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縁起 / 大阪
縁起って全然よくわからないんですが、僕なりにまとめるとこうなりました。

まず美がある。

そして世界(物も人も、人が何か感じたり思うことも)がある。


短すぎますか?

No.1416 - 2009/02/20(Fri) 13:47:45

Re: 縁起 / ubik0101
うーん。総ては美の表現。ってことでしょうか。と、さっき雲の間から日が差してきた街を歩きながら、そう思って見たら、そう世界が見えます。

この空間も時間も、美の現れた姿かもしれない。なんでもあるゆえに無意味、未意味なところから、意味が生起する。それも美といっていいかもしれません。

>短すぎますか?

うん。

なんか真面目な顔で、ウインドベルの紐を、ちゅーって滑り降りて、消防士やってるルンルンです。この頃、ハンガー渡りの術も身につけました。

No.1418 - 2009/02/20(Fri) 15:48:56
自我 / ルー
自我がないなら、学ぶことも成長することもしないでしょう。
この世界を、正確に理解することもできないでしょう。
ただ、その時を過ぎるだけ。
自我からの行動や言葉であることにも気づかずに。

No.1398 - 2009/02/16(Mon) 17:34:20

Re: 自我 / ubik0101
まあ、自分の場合は、自我があるとき、自我があるなんて、まず思ってもみなかったです。それと、自我も問題なんですが、それよりも、自分自身を知ること、なにか知らないけど、真理を求めること。そっちが重要でした。そうならば、自我があって、それに気がつかない自我なら、成長しないってことはないのです。

また、自分の自我に気がついても、気がついてなくても、学ぶつもりのない人は、学ぶことが困難です。でも、学ぶ気持ちがあれば、学ぶつもりのない、そのことを探ることからも学ぶことができます。

ところで。自己を知るとき、はじめて、自我の仕組みを見ます。それで・・・自我の話が大切なんです・・・自我からも学ぶことができるようになります。そうでないのに自我があると自覚してる自我も、なにか別のこと、たとえば、ほかの人と意見が違って自分の意見を主張することなど、を自我と呼んでたりするのかもしれません。

ところで、ルーさんのいう自我の定義はなんでしょう。それが明確でなくて、思考しても、話が曖昧になりそうです。

No.1399 - 2009/02/16(Mon) 20:55:36

Re: 自我 / ルー
> ところで。自己を知るとき、はじめて、自我の仕組みを見ます。それで・・・自我の話が大切なんです・・・自我からも学ぶことができるようになります。そうでないのに自我があると自覚してる自我も、なにか別のこと、たとえば、ほかの人と意見が違って自分の意見を主張することなど、を自我と呼んでたりするのかもしれません。

いいえ、そんなことはありません。
うびさんが呼んでいる自我というものは、何か問題を起こすようなもの、生活上ひっかかりを作るようなものを自我と呼んでいるのですか?
私は「自分」というようなものを自我と呼んでいます。
「自我の芽生え」といいますのは、赤ちゃんがものごころがついたというか、つく前かも知れませんが、自分のようなものを意識できるようになることを指すと思います。
私が言う「自我」は、その自我です。

No.1400 - 2009/02/16(Mon) 21:02:29

Re: 自我 / ルー
自分で、自分自身に対して「自我はない」と言えるわけがないのです。
自我が言っているのですから。

No.1401 - 2009/02/16(Mon) 21:12:52

Re: 自我 / ルー
本当に自我がないなら、成長しないでしょう。
成長する必要もないでしょう。
自我がないのですから。

No.1402 - 2009/02/16(Mon) 21:16:54

Re: 自我 / ubik0101
ルーさんのいう、自分が自我。そして自我が、ない、ということは、たとえば、その自分が、削除される。存在しない。まったく透明で、なにも意識することもない。という意味なのでしょうか。ならば、 学ぶことだけでなく、学ばないことさえ、不可能でしょう。

けど、自我が、ない、というのは、たとえば自分が削除される。自分が、存在しない。なにも意識することもない。ではありません。逆です。たとえば成長する。自己が、存在する。意識が、十全に機能する。ことです。また。自我が、ない、を見るのは自我ではありません。自己です。

