[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

自己って / マリモの匂い
何でしょう?

真我なるものがあるのでしょうか?

それともただ世界という映像が流れ、自分が知覚するその世界そのものがあるだけでしょうか?
そしてその世界を見ている自分があるという錯覚を起こすだけでしょうか?

あなたがご存知ならばご教授ください

No.2505 - 2010/04/15(Thu) 20:13:25

Re: 自己って / ubik0101
マリモの匂いさんが「真我」と呼んでるのを、ここでは、自己、と呼んでるのだと思います。

そして「その世界を見ている自分があるという錯覚」を、自我、と呼んでいます。

ただ、こういうことは、自分で確認する必要があると思っています。

No.2506 - 2010/04/15(Thu) 21:32:00

Re: 自己って / マリモの匂い
お返事をいただけて嬉しく思います

>ただ、こういうことは、自分で確認する必要があると思っています。

ごもっともです。しかしいかにして?
これを書いている私は「錯覚としての私」でしょうから、錯覚が何をどのように努力すればいいのでしょうか?

あとあなたの仰るところの「自己」とは何か説明していただけないでしょうか?
HPの方では該当する記事が見当たらなかったように思えますので

No.2507 - 2010/04/15(Thu) 21:38:21

Re: 自己って / ubik0101
もしかして、自己は、自我を見破る、おなじことですが、無我、を体験することで・・・発生する、与えられる・・・のかもしれないと疑っているからです。

つまりは、自分で、実証しないでも・・・杞憂かも知れませんが・・・初めから、自己、だ・・・とは言い切れないからです。

それを実証するには、決まった方法はないと思います。その人の努力に関係なく、関係なくもなく、それは起きるのだと思います。

ubik0101の場合は、だれから教えられたわけではありませんが、ひたすら自分が自分と感じる自分を否定していく・・・否定の道・・・自分の中心を探ることをしました。

なにかが起きるということも知らなかったのです。また、なにか成果を求めるというわけではなく、懸命だったです。ただ、禅では、その方法を実施して、効果があるようなので、そちらを、まあ、お勧めしています。

うーん。自己は、実在、の直系と感じました。これで、今日は、おやすみなさい、です。

No.2508 - 2010/04/15(Thu) 22:50:28

Re: 自己って / マリモの匂い
ubik0101様

お返事ありがとうございます。

>その人の努力に関係なく、関係なくもなく、それは起きるのだと思います。

左様ですか。何ができるというわけでもない。厳しいものです。

>もしかして、自己は、自我を見破る、おなじことですが、無我、を体験することで・・・発生する、与えられる・・・のかもしれないと疑っているからです。

ここで言われている事は、「自己」なるものは何かから発生するということでしょうか?


>つまりは、自分で、実証しないでも・・・杞憂かも知れませんが・・・初めから、自己、だ・・・とは言い切れないからです。

申し訳ありません。ここの文章は何度か読んでみたのですが意味が把握しきれません。
拙い読解力で申し訳ありません。
よろしければ説明をいただければと思います。

No.2509 - 2010/04/16(Fri) 20:21:23

Re: 自己って / ubik0101
ない、が、ある、振りをしてる、それが自我ではないでしょうか。ない、のに、俺、私、僕、が、ある、として活動して、ここに自分は、ある、と感じるのではないでしょうか。いわゆる軋轢や葛藤・・・苦痛や興奮・・・自我の機能・・・は、人が自分自身を自覚したいという衝動ではないでしょうか。

ほかの言い方では、どんなことも世界が人にしてあげてるのに、それを人が主導権を持ってしてる。と、思い違うことが、自我とも言えます。自我は、自分が主人、親分、だと思っているかも知れませんが、実は、もの、こと、に過剰に依存してる、拠り所にしてる、倒錯してる、召使い、奴隷、状態ではないでしょうか。そのようにして、世界は人を訓練してる、育ててる、と感じます。

それで、世界の総活動が、ほとんど瞬間に、それ自身を人に開示する。そんな体験で、 その、ない、自我から、ほんとうに、ある、自己を創ってるのではないでしょうか。もの、ことに依存しない、倒錯しない、自己、を創ってるのが、世界の戦略と感じます。

そのように、ない、自我から、ある、自己、が発生、与えられないと。人は、ある、振りをしてる自我のままで、ない、ままで。一生を終えてしまう。ない、が、ない、に帰してしまう。かもしれないと杞憂するという意味です。

この、ない、ある、は日常意識では知覚できません。世界の総活動に接した、なった、ら知覚できます。ほとんど偶発ですが、それでも自己を知る努力は、より深い体験を起こしてくれる、と感じます。

No.2510 - 2010/04/16(Fri) 21:33:42

Re: 自己って / マリモの匂い
ubik0101様

難解な回答をいただきました。しばらく咀嚼が必要なようです。
お返事ありがとうございました

No.2513 - 2010/04/18(Sun) 17:14:07

Re: 自己って / ubik0101
できるだけ正確に話そうとしてるので、かえって判りにくいのかもしれませんが・・・また、いつでも気軽に投稿ください。
No.2514 - 2010/04/18(Sun) 19:11:42
自分 / 大阪
横からすみません。誰かが話していると横から話したくなります。

うびさんは自分が人間の底辺にいることに気付いた、とうようなことを言っていたと思います。

それは、探っていくうちに、最低になったのですか?

