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(No Subject) / しむじゃ
ubik0101さんは「至高体験による覚醒の、始まりと、中間と、成就が自覚されます。」と書かれています。またどこかに覚醒は一瞬だ、ともありました。「覚醒の、始まりと、中間と、成就」とは一瞬の中にあるということでしょうか?
No.1226 - 2008/12/14(Sun) 07:41:37

Re: / ubik0101
それは、ほかの人のことを書いたのではなく、ただ自分に起こったことです。どうしようもない衝動によって、なにがなんでも、ほかのあらゆることを差し置いて、

これが自分だと思う自分の有り様を捨てて、自分の中心に向かう過程で。知覚される限りでは、偽善や嫉妬や傲慢や卑下など、なにも問題がない、有り様になりました。 それでも、

さらに自分の無意識に隠れた問題を掘り起こして、その前提、動機を探し出す、つまり、徹底して隠れた自分の中心をさらけ出すこと。その時には起こってはないけど、起こりえる、悪、自尊心などの可能性も見ることによって正当性をなくす・・・理解することは得ることではなく失うことに似てる・・・捨てる。をしていました。たぶん、

それが結果的にですが、意識・無意識を通じての訓練になっていて、意識・無意識に跨る、至高体験の過程を自覚できたのだと思います。その変化の始まりを、そして変化しながら、変化しつつある自分を、その過程を、自覚しました。その過程の始まりと、中間と、成就は、

ふつうに会社からアパートに帰り、玄関を開け、障子を開け、片足が上がり、それが畳に降りつくまでの、ほとんど瞬間でした。そうでなく、

たぶん人の部分的な変化なら、暫定的な経緯もあるかもしれませんが、それでは成就の自覚も困難だと思います。人の変化の、最も簡単な明確な出来事と思います。それで、

この一瞬とか、今、ということに、覚醒が見つかる。という意味ではありません。そのように思ったのであれば、それに正当性を持たせる、その隠れた前提、動機をさらけだし、そう思うことを捨ててた、だろうと思います。まったく、

どんな瞑想、座禅、いかなるメソッドも試したことはありません。そういうことにも無知なくらい、ほとんど書も読まず、社会的なことも個人的なことも捨てたのです。たぶん、ほかの人から見れば、たとえば素直にして傲慢、異常な日常生活だったと思います。自分に何が起こるか、というより、何かが起こることさえ知りませんでした。

No.1227 - 2008/12/14(Sun) 13:18:22
アホだなと思うことについて。 / ルー
他の人を見ていて、アホだなと思うことに、とても抵抗がありました。
アホかも知れないと思ってしまう瞬間、そのことを忘れようと、考えないようにしようとするのです。
それは何故なのかを考えてみました。
私は、たぶん、他の人から自分がアホだなと思われることにも耐えられないのです。
ですから、そういうことは、ナシにしてしまいたいのです。
しかし、自分が他の人をアホだなと思うことも、自分が他の人にアホだなと思われることも、現実にはあるわけで。
あることはあるのだと受け入れてしまえば、大したことではないみたいです。
しかし、それに慣れてしまうと、他のアホだと思われることに敏感な人との間に溝ができてしまうと思うんです。
その溝は、しかたないのかな。
それも、あるものはあるということで、しかたないかな。
無神経にはなりたくないんです。

すべてを憶えていることが必要なのでしょうか。

No.1214 - 2008/12/01(Mon) 14:25:17

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ううん。覚えておく必要はありません。なにかを理解したら、それは意識から失われ、知覚されなくなり・・・それが問題からの解放ですが・・・だからといって、その理解はなくなり、無神経になり、愚かになるのではありません。飛躍したのです。

なにかの問題がある場合は、それを理解するために、そのことに意識の焦点、照明があてられる必要があります。問題が解決されれば、そうする必要もなくなり、その理解は、意識にとっては無自覚の智恵として機能しています。

そうでなく理解したということを記憶しておく、掴む、基準にするなら、その理解したことに、依存してる、 縛られてる、恐れがあります。それは解放ではありません。

つまり徹底して理解されてるというわけではない、可能性もあります。また、そこに隠れてた、ほかの問題が理解されるために現れてきた、可能性もあります。

続きます。

No.1215 - 2008/12/01(Mon) 18:40:18

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ところで。たとえばアホを、アホと。たとえば偽善者を、偽善者と、思うことを自分は躊躇したことがありません。アホを、アホと思わないのは鈍感です。賢者と呼ぶのはアホです。偽善者を、偽善者と呼ばないのは鈍感です。誠実な人と呼ぶのは、偽善者です。そういう嘘をつくことは、自分にも、ほかの人にも、無神経でなければ不可能です。

