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(No Subject) / hato

豊潤な時。
これを、愉しむ。


幸いかな。


静は万感の豊穣。





静は静
これを愉しむ。


やがて


音符のように
木々に舞い降りる


小鳥たちと微笑みを交わし。

No.2365 - 2009/12/20(Sun) 13:33:20

Re: / suho
ほほー^^
またまたナイスショットですね。
右上に神様写ってますねー。
自然はいいなぁ。

No.2366 - 2009/12/20(Sun) 19:32:13

Re: / hato

> 右上に神様写ってますねー。
> 自然はいいなぁ。


えーっ
そーなんですか。。

ubik0101さんと目を凝らして、しまいました。
ubik0101さん曰く、

「自然ていうか、となりの、例のキノコが生えた空き地だなーっ」

いーえダーリン。自然よ自然。 んねっ (^°^)


というわけで、
ちょっと不思議にあやしい、もう一枚。

No.2367 - 2009/12/20(Sun) 23:08:28

Re: / hato

で、昨日はみなとみらいで、

江戸前調理人さんとubik0101さんは釣りに勤しみ、
こちらは冬の海を眺めて過ごしました。

空には細い月が美しく。。

No.2368 - 2009/12/20(Sun) 23:09:51

Re: / hato

街にはこんな、素敵なツリーが。

No.2369 - 2009/12/20(Sun) 23:10:54

Re: / ubik0101
ところで、ノンノンは、hatoさんの母親がつくった、ムートンの布団で、ときどき仰向けで眠っています。

そっと、近づいて撮ろうとしたら、気配に気がついて、起きてしまいました。

No.2370 - 2009/12/20(Sun) 23:27:53

Re: / suho
> 「自然ていうか、となりの、例のキノコが生えた空き地だなーっ」
>
> いーえダーリン。自然よ自然。 んねっ (^°^)


わははは。

>
> というわけで、
> ちょっと不思議にあやしい、もう一枚。


あー。この光の感じ。
これもですねー。(これもキノコ空き地?)
虹色の光とか、白光が出てるときは
それが神様のようですよ。

No.2371 - 2009/12/21(Mon) 00:51:52

Re: / hato

> あー。この光の感じ。
> これもですねー。(これもキノコ空き地?)
> 虹色の光とか、白光が出てるときは
> それが神様のようですよ。



なんか、素敵なお話です。
suhoさんはロマンチストですね。
とても傷つきやすい、優しい人なのでは、と思います。

そして、現象としては、この世界のことだから・・
なんでもどうでも・・・かも知れませんけれど・・・
たとえば光っても虹色でも、神さまでないこともあるかも・・知れません。

世間に受けて、調子よく、善良な感じはしても、
そう、じゃないっ
てのもありそうでしょう。なんでもどうでも、のこの世界。

でももし人が、それ。なら、必ずそれ。を見つけるでしょう。 それは、鏡とは無関係でしょう。


その林には、
あやしく光るフシギキノコもいっぱい生えるけれど、
ほかにもたくさん、生え育っていました。
(どうぞ、明日の、お楽しみに。)

No.2372 - 2009/12/21(Mon) 23:48:50

Re: / suho
> なんか、素敵なお話です。
> suhoさんはロマンチストですね。
> とても傷つきやすい、優しい人なのでは、と思います。


うーん。
そうでもないのですけど。。

> そして、現象としては、この世界のことだから・・
> なんでもどうでも・・・かも知れませんけれど・・・
> たとえば光っても虹色でも、神さまでないこともあるかも・・知れません。
>
> 世間に受けて、調子よく、善良な感じはしても、
> そう、じゃないっ
> てのもありそうでしょう。なんでもどうでも、のこの世界。
>
> でももし人が、それ。なら、必ずそれ。を見つけるでしょう。 それは、鏡とは無関係でしょう。


「それ」ですか。
突き詰めれば「人」はどのようにしても説明し得ない、けど、こうして「いる」不思議、は僕にとっても日々のリアルです。
「場なき場」ともいえるし、「「それ以外なし」のそれ」ともいえるし、「全なき全」とも言えるし、透明のスクリーンでも、からっぽでもなんとでも表現できますが、いずれ言葉には限界がある。
けれど、なぜか個としての断片性も同時に余すことなく生じている。

で、「それ」は「それ」ですが、
神様はいるのです^^
これも不思議。

No.2373 - 2009/12/22(Tue) 09:51:54

Re: / ubik0101
この空き地には、たくさん生えてる山椒。この季節では、ほかのは落葉していますが、一本だけ、新芽を吹いてるのが見つかりました。
No.2375 - 2009/12/22(Tue) 21:06:54

Re: / ubik0101
これも、これでもか、というほど自生してる、赤い実のなる縁起物の、万両、の若木です。実家には、千両、この部屋には、百両、があります。あとは十両と一両どこかに、です。
No.2376 - 2009/12/22(Tue) 21:07:58

Re: / ubik0101
スミレ、だと思います。
No.2377 - 2009/12/22(Tue) 21:08:52

Re: / ubik0101
これもたくさんあります。今年、発芽した、ドングリの若木です。
No.2378 - 2009/12/22(Tue) 21:09:57

Re: / ubik0101
もしかして、hatoさん愛読の陸奥A子の漫画に載ってた、屁糞葛(ヘクソカズラ)、ではないか?これでクリスマスリースを編んだら素敵。と検索してみましたが・・・違うようです。
No.2379 - 2009/12/22(Tue) 21:11:03

Re: / ubik0101
ついでに、この夏の、あやしく光る、オオシロカラカサタケ、です。
No.2380 - 2009/12/22(Tue) 21:14:05

Re: / suho
> ついでに、この夏の、あやしく光る、オオシロカラカサタケ、です。

うわー。すごくあやしい光。。
なぜ発光??

