[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

思考実験パート4 / ubik0101
なにか知覚できること、あるいは知覚できないことと、自己との関係を探っています。たとえば、みんな一緒だ、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。幸福、に同一化、依存してるために、不幸、を認識できない。ということもあります。

また、孤独、 に同一化、依存してるために、みんな一緒だ、を認識できない。ということもあります。不幸、に同一化、依存してるために、幸福、を認識できない。ということもあります。それは狭い領域を守って、そこに人が潜んでるということでもあります。

そして、また、孤独、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。そして、幸福、 に同一化、依存してるために、幸福、を認識できない。ということもあります。このようなことは、どのようであれ、その状態と、その認識の関係です。

続きます。

No.2490 - 2010/04/06(Tue) 10:43:27

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
しかし・・・ どのようであれ、自己、はそのようではありません。つまりは、自己は、自己を認識できませんが、だからといって、認識できないこと、が自己、ではありません。そのような、それ自身がそれ自身を知覚できない、という関係そのことが自己でもありません。

また。これ、は、なぜ、これ、なのか?と世界についても、問うことができます。しかし、言葉では問えるのですが、自己、は問うことが意味を失います。

というのも、これ、たとえば風にしても鳥にしても花にしても・・・その感覚にしても、感情にしても、意識にしても、それに人が依存しなくなったので、これ、は不可知なことを顕わにする。それが、これ、が、これ、でなくてもいいのに、これ。という疑問です。が、自己は、 まったく、これ、としても自覚できません。自己は、知覚、意識の範疇にありません。

じゃ、その、ない、を知覚するのは誰?という疑問が生じるかも知れません。そういう誰かがある、とします。しかしそれでは、そういう誰かは、どのようにして、なにかを知覚することができるのか?という疑問が生じるでしょう。つまり、自己は、まったく無自覚でなければならない、のです。まったく透明でなくてはならないのです。

もしかして続きます。

この部屋の近くの丘の上の山椒の若葉です。

No.2491 - 2010/04/06(Tue) 10:57:26

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
そいえば、私は神だ。と言う人に会いました。それで「どうして神の概念がないのに、私は神だ。なんて言うのです?」と、聞いてみました。すると「・・・・」でした。

そして、しばらくして、ubik0101に「神の概念がないんですか?」と質問しました。もちろん「ないです」と答えました。

そうです。神を自分の外に見て、それに生かされてる。この世界は現象界。神は実在界。ああだ、こうだ。とか言ったりしてる間は、神と自分の分離、距離があります。そんな状態を嫌って「私は神だ」はあり得ます。でも、実際に、分離、距離が消えたら、「私は神だ」も、消えるんです。

もちろん。無我。自己。も、そうです。そいうのも、まったく事態として、そうでありきって、消えてしまいます。そして、消えるということは自覚されるのですが、まるで透明な世界に、透明な絵の具で描いた絵。これは美しさを感じます。

もしかして続きます。

No.2492 - 2010/04/07(Wed) 09:48:17

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
ならば世界は、どのように見えるでしょう。これは誰でも、確認できると思います。簡単です。たとえば、カーテンを開けて、窓の外を見ます。そして・・・なんだか言葉は頭に流れ続けてるように感じてるかも知れませんが、その思考を・・・止めます。これはその思考を凝視する、あるいは呼吸に注意を向ける。思考に止まれと命じる。で、止まります。

あるいは、また。ただ見えてる風景を、ただ見る。ただ聞く。だけ、でもいいです。たとえば。この部屋からは、春の小雨に桜が咲いて、小鳥たちが、その蜜を吸って、枝から枝に飛んでいます。それ、が、これ、です。眼や耳の感覚器官と、その対象。意識と、その対象。それ、だけ、です。

たとえば対象としての、樹、鳥、花、そして、それを見てる、なにか。主体。この、総てが、これ、が、これ、である必要も理由も根拠も、なにもないのではないでしょうか。総ては不思議。まったく未知です。

たとえば自我さえ、葛藤さえ、無我さえ、それ、が、そう、だという必要など、まったくないのです。でも、そう、なんです。 ほかに、なんの秘密もありません。この日常が、神秘、不思議です。ありとあらゆる意味が満ちてるゆえに、無意味。透明です。

もしかして?続きます。

No.2493 - 2010/04/07(Wed) 14:43:19

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
つまりは、まったく現れたままです。うろ覚えですが・・・問。「どこに道はありますか?」答。「それは眼の前にあります」です。それが透明な世界です。その明るさは人の胸まで及び・・・なんの秘密もなく、神秘もなく・・・それが明るい秘密であり、神秘です。けど、だからと言って、それを眼や耳や意識が知覚できる領域に限定する必要はありません。

