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ひとつ? / ルー
>>どっちもあって、どっちにも偏らないというように自分に納得させるのは、どうしてですか?

>たとえば、総ては「ひとつ」という世界を前提にすると。ほかの人と自分が違う、という当たり前のことに整合性がとれません。そのために、絶対平等、絶対差別という両方の世界観を必要にするのだと睨んだり踏んだりしています。

説明します。
まず、うびさんの言っておられる「自我の機能」というのは、「自分と他人を分ける機能のことなのだろうか」という疑問を持ちました。
「自我はない」のであるから、何かについて思考する時に使う自我の機能と言っておられるのは、「自分と他を分ける」(自我の機能を使う前は、自分と他が別れている意識はない)ということをするのかなと思ったので聞いたのです。
そして、「総てはひとつという世界観を前提にする」場合というのが提示されましたが、私は、その場合、「ほかの人と自分が違うということに整合性がとれない」という事態は起きないと思います。
むしろ、「自分」という意識がない状態であると思います。
それぞれが違っていることに何の疑問も持たない状態であると思います。
ですので、絶対平等だとか絶対差別とかの意識は生まれないと思います。
えーっと、うびさんが提示された「すべてはひとつ」という世界について、私はそう思いましたが、うびさんのいう「すべてはひとつ」という世界は、どういうものでしょう。
他の人と自分が違うということに整合性がとれない世界?
「自我の機能を使う」というのを、「自分と他を分ける機能ですか?」と聞いたので、「すべてはひとつ」という世界のことが出てきたのですか?
自我がない時には、自分と他は分かれていると意識していないのかな?と思ったので、質問が出たわけです。「すべてはひとつ」という世界を私は生きているのではありません。
とにかく「自我がない」を知りたくて質問したのでした。
まして、「自我はないと言うのは問題である」と言いたいのではありません。
本当に知りたかったのです。
しかし、うびさんの最新の書き込みを読むと、「自我はない」と言うのも誤りなのかなという気がします。
どう言っても誤りなのでしょう。
「自我がない時と自我がある時があるし、殆どの場合に自我がない人も、殆どの場合自我ばっかりの人もいます」とかの表現もできると思いますが、どう言っても誤りなのでしょうか。
人間は、ある程度言葉を尽くして、相手に理解しやすいように表現する工夫はできると思うのですが。
やはり、「どう言っても誤りです」が答えですか。

No.1429 - 2009/02/21(Sat) 10:45:25

Re: ひとつ? / ubik0101
なんど聞かれても、自我は、ない、です。その、ない、が、ある、こととして機能することを、自我と呼びます。と、いう定義も、そうする人の有り様を顕わにします。つまり、人が、ある有り様なら、なんだかの定義ができ、なんだかの定義することは、その人の有り様を現す・・・これにも例外はありますが・・・ということです。

それで、自我は、さまざまに定義できます。たとえば自我とは、自他の区別をする、そのこと、だけではありません。それで、さまざまな定義を、ほかの人がなんと言ってるにしても、自分で発見する、そのことによって、そうしてる自分の有り様を理解していき、そのことによって・・・より深い(変な言い方)自分の有り様・・・が明確になり、また、その立ち位置から見渡せる、これまでは見えなかったことを学ぶことができます。自我を使うのです。

>むしろ、「自分」という意識がない状態であると思います。

なにかを思考したり、悲しんだり、怒ったりすることは無問題で、そこに、この自分が、そうしてるという意識があるなら、問題。という指摘でしょうか。そういうことなら、なにかを感覚、感情、思考したりすることで、そうしてる自分が設定される。ということの理解がないために、理解がない状態に留させられる、依存させられる、執着させられざるを得ないなら、それは自我なのでしょう。ただ、それを理解したからといって、それが削除されるのではありません。

>そう思いましたが、うびさんのいう「すべてはひとつ」という世界は、どういうものでしょう。

たとえばアメリカも、日本も、中国も、どんなことも地続きで、それだけで独立したもの、ことではない、という世界観です。しかし大陸は大陸、海は海、島は島。また、たとえばルーさんも、ubik0101も、それだけで独立してない「絶対平等」ということです。しかしルーさんは、ルーさんで「絶対差別」ということです。ここでいう絶対の融合も分離もない、に相当すると思われます。でも、それは、この世界限定の話ではないでしょうか。かなり困難でしょうが、その奥が探れるのではないかと思っています。

