[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

これ / 図書館閲覧者
「これ」について書き連ねることも、確かに、空想、あるいは物語としてしか表現され得ないのだけれども、その時、その場、においては間違いなく「空想する」「物語る」ということが「これ」の表現になっている、ということです。
No.2349 - 2009/11/24(Tue) 14:21:57

Re: これ / 図書館閲覧者
結局、「私の問題」として立ち上がり続けているのは
「”自分”と”自分以外のもの”を分け隔てる境界線を巡っての攻防」
と、集約できるのかもしれません。

「どうやって、”私”は、”私以外のもの”と折り合いを付ければよいのか?」

これが、人間がその人生を通じて取り組んでいることなのかもしれません。

”私”と”私以外のもの”とを隔てる境界線は、

物質が思い通りにならない場合には、”私”と”物質”のあいだに
身体が思い通りにならない場合には、”私”と”身体”のあいだに
感情が思い通りにならない場合には、”私”と”感情”のあいだに
思考が思い通りにならない場合には、”私”と”思考”のあいだに

というふうに、様々なところに引かれる可能性があります。
そして、その境界線を支える根拠は
「誰が何と言おうと、絶対”私”はここに存在する!」
という根強い確信です。

ところが
では、その「私」について「私とは誰か」と直接問い尋ねてみると、結局そこに見いだせたのは「思考者の振りをした思考」でしかなかったというわけです。

つまり
「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」という事実は、同時に
「”私”と”私以外のもの”を隔てる境界線がそもそも存在しない」
という事実を明らかにします。

その、「見えない境界線」が、「私」と「私以外のもの」との間に実体としてあるかのように錯覚されているのであれば、「私とは誰か」という問いに赴くのが遠回りせずに良い、とは思いますが、もちろん、絶対そうでなければならない、というわけではありません。

No.2350 - 2009/11/24(Tue) 14:35:24

Re: これ / 図書館閲覧者
「どこにも境界線はない」

にもかかわらず。
見えます、聞こえます、考えます。
そして、行為し話します。
確かに何かが活動しています。
起こることを起こるままに起こしています。
それを「これ」と呼んでみました。

「その時その場」が「これ」として表現され続けています。
全ては「これ」。
にもかかわらず、「これ」が展開すると、その時その場において例えば「怒り」として表現されます。
「これ」がその時その場「怒り」として表現されている時、そこに「幸せ」の入り込む余地はありません。
「これ」がその時その場「空腹」として表現されている時、そこに「満腹」の入り込む余地はありません。

「怒り」と「幸せ」、「空腹」と「満腹」、「ubik01010」と「図書館閲覧者」、本来比較の対象になりません。
もし比較しようとするならば、それは「物語る」しかありません。
そしてそれも、その時その場においての「これ」の展開となっているようです。

No.2351 - 2009/11/24(Tue) 15:00:52

Re: これ / hato

>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。
>そして、当然。
>「これ」は空想です。


> その時、その場、においては間違いなく「空想する」「物語る」ということが「これ」の表現になっている、ということです。


世界とは誠に、完全に不完全に全うされているようです。
なんとも絶妙です。そして、



「これ」。


自分が指し示すこれは、「空想」ではありません。
ここはもう、空想は不可能です。
自分はそれを、未知ながらの道。と言います。


人はよく思考が問題だと言います。なんておかしなことを言うのでしょう。問題とは常に、それを使う人の側にあるだけです。人が正当に「それ」或いは「これ」に至っていないとき、或いは、「そこ」に満ちていないとき、明らかに問題は、思考の有る無し・・・以前に、人がその様にあることでしょう。

道具に使われているときに、それが厭わしいだけです。人が完全に逆転し、尚理解されるなら・・・世界の構成要素に使われるのではなく、用いるまでに成長するなら・・・知覚や思考の本分とは、折々の自分と世界の状態を教えてくれる、物事を物事として知ることができる、というだけです。この世界でたとえば自分として在ることを、可能な分に於いて調整することができる、だけです。

不理解としての無知があるとき、夢想が入り込み、構成要素であるはずのそれが人に先立ちます。たとえば思考、感覚、感情・・。意識は錯綜し、空想が創り出され、人はそれに使われてしまうのです。空想とは、基本的には、人が自我の機能にあるときに見ることができるでしょう。 自我は無知であることができる、とも言えます。

故に人は正当に変容変化成長しつつ、そして尚、理解する必要があるだろう、と言わねばならないのです。


まずはこの世界。仕組みは仕組みとしての正当な位置。たとえばその思考。その、感情。或いは人として、自分。自他として折々の正当な位置を見出すこと。見出したとしても、問題にならないでしょう。こうしたことは、空想でない「これ」を知る、ことから自ずと起きてくると言えるでしょう。