こいうことを総合的に取り纏めて自我と呼んで、混乱がないなら、とくに問題もないと思います。もしかして。意識が明確になったり訓練されたりすることを、心理学などでは、自我の発達と呼ぶことがあるのでしょうか。それは同じ言葉ですが、違う意味です。

くり返しますが、なにかを探求、研究するなら、こんな言い方は好みませんが、自分と世界を分離させて、問題をクローズアップして、問題に集中する、自我の機能を使うのです。

No.1404 - 2009/02/16(Mon) 23:18:41

Re: 自我 / ルー
辞書で自我を調べてみましたら、哲学的な意味と心理学的な意味の二つが載っていました。

心理学的な意味の方では、自我→超自我と書いてあり、超自我の項目も参考にしなさい、ということになっていました。

それで、超自我のところを調べたら、心というのは、イドというものから発せられる自我と超自我、すなわち、イド・自我・超自我の3っつで構成されているということでした。

哲学的な意味の方では、自我⇔他我・非我となっており、「非我」のところを調べると、我(または自我)でないもの。我の働きに直接属することなく、かえってそれの対象として存立する世界・自然。と書いてありました。
これは、わかりやすいです。

そして、「自己」のところを調べると、われ。おのれ。自分。その人自身。と書いてありました。
私が「自己」について考えていた意味と同じです。

私が言う「自我」とはどういう定義であるのかをハッキリさせなさい、ということですが、私が思っている「自我」は、辞書に書いてある通りです。

「自我」の哲学的な意味は、認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別していう語。自我は時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体をも含めていう場合もある。⇔他我・非我 と書いてありました。
心理学的な意味は、?@意識や行動の主体を指す概念。?A精神分析の用語。イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制従わせるような働きをする、パーソナリティーまたは人格の側面。エゴ。→超自我

超自我の意味は、イド・自我と共に心を構成する三要素の一。自我から分化発達し、社会的価値をとりいれ、あるべき行動基準によって自我を監視し、欲動に対して検閲的態度をとるもの。精神分析の用語。と書いてありました。
これも、わかりやすいです。

私が言いたかったことは、前にも書きましたが、うびさんの言われる「自我」「自己」の言葉では、うびさんが意味しているものを伝えるには凡庸すぎて、伝わらないのではないかということです。

そう思ったのですが、深いところでの「自我」の意味、深いところでの「自己」の意味、うびさん特有の意味などを考えると、それでいいのかな、とも思います。
一般に流通される意味とは違う深さを持った意味、として。

一般に流通される意味として考えた時に、自分自身で「自我はない」と発言することの矛盾について書いたのですが、あまり伝わらなかったようですね。
または、伝わっているけれども、言葉の使い方に関しては、意味が伝われば問題ない、ということが返事なのかなと思います。
特に、問題はないのです。
一般に使われる言葉の意味とは違うのではないかと言っているだけなのです。それを、どう受け止められたのかが、よくわからないだけです。
やはり、言葉は問題ではない、ということなのかなと思います。

ま、長いことかかりました。

No.1406 - 2009/02/17(Tue) 08:38:04

Re: 自我 / ルー
うびさんが言われる「自己」は、「非我」の意味が一番近いと思います。
No.1407 - 2009/02/17(Tue) 08:41:32

Re: 自我 / ばん
ルーさんの投稿で今まで私が自我を勘違いしていたのがわかりましたありがとう
自我は価値観や固定観念からできているのかなとも思いました。
ある意味みんな病気なのかもしれないですね。
前から気になっていたのですが、このサイトの方がいっていることが正しい様な・・・掲示板を読むとそうなのかなと
http://www.jinseimondainokaiketsu.com/

No.1408 - 2009/02/19(Thu) 11:50:40

Re: 自我 / ばん
自分の思ったことをズバッと言うルーさんてありのままの自分そのものの様な気がする。
No.1409 - 2009/02/19(Thu) 11:54:57

Re: 自我 / ルー
ばんさんありがとう
No.1410 - 2009/02/19(Thu) 13:18:11

Re: 自我 / ルー
ばんさんは他の人のありのままがわかるのなら自分のありのままがわかるのももうすぐですね
No.1417 - 2009/02/20(Fri) 14:07:00
(No Subject) / hato

> 「気づいていてもいなくても自我」というのかどうか、ということを話しています。

それはすでに、お答えしています。

> 個々にとっての責任?その人の問題?