ほかの人が、事実、アホであり、偽善者なら、そう呼んで当然です。でも、 事実そうでなく、自分の勝手な判断で、ほかの人を、アホ、とか、偽善者とか、自我の人とか、欲望の人とか、賢者とか、誠実な人とか、無我の人とか、無欲の人とか、思うのであれば問題です。

また、ほかの人が自分を、アホと思ってもないのに、そう思ってると思ってしまう、ということもあるかもしれません。

しかし自分がアホ、偽善、自我、欲望を理解しているなら、その問題を解決してる、その智恵があります。それは無自覚ですが、いつでも引き出せます。それに依存してないので、それをほかの人に言葉で説明できます。もしも、それが誤ってたり立ち位置が違ってたりするなら、互いに学ぶ機会になると思います。

また、ほかの人から自分がアホと言われたら、その理由を聞いて理解する必要があります。ほかの人の判断が誤ってるかもしれません。また、相手の理解が正しくて、自分が学ぶ機会になるかもしれません。また立ち位置が違うのかもしれません。

ただ、それを理解したからでなく、飛躍してることもあると思います。飛躍の後に理解することもあります。たとえば自分は傲慢を理解してるわけではありません。卑下を理解してるわけでもありません。けど、傲慢や卑下に縛られることは、ないと言えます。

No.1216 - 2008/12/01(Mon) 19:58:59

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
> ところで。たとえばアホを、アホと。たとえば偽善者を、偽善者と、思うことを自分は躊躇したことがありません。

カッコイイ!・・・ぞ

>アホを、アホと思わないのは鈍感です。

ああ、そうなんですね。
そのへんを私は曖昧にしています。

いろいろな悲惨な出来事の原因は、悪意によるものか無知によるものか、と考えます。
無知であるならしかたがない、という考えが底の方にあるようです。
そして、悪意があるなら、許せないこと、という考えがあります。
アホならしかたがない、と。
極端に言えば、殺人などを犯しても、責任能力がないなら無罪になるというようなことです。

アホだから、無知だから、知能が低いから。。。。。相手が苦しんでいるのがわからない、相手の人生を破壊していることに気づかない。。。。それなら許せるか?
それとも、自分の人生が破壊しているので相手の人生も破壊してやろうという悪意があるなら許せないのか?

ああああああああああああああああああああああああ、ああ、なるほど。
私は、人がアホかどうかをうやむやにせねばならなかったのだ。
という場所に生きねばならない運命を背負っているのだ。
ハッキリさせることはできないのだ。
この人はアホなのかな〜、悪意があるのかな〜、どうなんだろうな〜、ということをハッキリさせないままに生きていくということをさだめとしているのだ。

No.1217 - 2008/12/02(Tue) 10:26:59

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
まあ、あれですよ。ふつうは、アホでなくては、悪意を持ち得ないと思います。もしも人が悪意を持っていて、それを知りながら、ほかの人に、それを実行できるとしたら、知能が高くても、それはアホ、無知でしかない・・・知能が低くて善良な人はいる・・・と思います。それで、

その悪意の人は、その悪意を、相手にも自分にも隠してるのではないでしょうか。たとえば、なにか悪い相手に対して、自分は正しいことをしてるというように。そう操作してることも、自分で自分に隠して、気が付かないようにしてる、それがほかの人には判らないと思ってる、そんなアホだから、悪意が持てるのではないでしょうか。そして、

そんな、空想の悪を前提にある正しさは、それに正当性を与える、幾千の正しい理由が考えられるでしょう。けど、正しさとは言えません。空想の正しさです。ただの正しさには、そんな幾千の理由はありません。まったく理由なく正しいのです。

ならば、理由がなければ正しいとして、理由なく悪いことをする、ということも可能かもしれません。けど、そうなら、そのような自分が自分と思う自分が、ある、のです。その自分が、ない、なら、初めから悪意を持てないのではないでしょうか。その自分が、ある、それは偏りで、無知です。その無知は智恵に転換され得ます。それはそうでも、

