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(No Subject) / brahma
元カノ
No.6428 - 2018/02/25(Sun) 23:23:19

Re: / brahma
元カノ
No.6429 - 2018/02/25(Sun) 23:24:08

Re: / brahma
元カノ
No.6441 - 2018/03/03(Sat) 18:31:35

Re: / brahma
モトカノ
No.6445 - 2018/03/12(Mon) 00:20:36
(No Subject) / brahma
新しい彼女できたっぽい
No.6421 - 2018/02/19(Mon) 18:03:49

Re: / brahma
https://soundcloud.com/taishi-ohira-745737342/munindraver オーケストラ小品を書いてみました。よかったら聞いてみてください。
No.6425 - 2018/02/23(Fri) 15:29:19
ついで話 / ubik0101
どこかの、おばあさんが言いました。将棋って、互いに盤面が見えてるのに、どうして勝負がつくの?トランプとか麻雀とかは、相手の手が見えないので勝負がつくと考えられるから・・・こんな疑問が起きたのかもしれません。ところで将棋の基本ルールは、なんでしょう。

それは歩とか飛車などの駒の動きでしょうか?それだと、ずいぶん昔には、現代の将棋とは違うルールの将棋があったそうです。チェスもあります。おそらくですが、将棋とかの基本ルールの一つは、対戦者が必要で、交互に一手を指す、ということにあるかもしれません。

であれば、将棋や碁のように盤面が見えてる、トランプや麻雀のように一部が見えないに関係なく、どうしても勝負がつかざるをえないのではないでしょうか。この、交互に指す、ということは、あまりに当たり前で、ルールブックに載ってるか知りませんが、実際に将棋とか麻雀とかをしても当然で、格別に意識されないところかもしれません。

さらに基本ルールは、盤面は見えても相手の考えは指すまでは見えないとか・・・さらには、生きてなければできない、ということもあるかもしれません。ルールブックには、たぶん、将棋をするのは生者に限るとか、こんなことは載ってはないかもしれません。これは意識されなくても、やっぱりそうです。たとえば将棋の達人も、将棋をしたことない人でも、やっぱりそうです。

No.6420 - 2018/02/19(Mon) 12:33:21

Re: ついで話 / ubik0101
すこし振り返りますと、将棋、碁のように総てが見えるように思えても、指し手の意向とかは、まあ見えないということなら、見えることと見えないことがあるということは、将棋、碁、トランプ、麻雀とかに共通してるかもしれません。この、見えない、ということは、どういうことでしょう。

ここではよく出す例ですが・・・ピアニストが、ご飯を食べたり庭に花を植えたりしてて、まったくピアノのことを忘れていても、やはりピアニストです。トラック運転手でも、数学の教授でも、棋士でも、そのような事態は同様です。ピアニスト、トラック運転手、数学の教授が、棋士が、

そのような技術を習得してないとき、習得した後。それぞれの技術をまったく考えだにしてないでいるとして、どう違うのでしょう。考えだにしないでも、習得以前は、ピアニストではなかった。考えだにしなくても習得以後は、ピアニストだと言えるのではないでしょうか。

もちろんこれも、一生が修行とも、習得以前も以後も違うとも違わないとも、どっちでもないとも言えるのです。ここでは、ごく当たり前のことは見えない、見ない、それでそうでないことを見る話を続けます。一方には、自分が自分を見えないことは諸悪の根源です。

しかしまた、総てが露で自分の言動思考が自分で見える・・・その自分が自分自身を見えないことは・・・それがまたそれを滅したところでもあります。白と黒の違いがあるとしてですけど、白と白の違いは無視できるでしょうか。

No.6422 - 2018/02/21(Wed) 07:05:48

Re: 自分の事を解らない。 / 勘太郎
 普段の生活において、自分がピアニスト(覚者)であることを意識できない。

 世界は私の意識が作り上げた創作であると言われても、信じられません。やっぱりヒヨドリは窓の外の街路樹の枝でピーピーと啼いています。

 覚醒時のかぼちゃの味とおいらが味わうかぼちゃの味に違いがありようがありません。白に、白と違う白があるはずがありません。
 
だとしたら、おいらは覚者だ!と言っても言わなくても区別はつかないと云う事になります。残念ながら、そうは思えなくて、覚者になったら、世界はバラ色になるのだろうと思っています。

