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(No Subject) / hato

> 「気づいていてもいなくても自我」というのかどうか、ということを話しています。

それはすでに、お答えしています。

> 個々にとっての責任?その人の問題?

そうです。学び、成長する責任、ということです。

> 責任とか問題とかではなくて、「自我がない」ということについて話しているのです。

なら、はじめからそのように言えばよいのではありませんか?また、人が自分の思うところと違うようにとっても、そこから人の経緯を見ることができます。

> hatoさんのルールとして、それは了解しておきます。

自我、という言葉を使うとき、多くの場合そのようです。なのでその意味を使って話し合うことができます。言葉は方法です。確認する必要がある、それだけのことです。自分にとって、言葉の意味はその限りではありません。これはとても面白いことです。ルーさんも、そうでしょうか?。

> 私は、「了解されている状態から発動する事態」というものに対して、「自我とはいわない」とは断言できません。
> 「自分にとって超気持ちのいい状態 」でもあるわけですから。


なので確認しました。
ルーさんの文章からは混乱が見受けられるのです。あなたが話している、自我、とは。
明確でなければ話が成立しません。

そして尚、といえますが、自我という言葉に自分なりの意味を与えながら理解、成長できるなら、その言葉は役立った、ということでしょう。


> 学ぶ姿勢があるならね。

そうです。それは個々に任されています。

そして、学び、理解するためには素直でなければなりません。これはゴリ押しはできません。
誰かに、何かに素直、ということでなく、あれこれ出てくる思考、感情に素直、その反応性に素直、でもありません。それは素直とはいいません。それならただ、人は愚かなだけです。

すこし前に、お話したように思います。
ルーさんは、なぜその様なのでしょう。
自分は優れてる、と思いたいでしょうか?たとえば人は、馬鹿にされることを嫌います。それは自然なことです。けど、偉くある必要も、ないのです。
自分は正に自分である、それはとても大事なことです。
誰にとっても大切なことです。
けど、それ故に、そこは成熟していなければなりません。

> うびさんがどう思っているのか、聞いてみなければ、うびさんのことはわかりません。
> hatoさんの言葉からわかるのは、hatoさんの状態だけです。


そうです。
そして尚、学び合う、成長する、ということは互いの了解事項です。ただそれだけのことです。

No.1403 - 2009/02/16(Mon) 23:12:08

Re: / hato

そして、尚。
非意味の意味を尽くそうとして、そう、ならば。

それは面白いことですが、
どうでしょう。(笑)

No.1405 - 2009/02/17(Tue) 07:46:44
小春日和 / hato

今日はバレンタインデーなんだって。
ダーリンに、美味しいチョコホット、ごちそうしよかな。
小春日和のよい日です。


春の日の美しい、とある朝。
ubik0101さんの姉妹から届いた、
刹那の、それは夢のなかの手紙でした。
ubik0101さんに出会うよりすこし前のことです。

そこには、
彼の、妻であり妹であるhatoさん。という書き出しで、
祝福に満ちた言葉と一緒に、
白やピンクの花でできた、清楚で愛らしい感じの
髪飾りが入っていました。
それは贈り物でした。


結婚。

それはまったく、
たとえば機能から起きる、
あろうがなかろうがの自我、すら範疇外の出来事でした。
自分中心、
私の見解。私の、好み。
それらに無縁でした。
その執着、混乱、愚かさとは別様でした。

ただ、世界は静かに沸き立っていました。
喜びは静かに満ちていました。
そして、
互いに
驚きながら、ときめきつつもなんということなく、
手を取り合ったのです。

多くのことは、そこ、から起きていました。

ただ風のように、
そんな風ながらの生。
すべてはその様でいてそして尚、親密に細やかです。

仕組みとしての機能から、あたかもあるかのような自我、
が生起しなければ動きが起きない、こともありません。
そこで言われる自我。それはいうならば誤解であり、
ただその人の位相・機能から起きる様相、運動自身の強度によって感じられる圧、とも言えます。
それは抵抗であり、その運動です。

言葉は、言葉が発生している、もと、が重要です。

好雪片々別處に落ちず

ともいえます。

そして尚、
互いに歩み寄り、分かち合えることは素敵です。

No.1391 - 2009/02/14(Sat) 11:59:57

Re: 小春日和 / ルー
> 仕組みとしての機能から、あたかもあるかのような自我、
> が生起しなければ動きが起きない、こともありません。
> そこで言われる自我。それはいうならば誤解であり、
> ただその人の位相・機能から起きる様相、運動自身の強度によって感じられる圧、とも言えます。
> それは抵抗であり、その運動です。


自分では意識していない自我、気づいていない自我、というものの存在は、否定しますか?

No.1392 - 2009/02/15(Sun) 11:52:08

Re: 小春日和 / ルー
とくに「選択した」という意識がなくても、とてつもなく自然な行動であっても、実は、自分が気づかない自我によって選択された行動である、という考えには賛成できませんか。
たとえば、とても自然ななりゆきによって、あなた達が結婚を決めた時、大事な家族が結婚を反対したとしたら?
その時は、その時で、また、とても自然な行動として、家族を説得するなり、何らかの行動をとるでしょう。
それがどんなに自然な、力の入らない行動であっても、自分で気づかないうちに選択しているし、自分では気づかない自我が働いていると私は思うのです。
とても自然で自分で選択したという自覚のない行動を「自我の範疇にないもの」とし、抵抗であり運動であるものを「自我のもの」という区別の仕方をしているのですか?
それなら、自然な行動であるなら、自我のものではない、ということになります。
それは、とても傲慢なことではないですか。
ま、そのように生きたいならそうでいいでしょう。
それも、生き方の選択なのでしょう。
私は知りません(笑)

No.1393 - 2009/02/15(Sun) 12:03:37

Re: 小春日和 / ルー
もう、勉強する必要もないですね。ということです。
No.1394 - 2009/02/15(Sun) 12:04:17

Re: 小春日和 / hato
> 自分では意識していない自我、気づいていない自我、というものの存在は、否定しますか?

