>人はただ自我、でもなく、ただ無我、でもない、世界に無関係に関係する不可知な、、なにか、ということが大事かな、と思いますね。たとえば愛は、人の自我無我に無関係に関係する、といえるでしょう。
自我にも徹することができず、無我にも成り切れず。 中途半端〜という状態ですか? というか〜なにものも世界に無関係。というものは、ない。 んじゃないかなぁ〜。単独のものは、ひとつもないわけで。 あるいみ、関係しか、そこにはないし、世界は関係のみ。 その関係・・・つなぐもの、が愛なのでは? と読み取りました。
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No.2172 - 2009/10/03(Sat) 09:18:58
| ☆ Re: 空間があるのみ / hato | | | >人はただ自我、でもなく、ただ無我、でもない、世界に無関係に関係する不可知な、、なにか、ということが大事かな、と思いますね。たとえば愛は、人の自我無我に無関係に関係する、といえるでしょう。
> 自我にも徹することができず、無我にも成り切れず。 > 中途半端〜という状態ですか? > というか〜なにものも世界に無関係。というものは、ない。 > んじゃないかなぁ〜。単独のものは、ひとつもないわけで。
ここで、無関係。というのはやはりどうしても、言葉にするならそのようです。無関係にあるからこそ、正常に関係できるそれはなにか、、ということしか、できません。それは思考を超えている、としか言えないでしょう。けれども。なんとか言葉にするならそのようです。人はまずそこにいることが肝要、と言えるのではないでしょうか。
あるとして、自我無我にも成り切れないような曖昧で柔、ではない、ところ。であることは、これまでの経緯を振り返れば、peerさんはよくご存じではないでしょうか。
> あるいみ、関係しか、そこにはないし、世界は関係のみ。 > その関係・・・つなぐもの、が愛なのでは? > と読み取りました。
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No.2174 - 2009/10/03(Sat) 15:23:23 |
| ☆ Re: 空間があるのみ / peer | | | hatoさんの「無関係」という言葉のニュアンスに、なにか不自然なものを感じましたので、こんな投稿をしてみたのです。 suhoさんが別のところに書いていますね。↓
>起きてくる事は全て自分自身ですよね。 >人と世界は自身の素直な顕れとして起きています。 >自分を理解し、自分に学ぶ、ということは、起きている他者と世界が、 >実は自分そのものであることを、身をもって実感する、 >ということではないでしょうか。
というところ。 ここから導き出されるものは「無関係」ということは、何もない。 ということでして。私は、それに同意してます。 まさしく、その通り〜と膝をポンと打つ。という感じ。 その後、hatoさんは、このように言います。
>全部が自分、というのは言葉通りで言うなら、少々おおざっぱな感じです。 >起きてること総て、世界の事象やなにやかやが、自分が感知できるのだから >自分にあるものだ、として・・・
>そうではなく、この世界で、自分、というところを使って 了解 できる。 >世界は触媒としてある、との意味で、総てが自己を学ぶこととしてある、、、
となってます。が。 この「自分」は、なんなのでしょう。 どの自分を学ぶのでしょう。 自我の自分ですか?無我の自分ですか? そこがどうも、よくわからない。
うーーん。わからないなぁ。 どの自分を使って了解するのですか?。。そして。 「この世界で、自分、というところを使って 了解 できる。世界は触媒」 ↑これは、まさしく「全部が自分として」であるから、了解できる のではないか、と思うのですが〜。 他のように見えても、それは「自分」でしょ。。ということで。
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No.2177 - 2009/10/04(Sun) 00:20:38 |
| ☆ Re: 空間があるのみ / hato | | | > >起きてくる事は全て自分自身ですよね。 > >人と世界は自身の素直な顕れとして起きています。 > >自分を理解し、自分に学ぶ、ということは、起きている他者と世界が、 > >実は自分そのものであることを、身をもって実感する、 > >ということではないでしょうか。
> となってます。が。 > この「自分」は、なんなのでしょう。 > どの自分を学ぶのでしょう。 > 自我の自分ですか?無我の自分ですか? > そこがどうも、よくわからない。
