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自己 / ルー
>>ですから、ひとつひとつの問題にあたっていくよりも、「自己に出会う」ということが大事だということでしょうか。

>まあ、そうです。ひとつひとつの問題にあたっていくことなくして。また、心理的な問題、葛藤などを度外視してさえ、自己を探求することなくして。ありとあらゆる努力も怠惰もなくして。いわゆる「自己に出会う」ことも困難でしょう。

>でも、いわゆる「自己に出会う」こと、なくして自己であれ世界であれ、それを学ぶことは困難・・・ほとんど不可能・・・でしょう。「自己に出会う」こと、それが学ぶことの終わりではなく始まりです。

自己というものが、感覚的にちょっとわかりました。

私が人に振り回されるのは、自己に対する認識を持っていなかったことと関係あるように思います。

人に対する探求をやめるわけではありませんが。

No.1725 - 2009/06/15(Mon) 09:10:32

Re: 自己 / ubik0101
まったく自己って、無自覚で、いいんです。でも、それを自覚しようとする働きが自我で。なんにも波風がない日常でも、いろいろ空想・妄想・幻想してでも、わざわざ人間関係の軋轢とかの・・・問題を起こしてでも・・・そうしてる主体を、自覚しようとします。それに巻き込まれたりします。そこで、

どうしても・・・と言いたいのですが・・・自覚しようとするのではなく、実際に、自己を自覚すれば、いいのです。まあ、なんだって人は自分のためにしてるんでしょうけど。ほんとーに、自分のために、すればいいんです。そういうことは、誰もが、どうしても自分でやんなくちゃならない、というのが世界のルールのようです。

No.1728 - 2009/06/15(Mon) 13:39:35

Re: 自己 / ルー
自己のようなものを実感する瞬間があったということを報告したかっただけです。

自分の自己を感じれば、他の人にも自己があるのだなと感じるでしょう。そういう瞬間があったのです。

それは、人に振り回されない軸となるでしょう。

No.1729 - 2009/06/15(Mon) 14:20:59
(No Subject) / 雄大
確かに人間の勘というのはバカにできないと思いますね。
私は4半世紀もの間調査の仕事に携わってきました。

既知の情報の基づいて論理的思考を駆使してあらゆる仮説を立てる。

これは調査対象をはかる目盛、基準値の様なものです。
これを利用して調査の行為の誤差を修正し、目標に向かって修正していく。

でも最後はやはり勘なのですね。
ある朝私は出勤するために駅のホームに立っていました。

すると何かが天から降って私の中に降りて来た感じがして、全てが繋がって何かがおかしい事を体感した気がしました。
それでその後それを実証するための裏付け調査をした。

人は話をしていると欠伸が移るのと同様、心が感応しますから。

だから昔に人は他人の呼吸を感じて観察していたのでしょうね。

まあ私は催眠も少しは研究していた時期があり、意図的に催眠技法を調査に活用をしていました。

これは相手を催眠に入れるのではなく、自分が催眠状態に入るのです。
実感はなかったけど、仕事の結果だけを見ていると効果はかなりありましたね。

ルドルフシュタイナーが、視覚、聴覚、臭覚、味覚等すべて触覚から発達したものだと言ってましたっけ。

No.1710 - 2009/06/07(Sun) 23:30:00

Re: / peer
部分部分を認識しているだけです。思考は。

それが、ある瞬間に全体になる。
それが直観かと思います。点が線になる。線が面になる。

No.1713 - 2009/06/08(Mon) 11:59:49

Re: / 雄大
。点が線になる。線が面になる。

この言葉は私も気に入ってよく使っています。

No.1717 - 2009/06/08(Mon) 22:03:35

Re: / peer
あら。雄大さんの好きな言葉でしたか。
わたしは〜たぶん使ったことが・・・ほとんどないかも。
雄大さんの文章を読んでいて、ふっと頭に浮かんできたまま
書いてみましたワケで。

