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空想。 / ubik0101
>そんな時、人は空想の機能を使って学ぼうとするのでしょう。

たしかに。シュミレーションして、学ぼうとすることとも言えます。空想。 そのためには・・・たとえばビルの中で、ビデオ画像を見ながら、ジェット機の操縦桿を操作する訓練をしても・・・なんの実感も効果もないので・・・そうしてる自分を騙してでも、空想なのに、それが事実だと思いこまなくては、真剣になれません。

たとえば・・・ほかの人が、そう思ってもないことを、そう思ってると勝手に空想して・・・それに対して反対したり賛成したり・・・つまり自分が自分と分裂して闘ったり仲良くしたりします。でも、それに対応しての・・・そうじゃないよ。それは、総て自分。みんな一体だよ・・・としても、それも空想・・・を事実と見なします。

でも、うまくいけば。思考の限界には矛盾があって・・・たとえば、総て自分。という意見には、その類似なことと、反対のことと、無関係なことがあって・・・それに思いあたって、思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。

そこで現実に直面したりします。けどそれも空想で・・・現実に現実逃避・・・つまり現実に依存してる。だけかもしれません。そいうことは、もともと、そんな、その空想してる主体を、ある、と空想してなければ、総てが成立しない・・・です。その主体を、ない、と空想することもできます。

そこで・・・自我は虚構・・・空想だと了解されればどんな空想にも依存する必要がなくなる・・・ついでに空想による、ほかの人との軋轢や葛藤は不要になります。それまでに・・・いい加減な段階で納得なんかしないで、どこまでも、たとえば自分を探求する・・・その自分は世界によって、つくられてた・・・その総てが役に立つ・・・とてもうまく出来ています。

No.2325 - 2009/11/11(Wed) 13:20:36

Re: 空想。 / 図書館閲覧者

>思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。 そこで現実に直面したりします。

「私とは誰か」という問いの持つ射程はここらへんまでかな、と感じています。
ただ、ここらへんまで辿り着くには「私とは誰か」という問いは、入り口としてとても有効だと思います。

>けどそれも空想で・・・

そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

ただ、大きく見ればその道程も

>自分を探求する

その流れにあるとは思いますが。

No.2326 - 2009/11/11(Wed) 14:40:12

Re: 空想。 / hato

>もちろん
>空想に憑依され続けなければならない理由などどこにもありません。



了解です。その様に思われます。


たとえば人が執拗に、「そのとき一体、君はどうする!?」と空想すること自体。これを見るなら、それはすでに 「そのとき」ではない場所に於いて、なにかを正否判断しようとしていること、それが、いわゆる、人が断片の位置に据え付けられ、逆立ちして生きようとしてる状態でもあり・・・

こうした、それ自身において解体、理解されていない断片、が、当然のように自分であると見なされている状態、から発せられる問いであるとき、その空想は、実際には当人が直面してもいない、ありもしない問題に拘わろう、作りだそうとしてる状態、といえるでしょう。理解されていない自我の場合は、このようでしょう。

ですがたとえば公案は、(正しい意味での自我の機能ではない、)あるというわけでもない幻影としての自我、思い込みの自分、を追い詰めるとの点で、秀逸なものがあるのでしょう。その意味に於いての問いなら、使い手によってツール足るかどうか、ということかと思います。

断片にして存在するこうした空想が、ごく日常生活に於いて正常に役立つこと。例えば、車道を歩くときは車に気を付けよう、な意味の、人として生きる上での注意深さを喚起する、或いは、折々に自らの生を糺す、ことなら、役目を果たせるといえるかも、知れませんね。


> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。
>
> ただ、大きく見ればその道程も
>
> >自分を探求する
>
> その流れにあるとは思いますが。



そこからは、問い、というよりは既に、
未知それ自体にして自発自動的に。

との、感じでしょうか。

No.2328 - 2009/11/11(Wed) 23:24:05

Re: 空想。 / ubik0101

> >けどそれも空想で・・・

> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

> ただ、大きく見ればその道程も

> >自分を探求する

> その流れにあるとは思いますが。

うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。後づけです。でも。そのまま世界や自分を認めたところで生じる疑問があります・・・これは、なぜ、これなのか?

No.2331 - 2009/11/12(Thu) 12:46:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。

「私は誰」の問いは、結構楽しめました。

この問いから学べる点は、普段私たちが「思考とは別に、それを思考する思考者がいる」という思い込みがまさに思い込みでしかない、という点です。

「私は誰」と問うたときの私とは、まさに「私とは誰」でしかありえない、という単純な事実は、思考者不在の事実を明らかにします。
要は、思考が思考者を装っていたに過ぎない、ということです。これはショックと共にあからさまに明かになります。

しかしながら(意識の慣性に引っ張られての行きつ戻りつは別にして)それで万事解決、というわけでもなさそうです。

思考者不在のままに、感覚は生じ、思考・感情も生じます。
空想も生じ、物語も生じます。
思考者不在。なら依存も不可能。
それは「依存」が問題なのであり、それ自体はただの機能です。
特に問題ではありません。

では
起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。

「私は誰」の射程では収まらない、とは、こういう事情のことでした。

No.2332 - 2009/11/12(Thu) 14:59:41

Re: 空想。 / ubik0101
たしかに。観察者が、ある、とか、ない、とか、それで、世界は、分離してる。世界はひとつ。とか探ってる、運動してる、それなら、そういうこと、それだけが作動して。楽しいんです。

