[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

(No Subject) / 雄大
、「妄想を除かず、真を求めず」

いい香りの文章ですね。

無選択、あるがまま


と言いながら、結論しながら
無選択を選択する者が現れる
あるがままであろうとする者が現れる

どうしたら?と問うものが現れる

心理的思考と知覚の区別をするのはなぜか

No.1607 - 2009/05/26(Tue) 20:45:32

Re: / ubik0101
たとえば。「妄想を除かず、真を求めず」。それは、どろどろの泥沼に咲いた蓮華の花の、美しい香りなのでしょう。けど、絶対。その蓮華が成長し花の咲く努力の段階なしに、その香りだけを得るのは不可能であり・・・ほかの花のエキスを混ぜるか、人工的に合成する・・・搾取しかないのです。

たとえば。ある種の・・・知覚からの直接行動、現実に直面・・・それは花を咲かせる努力をすることが偽物だと見なすしかなく、そうすることで自分は偽物ではないと思うしかなく。努力しないための努力をしてるだけで・・・これこそ偽物で・・・世界は正確に機能しますが・・・実際の香りを知らない本人と賛同者を騙すには、それでいいのでしょう。

そして「心理的思考と知覚を区別するのはなぜか?」などと質問されると。それを自分が、どこでしたのかと言い張り、虚構の世界を構築します。くるくると思考のアクロバットをして質問者の、また自分の目くらましをするのです。 自我の機能に巻き込まれて気がつかないのです。

たとえば疑心暗鬼に囚われて、ありもしない空想を事実と思い、ほかの人と、わざわざ軋轢を起こす人を見て。それを見てる自分は・・・岡目八目なのに・・・それを理解してる。ありのままの事実を見てる。また、そんな自分は静かで、心理的な思考に巻き込まれてない。その空想から、演繹・・・仮定からの展開・・・するのです。

そんな自我も完全に急所を突かれなければ死んでやるものかと頑張ります。が、なんによっても自我は発生するので、急所はつけないのです。たとえば北風でも太陽でも外套を脱がすことはできないだろう、どうだ、と・・・自分で脱ぐしかないことです。

そんな、自我が、ない、振りをしてることまでも、自我です。みな人は、そのようなことも、どのようなことも経験して、自我は完成して、それが、ない、ことを見破る段階にないことはないのです。けど。花も咲いてないのに、すでに美しい香りを生きてると思っているなら、自分で自分の道を閉ざしているのです。それも、その人にしかできないことです。

そんな。たとえばサイト「新しい芽」の管理人と対話して、自分と賛同者を騙すためのエサを与えるのを好みません。が、そういう人が、自分を検討するつもりであれば・・・でも、そういうそういう人は、そういう人生を全うするしかないのでしょう。

No.1610 - 2009/05/27(Wed) 11:36:55

Re: / ルー
> そんな。たとえばサイト「新しい芽」の管理人と対話して、自分と賛同者を騙すためのエサを与えるのを好みません。が、そういう人が、自分を検討するつもりであれば・・・でも、そういうそういう人は、そういう人生を全うするしかないのでしょう。

はっきりと見たいのです。
滑稽なありさまを。
もう、昨日ぐらいから、はっきりと見えています。

No.1611 - 2009/05/27(Wed) 14:06:50

Re: / ルー
「滑稽な対話のページ」というべきですね。
No.1612 - 2009/05/27(Wed) 14:20:30

Re: / ルー
あんなかわったひと、みたことありません
No.1613 - 2009/05/27(Wed) 14:21:58

Re: / ルー
でも、あんまりいじめると、かわいそうになっちゃう。

いや、一般的に見て、いじめられているのは私の方かしら?