No.1718 - 2009/06/10(Wed) 01:02:01
(No Subject) / ルー
思考と有り様は関係ないですかね。。。

有り様は思考に影響を与えないでしょうか。

No.1690 - 2009/06/05(Fri) 14:00:27

Re: / ubik0101
もっと正確に言えば・・・思考と、人の有り様は・・・無関係に、関係する。です。たとえば、

>思考と有り様は関係ないですかね。。。

>有り様は思考に影響を与えないでしょうか。

と、ルーさんでも、ほかの誰かでも、そのように思考できます。あるいは、この逆の、類似の、無関係な思考も、ルーさんでも、ほかの誰かでも、思考できます。また、思考してない、もあります。なんでもあります。

つまり思考、また思考してない、ということからは、その人は特定できません。でも無関係だけど関係はある。だからこそ、なんだかの特定の人の状況とか環境とか有り様に関係する思考でもあり得る、ということではないでしょうか。

そこで、たとえば思考に、捕らわれる、同一視するとか。解放される、非同一視とか。が可能になるようです。もともと無関係に関係してるのでなければ、解放は困難ではないでしょうか。

ついでですが・・・クリシュナムルティだと思いますが、思考は感覚、だと言ったそうです。思考は人が知覚(感覚)することです。山に登れば、その風景が、海に行けば、その風景が見え(知覚)されるように。そして、その主体は知覚されないということを、思考は感覚、というレトリック(省略法)で表現しているのかもしれません。

No.1692 - 2009/06/05(Fri) 21:11:51

Re: / ルー
> もっと正確に言えば・・・思考と、人の有り様は・・・無関係に、関係する。です。たとえば、
>
> >思考と有り様は関係ないですかね。。。
>
> >有り様は思考に影響を与えないでしょうか。
>
> と、ルーさんでも、ほかの誰かでも、そのように思考できます。あるいは、この逆の、類似の、無関係な思考も、ルーさんでも、ほかの誰かでも、思考できます。また、思考してない、もあります。なんでもあります。


可能性としては何でもある。
しかし、他は選ばず、それを選ぶところに、その人が出るのではありませんか。
たとえば、ubik0101 は、「いくら嘘をついてもいいですよ」と人に言えますか?
言うことはできるけど、言わないんじゃないですか?
そこに、その人の有り様が表れると思うんですけど。
そんな単純なレベルのことを言ってるのじゃない、ということでしょうか。
>
> つまり思考、また思考してない、ということからは、その人は特定できません。でも無関係だけど関係はある。だからこそ、なんだかの特定の人の状況とか環境とか有り様に関係する思考でもあり得る、ということではないでしょうか。
>
> そこで、たとえば思考に、捕らわれる、同一視するとか。解放される、非同一視とか。が可能になるようです。もともと無関係に関係してるのでなければ、解放は困難ではないでしょうか。
>
> ついでですが・・・クリシュナムルティだと思いますが、思考は感覚、だと言ったそうです。思考は人が知覚(感覚)することです。山に登れば、その風景が、海に行けば、その風景が見え(知覚)されるように。そして、その主体は知覚されないということを、思考は感覚、というレトリック(省略法)で表現しているのかもしれません。

No.1693 - 2009/06/05(Fri) 22:07:14

Re: / ルー
> そこで、たとえば思考に、捕らわれる、同一視するとか。解放される、非同一視とか。が可能になるようです。もともと無関係に関係してるのでなければ、解放は困難ではないでしょうか。

そうそう。だから、解放は困難なのです。
有り様と無関係である場合、だからこそ、解放というか有り様の変化が困難である、という場合もありそうです。

> ついでですが・・・クリシュナムルティだと思いますが、思考は感覚、だと言ったそうです。思考は人が知覚(感覚)することです。山に登れば、その風景が、海に行けば、その風景が見え(知覚)されるように。そして、その主体は知覚されないということを、思考は感覚、というレトリック(省略法)で表現しているのかもしれません。

何とかしなければならない、という、計画とか実行のものは、思考と呼ばず、計画とか段取りとか算段とか言うのでしょうか。
風のように流れる思考は、音楽みたいなものでしょうか。

No.1694 - 2009/06/05(Fri) 22:14:05

Re: / ubik0101
>たとえば、ubik0101 は、「いくら嘘をついてもいいですよ」と人に言えますか?