それとも自分の最低っぷりに気付いていった、ということですか?

例えば自分が誰かを差別していること。欲にのまれていること。怠惰であること。嘘をついていること。

No.2511 - 2010/04/17(Sat) 11:37:48

Re: 自分 / ubik0101
ひたすら.なりふり構わず、自分の中心に向かって掘り進むこと・・・タマネギの皮を剥くように・・・これが自分が自分と思う自分を見つけ次第・・・その立場を成り立たせてる前提を暴き出す。そして、さらに、その前提を見つける・・・それを、ひたすら生活として実際に生きたのです。

たとえば、嘘をついても、なあなあで生きてる・・・損得とか・・・社交辞令とか・・・社会的な基準によって暮らしてる、ほかの人や自分に気が付いたら、そういう社会的な基準の正体を見つけて、それに正当性がないこと見つけて、そう思う自分を、実際に捨てるんです。

それで、まあ。価値観とか、判断基準とか、そういうことを捨てていくと、それは結果としてですが、なんの拠り所もなく・・・まあ、拠り所がない、ということには拠り所を持ってしまいやすいのですが・・・それを実際に生き・・・人が、素直、になるしかないのです。

でも、それはやはり辛い生活でした。素直なんだけど、傍若無人でもあるし・・・ どこかネットで見たのですが無師独悟という書の広告に「友を捨て、友から捨てられ。親類を捨て、親類から捨てられ」。という、まさに、ただ生き物としての人、としての最低層に、ただ生きてる。そんな状態になりました。

でも、そこで見つけたのは、その頃は、プログラム、と呼んでいましたが。どんな人が、でき得ることも、そう世界ができ得るように、できてるだけ・・・まったく自由がない、絶望とも意識もできない絶望・・・絶対不自由でした。

No.2512 - 2010/04/17(Sat) 13:35:42
続・私と貴方 / ubik0101
> どうせ人(無明)の言うことですからね。
>「私は、ひねくれている」と言うには、言いたい
>事情があるんだろうな〜と思いますよ。
>この場合、本当にひねくれているか、いないかは関係なくて。
>ひねくれているかどうか分からない人だって
>その程度の発言はします。。。たぶん。
>「ひねくれている」と言うことで、何か、得るものがある。
>あるいは、何か得たいのでしょう。


たしかに、それもあり、です。すこし話を戻して。たとえば、ひねくれてない、に同一化、依存してるために、ひねくれてる、を認識できない。ということもあります。孤独ではない、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。

おなじように、ひねくれてるにも、孤独にも、同一化、依存してる、ということもあり得ると思います・・・そこで一貫性、持続力が育てられてる、ということでもあるんですが・・・そんな孤独、ひねくれてる、が自分の状態として社会に対する主張にもなり得ます。それに賛同したり反対したり無視もできるでしょう。ほかの、どんな、もの、ことだって、そうなり得るでしょう。

これはもう真っ暗闇に、眼が眩む、です。それで、とりあえず生活に展開されてる、展開されるだろう、なにかにしがみつき、いつのまにか、あれが欲しい、これが欲しくない、とかの欲望な生活に埋没して生きてく、と決心してしまうこともありそうです。それだって、この自分を意識するために。守る、を学ぶために。無意味ではないです。それを拒否してしまっても問題、という面もあります。

どいうわけかubik0101は、そんなことに染まらない、関わらないでいる努力をしたために・・・たとえば大人は、社会は敵だ、とかいうことで自分の立場を持ちたくなかった・・・大変でした。 そして、社会は、そのように見えるだけなのに、そのように見てる個人の集合。ということもあるかもしれません。

たぶん当人は、そこから学ぶことが多すぎて、どう始めるか、始めることさえ困難かも知れません。静かな時に気がつこうとか、観察とか・・・対症療法はあるけど。根本治療に繋がるのは、しかも一気に解決するのは・・・いろんな言い方があるとしても「自分自身を知れ」だと、思います。

No.2488 - 2010/04/04(Sun) 14:05:51

Re: 続・私と貴方 / hato

部屋のベランダには鉢植えの、ちょっと素敵なチューリップが咲き始め・・アパートの周りでは、スミレが可憐に咲いてます。早春・・・そして春です。

No.2489 - 2010/04/04(Sun) 14:23:15

Re: 続・私と貴方 / peer
>「自分自身を知れ」だ

と言ってもねぇ。固定されていないし〜
こういう場合は、こうする。ああいう場合はああなる。
なんらかの関係がないと、見えないです。よ。
この世界では、相対性でしか認識できないのでは?