じゃ、なぜ、楽しさが、楽しさなの?・・・たとえば自我が苦痛だとしても、その苦痛が、なぜ苦痛なの?・・・そう、でなくてもいいのに、なぜ、そう?・・・それを問うなら、自我の束縛とか解放とか、些細なことに思えます。ついでに、世界って何?ない、って何?ある、って何?と問うと、それも、そう、でなくてもいいのに、そう、です。

なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。これを不思議と呼んでいます。こんなことに気がつけるのが、変、と言えば変なんです。

これは何?という問いは、これは世界に依存しなくなった、その現れでもあるのでしょう。そして、その答えは、それは解らない必要があるように思えます。

続きます。

No.2335 - 2009/11/13(Fri) 09:19:52

Re: 空想。 / ubik0101
もし、それが解るようにできてると、どうも不都合なようです。思考が成り立たない、凝固した感じです。たとえば、なにかが、ある、とか、ない、とか考えても、その、ある、とか、ない、とかが解ってることとして、解ってない・・・定義不能・・・・それを前提に思考は可能なのかもしれません。真っ白い定義不能な紙があって、インクで文字が書けるようなことかもしれません。

そして、これは、なぜ、これ、なのか?これは、その真っ白い紙って何?と。世界って、なに?という問いでしょう。でもそれは、まさに目の前に展開されてる、見える、聞ける、触れる、世界なんです。そして人は、そこで呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を変え続けています。これは常に世界が、総活動してる・・・その了解でもあると思います。

ところで。世界なんて、こうでなくてもいい、なんであっても、どーでもいい・・・でなくてはならない・・・でなくては人は、どんなことでもない自己。であり得ないのではないでしょうか。自覚できない自己を認めざるをえない、というよりも、自己からしか、これは何?と、思えないのかもしれません。

No.2336 - 2009/11/13(Fri) 09:51:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> では
> 起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。


起こることを起こるままに起こらしめている「これ」
ならば「これ」は何なのか。

「私とは誰か」の問いと同様に、
「これは何なのか」の問いの答えは、まさに「これは何なのか」にならざるを得ない。

つまり
「これは何なのか」という問い自体が、「起こることを起こるままに起こさしめる働き」、つまり「これ」そのものということになる。

既に
「私とは誰か」の問いを通じて「自分と自分以外のものの無境界性」を見た後に発せられたこの「問い」の適用範囲は、思考領域に限定されることなく、全ての領域に及ぶ。

故に

「これ」は苦しみであり

「これ」は怒りであり

「これ」は悲しみであり

「これ」は喜びでもある。

「これ」が時間であり

「これ」が空間であり

「これ」が山であり

「これ」が海であり

「これ」は死であり

「これ」は誕生でもある。

「これ」が身体であり

「これ」が感覚であり

「これ」が感情であり

「これ」が思考でもある。

「これ」はubik0101であり

「これ」はhatoであり

「これ」はノンノンであり

「これ」は図書館閲覧者でもある。


「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

そして、当然。

「これ」は空想です。

No.2344 - 2009/11/21(Sat) 15:31:42

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。

これはもう
「神はなぜ神なのか」という問いにさえなってしまいそうです。

「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

No.2345 - 2009/11/22(Sun) 09:19:55

Re: 空想。 / ubik0101
>・

>・

>・

>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

>そして、当然。

>「これ」は空想です

な、難解、です。たぶん、 「私とは誰か」にしても「これは何なのか」にしても、いや、総ての思考は空想、という意味?かな、です。そうでなくて、現実、と言っても、そういう思考だし、その思考が生じる前の、手つかずの現実そのもの指摘?かな、です。

また、そのように思考するのも空想だから・・・つまり表現されることと、する言葉が無関係だから、表現されることを正確に表現できる・・・のだけど、まったく無関係でもない、という指摘?かな、です。

また、なんであれ、それは、それ自身でしか、表現できません。なんであれ現象してる、ということは、それがすでに表現です。でも、これ、と、それ。関係。たとえば、怒りと、時間。苦しみと、思考。たとえば海と、図書館閲覧者と、ubik0101は、どうなってるのか?これ、が、これ、だけである、というのは空想、という指摘?かな、です。

ところで。もしかして、まず「私は誰」という問いは「私は誰」でなくてはならないのだろうか?そうでなくては、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」にならないのだろうか?それは、違う言葉でも成立するのだろうか?と、すこし探ってみてはいました。

続きます。

No.2346 - 2009/11/23(Mon) 17:58:40

Re: 空想。 / ubik0101
そこで、この私は誰は、私は誰。に、とある言葉を置き換えると・・・たとえば、青空は、青空。星は、星。ライ麦畑でつかまえては、ライ麦畑でつかまえて・・・また、世界は、私。流れよ我が涙、と警官は言ったは、私。言葉は、私・・・それと、私は、青空。私は、世界。私は、言葉・・・これは、とりあえずかもしれないけれど、表現されることと表現の、見られる対象と、見る主体の、同一、が見えてくるようです。

その、同一は、 青空は何か、とか、時間とは何か、君は誰か、とかでは、「私」のこととしては、切実に真摯になりにくいとも感じます。たぶん、私、という言葉に、私(それが何かはともかく)との同一化があったその「私は誰」。に同一しきった、ゆえのそれを見る観察者のはいる余地もない了解。のための役に立ったのかもしれません。