No.1614 - 2009/05/27(Wed) 14:24:49

Re: / ルー
「話にならない」ということ。
あれは、一体、何なのでしょうねー。
とても不思議なので、分解してみたくなっちゃう。

No.1615 - 2009/05/27(Wed) 14:26:49

Re: / ubik0101
たしかに奇妙で、見せ物小屋にいるような、ゆがんだ、異常な生き物です。まあ。誰も話かけないことが、情け、になるかもしれません。
No.1616 - 2009/05/27(Wed) 14:33:59

Re: / peer
とりあえず、一冊くらいKの本を読んでみたらどうでしょう。
そうしたら、珍しい生き物でも、なんでもないことは、分かるかも。

No.1617 - 2009/05/27(Wed) 16:05:35

Re: / ubik0101
たしか書は一冊、去年は、読みましたが、「自我の終焉」です。ただ退屈でした。
No.1618 - 2009/05/27(Wed) 18:38:33

Re: / ルー
> たしかに奇妙で、見せ物小屋にいるような、ゆがんだ、異常な生き物です。まあ。誰も話かけないことが、情け、になるかもしれません。

爆笑!
情けにも、いろいろあるのですね。
勉強になりました(笑

No.1619 - 2009/05/27(Wed) 23:44:11

Re: / ルー
さっき見世物小屋を覗いてきたら、滑稽度が倍増していました。
あれは、永久保存する価値があります。

No.1620 - 2009/05/27(Wed) 23:52:41

Re: / ルー
でも、やはり、かわいそうになってしまいます。

話しかけないのが、お互いのため(私にとって)なのだろうな、と思います。

読んでいて違和感を感じる。
そして、私にとっては親しい関係であったはずなので、違和感が落ち着くところがあるかも知れないと思って話しかける。
しかし、その結果、やはり、違和感は確信へと変わっていく。

正しく見ること、が学べます。

No.1626 - 2009/05/28(Thu) 08:11:42

Re: / ルー
本当に違和感がなくなれば、去っていけると思います。

「違和感」が「違和感」としてきちんと座ることができても、去っていけると思います。

見世物小屋が見世物小屋として落ち着けば、去っていけると思います。
滑稽が滑稽として、きちんと座ることができれば、去っていけると思います。

情けによって、良識によって、自分をごまかさない。
ここが大切なところ。

そうすると、「情け」や「良識」などが場所を失う。
そこだ!
そこに私は違和感を感じるのだ。
「容認」「批判」なしに、というと、「容認」「批判」の場所がない。その世界は、やはり、あるものが排除された歪んだ世界でしょう。

No.1627 - 2009/05/28(Thu) 08:36:03

Re: / ルー
すべてが使われていない世界は、やはりおかしいですね。
No.1628 - 2009/05/28(Thu) 08:38:35

Re: / peer
オシャカサマは、人間はアベコベの世界に住んでいる。と言われます。
No.1629 - 2009/05/28(Thu) 09:31:36

Re: / ubik0101
まあ。「俺が、俺が」。という能動的な自我の機能があります。そして。「とても私なんか」。という消極的な機能があります。これらは、程度問題で、おなじ一人の人に、現れる運動と、考えられると思います。

そうでなく、珍しいのかもしれませんが、受動的な自我。マイナスエネルギーの人もいます。これは自我未満という感じで・・・凄い偏りなんですが・・・それは、ほかの人から見たら、冷たい雨に震える子猫のように、なんとかしてあげたい、という気持ちを、引き出してしまいます。 とくに愛されたい、とか本人が思ってなくても、世話してあげたい気持ちになって、しまいます。

おおくの場合は、そんな自我の人は、品行方正で大人しく静かですが、内実は、妙なこだわりがあったり、ほかの人に対する不平、不満、罵詈雑言も、裏返って、機能しています。 その意味では、ふつうに自我ですが、それを隠すのに長けています。これは、本人にも、気がつきにくいとは思います。

No.1630 - 2009/05/28(Thu) 09:58:04

Re: / ルー
> おおくの場合は、そんな自我の人は、品行方正で大人しく静かですが、内実は、妙なこだわりがあったり、ほかの人に対する不平、不満、罵詈雑言も、裏返って、機能しています。 その意味では、ふつうに自我ですが、それを隠すのに長けています。これは、本人にも、気がつきにくいとは思います。

上げときます。

No.1636 - 2009/05/28(Thu) 10:34:34

Re: / ルー
上げ
No.1641 - 2009/05/29(Fri) 08:18:58

Re: / ルー
ずいぶん前ですが、「共依存」というものについて考える時期がありました。
共依存の人は、自分には問題がなく、他の人の世話をしている良い人だと思っていたりするのですが、相手が自分の思い通りにならない時には「敵」に見えたり、良い結果に対しては自分のおかげ、悪い結果に対しては他の人のせい(自分の責任だと思われることを徹底して避ける)ということが、裏の性格としてあるようです。