そうです。学び、成長する責任、ということです。

> 責任とか問題とかではなくて、「自我がない」ということについて話しているのです。

なら、はじめからそのように言えばよいのではありませんか?また、人が自分の思うところと違うようにとっても、そこから人の経緯を見ることができます。

> hatoさんのルールとして、それは了解しておきます。

自我、という言葉を使うとき、多くの場合そのようです。なのでその意味を使って話し合うことができます。言葉は方法です。確認する必要がある、それだけのことです。自分にとって、言葉の意味はその限りではありません。これはとても面白いことです。ルーさんも、そうでしょうか?。

> 私は、「了解されている状態から発動する事態」というものに対して、「自我とはいわない」とは断言できません。
> 「自分にとって超気持ちのいい状態 」でもあるわけですから。


なので確認しました。
ルーさんの文章からは混乱が見受けられるのです。あなたが話している、自我、とは。
明確でなければ話が成立しません。

そして尚、といえますが、自我という言葉に自分なりの意味を与えながら理解、成長できるなら、その言葉は役立った、ということでしょう。


> 学ぶ姿勢があるならね。

そうです。それは個々に任されています。

そして、学び、理解するためには素直でなければなりません。これはゴリ押しはできません。
誰かに、何かに素直、ということでなく、あれこれ出てくる思考、感情に素直、その反応性に素直、でもありません。それは素直とはいいません。それならただ、人は愚かなだけです。

すこし前に、お話したように思います。
ルーさんは、なぜその様なのでしょう。
自分は優れてる、と思いたいでしょうか?たとえば人は、馬鹿にされることを嫌います。それは自然なことです。けど、偉くある必要も、ないのです。
自分は正に自分である、それはとても大事なことです。
誰にとっても大切なことです。
けど、それ故に、そこは成熟していなければなりません。

> うびさんがどう思っているのか、聞いてみなければ、うびさんのことはわかりません。
> hatoさんの言葉からわかるのは、hatoさんの状態だけです。


そうです。
そして尚、学び合う、成長する、ということは互いの了解事項です。ただそれだけのことです。

No.1403 - 2009/02/16(Mon) 23:12:08

Re: / hato

そして、尚。
非意味の意味を尽くそうとして、そう、ならば。

それは面白いことですが、
どうでしょう。(笑)

No.1405 - 2009/02/17(Tue) 07:46:44
小春日和 / hato

今日はバレンタインデーなんだって。
ダーリンに、美味しいチョコホット、ごちそうしよかな。
小春日和のよい日です。


春の日の美しい、とある朝。
ubik0101さんの姉妹から届いた、
刹那の、それは夢のなかの手紙でした。
ubik0101さんに出会うよりすこし前のことです。

そこには、
彼の、妻であり妹であるhatoさん。という書き出しで、
祝福に満ちた言葉と一緒に、
白やピンクの花でできた、清楚で愛らしい感じの
髪飾りが入っていました。
それは贈り物でした。


結婚。

それはまったく、
たとえば機能から起きる、
あろうがなかろうがの自我、すら範疇外の出来事でした。
自分中心、
私の見解。私の、好み。
それらに無縁でした。
その執着、混乱、愚かさとは別様でした。

ただ、世界は静かに沸き立っていました。
喜びは静かに満ちていました。
そして、
互いに
驚きながら、ときめきつつもなんということなく、
手を取り合ったのです。

多くのことは、そこ、から起きていました。

ただ風のように、
そんな風ながらの生。
すべてはその様でいてそして尚、親密に細やかです。

仕組みとしての機能から、あたかもあるかのような自我、
が生起しなければ動きが起きない、こともありません。
そこで言われる自我。それはいうならば誤解であり、
ただその人の位相・機能から起きる様相、運動自身の強度によって感じられる圧、とも言えます。
それは抵抗であり、その運動です。

