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(No Subject) / ルー
まだ親が必要なぐらいの年齢の時に、事故で両親が死んでしまうとか。
そういうのも、自我の問題ではなく起きる不幸だと思います。
そういう目にあうところに生まれたというのは、運命というしかないのでしょうか。
裕福な家に生まれる人もあれば、貧乏な家に生まれる人もいる。
そういうのは、運命と呼ぶのでしょうか。
運命を背負って生まれてくるのでしょうか。

それがどうであるということではなくて、事実を知りたいだけです。

No.1281 - 2009/01/04(Sun) 14:05:33

Re: / ubik0101

とりあえず短い返信・・・

それは、そのようでない、ほかの人と比較してるのでしょうし、ほかの人と違った人生を運命と呼ぶのなら・・・運命がなにかは知りませんが・・・運命でしょう。でも、ほかの人と比較しなければ、たとえば、ほかの人と比較するという自分の問題を解決するだけです。


そこそこ詳しい返信・・・

そうです。それは前世の因縁です。運命を自分で選んだのです。とか、答えて納得する人がいるなら。その人に、罵詈雑言を浴びせるだけでなく、殴ったり蹴ったりする恐れがあります。それはともかく、そういえば、

そんな「事実を知りたい」と思ったこともありません。また、誰かが、輪廻とか、業だとか、親を選んで生まれてくるとか、親は選べないとか、言ってるのを聞いても、まったく意に介したこともありません。まず、自分で見たことでさえないことを信じるなら、奇妙です。そして自分は、

なぜ子が親から生まれるのかさえ知りません。 もしも運命だとして、運命、それがなぜ、運命なのか、不幸がなぜ、不幸なのか。この世界が、この世界である、それが何かさえ・・・それを問いますが・・・知りません。どうでもいいのでしょうが、そうなってる。だけです。そして、それが、

おそらくですが、なにか事実として運命とか、何かだとして、なぜ、それがそうなってるのか、答えることができる人は皆無だと思います。ならば、それを知っても意味があるのでしょうか。また。それが運命として生まれたと知って、なお、生まれる必要があるのでしょうか。答えのない質問を見つけたのかもしれません。それでもなお、

それを質問するならば。それは、そう質問する人が、自分で答えを見いだす可能性があるかもしれません。ただ、事実として・・・どのようなことでも言えるとしても・・・どのようなことでもない。と、思います。そして、

たとえば運命だとしても、偶然だとしても、輪廻だとしても、なんであっても、それからの解放が可能なのが、この世界の機能です。

No.1282 - 2009/01/04(Sun) 22:01:31

Re: / ルー
それからの解放とかいうより以前に、どうなっているのかを知りたいだけです。
No.1283 - 2009/01/04(Sun) 23:57:50

Re: / ルー
知りたい、知りたくない、という葛藤はありません。
そうなっている。。。と言われるところを、そうなっているというのはどうなっているのかを知りたいだけです。
「知りません」と書いておられますが、「そうなっている」ということは、どうなっているのかは知っているということでしょう。
なぜ、その親から生まれねばならなかったのかは、誰にも答えられないでしょう。
それは、「問い」ではないのです。
その親から生まれねばならなかった、という事実なだけです。その親からしかその子は生まれることができなかったというのは事実だと思います。

No.1284 - 2009/01/05(Mon) 00:02:35

Re: / ルー
何かから解放されたいということはありません。
No.1285 - 2009/01/05(Mon) 00:03:46

Re: / ルー
私は、新しい場所へと進んでいっているのです。
No.1286 - 2009/01/05(Mon) 00:04:51

Re: / ubik0101
>それからの解放とかいうより以前に、どうなっているのかを知りたいだけです。

もしかして、 2,3年前にも言いましたが、ブッダのいう十二縁起(依存関係)を研究するのはいいかもしれません。うろ覚えですが「これありて、これあり。これなくて、これなし」。です。

その意味としては、「無明(無知・愚かさ)ゆえに、行がある。行があるゆえに識がある・・・・・ゆえに老病生死がある・・・という順観。そして。無明をなくすことによって、行がなくなる。行がなくなることで・・・・・老病生死がなくなる・・・という逆観」。の十二の項目の連鎖だったと思います。

その、十二の項目についての、それぞれの定義もなされています。たとえば、無明の定義には、無明を滅する事を知らない無知、とかもあったと思います。仏陀の悟りの内容で、世界の仕組み、と思います。「阿含経」に書いてあります。このところhatoさんの実家にいますが、アパートに帰ったら、抜粋、投稿できます。 どこか、ゲストブックにも転載しています。

たとえば龍樹をはじめ、いろんな人が、十二縁起を様々に解釈しています。けど、覚醒体験などをした人、また実際に、無知をなくした人でなくては、理解したつもりで、誤解できるだけです。

また、なにか体験しても、その人の、それまでの経緯に影響を受けます。あとで、それを理解する意識は、なおさらです。そこで、体験も理解も、捨ててしまう必要もでてきたりします。

それでも、また。そういう体験をしなければ、それを聞いても知っても、あまり意味がないと思います。

>私は、新しい場所へと進んでいっているのです。

そういう体験とかも、もう不要なら、ルーさんが自分で感じるまま、見たまま、です。これから夜まで、出かけます。

No.1287 - 2009/01/05(Mon) 11:23:07

Re: / ルー
そうですね、もう、十二縁起も必要ないと思います。
直接、この世界と関わっていきます。

ありがとう。
うびさんの存在が嬉しいです。

No.1288 - 2009/01/05(Mon) 16:02:18

Re: / hato

ほんとうに。

彼はただ、愛です。
そして尚、そして尚、愛さざるを得ません。

喜びが満ちるとき、
私たちは、
それぞれの世界で表現していくことが出来るのだと思います。

No.1289 - 2009/01/05(Mon) 21:23:24

Re: / ルー
うびさんは、ただの人。だしょ?