No.1642 - 2009/05/29(Fri) 08:33:52

Re: / ルー
内に溜め込んだ罵詈雑言は、ふとしたところで顔を出すものですね。
私の母のように、子供に全部聞かせるという方法なら、世間には漏れないかも知れませんが、やはり、わかる人にはわかるものだと思います。
何らかの形で、変形するものですね。
対話のページも、そういうものの変形であると思います。
役に立つ人がいるなら、それでいいのでしょう。
役に立たないなら、自然と離れていくでしょう。

No.1643 - 2009/05/29(Fri) 09:53:20

Re: / 大阪
こんにちは。

そのルーさんの話された、共依存のお話も、うびさんの話されたマイナスエネルギーの人のお話も、自我にまつわる全ての話は、どれも自分に当てはまるような気がしています。ココのサイトの本分に書いてあるようなことも。

全てにギクッとしてしまいます。

実際にそうなったりもしているし、自分がそう言ったり、したり、思ったりしていなくても、そう言ったりしたり思ったりする可能性が自分にも眠っている、ということだと思います。

修行します。

No.1645 - 2009/05/29(Fri) 12:52:55

Re: / ルー
そういうことを、「自分にもあてはまることだ」と思えるようなら、成長できる可能性があると思います。
病的な人は、自分のことを省いてしまうので、気づけないんです。

No.1646 - 2009/05/29(Fri) 13:28:05

Re: / peer
心の中にはブラックボックスがありまして。見えません。
見たくないものは、みんなソコに入っているようです。
歩いて行くと、見えないソレに躓きます。
見えないから、どうしてかな〜と思うんですが。
そこに「違和感」として、残るんですね。
ほんのわずかな違和感。。それに気づくかどうか。。。ですね。

No.1647 - 2009/05/29(Fri) 13:42:24

Re: / 大阪
ルーさん
その人のことを言っているのに、まさか自分のことだと思ってもいない人(病的な人)に、その人がそうであることを伝えるにはどうすれば良いのでしょうか。
今まで、直に言ったりしましたが、相手を不機嫌にさせるだけでした。
それは、自分もその問題を解決していないからなんだと思います。
自分が解決していないのに、他人に言うこと事態が、問題を解決していないことの表れなんでしょうか。
やはり、自分の問題を解決させることが最優先なんでしょうか。

peerさん
その違和感に気付いた人はどうすれば良いのでしょうか。
ブラックボックスに入れた見たくないものを見れば良いのでしょうか。

No.1648 - 2009/05/29(Fri) 14:09:43

Re: / peer
大阪さん

自分がブラックボックスに気付いたとき。
ちょっと有頂天になって「自分が気づいた」と褒めました。
そしたら師が「それをオシャカサマが気づかせてくれた」と
思ってみたらどうですか。と言われました。

そのときは、カチンと来まして。無視しました。
「なにをいうのか」と。
うーん。「自分の力で出来た」と思いたい自分がいたんです。
自力の傲慢さ〜でしょうか。

>今まで、直に言ったりしましたが、相手を不機嫌にさせるだけでした。

自分が相手に気付かせたい。教えたい。自分の力を見せつけたい。
・・・そんな気持ちが、やはり影にあるような気がします。
それが、相手に伝わってしまうのではないでしょうか。
「自分でも出来ていないのに」かもしれませんが。。。
もう何重にも心のワナがある。。そしてまた、それに気づいて行く。としまして、修行には終わりがないですね。

No.1649 - 2009/05/29(Fri) 14:44:02

Re: / ルー
大阪さん

そのお気持ち、よくわかります。
その相手には、伝わらないかも知れません。
でも、少しずつ、何かが変わっていってると思いませんか。
前より、ちょっとは楽になっているような。。。
それは、自分が変わっていっているからだと思います。
相手も、年をとるとか、状況が変わるとかで、少しは変わっているかも。根本的には変わらなくても、状況は少しは楽になっていませんか?

