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空間があるのみ / peer
>人はただ自我、でもなく、ただ無我、でもない、世界に無関係に関係する不可知な、、なにか、ということが大事かな、と思いますね。たとえば愛は、人の自我無我に無関係に関係する、といえるでしょう。

自我にも徹することができず、無我にも成り切れず。
中途半端〜という状態ですか?
というか〜なにものも世界に無関係。というものは、ない。
んじゃないかなぁ〜。単独のものは、ひとつもないわけで。
あるいみ、関係しか、そこにはないし、世界は関係のみ。
その関係・・・つなぐもの、が愛なのでは?
と読み取りました。

No.2172 - 2009/10/03(Sat) 09:18:58

Re: 空間があるのみ / hato

>人はただ自我、でもなく、ただ無我、でもない、世界に無関係に関係する不可知な、、なにか、ということが大事かな、と思いますね。たとえば愛は、人の自我無我に無関係に関係する、といえるでしょう。

> 自我にも徹することができず、無我にも成り切れず。
> 中途半端〜という状態ですか?
> というか〜なにものも世界に無関係。というものは、ない。
> んじゃないかなぁ〜。単独のものは、ひとつもないわけで。


ここで、無関係。というのはやはりどうしても、言葉にするならそのようです。無関係にあるからこそ、正常に関係できるそれはなにか、、ということしか、できません。それは思考を超えている、としか言えないでしょう。けれども。なんとか言葉にするならそのようです。人はまずそこにいることが肝要、と言えるのではないでしょうか。

あるとして、自我無我にも成り切れないような曖昧で柔、ではない、ところ。であることは、これまでの経緯を振り返れば、peerさんはよくご存じではないでしょうか。

> あるいみ、関係しか、そこにはないし、世界は関係のみ。
> その関係・・・つなぐもの、が愛なのでは?
> と読み取りました。

No.2174 - 2009/10/03(Sat) 15:23:23

Re: 空間があるのみ / peer
hatoさんの「無関係」という言葉のニュアンスに、なにか不自然なものを感じましたので、こんな投稿をしてみたのです。
suhoさんが別のところに書いていますね。↓

>起きてくる事は全て自分自身ですよね。
>人と世界は自身の素直な顕れとして起きています。
>自分を理解し、自分に学ぶ、ということは、起きている他者と世界が、
>実は自分そのものであることを、身をもって実感する、
>ということではないでしょうか。


というところ。
ここから導き出されるものは「無関係」ということは、何もない。
ということでして。私は、それに同意してます。
まさしく、その通り〜と膝をポンと打つ。という感じ。

その後、hatoさんは、このように言います。

>全部が自分、というのは言葉通りで言うなら、少々おおざっぱな感じです。
>起きてること総て、世界の事象やなにやかやが、自分が感知できるのだから
>自分にあるものだ、として・・・


>そうではなく、この世界で、自分、というところを使って 了解 できる。
>世界は触媒としてある、との意味で、総てが自己を学ぶこととしてある、、、


となってます。が。
この「自分」は、なんなのでしょう。
どの自分を学ぶのでしょう。
自我の自分ですか?無我の自分ですか?
そこがどうも、よくわからない。

うーーん。わからないなぁ。
どの自分を使って了解するのですか?。。そして。
「この世界で、自分、というところを使って 了解 できる。世界は触媒」
↑これは、まさしく「全部が自分として」であるから、了解できる
のではないか、と思うのですが〜。
他のように見えても、それは「自分」でしょ。。ということで。

No.2177 - 2009/10/04(Sun) 00:20:38

Re: 空間があるのみ / hato

> >起きてくる事は全て自分自身ですよね。
> >人と世界は自身の素直な顕れとして起きています。
> >自分を理解し、自分に学ぶ、ということは、起きている他者と世界が、
> >実は自分そのものであることを、身をもって実感する、
> >ということではないでしょうか。


> となってます。が。
> この「自分」は、なんなのでしょう。
> どの自分を学ぶのでしょう。
> 自我の自分ですか?無我の自分ですか?
> そこがどうも、よくわからない。



ありがとうございます。そうですね、
ここはとても微妙なところではないかと思います。一度にお話できるかわかりませんけれども、

不自然、というのはある意味その通りなのでしょう。それが不思議、ということでもあります。

無関係に関係する、これはとても絶妙な言葉です。自己、或いは実在、以降して(と表現します)未知、というところは、世界に無関係、ということができるのです。そうでなければ、世界は正常に機能しません。言葉も同様にあります。

こうした表現が不自然な感じ、或いは少し無機質な感じがするのはやむを得ないところかも知れません。人が自然の成り行き、と見なしている範疇を超過しているからです。

自己はこれ、あれ、とただ示せないところといえるでしょう。世界にしてそうである、触媒。それが不思議の所以です。
世界の仕組みとしての有り様に近い(妙な表現です)との意味でそれをここでは、自己、と言っています。自分、という言葉で表現されるものは、世界のなかでそれを学ぶツールとしてあります。自分としてあることを使いつつ、人はその不可知である自己、或いはなにか、、を学ぶことができる、ということです。ここはとても大事なところです。不可知とはたとえば、逃避できる場所にはなり得ないのです。その不可知である自己、から諸処物事への対応が起きてくることが望ましい、それが人に起きていることを変容、ということもできます。

全部が自分、ということは、上記の意味においては不可能な表現です。そこには無理があり、押し込められたなにかがあり、それを生きようとするなら実際の生において無理が生じるでしょう。

ここでは、本来の自己として、自他の境界がない、、これ、は今まで思いこんでいた自我ではなかった、、との愛としての理解、自他に深い共感を得るということで充分かと思います。自己から見て総てが自分としても、世界のなかで折々にこの自分、として生きることを度外視されることではないのです。

そして成長が進むに従って、言葉は厳密にならざるを得ないでしょう。

No.2178 - 2009/10/04(Sun) 11:33:24

Re: 空間があるのみ / peer
何度も読み返してみたけれど、やっぱり分からないんです。

やっぱり世界は自分で、自分が世界で。
すべてが、自分。ということになってしまって〜
「自分の認識がすべてである」
という意味だったような気がします。
意識的も無意識的にも、認識されないトコロについては
理解されていない闇が、まだまだある〜ということで。
で、理解されていないことが、無明だとしたら、
未知も不思議だと思うことも、無明と同じことかな。と。
未知だ不思議だと言うならば、なんにも分かっていないんでしょ。。。
となって・・そして、
これは絶対とか、真理だ、とかも、言えなくて。
それなのに、なぜか「こうなんです」と書かれると、やっぱり不自然な気がします。

No.2212 - 2009/10/14(Wed) 00:40:03

Re: 空間があるのみ / hato

> やっぱり世界は自分で、自分が世界で。
> すべてが、自分。ということになってしまって〜
> 「自分の認識がすべてである」
> という意味だったような気がします。



peerさん、こんばんは。

それは、自分の認識として世界を見てる、のだから、他人に見えるもの、社会に見ることは自分のなかでそれを昇華しましょう、人に天使や悪魔をみる必要もないよ、とのことかも知れません。たとえば犬や猫や冷蔵庫が、それは自分が認識してるから自分、この世界は自分が認識、想像してるから創造主は自分だ、、という、いきなり極端なことでもないのでしょう。

世界に対しての責任の取り方として、こうした見方はよくわかります。そのような理解があるから、周囲に対して優しくなれる、自分である他人の有り様に愛を感じ、いたわりがあり、また、出来事で生じた痛みや苦しみを自分で昇華しようとするとき、自分を鍛えることにもなるのでしょう。

ここではただ、その見方自体がどうこうというよりは、それで終わりというわけではなさそう、としか言えないでしょう。それぞれの人生かと思います。人はどこまで理解したいのか、ということでもあるのかも知れません。

自分の認識がすべて、の、自分。その自分とはなんでしょう。まずはやはりこちらが先かも、知れません。そこが収まってくると、未知、不思議。それと、無明。それが同じ状態でないことがわかるでしょう。よく見るなら、まだ世界のなにかにのみ、ことさら依って、自分を理解しようとしていることがわかるかも知れません。


> 意識的も無意識的にも、認識されないトコロについては
> 理解されていない闇が、まだまだある〜ということで。
> で、理解されていないことが、無明だとしたら、
> 未知も不思議だと思うことも、無明と同じことかな。と。
> 未知だ不思議だと言うならば、なんにも分かっていないんでしょ。。。
> となって・・そして、
> これは絶対とか、真理だ、とかも、言えなくて。
> それなのに、なぜか「こうなんです」と書かれると、やっぱり不自然な気がします。



その理解はどうしても、通常の意味での常識、流れ、に沿ってるわけではないよ、としか、ここでは言うことができません。それが不可思議です。人の思考回路の流れに沿ってるわけではないのです。なので、思考を超えてるよ、と言います。不可知。そこに定着(妙な表現です)する必要があると言います。人がそこにいるとき、意識、無意識はとくに問題にならないでしょう。了解されている場所、から理解、表現は自然に訪れる、との感じでしょう。成長とはどうしても、飛躍であるでしょう。


ダーリンにおねだりして、秋の味覚、栗の渋皮煮を作ってもらいました。ダーリン初挑戦です。ご披露してよ、のことで夜中ですが1ショット。とても上品に出来上がっていて、さきほど、感激しながら味わいました。

ダーリン曰く、
究極の和菓子です。。。

No.2213 - 2009/10/15(Thu) 00:10:13

Re: 空間があるのみ / peer
>その理解はどうしても、通常の意味での常識、流れ、に沿ってるわけではないよ、としか、ここでは言うことができません。それが不可思議です。人の思考回路の流れに沿ってるわけではないのです。なので、思考を超えてるよ、と言います。

うん。それは分かります。
そして、私が言っているのは。
知識と自分の認識とを、一緒にしない。。。なのですね。
とりあえずは、自分の認識がベースかな〜ということね。
それがhatoさんの表現では
>不可知。そこに定着(妙な表現です)する必要があると言います。

となっているのかな〜と。
で、そういうことの理解なら、私にも了解できることかな。

>人がそこにいるとき、意識、無意識はとくに問題にならないでしょう。

それも、私の表現では「空間があるのみ」ということになる。


ほーー栗の渋皮煮ですか。写真では、とても上品〜な感じがします。
味も上品でしたか。〜と言うか。テーブルクロスが上品。

No.2214 - 2009/10/15(Thu) 01:07:28

Re: 空間があるのみ / hato

> となっているのかな〜と。
> で、そういうことの理解なら、私にも了解できることかな。
> >人がそこにいるとき、意識、無意識はとくに問題にならないでしょう。
> それも、私の表現では「空間があるのみ」ということになる。


そうですね、人は世界で、さまざま見聞しながら、影響し合いながら、その自分がよしとしたところを生きること、それもよいのでは、と思いますね。

とりあえずはその、ベースにしている自分の認識。というところの、自分。知覚を自分、としてる、正にそこに分け入ることもありかも。なんて思ってみたりします。
今の時点で、同じことについて互いに別の言葉で表現している、との感じではないらしいとしか言えませんが、