それと。たとえば、ですよ。愛着があるなら、なぜ、そうなのか。ないなら、なぜそうなのか。それにもまして、愛着とは、なんなのか?ルーさんが、ルーさんを探る。それが学ぶことだと思います。

これから外出です。

No.1434 - 2009/02/21(Sat) 14:25:13

Re: ひとつ? / ルー
> それと。たとえば、ですよ。愛着があるなら、なぜ、そうなのか。ないなら、なぜそうなのか。それにもまして、愛着とは、なんなのか?ルーさんが、ルーさんを探る。それが学ぶことだと思います。

違います。
私は、愛着があることに、何の問題もないのです。
うびさんの言う「自我がない」という状態とはどういうものなのかを探っているのです。
「自我がない」場合。愛着はどうなっているのかを、うびさんに聞いているのです。
うびさんの状態を聞いているのです。

自我がない状態でも、普通の人と同じように、愛着は感じるのであるとお答えいただいたので、それでいいです。

No.1437 - 2009/02/21(Sat) 22:11:38

Re: ひとつ? / ルー
> 自我がない状態でも、普通の人と同じように、愛着は感じるのであるとお答えいただいたので、それでいいです。

しかし、失う恐れのない場合にも愛着を感じるのは病気であると書いてありましたね。
失う危機に面していなくても、愛着はあるでしょう。

No.1438 - 2009/02/21(Sat) 22:15:26

Re: ひとつ? / ubik0101
たとえば、冬は寒さを感じます。春には暖かくなるでしょう。そんなことを感じることを、愛着と呼ぶのなら、愛着でしょう。
No.1440 - 2009/02/21(Sat) 23:14:16

Re: ひとつ? / ルー
うびさんは、ある人のことを「最初で最後の彼女」と呼んでおられました。
それは、自分に対する愛着、彼女に対する愛着から出た言葉であると私は思っています。
自我からの言葉であると思っています。

忘れていたことを思い出させてごめんなさい。

No.1441 - 2009/02/21(Sat) 23:30:31

Re: ひとつ? / ubik0101
ある人、なんて言わなくていいです。愛着があれば、自我があると、いうことは、どうして判断しましたか。
No.1443 - 2009/02/21(Sat) 23:48:59

Re: ひとつ? / ルー
愛着は自我から生まれると思うからです。
No.1447 - 2009/02/21(Sat) 23:57:26

Re: ひとつ? / ルー
自分に対する愛着、彼女に対する愛着がなければ、「最初で最後の彼女」なんて言わないです。
最初であることは確実でも、最後であるかどうかは、自分が生きている限り、わからないことですから。
わからないことなのに決め付けてかかるのは、自分に対する愛着、彼女に対する愛着があるからです。
それは自我の機能であると思います。
自我の機能がないのなら、わからないことを決め付けてかかったりはしません。
わからないことを決め付けることによって、心の安定をはかったのです。
それは、自我の機能です。

No.1449 - 2009/02/22(Sun) 00:03:57

Re: ひとつ? / ルー
> わからないことを決め付けることによって、心の安定をはかったのです。
> それは、自我の機能です。


私には、そう見えましたが、自我がない場合は、自我の機能ではなくて、それは、神のはからい、とでも呼ぶのでしょうか。または、「知らない」という言い方もできますか。
どうして「最初で最後の彼女」と呼んだのかは「知らない」。

自我はないので。

No.1453 - 2009/02/22(Sun) 00:16:55

Re: ひとつ? / ルー
自我がないって自由なんだ。
No.1454 - 2009/02/22(Sun) 00:17:49

Re: ひとつ? / ルー
ほほほ。
No.1455 - 2009/02/22(Sun) 00:20:51

Re: ひとつ? / ルー
おやすみなさい。
No.1456 - 2009/02/22(Sun) 00:21:29

Re: ひとつ? / ubik0101

ん、じゃ。

No.1458 - 2009/02/22(Sun) 00:28:44
(No Subject) / ルー
「自我がない」のに、何も失うものがなく、普通の状態であるというのは、じゃあ、一体、何がないんだ〜!ということになります。
それで、考えたのですが、たとえば、多くの人がいる中で、自分が優先されたいとかいう気持ちがない、とかいうことも入るのかなぁって思いました。
そして、自分というものを意識するということが、ない、のかなぁって思いました。
まぁ、例をあげれば無限にありそうです。