No.6423 - 2018/02/21(Wed) 14:51:23

Re: ついで話 / ubik0101
バラ色というより透明ですが、それも消えます。人に進化段階があろうと、迷悟の違いがあろうとなかろうと、いつだって、その自分は、その自分の0地点にいます。その、なにもない、なんでもない、日常です。庭にジョウビタキが飛んでいます。

なにか変わるとすればですが、自分で自覚でき得ない自分なので、見える聞こえる対象、世界がどうだという亊ではない、とも言えます。それで、なんかそれらしい体験がないと自分を納得させられないのかもしれません。

いつも言いますが、この自分が、こうなりたいという、なにかゴール、結果を求めるというのではなく自分が立ってる、スタート地点を掘り下げていました。なにかの修行法とか、まったく知らなかったので、

ほかに出来ることなどなかったのですが、これ、いつまでやればいいのだろう?というか、終わりが感じられないで情けないなとは感じたこともあります。高度なことではなく、基本研究ばかりしていました。

なんであれ、始まった思考の展開を、自分でブロックしない・・・その自分の状態を成立させてる隠されたところは自然に思考が露にする。思考とは見ることです。そして嘘のない普段の生活、ふつうの日常それが探求・・・と思うのです。

ごく当たり前のことは、見えない、見ないのです。そして、それを前提として、見るのですが、それは見えないことから外れ外れて思考されます。たとえば愚かであって、愚かな自分を見ない、見えない・・・それで外を見る。

みんな外れます。これは思考の性質ではなく、その愚かさの特質です。たとえば自我であって、そんな自我な自分を見ない、見えない・・・それで外を見る。たとえば誰かの言動を見る。たとえば意地悪であって、たとえば偽善者であって、たとえば怠惰であって・・・その自分を見ない、のです。

そこで公平な思考、厳密な思考、もともと思考はそのような・・・誰とか彼とかのものでもなく、立場をつくるものではないのです・・・その思考で、自分の言動思考を度外視しないで、自分に切り込む。これだけです。意識と無意識が融合したらこれは普通の思考ですが、思考にはもともとその資質があります。

No.6424 - 2018/02/23(Fri) 07:53:10

Re: ついで話 / hato

バラ色の人生、ということでふと思いました。イエスや仏陀の人生は、バラ色だったのだろうか。

というよりは、艱難辛苦をものともせずいける、なにか、と思います。透明であることは、露になることをそのまま見る、と言う意味で、世界に関るなかで、より困難な人生であるとも言えるかも知れません。通常はそうでありたくないので、夢を見ていたいということがあると思います。

チャレンジの人生。皆、チャレンジしているのかも知れません。

世界で人を生きているのだから、自分が自分を糾すように、まったくの他人としても、それを見、意見できます。

でも、余計な拘り方が出来なくなる・・・人に関わらない、ということではないのに、
沢山の人たちや友人、隣人、世界に、親しみを持っており、意識として接着しない、できない。ということではないでしょうか。人との間に、余計な熱情がない、取り憑かれない、ではないでしょうか。このことは、楽、といえると思います。

ふと昔ubik0101さんに聞いた、医療関係に従事された神谷三恵子、という人を思い出しました。

No.6426 - 2018/02/25(Sun) 06:45:10

Re: 神谷三恵子さん、使命感に殉じた一生に思えます。 / 勘太郎
 ウイキペディアでざっと読んだ感想です。束縛された人生と観れば、これほど締め上げられた人生も少ないでしょう。hatoさんの言葉から推し量るとubik0101さんのお話は「使命に殉じて自由だった」と感じさせるものだったのでしょう。

 接心の食事は口の中の感覚と御師家様、周囲の食事儀式の進行次第に意識を集中する訓練を兼ねての修行です。接心時は解りませんでしたが、
 自宅に戻って口の中の感覚に意識を集中させるとき、食べているのはおいらではなく説明できない「何物にも接着しない」なかにおいて食べている感覚があります。

 雪解けが待ち遠しいのです。さて誰がまちどおしがっているのか?とおいらに尋ねると。この質問は明るい小雪の舞う窓の外の景色の中に消え行ってしまうような気がします。

 