もし、そこに限定するなら、たとえば自我とは、怒りや恐怖であり、葛藤であり、軋轢であり、苦痛、という、現象、になります。つまりは、そういう現象が起こらなければ自我はない、問題はない、などとなり、そこから思考が演繹され、それに日常が費やされたりします。それは執着で、狭い領域に人が隠れ住んでる、ということです。それでは知覚できない自我の正体、ない、を見逃します。

また自己を、自覚しようとすることが自我となり得ます。つまり、その領域を限定するのではなく・・・知覚できる領域と、その領域にないこと・・・それは世界が自然に行ってるのですが・・・それを明確にしなければなりません。

そのことによって、それらは十全に機能するのです。でなければ混乱です。そのことを人は、たとえ、自己、を見た、見られた、としても、本性が愚かな意識に教えねばなりません。

続きます。

No.2494 - 2010/04/08(Thu) 13:21:04

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
そいえば「ひとつ」を提唱する人に会って。「ひとつ。て、不増不減、の投影的な解釈ではありませんか?」と聞いてみました。答。「・・・」でした。不増不減とは、ありとあらゆること、ありとありえないこと、つまり森羅万象の総活動で、それは増えたり減ったりしない、ということです。そのことだけで言えば 「ひとつ」という表現は誤りではありません。しかし、自己、はその領域にはありません。

また、たしかに、樹、鳥、花、思考なども・・・それを知覚する、感情、意識にしても総てが未知です。つまり世界は、未知。もちろん自己は、未知。知ることができない繋がり、その集合とも言えます。それでも自己は「ひとつ」の領域にはありません。

もし、おなじ世界の領域にあるのなら、自己は探せば、なにか特定、個別なこと、として見つかるかもしれません。しかし、そんなことはない、です。もし、見つかるなら、それは自分が自分を知覚するという、変、なことになります。

続きます。

No.2495 - 2010/04/11(Sun) 00:27:18

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
その、変、な状態は、たしかにあり得るとは言えます。それは、自己、を感じることもない無我なら、私は電車だったり、ほかの人だったり、私は世界、だったりするでしょう。 それは、無我、の過剰、強調に思えます。そんなことは不要です。

たとえば、私は春、にしても、私は神、にしても、私は犬、にしても、自分が自分を知覚する、というのは自我の機能です。そんな自我の機能も、世界の機能です。それは、自己、ではない、です。

また。世界の総活動が、世界の総活動を認識できるのは確かです。そして、そこでしか、自己は、知ることは出来ないです。けど、その領域に自己はない、です。

たぶん続きます。

原種系のチューリップです。

No.2496 - 2010/04/11(Sun) 00:29:36
私と貴方 / peer
>hatoさんに・・・君は僕なんだよ。僕は君なんだよ・・・と言ってみました。それは、あまりに苦痛が押し寄せる気配があって、顔だけ笑ってしまうほどでした。

私の代わりに、お使いに行ってもらう。
それは可能ですが、お腹のすいた私の代わりに食事を
してきてもらっても、私のお腹は満腹には、なりません。
みたいな〜

No.2471 - 2010/03/29(Mon) 13:08:37

Re: 私と貴方 / ubik0101
まあ、「ひとつ」というのは、単なる、素材、です。たとえば人や鳥や魚の身体は、炭素とか酸素とかでできてます。それは交換可能です。そして、やっぱり眼は世界を見るし、耳は聞くし、舌は味わいます。たとえば、喜びは、喜びで、砂糖は、砂糖の味です。脳は思考を知覚します。レンジは違ったりするでしょうが、同じようなことです。

また、たとえば、バッハも、モーツアルトも、アルバートアイラーも・・・空気の振動・・・その物理特性を活用して、作曲します。セザンヌも、ゴッホも、犬塚勉も・・・光を活用して・・・おなじ絵の具を使うこともできるでしょう。なんであれ、それは、ゆるやかに互いに関係がある素材であり「ひとつ」です。でも、できる音楽や、絵画は、おなじ素材であっても、違う、作品です。

その、違いは・・・美しさとか、喜びとか、静かさとか、神秘とか・・・なんだかの表現です。と、すると、その素材は、たとえば音、絵の具、でなくてはならない。ということはありません。言葉でも、沈黙でも、樹でも、身体の状態でも、花でも、青空でも、なんでもいいです。

それは、その素材でなくてはならない・・・その素材に、たとえば大理石に・・・たとえば青年ダビデが隠れてた・・・それを掘り起こした。とも言えますが・・・創ってる。のでもあります。

その、醸しだされる表現は、それ「ひとつ」が十全に機能しながら、「ひとつ」に依存しません。自己、はそのようです。泥沼に咲く蓮華。と、いう意味です。この世界に限定するとしても、どうしたって、悪いことをして悪い世界を創るより、善いことをして善い世界を創る。が、幸せです。