人はその自分にて、了解し、理解する、とあえて言います。
そしてpeerさんにいただいた表現を充分汲んだ上で、

けれどもここは厳密に、
自分の認識をベースにすること、では不可能です。

こうしたところについては、何年でも何十年でも。問いを自らのなかで熟成させて、解決する人がいる、としか言えないでしょう。


> 味も上品でしたか。〜と言うか。テーブルクロスが上品。

テーブルクロス、嬉しいですね。
これカーテン生地なんですが、ubik0101さんがとてもお気に入りなので、本日PCデスクに敷いてみたところでした。

No.2215 - 2009/10/15(Thu) 23:48:26
(No Subject) / ubik0101
>◆自分があるかどうか。自分がないかどうか。あんまりそこにこだわった経験はないのですが。
>ここに生じるものが「ある」もので。生じてるなら全部自分ということじゃないのでしょうか。


なにを行動しても発言しても思考しても、知覚にとっては、そうしてる主体は、ない、です。(ほかの言い方では、ある、のは、五感と、その対象と。意識と、その対象です)。その一方では、知覚にとっては、起こる現象だけが、ある、です。つまり、知覚にとっては、行動、発言、思考が、ある、です。おそらく、それが機能することで自分が設定されるのでもあるので・・・全部自分、と感じられるのかもしれません。

でも、知覚されるということ、そのことは、差、があるということではないでしょうか。たとえば鳥を見ます。音楽を聴きます。ほかの人と話します。なにか差を、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る。として認識されるのではないでしょうか。それも含めて、総てが自分、世界が自分、という感覚もありますが、それなら、自分は、世界とは、まったく違う、という感覚もあります。

ところで。知覚されないからといって、それが、ない、のではありません。たとえば知覚されない自己が、ない、のではありません・・・まったくの、差、がないなら、それ自身は、それ自身を自覚できない・・・それは、まったく、ある、から知覚されない、とも言えます。また。世界が知覚されるといって、世界も知覚も、まったく、ある、のでもありません。それ自身が、それ自身に原因を持つわけではなく・・・どういうわけかは知りませんが・・・なんであれ変化は、現象です。

そして、人は、ある、ない、が機能不全なら・・・それを理解するために・・・知覚に依存する、拠り所にさせられる必要があります。それが停滞です。ある、も、ない、も過不足なく機能してるから、知覚に依存する、拠り所にする、必要がないんです。それが停滞しない、ということです。 それで・・・

>◆自我の機能と定義する。それがなんなのでしょう。
>探しているからなんなのでしょう。
>ないからなんなのでしょう。


>それでも命の生きる営みは無関係に続いて。
>今を生きていて。意識は変化し続ける。


>命の本分。命だけでなく、存在しているすべての存在の営みに敬意を感じます。

>それが。自我であろうが。使用しているであろうが。
>意識がどんな状態にあるかは、さほど問題じゃないように思います。


たしかに。人がどういう状態であれ、それだけならば。だからなんだ。です。怒りも、喜びも、驚きも、平穏も。誤りも、正しさも。真実も。嘘も。それは、世界の増えも減りもしない、その活動です。でも。もし、それだけなら、そこに、なんの意味があるのでしょう。

そしてなお。人は、呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を、つくりかえ続けています。それでも。それだけなら、いくら世界が醜くても美しくても・・・どんなことも・・・ほとんど、なんの意味があるのでしょう。この世界は、いずれ滅びるのかもしれません。

まあ、説明なんですが。それぞれの得意分野はあるのでしょうが。まず、自分が、何なのか?この基礎研究、そのことによって、学ぶことができます。それに、そうでなければ、世界との関係から、いくら、なにを学んでも、基が不明なら、学んだことも危ういかもしれません。さらに、なお。世界に依存しないことが育つのでないなら、それがなんだろう。ではないでしょうか。

No.2195 - 2009/10/10(Sat) 11:26:02

Re: / potanpotan
> たしかに。人がどういう状態であれ、それだけならば。だからなんだ。です。怒りも、喜びも、驚きも、平穏も。誤りも、正しさも。真実も。嘘も。それは、世界の増えも減りもしない、その活動です。でも。もし、それだけなら、そこに、なんの意味があるのでしょう。

◆意味があるかどうかという感覚が私にはないです。
どうして、意味があるかどうかということが重要なのですか?

> そしてなお。人は、呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を、つくりかえ続けています。それでも。それだけなら、いくら世界が醜くても美しくても・・・どんなことも・・・ほとんど、なんの意味があるのでしょう。この世界は、いずれ滅びるのかもしれません。

◆意味のある状態だと設定している世界があると、無意味という感覚が生じるのでしょうか。
世界が滅びるとか、人は死ぬとか。どうせ会社は倒産するとか・・それはそれですが。「滅びる」「壊れる」思いにとらわれて、「どうせ〜だから・・」という瞬間を積み重ねをする気持ちに私はならないです。滅びるかどうかもあまり関係ない感じです。
滅びようが滅びまいが・・今。ここに生じている命の営みがあって。そこをみつめると「生き続けている」

> まあ、説明なんですが。それぞれの得意分野はあるのでしょうが。まず、自分が、何なのか?この基礎研究、そのことによって、学ぶことができます。それに、そうでなければ、世界との関係から、いくら、なにを学んでも、基が不明なら、学んだことも危ういかもしれません。さらに、なお。世界に依存しないことが育つのでないなら、それがなんだろう。ではないでしょうか。

◆「自分が何か」 という問いが生じてきません。自分が何かということをどうしてそんなに知りたいのでしょう。
「自分なんてものはない」という結論の背景には
「絶対的な自分を期待している」があるのでしょうか。
学んでいないとか学んでいるとか。存在にたいして、優劣を感じることは私にはあまりありません。
共鳴しているとか、見ている世界を分かち合えるとか。
共鳴していないとか。みている世界の角度が違うとか。
そいう感覚はあります。

学びというのは。測れるものなのでしょうか。
私と共鳴しない人だからといって、この人は学んでいないという感覚は出てこないです。
みんなが。変化していて。
変化していること自体。「学び」。すべての人がそれぞれに学んでいるように私には感じられます。

No.2196 - 2009/10/10(Sat) 21:58:46

Re: / peer
>意味があるかどうかという感覚が私にはないです。

>共鳴しているとか、見ている世界を分かち合えるとか。
>共鳴していないとか。みている世界の角度が違うとか。
>そいう感覚はあります。


>私と共鳴しない人だからといって、この人は学んでいないという感覚は出てこないです。
>みんなが。変化していて。
>変化していること自体。「学び」。すべての人がそれぞれに学んでいるように私には感じられます。


同意〜

No.2197 - 2009/10/11(Sun) 01:22:48

Re: / hato
>◆意味があるかどうかという感覚が私にはないです。
>どうして、意味があるかどうかということが重要なのですか?


それは、potanpotanさんの、この投稿に同意。という反応です。

>◆自我の機能と定義する。それがなんなのでしょう。
>探しているからなんなのでしょう。
>ないからなんなのでしょう。
>それでも命の生きる営みは無関係に続いて。
>今を生きていて。意識は変化し続ける。
>命の本分。命だけでなく、存在しているすべての存在の営みに敬意を感じます。
>それが。自我であろうが。使用しているであろうが。
>意識がどんな状態にあるかは、さほど問題じゃないように思います。


あらかじめ、「なにかに意味があるとか、どうとか」。思ってるわけではありません・・・その思いに倒錯してなければ。その思いを排除する必要もないのですし・・・そして、なお。それだけではない、と説明してるつもりです。

>◆「自分が何か」という問いが生じてきません。自分が何かということをどうしてそんなに知りたいのでしょう。

たとえ、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・日常に発見があり、それぞれの技術を関係を世界を学ぶでしょう。そのことは生きてなくてはできないでしょう。きっと楽しさも苦しさも、あるでしょう。人生は、それ自身以外のことでは表現できません。しかし。それは環境、時代、資質などに関わり、なにも、この自分でなくてならないということは、必ずしも確固としたことではないかもしれません。

しかし、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・ただ人であればできること、それは、自分を学ぶことです。それは環境、時代、資質に関わらず、普遍的であり、しかも、この自分、この自分にしかできません。その意味では、絶対、にそうです。そこにも楽しさも苦しさも、なにも欠けることはありません。

だから、そうした。というわけではないのですが、自分は、こうだ、というだけです。「自分が何か」。ほかの人から薦められたから、できるということではありません。なんであれ、例外があるのでしょうが、自発的にしかできません。

また、よほどの決心があっても、どうしていいのか?手段が見つからないかもしれません。楽しい、苦しい、学ぶ、学ばない日常があるだけなんです。そんなことにも気がつかないほど、がむしゃらに求めること。なぜ、自分が自分なのか、生きてるのか、を問うこと・・・ もしかして、自分はすでに自分。という思いこみの前提があるなら・・・また実際に自分が自分なら、それを探求しようとすることはないかもしれません。

>「自分なんてものはない」という結論の背景には
>「絶対的な自分を期待している」があるのでしょうか。


ない、のは自我です。それを見る、自己は、絶対?という疑問でしょうか。その自己は、知覚・意識の対象にはなりません。相対も、絶対も、はいる余地?はありません。

>学んでいないとか学んでいるとか。存在にたいして、優劣を感じることは私にはあまりありません。
>共鳴しているとか、見ている世界を分かち合えるとか。
>共鳴していないとか。みている世界の角度が違うとか。
>そいう感覚はあります。


>学びというのは。測れるものなのでしょうか。
>私と共鳴しない人だからといって、この人は学んでいないという感覚は出てこないです。
>みんなが。変化していて。
>変化していること自体。「学び」。すべての人がそれぞれに学んでいるように私には感じられます。


そう感じる、そう思う、までもなく、そう、です。けど。そう思う必要があって、そう思うこともあります。それは、人が、完全には、そう、でない場合です。その欠けたところが、ありあまって世界に投影され、その人の、そう感じる、そう思う対象になります。でなくて、その人がその有り様なら、そう感じても思っても、そう感じなくても思わないでも・・・そういうことを忘れても・・・そうなんです。そして、そうだということを理解できます。

No.2198 - 2009/10/11(Sun) 11:05:26

Re: / ubik0101
この上の投稿は、どういうわけか不明ですが、hatoになっていますが・・・ubik0101の投稿です。
No.2199 - 2009/10/11(Sun) 16:42:12

Re: / potanpotan
> >◆意味があるかどうかという感覚が私にはないです。
> >どうして、意味があるかどうかということが重要なのですか?
>
> それは、potanpotanさんの、この投稿に同意。という反応です。


〇 ↑ごめんなさい。ubikiさんの書いてくださっている意味がわからなかったです。


> たとえ、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・日常に発見があり、それぞれの技術を関係を世界を学ぶでしょう。そのことは生きてなくてはできないでしょう。きっと楽しさも苦しさも、あるでしょう。人生は、それ自身以外のことでは表現できません。しかし。それは環境、時代、資質などに関わり、なにも、この自分でなくてならないということは、必ずしも確固としたことではないかもしれません。
> しかし、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・ただ人であればできること、それは、自分を学ぶことです。それは環境、時代、資質に関わらず、普遍的であり、しかも、この自分、この自分にしかできません。その意味では、絶対、にそうです。そこにも楽しさも苦しさも、なにも欠けることはありません。