自分の人生をその人のことで使ってしまうのは嫌ですよね。
力をもらえるいろんなものを吸収しながら、変わっていけたらと思います。

No.1650 - 2009/05/29(Fri) 14:45:03

Re: / 大阪
peerさん

確かにオシャカサマも、冷静に、そうやって自分を見つめまくったのでしょうね。

もしかしたらその師匠の言葉は「オシャカサマもそうやって涅槃に達したのだ。だからそんな自分を大切にしてあなたも頑張りなさい」ということかもしれないですね。

確かに心のワナは何重にもなっていますね。

僕の考えによると(peerさんも同じ考えだと思いますが)、そのワナはどの段階でも自己保存、だから自分を守ろうとすると外せない。

けどそのワナを一つ外しても、すぐにまた別のワナがかかってしまう現状です。


ルーさん

確かに変わってくれることもあります。

でも今思ったのですが、もしかすると、その人に変わってくれ、といいながら、変わって欲しくないとも思ってるのかもしれません。

その人が変わってしまったら、自分も変わらないといけな
い、つまり、成長する努力をしなくてはならない、とか。

やっぱり一番の問題は自分が解決していないことなんでしょうね。


こんな風に、何か自分の言動を観察して、自己保存とか、自我の可能性が隠れていなかったことがないんですよねぇ。

今日のこの対話の中を見たってそうなのです。

まだまだ自我に負けているんでしょうね。
修行します。

No.1651 - 2009/05/29(Fri) 16:00:29

Re: / ルー
はい。
No.1652 - 2009/05/29(Fri) 19:38:45

大阪 さん / peer
↓この質問に応えてなかったです。

>その違和感に気付いた人はどうすれば良いのでしょうか。
>ブラックボックスに入れた見たくないものを見れば良いのでしょうか。


違和感に気づくのと、じつは、見るのと同時。
だったような気がします。
で、どうするもないです。
見たら終わりです。

そこでオシマイにしないと、
「けどそのワナを一つ外しても、すぐにまた別のワナがかかってしまう現状です」
というふうに、なります。
正当化をはじめたり、自己防衛の思考が、メチャメチャに入ってきて、せっかく見たものの、ということになります。

>もしかしたらその師匠の言葉は
>「オシャカサマもそうやって涅槃に達したのだ。だから
>そんな自分を大切にしてあなたも頑張りなさい」
>ということかもしれないですね。


ううん。
自分の手柄にしたがる私を諌めたのです。
「自力は、なにもない」と言っていたのでした。
自分が入ったモノは、全部が欲になっちゃいます。
まっ。お互い精進ですね。。。でわ。

No.1659 - 2009/05/30(Sat) 01:11:29
もう少し続けます / ルー
「情けや良識によって、自分をごまかさない」という意識を持つ時、「自分を見るのにそれ(情けや良識)を用いない」ということであって、自分の中にある情けや良識がなくなるというわけではない。

ところが、対話のページで「容認も批判もなしに」の場合は、「事実を見るために、容認や批判なしに見る」と言っているのだと思いますが、それにとどまらず、容認そのもの、批判そのものが、世界からなくなっているような、そんなことを言っています。

No.1631 - 2009/05/28(Thu) 10:06:25

Re: もう少し続けます / ルー
そうなのかも知れません。

私は、一人目の、新しい芽さんの理解者かもね〜

まだ、ただの誤解かも知れないので、しばらく様子を見ます。

No.1632 - 2009/05/28(Thu) 10:11:55

Re: もう少し続けます / ルー
理解者というより、介護者かも。
No.1633 - 2009/05/28(Thu) 10:18:03

Re: もう少し続けます / ルー
いや、ここは冗談にしちゃダメかも。

何か、ちょっとわかった気がするので大事にしよう。

No.1634 - 2009/05/28(Thu) 10:32:18

Re: もう少し続けます / ubik0101
うん。

ふつうの場合は、ある、とか、ない、とか言っても誤りの・・・無相の・・・自己が、ある、振りをして、自我、として現れるのですが。マイナスエネルギーの人は、自己が、ない、振りをする、自我、なのかもしれません。

やはりNo.1630に書いたような人だと思うのですが。まあ機会でもあれば、読書会などで会って、確かめるのもいいかも知れません。

No.1635 - 2009/05/28(Thu) 10:32:36

Re: もう少し続けます / hato

> やはりNo.1630に書いたような人だと思うのですが。まあ機会でもあれば、読書会などで会って、確かめるのもいいかも知れません。


まー!

