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悪意と無知のことについて / ルー
江原さんの最新の本に、ヒントになることが書いてありました。
弱さと無知によって悪意はできている、とかなんとか。

No.1240 - 2008/12/25(Thu) 19:29:30

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
見せ掛けの強さを演じること、見せ掛けの叡智を装うことによって、見せ掛けの善意を信じさせること。
一皮剥けば、弱さと無知があった。
そして、見えてきたものは、他人が恐いということ。
他人が恐いということの裏返しで、身内には支配する。
身内というのは、自分の子供、孫。
それも、言うことを聞いてくれないのなら、敵扱い。
他人は敵。
言うことを聞かぬ身内も敵。

No.1241 - 2008/12/26(Fri) 09:27:30

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。
No.1242 - 2008/12/26(Fri) 09:30:55

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
おおくの場合、 愚かな人は、その自分の愚かなことには気が付きたくないようです。また、その愚かなことに気が付かなければ、愚かではない・・・たとえば叡智がある・・・これまでの人生に自信がある。と思い込めるほど、愚かでもあると思います。 そうでなければ、

たとえば見せかけの強さも、見せかけの善意も、その人にとっては、正当性を持たないと思います。そういうこともあって、その見かけの叡智、つまり愚かさを自分自身のように守りたい・・・自己保存することが・・・優先される傾向にあると思います。そういう人の日常は、

いろいろな傾向のある、ほかの人と軋轢を生じるでしょう・・・また軋轢の可能性を持っているでしょう・・・それは、その愚かさが、愚かな自分にも見えるように人間関係の軋轢として、現れたのです。けど。それだけで、その自分の言動の正当性の正否を探ろうともしない傾向にあると思います。つまり愚かな自分は、自分の愚かさを守りたいのでしょう。 たとえば、

それをほかの人から指摘されるのを嫌う傾向にもあるようです。それは自分で理解しなくてはならないので、ほかの人の指摘は困るので、拒まなくてはならないから、ということもあるでしょう。そのように、

いわゆる自我は、機能すると。それを学び、それから解放されることができることを知らないということもあるでしょう。そのように自分を学びたくないことが、ほかの人との軋轢で苦しむことよりも・・・そうであれば、敵もいるかもしれませんが味方もいるので・・・拠り所がある。楽だと感じてるのかもしれません。そのように。愚かな人は、愚かでいたいのだと思います。

続きます。

No.1243 - 2008/12/26(Fri) 17:27:21

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
>私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。

そのために生まれた、のだとしても。とくに、そうではない、としても。「こういうことを学ぶ」。また、学んだ。なら、その人生、状況、環境は活用され、満たさてるので。どちらでも問題にならないのではないでしょうか。

というのも、「こういうことを学ぶ」という状況は、ただ自己を知るための 取り替え可能な負荷と思うからです。それだから、そんな問題から解放されることもできるのだと思います。

ところで、テレビを持ってないこともあって、江原さんの番組も見ていません。

ちょっと昨日は泊まりがけで出かけて、今日の夕方に帰ってきたので、返信が遅くなりました。

No.1244 - 2008/12/26(Fri) 18:17:06

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
本屋さんで江原さんの本を見つけて立ち読みした時に、まず、泥の中に蓮の華が咲くということが書いてあって、興味を持ったのです。
私は、まだ、そのことがよくわかっていません。
キリスト教では、天の国は現世にあるのだと言っているでしょう。
しかし、泥の沼の中にきれいな花が咲くということは、現世は泥沼であるということでしょう。

No.1245 - 2008/12/27(Sat) 20:54:19

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
それから、私は、学ぶとか成長するために生きているということは、まだはっきりとは知らないんです。
No.1246 - 2008/12/27(Sat) 20:59:56

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
うろ覚えですが、イエス・キリストの言葉は。「天の国は、ここにある、あそこにあるというのではない。ただ人の心(人と人の間)にあるのだ」。だと思います。つまり、現世にある。また、天上にある。とは言われていません。さらに、

まずは天の国という言葉が、なにを意味するのか了解しないで、それが現世にある。たとえば、どこか天上にある。どこか天上ではないとか、と。表現するなら、誤りです。それは、天の国とか、現世とか、いう言葉に勝手な意味をつけて、そんな空想を、前提にしているのかもしれません。おなじように、