たとえば成長段階を経て、それまでの、ただ自我を生きていたときを理解できる状態になったとしても、その後、それ以前よりもその機能に使われてしまうということは、大いにあると思います。気付いていてもいなくても自我ということもあるでしょう、それは個々にとっての責任といえるでしょう。その人の問題でしょう。

ここでまず、自我、という言葉に与える意味についてルーさんは明確でしょうか?或いは今、正にそこを検証中なのかも知れませんが、それが明確になることが必要だと思います。多くの場合、たとえば、了解されている状態から発動する事態を、自我、とはいわないからです。

> とくに「選択した」という意識がなくても、とてつもなく自然な行動であっても、実は、自分が気づかない自我によって選択された行動である、という考えには賛成できませんか。
> たとえば、とても自然ななりゆきによって、あなた達が結婚を決めた時、大事な家族が結婚を反対したとしたら?
> その時は、その時で、また、とても自然な行動として、家族を説得するなり、何らかの行動をとるでしょう。


すでにそうでないことについて検証する必要はありません。そうしたことを検証すること自体が正に、自我です。
家族を説得する必要があったとして、必要ならただそうする、だけでしょうね。

> それがどんなに自然な、力の入らない行動であっても、自分で気づかないうちに選択しているし、自分では気づかない自我が働いていると私は思うのです。
> とても自然で自分で選択したという自覚のない行動を「自我の範疇にないもの」とし、抵抗であり運動であるものを「自我のもの」という区別の仕方をしているのですか?
> それなら、自然な行動であるなら、自我のものではない、ということになります。
> それは、とても傲慢なことではないですか。
> ま、そのように生きたいならそうでいいでしょう。
> それも、生き方の選択なのでしょう。
> 私は知りません(笑)


ここで言われている、自我、ということ。もの事に執着し、なにかを解決しようとする、或いは、自分を確認しようとする、こと。それ自体を悪いことと思っていません。これはすでにお話したと思います。
その仕組みを使って人は学び、成長する、それだけのことです。ただここで、自我、という片寄りの状態から、そうでない状態を知ることは必要です。自分がする、私がする、という感覚に引っ張られるとしたら、多くの場合、それはまだ明確になっていない、ということかも知れません。或いは、自覚的に変化をしてから尚、その様であれば、よく省みる必要があるといえるかも知れません。実際は、自我、無我、どちらに偏るものでもないからです。状態としては、そこに無関係に関係というところかも知れません。それについて自分のなかで明確になる必要があります。そうであることをそう、と認めることはたとえば傲慢とは無縁です。
状態としてたとえば、そこ、から物事が起きている、というとき、ただ、自分がまったくなくなってなすがままにされている、ということではありません。それもまた、片寄った状態です。

生。生きること、この事態は未知です。なぜ、こうなっているのか?知らないのです。と同時に、その生を生きること、それでよし、そこへの理解は同時に起きています。未知なのに理解?と思うかも知れません。けれど、そうなのです。
そこ、にいることは、ただ曖昧に不明確ということでもありません。理解すればするほどに学ぶことができる、その状態です。人としては、そうといえます。
そして、自分の状態を表現することによって学べる人たちがいるかも知れません。そのときはただそうするだけです。
そして尚、自分も学ぶことができます。

多くの場合、私がする、私の見解、に片寄る、或いは、状態に対する明確な理解がないために、変化をしても迷ってしまいます。または変化の度合いが大きい為に、それで終了したと思って成長を止めてしまうこともあるかも知れません。

正に日常、という意味では、ダーリンもわたしも学び愛です。互いに、アホじゃ。ちがうんじゃあないの。
みたいなことで日々成長。
でもね、ubik0101さんが慎重になるのはよくわかります。
非意味の意味を尽くしていれば、そうなのです。

そうとしか、いえません。

No.1395 - 2009/02/15(Sun) 18:56:00

Re: 小春日和 / ルー
お互いにアホと言い合って、成長しているのですか。
よかったですね。

No.1396 - 2009/02/15(Sun) 20:44:59

Re: 小春日和 / ルー
> > 自分では意識していない自我、気づいていない自我、というものの存在は、否定しますか?
>
> たとえば成長段階を経て、それまでの、ただ自我を生きていたときを理解できる状態になったとしても、その後、それ以前よりもその機能に使われてしまうということは、大いにあると思います。気付いていてもいなくても自我ということもあるでしょう、それは個々にとっての責任といえるでしょう。その人の問題でしょう。


「気づいていてもいなくても自我」というのかどうか、ということを話しています。
個々にとっての責任?その人の問題?
ですから、気づいていない場合でも「自我」と呼ぶのかどうかを聞いているのです。
責任とか問題とかではなくて、「自我がない」ということについて話しているのです。
「たとえば成長段階を経て、それまでの、ただ自我を生きていたときを理解できる状態になったとしても、その後、それ以前よりもその機能に使われてしまうということは、大いにあると思います。」と書いてありますが、それは、まだ「自我がない」という状態にはなっていない、と私は解釈します。

> ここでまず、自我、という言葉に与える意味についてルーさんは明確でしょうか?或いは今、正にそこを検証中なのかも知れませんが、それが明確になることが必要だと思います。多くの場合、たとえば、了解されている状態から発動する事態を、自我、とはいわないからです。

「了解されている状態から発動する事態を、自我とはいわない」というのですね。
hatoさんのルールとして、それは了解しておきます。
私は、「了解されている状態から発動する事態」というものに対して、「自我とはいわない」とは断言できません。
「自分にとって超気持ちのいい状態 」でもあるわけですから。