それは人に可能なことと、思います。なぜなら人は、世界の有り様に留まるものではないからです。


先日の江ノ島から、逆光画像です。

No.2352 - 2009/11/25(Wed) 00:28:34

Re: これ / ubik0101
ちょっと昼間、探っていました。この冬の曇り空に展開されてる・・・あの遠くの山や樹や家々でできた稜線を見ても・・・感情を、思考を知覚しても、まったく主観しかない、です。それで、境界は生じようがありません。これを世界と呼んでいるようです。

じゃ、客観は、どうした?たとえば温度計で測る気温は、重力は、客観?感情そのものは、思考そのものは?でも、知覚されるしか知覚がありえず、主観でしかないです。

この境界が生じようがないという意味で・・・主観と・・・「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」・・・もし見方が違っても、おなじ結果なら、その両者の、もっと奥がありそうな感じです。

それを探るために、余計かもしれませんが、説明します。まず主観があって、なにかが知覚されるのではなくて。なにかを知覚することによって、主観がつくられています。

こう言葉にすると、無主観、と変わりないように見えますが・・・ たとえば、環境が変わる、身体の状態が変わる、ほかの人と意見が違う・・・なら・・・環境が変わる、身体の状態が変わる、ほかの人と意見が違う、それが主観です。それから派生することも主観です。

続きます。

No.2353 - 2009/11/25(Wed) 00:29:22

Re: これ / ubik0101
でも、どんな世界観も、ほころび、があるようです。でなくては、とある世界観は成立ができないようにも思うのですが・・・ほかの人や、机や椅子、感情、思考によって、主観がつくられるので・・・ほかの人や、机や椅子、感情、思考が、主観であるはずがない、です。でもこれは、主観に対応してできた客観、なだけかもしれません。

ここで主題に戻ります。たとえば「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」の「存在しない」は。知覚にとっては、存在しないか?つまり知覚できないので、「存在しない」、とするのか? けど。「存在しない」ことの認知は、知覚の範疇にないと思われます。まったくの「存在する」は、これも知覚の範疇にないと思われます。この、知覚、についての説明は、知覚による、とは言い難いです。

これは。 「思考と分離独立した”思考者としての私”は存在しない」と、禅で言う・・・ほとんど詳しくはないけれど・・・本来の面目、無位の真人・・・とかは、どういう関係になってるのか?という疑問かもしれません。

また。たしかに。これは、なぜ、これなのか?・・・それは人が自己であるためには、それが解けない必要があるしかないかも知れないのですが・・・ これしか、気になる問題はないくらいです。

ところで画像は、赤い実と、黄色の実の、百両です。

No.2354 - 2009/11/25(Wed) 00:30:05

Re: これ / 図書館閲覧者
「空想」も「現実」も、「主観」も「客観」も、「今の現れ」あるいは「生命現象の現れ」であるには違いないことです。

「いま」が「空想」として表現されている。
「いま」が「現実」として表現されている。
あるいは
「いのち」が「空想」として現れ出ている。
「いのち」が「現実」として現れ出ている。

「空想」の時にはきちんと「空想」が、「現実」の時にはきちんと「現実」が、その時その場で表現されています。

但し、「空想」と「現実」を並列で見ようとするときに、「空想」と「現実」に首尾一貫性を持たせるための「空想と現実をつなぐ物語」が作られ、その物語の中に主人公としての「私」が設定されることがあります。

しかし
「空想と現実をつなぐ物語」も「いま」あるいは「いのち」が「空想と現実をつなぐ物語」として現れ出ているのであり、「物語の主人公」も、「いま」あるいは「いのち」が「物語の主人公」として現れ出ている、とうことでは全く変わりがありません。

「空想」や「物語」と別のところに、「いま」や「いのち」があるのではなく、「空想」や「物語」が即、「いま」や「いのち」の証(あかし)、現れになっています。
「いま」や「いのち」を「現実」と呼んでしまえばその瞬間「現実」は「現実という物語」になってしまわざるをえませんが、しかし、「現実という物語」はそのまま「いま」「いのち」の現れになっています。

とはいえ「いま」と言っても「いま」以外にはない、つまり「いま」と区別、比較する対象がないので、「いま」を認識することは出来ません。
同様に「いのち」と言っても「いのち」を認識することは出来ません。
なので「これ」と呼んだ次第です。

