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総て自分 / ubik0101
ウインドブレーカーです。
No.2253 - 2009/10/29(Thu) 10:47:29

Re: 総て自分 / ubik0101
そのウインドブレーカーの腰の裏にあるポケットに 、ウインドブレーカー本体を押し込んでいきます。
No.2254 - 2009/10/29(Thu) 10:48:25

Re: 総て自分 / ubik0101
すると・・・それ自身が、それ自身の中に入ります・・・凄い・・・チャックを閉めて。なんだか嬉しくなります。
No.2255 - 2009/10/29(Thu) 10:49:34

Re: 総て自分 / ubik0101
では、逆に・・・チャックを開けて、 ウインドブレーカー本体を引っ張りだしていきます。
No.2256 - 2009/10/29(Thu) 10:50:35

Re: 総て自分 / ubik0101
すると・・・それ自身が展開して、それ自身として顕れる・・・です。
No.2257 - 2009/10/29(Thu) 10:51:53

Re: 総て自分 / ubik0101
それは、ともかく。すこし『総て自分』、ということを探ってみました。いろんな段階があるようですが・・・たとえば。ほかの人に怒っても、その、ほかの人を、まったく知らなければ、関係がなければ、怒ることもできません。

また。おおくの場合、ほかの人の状態を空想して、また関係づけて、怒ってるわけだし・・・それは、ほかの人がしてるのではなく、自分のしてることなので・・・怒ってるのは自分。喜んでるのも自分。妬んでるのも自分。無関心なのも自分。ということもあるでしょう。

つまり、ほかの人を怒ってる形であっても、自分が自分に怒り、また喜び、また悲しみます。また、無関心なのも自分、とも言えるのでしょう。そこで。総て自分。と思われるのでしょうか。

けど。まったく・・・空想とか、関係を挟まないなら・・・そういう事態が不可能ではないでしょうか。 たとえば直接、自分が自分に嫉妬できるでしょうか。

No.2258 - 2009/10/29(Thu) 13:27:38

Re: 総て自分 / ubik0101
また、できるとしても・・・知覚されたり、されなかったりする・・・なにか特定の感情の、特定の思考の、どれかを重視する、依存することが、どうしてできるのでしょう。

たとえば、楽しいことを求めて、苦しいことを嫌うなら・・・なにか苦しさにも、それを感じることで、それを感じてる中心・自我を生じさせる、それなりの愉悦が隠れているのでしょうが・・・その人が、そうありたいというだけのことではないでしょうか。

また。その楽しさが、苦しさが、なんであるかを・・・また、知ってることがなんであるかを・・・知ってるわけでないのではないのに・・・それを知ってることにしなければ、それを対象にして生じる自我には拠り所がないと思われるので・・・楽しさが、辛さが、悲しみが、知ってることが、なんであるかを知ってることにしてしまうのかもしれません。

また。なんであれ感情が、思考が、自分なのでしょうか。それが明確でなければ、総て自分。としても、ただの判断で、そう思いたいだけなのかもしれません。関係という名前の分離があるだけなのかもしれません。

No.2259 - 2009/10/29(Thu) 13:38:53

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
しつっこいですね。
個人の感情ではなく「法律で禁止されてるような殺人」や「なりすまし」や「人間に自然に備わった痛覚」等の問題のですよ。当事者の自己弁護のようにしか聞こえんですがね。

>それは、ほかの人がしてるのではなく、自分のしてることなので・・・怒ってるのは自分。

No.2260 - 2009/10/29(Thu) 19:26:13

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
個々人の趣味の問題じゃないんですよ。いわゆるオタクの人にはそれがわからない。いわゆる法に関わるような問題、たとえば(主にニューエイジや引き寄せられたい法則カルト)の主婦が異常に賛美する「性虐待」などです。それを電波系や「それは貴方の趣味の問題だ」と言うわけですが。
要するに変質者やそれを望んでいる被害者ぶった人間はそれを「愛だ」と思うわけで「犯罪」「幼児誘拐」などと感じるのはそれはあなたのもんだいだ、全部犯罪にしたがっているのは「そういう趣味を持たない」共犯では無い「まともな児童の心の問題だ」犯罪者=被害児童であると。
そういう自己弁護をするストーカーの人々は、5戒だの何だの他人のキーワードで盆踊りは出来るが、意味を理解できにない。相手が何を言わんとしているのか、そこを理解しない。かみ合わせないということですよ。いつまでも「自他未分化」な「母子一体全能妄想」にふける人間は、要するに社会性が無いのです。自他の違いを認識出来ない人間は、結局共苦能力が無い。全部自分の都合でしか考えないから他人と無理矢理一体化したがる。
しかし溝は全く埋まらない。

No.2261 - 2009/10/29(Thu) 19:32:12

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
空想してというが、そういう人間ほど自分には大甘で、「覚醒という語を越えて覚醒している自分が見る夢は現実だ、それなのに信じてくれないのはひどい」というんですよ。
>おおくの場合、ほかの人の状態を空想して、また関係づけて、怒ってるわけだし・・・それは、ほかの人がしてるのではなく、自分のして

盗作されたと被害を訴えて裁判で勝ち、相手も盗作したと認めることが多くありますね。それで「当人が空想で怒っている」のか否か?そこは互いに具体的に証拠を見ましょうや。君みたく「被害を訴えて怒るほうが空想、何もしていないとしらばくれる方が無罪」という小児性愛者のいいわけは通用しないですよ。まあ出雲侵略を国ゆずりと言い「憤っているほうが大抵は間違い」で通用するのがこのコトダマしらばくれ中毒の国というもんで、どこまでもその「意味論音痴」なりの方法でしらばくれるからね。
他人には「何で大抵カンで分かる」「ワタシは覚醒という語を越えて覚醒しているから直感で全てが分かる、いくら理論的に矛盾していると証拠をあげて批判されて(怒られて)も、狂人だって論理的な人はいるはずだし。泥棒したなんていいがかり、"冗談"を"なりすましの荒し"と感じるほうがおかしい」と言うのは常に君らのようなタイプじゃないですか。往生際が悪いのでは?

No.2262 - 2009/10/29(Thu) 19:39:34

Re: 総て自分 / ubik0101
よくubik0101の投稿文を読みましょう。「総て自分」、ということに批判的な意見です。

それに。将臣さんがubik0101が言ったと思ってることは、言ったことも思ったこともありません。そう言ってる誰かに抗議しましょう。

たとえば、五戒というのは、小さな辞書にも載ってる言葉です。それをキーワードにするのは誰にとっても勝手ですが、それだけのことです。

ところで将臣さんの掲示板を、開きましたが・・・見た限りでは、総ての投稿のハンドルネームが、おなじでした。 ubik0101ならば、自分の投稿でないのは、削除。または投稿拒否にします。

No.2263 - 2009/10/29(Thu) 20:54:43

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
荒されているのは別の場所だ、
まあ、管理者がいなくて俺が対応してるから、
結局俺が暴れてるみたいになってるけど!

だから荒してる相手に、怒るなも何も無いだろう。
「削除」とは拒絶する事だよ。

淡々と拒絶しても理解しないんだよ
「だけどあきらめられない だけどやっぱりあなたと夢で××」
と延々つづくわけで。

だから怒ったほうがまだ効いてるよ。
怒らないで説得しろといってもさ。

>それは、ほかの人がしてるのではなく、自分のしてることなので・・・怒ってるのは自分。

怒るなというけど、しつこく殺人恐喝なんか来るんだよ・・・全部、小児性愛者を批判したせいなんだ。
で「母と子は一体だから、CENSOREDも一つになれる」というんだけどさ、そもそも母親ですらないんだからね。
母親の気持ちらしいんだけどさ、通りすがりで、メールもあげていないのに、管理者と一緒にストーカーするんだよ。

でなりすましするんだから、「全部あなた」じゃないだろう。
どう全部自分という意見を批判しているんだい?君は、正当化しているよ。

No.2264 - 2009/10/29(Thu) 22:03:26

Re: 総て自分 / ubik0101
>けど。まったく・・・空想とか、関係を挟まないなら・・・そういう事態が不可能ではないでしょうか。 たとえば直接、自分が自分に嫉妬できるでしょうか。

つまり、「総て自分」の有り様を説明して。それが空想でなければ、自分勝手な関係の解釈でなければ、「総て自分」という事態が不可能、と言っています。 ついでに、

また。なにか鳥や樹、青空の雲、感情、思考を知覚します。そのことによって、知覚する中心、いわゆる自我、が仮に設定されます。それで、なにを知覚しても、自分。という実感があるのかもしれません。でもそんな「総て自分」は、自我の機能です。

No.2265 - 2009/10/29(Thu) 22:30:42

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
では君が、その「全部自分」のエゴイストなんだね。
No.2266 - 2009/10/30(Fri) 02:18:32

Re: 総て自分 / ubik0101
違います。「総て自分」とは、自我の機能であり・・・ubik0101は、そんな「総て自分」な有り様に縛られてない、と言ってるのです。
No.2267 - 2009/10/30(Fri) 09:17:31

Re: 総て自分 / ルー
たためるウィンドブレーカーは全部自分ですね!(笑)
No.2268 - 2009/10/31(Sat) 08:10:06

Re: 総て自分 / 図書館閲覧者
すると、如何なるウィンドブレーカーの展開をもその上で許しているカーペット、が、自己にあたる?
No.2269 - 2009/10/31(Sat) 09:41:52

Re: 総て自分 / ルー
おおお!
図書館閲覧者さんの出現!
ブログ読ませてもらってますよ。
むずかしーですけど。

No.2270 - 2009/10/31(Sat) 12:06:01

Re: 総て自分 / ubik0101
> すると、如何なるウィンドブレーカーの展開をもその上で許しているカーペット、が、自己にあたる?

とても、大爆笑です。そんなこと意図もしてなかったんです。でも、なんとかというインドの人が、ほんとの自分は、映画の画像ではなく、それを映してる・・・たぶん、なにが映ることも映らないこともできるけれど・・・それ自身は知覚できない。という意味でしょうが・・・スクリーンだ。と言った、と聞いたことがあります。

そのスクリーンを、イメージしないで、こんなものだと対象にしてしまわないで。たとえば見えないカーペットを、見えないままに。また。カーペットは世界、とも空想しなければ。また。自己は、ある、とか、ない、という空想しなければ。あくまで、たとえ話としては、ありかな、です。

でも、その自己は、世界の総活動からしか知覚できない、ようです。それは、人が、そんな総活動状態になるとも思えますが、どうも、そういう総活動してる世界に接した、なった。と見ることもできると思います。つまり人が、そう知覚しようがしまいが、世界は、そう、とも思えます。

そして、自己を見ることができるということは、やはり自我の仕組みと関係がありそうです。たとえば、自己を知覚しようとすることが自我の機能ですし・・・その自我は、ない・・・その、ない、ことの知覚は、やはり増えも減りもしない世界の総活動から見ることが必要なのでしょう。

そんな、自我の、ない、仕組みを見るのは、自己ですが・・・その自己が知覚されるための仕組みが、神とか実在、とか呼ばれてるのかもしれません。そして。そんなことも忘れて・・・うろ覚えですが・・・無眼耳鼻舌・・・眼は見るだけ、耳は聞くだけ、そうできてるだけ・・・その「一切」に依存しないってことかな。と思う今日この頃です。

No.2271 - 2009/10/31(Sat) 12:50:28

Re: 総て自分 / 図書館閲覧者
しまった!
ルーさんの書き込みに釣られて
オチを妄想してしまった!?

No.2272 - 2009/10/31(Sat) 19:14:46

Re: 総て自分 / ルー
いや、何となく自我と自己の関係が妄想できて、よかったですよ^^
No.2273 - 2009/10/31(Sat) 20:29:03

Re: 総て自分 / hato

> しまった!
> ルーさんの書き込みに釣られて
> オチを妄想してしまった!?



はい。

「では罰として、真夜中の恩寵、リンクします。」

とのことです。。。

ご無沙汰しています。嬉しいですね。
図書館閲覧者さんの、マキマキ屋さんのロールケーキ。長崎のあの部屋で、こちらふたりで嬉し泣きしながら、いただいたことを思い出します。

今日は江ノ島に行ってきました。
秋の海も、なかなかいいものですね。

No.2274 - 2009/10/31(Sat) 20:34:25

Re: 総て自分 / 図書館閲覧者
今日はハロウィン、死者が蘇ってオッケーの日、ということで都合良くケルト人の習慣を取り入れて掲示板に蘇ってみました。お久しぶりです。

秋の海…いいですね。
こちらでは、ようやく夏の無限草刈りの日々から解放されたと思ったら、今度は秋の山から落ちてくるこれまた無数の木の葉をかき集めてまた山に返す、という日課を送る日々です。

あのブログ「自分で自分を閲覧した読書感想文もしくは備忘録」と成り果てているので何だかなあ、ですけど。まあ、それはそれで。

No.2275 - 2009/10/31(Sat) 23:14:46

Re: 総て自分 / hato

> 今日はハロウィン、死者が蘇ってオッケーの日、ということで都合良くケルト人の習慣を取り入れて掲示板に蘇ってみました。お久しぶりです。

相変わらず、かっこい〜! ですね〜。

> 秋の海…いいですね。
> こちらでは、ようやく夏の無限草刈りの日々から解放されたと思ったら、今度は秋の山から落ちてくるこれまた無数の木の葉をかき集めてまた山に返す、という日課を送る日々です。


ここ、神奈川のとある丘の、小さなアパートからの景色と風物は、ちょっとした妙味もあり・・一年の生活のあれこれに色を添え、充分に愉しませて頂きました。
来年は、静岡かな〜、と思っています。ルンルンノンノンに、猫のナナもお仲間入りです。ubik0101さんと、犬も飼ってみよう?!なんて話していますが、まずは、そのまんま状態の土地と古すぎる家屋。

一体どう〜、なるんでしょう!??

