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非難も正当化もある観察。 / ubik0101
なにか、ほかの人の行動、発言、思考を非難することがあります。ならば、どこまでも徹底して、臨界まで、そうするのです。すると・・・必然的に、そうなるのですが・・・そうせざるを得ないのですが・・・そうしてる自分の態度を非難することになります。

ここで、たとえば人に怒りをぶつけるのではなく・・・怒りという報いを、暴力という報いを・・・娯楽・・・を、受け取るのではなく、やり貫くのです。ただ、非難、であり続けるのです。

また、たとえば自分の行動、発言、思考を、正当化するなら、どこまでも徹底して、臨界まで、そうするのです。すると・・・必然的に、そうなるんですが・・・そうせざるを得ないのですが・・・なぜなら、そのような対立・分離は地続きだから・・・たとえば、自分と相反する意見を、正当化することになります。

このようだ、という相手と思う相手を斬殺、そのことは、自分だと思う自分を斬殺。このように思考は両刃の剣、それで、なんだかの特定の思考が生き残れるでしょうか。

これが相手だ、と思ってる相手は手放され、おなじことですが、これが自分だ、と思ってる自分は手放されます。 思考が燃え尽くします。

すると。そこで、静寂を感じるでしょう。暴雨風雨の中心は、青空、です。そこでは観察するような、非難も正当化もないのです。

つまり、非難も正当化もある観察は・・・非難も正当化もない観察・・・それは・・・観察しない、観察できない・・・ということです。これは、対象になってる、誰かの、自分の、行動、発言、思考だけにとどまらず、そうしてる自分の中心に及びます。

または。なにかと較べることなく、つまり絶対に、自分を正当化するのです。すると、たとえば行動と、発言と、思考が、互いに矛盾できません。ほかの言い方では。見る、聞く。思考する。が、なにも隠れようが無く隠しようがなく、赤裸々、です。これでは、たとえば嘘をついたり騙したりはできません。

ほかの人の意見を空想して、そこから自分を見たりして、なにかと較べたりしていては、こんな較べることのない正当化・・・たしかに、すでに正当化でさえないかもしれませんが・・・は、できないのです。

ふと、気がつくなら、それは、過去も未来もなくあります。 ここに、ふろく、として幸せがついてきます。おおまかに説明するなら、このようです。

No.2480 - 2010/04/01(Thu) 08:16:16
思考実験パート3 / ubik0101
たとえば・・・いわゆる心理的思考、葛藤とか軋轢などが・・・完成された・・・と、言うのは、ジグゾーパズルのように、いわゆる心理的思考、葛藤とか軋轢など、自我の機能は、未完だから運動として機能するのですが・・・解決された、静まった、世界の知覚、が、いま、ここ、とも言えます。

ならば、たしかに、いま、ここに、いるだけで幸せです。でも、それは、オマケ、です。 それだけを求めても、かなり困難だと思います。どうしても、自我は虚構、だということを見破ることが先決ではないでしょうか。

もう春の気配です・・・その曇り空を、眼は見ようとしてなくても、見ようとしても、見えて。どこかで鳴き始めた鶯は、聞こうとしてなくても、聞こうとしても、聞こえます。そのように世界が知覚されます。

それは、いま、ここ、を知覚するのではありません。知覚が、いま、ここ、です。しかし。その、自己、は、まったく知覚できません。

続きます。

No.2466 - 2010/03/26(Fri) 11:09:42

Re: 思考実験パート3 / ubik0101
また、自己と、いま、ここ、が同じなら、「わたしは世界」ですが、違います。たとえば「意識は、その内容」でしょうか。たしかに葛藤や軋轢が解決され、それが静まると・・・自分を自覚しようとする衝動、つまり自我が静まります。

つまり、自分、を自覚する必要がなくなります。そこで知覚されることは、世界・・・物質や、感情や、思考・・・だけ、です。ここでは、自分を、自覚する必要がありません。ならば、「知覚されるものは、知覚するもの」・・・たとえば「わたしは世界」・・・です。しかし、知覚できないから、ない、ではありません。また、ある、が知覚できるわけではありません。自己、は自覚できません。