しかし、ubiさん植物に詳しいなぁ。
楽しそうな感じが伝わってきてこっちも楽しい^^

No.2381 - 2009/12/22(Tue) 22:10:15

Re: / ubik0101
ここだけの話・・・実は、このあたりの丘の斜面から、なんか重力波のようなエネルギーが放射されてるんです。それを気力で押し返したりしています。そんなことの影響かもかもしれない?、と睨んでいます。
No.2382 - 2009/12/22(Tue) 22:50:31

Re: / hato

ここだけの・・て、よく家で話してるれしょ〜。(^°^)

傷つきやすい、て。
下手に場数を踏んで、慣れた思考回路と経験値に頼らない・・頼ることができない、て感じです。

優しいのもいいでしょう。

ubik0101さんが、きてます。を最も感じるという、空き地です。

No.2384 - 2009/12/22(Tue) 23:28:06

Re: / suho
> ここだけの話・・・実は、このあたりの丘の斜面から、なんか重力波のようなエネルギーが放射されてるんです。それを気力で押し返したりしています。そんなことの影響かもかもしれない?、と睨んでいます。

ふーむ。重力波のようなエネルギーですか…
それは気持ちよいエネルギーではない感じですか?
空き地の上の壁?崖?のあたり。その上もな〜んか気になりますね。

エネルギーといえば、
今年仕事で2回ほど青森県に泊り込みで現地調査に行ったのですが、青森はヤバイデス^^。
エネルギーがめちゃめちゃ高いです。
三内丸山遺跡をはじめとした大規模な縄文時代の遺跡群やら、恐山やら白神山地やら、めちゃくちゃ気持ちのいい奥入瀬渓谷やら…
半分「あの世」が混じっているような、すこし不気味なくらいエネルギー濃度が高いというか、場所によってすごく気持ちが良かったり、重く感じたり、幻想的だったりと、なんとも不思議な一帯でした。
「千と千尋の物語」的なおどろおどろしさもあり。。

もし、まだ行かれたことがないようであれば、ぜひ行ってみて下さい^^
お2人でしたら、すんごいことになってしまうかもしれませんよ^^
うおぉぉーーー。きゃーー。 みたいな。

No.2385 - 2009/12/23(Wed) 00:21:29

Re: / ubik0101
画像では、右上あたりが中心です。が、源は、地面の下・・・プレッシャーを感じます。この地区は、縄文・弥生の土器が出土しています。

ところで今日は、約15年間、働いた銀座に。hatoさんと一緒に行って来ました。

No.2387 - 2009/12/23(Wed) 17:37:53
世界 / ubik0101
そうだ。それ自身に、それ自身は、現象しない、ってことだ・・・自己に、自己は現象しない・・・たとえば怒りは、その怒りには、現象しない、それはすでに現象だから・・・なぜ、そう?などと考えながら歩いてると、

いつものように、世界に溢れる光は、やはり自分の中まで明るく照らし・・・たしか題名しか知らないけど「洪水は我が魂まで及び」という小説があったけど・・・そのように世界は奥まで浸透しています。

それで、この冷たい風が吹く青空・・・・どこかの家の庭に咲く、この赤い花が、どう見ても、それを見る、この自分を、つくってるのです。うーん。どうも。それぞれ特定の樹とか、はらはら舞い散る落ち葉とかでもなく、

この世界は自分を、つくっています。まあ、言うとして。自分は世界というわけではなく、世界は自分です。それで人は世界から、とても離れがたいのでしょう。でも、

ふと、その赤い花に焦点が移ると、花も、この自分によって、つくられてるようです。花は世界を見えるのではないでしょうが、そよぐ風、光の陰影・・・そして、この周囲には世界が展開してて・・・ありとあらゆることが依存してる関係にあるのでしょう。そこで。

それ自身に、それ自身は、現象しない・・・でも世界は、世界に現象してるのでしょうか。こんな疑問が生じました。

No.2362 - 2009/12/12(Sat) 12:14:53

Re: 世界 / ubik0101
どんなことも・・・たとえば樹、赤い花、鳥、水、風・・・は、すでに現象であり、それ自身は、それ自身に現象しません。では、それらの集まった総てが世界でしょうか。そうだとすると・・・現象する総ては一定だとか、一定でないとかの確認はできないでしょうし、現象としては世界は増えたり減ったりする、しない、も不明ではないでしょうか。そして、

また、 なにか現象と、ほかのなにか現象との関係や無関係があるのは・・・完全な関係(融合)も無関係(分離)もないけれど・・・なぜなんでしょう。もしそれぞれの現象の総体が世界なら、そんなことは起こらないのかもしれません。では、