No.6427 - 2018/02/25(Sun) 10:25:40

Re: ついで話 / hato

もしかすると、下記ページほうがわかりやすいかも、と思いました。

http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kamiya.html

その歓喜に、人と世界に尽くさずにいられない・・・自分の某かなど、どうにでも、という精神を感じます。

春は、まだほんの少し先ですが、ここ数日ストーブを焚いてると、蒸してきます。庭のフキノトウは収穫されました。

No.6430 - 2018/02/27(Tue) 00:50:33

Re: バラ色の人生は、一見血に染められている / 勘太郎
 バラ色の人生は歓喜の体験が有ろうとも、外見はキリストの受難の人生の様な出来事の連続なんでしょう。

 ニサルガダッタ・マハラジは言ってます。「人が望む幸福とは、永遠に続くエクスタシーの連続なのだ」。そのようなモノに人間の脳は耐えられないのだ。
 おいらが夢見るバラ色の人生はマハラジの言葉そのものであるようです。
 ただ自国の選手の勝利の場面を繰り返し続け、自分の存在をそこに置換させる、テレビ新聞のヒステリックな叫び声と同じものを、おいらは求め続けているようです。

 神谷三恵子さんの様に恵まれた方も、貧相なおいらも同種の葛藤の中で死んでゆくのは面白く感じられます。

No.6431 - 2018/02/27(Tue) 10:54:05

Re: ついで話 / hato

> おいらが夢見るバラ色の人生はマハラジの言葉そのものであるようです。


えっ、本当に!??・・・

としたら勘太郎さんは、とてもバイタリティがあるのでしょう。こちらもう聞いただけで、ひぇ〜、な気がしてしまいます。


>  ただ自国の選手の勝利の場面を繰り返し続け、自分の存在をそこに置換させる、テレビ新聞のヒステリックな叫び声と同じものを、おいらは求め続けているようです。


本当ですか!???うーん、人は、違うから面白いのでしょうね。男女の違い、個性の違い、・・・人はたいてい、自分を立てたい、出来る、凄いと思いたい・・・

今と違うなにかになりたい、というのは、成長したい人の、動機でもあると思います。


>  神谷三恵子さんの様に恵まれた方も、貧相なおいらも同種の葛藤の中で死んでゆくのは面白く感じられます。


人が持っている道具は、変わりがないんでしょうね。

言い方はなんであれ、自我が真実に降参したら。

何よりも立てたい自我、人に認めてもらいた
い、見て聞いてもらいたいその自分が消失した、或いは理解されたあとの自分は、「大事どころ」、が自ずと変わっていると思います。

そのことは、日々日常で少しずつ学び、深めていくことができること。

何気ない平凡な、汗かきベソかき、ちょっと幸福なこの日常には、自分が学び、理解できる要素の総てが、ある、でも、ない、でもなくあります。それは恩寵であり、幸せなことではないでしょうか。


さてこちら、オリンピックは、時々に胸熱く見ました。なんであれ、これと決めて努力、努力、その一瞬に総てを懸ける姿は、美しいです。人って凄いね、やれば出来るんだね!と、元気を分かち合った人も多いのではないでしょうか。


ところでコタロウ。もう、可愛いんです!

自分の好きなおもちゃは、この鏡の前に集めています。いつでも遊びたいときはここにいて、な
にか転がしてる音がすると、コタロウ君です。

No.6432 - 2018/02/28(Wed) 20:08:18
心は短時間で動くのが解りました。 / 勘太郎
 昨日、介護施設の担当者から、「勘太郎さんの夜勤の時に使った、利用者様の解熱剤が見つからない!何処にあるか知りませんか? 利用者様が興奮しているので困ってるの」って電話が17時半頃ありました。おら慌てて、カバンや服を捜したけれどありません。担当者は「ないなら仕方がないですね、水枕してるんだけどどうしようかなあ・・」と電話を切りました。

 おら薬を利用者様の部屋まで持っていた記憶ははっきりしているけれども、薬箱に戻したという記憶が明確でないのです。
 それから、夕飯も食わずどうしたモノか?と思案と不安の中にいました。「この不安である」おいらの思考を観察し続けました。どうしよう?容態があっかしないといいなあ・担当者は不安だろうな・なんとかできないかなあ?・・・おらなんとお詫びしたらいいかなあ・・

 不安ながらも・・・おらどうせバイトの身分だしこの様な例も無いわけではないだろう。なんとかしてくれるだろう。なんとかなるだろう。だけど明日どんな顔で仕事に行くかなあ?・・・

 1時間もすると、当初の不安から波長の振幅が減少しているのが自覚できました。まるで信号電波のかく乱が終息するオシロスコープの波形を見ているかのようです。 不安ながらも、電話機を傍において風呂に入る余裕もできました。