自分から会いに行くのね〜!ならいっぺんに会えるわよ〜(喜)
ダーリン自分は出不精だとか言ってたけど、
性格は悪いけど素直〜な人なのよね〜。\(^0^)/

でも勉強会なんでしょ。クリシュナムルティ、詳しくないわよ〜、、、

No.1637 - 2009/05/28(Thu) 21:20:04

Re: もう少し続けます / hato

あら。と思ったら僕はもう行ったから、いいんだって。

そうよね〜、
こちら歓迎されなさそ〜〜だものね〜、

ま、いっか。(^^)

No.1639 - 2009/05/28(Thu) 21:34:38
(No Subject) / hato

>やはり答えは応えじゃないかな、と思います。
>なにかを尋ねて、なにも返ってこないのは〜
>どんなものでしょう。



そうですね、
それは本当に。
応答、でしょうね。


>相手は答えを求めているワケじゃない。
>・・・なんか、そんな感じがするんです。
>だからって、こうだと言えないけれど。



そうですね。

考えますね。人は皆、ひとりなのだけど、どこかで繋がっていたい、ということも、あるかも知れません。

或いは、その相手は、確認したい、のかも知れません。
同意を求めている、のかも、知れません。
或いは、孤独を埋めたい、とか。誰かと分かち合いながら、未知なるなにかを見つけようとしてる、とか。

人の状態、状況に、よるのでしょうね。

No.1605 - 2009/05/26(Tue) 00:23:53

Re: / peer
なにかと出会う。
むこうから来たように思うけれど。
出会ってもらった。
そんなふうに思うと、出会いを活用しないと
モッタイナイような、申し訳ないような
気がするんです。

その人が、どうなのかはこの際、横に置いて。

その人が、どうか。
じゃなくて、自分が、どうなのか。

なんとなく、なんとなくですが。
すべて出会うものは「愛」でしょう。

それなのに、これは「愛」で、
これは「奪おうとするもの」。
そんなふうに判断しちゃう〜

うん。これは、モッタイナイです。

No.1609 - 2009/05/27(Wed) 00:53:37

Re: / hato

> なんとなく、なんとなくですが。
> すべて出会うものは「愛」でしょう。



いつも優しい投稿を、ありがとう。

ううん、
愛を分けることはできません、それは大丈夫。
どうも、ありがとう。

奪おうとするもの、というわけではないでしょうね。
成長と表現の仕方、時期が違うのだと思います。
そしてただ、開いてみても、無理なんです。

自分は風知草、て感じがします。
例えば、ですけど、体力を奪われる、と一瞬感じたとしたら、それは使うことができるんです。
役に立ちます。過剰になることに警笛を鳴らすことができます。

ubik0101さんは、選びませんから。
身体を痛めるのは困ります。

No.1621 - 2009/05/27(Wed) 23:58:38

Re: / hato

その点に於いては、ここ半年。

自分自身と世界をよく見て、充分学ばせて頂いた、というところなのです。言いたいことをきちんと、言うこと。
それはもう、20年も前に、仲間から注意されたことがあります。なので、ここで練習です。ごめんなさいね、少々過激なときがありますね。

まあ、彼と結婚したわけですから。
彼の直面していることは、ある意味自分の直面していることでもあります。
それは、皆さまご家族を抱えている方と同じく、覚悟しているかな、と思います。

新しい芽さんについて、自分としてはとくに関わる機会がありませんが、生を営む者として、どんな風でも、足蹴にすることはできません。
一大事なところを曖昧にされていることは、とても残念に思います。でも、終わったわけではありませんから。

きっと大丈夫、一緒に頑張りましょう。

No.1622 - 2009/05/28(Thu) 00:00:08

Re: / hato

パソコン上での分かち合いは、生活の一部であってすべてではないですね。
人はそれぞれの場所で生きていますから。
ここである時期充分関わったなら、時を得て、その人自身としてまるごと出会うこともまた、いいと思います。