もしかして、この世界、それ自身は、世界として現象しないのでしょうか・・・現象する世界に、なにかが現象するのは奇妙・・・つまり現象しない世界に・・・星、夜、朝、昼、私・・・・が、現象するのでしょうか。ならば、世界、というのは知覚にとってかもしれませんが、ない、のかもしれません。そうだとして、

この、ない、というのは、ニュートラル、という意味に思えます。たとえば、いわゆる自我が、ない、と言うのは、ニュートラル、とも言えるでしょう。この、ない、世界が、ない、自分をつくってる・・・そう考えることが自然に思えます。たとえば、

No.2363 - 2009/12/18(Fri) 12:45:51

Re: 世界 / ubik0101
この冬の風に吹かれて歩いたり、この部屋から窓の外を眺めたりしてることは、その、ない、を見てるのではないでしょうか。それが、世界は総ての意味を孕んで無意味・・・透明・・・と感じられるのかもしれません。そして、

なにか個別の特定の現象と見なされる有り様は、ある、と思われるのかもしれません。たとえば、ほかの人、もの、こととの個別の特定の現象との強い関係、あるいは強い無関係が生じるとニュートラルから、ある、にギアがシフトされるようです。たとえば、

ベランダの手摺に、ある、野鳥のための餌箱に、輪切りの蜜柑が、ある。メジロが2羽、いる・・・そして、たとえば、そこには林檎が、ない、ということが、ある、のでしょう。おなじように・・・無我・・・無欲・・・さえ、ある・・・無我が、ある。無欲が、ある。となり得ます。ところで、

そんな個別の特定のことではなく、人は、このニュートラルな日常に。とくに、なにかに依存しない、とか思う必要もなく、こうだと原因は特定できないけど幸せな楽しい嬉しい感じが、どれこれという根拠もなく感じられます。そして、

あるいは現象しない世界に・・・あるいは現象しない世界そのことが・・・どのようにして、なにか樹や鳥や感情や思考が現象するのか?と、このようにも思考できるということ。それでもなお。この世界は、知り得ないことによって、自己は、あり得るのかもしれません。

No.2364 - 2009/12/18(Fri) 17:47:19
これ / 図書館閲覧者
「これ」について書き連ねることも、確かに、空想、あるいは物語としてしか表現され得ないのだけれども、その時、その場、においては間違いなく「空想する」「物語る」ということが「これ」の表現になっている、ということです。
No.2349 - 2009/11/24(Tue) 14:21:57

Re: これ / 図書館閲覧者
結局、「私の問題」として立ち上がり続けているのは
「”自分”と”自分以外のもの”を分け隔てる境界線を巡っての攻防」
と、集約できるのかもしれません。

「どうやって、”私”は、”私以外のもの”と折り合いを付ければよいのか?」

これが、人間がその人生を通じて取り組んでいることなのかもしれません。

”私”と”私以外のもの”とを隔てる境界線は、

物質が思い通りにならない場合には、”私”と”物質”のあいだに
身体が思い通りにならない場合には、”私”と”身体”のあいだに
感情が思い通りにならない場合には、”私”と”感情”のあいだに
思考が思い通りにならない場合には、”私”と”思考”のあいだに

というふうに、様々なところに引かれる可能性があります。
そして、その境界線を支える根拠は
「誰が何と言おうと、絶対”私”はここに存在する!」
という根強い確信です。

ところが
では、その「私」について「私とは誰か」と直接問い尋ねてみると、結局そこに見いだせたのは「思考者の振りをした思考」でしかなかったというわけです。

つまり
「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」という事実は、同時に
「”私”と”私以外のもの”を隔てる境界線がそもそも存在しない」
という事実を明らかにします。

その、「見えない境界線」が、「私」と「私以外のもの」との間に実体としてあるかのように錯覚されているのであれば、「私とは誰か」という問いに赴くのが遠回りせずに良い、とは思いますが、もちろん、絶対そうでなければならない、というわけではありません。

No.2350 - 2009/11/24(Tue) 14:35:24

Re: これ / 図書館閲覧者
「どこにも境界線はない」

にもかかわらず。
見えます、聞こえます、考えます。
そして、行為し話します。
確かに何かが活動しています。
起こることを起こるままに起こしています。
それを「これ」と呼んでみました。

「その時その場」が「これ」として表現され続けています。
全ては「これ」。
にもかかわらず、「これ」が展開すると、その時その場において例えば「怒り」として表現されます。
「これ」がその時その場「怒り」として表現されている時、そこに「幸せ」の入り込む余地はありません。
「これ」がその時その場「空腹」として表現されている時、そこに「満腹」の入り込む余地はありません。

「怒り」と「幸せ」、「空腹」と「満腹」、「ubik01010」と「図書館閲覧者」、本来比較の対象になりません。
もし比較しようとするならば、それは「物語る」しかありません。
そしてそれも、その時その場においての「これ」の展開となっているようです。