もし、「意識は、その内容」なら、答えねばならない質問があります。なぜ、意識は、たとえば樹や鳥、怒りや喜び、あるいは思考・・・その内容を変えることができるのでしょう?また「意識は、その内容ではない」なら、どうして、なにか内容を、意識することができるのでしょう?これには仏陀が、すでに正答しています。中道、です。

続きます。

No.2467 - 2010/03/26(Fri) 17:09:52

Re: 思考実験パート3 / ubik0101
ここで寄り道ですが・・・中道、とは、たとえば「意識は、その内容」 と、「意識は、その内容ではない」の、真ん中で。どっちでもあり、どっちでもない・・・とするなら、それは理解のつもりの誤解、つまりは空想です。

もし、そういう真ん中が、、中道だとしても。では、それは。たとえば勇気と卑怯の、真ん中、と・・・善と悪の、真ん中、と・・・高いと低いの、真ん中、と・・・美と醜の、真ん中、と・・・ありとあらゆることの真ん中との、関係は、どうなってるでしょう。

さらに、もの、ことは・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なのに・・・たとえば、右と左、の両極端がある、と見なす根拠はあるでしょうか。

そんな、中道、は体験しなくては知り得ないかも知れません。それは、世界の総活動、です。ありとあらゆること、ありとありえないこと・・・森羅万象・・・の活動です。ゆえに、どこかの両極端の片方にも、その両方にも、真ん中にも、固定され、依存させられることができないのです。

いま、ここ、とは、中道のことです。それは、それに人が触れようが、触れまいが、そうです。そして、総てのことが、それから外れようがないのです。たとえば、怒り、不安、平穏、喜楽・・・自我の機能、さえ、それから外れようがないのです。これは増えも減りもしません。

いろいろなんですが。 ただ、自分がなかった、と気が付いてしまうということもあるんですが。世界の総活動に触れる、なる。そのことで、自我が、ない、ことが了解されます。ない、の了解は、ほかのことでは困難と思います。

No.2468 - 2010/03/27(Sat) 10:32:20

僕は / 大阪
人が胸の愛を大事に生きることが出来るなら・・・。

それだけで良いと思っています。

No.2469 - 2010/03/28(Sun) 04:08:06

Re: 思考実験パート3 / ubik0101
とは、いっても世界の総活動が激流だとしたら、いま、ここ、は、ゆったりと流れるでもなく流れてる大河です。それは透明です。なにかの意味、あるいは総ての意味が消去されたからではなく、総ての意味が孕まれて静か、です。たとえば、ことさら「ひとつ」ということも「分離」もありません。

まあ、実験で、hatoさんに・・・君は僕なんだよ。僕は君なんだよ・・・と言ってみました。それは、あまりに苦痛が押し寄せる気配があって、顔だけ笑ってしまうほどでした。それは、ubik0101にとっては嘘です。自我によって、ない、から、ある、を創ってるのは世界の戦略で、世界が、どうも、真善美、な世界になりたがってるのを感じました。

それは、そうとも言えるけど・・・違うんだ・・・そうだな・・・・わたしは、便器なんだ。わたしの・・・じょご、じょごは・・・自分で受けるしかないんだ。自業自得なんだ・・・・・・それは、悟らなきゃ、わからないんだ・・・理論的にでも考えて頂戴・・・・わたしも無我、便器も、無我なんだ・・・わたしはubik0101・・・それで、なんも問題がない・・・それは精神の必然なんだ。わたしは境涯で勝負するんだ。

なんだ、また知覚依存症の、愚か者さん?それは、それで、味わいある話は楽しめます。でも、わたしがないなら、どうして便器が、わたしなんです?なんだか、それぞれ人が、ほかのどんなことにもよらず、そのことだけにおいて、ただ自分で確かめた事実・・・真理・・・を素直に話すことが、とても大切だと感じます。そこから始まることがあるような気がします。