「本来の面目」というのは、「これ」がその時その場で取った表現形。
「無位の真人」というのは、これしかないが故に認識不可能な「これ」
のことかな、と思います。


「境界の無さを自覚する」というのは、何だか「世界と仲直りをする」感、「あらゆるものごととの親密さを取り戻す」感があります。

仲直りできていれば、「仲直りした」という自覚が不要なのは言うまでもありません。

そして
仲直りに到る経緯については色々な物語がありえるでしょう。

また
仲直りした上で、どうやって「これ」を「これ」として表現していくのか、それもまた「”これ”の蔵する無尽蔵の可能性」として可能なことなのだと思います。

No.2355 - 2009/11/25(Wed) 11:22:05

Re: これ / hato

> 「境界の無さを自覚する」というのは、何だか「世界と仲直りをする」感、「あらゆるものごととの親密さを取り戻す」感があります。


なかなおり、て、優しい表現ですね。
親密さ・・
その祝福。・・晩秋の紅葉、その葉の香りを吸い込むだけで充分にいいのですから・・・恩寵、と思いますね。


なぜだかすこし飛びますが、

人が素直に・・・その折々の自分がそう、であることを、きちんと認める。そして、新たに自分を提示するだけで、この日常に必要なことは、その折々に開示されていくように思います。

ちょっとしたところで・・・小細工せず・・・逃げず、逆立ちしないで・・正真正銘か弱い自分を、何ものでもないところの未知に一歩踏み出す・・・そうしたなら、これ、は、緑に芽が吹き、可憐で小さな花が開くように・・・開示されていくと言えるでしょう。

問い。とは、それ自体の不確実性によって、何かしらの揺らぎをバランスさせようとする動き・・・原初・・・に戻そうとする、その動き、方向性の模索、とも言えるのかも、知れません。言葉としての問いかけというものは常に、跡付けとなるようです。

そこで、認識不可能、空想不可能なそれ、のところの、これ(あらゆる現象から、そうでしかあり得ない未知ながらの道)。を生きる。ことで、よし。と。

そこがストンと腑に落ちる、こと。
了解。として、あるようです。

No.2356 - 2009/11/26(Thu) 01:11:08

Re: これ / ubik0101
なんと呼ぶにしても、観察者がいる、と。いない。どちらの有り様にも人が縛られなくなると、・・・善悪の概念もそうですが・・・そこで、たしかに、その境界がなくなり、それについての思考も、そうする立ち位置も見失います。

そのことは。たとえば、観察者がいない、と確認しなくても、観察者が、いない。ことの了解、と思われます。なにかを思考しても、こう、だということを、こう、だと思考するだけなので。それを思考しないでも、事態が変わることはなくなります。

まったく、人が、それ、そのことならば・・・言葉では問えるのですが・・・すでに善悪、観察者がいる、いないを問う必要がないように、それ、を問う必要がありません。それは自分にとっては自己、実在がそうです。

にも関わらず自己、実在、それ、そのものではないけど、ちょっと外れた、知覚できること。表現としての、現象としての、この世界、そこで、なぜ、これは、これなのか?の問いが生じるように思います。

なぜ、それ、と区別、比較する対象がないと、それ、を認識することはできないのでしょう・・・それは、それ、ということが理由ではなく、なんでもいいのだけど、なにか解らないことが前提になってるから、というだけの理由なのかもしれません。

そういう形式で、表現、現象ならば、認識は、それぞれの認識、となるのでしょうか。つまり「差が知覚」。それは、どうしようもない原理、法則のようなことでしょうか。 そのようにして世界の総活動は現れてるのかもしれません。

それでもなお。人が、自己、実在、そのことなら、この世界、表現、現象がどうであっても、なんでも、いいです。なぜ、これは、これ、でなくてもいいのに、これなのか?

No.2357 - 2009/11/26(Thu) 09:01:24

Re: これ / 図書館閲覧者

「問い」であれ何であれ、対象に依存すれば依存できないことを思い知らされることになります。

依存がなければ何であれ、「これ」がその時その場でこれと表現されたものであるでしょう。

しかし、では、なぜこれはこれなのか?

「なぜこれはこれなのか?」こそが「これ」の働きそのものとしても、なぜ「これ」は「これ」に留まることなく知覚として、感情として、思考として自らを表現し続けるのでしょうか?

恩寵においては一切を見ることなくただ親しみと共に留まっていたものが、なぜまた時を経ると、知覚として、感情として、思考としてそれらのものが現れ出てくるのでしょうか。

それは「元の木阿弥」になったのでしょうか。

「私」は恩寵から滑り落ち、また一からトボトボと歩み始めなくてはならないのでしょうか。


どうやらそうではなさそうです。

あらゆる知覚、あらゆる感情、あらゆる思考は、それ自身に原因を持たない有り様として現れ続けます。

あらゆる知覚、あらゆる感情、あらゆる思考は、在るかのように、無いかのように、無常なるものとして現れ続けます。

なぜそのようなことが可能なのでしょう。

それは

「これ」が完全なるものだからでしょうか。

「これ」がこれ自身に原因を持つものだからでしょうか。

「これ」が常住だからでしょうか。

「これ」は完全なればこそ、完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの、無常なるもの)を自らの元に親しみと共に許容しているのではないでしょうか。

