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思考の機構 / ubik0101
なにかを考えます。それを、さまざまな状況などに適応してみます。そして、その思考を、その思考自身に、適応してみます。それで、考えたことに誤りはないか、不足はないか、整合性があるか、確認することは役に立ちます。

たとえば「絶対は、ない」と考えたら、それをさまざまな立場に適応してみます。そして、その思考を、その思考自身に適応します。「絶対は、ない」は「絶対は、ない」・・・では、これは成立しない、つまり矛盾のようです。間違いかもしれません。

それで、たとえば逆を考えてみます。「どんなことも相対的だ」。これに同じことを適応します。これも、言い得てないかもしれません。

なにかから抽象した思考というのは、その思考によって思考者の姿勢を現そうと意図するのかもしれません。けど。AをAと言ってるわけではないので、どこか整合性がないことが見つかるでしょう。思考することの機構を使うと、そこから学ぶことも多々あります。

これは、その人が、そのようであることを、そのようであると。真摯に、正確に。思考する、理解する、表現する。でなくては、困難かもしれません。 ずっと前、どこかに、こんな投稿をしたと思います。

続きます。

No.1866 - 2009/07/31(Fri) 10:18:45

Re: 思考の機構 / ubik0101
あそこの樹は、自分じゃない。それを見てる眼などの身体は、自分じゃない。感覚は、感情は、自分じゃない。意識は、自分じゃない。だんだん怖い考えになってきた。自分は、自分じゃない。

では、逆に。自分は、自分だ。じゃ、意識は、自分だ。じゃ、感情は、感覚は、自分だ。だんだん怖い考えになってきた。あそこの樹は、自分だ。

どっちでもあって、どっちでもない。どこでもあって、どこでもない。 それで意味を汲み取ることができないのでしょう。と、このような思考を忘れても、鳥は鳴きます。木々は揺れます。その世界。意味を汲み取る、取らないに関係なく、世界はそう機能してる。という感じがします。

No.1867 - 2009/07/31(Fri) 10:25:05

Re: 思考の機構 / のり
なるほど、
<白の蓮華、赤の蓮華、黄の蓮華。>それでいいんですね。
 “自分じゃないモノ”と“全部が自分”がゴチャゴチャになってます。
<それ自身はそれ自身を知覚・認識できない・・・それが理解されてないと、超えるのが困難な段差>
 この段差にハマッテます。個人的に未だ了解できてない(自我の機能ですね)。
 周りは知りたくない人ばかりですし。自分で了解するしかないんですね。でも自分はごまかせないし。。。。“超古代の日記”勉強します。
<意識は、自分が既に了解していることを、正確に学び、理解することができます。>
<それは、ただ、了解したことを、なんとか身体や意識に教えたい故に、のことかも知れません。>
<なぜその体験、全ては自分、に拘るのか?>
 多分アノ体験が、先ず全部が自分になりその瞬間自分もなくなり清らかな空間になった、と見ているんだと思います。それを追いかけているのかもしれません。なんだか意識が進化して全部になりその後全部に融合するのではないか、なんて思ってます。
自覚してないでも “全部が自分”が機能している、がしっくり来てます。了解する、感覚が未だピンとこないのです。
 そういえばhatoさんのHP、いいですね。素直さ、性格の良さがでていてとてもスンナリ入ってきます。
更新、楽しみにしてます。
 私は“はぐれ雲”、大好きです。

No.1871 - 2009/07/31(Fri) 17:14:00

Re: 思考の機構 / ubik0101
>多分アノ体験が、先ず全部が自分になりその瞬間自分もなくなり清らかな空間になった、と見ているんだと思います。

それは、どうやら、ある種の禅でいう、心身が消える。あるいは道元のいう心身脱落の体験かもしれません。

そいえば、ちらっとしか見てませんが、hatoさんが持ってた、ニサルガダッタ・マハラジの書「私は在る」に、世界を消すには、どうしたらいいでしょうか?という質問があったように思います。

のりさんは、それ、であれば、それ、であることを知覚・認識できない、ということを体験したのかもしれません。これは意識では。それ、でないなら、それ、でないことは知覚・認識できない。ということと区別はできないかもしれません。

けれど。詳細に読み解けば、もしかして、完全な融合と、完全な分離。ある、と、ない、これを弁別できるのかもしれない、と思いました。

No.1872 - 2009/07/31(Fri) 23:32:40

Re: 思考の機構 / hato

>  多分アノ体験が、先ず全部が自分になりその瞬間自分もなくなり清らかな空間になった、と見ているんだと思います。それを追いかけているのかもしれません。なんだか意識が進化して全部になりその後全部に融合するのではないか、なんて思ってます。
> 自覚してないでも “全部が自分”が機能している、がしっくり来てます。了解する、感覚が未だピンとこないのです。


全部が自分、総てはひとつ、、から見ることができるのは、自己はただその自我、ではなかった、、そして不増不減。それで充分と思います。既にのりさんはここを了解されている、と思います。

それ自身は知覚・認識できない、、この理解は、やはり愛の眼差し、導きがあって進むことができますが、ここを経ることで、世界の機能、世界の有り様への理解を得ることができると思います。ubik0101さんが正確に表現されていますが、自分にとっても、世界は触媒です。
その了解を自らのなかで理解したのち、私は私で在る、A=Aをこの世界で学び始めることができるように思います。

了解。例えば、ですが、自分として出来ない、こと。環境的にすることは可能だけど、出来ない、しない、ことを考えるとき、既に自分として了解されていることが思い当たり、理解されることがあるかも知れません。ここは、それぞれの経緯から見出すことができるでしょう。

>  そういえばhatoさんのHP、いいですね。素直さ、性格の良さがでていてとてもスンナリ入ってきます。
> 更新、楽しみにしてます。
>  私は“はぐれ雲”、大好きです。


のりさん、ありがとうございます。嬉しいのです。自分としては、せざるを得なかったようです。図書館さんと一読者さんにも、大変喜んで頂き、祝福頂きました。励まして頂きました。
この世界で。学ばせて頂いてます。