言葉は、言葉が発生している、もと、が重要です。

好雪片々別處に落ちず

ともいえます。

そして尚、
互いに歩み寄り、分かち合えることは素敵です。

No.1391 - 2009/02/14(Sat) 11:59:57

Re: 小春日和 / ルー
> 仕組みとしての機能から、あたかもあるかのような自我、
> が生起しなければ動きが起きない、こともありません。
> そこで言われる自我。それはいうならば誤解であり、
> ただその人の位相・機能から起きる様相、運動自身の強度によって感じられる圧、とも言えます。
> それは抵抗であり、その運動です。


自分では意識していない自我、気づいていない自我、というものの存在は、否定しますか?

No.1392 - 2009/02/15(Sun) 11:52:08

Re: 小春日和 / ルー
とくに「選択した」という意識がなくても、とてつもなく自然な行動であっても、実は、自分が気づかない自我によって選択された行動である、という考えには賛成できませんか。
たとえば、とても自然ななりゆきによって、あなた達が結婚を決めた時、大事な家族が結婚を反対したとしたら?
その時は、その時で、また、とても自然な行動として、家族を説得するなり、何らかの行動をとるでしょう。
それがどんなに自然な、力の入らない行動であっても、自分で気づかないうちに選択しているし、自分では気づかない自我が働いていると私は思うのです。
とても自然で自分で選択したという自覚のない行動を「自我の範疇にないもの」とし、抵抗であり運動であるものを「自我のもの」という区別の仕方をしているのですか?
それなら、自然な行動であるなら、自我のものではない、ということになります。
それは、とても傲慢なことではないですか。
ま、そのように生きたいならそうでいいでしょう。
それも、生き方の選択なのでしょう。
私は知りません(笑)

No.1393 - 2009/02/15(Sun) 12:03:37

Re: 小春日和 / ルー
もう、勉強する必要もないですね。ということです。
No.1394 - 2009/02/15(Sun) 12:04:17

Re: 小春日和 / hato
> 自分では意識していない自我、気づいていない自我、というものの存在は、否定しますか?

たとえば成長段階を経て、それまでの、ただ自我を生きていたときを理解できる状態になったとしても、その後、それ以前よりもその機能に使われてしまうということは、大いにあると思います。気付いていてもいなくても自我ということもあるでしょう、それは個々にとっての責任といえるでしょう。その人の問題でしょう。

ここでまず、自我、という言葉に与える意味についてルーさんは明確でしょうか?或いは今、正にそこを検証中なのかも知れませんが、それが明確になることが必要だと思います。多くの場合、たとえば、了解されている状態から発動する事態を、自我、とはいわないからです。

> とくに「選択した」という意識がなくても、とてつもなく自然な行動であっても、実は、自分が気づかない自我によって選択された行動である、という考えには賛成できませんか。
> たとえば、とても自然ななりゆきによって、あなた達が結婚を決めた時、大事な家族が結婚を反対したとしたら?
> その時は、その時で、また、とても自然な行動として、家族を説得するなり、何らかの行動をとるでしょう。


すでにそうでないことについて検証する必要はありません。そうしたことを検証すること自体が正に、自我です。
家族を説得する必要があったとして、必要ならただそうする、だけでしょうね。

> それがどんなに自然な、力の入らない行動であっても、自分で気づかないうちに選択しているし、自分では気づかない自我が働いていると私は思うのです。
> とても自然で自分で選択したという自覚のない行動を「自我の範疇にないもの」とし、抵抗であり運動であるものを「自我のもの」という区別の仕方をしているのですか?
> それなら、自然な行動であるなら、自我のものではない、ということになります。
> それは、とても傲慢なことではないですか。
> ま、そのように生きたいならそうでいいでしょう。
> それも、生き方の選択なのでしょう。
> 私は知りません(笑)