不完全を許容できないような完全は、完全ではないからです。

完全であるとは、完全である自己を否定する契機を含んでこその完全だからです。


故に

それ自身に原因を持たないものの現れは、それ自身に原因を持つものの恩寵です。

無常なるものは、常住なるものの恩寵です。

完全なるものは、完全なるものの証(あかし)・恩寵として、完全ならざるものを現し続けます。

ならば

知覚、感情、思考は、恩寵です。

世界は、恩寵です。


と、まあ。
堂々巡りになったところで。

そろそろ失礼しましょう。
では、また、そのうち。

No.2358 - 2009/11/26(Thu) 20:59:11

Re: これ / hato

ありがとうございます。

問いそのもの未知それ自体の運動性、不確実無尽蔵の様相において、どういうわけか人は見止め、人は変容、成長する、こと。現時点でここをはずすことができないようですが、

知られざるところの可能性を孕みながら、各位それしかあり得ない表現での展開を、楽しませて頂きました。

どうぞ、
またいつでも。

No.2359 - 2009/11/26(Thu) 23:39:13

Re: これ / suho

これ。
上のお写真、美しい。。
こういうの好きなんです。
パンパンっ
ヒョコっヒョコっ
(二拍二礼)
あざーっす。
(ありがとうございます)

No.2360 - 2009/11/28(Sat) 22:29:16

Re: これ / hato

おお。suhoさん。。拝んでる・・・

富士はほんとに、美しいですよね〜。

昨今の携帯は、素人でもよく写るんです。な感じでしょ。
わたしの携帯画像はちょっと縦長いのが難なんですが、ubik0101さんがこのサイズお気に入りなんでまあ、今のところはこれで、楽しんでます。

今日も江ノ島、行ってきました。
ubik0101hp常連の皆様にはご存じ、魚釣り名人の調理人さん。実はとてもカッコよくて、情のある、江戸前な感じの人なんですよ。今日はお会いしませんでしたが、ご夫婦で来られていたようです。

こちらこそ、あざーっす。
(使って、みました。。。)

No.2361 - 2009/11/28(Sat) 23:39:04
空想。 / ubik0101
>そんな時、人は空想の機能を使って学ぼうとするのでしょう。

たしかに。シュミレーションして、学ぼうとすることとも言えます。空想。 そのためには・・・たとえばビルの中で、ビデオ画像を見ながら、ジェット機の操縦桿を操作する訓練をしても・・・なんの実感も効果もないので・・・そうしてる自分を騙してでも、空想なのに、それが事実だと思いこまなくては、真剣になれません。

たとえば・・・ほかの人が、そう思ってもないことを、そう思ってると勝手に空想して・・・それに対して反対したり賛成したり・・・つまり自分が自分と分裂して闘ったり仲良くしたりします。でも、それに対応しての・・・そうじゃないよ。それは、総て自分。みんな一体だよ・・・としても、それも空想・・・を事実と見なします。

でも、うまくいけば。思考の限界には矛盾があって・・・たとえば、総て自分。という意見には、その類似なことと、反対のことと、無関係なことがあって・・・それに思いあたって、思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。

そこで現実に直面したりします。けどそれも空想で・・・現実に現実逃避・・・つまり現実に依存してる。だけかもしれません。そいうことは、もともと、そんな、その空想してる主体を、ある、と空想してなければ、総てが成立しない・・・です。その主体を、ない、と空想することもできます。

そこで・・・自我は虚構・・・空想だと了解されればどんな空想にも依存する必要がなくなる・・・ついでに空想による、ほかの人との軋轢や葛藤は不要になります。それまでに・・・いい加減な段階で納得なんかしないで、どこまでも、たとえば自分を探求する・・・その自分は世界によって、つくられてた・・・その総てが役に立つ・・・とてもうまく出来ています。

No.2325 - 2009/11/11(Wed) 13:20:36

Re: 空想。 / 図書館閲覧者

>思考が思考を保持できなくなって、思考が消滅したりします。 そこで現実に直面したりします。

「私とは誰か」という問いの持つ射程はここらへんまでかな、と感じています。
ただ、ここらへんまで辿り着くには「私とは誰か」という問いは、入り口としてとても有効だと思います。

>けどそれも空想で・・・

そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

ただ、大きく見ればその道程も

>自分を探求する

その流れにあるとは思いますが。

No.2326 - 2009/11/11(Wed) 14:40:12

Re: 空想。 / hato

>もちろん
>空想に憑依され続けなければならない理由などどこにもありません。



了解です。その様に思われます。


たとえば人が執拗に、「そのとき一体、君はどうする!?」と空想すること自体。これを見るなら、それはすでに 「そのとき」ではない場所に於いて、なにかを正否判断しようとしていること、それが、いわゆる、人が断片の位置に据え付けられ、逆立ちして生きようとしてる状態でもあり・・・

