>その、いわゆる中心が、どう機能するかなどを、観察したり、 >研究することよりも。その中心が、ある、とか、ない、とか >捜索するよりも。その中心が、どのようにして生起するのか、 >それを見れば、それで解決です。
まっ。いまのところ。 中心は、あってもいい。ような感じがしています。 中心点から、自分、世界、宇宙へと多重に拡がる輪がある。 その層が、幾重にもどこまでも広がっている。そういう図。
どんなにしても、あるのは、関係性だけのように思います。 自分があるとか、誰かがあるとか。ではなく。 瞬間瞬間にある、自分と誰かの関係、自分と仕事の関係 自分と社会の関係・・・みたいに。 そこに生命感がある。のかな、と。
「自分」だけでは、なんにもない。 みたいな。
|
No.1846 - 2009/07/22(Wed) 00:41:00
| ☆ Re: / ubik0101 | | | いわゆる自我は、仮に設定された中心で、それを実体と見なしてることが問題、とも言えます。
たとえば、なにかへの、執着。それは愛が、ない、こととして顕れてるのに、それを愛で、ある、と思い違うために。
たとえば自我は、自己で、ない、こととして顕れてるのに、それを自己で、ある、と思い違うために。いわゆる葛藤や軋轢が必要なのでしょう。
そういう思い違いが、愛に、自己に、出会うことで解消されたら。たしかに、中心が、あるとかないとか、ことさら意識することも、しないことも忘れてしまって。
それでも見聞きしたり、なにかとか誰かとか、関係したり、関係しなかったりする。それを、まあ性格が悪いこともあって、どちらかを重視することもなかった、と思います。
イメージするならば、ですが。そういう関係したり、関係しなかったりは、よこいと(緯)。あるいは泥沼と。人が自己であることは、それを貫く、たていと(経)。あるいは蓮華の華と。そういう図。しかし、それも忘れがちです。
>「自分」だけでは、なんにもない。 >みたいな。
この言葉を見て。この世界では、なにか関係があるから、自分を感じられるのかな?なにも関係がないと、自分を感じられないのかな?と、ふと思いました。まったくの関係、つまり完全な融合も、まったくの無関係、つまり完全な分離も、成立しないように思えます。
|
No.1847 - 2009/07/22(Wed) 21:41:53 |
| ☆ Re: / peer | | | う〜ん、。わたしたちは、物質ではありませんから。 存在があるとしたら、この世界との関わりで、何があったか・・・何をしたか。 それだけかと、思います。 そして、何をしたいか。だけ。のようなもの。
世界と言うオモチャを与えられて、どう遊ぶか。 どれだけ遊べるか。みたいな感じ。 まっ。わたしが、そういうスタイルである。 というだけのことですが。
|
No.1848 - 2009/07/22(Wed) 23:59:33 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | それで、なんでもありの世界という、素材、で。なにを行動しても、しないでも、話しても、しないでも、思考しても、しないでも。たとえば、そんな、筆、に使われるとしても、使うとしても。 それぞれの、絵、が描かれます。
それは、たんなる素材の配置ではあっても、それではない。する、しない、という筆の痕跡ではあっても、それではない・・・ただの色の点の配置によって、たとえば、美、が顕れるように・・・その自分を、つくってるのではないでしょうか。
たとえば、おもちゃで遊ぶ。そんな自分を、も。そして、それが世界を、つくり変え続けています。その人の意に世界は添います。
そのためには、どのような素材も筆も、総ての意味を孕んで、無意味。たとえば、関係性も、無関係性も・・・なんでもあり・・・ゆえになにかと限定してもいいけれど。限定されない。でなくては不可能。そこで、いかに、ではないでしょうか。
![]() |
No.1849 - 2009/07/23(Thu) 12:28:04 |
| ☆ Re: / peer | | | >そんな、筆、に使われるとしても、使うとしても。 >それぞれの、絵、が描かれます。
ですねぇ。 なにか、与えられて遊ぶと書くと、世界と自分が別々で 自分が世界を使うように受け取れそうですが。 やっぱり、そうじゃなくて。一体になる。 という感じがします。。。 自分と世界の間に隙間がない。 隙間があることが、葛藤とか苦痛が生じることで。
とはいえ。世界は今日も暑いです。
|
No.1852 - 2009/07/29(Wed) 12:49:23 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | たとえば。世界によってつくられるのは自我なんですけど。その同じ機能が、転換されて、「悪いことをしないで、善いことをしよう」。という、その人の良い特質をつくることにもなる。とも言えます。
そのように、おなじ、もの、こと、言葉、でも、いろんな意味が見いだせる、ことがあります。それが固定されると、束縛にもなり得ます。
まあ、隙間、という、おなじ言葉でも、葛藤や苦痛の原因としてでなく、ほかの意味が見いだせる、かもしれません。自己は、世界の範疇にないことが世界から生じた、とも言えます。
そのことを、世界と自己とに隙間がある。とも、ちょっと苦しいけど、言えば言えます。また、隙間が、葛藤や苦痛の原因ではないかもしれません。
また。葛藤や苦痛がない、ということは、世界との隙間がない、ということでもなさそうです。隙間があるとしても、それを、ことさら広げたり狭めたりしたいなら、葛藤や苦痛は起きるかもしれませんが、もっと深い仕組みがあるかもしれません。
ほかの人が、つまんない空想を事実と見なして葛藤してると、なぜ、そんなことも理解できないのか?が、その人の問題のこともあります。
なにかを思考するということ。ある意味、AをBと言ったりすることは簡単ですが。A=A。そのようであることを、そのようであると表現すること。そのことが問題なくなるためには、素直であること、つまり真摯で正確なことなど、かなりの研鑽が必要に思えます。
|
No.1859 - 2009/07/29(Wed) 22:00:24 |
|