でも、それが実際は・・・その当事者ではないので、勝手な意見ですが・・・観察者がいない、ということが起こって、 「私は誰」は、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」、と意味づけられるようにも思えます。そしてともかく、観察者がいない事態は、対象は、青空でも、感情でも、思考でも、なんでもよくて。なんでもいいということは必要で、見ても聞いても思考しても、同一しきってるわけではなくても、それを見てる中心、観察者がいない、いわゆる無心、無我。

でも、もっと正確には、観察者は・・・知覚の領域にはない・・・いるでもいないでもない、ではないでしょうか。観察者はいない、というだけでは空想、という指摘?かな、です。これは、思考というよりは。そう、だということを、そう、だと表現する、ことにも繋がると思えます。

この連休には、hatoさんと海に行って、カサゴやカワハギを釣ったり・・・実家で過ごしていました。画像は、クリスマスリースを齧って遊ぶ、ルンルン、ノンノンです。

No.2347 - 2009/11/23(Mon) 18:17:51

Re: 空想。 / ubik0101
>「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

不完全もあり得ない完全は、完全ではない、と思います。

No.2348 - 2009/11/23(Mon) 18:24:10
(No Subject) / ubik0101&hato
ノンノン、枝にとまって、ペキッと、嘴で、葉っぱを囓り取って、嬉しそうです。天気がいい今日は、 hatoさんと向ヶ丘遊園に行って来ました。

ubik0101

緑豊かな緑地帯で、木々のなかを散歩しました。休日はよく出かけてるほうかも知れません。ノンノンはお留守番で、キュ〜ン、と寂しそうに見送られるとまいっちゃいます。

hato

No.2343 - 2009/11/15(Sun) 21:57:08
画面がはみ出すので移植しました / peer
>それでもなお、もともと、ある、としてもいいんですが、
>それなら世界に生きる意味がないです。


ということは。
虚構だったと知るためには・・・ありとあらゆることが総活動せねばならず・・・
そのために、世界がある。。ということですか。
虚構だったと知るために、生きる意味がある。
私たちは、それだけのために生きている。ということですか?

No.2333 - 2009/11/12(Thu) 15:55:54

Re: 画面がはみ出すので移植しました / ubik0101

そうではありません。自我が虚構だと、見抜くのは、自己です。その自己は、はじめから、ある、というのも、その世界の総活動のとき生じたというのも、長短ある解釈です。その自己は・・・実在・・・『それ自身が、それ自身の原因』・・・の直系になります。

でも、こういうことは、自我が、ない。とか愛とか。世界に依存しない、ということは、どうやら基本のようですが。その人の経緯によって、どう現れるかは・・・まったく同じだったら意味ないだろうし・・・違うようです。

この掲示板は、横幅550ピクセルに設定されています。ubik0101も、hatoさんも。いにしえの、Macを使ってるのですが、片方だけ、とあるスレッドが幅が広く表示されることがありました。変だな?です。

No.2334 - 2009/11/12(Thu) 22:01:30

Re: 画面がはみ出すので移植しました / peer
なるほどね。そういうことを言っていたのね。
うん。それとは、また別に。

>・・たとえば自我が苦痛だとしても、その苦痛が、なぜ苦痛なの?・・・
>そう、でなくてもいいのに、なぜ、そう?


私的には〜自我は、それほど苦痛かどうか・・・
自分では〜分かりにくいような・・・
ただし、他者が自我に囚われていると、分かりやすいです。
「私は肉体です」と他者に言ってもらいますと。
相手が、瞬間に、体も緊張しているし、空気も重くなる。
それが「私は心です」と言ってもらうと。
とたんに、実態がないように軽くなります。
軽くて明るくて、どこまでも広がっているように感じます。

だから。あるいみ。自我は、自分に苦痛を与えている
と同時に、また、その何倍も、他者に苦痛を与えている。
そんなものなのだと実感します。


ふんふん。横幅550ピクセルに設定していても、入れ物に合わせて
形は変化するものなのですね。。。ナニカみたいだ。

No.2337 - 2009/11/13(Fri) 14:16:08

Re: 画面がはみ出すので移植しました / ubik0101
それにしても。自我は、自覚でき、ない、です。自覚できるなら、ある、んです。それが仮にでも自覚できるようになる解りやすい現象が、いわゆる(とくにK関係では)心理的思考とか、葛藤とか呼ばれてることです。

それは、空想を事実と誤認して、自分と自分が分裂して闘って、苦痛なんです。けど、自分が自分を自覚する愉悦でもあります。不満などの興奮が、面白くもあります。そんな暮らしで自我も、さまざまなことを経験しながら学んでいきます。

そしてほとんど瞬間に、自我が、ない、と見破る・・・ない、を知る叡智が完成します。そうでなければ、楽しかったり静かだったりして・・・いわゆる心理的思考や、葛藤がなければ、自我はない・・・などと思い違うこともできるようです。

No.2338 - 2009/11/13(Fri) 22:21:59

Re: 画面がはみ出すので移植しました / peer
うん。自我というか〜単純に意識があって。
「私は、肉体だ」「私は、世界を利用する」
「私は、嫉妬する」「私は、心だ」
と思うだけで、それが実現してしまう。
現象として現れる。
さまざまな変化が可能。
というものなのだ。ということですね。
・・・だから思うことには、責任がある。
そんな気がします。

No.2339 - 2009/11/13(Fri) 23:41:56

Re: 画面がはみ出すので移植しました / ubik0101
まあ。自我も執着も世界の機能なんで・・・それを使い倒して・・・使い果たして・・・「悪いことをしないで、善いことをしよう」・・・なんです。