それは絶対に言えません。たとえば嘘をつかない、盗まない、殺さない・・・五戒とか十戒とかありますが。それは、この世界で良い自分をつくるための方法であり、また、その証明です。これは、なんでもあり、ゆえに可能になっています。

>そうそう。だから、解放は困難なのです。
>有り様と無関係である場合、だからこそ、解放というか有り様の変化が困難である、という場合もありそうです。


たしかに。なにかに無関係ということに依存するなら、その人にとって、はじめからのように束縛も解放もないでしょう。よくて、どちらも潜在したままだと思います。なにかに束縛されてると気がつくことは、解放の始まりであり得ます。ただ、ひとつひとつの、それぞれ個別の問題を解決していくのでは永遠の時間があっても困難です。

>何とかしなければならない、という、計画とか実行のものは、思考と呼ばず、計画とか段取りとか算段とか言うのでしょうか。
>風のように流れる思考は、音楽みたいなものでしょうか。

なんであれ、なにかを考えるなら、思考と呼びます。そうですね。日光をプリズムを通したら見える虹、のような現象です。が、これは研究中です。

No.1698 - 2009/06/06(Sat) 11:37:08

Re: / ルー
> >たとえば、ubik0101 は、「いくら嘘をついてもいいですよ」と人に言えますか?
>
> それは絶対に言えません。たとえば嘘をつかない、盗まない、殺さない・・・五戒とか十戒とかありますが。それは、この世界で良い自分をつくるための方法であり、また、その証明です。これは、なんでもあり、ゆえに可能になっています。


良い自分をつくるためって、偽善者っぽいですか?

No.1704 - 2009/06/06(Sat) 21:54:56

Re: / ルー
良い世界をつくるため、と言う方がいいかな。
No.1705 - 2009/06/06(Sat) 21:57:48

Re: / ubik0101
そのような理解を経て、なお、行い得ることです。
No.1708 - 2009/06/07(Sun) 09:41:26

Re: / ルー
え?
有り様は思考に影響を与えるのかどうかという話なんですけど。

ubik0101 さんは、こういう有り様(嘘をつかないとかいろいろを良い世界をつくるために行っている)があるので、人に「いくら嘘をついてもいいですよ」と言わない(思いもしない)ということなんです。

人にこう言うというのは、思考ではなくて、有り様の方ですか。掲示板の場合は、思考と相手に言うことの区別がつかなくてややこしいですね。

思考は、何でもあり、かな。
何でもありなのに、このようにしか考えられない浮かばないというところに、その人が表れると思います。

No.1711 - 2009/06/08(Mon) 08:50:43

Re: / ルー
>なにかに束縛されてると気がつくことは、解放の始まりであり得ます。ただ、ひとつひとつの、それぞれ個別の問題を解決していくのでは永遠の時間があっても困難です。

ひとつでも解決すれば、状態は飛躍的に変わるでしょう。
それだけでも、その人は生きた価値があると思うのですが。
永遠の時間があっても、解放されたという状態になるのは困難であるということでしょうか。
ですから、ひとつひとつの問題にあたっていくよりも、「自己に出会う」ということが大事だということでしょうか。

No.1712 - 2009/06/08(Mon) 10:41:30

Re: / ubik0101
>思考は、何でもあり、かな。
>何でもありなのに、このようにしか考えられない浮かばないというところに、その人が表れると思います。


まあ、そうです。そして、その正確な構造、そして、それが、なぜ、そうなってるか?それを知り得ないでも・・・たとえば証明できないでも数学の公式が機能するように・・・充分に機能するのでしょうが。それはなぜ、そうなってるかが、疑問なんです。

>ですから、ひとつひとつの問題にあたっていくよりも、「自己に出会う」ということが大事だということでしょうか。

まあ、そうです。ひとつひとつの問題にあたっていくことなくして。また、心理的な問題、葛藤などを度外視してさえ、自己を探求することなくして。ありとあらゆる努力も怠惰もなくして。いわゆる「自己に出会う」ことも困難でしょう。

でも、いわゆる「自己に出会う」こと、なくして自己であれ世界であれ、それを学ぶことは困難・・・ほとんど不可能・・・でしょう。「自己に出会う」こと、それが学ぶことの終わりではなく始まりです。

No.1714 - 2009/06/08(Mon) 14:27:42

Re: / ルー
こんなふうに返事してもらうと、私はとても嬉しい気持ちになるんです。なぜなるのかは、特に疑問は持ちません。
No.1715 - 2009/06/08(Mon) 15:23:30