あの幸雲画像をみて、のりさんのはぐれ雲の話から、ジョージ秋山の漫画かな、、とubik0101さんが空想妄想幻想してました。

アパートの周辺を散歩中に、ほおずきを見つけました。ふたつほど持ち帰ったら、ubik0101さんが嬉しそうでした。子供の頃、この時期によく母が吹いてくれたのを思い出します。

No.1873 - 2009/07/31(Fri) 23:44:15

Re: 思考の機構 / ubik0101&hato
この頃気が付いたのですが、プレビュー画面をクリックして、表示される画像の右下をドラッグすると、写真を拡大して見ることができます。(もしかして、Macだけかも知れませんが)
No.1874 - 2009/07/31(Fri) 23:50:47

Re: 思考の機構 / のり
>、自己はただその自我、ではなかった、、そして不増不減。それで充分と思います。既にのりさんはここを了解されている、と思います。
なるほど!はい、ここは了解してますね。
それで充分といえば充分。
でも、じゃあ自己とは何?は自我の機能なのでしょうね。
 ある朝、鳥の声に気づきました。その瞬間、鳥の声は気持ち良い。という意味づけが起こりました。そして、あ〜気持ちいい、と感じました。最初は無意味でした。
 世間は人が生まれた時から、その世間のあらゆる意味を人に教え、意味づけ運動を訓練し、意味づけ習慣を人に植え付けている気がします。そして人は一日中、意味づけ運動を繰り返しています。意味も意味づけ運動も世間で、その主体はない、のです。もともと全てに意味はないのでしょう。それに意味付けする事で自分の状態が反映されるのでしょう。故に、世間は人の成長の触媒、成長を促す機能しかないのでしょう。と思います。

> それ自身は知覚・認識できない、、
できない。を了解するために、了解するまで、いろいろもがいているのかもしれません。全てを試すのは無理ですね。ウビさんの言う“諦めてはいけない”を忠実にやってるのかもしれません。愛の眼差し、導きが足りません。

>
> あの幸雲画像をみて、のりさんのはぐれ雲の話から、ジョージ秋山の漫画かな、、とubik0101さんが空想妄想幻想してました。

 はい、そのはぐれ雲です。大昔、大ファンでした。

No.1875 - 2009/08/03(Mon) 14:07:19

Re: 思考の機構 / のり
> のりさん、ありがとうございます。嬉しいのです。自分としては、せざるを得なかったようです。図書館さんと一読者さんにも、大変喜んで頂き、祝福頂きました。励まして頂きました。
 誰かさんと違ってホントに性格の良さが滲み出ています。
誰かさんは将棋で言えば一手先を聞いているのに、3手先4手先を説明し、その内序盤戦に戻って話し始める癖がありますからね。岡目八目ですが。。。
 ウビさんの目開け瞑想のお陰で意識的に意味づけ運動を止める事もできそうですし、もう少しこっち側(変な言い方)も頑張ってみます。
 自己はただその自我、ではなかった。。。これから了解の感覚は掴めました。
でも、それ自身は知覚・認識できない、、は皆さんどう了解されているのでしょう。
頭の中で了解されているのでしょうか。
これが了解できていませんと、世間の機能・有様は理解できてないのでしょうか。

No.1876 - 2009/08/03(Mon) 14:52:49

Re: 思考の機構 / のり
> それ、であれば、それ、であることを知覚・認識できない、ということを体験したのかもしれません。
う〜、凄いヒントかもしれません。辿ってみます。

No.1877 - 2009/08/03(Mon) 14:54:18

Re: 思考の機構 / ubik0101
ジョージ秋山といえば、デロリンマン。リアルタイムで2、3話だけは読む機会がありましたが、「おろかものめ」と、風の吹くビルの屋上で泣きながら叫ぶ登場人物が、印象に残っています。ネットで検索してみましたが、なかなか面白い物語のようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3

そいえば、大昔。やっと高校生になった頃です。なんとかという作家の小説は、青春の文学だ。という解説を見たことがあります。

そのとき、これから自分は青春と呼ばれる?時期だろう。でも青春にあって、青春、と判る?認識できる?という奇妙な感覚・・・疑問が生じました。しばらくイジイジしてて、そんなの、客観的に言ってるだけだ。でも言葉では言える。とか、なんか釈然としませんでした。

それ自身を、それ自身である。AはAという思考は、奇妙。というのは、なんか本能的な疑問のように思えるかもしれません。

続きます。

No.1878 - 2009/08/03(Mon) 22:36:53

Re: 思考の機構 / ubik0101
また、たとえば。わたしは人間だ。わたしは男性だ。と思考したりするとき、それを意識しないでも、人間だから、男だから、そう、わざわざ言うのは。違う意味を持たせるためでもあるのでしょう。AはAと言うらしい表現に、実は隠れてBを言ってるのでしょう。きっと余計なことを結びつけてるのでしょう。

でも。AはAはと言っても、全然問題ないです。それは、その人が、そうであること。その真摯で正確な。そのままの、余計なことに結びつけない、行動、言葉、思考。つまり日常。それに於いてしか正当性がないように思います。

たとえば。そう、であることを、そう、だと思考すること。天上天下唯我独尊、単独者。たとえば。そう思考しても、暑いなら暑いです。寒いなら寒いです。楽しいなら楽しいです。

それは思考してないでも、ほかのなにかをしてても、そうです。だって、なにかを思考する、思考しない、それで事態が変わる、違うのは、とても奇妙です。

(こんなことは。たとえば、なにかの理由。それは真実の理由も言えますが、嘘の理由も言えます。嘘の理由を言うのは、そうであることを、そうだという、真実を見たくないからで。そうして気がつかない日常を送る人には、金輪際、判らないかもしれません)。