なところで、
こちらも楽な作業ではなさそうです。ぜひ、図書館さんにもお知恵を拝借いただければ幸いです。ubik0101さんより、開墾する畑を一枚ご用意して待っています、とのことですので・・(会いたいな〜。なんですよ)


> あのブログ「自分で自分を閲覧した読書感想文もしくは備忘録」と成り果てているので何だかなあ、ですけど。まあ、それはそれで。

とんでもありません。読まれた人が、なんだそれは?というところに導かれていくのでは、と思います。提起できるなら幸いです。いつも、誠にありがとうございます。

昨日の画像のつづき、
ubik0101さんもどこかに・・

No.2276 - 2009/11/01(Sun) 12:51:22

Re: 総て自分 / ubik0101
>こちらでは、ようやく夏の無限草刈りの日々から解放されたと思ったら、今度は秋の山から落ちてくるこれまた無数の木の葉をかき集めてまた山に返す、という日課を送る日々です。

こっちは、大歓迎です。はらはら舞い落ちる姿とか・・・この部屋のベランダにも、ドングリの樹の葉とか実とかが、わさわさ積み重なってて・・・そういうのが好きなんです。そいえば、去年、そのあたりの落ち葉をかき集めて、玄関に敷いてみたことがあります。

ブログ 。なんか凄いぞ。と思いつつ、読ませて貰っています。それを自分の経緯に翻訳して、おお、こういう意味なのか!です。

そいえば、どういう文脈で言われたのか知らないけど、「非難も正当化もない観察」て、「観察しない」て、ことだ。「自己想起する」て、「自己想起しない」ことだ。たとえばクリシュナムルティとか、グルジェフとか、そいうの解ってて、「観察」とか「想起」とか提唱したわけではなさそうだけど?、世界って、うまくできてるな、です。

No.2277 - 2009/11/01(Sun) 13:38:58

Re: 総て自分 / hato

> そいえば、どういう文脈で言われたのか知らないけど、「非難も正当化もない観察」て、「観察しない」て、ことだ。「自己想起する」て、「自己想起しない」ことだ。たとえばクリシュナムルティとか、グルジェフとか、そいうの解ってて、「観察」とか「想起」とか提唱したわけではなさそうだけど?、世界って、うまくできてるな、です。

突然ですけど、

い・ち・ど・く・しゃ・さ〜〜〜ん。。。(^0^)

読んでおられないと思いますけど、
ちょっと呼んでみたく、なりました。

No.2278 - 2009/11/01(Sun) 13:50:53

Re: 総て自分 / 図書館閲覧者
ubikさん

> こっちは、大歓迎です。

まあ。伸びてきたひげは剃り、抜けた髪の毛が落ちていれば片付ける、てな感じでしょうか。
もちろん、ひげを伸ばしても特に問題はありません。

> たとえばクリシュナムルティとか、グルジェフとか、そいうの解ってて、「観察」とか「想起」とか提唱したわけではなさそうだけど?、世界って、うまくできてるな、です。

「グルジェフもの」って読んだことがありません。
「観察」「想起」もし解ってて言っているのであれば「公案(自己に気付かせるための問題)」に成り得るのでしょうけれど。
でも、その気になったら衣食住、あらゆる言葉、世界の全てが公案ですね。
確かに良くできていると思います。


hatoさん

>来年は、静岡かな〜、と思っています。

お〜、静岡ですか。
ここ2年程は行っていませんが、以前は浜松・掛川に時々行っていましたよ。茶畑にそびえ立つ霜よけ用の巨大扇風機にビックリしました。

…畑…以前、福井に居たとき畝作りで地獄を見た記憶が蘇りました…
開墾…

No.2279 - 2009/11/01(Sun) 19:15:31

Re: 総て自分 / hato

> お〜、静岡ですか。
> ここ2年程は行っていませんが、以前は浜松・掛川に時々行っていましたよ。茶畑にそびえ立つ霜よけ用の巨大扇風機にビックリしました。



なんと素敵な・・・たぶんかなりお近くでございます。話が早くてラッキーでございます。


> …畑…以前、福井に居たとき畝作りで地獄を見た記憶が蘇りました…
> 開墾…



ななんと、素敵な・・・
言葉になりませんところを言葉にして宅のが申しますに、


「じゃあ、もうひと肌脱げるはずだ。。。」ubik0101
「えー・・いいんですか〜遠いのに〜。」hato


な〜んて。。
でも、ぜひお越し下さいね。ほとんど本気で待ってます。

長崎で、3人で歩いたあたり、浜の町のアーケードです。

No.2280 - 2009/11/01(Sun) 23:14:41

Re: 総て自分 / 図書館閲覧者
むむむ。

今の勤めに合わせた生活スタイルに入ってから、自宅を起点に約半径200キロ・車で半日程度の移動距離内でしか動けない状態になってしまっております。

半径200キロ内の引きこもり人生です。(泣)

山口県辺りまで下ってきてくれたら、九州から日帰りで開墾しに行けるんですが。

浜の町アーケード。
そうそう、あの日ubikさんちから帰る車の中で例の秋葉原の事件を聞いてびっくりしたのでした。

No.2281 - 2009/11/02(Mon) 21:14:23

Re: 総て自分 / hato

> 半径200キロ内の引きこもり人生です。(泣)
> 山口県辺りまで下ってきてくれたら、九州から日帰りで開墾しに行けるんですが。


なんとなんと・・・(大泣です。)

今日、大学構内の売店で、自然農法の雑誌を見つけました。ubik0101さんはこっち方面でいきそうです。なので、畝もきっと、なんとかなるでしょう。

そうですね、なにより本当にご多忙かと思います。それで、車を3時間飛ばして来て下さったのでした。
懐かしい九州と図書館さん。余裕ができたら、こちらこそ車を飛ばしてお伺いしたい、と思っています。


> 浜の町アーケード。
> そうそう、あの日ubikさんちから帰る車の中で例の秋葉原の事件を聞いてびっくりしたのでした。



そうでしたね。

あの翌日・・だったか、長崎の港から高速船に乗って島に行ったのですが、船中のラジオで流れていて知りました。

世界はなんでもどうでも・・としても・・
その、苦渋、苦悩、故の意識の矛先が、図書館さんが言われるように、「自分て何?」に向いたなら。それでもかなりの紆余曲折は免れないとしても、人は自分自身を救う可能性があるでしょうね。その問いに入れるなら、まずは非常に幸いかと思います。

そこを大事と見ることができないことが、ある意味ですが、熟していない悲劇といえるかも知れません。


長崎は伊王島の景色です。

関係ないけどubik0101さんはただ今、ヒゲをちょっぴりの伸ばして、茶髪に赤のユニクロシャツ重ね着で、ちょっと(だけ)イカしたしょーワルおやじ。

な感じになってます。

(この描写で、「うん。とくに問題なし。」とのことです)

No.2282 - 2009/11/02(Mon) 23:39:50

Re: 総て自分 / 図書館閲覧者
>余裕ができたら、こちらこそ車を飛ばしてお伺いしたい、と思っています。

はい、是非。

>ubik0101さんはただ今、ヒゲをちょっぴりの伸ばして、茶髪に赤のユニクロシャツ重ね着で、ちょっと(だけ)イカしたしょーワルおやじ。な感じになってます。

おお!!
そりゃ、コーディネーターが優秀なんですよ。^^

No.2283 - 2009/11/03(Tue) 09:21:53

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
アクセス解析すれば分かるだろうが、
しばらく忘れてここをチェックしてませんでした。


たためる上着が全部自分?


荒しは自他を区別できないので、結局「5戒」など他人のネタで盆踊り、自分というものが認識出来ないのだろうね。

No.2284 - 2009/11/08(Sun) 19:59:31

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
このままでは、ただの「瞑想中毒」というか、ハンニャ心経系の「何でもあり、何でも無い」という思想を、違う方向へと持っていったような感じだな。

ただ「あれでもないがこれでもない、結局どれでも無いのだから、何でも無いのだ」と、うにゃうにゃ言っているだけで、何か行動したい事が無いのだろう。

全体にズルズルなのだ。ウナギのように、把握されない事をもって、完全に精神的逃げ場を作り、完全に奇麗事が無限に言えるような場所にいようとしている。

つまり義憤にかりたてられることが無いのだろう。

誰かが義憤等を感じるようになった原因である性質がある意味正しいものであるか、究極的には誰にも分からないが、だからと言って、そのような「自分自身の(何らかの)とっかかり」が殆ど無い世界からいきなり欲張って全てであろうとすると、逆に何ものにもなれないように思う。

キリスト教などにも当然問題があると俺は思うが、
しかしあのような文化圏で育つと
「宗教的な奇麗事がその口できけるかどうかは、おまえの度胸で証明してもらおう、お前が信じている奇麗事を他人に信じさせたければ、行動で示して貰おう」
というノリを学ぶ。
あっちの貴族階級は戦士階級だ。


そういう「勇気ある行動で己の価値感を示す」部分がさっぱり今のこの国には無いようだ。

どれだけ勇気がなくても善人でいられるか、そのための弁解など誰だって無限に作る事が出来るだろうと思う。

つまりいくらでも哲学臭い事や奇麗事臭い事は無限大に言っていられるが、たとえ口だけの世界でも「自分が信じる理念を本当に自分のものとした」事の証明に、異論と噛み合うようにぶつかる(他人が何を問題視しているか理解する)という事が出来なくなっているように思う。

つまり俺は別に、君が同意できるか出来ないかよりも、反対なのか賛成なのか「責任の在り処を曖昧にせず、一旦価値感を明確にしたらその価値感を死守する事によって、語り手事態の価値感や性癖を、もっと明確にして欲しい」と言っているのだ。
君らがいくら無に帰したと思っていても、己自身の性癖のようなものが必ず何かあるのだ。だがそこを明確にしたくないのでは無いか。

俺が何を問題視しているかを、たとえ分かっていても理解したくない人間が多いのだ。理解したくないから、当然理解出来ない。まず納得できるかどうかよりも、何を問題視しているのか理解すべきだと思う。その事で、君らの性癖や価値感の限界も示すべきだと思う。
無限大に奇麗事をいえない「他人の反論から試される」世界へと自分を持ち出し「個として」「俺は思想的にこの立場にある」と明確にしてから意見できなければ、全く何の奇麗事としての価値も無いのだ。

このままでは会話として結局なりたたない「何でもあり、あれもこれもあり」の茶のみ話でしか、他人と意見をかわす事ができなくなるのではないか、と思う。


ここのような瞑想ごっこでは、発言者が、何か「行動しなければならない瞬間」というのが「永遠にやってこない」のでは無いかと思う。

つまり発言者自身の性質や性癖やその性癖や価値感にともなう「限界」(つまり発言者自身)というのが見えて来ない。
それはたとえ謙虚な(無私の精神の)ようでも、それは「無限に自己を拡張して」考えていられる領域なのだ。その属性を持たないのに全て自分、と思う事は、たとえば「あの人には〜の長所があるが、自分にはその長所が無い」というような場合に、何も学ばずただの「上辺の摸倣(特定の他人の服装等を摸倣する事など)」や「空想上のなりきり」等によって、「即、充足」してしまうように思う。
結局異なる他人や異なる意見に対する恐怖や嫉妬や羨望を感じたくないから自他一体だ、というのではどうしょうもないのだ。
いきなり無を念じて己イコール宇宙のすべてだと思うよりも、もっと自分の意見や考え方が、自分個人やそこの群れの性癖に沿ったものであり、それゆえの限界もある偏った思想であるという事を認識すべきだと思う。つまり、俺の場合、俺自身の性質によって思想が色付けされてしまうという事はある程度自覚している。

だが、本当は自分の性質に沿って色付けされ偏ったものであるのに、その自覚無く「普遍的な真理に近づいたものである」と最初から錯覚してしまえば、その偏りを認識しないまま終わるだろう。

つまりそうなると、他が認識出来ない、大文字の他がいない、そういう断念を知らない「結局貪欲なだけの、自分の空想=全宇宙を自分が飲み込む願望があるだけの」精神状態になって終わると思う。
つまり、己の精神的な程度その他を現実に他人とぶつかって試すというような事もなく、結局自己肥大的な全能幻想となって終わりでは無いかと思う。