 ふろから上がってしばらくして19時半頃(最初の電話から2時間後)別の人が「捜したらいつも所に薬ありましたから」って電話がありました。

 その後のおいらの思考は喜ばしくなって、歓喜でした。不安ってこう云う動きをするんだなあ・・。今朝のテレビで郵便局で1億円故意の料金不正で50台の社員が逮捕連行される場面を見ました。彼及び彼の家族の不安もおいらの不安と同じく、外乱に拠る波乱の終息がおきるのだろうなあと思いました、(振幅と長さの度合いは大分ちがいますけれども・・)
 そんな出来事で夕べは楽しい一夜を過ごしました。

No.6418 - 2018/02/16(Fri) 15:13:28

Re: 心は短時間で動くのが解りました。 / ubik0101&hato
ubik0101さんと話していて、もし自分だったら・・・2人とも気が短いので、すぐに会社に駆けつけて、調べてしまうと話していました。実際、エアコンを消し忘れた??、とか、発注した件を誤ったかも・・・なんてことで、ほとんど泣きたい気分で、夜中に駆けつけたことが何度もありました。結局、エアコンは消えているし、仕事も大事ないことを見届けました。勘太郎さんが、無事でよかったです。

hato

なんか昔々、聞いたことがあるような気がするのですが、こんな歌を思い出しました。おいら岬。



きっと勘太郎さんは、いいひとなのでしょう。それはそれで、ありなんでしょうけど、ときにはこちらの投稿に遠慮なく突っ込んでみるといいかもしれません。

ubik0101

No.6419 - 2018/02/16(Fri) 21:08:54
(No Subject) / brahma
巨根とイケメンどちらがもてるか。
No.6413 - 2018/02/08(Thu) 14:28:51

Re: / ubik0101
しかし私には属性がないのです。私は、真摯。私は、勤勉。私は、怠惰。私は、優しい。私は人。私は1人。私は男・・・それら属性と私は、関係も、無関係もなく・・・ひとつも、分離も、今もなく・・・素の私です。なにもない、この生まれて初めて見る世界の風光にいます。
No.6414 - 2018/02/08(Thu) 18:17:52

Re: / brahma
1知識 物質
2自由 感情
3幸福 思考
4責任 直観
5楽しみ 意志
6愛 宇宙意識
7空 絶対無

知識の背後には幸福が、自由の背後には責任が、幸福の背後には楽しみが、責任の背後には愛が、楽しみの背後には、無がある。二つ上の意識がある意識の根底となる。

No.6415 - 2018/02/08(Thu) 20:50:16

Re: 梵我一如と感じられない、おいら / 勘太郎
 「生まれて初めて見る世界の風光の中に居る」

目の前のゴムの木を眺めている今の様子は、それ以外の姿では有り得ず初めて見る景色です。記憶の中には昨日のゴムの木もありますが、それは遠くの微かな痕跡です。

 ゴムの木とおいらの手や肩は一つの世界を構成していて、分かれているとも分かれていないともどちらとも表現・解釈できます。
 しかしながら、眺めている自分はゴムの木と離れているのか?

おいらの胸の中に在る、点なのか、穴なのか、空間、身体に充満するものなのか、特定できない私が体の中に在ります。(何を書いているのか焦点不明になってしまいました)


 今、疑問に思っている事「仏教は因果を重視する思想である」とは、どういうことなのだろう?

 属性の無い私とは関係なく(関係するでもしないにも関係しない)世界は自動的に因果で動いている。つまり、自分は世界と関係することができないということなんだろうな。
これをラマナマハリシは、「列車に乗っているのだから、その中でモノを運ぶ必要はない」といったのでしょう。


 介護の仕事の同僚である女性から素晴らしい言葉を聞きました。
「私は旦那に生命保険を掛けたことないの、だって命とお金を交換するって嫌な感じがする」
「旦那に「「私が死んだらあなた困るから生命保険かけたら」」と言ったら笑っていて、そのまま私にも保険掛かっていないの」

No.6416 - 2018/02/10(Sat) 19:13:02

Re: / ubik0101&hato
>「生まれて初めて見る世界の風光の中に居る」

>目の前のゴムの木を眺めている今の様子は、それ以外の姿では有り得ず初めて見る景色です。記憶の中には昨日のゴムの木もありますが、それは遠くの微かな痕跡です。

> ゴムの木とおいらの手や肩は一つの世界を構成していて、分かれているとも分かれていないともどちらとも表現・解釈できます。
> しかしながら、眺めている自分はゴムの木と離れているのか?


