枯れススキがあります。 ある人がそれを見て幽霊だと思い込んでいます。
その人にとってその時まだ幽霊は実在しています。 誰かがそれは幽霊なんかじゃない、ただのススキなんだと教えてくれます。
恐る恐るもう一回見てただのススキなのだと了解します。 ススキは以前からススキとしてあります、幽霊は存在しないそのことに気がつきます。
抵抗せず自然な状態で動機がなければ、目的がなければ、思考、感情、知覚等々を移動していくにせよ、因果の慣性運動が継続していくにせよ、ないものをあると錯覚しているのなら軸は折れない。同じくらい錯覚の中心は、信仰するものの中ではやはり現実としてある。
それ自体として存在しない世界では錯覚した中心があるだろうか。
それ自体として存在する世界の集まりは誰が作っているのだろうか。
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No.1570 - 2009/05/21(Thu) 23:25:38
| ☆ Re: / ubik0101 | | | たとえば枯れススキを見る、ざわめく風を聞く、思考する・・・つまり知覚・・・それは、その対象を認めて、ある、とします。そのことによって、知覚は、自身を、ある、と見なします。
このことは・・・ある、でも、ない、でも、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りの世界の範疇で機能しています。知覚。それだけで、ある、に偏っています。
ところで。対象と、知覚と、意識の、その系は、接触、なくして機能しません。知覚が、ある、と言います。それを受けて、特質として愚かな意識は、そうか、ある、のか。と受容します。
この、接触、これは特質として欲であり、人の、欲望として働く芽を孕んでいます。そんな、ある、でも、ない、でも・・・どう言っても誤りの世界で運動をする、その中心は、ない、です。それが、ある、振りをしてるだけです。自我。それが迷いと言えば迷いと呼ばれます。
そして、それが対象にする、分離された、個別なことは、それ自身に原因を持ちません。なぜなら個別のことには因果関係があるから、です。と。そうでなく世界の範疇にない実在は、それ自身が原因です、と。一応は説明されます。
けれど、そうでしょうか。それ自身に原因を持つ実在と、持たない世界の区別を失いました。それを日常と呼んでいます。それは神秘、不思議です。それを、なにをしても、しなくても、あらゆる自分が、つくり変え続けています。
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No.1572 - 2009/05/22(Fri) 11:54:50 |
| ☆ Re: / peer | | | >枯れススキがあります。 >ある人がそれを見て幽霊だと思い込んでいます。
その人の中に、枯れススキを幽霊と見たいモノがある。 のでしょうから、その幽霊と見たいものを、一緒に 見てあげればいい、と思うけどね〜。
そうしないと、その人は、いつまでも、 何かを見るたびに「幽霊だ」と勘違いし続ける。 ような気がします。
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No.1573 - 2009/05/22(Fri) 11:55:23 |
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