〇上記のご意見を読んで、ubikさんと私は違うなと思うところは、「環境、時代、資質」などによって形成されるものであっても、すべての要素が自分であると感じているところ。

取替えのきかない自分。絶対的な自分というものは、はじめから私にはなくて。この、与えられているのか。あるいは選択しているのか。わからないですが。私が生まれて、存在している中で私として意識になっているすべてのものが私であると積極的に受け入れる中で、私は統合をしてゆこうというエネルギーの中で作用して生きているというところだと思いました。

> 自分はすでに自分。という思いこみの前提があるなら・・・また実際に自分が自分なら、それを探求しようとすることはないかもしれません。

〇自分はすでに自分・・
ubikさんの中で、自分でないものってなんでしょう。


> そう感じる、そう思う、までもなく、そう、です。けど。そう思う必要があって、そう思うこともあります。それは、人が、完全には、そう、でない場合です。その欠けたところが、ありあまって世界に投影され、その人の、そう感じる、そう思う対象になります。でなくて、その人がその有り様なら、そう感じても思っても、そう感じなくても思わないでも・・・そういうことを忘れても・・・そうなんです。そして、そうだということを理解できます。


〇欠けたところを世界に投影します。そして。学んでいます。学びきれないところは、欠けたまま、また世界に投影して、学びます。
意図していることは何もないですが。そうなっているなと感じます。

No.2200 - 2009/10/12(Mon) 00:24:21

Re: / ubik0101
>取替えのきかない自分。絶対的な自分というものは、はじめから私にはなくて。この、与えられているのか。あるいは選択しているのか。わからないですが。私が生まれて、存在している中で私として意識になっているすべてのものが私であると積極的に受け入れる中で、私は統合をしてゆこうというエネルギーの中で作用して生きているというところだと思いました。

そいえば。コピーライターだった頃、ある同僚は、流して(力を入れずに)やる仕事もあるよ、と言ってました。それが信じられませんでした。いつも、できるかできないかもわからない仕事に懸命でした。それって、取り替えのきかない自分、を自覚したい、衝動だったのかもしれません。そんな機能に倒錯してるときは、

それが自我とは、気が付きませんでした。まったく、そうであっても、気が付かないこともあって。自我は、ない、が、ある、振りをしてただけ・・・ことを見ることは・・・ある、のに、ない、振りをしてると言えば言い過ぎですが・・・気がつけない自己、を見る。ことでもあったのだと思います。そんな、

この自分が、この自分自身を知る(ほとんど理論的には不可能なんでしょうが)・・・それは世界の総活動から自我を見る。そんな、とんでもない体験が起きるのが、この世界。と思います。それには・・・たとえば。なにか学びたくないなら、その学びたくない、を学んでるのです・・・そのように総てが必要なのかもしれません。ところで、

たとえば、取り替えのきかない、というのは、その体験が起きたら、了解されます。どんなことも、自分の経緯は、取り替えられることがあったら、それは起こらなかった。と。しかし、どんなことも取り替え可能。それだけではなく、

たとえば善・悪、否定・肯定、あらゆる両極端が、完全に機能すること。それが、両極端にも、その中間にも、偏れないから、両極端が、ない、ということです。これは日常がそうで、自我もなければ、無我もない、とも表現します。

>〇自分はすでに自分・・
>ubikさんの中で、自分でないものってなんでしょう。


ふつうの日常で。歩いたり、柿の樹を見たり、鳥を聞いたり、思考したり・・・知覚は作動してるだけで、この範疇が自分、あの範疇が自分でないと、区別することはできないです。そして。 すべてが自分で、ある。すべてが自分で、ない。どちらも意識には、ないです。けれど、

もしかして、知覚や意識の届かないことなら、それは自分では、ない、かもしれません・・・そいうことは、ない、ということも考えられ、ない、かもしれません・・・でも、もしかして、

ほかの人の、たとえばpotanpotanさんの日常は・・・いくら素材は変わらないとしても・・・その感覚や思考は、知覚や意識の届かないことです。その見えない、ことを意識すると・・・やはり知覚や意識の範囲はあるので・・・ここは自分。でないなら自分ではないと、感じて・・・ほかの人ではない自分、が設定されるようにも思えます。

No.2203 - 2009/10/12(Mon) 13:10:35

Re: / potanpotan
> そいえば。コピーライターだった頃、ある同僚は、流して(力を入れずに)やる仕事もあるよ、と言ってました。それが信じられませんでした。いつも、できるかできないかもわからない仕事に懸命でした。それって、取り替えのきかない自分、を自覚したい、衝動だったのかもしれません。

〇ええーー。ubikさんはコピーライターをしていたことがあったんですか?
ああ、でも、仕事で確かに。誰がやっても良いものは誰がやってもよくて。ちょっとした変化に(例えば出産のため仕事を休むとか)縁がなくなってしまい。結局、「Sさんの音楽がいいのよ」とか。取替えのない存在というとこで響いてゆく関係性が一番続いてゆきます。また、仕事をしていても癒されたり、潤ったり・・感謝が生じて。良い感じです。
ただ、たぶんこれは、意図的に「取替えのない存在になろう!」といって達成できるものなのかよくわかりません。
自分を響いているありようのままにあったら、たまたま響く人が現れて、そういう仕事をしていたら、そういう感じになってきた。という感じでしょうか。

>そんな機能に倒錯してるときは、
それが自我とは、気が付きませんでした。

〇一生懸命がんばることを否定的する感覚は生じないのですが・・恐怖を由来に頑張るのは、痛いです。「いつきられるかわからないから」とか・・消耗してゆくのがわかります。認められようとか評価されたいという感覚を由来に頑張るのは、不満と依存が増幅するのがわかります。

私の中で、気持ちよく頑張れるのは。
いいものをつくりたい。対象がなんであれ、やっていることに対する愛情から生じている頑張りは、喜びがわいてきます。また、同じような由来で頑張れる人とは、性質やバックグラウンドが異なっても、食い違いや見解の差も大切で、豊かさにつながってゆくのがわかります。

No.2207 - 2009/10/12(Mon) 20:35:17
こんにちわ。 / potanpotan
はとさん、うびさん、こんにちわ。ご無沙汰しています。
お引越しして、2年ですねー。お二人の素敵な空間、今も思い出します。ますます豊かになっているのでしょうね。
ちょっと遠いですが・・静岡に行かれる前に、是非うちの方にも遊びにいらして下さい。

近頃、見たり、感ずること、言葉ではないのですが・・・

http://www.youtube.com/watch?v=bZrAEY7Cois

ちなみに・・写真はsuhoさんです。^^。

また。変調する時の感覚です。

観ずることに

No.2179 - 2009/10/04(Sun) 20:20:33

Re: こんにちわ。 / potanpotan
あらら。書いている途中で送信してしまいました。
ごめんなさい。

現象に、もっと開きたい。もっと見たい。
感じたい。

そんな気持ちが沸いてきています。
自分は見ているつもりでも。見えていないな。
開いているつもりでも。閉じているな。

世界を。この今ここに生じているものを。
慈しむ。

言葉ではとても簡単なのですが。
私はとても、小さいです。

No.2180 - 2009/10/04(Sun) 20:31:36

Re: こんにちわ。 / ubik0101
この、ほとんど超古代のMacでは、youtubeは、再生不可能なんです。それはそれとして。うん。とても楽しみです。hatoさんが会社から帰ったら、一緒に連絡します。

ところで。いつも眠りのなかで考えています。どうも人は現象したことしか知覚できないようです。ある現象は、ほかの現象との差があります。そして、現象を知覚する自分は・・・知覚されるにしても、知覚されないにしても・・・その知覚に無関係に、ある、にしても、ないにしても・・・現象に含めるか?含めないか?そんなことを、浅い眠りのなかで考えていました。

No.2181 - 2009/10/05(Mon) 13:58:28

Re: こんにちわ。 / potanpotan
> hatoさんが会社から帰ったら、一緒に連絡します。

わーーい

> ところで。いつも眠りのなかで考えています。

眠りのなかの考えや沸いてくることは、「みる」ヒントであったりすることがよくあります。

>どうも人は現象したことしか知覚できないようです。ある現象は、ほかの現象との差があります。

映写機はスクリーンに映さないと、フィルムをみることが出来ないんですね。現象はスクリーンの映像みたいです。

>そして、現象を知覚する自分は・・・知覚されるにしても、知覚されないにしても・・・その知覚に無関係に、ある、にしても、ないにしても・・・現象に含めるか?含めないか?

知覚する自分。みている自分。ここを現象とすると。
世界がとても静かになる感覚です。

>そんなことを、浅い眠りのなかで考えていました。

・・今日はものすごく眠い日です。

No.2182 - 2009/10/05(Mon) 15:40:52

Re: こんにちわ。 / ubik0101
ふつうの日常、なにか行動したり知覚したりしてる誰かは、その誰か自身を知覚できないと。もしかして、それを自覚できないということは自分が、ない、と。いうことではないだろうか。と、薄々、気がついたとして・・・。

こ、これは大変だ・・・とても不安・・・そうだ。自分は、ない、のだとしても、そのことを忘れてれば、いいんだ。ということで。おだやかな日常を掻き回して・・・ほかの人と軋轢、自分との葛藤によって・・・仮に設定される観察者を自覚しようとします。それが人と世界が協力してつくる自我の機能でもあります。

それは、おだやかな日常を過ごすとしても、それが抱えてる苦痛に魅惑されるということもあるでしょう。また、周囲を騒がす愉悦もあるでしょう。さらに、たとえ仮に設定されたことだとしても、観察者を自覚するという満足もあるでしょう。なので、離れることが困難なのかもしれません。

しかし、そんな、ない誰かを明らかに自覚し・・・それを自覚するのが自己・・・それは初めからそうだというのも、与えられるというのも、どちらも必要ですが・・・それが知覚の範疇に、ない、と理解して。総てを世界の範疇の現象とすると、それは知覚も感情も意識も、なんの滞りもなく、ただ穏やかだというだけではなく。そのまま日常が神秘です。

No.2183 - 2009/10/05(Mon) 21:22:17

Re: こんにちわ。 / hato

お久しぶりですね。。
ようこそ。
お誘いをありがとう、とても嬉しいです。アドレス変更されているかも知れませんね。よかったら、メールくださいね。

一年前、お越し頂いたとき、potanpotanさんは、小さなこの部屋にあるもの、なにを見てもとても喜んで祝福してくれて、なんだか気恥ずかしく、嬉しくなってしまったのを覚えています。

suhoさんの投稿欄に鳶の画像を載せてるとき、potanpotanさんを思い出していました。
素敵な文章に再び会えて、嬉しいです。

人がちゃんと不思議、に根ざすようになると、過度に自分を痛めることもなくなるでしょう。ことに優しい、真面目な人にとって、それはとても。大事なことかな、と思います。

きのう、ダーリンと近くのホームセンターに行って、その帰り道、ちょっと素敵な丘の上を、秋の景色を楽しみながらてくてく歩きました。suhoさんもすきなコスモスが、なんともきれいにそよいでいました。画像は一部ですけど、丘の一面いっぱいに咲いてて、白とピンクが可憐でした。

