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その人に聞く / peer
というのは、本当に、その人を知るため、なのだろうか。

私たちは、答えを知りたがります。
それを子供の頃から、ずっとしてきました。
自分は何も知らない。。。だから、人に聞く。スタイル。

知らない場所で迷って、誰かに道を聞く。
と、知っている人は教えてくれます。
「ここをまっすぐ行って、右に曲がったら・・・」
貴方の求めている場所が、あります。と。
そういう場合は、教えてもらって有難いです。

↑これは、誰にとっても真実です。
わたしたちは、真実を知りたい。

それ以外は、、、人に聞く、というのは
規範を得ようという行為なのではなかろうか。
真実ではなく。自分にとって有利に使える規範。
なにかの場所でそれなりの人物と受け入れられる規範。
著名な人が言ったから真実となるようなもの。
そのように、あたりまえに規範は、外から与えられるモノ。

No.1596 - 2009/05/25(Mon) 11:23:55

Re: その人に聞く / ルー
本なら読んで自分で考えるしかないけど、掲示板なら相手に直接聞けるよね。
No.1597 - 2009/05/25(Mon) 12:03:55

Re: その人に聞く / ルー
逆にいうと、本は読者との話し合いによって進められるわけではないので、読者がどのようにも誤解して読めるわけだ。
なので、誤解を生まないような伝え方を訓練せねばならないのだ。
まぁ、書評というものもあるので、そこで鍛えられるだろう。

No.1598 - 2009/05/25(Mon) 12:18:16

Re: その人に聞く / peer
「知らない場所で迷って、誰かに道を聞く。」
のように、聞かれたら答えがはっきりしているモノと
答えようがないものがある。のではないでしょうか。

本を読んで、自分の理解が正しいかを聞く。
読者が誤解しているかどうか、確かめるとか。

というのも、答えられることだと思います。
ただ、その本に書かれているものが正しいのかは
誰にも聞けない〜答えがないモノ。
なのかも知れません。
誤解したけど、その方がゴモットモで誤解が正解。
著者がバカということも、ありますから。

まっほら。よくこんなクダラナイコトを書くなぁ〜
なんてことも、あるじゃない。

No.1599 - 2009/05/25(Mon) 12:40:58

Re: その人に聞く / peer
哲学の歴史を見ますと、進化というものは、
前に「正しい」とされたものを疑って打ち壊し
新たな発見がなされていくことで、成り立ちます。
誰かが言ったことを否定して、自分で考える。

まっ、ニンゲンが考えることなんて、絶対に欠陥がありますから。
ニュートンの万有引力は、アインシュタインの相対性なんたらで
否定されました、絶対ではないと・・・そんな感じで。
疑いが進化をもたらす。

No.1600 - 2009/05/25(Mon) 12:50:39

Re: その人に聞く / ルー
>まっほら。よくこんなクダラナイコトを書くなぁ〜
なんてことも、あるじゃない。

あります。(笑)

No.1601 - 2009/05/25(Mon) 12:53:02

Re: その人に聞く / ルー
>ただ、その本に書かれているものが正しいのかは
誰にも聞けない〜答えがないモノ。
なのかも知れません。

だから、自分で考えるのでしょう。
どのような文章を読んでも、読んで解釈するのは自分ですから、自分が育っていないと読めませんし、考えられません。

No.1602 - 2009/05/25(Mon) 13:00:28
(No Subject) / 雄大
自利利他はgoogleで検索すると、いろいろな人が色んな風に解釈していて面白いですよね。

