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自我=自意識かな / ばん
自我って、自意識と同じですか。
なんか自意識で考えるとピンときました。
あの体験で自己は空っぽと感じた。
空っぽで何とも言い表す事できないものなのに、自意識があるような気がする。それは、架空の自分をつくりだしていてそれを元に自意識をつくりだしている。だから、自意識=自我は虚構ですか?

No.1344 - 2009/02/05(Thu) 09:02:22

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
ばんさんの、あの体験こそ、たとえば自我を研究するにあたって、ばんさんが参照できる無比の基準です。

>あの体験で自己は空っぽと感じた。

その、からっぽの自分を、自分が、空っぽであると思いもしないで。あまりに当たり前に、ある、ことを前提にしていることにさえ気がつかないでも、それは自我だった。その見られた仕組み、それが自我は虚構、という表現です。

>空っぽで何とも言い表す事できないものなのに、自意識があるような気がする。それは、架空の自分をつくりだしていてそれを元に自意識をつくりだしている。だから、自意識=自我は虚構ですか?

んーと。自意識と言う言葉の意味がわかりませんが・・・

たとえば。ほかの人が、自分を自意識過剰と思ってると思ってる、まさに自分は、そんな自意識過剰。なんにしても、ほかの人という事実に重ねたその他人がする思考を空想して、その思考から自分の有り様を見たり考えたりして、それに依存、倒錯させられるなら、自我が機能してることを現してるのでしょう。

そうでなく。ふつうの自分の日常の意識のことでしょうか。 あるいは、ほかの人ではない、自分、という意味でしょうか。それなら、とくに自我とは思いません。たとえ自我だと思うとしても、この不思議の世界の機能ではないでしょうか。

たとえば空っぽ体験した人も、その経緯が違って当たり前です。それを、どう活用するかも、しないかも、その人に任されてあります。また空っぽ体験、しなかった人と、違って当たり前です。

No.1349 - 2009/02/05(Thu) 17:57:41

Re: 自我=自意識かな / ばん
人と話す時、
1(恥ずかしさを感じる自分)
2(その恥ずかしがっているのを恥ずかしがっちゃだめだと否定している自分)
3(話に夢中で自分がいる感覚がない自分)

1,2,3と自分が感じられるのですが、1のありのままに恥ずかしい認めているのが本当の自分でしょうか、それとも3の様に全く自分を感じられないのが、本当の自分でしょうか?
それとも全然、見当違いのことか、なんだかよくわからなくて、なにを手探りにしていいのかわかりません、

No.1355 - 2009/02/07(Sat) 15:49:50

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
うーんと。「自我」と、「ほんとうの自分」それを、おなじ場(フィールド)で、扱ってる。たとえにもならないのですが、海を泳ぐ魚と、空を飛ぶ鳥よりも違うことを、地上で扱ってる。そこに問題がありそうです。

なんと表現するとしても、「自我」と「ほんとうの自分」、そこには飛躍、断絶があります。そのことを日常の意識は理解が困難です。そこで、それを、自分の意識に教える必要があります。それが、学ぶことです。たとえば空っぽ体験は、学ぶことの終わりではなく、始まりです。

それが進んで、たとえば自我や無我は。迷いや悟りは。どーでもいい。区別の必要はない。感情や思考は、ただ現れては消えるだけ。になるのですが、そこを、飛ばして結論を求めてるのかもしれません。

また。ばんさんが・・・ほかの人に聞くのではなく・・・素直に真摯に、つまり正確に・・・こうだ、と了解する、それが絶対なのですが・・・ubik0101なら、こうするかもしれない、という話をします。

まず「ほんとうの自分」は、「空っぽで何とも言い表す事できないもの」なら、それから始めたら、どうでしょう。それって、なんであれ、あれやこれや、として判断・定義・自覚できるなら変ではないでしょうか。

また。1,2,3この、どれもが、ほんとうの自分ではありません。として考えてみます。1,2,3どれもが、ほんとうの自分です。として考えてみます。 さらに喜びは、悲しさは、1,2,3・・・という思考は、どうなんでしょう。

そして。たとえば、恥ずかしさは、喜びは、悲しさは、1,2,3・・・の思考は、自分ならではの、感情、思考なのでしょうか。それとも誰の、というわけでもない、世界の機能なんでしょうか。

また。自我は、自分ならではの機能なんでしょうか。それとも誰の、というわけでもない、世界の機能なんでしょうか。

No.1357 - 2009/02/07(Sat) 23:04:57

一人ごと・・・ / peer
「人と話す時」に限定しているときは
人と自分を比べているように思います。
しかし〜「恥ずかしい」という感情は。
本来、自分の命に値するだけの人生を
自分が生きているかどうか・・・
折角ある命を完全燃焼できているか?

と自問自答して「恥ずかしい」かどうか。
なのではないか、と思うのですが・・・。

No.1358 - 2009/02/07(Sat) 23:52:01

Re: 自我=自意識かな / ばん
本当の自分て、もしかして、無理やり名前をつけると「意識」ですか

あの体験の事をよく思い出してみたのですが、視線恐怖症(人から監視されている感覚)でそれを紛らわす為に本に集中していた、たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのことが頭に残っていて本を読み終わって大爆発して空っぽを感じた。
そのとき視線(感覚)と人に見られているという(思考)に「意識」が自己同一化していたのが瞬間はずれたので空っぽに感じたのかなと思いました。

もしそうだとしたら
でも普段の生活で本当の自分あり続けることなど出来るだろうかという疑問が・・・あと寝てる時、やっぱり違いますか?

No.1377 - 2009/02/11(Wed) 13:56:22

Re: 自我=自意識かな / ubik0101
>本当の自分て、もしかして、無理やり名前をつけると「意識」ですか

ネットで見つけたりしても、飛ばし読みしかしてませんが、意識とか、純粋意識とか、宇宙意識とか、神とか、名前をつける人は、いると思います。また、自分とは世界だ、とか。心とは日月星辰だ。と言う人もいはします。 それで、納得できるなら、それでいいと思います。でも、自分としては、

まず、自己とか、心とかを、なにかとして、言葉としてでも認めて、それを、ほかのことで説明するのなら、それを好みません。て、いうか、関心がありません。て、いうか、奇妙だと思います。というのも、意識とは、純粋意識とは、宇宙意識とは、神とは、世界とは、日月星辰とかは、なんだ?と質問して、それに同義語反復でなく、答えられるのでしょうか。また、なぜ、

そういうことが、そうなってるか、答えられるのでしょうか。そんな意味では、どんな思考も判断も誤りではないでしょうか。それは大切なことではないでしょうか。「ほんとうの自分」 は「ほんとうの自分」ではないでしょうか。そういえば数日前、エーテル体、を検索してて、無相の自己、という表現を見つけました。それは、ともかく、それが、

>たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのことが頭に残っていて本を読み終わって大爆発して空っぽを感じた。
>そのとき視線(感覚)と人に見られているという(思考)に「意識」が自己同一化していたの>が瞬間はずれたので空っぽに感じたのかなと思いました。


という、ばんさんの体験ではないでしょうか。それは自己同一化が外れたのかもしれません。また、「たまたま読んでいたその本の中に思考は自分ではないて書いてあってそのこと」に、同一化したのかもしれません。人が自己同一を問題にするのは、なにかに同一化したくて、また、したくなくて・・・そんな、どっちつかずの運動に巻き込まれてる。そんなことが、問題。ということもあります。そしてそのことが、どうであるかは関係なく、それは、ばんさんに起きたのです。ところで、

>でも普段の生活で本当の自分あり続けることなど出来るだろうかという疑問が・・・あと寝てる時、やっぱり違いますか?