また現世が、泥沼である、も。その現世とか泥沼という言葉で、なにを意味してるのか、明確でないならば、それは自分の了解してないことを言ってるのでしょうし、無知な空想かもしれません。 ところで、

ここで言う泥沼とは、自我のことです。その自我が成長し、完成するなら、ほかの言い方では・・・自我が機能する必要がないので・・・自我が死ぬなら・・・咲くのは蓮の花。それは、愛を、実在を実感し、そう実感する自己が与えられる。あるいは目覚める。その有り様が、天の国です。安息日の主です。聖書でも、一粒の種が死ぬなら、おおきな収穫が得られる。とか言われてると思います。

No.1247 - 2008/12/28(Sun) 12:19:42

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
現世は修行の場であるということをわかりかけています。
何度も何度も言葉ではわかるのですが、身にしみてわかるには、あと一歩というところです。

No.1248 - 2008/12/28(Sun) 13:53:52

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
それは、自我の完成。空っぽ体験。愛の体験。自分自身を知る・・・などと表現される結果、体験によって、明確だと思います。けど、

その人の経緯、状態によって、そこから汲み取れる意味も・・・その人の意識による理解としてですが・・・変わってきます。すこしししか汲み取れない人も、おおくを汲み取る人もいると思います。たとえば、

「おおくを持つ者は、さらにおおくを与えられる」。とあるように、です。自分の体験の了解、納得が、困難といえば、困難だと思います。そういう意味ばかりではありませんが、

それが学びの終わりではなく始まりです。たとえば、偽りの叡智を育てた人なら、それに依存・執着した経緯がある人なら・・・そのことが偽りでなく完成され叡智として機能していることを見出すので・・・どんなことも、無意味ではないことを知ります。

No.1249 - 2008/12/28(Sun) 15:08:04

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
無意味ではない〜
そうなのだと思いますが、どうしてそんな目にあわなくてはならないのかという疑問と、そんな目にあわずに生きている人がいる(共存している)ということに納得がいっていません。
キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。

No.1250 - 2008/12/29(Mon) 10:27:15

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
まあ。どんな自我でも、たとえば、ほかの人との軋轢を避けるための偽りの叡智でも、はじめから悟ってるつもりで迷ってる自覚さえない自然外道でも、それは臨界、最強度にまで達しなければならないのだと思います。そうであって、やっと、そういう自分の意味を探る、反省する、状態になるのでしょう。そして、

それが 、 ある時、ついに叡智に転換されるのではないでしょうか。それが、おおくを持つ人は、さらにおおくを与えられる。つまり迷いが大きい人は、理解できる叡智も大きい。ということでしょう。それを知ってか知らないでか、人は、いくらでも迷えるのだと思います。 そして、

そういう自我の機能は、なんであれ役に立ちます。たとえばよく言われる、世界と自分との分離も、感情や思考との同一化の問題も、欲望、暴力なども、そのような取り替え可能な負荷、触媒です。そしておそらく、そういう人から酷い目に遭わない人は誰も、いないと思います。そんな目に遭わないように見える人も、その人には、なんの問題もないということはないでしょう。そこは、

お互いに、お互いが、自分の目の中の梁に気が付かずに、相手の眼の中のゴミを取ってあげようとしてる、そんな有り様なのでしょう。それはそれで、かなりの混乱、おおきな迷いですが、それが成就するならばですが、おおきな叡智の可能性が育ってる。泥沼。そのために、

お互いがお互いに活用しあってる。とも言えないことはないのです。そこに、不公平なことはないと思います。 イエス・キリストは、まず自分の目の梁を取ることを薦めています。また、そういう人間関係の問題もですが、この自分のたとえば無明。老病死苦の問題を解決すること、それが根っこの問題だと思います。

>キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。

うん。けど。そのことは意識の管轄、範疇にないことです。それを、意識で理解しようとしたりすることも、知識で得ようとすることも、迷いになっています。そしてそのことさえ叡智に転換され得ます。

