江原さんの最新の本に、ヒントになることが書いてありました。 弱さと無知によって悪意はできている、とかなんとか。
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No.1240 - 2008/12/25(Thu) 19:29:30
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | 見せ掛けの強さを演じること、見せ掛けの叡智を装うことによって、見せ掛けの善意を信じさせること。 一皮剥けば、弱さと無知があった。 そして、見えてきたものは、他人が恐いということ。 他人が恐いということの裏返しで、身内には支配する。 身内というのは、自分の子供、孫。 それも、言うことを聞いてくれないのなら、敵扱い。 他人は敵。 言うことを聞かぬ身内も敵。
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No.1241 - 2008/12/26(Fri) 09:27:30 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | 私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。
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No.1242 - 2008/12/26(Fri) 09:30:55 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101 | | | おおくの場合、 愚かな人は、その自分の愚かなことには気が付きたくないようです。また、その愚かなことに気が付かなければ、愚かではない・・・たとえば叡智がある・・・これまでの人生に自信がある。と思い込めるほど、愚かでもあると思います。 そうでなければ、
たとえば見せかけの強さも、見せかけの善意も、その人にとっては、正当性を持たないと思います。そういうこともあって、その見かけの叡智、つまり愚かさを自分自身のように守りたい・・・自己保存することが・・・優先される傾向にあると思います。そういう人の日常は、
いろいろな傾向のある、ほかの人と軋轢を生じるでしょう・・・また軋轢の可能性を持っているでしょう・・・それは、その愚かさが、愚かな自分にも見えるように人間関係の軋轢として、現れたのです。けど。それだけで、その自分の言動の正当性の正否を探ろうともしない傾向にあると思います。つまり愚かな自分は、自分の愚かさを守りたいのでしょう。 たとえば、
それをほかの人から指摘されるのを嫌う傾向にもあるようです。それは自分で理解しなくてはならないので、ほかの人の指摘は困るので、拒まなくてはならないから、ということもあるでしょう。そのように、
いわゆる自我は、機能すると。それを学び、それから解放されることができることを知らないということもあるでしょう。そのように自分を学びたくないことが、ほかの人との軋轢で苦しむことよりも・・・そうであれば、敵もいるかもしれませんが味方もいるので・・・拠り所がある。楽だと感じてるのかもしれません。そのように。愚かな人は、愚かでいたいのだと思います。
続きます。
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No.1243 - 2008/12/26(Fri) 17:27:21 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101 | | | >私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。
そのために生まれた、のだとしても。とくに、そうではない、としても。「こういうことを学ぶ」。また、学んだ。なら、その人生、状況、環境は活用され、満たさてるので。どちらでも問題にならないのではないでしょうか。
というのも、「こういうことを学ぶ」という状況は、ただ自己を知るための 取り替え可能な負荷と思うからです。それだから、そんな問題から解放されることもできるのだと思います。
ところで、テレビを持ってないこともあって、江原さんの番組も見ていません。
ちょっと昨日は泊まりがけで出かけて、今日の夕方に帰ってきたので、返信が遅くなりました。
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No.1244 - 2008/12/26(Fri) 18:17:06 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | 本屋さんで江原さんの本を見つけて立ち読みした時に、まず、泥の中に蓮の華が咲くということが書いてあって、興味を持ったのです。 私は、まだ、そのことがよくわかっていません。 キリスト教では、天の国は現世にあるのだと言っているでしょう。 しかし、泥の沼の中にきれいな花が咲くということは、現世は泥沼であるということでしょう。
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No.1245 - 2008/12/27(Sat) 20:54:19 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | それから、私は、学ぶとか成長するために生きているということは、まだはっきりとは知らないんです。
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No.1246 - 2008/12/27(Sat) 20:59:56 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101 | | | うろ覚えですが、イエス・キリストの言葉は。「天の国は、ここにある、あそこにあるというのではない。ただ人の心(人と人の間)にあるのだ」。だと思います。つまり、現世にある。また、天上にある。とは言われていません。さらに、
まずは天の国という言葉が、なにを意味するのか了解しないで、それが現世にある。たとえば、どこか天上にある。どこか天上ではないとか、と。表現するなら、誤りです。それは、天の国とか、現世とか、いう言葉に勝手な意味をつけて、そんな空想を、前提にしているのかもしれません。おなじように、
また現世が、泥沼である、も。その現世とか泥沼という言葉で、なにを意味してるのか、明確でないならば、それは自分の了解してないことを言ってるのでしょうし、無知な空想かもしれません。 ところで、
ここで言う泥沼とは、自我のことです。その自我が成長し、完成するなら、ほかの言い方では・・・自我が機能する必要がないので・・・自我が死ぬなら・・・咲くのは蓮の花。それは、愛を、実在を実感し、そう実感する自己が与えられる。あるいは目覚める。その有り様が、天の国です。安息日の主です。聖書でも、一粒の種が死ぬなら、おおきな収穫が得られる。とか言われてると思います。
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No.1247 - 2008/12/28(Sun) 12:19:42 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | 現世は修行の場であるということをわかりかけています。 何度も何度も言葉ではわかるのですが、身にしみてわかるには、あと一歩というところです。
