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(No Subject) / peer
>理解できない状態に、人は執着させられる、といえます。
>それは苦しいにも関わらず、そうせざるを、得ないのかも知れません。


生きることは、すべてが苦でしょうから。
とりたてて、苦と感じない場合もありましょうか。
しかも、苦が「生きている実感」になっている場合も。
苦を乗り越えることが快楽となり。
快楽欲しさに、苦を作る〜
そんなこんなの世の中のような〜

No.1554 - 2009/05/18(Mon) 12:59:36

Re: / hato

> 生きることは、すべてが苦でしょうから。
> とりたてて、苦と感じない場合もありましょうか。
> しかも、苦が「生きている実感」になっている場合も。


どうでしょう。

必要なのは、何が何でも、自己を知る、自己に入る、という意気込みと、ある種の非常な敏感さ、かも知れません。
それがなければ、難しいでしょう。
いたずらに、すべてが苦、でしょう。

> 苦を乗り越えることが快楽となり。
> 快楽欲しさに、苦を作る〜
> そんなこんなの世の中のような〜


自分としては、もうそれはただ運動性として、との感じです。
どちらかといえば、
苦、とか、快楽、として、見ることは億劫です。

そんな、感じです。

No.1555 - 2009/05/18(Mon) 21:36:59

Re: / peer
>何が何でも、自己を知る、自己に入る、という意気込みと、
>ある種の非常な敏感さ、かも知れません


この自分以外に自分があると、ふつうは思わないでしょうから。
自己を知ると言っても、せいぜいが、このある自分を成熟させていく
程度のことかなと思います。
あれとこれの境目は、いったいなになのか。

>自分としては、もうそれはただ運動性として、との感じです。
>どちらかといえば、
>苦、とか、快楽、として、見ることは億劫です。


そいうのは、わかるんですけどね〜

No.1556 - 2009/05/19(Tue) 00:34:37

Re: / hato

こんばんは。
実家で、ご飯を食べてきました。


> あれとこれの境目は、いったいなになのか。


普通か、そうでないか、ではないでしょうか?

普通、とはどういうことでしょう。

それは単に、並である、とか、平凡である、ことではないと思います。普遍が通じる、ことですよ。
それを平凡、と言ってもよいのですが、普遍が通じるには、ただおしなべて並んでいても無理なのです。

> >どちらかといえば、
> >苦、とか、快楽、として、見ることは億劫です。
>
> そいうのは、わかるんですけどね〜


なら、率直にそれを語るとよいのでしょう。
自分の状態に即した言葉が、とても大切ですね。

そうでは、ありませんか?

No.1558 - 2009/05/19(Tue) 23:52:03

Re: / peer
>なら、率直にそれを語るとよいのでしょう。
>自分の状態に即した言葉が、とても大切ですね。


>そうでは、ありませんか?

とりあえずチャレンジしてみたのですが。
hatoさんの書いているものが、私にはわかりにくいので
自分の言葉に置き換えて、感じ取ろうとしていたワケです。
これはどうだろう。あれはどうなんだろうと。
である意味。まぁ〜こうして見ると、やはり・・・
お互いの状況が違いすぎて、会話にならない〜
のかも知れませんね。

No.1559 - 2009/05/20(Wed) 00:10:24

Re: / hato

それでは、また。

No.1560 - 2009/05/20(Wed) 00:20:07

Re: / peer
はい。

未知のものに関わるというのは、完全に自分を無
にしなければならない、と学びました。
どうも〜です。

No.1566 - 2009/05/20(Wed) 23:52:42

Re: / hato

> 未知のものに関わるというのは、完全に自分を無
> にしなければならない、と学びました。
> どうも〜です。


意識する、こと自体を、苦、というとしても、
世界にあるなら、意識せざるを得ない、ことを使うことができるのでしょうね。

空になる、0になる、そして分離する、こと自体は、
この日常、誰にも起きていることと言えます。
人は皆、分離の合間にそれを経験しているでしょう。

その空、を徹底するために、禅や、修行をしたりしますね。

こちらこそ、いつも、ありがとうございます。

そのうち、peerさんのよいときに、
よい風に吹かれながら、
美味しい、お茶でも飲みましょう。
ubik0101さんと楽しみに、しています。

No.1569 - 2009/05/21(Thu) 23:01:24

Re: / peer
無になる。というのは、空になるのではあるけれど
分離とは、違うようです。。
常に融合し続けること。かなと。
そう。し続けること。
自分を無にしないと未知が入ってこない。のようなもの。
未知と・・・争いになりますね。

まぁ。そうですねぇ。
五月・六月と、遠方より友来るで、なかなか忙しく。
なんのかんのと言っているうちに・・・涼しい風が
吹く季節に〜なんてことになったりしてね。

No.1571 - 2009/05/21(Thu) 23:59:37
(No Subject) / 雄大
意識を外側にばかり向けていた習慣を、内側に気づくという意識的努力を少しばかり試みる。