No.2184 - 2009/10/05(Mon) 21:23:15

Re: こんにちわ。 / potanpotan
> ふつうの日常、なにか行動したり知覚したりしてる誰かは、その誰か自身を知覚できないと。もしかして、それを自覚できないということは自分が、ない、と。いうことではないだろうか。と、薄々、気がついたとして・・・。

★意識は宇宙にあって・・というような感覚があります。

> こ、これは大変だ・・・とても不安・・・そうだ。自分は、ない、のだとしても、そのことを忘れてれば、いいんだ。ということで。おだやかな日常を掻き回して・・・ほかの人と軋轢、自分との葛藤によって・・・仮に設定される観察者を自覚しようとします。それが人と世界が協力してつくる自我の機能でもあります。

★あはは。おもしろい。
私的には、せっかくここに生まれていますから。限られている中で細密にみてゆけたらよいのですが・・ずいぶんと雑にしかとらえていなくて・・てゆか。きりがないですからね。ああ、そうか。ええ。そうなの。なんですって。ええーーー!!その連続で一生がきっと終わるんです。

> それは、おだやかな日常を過ごすとしても、それが抱えてる苦痛に魅惑されるということもあるでしょう。また、周囲を騒がす愉悦もあるでしょう。さらに、たとえ仮に設定されたことだとしても、観察者を自覚するという満足もあるでしょう。なので、離れることが困難なのかもしれません。

★人の欲望の本質はそこにあるのでしょうか。きっとそうかもしれないですね。動きを起こす。ゆさぶる。活性させるとも言いますか。自覚していると、たのもしい。無自覚だと、苦しいですね。

> しかし、そんな、ない誰かを明らかに自覚し・・・それを自覚するのが自己・・・それは初めからそうだというのも、与えられるというのも、どちらも必要ですが・・・それが知覚の範疇に、ない、と理解して。総てを世界の範疇の現象とすると、それは知覚も感情も意識も、なんの滞りもなく、ただ穏やかだというだけではなく。そのまま日常が神秘です。

★宇宙的なまなざし。やさしい空間。
私の場合は。せっかく地球にいるのだから。動き回って。
宇宙との送受信はどうにかしつつ。
げ。まじですか。またですか。これ、どういうことですか。
そうなんですか。ええ!! なにいい!なんなのそれ!
一喜一憂しつつ。一喜一憂している自分をみつつ。
一喜一憂を慈しみつつ。時にあほらしくなりつつ。
ゆくさきに・・沿っていっている感じです。

No.2185 - 2009/10/06(Tue) 00:24:14

Re: こんにちわ。 / potanpotan

> お久しぶりですね。。
> ようこそ。
> お誘いをありがとう、とても嬉しいです。アドレス変更されているかも知れませんね。よかったら、メールくださいね。


そうなんです!24時間通話したい放題のウィルコムに変えました。これがまた、不安定に作動するおもしろい電話で・・

連絡先メールをお送りしようとしたら、エラーになってしまいました。
kakuseiあっとまーくnexyzbb.ne.jp
を@に変えるだけでよいんですよね?
おかしいな。

> 一年前、お越し頂いたとき、potanpotanさんは、小さなこの部屋にあるもの、なにを見てもとても喜んで祝福してくれて、なんだか気恥ずかしく、嬉しくなってしまったのを覚えています。

あれ、一年前でした?失礼いたしました。でも感覚的には半年前くらいの感じです。はとさんの趣味の素晴らしさは印象的でした。置いてあるもの全部すごくいい。感動しました。お住まいも森の中みたいなんですよね。ああいう場所はないですよね。

> suhoさんの投稿欄に鳶の画像を載せてるとき、potanpotanさんを思い出していました。
> 素敵な文章に再び会えて、嬉しいです。


うふふ。そうかなと思いました。
この掲示板にいったいなんの名前で書き込みしていたのか思い出すのに時間がかかってしまいました。思い出せてよかったです。ぽたぽたじゃなかったな・・potanpotanだ!

> 人がちゃんと不思議、に根ざすようになると、過度に自分を痛めることもなくなるでしょう。ことに優しい、真面目な人にとって、それはとても。大事なことかな、と思います。

不思議 に響く範囲までリラックスするのが難しい。これ、どうしたらいいんですか。そのまま寄り添うしかないんですが・・がんばるぞー。と超まじめに、頑なに遠ざかっていったり・・

> きのう、ダーリンと近くのホームセンターに行って、その帰り道、ちょっと素敵な丘の上を、秋の景色を楽しみながらてくてく歩きました。suhoさんもすきなコスモスが、なんともきれいにそよいでいました。画像は一部ですけど、丘の一面いっぱいに咲いてて、白とピンクが可憐でした。

うびさん・・ダーリン。。むふふ。
すごく淡くときめくコスモスたちのお写真。ありがとうございます。

植物はパラボラアンテナみたいに自身を広げますね。
絶対宇宙と交信しているな。と思います。あれはお日様を受けているだけじゃないんですよ。きっと。

No.2186 - 2009/10/06(Tue) 00:52:06

Re: こんにちわ。 / ubik0101
>★意識は宇宙にあって・・というような感覚があります。

げっ。宇宙!とは・・・そういえば、ここしばらく、試してることがあります。どこまでを世界の範疇にいれるのかで、日常感覚が、ずいぶん変わります。世界を・・・物質、身体、感覚、感情、意識と決めたら・・・それは、それを対象にすることによって「私」が設定される範囲ですが・・・知覚できる範囲しか世界がないんです。

そうでなくて。知覚の範疇にない、現象の背景?とか、自己とか、実在まで、世界にいれると、なにか転換してしまいます。とくに対象が特定されない愛を感じたり。自分の奥まで世界が浸透してる感じです。まだまだ要観察ですが、これは、これで、ありかな、です。

>★あはは。おもしろい。
>私的には、せっかくここに生まれていますから。限られている中で細密にみてゆけたらよいのですが・・ずいぶんと雑にしかとらえていなくて・・てゆか。きりがないですからね。ああ、そうか。ええ。そうなの。なんですって。ええーーー!!その連続で一生がきっと終わるんです。


そこんところは、自分があって、なにか行動、発言、思考するのではありません。なにか 行動、発言、思考することによって・・・予め・・・つまり時間を遡って・・・その中心が仮に設定される。と見た経緯があります。

その中心とは、それに倒錯したりしてるなら、自我なんですが、ふつうの日常の「私」も、仕組みとしては、そんな感じです。いろんなことを経験しても、見ても、それだけでも面白いんですが、反応してるだけかもしれません。

でも・・・そこで生じることがあります。たとえば。善悪は、好き嫌い、損得、に変調された、快不快の概念でしかないと。それを了解して、その概念を失っても。なお。善いことをして悪いことをしない。どうも世界が、そうしたがってるようです。

>連絡先メールをお送りしようとしたら、エラーになってしまいました。
>kakuseiあっとまーくnexyzbb.ne.jp
>を@に変えるだけでよいんですよね?
>おかしいな。


もしかして、全角の@になってるのかもしれません。半角英字に設定してから、あっとまーく、に@を上書きしてみてください。それでもエラーなら、アドレスの全文字を半角英字で入力してみてください。

No.2187 - 2009/10/06(Tue) 22:22:01

Re: こんにちわ。 / hato

>お住まいも森の中みたいなんですよね。ああいう場所はな>いですよね。

なんかいっぱい誉めて下さって。
すごいもんでないので恐縮ですけど、ありがとうございます。

そうですね。
potanpotanさんが遊びにきてくれた、
ご存じ小さなこの古いアパートは・・

部屋の前にヒノキ、どんぐりのコナラやクヌギの大きな木があって、その枝下が木こりさんの家なんですけど、(考えるとこれも可笑しいですね、こんなとこに木こりさんちです)切り株や丸太のなかでここ一ヶ月ほど、ドングリの実がコツン、、コツン、、といい音をたてて木こりさんちのトタン屋根や、この部屋のベランダに落ちてきます。それを聞くと秋の訪れです。
これからの時期、素晴らしい落ち葉の舞いが楽しみです。

まあ・・ここまでくると、ふざけてんのかいな。

ってほど、遊ばれてる感じの我が家ですけど、楽しい珍客が訪れてくれます。(あ。potanpotanさんは素敵なかわいいお客様ですよ、もちろん。)


> 不思議 に響く範囲までリラックスするのが難しい。これ、どうしたらいいんですか。そのまま寄り添うしかないんですが・・がんばるぞー。と超まじめに、頑なに遠ざかっていったり・・


自分てところ、張ったり緩めたりしながら、potanpotanさんはチューニングはすでに、自然に起きているでしょう。

不思議不可思議。
もうここがそのまま、そんな感じでしょう。
ふと我に返ると、あ。そうよね・・
て、感じではないかな、と思います。


> 植物はパラボラアンテナみたいに自身を広げますね。
> 絶対宇宙と交信しているな。と思います。あれはお日様を受けているだけじゃないんですよ。きっと。



ほんとにね〜・・
なんか・・きてます・・て感じでしょうか。。

そういえば、potanpotanさんはルンルンには会って下さったのですよね。ただ今我が家には、こんな可愛いのがもう一羽いるんですよ。

No.2188 - 2009/10/06(Tue) 23:54:47

Re: こんにちわ。 / potanpotan
> どこまでを世界の範疇にいれるのかで、日常感覚が、ずいぶん変わります。世界を・・・物質、身体、感覚、感情、意識と決めたら・・・それは、それを対象にすることによって「私」が設定される範囲ですが・・・知覚できる範囲しか世界がないんです。

★自分をほっておくと。人との縁によって。自分の「範疇」が変化する反応を示します。

> そうでなくて。知覚の範疇にない、現象の背景?とか、自己とか、実在まで、世界にいれると、なにか転換してしまいます。とくに対象が特定されない愛を感じたり。自分の奥まで世界が浸透してる感じです。まだまだ要観察ですが、これは、これで、ありかな、です。

★なぜだか・・うずうずします。いてもたってもいられないような・・。

> そこんところは、自分があって、なにか行動、発言、思考するのではありません。なにか 行動、発言、思考することによって・・・予め・・・つまり時間を遡って・・・その中心が仮に設定される。と見た経緯があります。
>
> その中心とは、それに倒錯したりしてるなら、自我なんですが、ふつうの日常の「私」も、仕組みとしては、そんな感じです。いろんなことを経験しても、見ても、それだけでも面白いんですが、反応してるだけかもしれません。


★私は今現在、心の発育の途上なので。同じく発展途上中の共鳴関係がそこここに生じています。表面の反応。自我の反応。倒錯している反応。恐怖の反応。記憶の反応。たくさんの反応と出会い、そこに共振しながら学んでいます。
反応しているだけだと言い切れるものも。ある人にとっては生死を分けるエネルギーの姿であったりします。そこを共振しながら、みることは、とても大切な学びを得るための縁だという感覚があります。

> でも・・・そこで生じることがあります。たとえば。善悪は、好き嫌い、損得、に変調された、快不快の概念でしかないと。それを了解して、その概念を失っても。なお。善いことをして悪いことをしない。どうも世界が、そうしたがってるようです。