ということで、大阪さん、HPは、まだ?すぐ、リンクさせてもらいます。

続きます。

No.2470 - 2010/03/28(Sun) 09:55:57
こんばんは / peer
私は、心の仕組みみたいなものを書いてみただけで
はい。自己とか、あるとかないとかからは・・・外れてます。

で、ですね。あの続きがあります。

この惜しむ自分を素直に「しょうがないね。わたしって」と
認める人は、傷が浅いかなぁ〜と思うのですよ。
わたしってケチだなぁとか・・・。

しかし、常人はここから、正当化を始める場合が多くありまして。
もちろん、正当化しているとか、思わないんですね。

惜しむ自分に気付きたくない、でも違和感があるので
なんとか、納得したい、心を落ち着かせたい。
そんな場合のことです。

「どうせ、プレゼントしても喜ばないんじゃないかな」とか
「いらない、って言われたら悲しいし・・・」とかね
どんどん思考が入ってきて
とっくに惜しむ自分の姿はなかったことのように、影に消えていきます。

プレゼントできない理由を、作って行くんですよ。
で、ゴチャゴチャしているうちに
「プレゼントしなくて良かった」みたいになっているんですね。

この思考の全体の流れは、瞬間に起きて、瞬間に終わってます。
だから・・・正当化って、なかなか気づきにくい。

まっ。そんなのを思いついたので、ちょっとね。

No.2459 - 2010/03/23(Tue) 23:44:29

Re: こんばんは / ubik0101
そんなのは、もう、ほっとけ、なんですが。たしかに。一貫した姿勢がとれないために、あまりに自分の行動、発言、思考が、たがいに矛盾して支離滅裂、だということにも気が付いてない・・・ので、迷ってる、とも思ってもなくて・・・その都度、正当化してることにも気が付いてない。そんな状態がありそうです。

だとすると、自分の得になる都合のいい、意見や、約束だけは守り、ほかの人の嘘は、隠れて批判する。あるいは支離滅裂なんで、ころころ自分の気分も意見も変わって、すぐに忘れて、許した気になる。執着してない気になる。そんなこともありそうです。

そして、面と向かって批判しても、ガス抜きや、恐怖の投げつけあいしてることに気が付かない。そういう娯楽で、エネルギーを消耗・・・「すでに報いを受けてしまってる」・・・それは、ほかのみんなも、そうだから、そういうことを止めないことが、人間関係を壊さないことだ、とか。批判を自分には向けない、とか。で、支離滅裂な状態の、正当性を維持したりもできるのでしょう。

まあ、キリがないです。世間って、そんなことかもしれませんが、その無知な、どろどろの泥沼は、蓮華の栄養でもあって、学ぶことができることが一杯あって。そこでは、ただ、嘘を言わない、約束を守る。それだけも、自分を探求する姿勢なら、修行になり得ます。そして無知が叡智に転換し得るし、とてもよく出来てる、とも言えるようです。

No.2461 - 2010/03/24(Wed) 11:46:49

Re: こんばんは / ubik0101
追伸。

もしかして、支離滅裂、というのは、ほとんど、無明・・・それ自体は知覚できませんが・・・行動、発言、思考として顕れて、知覚できるようになる・・・そんな根っこの事例かもしれません。

たとえば、自分の都合がよいように、ころころ意見や態度を変え、そのつど過去を作りかえて、正当化の根拠を捏造する。その、自分の都合だということは、ほかのことより自分の所有や環境、自分の感情、自分の意見、を優先することなのでしょう。

それは実は、自分の所有物や環境、感情や、自分の意見でもなんでもなくて・・・そんな所有物や環境、感情や、意見も・・・その自分も・・・世界が、その人に提供してることなのに・・・それを自分がしてる。と思いこむことのようです。 そこには、自他との関係に不平等が設定されてて、権力欲に繋がりやすいでしょう。