そして、何かを思考する時には「自我の機能を使う」というのは、普段は自分を意識することはないのだけれど、その時には、自分をクローズアップする機能を使って、見てみる、ということかなと思いました。

No.1439 - 2009/02/21(Sat) 23:14:10

Re: / ubik0101
たしかに、自分が優先されたい、とか思いついたこともないいねー。どうして、そんなことを思いついたのかなー。と、hatoさんと話してます。

また、なにかを意識するということは、それだけで、意識してないことを差し置いてる。度外視してるわけです。それだけで強調する機能があると思います。

No.1442 - 2009/02/21(Sat) 23:44:50

Re: / ルー
どうしてそんなこと思いついたのかなーって?
ずっと一生懸命考えたんですよ。
自我がないのに、すべてがあるってどういうことか。
一生懸命、うびさんが言う「自我がない」を理解しようと、考えたんですよ。
「思いついた」というより、「何がないのか」を「しぼり出した」んですよ。
私だって、そんなこと、思いつかないから、今までこんなに理解するのに苦労したんじゃないですか。

No.1444 - 2009/02/21(Sat) 23:49:19

Re: / ルー
> また、なにかを意識するということは、それだけで、意識してないことを差し置いてる。度外視してるわけです。それだけで強調する機能があると思います。

しかし、考える時には、自分だけのことを考えるのではなくて、相手のこととか、他のことも意識に入れるでしょう。

No.1445 - 2009/02/21(Sat) 23:54:41

Re: / ルー
明日の弁当のこととかが度外視される、とかいうことを言っているのですか?
No.1446 - 2009/02/21(Sat) 23:55:54

Re: / ubik0101
うーん。大雑把に言ってですが、自我がないと、総てがあり得るんです。総てがあるんで・・・つまり失う恐れがないので・・・執着の必要がないのです。
No.1448 - 2009/02/21(Sat) 23:58:19

Re: / ubik0101
> 明日の弁当のこととかが度外視される、とかいうことを言っているのですか?

なにか意識されるときは、なにか意識されることしか、意識されてない、というだけのことです。それだけで、たとえば、弁当でも、野鳥でも、星でも、ありとあらゆるほかのところは暗くて見えないけど、スポットライトがあたってる、よく見えるようになってる、ということです。

No.1450 - 2009/02/22(Sun) 00:06:50

Re: / ルー
うん。かなり核心をついています。
何でもあり?って思いました。
自我がないって、何でもありなんだ。

No.1451 - 2009/02/22(Sun) 00:07:05

Re: / ubik0101
まあ、そうです。「最初で最後の彼女」への愛着もそうですが、自我の機能も削除されるわけではありません。だから使えます。でも、悪を行わない、とかは、守らなくてもいいという意味での、なんでもありではないです。
No.1452 - 2009/02/22(Sun) 00:15:05
図書館さんのHP / ルー
読みました。
図書館さんは、「自我はない」とは言っておられないので、特に疑問は生じませんでした。

No.1430 - 2009/02/21(Sat) 11:25:08

Re: 図書館さんのHP / ルー
「自我はない」というのは、「自我あっても問題にならない状態」のことだと思うのですが。
「本当に自我のない状態」を「自己」は見ることができる。
ということも、うびさんは言っておられるので、自己とはそういう状態なのであろうと思います。
しかし、「自己と自我は分けられない」というのが出てきて、また、「はて?」となりました。

このへんでやめておこうと思います。

また、そのことに取り組みたくなった時には、質問してもよいでしょうか?