No.2497 - 2010/04/11(Sun) 02:16:21

Re: 続・私と貴方 / ubik0101
これ、とか、それ、とかとして・・・ どんな個別の、もの、ことを・・・その関係を・・・知ったとしても、そのことが、自己、を知ることにはなりません。そして、自己、ということも、なにか固定された、または不安定な個別のこと、ではありません。

たとえばサッカーでも、水泳でも、労働でも、身体は育てられ鍛えられるように。 ただ人は、ありとあらゆるもの、こと・・・この知ることができない、不思議な、神秘な、世界・・・を触媒として、自己、を知ろうとするために、活用できるだけです。

そのように、どんな、もの、ことも、自己、を知ろうとするための、育てるための訓練、運動、負荷、になり得ます。そんな、どんな、もの、ことも、代替可能です。そんなほどのことなので、これ、とか、それ、に依存しないことも、それゆえ可能です。

そこで、たとえば、世界の総てを歩き回って自己を見つけるとしても、その探した、ということが訓練、運動、負荷。になるだけです。それもありかもしれませんが、この日常を、この自分を掘り下げること・・・否定の道・・・「自分自身を知れ」が、もっとも直截ではないでしょうか。

No.2498 - 2010/04/11(Sun) 14:18:10

Re: 続・私と貴方 / peer
う〜ん。こういうことを書きたかったのだと気付いた。

「自分自身を知れ」と言ってもねぇ。
知ろうとするのは、知らないから、かなと思うけど
みんな、知ろうとしなくても、「自分自身」を
知っているんじゃないかと〜思うのですが。認めないだけで。
認めない〜から、ない、と勘違いして、探すのでは?

No.2499 - 2010/04/13(Tue) 21:11:47

Re: 続・私と貴方 / ubik0101
まあ、それもあり、です。でも、知ってない、と思ってもないことが、知ってる。ということではありません。ほかの言い方をすると。すでに無前提に知ってると見なして、そのことを無意識でさえ疑ってないから、実は知らないということに、気がつかないで、知ろうともしない。ということもあります。

だって、自分が自分を知らないなんて、誰に聞いたって、そんな変なことはないじゃないですか。と、いう状態なら、かなり、どうにも難しいです。peerさんの言う通り・・・知ろうとすることは、知らない、ということが顕わになってしまうので、それを認めると無知が顕わになるから嫌、つまりは意識の表面には現れない無意識の無知の傲慢ということもあるかもしれません。

それだと、自分は自分を知り得ない・・・「眼は、その眼を見れない」・・・とか聞くと。それなら、ありのままでいいんだ。知らないまま知ってるんだ。このままでいいんだ。なんて思ってしまったりするかもしれません。

(知らない、ということが、どれほど意味があるかに気がつかないかもしれません。まずは、知る。ということがどういう意味なのかさえ、疑問になり得ると思います)。

でもまあ、実は、みんな自分自身を知ってて、「自分自身を知れ」とは、余計なお世話と言うことも、あり得ます。そう提唱してる人が、実は、自分自身を知らないだけ、ということもあり得ます。でも、自分自身を知る、ということは、自我を見抜いたということで、初めから、それを知ろうとしてなくても知っていた。ということはあり得ないとは言えないけど難しいと思います。

No.2500 - 2010/04/13(Tue) 23:02:42

Re: 続・私と貴方 / ubik0101
それと。すでに知ってるのに、知らない振りをして探す・・・ならば、探さなければ知ってる・・・ということはあるかもしれませんが、それもやはり、自我を見抜くのは困難だと思います。
No.2501 - 2010/04/13(Tue) 23:26:57

Re: 続・私と貴方 / peer
たとえばよ。
犬でも猫でも人でも、CENSOREDことが出来ますか?
と自分に尋ねるとします。
「いやー、殺せないなぁ」と言う。その理由もみつからないなら
そういう自分なんでしょ。そういう自分自身。
理由が言えて「殺せない」と言うなら、アヤシイと思う。
そんなふうに。(例えが悪いかもしれませんが)
自分自身って、理由のない湧き出ている、そんなもの。
・・・のような気がするんです。
また上手く言えませんでした。

No.2502 - 2010/04/14(Wed) 00:49:13

Re: 続・私と貴方 / ubik0101
peerさんの言うことは、 もしかして。「悟り終わって悟りなし」ということでしょうか。 その意味での、これまで学んだこと、また学ぶこと総てが活動してるので、日常、どれか特定なことに依存することもない・・・透明・・・そのことを、理由はなく自己、と表現してるのでしょうか。

そうでないのに。すでに理由もなく自己なんだから、そのことに気がつけばいいんだよ。また、すでに自己なんだから、気がつく必要もないんだよ。いや、気付くなんて、もってのほかだ。なんて、姿勢も流布されてるようです。