これは、普段の生活の自分と、ほんとうの自分を、区別している。その有り様に問題があります。ただ、その区別が問題にならなくなる。そのためには。この日常を、いつも素直に真摯に、つまり正確に、学ぶことが必要です。この日常が、とても大切なんです。それこそ神秘、真理でもあります。また。あの体験を人為的に起こすことは、無理と思います。わりと自分は、寝てるとき、思考してることがあります。

そういえば、羞恥心。それを自分は、弱さの表現、と認識したことがあるのを思い出しました。

No.1378 - 2009/02/11(Wed) 23:15:06
(No Subject) / ubik0101
のりさん。

>ガハハハハ。ウビさんは、人の話し、なんも聞いてないでカラオケ行ってるし!
>閲覧者さんにも会われたのですね。
>私の場合はカラオケはどんちゃん騒ぎになります。


のりさんって、のりのりの、のりさん?って。思ってしまいました。たぶん、きっと大受けするんでしょうが、自分は驚くほどの音痴です。図書館閲覧者さんは、長崎で3回ほど。いろいろ学ばせてもらっています。

>> そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

>なるほど、
>感覚は自分の存在をかけて対象を求めて求めて求め続ける。
>そして対象が得られると安心し、依存し始める。それは喜びでも怒りでも悲しみでもなんでも良い。感じられる対象があれば良い。


そうです。たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。対象(微妙な言い方)は、なんでもいい、です。そんな自我の機能は、取り替え可能な・・・サッカーでも登山でも水泳でも身体を鍛えられるように・・・人を鍛えるための負荷なだけだからです。そうだからこそ、人はそれから解放され得ます。

そうではなく、 なにか特定の、それしかない、ならば、それから解放されることはないと思われます。また。特定の、それしかない、ならば。そうでないことは、自我ではない・・・たとえば知覚されてる、悩んでる、苦痛を感じる、嫉妬は自我で、そこで知覚されてない、たとえば偽善は、傲慢は、卑下は、散歩は、美しい自然は、あるとあらゆることは、自我ではないということですが、そうではありません。それなら、自我とその解放は選択の問題です。けど。そうではありません。 自我が機能してると思いもしないでも、自我なら、自我です。

ここで。自我にしても、なんにしても、ない、ことを了解するには。すくなくても世界の総てを経験しなければ、ない、ことを見ることは不可能、と考えられます。でも。そんなことをしたら、変化を続ける世界の続く限り迷うことになります。実際は、その人の問題を、なりふりかまわない血と汗と涙の探求をすること、だけです。なにか対象ではなく、なにかを対象にしてる、その人の・・・なにかに依存してる、執着してる、倒錯してる、未熟な・・・有り様が、問題だからです。

続きます。

No.1345 - 2009/02/05(Thu) 12:34:34

Re: / ubik0101
また、世界中を探しても、特定の、なにかとしての、探してる自己は、見つかりません。もし見つかったら、なにか特定のことが自己で、ほかのことは自己ではない、ということになります。そうではありません。また、自分が自分を対象にする、ということになりますが、そうではありません。それでも、それを、そうだと思いこむ、そのことさえ、その人の成長の経緯になり得ます。その経緯にならない世界の有り様など、あり得ないのです。迷いがあれば、解放は、必然です。

そして自我が、ない、を見たら、世界中を探し回ったことと、等価です。それに自我が、ない、その了解は、単なる、執着しない、依存しない、倒錯しない、たとえばスムーズな人間関係を実現するためだけにあるのではありません。どんなことでもない自己。これを、誰にも経験して欲しい、それで、ない、自我を、なくせ、という無理を承知の提唱が行われてきたのだと思います。

そして、どんな経緯でも、自我が、ない、と了解されるなら、たとえば、数学の方程式のような科学的なことでも、車の運転などの実用的なことでも、感覚でも、感情でも、思考でも、人間関係でも。それは自我ではない、です。知らない、未知、です。実際にそうなのですが、心理的思考、過去などの、既知と言われることも、未知、です。

そして、 そうならば、自我の機能は、とくに問題になるというのでもありません。それは、言い方によっては、世界や自分と分離してでも、なにか問題をクローズアップして集中して、その解決にあたる、ということです。たとえば、いわゆる心理的思考とは、ここにないことさえ、あるとして、あれこれ空想の翼を広げて、シュミレーションして、負荷を高める運動です。それに使われるのではなく、それを使う、という言い方もできはします。

続きます。

No.1346 - 2009/02/05(Thu) 12:46:41

Re: / ubik0101
>次に、対象がある事が主体を求める、これが何度も繰り返されると自我とか心があると思われる。内側からは感覚、外側からは世間がこれを強化していく。
>(ウビさん的には感覚器官でしょうが展開が複雑になりますので感覚と書かせて頂きました)
><我、思う故に、自我在り。>でしょうか。


<思う故に、自我在り。>とは、自我が、ない、ことを了解したときに。自我があるなら、そう機能すると、了解されることです。

>自我、心で見れば御覧の通り世間はメチャクチャ、何でもありです。
>それを空(くう)から見れば、全て自然、道(タオ)の流れ、という事でしょうか。


うーん。空とか道とか、を思うことなくても。くり返しますが、迷うなら、解放は必然です。そしてそれは、たとえば世間とかの、特定のことからの解放だけではない、です。

No.1347 - 2009/02/05(Thu) 13:27:44

Re: / のり
<迷いがあれば、いつかは解放は、必然,でしょうか。>
そのいつかが気になります。
何千年も待ちたくなくてできるだけ早く解放されたいでしょう。
この時、その自我が推進力です。自我の中では時間があります。
中庸:今の私には自我のこの世界とアノ空間世界の真ん中が中庸。
両方眺められて、どちらにも両方に居られる状態、それが今感じる中庸です。

最近思う事
もの心がついてから、ずっとず〜っと何かに抵抗してきた気がします。
もう抵抗しなくていいんだよ、安らぎの中に居ていいんだよ、と言われている感じがします。はい、解放と言われますと解放かもしれません。

<既知と言われることも、未知>
これが難解です。知る事が定義できず、未知。知れば固定観念になる。
部分は全体を凌駕できない。 難解です。

No.1348 - 2009/02/05(Thu) 17:52:36

Re: / hato

> 好雪片々別處に落ちず

とても、美しいと思います。
それをただ、思い出していたのです。

> とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。

それは、ちょっとほっと、するかな、の感じです。

> 気づいてもらうまで、内緒なのでしょうか。
> そういえば、お口(くち)が×なのでウサ子ちゃんは内緒のシンボルのようです。


禅、てよく知らないのです。
世間のこと、そんなに知りません。

たぶん、とくに隠されていることはないと思います。
いつも人は、自分の状態、その有り様が、ただ問題なのだと思います。

No.1350 - 2009/02/05(Thu) 20:03:14

Re: / のり
> > 好雪片々別處に落ちず
> とても、美しいと思います。
> それをただ、思い出していたのです。>
> > とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。
>
> それは、ちょっとほっと、するかな、の感じです。
> 禅、てよく知らないのです。
> 世間のこと、そんなに知りません。