No.2351 - 2009/11/24(Tue) 15:00:52

Re: これ / hato

>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。
>そして、当然。
>「これ」は空想です。


> その時、その場、においては間違いなく「空想する」「物語る」ということが「これ」の表現になっている、ということです。


世界とは誠に、完全に不完全に全うされているようです。
なんとも絶妙です。そして、



「これ」。


自分が指し示すこれは、「空想」ではありません。
ここはもう、空想は不可能です。
自分はそれを、未知ながらの道。と言います。


人はよく思考が問題だと言います。なんておかしなことを言うのでしょう。問題とは常に、それを使う人の側にあるだけです。人が正当に「それ」或いは「これ」に至っていないとき、或いは、「そこ」に満ちていないとき、明らかに問題は、思考の有る無し・・・以前に、人がその様にあることでしょう。

道具に使われているときに、それが厭わしいだけです。人が完全に逆転し、尚理解されるなら・・・世界の構成要素に使われるのではなく、用いるまでに成長するなら・・・知覚や思考の本分とは、折々の自分と世界の状態を教えてくれる、物事を物事として知ることができる、というだけです。この世界でたとえば自分として在ることを、可能な分に於いて調整することができる、だけです。

不理解としての無知があるとき、夢想が入り込み、構成要素であるはずのそれが人に先立ちます。たとえば思考、感覚、感情・・。意識は錯綜し、空想が創り出され、人はそれに使われてしまうのです。空想とは、基本的には、人が自我の機能にあるときに見ることができるでしょう。 自我は無知であることができる、とも言えます。

故に人は正当に変容変化成長しつつ、そして尚、理解する必要があるだろう、と言わねばならないのです。


まずはこの世界。仕組みは仕組みとしての正当な位置。たとえばその思考。その、感情。或いは人として、自分。自他として折々の正当な位置を見出すこと。見出したとしても、問題にならないでしょう。こうしたことは、空想でない「これ」を知る、ことから自ずと起きてくると言えるでしょう。

それは人に可能なことと、思います。なぜなら人は、世界の有り様に留まるものではないからです。


先日の江ノ島から、逆光画像です。

No.2352 - 2009/11/25(Wed) 00:28:34

Re: これ / ubik0101
ちょっと昼間、探っていました。この冬の曇り空に展開されてる・・・あの遠くの山や樹や家々でできた稜線を見ても・・・感情を、思考を知覚しても、まったく主観しかない、です。それで、境界は生じようがありません。これを世界と呼んでいるようです。

じゃ、客観は、どうした?たとえば温度計で測る気温は、重力は、客観?感情そのものは、思考そのものは?でも、知覚されるしか知覚がありえず、主観でしかないです。

この境界が生じようがないという意味で・・・主観と・・・「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」・・・もし見方が違っても、おなじ結果なら、その両者の、もっと奥がありそうな感じです。

それを探るために、余計かもしれませんが、説明します。まず主観があって、なにかが知覚されるのではなくて。なにかを知覚することによって、主観がつくられています。

こう言葉にすると、無主観、と変わりないように見えますが・・・ たとえば、環境が変わる、身体の状態が変わる、ほかの人と意見が違う・・・なら・・・環境が変わる、身体の状態が変わる、ほかの人と意見が違う、それが主観です。それから派生することも主観です。

続きます。

No.2353 - 2009/11/25(Wed) 00:29:22

Re: これ / ubik0101
でも、どんな世界観も、ほころび、があるようです。でなくては、とある世界観は成立ができないようにも思うのですが・・・ほかの人や、机や椅子、感情、思考によって、主観がつくられるので・・・ほかの人や、机や椅子、感情、思考が、主観であるはずがない、です。でもこれは、主観に対応してできた客観、なだけかもしれません。

ここで主題に戻ります。たとえば「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」の「存在しない」は。知覚にとっては、存在しないか?つまり知覚できないので、「存在しない」、とするのか? けど。「存在しない」ことの認知は、知覚の範疇にないと思われます。まったくの「存在する」は、これも知覚の範疇にないと思われます。この、知覚、についての説明は、知覚による、とは言い難いです。

これは。 「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」と、禅で言う・・・ほとんど詳しくはないけれど・・・本来の面目、無位の真人・・・とかは、どういう関係になってるのか?という疑問かもしれません。

また。たしかに。これは、なぜ、これなのか?・・・それは人が自己であるためには、それが解けない必要があるしかないかも知れないのですが・・・ これしか、気になる問題はないくらいです。

ところで画像は、赤い実と、黄色の実の、百両です。

No.2354 - 2009/11/25(Wed) 00:30:05

Re: これ / 図書館閲覧者
「空想」も「現実」も、「主観」も「客観」も、「今の現れ」あるいは「生命現象の現れ」であるには違いないことです。

「いま」が「空想」として表現されている。
「いま」が「現実」として表現されている。
あるいは
「いのち」が「空想」として現れ出ている。
「いのち」が「現実」として現れ出ている。

「空想」の時にはきちんと「空想」が、「現実」の時にはきちんと「現実」が、その時その場で表現されています。

但し、「空想」と「現実」を並列で見ようとするときに、「空想」と「現実」に首尾一貫性を持たせるための「空想と現実をつなぐ物語」が作られ、その物語の中に主人公としての「私」が設定されることがあります。