それだって人が無条件に自己だということが、前提、になってのことでしょう。その前提が正しいと実証していないのに・・・それはただ自己に気がつくと言っても、そのとき自己が発生すると言っても説明不足なのに・・・そいうことを言っても、どうしようもないということもあります。しかし、それさえ・・・世界の機能・・・です。

たとえば誰か、また自分の言動の正しさや、苦痛や葛藤の有無で。どれだけ葛藤の機能を理解してるかで。自我を解決してるか判定するということも・・・なんでもありなんで・・・たしかな基準にはできません。まあなにかを基準にするなら、怪しい、かもしれません。

なんにしても、自己が自己だということの基準にできるなら・・・たとえ理由がない、ということも基準にするなら・・・自己ではなく、とある状態、ということになりやすいかもしれません。 そいうことも解決されて問題なく、自己、ということも忘れた、でしょうか。

No.2503 - 2010/04/14(Wed) 21:59:29

Re: 続・私と貴方 / peer
ふうん。
>姿勢も流布されてるようです。

って、リュウフされているんですか・・。
わたしが勝手に、思いついた〜となったのを書いたのですが。
人が思いつくことなんて、世の中に流布されているようなこと
なのね。
どうも、オジャマサマでした。
またなにかフツフツと出てきたら、書いてみます。

No.2504 - 2010/04/15(Thu) 00:42:08
思考実験パート4 / ubik0101
なにか知覚できること、あるいは知覚できないことと、自己との関係を探っています。たとえば、みんな一緒だ、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。幸福、に同一化、依存してるために、不幸、を認識できない。ということもあります。

また、孤独、 に同一化、依存してるために、みんな一緒だ、を認識できない。ということもあります。不幸、に同一化、依存してるために、幸福、を認識できない。ということもあります。それは狭い領域を守って、そこに人が潜んでるということでもあります。

そして、また、孤独、 に同一化、依存してるために、孤独、を認識できない。ということもあります。そして、幸福、 に同一化、依存してるために、幸福、を認識できない。ということもあります。このようなことは、どのようであれ、その状態と、その認識の関係です。

続きます。

No.2490 - 2010/04/06(Tue) 10:43:27

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
しかし・・・ どのようであれ、自己、はそのようではありません。つまりは、自己は、自己を認識できませんが、だからといって、認識できないこと、が自己、ではありません。そのような、それ自身がそれ自身を知覚できない、という関係そのことが自己でもありません。

また。これ、は、なぜ、これ、なのか?と世界についても、問うことができます。しかし、言葉では問えるのですが、自己、は問うことが意味を失います。

というのも、これ、たとえば風にしても鳥にしても花にしても・・・その感覚にしても、感情にしても、意識にしても、それに人が依存しなくなったので、これ、は不可知なことを顕わにする。それが、これ、が、これ、でなくてもいいのに、これ。という疑問です。が、自己は、 まったく、これ、としても自覚できません。自己は、知覚、意識の範疇にありません。

じゃ、その、ない、を知覚するのは誰?という疑問が生じるかも知れません。そういう誰かがある、とします。しかしそれでは、そういう誰かは、どのようにして、なにかを知覚することができるのか?という疑問が生じるでしょう。つまり、自己は、まったく無自覚でなければならない、のです。まったく透明でなくてはならないのです。

もしかして続きます。

この部屋の近くの丘の上の山椒の若葉です。

No.2491 - 2010/04/06(Tue) 10:57:26

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
そいえば、私は神だ。と言う人に会いました。それで「どうして神の概念がないのに、私は神だ。なんて言うのです?」と、聞いてみました。すると「・・・・」でした。

そして、しばらくして、ubik0101に「神の概念がないんですか?」と質問しました。もちろん「ないです」と答えました。

そうです。神を自分の外に見て、それに生かされてる。この世界は現象界。神は実在界。ああだ、こうだ。とか言ったりしてる間は、神と自分の分離、距離があります。そんな状態を嫌って「私は神だ」はあり得ます。でも、実際に、分離、距離が消えたら、「私は神だ」も、消えるんです。

もちろん。無我。自己。も、そうです。そいうのも、まったく事態として、そうでありきって、消えてしまいます。そして、消えるということは自覚されるのですが、まるで透明な世界に、透明な絵の具で描いた絵。これは美しさを感じます。

もしかして続きます。

No.2492 - 2010/04/07(Wed) 09:48:17

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
ならば世界は、どのように見えるでしょう。これは誰でも、確認できると思います。簡単です。たとえば、カーテンを開けて、窓の外を見ます。そして・・・なんだか言葉は頭に流れ続けてるように感じてるかも知れませんが、その思考を・・・止めます。これはその思考を凝視する、あるいは呼吸に注意を向ける。思考に止まれと命じる。で、止まります。

あるいは、また。ただ見えてる風景を、ただ見る。ただ聞く。だけ、でもいいです。たとえば。この部屋からは、春の小雨に桜が咲いて、小鳥たちが、その蜜を吸って、枝から枝に飛んでいます。それ、が、これ、です。眼や耳の感覚器官と、その対象。意識と、その対象。それ、だけ、です。