No.1431 - 2009/02/21(Sat) 11:28:29

Re: 図書館さんのHP / ルー
私は、たぶん、うびさんに関わろうとしているのだと思います。よ。
だって、関わらなくても生きていけるのに。

迷惑をかけていたら、ごめんなさい。

No.1432 - 2009/02/21(Sat) 11:30:34

Re: 図書館さんのHP / ルー
というか、うびさんが「自我がない」って言ってなかったら、どうかわかりません。
No.1433 - 2009/02/21(Sat) 11:32:24

Re: 図書館さんのHP / ubik0101
>また、そのことに取り組みたくなった時には、質問してもよいでしょうか?

うん。もちろん、です。

No.1435 - 2009/02/21(Sat) 14:26:31
自我の機能 / ubik0101
このごろヒヨドリが1羽、ベランダの向かいの樹の枝で一日中、見張ってて(画像)、メジロや四十雀が近づくたびに、勢いよく飛びかかっては追い払うようになりました。たぶん、ヒヨドリにとっては、エサ台に置いてあるバナナは美味で、それを守ってるのでしょう。

そういえば、ヒヨドリより大きい2羽のキジバトがベランダの手摺に止まったのですが、それさえ追い払ってしまいました。今朝は雨なのに、もう樹の枝に止まって、見張っています。

ところで。なにかを定義するということは、そう定義している、その人の有り様を顕わにするのではないでしょうか。そうだから、ほかの人が、自分と違う言葉で話してても、ほかの人の有り様が、察せられる。理解できる。のではないでしょうか。

とくに、自我が、ない。虚構だということは、なんと呼ぶにしても、自己でなくては見ることはできません。そんな自我から、さまざま学ぶことができると思います。

続きます。

No.1411 - 2009/02/20(Fri) 08:24:26

Re: 自我の機能 / ルー
そうですね。
以前「ルーさんの空っぽ体験」とおっしゃっていたことも、うびさんが思うそれと私の実際とは、ズレがあると思います。うびさんの「自己」と呼んでおられるものも、私にはどうしてもピッタリと重なるものにはあたらないのでしょう。
そのうえで、いろいろと話しているのだと思います。

何にしても、その人のあり方が顕になるというのは、そうだと思います。

No.1412 - 2009/02/20(Fri) 09:45:02

Re: 自我の機能 / ルー
「自我の中身をともなったもの」を自我というのか、「自分と他を分ける機能」だけを自我と呼ぶのか、という問題もあると思います。
うびさんは、「自分と他を分ける機能」のことを自我と呼んでいるのですか?その機能が働くには、中身があってはじめて分けることができるので、機能だけを取り出すのは難しいですが。

そして、また「自我がない」ということについてですが。
非我というのは、自我でないものという意味ですから、自我というものも自我として別に存在するということはあると思います。
「自我がない」というのは、「すべてが自分」であるということ、または、「すべてが自然」として存在しているということのような、「自分と他を区別していない」という意味ですか?
そこで気になるのは、自分に対する愛着はないのか?ということです。

そして、必要なときには、自分と他を区別する機能を取り出してくることもできる、ということですか?
すなわち、自我がない時と、必要なので自我がある時(自我の機能を使う時)とがあるということですか。

私は、「自我がない」のなら、必要なときにも出してくることはできない、と思っていました。
まず、自我がないなら、自我が必要になる場面もないだろうと思っていました。

あれですか、自我の機能はあるが、普段は気にしていない、ということですか。
それを「自我がない」というには、ちょっと違うように思うので、何か特別な状態なのだと思います。

面倒なら、返事しなくていいです。

No.1413 - 2009/02/20(Fri) 10:34:47

Re: 自我の機能 / ubik0101
とりあえず、自我とは、自己の代理、執事です。自己がいない間だけ、その主人の代わりを務めます。それは主人である自己に会ったこともなく、それで自分が主人でないなどとも思いもせず、つまり自分が主人だという当然すぎて疑う必要があるとは思いもしない既得権を前提にして、暮らしています。それは仮の自己という意味での、自我です。と定義することもできます。 自分が自我だとも思っても思っていなくても、自我です。

それは、ふつうに努力したり、怠惰だったりしながら働いたり、ほかの人と仲良くしたり争ったりして、日常生活を送っています。しかしその自我は、倒錯しています。たとえば・・・その自分の・・・感覚や感情や思考に依存・執着して、家や車や地位を望んだり、それから離れて自分を探求・哲学・観察することもあるでしょう。