「どうして自分は悪を前に何もしなかったか」
という理由づけのために、全ての「善も悪も無い」「自分も他人も無い」「何もしないでもすべて私と同等で平等で一つだと思っていたい」という願望を満たすためのヘリクツはあるようだ。

「あの人には出来るのになぜ私には出来ないのか」
という部分でもっと自分の性癖やそれにともなう違いについて悩む事が出来なければ、「全部畳み込んで衣装のように全てをワタシの属性に出来る」「あの人が殺人恐喝されて相手を嫌っているようでも実は全部ワタシなのだから、嫌いと言ってもワタシが考えているように無理心中したいはずだ、繋がっていたいはずだ」というような異常者の貪欲さをも正当化するようになるだけだろう。

ある程度ものの考え方として「劣悪なもの」を淘汰できなければ、文化が成熟しないと思う。「何が劣悪であるか」そこを見究めなければ「ただ繋がっている一つ」というだけでは、劣悪な芸も優秀な芸も同じように一つだ、というやり方になる。そのままでは、芸術や哲学を巡る精神も、ただ腐敗していく。

まず自分だの自我だのいいかたを変えても、問題が出るのは、他人の生命などを奪う側がそういう主張をしだす事だ。

俺はニホンの精神世界の連中から執拗に「殺人の何が悪い、殺人鬼だけが神だ」と恐喝されている。(ここも当然チェックされている)。

また、ファンは自分こそが「愛されている相手そのもの」であると思い込み、オリジナルをCENSORED(またはCENSORED妄想をする、何か盗む)事でその相手と(たとえ通りすがりであれ)無理に一体になりたがる。

作品であれば、普遍性を具えていなければならない。しかし、(すばらしい)普遍性を具えているという事と、(なさけない)盗作であるという事は別だ。

しかしそのあたりをごちゃごちゃにしたがる人間が多い。

言葉は、常に借り物だ。自分勝手に言葉の意味や似非文化まで作って「自分で考えた意見だ」と言ってしまえば、たとえ読む側に理解力があっても何一つ通じないだろう。

だが最初から胎内に飲み込まれた「いわゆるオタク」人種のように、「何も違和感を知らないまま、全体や群れや家や胎内に呑み込まれた幼児のような精神状態」で「他人(個)」へと向かって言葉を発しても、架け橋としての会話にならないという事だ。

まず最初から一体という感覚で語るよりも、いかに架け橋を作るかという技術から学ばないといけないのだろうと思う。

自他の違いを識別した上でなければ、逆に価値感の違いも(埋まるものであったとしても)埋まらない。

法的な問題は兎も角、己の性癖が変えられないなら、それはそれで他人がどう言っても変わらないものだろうとは思う。
ただ俺が問題視しているのは、どう意見が違っているのかを殆どが理解できない(したくない)ため、(最初から自分と大差ない価値感の中で生きていてくれているはずだと自他一体幻想持ち連中が思っていたいため、)違う意見そのものが認識できないということだ。
それがたとえ(殺人禁止などの)社会の常識であっても、その事すら最初から知らないかのように、まるで俺自身の性癖の問題であるかのようにして(特殊な性癖持ちのオタク犯罪者連中が)批判してくるのだ。

その違う意見に納得するかしないかという事では無く、まず他や社会の法すら殆ど認識できない無限の内面世界を作る事が問題だと俺はここで言っている。

その「異なる意見があるという事すら理解出来ない」今の国全体の状態は、最近の娯楽が全て受身的映像的である事のせいか、また思想すら服のように借り物であって本当の内的必然性に支えられていない一種の奇麗事(ハラ芸のまま)である事からなのか、最初からこの国が「議論を知らない」国民性であるためなのか、更に互いの意見(の違い)に対する無理解の程度が酷くなっているように思う。

No.2285 - 2009/11/08(Sun) 20:31:22

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
>「非難も正当化もない観察」て、「観察しない」て、ことだ。「自己想起する」て、「自己想起しない」こと


「殺人」「なりすまし(自他未分化、コスプレ)」「殺人事件などに関しても、2、3歳の幼児への性犯罪正当化などを俺が問題視している現状を示しても、

「批判する人間」に対して「批判するな」
「自分を想起しなければ、異なる価値感を持つ殺人犯の精神世界(ようするに批判を嫌うカルト宗教同類)を批判しないだろう」というような人間は、
逆に自分こそがその相手が生きる権利すら否定し、相手が生きようとする事を批判し、逆に子殺しなどで執拗に食い下がってくるような、加害者どもの異常性癖を正当化している事を自覚すべきでは無いかと思う。



「何が優れたものか何が劣悪なものか」当然観察者や観客には分かっているという証拠は無く、愛憎や嫉妬心や利害関係などから、己の感じた事すら正直に言わず、相手に伝える時には、わざとゆがめて意見を語る人間も多くあるだろう。

だが、いつまでも、優劣を区別しようとする事そのものを否定してはならないだろうと思う。

「正しく分別しようする所」に当然芸術的価値も精神的に優れたものも存在する事が出来る。

悪なら悪で、「人間の進化を妨げるようなくだらない悪」「英雄性不足の悪」であれば、いくら下らない殺人や暴力等によって精神的偉大さに対抗しよう(他人の属性を殺人や通り魔的な無理心中によって得ようとしても)「悪(自称神の事もあるだろうが)としての魅力や良さすら、CENSORED一体になりたがる犯罪者(どんな凡人やただの異常者であれ、自称カミの事もある)は獲得出来無い」という事だ。

つまり善悪ばかりでは無く、「偉大であるか卑小であるかなどの区別」というものがある。


本当に世界が上手くできているというだけで何もしない自分を正当化したいのであれば、それは何も魂を持たない奴隷同然であり、何も価値感を証明せずとも、「この宇宙に属している」(いわば家に属している)だけで良く、行動や度胸で己自身の価値感(精神的な優劣等)を証明しないでも、それどころかどれだけ示した本性が邪悪であっても、通り魔的な無理一体幻想で、社会的に受け入れられ、認められると勘違いしたままで済むということだ。

「出来の悪い芸(芸術)だと思っても批判するな、それは見る人間の考え方の癖だ、性癖だ」というだけでは平等幻想どまりで、劣悪なものを生かす行き止まりの、結局、そのような思想こそが、この国の自滅用の感性というようなものだろう。

ようするに「他人の批判が正しいか否か」よりも、そのような異なる意見や批判があるということすら認識出来ない、またそれどころか一般社会の法的善悪すら知らず、特定個人の価値感や趣味の問題へとすりかえたがる(反論そのものを責める、甘やかされたいいっぱなし垂れ流しの)状態では、まだ発言者が精神面で人間になる以前だという事。

もちろん荒しがHN変えして揚げ足をとるのは、まともな批判や反論として相手にすべきでは無い

何度も言うが、個々人が現時点で持っている性癖や価値感をもっと自覚し、明確にすべきだという事だ。何も自分には個としての「性癖」が無い、従順では無い会員からは、抵抗を削ぐべきだ、というのは、殆どカルトの責任逃れにすぎない。何らかの性癖や性質が、ある集団にある程度共通する傾向であるとしても、そうなった「責任は個々に」ある。

発言者が己の性癖によって限定されているという事実が自覚できなければ、永遠に普遍的な価値感や、他人の心に気づくことや、それ以前の社会性へと近づく事も出来ないだろう。

つまり「ワタシは笑っているのに、アナタはおこっている。ワラッテイル私しかこの宇宙に存在しない。アナタの怒りは間違っている」と言っても、何で笑っているか次第ではそのような邪悪な自己正当化など通用しない。

もし、痴女が「無理心中おっかけ・殺人」を美化し、自己正当化しつつ、その加害者(またはその思想に影で同調するストーカー集団)が笑っているようであれば、一体誰が邪悪なのか?

結局「批判を批判であるというだけで批判している」自覚も無い「いきなり無=ワタシの妄想が全宇宙」型の人間達は、

他人を批判している事すら、さっぱり自覚していないのだ。


「己だけの幸福感(快楽犯罪を含む)」を「ただ万人に通用する前向きなもの」と考えているだけでは、その人は「己の幸福感(快)が宇宙の善悪の基準である」と考えるばかりで、他人の不快感の原因を知りたがらない、結局邪悪な人間だということだ。

自他一体妄想を散々やりながら「犯罪者はそこに含まない」、といきなり付け足してもそんな非論理的な、一貫性の無い思想には、説得力も信憑性も無い。

当然正しい事を言っても不快がる人間はいるわけだが、まず他人の不快感を「それを問題視する側の問題」にしたがる人間は、社会的な精神を持たない。

(まともな)警察は、何も己の欠点を投影した人間を逮捕したいわけでは無いだろうし、地域を見回る役員だって己の欠点を犯罪者に投影して、犯罪者の存在を問題視いるわけでは無い。

しかし互いに「ワラッテイルほうがエゴイスト、オコッテイウほうがエゴイスト」と言い合っても、何を問題視しているかを明確にしないかぎり、何一つ問題は解決しない。だが、


もし「怒っているほうがエゴイスト」「何か犯罪者を問題視(批判)するほうが悪い」とある人間が思っている場合、そいつらは大抵、何でも笑顔となあなあまあまあ(見て見ぬふり)芸で、犯罪を自己正当化する性癖持ちだと言える。

No.2286 - 2009/11/08(Sun) 21:46:53

Re: 総て自分 / ubik0101
まあ。いろんな意見や主張あるとしても、とくにないとしても・・・自分て、何?これを明らかにしなければ、なんにしても、不明確ではないでしょうか。

また。たとえ世界の総てを知っても・・・自分て、何?を明らかにしなければ、意味があるでしょうか・・・ここでは、そんなことを話しています。

No.2288 - 2009/11/09(Mon) 10:28:01

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
だから君らが「自分の意見をあきらかにしてない」だろ?

俺がAの意見についてどうこう言っても別の奴が出てきたり、そういうのも甘やかしだよ。


「批判が悪だ」というのは「同意のほかは悪だ」といってるのだから、結局全員同じ流れでヘラヘラ笑って何も行動するなというんだろ。カルトの洗脳と同じだよ。

No.2291 - 2009/11/09(Mon) 17:46:19

Re: 総て自分 / hato

> だから君らが「自分の意見をあきらかにしてない」だろ?
> 自
> 俺がAの意見についてどうこう言っても別の奴が出てきたり、そういうのも甘やかしだよ。



明らかです。わりと、というよりは非常に明確です。


> 「批判が悪だ」というのは「同意のほかは悪だ」といってるのだから、結局全員同じ流れでヘラヘラ笑って何も行動するなというんだろ。カルトの洗脳と同じだよ。


将臣さん。

誰にとっても、「人が何を言いたいのか、」が、基本的なところで解っていない人と、対話することは難しいでしょう。
将臣さんは、まず初めに、自他、ということを、将臣さん自身の中において、きちんと明確にすることが必要でしょう。

そこが将臣さんのなかで整理がついていないために、人が何について言及しているのかを、正確に読み取る、或いは読み取ろうとすることができないのかも知れません。

なぜなら、それこそ、自他の区別が曖昧故に、湧き起こる想像が、他人が述べることに無闇に投影され、混ざってしまっているからです。こうした状況はとても、対話として成立させるには困難です。

人のことは、いいのです。まずは。
その、整理のついていない自分、ではありませんか?

No.2296 - 2009/11/09(Mon) 21:39:26

Re: 総て自分 / (  )将臣(   )
お前何「自我」の意見で入ってきてるの?