怒りが満ちる時にも、表現することはできるのでは?

No.1290 - 2009/01/06(Tue) 14:32:51

Re: / ルー
あまり意味がわからなかったので、つっこんでみました。

特に言いたいこともないので、スルーしてください。

hatoさんが何を伝えたいのかを考えてみたのですが、よくわかりませんでした。
hatoさんの文章は、たいてい、そうです。
説明してありません。
たぶん、伝わらなくてもいい、という思いがあるのでは?

ま、お互い、特に話したいこともなさそうなので、気にすることもないと思います。

No.1291 - 2009/01/06(Tue) 14:40:02

Re: / ルー
hatoさんは、うびさんを愛してるって言いたかったのね。。。

じゃ、そういうわけで。

ごちそうさまでした。まる。

No.1292 - 2009/01/06(Tue) 15:06:07

Re: / hato

ルーさん、こんばんは。
ルーさんらしいね、といって、ubik0101さんと爆笑していました。
どうもありがとう。

わたしは、単刀直入なんでしょう。
今のところは、それでよいのかもしれません。

愛、
その了解。
たとえば全身に染み渡る、たとえば胸に熱く湧き起こる、感謝。歓喜。
静かに、ときに鮮烈に、個々に了解されるそれを「喜び」と表現しました。
それは成長のなかで、必ず経なければならないことでしょう。
聖書にも、そこがなければ、ただうるさいシンバル、ドラになってしまう、
と書かれていたように思います。
了解を得て、自分を正確に理解して初めて、私たちは人として歩んでいけるといえます。
そこで、素直、謙虚、などの資質を育てる、より良い土壌が出来るといえます。
そして尚、学び、成長することが嬉しいのだと思います。

まず、人としての理解の為に尽くされるubik0101さんに、
感謝申し上げたいと思います。

というわけで、えーと、
夫婦としては、初心者なのでー。
というより、
二人とも、脳天気にもほどがあるのでどうしましょう。まる。

だしょ?(笑)

No.1293 - 2009/01/07(Wed) 00:13:54
(No Subject) / ルー
私が何かをしてあげたいとか、それについて考えたい、とかいうのではなくて、それを理解したいのです。
未熟な親によって虐待され、1才ぐらいで死んでしまう子供は、何のためにうまれてきたのかということについて。

No.1275 - 2009/01/02(Fri) 23:51:38

Re: / 大阪
ルーさん、こんにちは。

今日も、新たにそんな酷いニュースを見ました。

確かに、その未熟な親によって虐待され、1才ぐらいで死んでしまった子供にすれば、自分の自我が問題でそんな不幸な目に遭ったわけではないでしょう。

問題は親の自我でしょう。

自分の子供をそんな風に死なせてしまうなんて、何のためにうまれてきたのでしょう。

誰かの自我の問題は、その人だけでなくて、周囲の人に影響するようです。
自分は思っていもいなかったけど、知らぬ間に人を精神的にも肉体的にも傷つけることもあるようです。

だから自分の自我の問題を解決することは、自分のためだけではないのでしょう。

それで、自分や周囲を不幸にしているのは、他でもなく、自分ではないか、とか気付くのだと思います。というか本当は知っていて、隠しているだけなのだと思います。

それで、自分の成長を望むようになるのだと思います。


もしもそんな親がそれでさらに酷い生き方をするなら、赤ちゃんは泣くでしょう。
もしもそんな親がそれで成長するなら、赤ちゃんは生まれてよかったと喜ぶと思います。

僕の考え方はこうです。

No.1276 - 2009/01/03(Sat) 12:19:44

Re: / ルー
大阪さん、お返事ありがとうございます。
その未熟な親が虐待によって子供をCENSOREDしまうことによって、成長するなら子供は喜ぶ、さらに酷くなるなら悲しむということは、やはり、その子供は、親のために生まれてきたということでしょうか。

未熟な親からも子供は生まれる、ということだと思います。
その子供として生まれてしまうことの理不尽さ。
その世は、そのような理不尽なことが起きるところ、だと思います。

No.1277 - 2009/01/03(Sat) 15:30:44

Re: / 大阪
そんな理不尽なことの起きるこの世を愛して生まれてきたんだと思います。

どんな理不尽も、どんな不幸も許せるぐらい、この世が愛しかったのではないでしょうか。

だから自分のために生まれた、ということでもあると思います。

No.1278 - 2009/01/03(Sat) 18:53:59

Re: / ルー
親が未熟であること、この世は理不尽なことが起きるところであるということを認める、ということかなと思います。
No.1279 - 2009/01/03(Sat) 22:45:18

Re: / ubik0101
>未熟な親によって虐待され、1才ぐらいで死んでしまう子供は、何のためにうまれてきたのかということについて。

それで。未熟でも、そうでないとしても、どんな親の子供として生まれても。100才くらいまで生きて、そこそこ楽しんだり苦しんだりして・・・自分の感覚や、感情や、意識に迷って、愚かなまま日常に埋没し・・・子孫を残して死んだ人は。なんのために生きたのか?