たしかに、ほかの人からは、気が回らなく見えたりして、蔑ろにされたように判断されてしまうこともあると思います。そうなら、

その時その場で、理由もないくらい、素直に真摯に、ほかの人に対応する、ということが有効だと思います。それで、たとえば過剰に気を遣って貰いたい、ほかの人と溝ができても、後悔はしないし、学ぶことが多々と思います。

ところで今日は、鰆の煮付けと、ムニエル。鳥と野菜のコンソメ煮弁当です。この前、そのあたりで摘んで乾燥した月桂樹の葉を使いました。しかーし。なんでも100円ショップで買った20wの蛍光灯の色が青に偏ってて、なさけない色調に写っています。

No.1218 - 2008/12/02(Tue) 16:02:05

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
うわぁっ!青い弁当だ。
食欲減退ですなぁ。
赤い色のフィルターをかけて見てみます。

No.1219 - 2008/12/03(Wed) 15:28:25

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
たしかに、これはー、というわけで。やはり日本製の蛍光灯に変えました。今日は、鰆のムニエル、照り焼きと、エビと野菜の塩茹で弁当にしました。いつかは、ごろんと焼き芋が一本だけ、入ってる弁当もいいかもしれません。かもしれません(残響)。
No.1220 - 2008/12/03(Wed) 16:43:17

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ところで、この頃、ベランダに野鳥のエサを置いてみました。穀類には反応がありませんでしたが、ミカンを置いてみると数日前から、ムクドリ?ヒヨドリ?がやって来て、食べて行くようになりました。その後、メジロも来て、賑やかです。窓から1mもないので、薄いカーテン越しに見ています。画像は、メジロです。

そういえば。子供の頃こんなことがありました。誰かが、ほかの人のことを「馬鹿」と言って走って逃げて行きました。すると言われた人は「馬鹿という人は馬鹿」と叫びました。すると走って逃げた人は振り向きながら「馬鹿と言う人は馬鹿という人は馬鹿」と叫び返して笑いました。

No.1221 - 2008/12/03(Wed) 17:00:57

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
馬鹿と言う人は馬鹿という人は馬鹿と言う人は馬鹿ぁ。。。あはは!
No.1222 - 2008/12/03(Wed) 22:45:05

Re: アホだなと思うことについて。 / hato
いもがごろん、は、やめてねーっ。

でもお気に入りアラジンで焼く焼き芋は、
最高です。美味しいのよね、

ムニエルは大好物。
なんでも美味しいのですが、
ムニエル、とても優しい食感です。

今日は、ちょっと、よい知らせ。
小さな部屋が、華やぎました。

こちらはhato画像のメジロちゃん。
どこにいるか、わかるかな。

No.1223 - 2008/12/03(Wed) 23:25:00

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
よい知らせ。。。
赤ちゃんができたとか。。。かしら?

No.1224 - 2008/12/04(Thu) 08:43:41

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
そうねー。コウノトリのような話かな・・・会いたかった道の仲間から、会いましょう、て連絡があったことです。と言って、hatoさんは、鮭の西京焼き、野菜の中華スープ茹で弁当を持って、出かけて行きました。
No.1225 - 2008/12/04(Thu) 09:36:22
(No Subject) / ubik0101
自己を知ろうとする運動

ところで。自分が自分を知覚、つまり自覚したいという衝動も、自我の機能です。それで、日常生活では、スポーツしたり、季節の変化を感じたり、怒ったり、悲しんだり、あれこれ思考したりする・・・学んだり、遊んだり、勤勉も、怠惰も、ただ生きてるだけでも、その総てが、自分を知りたいという衝動の現れと見なすことができます。そうだとして見ると、

もちろん、自分を知りたいとも思いもしない・・・起きたり眠ったり嫁いだり娶ったり、日常に埋没して自分を知りたいという意図さえ感じないことも。すでに自分は、このままで完成してると思いたいので、知りたいとも思いもしない・・・ということさえ、そういう自分を知りたい自我の運動の一環でありえます。 それで、

たとえば、なにかをしたいのだけど、できない。またしたくないのだけど、せざるをえない。また。変化していくことを変化させたくない、変化しないことを変化させたい。また。ほとんど関係ないことを関係づける。関係あることを関係ないことにしたい。とかの日常生活での欲望の運動も、自分が自分を知りたいということの起源ではないとしても、そこから派生した運動ではないでしょうか。 それで、