君らが自他の区別がついてないから「全部自分」といってるんだろ、

洋服も自分なんだろ、アホか。

No.2298 - 2009/11/09(Mon) 23:08:21

Re: 総て自分 / hato

なんにしても、その自分。

を探求することが難しいなら、残念なことですが。

No.2303 - 2009/11/09(Mon) 23:23:27
(No Subject) / (  )将臣(   )
妄想って「ワタシは覚醒という語を通り越して覚醒してるから何でも分かる」と夢妄想をたれて、
5戒だの十戒だの

母の子殺し賛美だので「しらばくれ」盆踊りする事じゃないのかねえ。

No.2299 - 2009/11/09(Mon) 23:09:30

Re: / (  )将臣(   )
自他の区別が付いていない、と俺から批判されて、そのまま

自他の区別がついてないのはキミだ、
とかいいかえす
陳腐な芸人の芸はどうにかならないのかねえ。


子殺し母は見捨てられて当然なんだよ、
俺はそれで「ボク(通りすがりの主婦、俺の親のつもり)もボク(ムスコ)も自分だから殺されても黙ってればしあわせねえ」
と殺人恐喝されてるんだがね。

図書館だの5戒だのキーワード盆踊りして「妄想です」ですんだら警察いらないよ。

ハラ芸の奴が「ワタシはハラ芸やってます
とみとめることないだろうが。

盗作魔や母の子殺し教徒が自分がそれだと認める事は無いだろうが。
盗作魔は批判されたら妄想だと言うだろう、自我の機能でだな。
だからキミらは大体全体に同じような論調のようだが、
反論できないんだよ。

有害な思想だな。

No.2300 - 2009/11/09(Mon) 23:12:42
自分は何? / ubik0101
それにしても。なぜ、「自分は何 ?」を問うことは困難なのでしょう。それは、それを知ろうとしてるのは、すでに自分だから、という自明の前提が設定されてるのかもしれません。それならもう、自分が自分を知る必要も方法もないし・・・また知り得ないのを・・・感じるのかもしれません。

それで、なにかの自然の事象、社会の出来事、人との関係に於いて、あのように人は反応するのだ、このように自分は機能するのだ。ということを空想、観察することに終始するかもしれません。しかし、それでは、そんなことをしてる、その自分は、ほんとうに自分?自分って何?と、問わない努力をしてるのかもしれません。

というのも。なんだかの経験する。反応や機能を見る。ということは、なんだかの経験する。反応や機能を見る。ことであって、ほかのなにものをも示さないのです。しかも、それは、世界が、自分が、なにかを知らないのに、知ってることと仮定、しての運動かもしれないのです。

続きます。

No.2287 - 2009/11/09(Mon) 09:45:58

Re: 自分は何? / ubik0101
つまり、世界も、自分も、それがなにかを知らないことを知らない無知に、依存して、経験、観察、研究してるのかもしれません。と、いうことに気が付かない無知に束縛されてるのではないでしょうか。けど。 その、自分を問わない経験、観察、努力は、そのような自分を問わない自分の有り様を顕わにしてるとも言えます。

たとえば思考は思考でしかないけれど、思考することによって、その思考する自分がつくり出されてるのです。 なにかを見たり聞いたりすることで、見たり聞いたりする自分がつくられています。これは、 なんでもいいのです。行動、発言、思考の総てが、そういう機能を果たします。

つまり、世界に自分をつくってもらってる・・・なのに人が自分が見たり聞いたり行動したりしてると思い違いしてる・・・すでに自分・・・それが自我の顕れでもあります。

たとえば・・・「総て自分」、ということでも、「総て自分でない」、ということも・・・そんなことどでもいい、ということも、その観察する中心をつくりだします。たとえば、自分は何?さえそうなのです。

続きます。

No.2289 - 2009/11/09(Mon) 11:35:12

Re: 自分は何? / ubik0101
ところで。同一化、と呼ばれてる現象があります。それは・・・たとえば怒りや慈しみなどの感情や、ああだこうだの思考に人は同一化するのではありません。その、たとえば自分を知ろうとしない姿勢に、その立場に、同一化するのではないでしょうか。 それに依存するのでなければ・・・感情や思考は顕れては消え去るだけで・・・その人の状態の持続は困難です。

なにかを経験する。反応や機能を見る・・・そのことによって、そうしている、その立場が設定されてるのです。ならば。これだけ自分は自分の反応を観察した。理解した。または、それを手放した。たとえば葛藤がない。としても、それは、そういう自分がつくられてるだけで、それに同一化してるだけで、自分を知ることにならないと思います。

また。思考なく行動しようと、その行動は、その立場を、観察する中心をつくります。これを自我と呼びます。そして中心・・・自我とは、虚構です。虚構でなくては、行動、発言、思考によって、つくられた中心など、あり得ないではないでしょうか。

そうであっても、自分を知りたくなければ、一生、そのようでもいられるのでしょう。 たとえ自分を知ろうとすることは、自分を知らないということだとしても。 自分を知ろうとしないことが、すでに知ってることではありません。まず、自分 が自分を知らなかった、と気が付くのは、それを知ってから、ということもあります。それでもなお、自分とは何?という言葉でないとしても、これを問うのです。

ここで、自分は何?を、姿勢として、問うならば、どんなことをしても世界が、その観察する中心をつくってくれてるのですから、どのような行動も、発言も、思考も、自分は何?のために機能します。それには否定の道が最も負荷がかかるでしょう。 そして、その機能の総てが機能すれば、自我は虚構と了解する、自己を知るでしょう。

No.2290 - 2009/11/09(Mon) 16:58:27

Re: 自分は何? / (  )将臣(   )
だからそれも「君だけのエゴに満ちた意見」、または「ここの全体の雰囲気に染まった意見で言っている」わけだから、語り手は己の自我から脱していないという前提で語るべきなんだよ。

「なあなあまあまあで何も批判せず笑っていられる家畜民」とは違う「飼い馴らされない人間」が、その特殊性や特徴を捨てなければ大勢が困るから、自分を捨てたつもりの家畜民は、批判や反論を「悪い意味での個の自我にもとづく判断だ」だと思っていたいだけなのだろう?

誰もが「エラソウにするな、自分だけ特別と思うな」といいつつ、「自分のエゴで語っている」わけだし、集団から洗脳されてもいる。
その偏りから離れて見ようと努力しながらも、今の自分の感情や価値感を表現すべきだろうと言っているのだ。

ここの板は実際に何か身の回りで事件や問題があった時に「どうするか」「どうすべきか」というような、「方向性」や「解決の糸口となる思想」が何も無い。
何度も言うが、ここは「他人や他の動物の危機を前に、いかに何も行動しないでいい人間を作るか」という、いわば家畜民大量生産用の思想に成り果てているようだよ。

カルトは会員に「自分個人の意見(エゴ)や、組織への批判精神を捨てろ」というだろう?

「>自我は虚構と了解する」とは、(何かの鵜呑みの意見であるにせよ)、君が(自分の今の価値感を主張するために)言っている事だ。そこを曖昧にして誰が出した意見でも無いふりをする事は出来ないだろう。

もし君が他人を見て「あいつはエゴイストだ」と思いたい時があるとしても、そのエゴイストという定義付けは、君の価値感で決めてしまった事であるに過ぎない。つまり君がCENSORED側に感情移入している場合は、抵抗する側をエゴイストと思うだろう。君が盗む側であるなら、盗まれて抵抗する側をエゴイストと思うだろう。

だからその「自我という定義で」「君が虚構と思っていたい」「捨ててもらうべきだと思っていたい」何らかの他人の特徴や特殊性や出る杭型の意見に対する「偏見」も、「君の自我が捏造した偏ったものの見方」なんだから、結局それを言ったら全部エゴイスティックで無意味な与太話という事になる。

だから自我を捨てろという君の意見こそが虚構なんだよ。
誰でも自分だの自我だの保身にもとづいて語っている、それは当然の前提。「自分だけそこから離れている」という前提で語りたくなる人間とは、誰も話がさっぱり深まらないわけだな。それにそういうやり方で発言者が無私を装って何かを押し付けてしまう事のほうが多いだろう。

カルトも、まるで自分を超えた場所から語ってるかのように(カミになったかのように)錯覚していたいから「ジブンを捨てろ」というのだが、それこそ組織が利用しやすい家畜民的な心づくりや洗脳教育と表裏一体だという事を自覚して欲しい。

自分がどういう性癖を持っているか明確にすると別の団体へと寝返る事が出来ないからいつでも「ハラ芸」で「表面的には白黒を曖昧にしておきたい」というのは逆にエゴなんだよ。実は大抵そういう(表面的には白黒ぼかしている)人間の本当のハラは決まっているのだ。

善悪決め難い事だから他人のために曖昧にしておきたいわけじゃない、どちらにも敵を作りたくないから上辺だけ白黒を曖昧にしておきたいのだ、しかし本当は大抵ハラは決まってるわけだよ。


「カルト(自称エゴを捨てた神や魔神や女神)から誘拐されて殺されそうな人間がいても黙ってる事」「見てみぬふりをしつつ、オタクが楽しく通り魔による血まみれ生贄ショーを大勢で見物する(何も異論をとなえない、何も行動しない)」「子殺し母(または通りすがりの関係者のつもりでいたい通り魔の変質者)から黙って被害者が殺されて何も文句を言わない事」こそ「エゴを捨てる事だ」という(実は自分さえよければいいだけの)トンデモの奴が沢山いるからな、この国にはよ。

ヒガミ哲学だろう、それは。
要するにこの国にどうやって誰かの優秀な芸や価値ある思想だけを残していくんだ?「善悪や優劣を判断する自我というのが幻想」、といつまでも言っている限り、劣悪な芸や無意味無価値な思想ばかりが淘汰されず「平等幻想」で生き残っていく=その事で逆に全体が滅びるだろう。

エゴを捨てろといいながら、結局「横ならび平等幻想」で「出る杭」をひっぱりたいだけなのだろ?それが弱者を救う思想であったとしても、自分が弱者を生贄にして観察していたいだけの瞑想オタクの人間が、何か行動しようとする者の脚を引っ張るだけだろ?

いわば「出る杭(に見える存在)」そのものを「エゴイスト」と思ってそれを叩きながら必死で「ネタ摸倣盗作」してるようじゃ「それこそエゴイスト」だよな。


いきなり自分とは何かを探しても「自分探し系の人間の精神的泥沼」となるばかりで、そういう部分は誰にも正しく語る事が出来ないだろうと思う。

だから、誰もが自分の今の価値感を明確にしながら「アナタの意見のここには納得できない」という風に反論しなければならないはずだ。しかし「そう判断する自分は幻想。反論するのは嫌いな部分の投影」といつまでもただ言ってる限り、本当に「出口の無いドロ沼の膿み」だよ。切り口を作らないといけない。


誰も自分だけ自我から離れているように言ったりする事は出来ないだろう。エゴを捨てろという意見もそいつのエゴだと自覚すべきだと言ってるんだよ。「何故自分を見つめられないのか」と俺からの問題を他人事のように返してるのもおかしいんじゃないかな。

No.2292 - 2009/11/09(Mon) 18:06:16

Re: 自分は何? / ubik0101
ubik0101が言う言葉は、たとえば熱いと言ったら、熱い。そのまま、です。ほかにないです。で、「いかに他人の危機を前に何も行動しないでいい人間を作るか」「あいつはエゴイストだ」・・・あとは総て省略・・・と言ってないので、それは、将臣さんの空想です。

そんな空想は意見でも思想でも哲学でも対話でもありません。その、将臣さんの空想の問題は、将臣さんしか解決できません。 また、なにかと闘うとして、それは、あなたに言われたから、ということはあり得ません。将臣さんの投稿には、この外の印象はありません。

No.2293 - 2009/11/09(Mon) 20:10:44

Re: 自分は何? / (  )将臣(   )
だから君が「俺の意見を空想だと思う」のが、君の偏見によって偏った「自我」の意見なのだ。

空想という語をいきなり持って来るのもおかしい。

君が今更「他人の印象がどうとか」いう=批判するなら、
それが君の自我でありエゴだよ。

それを捨ててないんだろ?

>ubik0101が言う言葉は、たとえば熱いと言ったら、熱い。そのまま、です。ほかにないです。

何故君の意見を「信じなければならない」んだ?
自己言及など哲学音痴しかやらないことだろ。

No.2294 - 2009/11/09(Mon) 20:14:32

Re: 自分は何? / ubik0101
ubik0101は事実を言ってるだけです。あなたがどう思っても、それは空想なんで、つまらない、です。
No.2295 - 2009/11/09(Mon) 21:09:36
(No Subject) / ubik0101
では、投稿No.2232 からの続きです。

>あまりにも主語が無いから何を言っているのか分からないよ。

ここで話されてる、なにかの事実(自分のハンネや自分の仕事やらを、通りすがりの誰か他人や、又は親族の誰かに泥棒(なりすまし)された時)と自我を捨てる?(「全部それはワタシだからエゴを捨てなさい」)ことには・・・よほどの例外はあるかもしれませんが・・・直接の関係は、ないです。

しかし、ここで話されてる、自我を捨てる(「全部それはワタシだからエゴを捨てなさい」)、ということが、イヤな目にあっても、怒りを表明しない。という意味なら、できるかもしれません。

> ハンネドロボーがハンネ泥棒された側に怒るなというのか?

