat) 15:24:41

Re: みどりの庭から / 大阪
コチラもおばけ植物やおばけビルでいっぱいです!!

そちらもそうみたいですね!!なによりです!!


おばけの大阪より

No.2608 - 2010/08/23(Mon) 15:31:08

Re: みどりの庭から / hato

こんばんは。こちらも相当な熱気ですがそちらも暑っ!でしょうね〜、お大事にどうぞ〜・・・。

庭手入れの具合、(まああ、おばけは考えすぎ〜ですけど、)広いわりに、思ったよりも早い感じです。ふたりともバネ指にはなりましたが(泣)、不思議と、ヤレ庭作業!畑作業!な感じでもなく・・・ubik0101さんもとくに計画しませんが、その日の具合でできること・・・お茶を飲みながら、なんとなく庭を見廻ってるうちに気付いた箇所を手入れして、あとは自然に任せます。ubik0101さんは全般をとても丁寧に作業してくれますが、それでも一日2,3時間。
とりあえず、秋までの目処はつきそうかな、と、安堵な感じです。

今日は一緒にカマス、コハダを何匹か釣って、先ほど、から揚げで頂きました。軽く揚がってこれも美味でした。ubik0101さんはまたもやフグ(25センチ強)を釣って、わたしもおなかを触ってみたら、なんと柔らかい。

もう膨れたあとだったようで、ちょっとしぼみ気味です。

No.2609 - 2010/08/23(Mon) 22:32:44
全1072件 [ ページ : << 1 ... 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 ... 215 >> ]