>◆自分があるかどうか。自分がないかどうか。あんまりそこにこだわった経験はないのですが。 >ここに生じるものが「ある」もので。生じてるなら全部自分ということじゃないのでしょうか。
なにを行動しても発言しても思考しても、知覚にとっては、そうしてる主体は、ない、です。(ほかの言い方では、ある、のは、五感と、その対象と。意識と、その対象です)。その一方では、知覚にとっては、起こる現象だけが、ある、です。つまり、知覚にとっては、行動、発言、思考が、ある、です。おそらく、それが機能することで自分が設定されるのでもあるので・・・全部自分、と感じられるのかもしれません。
でも、知覚されるということ、そのことは、差、があるということではないでしょうか。たとえば鳥を見ます。音楽を聴きます。ほかの人と話します。なにか差を、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る。として認識されるのではないでしょうか。それも含めて、総てが自分、世界が自分、という感覚もありますが、それなら、自分は、世界とは、まったく違う、という感覚もあります。
ところで。知覚されないからといって、それが、ない、のではありません。たとえば知覚されない自己が、ない、のではありません・・・まったくの、差、がないなら、それ自身は、それ自身を自覚できない・・・それは、まったく、ある、から知覚されない、とも言えます。また。世界が知覚されるといって、世界も知覚も、まったく、ある、のでもありません。それ自身が、それ自身に原因を持つわけではなく・・・どういうわけかは知りませんが・・・なんであれ変化は、現象です。
そして、人は、ある、ない、が機能不全なら・・・それを理解するために・・・知覚に依存する、拠り所にさせられる必要があります。それが停滞です。ある、も、ない、も過不足なく機能してるから、知覚に依存する、拠り所にする、必要がないんです。それが停滞しない、ということです。 それで・・・
>◆自我の機能と定義する。それがなんなのでしょう。 >探しているからなんなのでしょう。 >ないからなんなのでしょう。
>それでも命の生きる営みは無関係に続いて。 >今を生きていて。意識は変化し続ける。
>命の本分。命だけでなく、存在しているすべての存在の営みに敬意を感じます。
>それが。自我であろうが。使用しているであろうが。 >意識がどんな状態にあるかは、さほど問題じゃないように思います。
たしかに。人がどういう状態であれ、それだけならば。だからなんだ。です。怒りも、喜びも、驚きも、平穏も。誤りも、正しさも。真実も。嘘も。それは、世界の増えも減りもしない、その活動です。でも。もし、それだけなら、そこに、なんの意味があるのでしょう。
そしてなお。人は、呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を、つくりかえ続けています。それでも。それだけなら、いくら世界が醜くても美しくても・・・どんなことも・・・ほとんど、なんの意味があるのでしょう。この世界は、いずれ滅びるのかもしれません。
まあ、説明なんですが。それぞれの得意分野はあるのでしょうが。まず、自分が、何なのか?この基礎研究、そのことによって、学ぶことができます。それに、そうでなければ、世界との関係から、いくら、なにを学んでも、基が不明なら、学んだことも危ういかもしれません。さらに、なお。世界に依存しないことが育つのでないなら、それがなんだろう。ではないでしょうか。
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No.2195 - 2009/10/10(Sat) 11:26:02
| ☆ Re: / potanpotan | | | > たしかに。人がどういう状態であれ、それだけならば。だからなんだ。です。怒りも、喜びも、驚きも、平穏も。誤りも、正しさも。真実も。嘘も。それは、世界の増えも減りもしない、その活動です。でも。もし、それだけなら、そこに、なんの意味があるのでしょう。
◆意味があるかどうかという感覚が私にはないです。 どうして、意味があるかどうかということが重要なのですか?