そういう事実が、あったんでしょうけど。ハンネ(ハンドルネームのことでしょうか)泥棒した人が、泥棒された人に、怒るな、と言うことに正当性があるかは疑問です。自我がないなら、泥棒していいわけではありません。

もしかして。たとえば、ジョークとか。泥棒した人が、泥棒された人に、怒るな、という方法が、自我を捨てる?のに、効果的とかいう、理由があって、したのかもしれません。けど。そんなことは、ubik0101なら、しません。

No.2238 - 2009/10/18(Sun) 00:06:09

Re: /
冗談で済んだら警察要らないよ。
それと全体に君らの文章は独特の意味不明さがあって似ているが、俺が主語が無いと言ったのはhatoさん?に対してだね。

軽い問題で激怒する奴もいるだろうが、俺が問題視しているのは凶悪犯罪正当化の問題だ。
特に母親が子を分身と見なして殺害する事を公で正当化する奴が多くて異常だ。特に精神世界やニューエイジ(である自覚が無い奴も含め)。

No.2239 - 2009/10/18(Sun) 00:19:59

Re: /
だから今までちゃんと見ていなかったが、君らは良く念仏のように「自我を捨てろ」と言っているように思う。全部分身なのだと言い張る。共通する面だけを探す人間、些細な趣味や些細な冗談など、(どれだけの凶悪犯罪でも全て)軽い問題限定にして考えていたい者は、加害者の願望とは異なる他人の都合やら苦痛(拒絶)が理解出来ないだろうと思う。また凶悪犯罪などに関わる問題では、そのような事を単なる個人レヴェルの快不快問題として考えるべきでは無い。

結局(表面的には村社会=群れてつるむ事)を否定しながら村社会に飲み込まれてしまう自分を持たない人間は、「凶悪犯罪を前に何もしない」。「それで凶悪犯罪者から殺されそうな子は守られる」と念仏をとなえ、群れてなあなあまあまあ状態になりやすいのでは無いかと思うのだが。そして「特定個人の分身や恋人のつもりの」(直メールした事も無い)性関係妄想持ちの通り魔のような女性や盗作魔による「無理心中強要文連投犯罪」、をも美化出来るのでは無いかと思うのだが?

No.2240 - 2009/10/18(Sun) 00:25:53

Re: / ubik0101
くり返しますが、No.2231は、PCの不調で、hatoになっていますが、ubik0101の投稿です。
No.2241 - 2009/10/18(Sun) 00:27:32

Re: /
なるほど。それでは上に書いたことに関して意見をくれるかな?そして下に書いたことも読んで欲しい。

俺は些細な趣味レヴェルの事を問うているのでは無く、凶悪犯罪を「全ては分身」だという詭弁では正当化出来ないといっているのだ。また特に特定個人を狙ったネタの摸倣や盗作などは悪質だが、その盗作が殺人や無理心中などに繋がるような激しい情念によるものであれば更に悪質だと思う。ではなぜ他人からそういう事をされるのかという事なのだが、君らの理屈では殺したがる側が殺される側と似ているからそういう人間が寄って来るのだから被害者が反省しろという事になりかねない。だが実際は、今この国で、公で幼児を狙う犯罪者を批判したらそういう事になるのだ。子を守るべき母親が何もしないどころか、殺されそうな世界の幼児を恐喝しているわけなのだ。君らの波動がいいなら凶悪犯罪者を前に意見してくれてもいいのでは無いか。穏やかに意見できるというならやるべきだ。「何もやらないほうがガキは守られる」というのは、公で幼児を狙った異常な犯罪を堂々と正当化している(それでいて同時に社会悪と戦うふりをしているような)犯罪者を前に「何もしない」という事では無いのか?

まあ親が学校での問題に過剰に口を出しすぎ過保護にしすぎていいわけでは無いだろうが、俺が言っているのはそういうガキ自身が戦えばいいかどうかレヴェルの問題では無く、「社会全体としての良識問題」として無視できる問題なのかという事だ。そして厄介な「通り魔的ワタシはアナタ妄想癖」を持った奴やら幼児狙いのオタク異常者(=多分コスプレ性癖持ちであったりする)を敵に回せば、妙な性癖を持つ人々から怨まれるのは当然だ。そこで君は「問題視した事で加害者集団からつきまといされるような被害者は、なりすますその他人に似ているはずだ」などと言いたいのでは無いか、とも俺は思った。そもそも君たちには、抵抗出来ない幼児や小動物に対する暴力ばかり(群れて)正当化する異常者集団を「嗜める」事が出来るのか?(穏やかに嗜めるべきだというならそれでそういう集団の暴走を食い止められるのだろうか?)

君自身が別にそういう犯罪をやらずとも、むしろ気持ちは「分身のようにつきまとい自他の境界を無視して他人の個人的な領域に無断で入りたがり、通り魔的な盗作や特定個人の摸倣や幼児誘拐や子殺しを正当化をする」ような(無関係な他人の意志を無視しいきなり一体化したがるような)側にあるのでは無いか?とも思った。犯罪を前に(全部がその人の分身だから、ある事件の被害者には全ての自己主張を諦めさせ=犯罪を受け入れさせ)周囲は犯罪を前に何も行動(問題視も)しない事ばかり賛美していたようでは無いか?それはエゴが少ないためでは無く、逆に自らの保身のためでは無いかと思うのだが。

No.2242 - 2009/10/18(Sun) 00:39:04

Re: / ubik0101
>君らは良く念仏のように「自我を捨てろ」と言っているように思う。全部分身なのだと言い張る。

これまで一度も 「自我を捨てろ」、とは言ったことはありません。「全部分身」も、言ったことはありません。ニューエイジとか、精神世界とかも、詳しくないですが・・・そいうのから学んだことも、仲間でもありません。

これで、今日は、おやすみなさい、です。

No.2243 - 2009/10/18(Sun) 00:59:01

Re: /
結局何も答えになっていないわけで、

君自身が犯罪を前にした時に強靭な理念を示すことが出来ないわけですよ。
「安全圏で奇麗事だけ」言っている。そして、「犯罪を見てみぬふりしない事でわざわざヘビの尻尾を踏むような(まあある意味では善悪問題に関するものの観方が真っ直ぐで正直な)人間」を、たとえば子殺しを正当化する加害者側やつきまとうなりすまし犯と無理矢理同一視したがり、問題そのものを葬り去ろう(凶悪犯罪のようなことでも、法感覚抜きに、集団の安全生活のために、個人に我慢(諦念)させ口封じしよう)としているだけなのです。

何にせよ「全てはその被害者の××」というような屁理屈では、「全て自分の××(ここに誰かが書きたいような表現が入る)なのだから被害者が不快感を示さず犯罪を受け入れろ、すると殺そうとしている犯罪者は変わる、すべては殺された人間の××なのだから、殺人鬼も殺された被害者の××なので、被害者の問題だ」
とそういう時だけ突き放すことで奇麗事だけ言っていられるわけですよ。
それで皆で平和だと信じ込み何も問題視するなと言うんだ。


そういう問題が目の前にあったら何故戦わないのかと質問してるんですよ。皆都合の悪い部分は文字が読めないんですかね?

「精神世界やニューエイジという定義に当て嵌まらない」というなら、君の立場が何でもいいですよ。しかし結局は、ニューエイジの鏡の法則やら引き寄せでストーカー犯罪者側を擁護するアカ盆踊りの連中のようになってるだけでしょう。
犯罪者を前に何もしないと言ったのは、君だかここの誰かだかですね。過干渉に保護しすぎる事は良くないかも知れないが、大人が揃って公で分かり易い犯罪を正当化しているんだからね。

「ワタシはアナタがある表現で問題視する事の何にも当て嵌まらないから、そのような問題(犯罪)に関する、自分のポリシーを表明する必要は無い、何処にも犯罪者の敵をつくりたくないから」ということですかね。

君の意見はどうなのかと言っているんですよ。
自分だか自我だか知らないが、君自身の意見を言えばそれで身が危険になり怨まれるかも知れないものですね、俺のように幼児を公で犯罪者から守ろうとすると、逆にそれを犯すことで利益になる大勢の胡散臭いカルトか何かの人間からたたかれるんですよ。そこで又君らは「狙われる側の心の問題」にしたがっているが、それなら「他人を狙う側の心」と「狙われる側の心」が似ているという理屈に全く根拠が無い事をまず考えて見るべきだろう、と思うんですね。

音叉ではなく、磁石で考えるなら反対ですよ。


それよりは、「蚊が蚊の血を吸うか」考えて見たらどうかということですね。
要するに「メスの蚊がメスの蚊を狙うことは一切無い」わけで、似ていないから(メスの蚊が栄養として必要とするものを持っている相手が)人間の血が狙われるんですよ。


狙われるものは狙うものの分身では無い、似ているわけでも無い。全部自分の(被害者の)心の問題が投影されているでも無いですよ(相互に関係ある人間同士の問題として解釈する場合も、ある人間だけの心の問題では無く、大勢の心の問題から起こるのだから。それでも、常に何でも勝手に共犯者のように考えるわけにはいかない。蚊から狙われる人間も、認めたくない心理的な負の部分がメスの蚊に投影されているわけでは無い)。しかし、都合よく考えたいというエゴがある人にとっては、何でも襲う相手に対する表現の仕様はありますねえ。

No.2244 - 2009/10/18(Sun) 01:18:03

Re: / ubik0101
それでは、この掲示板では、おなじハンドルネームで、違う人の投稿と判明したら、削除することにします。あなたも・・・その問題になった掲示板の管理者に、その旨を伝えればすむことです。

それに伴って、ハンドルネームを記入してない場合は、ほかの記入してない人との区別が困難なので、それも削除することにします。記入して投稿すればすみます。

>そういう問題が目の前にあったら何故戦わないのかと質問してるんですよ。皆都合の悪い部分は文字が読めないんですかね?

あなたが言うような、加害者を正当化する人の掲示板を聞いたこともありませんが、そんな人が話しかけてきたら、対応します。

>犯罪者を前に何もしないと言ったのは、君だかここの誰かだかですね。過干渉に保護しすぎる事は良くないかも知れないが、大人が揃って公で分かり易い犯罪を正当化しているんだからね。

どこの掲示板の話かも分かりませんが、ほかの誰かが言ったことを、ubik0101か、ここの投稿者が言ったと、あなたは勘違いしてませんか。

No.2245 - 2009/10/18(Sun) 09:27:11

Re: / (  )将臣(   )
名無しでは分からないと思うのでHN出しましたが、(  )です。まあ別所の問題を持ち込むつもりは無いですが、ここも5次元ニューエイジだのUFOs救済だの地底カルトのオタクの人が非合法的手段で24時間チェックしているんですよ。以前も詩の板で文体を変えて投稿しても直ぐ来ましたからね。君自身は波動が良ければ揉め事が起きないと主張する方ほうでは無いんですか?
「無関係だ、自分の意見では無い」という事ですが、犯罪を前にした時、その加害者とどう自他を分離するかという事に対する、哲学的考察が無いですね。
下に俺が引用した文があるスレッドを上げておきましたが。ここに無名で書き込むと、俺の方に又すぐにHN変えをして盗作や恐喝文を出してきた(20年も30年も俺と一緒にいたいと書き込む)荒しが自分の方に来ました「引用の資料は自分の意見ではないでは無いか」てんですが、つまりここに書いた事を揚げ足取る書き込みなんですよ。まあそいつのHNは他人(今度は実在する文豪)のパクリなんですよ又ね。突然自分よりえらい誰かのつもりなのだが、何一つ実力を示さず、自他の境界をいきなり捨てて、実在する他人の能力や属性を既に持っているつもりなのだ。
そして俺が書いた後に紹介したニュース記事などの資料やら基本知識の説明のための資料などにも絡む。

で詩を書く板なんですが、荒しは詩なんか書かないんですよ、全部俺への「手紙川柳」やら「俺のキーワードをパクった関係妄想の手紙(ある種の盗作)」ばかりなんですよ。

たとえば俺が「ガラクタ宝物お彼女が〜」と書くと、「ワタシがアナタのガラクタ宝物の彼女です 夢の中で一体になりました、ワタシタチは一体です」というような手紙を直ぐに遣してくる。

まあHN変えして同一人物が荒したりもしてるんだが、そういう(自他の境界が分からない)人間がもの凄く多いんだ。
ストーカーみたいなのが多く、相手の拒絶が分からない(全部自分の感情を投影して解釈するので、自分と異なる感覚を持つ他人の感情も理解しようとせず、凶悪犯罪や変質者を取り締まるべき法律すら逆に分からない=殺人禁止も、俺が一人で決めた俺の問題で、社長や独裁者の勝手な法律だと言い張る、とんでもなんですよ)。
そういう問題をね、些細な趣味の違いから除け者にしたとか、そういう話にすべきでは無いと思うんですがね。

具体的に俺の意見のどこどこに同意できるのか、同意できないのかという意見が無いですね、ここでは。そういう問題や犯罪とは無関係だというばかりで。でもそういう性癖を持つ尾人間を前にした時に、ただ削除するのではなく、「自他の区別」「自称覚醒した直感と、思い込みだけの夢妄想の違い」をどうつけさせるんですか、哲学的に。


君なりの表現とは異なるとしても「全部××さんの自分だから」「全部一体だから」というような大雑把にはそういう自他未分化のような感覚の人間だとそういう時哲学的にどう反論するんですか?
たとえばHN泥棒なりすましをしている相手や、
「ママ(ボクという口調で語る)と息子のボクは一体なのよ。ママの分身だから何をしてもいいし、抵抗するのはエゴよ。CENSOREDもいいわよね」というようなのが現実に俺の裏の板でやっている。(まあ勝手に誰かの母のつもりなのか一心同体のつもりなのか何だか。)