単に本を読んだだけの知識からの解釈なのか、あるいは瞑想(内なる気づき)からのものなのか文章を見ればおおよそ見当がつきます。

ubik0101さんが書はあまり読まないと仰る様に、やはり書よりも瞑想だと思います。

読書や分析は効率よく思考の限界を理解するためであって、究極的には体験?だと思います。

「始まりがなければ終わりがない

区切らなければ境界などない

さざ波がそれ自身を問うてもさざ波でしかない
ではさざ波が生じる以前、あるいは滅した後の大きな海を空想するなら、それもまた誤りだ」

最近、気分の落ち込みが続いています。そう名詞化する事をを事象の物象化と呼ぶとするなら、そこには同時に体験者が生じている。

名詞化した事象を選び、比較し、抵抗し、あるいは再現を希望し、恐怖し、絶望する。

鏡に写った対象も鏡そのものも、雲も雲の切れ間も、なにもそれ自体としてあるような空想が、実感があるのなら、それは枯れたものだ。

時間空間の限界を超えて運動がある、これ以上足す事も減ずる事もなく、時間空間に制限されないだろうそれは、思考の間隙など問題にならない。それは何も約束しないという崇高さ、美しさと称えられる。

今日は朝から、夕方からスタバでコーヒーを飲んで、少し株式投資を研究し、昼食はスパを茹で、ニンニクを刻み、鷹の爪と貝を炒め、アラビアータソースであえて食べました。

昨晩作ったマンゴーラッシーを少し飲みました。
少し身体を冷やしたせいか、食欲があまりない。

腰湯をまめにやって汗の出る身体に調整したのに、また身体を冷やしたせいか咳が出始めました。

独立開業してもうすぐ1年経とうとしていますが、将来東京にも進出しようかな、そんな事を考えています。
しかし人が多いな東京は。山手線に乗ると人酔いします(笑)。

No.1584 - 2009/05/24(Sun) 20:01:01

Re: / ubik0101
どういうわけか・・・たとえば半眼で結跏趺坐する・・・そんな瞑想を、したことがありません。こじつけですけど、そういう瞑想なら、これから瞑想しようとして瞑想するのだろうか。それだけで、変。うーと、瞑想してないときは、瞑想してないのかな。って、感じです。

などと、無理に思おうとすれば思えますが・・・いつもは自分がやってる皿洗いなどを、奥さんがしようとしたら、「瞑想の邪魔をするんじゃない」。とか冗談を言ったりしますが・・・ただ生きてるだけで世界と交信状態だし、いわゆる自己観察は途切れようはないし、です。

でも、どうしてるんだろうと考えてみました。自我の研究が楽しくもあります。また、なんにも考えることを失ってしまって、目前の世界から、自我もなければ無我もない、とか。この世界しかないわけじゃない、しかし、ほかの世界があるわけじゃない、とか。学んだこともあります。

また、たとえば体験者が生じてるとして。それを容認して、自分をサーチすると。体験者と呼ばれることも、それさえ不思議、神秘、未知な、世界の機能だとか、それまでとは違う意味で詳しく捉え直せます。それが、そうであること、そのままを正確に思考する。そして。そのことは、どういう意味なのかも思考したりします。

また、なにかの体験は起こることで、それを理解するのは、やはり努力が必要で。そうして自分の意識に教えて体験の印象を失って、その体験で見たことが、ごく当たり前のことになるのだと思います。

そういえば2、3年前に、ゴトの読書室の掲示板「雑感」で、独立しようとしている。という雄大さんの投稿を読んだことがあります。実現したんですね。カレーのレシピもありました。自分は料理も趣味です。こんな弁当、つくったりしています。ここは新宿発の小田急沿線です。

No.1594 - 2009/05/25(Mon) 10:13:57
(No Subject) / 雄大
わたしは、そんなことは言わない。


わたしは、それらの2つの極端を離れて、中道によって法を説くのである。

よい香りの文章ですね。

No.1585 - 2009/05/24(Sun) 20:04:44

Re: / ubik0101
たしかに。その仏陀の言葉には、知覚できないことは、ない、知覚できることは、ある、とする。そんな知覚依存症の暗雲たれこめた空を切り裂く稲妻のような爽快感を覚えました。
No.1593 - 2009/05/25(Mon) 10:11:35
(No Subject) / hato

>無になる。というのは、空になるのではあるけれど
>分離とは、違うようです。。
>自分を無にしないと未知が入ってこない。のようなもの。



そうですね、
自分にとっては、

空,という表現は、それまで捉われていた、自我の働きからの開放の状態を、指すことができます。
ひとまず、そのように捉えることができます。ここで、空,は文字通り,空、としておきましょう。仮の自己からの開放とは、その自我の密度が全面的か否かによって、様々な経緯があると言えるようです。