たぶん、いつか勘太郎さんが誰かから貰ったか、買ったかした、ゴムの木なのでしょう。水をやったり、日当りのいい所に置いたり配慮したのでしょう。そのゴムの木と、世界と自分、因果が壊滅してるのです。記憶の問題ではないです。この、いま、因果関係にないのです。それは、説明ですけど、

まったき因果にある、これ、が、これ。ほかのことではない、ということです。であれば、ああでもないこうでもない、ああでもあるこうでもある因果は壊滅しています。ここが、1人あること、世界が空気中に舞う塵のように軽いところです。

また。なんでもいいですが・・・私には妻子がある。私には友達がいない・・・その、妻子とか、友達とか、ほかのどんなこととも切り離された、ということもない・・・関係も無関係もない私、それは、なにものでもない、私。単極の私。これ。

そこで、知覚とは差の認識、です。この自分はこの自分を認識できない、そのゴムの木はそのゴムの木を、その猫はその猫を認識できない。なのに、どれもがそれなりに、それぞれの周囲、世界は認識できる。不思議というか、神秘というか、踊りというか、遊びというか、です。

>おいらの胸の中に在る、点なのか、穴なのか、空間、身体に充満するものなのか、特定できない私が体の中に在ります。(何を書いているのか焦点不明になってしまいました)

それはそれを認識できない、はずです。認識できるというのは、ほかのこととの関係にあってでしょう。たとえば常識とか、社会とか、習慣とか、ほかの人とかとの関係を前提にして背景にして・・・時間、空間という距離があって・・・私を感じるのでは?

それは自分を知らないから、知りたいという欲求かもしれません。この私を私が知らなければ、私は私を認識できないということが分からない・・・これは滅茶苦茶なんですけど、とても整合性があると思います。

また、世界を見てる視点、聞いてる中心が、ここ身体にあるということでしょうか。見える聞こえるという、そのことを再認識して、認識する中心を空想していませんか。事実より、事実の認識は遅れるようです。

> 今、疑問に思っている事「仏教は因果を重視する思想である」とは、どういうことなのだろう?

それは・・・私の因果にないことは度外視、という意味で何か私と因果のある、もの、こと、人とかを大切にするということでしたら変です。仏陀は、因果の成立(順観)と壊滅(逆観)を説いていると思います。

> 属性の無い私とは関係なく(関係するでもしないにも関係しない)世界は自動的に因果で動いている。つまり、自分は世界と関係することができないということなんだろうな。

>これをラマナマハリシは、「列車に乗っているのだから、その中でモノを運ぶ必要はない」といったのでしょう。

その列車の目的地の話をしてるのでしょうか?私は、というか人は、列車の運転手でもあり世界を運転してるのです。車掌でもあり、乗客でもあり、見物人でもあり、そいうことと関係なく、寝転んでる人・・・どこに行くのでしょう。

> 介護の仕事の同僚である女性から素晴らしい言葉を聞きました。
>「私は旦那に生命保険を掛けたことないの、だって命とお金を交換するって嫌な感じがする」
>「旦那に「「私が死んだらあなた困るから生命保険かけたら」」と言ったら笑っていて、そのまま私にも保険掛かっていないの」


ただ貧乏だというだけですが、また脳天気だというだけですが、こちらも保険かかってないです・・・誰かが死んだら生き返られることができるなら、生命保険て呼べるのでしょう。

ubik0101

若くても、年をとっていても、いつ死ぬとも限りません。この身体がどのように終わるか、それはわからない。身体があるときにしか、できないことがある。それはたぶん、いわゆる生活としての、身体的精神的経験でない大事なこと、が確実に、ある。

にも関らず、やっぱり若者は、まったくありもしない特権を得ているかのように、言うこと成すことが遊長なものです。わかものはばかもの、そういうものかも知れません。或は年をとっていても、やっぱり遊長で、世界をできるだけ旅行とか、見聞とか、できるだけ楽しんで残りを過ごそう、とか、そんなこともあるかも知れません。

でもこの時間は無限でないし、人に、見せたり聞かせたりするためのなにかより、大事なこと。が、確かにあるのでしょう。

hato

No.6417 - 2018/02/11(Sun) 07:19:28
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