> そしてなお。人は、呼吸をするだけでも、呼吸を止めるだけでも、世界を、つくりかえ続けています。それでも。それだけなら、いくら世界が醜くても美しくても・・・どんなことも・・・ほとんど、なんの意味があるのでしょう。この世界は、いずれ滅びるのかもしれません。
◆意味のある状態だと設定している世界があると、無意味という感覚が生じるのでしょうか。 世界が滅びるとか、人は死ぬとか。どうせ会社は倒産するとか・・それはそれですが。「滅びる」「壊れる」思いにとらわれて、「どうせ〜だから・・」という瞬間を積み重ねをする気持ちに私はならないです。滅びるかどうかもあまり関係ない感じです。 滅びようが滅びまいが・・今。ここに生じている命の営みがあって。そこをみつめると「生き続けている」
> まあ、説明なんですが。それぞれの得意分野はあるのでしょうが。まず、自分が、何なのか?この基礎研究、そのことによって、学ぶことができます。それに、そうでなければ、世界との関係から、いくら、なにを学んでも、基が不明なら、学んだことも危ういかもしれません。さらに、なお。世界に依存しないことが育つのでないなら、それがなんだろう。ではないでしょうか。
◆「自分が何か」 という問いが生じてきません。自分が何かということをどうしてそんなに知りたいのでしょう。 「自分なんてものはない」という結論の背景には 「絶対的な自分を期待している」があるのでしょうか。 学んでいないとか学んでいるとか。存在にたいして、優劣を感じることは私にはあまりありません。 共鳴しているとか、見ている世界を分かち合えるとか。 共鳴していないとか。みている世界の角度が違うとか。 そいう感覚はあります。
学びというのは。測れるものなのでしょうか。 私と共鳴しない人だからといって、この人は学んでいないという感覚は出てこないです。 みんなが。変化していて。 変化していること自体。「学び」。すべての人がそれぞれに学んでいるように私には感じられます。
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No.2196 - 2009/10/10(Sat) 21:58:46 |
| ☆ Re: / peer | | | >意味があるかどうかという感覚が私にはないです。
>共鳴しているとか、見ている世界を分かち合えるとか。 >共鳴していないとか。みている世界の角度が違うとか。 >そいう感覚はあります。
>私と共鳴しない人だからといって、この人は学んでいないという感覚は出てこないです。 >みんなが。変化していて。 >変化していること自体。「学び」。すべての人がそれぞれに学んでいるように私には感じられます。
同意〜
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No.2197 - 2009/10/11(Sun) 01:22:48 |
| ☆ Re: / hato | | | >◆意味があるかどうかという感覚が私にはないです。 >どうして、意味があるかどうかということが重要なのですか?
それは、potanpotanさんの、この投稿に同意。という反応です。
>◆自我の機能と定義する。それがなんなのでしょう。 >探しているからなんなのでしょう。 >ないからなんなのでしょう。 >それでも命の生きる営みは無関係に続いて。 >今を生きていて。意識は変化し続ける。 >命の本分。命だけでなく、存在しているすべての存在の営みに敬意を感じます。 >それが。自我であろうが。使用しているであろうが。 >意識がどんな状態にあるかは、さほど問題じゃないように思います。
あらかじめ、「なにかに意味があるとか、どうとか」。思ってるわけではありません・・・その思いに倒錯してなければ。その思いを排除する必要もないのですし・・・そして、なお。それだけではない、と説明してるつもりです。
>◆「自分が何か」という問いが生じてきません。自分が何かということをどうしてそんなに知りたいのでしょう。
たとえ、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・日常に発見があり、それぞれの技術を関係を世界を学ぶでしょう。そのことは生きてなくてはできないでしょう。きっと楽しさも苦しさも、あるでしょう。人生は、それ自身以外のことでは表現できません。しかし。それは環境、時代、資質などに関わり、なにも、この自分でなくてならないということは、必ずしも確固としたことではないかもしれません。
しかし、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・ただ人であればできること、それは、自分を学ぶことです。それは環境、時代、資質に関わらず、普遍的であり、しかも、この自分、この自分にしかできません。その意味では、絶対、にそうです。そこにも楽しさも苦しさも、なにも欠けることはありません。
だから、そうした。というわけではないのですが、自分は、こうだ、というだけです。「自分が何か」。ほかの人から薦められたから、できるということではありません。なんであれ、例外があるのでしょうが、自発的にしかできません。