★善悪という言葉は難しいなと思うのですが。
喜びを発すると。喜びが響きます。
不安を発すると。不安が響きます。

> もしかして、全角の@になってるのかもしれません。半角英字に設定してから、あっとまーく、に@を上書きしてみてください。それでもエラーなら、アドレスの全文字を半角英字で入力してみてください。

★なるほど!チャレンジしてみます。ありがとうございます。

No.2189 - 2009/10/08(Thu) 22:59:43

Re: こんにちわ。 / potanpotan
> ・・その枝下が木こりさんの家なんですけど、(考えるとこれも可笑しいですね、こんなとこに木こりさんちです)切り株や丸太のなかでここ一ヶ月ほど、ドングリの実がコツン、、コツン、、といい音をたてて木こりさんちのトタン屋根や、この部屋のベランダに落ちてきます。それを聞くと秋の訪れです。

★木こりさん!やっぱり特別ですね。木を愛している方の家なんですねー。

> 自分てところ、張ったり緩めたりしながら、potanpotanさんはチューニングはすでに、自然に起きているでしょう。

★そうですね。不思議がなかなか共鳴しない関係性があったりします。そういうときに・・なかなか緩まないな・・と年中感じています。

> 不思議不可思議。
> もうここがそのまま、そんな感じでしょう。
> ふと我に返ると、あ。そうよね・・
> て、感じではないかな、と思います。


★うん。そうですね。時々は静かに。この不思議としっかり溶け合いたい。私は。動きすぎなので。

> こんな可愛いのがもう一羽いるんですよ。

★以前の書き込みで・・そうなのー。と思っていました。
いったいきみたちはなんなんだー。
かわいすぎるぞー。

私は近頃生き物にたいする「かわいい」の範囲が広がってきました。コフキコガネムシとか、虫とかも、かわいいなとしみじみ感じました。かわいい増殖中。

No.2190 - 2009/10/08(Thu) 23:21:44

Re: こんにちわ。 / ubik0101
ふと、思い出しました。超ゝ古代のことです。うつ伏せになって、なにかを考えてて・・・その思考は自分の前に流れてるとして・・・そう思考してる自分の背後を振り返ったことがあります。そこには、なにも、ありませんでした。空っぽでした。ただ眼の前に、い草の畳の編み目だけが、見えてたのです。

とても爽快な開放感があって・・・それを楽しんでいました。しばらくたって。なんとなく。その、なにもない、を確かめようとしました。すると、その、なにもない、はありませんでした。なんだ。いつもの自分に戻っていました。それは、そうです。ない、を探せるわけはないな・・・と思いました。

たとえば。
その、ない、を探してる動作を、
ふつうは自分だと思ってるかもしれません。
と、思います。

そういえば。台風一過。どんぐりの大きな樹の葉の間から、明るい光が、満ちて。その向こうの青空が・・・鳥たちの鳴き声が・・・この感覚器官・・・身体・・・の奥にも広がっています。

それを見てる眼、耳の機能が作動してるだけです。と。そう考える機能が作動してるだけです。そうしてる自分は探しても、見つかりません。その自分を探してる機能、運動を、自分だと思ってるのなら、これを同一化、と呼ぶのかもしれません。

メールで・・・グルジェフというペテン師の神秘家が“自己想起”を提唱した。と数日前、知人に聞きました。それで。どうやっても見つからない自己を、想起する。笑うほどに、素敵な方法。もしかして、そのペテンに騙されるほど素直なら・・・こう、でなくてもいいのに、こう、の世界を活用できるのかもしれない・・・と返信しました。

そう、探すんです。探すんです。それを自我の機能と呼びますが・・・そこに、なにも、ない、ことを見たならば・・・そこにも、いろんな段階の体験はあるのでしょうが・・・ない、を見てる自己に出会えるかもしれないと、思いました。

No.2191 - 2009/10/09(Fri) 10:46:40

Re: こんにちわ。 / potanpotan
> たとえば。
> その、ない、を探してる動作を、
> ふつうは自分だと思ってるかもしれません。
> と、思います。


◆私は、方向性としてはここに生じているもの。響いているものを感じるのがベースなのですが。
滞りなどを感じるとき、「探す」がはじまります。

それが私のもったいないところかもしれません。
「探す」前に滞りをしっかりみつめると。おのず流れてゆく。そこを「探して」しまってギコチナくなってしまうというようなことを感じる場面が多いです。

> それを見てる眼、耳の機能が作動してるだけです。と。そう考える機能が作動してるだけです。

◆耳が。瞳が。作動している。
考える機能が。作動している。
記憶が沸き起こっている。

自分を静かにして「作動」を見つめてあげると。みんなちゃんと自分の本分を作動する。

>そうしてる自分は探しても、見つかりません。その自分を探してる機能、運動を、自分だと思ってるのなら、これを同一化、と呼ぶのかもしれません。

◆自分があるかどうか。自分がないかどうか。あんまりそこにこだわった経験はないのですが。
ここに生じるものが「ある」もので。生じてるなら全部自分ということじゃないのでしょうか。

> メールで・・・グルジェフというペテン師の神秘家が“自己想起”を提唱した。と数日前、知人に聞きました。それで。どうやっても見つからない自己を、想起する。笑うほどに、素敵な方法。もしかして、そのペテンに騙されるほど素直なら・・・こう、でなくてもいいのに、こう、の世界を活用できるのかもしれない・・・と返信しました。

◆滞り。自分が生かされないな。自分は理解されないな。自分は存在している意味がわからないな。
そんな思いを抱いている状態。心身は疲労し。不機嫌になっていたりする命やモノの状態はたくさんあります。
そういう状態のとき、もっと自分が生きることのできる状態をもとめて、頭も身体も心も探します。
そのこと自体に私は疑問を持ったことがありません。
滞りを感じ。どうしたら生きるかを一緒に探すことをします。「どうしたら生きるか」のたどり着く先が「探すのやめて、今、生じているものを感じつくす」という世界になる場合もありますし。
「恐怖に支配されるのではなく。喜びを生きる」という世界の場合もあります。
自分をなんだと思っているか。という問いじたいはどうでもいいことのように思います。自分があると仮定しようがしまいが・・心だか、魂だか。わからないけれど。意識は変化しつづける。
微生物や細胞や原子や電子のおのおのが、「生きる本分」をひたすらに営みつづけるエネルギーの荘厳さとなんら変わることなく、人は「生きよう」というエネルギーの活動に敬意を感じます。

>
> そう、探すんです。探すんです。それを自我の機能と呼びますが・・・そこに、なにも、ない、ことを見たならば・・・そこにも、いろんな段階の体験はあるのでしょうが・・・ない、を見てる自己に出会えるかもしれないと、思いました。


◆自我の機能と定義する。それがなんなのでしょう。
探しているからなんなのでしょう。
ないからなんなのでしょう。

それでも命の生きる営みは無関係に続いて。
今を生きていて。意識は変化し続ける。

命の本分。命だけでなく、存在しているすべての存在の営みに敬意を感じます。

それが。自我であろうが。使用しているであろうが。
意識がどんな状態にあるかは、さほど問題じゃないように思います。

No.2192 - 2009/10/09(Fri) 22:32:58
うーーむ / peer
hatoさん。

>どんなにか子は苦しいでしょう。重たいのです。疲れるのです。

〜わかりますねぇ。もう。ずっしりと重いです。
「あなたのために」なのですが
それば重々分かります。理解してます。でも重いんですよね。

この親に一生、付きまとわれて、いい年をしても
「・・・だからね」と小言を言われ続けるのか〜
それに付き合わされるのか〜と思うとゾッとしましたが。
育てられた御縁もあるし御恩もあるし・・・。
ほんとに・・・親は子の足かせ・・・。
(という面もある、ということで)

No.2152 - 2009/09/29(Tue) 01:53:45

Re: うーーむ / hato

そうですか、peerさんのお母様は、そのようだったのでしょうか。。

おそらくは、どこの家庭でも親子関係はそうなときもあり、、そうでないときもあり、、な感じでしょうが、、そのあたり過激な親というのは、お子さんは大変でしょうね。自分がなんとかしなければ子はだめになる、と信じて突き進まれるわけですから、たまらないでしょう。省みるのはまずは自分で充分なんですけど。省みても浅いんでしょう。自分を掘り起こしていなければ、当然そのようかも知れません。

子供は自己が確立されるまでは厳しいでしょうけど、、でも、世界は上手くできていますから、、学んで超えていくこともできるのではないでしょうか。

人は真摯であればなんでもいい、はずがないですね。素直でなければならない、と思うのです。

No.2154 - 2009/09/29(Tue) 22:16:02

Re: うーーむ / hato

なぜ人としての変容が必要なのでしょう。

それは明らかに、愛、正しい思いやりを得る、その、下地が整備される、ということであるように思えます。ご存じの通り、自己は愛です。その整備がされているなら、土壌が確かであるなら、生の総てに影響があるだろう、ということです。1を知れば10を知るとは、そうしたことといえるでしょう。変容。これは土壌に関わるゆえに、最終的には、ひとつひとつの局面を継ぎ接ぎしていくものではないでしょう。

変容されることは必ず、探求を凌駕します。生が証人です。自己を探求する人はまだ、その土壌を得ていない、ということです。或いは正確に理解されていない、ことも殆ど、まったくでもないが同じようです。たとえばそれは人生の場所場所において、ここらへんはまあよいけど、あのへんは殆ど不明、、な程度にあるでしょう。即ち、そういう表現ができるとして、罪を犯せる状態にある、ということでもあります。

自分の荷物を人にほどかせようとすることも、限度を超えているなら、そのようです。

自己を充分に得るなら、人は自ずからその視点、その表現、その質感が変わらざるを得ないでしょう。
なんであれ、自分がきちんと成長するほうが、人と世界のために、いいのです。

そんなことがあるようです。

No.2155 - 2009/09/29(Tue) 22:23:51

Re: うーーむ / peer
>peerさんのお母様は、そのようだったのでしょうか

ずっしりと重くのしかかってゾッとする。
これは〜今おもえば、世間を背負っていたからかな。
世間というのが、重かった・・・わけですね。

これも、子どもとして感じたことで。
大人になっての見方では、また変わりました。

子どもに憎まれても、思う事を通す。
あるいみ、自己矛盾がない。そんな母親でしたよ。
ホントに〜どれほど私の荷物を苦にせず背負ってくれたか。
どんなに愛されていたかが、大人になって分かった。
そんな感じですね。

No.2156 - 2009/09/30(Wed) 00:17:46

Re: うーーむ / peer
>自分がきちんと成長するほうが、人と世界のために、いいのです。


そのとおり・・・。
どんなに自分が世界に奉仕されているか、愛されているか。
そこに気がつかないこと、それこそが不幸なのでしょう。

No.2157 - 2009/09/30(Wed) 00:24:07

Re: うーーむ / suho
> なんであれ、自分がきちんと成長するほうが、人と世界のために、いいのです。

はい。
起きてくる事は全て自分自身ですよね。
人と世界は自身の素直な顕れとして起きています。
自分を理解し、自分に学ぶ、ということは、
起きている他者と世界が、実は自分そのものであることを、身をもって実感する、ということではないでしょうか。