しかし
「空想と現実をつなぐ物語」も「いま」あるいは「いのち」が「空想と現実をつなぐ物語」として現れ出ているのであり、「物語の主人公」も、「いま」あるいは「いのち」が「物語の主人公」として現れ出ている、とうことでは全く変わりがありません。

「空想」や「物語」と別のところに、「いま」や「いのち」があるのではなく、「空想」や「物語」が即、「いま」や「いのち」の証(あかし)、現れになっています。
「いま」や「いのち」を「現実」と呼んでしまえばその瞬間「現実」は「現実という物語」になってしまわざるをえませんが、しかし、「現実という物語」はそのまま「いま」「いのち」の現れになっています。

とはいえ「いま」と言っても「いま」以外にはない、つまり「いま」と区別、比較する対象がないので、「いま」を認識することは出来ません。
同様に「いのち」と言っても「いのち」を認識することは出来ません。
なので「これ」と呼んだ次第です。

「本来の面目」というのは、「これ」がその時その場で取った表現形。
「無位の真人」というのは、これしかないが故に認識不可能な「これ」
のことかな、と思います。


「境界の無さを自覚する」というのは、何だか「世界と仲直りをする」感、「あらゆるものごととの親密さを取り戻す」感があります。

仲直りできていれば、「仲直りした」という自覚が不要なのは言うまでもありません。

そして
仲直りに到る経緯については色々な物語がありえるでしょう。

また
仲直りした上で、どうやって「これ」を「これ」として表現していくのか、それもまた「”これ”の蔵する無尽蔵の可能性」として可能なことなのだと思います。

No.2355 - 2009/11/25(Wed) 11:22:05

Re: これ / hato

> 「境界の無さを自覚する」というのは、何だか「世界と仲直りをする」感、「あらゆるものごととの親密さを取り戻す」感があります。


なかなおり、て、優しい表現ですね。
親密さ・・
その祝福。・・晩秋の紅葉、その葉の香りを吸い込むだけで充分にいいのですから・・・恩寵、と思いますね。


なぜだかすこし飛びますが、

人が素直に・・・その折々の自分がそう、であることを、きちんと認める。そして、新たに自分を提示するだけで、この日常に必要なことは、その折々に開示されていくように思います。

ちょっとしたところで・・・小細工せず・・・逃げず、逆立ちしないで・・正真正銘か弱い自分を、何ものでもないところの未知に一歩踏み出す・・・そうしたなら、これ、は、緑に芽が吹き、可憐で小さな花が開くように・・・開示されていくと言えるでしょう。

問い。とは、それ自体の不確実性によって、何かしらの揺らぎをバランスさせようとする動き・・・原初・・・に戻そうとする、その動き、方向性の模索、とも言えるのかも、知れません。言葉としての問いかけというものは常に、跡付けとなるようです。

そこで、認識不可能、空想不可能なそれ、のところの、これ(あらゆる現象から、そうでしかあり得ない未知ながらの道)。を生きる。ことで、よし。と。

そこがストンと腑に落ちる、こと。
了解。として、あるようです。

No.2356 - 2009/11/26(Thu) 01:11:08

Re: これ / ubik0101
なんと呼ぶにしても、観察者がいる、と。いない。どちらの有り様にも人が縛られなくなると、・・・善悪の概念もそうですが・・・そこで、たしかに、その境界がなくなり、それについての思考も、そうする立ち位置も見失います。

そのことは。たとえば、観察者がいない、と確認しなくても、観察者が、いない。ことの了解、と思われます。なにかを思考しても、こう、だということを、こう、だと思考するだけなので。それを思考しないでも、事態が変わることはなくなります。

まったく、人が、それ、そのことならば・・・言葉では問えるのですが・・・すでに善悪、観察者がいる、いないを問う必要がないように、それ、を問う必要がありません。それは自分にとっては自己、実在がそうです。

にも関わらず自己、実在、それ、そのものではないけど、ちょっと外れた、知覚できること。表現としての、現象としての、この世界、そこで、なぜ、これは、これなのか?の問いが生じるように思います。

なぜ、それ、と区別、比較する対象がないと、それ、を認識することはできないのでしょう・・・それは、それ、ということが理由ではなく、なんでもいいのだけど、なにか解らないことが前提になってるから、というだけの理由なのかもしれません。

そういう形式で、表現、現象ならば、認識は、それぞれの認識、となるのでしょうか。つまり「差が知覚」。それは、どうしようもない原理、法則のようなことでしょうか。 そのようにして世界の総活動は現れてるのかもしれません。

それでもなお。人が、自己、実在、そのことなら、この世界、表現、現象がどうであっても、なんでも、いいです。なぜ、これは、これ、でなくてもいいのに、これなのか?

No.2357 - 2009/11/26(Thu) 09:01:24

Re: これ / 図書館閲覧者

「問い」であれ何であれ、対象に依存すれば依存できないことを思い知らされることになります。

依存がなければ何であれ、「これ」がその時その場でこれと表現されたものであるでしょう。

しかし、では、なぜこれはこれなのか?

「なぜこれはこれなのか?」こそが「これ」の働きそのものとしても、なぜ「これ」は「これ」に留まることなく知覚として、感情として、思考として自らを表現し続けるのでしょうか?