> > とくに「選択した」という意識がなくても、とてつもなく自然な行動であっても、実は、自分が気づかない自我によって選択された行動である、という考えには賛成できませんか。
> > たとえば、とても自然ななりゆきによって、あなた達が結婚を決めた時、大事な家族が結婚を反対したとしたら?
> > その時は、その時で、また、とても自然な行動として、家族を説得するなり、何らかの行動をとるでしょう。
>
> すでにそうでないことについて検証する必要はありません。そうしたことを検証すること自体が正に、自我です。
> 家族を説得する必要があったとして、必要ならただそうする、だけでしょうね。
>
> > それがどんなに自然な、力の入らない行動であっても、自分で気づかないうちに選択しているし、自分では気づかない自我が働いていると私は思うのです。
> > とても自然で自分で選択したという自覚のない行動を「自我の範疇にないもの」とし、抵抗であり運動であるものを「自我のもの」という区別の仕方をしているのですか?
> > それなら、自然な行動であるなら、自我のものではない、ということになります。
> > それは、とても傲慢なことではないですか。
> > ま、そのように生きたいならそうでいいでしょう。
> > それも、生き方の選択なのでしょう。
> > 私は知りません(笑)
>
> ここで言われている、自我、ということ。もの事に執着し、なにかを解決しようとする、或いは、自分を確認しようとする、こと。それ自体を悪いことと思っていません。これはすでにお話したと思います。


意味がわかりません。

> その仕組みを使って人は学び、成長する、それだけのことです。ただここで、自我、という片寄りの状態から、そうでない状態を知ることは必要です。自分がする、私がする、という感覚に引っ張られるとしたら、多くの場合、それはまだ明確になっていない、ということかも知れません。或いは、自覚的に変化をしてから尚、その様であれば、よく省みる必要があるといえるかも知れません。実際は、自我、無我、どちらに偏るものでもないからです。状態としては、そこに無関係に関係というところかも知れません。それについて自分のなかで明確になる必要があります。そうであることをそう、と認めることはたとえば傲慢とは無縁です。

意味がわかりません。

> 状態としてたとえば、そこ、から物事が起きている、というとき、ただ、自分がまったくなくなってなすがままにされている、ということではありません。それもまた、片寄った状態です。

意味がわかりません。

> 生。生きること、この事態は未知です。なぜ、こうなっているのか?知らないのです。と同時に、その生を生きること、それでよし、そこへの理解は同時に起きています。未知なのに理解?と思うかも知れません。けれど、そうなのです。

意味がわかりません。

> そこ、にいることは、ただ曖昧に不明確ということでもありません。理解すればするほどに学ぶことができる、その状態です。人としては、そうといえます。
> そして、自分の状態を表現することによって学べる人たちがいるかも知れません。そのときはただそうするだけです。
> そして尚、自分も学ぶことができます。


学ぶ姿勢があるならね。

> 多くの場合、私がする、私の見解、に片寄る、或いは、状態に対する明確な理解がないために、変化をしても迷ってしまいます。または変化の度合いが大きい為に、それで終了したと思って成長を止めてしまうこともあるかも知れません。

意味がわかりません。

> 正に日常、という意味では、ダーリンもわたしも学び愛です。互いに、アホじゃ。ちがうんじゃあないの。
> みたいなことで日々成長。
> でもね、ubik0101さんが慎重になるのはよくわかります。
> 非意味の意味を尽くしていれば、そうなのです。
>
> そうとしか、いえません。


うびさんがどう思っているのか、聞いてみなければ、うびさんのことはわかりません。
hatoさんの言葉からわかるのは、hatoさんの状態だけです。

No.1397 - 2009/02/16(Mon) 01:14:26
自己2 / ルー
うびさんが「自己」と呼んでおられるものは、一般には「超自我」というものではありませんか?
「自己」というと、自分の管轄にあるものという感じがしますが、うびさんが言われるように、自分では意識できないもの、それについて自分は説明できないものであることなら、「超自我」の方が一般にはわかりやすいと思います。

かわいくない投稿で申し訳ありませんが。

No.1379 - 2009/02/12(Thu) 10:23:20

Re: 自己2 / ubik0101
はじめて聞いた言葉なので、超自我 、をネット検索してみたら、フロイドの心理学用語のようです。そのことではないです。

なんとなく言葉としては、自我を越えた、ということで、通じるような気がしたのですが。 一般的な意味での、超自我、はわかりませんでした。

ここでいう、自己、は。自我の完成。自我の死。なんと言うにしても、自我が、ない、その了解があって、はじめて感知できることです。

No.1380 - 2009/02/12(Thu) 13:55:07

Re: 自己2 / ルー
「超自我」というのは、フロイトの言葉でしたか。
フロイトや心理学用語という括りは、どうでもよくて、それが指す意味について話しているのですが。
「自我」も「自己」も「超自我」も、普通に用いられる言葉であると思いますが。
「超自我」の領域には、自我はないでしょう。
それは、うびさんが言っていることと一致すると思います。

No.1381 - 2009/02/12(Thu) 15:13:44

Re: 自己2 / ルー
一般に呼ばれている「自己」は、うびさんが呼んでいる「自己」というものとは違うと思います。
もっと、特別な言い方をした方がいいと思います。
「自我」も、うびさんが呼んでいる、完成したり死んだりするものは、自我の中の一部分のことだと思います。

生きている限り、自我は、なくならないと思うからです。
結婚したり、何かをしようとする意思は、自我の中のものが働いているからだと思います。

No.1382 - 2009/02/12(Thu) 15:24:56

Re: 自己2 / ルー
自我の中のある部分が完成すると、超自我の存在を感じることがある、というふうに私は解釈しました。

そうとう、悩み苦しんだ挙句の果てにやってくる境地というところです。

うびさんは、「自分とは何か」を知りたかったのでしょう。
私は、そんなに「自分」というものが対象になり得るほど、自分の輪郭がハッキリしていなくて、透明な存在だったのです。
ですから、「自分とは何かを知りたい」という欲求も生まれませんでした。
うびさんは、「自分」というものの存在をハッキリと感じていたのでしょう。
私は、自分以外の人のことの方をハッキリと存在として感じます。
うびさんは、人にはあまり興味がないのではないですか?