それは葛藤や軋轢を巻き起こして。そのようにして、そうしてる自分を自覚したい、ということでもあるかもしれません。そうしなくなったら、問題がなくなって、問題がなくなったことにも気が付かない・・・と、いうことに気が付きたいから、やっぱり問題を起こす原因にしがみつく、ということがありそうです。

No.2462 - 2010/03/24(Wed) 16:33:00

Re: こんばんは / peer
>それは葛藤や軋轢を巻き起こして。そのようにして、そうしてる自分を自覚したい、ということでもあるかもしれません。そうしなくなったら、問題がなくなって、問題がなくなったことにも気が付かない・・・と、いうことに気が付きたいから、やっぱり問題を起こす原因にしがみつく、ということがありそうです。


何かを自覚するためには、それに相反するモノ・状況が
起きてくる必要がある。のかもしれません。
それに気がつかず、反対のものにノッカカッタままでいる
ことにが、問題になるんでしょう。
そして因果応報というような揺り返しとなって〜。
そんなこんなを世間と言うものは繰り返していく。のかなって

No.2463 - 2010/03/25(Thu) 00:30:27

Re: こんばんは / ubik0101
まあ、言い方としては・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なことが・・・つまり、ありとあらゆること・・・が、出来事としての世界です。そして。また、起こらないこと・・・ありとありえないこと・・・も、ある(微妙な言い方)でしょう。

それを、たとえば、あることと、その反対のことは違うとか・・・あることと、その反対のことは、おなじこと、とか・・・なにか狭い範疇に閉じこもって、あれとこれを空想で関係づけて解釈する。そのことで、そうしてる中心、私、僕、俺が・・・予め・・・捏造される。ことに気が付かない。それが問題、とも言えます。

そんなことができるのは、あること、が不確定だからかもしれません。たとえば、怒り、暴力、甘い、見る、とある概念など・・・あること・・・は、独立して確定されてることではなく・・・不確定・・・ほかの、あることも・・・たとえば喜び、非暴力、辛い、聞く、とある概念など・・・もそうです。 つまり、あることと、ほかのこととは、関係があってなり立ちます。

まったく、無限の宇宙の真ん中に、ぽっと、怒り、だけが浮かんでる。ぽっと、暴力だけが、浮かんでる。そんなことは難しいでしょう。それなのに、まるで、それらを独立してるかのように扱いながら、怒りと暴力を人為的に関係づけても、非暴力を人為的に関係づけても、詮無いことです。キリがない、無限の空想が可能でしょう。で・・・それを観察してる中心が捏造され・・・永遠の迷いです。そして無関係もあり得えます。

ただ完全な関係と、完全な無関係は・・・完全な融合も、分離も・・・まあ、日常の知覚の範疇では起こらないでしょう。それは知り得ない・・・なので、ぽっと、見えること。また、ぽっと、見えることを、独立したこととして、自分勝手に結びつけてしまうのではないでしょうか。

そこに、たとえば「思うことは実現する」とか。「運命は決まってる」とか。その類似のことと、その反対のことと、無関係なことが空想されたりします。

hatoさんと一緒に、先週の連休。行ってみた、明治神宮です。

No.2464 - 2010/03/25(Thu) 10:36:30

Re: こんばんは / ubik0101
結婚式、してました。
No.2465 - 2010/03/25(Thu) 10:39:38
はじめまして / ねこの寝ぐら
今日、こちらのHPを見せてもらってました。
ん〜〜すごくむずかしくてよくわからないんですけど、
ひとつ質問してもいいですか?