ということも考えてしまいます。そこで、いろんな言い方がありますが、そういう迷いの自我を完全に使って、それに依存する必要がなくなる、成長する、自己になる、ことが望ましい。その人の惹きつけられる問題にこそ、その道があるように思います。それでも、

どう考えても、1才ぐらいで死んでしまう、その子供の不遇は、実際に解決しません。これは世界にとって、それでもいいから、世界にあり得るのだと、思います。その理由として、

ひとつには。それが理不尽であっても、そういう不完全なこともなければ、世界は完全ではないからではないでしょうか。たとえば人が考える欠けるところのない玉のような完全さなら、それは不自由かもしれません。そうでなく、

なんでもありの、不自由もある、不幸もある。不公平もある。不運もある、幸運もある、どうでもないもある。完全さゆえに人は、この世界に惹きつけられるのだと思います。それで、

その、なんでもありの完全さを解釈し人は、それが虐待であれ、そうではなかったけど偶然の事故などであれ、1才くらいで死ぬ子供についても。100才くらいの長寿な人についても。さまざまな意味を汲み取ります。けど。たぶん、

なにか出来事とは、すべての意味を孕んで無意味でもあります。たとえば、とある汲み取られた意味は、どんなものでも、偏りを示すかもしれないと思います。それで人は、どんな意味、思考に、依存できないのかもしれません。また、

ひとつには。どうであれ、死んだらどうなるのか?という問題が避けられないと思います。

No.1280 - 2009/01/04(Sun) 11:05:07
(No Subject) / hato
>自我の解決が問題のすべてではないと思います。

それは明らかに、自我の解決だけ、に関わっているともいえません。

自我の捉え方として、それを、ツール、と受け取れるなら、
自我を単に悪いもの、とする必要はなくなります。
そこは大変に微妙なところです。けれども、非常に重要なところです。
でなければ、本当に省みられるべき自我は、
いつまでも言い逃れをしてしまうでしょう。

自我があろうがなかろうが、(というより、自我をそのままにしていても、)素晴らしいことはできます。
自分を省みることなく、世界の為、と働くことが出来ます。
ですがおそらく、根本的な解決にはならないでしょう。

まずは、
それはとても痛い事かも知れませんが、
手を付けるべきは自分であることを知ること、
或いはそれは、自分が関わっている、世界への本来の意味での責任感ともいえますが、
その上で、時々に出来ることをしていくなら、
道を歩いていくことができるように思います。

No.1256 - 2008/12/30(Tue) 13:57:04

Re: / ルー
世界を知ることが、私にとって必要なんです。
No.1257 - 2008/12/30(Tue) 15:18:21

Re: / ルー
私にとって知りたいことは、悪意と無知の関係のことと、それから泥沼の中にきれいな花を咲かせましょうということの意味についてでした。
そのことについて、江原さんの本に書いてあって、うびさんが書いていたことと似ているので、うびさんに話したくなったのです。

hatoさんが私に伝えたいことは、私にはまだよくわかりません。
世の中に起きている悲惨なことよりも、自分にできることに目を向けるべき、というようなふうに私は理解しましたが。
世の中に起きている悲惨な出来事は、私とちっとも離れてはいないのです。
その起きている出来事を理解しなければ、私についても理解できないのです。

No.1258 - 2008/12/30(Tue) 15:25:25

Re: / hato

ルーさん、途中からごめんなさいね。

昨晩は、ubik0101さんが大切なお客様をおもてなししていたので、ちょっとそうしたこともあって、書きました。
今日、ubik0101さんが続けるように、とのことだったので、続けてしまいましたが、気を悪くしないでくださいね。

たぶん、
なにかを知ることが必要だと思うのは、それが正に自我だからです。
それで、
その自我の状態を、嘘をつかず、正直に掘り起こしていくか、世界、といわれる場所に都合のよい言い訳を探しにいくか、それは人の分かれ道、なのかもしれません。

恩寵、という言葉を考えるときがあります。
それは本来、どんな人にも、どんな状態の人にも訪れている、ものかもしれません。
人が気付かざるを得ないようにしむけられる、ということもそうです。
それは、経験のあるなし、なにかを知ってる、知らないとは無関係、といえます。
世界はその意味でとても公平にあります。
その自分の有り様、その自分を取り巻く世界、で充分だと思います。

それでは、ubik0101さんにお願いしましょうね。

No.1259 - 2008/12/30(Tue) 16:59:06

Re: / ubik0101
>私にとって知りたいことは、悪意と無知の関係のことと、それから泥沼の中にきれいな花を咲かせましょうということの意味についてでした。

とりあえず、自分が自分を自覚したい、という運動があると思います。それは、自分について無知だからではないでしょうか。知らないから、自分を知りたい、のです。それで、あらゆることを知ることによって。その知ろうとしてる自分を知ろうとして、