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No.1248 - 2008/12/28(Sun) 13:53:52 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101 | | | それは、自我の完成。空っぽ体験。愛の体験。自分自身を知る・・・などと表現される結果、体験によって、明確だと思います。けど、
その人の経緯、状態によって、そこから汲み取れる意味も・・・その人の意識による理解としてですが・・・変わってきます。すこしししか汲み取れない人も、おおくを汲み取る人もいると思います。たとえば、
「おおくを持つ者は、さらにおおくを与えられる」。とあるように、です。自分の体験の了解、納得が、困難といえば、困難だと思います。そういう意味ばかりではありませんが、
それが学びの終わりではなく始まりです。たとえば、偽りの叡智を育てた人なら、それに依存・執着した経緯がある人なら・・・そのことが偽りでなく完成され叡智として機能していることを見出すので・・・どんなことも、無意味ではないことを知ります。
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No.1249 - 2008/12/28(Sun) 15:08:04 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | 無意味ではない〜 そうなのだと思いますが、どうしてそんな目にあわなくてはならないのかという疑問と、そんな目にあわずに生きている人がいる(共存している)ということに納得がいっていません。 キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。
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No.1250 - 2008/12/29(Mon) 10:27:15 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101 | | | まあ。どんな自我でも、たとえば、ほかの人との軋轢を避けるための偽りの叡智でも、はじめから悟ってるつもりで迷ってる自覚さえない自然外道でも、それは臨界、最強度にまで達しなければならないのだと思います。そうであって、やっと、そういう自分の意味を探る、反省する、状態になるのでしょう。そして、
それが 、 ある時、ついに叡智に転換されるのではないでしょうか。それが、おおくを持つ人は、さらにおおくを与えられる。つまり迷いが大きい人は、理解できる叡智も大きい。ということでしょう。それを知ってか知らないでか、人は、いくらでも迷えるのだと思います。 そして、
そういう自我の機能は、なんであれ役に立ちます。たとえばよく言われる、世界と自分との分離も、感情や思考との同一化の問題も、欲望、暴力なども、そのような取り替え可能な負荷、触媒です。そしておそらく、そういう人から酷い目に遭わない人は誰も、いないと思います。そんな目に遭わないように見える人も、その人には、なんの問題もないということはないでしょう。そこは、
お互いに、お互いが、自分の目の中の梁に気が付かずに、相手の眼の中のゴミを取ってあげようとしてる、そんな有り様なのでしょう。それはそれで、かなりの混乱、おおきな迷いですが、それが成就するならばですが、おおきな叡智の可能性が育ってる。泥沼。そのために、
お互いがお互いに活用しあってる。とも言えないことはないのです。そこに、不公平なことはないと思います。 イエス・キリストは、まず自分の目の梁を取ることを薦めています。また、そういう人間関係の問題もですが、この自分のたとえば無明。老病死苦の問題を解決すること、それが根っこの問題だと思います。
>キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。
うん。けど。そのことは意識の管轄、範疇にないことです。それを、意識で理解しようとしたりすることも、知識で得ようとすることも、迷いになっています。そしてそのことさえ叡智に転換され得ます。
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No.1251 - 2008/12/29(Mon) 11:46:59 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / hato | | | 師走るころ。
空では小春日和に、鳥たちが和んでいるようです。 メジロ、 窓を開けて、ぱたぱた掃除をしていても、 だいじょうぶ、 こっちを見ながらミカンをついばんでいます。
ちょっと素敵なお客様、
ubik0101邸に、ようこそ。
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No.1252 - 2008/12/29(Mon) 12:10:06 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | 例えば、虐待の被害者になる子供は、何のために生まれてきたのか。 未熟な母親が何かを学ぶため? そんな、誰かの為だけに生まれてくる人はいるのでしょうか? 酒鬼薔薇に殺された子供は、何のために生まれてきたのか。 今は、生まれ変わって幸せになっているのか、気になります。 そして、「気にならなくなる」ということが最終地点なのだと思っていましたが、そうでもないように思えます。 そういうことが気にならなくなる方が、こわいことです。
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No.1253 - 2008/12/29(Mon) 23:30:45 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / hato | | | 世界に痛みは多く、あるように思えます。 理不尽なことも多く、あるようです。
そして、 だからこそ人ができるのは、 というより、 しなければならないことは、 自分を糺すこと、なのだと思います。
極端に言えば、それしかできないのだと思います。 極端に言えば、それでよいのだと思います。
それは必ず、世界に繋がっていくからです。
痛みが正に痛みとして感じられないなら、 おかしなことと思います。
けれど、ことさら外や人に目が向いてしまうなら、 自分の内にある何かから、目を背けたいだけかもしれません。あるいは、気付いていないことがあるかもしれません。 人は、まず、自分に手が届くこと、ここにあるチャレンジを尽くすこと、で充分です。
どこかの地点で、 なにか、見逃しているのではないだろうか。 決意してしまったこと、 ささいな、こと。けれど、大事なこと。
それは、その人にしか、わかりません。 私たちは、そうして自分を省みながら、学んでいくことができるのだと思います。
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No.1254 - 2008/12/30(Tue) 01:39:32 |
| ☆ Re: 悪意と無知のことについて / ルー | | | No.1255 - 2008/12/30(Tue) 12:21:30 |
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