☆目覚めとか覚醒とか悟りとか見性とか、を、
 体験したい!と思っていろいろやる(瞑想とか修行?とか)
 のは意味がありますか?

ubik0101さんは、それは起こそうと思っても起きない
「起こるのだ」と書いておられたので、
目覚めるためにいろいろやるのはあんまり意味ない、というか
効果ないのかな、と思いまして。

それを体験してみたいな!と思うのですが
その時が来たら起きることだから、待ってたらいいのかな?
よろしくおねがいします^^

No.2450 - 2010/03/22(Mon) 19:33:11

Re: はじめまして / ubik0101
おそらく、待っていたら起こる、というのでは絶対とは言えませんが、困難と思います。こんなことができるかどうか疑問ですが・・・なにがなんでも総てを度外視して全身全霊で、待つ、ことに命を燃やし尽くすくらいなら・・・そんな日常や、そんなことしてる自分を掘り下げることにも繋がるでしょうし、積極的に求めてることになるかもしれません。そのくらいの覚悟があったほうがいいと思います。

なんだかわからない自分が、なんだかわからない自分を、なにがなんでも求める・・・私は何?と問う・・・そのためには、タマネギの皮を剥くように自分が自分と思う自分の中心に向かう・・・自分の立場・拠り所を削り取り続ける・・・
たとえば、待っていたら起きる。と思考する、その前提を白昼の下にさらけだして、その思考を否定する。という方法が、有効と思います。けれど、それも、それが直接の道とも言えないのです。

それは「起こすのだ」ではなく、その人の努力に関係なく、関係なくもなく、「起こるのだ」です。それは、なんのきっかけもなく、突然であり・・・このくらい頑張れば半分だ。あと一歩だ。とかは判定できなかった、という意味でもあります。

それでも、それまで探求していて、それが起こったら、より深い体験が望めるとは言えます。 あと。ほとんど詳しくはありませんが、禅には、いろいろな技法があり、有効なようです。

No.2451 - 2010/03/22(Mon) 22:48:51

Re: はじめまして / ねこの寝ぐら
お返事ありがとうございます。
ただ待ってても起きないんですね。

>なんだかわからない自分が、なんだかわからない自分を、なにがなんでも求める・・・私は何?と問う・・・そのためには、タマネギの皮を剥くように自分が自分と思う自分の中心に向かう・・・自分の立場・拠り所を削り取り続ける・・・
たとえば、待っていたら起きる。と思考する、その前提を白昼の下にさらけだして、その思考を否定する。という方法が、有効と思います。

ん〜〜むずかしいです^^;

禅って有効なんですね。
禅っていうとやっぱり座禅ですか?
やっぱりそういう修行、瞑想とか座禅とかをやっていったほうが起こりやすいんでしょうか?

No.2452 - 2010/03/22(Mon) 23:13:20

Re: はじめまして / ubik0101
ほんとに参加者に、見性体験、をしてもらうための、接心会、をしてる寺があります。ネット上でも、よく知られてる寺として。

●東山寺

http://www17.plala.or.jp/tozanji/

●東照寺

http://homepage3.nifty.com/toshoji/nihongo.htm

こっちは愚(orokamono1950)さんに聞いた話ですが、約20人の参加者で、まったくいない時もあるのですが、2、3人、体験するそうです。6、7人も体験した、と掲示板で読んだこともあります。とても、確率が高いのではないかと思います。

愚さんは、いくつかのヤフー掲示板に、投稿しています。質問するのもいいかと思います。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=552019920&tid=a5a1a1a5afa5ja57a5ea5ja5e0a5ka5fa5a3a1a1a3va3ea3ra33&sid=552019920&mid=1

No.2453 - 2010/03/22(Mon) 23:43:18

Re: はじめまして / ねこの寝ぐら
こんばんは。
お話中にまたこの話題を上げてしまってごめんなさい(^^;)
お返事ありがとうございました。

>約20人の参加者で、まったくいない時もあるのですが、2、3人、体験するそうです。6、7人も体験した、と掲示板で読んだこともあります

へえーっ!と思いました。
すごいですね。。。
1回参加してみようかな。。。
でもちょっとこわい。。。
愚さんのところにいってみましたが、もう難しくて何書いてあるかわからず。。。
脳みそがバクハツしそうなので私にはムリです。(。´ω`)

いろいろ教えていただいてありがとうございました!

