>え〜と。 >いまごろ感想ですが。 >一緒に伊豆に旅をした気分になりました。
>なんだか潮のかおりまで・・・。します。
>それと「すべての声、皆が自分でもある、ことをとても。>>わかります。」の言葉が。 >いまごろ、、しみじみと。しみじみと。
嬉しいですね、とても。
この小さな部屋の小さな窓辺には 旅で出会った海女さんたちが、 夜光貝で作ったという風鈴が、 風に揺られ、カラコロン・・ 優しい音を奏でています。
山は山。 海は海。
風は風。
そこに誰も、いず。
人は、人に、なり。
そして、尚。
そんなふうに、思います。
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No.1757 - 2009/06/29(Mon) 21:32:39
| ☆ Re: 風の知覚 / ubik0101 | | | たとえば。ある人が、ほかの人を好きでも嫌いでも無関心でも。なにか判断するとしても。その判断基準が自覚されても、されなくても。その、ある人の中の、ほかの人で、つまり現実の、ほかの人を見てると思いながらも、空想の、ほかの人で。空想の現実を生きてるって、こともありそうです。
そのように空想と現実が差があると、ほかの人との衝突が起こって・・・もちろん融和も起きるのですが・・・たとえば、現実の、ほかの人のためになるには?、とか考える機会をもたらしてくれます。そしてまた、衝突も融和も起こらないから現実に生きてる、と思いながらも、空想の現実を生きてるってこともありそうです。
まずは、ほかの人にしても世界にしても。自分の外と思っていたけど、それは実は、中でしかなかった。という経緯がありそうです。で、結局は、総てが、自分の中でもない、外でもない、のではないでしょうか。 どちらかでしかないなら、なにも起こらないかもしれません。
どっちでもないから・・・完全な分離も、完全な融和もないから・・・どっちでもあり得て・・・そこに両極端が仮定され、振幅が生じ、いろんな運動が起きるのではないでしょうか。
それで、そこのところに起こる、ほかの人との衝突や融和を、いくら研究しても、人が自己を知ることには無関係に思えます。でも、そのような無関係なこととして、変調された概念として、なにかを理解する。という形式。それならそれで、そのようだということは、その人に理解される、と思います。
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No.1758 - 2009/06/29(Mon) 21:34:40 |
| ☆ Re: 風の知覚 / peer | | | まあ。それにしても。 何かを言う。すると抵抗がある。 それでは、こういうのは・・・と言い直すと そこにもまた抵抗がある。 なんなら、こういうのも・・・と表現してみる すると、またまた抵抗がある。
なんとも、面白い。 相手がテーマを与えてくれるので、私の中から いままで形になっていなかったモノが形を成す。 書いていながら「なるほど、そうなのか」と 自分で、出てきた、その形を見てビックリ〜とか。
そんなこんなを繰り返していました。 在庫一掃大処分〜みたいな。
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No.1759 - 2009/06/29(Mon) 23:55:10 |
| ☆ Re: 風の知覚 / ルー | | | > それで、そこのところに起こる、ほかの人との衝突や融和を、いくら研究しても、人が自己を知ることには無関係に思えます。でも、そのような無関係なこととして、変調された概念として、なにかを理解する。という形式。それならそれで、そのようだということは、その人に理解される、と思います。
そうですね。 「変調された概念」ね。 それを、変調された概念だとは本人は気付かないわけでしょ。 自分にとっては、事実だと言うわけでしょう。 ま、「そういう人もいるんだなぁ〜」という感じです。
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No.1760 - 2009/06/30(Tue) 09:05:38 |
| ☆ Re: 風の知覚 / peer | | | ある部分で、この人は変調していると感じるとき 対に居る自分は正調だという基準を持ちます。
しかし、どうでしょうね。 何かが変調している。と本当に自分は正調なのか。 逆もありうる。。。 ただ、ある動きの中に、その形と見たものがある。 形が生まれる時は、部分になりますから、全体を 観ているワケではない。「これを見た」に入らない 除かれた部分の方が、大きい。ので、 それをどう、また観るか。 大きな大きな自分の視野に入らないモノを。
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No.1761 - 2009/06/30(Tue) 09:54:28 |
| ☆ Re: 風の知覚 / ubik0101 | | | たしかに。意識としては自覚してないけど理解している、そういうことが、とくに掲示板での対話に引っ張られて顕れることがあります。
また。たとえば怒ったり平穏だったり満足や不満を感じたりしたら、このようにある自分を、このようにあると、そのまま認める。それまで自我から、さんざん学んだことが蓄積されてて、そこで役に立ちます。
たとえば、
>ある部分で、この人は変調していると感じるとき >対に居る自分は正調だという基準を持ちます。
として、自我の機能を意識できる、こともあります。けど。これが、それしかない、とは限りません。たとえば自我は、ほかの人が憎いとか好ましいとか、分離、対立とか、比較とか、自己を知りたい衝動とか、さまざまな様式であらわれます。
その様式が無線放送の搬送波のように働いて、それに自我が乗って顕れる・・・その様式そのものは、とくに自我の機能ではありません。たとえば、赤は、危険も意味するし、活力も意味しますが、赤は、ただ赤です。(でなくて、たとえば技術的思考が、いわゆる心理的思考になり得るでしょう)。そのようにして意識化される方法そのことを、変調、と呼んでいます。
それで前回の投稿、言いたかったのは、中道。それは、とある対立、両極端とかがあって、その中間などではなく、ありとあらゆることが自覚されても、されないでも、機能してる、ということでした。