恩寵においては一切を見ることなくただ親しみと共に留まっていたものが、なぜまた時を経ると、知覚として、感情として、思考としてそれらのものが現れ出てくるのでしょうか。

それは「元の木阿弥」になったのでしょうか。

「私」は恩寵から滑り落ち、また一からトボトボと歩み始めなくてはならないのでしょうか。


どうやらそうではなさそうです。

あらゆる知覚、あらゆる感情、あらゆる思考は、それ自身に原因を持たない有り様として現れ続けます。

あらゆる知覚、あらゆる感情、あらゆる思考は、在るかのように、無いかのように、無常なるものとして現れ続けます。

なぜそのようなことが可能なのでしょう。

それは

「これ」が完全なるものだからでしょうか。

「これ」がこれ自身に原因を持つものだからでしょうか。

「これ」が常住だからでしょうか。

「これ」は完全なればこそ、完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの、無常なるもの)を自らの元に親しみと共に許容しているのではないでしょうか。

不完全を許容できないような完全は、完全ではないからです。

完全であるとは、完全である自己を否定する契機を含んでこその完全だからです。


故に

それ自身に原因を持たないものの現れは、それ自身に原因を持つものの恩寵です。

無常なるものは、常住なるものの恩寵です。

完全なるものは、完全なるものの証(あかし)・恩寵として、完全ならざるものを現し続けます。

ならば

知覚、感情、思考は、恩寵です。

世界は、恩寵です。


と、まあ。
堂々巡りになったところで。

そろそろ失礼しましょう。
では、また、そのうち。

No.2358 - 2009/11/26(Thu) 20:59:11

Re: これ / hato

ありがとうございます。

問いそのもの未知それ自体の運動性、不確実無尽蔵の様相において、どういうわけか人は見止め、人は変容、成長する、こと。現時点でここをはずすことができないようですが、

知られざるところの可能性を孕みながら、各位それしかあり得ない表現での展開を、楽しませて頂きました。

どうぞ、
またいつでも。

No.2359 - 2009/11/26(Thu) 23:39:13

Re: これ / suho

これ。
上のお写真、美しい。。
こういうの好きなんです。
パンパンっ
ヒョコっヒョコっ
(二拍二礼)
あざーっす。
(ありがとうございます)

No.2360 - 2009/11/28(Sat) 22:29:16

Re: これ / hato

おお。suhoさん。。拝んでる・・・

富士はほんとに、美しいですよね〜。

昨今の携帯は、素人でもよく写るんです。な感じでしょ。
わたしの携帯画像はちょっと縦長いのが難なんですが、ubik0101さんがこのサイズお気に入りなんでまあ、今のところはこれで、楽しんでます。

今日も江ノ島、行ってきました。
ubik0101hp常連の皆様にはご存じ、魚釣り名人の調理人さん。実はとてもカッコよくて、情のある、江戸前な感じの人なんですよ。今日はお会いしませんでしたが、ご夫婦で来られていたようです。

こちらこそ、あざーっす。
(使って、みました。。。)

No.2361 - 2009/11/28(Sat) 23:39:04
空想。 / ubik0101
>そんな時、人は空想の機能を使って学ぼうとするのでしょう。

たしかに。シュミレーションして、学ぼうとすることとも言えます。空想。 そのためには・・・たとえばビルの中で、ビデオ画像を見ながら、ジェット機の操縦桿を操作する訓練をしても・・・なんの実感も効果もないので・・・そうしてる自分を騙してでも、空想なのに、それが事実だと思いこまなくては、真剣になれません。

たとえば・・・ほかの人が、そう思ってもないことを、そう思ってると勝手に空想して・・・それに対して反対したり賛成したり・・・つまり自分が自分と分裂して闘ったり仲良くしたりします。でも、それに対応しての・・・そうじゃないよ。それは、総て自分。みんな一体だよ・・・としても、それも空想・・・を事実と見なします。

でも、うまくいけば。思考の限界には矛盾があって・・・たとえば、総て自分。という意見には、その類似なことと、反対のことと、無関係なことがあって・・・それに思いあたって、思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。

そこで現実に直面したりします。けどそれも空想で・・・現実に現実逃避・・・つまり現実に依存してる。だけかもしれません。そいうことは、もともと、そんな、その空想してる主体を、ある、と空想してなければ、総てが成立しない・・・です。その主体を、ない、と空想することもできます。

そこで・・・自我は虚構・・・空想だと了解されればどんな空想にも依存する必要がなくなる・・・ついでに空想による、ほかの人との軋轢や葛藤は不要になります。それまでに・・・いい加減な段階で納得なんかしないで、どこまでも、たとえば自分を探求する・・・その自分は世界によって、つくられてた・・・その総てが役に立つ・・・とてもうまく出来ています。

No.2325 - 2009/11/11(Wed) 13:20:36

Re: 空想。 / 図書館閲覧者

>思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。 そこで現実に直面したりします。

「私とは誰か」という問いの持つ射程はここらへんまでかな、と感じています。
ただ、ここらへんまで辿り着くには「私とは誰か」という問いは、入り口としてとても有効だと思います。