No.2472 - 2010/03/29(Mon) 15:15:40

Re: 私と貴方 / peer
>眼は世界を見るし、耳は聞くし、舌は味わいます。たとえば、喜びは、喜びで、砂糖は、砂糖の味です。脳は思考を知覚します。

眼は脳を介して世界を見ているし、耳は脳を介して聞いているし、
舌は脳を介して味わいます。
脳の配列によっては、指先で味わう・匂いを感じる。
という人もいます。
また側頭葉が傷ついた人は、両親の顔写真をみて、
両親だと分かりますが、両親を見たときに感じる
感情が伴わないので、両親のコピー・・・替え玉を
見ているような、見た目はそっくりだが別人と判断する。
・・・
みたいなこともあります。
同じもので作られている、のではありますが物質界の原則
みたいなものは抜かすことができないかな・・とも思う。
のよね。。なかなか、どうも。
たったひとつのタマゴが、おなじ細胞が、色々な姿をする不思議。

No.2473 - 2010/03/30(Tue) 02:06:39

Re: 私と貴方 / ubik0101
まあ。脳が原因になって、意識を発生させてるのか?意識が、脳という機関を通路にして世界に現れてるのか?と、思ったことがあります。どっちだとしても、これだ、とは言い切れないだろうし・・・どっちでなくても脳が変調すると、意識も変調するだろうし・・・なんにしても世界は美しく・・・♪ああ人生を忘れそう、このアジアの片隅で、です。

ところで、なんにしても、奇妙、そんな思考があります。たとえば「あらかじめ出来事は起こるように起きる?」・・・そうです。いいえ。どっちでもある。どっちでもない・・・これは、事実として、どのようにも出来事を、解釈できます。けど、どう言っても、総て誤り。ではないでしょうか。

たとえば、なにかの出来事は起こります。それで、とくに心理的思考とか、軋轢を起こさない・・・ならば、問題が解決された。ということも起こりません。さて、そこで。あらかじめ出来事は起きるように起きる。でしょうか?

それ、さえ、ない、のです。でないなら、世界の総活動、を理解してないゆえの、あるいは思考が徹底してないための、誤った見解かもしれません。「思ったことは起きる」も、似たようなことと踏んでいます。

>同じもので作られている、のではありますが物質界の原則
>みたいなものは抜かすことができないかな・・とも思う。


かなりの、うろ覚えですが、禅だと思いますが・・・総てが繋がってて、それぞれが独立。絶対平等と絶対差別、その円融?という考え?境地?もあるようです。

No.2474 - 2010/03/30(Tue) 11:32:19

Re: 私と貴方 / peer
思いは、自分を変化させる力があります。
みな、ほとんど同じDNAを持ちながら個性がある。
それは環境によって生じる思いがDNAのどこかのスイッチを
ONにしたりOFFのままであったりするからのようですが。
覚醒しました。なんて場合もすでにDNAは変化しているんでしょうね。
仙人みたいな人は、固形物を食べなくても生きるようで。
脳も内臓なども、変化しているのかも。

同じ両親から生まれる遺伝子は70兆もの変化があるそうです。
70兆分の一の確率で「その人」が生じる。
そして、生じた時代や環境によって際限なく変化し続ける。
今は、そっちの方に興味が行ってます。

No.2475 - 2010/03/31(Wed) 00:39:33

Re: 私と貴方 / ubik0101
そいうことの実証研究は、眼がくらむほど、困難だろうとは思います。が、たしかにスポーツで筋肉は発達するし、たぶん思考すればシナプスが発達したり、記憶すれば、なにか、どこかに変化があるのでしょう。ヨガとか禅の修行で、頭の形が変わった。という話を聞いたことはあります。

クリシュナムルティは、洞察が、脳を変えるかも?とか話してたようです。 まあ、ほんとかどうか疑問ですが「誰も変容しなかった」というのが遺言だったそうです。その言葉には、クリシュナムルティ自身も含めるのかな?含めないのかな?ですけど。脳の劣化ではボケることはある・・・ボケないこともある・・・逆もあるかもしれません。

No.2476 - 2010/03/31(Wed) 10:28:25

Re: 私と貴方 / peer
ボケている人の脳は委縮していますね。
最近では、空間情報を脳だけでなく、細胞それ自体が
感知して、それに対して行為が起きている。
と言われます。
細胞が感知していることの総称として六感というのかも。
脳が関知する以前に、肌で違和感を感じていたりします。
体内で脳が作られる以前では、細胞(細胞膜)が、脳の働きを
しているとも、いわれます。
まっ。脳が認識できる範囲は、狭いし限界もありますね。