以前より思考、感情に意識的になる、内側を見る、意識する、気付くといった行為によって内側に目が慣れて、今まで感覚器官が捉える世界に差異が生ずるだろう。

しかしそれは今まで内側に無意識にいたことに依存するものだ。感覚器官が捉える知覚の順番待ちの気づきなど取るに足らないことだ。それは通過点にしかすぎないだろう。

知覚であれ、無思考であれそれを何と呼ぼうと切り取られた断片は既知のモノ化されたものに過ぎぬ。モノ化されているところには体験者が存在する。
知覚、無思考、そんなものはあてにならないから執着しないことだ。

無思考、知覚、空そんなものは再体験するものではない。
体験者は存在しないし、それは体験者に依存しない。
あったりなかったりするものは怪しげなものだ。
確認する者がいたりいなかったりする位に。

知覚が起こるのを待つため、気づきを手段化をする者の精神は摩耗し続けるだろう。知覚が思わぬ足枷となっているから。

No.1565 - 2009/05/20(Wed) 22:27:06

Re: / ubik0101
ある人をリーダーとして、みんなで農業をしながら生活して、心を磨いてる。という人と話したことがあります。それで、心、って何ですか?と質問してみました。返事はありません。まあ。なんだか解らないことを、磨くのも、いいのかもしれません。

それで。ふつうの社会で、就職したり、解雇されたり、失恋したりすること、ほかに、どんな修行が必要なのでしょう?と聞いてみました。これも返事はありません。 もし人が学ぶつもりがあるなら、この、なにもないようにも思われる日常を掘り下げるだけで、欠けることはありません。

とある男が、奴隷として売られました。大きな船を櫓で、夜も、昼も、奴隷仲間と一緒に、荒れ狂う大海を漕ぎ進めます。「海が俺に力をくれた」。そんな小説がありました。 海はなにも与えはしないし、変化もしません。それが、男にとっては、自分を鍛える触媒として機能したのではないでしょうか。

ただ。求めればいいのです。自己を、求めればいいのです。その衝動があり、分離があるなら、小間切れに分離すればいいのです。そうして学んだことは意識から失われても、なくなることは、なにもありません。その衝動があるなら、求めないということさえ、総てを教えてくれるのです。

これは、何?この世界は、何?そう問うことも、問わないことも、無関係なことも役に立ちます・・・それほどに世界は、人のために機能しています。そして。いわゆる葛藤、仮の中心、自我・・・それを既知のことと命名するにしても・・・既知のことなど、なにもありません・・・雄大さんの投稿を見て、さまざま思ってしまいます。

ところで。たしかに。体験者が存在する/存在しないといっても、それは知覚依存症だという、こともあります。そこのところを、自己は、無自覚、とか、了解、と言ったりしています。

No.1568 - 2009/05/21(Thu) 14:43:56
(No Subject) / 雄大
「この日常は、総ての意味が活動しているために、無意味です。」

そうであると思います。意味を問う時、そこには断片化があるのではないでしょうか?

それを問うものは問われるべき対象と不可分です。
問う事の中に動機、渇望、抵抗、何かを排除しようとする働き、断片化があるのではないでしょうか。

見ること、聞くこと、それ自体で完結している運動に理解があるなら、生を断片化させるような事象の切り取り、比較、選択は起こらない、問題にはならないのではないでしょうか。

知覚と心理的思考を並べませんし、並べられた対象を観察する者や、観察する行為に分離させる事はないでしょう。

《はっきりした対象であるなら、実感があるならそれを疑う。
軸を、中心を残した対象などかなり怪しいものだ。》
それは体験する者など気にもかけないだろう。

No.1563 - 2009/05/20(Wed) 19:51:37

Re: / ubik0101
この小さな部屋から世界を眺めると・・・初夏ともいえる朝の透明な光に溢れる風が木々の葉を揺らし、鳥の鳴き声が聞こえて、それは、なにかを思考する以前の世界のように感じられます。そこでは、ありとあらゆること、ありとありえないこと、が満たされているのです。そのように、と言うか、それでも、と言うか、人は炊事、洗濯、掃除をするのです。

そういえば。道の仲間に、こんなメールを送信(すこし改訂)しました。

はらはら、はらはら、この山荘のような部屋の周囲で、いろんな落葉樹の葉が、落ちていました。それが、どれひとつ同じ落ち様ではなく、とても美しいと感じました。去年の秋のことです。

それで、この一枚の葉の落ちる様は、ほかの総ての世界中の(これまであった、これからもない)落ち葉と、違うだろう。けど、この一枚の落ち葉は、ほかの総ての落ち葉の代表・表現?のようでもあるだろう。

けど、世界中の落ち葉からしてみれば、この一枚の落ち葉は、総ての落ち葉で、ない、だろう。また、そうで、ない、可能性として現れたんじゃなかろうか。

それで、なにか出来事であれ思考であれ、それが現れる/起こるということは・・・・総て・・・で、ない、こととして現れたんじゃないだろうか?でも、なにかが現れるということは、たしかにその、なにかが現れることとして知覚されるので、そうばかりは言い切れないのです。