No.1251 - 2008/12/29(Mon) 11:46:59

Re: 悪意と無知のことについて / hato

師走るころ。

空では小春日和に、鳥たちが和んでいるようです。
メジロ、
窓を開けて、ぱたぱた掃除をしていても、
だいじょうぶ、
こっちを見ながらミカンをついばんでいます。

ちょっと素敵なお客様、

ubik0101邸に、ようこそ。

No.1252 - 2008/12/29(Mon) 12:10:06

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
例えば、虐待の被害者になる子供は、何のために生まれてきたのか。
未熟な母親が何かを学ぶため?
そんな、誰かの為だけに生まれてくる人はいるのでしょうか?
酒鬼薔薇に殺された子供は、何のために生まれてきたのか。
今は、生まれ変わって幸せになっているのか、気になります。
そして、「気にならなくなる」ということが最終地点なのだと思っていましたが、そうでもないように思えます。
そういうことが気にならなくなる方が、こわいことです。

No.1253 - 2008/12/29(Mon) 23:30:45

Re: 悪意と無知のことについて / hato

世界に痛みは多く、あるように思えます。
理不尽なことも多く、あるようです。

そして、
だからこそ人ができるのは、
というより、
しなければならないことは、
自分を糺すこと、なのだと思います。

極端に言えば、それしかできないのだと思います。
極端に言えば、それでよいのだと思います。

それは必ず、世界に繋がっていくからです。

痛みが正に痛みとして感じられないなら、
おかしなことと思います。

けれど、ことさら外や人に目が向いてしまうなら、
自分の内にある何かから、目を背けたいだけかもしれません。あるいは、気付いていないことがあるかもしれません。
人は、まず、自分に手が届くこと、ここにあるチャレンジを尽くすこと、で充分です。

どこかの地点で、
なにか、見逃しているのではないだろうか。
決意してしまったこと、
ささいな、こと。けれど、大事なこと。

それは、その人にしか、わかりません。
私たちは、そうして自分を省みながら、学んでいくことができるのだと思います。

No.1254 - 2008/12/30(Tue) 01:39:32

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
自我の解決が問題のすべてではないと思います。
No.1255 - 2008/12/30(Tue) 12:21:30
ネールノット / ubik0101
あるとき、一人で飲み屋に行きました。たまたま隣の席に座った人と仲良くなり、教えて貰った、日本古来の釣り針の結び方です。

それは本結び(内掛け本結び、外掛け本結び、とは違います)とも、地獄結び、とも呼ばれます。

できあがりは同じですが、違う手順で。釘を使って結んだから、英語では、ネールノットと呼ぶそうです。

よく釣り道具店などで、ハリスに釣り針が結んで、売ってる商品がありますが、おなじ結び方です。ほとんど最強で、簡単で、薄暗闇でも。チヌ針0.5号でも結べます。

まず、写真のように。針先を、こちら(釣り針を結ぶ人)に向けるようにして、釣り針の、ちもとを、左手の親指と人差し指の間に挟んで持ちます。このとき親指の爪先で押さえつけるようにすると、しっかり固定できます。

No.1228 - 2008/12/19(Fri) 23:51:26

Re: ネールノット / ubik0101
ここからは釣り針では小さくて見えにくいので、ペンで撮影します。

ハリスを、釣り針に添えて、輪を作ります。

No.1229 - 2008/12/20(Sat) 00:33:42

Re: ネールノット / ubik0101
こちら(釣り針を結ぶ人)から見て、その輪の向こう側から、右手の親指と人差し指を差し込みます。
No.1230 - 2008/12/20(Sat) 00:40:35

Re: ネールノット / ubik0101
その親指と人差し指を広げて・・・針先と、ハリスの先を一緒に・・・輪の中に入れます。そうすると親指と人差し指は、下(地面)を向いています。
No.1231 - 2008/12/20(Sat) 00:51:52

Re: ネールノット / ubik0101
その輪に差し込んだ、親指と人差し指の先を閉じて、時計回りに円を描くように、こちら(針を結ぶ人)側に移動させます。その輪は、常に、緩めずに。軽いテンションをかけていきます。
No.1232 - 2008/12/20(Sat) 01:01:22