たとえば対象としての、樹、鳥、花、そして、それを見てる、なにか。主体。この、総てが、これ、が、これ、である必要も理由も根拠も、なにもないのではないでしょうか。総ては不思議。まったく未知です。

たとえば自我さえ、葛藤さえ、無我さえ、それ、が、そう、だという必要など、まったくないのです。でも、そう、なんです。 ほかに、なんの秘密もありません。この日常が、神秘、不思議です。ありとあらゆる意味が満ちてるゆえに、無意味。透明です。

もしかして?続きます。

No.2493 - 2010/04/07(Wed) 14:43:19

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
つまりは、まったく現れたままです。うろ覚えですが・・・問。「どこに道はありますか?」答。「それは眼の前にあります」です。それが透明な世界です。その明るさは人の胸まで及び・・・なんの秘密もなく、神秘もなく・・・それが明るい秘密であり、神秘です。けど、だからと言って、それを眼や耳や意識が知覚できる領域に限定する必要はありません。

もし、そこに限定するなら、たとえば自我とは、怒りや恐怖であり、葛藤であり、軋轢であり、苦痛、という、現象、になります。つまりは、そういう現象が起こらなければ自我はない、問題はない、などとなり、そこから思考が演繹され、それに日常が費やされたりします。それは執着で、狭い領域に人が隠れ住んでる、ということです。それでは知覚できない自我の正体、ない、を見逃します。

また自己を、自覚しようとすることが自我となり得ます。つまり、その領域を限定するのではなく・・・知覚できる領域と、その領域にないこと・・・それは世界が自然に行ってるのですが・・・それを明確にしなければなりません。

そのことによって、それらは十全に機能するのです。でなければ混乱です。そのことを人は、たとえ、自己、を見た、見られた、としても、本性が愚かな意識に教えねばなりません。

続きます。

No.2494 - 2010/04/08(Thu) 13:21:04

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
そいえば「ひとつ」を提唱する人に会って。「ひとつ。て、不増不減、の投影的な解釈ではありませんか?」と聞いてみました。答。「・・・」でした。不増不減とは、ありとあらゆること、ありとありえないこと、つまり森羅万象の総活動で、それは増えたり減ったりしない、ということです。そのことだけで言えば 「ひとつ」という表現は誤りではありません。しかし、自己、はその領域にはありません。

また、たしかに、樹、鳥、花、思考なども・・・それを知覚する、感情、意識にしても総てが未知です。つまり世界は、未知。もちろん自己は、未知。知ることができない繋がり、その集合とも言えます。それでも自己は「ひとつ」の領域にはありません。

もし、おなじ世界の領域にあるのなら、自己は探せば、なにか特定、個別なこと、として見つかるかもしれません。しかし、そんなことはない、です。もし、見つかるなら、それは自分が自分を知覚するという、変、なことになります。

続きます。

No.2495 - 2010/04/11(Sun) 00:27:18

Re: 思考実験パート4 / ubik0101
その、変、な状態は、たしかにあり得るとは言えます。それは、自己、を感じることもない無我なら、私は電車だったり、ほかの人だったり、私は世界、だったりするでしょう。 それは、無我、の過剰、強調に思えます。そんなことは不要です。

たとえば、私は春、にしても、私は神、にしても、私は犬、にしても、自分が自分を知覚する、というのは自我の機能です。そんな自我の機能も、世界の機能です。それは、自己、ではない、です。

また。世界の総活動が、世界の総活動を認識できるのは確かです。そして、そこでしか、自己は、知ることは出来ないです。けど、その領域に自己はない、です。

たぶん続きます。

原種系のチューリップです。

No.2496 - 2010/04/11(Sun) 00:29:36
私と貴方 / peer
>hatoさんに・・・君は僕なんだよ。僕は君なんだよ・・・と言ってみました。それは、あまりに苦痛が押し寄せる気配があって、顔だけ笑ってしまうほどでした。

私の代わりに、お使いに行ってもらう。
それは可能ですが、お腹のすいた私の代わりに食事を
してきてもらっても、私のお腹は満腹には、なりません。
みたいな〜

No.2471 - 2010/03/29(Mon) 13:08:37

Re: 私と貴方 / ubik0101
まあ、「ひとつ」というのは、単なる、素材、です。たとえば人や鳥や魚の身体は、炭素とか酸素とかでできてます。それは交換可能です。そして、やっぱり眼は世界を見るし、耳は聞くし、舌は味わいます。たとえば、喜びは、喜びで、砂糖は、砂糖の味です。脳は思考を知覚します。レンジは違ったりするでしょうが、同じようなことです。