例えば、他者のありようを排除したい衝動が湧いたとき、それを言葉で発散するまえに、その言葉にならない衝動とともにたたずむこともできます。そして、もしかすると、その衝動を暖かく抱きしめることさえできるかもしれません。

しんどいですけどね。。
でも、どうもそれしかない。
起きてくるあらゆるものの統合が愛と感じる今日この頃です。

ウビさん、hatoさん、お元気そうでなによりです。
しばらく、こちらに遊びにきてなかったのですが、ここ数日拝見させていただいていました。

いま、あらゆることが急速に変化していますね。
僕はこの変化を、とてもわくわくしながら楽しんで過ごしています。

No.2158 - 2009/09/30(Wed) 00:32:04

Re: うーーむ / ubik0101
suhoさん、ひさしぶりです。そういえば、愚さんから聞いた話ですが・・・たとえば自転車、たとえばテーブル。花。これが、バラバラに独立して見えて、空間がそれを隔ててる。そう感じるのが、自我の特性らしいのです。

たぶん、なにかを対象にすることで、その見てる聞いてる触ってる、その中心が設定されるので。それぞれのもの、ことに自分なりの、所有とか、守りたいとか、過去の経験とか、の意味をつける必要があるなら、それぞれの対象も、それを対象にする中心も・・・世界と。また、ほかの人と。また自分と・・・分離された個別なこととして感じる、のかもしれないと思いました。

そうでなく、自我でないなら、まず空間。そこに、たとえば自転車、テーブル、花。などが配置されてる。しかも総てが隔てがない繋がってる関係で・・・空間と物質も、調和、親和して感じられるようです。

これはそれぞれ個別の、もの、ことに、執着できない、拘る必要がないと・・・世界の総体が対象だから、それを見ることは、やはり中心が設定されるとしても、そこに個別、分離、ということが必要なく・・・そのように見えるのではないかと思いました。

ところで自分は。やはり地面の裏、ビルや山の裏のように、知覚されないところは・・・なく・・・それを空想で補わないからかもしれないと勝手に思うのですが・・・世界は、飛び出す絵本のようです。そこを歩いて見てる自分の裏も知覚されません。あっちの裏と、こっちの裏の間には切れ目がないです。

これはこれで。現実感がないというのではなく、緑の岡の道を歩くと、重力波のような力を。よく繁った林は、圧倒的な生命感が伝わってきて、そう反応してることを楽しめます・・・「荒海や佐渡によこたう天の川」・・・そして誰かの家の庭の樹に、その知覚に、我を忘れるようです。

その知覚があると言うことは、完全には世界と一体でない・・・融合ではない、分離でもない・・・ことで、それが面白いのかもしれません。そういえば。この山荘のようなアパートの周囲でも、落ち葉が始まりました。

No.2159 - 2009/09/30(Wed) 11:52:25

Re: うーーむ / suho
>そういえば。この山荘のようなアパートの周囲でも、落ち葉が始まりました。

この季節、湿度の具合といい、空の青の濃さといい、風の肌触りといい、爽やかなのに郷愁が感じられたり、なんともいえず美しいですね。
特に、空の青の深み。思わず「ああ まるごと吸い込まれてぇー」の衝動にかられます。

ウビさんお元気で。

No.2160 - 2009/09/30(Wed) 14:05:57

Re: うーーむ / ubik0101
うん。では、そのうち、きっと。
No.2161 - 2009/09/30(Wed) 14:25:42

Re: うーーむ / hato

> これも、子どもとして感じたことで。
> 大人になっての見方では、また変わりました。
>
> 子どもに憎まれても、思う事を通す。
> あるいみ、自己矛盾がない。そんな母親でしたよ。
> ホントに〜どれほど私の荷物を苦にせず背負ってくれたか。
> どんなに愛されていたかが、大人になって分かった。
> そんな感じですね。


peerさんはご自身の成長によって、克服されたのではないかな、と思いますね。
わたしも両親には感謝しか、ないんです。今も健在ですし、母は会えばケンカもしますけど、いてくれることが嬉しい、だけですね。本当に出来る限り尽くして貰ったんです。

子がそれ自身によって、基盤に変化を起こさない限り、人は自分で気付かれなくても親の影響、それまでの習性を踏襲しているかも知れません。嫌でもそっくり、なんでしょう。もちろん変化したって、たとえば肉親という意味で受け継がれてるものはあるでしょう。けど、むやみに成長を妨げる因子は自然に、失われているのでは・・と思います。

>そのとおり・・・。
>どんなに自分が世界に奉仕されているか、愛されているか。
>そこに気がつかないこと、それこそが不幸なのでしょう。



ほんとうですね。

No.2162 - 2009/09/30(Wed) 21:33:13

Re: うーーむ / hato

suhoさん、こんにちは。お久しぶりですね。

そうですね、

たとえば自分にとって世界は、ただ他者と世界が自分そのものでも、、起きてくる事がただすべて自分自身、でも、、ないようです。なので学ぶ、ことがあるようです。とくに自我を張る必要もありませんが、無我を張る必要もない、、感じです。世界は、不思議・・不可知な様相に見えながら、人の成長を助ける・・との理解があるようです。


そうですね、そして、

たとえば罵倒すること、揶揄することがあったとしましょう。自分はするとして真剣に、そうするでしょう。

人が高校で3年間学び合いました。とても素晴らしい分かち合いがあり、お気に入りの教師、ケンカ仲間がいたとしましょう。もう充分、基礎を学んだとして、大学、社会でも・・次に行かずにそのまま留まったらどうでしょう。世界はなんでもどうでもありとしても、、仲間や先生は、次のステップにいくといいよ、いつでも来られるんだから、まずはやってみようよ、と言うでしょう。

こうした学びについては、最終的には、もし人が本気であればですが、未知に導いて貰うでしょう。不思議といってもいいでしょう。でもたとえば皆と話さずひとりで社会に孤独にいても、真剣でなければ、あまり意味はないでしょう。真剣真摯でなければ、それと対峙することができないでしょう。

そして尚それもまた、いいでしょう。

この小さなアパートで、二度目の秋を迎えます。ささやかに嬉しいのです。道ばたにコスモスが咲き、木々には多くの実がなっています。画像は江ノ島、鳶です。

No.2163 - 2009/09/30(Wed) 22:01:24

Re: うーーむ / suho
hatoさん

> そして尚それもまた、いいでしょう。

互いの世界が交わることが、成長かもしれないと感じました。

> この小さなアパートで、二度目の秋を迎えます。ささやかに嬉しいのです。道ばたにコスモスが咲き、木々には多くの実がなっています。

いいですねー。コスモス、好きなんですよね。
力みなくみんなでパッと開いてさらさらとゆれている感じが。

ありがとうございました。
おじゃましました。

hatoさんもお元気で

No.2164 - 2009/09/30(Wed) 22:20:33

Re: うーーむ / hato

こちらこそ、ありがとうございます。

来年は、たぶん、静岡かな・・と思っています。
ぜひ、ご家族でお越し下さい。
美味しい魚料理、及び農作業・・を交えてお待ちしております。。。

No.2165 - 2009/09/30(Wed) 22:30:27

Re: うーーむ / peer
>peerさんはご自身の成長によって、克服されたのではないかな、と思いますね。

まっ。自然にそうなったような気もします。
順調な発達が行われた・・・と・。
子供って、その時その時が100パーセントでして。
いわば、いいおっぱいと悪いおっぱいがある。と思ってしまう。
今、満足させてくれるか、くれないか。それだけ。
怒られたら鬼だと思うし、優しくされたら聖母だと思う。

究極は・・・相手を心底、信じることが出来るか。
ということじゃないかしらん。
鬼がいるわけでもない、聖母がいるわけでもない。
だから。全部が、自分なのよ、ね。

No.2166 - 2009/10/01(Thu) 01:07:38

Re: うーーむ / hato

> 究極は・・・相手を心底、信じることが出来るか。
> ということじゃないかしらん。
> 鬼がいるわけでもない、聖母がいるわけでもない。
> だから。全部が、自分なのよ、ね。



遅くなりましてこんばんは。
peerさんにというよりはここは念のために、

人はただ自我、でもなく、ただ無我、でもない、世界に無関係に関係する不可知な、、なにか、ということが大事かな、と思いますね。たとえば愛は、人の自我無我に無関係に関係する、といえるでしょう。

子供からの捉え方は置いておくとして、

全部が自分、というのは言葉通りで言うなら、少々おおざっぱな感じです。起きてること総て、世界の事象やなにやかやが、自分が感知できるのだから自分にあるものだ、として、またはそうした深い体験があったとして、たとえば人として、人生での折々に必要な位置をとれないとしたら、偏重があるでしょう。すべてはひとつ、その意味でそれは片寄りです。たとえば、愛はただ堪え忍ぶ、、ことでもないのです。

偏りなく見るなら、世界は折々に世界の事象として起きており、他人は正常に他人であり、(あるとして)鬼は鬼であり、自分は折々に自分である、だけです。自我無我、とくに問題がありません。そのとき自他の事象はむやみに混同されることもなく、かといってとくに隔てる必要もなく、正常に世界を生きるでしょう。

そうではなく、この世界で、自分、というところを使って 了解 できる。世界は触媒としてある、との意味で、総てが自己を学ぶこととしてある、、、たとえばこの不可知、というところを、人は自分で理解することができる、との意味ならば、全部が自分(で了解する)、そう表現できそうです。それは経。縦方向の意図、と言えるでしょう。本質に直結する理解となります。

関係性とは基本的に横方向に働いています。人が世界での関わりのみに意識を偏重させて、そこだけでの理解に留まると、世界はひとつ、その意味での、全部が自分、になるかも知れません。それはとても美しいけれど、それだけでは片寄りです。

それぞれの道のりを歩んでいるそれぞれ、があって構わないのですね。それが世界の有り様として了解されていればいいだけです。そこに分かち合う時がある、というので充分にいいでしょう。

No.2167 - 2009/10/02(Fri) 01:08:54

Re: うーーむ / suho
>それぞれの道のりを歩んでいるそれぞれ、があって構わないのですね。それが世界の有り様として了解されていればいいだけです。そこに分かち合う時がある、というので充分にいいでしょう。

そうそう。世界の捉え方の違いを論じることは、個々の成長にとってほとんど意味がありませんね。
大切なのは、自分がその世界を使って、どこまで自分のありようを正確に理解できるか、そして、どう生きるのか?どんな響きを奏で、どんな実(世界)を創造したいのか?
これにつきると感じます。
自覚しているかしていないかに関わらず、個々の心の本当の響きに共鳴した出来事が正確に起こってきます。善いも悪いも。
それは絶対に隠せません。
世界(現象)は休まずに、無条件に、忠実に、個々の目前で、個々の響きを正確に現象化し続けます。

No.2169 - 2009/10/02(Fri) 09:03:36

Re: うーーむ / hato

> >それぞれの道のりを歩んでいるそれぞれ、があって構わないのですね。それが世界の有り様として了解されていればいいだけです。そこに分かち合う時がある、というので充分にいいでしょう。
>
> そうそう。世界の捉え方の違いを論じることは、個々の成長にとってほとんど意味がありませんね。



