自利利他はgoogleで検索すると、いろいろな人が色んな風に解釈していて面白いですよね。
単に本を読んだだけの知識からの解釈なのか、あるいは瞑想(内なる気づき)からのものなのか文章を見ればおおよそ見当がつきます。
ubik0101さんが書はあまり読まないと仰る様に、やはり書よりも瞑想だと思います。
読書や分析は効率よく思考の限界を理解するためであって、究極的には体験?だと思います。
「始まりがなければ終わりがない
区切らなければ境界などない
さざ波がそれ自身を問うてもさざ波でしかない ではさざ波が生じる以前、あるいは滅した後の大きな海を空想するなら、それもまた誤りだ」
最近、気分の落ち込みが続いています。そう名詞化する事をを事象の物象化と呼ぶとするなら、そこには同時に体験者が生じている。
名詞化した事象を選び、比較し、抵抗し、あるいは再現を希望し、恐怖し、絶望する。
鏡に写った対象も鏡そのものも、雲も雲の切れ間も、なにもそれ自体としてあるような空想が、実感があるのなら、それは枯れたものだ。
時間空間の限界を超えて運動がある、これ以上足す事も減ずる事もなく、時間空間に制限されないだろうそれは、思考の間隙など問題にならない。それは何も約束しないという崇高さ、美しさと称えられる。
今日は朝から、夕方からスタバでコーヒーを飲んで、少し株式投資を研究し、昼食はスパを茹で、ニンニクを刻み、鷹の爪と貝を炒め、アラビアータソースであえて食べました。
昨晩作ったマンゴーラッシーを少し飲みました。 少し身体を冷やしたせいか、食欲があまりない。
腰湯をまめにやって汗の出る身体に調整したのに、また身体を冷やしたせいか咳が出始めました。
独立開業してもうすぐ1年経とうとしていますが、将来東京にも進出しようかな、そんな事を考えています。 しかし人が多いな東京は。山手線に乗ると人酔いします(笑)。
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No.1584 - 2009/05/24(Sun) 20:01:01
| ☆ Re: / ubik0101 | | | どういうわけか・・・たとえば半眼で結跏趺坐する・・・そんな瞑想を、したことがありません。こじつけですけど、そういう瞑想なら、これから瞑想しようとして瞑想するのだろうか。それだけで、変。うーと、瞑想してないときは、瞑想してないのかな。って、感じです。
などと、無理に思おうとすれば思えますが・・・いつもは自分がやってる皿洗いなどを、奥さんがしようとしたら、「瞑想の邪魔をするんじゃない」。とか冗談を言ったりしますが・・・ただ生きてるだけで世界と交信状態だし、いわゆる自己観察は途切れようはないし、です。
でも、どうしてるんだろうと考えてみました。自我の研究が楽しくもあります。また、なんにも考えることを失ってしまって、目前の世界から、自我もなければ無我もない、とか。この世界しかないわけじゃない、しかし、ほかの世界があるわけじゃない、とか。学んだこともあります。
また、たとえば体験者が生じてるとして。それを容認して、自分をサーチすると。体験者と呼ばれることも、それさえ不思議、神秘、未知な、世界の機能だとか、それまでとは違う意味で詳しく捉え直せます。それが、そうであること、そのままを正確に思考する。そして。そのことは、どういう意味なのかも思考したりします。
また、なにかの体験は起こることで、それを理解するのは、やはり努力が必要で。そうして自分の意識に教えて体験の印象を失って、その体験で見たことが、ごく当たり前のことになるのだと思います。
そういえば2、3年前に、ゴトの読書室の掲示板「雑感」で、独立しようとしている。という雄大さんの投稿を読んだことがあります。実現したんですね。カレーのレシピもありました。自分は料理も趣味です。こんな弁当、つくったりしています。ここは新宿発の小田急沿線です。
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No.1594 - 2009/05/25(Mon) 10:13:57 |
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