私は、心の仕組みみたいなものを書いてみただけで はい。自己とか、あるとかないとかからは・・・外れてます。
で、ですね。あの続きがあります。
この惜しむ自分を素直に「しょうがないね。わたしって」と 認める人は、傷が浅いかなぁ〜と思うのですよ。 わたしってケチだなぁとか・・・。
しかし、常人はここから、正当化を始める場合が多くありまして。 もちろん、正当化しているとか、思わないんですね。
惜しむ自分に気付きたくない、でも違和感があるので なんとか、納得したい、心を落ち着かせたい。 そんな場合のことです。
「どうせ、プレゼントしても喜ばないんじゃないかな」とか 「いらない、って言われたら悲しいし・・・」とかね どんどん思考が入ってきて とっくに惜しむ自分の姿はなかったことのように、影に消えていきます。
プレゼントできない理由を、作って行くんですよ。 で、ゴチャゴチャしているうちに 「プレゼントしなくて良かった」みたいになっているんですね。
この思考の全体の流れは、瞬間に起きて、瞬間に終わってます。 だから・・・正当化って、なかなか気づきにくい。
まっ。そんなのを思いついたので、ちょっとね。
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No.2459 - 2010/03/23(Tue) 23:44:29
| ☆ Re: こんばんは / ubik0101 | | | そんなのは、もう、ほっとけ、なんですが。たしかに。一貫した姿勢がとれないために、あまりに自分の行動、発言、思考が、たがいに矛盾して支離滅裂、だということにも気が付いてない・・・ので、迷ってる、とも思ってもなくて・・・その都度、正当化してることにも気が付いてない。そんな状態がありそうです。
だとすると、自分の得になる都合のいい、意見や、約束だけは守り、ほかの人の嘘は、隠れて批判する。あるいは支離滅裂なんで、ころころ自分の気分も意見も変わって、すぐに忘れて、許した気になる。執着してない気になる。そんなこともありそうです。
そして、面と向かって批判しても、ガス抜きや、恐怖の投げつけあいしてることに気が付かない。そういう娯楽で、エネルギーを消耗・・・「すでに報いを受けてしまってる」・・・それは、ほかのみんなも、そうだから、そういうことを止めないことが、人間関係を壊さないことだ、とか。批判を自分には向けない、とか。で、支離滅裂な状態の、正当性を維持したりもできるのでしょう。
まあ、キリがないです。世間って、そんなことかもしれませんが、その無知な、どろどろの泥沼は、蓮華の栄養でもあって、学ぶことができることが一杯あって。そこでは、ただ、嘘を言わない、約束を守る。それだけも、自分を探求する姿勢なら、修行になり得ます。そして無知が叡智に転換し得るし、とてもよく出来てる、とも言えるようです。
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No.2461 - 2010/03/24(Wed) 11:46:49 |
| ☆ Re: こんばんは / ubik0101 | | | 追伸。
もしかして、支離滅裂、というのは、ほとんど、無明・・・それ自体は知覚できませんが・・・行動、発言、思考として顕れて、知覚できるようになる・・・そんな根っこの事例かもしれません。
たとえば、自分の都合がよいように、ころころ意見や態度を変え、そのつど過去を作りかえて、正当化の根拠を捏造する。その、自分の都合だということは、ほかのことより自分の所有や環境、自分の感情、自分の意見、を優先することなのでしょう。
それは実は、自分の所有物や環境、感情や、自分の意見でもなんでもなくて・・・そんな所有物や環境、感情や、意見も・・・その自分も・・・世界が、その人に提供してることなのに・・・それを自分がしてる。と思いこむことのようです。 そこには、自他との関係に不平等が設定されてて、権力欲に繋がりやすいでしょう。
それは葛藤や軋轢を巻き起こして。そのようにして、そうしてる自分を自覚したい、ということでもあるかもしれません。そうしなくなったら、問題がなくなって、問題がなくなったことにも気が付かない・・・と、いうことに気が付きたいから、やっぱり問題を起こす原因にしがみつく、ということがありそうです。
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No.2462 - 2010/03/24(Wed) 16:33:00 |
| ☆ Re: こんばんは / peer | | | >それは葛藤や軋轢を巻き起こして。そのようにして、そうしてる自分を自覚したい、ということでもあるかもしれません。そうしなくなったら、問題がなくなって、問題がなくなったことにも気が付かない・・・と、いうことに気が付きたいから、やっぱり問題を起こす原因にしがみつく、ということがありそうです。
何かを自覚するためには、それに相反するモノ・状況が 起きてくる必要がある。のかもしれません。 それに気がつかず、反対のものにノッカカッタままでいる ことにが、問題になるんでしょう。 そして因果応報というような揺り返しとなって〜。 そんなこんなを世間と言うものは繰り返していく。のかなって
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No.2463 - 2010/03/25(Thu) 00:30:27 |
| ☆ Re: こんばんは / ubik0101 | | | まあ、言い方としては・・・あることと、その類似のことと、その反対のことと、無関係なことが・・・つまり、ありとあらゆること・・・が、出来事としての世界です。そして。また、起こらないこと・・・ありとありえないこと・・・も、ある(微妙な言い方)でしょう。
それを、たとえば、あることと、その反対のことは違うとか・・・あることと、その反対のことは、おなじこと、とか・・・なにか狭い範疇に閉じこもって、あれとこれを空想で関係づけて解釈する。そのことで、そうしてる中心、私、僕、俺が・・・予め・・・捏造される。ことに気が付かない。それが問題、とも言えます。
そんなことができるのは、あること、が不確定だからかもしれません。たとえば、怒り、暴力、甘い、見る、とある概念など・・・あること・・・は、独立して確定されてることではなく・・・不確定・・・ほかの、あることも・・・たとえば喜び、非暴力、辛い、聞く、とある概念など・・・もそうです。 つまり、あることと、ほかのこととは、関係があってなり立ちます。
まったく、無限の宇宙の真ん中に、ぽっと、怒り、だけが浮かんでる。ぽっと、暴力だけが、浮かんでる。そんなことは難しいでしょう。それなのに、まるで、それらを独立してるかのように扱いながら、怒りと暴力を人為的に関係づけても、非暴力を人為的に関係づけても、詮無いことです。キリがない、無限の空想が可能でしょう。で・・・それを観察してる中心が捏造され・・・永遠の迷いです。そして無関係もあり得えます。
ただ完全な関係と、完全な無関係は・・・完全な融合も、分離も・・・まあ、日常の知覚の範疇では起こらないでしょう。それは知り得ない・・・なので、ぽっと、見えること。また、ぽっと、見えることを、独立したこととして、自分勝手に結びつけてしまうのではないでしょうか。
そこに、たとえば「思うことは実現する」とか。「運命は決まってる」とか。その類似のことと、その反対のことと、無関係なことが空想されたりします。
hatoさんと一緒に、先週の連休。行ってみた、明治神宮です。
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No.2464 - 2010/03/25(Thu) 10:36:30 |
| ☆ Re: こんばんは / ubik0101 | | | 結婚式、してました。
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No.2465 - 2010/03/25(Thu) 10:39:38 |
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