意識は自由自在です。しかし肉体の中に戻ると限界が生じる。
そこに、人として存在する理由がある〜と言いたい気がする。

No.2477 - 2010/03/31(Wed) 12:34:59

Re: 私と貴方 / ubik0101
まあ。脳の損傷で、涅槃、みたいな体験をしたりして。ボケて、けっこう幸せだったりして。脳?が未発達でも、凄い計算?ができたり、作曲できたり、写真のような絵が描けたりすることもあるようです。

そこで脳の機能を、細胞にも見出すと。ついでに水などの分子や、水素や炭素などの原子や、電子も、素粒子も、個性があって。それが空間に影響をあたえる、 いや空間に機能があるなんて、話になったりするかも・・・です。

>意識は自由自在です。しかし肉体の中に戻ると限界が生じる。
>そこに、人として存在する理由がある〜と言いたい気がする。


うーん。その内容に依存しない意識?なのに、限界が設定されると、たとえば大リーグ養成ギブスを着けると、剛速球。もしかして消える魔球が投げられる、ような効果がある、みたいなことでしょうか。

それとも、うろ覚えですが、なんとか居士が言った「わたしにも神通力があります。それは山で薪を背負い、桶で水を運ぶことです」。みたいなことでしょうか。

No.2478 - 2010/03/31(Wed) 14:30:28

Re: 私と貴方 / peer
神通力は、よくわかりませんが。
細胞一個の微生物も、カビも大腸菌も植物も動物も
まったく同じ遺伝子の原理を使って生きている
ということが分かったのは、ほんの40年前。
ですからねぇ。まだまだ解明されていないことが多い。
まっ。これがですよ。知らない内に活動してくれていて
あたしらの体は、出来上がってる。一日に数千億の赤血球は
壊れて。同じ数の赤血球が作られている。
ものすごいスピードで入れ替わっているんですね。
それだけでも、すごいものだと感心しますわ。
それを思うと意識というものも、ひとつのもの。
でもなく、沢山の合成物かも。と思う。

No.2479 - 2010/04/01(Thu) 00:11:22

Re: 私と貴方 / ubik0101
そいえば、脳細胞は、毎日10万個ほど壊れ続けて、そのことによって、思考することが可能なのかもしれません。なんて思って、これは凄っ。と感じたことがあります。

また。なにか真理を見たとしても、人は、さらに探求してないと安定しないようです。自我、意識とかの始まりの探求、基本研究から学ぶことが多々、な感じです。けど、どうも、世界は、真善美になりたがってる、ようにも感じられます。

たとえば・・・♪強ければ、それでいいんだ♪力さえあれば、いいんだ♪ひねくれて星を睨んだ僕なのさ(タイガーマスク)・・・という歌を聴いて、どうして、ひねくれた人が、ひねくれた、と認識できたんだろう?という疑問が生じましたが・・・孤独なら、孤独という認識もない、幸せなら、幸せと意識もしない・・・ということは人の状態と認識の関係です。それはAはAで片がつきます。けど、これはどうも、嘘とか、悪意とかでは意味が無く。善いことしか・・・これから・・・が成立しないようです。

hatoさんが、ここのところ頑張ってきた仕事は、昨日で終了です。ご苦労様でした。同僚からの、贈り物、を貰って帰りました。これから一緒に、すこしづつ、脳天気に、静岡の、農天気に向かって、引っ越し準備です。

No.2481 - 2010/04/01(Thu) 11:10:06

Re: 私と貴方 / peer
そう、毎日壊れてますね〜
人間はお腹の中に居る時に、生物の進化を一通りするようです。
生まれるまでに1000億個のニューロンは死滅し
1000億個のニューロンが残ります。
計2000億個のニューロンが作られるのに半分は人としてはいらないモノ。
だから排除される。ほんとに・・・ご苦労なことです。

>ひねくれた人が、ひねくれた、と認識できたんだろう?
>という疑問が生じましたが・・・孤独なら、孤独という認識もない、
>幸せなら、幸せと意識もしない・・・


ひねくれていない人は、ひねくれる、ということを認識できない。
孤独ではない人に、孤独は認識できない。でしょ。
ひねくれているから、ひねくれるのは損だと身にしみる。
孤独だから、孤独になりたくないとか思うのでしょう。
孤独だから、孤独な人の寂しさが分かる。
悪事をするから、悪事の痛みが実感できる。

そうですか。退職ですか。
見送られて退職した人は、hatoさんの、ちょっとした
寂しい気持ちが理解できる・・・と思いますが。
うん。。。そんなことも、ないのかな。
御苦労さまでした〜

No.2482 - 2010/04/02(Fri) 01:33:23

Re: 私と貴方 / hato

総てを孕んでいる、この日常、それ、に人が真に触れたとき、経験値からくる 自分固有の認識 を超えることができるでしょう。総てが稼動している故のそれ、ということ、ここはある意味、意識、の必要が、ない、とも言えます。それは隠されている、ということではありません。