続きます。

No.1879 - 2009/08/03(Mon) 22:46:19

Re: 思考の機構 / ubik0101
そして。そう、思考しないでも、そう。ということは。これまで自分が書いてきた文章は、瞬間的に忘れてしまうのが実情です。それでも、それは、忘れても、そう、です。執着しないに、執着するのではなく。執着しないに、執着しない。とか。自己は無自覚。とか。それは忘れても、そうです。

そのように。たしかに日常そのままの自分を認識したことであれば、AはAです。そして、それは、そう思考しても、思考しなくても、そうです。 そういえば東山寺の方丈は、クリシュナムルティが、観察する、と言うのに対して。観察しない。と、そのHPで言っています。

また。もしかして、禅の公案を解いて、それをアンカーボルト、目印にする、という方法も、ないことはないとは、思います。たとえば。図書館閲覧者さんのブログより。

中邑和尚が言う。

「ここに一つの家があるとする。
 その家には六つの窓があって、その中に猿が一匹居る。
 この猿を東の窓から”山、山”と呼ぶと、
 その猿は”うん、うん”と言って返事をする。
 他の窓から呼んでも同じ事で、”六窓倶に呼べば倶に応ふ”
 である。こんなものだ。」

仰山はこれを聞いて、御垂辞まことにありがとうと前置きして
次のように尋ねた。

「お示しの趣、一々了承いたしましたが、まだお尋ねしたいこ
 とがあります。
 内の猿めがくたびれて休んでいますとき、外の猿めが何とかし
 て相見したいと申しましたら、どういうことになりましょうか。」

こう問われて、中邑和尚は自分のすわっていた縄床から下りて来て、
仰山の手を取って一さし舞い出した。

そうして中邑和尚は言った。
「山、山、お前との相見はすんだ。」と。

(鈴木大拙「禅百題」より一部改変)

タナゴやカサゴも釣れたのですが、メジナ2匹を、刺身と、ニンニク香草焼きにしてみました。

No.1880 - 2009/08/03(Mon) 22:50:41

Re: 思考の機構 / hato

>  ウビさんの目開け瞑想のお陰で意識的に意味づけ運動を止める事もできそうですし、もう少しこっち側(変な言い方)も頑張ってみます。

>  自己はただその自我、ではなかった。。。これから了解の感覚は掴めました。
> でも、それ自身は知覚・認識できない、、は皆さんどう了解されているのでしょう。
> 頭の中で了解されているのでしょうか。
> これが了解できていませんと、世間の機能・有様は理解できてないのでしょうか。


既に了解されているその自体を、意識が理解することにも、それぞれの経緯がありますね。

世界は決着しない、ながらにして必ず決着している、ことが腑に落ちてる、こととも言えるかな、

そんな風に思います。

No.1881 - 2009/08/04(Tue) 01:54:16

Re: 思考の機構 / のり
 大分、お二人を占有してしまいました。恐縮です。
 禅とか道元とか良く分かりません。すみません。
またもう少し、ただどうでも良いことを真剣に行ってみます。
 御垂辞まことにありがとうでした。
 そう言えば、大昔、入谷の朝顔市や浅草のほおずき市に行きました。青い青い物語です。

No.1882 - 2009/08/04(Tue) 18:09:03

Re: 思考の機構 / ubik0101
そいえば、もひとつ思い出しました。図書館閲覧者さんのブログにも、「眼は、その眼を見れない」。という言葉があります。これは、たぶん、眼は、その眼を見れない・・・しかし鳥も、樹も、海も、世界の総てを見れる・・・という意味だと思います。

これは、自己に会った人が、日常、そう、だということを、そう、だと言ってるのではないでしょうか。愛にしても、自己にしても、自覚できないことも、大切と思います。サイトの本文にも、なんでも撮せるカメラ、けど、それ自身は撮せない、とか書いたことを思い出しました。

こちらこそ。のりさんと話すことは、とても刺激になります。いつでも、いくらでも話しかけてください。このごろ、思考しようとして思考できるのは、なぜなんだろう?とか思っていたりします。

No.1883 - 2009/08/04(Tue) 20:54:24

Re: 思考の機構 / hato

のりさんはきっと、どんなにどんなに大切に愛されてるか、気付いていないだけなんだろな〜、なんて思ってしまいます。
のりさんが話しかけてくれると、とても清々しくなって、いつだってすごい嬉しくなってしまうんです。

今日は、我が家の小桜インコです。可愛いですよ、とても美人な女の子です。
ノンノン、ていいます。

No.1884 - 2009/08/04(Tue) 23:51:53
目開け瞑想 / のり
> やはり、のりさんは、瞑想の達人かもしれません。ふつうに自分は、野鳥を聞く。世界を見ます。それは、なにかを、そう思考してないでも、自分が、あるも、ないも総ての意味を、無意味をも、孕んで無意味、です。
 ガーン、ウビさんがそういうから、そう信じてやってみました。以前は、目を閉じれば無限宇宙、で一瞬で入りました。今は目を開けても無限宇宙、です。これ、凄く面白いです。目の前の空気が変わっていきます。でも目には良くないです。コンタクトが乾きます。

 hatoさん、こんにちは。お久しぶりです。お返事ありがとうございます。今回のお二人のアドバイスは私には凄く膨大で途切れ途切れの投稿になります(いつもですが)。ゴメンナサイ。

ウビさんでも4,5年かかったのですね。私も色々な気づきメモが数百枚になりました。その中に思考、感覚、感情、全て自分でない。全ての意味も、瞬時に意味付けする習慣も意味付けする“それ”も社会や周辺環境、自分ではない!全ては無意味!それを知るために人生がある。ってのもあります。メモ同士が矛盾してたりもします。
苦がくるのは多分ベースが愛で無い時でした。何ヶ月もなんでだろうと悩んでましたが、ウビさんと話したらピンときました。

No.1862 - 2009/07/30(Thu) 09:58:58

Re: 目開け瞑想 / 大阪
のりさん、こんにちは。

>苦がくるのは多分ベースが愛で無い時でした。

きっとそうなんでしょうね。
もしかしたら、鬼のような苦、にみんな生活してるのかもしれません。

No.1863 - 2009/07/30(Thu) 13:20:04

Re: 目開け瞑想 / のり
> のりさん、こんにちは。
>
> >苦がくるのは多分ベースが愛で無い時でした。
>
> きっとそうなんでしょうね。
> もしかしたら、鬼のような苦、にみんな生活してるのかもしれません。


大阪さん、こんばんは。
はははっ、そうかもしれませんね。五感地獄の中で麻痺して生活しているのかもしれません。知らぬが花?