ありがとうございます。そうですね、 ここはとても微妙なところではないかと思います。一度にお話できるかわかりませんけれども、
不自然、というのはある意味その通りなのでしょう。それが不思議、ということでもあります。
無関係に関係する、これはとても絶妙な言葉です。自己、或いは実在、以降して(と表現します)未知、というところは、世界に無関係、ということができるのです。そうでなければ、世界は正常に機能しません。言葉も同様にあります。
こうした表現が不自然な感じ、或いは少し無機質な感じがするのはやむを得ないところかも知れません。人が自然の成り行き、と見なしている範疇を超過しているからです。
自己はこれ、あれ、とただ示せないところといえるでしょう。世界にしてそうである、触媒。それが不思議の所以です。 世界の仕組みとしての有り様に近い(妙な表現です)との意味でそれをここでは、自己、と言っています。自分、という言葉で表現されるものは、世界のなかでそれを学ぶツールとしてあります。自分としてあることを使いつつ、人はその不可知である自己、或いはなにか、、を学ぶことができる、ということです。ここはとても大事なところです。不可知とはたとえば、逃避できる場所にはなり得ないのです。その不可知である自己、から諸処物事への対応が起きてくることが望ましい、それが人に起きていることを変容、ということもできます。
全部が自分、ということは、上記の意味においては不可能な表現です。そこには無理があり、押し込められたなにかがあり、それを生きようとするなら実際の生において無理が生じるでしょう。
ここでは、本来の自己として、自他の境界がない、、これ、は今まで思いこんでいた自我ではなかった、、との愛としての理解、自他に深い共感を得るということで充分かと思います。自己から見て総てが自分としても、世界のなかで折々にこの自分、として生きることを度外視されることではないのです。
そして成長が進むに従って、言葉は厳密にならざるを得ないでしょう。
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No.2178 - 2009/10/04(Sun) 11:33:24 |
| ☆ Re: 空間があるのみ / peer | | | 何度も読み返してみたけれど、やっぱり分からないんです。
やっぱり世界は自分で、自分が世界で。 すべてが、自分。ということになってしまって〜 「自分の認識がすべてである」 という意味だったような気がします。 意識的も無意識的にも、認識されないトコロについては 理解されていない闇が、まだまだある〜ということで。 で、理解されていないことが、無明だとしたら、 未知も不思議だと思うことも、無明と同じことかな。と。 未知だ不思議だと言うならば、なんにも分かっていないんでしょ。。。 となって・・そして、 これは絶対とか、真理だ、とかも、言えなくて。 それなのに、なぜか「こうなんです」と書かれると、やっぱり不自然な気がします。
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No.2212 - 2009/10/14(Wed) 00:40:03 |
| ☆ Re: 空間があるのみ / hato | | | > やっぱり世界は自分で、自分が世界で。 > すべてが、自分。ということになってしまって〜 > 「自分の認識がすべてである」 > という意味だったような気がします。
peerさん、こんばんは。
それは、自分の認識として世界を見てる、のだから、他人に見えるもの、社会に見ることは自分のなかでそれを昇華しましょう、人に天使や悪魔をみる必要もないよ、とのことかも知れません。たとえば犬や猫や冷蔵庫が、それは自分が認識してるから自分、この世界は自分が認識、想像してるから創造主は自分だ、、という、いきなり極端なことでもないのでしょう。
世界に対しての責任の取り方として、こうした見方はよくわかります。そのような理解があるから、周囲に対して優しくなれる、自分である他人の有り様に愛を感じ、いたわりがあり、また、出来事で生じた痛みや苦しみを自分で昇華しようとするとき、自分を鍛えることにもなるのでしょう。
ここではただ、その見方自体がどうこうというよりは、それで終わりというわけではなさそう、としか言えないでしょう。それぞれの人生かと思います。人はどこまで理解したいのか、ということでもあるのかも知れません。