>けどそれも空想で・・・

そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

ただ、大きく見ればその道程も

>自分を探求する

その流れにあるとは思いますが。

No.2326 - 2009/11/11(Wed) 14:40:12

Re: 空想。 / hato

>もちろん
>空想に憑依され続けなければならない理由などどこにもありません。



了解です。その様に思われます。


たとえば人が執拗に、「そのとき一体、君はどうする!?」と空想すること自体。これを見るなら、それはすでに 「そのとき」ではない場所に於いて、なにかを正否判断しようとしていること、それが、いわゆる、人が断片の位置に据え付けられ、逆立ちして生きようとしてる状態でもあり・・・

こうした、それ自身において解体、理解されていない断片、が、当然のように自分であると見なされている状態、から発せられる問いであるとき、その空想は、実際には当人が直面してもいない、ありもしない問題に拘わろう、作りだそうとしてる状態、といえるでしょう。理解されていない自我の場合は、このようでしょう。

ですがたとえば公案は、(正しい意味での自我の機能ではない、)あるというわけでもない幻影としての自我、思い込みの自分、を追い詰めるとの点で、秀逸なものがあるのでしょう。その意味に於いての問いなら、使い手によってツール足るかどうか、ということかと思います。

断片にして存在するこうした空想が、ごく日常生活に於いて正常に役立つこと。例えば、車道を歩くときは車に気を付けよう、な意味の、人として生きる上での注意深さを喚起する、或いは、折々に自らの生を糺す、ことなら、役目を果たせるといえるかも、知れませんね。


> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。
>
> ただ、大きく見ればその道程も
>
> >自分を探求する
>
> その流れにあるとは思いますが。



そこからは、問い、というよりは既に、
未知それ自体にして自発自動的に。

との、感じでしょうか。

No.2328 - 2009/11/11(Wed) 23:24:05

Re: 空想。 / ubik0101

> >けどそれも空想で・・・

> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

> ただ、大きく見ればその道程も

> >自分を探求する

> その流れにあるとは思いますが。

うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。後づけです。でも。そのまま世界や自分を認めたところで生じる疑問があります・・・これは、なぜ、これなのか?

No.2331 - 2009/11/12(Thu) 12:46:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。

「私は誰」の問いは、結構楽しめました。

この問いから学べる点は、普段私たちが「思考とは別に、それを思考する思考者がいる」という思い込みがまさに思い込みでしかない、という点です。

「私は誰」と問うたときの私とは、まさに「私とは誰」でしかありえない、という単純な事実は、思考者不在の事実を明らかにします。
要は、思考が思考者を装っていたに過ぎない、ということです。これはショックと共にあからさまに明かになります。

しかしながら(意識の慣性に引っ張られての行きつ戻りつは別にして)それで万事解決、というわけでもなさそうです。

思考者不在のままに、感覚は生じ、思考・感情も生じます。
空想も生じ、物語も生じます。
思考者不在。なら依存も不可能。
それは「依存」が問題なのであり、それ自体はただの機能です。
特に問題ではありません。

では
起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。

「私は誰」の射程では収まらない、とは、こういう事情のことでした。

No.2332 - 2009/11/12(Thu) 14:59:41

Re: 空想。 / ubik0101
たしかに。観察者が、ある、とか、ない、とか、それで、世界は、分離してる。世界はひとつ。とか探ってる、運動してる、それなら、そういうこと、それだけが作動して。楽しいんです。

じゃ、なぜ、楽しさが、楽しさなの?・・・たとえば自我が苦痛だとしても、その苦痛が、なぜ苦痛なの?・・・そう、でなくてもいいのに、なぜ、そう?・・・それを問うなら、自我の束縛とか解放とか、些細なことに思えます。ついでに、世界って何?ない、って何?ある、って何?と問うと、それも、そう、でなくてもいいのに、そう、です。

なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。これを不思議と呼んでいます。こんなことに気がつけるのが、変、と言えば変なんです。

これは何?という問いは、これは世界に依存しなくなった、その現れでもあるのでしょう。そして、その答えは、それは解らない必要があるように思えます。

続きます。

No.2335 - 2009/11/13(Fri) 09:19:52

Re: 空想。 / ubik0101
もし、それが解るようにできてると、どうも不都合なようです。思考が成り立たない、凝固した感じです。たとえば、なにかが、ある、とか、ない、とか考えても、その、ある、とか、ない、とかが解ってることとして、解ってない・・・定義不能・・・・それを前提に思考は可能なのかもしれません。真っ白い定義不能な紙があって、インクで文字が書けるようなことかもしれません。

そして、これは、なぜ、これ、なのか?これは、その真っ白い紙って何?と。世界って、なに?という問いでしょう。でもそれは、まさに目の前に展開されてる、見える、聞ける、触れる、世界なんです。そして人は、そこで呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を変え続けています。これは常に世界が、総活動してる・・・その了解でもあると思います。

ところで。世界なんて、こうでなくてもいい、なんであっても、どーでもいい・・・でなくてはならない・・・でなくては人は、どんなことでもない自己。であり得ないのではないでしょうか。自覚できない自己を認めざるをえない、というよりも、自己からしか、これは何?と、思えないのかもしれません。

No.2336 - 2009/11/13(Fri) 09:51:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> では
> 起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。