Hatoさん、なんかいいですね!のどかな感じです。
きっとそういう風に変わっているのでしょうね。
私も意識が破裂してから別の風に変わった人です
(ずっと前からかもしれません)。
私が居ないと何にでもなれる気がしました。

全ての苦の原因はたった一つの概念から来る気がしました。
それを子供の時から教育すれば楽なのにな!と思いました。
でも、社会がひっくり返るから内緒なのかな?
やはり導かれる人生を淡々と生きる。
 有様:目に見えるモノ、感覚で感じるモノ、例えば電話ボックス。
見えているけど、その反射光を受け、頭が勝手に距離計算をし、そこにある、と感じさせている。実は全ての風景も同じ、頭の中で勝手に距離計算をし再生しているだけ?全ては自分の中の再生画?
なんて思った時期がありました。

No.1351 - 2009/02/06(Fri) 10:40:58

Re: / ubik0101
><既知と言われることも、未知>
>これが難解です。知る事が定義できず、未知。知れば固定観念になる。
>部分は全体を凌駕できない。 難解です。


なんてことはないです。これは、こうでなくてもいいいのに、こうだ。ということが、不思議、の定義です。これ、とは、青い空も樹も海も魚も、感覚器官も、暑い寒いも甘い辛いも、楽しい悲しいも怒りも、思考も、愛も、実在も。です。そして「知れば固定観念になる」も。ありとあらゆることと、ありとありえないこと、森羅万象。それが、なぜ、そう、なのか?まったく知らないけど、そう、です。

はじめは、この世界を十全に生きるなら、それが未知ということだ。で、説明できると思っていました。また意識には、知る、という機能はなく、ただ、知ると思うことができるだけ。と感じていました。また。人は、知ってると思ってることに依存し、知らないことには、依存できない、と。でも、そういう説明も失って。未知でないことなど、ないのです。 たとえば世界が見える、そのこと、そのまま、それが未知です。 見る主体と、対象に分離してるとしても、それも未知です。

>中庸:今の私には自我のこの世界とアノ空間世界の真ん中が中庸。
>両方眺められて、どちらにも両方に居られる状態、それが今感じる中庸です。


そ、それは凄っ。自分は、たとえば、空(くう)とか、道(タオ)とか、なんにも感じてない、ただの日常です。冬の空気。木漏れ日。呼吸。なにかを始めるとしたら、そこからしか、やりようがありません。この世界しかないとも、ほかの世界があるとも、ないでもないとも、関知してもない。そこ。 または。あらゆる意味を孕んでいるので、なにか特定の意味だけが現象するわけではないから、まったく無意味、未意味な、そこ。で、たとえば思考の生起の様子を探ります。

><迷いがあれば、いつかは解放は、必然,でしょうか。>
>そのいつかが気になります。


もしかして、解放されたら、必然、なのかもしれません。ところで、なにも世界に依存しないといっても、なぜ、空腹になったら、ご飯を食べるのだろう?なんて考えたりです。

No.1352 - 2009/02/06(Fri) 12:49:53

Re: / のり
ごめんなさい。
<それが今感じる中庸です。>
は、今、思う中庸の概念って感じです。
それを得ているわけでは全然ありません。
勝手に思っている定義みたなものです。

No.1353 - 2009/02/06(Fri) 13:40:06

Re: / ubik0101
まあ、自分も、この世界は、解きほぐれつつある実在かな、なんて勝手に思ったりします。
No.1354 - 2009/02/06(Fri) 15:19:04

Re: / hato

> Hatoさん、なんかいいですね!のどかな感じです。
> きっとそういう風に変わっているのでしょうね。
> 私も意識が破裂してから別の風に変わった人です
> (ずっと前からかもしれません)。


人の成長の過程で、それはふと、起きているかもしれません。
その変容。

> 私が居ないと何にでもなれる気がしました。
> 全ての苦の原因はたった一つの概念から来る気がしました。
> それを子供の時から教育すれば楽なのにな!と思いました。
> でも、社会がひっくり返るから内緒なのかな?
> やはり導かれる人生を淡々と生きる。


のりさんは、とても精神性が美しい人なのだと思います。

成長の過程。
ただそのように、なっているようだ、としか、いえません。道すじ、ともいえるかと思います。
その意味で、自分の変化より以前に知識として知らないほうがよいこと、があるのだと思います。

その、なんともいえないところ。
そこ、とか、ここ、といえないことを了解されているところ。
それは、ある、ない、を含みつつ、ともいえずも明らかにそれらを超えており、
言葉で表現することに倦怠、躊躇をおぼえます。
けれども、言葉は方法であることを了解しています。

好雪方々別處に落ちず

そこ、からは、
機能はただ機能として見られており、
生に振り回されても振り回されず、
機能がはたらくことによって、あたかも生起するかの自我は、あろうがなかろうが、
とくに問題にならないかも知れません。

ただここでは、すでにその変化を過ぎていたとしても、
その状態への理解が徹底されている、ことが不可欠であると思います。
そのとき、機能から起きる様相の仕組みを、生きながら学ぶことができるといえます。

生きること。生。

それは人それぞれの経緯によって表現されることであり、
他でもない自分の道のり、その果実。それが大切だと思います。

そして尚、
いつでもどこでも、すべてはただ、起きていると思います。


>  有様:全ては自分の中の再生画?
> なんて思った時期がありました。



世界の仕組みに生きて、人とはなにか。を知る、ということが重要なのだと、思います。
こうして、さまざま学ぶことができます。

ありがとうございます。

No.1356 - 2009/02/07(Sat) 15:58:37

Re: / のり
> 人の成長の過程で、それはふと、起きているかもしれません。> その変容。

そお。ある時、突然、“あれ?何やってるんだろ、俺?
一人で興奮して。。。”です。
>
> のりさんは、とても精神性が美しい人なのだと思います。

ひえ〜、勘弁して下さい。
hatoさんの風流の風で粉々に溶けてしまいそうです。
私は単純、直球一本です。
>
> 成長の過程。
> ただそのように、なっているようだ、としか、いえません。道すじ、ともいえるかと思います。
> その意味で、自分の変化より以前に知識として知らないほうがよいこと、があるのだと思います。

なるほど、でも、もっと単純に解り合えたらいいのに!
>
> その、なんともいえないところ。
> そこ、とか、ここ、といえないことを了解されているところ。> それは、ある、ない、を含みつつ、ともいえずも明らかにそれらを超えており、> 言葉で表現することに倦怠、躊躇をおぼえます。

どうして?倦怠、躊躇?ウビさんなら表現できるんじゃないでしょうか?ウビさんしかできないんじゃないでしょうか?
私が居ないと他人も居ない、部分もないから全体でも表現できない。
明らかにそれらを超えたところのモノ。

>> 機能がはたらくことによって、あたかも生起するかの自我は、あろうがなかろうが、> とくに問題にならないかも知れません。
そう、問題はない。でも他人の問題、世間の問題があるかもしれません。

知るとは、知る主体と対象に分離している事?それも未知?
分離不可能、知る事は不可能?