Re: / ルー
他の人の不幸を食べて生きているような人は、なぜそうなのか、疑問を持ってみてもいいかな〜
いや、もういいかな〜
私は、どっちを向いて生きていこうかしら〜

No.1716 - 2009/06/08(Mon) 18:35:18
/ ubik0101&hato

これから海に行きます。

ubik0101

今日のこちらは、よい天気です。
梅雨前に束の間の、初夏の香りです。

hato

No.1709 - 2009/06/07(Sun) 11:42:27
(No Subject) / 雄大
食への意識は大切な事ですね。
それ自体に美しさがありますから。

私は元来物ぐさなのと、私と子供二人の生活なのでついつい外食に頼りがちですね。

作っても子供が食べてくれない事が多いのと、余った料理を捨てる、私がそれにとられる時間(作る、食器を洗う)など

原価計算をすると、まあ外食でいいやと思考による理由付けが行われます。(笑)

食事をするだけでなく作ることに注意深くある時間に価値を見出さないという思考によって、生活の豊かさを失っているのです。

ただぼーっとすることのできる時間の価値、豊かさはなぜ意識されなくなったのでしょうね。

消費しなさいと消費されるべきものを教育される文化に原因の一つがあるのかもしれません。

精神世界もまた体験されるべき、消費されるべき世界に組み込まれてしまっている現状もあります。自分で判断できな

い、感じれない、常に他人から提供される情報を選択させられる状況にあり、生まれた時からそういう状況に慣らされています。

私は会計に携わる仕事をしていますが、会計的知識は世界の翻訳の仕方の一つにしか過ぎないのですが、便利であるがゆえにあらゆるものに適用可能と錯覚しているのかもしれませんね。

古代ユダヤ教、ギリシャ哲学、ローマ法という文化の結晶の一つである簿記会計の考え方の様式は現代社会に大きな影響を与えていると思います。

話は変わりますが、2,3年前に書いたことがあったかもしれませんが意見とそれを言う人を同一視しないのが、よりよい実りある話し合いになると思います。

最近は子供に牛乳とヨーグルト、蜂蜜を混ぜて疑似ラッシーばかり作らされています。

No.1683 - 2009/06/04(Thu) 08:40:45

Re: / ubik0101
その、2、3年前の投稿は、憶えがあります。ところで。もともと、なにかの思考と、その人の有り様は、無関係、ではないでしょうか。

たとえば、わたしは、ない、とか。なにか思考によって、その中心が設定される、とか。自分自身を知れ、とか。なんと言っても、それを実証してない人も、実証した人も、言葉上ではですが、それを思考できます。

だからでしょうか、たとえば。新大陸を発見した人が、素敵なことを知ってる。そのように新思考を発見した人に・・・それは真実であるに違いない・・・それを学ぼう・・・という傾向の思考もあるようです。

けど。なんであれ、その思考と、その人の有り様は、無関係です。それだから、その思考と、その人の有り様は、たがいに影響を被りません。それで・・・嘘・・・虚偽の申告も可能なんですが・・・まさに、それゆえに・・・それはできなさそうに思われても・・・思考は、その人の有り様を、そうであることを、そうであると、正確に表現できるのではないでしょうか。

そのように。そうであることを、そうであると思考する。それには。素直なこと、つまり真摯で正確なことが必要です。そうでないなら、そのことは、やはり発言そのことに顕れてしまいます。嘘、虚偽の申告も、顕れてしまいます。

また、なにか体験しても、なにか思考を発見しても。それを馴染みの、既知の思考経路に従って読み替えたりしてしまう可能性もあります。そうすると、そこで躓きます。注意深いことが必要です。

また。思考は、知覚されたことであり、その見る主体が自覚されないからと言って。見るものは見られること、ではありません。しかし、見るものは見られること、とすることで、そのことが前提にしてることは、顕れたりします。

まったく嘘つきな人でも、ほかの人が、嘘つきだと解るのは、なぜなんでしょう。まったくの偽善者でも、ほかの人が、偽善者だと解るのは、なぜなんでしょう。なんて思ったりもします。