この世界では。なぜか、なにかを行動したり、話したり、思考したりすることができるようになっています。そして、そうしてることは自覚できます。これが実は・・・不思議、神秘、秘密なのですが・・・その様式として。とくに、ほかの人との関係で、分類すれば、善意とか、悪意とか、どっちっでもないこととか、できるようになってると思います。その分類も、

いろんな時代や文化や個人によって異なり、明確な定義はできないでしょう。つまりそれが、善意でも、悪意でも、どうでもないことでも。損得でも。苦楽でも。その自分を知りたいための運動から派生したこと、ではないでしょうか。それで、

くり返しますが、問題は、悪意だけが、無知と結びついてるわけではありません。ありとあらゆることが、たとえば善意も、無知。損も無知。得も無知。成功も無知。失敗も無知。無知も無知。知識も無知・・・であれば無知。つまり自分を知りたいという運動の現れではないでしょうか。それで、そのどれか

たとえば悪意と無知を繋げて見ると言うことは。そう見る人が、そのように部分的な見方をする傾向にあって。その傾向があることを自分で気が付くことができます。そのように人は自分を学ぶことができるように出来てる。のだと思います。

続きます。

No.1260 - 2008/12/30(Tue) 18:42:32

Re: / ubik0101
そのように、自分が自分を知りたい運動。そうするために、ほかの人との軋轢や、意見の違いは、とくに効果的にできています。それを自我の機能と呼べます。それはとりあえずは、

ほかの人にも自分にも、自分の立ち位置が解りやすいこともあって、共感できることもあって、たとえば悲惨なこととか、悪意を問題にする。狭い範囲から始める傾向にあります。このことを分離がある。とか呼ばれることもあるのだと思います。それで、

たとえば、悪意。それと反対のこと、類似なこと、無関係なこと。もっと広い世界を経験したり、観察できます。それで、問題が解決するとは限りません。その根っこは、ただ、自分を知りたい運動。そこにあり、

それを解決せねば、たとえ世界の総てのことを知ったとしても、なにも解決しないのではないでしょうか。その自分を知ろうとして、世界を観察するのなら・・・それは生まれる前からも迷い、死んでも迷う・・・始まりも終わりもない迷いではないでしょうか。そうでなく、

その自分を知ること、を解決すれば、とくに総てを経験しなくても、観察しなくても、病気、健康、裕福、赤貧、悲惨、安穏・・・どの極端でも中間でも無関係に、問題は解決です。その解決した様が、泥沼に咲いた蓮の花。それは、とくに世界中のことを知っても、あんまり知らなくても、まったく無問題です。

No.1261 - 2008/12/30(Tue) 19:46:14

Re: / ルー
何だか、とてもズレているように感じます。
私は私の道を、犀の角のように、ひとり歩みます。
ちょっと話したかっただけでした。
何か問題が起きるようですか?
お邪魔しました。

No.1262 - 2008/12/30(Tue) 23:24:45

Re: / ルー
話せる人として、うびさんしか見あたらなかったのです。
でも、何だか、ズレているように感じます。
今までのように、ぴったりな感じがしません。
説明が足りないかも知れませんが。

No.1263 - 2008/12/30(Tue) 23:27:44

Re: / ルー
「悪意と無知を繋げて見る」とか「自分を知りたいという運動」とか、そのように捉えられるのは、今までのうびさんとは違うような感じがしました。

ま、私がどのように感じようが、うびさんには関係ないですね。
私も、うびさんやhatoさんがどのように感じようが関係ありませんのと同じですね。

私のことは私がわかっていればよいということでしょう。

そのようにして、私もひとつ大人になったのでしょう。

No.1264 - 2008/12/31(Wed) 00:01:35

Re: / ubik0101
うん。それはそれで。なのですが。ここでは。ルーさん個人の有り様を話したのではありません。こんなことは潜在的に理解してるのだけれど、ルーさんは、自分に見えるように言葉、思考にしてないようだ。それを明確に理解してみたらどうでしょう。という意味で、話してみました。
No.1265 - 2008/12/31(Wed) 09:27:04

Re: / ルー
何か、説明するのが面倒で。
うびさんは、私の最小限の説明でやりとりできる数少ない人。
なのですが。
やはり、もう、いいです。^^

No.1266 - 2008/12/31(Wed) 14:32:52

Re: / ルー
私は、この世に生まれて、うびさんと知り合えて幸せでした。
よいお年を。

No.1267 - 2008/12/31(Wed) 14:33:57

Re: / ルー
あ、自我の解決がすべてではない、ということを思ったんです。
自我が解決しても、さらに、そのうえに、それよりも広い範囲に目を向けるようになる、ということだと思います。
自分が思ったことなのに、詳しい説明ができなくてすみません。
そのへんのことを、うびさんは、自分に見えるように言葉、思考にしていない、と言われたのかな?
私にも、うっすらとしかわからないので。
すべてのことを自我に返還すると、間違うこともある、ように思います。
それは、自我を解決しなくてもいいということとは違います。
もっと広い問題がある、というか。
それについて詳しい説明ができなくてすみません。
それを明確に理解するには、材料を持っていません。
これから生きていく中で、出会う中で、見つけていくのではいけませんか。
というか、私の中では、それは、問題(問い)という形で存在しているのではなくて、「そのように感じる」というだけのことなんです。