ほかの人との関係で。嘘をつかない、約束を守る。もし、どうしてもできないなら、その痛みから逃げずに受ける。自分がしたのは、これだけとも言えます。

どんなことでも人は自分のためにするのでしょう。なら、ほんとに、ほんとに、自分のために・・・それだけで、世界は、それ自身を開示するようです。

No.2340 - 2009/11/14(Sat) 22:20:39

Re: 画面がはみ出すので移植しました / peer
自分のため、を一切投げ出して
すべてが他のため。。として生きるのも
すべて自分のため、そのためだけに生きるのも。
結局〜同じことなのかもしれない。
↑を読んでいて、そんな気がしました。

No.2341 - 2009/11/14(Sat) 23:45:44
まあね / peer
「ある大きい池の真ん中に橋が架かっていた。
その橋の真ん中で、自分の妻と母親が話をしていた。
すると突然、その橋が崩れ妻と母が池に落ちた。
妻も母も泳げない。
それを見ていたあなたは、自分の妻と母と、どちらを先に助ける?」


う〜ん。面白いですね。禅のコウアンみたいな。
問題は、答ではなく問題そのものに、あり。
ヒッカケ問題〜というか〜

「どちらを助ける」と言われて、悩むから自分が生まれる。
尋ねられなければ、自分なんて・・・ないのに。

そのとき、できることをしている。だろうに。
そこに気がつかないと、誰を助けたかで揉めちゃいますね。

No.2324 - 2009/11/11(Wed) 12:28:59

Re: まあね / ubik0101
そういえば、たまたま、ヤフー掲示板で。

『禅宗でいうと、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師はその法語『宝(ほう)鏡(きょう)三昧(ざんまい)』(注3)の中でこういっています。

「汝(なんじ)これ渠(かれ)にあらず、渠(かれ)まさにこれ汝(なんじ)」と。

この例で言うと、「お前は黒板じゃない、黒板はまさにお前じゃないか!」
と、こういう言い方をするんですね。 』

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=552019920&tid=a5a1a1a5afa5ja57a5ea5ja5e0a5ka5fa5a3a1a1a3va3ea3ra33&sid=552019920&mid=1

これは公案かどうかは知りませんが・・・また、orokamono1950さんの解釈はともかく・・・なにかを・・・樹や鳥や雲や感情や思考を、対象にすると・・・それを対象にしてる観察者が生じます。

それが、自我の場合・・・なにかを対象にして、そのことによって中心が仮に設定されるのだけど。その中心が、ある、として、その自分が、なにか行動したり発言したり思考したりてると思い違う・・・倒錯・・・だのに、それに気がつかない状態です。

それが、自己の場合・・・その、ある、と感じられてた中心が、ない、ことを見破ります。それは世界の総活動が、そうしてくれた・・・ない、のに、ある、として、あるを・・・自我を通じて自己を育ててくれた。安息日の主の、自覚です。

それらも忘れた日常の場合・・・世界から自分は、つくってもらってるんだけど。ならば「私は世界」ではなく、「世界は私」これは世界に生きて世界に依存しない・・・知覚や意識に依存しない・・・たとえば、藍は青よりいでて青より青し・・・不可逆の了解。これは自分が、ある、も、ない、も不要です。

まあ。伝統的な理解は違うかもしれないけど。いろんな状態を一言で言ってる、と思いました。

No.2327 - 2009/11/11(Wed) 23:23:31

Re: まあね / peer
>自我を通じて自己を育ててくれた。

うーん・・・育てているんですか。・・・自己は。
どういうふうに育つんだろう?
自己を知るってのは、聞くけれど。
知るというからには、もともと、あるもの
とは思いますが〜

No.2329 - 2009/11/12(Thu) 00:56:02

Re: まあね / ubik0101
もともと、ある、って、どのように確認しました?

もともと、ある、だけだったら、知らなくていいんです。 それで、生まれて、暮らして、子孫を残したりして、死んでしまう。もともと、ある、なら、それでいいです。

でも悩んだり苦しんだり楽しんだりして暮らします。それは、もともと、ない、を、もともと、ある、と世界が錯覚させてくれていて、そのことによって起こります。それを自我、と呼びます。

そんな自我も、もともと、ない、だけだったら知らなくていいんです。 その、自我は、ない・・・虚構だったと知るためには・・・ありとあらゆることが総活動せねばならず・・・そのことで虚構、ない、が事実、ある、になるように、世界が機能しています。

それでもなお、もともと、ある、としてもいいんですが、それなら世界に生きる意味がないです。そして、この世界は、この世界でなくてもいいのに、この世界なんです。

No.2330 - 2009/11/12(Thu) 12:08:55
そういえば / 図書館閲覧者
日頃、精緻に倫理について思いを巡らしていても、いざ、という時、行動を起こせる人もいれば、何も出来ない人もいるでしょう。

日頃、倫理について何も考えてない人でも、いざ、という時、行動を起こせる人もいれば、何も出来ない人もいるでしょう。

そういえば。

「ある大きい池の真ん中に橋が架かっていた。
その橋の真ん中で、自分の妻と母親が話をしていた。
すると突然、その橋が崩れ妻と母が池に落ちた。
妻も母も泳げない。
それを見ていたあなたは、自分の妻と母と、どちらを先に助ける?」