No.1383 - 2009/02/12(Thu) 15:32:58

Re: 自己2 / ubik0101
とくに 、自己、という言葉に。イメージはないです。それに、アートマンとか、真我とか、「犬にも仏性はありますか?」の仏性とか、そいうことを見出そうとしていたわけではありませんでした。知識もありませんでした。なので、それに一致した、という感覚もなく、自己、でない言葉で呼ぶのは、変な感じです。

>「自我」も、うびさんが呼んでいる、完成したり死んだりするものは、自我の中の一部分のことだと思います。

ありとあらゆる人の、ありとありえる自我ではなく、自分だけの自我の問題だけを解決すれば、それが、自我の、ない、ことの目的・・・自己を知る・・・こと、を達成します。ならば、あとは、自我があろうがなかろうが無問題です。

>生きている限り、自我は、なくならないと思うからです。
>結婚したり、何かをしようとする意思は、自我の中のものが働いているからだと思います。


ほかの人の感じたこと思ったことはわからないけど、自分の感じたこと思ったことはわかる。まあ自分のことしかわからない。自分が生きてる感覚。そんなことを。自我と呼ぶのでしょうか。でも、自我ってないんです。でも、おなじことが自我でありえる。それは追求すると面白いと思います。

>うびさんは、人にはあまり興味がないのではないですか?

うん。たぶん。 とてもいい人と言われたりもしましたが、たとえば先輩も、後輩も、社長も、下請けも、同列に対応するので。敬って欲しいとか、興味を持って欲しい人にとっては、傍若無人だったのでしょう。自尊心とか名誉とか自己顕示とか、そいう意味では、あんまり、自分にも興味がないです。それから。まず、たとえば、なぜ、これが、こうなのか?とか、自分の疑問を解決することが先決です。

「自分とはなにかを知りたい」、その衝動が原因で、自分が自分を意識する、自意識過剰になったりすることもあるのかもしれません。そうですね、ほかの人を空想して、そこから自分を見る、他意識過剰でした。また、それに反発して。ほかの人に、とくに気を遣ったりもできなかったのかもしれません。

そいえば、学生時代のことですが、「ほかの人の言うことはリアリティがあって、そうだと思うけど。自分の意見は実感がないよ。どうしてなんだろう」と級友に話して。いぶかしそうな表情をされたことがありました。自分を自分で感じることはできないので、それで自分は頼りなく,希薄に感じるのでしょう。それで、ほかの人は存在感があるのかもしれません。ほかの人と自分と、対等というか、おなじ重さがあることにするには、根性が必要だったと思います。

No.1384 - 2009/02/12(Thu) 23:10:58

Re: 自己2 / ルー
うびさんが真摯で素直であることがわかったよ。
さっきまで、ちょっと疑っていました。

No.1385 - 2009/02/13(Fri) 00:08:02

Re: 自己2 / ルー
> とくに 、自己、という言葉に。イメージはないです。

イメージのことではなくて、「自己」という言葉では、他の人と話す時に、正しく伝わらないということです。
それは、「自己」という言葉が、もうすでにあるからです。
もうすでにある「自己」という言葉の意味が、うびさんの言う「自己」という言葉が指すものが正しく伝わることを邪魔するでしょう。

うびさんの「自我」、うびさんの「自己」という、うびさんだけにあるもの、うびさんだけが実感しているものとして、自分の中だけで通じる言葉でよいのなら、何でもよいですか。

「自己には自我がない」というのは、普通に使う「自己」という意味とは違うと思います。
普通に使う「自己」という言葉は、「自我がない」ということを意味しません。

No.1386 - 2009/02/13(Fri) 10:15:31

Re: 自己2 / ubik0101
まあ、あとづけの説明なんですけど。たとえば、アートマンとか、真我とか、超自我とか、言うと。ぼんやりとかもしれませんが、イメージするのではないですか。それだと、それだけで、困ったちゃん、ではないでしょうか。それで、「イメージはないです」。なんです。

また、自分は、ほかの人が、たとえば宇宙意識とか、なんとか言うのを聞いて。その人が事実、そうであって、そうだと言ってるなら、それは了解です。

それに、一般的に日常で、僕、私、俺、と言われる意味での自己と、ここでいう自己。それは較べられないからといって、まったく違うのではない、です。ここは、まだ探っています。

No.1387 - 2009/02/13(Fri) 12:28:55

Re: 自己2 / ルー
> また、自分は、ほかの人が、たとえば宇宙意識とか、なんとか言うのを聞いて。その人が事実、そうであって、そうだと言ってるなら、それは了解です。

「宇宙意識」という言葉なら、宇宙意識なのでしょうから、それでいいと思います。
私が言っているのは、「自己」という言葉は、うびさんが「自己」と言うならそれで、うびさんにとっては「自己」なのでしょうけれど(それは、了解していますよ)、他の人と話す時に、自己という言葉では伝わりにくいのではないですか?ということです。
宇宙意識という言葉なら、他の人に話すにも伝わると思います。宇宙意識なのだな、ということが。

> それに、一般的に日常で、僕、私、俺、と言われる意味での自己と、ここでいう自己。それは較べられないからといって、まったく違うのではない、です。ここは、まだ探っています。

日常で使う「僕、私、俺」と言う時、自我があるのかどうかというところが問題です。
うびさんが「自我は、ない」と言っているのは、「うびさんには自我がない」と言っているのですか?
そうではないでしょう。
「自我というものは、もともとないのだ。自我が完成すれば、自我は死ぬ。」と言っているのは、誰にでもある自我のことについて言っているのでしょう。

うびさんが「自己」というなら「自己」なのでしょうが、「自己」という言葉では「自我がない」という重要なポイントが伝わらないのではないですか?というのが要点です。

No.1388 - 2009/02/13(Fri) 13:57:00

Re: 自己2 / ルー
ま、「俺の言う自己には自我がないんだ」と説明すれば済む話です。
それが、「自己」については意識できない、説明できない、ということになると、それこそ普通に使われる「自己」と混同してしまいます。

No.1389 - 2009/02/13(Fri) 14:05:29

Re: 自己2 / ルー
普通に使われる「自己」と「エーテル体」は、ずいぶん違うと思います。
「自己」と言う時は、意識が自分に向いているでしょう。
「エーテル体」と言う時は、意識とは関係がないものという気がします。

面倒をおかけするのも何ですので、あとは自分で考えますね。お邪魔しました。ま、た、ね〜

No.1390 - 2009/02/13(Fri) 14:11:07
自我=自意識かな / ばん
自我って、自意識と同じですか。
なんか自意識で考えるとピンときました。
あの体験で自己は空っぽと感じた。
空っぽで何とも言い表す事できないものなのに、自意識があるような気がする。それは、架空の自分をつくりだしていてそれを元に自意識をつくりだしている。だから、自意識=自我は虚構ですか?