No.2458 - 2010/03/23(Tue) 23:11:45

Re: はじめまして / ubik0101
まあ。修行そのことは、小難しいことではなくて。
やるか、どうか、のことのようです。

愚さん(東照寺をベースに活動)は、ほんとは優しい人なんです。

また、いつでも話しかけてください。

No.2460 - 2010/03/24(Wed) 11:11:53
思考実験パート2 / ubik0101
ところで。あなたは、自己・・・ほんとうの自分、自分自身・・・を自覚できるでしょうか。もしかして、自己、を探しても見つからないかも知れません。

それは、あなたが、自己、ではないからです。けどまた。自己であるなら、それを探す必要もないのです。というか、自己は自己を探すことができないのです。

まあ、とても説明ですが、 ない、は、ない、を、自覚しようがありません。不可能です。しかし、ある、自己は自覚する必要がありません。自己が自己を自覚することは不可能です。そのことを、ない、とも呼べます。ある、ない、は知覚に依存するなら誤りです。

これは、いま、ここ、もそうかもしれません。つまり、それを探しても見つからないのは、人が・・・そんな人を見たことはありませんが・・・そうでないからです。また。そう、であれば、それを探す必要はありません。それは探せないのです。でも、いま、ここ、と、自己、おなじとは思えません。

続きます。

No.2454 - 2010/03/23(Tue) 13:39:11

Re: 思考実験パート2 / peer
これが自己だ。というようなものが、あるかどうか。
「いま」こう感じている私は、次の瞬間には、他のことに
心が移っています。
あの時は、こう思っていたけれど、今は、そう思っていない。
みたいに、心は留まりません。

ある店で、ステキなものを見つけて
「あの人にプレゼントしたら、喜ぶだろう」と
ステキなアイデアに酔って、買ってしまいます。
買って、手元に、そのモノがある。

その気持ちのままなら、プレゼントしに行きますよ。
そしたら、どんなに相手は嬉しがるか。
嬉しがる相手を見て、自分も嬉しいだろうに。
ところが。見ているうちにステキなモノだから、だんだん、相手に与えるのが惜しくなる。

買うまでは、喜ぶだろう。喜ばせたい。と思っていたのに。
こんどは、惜しい・・・。

そうなると、さっきまでのウキウキした自己は、どこへ行ったのか。
自己って、あやふやなモノのようです。

No.2455 - 2010/03/23(Tue) 20:05:45

Re: 思考実験パート2 / ubik0101
ここで言ってるのは・・・自我がない、ことを見破った・・・初めからそうだったというのも、そのとき生じたというのも、変な・・・自己・・・です。なにかを行動、発言、思考することによって仮定される、私、俺、僕、と言われることではないです。

そんな、自己、さえ忘れる、透明になる・・・でなければ、まだ自我がない体験・・・それは自己を自覚する、とんでもない歓喜の体験・・・に捕らわれてる・・・つまり、その体験の総てが、消化されてないです。

それにしても、おなじ贈り物、たとえば花束だとしても、お菓子だとしても、喜びのためにも、悲しみのためにも、妬みのためにも、驚きのためにも・・・また惜しむためのツールになりえます。そして、惜しむ気持を手放すためのツールにもなります。

そのように、ありとあらゆる、もの、こと、が、ありとあらゆる意味に使われます。ということは、なにか個別の意味だけに囚われる必要がない、ということです。あらゆる意味が孕らまれてるから無意味。に、花束が、お菓子が、世界があります。それは透明です。と、peerさんの投稿で想起しました。

つくし、です。ハカマを取り除いて、バター炒めや、めんつゆ+ごま油で炒めると、ほろ苦い春の味覚です。

No.2456 - 2010/03/23(Tue) 22:07:13

Re: 思考実験パート2 / ubik0101
ついでに通りががかった、成城学園の本屋です。ソファが置いてあって、書が読めるようになってました。hatoさんによると、カナダでも、ずっと前から、そうだった。とのことです。
No.2457 - 2010/03/23(Tue) 22:13:18
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