で君らはニューエイジや精神世界系では無いというが、一応こういう板は精神世界に属すると思います。で、この国では「子殺しは犯罪ですよ」というだけで誰一人その意見に対する同意者がいないんだよ。でアジア同士犯罪をおしつけあいながら、公で堂々とそういう犯罪を見せびらかして「これは犯罪じゃありません」「犯罪は外国にしかありません」「犯罪が多いのは外国なのに自国の小児性愛の犯罪者を問題視するのは愛国者じゃない、日本愛国は小児性愛だ」としらばくれているんだ。具体的に意見を聞けば全員そうだよ。殺人者を庇い(殺されそうなガキを恐喝し)ながら後で聞かれた時だけ「ワタシは犯罪を前にしてもちゃんと子を助ける事が出来る」としらばくれる奴や、身近に問題が無い時に犯罪だと言っている奴はいるが、そういう「母親と子との自他の分離が出来ていない」奴が多いんだ。で「守ろうとしない事がもっとも守られている」「助けてもらおうとおもわず助けられていると信じることで助けられる」というような論調は俺は以前ここで読んだからね。

多くが、ある種、母性的な父子関係や母子関係のような「相手と親密な分身一体全部ワタシ関係」であるつもりで他人に対していきなり「ご縁がありますね、前世でアナタの××です」というような喋り方をして来たり、夢で見た事を勝手に俺のせいにするみたいなんですよ「将臣さんが見せた夢でワタシが見た夢じゃない。ワタシタチは夢で一体になりました、言葉でいくら嫌っても心の中ではケッコンしたいでしょう、その本心を認めないのはヒドイ(アナタと一体なのに)」とかね。

具体的にそういう言いがかりをつける奴が来た時に、

「全部××さんの(心の?)問題だから」と考えている限り、削除する権限も本来無いわけで。
また下に上げておいた人のように「不快な事件は全部自分=他人のせい」と(通り魔との)共犯関係のように考えている限り、削除しようがそれは見たくない自分自身だと通り魔は自己弁護して来るわけで、君自身の意見が違うというならどう具体的に違うのか、哲学的な説明が欲しいと思うんですが。

君は「全部××さんの〜問題という言い方はしたが、そういう問題とは無関係だ、なりすましは削除出来る」
という事ばかり仰るわけですが、なりすましのくせに本人になりきっているつもりの人がいるわけで、本人のつもりで詩など書いてくるから関係妄想のための盗作(公で分かるようやった事)を批判されても、自他が未分化で依存症的であるため、他人のHN泥棒なりすましや、他人の人生や話の内容の摸倣をしつづけた事の自覚すら無いようなんですね。

つまりオリジナルを憎みながら、オリジナルの人間の真似ばかりしてくるんです。そういう猿真似をしたがる「悪い意味で自他未分化な=母子一体的な全能幻想を持つ」精神的に未熟なままの盗作魔に対して、「宇宙の全てはワタシ一人の××だ」「自他の違いを明確に説明する事はエゴだ。自分の領域を守るなどばかげている」と考えていた人は、哲学的にはどう反論するんですか。

それに「ワタシは覚醒しているからいくら反論してもウソは分かる、直メールくれなくても、本当はアナタはワタシがスキなはずだよ!全てはアナタ、全部アナタの問題よ!」というような「他人から拒絶されても拒絶されても直メールすらもらえなくても盗作や形態摸倣や俺個人への恋愛妄想やハンネなりすましを繰り返しながら殺人恐喝をやりつづけおっかけてくるストーカーの奴なんかがいるわけです(証拠は別所にあります)」で、俺の妄想では無く現実にストーカーがなりすましなどをして来た場合、つまりそういう被愛妄想患者特有の「常に全部がアナタの問題」という言い方に対しては、どう反論するんですかね?


そういう猿真似をしたがる盗作魔に対して、「宇宙の全てはワタシ(アナタ)一人の××だ」「自他の違いを明確にする事がエゴだ。自分の領域を守るなどばかげている」と考えていた人は、哲学的にはどう反論するんですか。

No.2247 - 2009/10/18(Sun) 10:36:50

Re: / (  )将臣(   )
【引用資料】
母親は子どもの自立への動きを喜ぶことができなくて、子どもが分離し始めると、見捨てるぞという強迫を行ない、子どもの受動性と退行を奨励し、それに報酬を与え続ける。そして、世界の探索に乗り出している子どもに情緒的補給をしてやることができない。
http://d.hatena.ne.jp/miombox_psyche/searchdiary?word=%C9%BD%BE%DD

見捨てられることに怯え、やたらと人にしがみつく現代人。その深層心理を母子が密着する日本的親子関係から解き明かす。
(略)若者や主婦たちを蝕んでいる問題の多くは「見捨てられる恐怖」が原因である(略)最近、ストーカー殺人が多発しているが、彼らの多くは四、五歳の子供のような愛情欲求から相手にしがみつき、 ...
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569611311/kyoukairei-22

幼児の側の服従が偽りの自己をつくっていくことになる。
もしこの服従や物まねを行なわないと幼児の全能感は破壊される。偽りの自己はこのような破壊を招く本当の自己暴露に対する防衛と見なすこともできる。

エリクソンによると、アイデンティティの確立は、あくまでも子ども時代の最終段階である青年期に成し遂げられるべき心理社会的な課題であるという。
http://espresso.s222.xrea.com/cat7/


母親の胎内にいる時、子どもは文字どおり【母子一体の状態にあり、かれの欲求はたちどころに充足されるため、子どもは全能である】といえるだろう。 ... 幼児はときにテレビやマンガの主人公に文字どおり「なりきる」のであって、このこと自体【《自他の境界の未分化》】の証しと言えるかもしれない。
http://www.edutech.tohoku-gakuin.ac.jp/ujiie/sisou24.htm

これがトムがディッキーの真似をした最初の経験である。(略)こののち、ディッキーはいよいよトムを疎んじるようになり、トムもそこを出ることを余儀なくされてしまう。最後にふたりは旅行に出かけるのだが、そこでもディッキーは冷たい。トムは「憎しみや愛情や苛立ちや欲求不満といった狂おしい感情が心のなかでふくれあがり、息が苦しくなった。CENSOREDやりたいと思った」という感情を抱くようになる。

トムはディッキーに、友情も、付き合いも、敬意も、必要なものはすべて捧げてきたのだ。それにたいして、彼は忘恩と敵意で報いたのだ。トムはのけ者にされていた。この旅の途中でディッキーをCENSOREDも、事故死ですませることができると思った。そして―

―彼はそのとき、すばらしいことを思いついていた。つまり、自分がディッキー・グリーンリーフになりすますのだ。
(略)
それにしても、好意から始まった真似ることが、これほどまでに暴力的になっていくものなのだろうか。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/imitation.html

これこそ「楽して得する」思想の実践ではないか?

その一つは、幼児のすべてを包含するような、自我が縮小されない場合に示される。そういうひとにあっては、成人となった自我がなお外界の多くの出来事を包含しているのであって、

フロイトはこの状態を「大洋的感情」−−宇宙との一体感−−と呼んでいる。

現実原則を減退させるもう一つの道は、薬品の使用やヨガの修業のような本能の制御によって、外的な出来事のもつ意味を意志的に減少せしめることである。

現実的なものと想像上のものとの境界線がなくなったのだ。

こうした絶対的信頼は元を正せば、アマテラス(海照ラス)母胎=太母に「全能感に満たされすべてを任せて甘えて眠る」胎児(もしくは12才の少年)の支配的依存大洋感情(ロマン・ロランがフロイトの「幻想の未来」に与えた答え)から来ている。
http://page.freett.com/artemis/knife.htm

↑↑↑

↑↑↑
「自他の境界が未分化(母子一体全能幻想を持った)」なまま成長した人間→宇宙と一体妄想感覚を持つ人間は、成人となっても母子密着全能妄想を持ち(際立った能力を現実に持たない幼児も、何も能力を示さず相手にしがみつき一体だと思い込んでいる限りは、有能で万能な超能力者であるかのように錯覚しておられる)状態であり、

その全能幻想を投影出来る無関係な他人(毛色が違う人間や何かしら特別に見える相手)に対する摸倣状態から離れる事に対する恐怖、つまり無理一体全能幻想持ち状態から切り捨てられ、個として見捨てられる(家から自立する)事への不安があるため(掲示板の通りすがりや、俳優歌手等や)女性ならば自分の息子役などの理想の分身に見立てた相手を摸倣(キーワードなど摸倣、内容盗作)しながら「そのもの」になりきり、盗作や殺人恐喝などを繰り返し、無理にボク=ボク母と一体だと思う事によって、必死で他人を摸倣しつきまといする、又そうする事を正当化するのでは無いだろうか?

つきまとう相手の形態摸倣(特定個人なりすまし、ネタ摸倣盗作)を繰り返しながら(元々無関係な相手を手元に引き止められない場合、母親のような気分から自分の息子役と勝手思っていたい相手を自分自身つまり息子=母親(ボク)に見立てて執拗に摸倣する事で、母=全体性と一体だと売り込む)、息子(役)のボクは「ボク母=集団→宇宙=混沌とした女の情動=日本的な海」から分離してはならない、全て母=全体性の海=宇宙と一体になるのだ、自分も他人も無い、と呼びかけてくる場合、他人の事しか頭に無いストーカー相手にどう具体例を挙げて反論するのかという事です。

No.2248 - 2009/10/18(Sun) 11:39:00

Re: / ubik0101
ケイミズモリ板カルトって、初めて聞きました。ところで「波動が良ければ揉め事が起きない 」と考えたこともありません。

とくに哲学を習ったことはありませんが・・・

たとえば。酸素とか、炭素とか、人の身体を作ってる物質は、新陳代謝してます。すべての人に共通できます。見るとか、聞くという知覚の機能も、病気でなければ、誰でも、おなじような働きです。しかし、なにかを知覚することは、差、があるから可能です。『わたし』と、『あなた』に、差、があるから、『わたし』は、『あなた』を見たり聞いたりできます。『わたし』と、『あなた』が、おなじなら 、もともと『わたし』も、『あなた』もありません。この現実は、 完全な融合も、完全な分離もない。です。

または。眼は見るだけで、耳は聞くだけで、「わたし」、と「あなた」を、 区別する機能はありません。だからといって、 『わたし』は、『あなた』とするのは、予め 『わたし』は、『あなた』という偏った前提を設定してる場合だけです。

または。宇宙は一つ。それは、とりあえず事実とします。しかし、それは、素材が、そう、だというだけです。人が世界に暮らす中で、その素材を使って、その人なりの特質が作られます。たとえば善いことをしたら、善い自分が、悪いことをしたら、悪い自分がつくられます。その特質は、人それぞれ違います。

ところで。 「 自他の違いを明確にする事 」は、なにが問題なんですか。問題があるとして、ほかの人と争いが起きることではありませんか。「自分も他人も無い」・・・という主張で、ほかの人に迷惑をかけてる、争いを起こしてる、ならば、その主張は、自我ではないのですか。です。

これから出かけます。

No.2249 - 2009/10/18(Sun) 12:15:38

Re: / (  )将臣(   )
資料を見れば分かることですが、

「宇宙と一体という側面をあまり強調しすぎることは、幼児的だ」「自我が未成熟だ」ということです。

> ケイミズモリ板>初めて聞きました。

それが本当なのか、それとも他人との争いを避けるためのウソなのかは分かりませんが、ではそこで幼児を(母親の分身だから)性的にいたずらしてもいいと言いまくった主婦が精神世界の主流としてのさばっている事もご存知無いんですね。君は「幼児は母親や保護者や周囲と一体の分身では無いのだから性的目的では利用(私物化)すべきでは無い」と考える事が出来るのですか。本当は君はそういう性癖を正当化している人間(主婦集団)と争うなと言いたいだけでは無いですか。というのもそういう主婦は、「逃げる幼児に対して、愛が分からない(犯罪を愛だと考えている)我が強いエゴイストだと言う」からです。


連中はそこに多数いた痴女や小児性愛者(実際にどこまで犯罪をやっているかは分からないが、そういう異常な犯罪に関わる性癖を、平気で公で、大勢で、この日本で正当化している)から逃げる幼児を(愛が分からない)エゴイストのドラキュラだと言っているのですが、それを「問題視する事が争いをうむ」わけで、要するに少数派が黙っとけば誰にも迷惑がかからない、というのが日本的な善悪の感覚なのです。凶悪犯罪を公で賛美しまくりながら、また幼児に対する犯罪を必死で賛美しながら、「これはそれに当て嵌まらない、当て嵌まらない」と誰も信じないような非論理的な自己弁護だっていくらでもこのままでは通用するのだ。
日本的な迷惑とは組織や集団の利益(性癖の正当化)やそれを見てみぬふりしている側の都合だけを言うのでは無いんですか?その組織や村や集団に属さない幼児に大勢で迷惑をかけている自覚が無いのです。