No.1373 - 2009/02/10(Tue) 09:03:48

Re: / hato

> ひえ〜、勘弁して下さい。
> hatoさんの風流の風で粉々に溶けてしまいそうです。
> 私は単純、直球一本です。


のりさん、こんばんは。

風流てー。あんまり言われたことないから、こちらこそ、こっぱずかしです。
けっこうまだ若いんです。(どなたか笑っちゃ、いけません)
直球一本、かっこいいです。

> なるほど、でも、もっと単純に解り合えたらいいのに!


それは、のりさんの原動力、ではないでしょうか?


> どうして?倦怠、躊躇?ウビさんなら表現できるんじゃないでしょうか?ウビさんしかできないんじゃないでしょうか?
> 私が居ないと他人も居ない、部分もないから全体でも表現できない。
> 明らかにそれらを超えたところのモノ。



のりさんにとって、すでにそのように表現されているわけですから、まったくよいのではないでしょうか。
そこを皆、生きています。
それは、ただ当たり前のこと、なのだと思います。


> そう、問題はない。でも他人の問題、世間の問題があるかもしれません。


皆それぞれ不思議の真っ只中です。
と彼にして恋人にして夫にしてダーリンのubik0101さんが言っているみたいです。
そして尚、世界が問題と感じるなら、
のりさんにとってそれは原動力、なのかな、と思います。

ご存じの通り、
もしその、なんでもないそこ、にとどまるなら、
それが世間、世界にできる最良(という言い方があるとして)の最たるところです。

一方で、人が成長過程での変容を経て、理解を経て始めて語れる言葉があると思います。
言葉は方法です。
その人の表現で、充分によいと思います。
同じことを、人の数だけ違うように表現できることは不思議です。
それはときには、浅い了解、理解、未熟な表現から始まるかも知れません。自分にとってもトレーニングです。
けれど、言葉にする人がいて、それを聞く人がいます。
そんなふうに、思います。

> 知るとは、知る主体と対象に分離している事?それも未知?
> 分離不可能、知る事は不可能?


見ていることはそのまま、知ることでもあります。
そして、その事態のすべてが未知です。

No.1376 - 2009/02/11(Wed) 00:11:09
自己 / ルー
昨日、ふと、いつも思っている「自分」とは違う、もう一周り大きな感じの「自分」を感じました。
その大きい方の自分が、いつもの自分を見ている、という感じでした。
いつもの自分というのは、「この世で動かされている自分」という感じで、それを見ている自分というのは、もっと神様と一体化しているような自分という感じです。
それを、うびさんが「自己」と呼んでいるものかな、と思ったのですが。

No.1359 - 2009/02/08(Sun) 09:01:00

Re: 自己 / ubik0101
うーん。自己って、自覚できないんです。たとえば歩いても座っても、暑さ寒さを感じても、悲しんでも怒っても。思考しても。どんなことをしてもしなくても。そうしてる自己・・・行為してる行為者・・・を自覚できない、ということで安定ではない安定(変な言い方)しています。それが、世界の機能、です。

けど。その人が未熟で、どんなことをしてもしなくても自覚できない自己でないなら、自己を自覚したくて。なにかに拘る、依存する、倒錯する、ことによって。そこには歪み、無理があるので・・・そうしてる、行為してる行為者・・・仮の中心、自我が、自己の代わりに仮定、設定されます。それは自覚され得ます。それを自覚しない、という自我もあり得ます。その意味で、自我は、徹底的に自己の代用をします。それも、世界の機能、です。

それでも、自己を自覚してしまう体験が起こります。それは自我の、ない、ことを了解した、「自己」が、実在(神)から見られるのです。愛、歓喜です。ありとあらゆる感覚や感情や思考の活動状態で、概念ではなく事実として中道なんですが、その体験は、極端な偏りとも言えます。それでも、それは人によって違うと思います。また、その解釈は、その人の経緯に左右されます。

で、ルーさんの感じたことは、一致してるところもあるように思います。また、なにかの投影かもしれません。しかし、それは、なんでもいい。できることはそうしかないと言えばそうなんですが、それを素直に真摯に、つまり正確に理解する。ということだと思います。

No.1360 - 2009/02/08(Sun) 13:19:53

Re: 自己 / ルー
そうなんですか。
私は、特に、どうでもいいのですが。
自分と自分を見る自分が、はっきりと分離しているのを感じたのは初めてだったので、これを自己と呼んでいるのかな?と思ったのですが。
べつに何でもかまいません。
ふと、その時に、うびさんが自己と呼んでいるのを思い出したのです。
そして、その後に、やっぱり、うびさんが自己と呼んでいるものは、もっと自分色のないものではないか、と思って、自分で否定しました。
けれど、やっぱり、自己も自分色があるのではないかと思い直しました。
私が真摯であり素直であるのは、いつものことです。

No.1361 - 2009/02/08(Sun) 14:09:55

Re: 自己 / ubik0101
まあ、あれですよ。思いつくだけですが、エーテル体とか、アストラル体とか、そいうことかな、なんて。peerさんが詳しい感じが、ふと、しました。しました(残響)。
No.1362 - 2009/02/08(Sun) 18:09:32

Re: 自己 / ルー
うへー、そうなんですか。
思いもよりませんでした。

No.1363 - 2009/02/08(Sun) 21:35:49

Re: 自己 / ルー
自分と自分を見る自分がはっきりと分離しているのを感じたと言っても、幽体離脱とは違います。
意識の中でのことです。
体は関係ありません。
大きい方と感じた自分は、あまり「自分」という意識は薄い感じでした。
見られている方の自分は、いつもこの世で生きていろいろと考えをめぐらせている自分という感じでした。
これは。
この大きい方の自分は、自分じゃない、のかも知れません。
しかし、私の意識の中で起きたこと。

No.1364 - 2009/02/09(Mon) 08:50:31

Re: 自己 / ルー
あー、でも、エーテル体とかいうものなのかも知れないなー、とも思います。

うびさんの言う「自己」というものは、もっと違う感じのものですか?

No.1365 - 2009/02/09(Mon) 08:53:12

Re: 自己 / ルー
あ、もう上に説明してありますね。
No.1366 - 2009/02/09(Mon) 09:00:00

Re: 自己 / ルー
そのエーテル体のようなものにも自分色はあるのか?というのが知りたいところです。
うびさんの言う「自己」というものは、「自我は、ない」というのは私は了解していますが、自分色はあるのですか?
人間全員に共通するものであり、自分色はないのか?
自分色がなく、物質としてのエーテルのようにただの物質であるのか、それとも、自分色の入ったそれぞれの人によって違う性質のものであるのか、というのが知りたいところです。

No.1367 - 2009/02/09(Mon) 09:05:11

Re: 自己 / ルー
自我のないことを了解した「自己」を神様に見られることが、愛であり歓喜なのですか。
神様は、自我のある私達のことも愛してくださっているでしょう。
自我にふりまわされる愚かな人間でさえ、神様は愛してくれていると思います。

No.1368 - 2009/02/09(Mon) 09:18:15

Re: 自己 / ルー
ひりくつはさておき。
うびさんは、自分が脱げた時に、愛、歓喜、神の実在を感じたと、そういうことですか。
そういう意味では、私が、この世であれこれと考えをめぐらせている自分が見えたという体験と似通っています。
私の場合、特に、愛とか歓喜とか神の実在を感じたのではなくて、俯瞰?というのですか、「自分というものの小ささ」というか、「この世における自分の輪郭」を感じました。
それは、私がどのようにあろうが、この世にとって大したことではない、という感覚です。
それを手に入れたのです。
うびさんとは、かなり違います。
それは、その体験をする前の状態(愛や自分についての思いなどに関する)が違うからだと思います。

No.1369 - 2009/02/09(Mon) 09:27:34

Re: 自己 / ubik0101
>うびさんの言う「自己」というものは、「自我は、ない」というのは私は了解していますが、自分色はあるのですか?
>人間全員に共通するものであり、自分色はないのか?