また、よほどの決心があっても、どうしていいのか?手段が見つからないかもしれません。楽しい、苦しい、学ぶ、学ばない日常があるだけなんです。そんなことにも気がつかないほど、がむしゃらに求めること。なぜ、自分が自分なのか、生きてるのか、を問うこと・・・ もしかして、自分はすでに自分。という思いこみの前提があるなら・・・また実際に自分が自分なら、それを探求しようとすることはないかもしれません。
>「自分なんてものはない」という結論の背景には >「絶対的な自分を期待している」があるのでしょうか。
ない、のは自我です。それを見る、自己は、絶対?という疑問でしょうか。その自己は、知覚・意識の対象にはなりません。相対も、絶対も、はいる余地?はありません。
>学んでいないとか学んでいるとか。存在にたいして、優劣を感じることは私にはあまりありません。 >共鳴しているとか、見ている世界を分かち合えるとか。 >共鳴していないとか。みている世界の角度が違うとか。 >そいう感覚はあります。
>学びというのは。測れるものなのでしょうか。 >私と共鳴しない人だからといって、この人は学んでいないという感覚は出てこないです。 >みんなが。変化していて。 >変化していること自体。「学び」。すべての人がそれぞれに学んでいるように私には感じられます。
そう感じる、そう思う、までもなく、そう、です。けど。そう思う必要があって、そう思うこともあります。それは、人が、完全には、そう、でない場合です。その欠けたところが、ありあまって世界に投影され、その人の、そう感じる、そう思う対象になります。でなくて、その人がその有り様なら、そう感じても思っても、そう感じなくても思わないでも・・・そういうことを忘れても・・・そうなんです。そして、そうだということを理解できます。
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No.2198 - 2009/10/11(Sun) 11:05:26 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | この上の投稿は、どういうわけか不明ですが、hatoになっていますが・・・ubik0101の投稿です。
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No.2199 - 2009/10/11(Sun) 16:42:12 |
| ☆ Re: / potanpotan | | | > >◆意味があるかどうかという感覚が私にはないです。 > >どうして、意味があるかどうかということが重要なのですか? > > それは、potanpotanさんの、この投稿に同意。という反応です。
〇 ↑ごめんなさい。ubikiさんの書いてくださっている意味がわからなかったです。
> たとえ、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・日常に発見があり、それぞれの技術を関係を世界を学ぶでしょう。そのことは生きてなくてはできないでしょう。きっと楽しさも苦しさも、あるでしょう。人生は、それ自身以外のことでは表現できません。しかし。それは環境、時代、資質などに関わり、なにも、この自分でなくてならないということは、必ずしも確固としたことではないかもしれません。 > しかし、子供でも大人でも男でも女でも戦士でも芸術家でも・・・ただ人であればできること、それは、自分を学ぶことです。それは環境、時代、資質に関わらず、普遍的であり、しかも、この自分、この自分にしかできません。その意味では、絶対、にそうです。そこにも楽しさも苦しさも、なにも欠けることはありません。
〇上記のご意見を読んで、ubikさんと私は違うなと思うところは、「環境、時代、資質」などによって形成されるものであっても、すべての要素が自分であると感じているところ。
取替えのきかない自分。絶対的な自分というものは、はじめから私にはなくて。この、与えられているのか。あるいは選択しているのか。わからないですが。私が生まれて、存在している中で私として意識になっているすべてのものが私であると積極的に受け入れる中で、私は統合をしてゆこうというエネルギーの中で作用して生きているというところだと思いました。
> 自分はすでに自分。という思いこみの前提があるなら・・・また実際に自分が自分なら、それを探求しようとすることはないかもしれません。
〇自分はすでに自分・・ ubikさんの中で、自分でないものってなんでしょう。 > そう感じる、そう思う、までもなく、そう、です。けど。そう思う必要があって、そう思うこともあります。それは、人が、完全には、そう、でない場合です。その欠けたところが、ありあまって世界に投影され、その人の、そう感じる、そう思う対象になります。でなくて、その人がその有り様なら、そう感じても思っても、そう感じなくても思わないでも・・・そういうことを忘れても・・・そうなんです。そして、そうだということを理解できます。
〇欠けたところを世界に投影します。そして。学んでいます。学びきれないところは、欠けたまま、また世界に投影して、学びます。 意図していることは何もないですが。そうなっているなと感じます。