>ところで「波動が良ければ揉め事が起きない 」と考えたこともありません。

そのように読める部分もありました。それはhatoさんという人の意見ですね。自分が変われば世界が変わるというような言い方です。しかし犯罪者を前に何も意見しなければ(格闘しなければ)厄介事を背負う事も無いでしょう。安全圏にいる人間、何もしない人間は、他人から怨まれない。誰とも格闘しない平和な領域で奇麗事を言って誰が信じるのかと思うんですが。たとえば神話のキリストのように社会悪に本気で立ち向かい揉め事が起きた場合、君らのように「何もしないほうが助けられているのに」「何かを守ろうとするから襲われ、犯罪を見てみぬふりをしている側にも迷惑をかけるんだよね」と言って「社会悪を野放しにする」側よりは面倒事を背負っても果敢に立ち向かうほうがマシだと思いますね。

まあそういう事を言うと「親が正義の剣をふりまわしてはいけないと教えたからだ、私自身は見てみぬふりをしない」と口先で言う人もいるわけですが。


> ところで。 「 自他の違いを明確にする事 」は、なにが問題なんですか。問題があるとして、ほかの人と争いが起きることではありませんか。「自分も他人も無い」・・・という主張で、ほかの人に迷惑をかけてる、争いを起こしてる、ならば、その主張は、自我ではないのですか。です。
>


何か日本的な「迷惑」という語感の根底は、凶悪犯罪がらみの事であっても、常に善悪から離れた感覚であるように思うんですね。集団や組織の都合であれば善も悪も無くそれに逆らう事が迷惑なのです。キリストのようなやり方は日本ではただの迷惑でありつまり争いを作るだけと思われます。

「凶悪犯罪を正当化する側も迷惑という語を使う」ので日本的な迷惑感覚は分かり難いですが、「自他の区分をつけず、他人のなりすましをして荒すような人間や、ストーカーしている相手を自分自身に見立てて無理心中したがる人間のほうが、本当は(悪い意味での)エゴイストだ、小児性愛者のストーカーや、自分の分身に見立てた他人をCENSOREDぞと恐喝してくる変質者集団がもし存在するなら、それは確かにそういう犯罪者のほうが迷惑なエゴイストだと思う、だからアナタのその主張は正しい」と君はここで主張しているという事ですか。

では何故「俺に対して」(?)「何が、問題なんですか?」と聞いているのかと思うんですが。「誰の問題であるのか」やはり君はいつまでも個と集団、自他の区分を「不明瞭にしておきたい」のでは無いですか?


個が未成熟で「ワタシはこう思う」と(集団の感情的利害から離れて)主張する事を「自我である」と錯覚したがる人も多いと思いますね。西洋ではそれが出来ないと卑怯者とみなされ相手にもされません。つまり、凶悪犯罪に関する法的善悪感覚を明確にしなければ暮らせない今の近代社会では、自分の立場や思想を明確にしない事が逆に卑怯だと思われるはずですが、世間でありつづけ社会的に未成熟なまま精神的に近代人となる事に失敗した今の日本では、自分が法的善悪と信じる何か己の思想的な立場を意見で明確にするだけでも、逆に悪い意味での自我の主張であり迷惑をかける行為であると思われてしまうのです。
いつでも寝返り可能であるような状態、つまり「何処にも敵を作らないように語る事(犯罪者と争わない事)」をなぜ「何とも戦わない事をよしとする見てみぬふりの人間」が正当化できるんですか。君だって犯そうとする側に抵抗する幼児にすら「皆が笑って楽しくやっているのに自我を主張して争いを作るな」といいそうですね。

結局自他が違って何が問題なのか、と誰に聞いているのかな。とぼけたふりをしながら、殺害者や変質者と「格闘せず」、「幼児は黙ってCENSOREDばいい」というんですか。

君が思想的な立場を明確にする事がもし可能なら、単に「〜が真実であるなら〜に同意できる」でいいと思います。何に同意し何に同意できないのか、君はまだそこを明確にしたくないようです。君がたとえば小児性愛者に心の中では(性癖では)同調しているのに表面的にだけ奇麗事を言おうとすると、会話として成立しないのです。そういう意味では確かに人間は自分の思想に関してウソはつけません。夢で願った事や心地よい独自の妄想を信じない人(受け入れない)に対して迷惑者と言えるわけでは無いのです。

日本的な迷惑感覚はむしろ集団の凶悪犯罪を凶悪犯罪だと正しく言われることのように思うのですがね。または楽しい恋愛関係妄想(直感などといって無関係な他人との関係を自己正当化する)をぶつけた相手からそれを現実だと認めてもらえない事。その特殊な善悪感覚は、罪では無く恥の感覚などと言われることに近いのでは無いですか。

君は格闘できないだけでしょう。争い事も加害者に抵抗するための争いなのか、加害者そのものの攻撃なのか、そこを明確にはしたくないのだ。

No.2250 - 2009/10/18(Sun) 12:58:34

Re: / ubik0101
いろんな言い方はあるでしょうが・・・『宇宙と一体』『わたしとあなたは一体』・・・というのは、とくに未成熟な人だけに見られることではありません。ある種の禅の見性体験、また、神秘体験などと呼ばれてることでは、そんな体験をすることがあるそうです。

その場合ですが、仏教、キリスト教などの五戒、十戒(あまり詳しくありませんが)・・・たとえば、盗むな、嘘をつくな、人をCENSOREDな、姦淫するな・・・これは、背こうとしても、背けなくなります。

そのように正しい人でなければ、 『宇宙と一体』 『わたしとあなたは一体』 といくら言っても、それは言葉だけです。それで、

>「幼児は母親や保護者や周囲と一体の分身では無いのだから性的目的では利用(私物化)すべきでは無い」

あまりに当然です。それは個人で闘うものではありません。警察とか、役所が、そのためにあります。なにかで聞いた記憶ですが、事実として、性的目的で子供を私物化してる親を知ってるなら、通報しなくてはならない法律になっていると思います。それが効果的だと思います。

>>ところで「波動が良ければ揉め事が起きない 」と考えたこともありません。

>そのように読める部分もありました。それはhatoさんという人の意見ですね。

hatoさんの意見ではありません。ubik0101の意見です。

>では何故「俺に対して」(?)「何が、問題なんですか?」と聞いているのかと思うんですが。「誰の問題であるのか」やはり君はいつまでも個と集団、自他の区分を「不明瞭にしておきたい」のでは無いですか?

それは将臣さんに対して言ったのではありません。 投稿No.2247 将臣さんの、

>そういう猿真似をしたがる盗作魔に対して、「宇宙の全てはワタシ(アナタ)一人の××だ」「自他の違いを明確にする事がエゴだ。自分の領域を守るなどばかげている」と考えていた人は、哲学的にはどう反論するんですか。

に、応じて。こうubik0101は反論する、という返信です。

No.2251 - 2009/10/18(Sun) 17:37:30

Re: / (  )将臣(   )
キリスト教などの五戒、十戒(あまり詳しくありませんが)・・・
http://www3.rocketbbs.com/320/satsune.html
はあ、普通5戒とは言わないですよ。良くチェクしてますね


続きは今夜は書く時間が無いので又

No.2252 - 2009/10/19(Mon) 02:28:47
(No Subject) / hato

> 不思議不可思議。
> もうここがそのまま、そんな感じでしょう。
> ふと我に返ると、あ。そうよね・・
> て、感じではないかな、と思います。


>★うん。そうですね。時々は静かに。この不思議としっか>り溶け合いたい。私は。動きすぎなので。


そうですね。

チューニングができてる状態なので、こうしたこと。
例えばその自分が、ちょっともったいない感じであることを、読みとれるのかも知れませんね。

potanpotanさんがすでにどこかで気付いているように、人が出来事を流れ行くことだけでは、たとえばなにか問題があるとして、それを根本的に解決することができないのです。
それはね。どうしても、この世界と人の有り様、その昇華の過程からみるとその様にあります。たとえば音楽のように流れていくだけだとしたら、どうしても人は、人として詰まらないのです。

根本的に解決、て、問題がすべて無くなってしまう、ということではありませんよ。。生きるなかではいろいろ、ありますね。でも、必ずその自分は、違ってるはずなんです。それはある意味、たとえばですが、物ごとから取り憑かれるようなこと、その必要がなくなる、とも言えるでしょう。そうしたとき、たとえば音楽に対しても、まったく違った・・おそらくは「その自分」がだいぶ後退したような感覚・・とても親密で自由な・・かといってとくにどうでもない・・感じで関われるでしょう。

事象を捉える閾値に変化があるともいえる、生への関わり方が、ある・・ない・・でもない・・どうでもないようなところから起きてくること。生自体。それはただ、この世界はなんでもどうでもふしぎよねー。。なだけの感じでもないのです。わかりますでしょうか、それは理解の深度、に関係しています。

人は世界と自分の出来事的なところに関わること、即ち、これがこーしてあーなった。。それがそーしてそーなった。。というあれこれに終始できます。それで精一杯のそれで、いいのだ。と思うともなく納得してしまえる世界の罠、というよりは、それは人を成長させる世界の有り様です。この素晴らしく魅惑的な生自体に、流れ行くという慣性を覆してまで自身に向き合うなら、それはその人を強くするでしょう。
そこにはまだ、世界に依り行くだけでは済まない可能性がある、ということでもあるのです。

人生になにかあったとして、考えて悩んだり、自分を批判してみたりすると結構苦痛だったりします。起きたことから少しは自分を見つめて、よい対処ができるよう頑張ることができます。でもこれだけではなかなか難しいでしょう。 事象のあれこれ、表層に関わっていても、理解は得られません。それが深く生じるためには、どうしても、人に縦方向の働きが必要になります。即ち、「この自分、とはなにか」ということです。そこを自身で掘り起こす、ことがどうしても。必要になります。或いは、その状態を深め、意識の内容として構築される作業、たとえばある種の内観、沈黙の場でもよいかも知れません。potanpotanさんは、たぶんどこかでその必要性に気付かれているのでしょう。

なぜでしょう。

意識は学ぶ必要があるのです。それに先だって人はまず深い底、を知る、必要があります。そうでなければ残念ながら、人にはどこか、見過ごせない危うさが取り残されてるということでも、あるでしょう。

誰しもそうして学び、とくに特別でもなくこの世界、なんとも絶妙に不可思議な、事態を生きる、ということができます。


> こんな可愛いのがもう一羽いるんですよ。

> いったいきみたちはなんなんだー。
> かわいすぎるぞー。



そう、可愛いでしょ。世界は愛しいでしょう。
この子はノンノン。ていいます。

No.2194 - 2009/10/10(Sat) 02:17:24

Re: / potanpotan
>物ごとから取り憑かれるようなこと、その必要がなくなる、とも言えるでしょう。そうしたとき、たとえば音楽に対しても、まったく違った・・おそらくは「その自分」がだいぶ後退したような感覚・・とても親密で自由な・・かといってとくにどうでもない・・感じで関われるでしょう。

〇はとさんのおっしゃることと自分の感覚が同じかどうかわかりませんが・・音楽にせよ。特定の誰かにせよ・・
握り締めてきたものをどんどん手放す方向に流れています。
不思議なもので。手放すほど、自由に流れ始める感じがします。

> それが深く生じるためには、どうしても、人に縦方向の働きが必要になります。即ち、「この自分、とはなにか」ということです。そこを自身で掘り起こす、ことがどうしても。必要になります。或いは、その状態を深め、意識の内容として構築される作業、たとえばある種の内観、沈黙の場でもよいかも知れません。potanpotanさんは、たぶんどこかでその必要性に気付かれているのでしょう。

〇垂直的深さ。深くなるから高くなれる。高くなれば広くなる。というようなことを以前は考えていたときがあったのですが・・今の実感はもう少し違います。
縦や横、深さ、高さ・・というような区別はなくなってきている感じです。
ある共鳴。ある縁に対して。意識するもなく無意識でもなく。全部が響きます。
それがそのままその形で。作用を生みます。


> 意識は学ぶ必要があるのです。それに先だって人はまず深い底、を知る、必要があります。そうでなければ残念ながら、人にはどこか、見過ごせない危うさが取り残されてるということでも、あるでしょう。

学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。

> 誰しもそうして学び、とくに特別でもなくこの世界、なんとも絶妙に不可思議な、事態を生きる、ということができます。

うん。生きる。うれしいです。

No.2201 - 2009/10/12(Mon) 00:48:39

Re: / suho
わりこみすみません。

> 学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。

無意識の学び、意識的な学び、どちらもあります。
片方だけでは学びは進みません。

No.2202 - 2009/10/12(Mon) 01:28:14

Re: / hato

> 〇垂直的深さ。深くなるから高くなれる。高くなれば広くなる。というようなことを以前は考えていたときがあったのですが・・今の実感はもう少し違います。
> 縦や横、深さ、高さ・・というような区別はなくなってきている感じです。
> ある共鳴。ある縁に対して。意識するもなく無意識でもなく。全部が響きます。
> それがそのままその形で。作用を生みます。