一方で、その 空 の深度が深まることによって、無 へと移降していくと言うことができます。
peerさんが言われた、完全に自分を無にする、の部分に相当します。
ある,ない,の,ない,とは別様の状態に入っていく、ということです。
空の閾値が高まったとき、即ち、無は、表現不可能不可知、かも。知れません。そうとは限りません、が、そのようです。ここに向かうことを、自己に入る、と表現します。
無、そして不可知、の深度は、自他、生と世界への理解に深浅、成熟度として表現されています。

ここを徹底させる為に、日常においてそれは何かと問う、或いは、禅などを通して、探求が行われると言うことができます。

形あるものとないものは,ある意味同時ながら、常に、了解 が優先されています。
人は、この身体を離れていきます。
この世界に於いて、自身を学ぶことができることは幸いです。

世界、生、この日常全体をして、了解、と表現します。
その自体を実在、とは表現しにくいのです。それでは重いのです。
自分にとってその了解は、非意味であり、この世界でそれを生きて、理解することができます。

そのように、感じています。


>常に融合し続けること。かなと。
>そう。し続けること。


分離,融合は、人が世界にあるときの状態を表現した、と言うことができるでしょう。
仕組みと、その有り様を表現しています。
何かを知覚、意識して、たとえばそこから検討に入る、というのは、双方の状態を使っています。
分離とは、働きの方向性を指す方便でもあります。

それ、は、常に全面的な稼動であり、故に全面的な停止、とも言えます。
常にまったきそれ、であるなら、
どの働きをとっても、それはそれとして、働いているでしょう。

そして尚,peerさんが融合とみること、それはpeerさん自身と言えるのではないでしょうか。
それがこの世界で可能なことと、思います。


>未知と・・・争いになりますね。

未知と争うことは、できません。
了解された地点を、平和、とも言い換えることができます。


>まぁ。そうですねぇ。
>五月・六月と、遠方より友来るで、なかなか忙しく。
>なんのかんのと言っているうちに・・・涼しい風が
>吹く季節に〜なんてことになったりしてね。



それもまた、いいですね〜、

いつでーも。
いつかpeerさんの、よいときに。

No.1574 - 2009/05/22(Fri) 22:52:01

Re: / peer
無 も 空 も
もっと単純に考えています。わたしは。

「無」は、無条件の「無」
「空」は、空間の「空」

無条件でないものは・・・会員制のようなもので
非常に窮屈なものです。
空間があるから、存在できますね。
器がカラッポだから、ものが入るワケで。
わたしらは、ただの器で空間があり、
無条件に受け入れます。出すのも自由。

なんか。そんな感じですねぇ。
ただ、そこに帰ればいいんだな〜って。

No.1575 - 2009/05/23(Sat) 09:51:21

Re: / hato
> 無 も 空 も
> もっと単純に考えています。わたしは。
> 「無」は、無条件の「無」
> 「空」は、空間の「空」



単純と、複雑。
単純は複雑であり、複雑は単純です。
どちらにも、双方が含まれている(変な言い方です)と思います。


> 無条件でないものは・・・会員制のようなもので
> 非常に窮屈なものです。
> 空間があるから、存在できますね。
> 器がカラッポだから、ものが入るワケで。
> わたしらは、ただの器で空間があり、
> 無条件に受け入れます。出すのも自由。
> なんか。そんな感じですねぇ。
> ただ、そこに帰ればいいんだな〜って。



そうだとして、

日々、この日常はただ、そこに帰ればいいんだな〜って、
感じでは、ないでしょう。
そうではありませんか?

わたし達はどういうわけか、成長するようにできている、
そうでは、ありませんか?