No.1344 - 2009/02/05(Thu) 09:02:22

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
ばんさんの、あの体験こそ、たとえば自我を研究するにあたって、ばんさんが参照できる無比の基準です。

>あの体験で自己は空っぽと感じた。

その、からっぽの自分を、自分が、空っぽであると思いもしないで。あまりに当たり前に、ある、ことを前提にしていることにさえ気がつかないでも、それは自我だった。その見られた仕組み、それが自我は虚構、という表現です。

>空っぽで何とも言い表す事できないものなのに、自意識があるような気がする。それは、架空の自分をつくりだしていてそれを元に自意識をつくりだしている。だから、自意識=自我は虚構ですか?

んーと。自意識と言う言葉の意味がわかりませんが・・・

たとえば。ほかの人が、自分を自意識過剰と思ってると思ってる、まさに自分は、そんな自意識過剰。なんにしても、ほかの人という事実に重ねたその他人がする思考を空想して、その思考から自分の有り様を見たり考えたりして、それに依存、倒錯させられるなら、自我が機能してることを現してるのでしょう。

そうでなく。ふつうの自分の日常の意識のことでしょうか。 あるいは、ほかの人ではない、自分、という意味でしょうか。それなら、とくに自我とは思いません。たとえ自我だと思うとしても、この不思議の世界の機能ではないでしょうか。

たとえば空っぽ体験した人も、その経緯が違って当たり前です。それを、どう活用するかも、しないかも、その人に任されてあります。また空っぽ体験、しなかった人と、違って当たり前です。

No.1349 - 2009/02/05(Thu) 17:57:41

Re: 自我=自意識かな / ばん
人と話す時、
1(恥ずかしさを感じる自分)
2(その恥ずかしがっているのを恥ずかしがっちゃだめだと否定している自分)
3(話に夢中で自分がいる感覚がない自分)

1,2,3と自分が感じられるのですが、1のありのままに恥ずかしい認めているのが本当の自分でしょうか、それとも3の様に全く自分を感じられないのが、本当の自分でしょうか?
それとも全然、見当違いのことか、なんだかよくわからなくて、なにを手探りにしていいのかわかりません、

No.1355 - 2009/02/07(Sat) 15:49:50

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
うーんと。「自我」と、「ほんとうの自分」それを、おなじ場(フィールド)で、扱ってる。たとえにもならないのですが、海を泳ぐ魚と、空を飛ぶ鳥よりも違うことを、地上で扱ってる。そこに問題がありそうです。

なんと表現するとしても、「自我」と「ほんとうの自分」、そこには飛躍、断絶があります。そのことを日常の意識は理解が困難です。そこで、それを、自分の意識に教える必要があります。それが、学ぶことです。たとえば空っぽ体験は、学ぶことの終わりではなく、始まりです。

それが進んで、たとえば自我や無我は。迷いや悟りは。どーでもいい。区別の必要はない。感情や思考は、ただ現れては消えるだけ。になるのですが、そこを、飛ばして結論を求めてるのかもしれません。

また。ばんさんが・・・ほかの人に聞くのではなく・・・素直に真摯に、つまり正確に・・・こうだ、と了解する、それが絶対なのですが・・・ubik0101なら、こうするかもしれない、という話をします。

まず「ほんとうの自分」は、「空っぽで何とも言い表す事できないもの」なら、それから始めたら、どうでしょう。それって、なんであれ、あれやこれや、として判断・定義・自覚できるなら変ではないでしょうか。

また。1,2,3この、どれもが、ほんとうの自分ではありません。として考えてみます。1,2,3どれもが、ほんとうの自分です。として考えてみます。 さらに喜びは、悲しさは、1,2,3・・・という思考は、どうなんでしょう。

そして。たとえば、恥ずかしさは、喜びは、悲しさは、1,2,3・・・の思考は、自分ならではの、感情、思考なのでしょうか。それとも誰の、というわけでもない、世界の機能なんでしょうか。

また。自我は、自分ならではの機能なんでしょうか。それとも誰の、というわけでもない、世界の機能なんでしょうか。

No.1357 - 2009/02/07(Sat) 23:04:57

一人ごと・・・ / peer
「人と話す時」に限定しているときは
人と自分を比べているように思います。
しかし〜「恥ずかしい」という感情は。
本来、自分の命に値するだけの人生を
自分が生きているかどうか・・・
折角ある命を完全燃焼できているか?

と自問自答して「恥ずかしい」かどうか。
なのではないか、と思うのですが・・・。

No.1358 - 2009/02/07(Sat) 23:52:01

Re: 自我=自意識かな / ばん
本当の自分て、もしかして、無理やり名前をつけると「意識」ですか

あの体験の事をよく思い出してみたのですが、視線恐怖症(人から監視されている感覚)でそれを紛らわす為に本に集中していた、たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのことが頭に残っていて本を読み終わって大爆発して空っぽを感じた。
そのとき視線(感覚)と人に見られているという(思考)に「意識」が自己同一化していたのが瞬間はずれたので空っぽに感じたのかなと思いました。

もしそうだとしたら
でも普段の生活で本当の自分あり続けることなど出来るだろうかという疑問が・・・あと寝てる時、やっぱり違いますか?

