「この日常は、総ての意味が活動しているために、無意味です。」
そうであると思います。意味を問う時、そこには断片化があるのではないでしょうか?
それを問うものは問われるべき対象と不可分です。 問う事の中に動機、渇望、抵抗、何かを排除しようとする働き、断片化があるのではないでしょうか。
見ること、聞くこと、それ自体で完結している運動に理解があるなら、生を断片化させるような事象の切り取り、比較、選択は起こらない、問題にはならないのではないでしょうか。
知覚と心理的思考を並べませんし、並べられた対象を観察する者や、観察する行為に分離させる事はないでしょう。
《はっきりした対象であるなら、実感があるならそれを疑う。 軸を、中心を残した対象などかなり怪しいものだ。》 それは体験する者など気にもかけないだろう。
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No.1563 - 2009/05/20(Wed) 19:51:37
| ☆ Re: / ubik0101 | | | この小さな部屋から世界を眺めると・・・初夏ともいえる朝の透明な光に溢れる風が木々の葉を揺らし、鳥の鳴き声が聞こえて、それは、なにかを思考する以前の世界のように感じられます。そこでは、ありとあらゆること、ありとありえないこと、が満たされているのです。そのように、と言うか、それでも、と言うか、人は炊事、洗濯、掃除をするのです。
そういえば。道の仲間に、こんなメールを送信(すこし改訂)しました。
はらはら、はらはら、この山荘のような部屋の周囲で、いろんな落葉樹の葉が、落ちていました。それが、どれひとつ同じ落ち様ではなく、とても美しいと感じました。去年の秋のことです。
それで、この一枚の葉の落ちる様は、ほかの総ての世界中の(これまであった、これからもない)落ち葉と、違うだろう。けど、この一枚の落ち葉は、ほかの総ての落ち葉の代表・表現?のようでもあるだろう。
けど、世界中の落ち葉からしてみれば、この一枚の落ち葉は、総ての落ち葉で、ない、だろう。また、そうで、ない、可能性として現れたんじゃなかろうか。
それで、なにか出来事であれ思考であれ、それが現れる/起こるということは・・・・総て・・・で、ない、こととして現れたんじゃないだろうか?でも、なにかが現れるということは、たしかにその、なにかが現れることとして知覚されるので、そうばかりは言い切れないのです。
うーん、因果、と関係あるかな、でも、なになにが因果だ、というような説明では納得できません。因果を主語にして説明できるだろうか。やはり因果とは、縁起、の理解のつもりの誤解じゃないだろうか、そんな誤解を理解とするために、時間があるとかないとかの話になってしまったりするのではないでしょうか。
それに、それには、自我と呼ばれる、仮の中心が機能してるでしょう。そうでないなら、なにか原因があって結果があるという因果など、どうでもいいのではないでしょうか・・・こんな内容のメールでした。
まあ。仮の中心があろうとなかろうと、とくに問題ではないのではないでしょうか。なにかを理解したいなら、それが心理的思考であれ、技術的思考であれ、みな人は、対象に集中して、世界と分離し、自分と分離し、それを研究するのですから。そのようにして、自我の機能に使われるのではなく、それを使うのではないでしょうか。
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No.1567 - 2009/05/21(Thu) 09:03:19 |
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