まあ、なんですよ。ただの実感ですけど。 とりあえず 人類に共通するのは、物質、感覚器官、感覚、感情、思考・・・つまり人の構成要素・・・世界・・・です。それは増えも減りもしません。また、小さい大きいで計れる、ことではありません。それは誰のこと、ものでもなく、自分色など皆無です。

そして、自己は、その範疇にありません。たとえば「ひとつ」の範囲にはありません。 けど。たとえば世界という「ひとつ」の泥沼から、赤い、白い、青い蓮華の花が咲きます。「ひとつ」のピアノから、モーツアルト、バッハ、モンクが咲きます。でも、それ自身にとっては自己は、とくに比べようがなく、当たり前ですが自分色はありません。

>それは、私がどのようにあろうが、この世にとって大したことではない、という感覚です。

うーんと。すべての人が、世界の有り様を作りかえ続けています。映像は、四十雀です。

No.1370 - 2009/02/09(Mon) 12:10:58

Re: 自己 / ルー
誰でも同じなら、自分が生きている意味がないじゃないか、と思うんです。
No.1371 - 2009/02/09(Mon) 18:15:43

Re: 自己 / ルー
私なんて死んでもいいじゃないか。
生きていなくてもいいじゃないか、と思うんです。

同じ、ならね。
自分色がない、ならね。

ですから、私は、自分色はあると思うんです。
生きて、自分色を発揮していくべきだと思うんです。

No.1372 - 2009/02/09(Mon) 18:18:41

Re: 自己 / ubik0101
なぜか、人には、性別とか、家族とか、年齢とか、国とか、言葉とか、違いがあるように生まれてると思います。それだけで、ほかの人と違うわけで。個性があるといえるのでしょうか。そうだとして、それは、世界には個性がなく、そのことは、総ての可能性が眠ってるから、そういうことが、あり得てるのではないでしょうか。 でなくては、

その人が、また、ほかの人と。なにか、おなじことを好きだったり、嫌いだったり、どっちでもあったり、どっちでもなかったり、無関心だったり、何でもあり得ることはできないのではないでしょうか。そこで人が、なにかをすることによって、たとえば誰かに朝「おはよう」と言うだけでも。また、「おはよう」と言わないだけでも、常に世界を作り変え続けています。 そのように、

たとえばマザーテレサのことは、マザーテレサに任されてるでしょう。ルーさんのことは、ルーさんに任されてるでしょう。ubik0101のことは、ubik0101に任されてるでしょう。なにか才能・適性があるとしても、なかなか思い通りにならないとしても、それで、どうするかも、それぞれに任されてるでしょう。 なにかが、絶対に決まってるわけではありません。 それは、個性とも呼べると思います。 でも、

そういう世界の枠組みというか・・・なんであれ人が、そうできるように世界ができてるから、そうできるだけ・・・これは自分にとっては絶対不自由でしたが・・・なら、個性も、そう。つまり個性などない、と思うことができます。そういうことが嫌だとしても、それも、そう、できるようにできてるから、できるだけです。それで、

まあ、ほかにもあるかもしれませんが、個性が、ある、ない、ということも、まんべんなく見れば、そこから学んでしまえば、問題にならないのではないかと思います。 また 、

それはそれとして。ある人が、とても個性的な人だとして、自分のことを、とても個性的な人だと、思ってもいいのですが、ことさら思う必要はありません。まさに、これ、まさに、これ、なのに。そう思ったら奇妙。という・・・これは知覚の問題ですが・・・自分が自分だと、思っても良いのですが、思う必要はないように、です。

ジャガイモ、マッシュルーム、茄子、人参、豚肉などの、マヨネーズ味噌重ね焼きと、真鱈のムニエル、野菜の塩茹で。彼女にして恋人にして妻にしてハニー。今日の、hatoさんの弁当です。

No.1374 - 2009/02/10(Tue) 11:18:39

Re: 自己 / ルー
自己にも、その人の持ち味があるのではないでしょうか。
ということでした。

弁当の写真を載せるのも、とても持ち味が出ていますね。

No.1375 - 2009/02/10(Tue) 16:25:51
ちょっと質問 / ばん
今日、あれこれ考えながら運転していたのですが、頭は運転とまったく関係無い事考えながらでも運転できてしまう。
前にうびさんが言っていた水を飲みに言って帰ってきてからどうして今、水を飲んだのだろうと重なって・・・

本当の自分って何も思考とか関係なく、直感的にものごとを決めて行動している主体の事なのかなと思いました、どうなんでしょうか?

自我は不安になる、怒る、喜ぶ、考える・・・いろんな事して自分が主体だよと架空の主体と同一化しようとしているのかなと思ったりしています。

でも、何も考えないで直感で決めたとしても、無意識層の中にある観念とかに左右されているよななんて思ったり・・・

何を聞きたいのかわからなくなってきました、えーと最近やっているのは何も考えないと言う事です、じゃない考えが浮かぶけどそれ執着しない、「執着しない」にも執着しない結局そのときそのときの直感で決めるというのをやってます、
皆さんはどのようにしてに選択を決定していますか?

No.1325 - 2009/01/27(Tue) 15:29:44

Re: ちょっと質問 / hato
> 皆さんはどのようにしてに選択を決定していますか?

ばんさん、こんばんは。
選択、のほうについて考えてみました。

なにかを選ぶとき、たとえばごく日常で、ミカンを選ぶ、と強調していうときには、ミカン以外の総てがある、を前提にしていると思います。
そのとき、自分が選ぶ、と思える状態にある、とも言えるかも知れません。
或いは、何かを選びたいのに選べないかのように見えるときには、何かに執着している状態を学ぶ、その運動性にある、とも言えるかも知れません。
一方でものごとは、ただそうである、ともいえると思います。そのときにはとくに、選択する、ということに注意が向いていないかも知れません。

どのようにして、て難しいですね、状況によりますけれど、
大雑把にいえば、たいていは雰囲気て感じです。(なんてことでしょう。)
考えても考えていなくてもいいかな、の感じです。

先日、ubik0101さん懐かしの横浜みなとみらいに行ってきました。
画像は左から、パシフィコ横浜、大観覧車、日本丸です。

No.1326 - 2009/01/27(Tue) 23:46:54

Re: ちょっと質問 / ばん
えーと自分で選択しているようにみえて、自分で選択していることはないよってことですか、人生は流れてるだけなのかなと最近思えてなんか罪悪感とか不安は減ったのだけど、無気力になってしまってます。

横浜みなとみらい、初めて知りました。
こういう、夜景にライトアップ系にとても弱いです。ワクワクしてきます。行ってみたいなー
ワクワクするってことは無気力ではないですね、支離滅裂です

No.1327 - 2009/01/28(Wed) 08:39:54

Re: ちょっと質問 / ubik0101
なにかを見ようとして眼は見てるわけではないけど、たとえば走る自動車は自動的に見えています。なにかを聞こうとして耳は聞いてるわけではないけれど、たとえば小鳥の声が勝手に聞こえています。