こうした、それ自身において解体、理解されていない断片、が、当然のように自分であると見なされている状態、から発せられる問いであるとき、その空想は、実際には当人が直面してもいない、ありもしない問題に拘わろう、作りだそうとしてる状態、といえるでしょう。理解されていない自我の場合は、このようでしょう。

ですがたとえば公案は、(正しい意味での自我の機能ではない、)あるというわけでもない幻影としての自我、思い込みの自分、を追い詰めるとの点で、秀逸なものがあるのでしょう。その意味に於いての問いなら、使い手によってツール足るかどうか、ということかと思います。

断片にして存在するこうした空想が、ごく日常生活に於いて正常に役立つこと。例えば、車道を歩くときは車に気を付けよう、な意味の、人として生きる上での注意深さを喚起する、或いは、折々に自らの生を糺す、ことなら、役目を果たせるといえるかも、知れませんね。


> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。
>
> ただ、大きく見ればその道程も
>
> >自分を探求する
>
> その流れにあるとは思いますが。



そこからは、問い、というよりは既に、
未知それ自体にして自発自動的に。

との、感じでしょうか。

No.2328 - 2009/11/11(Wed) 23:24:05

Re: 空想。 / ubik0101

> >けどそれも空想で・・・

> そこからはシフトチェンジ、つまり違う問いが必要であるような気がしています。

> ただ、大きく見ればその道程も

> >自分を探求する

> その流れにあるとは思いますが。

うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。後づけです。でも。そのまま世界や自分を認めたところで生じる疑問があります・・・これは、なぜ、これなのか?

No.2331 - 2009/11/12(Thu) 12:46:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> うーん。私は誰。という言葉で、私は誰。を、考えたことはないです。

「私は誰」の問いは、結構楽しめました。

この問いから学べる点は、普段私たちが「思考とは別に、それを思考する思考者がいる」という思い込みがまさに思い込みでしかない、という点です。

「私は誰」と問うたときの私とは、まさに「私とは誰」でしかありえない、という単純な事実は、思考者不在の事実を明らかにします。
要は、思考が思考者を装っていたに過ぎない、ということです。これはショックと共にあからさまに明かになります。

しかしながら(意識の慣性に引っ張られての行きつ戻りつは別にして)それで万事解決、というわけでもなさそうです。

思考者不在のままに、感覚は生じ、思考・感情も生じます。
空想も生じ、物語も生じます。
思考者不在。なら依存も不可能。
それは「依存」が問題なのであり、それ自体はただの機能です。
特に問題ではありません。

では
起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。

「私は誰」の射程では収まらない、とは、こういう事情のことでした。

No.2332 - 2009/11/12(Thu) 14:59:41

Re: 空想。 / ubik0101
たしかに。観察者が、ある、とか、ない、とか、それで、世界は、分離してる。世界はひとつ。とか探ってる、運動してる、それなら、そういうこと、それだけが作動して。楽しいんです。

じゃ、なぜ、楽しさが、楽しさなの?・・・たとえば自我が苦痛だとしても、その苦痛が、なぜ苦痛なの?・・・そう、でなくてもいいのに、なぜ、そう?・・・それを問うなら、自我の束縛とか解放とか、些細なことに思えます。ついでに、世界って何?ない、って何?ある、って何?と問うと、それも、そう、でなくてもいいのに、そう、です。

なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。これを不思議と呼んでいます。こんなことに気がつけるのが、変、と言えば変なんです。

これは何?という問いは、これは世界に依存しなくなった、その現れでもあるのでしょう。そして、その答えは、それは解らない必要があるように思えます。

続きます。

No.2335 - 2009/11/13(Fri) 09:19:52

Re: 空想。 / ubik0101
もし、それが解るようにできてると、どうも不都合なようです。思考が成り立たない、凝固した感じです。たとえば、なにかが、ある、とか、ない、とか考えても、その、ある、とか、ない、とかが解ってることとして、解ってない・・・定義不能・・・・それを前提に思考は可能なのかもしれません。真っ白い定義不能な紙があって、インクで文字が書けるようなことかもしれません。

そして、これは、なぜ、これ、なのか?これは、その真っ白い紙って何?と。世界って、なに?という問いでしょう。でもそれは、まさに目の前に展開されてる、見える、聞ける、触れる、世界なんです。そして人は、そこで呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を変え続けています。これは常に世界が、総活動してる・・・その了解でもあると思います。

ところで。世界なんて、こうでなくてもいい、なんであっても、どーでもいい・・・でなくてはならない・・・でなくては人は、どんなことでもない自己。であり得ないのではないでしょうか。自覚できない自己を認めざるをえない、というよりも、自己からしか、これは何?と、思えないのかもしれません。

No.2336 - 2009/11/13(Fri) 09:51:30

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> では
> 起こることを起こるままに起こらしめている、これ、は何なのか。