また、たとえば、バッハも、モーツアルトも、アルバートアイラーも・・・空気の振動・・・その物理特性を活用して、作曲します。セザンヌも、ゴッホも、犬塚勉も・・・光を活用して・・・おなじ絵の具を使うこともできるでしょう。なんであれ、それは、ゆるやかに互いに関係がある素材であり「ひとつ」です。でも、できる音楽や、絵画は、おなじ素材であっても、違う、作品です。

その、違いは・・・美しさとか、喜びとか、静かさとか、神秘とか・・・なんだかの表現です。と、すると、その素材は、たとえば音、絵の具、でなくてはならない。ということはありません。言葉でも、沈黙でも、樹でも、身体の状態でも、花でも、青空でも、なんでもいいです。

それは、その素材でなくてはならない・・・その素材に、たとえば大理石に・・・たとえば青年ダビデが隠れてた・・・それを掘り起こした。とも言えますが・・・創ってる。のでもあります。

その、醸しだされる表現は、それ「ひとつ」が十全に機能しながら、「ひとつ」に依存しません。自己、はそのようです。泥沼に咲く蓮華。と、いう意味です。この世界に限定するとしても、どうしたって、悪いことをして悪い世界を創るより、善いことをして善い世界を創る。が、幸せです。

No.2472 - 2010/03/29(Mon) 15:15:40

Re: 私と貴方 / peer
>眼は世界を見るし、耳は聞くし、舌は味わいます。たとえば、喜びは、喜びで、砂糖は、砂糖の味です。脳は思考を知覚します。

眼は脳を介して世界を見ているし、耳は脳を介して聞いているし、
舌は脳を介して味わいます。
脳の配列によっては、指先で味わう・匂いを感じる。
という人もいます。
また側頭葉が傷ついた人は、両親の顔写真をみて、
両親だと分かりますが、両親を見たときに感じる
感情が伴わないので、両親のコピー・・・替え玉を
見ているような、見た目はそっくりだが別人と判断する。
・・・
みたいなこともあります。
同じもので作られている、のではありますが物質界の原則
みたいなものは抜かすことができないかな・・とも思う。
のよね。。なかなか、どうも。
たったひとつのタマゴが、おなじ細胞が、色々な姿をする不思議。

No.2473 - 2010/03/30(Tue) 02:06:39

Re: 私と貴方 / ubik0101
まあ。脳が原因になって、意識を発生させてるのか?意識が、脳という機関を通路にして世界に現れてるのか?と、思ったことがあります。どっちだとしても、これだ、とは言い切れないだろうし・・・どっちでなくても脳が変調すると、意識も変調するだろうし・・・なんにしても世界は美しく・・・♪ああ人生を忘れそう、このアジアの片隅で、です。

ところで、なんにしても、奇妙、そんな思考があります。たとえば「あらかじめ出来事は起こるように起きる?」・・・そうです。いいえ。どっちでもある。どっちでもない・・・これは、事実として、どのようにも出来事を、解釈できます。けど、どう言っても、総て誤り。ではないでしょうか。

たとえば、なにかの出来事は起こります。それで、とくに心理的思考とか、軋轢を起こさない・・・ならば、問題が解決された。ということも起こりません。さて、そこで。あらかじめ出来事は起きるように起きる。でしょうか?

それ、さえ、ない、のです。でないなら、世界の総活動、を理解してないゆえの、あるいは思考が徹底してないための、誤った見解かもしれません。「思ったことは起きる」も、似たようなことと踏んでいます。

>同じもので作られている、のではありますが物質界の原則
>みたいなものは抜かすことができないかな・・とも思う。


かなりの、うろ覚えですが、禅だと思いますが・・・総てが繋がってて、それぞれが独立。絶対平等と絶対差別、その円融?という考え?境地?もあるようです。

No.2474 - 2010/03/30(Tue) 11:32:19

Re: 私と貴方 / peer
思いは、自分を変化させる力があります。
みな、ほとんど同じDNAを持ちながら個性がある。
それは環境によって生じる思いがDNAのどこかのスイッチを
ONにしたりOFFのままであったりするからのようですが。
覚醒しました。なんて場合もすでにDNAは変化しているんでしょうね。
仙人みたいな人は、固形物を食べなくても生きるようで。
脳も内臓なども、変化しているのかも。

同じ両親から生まれる遺伝子は70兆もの変化があるそうです。
70兆分の一の確率で「その人」が生じる。
そして、生じた時代や環境によって際限なく変化し続ける。
今は、そっちの方に興味が行ってます。

No.2475 - 2010/03/31(Wed) 00:39:33

Re: 私と貴方 / ubik0101
そいうことの実証研究は、眼がくらむほど、困難だろうとは思います。が、たしかにスポーツで筋肉は発達するし、たぶん思考すればシナプスが発達したり、記憶すれば、なにか、どこかに変化があるのでしょう。ヨガとか禅の修行で、頭の形が変わった。という話を聞いたことはあります。