けど。そのなにか行動、発言、思考することによって、そうしている自分があると感じて。それに埋没して、つまり自分の感覚や感情や思考に迷ってるほど愚かで、そのことにも気がつかない傾向にあります。

と、このように自我を見なすと。たとえば自分の感覚や感情や思考に依存・執着から解放された、倒錯してない、愚かさが叡智に転換された、 自己。それは・・・アートマンとか真我とかと呼べるのかもしれません・・・が意識される傾向にあります。ただこれは、人において、自我と自己に分離、分裂がある場合があります。ならば、その人の総てが自己というわけではありません。それは、その人にとって違和感があります。

ちょっと贅沢な。牡蠣の卵焼き、ゴボウの肉巻き、茹で野菜と、ブリの照り焼き、卵黄の味噌漬け弁当です。

続きます。

No.1414 - 2009/02/20(Fri) 10:44:41

Re: 自我の機能 / ubik0101
>「自我の中身をともなったもの」を自我というのか、「自分と他を分ける機能」だけを自我と呼ぶのか、という問題もあると思います。
>うびさんは、「自分と他を分ける機能」のことを自我と呼んでいるのですか?その機能が働くには、中身があってはじめて分けることができるので、機能だけを取り出すのは難しいですが。


>「自我がない」というのは、「すべてが自分」であるということ、または、「すべてが自然」として存在しているということのような、「自分と他を区別していない」という意味ですか?

たとえば。自我の中身は、ない、です。ないのに、ある、として機能する機構・・・たとえば中心が真空の空気の渦巻き、超強力な台風のような・・・それを、自我、と呼びます。と言う場合。 私、僕、俺、という日常の自分は、ある、でも、ない、でも、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りです。違うかも知れませんが仏教では、空(くう)と呼ばれてる有り様と思います。

まあ自分は「自分と他を分ける機能」を自我、と呼ぶのではありません。そういうことを自我と呼ぶのならば、自分と他を分けない、多様にして一つの世界、を前提にしてるのでしょう。そんな場合は、たとえば絶対平等と、絶対差別。どっちもあって、どっちにも偏らない。というように自分に納得させる経緯が必要なようです。

そういう空とか、一つの世界。ということは、ただ人の成長の辿る道、経緯と思います。事実、現実がそうなのかは、疑問というか、どうでもいいです。そのようにも、どのようにも意味を汲み取れる・・・あらゆる意味を孕んで、無意味、未意味。この世界。そこに思考、意味が生じる仕組み、に興味があります。

>そこで気になるのは、自分に対する愛着はないのか?ということです。

ふつうに。愛着がある。の否定にも、肯定にも。愛着がない。の否定にも、肯定にも。偏ることはありません。なので。たとえば失われそうになったら、愛着が生じるのです。たとえば失われそうでもないのに愛着が生じる。失われそうなのに愛着が生じない。なら、なにかの病気です。また、愛着が生じても、生じなくても、そのことに愛着はできません。

>そして、必要なときには、自分と他を区別する機能を取り出してくることもできる、ということですか?

たとえばルーさんとubik0101は、話すことができます。ということは、そう考える前に、区別されてるのではないでしょうか。完全な融合と分離。どちらの場合も、話すこともできないのではないでしょうか。

この世界には、完全な融合と分離。どちらもないのではないでしょうか。なのに、それを望むことが、執着・依存と解することもできます。

>すなわち、自我がない時と、必要なので自我がある時(自我の機能を使う時)とがあるということですか。

>私は、「自我がない」のなら、必要なときにも出してくることはできない、と思っていました。
>まず、自我がないなら、自我が必要になる場面もないだろうと思っていました。


>あれですか、自我の機能はあるが、普段は気にしていない、ということですか。

なにかを思考する、探求するなら、自我の機能を使うんです。人としての機能が失われることが成長ではありません。その機能は、世界の機能です。

No.1415 - 2009/02/20(Fri) 12:58:12

Re: 自我の機能 / ルー
愛着があるか、ないか、ということに執着していないということですが、「自我がない」ということには執着しているのですか?
No.1419 - 2009/02/20(Fri) 18:04:21