と言う話を聞いたことがあります。

No.2297 - 2009/11/09(Mon) 22:01:26

Re: そういえば / ubik0101
とくに見境なく、です。そういえば。水泳の達人でも・・・溺れて暴れる人を助けるのは、水の中に押し込んで、ほんとうに溺れさせてからでなければ助けるのは無理。と聞いたことがあります。
No.2305 - 2009/11/09(Mon) 23:33:42

Re: そういえば / hato

空想。

たとえば、倫理としての行い、を思考するとき、わたしたちはそれを相対として考えることができます。
相対として断片から考える故に、その空想自体の局面は断片化されています。

そうしたことはいくらでも、如何ようにも問いかけることが、できるかも知れません。でも実際は、人はその空想に応える必要がありません。

それは相対に位置をとる故の空想であり、助けなければならないのはそれを考えてる自分、かも、知れません。

人が生きる、ことは、ちょっとした局面で迷わないなら、本来、とても簡単なこと、なのだと思います。
世界はわたし達に逆立ちしなさい、とは言っていないのです。

人生とは決して楽なだけのものではないけれども、そんな風に、思います。

No.2306 - 2009/11/09(Mon) 23:33:56

Re: そういえば / (  )将臣(   )
兎に角、カルト教祖だって「無私であれ」と信者に向かっていうだろう。

互いにエゴ対エゴだという場所に戻らないと、
誰とも噛み合わないと思うよ。
「何も噛み合わないときだけ他人と和んでいられる」、
それは何も問題点を把握されない、戦わないでいい思想なんだよ。

つまりどう自分の信念(個人の意見)が正しいか、
永遠に証明しないでもいい思想なのだ。

「自我の意見に過ぎない」のに、
ある特定の他人に対してのみ、
「あいつのように他人を批判する奴の"自我"が悪い」で終わりになってしまうだろう。

>で、「いかに他人の危機を前に何も行動しないでいい人間を作るか」
「あいつはエゴイストだ」・・・あとは総て省略・・・と言ってないので、

ubik0101氏が「そう言った」とは批判してないだろ。
俺から見たらそういう思想だ、と言ってるんだ。その論拠は
「どういう事件があった場合、どう行動するか」
「どういう主張をエゴまみれだと思うのか」
というようなとっかかり部分が欠落していたからだ、と説明したよ。
だから君の用語が具体的にイメージしているものは何か?
今更そこで説明してもらっても、余計付け足した不自然な内容になるだろうとは思うおので、
説明してもらう必要は無いのだが。

ただ、俺の説明部分に反論できないと議論になるはずがない。

エゴが偽りだというならキミの主張もエゴであり偽りという事になる。
誰も「ワタシだけは本音をかたっている、ワタシだけはエゴが無い」
と自己言及する事は出来ない。
犯罪者が犯罪者だと認めないようにだ。
また、基本的には、善人が自分の事を善人とは言わない。
もちろん「どうして信じてくれないのか」とあわてている方が本当の事を言っている場合だってある。

自己言及するのは自由だしそれは今までの行動で良識ある読者には見えてくるものだろうが、
結論のような部分をいきなり他人への自己証明として使う事は出来ない。

No.2307 - 2009/11/09(Mon) 23:39:35

Re: そういえば / (  )将臣(   )
兎に角何か主張するからにはある程度根拠ぐらいは必要だろう。
いきなり夢だのクソだの言って通用させようとする奴は、
いきなり殺人で強気になりたい奴と同じで、精神的早漏なのだ。
そういう奴は、敵わない相手を見ると手軽に優越感を感じたいために
殺人だの盗作愛憎芸しか使えない、ヘタレたガキ同然だと思う。


「通り魔に殺される人間を
高みから笑いながら見物していたい」とどこかで思っているような、
オタクのペドフェリア殺人教のヘタレの、普段は奇麗事を言ってる、
勇敢コスプレごっこ(前世詐偽夢妄想光りの戦士)の連中が、世間には大勢いるだろ。

そういう事件を前にした時にも、人間が「すべて自分」「殺されても批判しない
といっていられるとしたら、
傍観者か加害者をやってるときだけだろう?

もちろん死んで理念を証明したらそれが普遍的真理というわけでは無いが、
「本当にそれを信じている」という証明は出来る。
その思い込みが間違っているとしても、
本当にそれを信じているという事は態度で分かるのは、
そういう時だ。

No.2308 - 2009/11/09(Mon) 23:39:56

Re: そういえば / (  )将臣(   )
自己言及というのは、結局そのようにしかできない。
それも、勇気をもって今の自分の価値感や信念を証明する事しか出来ないだろうと思う。
狂信者として終わるにしても、自己言及とはそんな性質のものだ。
勇敢にフェアに戦う事でしか、自己言及の世界には近づかないだろうと思う。
そしてもう一つ、他者(違和感)抜きの世界で、客観がどうとか言っても奇麗事で終わるという事だ。

キミの思想がもっと、犯罪者が悪用できないように
なっていればいいと思うのだが。

具体的にキミ自身が問題視する問題が一切あげられていないため、
どんな犯罪者にでもどうとでも都合よくとれる、非常にあやしいものになっている。

誰でも問題の当事者になった時は、
その事に関して批判しかえすものだろう、

それは他人が抵抗している時に自我に見えるだけの何かかも知れないし、
自我や自分を超えた義憤なのかも知れない。
だが誰かはそれを「エゴだ」と言うだろう。
その人が何らかの自我を、自分の思考の癖やある性癖を持っているから、誰かをエゴイストと思いたいのだ。