クリシュナムルティは、洞察が、脳を変えるかも?とか話してたようです。 まあ、ほんとかどうか疑問ですが「誰も変容しなかった」というのが遺言だったそうです。その言葉には、クリシュナムルティ自身も含めるのかな?含めないのかな?ですけど。脳の劣化ではボケることはある・・・ボケないこともある・・・逆もあるかもしれません。

No.2476 - 2010/03/31(Wed) 10:28:25

Re: 私と貴方 / peer
ボケている人の脳は委縮していますね。
最近では、空間情報を脳だけでなく、細胞それ自体が
感知して、それに対して行為が起きている。
と言われます。
細胞が感知していることの総称として六感というのかも。
脳が関知する以前に、肌で違和感を感じていたりします。
体内で脳が作られる以前では、細胞(細胞膜)が、脳の働きを
しているとも、いわれます。
まっ。脳が認識できる範囲は、狭いし限界もありますね。

意識は自由自在です。しかし肉体の中に戻ると限界が生じる。
そこに、人として存在する理由がある〜と言いたい気がする。

No.2477 - 2010/03/31(Wed) 12:34:59

Re: 私と貴方 / ubik0101
まあ。脳の損傷で、涅槃、みたいな体験をしたりして。ボケて、けっこう幸せだったりして。脳?が未発達でも、凄い計算?ができたり、作曲できたり、写真のような絵が描けたりすることもあるようです。

そこで脳の機能を、細胞にも見出すと。ついでに水などの分子や、水素や炭素などの原子や、電子も、素粒子も、個性があって。それが空間に影響をあたえる、 いや空間に機能があるなんて、話になったりするかも・・・です。

>意識は自由自在です。しかし肉体の中に戻ると限界が生じる。
>そこに、人として存在する理由がある〜と言いたい気がする。


うーん。その内容に依存しない意識?なのに、限界が設定されると、たとえば大リーグ養成ギブスを着けると、剛速球。もしかして消える魔球が投げられる、ような効果がある、みたいなことでしょうか。

それとも、うろ覚えですが、なんとか居士が言った「わたしにも神通力があります。それは山で薪を背負い、桶で水を運ぶことです」。みたいなことでしょうか。

No.2478 - 2010/03/31(Wed) 14:30:28

Re: 私と貴方 / peer
神通力は、よくわかりませんが。
細胞一個の微生物も、カビも大腸菌も植物も動物も
まったく同じ遺伝子の原理を使って生きている
ということが分かったのは、ほんの40年前。
ですからねぇ。まだまだ解明されていないことが多い。
まっ。これがですよ。知らない内に活動してくれていて
あたしらの体は、出来上がってる。一日に数千億の赤血球は
壊れて。同じ数の赤血球が作られている。
ものすごいスピードで入れ替わっているんですね。
それだけでも、すごいものだと感心しますわ。
それを思うと意識というものも、ひとつのもの。
でもなく、沢山の合成物かも。と思う。

No.2479 - 2010/04/01(Thu) 00:11:22

Re: 私と貴方 / ubik0101
そいえば、脳細胞は、毎日10万個ほど壊れ続けて、そのことによって、思考することが可能なのかもしれません。なんて思って、これは凄っ。と感じたことがあります。

また。なにか真理を見たとしても、人は、さらに探求してないと安定しないようです。自我、意識とかの始まりの探求、基本研究から学ぶことが多々、な感じです。けど、どうも、世界は、真善美になりたがってる、ようにも感じられます。

たとえば・・・♪強ければ、それでいいんだ♪力さえあれば、いいんだ♪ひねくれて星を睨んだ僕なのさ(タイガーマスク)・・・という歌を聴いて、どうして、ひねくれた人が、ひねくれた、と認識できたんだろう?という疑問が生じましたが・・・孤独なら、孤独という認識もない、幸せなら、幸せと意識もしない・・・ということは人の状態と認識の関係です。それはAはAで片がつきます。けど、これはどうも、嘘とか、悪意とかでは意味が無く。善いことしか・・・これから・・・が成立しないようです。

hatoさんが、ここのところ頑張ってきた仕事は、昨日で終了です。ご苦労様でした。同僚からの、贈り物、を貰って帰りました。これから一緒に、すこしづつ、脳天気に、静岡の、農天気に向かって、引っ越し準備です。

No.2481 - 2010/04/01(Thu) 11:10:06

Re: 私と貴方 / peer
そう、毎日壊れてますね〜
人間はお腹の中に居る時に、生物の進化を一通りするようです。
生まれるまでに1000億個のニューロンは死滅し
1000億個のニューロンが残ります。
計2000億個のニューロンが作られるのに半分は人としてはいらないモノ。
だから排除される。ほんとに・・・ご苦労なことです。

>ひねくれた人が、ひねくれた、と認識できたんだろう?
>という疑問が生じましたが・・・孤独なら、孤独という認識もない、
>幸せなら、幸せと意識もしない・・・


ひねくれていない人は、ひねくれる、ということを認識できない。
孤独ではない人に、孤独は認識できない。でしょ。
ひねくれているから、ひねくれるのは損だと身にしみる。
孤独だから、孤独になりたくないとか思うのでしょう。
孤独だから、孤独な人の寂しさが分かる。
悪事をするから、悪事の痛みが実感できる。