自分の認識がすべて、の、自分。その自分とはなんでしょう。まずはやはりこちらが先かも、知れません。そこが収まってくると、未知、不思議。それと、無明。それが同じ状態でないことがわかるでしょう。よく見るなら、まだ世界のなにかにのみ、ことさら依って、自分を理解しようとしていることがわかるかも知れません。
> 意識的も無意識的にも、認識されないトコロについては > 理解されていない闇が、まだまだある〜ということで。 > で、理解されていないことが、無明だとしたら、 > 未知も不思議だと思うことも、無明と同じことかな。と。 > 未知だ不思議だと言うならば、なんにも分かっていないんでしょ。。。 > となって・・そして、 > これは絶対とか、真理だ、とかも、言えなくて。 > それなのに、なぜか「こうなんです」と書かれると、やっぱり不自然な気がします。
その理解はどうしても、通常の意味での常識、流れ、に沿ってるわけではないよ、としか、ここでは言うことができません。それが不可思議です。人の思考回路の流れに沿ってるわけではないのです。なので、思考を超えてるよ、と言います。不可知。そこに定着(妙な表現です)する必要があると言います。人がそこにいるとき、意識、無意識はとくに問題にならないでしょう。了解されている場所、から理解、表現は自然に訪れる、との感じでしょう。成長とはどうしても、飛躍であるでしょう。
ダーリンにおねだりして、秋の味覚、栗の渋皮煮を作ってもらいました。ダーリン初挑戦です。ご披露してよ、のことで夜中ですが1ショット。とても上品に出来上がっていて、さきほど、感激しながら味わいました。
ダーリン曰く、 究極の和菓子です。。。
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No.2213 - 2009/10/15(Thu) 00:10:13 |
| ☆ Re: 空間があるのみ / peer | | | >その理解はどうしても、通常の意味での常識、流れ、に沿ってるわけではないよ、としか、ここでは言うことができません。それが不可思議です。人の思考回路の流れに沿ってるわけではないのです。なので、思考を超えてるよ、と言います。
うん。それは分かります。 そして、私が言っているのは。 知識と自分の認識とを、一緒にしない。。。なのですね。 とりあえずは、自分の認識がベースかな〜ということね。 それがhatoさんの表現では >不可知。そこに定着(妙な表現です)する必要があると言います。
となっているのかな〜と。 で、そういうことの理解なら、私にも了解できることかな。
>人がそこにいるとき、意識、無意識はとくに問題にならないでしょう。
それも、私の表現では「空間があるのみ」ということになる。
ほーー栗の渋皮煮ですか。写真では、とても上品〜な感じがします。 味も上品でしたか。〜と言うか。テーブルクロスが上品。
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No.2214 - 2009/10/15(Thu) 01:07:28 |
| ☆ Re: 空間があるのみ / hato | | | > となっているのかな〜と。 > で、そういうことの理解なら、私にも了解できることかな。 > >人がそこにいるとき、意識、無意識はとくに問題にならないでしょう。 > それも、私の表現では「空間があるのみ」ということになる。
そうですね、人は世界で、さまざま見聞しながら、影響し合いながら、その自分がよしとしたところを生きること、それもよいのでは、と思いますね。
とりあえずはその、ベースにしている自分の認識。というところの、自分。知覚を自分、としてる、正にそこに分け入ることもありかも。なんて思ってみたりします。 今の時点で、同じことについて互いに別の言葉で表現している、との感じではないらしいとしか言えませんが、
人はその自分にて、了解し、理解する、とあえて言います。 そしてpeerさんにいただいた表現を充分汲んだ上で、
けれどもここは厳密に、 自分の認識をベースにすること、では不可能です。
こうしたところについては、何年でも何十年でも。問いを自らのなかで熟成させて、解決する人がいる、としか言えないでしょう。
> 味も上品でしたか。〜と言うか。テーブルクロスが上品。
テーブルクロス、嬉しいですね。 これカーテン生地なんですが、ubik0101さんがとてもお気に入りなので、本日PCデスクに敷いてみたところでした。
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No.2215 - 2009/10/15(Thu) 23:48:26 |
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