No.1864 - 2009/07/30(Thu) 20:31:42

Re: 目開け瞑想 / のり
ubik0101 引用
>どういうわけか・・・たとえば半眼で結跏趺坐する・・・そんな瞑想を、したことがありません。こじつけですけど、そういう瞑想なら、これから瞑想しようとして瞑想するのだろうか。それだけで、変。うーと、瞑想してないときは、瞑想してないのかな。って、感じです。
これこれ、この文章にはめられました。
でも五感の泥沼から蓮の花が咲くのでしょうか。五感地獄が即、天国。雲の上はいつも青空、五感の外もいつも青空。

No.1865 - 2009/07/31(Fri) 09:30:31

Re: 目開け瞑想 / ubik0101
まあ、ここでは 五感というより、どう分類してもいいのですが、人の構成要素、つまり物質、身体、感覚、感情、意識・・・たぶんですが、仏教では、五蘊・・・と呼ばれてることかもしれません。

それは、泥沼のように矛盾に満ちて、「暗雲」のように混乱して・・・増えも減りもしないのに、増えたり減ったりすることも孕んで・・・自我をつくる機能があります。

その自我は、たとえば、善悪が分からないのです。悪いことをしないで、善いことをしよう、としても、無理なんです。

続きます。

No.1868 - 2009/07/31(Fri) 11:24:17

Re: 目開け瞑想 / ubik0101
それは、自己、からしか規定できません。けど、自己は、自我が、ない、ということ・・・自我の完成・・・においてしか、了解できないと、思います。

それは泥沼に咲く蓮華。「雲の上はいつも青空」。けど、そういうことを意識の範疇にあると見なせば・・・いろんな言い方がありますが・・・思考対象にすれば、客観化すれば、分離すれば・・・それは自我の機能です。

続きます。

No.1869 - 2009/07/31(Fri) 11:44:12

Re: 目開け瞑想 / ubik0101
けれど、世界は、それも容認する、なんでもありです。また。この世界だけにも、世界でないところにも、自己を置く必要はないんです。というのも。その人が、そうであることを、そうだと。まったく個人的な了解として、白の蓮華、赤の蓮華、黄の蓮華。そうで、それでいいんです。

ここには、人の経緯によりますが、表現はどうであれ、それ自身はそれ自身を知覚・認識できない・・・知覚・認識できなくても、それ・・・これ自体が真理というわけではないかもしれないけど・・・とかの理解を要することがあります。それが理解されてないと、超えるのが困難な段差、があるかもしれません。

これからhatoさんと一緒に出かけます。

No.1870 - 2009/07/31(Fri) 11:53:56
素直に教えてください。 / のり
ウビさんの前の投稿:
ubik0101
<また、なにかの体験は起こることで、それを理解するのは、やはり努力が必要で。そうして自分の意識に教えて体験の印象を失って、その体験で見たことが、ごく当たり前のことになるのだと思います。>

どのように努力するのでしょうか。どのように意識に教えるのでしょうか。体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。

目を開けたまま瞑想ができるのですね。初めて知りました。この時、確かに目は節穴ですね。でも全体に溶け込んで、気を失いそうになります。仕事中は無理かな?
 “山高ければ谷深し”で“全体が自分”から外れ、ちょっとでも片寄ると鬼のような苦が来ます。

No.1850 - 2009/07/29(Wed) 10:22:31

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
その体験は起こります。感覚、感情、思考の総てが・・・あることと、類似のこと、反対のこと、無関係のことが・・・総活動状態になります。それはどれか、どこか部分的なこと、たとえば怒りとか、喜びとか、平穏とか、善とか、悪とか、好きとか、嫌いとか、個別なことが活動してるわけではありません。

それゆえ、どこにも偏れない・・・あることと、ほかのこととの中間とかではなく・・・活動してる中道とも呼べる状態です。 ちょっとでも、なにかに偏ると、そこから離れる、ということも自覚できます。

そして、徐々に日常の意識に戻っていきます。それも自覚されます。それで自分が、その日常の意識だというだけで苦痛になります。仏教で、総ては苦、と言われるようですが・・・愛しい人と離れる苦、憎い人と会う苦、とか説明されていますが・・・それはもちろん偏り状態、日常意識のことで・・・このことと睨んでいます。なにかを、したりしなかったりの、日常というだけで苦痛です。

続きます。

No.1851 - 2009/07/29(Wed) 12:16:34

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
それは、どこかに・・・おそらく胸に・・・その体験の残り火が燃えてるからです。どうしても、それ、と日常意識との比較が起こります。それ、を対象にしてる自分は、それ、でない、ということが苦痛です。

それの解決法ですが、ひとつには。どうしようもなく湧き上がるのですが・・・ほかの人に、そのような体験をして欲しい、と言えば言い過ぎですが・・・つまりは自我ではなく、自己を知って欲しい・・・ことを、実行することです。それをしないことが、やはり苦痛の大きな原因でもあります。

それでも、できることは、人に、それが起こることだ。みな人は、それに向かうのが必然なんだ・・・諦めてはならない・・・というのも言い過ぎですが・・・ということを、知ってもらう、ということしかできないかもしれません。それだけで充分とも言えます。 知りたくない人には、ふつうに社会生活以外に、関わる必要はありません。