ただそれだけのことかな、と思います。

今日は、海に行ってきます。

No.1576 - 2009/05/23(Sat) 10:48:59

Re: / peer
ひゃーひゃー・・・
書いて投稿して、見直して。
非常に〜チンプなことを書いているなぁ。
と、、、感じておりました。

複雑をたどっていくと、突然、全部を投げ捨てたくなります。
投げ捨てて投げ捨てて〜残ったものが、あるようなないような。
それが「単純」。なのかな〜と。

複雑というのは、思考にドップリの状態なんです。
めったに使わない脳みそがフル稼働したあげく
オーバーヒートして、沈黙が訪れる。

・・・成長できるんでしょうか。
わたしは、どんどんオバカになっていく。ような気がしてます。

No.1580 - 2009/05/24(Sun) 00:51:32

Re: / hato

> ひゃーひゃー・・・
> 書いて投稿して、見直して。
> 非常に〜チンプなことを書いているなぁ。
> と、、、感じておりました。


ううん、ちっとも。
peerさんは、取り立てて違うことを言ってるわけではないと思います。
そして、とても優しい人なんです。
人を見て、ただ抱きしめてあげたい、て思う、慈愛の人なんです。陳腐でもないし、おかしく、ありません。


> 複雑をたどっていくと、突然、全部を投げ捨てたくなります。
> 投げ捨てて投げ捨てて〜残ったものが、あるようなないような。
> それが「単純」。なのかな〜と。
> 複雑というのは、思考にドップリの状態なんです。



そうですね、お話されていること、とてもよくわかります。

そしてその上で、たとえば、理解、ということ。
それは、思考にドップリ、ではないんです。
人が理解するのを拒むとしたら、そこにいたい、からでしょうね。それでも、とくによいのですけど。

了解されたこと、が思考回路を通じて、ある意味秩序立って出てくることは、とても大事なことです。
表現は、必要なときに必要な表現としてそのまま、出てくることができます。たとえば日常でそうしたこと、とくに考えてはいません。ただそれが、それの表現の一表現として、必要なら出てくる、だけなんです。

了解していることを思考回路を通して表現する、秩序立てて表現する、ということは、とても役に立ちます。(変な言い方です)ある意味、身体的にそれを学ばせる、ということは、思考回路を整備することによって、秩序となるからとも言うことができます。
ここでそれを使うことは、固める、凝り固まる、思考に偏る、てことではまったく、ないのです。
こうした状態に入ると、皆、どちらかというと散文的になります。それもいいと思います。

けど、その隙間はなんでもよい、なら、どうにでもなる、なってしまえます。実際、どうでも、いい、との感じだからです。
未知なき道は、自分自身で造っていく、ことでもあるでしょう、故に、そこを正確に言おうとする、言い得ること、曖昧にしないことは、勇気、でもあります。

すこし飛びますが、

たとえば誰かが、答えを言ってしまうのはつまらない、と言っていました。公案とか?でしょうか。人の為にならない場合がある、からだそうです。そーれこそ、チンプ、て思うのです。それを言わせるほど、自分が人に頼ってる、まずその、自分、です。その人はまず、人に聞く癖をとる必要があるかも知れません。或いは、人の答えを聞いてだめになるなら、そんくらいのもんじゃ、て感じです。そんなの無関係。学ぼう、て思うなら、どこからでも学びますね。
そこで人のせいにしては、そこで終わってしまいます、と思います。


> めったに使わない脳みそがフル稼働したあげく
> オーバーヒートして、沈黙が訪れる。
> ・・・成長できるんでしょうか。



もちろんです。こちらこそ。
条件がある、ない、を越えた、無。それは未知、なんです。


> わたしは、どんどんオバカになっていく。ような気がしてます。


こちらも、ずーと、そうなんです。どうしましょう。

ダーリンと、日常で、野菜とか、今日の献立、とか、ノンノンの話し、とかしか、とくにしてませーん。
そいえば先日、一読者さんがメールで、石はないのさ〜、とお話でしたが、

この日常は、そんな、感じです。

No.1582 - 2009/05/24(Sun) 11:39:06

Re: / peer
>たとえば誰かが、答えを言ってしまうのはつまらない、
>と言っていました。公案とか?でしょうか。
>人の為にならない場合がある、からだそうです。