とくに必要ではありません。が、それはそれでね。
身体があるから、こうして生を営んでいられる、わけですから。

人の有り様。
どうしても、してしまうこと。行。そうしたことを含めて
この世界。
なぜ、そうなのか。
ということについては、理由がないのですね、本来は。
peerさんが言われた通り、なんだかわからない。
だからこそ、理由は理由として、その折々に生きてくると言える、と思います。

peerさんには、いつかお会いできるでしょう。

とりあえず、ジョウビタキ、ホトトギス、ウグイス、ヒバリ、キジバト、メジロ、四十雀、尾長、エナガ、コゲラ、狸。もいますよ、

ルンルンとノンノンもね。

No.1623 - 2009/05/28(Thu) 00:02:06

Re: / hato

ちなみにダーリンは、「僕はグラサンすると、怪傑ハリマオに似てる〜」て喜んでますの。
知人のピンコも大絶賛よ。
(これ、本人が言ってほしいらしいので一応。。。)

No.1624 - 2009/05/28(Thu) 00:03:22

Re: / peer
>新しい芽さんについて、自分としてはとくに関わる機会が
>ありませんが、生を営む者として、どんな風でも、
>足蹴にすることはできません。


なんだか分からないから
滑稽だとか見世物小屋とか異常な生き物とか〜
なかなか思えません。
どうしたら人を評することができるんでしょう。
わかりません〜

言いたいことをきちんと言う。。
言う必要がないと、言わないけれど。
とりあえず、言ってみると、逃げられない〜
というモノもありそうです。

>その人自身としてまるごと出会うこともまた、
>いいと思います。


言語で伝えあうものは
わずかなものではありますが、なんとなく
そのエキスみたいなものは、伝わってきます。
カラーとかリズムとかニオイみたいなもの。
それがまた、一人も同じものがない。
うーん。なかなかオツなものです。

まるごと出会うと、それが統合されて〜
まっ。いいもんですよね。

No.1625 - 2009/05/28(Thu) 01:09:58
(No Subject) / 雄大
すごくヘルシーで美味しそうなお弁当ですね。
私が子供の弁当を時々作るのですが、汚いとかクレームを言われています。

私は母親が幼少の頃、亡くなったのです。それで父が弁当を作ってくれたのですが、それが日の丸弁当の様なそっけないものでした。友人たちの弁当と比較して悲しくなった事を思い出します。

それでいかに綺麗に見える弁当を作るかという事を考えて、赤青黄色と色の構成を考えて取敢えず作ったのですが子供には不評でした。
ubik0101 さんのお弁当を見て理解しましたが、おそらく私が作った弁当はやっつけ仕事的で注意力が不足しているのだなと感じました。

おそらくubik0101 さんは几帳面で整理整頓がきっちりできるタイプなんではないでしょうか。
本当においしそうなお弁当ですね。料理に注意力が行き届いている、そんな感じです。

こんな話を聞いたことがあります。料理人が注意深く何時間も料理を世話している(例えばカレーを煮込んでいる時など)味が変わるのだそうです。料理は手間、注意深さ、気の集め方も味わいを構成するのでしょうね。

そう云えば子供は親の注意が行き届いてないとよく怪我をするそうです。

No.1603 - 2009/05/25(Mon) 19:12:58

Re: / ubik0101
たしかに。ある板前の、魚などを捌く包丁などの技術、煮る炊く焼く技術は、驚嘆すべきものでした。でも、あんまり美味しくはありませんでした。その人は、「料理は技術ではない。そんなものは、どうでもいい。人のためにつくるという熱意だ」。とかは言っていたのですが。

そんな自分の姿勢には執着していたので、結局は、人に自分を主張する、自分の有用性を披露する、ことが大切になっていたのかもしれません。そうでなく。たとえば自分の技術、自分の姿勢に、執着しないことに、執着しないで、熱意で料理することは、その人の日常の有り様に関わると思います。