そのとき、
ことさら、総てがある、なし、そう、である必要、がなしに、理解できることが在る、ということです。でなければ、総てを擬似体験するために、イタコになったり、いつまでも世界を調べたり、できるとして何回も生まれたり・・・することが必要、になってしまうかも知れません。

そのとき、
世界を鏡としてだけ、生きる必要がないでしょう。総ては自分、である必要がない、なぜならその理解は、知覚に依存できないからです。
愛としての共感、慈しみがあり、それ故に理解が可能になりながら、この世界、ことさら自他の分離、融合の必要がないようです。

あるとして、
どうしても、正当に、そこ、に達する、必要がある、だけです。そして尚、日常のなかで、生き・・・笑い、苦しみ、嘆き、楽しみ、味わい・・・けれどそのとき、それがそう、である必要がないこと、これが必然です。

peerさん。労いありがとうございます。
そうですね・・・なんでしょう、できることはしたのかな、
今のとこ、まだ、ぽけ、としてます。

最後まであがいた取組報告書、刊行されたら送ってくれるようです。

No.2484 - 2010/04/02(Fri) 20:46:15

Re: 私と貴方 / ubik0101
>ひねくれていない人は、ひねくれる、ということを認識できない。
>孤独ではない人に、孤独は認識できない。でしょ。


それは、面白い問題です。とりあえず極端を思考してみます。まったく宇宙に自分しかいないなら、孤独、も意識されないでしょう。そして、いつも誰かと一緒なら、孤独、も認識されないでしょう。

つまり、どっちの極端も、孤独、を認識できないです。そして、どっちの極端も、どう呼ぶのかは知りませんが・・・孤独でない・・・を認識困難なのです。

ふつう現実には、どっちにしても、そんな極端な片方だけの状況はありえないでしょう。状況も変化するし、比較できるでしょう。けど、だからと言って、孤独にしても、ひねくれてない、にしても認識できるけど、それは程度の差なんだ。環境と、感受性に依るんだ。ということで決着させる訳にはいかない問題でもあると思います。

続きます。

No.2485 - 2010/04/02(Fri) 20:47:50

Re: 私と貴方 / ubik0101
たとえば、なんだかの性格とか、状態の自分なのに、そのことに気がついてないことがあります。意地悪でないとか、優しくないとか、ひねくれてない、とか・・・(意地悪とか、優しいとか、ひねくれてる、とか)・・・自我とか、無我とか・・・でも、それに気がついたら・・・そう、でない(ある)とは、思いもしてなかった。けど、そう、だった(でなかった)・・・という二重否定のような形式で認識が起こります。

この基本は学生時代に、かなり集中して見つけたのですが。これは、そう、であって、そう、と気がつかない自分の状態を探って、そう、と認識するための、思考の領域を広げてくれたと思います。

その、発展、応用としては・・・ひねくれてても、それに気がついてなければ、ひねくれてないわけではないのです・・・とか。知らないと思ってもいないことが、知っていることではありません・・・とか、なります。

で、たとえば。誰かは、自分は、嘘つきだ。孤独だ。ひねくれて星を睨んだ。とかいう認識は、やはり、なんだかの比較が必要なんですが。自分は素直だ、という認識は、なんだかの比較では正当性がなく、世界の総てが活動しなければ、つまりは、なにか特定の理由があるわけではないために、まったくの無理由でなければ、正当性がない・・・AはA・・・世界は、そのように、善いことを望んでる、そんな気がします。

No.2486 - 2010/04/02(Fri) 20:50:37

Re: 私と貴方 / peer
どうせ人(無明)の言うことですからね。
「私は、ひねくれている」と言うには、言いたい
事情があるんだろうな〜と思いますよ。
この場合、本当にひねくれているか、いないかは関係なくて。
ひねくれているかどうか分からない人だって
その程度の発言はします。。。たぶん。
「ひねくれている」と言うことで、何か、得るものがある。
あるいは、何か得たいのでしょう。

No.2487 - 2010/04/04(Sun) 01:13:45
非難も正当化もある観察。 / ubik0101
なにか、ほかの人の行動、発言、思考を非難することがあります。ならば、どこまでも徹底して、臨界まで、そうするのです。すると・・・必然的に、そうなるのですが・・・そうせざるを得ないのですが・・・そうしてる自分の態度を非難することになります。

ここで、たとえば人に怒りをぶつけるのではなく・・・怒りという報いを、暴力という報いを・・・娯楽・・・を、受け取るのではなく、やり貫くのです。ただ、非難、であり続けるのです。

また、たとえば自分の行動、発言、思考を、正当化するなら、どこまでも徹底して、臨界まで、そうするのです。すると・・・必然的に、そうなるんですが・・・そうせざるを得ないのですが・・・なぜなら、そのような対立・分離は地続きだから・・・たとえば、自分と相反する意見を、正当化することになります。