おっかけファンによる殺人事件があった場合にも、
「被害者のエゴだから加害者のファンと一体だと認めない」といえる人間は、
当事者意識が足りないよ。そういう人は、犯罪ショーを見たがっているのだ。
幼児レイプとか通り魔ストーカー型の殺人とかな。

だからキミが俺の今言ってる事を除いて具体的に何を問題視しているのかはもう分からないが、
君の思想で、一体何を問題視できるものか?と思う。
俺が来て批判しているから、それを問題視しているいというのでは駄目だ。
むしろおっかけ殺人犯やカルトにとっても、都合のいい思想であるように思う。


オウムだったら、そのカルト内でエゴイストだと思われた奴が実は洗脳を解く奴だったりするもんだろ?
エゴがどうとかこうとか、そのカルトなり、その社会なりのイメージでつくるもんだろ?
誰もがエゴから話してるじゃないか。
「悟っている証拠も無い」のであれば尚更だよ。
「覚醒という語を超えて、ワタシは本当に覚醒していると、そう信じています。信じてください」
といって「信じてもらえる」ものでも無いだろう。


大抵は、村社会だのカルト全体の都合で、
「あいつはエゴイストだ」という事になるだろ、といってるんだよ。
CENSORED親から逃げる幼児→エゴイストのドラキュラ」
とか俺なんか言われてるんだけどね、
精神世界のカルト人種は歪んだ決め付けがスキだよな、
通り魔痴女カルト(自称オカミサン=カミ)集団による、ペドレイプ殺人ショーが見たくてしょうがないんだろうな。
(具体的にそういう主張できるほど、価値感が異常な人間だって、いるしな)

図書館や五戒ネタ盆踊りで
大勢で他人からネタ摸倣盗用仄めかししようが「無我であればドロボウされても文句いわない」
「なりすましから、つきまといされてもスキだから逃げるのだ、スキだから嫌うのだ、全員一体の分身なのに」
と思えるんじゃねえの。

それとまあ地球に住んでるかぎり、ある意味では「全体に当然属する」わけだよ。
だったら、「体(世の中)全体が病気」だったら、「切除すべきか切らずに治すべきか」という問題はあるな。
いつでも切らずに残す方法しか考え付かない、というのでは、
逆に全体の利益についてかんがえていないって事だよ。


互いに「ワタシこそ全体の利益を考えて行動している」と言っても意味ないね。
しかし、「分からないから、結局どっちでもいい、あれもあり、これもあり、あれでもこれでもない」
とはいってられないんだよ。

いつか決めなければならないときが来るだろう。

その判断が正しいかどうかは、やってみなければ分からない。
正しいやりかたでも、間に合わないかもしれない、
遅すぎて、やっても既に効かないかもしれないよ。

だけど遅かれ早かれ、判断しなければならない時が来る、

「あれもこれもありで結局何でも無いかもしれない」という
平等幻想のような、無限に時間を与えられているかのような「夢世界」の可能性を切り捨て、
「とりあえず現実的に判断を下さなければならない瞬間」が来る。

そういう節目節目を意識した部分が、己の思想になければ、
「出口が無い堂々巡り」となるだけであって、
それでは、「無我=全体の役に立つ」といくら言おうが、結局何の役にも立たないどころか有害では無いか?
と俺は言っているのだ。

大体、劣悪な芸と優秀な芸を区別したほうが、「プロ根性」がやしなわれる。
何も批判するな、と言っている限り、プロ根性など必要ない。
要するに奇形の芸だけが残る。

養老院で「こっちのじいさんのほうが俳句がうまい」などとギスギスする必要は無いが、
世界全体、特に日本全体、老人か幼児か引退後の奴の茶飲み場のようになりつつある。
それでいて、映画の中のような殺人ショーに飢えている。

歌手が全部音痴の奇形になったのは、
視聴者同士で批判精神を育てなかったからだな。
ニコニコまあまあなあなあ「こんなワタシでも歌手になれてうれしいです」→「謙虚で良くできたヒトだ、ヘタクソでも感謝をしってる=すばらしいヒト=ウマイはずだ」
じゃあ、本質は全員嫉妬深いだけの、誰でも音痴ゲイシャになれます妄想持ちの、奇形の音痴だけしか社会に残らんだろ。
それこそ全体の利益にならない。むしろ、「大多数に属する雑魚だけを認めたい」平等幻想持ち村社会(社会というよりも世間)の圧力だ。
優秀なものを(劣悪なものとは異なる部分を)認めたくないというエゴだな。
だから何が優れたものであるかそうでないのか、
そこを真摯に考える事を、優れたものを大切にしようとする心を、
「差別してる、だれかを特別扱いしている、特別ぶっている」とか、エゴといったらおしまいだよ。

腸が心臓をやるわけにもいかない。
そういう場面で、体は一つだから、個性は幻想だ、といきなり言っても通用しないね。
やるべき事が腸と心臓ではとりあえず違う。

東洋人は非常に飼い馴らしやすいので、東洋的思想というのはカルト化しやすいものがあると思う。
そして最近オタク化しており「社会人としての責任感」というような動機が欠落しているように思う。

属性がどう決まっているかは兎も角、「全体を見渡し」「自分が何を今やるべきか」、
「自分が今得意な(要するに今の自分の個性や能力を使って)出来る事は何か」と考えながら、
全体のために個がやる事(戦う事)を決定すべき時もあると思うんだな。
それは個の戦いであっても、エゴの戦いとはいえないだろう。
「"孤高"(の戦い)」と「エゴ」の違いは何か?
大抵、適当に観察者がイメージ(その人に感情移入できるかどうか)
で言葉を勝ってに使い分けているだけに過ぎないと、自覚すべきだろうな。