続きます。

No.1853 - 2009/07/29(Wed) 13:01:44

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
も、ひとつには、その体験を理解するということです。それは総活動状態なので、日常意識にとって、情報量に換算できるとして、莫大です。とはいえ、その人の、その体験に至る経緯が反映されています。

とりあえずは、その自分なりの理解をするだけでいいです。それを読み解くことは、実は、日常意識にしかできない、と踏んでいます。苦痛こそ、その理解の原動力です。また理解してないゆえに、残り火が、苦痛としてあります。

>どのように努力するのでしょうか。どのように意識に教えるのでしょうか。体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。

ほかの人の表現とか経緯は、度外視、でいいです。 まず、その体験で見たこと、自我の仕組みを、そのまま言葉で、表現しました。たとえば、自分が何かを考えるのではなく、なにかを考えることによって・・・予め・・・その自分が虚構として設定されるだけです。と。

続きます。

No.1854 - 2009/07/29(Wed) 13:59:45

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
そして、それが自覚できないのは、人は、自分で見ようとしてない努力をしてるからです。自分でその仕組みをつくって、自分で隠して、自分で気がつかないようにしてる。と言葉で表現しました。

さらに。立ち位置が違うと、自我とは、なんであれ世界が人にしてあげてるのに、人がそれを自分でしてると思い違うこと。などとか見えたりもします。

さまざまな立ち位置、そこに実際に行って、見える限り見ます。もし、自分の経緯だけでも、見つくすなら、それらの関係も見え、どの部分的な立ち位置にも、拘る、拠り所を持つ、必要がなくなります。

また。たとえば、意識として、自我が、ない、ことを学ぶと、それを見る中心。ここで言う、残響のような自我が発生します。 無我を張ります。執着しない、に執着します。

そうする必要があるというのは。どのように人が、思考しても、しないでも、総活動してる世界を、狭い範囲でしか機能しない、意識で確認したいから・・・そこで世界を見ます。執着しないに、執着できません。世界を見ます・・・ま、見なくてもですが・・・すると、そんなことも必要なくなります。

>目を開けたまま瞑想ができるのですね。初めて知りました。この時、確かに目は節穴ですね。でも全体に溶け込んで、気を失いそうになります。仕事中は無理かな?

やはり、のりさんは、瞑想の達人かもしれません。ふつうに自分は、野鳥を聞く。世界を見ます。それは、なにかを、そう思考してないでも、自分が、あるも、ないも総ての意味を、無意味をも、孕んで無意味、です。

それは人が、そう認識しないでも、総活動しています。ただ自分がそれを見てることを除いてと言うか、含んで、ほとんど世界は、その体験状態、にあります。それは、偏っても、偏れない。 中道。ただ、そんな世界を見ます。その自分の有り様を見ます。そこから学びます。でも、たしかに料理したり誰かといる時には、そうではないです。

No.1855 - 2009/07/29(Wed) 15:38:20

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
そいえば。「体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。」そうですね。それを自覚(思考)してないでも、自覚(思考)しても、それはそのように、機能してる。という感じです。
No.1856 - 2009/07/29(Wed) 15:58:08

Re: 素直に教えてください。 / のり
> そいえば。「体験で見たことが、ごく当たり前になるとは、どのような感じなのでしょうか。」そうですね。それを自覚(思考)してないでも、自覚(思考)しても、それはそのように、機能してる。という感じです。

先ずは、
なるほど、自覚(思考)してないでも、あの体験が機能している。という事ですね。自分的には“全部が自分”の感覚が機能している、ということ。

No.1857 - 2009/07/29(Wed) 16:33:23

Re: 素直に教えてください。 / のり
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
<苦>
> それは、どこかに・・・おそらく胸に・・・その体験の残り火が燃えてるからです。どうしても、それ、と日常意識との比較が起こります。それ、を対象にしてる自分は、それ、でない、ということが苦痛です。
 確かに日常の意識と比較しているのでしょう。自分的には“全部が自分”の感覚も結構、長続きするようになってきましたがチョッと日常意識に夢中になるだけで、
昔だったら何でも無いほんの些細な事が“おそらく胸に”突き刺さり、血の涙が出る思いをします。“それ、でない”事が苦痛です。すぐに鬼の苦痛をもたらします。

No.1858 - 2009/07/29(Wed) 17:00:43

Re: 素直に教えてください。 / ubik0101
まあ、自分の場合は、ですけど。その体験で見たことを理解するのに。とりあえず4、5年かかりました。それが超古代の日記です。それでも実は、ザルで水を掬うみたいに、なにも残ることはなかったんです。

そのままだと、ああ、そいう体験もあったけど。という感じで、その状態でない自分に罪悪感を持ちながら、なんだか物足りない人生を送って、それだけだったでしょう。

それで、どうも納得できないので、見たことを、さらに見直したんです。詩や散文で表現したりもしました。それにも何年もかかりました。怠惰ではありましたが、その点だけは、かなりの努力しました。

ああだこうだ。これは、こういう仕組みになってる。と見ることは、簡単といえば、簡単です。でも、なぜ、それがそうなってるか?それは問うたびに、知らない、ことに気がつきます。そのことが、却って、見たことを明確にしたのかもしれません。本性が愚かな意識に教えるということは、けっこう大変です。けど、素直、つまり真摯で正確であれば、大丈夫です。

そうしてるうちに、自覚してないでも、実は、それが機能してる。意識から失われても、なくなるものは、なにもない。とか。たとえば自己は意識の範疇にないことを、明確にする。それを意識で理解しようとすることも自我の機能。とかに気がついたりしたんだと思います。

ところで。とくに、その原因がなくて、胸が苦痛のこともあります。経済的、社会的に逆境であっても、まったく平穏に安らぐこともあります。そいうことの、あるなしは、絶対の基準にはならないようにも思います。