そういえば、ネットを探ってて、「妄想を除かず、真を求めず」という言葉を見つけました。道元の言葉らしいです。どんな文脈で言われたか知りませんが、これは、たとえば。ありのまま。とも読めるかもしれません。

けど。妄想を除いて除きつくした、真を求めて求めつくした。ならば、その人の日常は 「妄想を除かず、真を求めず」。それで、ありのまま。ということだと思います。

これは、ありのまま、という言葉は同じですが、たとえば自我と、自己。執着と、解放。そういう区別も、あってもなくても後者には問題ではないのですが・・・たとえば怒っても悲しんでも怒らなくても悲しまなくても問題ないのです。

が・・・こういうことは明確に表現されてる、けれど、そのようでない人は理解してるつもりで、たとえば自己弁護があるとか、自分の有り様を投影して、誤解するしかありません。ゆえに秘密。かもしれないと思いました。

また。執着しないことに執着しない。それは意識の範疇にはないのですが、成長の証である、素直さ、真摯で正確なことなど、良い特質が活動してるのだと思います。

No.1606 - 2009/05/26(Tue) 11:04:47

Re: / hato

お弁当のことをすこし書きます。

> 本当においしそうなお弁当ですね。料理に注意力が行き届いている、そんな感じです。

とても優しい、味です。ゆで野菜の人参がとても好きです。お魚は必ず、入っていますね、プリプリエビと山椒の葉が、ubik0101風です。
にこにこ、しながら食べてます。
二時間かけて、作成されております。

> そう云えば子供は親の注意が行き届いてないとよく怪我をするそうです。

昔から、いるだけで、自分の周りが穏やかで、なにかすべてが行き届くような。そんな人にと、調子のよいことを考えていました。いるだけで、て無努力な感じです。実際それが成されたら、完全な努力ゆえに完全に無努力、でしょうか。

注意力、でふと思い出しました。

No.1608 - 2009/05/26(Tue) 21:27:28
人に聞くということ / ルー
答えを求めているのではなく、考えるために質問する、ということはあるでしょう。
No.1583 - 2009/05/24(Sun) 18:31:05

Re: 人に聞くということ / hato

自分にとっては、多くの方々に学ばせて頂いていますが、
自分が考える為に人に依存、人を使う必要はとくにありません。
ただ、ルーさんが問いかけを人と分かち合う方法としていて、相手の状況が許すのなら、問題ないのでしょう。

No.1586 - 2009/05/25(Mon) 00:44:27

Re: 人に聞くということ / ルー
>
> 自分にとっては、多くの方々に学ばせて頂いていますが、
> 自分が考える為に人に依存、人を使う必要はとくにありません。


hatoさんが多くの人から学んでいるのは、例えば、そのことについてもっと知ろうと思ったりはしない、ということですか。人を知る場合、その人に聞くことは依存ですか?
ほら、私はこうやって質問します。
それは、依存なのですか?
「人を知るために人に聞くことを依存と呼ぶ人がここにいる。しかし、私は、それを依存とは呼ばない。」というふうに自分で考えればよいということでしょうか。

> ただ、ルーさんが問いかけを人と分かち合う方法としていて、相手の状況が許すのなら、問題ないのでしょう。

相手の状況が許さないというのは、どういう場合ですか?

No.1587 - 2009/05/25(Mon) 01:04:30

Re: 人に聞くということ / ルー
私は、その人を知ろうとしているのであって、自分を知ろうとしているのではないので、人に聞く必要があるわけです。
No.1588 - 2009/05/25(Mon) 01:05:45

Re: 人に聞くということ / ルー
それで、「自分を知ること」、ただそのことに尽きると思います。という人がいます。
面白いですね。
オウムのように、それを繰り返す。
多くの人から学んでいるなんて、嘘じゃないかと思います。

No.1589 - 2009/05/25(Mon) 01:12:16

Re: 人に聞くということ / hato

そうして苦しいときに、外に出ていって人のことを詮索していても、なにも解決しないのではありませんか?
してこなかったのでは、ありませんか?