だが「大勢の心情に逆らう事」が即、大勢の利益にならない(エゴだ)と考えたがるオタクの人は幼稚だよ。

生まれつき自分の性格がどうとか属性がどうとかこうとかいう自分の個性探しよりもね、
社会全体を見渡し、今自分が何をすべきか、と考えながら、行動することだってあるだろう、
誰が本当にそういう動機で行動しているかは分からないだろうがね。

だが「全部その個人の性癖だけで何かを主張している」
と思うなら、それはいわゆる社会性の無い悪いオタク、の発想だと思うんだね。
ただ「共感できるかできないか」だけでその人なりの快不快や善悪を作って行動してる奴ほど、
結局、共感共苦能力が無いという事だと思うよ。

いつまでも、事件の観察者や傍観者や閲覧者のつもりだから、当事者の気持ちになれない限り、
劇場型犯罪の通り魔殺人鬼(自称カミだの何だのの異常者)と一緒に
通りすがりの血を見ようと、無意識ではウズウズしてるんだよ。

その時に被害者に
「批判するな、CENSORED側も殺されるおまえだ、
エゴを捨てろよ、皆楽しんでるのに」
という心根で「エゴ」を問題視するんじゃさっぱりそのエゴどもの奇麗事は通じないだろうよ。

それにドロボウや殺人禁止はその社会全体で決めた法的な問題であって、
「たんにある個人が我慢してればいい」という発想をする場合、
それ自体が社会不適応のオタクの勘違い主張であり、エゴだろうと思う。

土民サル社会では殺人だってドロボウだって趣味で正当化するんだろうけどね。

観察者みたいに殺される側へと優越感を持ちたい「オタクのヘタレ」連中が、
殺人と、通り魔の殺人行為を傍観者として喜んで見てる場合、
無限大に、永遠に、奇麗事を言えるんだよ。

自分が殺されそうになったり、批判されてみて、
はじめて「抵抗する」人間の気持ちが分かるんじゃねえのかなあ。

ここでは、いつまでも「それは君のエゴだ」で返せるんだよ。
これで、俺がキミの思想のどういう部分を問題視していたのか、分かるだろ?


No.2301 - 2009/11/09(Mon) 23:13:03

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☆ Re: NEW / (  )将臣(   ) 引用
なんで母親から自立して妻と結婚したらいけないという奴らがオタクペドフェリア奇形精神世界のエテ公どもに多いのか気色悪いねえ。

ケイミズモリ板やネットゲリラ板や脂板なんか
「妻よりも母とセックス」
「かあちゃんとセックスしてくれないと死ぬ」=
「妻と母のどっち(とのセックス)を選ぶか決めてくれ」
「母とのセックスをえらばないとエゴイスト」
って五月蠅いんだよな。
だからお前等同類みたいだって俺が言ってるんだけど、その同類臭さしか示せねえもんな。

まあ俺が言ってることウソだってんならHN変えして荒さず、当事者が反論に来いよ、
痴女殺人鬼ペドフェリア養成所のミズモリゲリラ脂その他ボクボクポエマー集団は。

(やってくれないと)死ぬから、無理心中的に殺したいんだってさ。詩の板の「あなたとセックスしました」「今後またパラレル作品で盗作やりつづけます、図書館、5戒キーワード盆踊りするよう努力します」って変態からも「ドロボウ気をつけろ」っていわれてンだけどね、俺。

ま勝手に男児を犯す性的変質者の母に感情移入してる奴が多くてねえ。なんか変質者カルト奇麗事業界の、奇形の性癖がバレバレで不気味だね。

俺から「自他未分化の村社会・夢セックス妄想患者」と批判されてその妄想を俺のせいにしてる奇形の犯罪者のくせに「全部自分なのに認めないなんてヒドイ!」といってるんだからね。


実際ここの思想でどの犯罪を問題視できるわけだよ。
いつでも観察者のつもりじゃねえか。
反論だした側が反論しないで無関係な奴が混じってくるしよ。
単に霊感詐偽母子ヤリマン朝鮮カルト「霊の子探し」ストーカーなりすまし犯罪者に都合いいだけの思想だろ。

妻とのセックスより母とのセックスを選ばないとウツになるとか死ぬシヌしね憎くていとしいアナタ、とかやってるバカが多いから、お前等ただの奇形なんだよ。


エゴって奇形が奇形だと認めない事だろう。
盗作魔が盗作してないというのもエゴだよな。


朝鮮カルトってそういう思想らしいけどな。


No.2302 - 2009/11/09(Mon) 23:16:05

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☆ Re: NEW / (  )将臣(   ) 引用
お前の空想とか妄想って使いかたは、「不都合な真実」に向けた部分だろう。さんざん仄めかしとしてしらばくれるのは勝手だが、読者の良心はどうとるかだな。

いわゆる無個性な集団の盆踊り意見というだけで信じてくれるんか。

ミズモリ板脂板の連中は「夢セックス妄想=現実」なんだが、お前等図書館盆踊り5戒盆踊り連中の現実とかいうの相当怪しいな。

何が現実なんだ?「自我は夢で空想でウソで虚偽」なんだろ?
そこのハトだのウベだの「自我で語ってる」くせに無私とか現実的とか勝手に思い込んでウソこいてるんじゃねえか。