その派生した運動を観察、研究しても、実際は、自分で自分を知覚したい、という衝動の直接の現れを見ることではないかもしれません。つまり、その日常の嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏、そのあたりをいくら観察しても、研究しても、理解しようとしても、その、自分が自分を知覚したい、知りたいことの中心に届かないかもしれません。また、

そのような嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏は、理解可能なことではないのかもしれません。と言うより。理解してるということもまた、執着・・・自分の状態を知覚したい・・・なのかもしれません。たしかに理解したら、理解は不要でもあります。そして、自分が自分を知る衝動、つまり自我が満たされたら、その自我は不要になります。

No.1213 - 2008/11/30(Sun) 16:30:03
(No Subject) / ルー
最近思うことは、自分の苦労なしに、自分の周りに存在しているもの、それから、存在していないもの、のことについてです。
たとえば、お金、家族の愛、美貌、健康、文化的なもの、伝統的なものなどなど。
人、それぞれの違いについて、あまり気づいてはいませんでした。
当たり前に存在するものは、人によって違うのでしょう。
ですから、自分が力を注いで築き上げたものも、人によって違うのでしょう。

No.1196 - 2008/11/19(Wed) 12:32:40

Re: / ubik0101
うーん、自分は。この頃、因果とか縁って、何?て、 思います。たぶん、なにか原因があって、結果があるということなのでしょうけど。その言葉の意味が判りませんでした。また、もともと興味がありませんでした。それでも考えてみると、

たとえば高校を卒業して長崎から東京の学校に行って、働いて。それから隠岐に行って、また長崎に。そして、いまhatoさんと神奈川にいます。その何が原因だろう、何が結果だろう。どこかを結果として、それを導く原因となるなにか基準があるとも思えません。という感じです。そして、ただ、

どんな感覚や、感情や、思考も、現れては去っていくだけです。そう知覚してる自分は、それら現れては去っていくものでも、それらを現象を受容する、たとえば不動のものでもありません。それでも、こじつけるとして、

もしかして原因は、そのまま結果。あるいは、そんなことも壊滅、なだけなのでしょうか。 そういうことは「自分の周りに存在しているもの」を思考してるのでしょう。また、「それから、存在していないもの」も視野にいれるなら、その人の経緯を浮き彫りにしてくれるのかもしれないと思いました。でも、

そういう経緯に依存できないし、そういうことに・・・ありのままも、いまここも・・・基準にならず、依存できないことにも依存できないだけ、とも言えそうです。ところで、

とても天気がいい今日は、毛布を洗濯をしました。そうでなくてもいいのに、そう。の、この部屋の絨毯の上に、散りつつある紅葉で隙間が開いた樹々の枝から、ゆらめく木漏れ日が射し込んでいます。

No.1197 - 2008/11/19(Wed) 14:45:02

Re: / ルー
私は、子供時代、食べるものに苦労するということはありませんでした。
お弁当は毎日、母が自動的に作ってくれていたし、時間がなくてろくに食べられないのに朝食を作ってくれて、結構豪華な夕食も作ってくれていました。
そのことに気づかずにいたのです。
どうしてかというと、隠されていたもの、に焦点を当てていたからです。
「いい母親、いい奥さん」という印象の裏に隠されたものを見るために、表面にでている姿はカモフラージュであるとして、認めていませんでした。
たぶん、私の母は料理好きなんでしょう。
うびさんみたいに。

親が食事を作ってくれず、カップラーメンばかり食べていた子供もいるのではないですか。

比較する、というわけではないのですが、自然に当たり前として与えられた環境というものは、気づきにくいと思います。
苦痛があって初めて、考えるのではないでしょうか。

No.1198 - 2008/11/19(Wed) 17:45:16

Re: / ルー
> とても天気がいい今日は、毛布を洗濯をしました。そうでなくてもいいのに、そう。の、この部屋の絨毯の上に、散りつつある紅葉で隙間が開いた樹々の枝から、ゆらめく木漏れ日が射し込んでいます。

「そうでなくてもいいのに、そう。」というのは、縁のことではないですか?