でなければ、まず世界は・・・自分に先立って・・・ある、と感じられることもないと思います。そして、なにかの思考も、走る自動車や小鳥の鳴き声と同じように。それを知覚(感覚)しようとしてなくても、知覚されてる。見えてる。という感じです。

そして、また。なにかを見ようと意図しても、なにかを聞こうと意図しても、なにかを思考しようと意図しても、そうできたりします。その双方向の衝突点に、照明としての意識があたっています。これで、知覚にとってはですが、対象が確かに、ある、それを意図して対象にしてる自分も、ある、のでなければ、あまりに奇妙。と感じられる構造になるようです。

と、いっても、ある。ということ、そのことは、どういうことなのか意識にとっては、うー、解らない。です。それで、なんとなく相対的に、ない、と対応させたりして、解ったつもりで、なにかが、ある、ない、と思考したりしてるのでしょう。

もともと、ある、ない、の定義がなければ、なにかが、たとえば時間が、空間が、世界が、自分が、ある、ない、と言っても、あんまり意味はないと思います。 そうでなく、ただ、ある、のは実在です。それは説明としてはですが、それ自身に原因があり、ほかとの関係を、とくに必要としないので、なにかに関係することで機能する意識にとっては、対象にできません。知覚できません。その実在を実感するのが、あの体験でもあります。

ところで。この世界のもの、ことは、なにかに関係しあって生起・消滅していると見ると、それ自身に原因がある実在ではありません。それで、世界は・・・現象界と呼ばれたりもしますが・・・意識の対象であり、知覚できることです。

そんな現象、もの、ことは、どんなことも、たとえば走る車、鳴く鳥、意識などは、ある、でも、ない、でも、どちらでもない、でも、どちらでもある、でも、どう言っても誤りです。それを、ある、に偏って見て、そのことで自分を自分で確認したいのが、自我の機能とも言えます。

そんな、ある、ない・・・どう言っても誤りの世界。そこで。ただ、自我は、ない、空っぽ、です。その了解が、自我の役目の完成です。それは、たとえば恨みや妬み、怒り悲しみ、葛藤のない生、知覚からの直接行動が、主な目的ではありません。それは副作用です。それだけなら、馬と鹿、動物です。あくまで、自己を知る。自己を得る。自己になる。それが自我の完成です。

そんな自己「ほんとうの自分」も、意識の対象ではありません。知覚できません。それを自覚したいなら空想になる。その意味では、実在と同様です。と、それでも、一応ですが、ある、ない・・・どう言っても誤りの世界の機構は、ある、に偏りたい、そういう自我の機能だけに偏らずに、機能しています。その有り様が、

>本当の自分って何も思考とか関係なく、直感的にものごとを決めて行動している主体の事なのかなと思いました、どうなんでしょうか?

と、感じられるのかな、と思いました。この世界に生きながら、そのまま世界を越えてる(変な言い方)不可逆。(とくに楽しく豊かな人生を実現しようという意味ではなく)泥沼に咲く蓮の花、(弟子が師を越えるという意味ではなく)藍は青より出でて青より青し、ではないでしょうか。

>えーと最近やっているのは何も考えないと言う事です、じゃない考えが浮かぶけどそれ執着しない、「執着しない」にも執着しない結局そのときそのときの直感で決めるというのをやってます、

もしかして、それは禅の言葉では、「非思量」に関係するかも知れません。検索してみました。言葉が難しすぎますが、

http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%C8%F3%BB%D7%CE%CC

No.1328 - 2009/01/28(Wed) 13:08:15

Re: ちょっと質問 / ubik0101
> 横浜みなとみらい、初めて知りました。
> こういう、夜景にライトアップ系にとても弱いです。ワクワクしてきます。行ってみたいなー


うん。仕事もあるでしょうが、ばんさんが神奈川あたりにでも来たときは、案内します。横浜みなとみらいは、昔、会社が終わった夕方、コンパクトロッドとルアーを持って、スズキ釣りに、週3回ほど電車で通った港です。

No.1329 - 2009/01/28(Wed) 19:56:37

Re: ちょっと質問 / hato

様々な状態を生きて生きて学んで、
そして尚、未知ながらの道を生きるのだと思います。
言葉にすることはなかなか考えさせられます。

未知から外れるとき、人は前提に捉えられ、
前提に捉えられたとき、人はその不思議を離れるのかも知れません。

> こういう、夜景にライトアップ系にとても弱いです。ワクワクしてきます。行ってみたいなー

行ってみたいなー、て
なんか嬉しくなります。

No.1330 - 2009/01/28(Wed) 23:44:16

Re: ちょっと質問 / のり
こんにちは。
自我の正体は世間なのでしょうか?
自我とか心とかマインドという泥沼から蓮の花を咲かせていくのでしょうか?
四向四果とかいう先人の言葉に出会いました。捉われる必要はないのでしょうけど、結構思い当たる部分があります。
ウビさんの自我の生起・消滅の経験。詳しくお聞きしたことがありませんが、私達にも分かるようにご説明願えないでしょうか。経験者はたくさんいるのでしょうけど、私達に簡単に分かるように説明できる人が居りません(イエス様もお釈迦様も)
一辺に3つも4つもごめんなさい。
何か、話しかけたい気がしました。

あの経験以来この“私”が消えて行ってます。

では、

No.1331 - 2009/01/30(Fri) 09:00:55

Re: ちょっと質問 / ubik0101
ばんさん。

>皆さんはどのようにしてに選択を決定していますか?

しばらく、このことについて思い当たることがないかと探っていたのですが。とくに選択は、問題になってないと思いました。たとえば、hatoさんと一緒になることも、長崎に住むか、神奈川に住むか、とくに問題にはなりませんでした。 それで、どうしてそうなのか、と探ってみました。

そうありたいという目標がある有り様だから・・・というわけで、それを肯定したり・否定したりするというわけではなく・・・常に素直で真摯な日常だから・・・そのことが意識されることもない・・・もちろん意識しても問題なしですが・・・のだと思います。

たとえば、ちょっと楽をしたいからという理由でゴミを、そのへんに捨てたりしない。その場にあわせて、思ってもないことを言ったりしない・・・常に自分の行動、発言、思考を、素直に真摯に見てる・・・それは、ほかのこととか自分とのズレ、ブレが生じないので、自分が自分と思う自分が生じないから、と思います。

No.1332 - 2009/01/30(Fri) 12:45:47

Re: ちょっと質問 / ubik0101

のりさん。

こんにちは。どうしてるかな。と、hatoさんも、よく、のりさんを話題にしています。

>自我の正体は世間なのでしょうか?

ない、が自我の正体です。虚構です。それが、ある、振りをしているだけです。その自我の機能を成立させるための機構が、世間、でもあり得てる。と思います。 たぶん、自我の内容は、なんでも構いません。ただの、取り替え可能な負荷なだけです。

>自我とか心とかマインドという泥沼から蓮の花を咲かせていくのでしょうか?