ここで言われている、自我、ということ。もの事に執着し、なにかを解決しようとする、或いは、自分を確認しようとする、こと。それ自体を悪いことと思っていません。これはすでにお話したと思います。
その仕組みを使って人は学び、成長する、それだけのことです。ただここで、自我、という片寄りの状態から、そうでない状態を知ることは必要です。自分がする、私がする、という感覚に引っ張られるとしたら、多くの場合、それはまだ明確になっていない、ということかも知れません。或いは、自覚的に変化をしてから尚、その様であれば、よく省みる必要があるといえるかも知れません。実際は、自我、無我、どちらに偏るものでもないからです。状態としては、そこに無関係に関係というところかも知れません。それについて自分のなかで明確になる必要があります。そうであることをそう、と認めることはたとえば傲慢とは無縁です。
状態としてたとえば、そこ、から物事が起きている、というとき、ただ、自分がまったくなくなってなすがままにされている、ということではありません。それもまた、片寄った状態です。

生。生きること、この事態は未知です。なぜ、こうなっているのか?知らないのです。と同時に、その生を生きること、それでよし、そこへの理解は同時に起きています。未知なのに理解?と思うかも知れません。けれど、そうなのです。
そこ、にいることは、ただ曖昧に不明確ということでもありません。理解すればするほどに学ぶことができる、その状態です。人としては、そうといえます。
そして、自分の状態を表現することによって学べる人たちがいるかも知れません。そのときはただそうするだけです。
そして尚、自分も学ぶことができます。

多くの場合、私がする、私の見解、に片寄る、或いは、状態に対する明確な理解がないために、変化をしても迷ってしまいます。または変化の度合いが大きい為に、それで終了したと思って成長を止めてしまうこともあるかも知れません。

正に日常、という意味では、ダーリンもわたしも学び愛です。互いに、アホじゃ。ちがうんじゃあないの。
みたいなことで日々成長。
でもね、ubik0101さんが慎重になるのはよくわかります。
非意味の意味を尽くしていれば、そうなのです。

そうとしか、いえません。

No.1395 - 2009/02/15(Sun) 18:56:00

Re: 小春日和 / ルー
お互いにアホと言い合って、成長しているのですか。
よかったですね。

No.1396 - 2009/02/15(Sun) 20:44:59

Re: 小春日和 / ルー
> > 自分では意識していない自我、気づいていない自我、というものの存在は、否定しますか?
>
> たとえば成長段階を経て、それまでの、ただ自我を生きていたときを理解できる状態になったとしても、その後、それ以前よりもその機能に使われてしまうということは、大いにあると思います。気付いていてもいなくても自我ということもあるでしょう、それは個々にとっての責任といえるでしょう。その人の問題でしょう。


「気づいていてもいなくても自我」というのかどうか、ということを話しています。
個々にとっての責任?その人の問題?
ですから、気づいていない場合でも「自我」と呼ぶのかどうかを聞いているのです。
責任とか問題とかではなくて、「自我がない」ということについて話しているのです。
「たとえば成長段階を経て、それまでの、ただ自我を生きていたときを理解できる状態になったとしても、その後、それ以前よりもその機能に使われてしまうということは、大いにあると思います。」と書いてありますが、それは、まだ「自我がない」という状態にはなっていない、と私は解釈します。

> ここでまず、自我、という言葉に与える意味についてルーさんは明確でしょうか?或いは今、正にそこを検証中なのかも知れませんが、それが明確になることが必要だと思います。多くの場合、たとえば、了解されている状態から発動する事態を、自我、とはいわないからです。

「了解されている状態から発動する事態を、自我とはいわない」というのですね。
hatoさんのルールとして、それは了解しておきます。
私は、「了解されている状態から発動する事態」というものに対して、「自我とはいわない」とは断言できません。
「自分にとって超気持ちのいい状態 」でもあるわけですから。