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No.1762 - 2009/06/30(Tue) 16:03:44 |
| ☆ Re: 風の知覚 / peer | | | >それで前回の投稿、言いたかったのは、中道。それは、とある対立、両極端とかがあって、その中間などではなく、ありとあらゆることが自覚されても、されないでも、機能してる、ということでした。
はい。実際は、外も内もないワケで・・・ ひとつのものを分けて認識しようとしているだけ。ですから。 しかし、外と内があると思い込んでいる人たちに対して どのように関わるか。実際は、ソコが〜難しくもあり。 とかなんとか。
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No.1763 - 2009/07/01(Wed) 00:42:23 |
| ☆ Re: 風の知覚 / ubik0101 | | | そこで・・・変と言うか、当たり前と言うか・・・外や中があっても、分離や対立や比較があっても、それも世界の・・・神秘な・・・活動と見ます。おなじように自我も無我も、あってもなくても、なんでも無問題です。
さんざん自我から学んだことが無自覚の叡智として活動している、悲しんだり怒ったり楽しんだり静寂だったりの日常を、そのまま認める、ことで安穏(変な言い方)です。その説明ですが、どうあっても総活動してる世界。つまり中道から外れようがない、です。
でも偏りに執着したい自我は、したいことを何でもしていいのでしょうか?と問うかもしれません。ここは。なんども引用します。「心の欲するところに従って矩を越えず」。「悪いことをしてはいけない。良いことをしよう」。この匂い立つような美しさが世界に満ちています。
>とかなんとか。
それは、その人に世界との、また自分との分離があるということもあるのでしょう。けど。愛がないのに愛があると、自由がないのに自由があると、幸福がないのに幸福があると。思ってることにもあるでしょう。それなのに、その愛、自由、幸福から始めることが問題であり、倒錯、ではないでしょうか。
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No.1764 - 2009/07/01(Wed) 14:18:51 |
| ☆ Re: 風の知覚 / peer | | | >でも偏りに執着したい自我は、したいことを何でもしていいのでしょうか?と問うかもしれません。 >ここは。なんども引用します。「心の欲するところに従って矩を越えず」。 >「悪いことをしてはいけない。良いことをしよう」。この匂い立つような美しさが世界に満ちています。 >それなのに、その愛、自由、幸福から始めることが問題であり、倒錯、ではないでしょうか。
悪いことも良いことも分からない。愛も自由も幸福も知らない。 とすれば、良いと思って、愛と思って、自由だと思って、幸福だと思って、関わってみるしかないのかも知れません。 良いことを与えたら良いことが返ってくるし、愛にも愛が、自由にも自由が、幸福にも幸福が返る。
与えたものは、返ってきたもの。なのでしょう。 それは、自分で分かるんじゃないでしょうか。自分が何を与えたのかが。
人は「悪いことをしないでおこう、良いことをしよう」と思っても、そのようにいかない。 愛を自由を幸福を、と思っても、そこに至らない。。。という至らない自分を意識する、逃げない。そこから始めよう。 ということではないでしょうか。最初から、それが出来るというなら、倒錯です。
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No.1765 - 2009/07/01(Wed) 23:59:23 |
| ☆ Re: 風の知覚 / ubik0101 | | | >与えたものは、返ってきたもの。なのでしょう。 >それは、自分で分かるんじゃないでしょうか。自分が何を与えたのかが。
それ、たとえば愛は、世界の事象の範疇を超えています。なので、そいう原因と結果ではないでしょう。というより、どんな原因と結果であれ・・・「与えたものは、返ってきたもの」という順当な結果であれ、その逆の結果であれ、とくに関係が見出されなくても・・・それ、は愛の現れようとしてること、ではないでしょうか。
たとえば意地悪が、かえって、ほかの人の役に立った。たとえば、親切が、かえって仇になった。まったく水泡に帰した・・・なんでもありです。それで、この世界は、混乱、無意味、と見えても・・・この、なんでもあり・・・ここに人が愛を得る、自己になる、働きがあるので・・・でなければ矯正、強制です・・・なんでもありでなくては、その働きは不可能で、そのように、この世界が、あまりによく出来てるので、それに魅惑されるということもあります。
>人は「悪いことをしないでおこう、良いことをしよう」と思っても、そのようにいかない。 >愛を自由を幸福を、と思っても、そこに至らない。。。という至らない自分を意識する、逃げない。そこから始めよう。 >ということではないでしょうか。最初から、それが出来るというなら、倒錯です。
たしかに。そうです。これは自己についても同様です。説明ですが、もし人が、自己を知らないことを知らないから、知らないわけではない・・・つまり知ってる・・・という暗黙の誤った了解で日常を暮らしてるなら、そのようなことです。
この暗黙の理論的には正しくも思える誤りの隙間に。傲慢とか、自我が忍び込むのでしょう。そしてそれが、素直さとか、自己の、それがないこと、として機能するので。人は、それをあらしめようと、あがく、もがく、ことができるのではないでしょうか。
そして、たとえば愛から始めよう。ということは、それを得た、それを見た、それを知った(なんであれ変な言い方)人は、たとえば心理的思考、葛藤からではなく、愛から始めよう。という意味です。
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No.1766 - 2009/07/02(Thu) 10:30:01 |
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