まずここで、

高いのがいい、広いのがいい、というところに意識が上がってくる(妙な表現ですが)としたら、それは解決される必要がある自我なのです。たとえば縦横、物ごとの深浅とは、ただ人と世界の仕組み、その状態というだけです。理解の深浅、それは文字通り深浅ということです。
それ以前に、学ぶということに優劣を競う感触があるなら、それは見る必要があるでしょう。potanpotanさんを物ごとへの働きかけに動かす、或いは止める動機、その奥深いところを探る必要が、あるかも知れません。

肉体として生きているなら、仕組みとは単に度外視できるものではないのです。というより、人はそこをきちんと理解し、学んだものをここ、で生きる必要がありますよ。それは、あるものをあるものとして、見る。空想を空想として、見る。ことができる、本当の意味で、普通になる、ということです。

potanpotanさんの場合は、やはり感度がいいのでしょう。愛というところに自然に合ってしまうのでしょう。自我無我、物事の差異に目を向けられないところ、、自己究明など、まどろっこしくてやってらんな〜い、てところ。そうです、あーほんとーに、なんてめんどーなんでしょう。。。

でもそれは、無我を張りたい自我、かも知れません。
無我を張ることと、不可知。この差は微妙ですがどうしても、違います。potanpotanさんのような領域にいる人にとって、反駁は非常に根強いところかも知れませんが、もし本気なら、ここは見る必要があるところと言えそうです。

自我、自分。その働きは本来、機構の一部としてあるということです。ただ、これが本来の意味でそうなるためには、人としてある種の変化を得ており、尚、正確に理解されていることが必要です。もし、何らかの了解がありながら、大事なところがどうでもいい、になるとしたら、ある意味、ただ自我であるよりも危ういところがあるよ、ということです。

どんなに広大で細やかな宇宙が周囲にあっても、それは対世界、というところ、即ち関係性です。区別なく流れる、共鳴する・・それは愛の擬似的誤解を生きられることとも言えます。もちろん、それだけでもない故に、ここは抜けるのが難しいのです。それでいいんだ、というなら、いいのでしょう。それは、なんでもどうでもありの世界の有り様に貢献する、ということでもあるでしょう。世界の有り様に留まるということです。
そして尚、
人はそこに留まることが本来は、できないものなのです。


> 学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。
>


学ぶこと。
たとえば世界を見るだけでも、何らかを学んでいるでしょう。それは、世界の機構としての差異を使って、ああ、こんな風でもあれるのか、といったようなことかも知れません。

けれどここから先は、本気でなければ、学ぶことはできないのです。世界に流れ行くだけでは、無理なのです。
なぜここまで言うのかといえば、potanpotanさんはおそらく、成長したい、その志を持った人だからなのかも知れません。


一昨日は、江ノ島に行って来ました。
秋の風情の海にススキが穂をたれて美しく、
ubik0101さんと島の小さな食堂で、昔ながらのラーメンを食べて、帰りました。

No.2204 - 2009/10/12(Mon) 15:23:56

Re: / potanpotan
なんとなく。奥底にある自分の自我に気がつきなさい。
無我だとか愛だとか、そういう感覚にあるつもりでも
その奥深い由来には、そうありたいという自我の願いがあるのですよ。そして自我は否定するべきものでなく。要素のひとつなんですよ。

というふうなことを、ハトさんは私に伝えようとしているのでしょうか。

自我とか無我というような区切りがあるというよりは。
刻々と反応があるという感覚が強いですが。

私の日々の言動、振る舞い、思考、言葉・・意識されるものもされないもの、一挙手一投足・・の反応があります。

この反応の中で。
私が排除したり、嫌悪を感じたり、拒絶、怒り、非難・・
が沸いてくるもの。
それがそのまま私自身が嫌悪したり、拒絶したり、嫌がっている自分、認めたくない自分自身。だなと思います。
そういう中で、自分自身をみているところでは・・

自我が強いというのか(例えば、他との繋がりや関係性などが見えなくて、自分の思考や感情に、周辺を使用する傾向のある人)そういう人を嫌悪したり、拒絶したりという反応は生じてきません。
ただ、とうぜん使用されると、負荷がかかるので、疲労したり圧縮したりする反応が生じます。

嫌な人やモノは、近頃どんどんなくなってきています。

ちょっとおもしろいお話なんですが・・
今年の夏のことで・・、人に対してすごく嫌悪感のある友人がいて、この人と会うと必ず、ゴキブリと遭遇することに気がつきました。「嫌悪」の波動が私にうつっているからなのかしら・・とか・・いろんな思考やストーリーが沸いてきましたが・・自分の中の「嫌悪」しているものを「嫌悪」する波動の共鳴関係がゴキブリとなって現れているのだな。
と腑に落ちました。

今はゴキブリに対しても嫌悪はなくなってきましたが。走る姿はびっくりします。

そんな感じで私は自分をみています。

共鳴関係というのは本当に不思議で。

suhoさんと話をしていたことですが・・

心と現象世界は
映写機とスクリーンみたいだね。
スクリーンをいじろうとしたってどうしようもないんだよね
映写機を映しているだけだからね。
スクリーンを見て、映写機の中を観るんだね。

予感ではなく。思考ではなく。ファンタジーや幻想ではなく。そうなっているとき。
まさにそうなっているんですから。

事象、現象、すべてそのように世界がそのようになるんですね。

まあ。もしも。今生で、私が「悟りの境地」にいたることがあるなら。
その瞬間。私と関係している、すべての存在も同時に「悟りの境地」になるのだと思います。

私の周囲の現象はとても、そういう状況にはないので。
日々生じる共鳴関係を見つめ。生じてくるものを感じ。
振る舞いを見。誠実に生きたいなーと思います。

No.2205 - 2009/10/12(Mon) 19:45:21

Re: / potanpotan
> わりこみすみません。
>
> > 学ぶ必要もなく。すでに、すべての意識は学んでいるようになっていると感じられます。ただ。学んでいるのだと気がつくかどうかの差に思えます。
>
> 無意識の学び、意識的な学び、どちらもあります。
> 片方だけでは学びは進みません。


そう思います。

無意識に学んでいるからオッケーですとゆっているわけではないです。

ただ。無意識のレベルではみんな学んでいる。
それを意識化できるかどうかという意味なのですが。

suhoさんのおっしゃる意識的に学ぶというのは、もっと能動的に意図的に揺さぶりをかけて、無意識を意識に引き上げて認識してゆく、さらに積極的なハタラキかけの必要性をゆわれているのでしょうか。

No.2206 - 2009/10/12(Mon) 19:49:00

Re: / hato

お話をありがとう。
そうですね。それぞれが生きたいように生きること、それでいいのでは、と思います。


> 事象、現象、すべてそのように世界がそのようになるんですね。
>
> まあ。もしも。今生で、私が「悟りの境地」にいたることがあるなら。
> その瞬間。私と関係している、すべての存在も同時に「悟りの境地」になるのだと思います。



世界は人の思いを助長するところがあるようです。そこからもさまざま、学ぶことができるでしょうね。心が無垢な人に、世界は応えてくれるところがあるでしょう。

世界と自分、その関係性。局面として見ることはできたとしても、その根本は不可知です。知らない、のです。美しい故に、また、ありありと学ばれる故に、誰もが世界と自分の繋がり、この生を愛しているでしょう。そして世界はその思いを助長してくれます。信じたり、思うところに沿ってくれるところがあるでしょう。思えば叶う、ある程度そんなところもありながら、また、人は見たいものを見る場合もあるでしょう。

共鳴すること。potanpotanさんの言うように、世界のなかで、わたし達の有り様はとても、周囲に影響しますね。関係性において、人の有り様の影響は見逃せないでしょう。こうした掲示板があって、互いに話す些細なことも、そのときではなくてもそのうちのいつか、芽を吹くかも知れません。そんなことがあるでしょう。

ですが、了解という点では、もし誰か一人がそうなって、周囲がそうなるなら、極端に言えば、お釈迦さまがそうなったときに世界は終わっていたかも知れません。或いは弟子や奥さんたちも皆、そうなってたかも知れません。でも、現実にはそうではなかったでしょう。了解とは、自分として世界の範囲を超えなければならないからです。

人は誰しも、この自分。この、自分で。それを得なければならないでしょう。理解とは、理を解すると書きますね。理を解された場所を、了解されたところ、ということができます。 ここはどうしてもその自分、にて了解、されなければならないでしょう。

そして尚、世界はあるのかも知れません、または、ないのかも、知れません。どうでもないのかも、知れません。けれど成長したい人がいるとき、世界はつと顕現してくれるかも、知れません。

そんな風に思います。

江ノ島の海、もう一枚載せておきます。
とりあえず、こちらからはこの辺で。

No.2208 - 2009/10/12(Mon) 23:05:56

Re: / potanpotan
> 人は誰しも、この自分。この、自分で。それを得なければならないでしょう。理解とは、理を解すると書きますね。理を解された場所を、了解されたところ、ということができます。 ここはどうしてもその自分、にて了解、されなければならないでしょう。

〇「この自分」という自分。自分の中に自分を閉じ込めているのはなにかなと思います。

この自分でそれを得る、「それ」というのはなにを言うのかなと思います。

「こちらからはこの辺で」と書いていらっしゃいましたので。これ以上の質問は打ち切りなのかもしれませんが・・

No.2209 - 2009/10/13(Tue) 08:46:58

Re: / hato

> > ここはどうしてもその自分、にて了解、されなければならないでしょう。


> 〇「この自分」という自分。自分の中に自分を閉じ込めているのはなにかなと思います。
>
> この自分でそれを得る、「それ」というのはなにを言うのかなと思います。




閉じこめているなら、理を解されていないそれ、です。理解されていないとき、それは曖昧で不明瞭、明らめず不確かななにかです。それを、無明と言います。

その自分、でそれを得る、それとは誠に、それ自身、です。理解されたなら、自分は単に自分です。何ものでもない、だけどそれ自身であるところの、自分、です。この違いは絶対です。


それ、は安楽だろうか?
幸福だろうか?
ワクワクするだろうか?


いいえ。
それは、未知です。

それは、それ、なんです。

No.2211 - 2009/10/13(Tue) 21:57:33

Re: / (  )将臣(   )
> なんとなく。奥底にある自分の自我に気がつきなさい。
> 無我だとか愛だとか、そういう感覚にあるつもりでも
> その奥深い由来には、そうありたいという自我の願いがあるのですよ。そして自我は否定するべきものでなく。要素のひとつなんですよ。
>
> というふうなことを、ハトさんは私に伝えようとしているのでしょうか。
>
> 自我とか無我というような区切りがあるというよりは。
> 刻々と反応があるという感覚が強いですが。
>
> 私の日々の言動、振る舞い、思考、言葉・・意識されるものもされないもの、一挙手一投足・・の反応があります。
>
> この反応の中で。
> 私が排除したり、嫌悪を感じたり、拒絶、怒り、非難・・
> が沸いてくるもの。
> それがそのまま私自身が嫌悪したり、拒絶したり、嫌がっている自分、認めたくない自分自身。だなと思います。
> そういう中で、自分自身をみているところでは・・
>
> 自我が強いというのか(例えば、他との繋がりや関係性などが見えなくて、自分の思考や感情に、周辺を使用する傾向のある人)そういう人を嫌悪したり、拒絶したりという反応は生じてきません。
> ただ、とうぜん使用されると、負荷がかかるので、疲労したり圧縮したりする反応が生じます。
>
> 嫌な人やモノは、近頃どんどんなくなってきています。
>
> ちょっとおもしろいお話なんですが・・
> 今年の夏のことで・・、人に対してすごく嫌悪感のある友人がいて、この人と会うと必ず、ゴキブリと遭遇することに気がつきました。「嫌悪」の波動が私にうつっているからなのかしら・・とか・・いろんな思考やストーリーが沸いてきましたが・・自分の中の「嫌悪」しているものを「嫌悪」する波動の共鳴関係がゴキブリとなって現れているのだな。
> と腑に落ちました。
>
> 今はゴキブリに対しても嫌悪はなくなってきましたが。走る姿はびっくりします。
>
> そんな感じで私は自分をみています。
>
> 共鳴関係というのは本当に不思議で。
>
> suhoさんと話をしていたことですが・・
>
> 心と現象世界は
> 映写機とスクリーンみたいだね。
> スクリーンをいじろうとしたってどうしようもないんだよね
> 映写機を映しているだけだからね。
> スクリーンを見て、映写機の中を観るんだね。
>
> 予感ではなく。思考ではなく。ファンタジーや幻想ではなく。そうなっているとき。
> まさにそうなっているんですから。
>
> 事象、現象、すべてそのように世界がそのようになるんですね。
>
> まあ。もしも。今生で、私が「悟りの境地」にいたることがあるなら。
> その瞬間。私と関係している、すべての存在も同時に「悟りの境地」になるのだと思います。
>
> 私の周囲の現象はとても、そういう状況にはないので。
> 日々生じる共鳴関係を見つめ。生じてくるものを感じ。
> 振る舞いを見。誠実に生きたいなーと思います。

No.2246 - 2009/10/18(Sun) 10:10:52
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