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No.2200 - 2009/10/12(Mon) 00:24:21 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >取替えのきかない自分。絶対的な自分というものは、はじめから私にはなくて。この、与えられているのか。あるいは選択しているのか。わからないですが。私が生まれて、存在している中で私として意識になっているすべてのものが私であると積極的に受け入れる中で、私は統合をしてゆこうというエネルギーの中で作用して生きているというところだと思いました。
そいえば。コピーライターだった頃、ある同僚は、流して(力を入れずに)やる仕事もあるよ、と言ってました。それが信じられませんでした。いつも、できるかできないかもわからない仕事に懸命でした。それって、取り替えのきかない自分、を自覚したい、衝動だったのかもしれません。そんな機能に倒錯してるときは、
それが自我とは、気が付きませんでした。まったく、そうであっても、気が付かないこともあって。自我は、ない、が、ある、振りをしてただけ・・・ことを見ることは・・・ある、のに、ない、振りをしてると言えば言い過ぎですが・・・気がつけない自己、を見る。ことでもあったのだと思います。そんな、
この自分が、この自分自身を知る(ほとんど理論的には不可能なんでしょうが)・・・それは世界の総活動から自我を見る。そんな、とんでもない体験が起きるのが、この世界。と思います。それには・・・たとえば。なにか学びたくないなら、その学びたくない、を学んでるのです・・・そのように総てが必要なのかもしれません。ところで、
たとえば、取り替えのきかない、というのは、その体験が起きたら、了解されます。どんなことも、自分の経緯は、取り替えられることがあったら、それは起こらなかった。と。しかし、どんなことも取り替え可能。それだけではなく、
たとえば善・悪、否定・肯定、あらゆる両極端が、完全に機能すること。それが、両極端にも、その中間にも、偏れないから、両極端が、ない、ということです。これは日常がそうで、自我もなければ、無我もない、とも表現します。
>〇自分はすでに自分・・ >ubikさんの中で、自分でないものってなんでしょう。
ふつうの日常で。歩いたり、柿の樹を見たり、鳥を聞いたり、思考したり・・・知覚は作動してるだけで、この範疇が自分、あの範疇が自分でないと、区別することはできないです。そして。 すべてが自分で、ある。すべてが自分で、ない。どちらも意識には、ないです。けれど、
もしかして、知覚や意識の届かないことなら、それは自分では、ない、かもしれません・・・そいうことは、ない、ということも考えられ、ない、かもしれません・・・でも、もしかして、
ほかの人の、たとえばpotanpotanさんの日常は・・・いくら素材は変わらないとしても・・・その感覚や思考は、知覚や意識の届かないことです。その見えない、ことを意識すると・・・やはり知覚や意識の範囲はあるので・・・ここは自分。でないなら自分ではないと、感じて・・・ほかの人ではない自分、が設定されるようにも思えます。
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No.2203 - 2009/10/12(Mon) 13:10:35 |
| ☆ Re: / potanpotan | | | > そいえば。コピーライターだった頃、ある同僚は、流して(力を入れずに)やる仕事もあるよ、と言ってました。それが信じられませんでした。いつも、できるかできないかもわからない仕事に懸命でした。それって、取り替えのきかない自分、を自覚したい、衝動だったのかもしれません。
〇ええーー。ubikさんはコピーライターをしていたことがあったんですか? ああ、でも、仕事で確かに。誰がやっても良いものは誰がやってもよくて。ちょっとした変化に(例えば出産のため仕事を休むとか)縁がなくなってしまい。結局、「Sさんの音楽がいいのよ」とか。取替えのない存在というとこで響いてゆく関係性が一番続いてゆきます。また、仕事をしていても癒されたり、潤ったり・・感謝が生じて。良い感じです。 ただ、たぶんこれは、意図的に「取替えのない存在になろう!」といって達成できるものなのかよくわかりません。 自分を響いているありようのままにあったら、たまたま響く人が現れて、そういう仕事をしていたら、そういう感じになってきた。という感じでしょうか。
>そんな機能に倒錯してるときは、 それが自我とは、気が付きませんでした。
〇一生懸命がんばることを否定的する感覚は生じないのですが・・恐怖を由来に頑張るのは、痛いです。「いつきられるかわからないから」とか・・消耗してゆくのがわかります。認められようとか評価されたいという感覚を由来に頑張るのは、不満と依存が増幅するのがわかります。
私の中で、気持ちよく頑張れるのは。 いいものをつくりたい。対象がなんであれ、やっていることに対する愛情から生じている頑張りは、喜びがわいてきます。また、同じような由来で頑張れる人とは、性質やバックグラウンドが異なっても、食い違いや見解の差も大切で、豊かさにつながってゆくのがわかります。
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No.2207 - 2009/10/12(Mon) 20:35:17 |
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