>>どっちもあって、どっちにも偏らないというように自分に納得させるのは、どうしてですか?
>たとえば、総ては「ひとつ」という世界を前提にすると。ほかの人と自分が違う、という当たり前のことに整合性がとれません。そのために、絶対平等、絶対差別という両方の世界観を必要にするのだと睨んだり踏んだりしています。
説明します。 まず、うびさんの言っておられる「自我の機能」というのは、「自分と他人を分ける機能のことなのだろうか」という疑問を持ちました。 「自我はない」のであるから、何かについて思考する時に使う自我の機能と言っておられるのは、「自分と他を分ける」(自我の機能を使う前は、自分と他が別れている意識はない)ということをするのかなと思ったので聞いたのです。 そして、「総てはひとつという世界観を前提にする」場合というのが提示されましたが、私は、その場合、「ほかの人と自分が違うということに整合性がとれない」という事態は起きないと思います。 むしろ、「自分」という意識がない状態であると思います。 それぞれが違っていることに何の疑問も持たない状態であると思います。 ですので、絶対平等だとか絶対差別とかの意識は生まれないと思います。 えーっと、うびさんが提示された「すべてはひとつ」という世界について、私はそう思いましたが、うびさんのいう「すべてはひとつ」という世界は、どういうものでしょう。 他の人と自分が違うということに整合性がとれない世界? 「自我の機能を使う」というのを、「自分と他を分ける機能ですか?」と聞いたので、「すべてはひとつ」という世界のことが出てきたのですか? 自我がない時には、自分と他は分かれていると意識していないのかな?と思ったので、質問が出たわけです。「すべてはひとつ」という世界を私は生きているのではありません。 とにかく「自我がない」を知りたくて質問したのでした。 まして、「自我はないと言うのは問題である」と言いたいのではありません。 本当に知りたかったのです。 しかし、うびさんの最新の書き込みを読むと、「自我はない」と言うのも誤りなのかなという気がします。 どう言っても誤りなのでしょう。 「自我がない時と自我がある時があるし、殆どの場合に自我がない人も、殆どの場合自我ばっかりの人もいます」とかの表現もできると思いますが、どう言っても誤りなのでしょうか。 人間は、ある程度言葉を尽くして、相手に理解しやすいように表現する工夫はできると思うのですが。 やはり、「どう言っても誤りです」が答えですか。
|
No.1429 - 2009/02/21(Sat) 10:45:25
| ☆ Re: ひとつ? / ubik0101 | | | なんど聞かれても、自我は、ない、です。その、ない、が、ある、こととして機能することを、自我と呼びます。と、いう定義も、そうする人の有り様を顕わにします。つまり、人が、ある有り様なら、なんだかの定義ができ、なんだかの定義することは、その人の有り様を現す・・・これにも例外はありますが・・・ということです。
それで、自我は、さまざまに定義できます。たとえば自我とは、自他の区別をする、そのこと、だけではありません。それで、さまざまな定義を、ほかの人がなんと言ってるにしても、自分で発見する、そのことによって、そうしてる自分の有り様を理解していき、そのことによって・・・より深い(変な言い方)自分の有り様・・・が明確になり、また、その立ち位置から見渡せる、これまでは見えなかったことを学ぶことができます。自我を使うのです。
>むしろ、「自分」という意識がない状態であると思います。
なにかを思考したり、悲しんだり、怒ったりすることは無問題で、そこに、この自分が、そうしてるという意識があるなら、問題。という指摘でしょうか。そういうことなら、なにかを感覚、感情、思考したりすることで、そうしてる自分が設定される。ということの理解がないために、理解がない状態に留させられる、依存させられる、執着させられざるを得ないなら、それは自我なのでしょう。ただ、それを理解したからといって、それが削除されるのではありません。
>そう思いましたが、うびさんのいう「すべてはひとつ」という世界は、どういうものでしょう。
たとえばアメリカも、日本も、中国も、どんなことも地続きで、それだけで独立したもの、ことではない、という世界観です。しかし大陸は大陸、海は海、島は島。また、たとえばルーさんも、ubik0101も、それだけで独立してない「絶対平等」ということです。しかしルーさんは、ルーさんで「絶対差別」ということです。ここでいう絶対の融合も分離もない、に相当すると思われます。でも、それは、この世界限定の話ではないでしょうか。かなり困難でしょうが、その奥が探れるのではないかと思っています。
それと。たとえば、ですよ。愛着があるなら、なぜ、そうなのか。ないなら、なぜそうなのか。それにもまして、愛着とは、なんなのか?ルーさんが、ルーさんを探る。それが学ぶことだと思います。
