そうだ。それ自身に、それ自身は、現象しない、ってことだ・・・自己に、自己は現象しない・・・たとえば怒りは、その怒りには、現象しない、それはすでに現象だから・・・なぜ、そう?などと考えながら歩いてると、
いつものように、世界に溢れる光は、やはり自分の中まで明るく照らし・・・たしか題名しか知らないけど「洪水は我が魂まで及び」という小説があったけど・・・そのように世界は奥まで浸透しています。
それで、この冷たい風が吹く青空・・・・どこかの家の庭に咲く、この赤い花が、どう見ても、それを見る、この自分を、つくってるのです。うーん。どうも。それぞれ特定の樹とか、はらはら舞い散る落ち葉とかでもなく、
この世界は自分を、つくっています。まあ、言うとして。自分は世界というわけではなく、世界は自分です。それで人は世界から、とても離れがたいのでしょう。でも、
ふと、その赤い花に焦点が移ると、花も、この自分によって、つくられてるようです。花は世界を見えるのではないでしょうが、そよぐ風、光の陰影・・・そして、この周囲には世界が展開してて・・・ありとあらゆることが依存してる関係にあるのでしょう。そこで。
それ自身に、それ自身は、現象しない・・・でも世界は、世界に現象してるのでしょうか。こんな疑問が生じました。
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No.2362 - 2009/12/12(Sat) 12:14:53
| ☆ Re: 世界 / ubik0101 | | | どんなことも・・・たとえば樹、赤い花、鳥、水、風・・・は、すでに現象であり、それ自身は、それ自身に現象しません。では、それらの集まった総てが世界でしょうか。そうだとすると・・・現象する総ては一定だとか、一定でないとかの確認はできないでしょうし、現象としては世界は増えたり減ったりする、しない、も不明ではないでしょうか。そして、
また、 なにか現象と、ほかのなにか現象との関係や無関係があるのは・・・完全な関係(融合)も無関係(分離)もないけれど・・・なぜなんでしょう。もしそれぞれの現象の総体が世界なら、そんなことは起こらないのかもしれません。では、
もしかして、この世界、それ自身は、世界として現象しないのでしょうか・・・現象する世界に、なにかが現象するのは奇妙・・・つまり現象しない世界に・・・星、夜、朝、昼、私・・・・が、現象するのでしょうか。ならば、世界、というのは知覚にとってかもしれませんが、ない、のかもしれません。そうだとして、
この、ない、というのは、ニュートラル、という意味に思えます。たとえば、いわゆる自我が、ない、と言うのは、ニュートラル、とも言えるでしょう。この、ない、世界が、ない、自分をつくってる・・・そう考えることが自然に思えます。たとえば、
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No.2363 - 2009/12/18(Fri) 12:45:51 |
| ☆ Re: 世界 / ubik0101 | | | この冬の風に吹かれて歩いたり、この部屋から窓の外を眺めたりしてることは、その、ない、を見てるのではないでしょうか。それが、世界は総ての意味を孕んで無意味・・・透明・・・と感じられるのかもしれません。そして、
なにか個別の特定の現象と見なされる有り様は、ある、と思われるのかもしれません。たとえば、ほかの人、もの、こととの個別の特定の現象との強い関係、あるいは強い無関係が生じるとニュートラルから、ある、にギアがシフトされるようです。たとえば、
ベランダの手摺に、ある、野鳥のための餌箱に、輪切りの蜜柑が、ある。メジロが2羽、いる・・・そして、たとえば、そこには林檎が、ない、ということが、ある、のでしょう。おなじように・・・無我・・・無欲・・・さえ、ある・・・無我が、ある。無欲が、ある。となり得ます。ところで、
そんな個別の特定のことではなく、人は、このニュートラルな日常に。とくに、なにかに依存しない、とか思う必要もなく、こうだと原因は特定できないけど幸せな楽しい嬉しい感じが、どれこれという根拠もなく感じられます。そして、
あるいは現象しない世界に・・・あるいは現象しない世界そのことが・・・どのようにして、なにか樹や鳥や感情や思考が現象するのか?と、このようにも思考できるということ。それでもなお。この世界は、知り得ないことによって、自己は、あり得るのかもしれません。
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No.2364 - 2009/12/18(Fri) 17:47:19 |
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