なんであれ学ぶという点では、意味があるかどうかはその人の状態、指向によるでしょう。分かち合うこととは端的に、人が世界としてそれをどう見てるか、関わっているか、だけと言えます。

どうとでも取り替え可能な事象の内容についてなら、確かに、成長とその理解に至らず、あまり意味がないかも知れません。けれど物事の形式、即ち、世界の仕組みとの観点から分かち合うなら、そうでもありません。人が意識に正確に理解させる必要があるなら、明確になる場合があるでしょう。


> 大切なのは、自分がその世界を使って、どこまで自分のありようを正確に理解できるか、そして、どう生きるのか?どんな響きを奏で、どんな実(世界)を創造したいのか?
> これにつきると感じます。



そうですね、
自分にとってはまず、どうこうしたい、というものがとくにありません。ubik0101さんが話してるように、どちらかといえば世界はびっくり箱系かも知れません。もちろん、関わる世界、たとえばですが、肉体というものがあり、折々に心が発生し、あらゆる事象を味わい、自ずと発動されながらそれを見ることができます。


> 自覚しているかしていないかに関わらず、個々の心の本当の響きに共鳴した出来事が正確に起こってきます。善いも悪いも。
> それは絶対に隠せません。
> 世界(現象)は休まずに、無条件に、忠実に、個々の目前で、個々の響きを正確に現象化し続けます。



suhoさん。なにか、あったのでしょうか。

心。それも、とくに持続してある、ともいえず、ない、ともいうことができません。持続してある、にのみ依る場合には、いわゆる因果的に世界を解釈することができるでしょう。その意味での因果、的に説明することが理解に繋がる場合があると思います。

自分にとってそうしたことは、常にどちらでもあり、どうでもない、、ただ不思議、です。

No.2170 - 2009/10/02(Fri) 22:10:53

Re: うーーむ / suho
どんなところにも偏りのない「不思議」「中庸」。
という概念をエスケープゾーンにしていませんか?
そこは最強の安全地帯と感じます。

だってすべては偏りであり、答えがない、
が答えの世界ですから。

なにがあっても何を言われても
「逃げきれる世界」ですよ。

疲れが癒えたら、出たほうがいい世界と感じます。

No.2171 - 2009/10/03(Sat) 08:49:42

Re: うーーむ / hato

安全地帯、とは一体、誰にとっての、なんでしょう。

誰もがまずは、そこにいるしかないでしょう。その上で、起きてくることを生きる、ことがあるようです。そのような意味で逃げきれる世界、を自分は知りません。

こうしたことは、頭だけで理解できることではないでしょう。

No.2173 - 2009/10/03(Sat) 15:17:50

Re: うーーむ / suho
> 安全地帯、とは一体、誰にとっての、なんでしょう。

はい。hatoさんが安心していられる世界観です。
安心の後ろ盾です。

> 誰もがまずは、そこにいるしかないでしょう。その上で、起きてくることを生きる、ことがあるようです。そのような意味で逃げきれる世界、を自分は知りません。

はい。未知はまだまだあります。

> こうしたことは、頭だけで理解できることではないでしょう。

全くです。
本だけで世界を知ることができないように。
まずは沸き上がるもの「全て」に、頭なしに、反れることなしに、発散することなしに、向き合うことも必要です。

No.2175 - 2009/10/03(Sat) 17:33:14

Re: うーーむ / hato

未知はまだまだある・・ない・・そうしたことではありません。

一度でもそれに対峙したなら、未知をエスケープゾーン、と言うことはできないでしょう。安心不安、ありとあらゆるなにか総てを孕みながら・・未知。でしか、ないでしょう。

そして理解することは自ずと起きてくるだけでしょう。誠に不思議、でしょう。生が起こり、そして尚この未知の生を生きるでしょう。

そうですね、
自分として端的に言えば、仕事が忙しい、そんな感じです。

No.2176 - 2009/10/03(Sat) 20:44:30
(No Subject) / ubik0101
>「苦しみは、苦しみでなくてもいいのに苦しみである」のか、「苦しみは、苦しみでなければならないから苦しみである」のかは、わからないのじゃありませんか?
>もう少し、説明してください。
>「悲しみは、悲しみでなくてもいいのに悲しみである」ということ。例えは何でもいいですが。
>「悲しみでなくてもいいのに」と言えるのかどうか。


なんであれ、そう、でなくてもいいのに、そう、です。ということは、そう、ある特定の原因が、ない、ということです。たとえば、なにかの出来事が原因になって、喜びが生起するとしても・・・その喜びは、ただ喜びです。喜びが、喜びである必然性が、ない、ということです。

たとえば同じ出来事に、喜びではなく、怒りを感じたとしても。それならば・・・その怒りは特定の出来事が原因とは言えず・・・また、その怒りが、怒りである原因も、ほかには、ない、ということです。

そして。 なんであれ、そうでなければならないから、そう、であるとしても、その特定の原因が、ある、となんとなく思われても、それを知り得ないという意味では、それを探る人にとっては、原因が、ない、と等価ではないでしょうか。 もっと、簡単には、それを知覚する、しないに関わらず、隠れた根が、ない、ということです。

それで。なんであれ、そう、でなくてもいいのに、そう、です。ということは この世界が、こう、でなくてもいいのに、こう、です。そんな、この世界の不思議を目前にしての実感の表現です。その意味でなら・・・そう、でなくてもいいのに、そう、も。そう、でなければならないから、そう。と言っても、言い尽くしてはないのかもしれません。

そのような名前のつけられないこと、言葉で表現できないことに、言葉は、名前を付けてる、表現してるだけでもあります。 それは、ほかの表現もあり得るでしょう。そんな表現された思考を検討しつくすことは、とても役に立つのですが・・・それよりも主題は、目前の不思議を見てる、そのこと、です。

たとえば、無常と誰かが言ったら・・・その類似なこと、無常でないということ、無関係なこと、そんな事実の有無とかを検討することはできます。

けれど、要点は、それではありません。無常ということは、人が、欲望から解放された。という表明です。もし、探求するのであれば・・・無常とか、無常でないとか、いうことよりも・・・そのような人の有り様です。

それは、この自分、この自分の、あるとして、それだけの問題を解決さえすれば、いいんです。自分のことは自分でしなければならない・・・逆に言うとしてですが・・・それだけでいいのです。イエス・キリスト「わたしの十字架は軽いのです」。

八景島、シーパラダイスの、ジェットコースターです。

No.2127 - 2009/09/24(Thu) 10:26:36

Re: / ルー
私の問題として、「悲しみでなくてもいいのに、そう、である」ということは、ひっかかりではない。
ですので、そのことは考えなくてもいいということでしょうか。
そういう意味なら、わかりますよ。

「一切が無常である」ということも、私は、ひっかかりありません。当然のことです。
ですので、考えなくてもいいでしょう。

No.2128 - 2009/09/24(Thu) 12:05:25

Re: / ルー
「すべてが、不思議」というわけではないので、不思議なことが不思議として存在する、という感じです。
No.2129 - 2009/09/24(Thu) 12:08:02

Re: / ルー
うびさんの目の前には、不思議がいっぱいなのですかぁ?
No.2130 - 2009/09/24(Thu) 12:14:59

Re: / ルー
まぁ、人のことはほっとけってことかな。

夫婦の意見は一致しているようですね。

No.2131 - 2009/09/24(Thu) 12:27:47

Re: / peer
>イエス・キリスト「わたしの十字架は軽いのです」。

勘違いしそうな言葉ですね〜。
自分のできること、自分の範囲を処理するだけなら「軽い」のです。
人に十字架を背負ってもらおうとしたら、とたんに〜重くなる。
また、人の十字架を背負っていると思ったら、重い。かな〜と。

No.2132 - 2009/09/24(Thu) 14:12:02

Re: / ubik0101
>うびさんの目の前には、不思議がいっぱいなのですかぁ?

なにか、ふつうの日常があって、なにか滅多にない?不思議なことがあるのではありません。また。いっぱい、不思議があるのではありません。ときに鳴いてる蝉、秋風、木漏れ日、言葉、呼吸、自分・・・ふつうの日常・・・なぜ、これは、こう、なのか?と、それ、に問うてみてください・・・総てが、不思議で、ない、ことが、ない、です。

>まぁ、人のことはほっとけってことかな。

と、言うまでもなく。 あれこれ日常茶飯事の人間関係の軋轢とか平穏とかではなく、その自分、その自分は何?この問題を解決さえすれば・・・自我の完成・・・世界は人を、安息日の主にする役目を果たすのです。そして、歓喜状態にある、世界を、見せてくれるんです。 そんな意味です。

No.2133 - 2009/09/25(Fri) 08:55:28

Re: / ubik0101
>勘違いしそうな言葉ですね〜。
>自分のできること、自分の範囲を処理するだけなら「軽い」のです。
>人に十字架を背負ってもらおうとしたら、とたんに〜重くなる。
>また、人の十字架を背負っていると思ったら、重い。かな〜と。


そうです。言葉として、その意味内容が、まだ意識されないとしても、すでに意識されてるとしても、解ってる人には、たとえば「わたしの十字架は軽いのです」で、誤解されることなく、そのまま伝わります。

そうでない人には、どうやっても、誤解するしかできないかもしれません。これも、あれこれ日常茶飯事の人間関係の軋轢とか平穏とかではなく、その自分、その自分、の問題の意味です。

八景島、シーパラダイスの、メリーゴーラウンドです。

No.2134 - 2009/09/25(Fri) 09:13:03

Re: / ルー
> >うびさんの目の前には、不思議がいっぱいなのですかぁ?
>
> なにか、ふつうの日常があって、なにか滅多にない?不思議なことがあるのではありません。また。いっぱい、不思議があるのではありません。ときに鳴いてる蝉、秋風、木漏れ日、言葉、呼吸、自分・・・ふつうの日常・・・なぜ、これは、こう、なのか?と、それ、に問うてみてください・・・総てが、不思議で、ない、ことが、ない、です。


それが、「こうでなくてもいいのに、こうである」という不思議に行き着く、という理解でいいですか?

No.2135 - 2009/09/25(Fri) 09:21:08

Re: / ubik0101

> それが、「こうでなくてもいいのに、こうである」という不思議に行き着く、という理解でいいですか?

そうです。

No.2136 - 2009/09/25(Fri) 09:26:40

Re: / ルー
自分についても、「こうでなくてもいのに、こうであるのは何故か?」という路線で問うてみるという理解でいいですか?

もう特に問題を感じませんが。

世界が歓喜状態にあるって、それは私には奇異なことに思えます。
しかし、特に問題を感じません。

では、そういうことで。

イエスキリストの言葉は、自分なりに解釈せず、正しい解説に沿って理解した方がいいでしょう。
「私の十字架は軽い」というのは、神と共に歩むなら、荷物は軽い。今日一日分の荷物を背負うのなら軽い」という意味でしょう。自分の荷物だけでよい、という意味ではないし、他の人に背負わせようとしたら重いとかいう意味は無いでしょう。

No.2137 - 2009/09/25(Fri) 09:31:10

Re: / ubik0101
> 自分についても、「こうでなくてもいのに、こうであるのは何故か?」という路線で問うてみるという理解でいいですか?