No.1199 - 2008/11/19(Wed) 21:39:04

Re: / ubik0101
そういえば。一人暮らしで経済的に不安なときに、子供の頃は、心配なく暮らしてた。食事も母親に作ってもらってたんだなと、そんな子供の頃の安心感、を思い出したことがありました。たしかに、

そうであることを、そうであることとして、気がつかず、そこにないことばかり考えてしまうことがあると思います。 そして、それが、もっと楽をしたいとか、 素敵なもの、ことが欲しいとか、ここにないものばかり求めたりすることとして現れたりします。それだけで、

それは、ここにないことを求めてるので、苦痛を感じることもあります。また求めることで、ほかの人との意見も違い、衝突、軋轢を生じることもあるでしょう。それは欲望、自我としても機能すると思います。そういう自我は、ほかの人の自我を探るのでしょう。そういうことによって、 ここにないことや、ほかの人の有り様などを、考える自我の機能を学びます。というのも、

もともと、そうであることを、そうであることとして(そのものがそのものを)、考える、知覚することは・・・たぶん理論的に不可能でしょうが・・・まずは関係のある、そこにないことばかり考えるしかできないのですが、ついに、自分で自分を自覚、確認したい、そんな自我の機能が完成する。そこで、

ここにあることを、ここにあることとして。そうであることを、そうであることとして。なにかの生活というよりも、自分自身、つまりまさに自己が自己であるとの了解・・・しかしそれは意識に依らずに自覚する・・・と機能するのだと思います。

> 「そうでなくてもいいのに、そう。」というのは、縁のことではないですか?

そうとも、世界とも、不思議とも、未知とも呼べると思います。それで、そうであって、それに依存できないのですが、それはなぜそうなのか?と思うのです。

No.1201 - 2008/11/20(Thu) 14:01:57

Re: / ルー
「なぜそうなのか?」と思うのですね。
答えらしきものがあるとは思わないままに・・・

No.1202 - 2008/11/20(Thu) 15:29:26

Re: / ubik0101
たしかに。なぜ、これが、こうなってるのか?それは、答えはないのかもしれません。

でも、この、不思議、未知、世界を露わにしてくれるのでしょう。

そして。それを問わないなら、風のざわめき、落ち葉の舞、木漏れ日のゆらめきです。

ところで今日は、めばち鮪のムニエル、エビと野菜の塩茹で弁当です。

No.1204 - 2008/11/21(Fri) 11:26:44

Re: / hato

ほんとうに。

出来事といえることは、ただ、そう、であったとしか、いえないこと。
そう、でなくてもよいのに、そう、であること。
そう、
でしか、ありえないこと。

その不思議。

鮪のムニエルは、柔らかい身がさっぱり優しい、よいお味でした。

お弁当。
こんな可愛いのも、ありました。

No.1205 - 2008/11/21(Fri) 23:51:36

Re: / 大阪
コレは良い!(笑)
No.1206 - 2008/11/24(Mon) 12:03:55

Re: / ubik0101
そうです。朝の7時ころに起きて作っています。
No.1207 - 2008/11/24(Mon) 15:01:47

Re: / ubik0101
ついでに、イントラ反転真空管アンプと、ルンルンです。
No.1208 - 2008/11/24(Mon) 17:05:18

Re: / 大阪
こんな寒い季節は、その真空管アンプで聞く方があうのかも、と思いました。
No.1209 - 2008/11/24(Mon) 17:40:37

Re: / hato

イントラ反転真空管、たしかに、冬の季節に似合うようです。
今この部屋で、フルートの音が深くいい響きです。


それは、なにか。
なぜ、そうなのか。

そうでありながら
そこを生きるなら幸いです。


> コレは良い!(笑)

で、しょ?

お弁当を開けて、ちょっと嬉しはずかしびっくりしたので、
「では今度は、赤いのね」
と逆襲しました。
「えーっ、赤いのっ?!赤ピーマンかなーっ、なんだろうなーっ??」
と、不思議の次の悩みになりました。

No.1210 - 2008/11/24(Mon) 20:19:44

Re: / 大阪
>それは、なにか。
>なぜ、そうなのか。


>そうでありながら
>そこを生きるなら幸いです。


これは、どういう意味ですか?