No.1377 - 2009/02/11(Wed) 13:56:22

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
>本当の自分て、もしかして、無理やり名前をつけると「意識」ですか

ネットで見つけたりしても、飛ばし読みしかしてませんが、意識とか、純粋意識とか、宇宙意識とか、神とか、名前をつける人は、いると思います。また、自分とは世界だ、とか。心とは日月星辰だ。と言う人もいはします。 それで、納得できるなら、それでいいと思います。でも、自分としては、

まず、自己とか、心とかを、なにかとして、言葉としてでも認めて、それを、ほかのことで説明するのなら、それを好みません。て、いうか、関心がありません。て、いうか、奇妙だと思います。というのも、意識とは、純粋意識とは、宇宙意識とは、神とは、世界とは、日月星辰とかは、なんだ?と質問して、それに同義語反復でなく、答えられるのでしょうか。また、なぜ、

そういうことが、そうなってるか、答えられるのでしょうか。そんな意味では、どんな思考も判断も誤りではないでしょうか。それは大切なことではないでしょうか。「ほんとうの自分」 は「ほんとうの自分」ではないでしょうか。そういえば数日前、エーテル体、を検索してて、無相の自己、という表現を見つけました。それは、ともかく、それが、

>たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのことが頭に残っていて本を読み終わって大爆発して空っぽを感じた。
>そのとき視線(感覚)と人に見られているという(思考)に「意識」が自己同一化していたの>が瞬間はずれたので空っぽに感じたのかなと思いました。


という、ばんさんの体験ではないでしょうか。それは自己同一化が外れたのかもしれません。また、「たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのこと」に、同一化したのかもしれません。人が自己同一を問題にするのは、なにかに同一化したくて、また、したくなくて・・・そんな、どっちつかずの運動に巻き込まれてる。そんなことが、問題。ということもあります。そしてそのことが、どうであるかは関係なく、それは、ばんさんに起きたのです。ところで、

>でも普段の生活で本当の自分あり続けることなど出来るだろうかという疑問が・・・あと寝てる時、やっぱり違いますか?

これは、普段の生活の自分と、ほんとうの自分を、区別している。その有り様に問題があります。ただ、その区別が問題にならなくなる。そのためには。この日常を、いつも素直に真摯に、つまり正確に、学ぶことが必要です。この日常が、とても大切なんです。それこそ神秘、真理でもあります。また。あの体験を人為的に起こすことは、無理と思います。わりと自分は、寝てるとき、思考してることがあります。

そういえば、羞恥心。それを自分は、弱さの表現、と認識したことがあるのを思い出しました。

No.1378 - 2009/02/11(Wed) 23:15:06
(No Subject) / ubik0101
のりさん。

>ガハハハハ。ウビさんは、人の話し、なんも聞いてないでカラオケ行ってるし!
>閲覧者さんにも会われたのですね。
>私の場合はカラオケはどんちゃん騒ぎになります。


のりさんって、のりのりの、のりさん?って。思ってしまいました。たぶん、きっと大受けするんでしょうが、自分は驚くほどの音痴です。図書館閲覧者さんは、長崎で3回ほど。いろいろ学ばせてもらっています。

>> そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

>なるほど、
>感覚は自分の存在をかけて対象を求めて求めて求め続ける。
>そして対象が得られると安心し、依存し始める。それは喜びでも怒りでも悲しみでもなんでも良い。感じられる対象があれば良い。


そうです。たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。対象(微妙な言い方)は、なんでもいい、です。そんな自我の機能は、取り替え可能な・・・サッカーでも登山でも水泳でも身体を鍛えられるように・・・人を鍛えるための負荷なだけだからです。そうだからこそ、人はそれから解放され得ます。

そうではなく、 なにか特定の、それしかない、ならば、それから解放されることはないと思われます。また。特定の、それしかない、ならば。そうでないことは、自我ではない・・・たとえば知覚されてる、悩んでる、苦痛を感じる、嫉妬は自我で、そこで知覚されてない、たとえば偽善は、傲慢は、卑下は、散歩は、美しい自然は、あるとあらゆることは、自我ではないということですが、そうではありません。それなら、自我とその解放は選択の問題です。けど。そうではありません。 自我が機能してると思いもしないでも、自我なら、自我です。

ここで。自我にしても、なんにしても、ない、ことを了解するには。すくなくても世界の総てを経験しなければ、ない、ことを見ることは不可能、と考えられます。でも。そんなことをしたら、変化を続ける世界の続く限り迷うことになります。実際は、その人の問題を、なりふりかまわない血と汗と涙の探求をすること、だけです。なにか対象ではなく、なにかを対象にしてる、その人の・・・なにかに依存してる、執着してる、倒錯してる、未熟な・・・有り様が、問題だからです。

続きます。

No.1345 - 2009/02/05(Thu) 12:34:34

Re: / ubik0101
また、世界中を探しても、特定の、なにかとしての、探してる自己は、見つかりません。もし見つかったら、なにか特定のことが自己で、ほかのことは自己ではない、ということになります。そうではありません。また、自分が自分を対象にする、ということになりますが、そうではありません。それでも、それを、そうだと思いこむ、そのことさえ、その人の成長の経緯になり得ます。その経緯にならない世界の有り様など、あり得ないのです。迷いがあれば、解放は、必然です。

そして自我が、ない、を見たら、世界中を探し回ったことと、等価です。それに自我が、ない、その了解は、単なる、執着しない、依存しない、倒錯しない、たとえばスムーズな人間関係を実現するためだけにあるのではありません。どんなことでもない自己。これを、誰にも経験して欲しい、それで、ない、自我を、なくせ、という無理を承知の提唱が行われてきたのだと思います。

そして、どんな経緯でも、自我が、ない、と了解されるなら、たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。それは自我ではない、です。知らない、未知、です。実際にそうなのですが、心理的思考、過去などの、既知と言われることも、未知、です。

そして、 そうならば、自我の機能は、とくに問題になるというのでもありません。それは、言い方によっては、世界や自分と分離してでも、なにか問題をクローズアップして集中して、その解決にあたる、ということです。たとえば、いわゆる心理的思考とは、ここにないことさえ、あるとして、あれこれ空想の翼を広げて、シュミレーションして、負荷を高める運動です。それに使われるのではなく、それを使う、という言い方もできはします。