そうです。ただ、それは、その人が、この不思議を生きてる、かどうか?ということでもあるので。まず、試してみましょう。

No.2138 - 2009/09/25(Fri) 09:35:31

Re: / ルー
そりゃあ、「このキノコはおっぱいの形をしていなくてもいいのに、何故おっぱいの形をしているのか」という不思議を生きることはあります。
しかし、子供がゲームばかりをしているのを見て、「この子はゲームばかりをしていなくてもいいのに、何故ゲームばかりをしているのか」というのは「不思議」ではなくて、原因があると思うんですよね。

No.2139 - 2009/09/25(Fri) 10:07:00

Re: / ルー
それから、世の中には飢えで死んでいく人もたくさんいるのに、また、家庭内で虐待を受け苦しんでいる命があるのに、ということを考えると、世界が歓喜しているなんて思えないんです。
No.2140 - 2009/09/25(Fri) 10:08:42

Re: / peer
>「こうでなくてもいのに、こうであるのは何故か?」

これは「こうだ」と知っていると、思い込んでいるだけで
じつは、何も知らない。。ということに、突き当たる。
それが不思議という言葉で表現されているんでしょう。
本当に知っているんでしょうか?って。
まったく。自分で自分すら知らない。
「なぜ、自分は自分なのか・・」
「なぜ、これはこうなのか」
「なぜ」と問うてみたら、この世の中。
知らないことばかり。分かっていないことばかり。

No.2141 - 2009/09/25(Fri) 10:19:06

Re: / peer
>イエスキリストの言葉は、自分なりに解釈せず、正しい解説に沿って理解した方がいいでしょう。
>「私の十字架は軽い」というのは、神と共に歩むなら、荷物は軽い。今日一日分の荷物を背負うのなら軽い」という意味でしょう。自分の荷物だけでよい、という意味ではないし、他の人に背負わせようとしたら重いとかいう意味は無いでしょう。


この解釈は、キリスト教が布教するために、都合良く
イエスの言葉を、上手く利用・解釈したものです。
神様とともに歩みましょう。そうであれば、神様が
あなたの、背負ったものを、背負ってくれる。と。

まっ。じっさい。その解釈でもイイんですけどね。
そうであれば、飢えて苦しむ人も、神が救ってくれる。
虐待されている子供も、神が背負ってくれる。
だから、あなたは、何も心配することは、ありません。
・・・ということに、なりそうですね。
「神は、その人に背負えるものしか、与えない」
というのも、ありますか。すべては神の計らい。と。

No.2142 - 2009/09/25(Fri) 10:28:05

Re: / ubik0101
>しかし、子供がゲームばかりをしているのを見て、「この子はゲームばかりをしていなくてもいいのに、何故ゲームばかりをしているのか」というのは「不思議」ではなくて、原因があると思うんですよね。

たとえばゲームは楽しいから・・・では。なぜ、楽しさは、楽しさなんでしょう。また一般的に考えるとして、とあるもの、ことの原因を、ほかのもの、ことに求めても、辿り着く、初めの原因が見つかるのでしょうか。そして、その、もの、こと、その事態そのもの、の裏に求めても、原因が見つかるのでしょうか。

もし見つかったとしても、それは、とりあえずは人の勝手な判断であり・・・それを見つけるのは、いわゆる分離した中心ということもあり得るでしょう。いや。それを見つけると、いわゆる中心が仮定されるのではないでしょうか。そして。それさえも可能で。このように世界はなくてもいいのに、このよう、ではないでしょうか。

>それから、世の中には飢えで死んでいく人もたくさんいるのに、また、家庭内で虐待を受け苦しんでいる命があるのに、ということを考えると、世界が歓喜しているなんて思えないんです。

たとえば、ですけど。昇る木馬も、降りる木馬になり、また、ほかの木馬も昇り降り・・・楽しそうに回転しながら、乗ってる人が歓声を上げます。どのようであれ、見るも聞くも触るも、喜びも悲しみも、否定も肯定も、すべてが完全に活動してる、世界の運動・・・それが歓喜、です。あんまり関係ないかもしれませんが。ここに、いる、だけで、狂ってないなら、幸せでしょう。そして、なぜか狂うことさえできる。驚嘆すべきことに思えます。

そのように。なんでもあり、にもかかわらず・・・そう、でなくてもいいのに、そう、な世界。そうだからこそ、言い方はともかく、人を成長させる、飛躍させる、変容させる、ことができるのではないでしょうか。もしなにか、こうでなくてはならない、だけの世界なら、それは不可能ではないでしょうか。

No.2143 - 2009/09/26(Sat) 10:08:57

Re: / ubik0101
>これは「こうだ」と知っていると、思い込んでいるだけで
>じつは、何も知らない。。ということに、突き当たる。
>それが不思議という言葉で表現されているんでしょう。
>本当に知っているんでしょうか?って。
>まったく。自分で自分すら知らない。
>「なぜ、自分は自分なのか・・」
>「なぜ、これはこうなのか」
>「なぜ」と問うてみたら、この世の中。
>知らないことばかり。分かっていないことばかり。


そうです。 それで。知ってるということも、なにかを知りません。知らない、ということも、なにかを知りません。です。

なにか思考とか、過去とか、いわゆる既知と呼ばれることの外に未知があるわけでなく、その既知も、まったく未知です。

そんなことも含めて、どう分類するかはともかく、物質が、身体が、感覚(知覚)が、感情が、思考が、こう、でなくていいのに、こう、です。それを不思議、と呼びます。

No.2144 - 2009/09/26(Sat) 10:19:56

Re: / ルー
> たとえばゲームは楽しいから・・・では。なぜ、楽しさは、楽しさなんでしょう。また一般的に考えるとして、とあるもの、ことの原因を、ほかのもの、ことに求めても、辿り着く、初めの原因が見つかるのでしょうか。そして、その、もの、こと、その事態そのもの、の裏に求めても、原因が見つかるのでしょうか。
>
> もし見つかったとしても、それは、とりあえずは人の勝手な判断であり・・・それを見つけるのは、いわゆる分離した中心ということもあり得るでしょう。いや。それを見つけると、いわゆる中心が仮定されるのではないでしょうか。そして。それさえも可能で。このように世界はなくてもいいのに、このよう、ではないでしょうか。


考えてもしかたのない問題と、どうにかせねばならない問題とがあるのではないでしょうか。

No.2145 - 2009/09/26(Sat) 11:33:53

Re: / ubik0101
それを決めるのも、妨げるのも、ほかの人ではなく、その本人しかいないのでは、ないでしょうか。
No.2146 - 2009/09/27(Sun) 12:00:55

Re: / ルー
子供の場合は、親の仕事です。
No.2147 - 2009/09/27(Sun) 13:23:12

Re: / ubik0101
>子供の場合は、親の仕事です。

それは・・・子供のことに限らず、その本人の気が付かないことに、ほかの人が気が付く・・・ということがある、という意味でもあるでしょうか。

その、ほかの人からの指摘が、正確かどうかも、その本人が確認すべきことなので。ほかの人からの指摘に、とりあえず自動的に反対意見を言ってみる、拒否する、ということも、よく起こるようです。まあ。指摘されるにしても、されないにしても、その本人が気づく、ということが決定的なことでしょう。

そうでないならば、学びあう、学ばせあう、つもりでも、迷いあう、迷わせあう、ことになりかねません。それは始まりも終わりもない、限りない迷いでしょう。

いつの間にか、意識に依存し、それに躓いてる、倒錯してる、のかもしれません。そうしていたいなら、それも、できるように世界は、できているようです。それも不可欠だとしても、それはもう充分です。

それに・・・それが、自分の奥から生じた疑問なら、ほとんどの場合が、期せずしてですが、いつかは自分で解けるんです。すくなくても、自分は、そうでした。それで過不足はなかったのです。それ以上に重い荷を負う必要はないんです。

また、この自分、この自分のことは、ほかの人が、それを解いたことを聞いて役に立つ・・・例外はありますが・・・そんな領域にない、と思います。

サーフィンのように、どこまでも一人で、自分の疑問に乗って、その果てまで、源泉まで、行くんです。 また、なにも問題がなくなったら、この自分の日常を掘り起こすのです。 疑問があって、解けないなら、それも大切です。 たとえば。なぜ、これは、こうなのか?・・・それは、そのまま世界の不思議に触れてるのです。

たぶん書店に行けば、一生かかっても読み切れないほどの書が陳列されています。しかも毎日のように新発売されているのでしょう。そんなことより、この自分、この自分を読めばいいんです。なにか秘密があるとして、このほかの秘密は、ありません。

なぜかは知りませんが・・・なんであれ、探求するということは自分のことにならざるを得ないのですが、この自分のことは 、この自分で。一番簡単な方法が、一番いい方法です。もちろん、この投稿に疑問があるとしても・・・それも、自分がするんです。

No.2148 - 2009/09/28(Mon) 22:00:48

Re: / ルー
子供の場合のことを言っただけですよ。
子供のない方には関係ありませんね。

No.2149 - 2009/09/28(Mon) 22:25:23

Re: / hato

ただ、一緒に呼吸する、深呼吸する、一緒にご飯をいただく、、

それがどういうことか、わかっていますか。わからないなら、あなたがどうかしているからです。 あなたはここでいつまでも、なにをしているのでしょう。

総てが親の責任だと思われたら、

どんなにか子は苦しいでしょう。重たいのです。疲れるのです。親が血眼になって片寄っているのです。 それでも子は親を大切に思います。親がおかしくても、子は親に尽くそうとします。そんな子がいます。親が未熟であることを、親の限界ということを、子は気付いてしまうのです。それでも親の期待に添おうとするのです。悲しいほど、努力してしまうのです。賢明に彼なりに親を愛し、愛されようとして努力しています。

強いるのは必ず、人のためだと思ってる、なにが大事かもわかっていない、未熟な親です。狭量で我が儘で、人のことを考えてると思ってるだけの、身勝手な人間です。

それでもそこで、子である彼も人です。子は、人です。彼はそれを学ぶことができ、成長することができる、人です。総てが親の責任とはならないだけの、この世界を分かち合ってる、人です。それが学ぶ、ということです。そうでなければ、学ぶことはできません。

総てを経験しなければ解らないなら、理解は困難です。これがわからないなら、出直すしかありません。

まあ、生は。
そうしても、そうしなくても、
いいのだけれど。

いつまでも血眼でそんなご託を並べてるルーさんという人を。

ああ、なんてこの人はいつまでも。
騒がしいシンバル、ドラなのだろうかと。思ってしまうのです。

No.2150 - 2009/09/28(Mon) 23:25:49

Re: / ルー
バカみたい。
子供がゲームばっかりしているから、どうにかせねばならないってだけの話なのに。

いつまでここに居るのかって?

もう来ませんよ。

No.2151 - 2009/09/29(Tue) 01:17:17

Re: / hato

> いつまでここに居るのかって?
>
> もう来ませんよ。



あーよかった。
責了です。

なりふり構わないアホにつき合うのも、限界というものがありますからね。。

No.2153 - 2009/09/29(Tue) 22:13:10
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