赤のハート、確かに手ごわそうですね。うびさんに悩んでもらいましょう。

No.1211 - 2008/11/26(Wed) 13:11:50

Re: / hato

不思議であるこの世界をまったく生きて、
世界であるこの不思議にすら埋没することもない、

そこは、
ここ、とかあそこ、とかいえるものでないことを
了解されている、ことかも知れません。

大阪さんをさらに笑わせるための、
ダメ押し画像を送りましょう。

(ubik0101さんお気に入りの、携帯ストラップ。です。)

No.1212 - 2008/11/26(Wed) 21:19:28
(No Subject) / ubik0101
続々々々・思考の機能

ところで、たとえば偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・そのことは、とある行動、発言、思考に、名前をつけて、そう呼んでるのでしょうが・・・それを観察すること、あるいは、それを理解すること、それが自己を知ることでしょうか。そうではないと思います。

それは、もしも、たとえば偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・などを理解できたと思うにしても、偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・などの理解ではないでしょうか。それは自己の理解とは言えないのではないでしょうか。

ここで、たとえば偽善を理解した、としてみます。それから解放された、としてみます。では、嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・また、幾多の名前の付けられない行動、発言、思考などは、偽善の理解で理解されるでしょうか。それからの解放なのでしょうか。 そうではないなら、永遠に迷い続けることができるのではないでしょうか。

続きます。

ゆうまずめ(魚が釣れる日没前の時間帯)の江ノ島の裏磯です。かなりの人が、寄せては返す波に足を洗われながら、釣りをしています。

No.1187 - 2008/11/06(Thu) 12:05:26

Re: / ubik0101
ところで。思考は、知覚されるのは、その思考だけです。たとえば偽善の思考は、偽善の思考だけです。たとえば傲慢。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・の思考とは、なんか関係ありそうだけど、思考されてはいません。

それを思考するには人は、今度は、たとえば傲慢の思考をせねばなりません。そのようにその知覚される思考は、人を集中させます。それしか見えないのです。概念と概念との関係は、度外視される傾向があります。

とりあえず・・・たとえば偽善の思考は、それしか見えません。それで、それを思考することは、『自己を知ることでは、ない、とは思わ、ない』のです。

もちろん嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・も同様です。それで人が愚かなら、そのような思考は自己を知ることだと暗黙に、『思わ、ない、でも、ない』、のです。しかし、その奇妙さに気が付くのも思考です。鳩のように素直に、蛇のように賢く、正確に思考せねばなりません。

とりあえず、思考は、その思考だけです。ここで問題が発生してることもあります。もし人が、自己を知りたいなら、自己を知ろうとしなければなりません。そうでなくて、どうして知ることができるのでしょう。

けど。たとえば何かを知ろうとして知ったのは、事実それを知ったのではない、という思考もあります。

続きます。

そのあたりを歩いて、蕗を見つけました。すこし摘んで、すじを取り、塩茹でにして、だし汁に浸けて、冷蔵庫で数時間。煮浸しで頂いてみました。なかなかhatoさんと、母にも好評です。ほうれん草、ゴボウ、人参、インゲン、オクラそのほかの野菜でも煮浸しは、お勧めです。

No.1188 - 2008/11/09(Sun) 09:54:46

Re: / hato

すっかり、冬の気配になりました。
ここずっと、結婚ご報告の葉書を作っていて、一昨日ようやく、出しました。

もう、11月も半ば。
海の景色が、冬らしい薄灰色です。
きのうは雨の中で釣りをしました。
とても寒かったけれど、なんでしょう、釣りもいいな、と思いました。

竿一本で、がんばるのだ。

(ほんとは、ubikおにぎりを食べに行ってるhato、ともいえます)

海タナゴ、カワハギ、念仏ダイなどのなかで、
香草焼きで頂くと、やっぱりちょっと意外ですけど、念仏ダイが美味、と我が家では評判です。

No.1189 - 2008/11/10(Mon) 23:08:54

Re: / ubik0101
しかし、それは、その人が、実際に確認したことなのでしょうか。自己を知ろうとして知った、けど、それは自己ではなかった。神を知ろうとして知ったら、それは空想の神だった。愛、自由、幸福・・・ありのまま。素直。真実。真摯。叡智・・・についても同様です。

それを規範とも、あるべき姿と呼ぶにしても、それを求めて得たとして、空想されたそれ、を見るでしょうか。まったく人は、それを知らないで求めているというのに。そうなのでしょうか。

それら総てについて自分で確認し・・・それは不可能でしょうが・・・さらにそれから解放されてるのでないなら、そう思考する人が・・・また思考しなくても・・・そんな空想をしてるしかないことを示しはしないでしょうか。そして、その人が得てない、その有り様だというだけです。