No.1268 - 2008/12/31(Wed) 14:42:02

Re: / ubik0101
>自我が解決しても、さらに、そのうえに、それよりも広い範囲に目を向けるようになる、ということだと思います。

どういう意味で「自我の解決」を言ってるのでしょう。というのも、これが自我だという、その自我の定義、理解も、立ち位置によって違いがあります。理解の、深度(変な言い方)があります。

それで。いろんな自我の定義、理解があって、その広さ、深度が深まる可能性があるということでしょうか。もし無知とか悪意なら、それは自我の問題の範疇だと思います。

それとも、たとえば世にある悲惨な出来事を見て、そんな酷い目にあってる隣人を助ける気持ちがあるとして、そういう具体的なことは、自我の問題の範囲より広い、と言う意味でしょうか。

そのような人のためになる働きは、たとえば募金や争いの仲裁なら、偽善でも自我でもできるように思えるけど。まず自我の問題を解決したなら・・・問題を正確に見ることができるので、愛とか慈悲とかが発現するので。そうならば悲惨を継続させる、増長させるということではなく。世界の役に立ことができる。という意味でしょうか。

No.1269 - 2008/12/31(Wed) 17:40:34

Re: / ルー
悲惨な目にあうことは、自我の問題ではないということです。
No.1270 - 2009/01/01(Thu) 00:16:42

Re: / ルー
悪意を持つ、悪意を発揮する、悪意に従った行動をとることは、自我の問題だと思います。
その悪意の出どころは、弱さや無知であるということを最近知りました。
「自我かどうか」ということは、私には、その、自我と自我以外の境目がはっきりしていなくて、また、「自我」というものにこだわる気がないということです。
自我はない、ということが身についているのかも知れません。

No.1271 - 2009/01/01(Thu) 00:20:51

Re: / ルー
それとも、自我という目に見えないものに興味が持てないだけかも知れません。
または、悪意というものがよくわからないというだけなのかも知れません。

No.1272 - 2009/01/01(Thu) 00:36:54

Re: / ubik0101
たとえば愉快な、悲惨な、安穏な、どんな状況にあるとしても、それに依存、執着、縛られることは、自我の問題になり得ます。それで、自我を解決しても。たとえば嬉しければ楽しみ、たとえば悲惨な出来事に、悲しみ、怒ります。くり返しますが、

そういうことが削除されるのなら、なにかの病気です。そんな、たとえば感情は、自我の問題ではなく、世界の機能で、大袈裟に言えば、神秘です。不思議、知らない、です。それで、自我の問題としての、悲しみ、怒りと、神秘の、悲しみ、怒りは、おなじであろうと、違っていようと、

それを同一の地平、平野で、 そうでない人に話して伝えることは、ほとんど不可能です。また、嫉妬や、偽善や、恨みや、意地悪や、悪意・・・たぶん特定の人間関係に依存することは・・・自分の場合なのかも知れませんが、まったく機能しません。 そのようなことの了解は深いところではあっても、

このサイトや掲示板で話してるように、言葉にする 。自分の意識に教えなくては、それを維持できないということはないのですが、そうすることで・・・経験則ですが・・・さらに学ぶことができるようになっています。ところで、

>悲惨な目にあうことは、自我の問題ではないということです。

まず自分の意識が理解してるかは別として、深いところで自我が解決されて、たとえば自我とは関係ない悲惨が見えてくると思います。それに悲しみ、怒ったとしても、そのことに依存、執着、縛られることができません。そして、そのような人ばかりであるなら、

その自我による人為的な、争いなどは、もともと起こらないことが期待されます。そのためばかりではありませんが、ほかの人の成長の役に立つことは、とても大切です。そのためばかりではありませんが、自分の意識に教えること、学ぶことが必要です。

>自我はない、ということが身についているのかも知れません。

そうなのだと、睨んだり踏んだりしてるのです。けど。自分の意識に教える、言葉で理解することは、不明解でないためにも、大切です。まったくubik0101にとっても、自我など、言葉上のことでしかありません。たしかに、

なにか自我というものが、 身体の中にあるとか、中心とか、世界や自分との分離という感覚が、ほかの人にあるという人の話を聞いて、自分を探っても知覚できません。なんだかの好ましくない感情や思考に、自我と名前を付けてるだけなのかなとか。とも思ってもみます。それを、ない、と知覚する必要があるのも、自我であり、それもないことを知っています。また、

ほんとうの自分、自己を、自覚する必要があるのは自我の機能であり、それを言葉による理解によって、その必要もないことを知っています。それだけのことです。

No.1273 - 2009/01/01(Thu) 14:06:21

Re: / hato

自我、というテーマについて出来るだけ明快に、誠実に踏まえることで、自分自身を助け、より人に適切である、あろうとすることが出来ます。むやみな反応をする必要がなくなります。或いは、その人のテーマ(という表現が適切かは解りませんが)であるかどうかを度外視すれば、悲惨な状況を悪化、長引かせる必要もなくなると思います。なぜなら、その世界、その自我の機能への不理解が問題となっているのは明確だからです。