No.1860 - 2009/07/29(Wed) 23:03:25

Re: 素直に教えてください。 / hato
こんばんは。お久しぶりです。
ubik0101さんに促されて飛び入りしました。気にさわったら、ごめんなさい。

のりさんがもし、それについて書くとしたなら、思考、感覚、感情、、ではないところ、、なんとも言えない、それ、から言葉は起きてくるように思います。その作業のそこでやっと、意識は、自分が既に了解していることを、正確に学び、理解することができます。言葉にして書き出すことで、意識は学ぶことができます。

ここで、なぜその体験、全ては自分、に拘るのか、というところかも知れません。なんとも言えないそれ、自己、を「知ってる、想定している、何か素晴らしい状態」に依って表現しようとすることによって。または、知ってる何かとして表現しなければという誤解から、無理が生じるのかも、知れません。知ってる、ことは意識の範疇にあるように思われます。ご存じの通り、それ、は、ただ意識の範疇、にありません。

それは、なんでもない故に、たとえば、全ては自分、ということにも、ただ依ることができません。
何であれ固定させようとするなら、無理が生じるかも知れません。総てはひとつ、一体、、それは世界の機構のなかで、そのように感じる、ということかも知れません。了解されたことの、大事な表現であるかも知れませんが、なんでもないそれは、正にその境地故に、なにかどこかの素晴らしい境地、状態としてそこに固定させることができません。

また、体験としてはもうすでに自分に起きていることを、再体験させる必要がないのに、それを起こそう、定着させようとすることで、反動として苦しみが起きている、ことがあるかも知れません。それは、ただ、了解したことを、なんとか身体や意識に教えたい故に、のことかも知れません。

もう、それは、いいんだよ〜、と、世界は伝えようとしているかも、知れません。

いつだったか、とても澄み切った青い空に、可愛らしい雲がぽかんと浮かんでいて、嬉しくなりました。
幸雲と名付けました。

No.1861 - 2009/07/29(Wed) 23:20:40
(No Subject) / peer
>その、いわゆる中心が、どう機能するかなどを、観察したり、
>研究することよりも。その中心が、ある、とか、ない、とか
>捜索するよりも。その中心が、どのようにして生起するのか、
>それを見れば、それで解決です。


まっ。いまのところ。
中心は、あってもいい。ような感じがしています。
中心点から、自分、世界、宇宙へと多重に拡がる輪がある。
その層が、幾重にもどこまでも広がっている。そういう図。

どんなにしても、あるのは、関係性だけのように思います。
自分があるとか、誰かがあるとか。ではなく。
瞬間瞬間にある、自分と誰かの関係、自分と仕事の関係
自分と社会の関係・・・みたいに。
そこに生命感がある。のかな、と。

「自分」だけでは、なんにもない。
みたいな。

No.1846 - 2009/07/22(Wed) 00:41:00

Re: / ubik0101
いわゆる自我は、仮に設定された中心で、それを実体と見なしてることが問題、とも言えます。

たとえば、なにかへの、執着。それは愛が、ない、こととして顕れてるのに、それを愛で、ある、と思い違うために。

たとえば自我は、自己で、ない、こととして顕れてるのに、それを自己で、ある、と思い違うために。いわゆる葛藤や軋轢が必要なのでしょう。

そういう思い違いが、愛に、自己に、出会うことで解消されたら。たしかに、中心が、あるとかないとか、ことさら意識することも、しないことも忘れてしまって。

それでも見聞きしたり、なにかとか誰かとか、関係したり、関係しなかったりする。それを、まあ性格が悪いこともあって、どちらかを重視することもなかった、と思います。

イメージするならば、ですが。そういう関係したり、関係しなかったりは、よこいと(緯)。あるいは泥沼と。人が自己であることは、それを貫く、たていと(経)。あるいは蓮華の華と。そういう図。しかし、それも忘れがちです。

>「自分」だけでは、なんにもない。
>みたいな。


この言葉を見て。この世界では、なにか関係があるから、自分を感じられるのかな?なにも関係がないと、自分を感じられないのかな?と、ふと思いました。まったくの関係、つまり完全な融合も、まったくの無関係、つまり完全な分離も、成立しないように思えます。

No.1847 - 2009/07/22(Wed) 21:41:53

Re: / peer
う〜ん、。わたしたちは、物質ではありませんから。
存在があるとしたら、この世界との関わりで、何があったか・・・何をしたか。
それだけかと、思います。
そして、何をしたいか。だけ。のようなもの。

世界と言うオモチャを与えられて、どう遊ぶか。
どれだけ遊べるか。みたいな感じ。
まっ。わたしが、そういうスタイルである。
というだけのことですが。

No.1848 - 2009/07/22(Wed) 23:59:33

Re: / ubik0101
それで、なんでもありの世界という、素材、で。なにを行動しても、しないでも、話しても、しないでも、思考しても、しないでも。たとえば、そんな、筆、に使われるとしても、使うとしても。 それぞれの、絵、が描かれます。

それは、たんなる素材の配置ではあっても、それではない。する、しない、という筆の痕跡ではあっても、それではない・・・ただの色の点の配置によって、たとえば、美、が顕れるように・・・その自分を、つくってるのではないでしょうか。

たとえば、おもちゃで遊ぶ。そんな自分を、も。そして、それが世界を、つくり変え続けています。その人の意に世界は添います。

そのためには、どのような素材も筆も、総ての意味を孕んで、無意味。たとえば、関係性も、無関係性も・・・なんでもあり・・・ゆえになにかと限定してもいいけれど。限定されない。でなくては不可能。そこで、いかに、ではないでしょうか。

No.1849 - 2009/07/23(Thu) 12:28:04

Re: / peer
>そんな、筆、に使われるとしても、使うとしても。
>それぞれの、絵、が描かれます。


ですねぇ。
なにか、与えられて遊ぶと書くと、世界と自分が別々で
自分が世界を使うように受け取れそうですが。
やっぱり、そうじゃなくて。一体になる。
という感じがします。。。
自分と世界の間に隙間がない。
隙間があることが、葛藤とか苦痛が生じることで。