ところで。今日は風がなく、この部屋の向かいにある、クヌギの枝に、メジロや四十雀が、嘴で羽をしごいたりしながら、くつろいでいるのが見える・・・この眼は、ただの穴です。初めてそれを体験したときは、意識を外や内に移動させ、世界と自分は地続きだと、それを何度も何度も確認したのを思い出しました。

No.1684 - 2009/06/04(Thu) 12:02:24

Re: / peer
>まったく嘘つきな人でも、ほかの人が、嘘つきだと解るのは、なぜなんでしょう。

人には、まったく精巧な受信機が備わっていて
チューニングも可能ですが。わりと、敏感に感知しますね。
思っていることを言葉にしていない。とか。
他人がいてくれる。自分の気付かないことを気づいてくれる。
この世には、そのような性質があるようです。
ただ・・・嘘だと解る・・・嘘だと名づける。これは嘘だと思うのは、やっぱり、その人の感性(受信能力)。単に視点が違う、ということもありますから、感性を磨くというのは、その意味で大切かな。。

No.1685 - 2009/06/04(Thu) 12:47:54

Re: / ubik0101
なんであれ、それ、を見たことがないので。ほかの人の、あまりに巧妙な嘘が解らないということもあります。また、そいうことは度外視するとしても、巧妙な嘘つきが、自分が嘘つきだと、自分で解るのかどうか?まったく自分では、真実を言ってるつもりでも、実は虚偽という意味での、確信犯、ということもあります。

ところで。「見るものは、見られるもの」だとして。「意識は、その内容」だとしても。そうでないとしても。どうして、たとえば、あるときは恐怖を感じ、あるときは怒り・・・とある心理的思考の運動ができる・・・内容が変わることができるのでしょう。

どうも、たとえば、どのようにして思考が始まるのか?なにかの現象が起こるのか?知覚できるのか?これを見ようと思ってるのですが、かなり困難です。それは知りようがないし、ただ、そうなってるのだとしても。

No.1686 - 2009/06/04(Thu) 22:48:48

Re: / hato

> ただ・・・嘘だと解る・・・嘘だと名づける。これは嘘だと思うのは、やっぱり、その人の感性(受信能力)。単に視点が違う、ということもありますから、感性を磨くというのは、その意味で大切かな。。

それは明らかに、感性の域を超えたものと言えそうです。
結果としてそこが使われる、ということかも知れません。
人はただ分離ではない、ということ故、かも知れません。
その上で人が、名付け得ぬものと直結していることに依って、気付かれるとも、言えそうです。
けど、すべてに気付くわけでもなく、その必要もなく、それほど意味もないでしょう。

そして尚、この自体のすべてが、なぜ? かは。不可思議と言えそうです。

No.1687 - 2009/06/04(Thu) 23:23:11

Re: / peer
>けど、すべてに気付くわけでもなく、その必要もなく、それほど意味もないでしょう。


それは、違和感と呼べるモノかもしれませんまたは、皮膚感。
皮膚は外部環境に対してバリアーの性質がありますから。
そして、そのほとんどは、気づかれています。
気付いているけれど、検察官ではないから。流してしまう。
そんな感じかも知れません。
それが「必要もなく」ということかな。と思います。

No.1688 - 2009/06/05(Fri) 00:47:04

Re: / peer
>なんであれ、それ、を見たことがないので。
>ほかの人の、あまりに巧妙な嘘が解らないということもあります。


ありのままに語ってもいいのに、つい嘘をつく。
たぶん、ありのままは、つまらない話になる、と思うのでしょう。
だから物語を作ってしまう。データのやり取りのようなものでも
飾りをつけたり(自分の意見で補足したくなる)のように。
それくらい、単なる日常・・・生がつまらない。
嘘をつく人は、そういう感覚になっている。のかも知れません。

No.1689 - 2009/06/05(Fri) 12:29:28

Re: / ubik0101
なんか、新明解国語辞典の、凡人、を思い出しました。まあ。ふつうの社会生活で、嘘をつかない、約束を守る、というのはかなりの修行になると思います。

そういえば。ある武士が人に会う約束をしました。でもどうしても行けなくなったそうです。それで、その武士は切腹して、幽霊になって、会いに行った。そんな 落語か、怪談話を、粗筋だけですが聞いたことがあります。