また、人にはそれぞれに時期があり、タイミングがあり、テーマがあり、それを守る為に自我が機能するときには、ただそのことを受け取り、出来るだけ敏感に生きていくなら、学ぶに必要なことは、ただ起きているのだと思います。


旧年中は、皆さまに大変にお世話になりました。
ありがとうございます。
今年も、どうぞよろしくお願い致します。

ubik0101
hato

No.1274 - 2009/01/01(Thu) 14:55:13
悪意と無知のことについて / ルー
江原さんの最新の本に、ヒントになることが書いてありました。
弱さと無知によって悪意はできている、とかなんとか。

No.1240 - 2008/12/25(Thu) 19:29:30

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
見せ掛けの強さを演じること、見せ掛けの叡智を装うことによって、見せ掛けの善意を信じさせること。
一皮剥けば、弱さと無知があった。
そして、見えてきたものは、他人が恐いということ。
他人が恐いということの裏返しで、身内には支配する。
身内というのは、自分の子供、孫。
それも、言うことを聞いてくれないのなら、敵扱い。
他人は敵。
言うことを聞かぬ身内も敵。

No.1241 - 2008/12/26(Fri) 09:27:30

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。
No.1242 - 2008/12/26(Fri) 09:30:55

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
おおくの場合、 愚かな人は、その自分の愚かなことには気が付きたくないようです。また、その愚かなことに気が付かなければ、愚かではない・・・たとえば叡智がある・・・これまでの人生に自信がある。と思い込めるほど、愚かでもあると思います。 そうでなければ、

たとえば見せかけの強さも、見せかけの善意も、その人にとっては、正当性を持たないと思います。そういうこともあって、その見かけの叡智、つまり愚かさを自分自身のように守りたい・・・自己保存することが・・・優先される傾向にあると思います。そういう人の日常は、

いろいろな傾向のある、ほかの人と軋轢を生じるでしょう・・・また軋轢の可能性を持っているでしょう・・・それは、その愚かさが、愚かな自分にも見えるように人間関係の軋轢として、現れたのです。けど。それだけで、その自分の言動の正当性の正否を探ろうともしない傾向にあると思います。つまり愚かな自分は、自分の愚かさを守りたいのでしょう。 たとえば、

それをほかの人から指摘されるのを嫌う傾向にもあるようです。それは自分で理解しなくてはならないので、ほかの人の指摘は困るので、拒まなくてはならないから、ということもあるでしょう。そのように、

いわゆる自我は、機能すると。それを学び、それから解放されることができることを知らないということもあるでしょう。そのように自分を学びたくないことが、ほかの人との軋轢で苦しむことよりも・・・そうであれば、敵もいるかもしれませんが味方もいるので・・・拠り所がある。楽だと感じてるのかもしれません。そのように。愚かな人は、愚かでいたいのだと思います。

続きます。

No.1243 - 2008/12/26(Fri) 17:27:21

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
>私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。

そのために生まれた、のだとしても。とくに、そうではない、としても。「こういうことを学ぶ」。また、学んだ。なら、その人生、状況、環境は活用され、満たさてるので。どちらでも問題にならないのではないでしょうか。

というのも、「こういうことを学ぶ」という状況は、ただ自己を知るための 取り替え可能な負荷と思うからです。それだから、そんな問題から解放されることもできるのだと思います。

ところで、テレビを持ってないこともあって、江原さんの番組も見ていません。

ちょっと昨日は泊まりがけで出かけて、今日の夕方に帰ってきたので、返信が遅くなりました。

No.1244 - 2008/12/26(Fri) 18:17:06

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
本屋さんで江原さんの本を見つけて立ち読みした時に、まず、泥の中に蓮の華が咲くということが書いてあって、興味を持ったのです。
私は、まだ、そのことがよくわかっていません。
キリスト教では、天の国は現世にあるのだと言っているでしょう。
しかし、泥の沼の中にきれいな花が咲くということは、現世は泥沼であるということでしょう。

No.1245 - 2008/12/27(Sat) 20:54:19

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
それから、私は、学ぶとか成長するために生きているということは、まだはっきりとは知らないんです。
No.1246 - 2008/12/27(Sat) 20:59:56

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
うろ覚えですが、イエス・キリストの言葉は。「天の国は、ここにある、あそこにあるというのではない。ただ人の心(人と人の間)にあるのだ」。だと思います。つまり、現世にある。また、天上にある。とは言われていません。さらに、

まずは天の国という言葉が、なにを意味するのか了解しないで、それが現世にある。たとえば、どこか天上にある。どこか天上ではないとか、と。表現するなら、誤りです。それは、天の国とか、現世とか、いう言葉に勝手な意味をつけて、そんな空想を、前提にしているのかもしれません。おなじように、

また現世が、泥沼である、も。その現世とか泥沼という言葉で、なにを意味してるのか、明確でないならば、それは自分の了解してないことを言ってるのでしょうし、無知な空想かもしれません。 ところで、

ここで言う泥沼とは、自我のことです。その自我が成長し、完成するなら、ほかの言い方では・・・自我が機能する必要がないので・・・自我が死ぬなら・・・咲くのは蓮の花。それは、愛を、実在を実感し、そう実感する自己が与えられる。あるいは目覚める。その有り様が、天の国です。安息日の主です。聖書でも、一粒の種が死ぬなら、おおきな収穫が得られる。とか言われてると思います。