これから外出です。
|
No.1434 - 2009/02/21(Sat) 14:25:13 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | > それと。たとえば、ですよ。愛着があるなら、なぜ、そうなのか。ないなら、なぜそうなのか。それにもまして、愛着とは、なんなのか?ルーさんが、ルーさんを探る。それが学ぶことだと思います。
違います。 私は、愛着があることに、何の問題もないのです。 うびさんの言う「自我がない」という状態とはどういうものなのかを探っているのです。 「自我がない」場合。愛着はどうなっているのかを、うびさんに聞いているのです。 うびさんの状態を聞いているのです。
自我がない状態でも、普通の人と同じように、愛着は感じるのであるとお答えいただいたので、それでいいです。
|
No.1437 - 2009/02/21(Sat) 22:11:38 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | > 自我がない状態でも、普通の人と同じように、愛着は感じるのであるとお答えいただいたので、それでいいです。
しかし、失う恐れのない場合にも愛着を感じるのは病気であると書いてありましたね。 失う危機に面していなくても、愛着はあるでしょう。
|
No.1438 - 2009/02/21(Sat) 22:15:26 |
| ☆ Re: ひとつ? / ubik0101 | | | たとえば、冬は寒さを感じます。春には暖かくなるでしょう。そんなことを感じることを、愛着と呼ぶのなら、愛着でしょう。
|
No.1440 - 2009/02/21(Sat) 23:14:16 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | うびさんは、ある人のことを「最初で最後の彼女」と呼んでおられました。 それは、自分に対する愛着、彼女に対する愛着から出た言葉であると私は思っています。 自我からの言葉であると思っています。
忘れていたことを思い出させてごめんなさい。
|
No.1441 - 2009/02/21(Sat) 23:30:31 |
| ☆ Re: ひとつ? / ubik0101 | | | ある人、なんて言わなくていいです。愛着があれば、自我があると、いうことは、どうして判断しましたか。
|
No.1443 - 2009/02/21(Sat) 23:48:59 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | No.1447 - 2009/02/21(Sat) 23:57:26 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | 自分に対する愛着、彼女に対する愛着がなければ、「最初で最後の彼女」なんて言わないです。 最初であることは確実でも、最後であるかどうかは、自分が生きている限り、わからないことですから。 わからないことなのに決め付けてかかるのは、自分に対する愛着、彼女に対する愛着があるからです。 それは自我の機能であると思います。 自我の機能がないのなら、わからないことを決め付けてかかったりはしません。 わからないことを決め付けることによって、心の安定をはかったのです。 それは、自我の機能です。
|
No.1449 - 2009/02/22(Sun) 00:03:57 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | > わからないことを決め付けることによって、心の安定をはかったのです。 > それは、自我の機能です。
私には、そう見えましたが、自我がない場合は、自我の機能ではなくて、それは、神のはからい、とでも呼ぶのでしょうか。または、「知らない」という言い方もできますか。 どうして「最初で最後の彼女」と呼んだのかは「知らない」。
自我はないので。
|
No.1453 - 2009/02/22(Sun) 00:16:55 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | No.1454 - 2009/02/22(Sun) 00:17:49 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | No.1455 - 2009/02/22(Sun) 00:20:51 |
| ☆ Re: ひとつ? / ルー | | | No.1456 - 2009/02/22(Sun) 00:21:29 |
| ☆ Re: ひとつ? / ubik0101 | | | No.1458 - 2009/02/22(Sun) 00:28:44 |
|