Re: 自我の機能 / ルー
> >そして、必要なときには、自分と他を区別する機能を取り出してくることもできる、ということですか?
>
> たとえばルーさんとubik0101は、話すことができます。ということは、そう考える前に、区別されてるのではないでしょうか。完全な融合と分離。どちらの場合も、話すこともできないのではないでしょうか。
>
> この世界には、完全な融合と分離。どちらもないのではないでしょうか。なのに、それを望むことが、執着・依存と解することもできます。


私の質問は、「自我はない」「なにかを思考する、探求するなら、自我の機能を使うんです」といううびさんの言葉から導き出した質問です。
完全な融合と分離の話ではありません。
そんなものを望んでいるのではありません。
普通に考えて、そのような質問が出てきただけのことです。
執着とか依存の問題ではありません。
普段から、自他は区別されている、というわけですね。
自我はないが、普段から、自他の区別は、されている、と。

うびさんの答えは、私の質問の的をえていません。
私の説明が悪いのでしょう。
もういいです。
新しい話をしているのですが、うびさんからは今までの話以上には出てきそうにないので。

No.1420 - 2009/02/20(Fri) 18:15:07

Re: 自我の機能 / ルー
> なにかを思考する、探求するなら、自我の機能を使うんです。人としての機能が失われることが成長ではありません。その機能は、世界の機能です。

その時に使う「自我の機能」って何ですか?
自我の中身は「ない」そうですが。

No.1421 - 2009/02/20(Fri) 18:25:00

Re: 自我の機能 / ルー
> まあ自分は「自分と他を分ける機能」を自我、と呼ぶのではありません。そういうことを自我と呼ぶのならば、自分と他を分けない、多様にして一つの世界、を前提にしてるのでしょう。そんな場合は、たとえば絶対平等と、絶対差別。どっちもあって、どっちにも偏らない。というように自分に納得させる経緯が必要なようです。

絶対平等、絶対差別って何ですか?
どっちもあって、どっちにも偏らないというように自分に納得させるのは、どうしてですか?

No.1422 - 2009/02/20(Fri) 18:30:27

Re: 自我の機能 / ルー
総合すると、「自我がない」というのは、「自我は空である」ということですか?

自我は空であるとして、何かを思考する探求する時には自我の機能を使うというのは、どういうことでしょう。

その時の自我の機能って何でしょうか。

No.1423 - 2009/02/20(Fri) 18:38:58

Re: 自我の機能 / ルー
> >そこで気になるのは、自分に対する愛着はないのか?ということです。
>
> ふつうに。愛着がある。の否定にも、肯定にも。愛着がない。の否定にも、肯定にも。偏ることはありません。なので。たとえば失われそうになったら、愛着が生じるのです。たとえば失われそうでもないのに愛着が生じる。失われそうなのに愛着が生じない。なら、なにかの病気です。また、愛着が生じても、生じなくても、そのことに愛着はできません。


「ふつうに。」というのは?
ふつうに、自分に対する愛着はあるということですか?

No.1424 - 2009/02/20(Fri) 18:42:08

Re: 自我の機能 / ubik0101
>愛着があるか、ないか、ということに執着していないということですが、「自我がない」ということには執着しているのですか?

それは、 「自我がない」ことを了解した、自己、を体験した人に起こりえることです。自己と、そうでないこと、たとえば自我の区別に捕らわれた状態です。「自我がない」に支配されてるとも言えます。

もう自分には、自我と自己の区別はできません。けど、なくなることは、なにもありません。「自我がない」を扱うことができます。「自我がない」に扱われる、支配される。つまり執着しているのではありません。

>その時に使う「自我の機能」って何ですか?
>自我の中身は「ない」そうですが。


たとえば、なにかを理解したいとき、それに集中して、ほかのことは度外視して、思考することです。自我の機能に扱われる、振り回される、使われる。のではなく、使う、ということです。

>絶対平等、絶対差別って何ですか?

まず、「絶対平等」で、グーグル検索すれば、たくさんでてきます。

>どっちもあって、どっちにも偏らないというように自分に納得させるのは、どうしてですか?