No.1247 - 2008/12/28(Sun) 12:19:42

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
現世は修行の場であるということをわかりかけています。
何度も何度も言葉ではわかるのですが、身にしみてわかるには、あと一歩というところです。

No.1248 - 2008/12/28(Sun) 13:53:52

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
それは、自我の完成。空っぽ体験。愛の体験。自分自身を知る・・・などと表現される結果、体験によって、明確だと思います。けど、

その人の経緯、状態によって、そこから汲み取れる意味も・・・その人の意識による理解としてですが・・・変わってきます。すこしししか汲み取れない人も、おおくを汲み取る人もいると思います。たとえば、

「おおくを持つ者は、さらにおおくを与えられる」。とあるように、です。自分の体験の了解、納得が、困難といえば、困難だと思います。そういう意味ばかりではありませんが、

それが学びの終わりではなく始まりです。たとえば、偽りの叡智を育てた人なら、それに依存・執着した経緯がある人なら・・・そのことが偽りでなく完成され叡智として機能していることを見出すので・・・どんなことも、無意味ではないことを知ります。

No.1249 - 2008/12/28(Sun) 15:08:04

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
無意味ではない〜
そうなのだと思いますが、どうしてそんな目にあわなくてはならないのかという疑問と、そんな目にあわずに生きている人がいる(共存している)ということに納得がいっていません。
キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。

No.1250 - 2008/12/29(Mon) 10:27:15

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
まあ。どんな自我でも、たとえば、ほかの人との軋轢を避けるための偽りの叡智でも、はじめから悟ってるつもりで迷ってる自覚さえない自然外道でも、それは臨界、最強度にまで達しなければならないのだと思います。そうであって、やっと、そういう自分の意味を探る、反省する、状態になるのでしょう。そして、

それが 、 ある時、ついに叡智に転換されるのではないでしょうか。それが、おおくを持つ人は、さらにおおくを与えられる。つまり迷いが大きい人は、理解できる叡智も大きい。ということでしょう。それを知ってか知らないでか、人は、いくらでも迷えるのだと思います。 そして、

そういう自我の機能は、なんであれ役に立ちます。たとえばよく言われる、世界と自分との分離も、感情や思考との同一化の問題も、欲望、暴力なども、そのような取り替え可能な負荷、触媒です。そしておそらく、そういう人から酷い目に遭わない人は誰も、いないと思います。そんな目に遭わないように見える人も、その人には、なんの問題もないということはないでしょう。そこは、

お互いに、お互いが、自分の目の中の梁に気が付かずに、相手の眼の中のゴミを取ってあげようとしてる、そんな有り様なのでしょう。それはそれで、かなりの混乱、おおきな迷いですが、それが成就するならばですが、おおきな叡智の可能性が育ってる。泥沼。そのために、

お互いがお互いに活用しあってる。とも言えないことはないのです。そこに、不公平なことはないと思います。 イエス・キリストは、まず自分の目の梁を取ることを薦めています。また、そういう人間関係の問題もですが、この自分のたとえば無明。老病死苦の問題を解決すること、それが根っこの問題だと思います。

>キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。

うん。けど。そのことは意識の管轄、範疇にないことです。それを、意識で理解しようとしたりすることも、知識で得ようとすることも、迷いになっています。そしてそのことさえ叡智に転換され得ます。

No.1251 - 2008/12/29(Mon) 11:46:59

Re: 悪意と無知のことについて / hato

師走るころ。

空では小春日和に、鳥たちが和んでいるようです。
メジロ、
窓を開けて、ぱたぱた掃除をしていても、
だいじょうぶ、
こっちを見ながらミカンをついばんでいます。

ちょっと素敵なお客様、

ubik0101邸に、ようこそ。

No.1252 - 2008/12/29(Mon) 12:10:06

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
例えば、虐待の被害者になる子供は、何のために生まれてきたのか。
未熟な母親が何かを学ぶため?
そんな、誰かの為だけに生まれてくる人はいるのでしょうか?
酒鬼薔薇に殺された子供は、何のために生まれてきたのか。
今は、生まれ変わって幸せになっているのか、気になります。
そして、「気にならなくなる」ということが最終地点なのだと思っていましたが、そうでもないように思えます。
そういうことが気にならなくなる方が、こわいことです。

No.1253 - 2008/12/29(Mon) 23:30:45

Re: 悪意と無知のことについて / hato

世界に痛みは多く、あるように思えます。
理不尽なことも多く、あるようです。

そして、
だからこそ人ができるのは、
というより、
しなければならないことは、
自分を糺すこと、なのだと思います。

極端に言えば、それしかできないのだと思います。
極端に言えば、それでよいのだと思います。

それは必ず、世界に繋がっていくからです。

痛みが正に痛みとして感じられないなら、
おかしなことと思います。

けれど、ことさら外や人に目が向いてしまうなら、
自分の内にある何かから、目を背けたいだけかもしれません。あるいは、気付いていないことがあるかもしれません。
人は、まず、自分に手が届くこと、ここにあるチャレンジを尽くすこと、で充分です。