続きます。

No.1346 - 2009/02/05(Thu) 12:46:41

Re: / ubik0101
>次に、対象がある事が主体を求める、これが何度も繰り返されると自我とか心があると思われる。内側からは感覚、外側からは世間がこれを強化していく。
>(ウビさん的には感覚器官でしょうが展開が複雑になりますので感覚と書かせて頂きました)
><我、思う故に、自我在り。>でしょうか。


<思う故に、自我在り。>とは、自我が、ない、ことを了解したときに。自我があるなら、そう機能すると、了解されることです。

>自我、心で見れば御覧の通り世間はメチャクチャ、何でもありです。
>それを空(くう)から見れば、全て自然、道(タオ)の流れ、という事でしょうか。


うーん。空とか道とか、を思うことなくても。くり返しますが、迷うなら、解放は必然です。そしてそれは、たとえば世間とかの、特定のことからの解放だけではない、です。

No.1347 - 2009/02/05(Thu) 13:27:44

Re: / のり
<迷いがあれば、いつかは解放は、必然,でしょうか。>
そのいつかが気になります。
何千年も待ちたくなくてできるだけ早く解放されたいでしょう。
この時、その自我が推進力です。自我の中では時間があります。
中庸:今の私には自我のこの世界とアノ空間世界の真ん中が中庸。
両方眺められて、どちらにも両方に居られる状態、それが今感じる中庸です。

最近思う事
もの心がついてから、ずっとず〜っと何かに抵抗してきた気がします。
もう抵抗しなくていいんだよ、安らぎの中に居ていいんだよ、と言われている感じがします。はい、解放と言われますと解放かもしれません。

<既知と言われることも、未知>
これが難解です。知る事が定義できず、未知。知れば固定観念になる。
部分は全体を凌駕できない。 難解です。

No.1348 - 2009/02/05(Thu) 17:52:36

Re: / hato

> 好雪片々別處に落ちず

とても、美しいと思います。
それをただ、思い出していたのです。

> とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。

それは、ちょっとほっと、するかな、の感じです。

> 気づいてもらうまで、内緒なのでしょうか。
> そういえば、お口(くち)が×なのでウサ子ちゃんは内緒のシンボルのようです。


禅、てよく知らないのです。
世間のこと、そんなに知りません。

たぶん、とくに隠されていることはないと思います。
いつも人は、自分の状態、その有り様が、ただ問題なのだと思います。

No.1350 - 2009/02/05(Thu) 20:03:14

Re: / のり
> > 好雪片々別處に落ちず
> とても、美しいと思います。
> それをただ、思い出していたのです。>
> > とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。
>
> それは、ちょっとほっと、するかな、の感じです。
> 禅、てよく知らないのです。
> 世間のこと、そんなに知りません。


Hatoさん、なんかいいですね!のどかな感じです。
きっとそういう風に変わっているのでしょうね。
私も意識が破裂してから別の風に変わった人です
(ずっと前からかもしれません)。
私が居ないと何にでもなれる気がしました。

全ての苦の原因はたった一つの概念から来る気がしました。
それを子供の時から教育すれば楽なのにな!と思いました。
でも、社会がひっくり返るから内緒なのかな?
やはり導かれる人生を淡々と生きる。
 有様:目に見えるモノ、感覚で感じるモノ、例えば電話ボックス。
見えているけど、その反射光を受け、頭が勝手に距離計算をし、そこにある、と感じさせている。実は全ての風景も同じ、頭の中で勝手に距離計算をし再生しているだけ?全ては自分の中の再生画?
なんて思った時期がありました。

No.1351 - 2009/02/06(Fri) 10:40:58

Re: / ubik0101
><既知と言われることも、未知>
>これが難解です。知る事が定義できず、未知。知れば固定観念になる。
>部分は全体を凌駕できない。 難解です。


なんてことはないです。これは、こうでなくてもいいいのに、こうだ。ということが、不思議、の定義です。これ、とは、青い空も樹も海も魚も、感覚器官も、暑い寒いも甘い辛いも、楽しい悲しいも怒りも、思考も、愛も、実在も。です。そして「知れば固定観念になる」も。ありとあらゆることと、ありとありえないこと、森羅万象。それが、なぜ、そう、なのか?まったく知らないけど、そう、です。

はじめは、この世界を十全に生きるなら、それが未知ということだ。で、説明できると思っていました。また意識には、知る、という機能はなく、ただ、知ると思うことができるだけ。と感じていました。また。人は、知ってると思ってることに依存し、知らないことには、依存できない、と。でも、そういう説明も失って。未知でないことなど、ないのです。 たとえば世界が見える、そのこと、そのまま、それが未知です。 見る主体と、対象に分離してるとしても、それも未知です。

>中庸:今の私には自我のこの世界とアノ空間世界の真ん中が中庸。
>両方眺められて、どちらにも両方に居られる状態、それが今感じる中庸です。


そ、それは凄っ。自分は、たとえば、空(くう)とか、道(タオ)とか、なんにも感じてない、ただの日常です。冬の空気。木漏れ日。呼吸。なにかを始めるとしたら、そこからしか、やりようがありません。この世界しかないとも、ほかの世界があるとも、ないでもないとも、関知してもない。そこ。 または。あらゆる意味を孕んでいるので、なにか特定の意味だけが現象するわけではないから、まったく無意味、未意味な、そこ。で、たとえば思考の生起の様子を探ります。

><迷いがあれば、いつかは解放は、必然,でしょうか。>
>そのいつかが気になります。


もしかして、解放されたら、必然、なのかもしれません。ところで、なにも世界に依存しないといっても、なぜ、空腹になったら、ご飯を食べるのだろう?なんて考えたりです。

No.1352 - 2009/02/06(Fri) 12:49:53

Re: / のり
ごめんなさい。
<それが今感じる中庸です。>
は、今、思う中庸の概念って感じです。
それを得ているわけでは全然ありません。
勝手に思っている定義みたなものです。