起こることを起こるままに起こらしめている「これ」
ならば「これ」は何なのか。

「私とは誰か」の問いと同様に、
「これは何なのか」の問いの答えは、まさに「これは何なのか」にならざるを得ない。

つまり
「これは何なのか」という問い自体が、「起こることを起こるままに起こさしめる働き」、つまり「これ」そのものということになる。

既に
「私とは誰か」の問いを通じて「自分と自分以外のものの無境界性」を見た後に発せられたこの「問い」の適用範囲は、思考領域に限定されることなく、全ての領域に及ぶ。

故に

「これ」は苦しみであり

「これ」は怒りであり

「これ」は悲しみであり

「これ」は喜びでもある。

「これ」が時間であり

「これ」が空間であり

「これ」が山であり

「これ」が海であり

「これ」は死であり

「これ」は誕生でもある。

「これ」が身体であり

「これ」が感覚であり

「これ」が感情であり

「これ」が思考でもある。

「これ」はubik0101であり

「これ」はhatoであり

「これ」はノンノンであり

「これ」は図書館閲覧者でもある。


「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

そして、当然。

「これ」は空想です。

No.2344 - 2009/11/21(Sat) 15:31:42

Re: 空想。 / 図書館閲覧者
> なんであれ、知覚であれ、感情であれ、意識であれ・・・これが、こう、でなくてもいいのに、こう、です。

これはもう
「神はなぜ神なのか」という問いにさえなってしまいそうです。

「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

No.2345 - 2009/11/22(Sun) 09:19:55

Re: 空想。 / ubik0101
>・

>・

>・

>「これ」が「これ」自身を表現しているのだ。

>そして、当然。

>「これ」は空想です

な、難解、です。たぶん、 「私とは誰か」にしても「これは何なのか」にしても、いや、総ての思考は空想、という意味?かな、です。そうでなくて、現実、と言っても、そういう思考だし、その思考が生じる前の、手つかずの現実そのもの指摘?かな、です。

また、そのように思考するのも空想だから・・・つまり表現されることと、する言葉が無関係だから、表現されることを正確に表現できる・・・のだけど、まったく無関係でもない、という指摘?かな、です。

また、なんであれ、それは、それ自身でしか、表現できません。なんであれ現象してる、ということは、それがすでに表現です。でも、これ、と、それ。関係。たとえば、怒りと、時間。苦しみと、思考。たとえば海と、図書館閲覧者と、ubik0101は、どうなってるのか?これ、が、これ、だけである、というのは空想、という指摘?かな、です。

ところで。もしかして、まず「私は誰」という問いは「私は誰」でなくてはならないのだろうか?そうでなくては、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」にならないのだろうか?それは、違う言葉でも成立するのだろうか?と、すこし探ってみてはいました。

続きます。

No.2346 - 2009/11/23(Mon) 17:58:40

Re: 空想。 / ubik0101
そこで、この私は誰は、私は誰。に、とある言葉を置き換えると・・・たとえば、青空は、青空。星は、星。ライ麦畑でつかまえては、ライ麦畑でつかまえて・・・また、世界は、私。流れよ我が涙、と警官は言ったは、私。言葉は、私・・・それと、私は、青空。私は、世界。私は、言葉・・・これは、とりあえずかもしれないけれど、表現されることと表現の、見られる対象と、見る主体の、同一、が見えてくるようです。

その、同一は、 青空は何か、とか、時間とは何か、君は誰か、とかでは、「私」のこととしては、切実に真摯になりにくいとも感じます。たぶん、私、という言葉に、私(それが何かはともかく)との同一化があったその「私は誰」。に同一しきった、ゆえのそれを見る観察者のはいる余地もない了解。のための役に立ったのかもしれません。

でも、それが実際は・・・その当事者ではないので、勝手な意見ですが・・・観察者がいない、ということが起こって、 「私は誰」は、そうする観察者がいないという意味での「私は誰は、私は誰」、と意味づけられるようにも思えます。そしてともかく、観察者がいない事態は、対象は、青空でも、感情でも、思考でも、なんでもよくて。なんでもいいということは必要で、見ても聞いても思考しても、同一しきってるわけではなくても、それを見てる中心、観察者がいない、いわゆる無心、無我。

でも、もっと正確には、観察者は・・・知覚の領域にはない・・・いるでもいないでもない、ではないでしょうか。観察者はいない、というだけでは空想、という指摘?かな、です。これは、思考というよりは。そう、だということを、そう、だと表現する、ことにも繋がると思えます。

この連休には、hatoさんと海に行って、カサゴやカワハギを釣ったり・・・実家で過ごしていました。画像は、クリスマスリースを齧って遊ぶ、ルンルン、ノンノンです。

No.2347 - 2009/11/23(Mon) 18:17:51

Re: 空想。 / ubik0101
>「完全なるもの(それ自身に原因を持つもの・常住)」は、「完全なるもの」であるが故に、その「完全なるものの証」として、「完全ならざるもの(それ自身に原因を持たないもの・無常)」を内包し、表現し続ける。そのように思えます。