どこかの地点で、
なにか、見逃しているのではないだろうか。
決意してしまったこと、
ささいな、こと。けれど、大事なこと。

それは、その人にしか、わかりません。
私たちは、そうして自分を省みながら、学んでいくことができるのだと思います。

No.1254 - 2008/12/30(Tue) 01:39:32

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
自我の解決が問題のすべてではないと思います。
No.1255 - 2008/12/30(Tue) 12:21:30
ネールノット / ubik0101
あるとき、一人で飲み屋に行きました。たまたま隣の席に座った人と仲良くなり、教えて貰った、日本古来の釣り針の結び方です。

それは本結び(内掛け本結び、外掛け本結び、とは違います)とも、地獄結び、とも呼ばれます。

できあがりは同じですが、違う手順で。釘を使って結んだから、英語では、ネールノットと呼ぶそうです。

よく釣り道具店などで、ハリスに釣り針が結んで、売ってる商品がありますが、おなじ結び方です。ほとんど最強で、簡単で、薄暗闇でも。チヌ針0.5号でも結べます。

まず、写真のように。針先を、こちら(釣り針を結ぶ人)に向けるようにして、釣り針の、ちもとを、左手の親指と人差し指の間に挟んで持ちます。このとき親指の爪先で押さえつけるようにすると、しっかり固定できます。

No.1228 - 2008/12/19(Fri) 23:51:26

Re: ネールノット / ubik0101
ここからは釣り針では小さくて見えにくいので、ペンで撮影します。

ハリスを、釣り針に添えて、輪を作ります。

No.1229 - 2008/12/20(Sat) 00:33:42

Re: ネールノット / ubik0101
こちら(釣り針を結ぶ人)から見て、その輪の向こう側から、右手の親指と人差し指を差し込みます。
No.1230 - 2008/12/20(Sat) 00:40:35

Re: ネールノット / ubik0101
その親指と人差し指を広げて・・・針先と、ハリスの先を一緒に・・・輪の中に入れます。そうすると親指と人差し指は、下(地面)を向いています。
No.1231 - 2008/12/20(Sat) 00:51:52

Re: ネールノット / ubik0101
その輪に差し込んだ、親指と人差し指の先を閉じて、時計回りに円を描くように、こちら(針を結ぶ人)側に移動させます。その輪は、常に、緩めずに。軽いテンションをかけていきます。
No.1232 - 2008/12/20(Sat) 01:01:22

Re: ネールノット / ubik0101
その輪を、こちらに移動させたら、そこで。それまで下を向いてた親指と人差し指を、上を向くように・・・こちらから見て、親指が手前で、人差し指が向こう側になるように・・・右手首を、回転させて。親指と人差し指の先を広げます。手首は、このようにしか回転できません。
No.1233 - 2008/12/20(Sat) 01:11:34

Re: ネールノット / ubik0101
そして、親指と人差し指で広げた輪の中に、針先とハリスの先を一緒に、入れます。
No.1234 - 2008/12/20(Sat) 01:25:29

Re: ネールノット / ubik0101
あとは、同じように繰り返して、6、7回ほど結びます。
No.1235 - 2008/12/20(Sat) 01:30:19

Re: ネールノット / ubik0101
それから、ハリスの巻いたところが解けないように、巻き終わり部分を左手の中指で押さえます。ここで右手の親指と人差し指を輪から抜きます。このときハリスの輪には、より、がはいっています。

つぎに、右手の親指と人差し指で、ハリスの元を引っ張って、あるていど締め、次にハリスの先を引っ張って、あるていど締めます。結び目(ハリスの巻いたところ)が、解けずに、移動出来る程度に。です。

そして最後に、ハリスの結び目を、釣り針のちもとに移動させてから、ハリスの元と先を引っ張って。強く締め付けます。

No.1236 - 2008/12/20(Sat) 08:58:24

Re: ネールノット / 大阪
隠岐で、教わったやつですね。

次にお会いするときに忘れていたら失礼だと思っていました。

覚えなおしておきます。

No.1237 - 2008/12/22(Mon) 20:10:56

Re: ネールノット / hato

はい、hatoも、やっと覚えました。
(でもすーぐ忘れるかもですー)

きのう、部屋で日向ぼっこしていて
窓の外の木々の紅葉が、
風がふくたびに舞っているのを見ていました。

メジロ、四十雀、とても可愛いエナガ、ヒヨドリ。

メジロはことに人なつこそうで、木々の枝枝から、
まるで動く音符のようになって、皆でやってきます。

わーい、おいでおいで、

て喜んでいたら、手摺まで飛んできたりします。
窓から顔を出して上を覗いてみると、高い場所の枝には、
コゲラがいたりします。

冬の鳥たち、なかなか元気です。

そこで、小さな部屋の片隅には、
お気に入りの
アラジンストーブ。
ubik0101さんが手入れしてきれいにしてくれました。

No.1238 - 2008/12/22(Mon) 21:37:37

Re: ネールノット / ubik0101
ついさっき、ミカンを1つ、2つに切って、手摺に置いて。キッチンから、も、ひとつ持ってこようとして戻ってきたら・・・その間に、もう、ひよどりが飛んできて、食べています。あちこちにメジロもやってきて、その後を待っているようです。
No.1239 - 2008/12/23(Tue) 09:29:30
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