No.1353 - 2009/02/06(Fri) 13:40:06

Re: / ubik0101
まあ、自分も、この世界は、解きほぐれつつある実在かな、なんて勝手に思ったりします。
No.1354 - 2009/02/06(Fri) 15:19:04

Re: / hato

> Hatoさん、なんかいいですね!のどかな感じです。
> きっとそういう風に変わっているのでしょうね。
> 私も意識が破裂してから別の風に変わった人です
> (ずっと前からかもしれません)。


人の成長の過程で、それはふと、起きているかもしれません。
その変容。

> 私が居ないと何にでもなれる気がしました。
> 全ての苦の原因はたった一つの概念から来る気がしました。
> それを子供の時から教育すれば楽なのにな!と思いました。
> でも、社会がひっくり返るから内緒なのかな?
> やはり導かれる人生を淡々と生きる。


のりさんは、とても精神性が美しい人なのだと思います。

成長の過程。
ただそのように、なっているようだ、としか、いえません。道すじ、ともいえるかと思います。
その意味で、自分の変化より以前に知識として知らないほうがよいこと、があるのだと思います。

その、なんともいえないところ。
そこ、とか、ここ、といえないことを了解されているところ。
それは、ある、ない、を含みつつ、ともいえずも明らかにそれらを超えており、
言葉で表現することに倦怠、躊躇をおぼえます。
けれども、言葉は方法であることを了解しています。

好雪方々別處に落ちず

そこ、からは、
機能はただ機能として見られており、
生に振り回されても振り回されず、
機能がはたらくことによって、あたかも生起するかの自我は、あろうがなかろうが、
とくに問題にならないかも知れません。

ただここでは、すでにその変化を過ぎていたとしても、
その状態への理解が徹底されている、ことが不可欠であると思います。
そのとき、機能から起きる様相の仕組みを、生きながら学ぶことができるといえます。

生きること。生。

それは人それぞれの経緯によって表現されることであり、
他でもない自分の道のり、その果実。それが大切だと思います。

そして尚、
いつでもどこでも、すべてはただ、起きていると思います。


>  有様:全ては自分の中の再生画?
> なんて思った時期がありました。



世界の仕組みに生きて、人とはなにか。を知る、ということが重要なのだと、思います。
こうして、さまざま学ぶことができます。

ありがとうございます。

No.1356 - 2009/02/07(Sat) 15:58:37

Re: / のり
> 人の成長の過程で、それはふと、起きているかもしれません。> その変容。

そお。ある時、突然、“あれ?何やってるんだろ、俺?
一人で興奮して。。。”です。
>
> のりさんは、とても精神性が美しい人なのだと思います。

ひえ〜、勘弁して下さい。
hatoさんの風流の風で粉々に溶けてしまいそうです。
私は単純、直球一本です。
>
> 成長の過程。
> ただそのように、なっているようだ、としか、いえません。道すじ、ともいえるかと思います。
> その意味で、自分の変化より以前に知識として知らないほうがよいこと、があるのだと思います。

なるほど、でも、もっと単純に解り合えたらいいのに!
>
> その、なんともいえないところ。
> そこ、とか、ここ、といえないことを了解されているところ。> それは、ある、ない、を含みつつ、ともいえずも明らかにそれらを超えており、> 言葉で表現することに倦怠、躊躇をおぼえます。

どうして?倦怠、躊躇?ウビさんなら表現できるんじゃないでしょうか?ウビさんしかできないんじゃないでしょうか?
私が居ないと他人も居ない、部分もないから全体でも表現できない。
明らかにそれらを超えたところのモノ。

>> 機能がはたらくことによって、あたかも生起するかの自我は、あろうがなかろうが、> とくに問題にならないかも知れません。
そう、問題はない。でも他人の問題、世間の問題があるかもしれません。

知るとは、知る主体と対象に分離している事?それも未知?
分離不可能、知る事は不可能?

No.1373 - 2009/02/10(Tue) 09:03:48

Re: / hato

> ひえ〜、勘弁して下さい。
> hatoさんの風流の風で粉々に溶けてしまいそうです。
> 私は単純、直球一本です。


のりさん、こんばんは。

風流てー。あんまり言われたことないから、こちらこそ、こっぱずかしです。
けっこうまだ若いんです。(どなたか笑っちゃ、いけません)
直球一本、かっこいいです。

> なるほど、でも、もっと単純に解り合えたらいいのに!


それは、のりさんの原動力、ではないでしょうか?


> どうして?倦怠、躊躇?ウビさんなら表現できるんじゃないでしょうか?ウビさんしかできないんじゃないでしょうか?
> 私が居ないと他人も居ない、部分もないから全体でも表現できない。
> 明らかにそれらを超えたところのモノ。



のりさんにとって、すでにそのように表現されているわけですから、まったくよいのではないでしょうか。
そこを皆、生きています。
それは、ただ当たり前のこと、なのだと思います。


> そう、問題はない。でも他人の問題、世間の問題があるかもしれません。


皆それぞれ不思議の真っ只中です。
と彼にして恋人にして夫にしてダーリンのubik0101さんが言っているみたいです。
そして尚、世界が問題と感じるなら、
のりさんにとってそれは原動力、なのかな、と思います。

ご存じの通り、
もしその、なんでもないそこ、にとどまるなら、
それが世間、世界にできる最良(という言い方があるとして)の最たるところです。

一方で、人が成長過程での変容を経て、理解を経て始めて語れる言葉があると思います。
言葉は方法です。
その人の表現で、充分によいと思います。
同じことを、人の数だけ違うように表現できることは不思議です。
それはときには、浅い了解、理解、未熟な表現から始まるかも知れません。自分にとってもトレーニングです。
けれど、言葉にする人がいて、それを聞く人がいます。
そんなふうに、思います。

> 知るとは、知る主体と対象に分離している事?それも未知?
> 分離不可能、知る事は不可能?


見ていることはそのまま、知ることでもあります。
そして、その事態のすべてが未知です。

No.1376 - 2009/02/11(Wed) 00:11:09
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