そうだと思います。もともと、ない、自我が、それだけの力を持っているのです。もともと、ない、自我を、なくせ、という禅とか世間の提唱は、とても面白いです。その、ない、が実現されるなら、総てが現前します。

>四向四果とかいう先人の言葉に出会いました。捉われる必要はないのでしょうけど、結構思い当たる部分があります。

それは、はじめて聞いた言葉です。四向四果。検索してみます。

>ウビさんの自我の生起・消滅の経験。詳しくお聞きしたことがありませんが、私達にも分かるようにご説明願えないでしょうか。

たぶん、ものごころがつくと言うことが、人生での自我の生起でしょうが、やはり無明が原因だと思います。自我の完成、または消滅は、なにかを誰かに言われたということでも、棒で打たれたということでも、瞑想したわけでもなく、ただそれは起こった、です。おなじことの繰り返しになると思いますが、出来事としては、ほかの掲示板に投稿したことがあります。ルーさんとの対話です。

・・・・・・・・・・・・・・

62.ubik0101 投稿日:2007/02/26 13:34

>>58

> 前に「歓喜」と仰っていたので、光が差し込んだ感じだったのでしょうか。

それが起きたとき、ふつうに歩いていました。いきなり、その変化の始まりを自覚しました。そして自分が変化しながら、その変化している過程を見ていました。それは意識が、無意識と連続する過程でした。その連続した意識、それが光輝に満ちています。

そして変化が完成したとき、完成したという自覚がありました。もう、すでに歓喜状態にありました。いわば自分の中が明るいのです。そしてなんて輝く世界の美しさでしょう。

でも、それに驚きませんでした。なぜって、総ての感情も燃えていたので、驚く、という一部の感情だけが働いていたわけではないからです。怒りも悲しみも楽しさも。そして同じように相反する思考、たとえば善悪、まあ葛藤が、総べて明るく燃えていました。濃霧の中で生活していたことを知りました。

そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

しかし、その虚構(からっぽ)を見ているのは、自我ではありません。それを自己、と呼ぶしかありませんでした。それまで否定の道を歩いて失ってきた総てが見えました。その自己は愛に満ちています。それは実在からの放射でした。それは人が感じる感じないには無関係に世界に溢れています。

そして自己は、自我の否定でも肯定でもなく、完成が無我です。欲望の否定でも肯定でもなく、完成が無欲です。無知の否定でもなく肯定でもなく、完成が智恵です。そんな状態にありました。無思考ではなく、全思考と言ったほうが正確です。

そんな状態で、そこで良い特質が与えられたのを知りました。それはたとえば偽善者だった人が、完成したら、対立関係のない、ただ善い人になる。逆に言えば、偽善は、善い人になるためにあります。そこでまた。依存関係を見ました。仏陀のいう縁起とは違っていました…あとでヨーガスートラに「勢いよく回転する独楽は、止まって見える」とあるのを見つけました。そうです。止まって見えるように工夫して止まってはなりません。倒れるだけです。とりあえずは、こんなところで。

・・・・・・・・・・・

No.1333 - 2009/01/30(Fri) 13:07:32

Re: ちょっと質問 / のり
うびさん、hatoさん、こんにちは。
 暫く思考と思考の間を追及してみます、と言いましたように研究してました。思考を止めますと、ドンドン自分の範疇が拡がって、輝きみたいなのも感じられ面白い変化が見られます。眼球を止めても、全て光になります。不思議です。

 ウビさん、ちゃんとお仕事してますか。世間は大変です。お仕事しなくちゃだめですよ。 
 ウビさんは阿羅漢かな?四向四果→
http://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta2.html
 “自我がない”は、ある、ないの定義によりますが、
人は世間から毎日毎日訓練を受け“ありそう”と洗脳されてます。
もの心のつく自我生起の時から、世間は人に意識のベールを降ろし
喜怒哀楽、善悪、損得、勝ち負け、好き嫌い、、全ての価値観を刷り込んでいる気がします。
 ウビさんは歩いていて体験されたのですね。ウビさんの脳漿を搾り出すような深い深い思考はどこか瞑想に似ている気がします。

 お仕事しないとダメですよ(夫婦喧嘩の種になったりして)!ごめんなさい。
閲覧者さん大悟されたのでしょうか。あやかりたいです。

No.1334 - 2009/01/30(Fri) 14:41:21

Re: ちょっと質問 / ubik0101
げっ。じ、実は、思考してないんです。ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。

のりさんは凄いって、言ってましたが、そう自分も思いますが・・・図書館閲覧者さんは、うん。そう、だと思います。いろんな体験をしても、その感じる自己も感じる必要もなかった、のだと思います。

そうですね。仕事。これからhatoさんと、道の仲間と、待ち合わせして、カラオケです。

No.1335 - 2009/01/30(Fri) 16:37:12

Re: ちょっと質問 / ばん
>
> げっ。じ、実は、思考してないんです。ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。
>
>常に自分の行動、発言、思考を、素直に真摯に見てる・・


とありますが、これって行動、発言、思考を「している」でなくて「見ている」「見ている」って重要ですか、

行動、発言、思考は自分がしているのでないってことですか

行動、発言、思考は起きていることでそれをしている主体がなくてはと言う事で架空の主体である自我があると思い込むと言う事ですか

No.1336 - 2009/01/31(Sat) 12:58:25

Re: ちょっと質問 / ubik0101
>とありますが、これって行動、発言、思考を「している」でなくて「見ている」「見ている」って重要ですか、

と、いうわけではありません。自分の行動が、そのまま自分に感じられます。発言が、そのまま自分に聞こえます。思考が、そのまま自分に知覚されます。・・・それは神秘ですが・・・「している」ことは「見ている」ことです。そんな人は、常に素直で真摯です。

「ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。」、ということは、たとえば箱根に行ったら、なんとか湖の海賊船(映像)が知覚されます。そのように、思考するのではなく、そうなのを、そうだと見てる、という意味です。

>行動、発言、思考は自分がしているのでないってことですか

この自分がなんであるかはともかく、この自分がしてることです。とくに主体なく見る。ことを提唱してるのではありません。

>行動、発言、思考は起きていることでそれをしている主体がなくてはと言う事で架空の主体である自我があると思い込むと言う事ですか

たしかに行動、発言、思考は、起きていること、として、それを対象にして、客観視するなら、却って、それを見てる自分が仮定されると思います。

ともかく自我とは。自覚する必要もない自己を、自覚したいということが、自我として現れるのだと思います。つまり、自我は、俺は、ある。俺は、ある。なのですが、それは奇妙にも正しのです。自覚しなくても、自己は、ある、のです。

No.1337 - 2009/01/31(Sat) 14:57:33

Re: ちょっと質問 / ばん
あー頭が混乱しています。考えすぎてしまってます。
> と、いうわけではありません。自分の行動が、そのまま自分に感じられます。発言が、そのまま自分に聞こえます。思考が、そのまま自分に知覚されます。・・・それは神秘ですが・・・「している」ことは「見ている」ことです。そんな人は、常に素直で真摯です。
>
> 「ただ、そうなのを、そうだと見てるだけなんです。」、ということは、たとえば箱根に行ったら、なんとか湖の海賊船(映像)が知覚されます。そのように、思考するのではなく、そうなのを、そうだと見てる、という意味です。