自己を知ること、
ああ、表現はともかく、それを知らないならただ苦しいだけでしょう。

人を知る、といって根掘り葉掘り聞き出して、
その人を知ることが、できたのでしょうか?
何年もそうして、こうした場所で相手にも自分にも対峙せず、常にメールを見張っていて、なにか言い合うことが人を知ることだとも、思いません。

多くの人と接しても、そこで学ぶのは自己、自分です。
そうでなければ嘘でしょう。

自分が考える為に人に問う、と言いましたね。それが最初の問いです。それで充分です。
そういうことをしている、あなた自身に対峙してはどうでしょう。

自分中心で世界と人に関わるなら、世界は正確に、
それがどういうことかを学ばせてくれるでしょう。
自分の人生に現れてくるでしょう。

少なくとも、
ささやかながら、様々なことがあっても自分には平和があり、この人生を愛しいと思います。

No.1591 - 2009/05/25(Mon) 08:26:09

Re: 人に聞くということ / ルー
中島義道著の「人生に生きる価値はない」という本の中に、池田晶子追悼の文章が載っており、大変面白く読みました。

「自分が考える為に人に問う、と言いましたね。それが最初の問いです。それで充分です。」というのは、池田晶子氏のあり方とよく似ています。
中島義道氏は、「私見では、哲学には問題のありかを突き止めるセンスと厳密な言語によって世界を読み解いていく能力が必要であるように思う。池田さんは、前者は溢れるほど具えていたが、後者は欠けていた。だから、私見では哲学者でも哲学研究家でもないのだが、そんなことは彼女にとってどうでもいいことであろう。」

No.1592 - 2009/05/25(Mon) 10:00:37

Re: 人に聞くということ / ルー
と書いています。
なるほどなぁ、という感じです。

他の人の口から出る言葉は、その人の世界のありようを表しています。ですので、それを正しく知るためには、その人に聞くしかありません。自分で、その人のあり方を考えるのでは、どこまでいっても推測でしかなく、それは、自分の世界の投影です。それでも、その投影から自分を学ぶということはできるかも知れません。
しかし、それでは、相手を正しく知ることはできません。
どこまでいっても、自分しか見ていないのです。
おっしゃるとおり、自分中心です。
自分から見える景色だけで充分なら、それでいいでしょう。
しかし、それは、人にまで薦めることのできるあり方なのでしょうか。

他の人のありようを正しく知る過程で、自分との差がわかり、自分が見えるという意味で、自分を知ることはできます。
しかし、他の人のありようを知るというのが、自分を知るための動機や目的であるのは、ちょっと違う気がします。
また、自分をないものとして、自分をほったらかしにして、他の人のために生きるというのも、違う気がします。

ただ、関わっていく上で、他の人に対する興味が生まれ、質問し(自分で考えねば、質問さえ生まれません)、応えるのは相手の人であり、相手の人のあり方が伝えられるのですが、自然と自分との違いを感じ、自分も見えてくる、というのが、私のしていることです。

そのことについて、文句を言いたい人には言わせておけ、という感じです。
他の人のあり方に、文句を言えるほどの人物なのでしょう。
いや、そこは成熟しているので、文句という形ではなく、やんわりと相手を受け入れてから説教をするというやり口なのでしょう。

No.1595 - 2009/05/25(Mon) 10:17:57

Re: 人に聞くということ / hato

どうでしょう。

文句を言ってるのは、常にルーさんのようです。
掲示板上だけでは、人にはわからないでしょう。

まあ、
ルーさんやルーさんの周囲がそれでよいのなら、問題ないのでは、と言ったようですが?

自分にとって、人との関係性については、関わり合う同士、互いによく錬磨されていると思います。
この社会生活において、人に尋ねたいことがあれば尋ねるわけで、ごく普通に生活のなかで起きています。
関係性が浅い、ともとくに思いません。それで充分です。

自分を見たって、なにもない、
そりゃ、そうでしょう。
でも、苦しそうな人がいたりします。

何を言ってみたって、そこに平和がないなら。
どんな経験があろうが、無我だろうが何だろうがどうなの?というのは表明です。

人に勧めるとか無関係です。
する人はするし、しない人はしない、それだけです。

とくによいのですが。
それぞれの人生、ということでしょう。

No.1604 - 2009/05/25(Mon) 23:30:36
全1075件 [ ページ : << 1 ... 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 ... 215 >> ]