> > とくに「選択した」という意識がなくても、とてつもなく自然な行動であっても、実は、自分が気づかない自我によって選択された行動である、という考えには賛成できませんか。
> > たとえば、とても自然ななりゆきによって、あなた達が結婚を決めた時、大事な家族が結婚を反対したとしたら?
> > その時は、その時で、また、とても自然な行動として、家族を説得するなり、何らかの行動をとるでしょう。
>
> すでにそうでないことについて検証する必要はありません。そうしたことを検証すること自体が正に、自我です。
> 家族を説得する必要があったとして、必要ならただそうする、だけでしょうね。
>
> > それがどんなに自然な、力の入らない行動であっても、自分で気づかないうちに選択しているし、自分では気づかない自我が働いていると私は思うのです。
> > とても自然で自分で選択したという自覚のない行動を「自我の範疇にないもの」とし、抵抗であり運動であるものを「自我のもの」という区別の仕方をしているのですか?
> > それなら、自然な行動であるなら、自我のものではない、ということになります。
> > それは、とても傲慢なことではないですか。
> > ま、そのように生きたいならそうでいいでしょう。
> > それも、生き方の選択なのでしょう。
> > 私は知りません(笑)
>
> ここで言われている、自我、ということ。もの事に執着し、なにかを解決しようとする、或いは、自分を確認しようとする、こと。それ自体を悪いことと思っていません。これはすでにお話したと思います。


意味がわかりません。

> その仕組みを使って人は学び、成長する、それだけのことです。ただここで、自我、という片寄りの状態から、そうでない状態を知ることは必要です。自分がする、私がする、という感覚に引っ張られるとしたら、多くの場合、それはまだ明確になっていない、ということかも知れません。或いは、自覚的に変化をしてから尚、その様であれば、よく省みる必要があるといえるかも知れません。実際は、自我、無我、どちらに偏るものでもないからです。状態としては、そこに無関係に関係というところかも知れません。それについて自分のなかで明確になる必要があります。そうであることをそう、と認めることはたとえば傲慢とは無縁です。

意味がわかりません。

> 状態としてたとえば、そこ、から物事が起きている、というとき、ただ、自分がまったくなくなってなすがままにされている、ということではありません。それもまた、片寄った状態です。

意味がわかりません。

> 生。生きること、この事態は未知です。なぜ、こうなっているのか?知らないのです。と同時に、その生を生きること、それでよし、そこへの理解は同時に起きています。未知なのに理解?と思うかも知れません。けれど、そうなのです。

意味がわかりません。

> そこ、にいることは、ただ曖昧に不明確ということでもありません。理解すればするほどに学ぶことができる、その状態です。人としては、そうといえます。
> そして、自分の状態を表現することによって学べる人たちがいるかも知れません。そのときはただそうするだけです。
> そして尚、自分も学ぶことができます。


学ぶ姿勢があるならね。

> 多くの場合、私がする、私の見解、に片寄る、或いは、状態に対する明確な理解がないために、変化をしても迷ってしまいます。または変化の度合いが大きい為に、それで終了したと思って成長を止めてしまうこともあるかも知れません。

意味がわかりません。

> 正に日常、という意味では、ダーリンもわたしも学び愛です。互いに、アホじゃ。ちがうんじゃあないの。
> みたいなことで日々成長。
> でもね、ubik0101さんが慎重になるのはよくわかります。
> 非意味の意味を尽くしていれば、そうなのです。
>
> そうとしか、いえません。


うびさんがどう思っているのか、聞いてみなければ、うびさんのことはわかりません。
hatoさんの言葉からわかるのは、hatoさんの状態だけです。

No.1397 - 2009/02/16(Mon) 01:14:26
自己2 / ルー
うびさんが「自己」と呼んでおられるものは、一般には「超自我」というものではありませんか?
「自己」というと、自分の管轄にあるものという感じがしますが、うびさんが言われるように、自分では意識できないもの、それについて自分は説明できないものであることなら、「超自我」の方が一般にはわかりやすいと思います。

かわいくない投稿で申し訳ありませんが。

No.1379 - 2009/02/12(Thu) 10:23:20

Re: 自己2 / ubik0101
はじめて聞いた言葉なので、超自我 、をネット検索してみたら、フロイドの心理学用語のようです。そのことではないです。

なんとなく言葉としては、自我を越えた、ということで、通じるような気がしたのですが。 一般的な意味での、超自我、はわかりませんでした。

ここでいう、自己、は。自我の完成。自我の死。なんと言うにしても、自我が、ない、その了解があって、はじめて感知できることです。

No.1380 - 2009/02/12(Thu) 13:55:07

Re: 自己2 / ルー
「超自我」というのは、フロイトの言葉でしたか。
フロイトや心理学用語という括りは、どうでもよくて、それが指す意味について話しているのですが。
「自我」も「自己」も「超自我」も、普通に用いられる言葉であると思いますが。
「超自我」の領域には、自我はないでしょう。
それは、うびさんが言っていることと一致すると思います。