起こることを起こるままに起こらしめている「これ」
ならば「これ」は何なのか。

「私とは誰か」の問いと同様に、
「これは何なのか」の問いの答えは、まさに「これは何なのか」にならざるを得ない。

つまり
「これは何なのか」という問い自体が、「起こることを起こるままに起こさしめる働き」、つまり「これ」そのものということになる。

既に
「私とは誰か」の問いを通じて「自分と自分以外のものの無境界性」を見た後に発せられたこの「問い」の適用範囲は、思考領域に限定されることなく、全ての領域に及ぶ。

故に

「これ」は苦しみであり

「これ」は怒りであり

「これ」は悲しみであり

「これ」は喜びでもある。

「これ」が時間であり

「これ」が空間であり

「これ」が山であり

「これ」が海であり

「これ」は死であり

「これ」は誕生でもある。

「これ」が身体であり

「これ」が感覚であり

「これ」が感情であり

「これ」が思考でもある。

「これ」はubik0101であり

「これ」はhatoであり

「これ」はノンノンであり

「これ」は図書館閲覧者でもある。


「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

そして、当然。

「これ」は空想です。

No.2344 - 2009/11/21(Sat) 15:31:42

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。

これはもう
「神はなぜ神なのか」という問いにさえなってしまいそうです。

「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

No.2345 - 2009/11/22(Sun) 09:19:55

Re: 空想。 / ubik0101
>・

>・

>・

>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

>そして、当然。

>「これ」は空想です

な、難解、です。たぶん、 「私とは誰か」にしても「これは何なのか」にしても、いや、総ての思考は空想、という意味?かな、です。そうでなくて、現実、と言っても、そういう思考だし、その思考が生じる前の、手つかずの現実そのもの指摘?かな、です。

また、そのように思考するのも空想だから・・・つまり表現されることと、する言葉が無関係だから、表現されることを正確に表現できる・・・のだけど、まったく無関係でもない、という指摘?かな、です。

また、なんであれ、それは、それ自身でしか、表現できません。なんであれ現象してる、ということは、それがすでに表現です。でも、これ、と、それ。関係。たとえば、怒りと、時間。苦しみと、思考。たとえば海と、図書館閲覧者と、ubik0101は、どうなってるのか?これ、が、これ、だけである、というのは空想、という指摘?かな、です。

ところで。もしかして、まず「私は誰」という問いは「私は誰」でなくてはならないのだろうか?そうでなくては、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」にならないのだろうか?それは、違う言葉でも成立するのだろうか?と、すこし探ってみてはいました。

続きます。

No.2346 - 2009/11/23(Mon) 17:58:40

Re: 空想。 / ubik0101
そこで、この私は誰は、私は誰。に、とある言葉を置き換えると・・・たとえば、青空は、青空。星は、星。ライ麦畑でつかまえては、ライ麦畑でつかまえて・・・また、世界は、私。流れよ我が涙、と警官は言ったは、私。言葉は、私・・・それと、私は、青空。私は、世界。私は、言葉・・・これは、とりあえずかもしれないけれど、表現されることと表現の、見られる対象と、見る主体の、同一、が見えてくるようです。

その、同一は、 青空は何か、とか、時間とは何か、君は誰か、とかでは、「私」のこととしては、切実に真摯になりにくいとも感じます。たぶん、私、という言葉に、私(それが何かはともかく)との同一化があったその「私は誰」。に同一しきった、ゆえのそれを見る観察者のはいる余地もない了解。のための役に立ったのかもしれません。

でも、それが実際は・・・その当事者ではないので、勝手な意見ですが・・・観察者がいない、ということが起こって、 「私は誰」は、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」、と意味づけられるようにも思えます。そしてともかく、観察者がいない事態は、対象は、青空でも、感情でも、思考でも、なんでもよくて。なんでもいいということは必要で、見ても聞いても思考しても、同一しきってるわけではなくても、それを見てる中心、観察者がいない、いわゆる無心、無我。

でも、もっと正確には、観察者は・・・知覚の領域にはない・・・いるでもいないでもない、ではないでしょうか。観察者はいない、というだけでは空想、という指摘?かな、です。これは、思考というよりは。そう、だということを、そう、だと表現する、ことにも繋がると思えます。

この連休には、hatoさんと海に行って、カサゴやカワハギを釣ったり・・・実家で過ごしていました。画像は、クリスマスリースを齧って遊ぶ、ルンルン、ノンノンです。

No.2347 - 2009/11/23(Mon) 18:17:51

Re: 空想。 / ubik0101
>「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

不完全もあり得ない完全は、完全ではない、と思います。

No.2348 - 2009/11/23(Mon) 18:24:10
(No Subject) / ubik0101&hato
ノンノン、枝にとまって、ペキッと、嘴で、葉っぱを囓り取って、嬉しそうです。天気がいい今日は、 hatoさんと向ヶ丘遊園に行って来ました。

ubik0101

緑豊かな緑地帯で、木々のなかを散歩しました。休日はよく出かけてるほうかも知れません。ノンノンはお留守番で、キュ〜ン、と寂しそうに見送られるとまいっちゃいます。

hato

No.2343 - 2009/11/15(Sun) 21:57:08
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