不完全もあり得ない完全は、完全ではない、と思います。

No.2348 - 2009/11/23(Mon) 18:24:10
(No Subject) / ubik0101&hato
ノンノン、枝にとまって、ペキッと、嘴で、葉っぱを囓り取って、嬉しそうです。天気がいい今日は、 hatoさんと向ヶ丘遊園に行って来ました。

ubik0101

緑豊かな緑地帯で、木々のなかを散歩しました。休日はよく出かけてるほうかも知れません。ノンノンはお留守番で、キュ〜ン、と寂しそうに見送られるとまいっちゃいます。

hato

No.2343 - 2009/11/15(Sun) 21:57:08
画面がはみ出すので移植しました / peer
>それでもなお、もともと、ある、としてもいいんですが、
>それなら世界に生きる意味がないです。


ということは。
虚構だったと知るためには・・・ありとあらゆることが総活動せねばならず・・・
そのために、世界がある。。ということですか。
虚構だったと知るために、生きる意味がある。
私たちは、それだけのために生きている。ということですか?

No.2333 - 2009/11/12(Thu) 15:55:54

Re: 画面がはみ出すので移植しました / ubik0101

そうではありません。自我が虚構だと、見抜くのは、自己です。その自己は、はじめから、ある、というのも、その世界の総活動のとき生じたというのも、長短ある解釈です。その自己は・・・実在・・・『それ自身が、それ自身の原因』・・・の直系になります。

でも、こういうことは、自我が、ない。とか愛とか。世界に依存しない、ということは、どうやら基本のようですが。その人の経緯によって、どう現れるかは・・・まったく同じだったら意味ないだろうし・・・違うようです。

この掲示板は、横幅550ピクセルに設定されています。ubik0101も、hatoさんも。いにしえの、Macを使ってるのですが、片方だけ、とあるスレッドが幅が広く表示されることがありました。変だな?です。

No.2334 - 2009/11/12(Thu) 22:01:30

Re: 画面がはみ出すので移植しました / peer
なるほどね。そういうことを言っていたのね。
うん。それとは、また別に。

>・・たとえば自我が苦痛だとしても、その苦痛が、なぜ苦痛なの?・・・
>そう、でなくてもいいのに、なぜ、そう?


私的には〜自我は、それほど苦痛かどうか・・・
自分では〜分かりにくいような・・・
ただし、他者が自我に囚われていると、分かりやすいです。
「私は肉体です」と他者に言ってもらいますと。
相手が、瞬間に、体も緊張しているし、空気も重くなる。
それが「私は心です」と言ってもらうと。
とたんに、実態がないように軽くなります。
軽くて明るくて、どこまでも広がっているように感じます。

だから。あるいみ。自我は、自分に苦痛を与えている
と同時に、また、その何倍も、他者に苦痛を与えている。
そんなものなのだと実感します。


ふんふん。横幅550ピクセルに設定していても、入れ物に合わせて
形は変化するものなのですね。。。ナニカみたいだ。

No.2337 - 2009/11/13(Fri) 14:16:08

Re: 画面がはみ出すので移植しました / ubik0101
それにしても。自我は、自覚でき、ない、です。自覚できるなら、ある、んです。それが仮にでも自覚できるようになる解りやすい現象が、いわゆる(とくにK関係では)心理的思考とか、葛藤とか呼ばれてることです。

それは、空想を事実と誤認して、自分と自分が分裂して闘って、苦痛なんです。けど、自分が自分を自覚する愉悦でもあります。不満などの興奮が、面白くもあります。そんな暮らしで自我も、さまざまなことを経験しながら学んでいきます。

そしてほとんど瞬間に、自我が、ない、と見破る・・・ない、を知る叡智が完成します。そうでなければ、楽しかったり静かだったりして・・・いわゆる心理的思考や、葛藤がなければ、自我はない・・・などと思い違うこともできるようです。

No.2338 - 2009/11/13(Fri) 22:21:59

Re: 画面がはみ出すので移植しました / peer
うん。自我というか〜単純に意識があって。
「私は、肉体だ」「私は、世界を利用する」
「私は、嫉妬する」「私は、心だ」
と思うだけで、それが実現してしまう。
現象として現れる。
さまざまな変化が可能。
というものなのだ。ということですね。
・・・だから思うことには、責任がある。
そんな気がします。

No.2339 - 2009/11/13(Fri) 23:41:56

Re: 画面がはみ出すので移植しました / ubik0101
まあ。自我も執着も世界の機能なんで・・・それを使い倒して・・・使い果たして・・・「悪いことをしないで、善いことをしよう」・・・なんです。