Re: ネールノット / ubik0101
その輪を、こちらに移動させたら、そこで。それまで下を向いてた親指と人差し指を、上を向くように・・・こちらから見て、親指が手前で、人差し指が向こう側になるように・・・右手首を、回転させて。親指と人差し指の先を広げます。手首は、このようにしか回転できません。
No.1233 - 2008/12/20(Sat) 01:11:34

Re: ネールノット / ubik0101
そして、親指と人差し指で広げた輪の中に、針先とハリスの先を一緒に、入れます。
No.1234 - 2008/12/20(Sat) 01:25:29

Re: ネールノット / ubik0101
あとは、同じように繰り返して、6、7回ほど結びます。
No.1235 - 2008/12/20(Sat) 01:30:19

Re: ネールノット / ubik0101
それから、ハリスの巻いたところが解けないように、巻き終わり部分を左手の中指で押さえます。ここで右手の親指と人差し指を輪から抜きます。このときハリスの輪には、より、がはいっています。

つぎに、右手の親指と人差し指で、ハリスの元を引っ張って、あるていど締め、次にハリスの先を引っ張って、あるていど締めます。結び目(ハリスの巻いたところ)が、解けずに、移動出来る程度に。です。

そして最後に、ハリスの結び目を、釣り針のちもとに移動させてから、ハリスの元と先を引っ張って。強く締め付けます。

No.1236 - 2008/12/20(Sat) 08:58:24

Re: ネールノット / 大阪
隠岐で、教わったやつですね。

次にお会いするときに忘れていたら失礼だと思っていました。

覚えなおしておきます。

No.1237 - 2008/12/22(Mon) 20:10:56

Re: ネールノット / hato

はい、hatoも、やっと覚えました。
(でもすーぐ忘れるかもですー)

きのう、部屋で日向ぼっこしていて
窓の外の木々の紅葉が、
風がふくたびに舞っているのを見ていました。

メジロ、四十雀、とても可愛いエナガ、ヒヨドリ。

メジロはことに人なつこそうで、木々の枝枝から、
まるで動く音符のようになって、皆でやってきます。

わーい、おいでおいで、

て喜んでいたら、手摺まで飛んできたりします。
窓から顔を出して上を覗いてみると、高い場所の枝には、
コゲラがいたりします。

冬の鳥たち、なかなか元気です。

そこで、小さな部屋の片隅には、
お気に入りの
アラジンストーブ。
ubik0101さんが手入れしてきれいにしてくれました。

No.1238 - 2008/12/22(Mon) 21:37:37

Re: ネールノット / ubik0101
ついさっき、ミカンを1つ、2つに切って、手摺に置いて。キッチンから、も、ひとつ持ってこようとして戻ってきたら・・・その間に、もう、ひよどりが飛んできて、食べています。あちこちにメジロもやってきて、その後を待っているようです。
No.1239 - 2008/12/23(Tue) 09:29:30
(No Subject) / しむじゃ
ubik0101さんは「至高体験による覚醒の、始まりと、中間と、成就が自覚されます。」と書かれています。またどこかに覚醒は一瞬だ、ともありました。「覚醒の、始まりと、中間と、成就」とは一瞬の中にあるということでしょうか?
No.1226 - 2008/12/14(Sun) 07:41:37

Re: / ubik0101
それは、ほかの人のことを書いたのではなく、ただ自分に起こったことです。どうしようもない衝動によって、なにがなんでも、ほかのあらゆることを差し置いて、

これが自分だと思う自分の有り様を捨てて、自分の中心に向かう過程で。知覚される限りでは、偽善や嫉妬や傲慢や卑下など、なにも問題がない、有り様になりました。 それでも、

さらに自分の無意識に隠れた問題を掘り起こして、その前提、動機を探し出す、つまり、徹底して隠れた自分の中心をさらけ出すこと。その時には起こってはないけど、起こりえる、悪、自尊心などの可能性も見ることによって正当性をなくす・・・理解することは得ることではなく失うことに似てる・・・捨てる。をしていました。たぶん、

それが結果的にですが、意識・無意識を通じての訓練になっていて、意識・無意識に跨る、至高体験の過程を自覚できたのだと思います。その変化の始まりを、そして変化しながら、変化しつつある自分を、その過程を、自覚しました。その過程の始まりと、中間と、成就は、