とはいえ。世界は今日も暑いです。

No.1852 - 2009/07/29(Wed) 12:49:23

Re: / ubik0101
たとえば。世界によってつくられるのは自我なんですけど。その同じ機能が、転換されて、「悪いことをしないで、善いことをしよう」。という、その人の良い特質をつくることにもなる。とも言えます。

そのように、おなじ、もの、こと、言葉、でも、いろんな意味が見いだせる、ことがあります。それが固定されると、束縛にもなり得ます。

まあ、隙間、という、おなじ言葉でも、葛藤や苦痛の原因としてでなく、ほかの意味が見いだせる、かもしれません。自己は、世界の範疇にないことが世界から生じた、とも言えます。

そのことを、世界と自己とに隙間がある。とも、ちょっと苦しいけど、言えば言えます。また、隙間が、葛藤や苦痛の原因ではないかもしれません。

また。葛藤や苦痛がない、ということは、世界との隙間がない、ということでもなさそうです。隙間があるとしても、それを、ことさら広げたり狭めたりしたいなら、葛藤や苦痛は起きるかもしれませんが、もっと深い仕組みがあるかもしれません。

ほかの人が、つまんない空想を事実と見なして葛藤してると、なぜ、そんなことも理解できないのか?が、その人の問題のこともあります。

なにかを思考するということ。ある意味、AをBと言ったりすることは簡単ですが。A=A。そのようであることを、そのようであると表現すること。そのことが問題なくなるためには、素直であること、つまり真摯で正確なことなど、かなりの研鑽が必要に思えます。

No.1859 - 2009/07/29(Wed) 22:00:24
・・・どうも〜 / peer
>よく冷えて結露した赤いカンを渡されました。
>ところが、一息ついて、そのカンを、よく見ると、サイダーでした。


そういえば、ビールのパッケージには、かつてはブルーとか
ゴールドやシルバーなどが、ほとんどでしたが、
アサヒが赤のパッケージで売り出した時「赤では売れないよ」
という前評判を覆して、売れました。
意外性が勝ったというか・・・。
ビールが赤でもイイじゃない。なんでもアリじゃない。みたいな。
ところでしょうか。マーケティングって、面白いですよね。

>ただ街を歩いてることだって、危険とか安全とか、判断して、
>ほとんど自動的なので気がつかない、といったことだと思います。


ふつうは、そうなんですよね。危険があることに、気付かない。
社会不安障害とかは、敏感すぎて、外を歩けません。
風が皮膚にあたっても、痛いと思う。。。そんな感じでしょう。

ずっと「地震があったらどうしよう」ということが頭から
離れなくて、生活に困難が生じている。なんてことがあります。

No.1833 - 2009/07/14(Tue) 23:48:14

Re: ・・・どうも〜 / ubik0101
マーケティング。すこしは関係ある、広告の制作をしていました。とくにコピーは、経験値とかが、まったく意味ないんです。そのつど、0から始める仕事です。

まず商品特性や市場動向などは見えない前提にしてしまって、いいものを作りたいという、熱意、だけです。ボールペンのインクを3日で使い切り、一行のフレーズを亜空間から発見する、根性、という感じです。

>ふつうは、そうなんですよね。危険があることに、気付かない。

まあ、たしかに怖いもの知らず、ということがあります。とくに子供は、危険な場所に行ったりして。そういえば自分も、長崎の急な坂を自転車のブレーキを踏まずに降りて、自慢だったことがあります。自覚できないでも、慢心があるのかもしれません。

そいえば超うろ覚えですけど。キルケゴールが、怖いことを怖くないと思う、怖くないことを怖いと思うのは子供で。怖くないことを怖くないと、怖いことを怖いと知るのが、大人とか、書いてたような気がします。

>ずっと「地震があったらどうしよう」ということが頭から
>離れなくて、生活に困難が生じている。なんてことがあります。


まったく空想なんだけど、事実として、起こり得ることを、心配するのでしょう。その不安とかは、事実だし・・・その不安によって、自分が自分と思う自分をつくってる・・・その自分がまた不安を捏造する・・・ループから離れられないのでしょうか。

そういえば、狂ってる人は理論的だ、とか。狂ってると分からずに狂ってるのではなく、狂ってると分かっていても自分では、狂ってることをどうしようもない、とか聞いたことがあります。たしかに風邪と分かっているだけで、風邪が治るわけではない、です。

No.1835 - 2009/07/15(Wed) 16:08:50

Re: ・・・どうも〜 / peer
え〜と。私も、ほぼubikさんと同じ業界で生活していました。
もう過去のことになりましたが。
結果が出て商品が売れて〜ナンボの仕事でしたね〜私の場合は。
だから毎日がギリギリ・・・。

>自覚できないでも、慢心があるのかもしれません。

まっ。それも愛がある状態ではないか、と思います。
自分は世界に愛されている、自分も世界を愛している
自覚があろうがなかろうが。
愛がなければ・・・怖いでしょう。
そんな愛の中にいたら、自分を守らなくてもよいワケでして。

>風邪と分かっているだけで、風邪が治るわけではない、です。

どうなんでしょうねぇ。
病気は「自分」が作ってますから・・・。
もしかして、風邪と分かっていたら、治るかも知れません♪

No.1837 - 2009/07/16(Thu) 01:12:19

Re: ・・・どうも〜 / ubik0101
まあ、その、空想の地震を見張ってる人も、かなり奇妙ですけど・・・その人に注意深くあることが実現されたら・・・不安によって自分を捏造する必要がなくなったら・・・その不安は、注意深くあることの影だった、補償作用だったと、も言えます。

たとえば執着も、それは愛の、奇妙ですけど、その影と、補償作用と、言えないことはない、です。それさえ愛、がないと起こりえないので、それを愛、とも呼べば、呼べないこともない、ということでしょうか。

ところで。もともとの病気の発生原因が分ったから治る、ということはあるでしょう。けど、あれこれ症状が分かった、から、治るということではないでしょう。

また、病気でも、自覚症状がない、ということがあって、それは、治ったわけではない、もあります。また、治ったけれど、症状は分からない、もあり得ます。どれかというわけではなく、それで困難、といえば困難とも言えます。