うーん、因果、と関係あるかな、でも、なになにが因果だ、というような説明では納得できません。因果を主語にして説明できるだろうか。やはり因果とは、縁起、の理解のつもりの誤解じゃないだろうか、そんな誤解を理解とするために、時間があるとかないとかの話になってしまったりするのではないでしょうか。

それに、それには、自我と呼ばれる、仮の中心が機能してるでしょう。そうでないなら、なにか原因があって結果があるという因果など、どうでもいいのではないでしょうか・・・こんな内容のメールでした。

まあ。仮の中心があろうとなかろうと、とくに問題ではないのではないでしょうか。なにかを理解したいなら、それが心理的思考であれ、技術的思考であれ、みな人は、対象に集中して、世界と分離し、自分と分離し、それを研究するのですから。そのようにして、自我の機能に使われるのではなく、それを使うのではないでしょうか。

No.1567 - 2009/05/21(Thu) 09:03:19
(No Subject) / 雄大
動機のある卑しいものは
それが姿が顕す事はない

卑しい限りある世界の中心を失う事なしに
足したり引いたり無関心なものには気がつくことはない
そこに気がつく者などいないからだ

足したり増えたり緊張したり怠けたり、ふわつく動機君へ、何であれそれは無関心という愛を与えているのに

心理的思考、葛藤、知覚、何も排除しないそれは、何によっても汚される事はない
だからそれは存在しないし、あるとはいえない
しかしそれがなければ何物をも存在できないであろう

No.1557 - 2009/05/19(Tue) 23:20:58

Re: / ubik0101
>動機のある卑しいものは
>それが姿が顕す事はない


その姿を顕さない、それを、無知・あるいは無明と呼んでいます。それは知覚の対象には、なり得ません。ただそれは、人の行動、発言、思考として顕れ、それが人に知覚されるようになり得るだけです。

その動機とは。限りあることでも、限りないことでもなく、増えたり減ったりしないこと・・・それが物質、感覚、感情、意識的なことであれ・・・それを限りあること、また限りないことにしようとしたり、増やしたり減らしたりしようとすることであり、欲望と呼ばれます 。

そのために、ほかからは隔離された世界の中心が仮定され、とある個別なことを対象にして、虚構である、ない、自我が、ある、こととしてして運動します・・・それが無知・無明の活動です。それは人が自分で自分を自覚しようとする衝動の顕れ、でもあります。

>卑しい限りある世界の中心を失う事なしに
>足したり引いたり無関心なものには気がつくことはない
>そこに気がつく者などいないからだ


しかし 人の総てが総活動状態ならば、 限りあることでも、限りないことでもない、増えも減りもしないことを見て。とある個別なことだけを対象にすることによって仮定される、その中心は、それがある意味を失います。 それが自我の完成です。そのことで、どんなことも削除されることはありません。

>足したり増えたり緊張したり怠けたり、ふわつく動機君へ、何であれそれは無関心という愛を与えているのに
>心理的思考、葛藤、知覚、何も排除しないそれは、何によっても汚される事はない
>だからそれは存在しないし、あるとはいえない
>しかしそれがなければ何物をも存在できないであろう


たとえ 卑しいことも汚れたことも。自我さえ、増えも減りもしない、世界の機能です。それは卑しいことでも汚れたことでも、聖なることでもさえ、ないので。 そう、あり得るだけです。 この日常は、総ての意味が活動しているために、無意味です。

No.1561 - 2009/05/20(Wed) 11:12:21

Re: / ルー
> たとえ 卑しいことも汚れたことも。自我さえ、増えも減りもしない、世界の機能です。それは卑しいことでも汚れたことでも、聖なることでもさえ、ないので。 そう、あり得るだけです。 この日常は、総ての意味が活動しているために、無意味です。

その無意味は、非意味ですか?

No.1562 - 2009/05/20(Wed) 13:22:35

Re: / hato

> > たとえ 卑しいことも汚れたことも。自我さえ、増えも減りもしない、世界の機能です。それは卑しいことでも汚れたことでも、聖なることでもさえ、ないので。 そう、あり得るだけです。 この日常は、総ての意味が活動しているために、無意味です。
>
> その無意味は、非意味ですか?



意味に非ず。非意味。

との言葉は、それが自分として適当だったとしか、今の時点では言えませんが、確かにそれは、一瞬にしてすべて、総ての意味が稼働している、智、
さらに、無意味にしてそれ以前(妙な表現),意味未然にしてそれ以前(妙な表現)との感じです。

それはこの世界であり、日常、と思います。

No.1564 - 2009/05/20(Wed) 22:08:06
(No Subject) / 雄大
とても雄大さんを、近くに感じてしまいます。

ありがとうございます。
何時かお会いできる日を楽しみにしています。

No.1552 - 2009/05/17(Sun) 22:57:43

Re: / ubik0101
そうですね。狭い部屋ですけど、遊びに来てください。江ノ島あたりで釣りでも、一緒しましょう。
No.1553 - 2009/05/17(Sun) 23:16:47
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