そうですか。退職ですか。
見送られて退職した人は、hatoさんの、ちょっとした
寂しい気持ちが理解できる・・・と思いますが。
うん。。。そんなことも、ないのかな。
御苦労さまでした〜

No.2482 - 2010/04/02(Fri) 01:33:23

Re: 私と貴方 / hato

総てを孕んでいる、この日常、それ、に人が真に触れたとき、経験値からくる 自分固有の認識 を超えることができるでしょう。総てが稼動している故のそれ、ということ、ここはある意味、意識、の必要が、ない、とも言えます。それは隠されている、ということではありません。

そのとき、
ことさら、総てがある、なし、そう、である必要、がなしに、理解できることが在る、ということです。でなければ、総てを擬似体験するために、イタコになったり、いつまでも世界を調べたり、できるとして何回も生まれたり・・・することが必要、になってしまうかも知れません。

そのとき、
世界を鏡としてだけ、生きる必要がないでしょう。総ては自分、である必要がない、なぜならその理解は、知覚に依存できないからです。
愛としての共感、慈しみがあり、それ故に理解が可能になりながら、この世界、ことさら自他の分離、融合の必要がないようです。

あるとして、
どうしても、正当に、そこ、に達する、必要がある、だけです。そして尚、日常のなかで、生き・・・笑い、苦しみ、嘆き、楽しみ、味わい・・・けれどそのとき、それがそう、である必要がないこと、これが必然です。

peerさん。労いありがとうございます。
そうですね・・・なんでしょう、できることはしたのかな、
今のとこ、まだ、ぽけ、としてます。

最後まであがいた取組報告書、刊行されたら送ってくれるようです。

No.2484 - 2010/04/02(Fri) 20:46:15

Re: 私と貴方 / ubik0101
>ひねくれていない人は、ひねくれる、ということを認識できない。
>孤独ではない人に、孤独は認識できない。でしょ。


それは、面白い問題です。とりあえず極端を思考してみます。まったく宇宙に自分しかいないなら、孤独、も意識されないでしょう。そして、いつも誰かと一緒なら、孤独、も認識されないでしょう。

つまり、どっちの極端も、孤独、を認識できないです。そして、どっちの極端も、どう呼ぶのかは知りませんが・・・孤独でない・・・を認識困難なのです。

ふつう現実には、どっちにしても、そんな極端な片方だけの状況はありえないでしょう。状況も変化するし、比較できるでしょう。けど、だからと言って、孤独にしても、ひねくれてない、にしても認識できるけど、それは程度の差なんだ。環境と、感受性に依るんだ。ということで決着させる訳にはいかない問題でもあると思います。

続きます。

No.2485 - 2010/04/02(Fri) 20:47:50

Re: 私と貴方 / ubik0101
たとえば、なんだかの性格とか、状態の自分なのに、そのことに気がついてないことがあります。意地悪でないとか、優しくないとか、ひねくれてない、とか・・・(意地悪とか、優しいとか、ひねくれてる、とか)・・・自我とか、無我とか・・・でも、それに気がついたら・・・そう、でない(ある)とは、思いもしてなかった。けど、そう、だった(でなかった)・・・という二重否定のような形式で認識が起こります。

この基本は学生時代に、かなり集中して見つけたのですが。これは、そう、であって、そう、と気がつかない自分の状態を探って、そう、と認識するための、思考の領域を広げてくれたと思います。

その、発展、応用としては・・・ひねくれてても、それに気がついてなければ、ひねくれてないわけではないのです・・・とか。知らないと思ってもいないことが、知っていることではありません・・・とか、なります。

で、たとえば。誰かは、自分は、嘘つきだ。孤独だ。ひねくれて星を睨んだ。とかいう認識は、やはり、なんだかの比較が必要なんですが。自分は素直だ、という認識は、なんだかの比較では正当性がなく、世界の総てが活動しなければ、つまりは、なにか特定の理由があるわけではないために、まったくの無理由でなければ、正当性がない・・・AはA・・・世界は、そのように、善いことを望んでる、そんな気がします。

No.2486 - 2010/04/02(Fri) 20:50:37

Re: 私と貴方 / peer
どうせ人(無明)の言うことですからね。
「私は、ひねくれている」と言うには、言いたい
事情があるんだろうな〜と思いますよ。
この場合、本当にひねくれているか、いないかは関係なくて。
ひねくれているかどうか分からない人だって
その程度の発言はします。。。たぶん。
「ひねくれている」と言うことで、何か、得るものがある。
あるいは、何か得たいのでしょう。

No.2487 - 2010/04/04(Sun) 01:13:45
全1072件 [ ページ : << 1 ... 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 ... 215 >> ]