No.1691 - 2009/06/05(Fri) 20:55:14

Re: / hato

> それが「必要もなく」ということかな。と思います。

違和感を述べてみて、
届くかどうかは、相手が成長したいかどうか、に依るのでしょう。
嘘に拘わらず、何かを提唱してみても、個人が自分のやり方でいい、と思うなら、仕方がありませんね。
本人がこれでよし、と思うなら、周りに何ができるでしょう。

ふと、、
人が人生のどこかで、無意識と意識が繋がった、として。
ここである程度の状態を経ないなら、
その後も概ねそれ以前と同じような形態をとる、といえるのかも知れません。

というより、その状態の人には、そのままでは、状態自体を問題視することが難しいかも知れません。
強いていえばおそらくそれが問題です。折々に出てくるものが即ち、分け隔てなく総てであり紛れもない自分、それでいいので、流れゆくままに表現し、また流れていくかも、知れません。理解する手前ですり抜けてしまうのです。

全体としては、世界は総てが揃っているであろう、ことで済んでしまいます。
とくに問題分子として働くことも、ないかも知れません。
もしくは、場所によっては問題となるかも、知れません。

個人として成長が可能なのが、この世界たる所以かな、と思います。
世界は決して決着しない、ながらにして、必ず決着しているからです。

そんなふうに、思います。

No.1695 - 2009/06/06(Sat) 00:37:22

Re: / peer
>ふつうの社会生活で、嘘をつかない、約束を守る、
>というのはかなりの修行になると思います。


意識的になったら、嘘をつく、約束を守らない
をしようとするのは、、、苦痛になるかも知れません。
正当化という「理由」を使えなくなりますから。

No.1696 - 2009/06/06(Sat) 09:32:38

Re: / peer
>届くかどうかは、相手が成長したいかどうか、に依るのでしょう。
>嘘に拘わらず、何かを提唱してみても、個人が自分のやり方で
>いい、と思うなら、仕方がありませんね。
>本人がこれでよし、と思うなら、周りに何ができるでしょう。


わたしは、周りに関しては、何とも〜ですね。
人を変えようとも、思わないし。ただ見るだけ。
そういう意味の、気にならない。なのですよ。
すべては、自分がどうか。です。

周りが「こう見える」のは
自分が「こう見ている」だけですから。

No.1697 - 2009/06/06(Sat) 09:39:18

Re: / hato

> わたしは、周りに関しては、何とも〜ですね。
> 人を変えようとも、思わないし。ただ見るだけ。
> そういう意味の、気にならない。なのですよ。


そうです。
そして尚、関わりのなかで、
出来るだけ正確に、きちんと表明します。

> 周りが「こう見える」のは
> 自分が「こう見ている」だけですから。


そうともいえるし、
それだけでもない、
のが、この世界の不思議、です。

No.1699 - 2009/06/06(Sat) 12:04:46

Re: / ubik0101

> 意識的になったら、嘘をつく、約束を守らない
> をしようとするのは、、、苦痛になるかも知れません。
> 正当化という「理由」を使えなくなりますから。


それで、なんの「理由」もなく、嘘をつかない。が、あります。

No.1700 - 2009/06/06(Sat) 12:30:13

Re: / ルー
良い自分をつくるため、ではないのですか?
No.1701 - 2009/06/06(Sat) 13:24:53

Re: / hato
> 良い自分をつくるため、ではないのですか?

それは結果的に、です。その良い自分は、意識の管轄にはありません。なのに良い自分を意識の管轄にあると見なして、それをつくるという理由・目的があって、たとえば嘘をつかないなら、偽善者っぽい・・・それはそれで自分を鍛える負荷になるでしょうが・・・のではないでしょうか。

No.1702 - 2009/06/06(Sat) 20:09:25

Re: / ubik0101
このすぐ上は、ubik0101の、投稿です。
No.1703 - 2009/06/06(Sat) 20:24:34

Re: / ルー
意識の管轄にないことを「理由なく」と表現しているのかな。
No.1706 - 2009/06/06(Sat) 21:59:44

Re: / ルー
ま、いいです。
とくに、ひっかかりはありません。

No.1707 - 2009/06/06(Sat) 22:00:46
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