これみんなそうなんじゃないかなーと思えるんですが、たぶん、感覚的に違うことなのかなー
> >行動、発言、思考は自分がしているのでないってことですか
>
> この自分がなんであるかはともかく、この自分がしてることです。とくに主体なく見る。ことを提唱してるのではありません。
>
> >行動、発言、思考は起きていることでそれをしている主体がなくてはと言う事で架空の主体である自我があると思い込むと言う事ですか
>
> たしかに行動、発言、思考は、起きていること、として、それを対象にして、客観視するなら、却って、それを見てる自分が仮定されると思います。

客観的に自分を見ないで、考えないでその場、その場の直感で決めることですか
> ともかく自我とは。自覚する必要もない自己を、自覚したいということが、自我として現れるのだと思います。つまり、自我は、俺は、ある。俺は、ある。なのですが、それは奇妙にも正しのです。自覚しなくても、自己は、ある、のです。

自分が求めているのはどんな事にも動揺しない落ち着きと安心感なんですがそういう風になるにはどうしたらいいのでしょう。

どうも、考えすぎてしまいます。こういう病気なのかな、1つの事が気になって、そのことに執着してしまって、考えないようにしてもなんか気持ち悪くて答えを得たくて、また考えてしまって、考えてどうこうなるものではないのかもしれないです。
あー休憩しまーす。

No.1338 - 2009/01/31(Sat) 16:01:46

Re: ちょっと質問 / ubik0101
そうですね。とりあえず、ほかの人の言ってることは、すっかり忘れたところで。リフレッシュしたところで。なにか思いが現れたら、それを見ていく・・・のがいいように思います。

>客観的に自分を見ないで、考えないでその場、その場の直感で決めることですか

そういう意味での、客観的に見る、ということは、もともと無理があります。まず、客観的に見ない、ということさえ・・・その場の直感で決める、ということさえ・・・意図する必要ありません。ただ自然のまま、で充分です。

>自分が求めているのはどんな事にも動揺しない落ち着きと安心感なんですがそういう風になるにはどうしたらいいのでしょう。

それは、考えたことに引きずられないこと、です。なにか考えたことは、それが消えるまま放置して・・・それさえ意図的に行う必要もなく・・・それで終了です。このような投稿も、見たら忘れる。です。

ことさら考えたことを意図して現実に適応する必要も、現実からなにかを捉えて考える必要も、ない、です。

No.1339 - 2009/01/31(Sat) 20:37:23

Re: ちょっと質問 / hato
> うびさん、hatoさん、こんにちは。
>  暫く思考と思考の間を追及してみます、と言いましたよ>うに研究してました。思考を止めますと、ドンドン自分の>範疇が拡がって、輝きみたいなのも感じられ面白い変化が見られます。眼球を止めても、全て光になります。不思議です。


のりさん、こんにちは。

きのうはカラオケで気持ちよく歌いました。
今日は、母方の祖母の法事でした。
母方の苗字に雪、がつくのですが、
関係もないけれど、ここのところ、
好雪片々別處に落ちず、
を思い出していました。
のりさんと話すときに、なぜか雪がよく出てきます。

No.1340 - 2009/01/31(Sat) 23:28:58

ちょっと休憩 / 大阪
みなさん、こんにちは。

個人的な話ですが、最近東京に引っ越しました。

それで先月うびさんと久しぶりに、hatoさんと初めてお会いして、一昨日はカラオケに行きました。

hatoさんは本当にお上手でした。まるでCDを聴いてるみたいでした。
「翼をください」をリクエストしたら後で、「"翼の折れたANGEL"って誰の曲でしたっけ?」と言われたのが、とても面白かったです。

うびさんには強引にでも、一曲歌ってもらうべきでした。

ということで、そろそろ新規投稿にでもしましょうか。

No.1341 - 2009/02/01(Sun) 13:30:27

Re: ちょっと質問 / hato

> それで先月うびさんと久しぶりに、hatoさんと初めてお会いして、一昨日はカラオケに行きました。

先日は楽しいひとときでした。どうも、ありがとう。
大阪さんはすこし照れながら、とても素直な声で歌って下さって、素敵でした。

> 「翼をください」をリクエストしたら後で、「"翼の折れたANGEL"って誰の曲でしたっけ?」と言われたのが、とても面白かったです。

その人のアルバムを、確かすこし前にubik0101さんが家でかけていて、その後実家でテレビを見ていたら、たまたま「翼の・・」がCMで流れていてふと面白かったので、つい思い出したみたいです。

> うびさんには強引にでも、一曲歌ってもらうべきでした。

どうでしょう、いつか、そのうちに・・(笑)

No.1342 - 2009/02/01(Sun) 21:31:59

Re: ちょっと質問 / のり
ガハハハハ。ウビさんは、人の話し、なんも聞いてないでカラオケ行ってるし!
閲覧者さんにも会われたのですね。
私の場合はカラオケはどんちゃん騒ぎになります。

> そして最初に見たのが、自我の仕組みです。とても簡単です。たとえば人が怒ります。それは自分が怒ってると、思っています。でも逆でした。怒るから、自分がある、と思うのです。それは虚構でした。

なるほど、
感覚は自分の存在をかけて対象を求めて求めて求め続ける。
そして対象が得られると安心し、依存し始める。それは喜びでも怒りでも悲しみでもなんでも良い。感じられる対象があれば良い。
次に、対象がある事が主体を求める、これが何度も繰り返されると自我とか心があると思われる。内側からは感覚、外側からは世間がこれを強化していく。
(ウビさん的には感覚器官でしょうが展開が複雑になりますので感覚と書かせて頂きました)
<我、思う故に、自我在り。>でしょうか。
自我、心で見れば御覧の通り世間はメチャクチャ、何でもありです。
それを空(くう)から見れば、全て自然、道(タオ)の流れ、という事でしょうか。

hatoさん
こんにちは。
え〜、すみません。とてもとてもその風流、博識な世界に届きません。
<>好雪片々別處に落ちず>
私も全さんのように訳分からず、直接聞いてしまいます。それをいきなり叩くなんて!
とても、降る雪にも、暖かい土にも、この宇宙にも成れる悟った人とは思えません。
禅、ってどうしてそんなに難しいのでしょう。
イエス様もお釈迦様も禅もウビさんも、、、、
気づいてもらうまで、内緒なのでしょうか。
そういえば、お口(くち)が×なのでウサ子ちゃんは内緒のシンボルのようです。

すみません、私のコメントはかなり遅くなります。

No.1343 - 2009/02/04(Wed) 18:01:04
『起きていることは すべて正しい』 / かずよ
『起きていることは すべて正しい』のです。
いま起きていることは、すべて正しいことであり、すべて良いことなのです。すべては良くなるように出来ているのです。すべては予定調和であって、あなたが行ったこともすべて正しいことであり、すべて良いことなのです。悔むことなど何もないのです、すべては良くなるように出来ているのです。すべては予定調和するように出来ているのです。

No.1321 - 2009/01/25(Sun) 08:28:41

Re: 『起きていることは すべて正しい』 / ubik0101

はじめまして。おそらく、予定調和、ということを前提にして、ほかの人や自分や世界を見るなら、 『起きていることは すべて正しい』のです。なのでしょう。そうだとして、

(A)かずよさんは、どのようにして予定調和を、確認されたのでしょうか。そして(B)自分は、たとえば悔やんだりすることはありませんが、「悔やむこと」、は、かずよさんの言う、予定調和の範疇にないのでしょうか。(C)また「すべて」とは、どういう範囲のことでしょう。

No.1322 - 2009/01/25(Sun) 15:41:32
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