No.1381 - 2009/02/12(Thu) 15:13:44

Re: 自己2 / ルー
一般に呼ばれている「自己」は、うびさんが呼んでいる「自己」というものとは違うと思います。
もっと、特別な言い方をした方がいいと思います。
「自我」も、うびさんが呼んでいる、完成したり死んだりするものは、自我の中の一部分のことだと思います。

生きている限り、自我は、なくならないと思うからです。
結婚したり、何かをしようとする意思は、自我の中のものが働いているからだと思います。

No.1382 - 2009/02/12(Thu) 15:24:56

Re: 自己2 / ルー
自我の中のある部分が完成すると、超自我の存在を感じることがある、というふうに私は解釈しました。

そうとう、悩み苦しんだ挙句の果てにやってくる境地というところです。

うびさんは、「自分とは何か」を知りたかったのでしょう。
私は、そんなに「自分」というものが対象になり得るほど、自分の輪郭がハッキリしていなくて、透明な存在だったのです。
ですから、「自分とは何かを知りたい」という欲求も生まれませんでした。
うびさんは、「自分」というものの存在をハッキリと感じていたのでしょう。
私は、自分以外の人のことの方をハッキリと存在として感じます。
うびさんは、人にはあまり興味がないのではないですか?

No.1383 - 2009/02/12(Thu) 15:32:58

Re: 自己2 / ubik0101
とくに 、自己、という言葉に。イメージはないです。それに、アートマンとか、真我とか、「犬にも仏性はありますか?」の仏性とか、そいうことを見出そうとしていたわけではありませんでした。知識もありませんでした。なので、それに一致した、という感覚もなく、自己、でない言葉で呼ぶのは、変な感じです。

>「自我」も、うびさんが呼んでいる、完成したり死んだりするものは、自我の中の一部分のことだと思います。

ありとあらゆる人の、ありとありえる自我ではなく、自分だけの自我の問題だけを解決すれば、それが、自我の、ない、ことの目的・・・自己を知る・・・こと、を達成します。ならば、あとは、自我があろうがなかろうが無問題です。

>生きている限り、自我は、なくならないと思うからです。
>結婚したり、何かをしようとする意思は、自我の中のものが働いているからだと思います。


ほかの人の感じたこと思ったことはわからないけど、自分の感じたこと思ったことはわかる。まあ自分のことしかわからない。自分が生きてる感覚。そんなことを。自我と呼ぶのでしょうか。でも、自我ってないんです。でも、おなじことが自我でありえる。それは追求すると面白いと思います。

>うびさんは、人にはあまり興味がないのではないですか?

うん。たぶん。 とてもいい人と言われたりもしましたが、たとえば先輩も、後輩も、社長も、下請けも、同列に対応するので。敬って欲しいとか、興味を持って欲しい人にとっては、傍若無人だったのでしょう。自尊心とか名誉とか自己顕示とか、そいう意味では、あんまり、自分にも興味がないです。それから。まず、たとえば、なぜ、これが、こうなのか?とか、自分の疑問を解決することが先決です。

「自分とはなにかを知りたい」、その衝動が原因で、自分が自分を意識する、自意識過剰になったりすることもあるのかもしれません。そうですね、ほかの人を空想して、そこから自分を見る、他意識過剰でした。また、それに反発して。ほかの人に、とくに気を遣ったりもできなかったのかもしれません。

そいえば、学生時代のことですが、「ほかの人の言うことはリアリティがあって、そうだと思うけど。自分の意見は実感がないよ。どうしてなんだろう」と級友に話して。いぶかしそうな表情をされたことがありました。自分を自分で感じることはできないので、それで自分は頼りなく,希薄に感じるのでしょう。それで、ほかの人は存在感があるのかもしれません。ほかの人と自分と、対等というか、おなじ重さがあることにするには、根性が必要だったと思います。