また。自己、神、愛。ありのまま。素直。真実。真摯。叡智・・・それを実現してない人が、それを思考すると、その思考がその人に理解を望んで、思考に執着することを望みます。 そして、それを思考しなくても、その人は、そのような有り様ではないでしょうか。このように思考は、その人の有り様を現すように、正確に機能します。

また、たとえば。自己、神、愛。素直。真実。真摯。叡智・・・を知ろうとして知ったのは、事実それを知ったのではないならば。偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・を知ろうとして知ったのなら、偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・を、知ったのではない。空想の理解ではないか。と検討すべきです。

続きます。

No.1190 - 2008/11/11(Tue) 09:39:32

Re: / ubik0101
そのように検討しないなら、それは自己、神、愛、自由、幸福、素直。真実。真摯。叡智・・・を自分で勝手に、規範、あるべき姿、規範、目標、伝統、権威だと名前を付けて・・・そんな空想をして・・・それを自分で勝手に否定してることに気付いてない、マッチポンプ(自作自演)、だというだけです。

また。自我とか欲望とかが機能してる人の有り様を既知と呼び、そうでない有り様を未知と呼んで区別し、既知からの自由を提唱したりするのも同様です。

そういうことは、人を鍛えるための、取り替え可能な負荷・・・触媒・・・なだけではないでしょうか。それは、規範、あるべき姿、規範、目標、伝統、権威の追求、肯定と、変わりありません。それは人が、それを実際に生きるなら、真摯に思考すれば、そのことに気が付かざるを得ないのです。

なにかを判断するなら、それを、ほかにことに適応して、一般化しなくてななりません。また、その思考してる自分の有り様にも、それを適応せねばなりません。そのように適応してないという前提においてしか、たとえば知ろうとして知ったのは、事実を知ったのではない、とかいう思考は正当性を持たないでしょう。

これは、あることと反対のことは同じこと、という思考も同じではないでしょうか。たとえば既知と未知が同じことであれば、それを区別不可能です。その人の有り様が、それを区別する思考として現れる。だけです。

続きます。

このあたりを歩いてて、あちこちに百合の花そっくりの花が咲いてる木が見つかりました。

No.1191 - 2008/11/13(Thu) 11:57:32

Re: / ubik0101
たとえば、暴力と非暴力は違います。しかし。暴力と非暴力を同じと言うのは、そう言う人が、そういう有り様で。それが、そういう思考として現れて、その思考に依存、執着してるということでもあります。

そして、現実に、ほかの人が暴力に反対して非暴力を主張しても無駄だった、世界には現実に、暴力がある。暴力と非暴力は、おなじこと。と言うかも知れません。

これは心理的な問題と、現実の問題は違うということでしょうか。そうではありません。そこで問題にされてる、ほかの人も暴力に、依存、執着させられてるというだけです。それは自作自演の空想です。投影です。たとえば偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨み・・・。も同じことではないでしょうか。

そして、ほかの人も、おなじような空想をしてる。また、ほかの人のことは判らない。そんなところに隠れて、たとえば、あることと反対のことは同じこと、たとえば暴力と非暴力は、慈しみと憎しみは同じこと、という思考は自己保存したくて、人を空想に埋没させてるだけです。

ところで。ある思考は、その思考しか示しません。また、そうする人の有り様とは無関係に関係します。そのために、ある人の、思考と思考。また、ある人の行動と、発言と、思考が矛盾することも可能になっています。つまり人が、真摯ではないと思っていなくても、嘘をつくことが可能になっています。

そういう矛盾に気が付くには、なにか判断したら、ほかのことにも適応してみる。また、それを自分の有り様に適応する。なぜ、これは、こうなのか、を問う。ことが有効です。それをしないのなら、愚かな人でありたいのでしかないでしょう。

まず自分のことを解決するのが先決です。そして解決した人は、偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨み・・・それを肯定しても否定しても、それを肯定も否定もなく観察しようとしても、無意味なことを了解してるのです。