このようだ、という相手と思う相手を斬殺、そのことは、自分だと思う自分を斬殺。このように思考は両刃の剣、それで、なんだかの特定の思考が生き残れるでしょうか。

これが相手だ、と思ってる相手は手放され、おなじことですが、これが自分だ、と思ってる自分は手放されます。 思考が燃え尽くします。

すると。そこで、静寂を感じるでしょう。暴雨風雨の中心は、青空、です。そこでは観察するような、非難も正当化もないのです。

つまり、非難も正当化もある観察は・・・非難も正当化もない観察・・・それは・・・観察しない、観察できない・・・ということです。これは、対象になってる、誰かの、自分の、行動、発言、思考だけにとどまらず、そうしてる自分の中心に及びます。

または。なにかと較べることなく、つまり絶対に、自分を正当化するのです。すると、たとえば行動と、発言と、思考が、互いに矛盾できません。ほかの言い方では。見る、聞く。思考する。が、なにも隠れようが無く隠しようがなく、赤裸々、です。これでは、たとえば嘘をついたり騙したりはできません。

ほかの人の意見を空想して、そこから自分を見たりして、なにかと較べたりしていては、こんな較べることのない正当化・・・たしかに、すでに正当化でさえないかもしれませんが・・・は、できないのです。

ふと、気がつくなら、それは、過去も未来もなくあります。 ここに、ふろく、として幸せがついてきます。おおまかに説明するなら、このようです。

No.2480 - 2010/04/01(Thu) 08:16:16
思考実験パート3 / ubik0101
たとえば・・・いわゆる心理的思考、葛藤とか軋轢などが・・・完成された・・・と、言うのは、ジグゾーパズルのように、いわゆる心理的思考、葛藤とか軋轢など、自我の機能は、未完だから運動として機能するのですが・・・解決された、静まった、世界の知覚、が、いま、ここ、とも言えます。

ならば、たしかに、いま、ここに、いるだけで幸せです。でも、それは、オマケ、です。 それだけを求めても、かなり困難だと思います。どうしても、自我は虚構、だということを見破ることが先決ではないでしょうか。

もう春の気配です・・・その曇り空を、眼は見ようとしてなくても、見ようとしても、見えて。どこかで鳴き始めた鶯は、聞こうとしてなくても、聞こうとしても、聞こえます。そのように世界が知覚されます。

それは、いま、ここ、を知覚するのではありません。知覚が、いま、ここ、です。しかし。その、自己、は、まったく知覚できません。

続きます。

No.2466 - 2010/03/26(Fri) 11:09:42

Re: 思考実験パート3 / ubik0101
また、自己と、いま、ここ、が同じなら、「わたしは世界」ですが、違います。たとえば「意識は、その内容」でしょうか。たしかに葛藤や軋轢が解決され、それが静まると・・・自分を自覚しようとする衝動、つまり自我が静まります。

つまり、自分、を自覚する必要がなくなります。そこで知覚されることは、世界・・・物質や、感情や、思考・・・だけ、です。ここでは、自分を、自覚する必要がありません。ならば、「知覚されるものは、知覚するもの」・・・たとえば「わたしは世界」・・・です。しかし、知覚できないから、ない、ではありません。また、ある、が知覚できるわけではありません。自己、は自覚できません。

もし、「意識は、その内容」なら、答えねばならない質問があります。なぜ、意識は、たとえば樹や鳥、怒りや喜び、あるいは思考・・・その内容を変えることができるのでしょう?また「意識は、その内容ではない」なら、どうして、なにか内容を、意識することができるのでしょう?これには仏陀が、すでに正答しています。中道、です。

続きます。

No.2467 - 2010/03/26(Fri) 17:09:52

Re: 思考実験パート3 / ubik0101
ここで寄り道ですが・・・中道、とは、たとえば「意識は、その内容」 と、「意識は、その内容ではない」の、真ん中で。どっちでもあり、どっちでもない・・・とするなら、それは理解のつもりの誤解、つまりは空想です。

もし、そういう真ん中が、、中道だとしても。では、それは。たとえば勇気と卑怯の、真ん中、と・・・善と悪の、真ん中、と・・・高いと低いの、真ん中、と・・・美と醜の、真ん中、と・・・ありとあらゆることの真ん中との、関係は、どうなってるでしょう。

さらに、もの、ことは・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なのに・・・たとえば、右と左、の両極端がある、と見なす根拠はあるでしょうか。

そんな、中道、は体験しなくては知り得ないかも知れません。それは、世界の総活動、です。ありとあらゆること、ありとありえないこと・・・森羅万象・・・の活動です。ゆえに、どこかの両極端の片方にも、その両方にも、真ん中にも、固定され、依存させられることができないのです。