ふつうに会社からアパートに帰り、玄関を開け、障子を開け、片足が上がり、それが畳に降りつくまでの、ほとんど瞬間でした。そうでなく、

たぶん人の部分的な変化なら、暫定的な経緯もあるかもしれませんが、それでは成就の自覚も困難だと思います。人の変化の、最も簡単な明確な出来事と思います。それで、

この一瞬とか、今、ということに、覚醒が見つかる。という意味ではありません。そのように思ったのであれば、それに正当性を持たせる、その隠れた前提、動機をさらけだし、そう思うことを捨ててた、だろうと思います。まったく、

どんな瞑想、座禅、いかなるメソッドも試したことはありません。そういうことにも無知なくらい、ほとんど書も読まず、社会的なことも個人的なことも捨てたのです。たぶん、ほかの人から見れば、たとえば素直にして傲慢、異常な日常生活だったと思います。自分に何が起こるか、というより、何かが起こることさえ知りませんでした。

No.1227 - 2008/12/14(Sun) 13:18:22
アホだなと思うことについて。 / ルー
他の人を見ていて、アホだなと思うことに、とても抵抗がありました。
アホかも知れないと思ってしまう瞬間、そのことを忘れようと、考えないようにしようとするのです。
それは何故なのかを考えてみました。
私は、たぶん、他の人から自分がアホだなと思われることにも耐えられないのです。
ですから、そういうことは、ナシにしてしまいたいのです。
しかし、自分が他の人をアホだなと思うことも、自分が他の人にアホだなと思われることも、現実にはあるわけで。
あることはあるのだと受け入れてしまえば、大したことではないみたいです。
しかし、それに慣れてしまうと、他のアホだと思われることに敏感な人との間に溝ができてしまうと思うんです。
その溝は、しかたないのかな。
それも、あるものはあるということで、しかたないかな。
無神経にはなりたくないんです。

すべてを憶えていることが必要なのでしょうか。

No.1214 - 2008/12/01(Mon) 14:25:17

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ううん。覚えておく必要はありません。なにかを理解したら、それは意識から失われ、知覚されなくなり・・・それが問題からの解放ですが・・・だからといって、その理解はなくなり、無神経になり、愚かになるのではありません。飛躍したのです。

なにかの問題がある場合は、それを理解するために、そのことに意識の焦点、照明があてられる必要があります。問題が解決されれば、そうする必要もなくなり、その理解は、意識にとっては無自覚の智恵として機能しています。

そうでなく理解したということを記憶しておく、掴む、基準にするなら、その理解したことに、依存してる、 縛られてる、恐れがあります。それは解放ではありません。

つまり徹底して理解されてるというわけではない、可能性もあります。また、そこに隠れてた、ほかの問題が理解されるために現れてきた、可能性もあります。

続きます。

No.1215 - 2008/12/01(Mon) 18:40:18

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ところで。たとえばアホを、アホと。たとえば偽善者を、偽善者と、思うことを自分は躊躇したことがありません。アホを、アホと思わないのは鈍感です。賢者と呼ぶのはアホです。偽善者を、偽善者と呼ばないのは鈍感です。誠実な人と呼ぶのは、偽善者です。そういう嘘をつくことは、自分にも、ほかの人にも、無神経でなければ不可能です。

ほかの人が、事実、アホであり、偽善者なら、そう呼んで当然です。でも、 事実そうでなく、自分の勝手な判断で、ほかの人を、アホ、とか、偽善者とか、自我の人とか、欲望の人とか、賢者とか、誠実な人とか、無我の人とか、無欲の人とか、思うのであれば問題です。

また、ほかの人が自分を、アホと思ってもないのに、そう思ってると思ってしまう、ということもあるかもしれません。

しかし自分がアホ、偽善、自我、欲望を理解しているなら、その問題を解決してる、その智恵があります。それは無自覚ですが、いつでも引き出せます。それに依存してないので、それをほかの人に言葉で説明できます。もしも、それが誤ってたり立ち位置が違ってたりするなら、互いに学ぶ機会になると思います。