No.1384 - 2009/02/12(Thu) 23:10:58

Re: 自己2 / ルー
うびさんが真摯で素直であることがわかったよ。
さっきまで、ちょっと疑っていました。

No.1385 - 2009/02/13(Fri) 00:08:02

Re: 自己2 / ルー
> とくに 、自己、という言葉に。イメージはないです。

イメージのことではなくて、「自己」という言葉では、他の人と話す時に、正しく伝わらないということです。
それは、「自己」という言葉が、もうすでにあるからです。
もうすでにある「自己」という言葉の意味が、うびさんの言う「自己」という言葉が指すものが正しく伝わることを邪魔するでしょう。

うびさんの「自我」、うびさんの「自己」という、うびさんだけにあるもの、うびさんだけが実感しているものとして、自分の中だけで通じる言葉でよいのなら、何でもよいですか。

「自己には自我がない」というのは、普通に使う「自己」という意味とは違うと思います。
普通に使う「自己」という言葉は、「自我がない」ということを意味しません。

No.1386 - 2009/02/13(Fri) 10:15:31

Re: 自己2 / ubik0101
まあ、あとづけの説明なんですけど。たとえば、アートマンとか、真我とか、超自我とか、言うと。ぼんやりとかもしれませんが、イメージするのではないですか。それだと、それだけで、困ったちゃん、ではないでしょうか。それで、「イメージはないです」。なんです。

また、自分は、ほかの人が、たとえば宇宙意識とか、なんとか言うのを聞いて。その人が事実、そうであって、そうだと言ってるなら、それは了解です。

それに、一般的に日常で、僕、私、俺、と言われる意味での自己と、ここでいう自己。それは較べられないからといって、まったく違うのではない、です。ここは、まだ探っています。

No.1387 - 2009/02/13(Fri) 12:28:55

Re: 自己2 / ルー
> また、自分は、ほかの人が、たとえば宇宙意識とか、なんとか言うのを聞いて。その人が事実、そうであって、そうだと言ってるなら、それは了解です。

「宇宙意識」という言葉なら、宇宙意識なのでしょうから、それでいいと思います。
私が言っているのは、「自己」という言葉は、うびさんが「自己」と言うならそれで、うびさんにとっては「自己」なのでしょうけれど(それは、了解していますよ)、他の人と話す時に、自己という言葉では伝わりにくいのではないですか?ということです。
宇宙意識という言葉なら、他の人に話すにも伝わると思います。宇宙意識なのだな、ということが。

> それに、一般的に日常で、僕、私、俺、と言われる意味での自己と、ここでいう自己。それは較べられないからといって、まったく違うのではない、です。ここは、まだ探っています。

日常で使う「僕、私、俺」と言う時、自我があるのかどうかというところが問題です。
うびさんが「自我は、ない」と言っているのは、「うびさんには自我がない」と言っているのですか?
そうではないでしょう。
「自我というものは、もともとないのだ。自我が完成すれば、自我は死ぬ。」と言っているのは、誰にでもある自我のことについて言っているのでしょう。

うびさんが「自己」というなら「自己」なのでしょうが、「自己」という言葉では「自我がない」という重要なポイントが伝わらないのではないですか?というのが要点です。

No.1388 - 2009/02/13(Fri) 13:57:00

Re: 自己2 / ルー
ま、「俺の言う自己には自我がないんだ」と説明すれば済む話です。
それが、「自己」については意識できない、説明できない、ということになると、それこそ普通に使われる「自己」と混同してしまいます。

No.1389 - 2009/02/13(Fri) 14:05:29

Re: 自己2 / ルー
普通に使われる「自己」と「エーテル体」は、ずいぶん違うと思います。
「自己」と言う時は、意識が自分に向いているでしょう。
「エーテル体」と言う時は、意識とは関係がないものという気がします。

面倒をおかけするのも何ですので、あとは自分で考えますね。お邪魔しました。ま、た、ね〜

No.1390 - 2009/02/13(Fri) 14:11:07
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