いま、ここ、とは、中道のことです。それは、それに人が触れようが、触れまいが、そうです。そして、総てのことが、それから外れようがないのです。たとえば、怒り、不安、平穏、喜楽・・・自我の機能、さえ、それから外れようがないのです。これは増えも減りもしません。

いろいろなんですが。 ただ、自分がなかった、と気が付いてしまうということもあるんですが。世界の総活動に触れる、なる。そのことで、自我が、ない、ことが了解されます。ない、の了解は、ほかのことでは困難と思います。

No.2468 - 2010/03/27(Sat) 10:32:20

僕は / 大阪
人が胸の愛を大事に生きることが出来るなら・・・。

それだけで良いと思っています。

No.2469 - 2010/03/28(Sun) 04:08:06

Re: 思考実験パート3 / ubik0101
とは、いっても世界の総活動が激流だとしたら、いま、ここ、は、ゆったりと流れるでもなく流れてる大河です。それは透明です。なにかの意味、あるいは総ての意味が消去されたからではなく、総ての意味が孕まれて静か、です。たとえば、ことさら「ひとつ」ということも「分離」もありません。

まあ、実験で、hatoさんに・・・君は僕なんだよ。僕は君なんだよ・・・と言ってみました。それは、あまりに苦痛が押し寄せる気配があって、顔だけ笑ってしまうほどでした。それは、ubik0101にとっては嘘です。自我によって、ない、から、ある、を創ってるのは世界の戦略で、世界が、どうも、真善美、な世界になりたがってるのを感じました。

それは、そうとも言えるけど・・・違うんだ・・・そうだな・・・・わたしは、便器なんだ。わたしの・・・じょご、じょごは・・・自分で受けるしかないんだ。自業自得なんだ・・・・・・それは、悟らなきゃ、わからないんだ・・・理論的にでも考えて頂戴・・・・わたしも無我、便器も、無我なんだ・・・わたしはubik0101・・・それで、なんも問題がない・・・それは精神の必然なんだ。わたしは境涯で勝負するんだ。

なんだ、また知覚依存症の、愚か者さん?それは、それで、味わいある話は楽しめます。でも、わたしがないなら、どうして便器が、わたしなんです?なんだか、それぞれ人が、ほかのどんなことにもよらず、そのことだけにおいて、ただ自分で確かめた事実・・・真理・・・を素直に話すことが、とても大切だと感じます。そこから始まることがあるような気がします。

ということで、大阪さん、HPは、まだ?すぐ、リンクさせてもらいます。

続きます。

No.2470 - 2010/03/28(Sun) 09:55:57
こんばんは / peer
私は、心の仕組みみたいなものを書いてみただけで
はい。自己とか、あるとかないとかからは・・・外れてます。

で、ですね。あの続きがあります。

この惜しむ自分を素直に「しょうがないね。わたしって」と
認める人は、傷が浅いかなぁ〜と思うのですよ。
わたしってケチだなぁとか・・・。

しかし、常人はここから、正当化を始める場合が多くありまして。
もちろん、正当化しているとか、思わないんですね。

惜しむ自分に気付きたくない、でも違和感があるので
なんとか、納得したい、心を落ち着かせたい。
そんな場合のことです。

「どうせ、プレゼントしても喜ばないんじゃないかな」とか
「いらない、って言われたら悲しいし・・・」とかね
どんどん思考が入ってきて
とっくに惜しむ自分の姿はなかったことのように、影に消えていきます。

プレゼントできない理由を、作って行くんですよ。
で、ゴチャゴチャしているうちに
「プレゼントしなくて良かった」みたいになっているんですね。

この思考の全体の流れは、瞬間に起きて、瞬間に終わってます。
だから・・・正当化って、なかなか気づきにくい。

まっ。そんなのを思いついたので、ちょっとね。

No.2459 - 2010/03/23(Tue) 23:44:29

Re: こんばんは / ubik0101
そんなのは、もう、ほっとけ、なんですが。たしかに。一貫した姿勢がとれないために、あまりに自分の行動、発言、思考が、たがいに矛盾して支離滅裂、だということにも気が付いてない・・・ので、迷ってる、とも思ってもなくて・・・その都度、正当化してることにも気が付いてない。そんな状態がありそうです。

だとすると、自分の得になる都合のいい、意見や、約束だけは守り、ほかの人の嘘は、隠れて批判する。あるいは支離滅裂なんで、ころころ自分の気分も意見も変わって、すぐに忘れて、許した気になる。執着してない気になる。そんなこともありそうです。

そして、面と向かって批判しても、ガス抜きや、恐怖の投げつけあいしてることに気が付かない。そういう娯楽で、エネルギーを消耗・・・「すでに報いを受けてしまってる」・・・それは、ほかのみんなも、そうだから、そういうことを止めないことが、人間関係を壊さないことだ、とか。批判を自分には向けない、とか。で、支離滅裂な状態の、正当性を維持したりもできるのでしょう。