また、ほかの人から自分がアホと言われたら、その理由を聞いて理解する必要があります。ほかの人の判断が誤ってるかもしれません。また、相手の理解が正しくて、自分が学ぶ機会になるかもしれません。また立ち位置が違うのかもしれません。

ただ、それを理解したからでなく、飛躍してることもあると思います。飛躍の後に理解することもあります。たとえば自分は傲慢を理解してるわけではありません。卑下を理解してるわけでもありません。けど、傲慢や卑下に縛られることは、ないと言えます。

No.1216 - 2008/12/01(Mon) 19:58:59

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
> ところで。たとえばアホを、アホと。たとえば偽善者を、偽善者と、思うことを自分は躊躇したことがありません。

カッコイイ!・・・ぞ

>アホを、アホと思わないのは鈍感です。

ああ、そうなんですね。
そのへんを私は曖昧にしています。

いろいろな悲惨な出来事の原因は、悪意によるものか無知によるものか、と考えます。
無知であるならしかたがない、という考えが底の方にあるようです。
そして、悪意があるなら、許せないこと、という考えがあります。
アホならしかたがない、と。
極端に言えば、殺人などを犯しても、責任能力がないなら無罪になるというようなことです。

アホだから、無知だから、知能が低いから。。。。。相手が苦しんでいるのがわからない、相手の人生を破壊していることに気づかない。。。。それなら許せるか?
それとも、自分の人生が破壊しているので相手の人生も破壊してやろうという悪意があるなら許せないのか?

ああああああああああああああああああああああああ、ああ、なるほど。
私は、人がアホかどうかをうやむやにせねばならなかったのだ。
という場所に生きねばならない運命を背負っているのだ。
ハッキリさせることはできないのだ。
この人はアホなのかな〜、悪意があるのかな〜、どうなんだろうな〜、ということをハッキリさせないままに生きていくということをさだめとしているのだ。

No.1217 - 2008/12/02(Tue) 10:26:59

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
まあ、あれですよ。ふつうは、アホでなくては、悪意を持ち得ないと思います。もしも人が悪意を持っていて、それを知りながら、ほかの人に、それを実行できるとしたら、知能が高くても、それはアホ、無知でしかない・・・知能が低くて善良な人はいる・・・と思います。それで、

その悪意の人は、その悪意を、相手にも自分にも隠してるのではないでしょうか。たとえば、なにか悪い相手に対して、自分は正しいことをしてるというように。そう操作してることも、自分で自分に隠して、気が付かないようにしてる、それがほかの人には判らないと思ってる、そんなアホだから、悪意が持てるのではないでしょうか。そして、

そんな、空想の悪を前提にある正しさは、それに正当性を与える、幾千の正しい理由が考えられるでしょう。けど、正しさとは言えません。空想の正しさです。ただの正しさには、そんな幾千の理由はありません。まったく理由なく正しいのです。

ならば、理由がなければ正しいとして、理由なく悪いことをする、ということも可能かもしれません。けど、そうなら、そのような自分が自分と思う自分が、ある、のです。その自分が、ない、なら、初めから悪意を持てないのではないでしょうか。その自分が、ある、それは偏りで、無知です。その無知は智恵に転換され得ます。それはそうでも、

たしかに、ほかの人からは、気が回らなく見えたりして、蔑ろにされたように判断されてしまうこともあると思います。そうなら、

その時その場で、理由もないくらい、素直に真摯に、ほかの人に対応する、ということが有効だと思います。それで、たとえば過剰に気を遣って貰いたい、ほかの人と溝ができても、後悔はしないし、学ぶことが多々と思います。

ところで今日は、鰆の煮付けと、ムニエル。鳥と野菜のコンソメ煮弁当です。この前、そのあたりで摘んで乾燥した月桂樹の葉を使いました。しかーし。なんでも100円ショップで買った20wの蛍光灯の色が青に偏ってて、なさけない色調に写っています。

No.1218 - 2008/12/02(Tue) 16:02:05

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
うわぁっ!青い弁当だ。
食欲減退ですなぁ。
赤い色のフィルターをかけて見てみます。