ほかの人との関係で。嘘をつかない、約束を守る。もし、どうしてもできないなら、その痛みから逃げずに受ける。自分がしたのは、これだけとも言えます。

どんなことでも人は自分のためにするのでしょう。なら、ほんとに、ほんとに、自分のために・・・それだけで、世界は、それ自身を開示するようです。

No.2340 - 2009/11/14(Sat) 22:20:39

Re: 画面がはみ出すので移植しました / peer
自分のため、を一切投げ出して
すべてが他のため。。として生きるのも
すべて自分のため、そのためだけに生きるのも。
結局〜同じことなのかもしれない。
↑を読んでいて、そんな気がしました。

No.2341 - 2009/11/14(Sat) 23:45:44
まあね / peer
「ある大きい池の真ん中に橋が架かっていた。
その橋の真ん中で、自分の妻と母親が話をしていた。
すると突然、その橋が崩れ妻と母が池に落ちた。
妻も母も泳げない。
それを見ていたあなたは、自分の妻と母と、どちらを先に助ける?」


う〜ん。面白いですね。禅のコウアンみたいな。
問題は、答ではなく問題そのものに、あり。
ヒッカケ問題〜というか〜

「どちらを助ける」と言われて、悩むから自分が生まれる。
尋ねられなければ、自分なんて・・・ないのに。

そのとき、できることをしている。だろうに。
そこに気がつかないと、誰を助けたかで揉めちゃいますね。

No.2324 - 2009/11/11(Wed) 12:28:59

Re: まあね / ubik0101
そういえば、たまたま、ヤフー掲示板で。

『禅宗でいうと、洞山良价(とうざんりょうかい)禅師はその法語『宝(ほう)鏡(きょう)三昧(ざんまい)』(注3)の中でこういっています。

「汝(なんじ)これ渠(かれ)にあらず、渠(かれ)まさにこれ汝(なんじ)」と。

この例で言うと、「お前は黒板じゃない、黒板はまさにお前じゃないか!」
と、こういう言い方をするんですね。 』

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=552019920&tid=a5a1a1a5afa5ja57a5ea5ja5e0a5ka5fa5a3a1a1a3va3ea3ra33&sid=552019920&mid=1

これは公案かどうかは知りませんが・・・また、orokamono1950さんの解釈はともかく・・・なにかを・・・樹や鳥や雲や感情や思考を、対象にすると・・・それを対象にしてる観察者が生じます。

それが、自我の場合・・・なにかを対象にして、そのことによって中心が仮に設定されるのだけど。その中心が、ある、として、その自分が、なにか行動したり発言したり思考したりてると思い違う・・・倒錯・・・だのに、それに気がつかない状態です。

それが、自己の場合・・・その、ある、と感じられてた中心が、ない、ことを見破ります。それは世界の総活動が、そうしてくれた・・・ない、のに、ある、として、あるを・・・自我を通じて自己を育ててくれた。安息日の主の、自覚です。

それらも忘れた日常の場合・・・世界から自分は、つくってもらってるんだけど。ならば「私は世界」ではなく、「世界は私」これは世界に生きて世界に依存しない・・・知覚や意識に依存しない・・・たとえば、藍は青よりいでて青より青し・・・不可逆の了解。これは自分が、ある、も、ない、も不要です。

まあ。伝統的な理解は違うかもしれないけど。いろんな状態を一言で言ってる、と思いました。

No.2327 - 2009/11/11(Wed) 23:23:31

Re: まあね / peer
>自我を通じて自己を育ててくれた。

うーん・・・育てているんですか。・・・自己は。
どういうふうに育つんだろう?
自己を知るってのは、聞くけれど。
知るというからには、もともと、あるもの
とは思いますが〜

No.2329 - 2009/11/12(Thu) 00:56:02

Re: まあね / ubik0101
もともと、ある、って、どのように確認しました?

もともと、ある、だけだったら、知らなくていいんです。 それで、生まれて、暮らして、子孫を残したりして、死んでしまう。もともと、ある、なら、それでいいです。

でも悩んだり苦しんだり楽しんだりして暮らします。それは、もともと、ない、を、もともと、ある、と世界が錯覚させてくれていて、そのことによって起こります。それを自我、と呼びます。

そんな自我も、もともと、ない、だけだったら知らなくていいんです。 その、自我は、ない・・・虚構だったと知るためには・・・ありとあらゆることが総活動せねばならず・・・そのことで虚構、ない、が事実、ある、になるように、世界が機能しています。

それでもなお、もともと、ある、としてもいいんですが、それなら世界に生きる意味がないです。そして、この世界は、この世界でなくてもいいのに、この世界なんです。

No.2330 - 2009/11/12(Thu) 12:08:55
全1075件 [ ページ : << 1 ... 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 ... 215 >> ]