全部ウソじゃねえか。

No.2309 - 2009/11/09(Mon) 23:40:24

Re: そういえば / (  )将臣(   )

母よりも妻を選んだら死ぬ死ぬシヌってストーカーの奴が精神世界には多いからねえ。
ペドフェリア(連中の定義でメスの爬虫類)やなりすまし(シェイプシフター=連中の定義で爬虫類)をやりながら、逆にそれを問題視してる側にそれを投影したがるバカが多いからねえ。

でなぜかCENSORED母や主婦の痴女(妻=彼女よりも母を選べという例の霊感詐偽カルト)に感情移入してる変質者が多いからね。

図書館だの五戒だのさんざんやっといてしらばくれて「パクられて殺されて文句言うのはエゴ」で

通用するんだったら警察なんかいらないけどねえ。

ま、カミを信じてない奴らは、
都合悪いことは他人の空想。

それで俺が女とやった夢を現実とか大勢でいいやがるオタクの奴が多くてねえ。

だからセックス妄想夢は現実で都合悪いことは空想って奴が多いんだけど、お前はそれとどう違うわけ?


大体「母と妻を天秤にかけて」
行動でオカアサンが大事だと示そうが示すまいが、
それで何の正義を証明できるんだよ。
俺の意見を勝手に捻じ曲げてるんじゃねえよ、
図書館盆踊りのカス


No.2304
何にげてんだよ

No.2310 - 2009/11/09(Mon) 23:40:47

Re: そういえば / 図書館閲覧者
「倫理だの宗教だのゴチャゴチャ考えておったらその間に二人とも溺れて死んでしまうぞ!ワシか?ワシなら自分の近くで溺れている方から先に助ける!」

という会話があったと聞いています。

「その時その場で誠実性を表現すること。」

そのことは、特に何か(例えば倫理、例えば価値観、例えば信念)に依存していなければ出来ない

というわけではなさそうです。

No.2317 - 2009/11/10(Tue) 00:29:59

Re: そういえば / ubik0101
それはそうとして。妻とか母親との見境があれば、それが問題。なだけのようです。
No.2318 - 2009/11/10(Tue) 00:46:12

Re: そういえば / hato

> 「倫理だの宗教だのゴチャゴチャ考えておったらその間に二人とも溺れて死んでしまうぞ!ワシか?ワシなら自分の近くで溺れている方から先に助ける!」
>
> という会話があったと聞いています。



はい。
そうでしたね。


> 「その時その場で出来ること。」
>
> そのことは、特に何か(例えば倫理、例えば価値観、例えば信念)に依存していなければ出来ない
>
> というわけではなさそうです。



そのようです。見境なく。


そして実際には、

ubik0101さんはたぶん、「泳げないじゃな〜い。。」
なので、hatoちゃんとママは自力で助かるもようです。で、ダーリンとノンノンがそうなった場合は、hatoちゃんは可愛いノンノンを助けるかも、知れません。

みさかいないってことで・・

あれれ。。。

No.2319 - 2009/11/10(Tue) 00:54:12

Re: そういえば / 図書館閲覧者
> ubik0101さんはたぶん、「泳げないじゃな〜い。。」

あ、あれだけ海釣りに行っておきながら…

>hatoちゃんは可愛いノンノンを助けるかも、知れません。

ノンノン飛ばんか〜い!!

No.2320 - 2009/11/10(Tue) 09:52:53

Re: そういえば / hato

ubik0101さんが今朝、「hatoの文章(2306)で、図書館さんわかったかな〜・・」とちょと心配してくれたので、説明書くのかなどうしよかな。と考えていたのですが、上のスレッドを見て。うん。伝わってる。な気がしました。説明不足のところをご承知頂いて、ありがとうございます。

先日横浜みなとみらいに行ったとき、ブルーインパルスが練習していたみたいです。

凄い!!初めて見ました。

No.2321 - 2009/11/10(Tue) 21:39:22

Re: そういえば / hato

> > ubik0101さんはたぶん、「泳げないじゃな〜い。。」
> あ、あれだけ海釣りに行っておきながら…


そういえばubik0101さんは、海に行くとき、ロープと、投げられるような大きめペットボトルを必ず持って行きます。「泳げなくても、助けられるのだ。」とのことです。


> ノンノン飛ばんか〜い!!

そーそーノンノン鳥だった。

(図書館さんの返し、最高です。爆笑しちゃいました。)

とても可愛らしいでしょ。この、おしり。
失礼のないとき、どこかでお見せしたかった画像です。

No.2322 - 2009/11/10(Tue) 21:46:19

Re: そういえば / 図書館閲覧者

> ubik0101さんが今朝、「hatoの文章(2306)で、図書館さんわかったかな〜・・」とちょと心配してくれたので、説明書くのかなどうしよかな。と考えていたのですが


ああ、ありがとうございます。

人が、ある有り様、もしくは有り様同士の違い、に依存している時。

同じことですが

人が、ある有り様、もしくは有り様同士の違い、に憑依されている時。

そんな時、人は空想の機能を使って学ぼうとするのでしょう。

自分が対象に依存していること、そのことを自分自身にさえ隠そうとするなら、人は、倫理あるいは責任という根拠・言葉を用いながらその空想に憑依され続けることができます。

もちろん
空想に憑依され続けなければならない理由などどこにもありません。

No.2323 - 2009/11/10(Tue) 23:08:45
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