No.1219 - 2008/12/03(Wed) 15:28:25

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
たしかに、これはー、というわけで。やはり日本製の蛍光灯に変えました。今日は、鰆のムニエル、照り焼きと、エビと野菜の塩茹で弁当にしました。いつかは、ごろんと焼き芋が一本だけ、入ってる弁当もいいかもしれません。かもしれません(残響)。
No.1220 - 2008/12/03(Wed) 16:43:17

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ところで、この頃、ベランダに野鳥のエサを置いてみました。穀類には反応がありませんでしたが、ミカンを置いてみると数日前から、ムクドリ?ヒヨドリ?がやって来て、食べて行くようになりました。その後、メジロも来て、賑やかです。窓から1mもないので、薄いカーテン越しに見ています。画像は、メジロです。

そういえば。子供の頃こんなことがありました。誰かが、ほかの人のことを「馬鹿」と言って走って逃げて行きました。すると言われた人は「馬鹿という人は馬鹿」と叫びました。すると走って逃げた人は振り向きながら「馬鹿と言う人は馬鹿という人は馬鹿」と叫び返して笑いました。

No.1221 - 2008/12/03(Wed) 17:00:57

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
馬鹿と言う人は馬鹿という人は馬鹿と言う人は馬鹿ぁ。。。あはは!
No.1222 - 2008/12/03(Wed) 22:45:05

Re: アホだなと思うことについて。 / hato
いもがごろん、は、やめてねーっ。

でもお気に入りアラジンで焼く焼き芋は、
最高です。美味しいのよね、

ムニエルは大好物。
なんでも美味しいのですが、
ムニエル、とても優しい食感です。

今日は、ちょっと、よい知らせ。
小さな部屋が、華やぎました。

こちらはhato画像のメジロちゃん。
どこにいるか、わかるかな。

No.1223 - 2008/12/03(Wed) 23:25:00

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
よい知らせ。。。
赤ちゃんができたとか。。。かしら?

No.1224 - 2008/12/04(Thu) 08:43:41

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
そうねー。コウノトリのような話かな・・・会いたかった道の仲間から、会いましょう、て連絡があったことです。と言って、hatoさんは、鮭の西京焼き、野菜の中華スープ茹で弁当を持って、出かけて行きました。
No.1225 - 2008/12/04(Thu) 09:36:22
(No Subject) / ubik0101
自己を知ろうとする運動

ところで。自分が自分を知覚、つまり自覚したいという衝動も、自我の機能です。それで、日常生活では、スポーツしたり、季節の変化を感じたり、怒ったり、悲しんだり、あれこれ思考したりする・・・学んだり、遊んだり、勤勉も、怠惰も、ただ生きてるだけでも、その総てが、自分を知りたいという衝動の現れと見なすことができます。そうだとして見ると、

もちろん、自分を知りたいとも思いもしない・・・起きたり眠ったり嫁いだり娶ったり、日常に埋没して自分を知りたいという意図さえ感じないことも。すでに自分は、このままで完成してると思いたいので、知りたいとも思いもしない・・・ということさえ、そういう自分を知りたい自我の運動の一環でありえます。 それで、

たとえば、なにかをしたいのだけど、できない。またしたくないのだけど、せざるをえない。また。変化していくことを変化させたくない、変化しないことを変化させたい。また。ほとんど関係ないことを関係づける。関係あることを関係ないことにしたい。とかの日常生活での欲望の運動も、自分が自分を知りたいということの起源ではないとしても、そこから派生した運動ではないでしょうか。 それで、

その派生した運動を観察、研究しても、実際は、自分で自分を知覚したい、という衝動の直接の現れを見ることではないかもしれません。つまり、その日常の嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏、そのあたりをいくら観察しても、研究しても、理解しようとしても、その、自分が自分を知覚したい、知りたいことの中心に届かないかもしれません。また、

そのような嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏は、理解可能なことではないのかもしれません。と言うより。理解してるということもまた、執着・・・自分の状態を知覚したい・・・なのかもしれません。たしかに理解したら、理解は不要でもあります。そして、自分が自分を知る衝動、つまり自我が満たされたら、その自我は不要になります。

No.1213 - 2008/11/30(Sun) 16:30:03
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