なにか、ほかの人の行動、発言、思考を非難することがあります。ならば、どこまでも徹底して、臨界まで、そうするのです。すると・・・必然的に、そうなるのですが・・・そうせざるを得ないのですが・・・そうしてる自分の態度を非難することになります。
ここで、たとえば人に怒りをぶつけるのではなく・・・怒りという報いを、暴力という報いを・・・娯楽・・・を、受け取るのではなく、やり貫くのです。ただ、非難、であり続けるのです。
また、たとえば自分の行動、発言、思考を、正当化するなら、どこまでも徹底して、臨界まで、そうするのです。すると・・・必然的に、そうなるんですが・・・そうせざるを得ないのですが・・・なぜなら、そのような対立・分離は地続きだから・・・たとえば、自分と相反する意見を、正当化することになります。
このようだ、という相手と思う相手を斬殺、そのことは、自分だと思う自分を斬殺。このように思考は両刃の剣、それで、なんだかの特定の思考が生き残れるでしょうか。
これが相手だ、と思ってる相手は手放され、おなじことですが、これが自分だ、と思ってる自分は手放されます。 思考が燃え尽くします。
すると。そこで、静寂を感じるでしょう。暴雨風雨の中心は、青空、です。そこでは観察するような、非難も正当化もないのです。
つまり、非難も正当化もある観察は・・・非難も正当化もない観察・・・それは・・・観察しない、観察できない・・・ということです。これは、対象になってる、誰かの、自分の、行動、発言、思考だけにとどまらず、そうしてる自分の中心に及びます。
または。なにかと較べることなく、つまり絶対に、自分を正当化するのです。すると、たとえば行動と、発言と、思考が、互いに矛盾できません。ほかの言い方では。見る、聞く。思考する。が、なにも隠れようが無く隠しようがなく、赤裸々、です。これでは、たとえば嘘をついたり騙したりはできません。
ほかの人の意見を空想して、そこから自分を見たりして、なにかと較べたりしていては、こんな較べることのない正当化・・・たしかに、すでに正当化でさえないかもしれませんが・・・は、できないのです。
ふと、気がつくなら、それは、過去も未来もなくあります。 ここに、ふろく、として幸せがついてきます。おおまかに説明するなら、このようです。
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No.2480 - 2010/04/01(Thu) 08:16:16
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