No.1838 - 2009/07/16(Thu) 12:54:59

Re: ・・・どうも〜 / peer
>まあ、その、空想の地震を見張ってる人も、かなり奇妙ですけど
>・・・その人に注意深くあることが実現されたら・・・


たぶん、その人は、世界が空想なのだということを
分かっているのではないかと思うのです。
しかし空想のままでは消えてしまいそうなので、
取りつくものが、必要なのかも知れません。

・・・数年前に事故にあって、それ以来、
どこそこが痛いんです。という人がいまして。
どんな治療をしても、その時は良くなるけれど
すぐに、また痛くなる。。ということでした。
で、治療をして、痛みがなくなった、その人に
事故の記憶を消してみてください。と指示する。
痛みと事故の記憶を結びつけることが、痛みが
ぶり返す原因なのだ・・・ということで。

これは、あんがい効果があるようです。
じっさい、上手く痛みと記憶を結びつけない
ようにすると、自分で自分を治してしまいます。
人間というのは、ほんとに不思議な生き物です。

No.1839 - 2009/07/17(Fri) 00:27:56

Re: ・・・どうも〜 / ubik0101
あることと、ほかのことを結びつけて、出会い頭に、理解しようとする・・・けど総ての分野・・・あることと、類似のことと、反対のことと、無関係なこと、を網羅してるわけでないので、結果的に、その思考の内容は変わっても、その形式は一定、ということもありそうです。

たとえば慈しみと憎しみ、暴力と非暴力はおなじこと。などということは、思考が馴染みの道筋を辿るというだけで、狭い分野の活動と言えます。なにか意味を見出そうとするのでしょうが、その形式の範疇に執着してる。執着させられてる。その人の有り様。ということもあります。

また逆に。突飛なことを結びつけて思考することに縛られる。もありそうです。たとえば、偶然の一致をことさら結びつけて、そこに意味があるかのように思いこみたい。シンクロニシティ、とか。結果から原因を探る因果、とか。また、なんだかの関係を度外視すること、とか。どれも、偏り、拘り、になり得ます。

ところで。hatoさんと一緒に、この連休。めざせ自給自足、というわけで田舎を探索してきます。

No.1840 - 2009/07/17(Fri) 12:53:16

Re: ・・・どうも〜 / peer
結局・・・中心があるうちは、どうしようもない
ような気がしています。自分の都合の良いこと。
そこから離れられないのではないか・・・と。

>hatoさんと一緒に、この連休。
>めざせ自給自足、というわけで田舎を探索してきます。


おおぉーー。うまくいくと・・・いいなぁ。

No.1841 - 2009/07/18(Sat) 00:17:30

Re: ・・・どうも〜 / ubik0101
その、いわゆる中心が、どう機能するかなどを、観察したり、研究することよりも。その中心が、ある、とか、ない、とか捜索するよりも。その中心が、どのようにして生起するのか、それを見れば、それで解決です。

そうでないなら、たとえば自分の都合に、周囲を合わせたい、その仮の中心を、ほんとの中心でない、などとも思ってもない、そんな状態なのでしょう。

たとえば自分によって、都合のいいようにしたいという思考が生起してるのではなく、そんな思考によって、自分が生起してる、仮定されてる、この場合は中心は、虚構です。

いわゆる中心が、いわゆる分離とか断片を作りだしてるのではありません。まったく逆です。いわゆる分離とか断片が、予め、いわゆる中心を作りだしているのです。これだけです。

しかし、それは、概念ではなく、事実として、そうだと。ということを概念的に知っても、どうにもなりません。 誰でも、自我が問題だ、と思うのですが、その事態が、目眩ましになる、こともあります。

それは、たとえば自我が希薄なら、また消去すれば。また、極限まで強ければ、理解される。ということでも、ありません。それだけでは、解決しません。

それほど徹底して人は、自我ではなく、自己でなくては、ならない。ということです。ベースは、 自分は何か?です。 また、人が自己であり得るようになってる。そのために仮定された中心が用意されてる。これは恵みです。

>おおぉーー。うまくいくと・・・いいなぁ。

うん、実現できると嬉しいのですが。あかるい緑の平野という感じで、たくさん河もあって、畑や樹も、とてもいいです。ちょっとクルマで走ると、たくさんの堤防がある漁港もあって。メバルなどが釣れました。

No.1842 - 2009/07/21(Tue) 11:27:11

Re: ・・・どうも〜 / hato

> うん、実現できると嬉しいのですが。あかるい緑の平野という感じで、たくさん河もあって、畑や樹も、とてもいいです。ちょっとクルマで走ると、たくさんの堤防がある漁港もあって。メバルなどが釣れました。

ちょっと神経質なダーリンが、「自分も運転する〜、」なんて言ってたので、よほど気に入ったかな、の感じでした。自給自足してるおじさんの話聞いて、畑を見て、釣りに行って、蕎麦打ち体験したりして。あかるい平野の緑に憩った三日間でした。

今のアパートも、これで不思議に自然の坪庭との感じで、なかなか気に入ってますが、自給自足。いいですね。時がきたらそれもいいかな、と思います。

こちら、可愛いフグくん。いいお天気でいい海で、釣られてしまってぷーぷーおこってました。メバルと同じ、ちょっと見つめ合って、すぐ海に戻しました。

No.1843 - 2009/07/21(Tue) 21:32:12

Re: ・・・どうも〜 / hato

健気で愛らしい、緑の家のナナです。

No.1844 - 2009/07/21(Tue) 21:39:40

Re: ・・・どうも〜 / peer
おおーー。みごとなフグ。こんなところにフグですか〜
どうするのかと思ったら、海に戻したんですね。
・・・それは、よかった。

その明るい緑の平野。よさそうな感じ。

No.1845 - 2009/07/22(Wed) 00:32:02
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