まあ、キリがないです。世間って、そんなことかもしれませんが、その無知な、どろどろの泥沼は、蓮華の栄養でもあって、学ぶことができることが一杯あって。そこでは、ただ、嘘を言わない、約束を守る。それだけも、自分を探求する姿勢なら、修行になり得ます。そして無知が叡智に転換し得るし、とてもよく出来てる、とも言えるようです。

No.2461 - 2010/03/24(Wed) 11:46:49

Re: こんばんは / ubik0101
追伸。

もしかして、支離滅裂、というのは、ほとんど、無明・・・それ自体は知覚できませんが・・・行動、発言、思考として顕れて、知覚できるようになる・・・そんな根っこの事例かもしれません。

たとえば、自分の都合がよいように、ころころ意見や態度を変え、そのつど過去を作りかえて、正当化の根拠を捏造する。その、自分の都合だということは、ほかのことより自分の所有や環境、自分の感情、自分の意見、を優先することなのでしょう。

それは実は、自分の所有物や環境、感情や、自分の意見でもなんでもなくて・・・そんな所有物や環境、感情や、意見も・・・その自分も・・・世界が、その人に提供してることなのに・・・それを自分がしてる。と思いこむことのようです。 そこには、自他との関係に不平等が設定されてて、権力欲に繋がりやすいでしょう。

それは葛藤や軋轢を巻き起こして。そのようにして、そうしてる自分を自覚したい、ということでもあるかもしれません。そうしなくなったら、問題がなくなって、問題がなくなったことにも気が付かない・・・と、いうことに気が付きたいから、やっぱり問題を起こす原因にしがみつく、ということがありそうです。

No.2462 - 2010/03/24(Wed) 16:33:00

Re: こんばんは / peer
>それは葛藤や軋轢を巻き起こして。そのようにして、そうしてる自分を自覚したい、ということでもあるかもしれません。そうしなくなったら、問題がなくなって、問題がなくなったことにも気が付かない・・・と、いうことに気が付きたいから、やっぱり問題を起こす原因にしがみつく、ということがありそうです。


何かを自覚するためには、それに相反するモノ・状況が
起きてくる必要がある。のかもしれません。
それに気がつかず、反対のものにノッカカッタままでいる
ことにが、問題になるんでしょう。
そして因果応報というような揺り返しとなって〜。
そんなこんなを世間と言うものは繰り返していく。のかなって

No.2463 - 2010/03/25(Thu) 00:30:27

Re: こんばんは / ubik0101
まあ、言い方としては・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なことが・・・つまり、ありとあらゆること・・・が、出来事としての世界です。そして。また、起こらないこと・・・ありとありえないこと・・・も、ある(微妙な言い方)でしょう。

それを、たとえば、あることと、その反対のことは違うとか・・・あることと、その反対のことは、おなじこと、とか・・・なにか狭い範疇に閉じこもって、あれとこれを空想で関係づけて解釈する。そのことで、そうしてる中心、私、僕、俺が・・・予め・・・捏造される。ことに気が付かない。それが問題、とも言えます。

そんなことができるのは、あること、が不確定だからかもしれません。たとえば、怒り、暴力、甘い、見る、とある概念など・・・あること・・・は、独立して確定されてることではなく・・・不確定・・・ほかの、あることも・・・たとえば喜び、非暴力、辛い、聞く、とある概念など・・・もそうです。 つまり、あることと、ほかのこととは、関係があってなり立ちます。

まったく、無限の宇宙の真ん中に、ぽっと、怒り、だけが浮かんでる。ぽっと、暴力だけが、浮かんでる。そんなことは難しいでしょう。それなのに、まるで、それらを独立してるかのように扱いながら、怒りと暴力を人為的に関係づけても、非暴力を人為的に関係づけても、詮無いことです。キリがない、無限の空想が可能でしょう。で・・・それを観察してる中心が捏造され・・・永遠の迷いです。そして無関係もあり得えます。

ただ完全な関係と、完全な無関係は・・・完全な融合も、分離も・・・まあ、日常の知覚の範疇では起こらないでしょう。それは知り得ない・・・なので、ぽっと、見えること。また、ぽっと、見えることを、独立したこととして、自分勝手に結びつけてしまうのではないでしょうか。

そこに、たとえば「思うことは実現する」とか。「運命は決まってる」とか。その類似のことと、その反対のことと、無関係なことが空想されたりします。

hatoさんと一緒に、先週の連休。行ってみた、明治神宮です。

No.2464 - 2010/03/25(Thu) 10:36:30

Re: こんばんは / ubik0101
結婚式、してました。
No.2465 - 2010/03/25(Thu) 10:39:38
全1069件 [ ページ : << 1 ... 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 ... 214 >> ]