やはり答えは応えじゃないかな、と思います。
なにかを尋ねて、なにも返ってこないのは〜
どんなものでしょう。

相手は答えを求めているワケじゃない。
・・・なんか、そんな感じがするんです。
だからって、こうだと言えないけれど。

>そーれこそ、チンプ、て思うのです。それを言わせるほど、
>自分が人に頼ってる、まずその、自分、です。その人はまず、
>人に聞く癖をとる必要があるかも知れません。


うん。

>> わたしは、どんどんオバカになっていく。ような気がしてます。

> こちらも、ずーと、そうなんです。どうしましょう。

あ。。。。やっぱり、、、ね。

No.1590 - 2009/05/25(Mon) 01:26:05
(No Subject) / 雄大
私の分けの解らない落書きのような文章に、何時もubik0101さんから丁寧にコメントを頂き感謝します。

ある人にとってはubik0101 さんの文章も私のと同様?に、慣れるまで解するのに骨が折れる文章なのかもしれませんね(笑)。

私は理解より匂いある文章のほうが好みです。

自利利他
自利 空性
利他 菩提心

菩提心?
自利利他?

本の説明は何かこじ付け的なのが多くて、よく分らないです。

No.1577 - 2009/05/23(Sat) 11:09:43

Re: / ubik0101
まあ書は、ほとんど読まないのですけど、昨日、仏陀は縁起を、どう説明したかな?と思って、阿含教典第一巻〈筑摩書房・増谷文雄訳〉を見てみました。ぱっと開いたところに・・・


受(感覚)と、それを感ずるものとは同じであるというのは、ティンパルカよ、いまそなたが〈苦楽は自作である〉と言ったことと同じであるが、わたしは、そんなことは言わない。

また、受(感覚)と、それを感じるものとは別のものであると言うのは、ティンパルカよ、いまそなたが〈苦は他作である〉と言ったことと同じであるが、わたしは、そんなことは言わない。

ティンパルカよ、わたしは、それらの2つの極端を離れて、中道によって法を説くのである。いわく、無明によって行がある。行によって識がある。・・・かくのごときが、すべての苦の集積の、よりて起きることである。

また、無明を余すことなく滅することによって行は滅する。行の滅することによって識は滅する。・・・かくのごときが、すべての苦の集積の滅するところである、と。


まあ、人の総活動状態の説明かもしれませんが・・・たとえば。見るものは、見られるもの、などと馬鹿なことを言わず・・・それ自体が、はじまりも、中間も、終わりもよく、説かれてると思いました。

これから今日は海に行きます。

No.1579 - 2009/05/23(Sat) 11:48:19

Re: / ubik0101
> 自利利他
> 自利 空性
> 利他 菩提心


> 菩提心?
> 自利利他?



うーん。お経とか、解説とかで、そういうことを読んだことはないのですけど。 また、自分のことしか解らないのですが、無謀にも、その言葉の印象だけで、話してみます。

たぶん、この空性とは、たとえば二束の葦束が互いに支えあって立つように・・・無自性・・・とかいう知的な理解のことではなく・・・縁起を見る・・・見なくてもいいのですが・・・ほどの人の総活動、歓喜状態のことかもしれません。

その人が総活動状態ならば、あれとか、これとか、世界から、また自分から分離、分裂された個別のことを対象にする仮の中心、いわゆる自我は、ある、ことができません。であれば自我の仕組みを見て、その、ない、ことを知ります。

でも。たとえば、自我に限りませんが、なにかが、ない、ということは。世界の総てを見て、はじめて言えることではないでしょうか。そうであるほどの、総活動状態。なにか個別のことだけが活動してるわけではない、それゆえ静寂。それを空性、と呼んでるのかもしれません。これが自我の目的と思います。

そうならば、ほかの人にも、そうあって欲しい、ほかの人のために働きたい気持ちが、どうしようもなく湧き上がります。それを菩提心、と呼んでるのかもしれません。それで、空性を、個人のこと、自利と見なすならば。菩提心は利他、と見なせる。ということなのかもしれません。

No.1581 - 2009/05/24(Sun) 09:03:09
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