たとえば、総ては「ひとつ」という世界を前提にすると。ほかの人と自分が違う、という当たり前のことに整合性がとれません。そのために、絶対平等、絶対差別という両方の世界観を必要にするのだと睨んだり踏んだりしています。

>総合すると、「自我がない」というのは、「自我は空である」ということですか?

いえ。伝統的な考えでは。なにか、ほかのことが原因になって、とあるもの、ことは起こります。たとえば子供は親から生まれる。人が風邪に罹ったのは、ほかの人から移った、ウイルスが原因。つまり、とあるものごとは、どんなことでも、たとえば親、子供、風邪、ウイルスとかは、それ自身が原因で、そのようにあるわけではない。そのことを空と呼びます。

ほかの言い方では、自性がない・・・これも「自性」をグーグル検索すれば、たくさんでてきます・・・ということです。くり返します。そのようなもの、ことは、ある、と言っても。ないと言っても・・・どう言っても総て誤りです。けど。「自我がない」というのは、ただ、ない、という意味です。

>「ふつうに。」というのは?

この、日常のことです。

>ふつうに、自分に対する愛着はあるということですか?

そいうことは、自我と自己と、区別する必要がなくなったら、愛着があるとかないとかに、依存しなくなります。あっても無問題、なくても無問題です。

その前に、そうでない経緯の人もいるでしょうが。自己、自分自身を知る。ことが先決です。でないと、執着があるとかないとかの観念・概念・思考を扱うことになります。もう読んでるでしょうが、図書館閲覧者さんのブログに、適切な引用があります。

http://tosyoetu.blog18.fc2.com/blog-entry-162.html

No.1425 - 2009/02/20(Fri) 23:23:18

Re: 自我の機能 / ルー
> >「ふつうに。」というのは?
>
> この、日常のことです。


ですから、この日常がどうなのかを聞いているのです。
「自我がない」日常が、どんなふうであるのかを聞いているのです。

> >ふつうに、自分に対する愛着はあるということですか?
>
> そいうことは、自我と自己と、区別する必要がなくなったら、愛着があるとかないとかに、依存しなくなります。あっても無問題、なくても無問題です。


無問題かどうかを聞いているのではありません。
「自我がない日常」が、自分に対する愛着は生じていないのかを聞いているのです。

質問は終わります。

No.1427 - 2009/02/21(Sat) 09:15:32

Re: 自我の機能 / ルー
無問題か、無問題でないか、というところに帰着するのでは、その間の微妙なやりとりができません。
質問者には、聞きたいことがあるのです。
それに率直に答えてもらえないと、少しずつの歩みができません。相手の言っていることを理解するために歩みです。
それを、答える側が、「無問題です」というところに結論づけると、その間の会話ができなくなります。
無問題かどうかは、問われていることに答えてから、質問者が理解の糸口を掴んでから、「それは問題なのかどうか」という問いが生じた時に話せばいいことではないですか。

「それは、無問題です」というのが答えでは、横着すぎると思います。

普通ということは、普通に自分に対する愛着を感じたり、そうではない感情を感じたりしているのだなと解釈します。
それを「自我がない」というのは、何だろうかと思いますが、もう問うのはやめます。

ありがとうございました。

No.1428 - 2009/02/21(Sat) 09:23:08
沈丁花 / hato

帰りみち、
雨上がりの、濡れて黒々とした、
ゆるやかな坂を上りきると、この丘から遠くに見える夜景は
もやがかかって、どこか見知らぬ感じが幻想的です。
冬の冷たい空気がすこし穏やかで、仕事帰りにフーと吸い込みます。

そこで微かに沈丁花の香りがしました。

風に乗って、瞬く間にしずかに満ちていた、その香り。
幸福なとき。


ところで、
理解すること、を考えます。
それにはどうしても、まず、そこ、にいなくてはなりません。
そこにいたら、自然に理解されることがあります。
すべてに通じているそれ、は、そこ、にいないと明白にならないのです。
そのことを、了解されること、ということができます。

素直、そして理解。
それは無理強いができません。
了解されたなら、自然にそうなるだけです。
そのとき、
すべてに通じる理解が得られるというよりは、
ただそれを生きることになります。

好雪片々別處に落ちず

ともいえると思います。

No.1426 - 2009/02/21(Sat) 00:19:16
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