続きます。

No.1192 - 2008/11/16(Sun) 12:20:55

Re: / hato
ここのところ少し、ハードでしたので、
たっぷり眠って回復しました。

今日は午後から、この小さな部屋で
実家の母とアフタヌーンティです。

なんでも手作り上手、の母が作ってくれる、
クリスマスリースが冬の楽しみのひとつです。

hatoはちょこっとお掃除。
ubik0101さんの、美味しいサンドイッチを頂きました。

No.1194 - 2008/11/16(Sun) 21:12:58

Re: / ubik0101
なんであれ問題は思考ではありません。その人の有り様です。どう思考しても、しなくても、たとえば暴力と、暴力のない人は、分離があります。嘘をつく人と、事実を話す人は、分離があります。成長しなかった人と、成長した人は、分離があります。当たり前です。これが、この世界で起こることです。

そして思考は、その人の有り様を現します。しかし。たとえば、偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨みを思考しないで、それが解決されている。ということがあります。それは、そういうことを思考し、理解したからではありません。それは、その人が、飛躍、変容、成長、した、というだけのことです。これが、この世界で起こることです。

ここでも問題は、思考ではありません。その人の有り様です。それを思考が正確に露わにするというだけです。また、 偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨みを理解しなくても、それに縛られることはない人は、それに縛られることはないことを知っています。

ところで。熱い寒いなどの感覚にしても、嬉しい悲しいなどの感情にしても、なにかの思考にしても、それが、知覚されてるだけです。それを知覚してる、主体は知覚されません。それで、感覚、感情、思考に、同一化すれば、それを見てる自分は一応、いないのです。それはそのまま非同一化です。しかし、それも、その人の有り様がそうなので、それを世界が露わにしてるだけではないでしょうか。

そして。これは、なぜ、こうなのでしょう?たとえば、この感覚は、この感情は、この思考は、なぜ、この感覚、この感情、この思考なのでしょう?これを問うだけでも、また世界を、なにも知らない、に至るのではないでしょうか。

No.1195 - 2008/11/19(Wed) 11:32:30

Re: / しむじゃ
> 感覚、感情、思考に、同一化すれば、それを見てる自分は一応、いないのです。それはそのまま非同一化です。しかし、それも、その人の有り様がそうなので、それを世界が露わにしてるだけではないでしょうか。

覚醒した人、そんな人も、その有り様を世界がそのように露わにしているだけ、ということでしょうか。

> これを問うだけでも、また世界を、なにも知らない、に至るのではないでしょうか。

「なにも知らない」を知るに至るということですか。

No.1200 - 2008/11/19(Wed) 23:59:25

Re: / ubik0101
> 覚醒した人、そんな人も、その有り様を世界がそのように露わにしているだけ、ということでしょうか。

しむじゃさんの投稿の意図が掴めてないかもしれませんが、返信してみます。 どんな感覚、感情、思考も現れては去っていくだけです。同一化は、そのまま非同一化。そのようにして、人はこの世界の範疇、日常で、とくに問題が知覚されなければ、無我っぽい状態にあります。しかし、それを見ている自分は虚構・・・自我・・・ということを了解できず、自分が自分と思う自分が、ある、と感じてるのだと、思います。

それで無我っぽいというのではなく、自分が自分と思う自分は、ない、ことを了解するなら、愛、自己、実在を了解します。それは、この世界の範疇にありません。なのに世界の範疇にないことを世界の範疇にある意識が対象にするなら、愛は執着として、自己は自我として、実在は神として、つまり空想として姿を現します。それは、世界の範疇にないことを実感、自覚しようとしたい運動とも言えます。

くり返しますが、それ、おもに自己を実感、自覚したい、という働きが、欲望、自我の機能です。なにかをしたいのだけど、できない。したくないけど、させられる、とかは、それから派生した運動とも言えます。 そしてそのような運動が不要になるほど完成したら・・・愛、自己、実在は、まったく無自覚に了解されます。すると、この日常が真理、不思議です。

>「なにも知らない」を知るに至るということですか。

「なにも知らない」を知る。としても、その、知る、も何かを、知らない、のです。そして、知らない、ということも、なにかを知らない。のです。それで料理をしたり、植木の世話をしたり、魚釣りをしたり、投稿したり、です。

たとえば怒り、悲しみ、さらに自我、欲望も、知らない・・・未知なことです。それから解放されて、なお、それを拒否する、避ける、必要はありません。それを拒否する、避けるなら、その人には、いわゆる分離があるのではないでしょうか。しかし自我は、その分離がないという、真似もできます。この何でもありゆえに、人は学ぶことができるのだと思います。

No.1203 - 2008/11/20(Thu) 15:51:36
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