>自我の解決が問題のすべてではないと思います。
それは明らかに、自我の解決だけ、に関わっているともいえません。
自我の捉え方として、それを、ツール、と受け取れるなら、 自我を単に悪いもの、とする必要はなくなります。 そこは大変に微妙なところです。けれども、非常に重要なところです。 でなければ、本当に省みられるべき自我は、 いつまでも言い逃れをしてしまうでしょう。
自我があろうがなかろうが、(というより、自我をそのままにしていても、)素晴らしいことはできます。 自分を省みることなく、世界の為、と働くことが出来ます。 ですがおそらく、根本的な解決にはならないでしょう。
まずは、 それはとても痛い事かも知れませんが、 手を付けるべきは自分であることを知ること、 或いはそれは、自分が関わっている、世界への本来の意味での責任感ともいえますが、 その上で、時々に出来ることをしていくなら、 道を歩いていくことができるように思います。
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No.1256 - 2008/12/30(Tue) 13:57:04
| ☆ Re: / ルー | | | No.1257 - 2008/12/30(Tue) 15:18:21 |
| ☆ Re: / ルー | | | 私にとって知りたいことは、悪意と無知の関係のことと、それから泥沼の中にきれいな花を咲かせましょうということの意味についてでした。 そのことについて、江原さんの本に書いてあって、うびさんが書いていたことと似ているので、うびさんに話したくなったのです。
hatoさんが私に伝えたいことは、私にはまだよくわかりません。 世の中に起きている悲惨なことよりも、自分にできることに目を向けるべき、というようなふうに私は理解しましたが。 世の中に起きている悲惨な出来事は、私とちっとも離れてはいないのです。 その起きている出来事を理解しなければ、私についても理解できないのです。
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No.1258 - 2008/12/30(Tue) 15:25:25 |
| ☆ Re: / hato | | | ルーさん、途中からごめんなさいね。
昨晩は、ubik0101さんが大切なお客様をおもてなししていたので、ちょっとそうしたこともあって、書きました。 今日、ubik0101さんが続けるように、とのことだったので、続けてしまいましたが、気を悪くしないでくださいね。
たぶん、 なにかを知ることが必要だと思うのは、それが正に自我だからです。 それで、 その自我の状態を、嘘をつかず、正直に掘り起こしていくか、世界、といわれる場所に都合のよい言い訳を探しにいくか、それは人の分かれ道、なのかもしれません。
恩寵、という言葉を考えるときがあります。 それは本来、どんな人にも、どんな状態の人にも訪れている、ものかもしれません。 人が気付かざるを得ないようにしむけられる、ということもそうです。 それは、経験のあるなし、なにかを知ってる、知らないとは無関係、といえます。 世界はその意味でとても公平にあります。 その自分の有り様、その自分を取り巻く世界、で充分だと思います。
それでは、ubik0101さんにお願いしましょうね。
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No.1259 - 2008/12/30(Tue) 16:59:06 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >私にとって知りたいことは、悪意と無知の関係のことと、それから泥沼の中にきれいな花を咲かせましょうということの意味についてでした。
とりあえず、自分が自分を自覚したい、という運動があると思います。それは、自分について無知だからではないでしょうか。知らないから、自分を知りたい、のです。それで、あらゆることを知ることによって。その知ろうとしてる自分を知ろうとして、
この世界では。なぜか、なにかを行動したり、話したり、思考したりすることができるようになっています。そして、そうしてることは自覚できます。これが実は・・・不思議、神秘、秘密なのですが・・・その様式として。とくに、ほかの人との関係で、分類すれば、善意とか、悪意とか、どっちっでもないこととか、できるようになってると思います。その分類も、
いろんな時代や文化や個人によって異なり、明確な定義はできないでしょう。つまりそれが、善意でも、悪意でも、どうでもないことでも。損得でも。苦楽でも。その自分を知りたいための運動から派生したこと、ではないでしょうか。それで、
くり返しますが、問題は、悪意だけが、無知と結びついてるわけではありません。ありとあらゆることが、たとえば善意も、無知。損も無知。得も無知。成功も無知。失敗も無知。無知も無知。知識も無知・・・であれば無知。つまり自分を知りたいという運動の現れではないでしょうか。それで、そのどれか
たとえば悪意と無知を繋げて見ると言うことは。そう見る人が、そのように部分的な見方をする傾向にあって。その傾向があることを自分で気が付くことができます。そのように人は自分を学ぶことができるように出来てる。のだと思います。
続きます。
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No.1260 - 2008/12/30(Tue) 18:42:32 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | そのように、自分が自分を知りたい運動。そうするために、ほかの人との軋轢や、意見の違いは、とくに効果的にできています。それを自我の機能と呼べます。それはとりあえずは、
ほかの人にも自分にも、自分の立ち位置が解りやすいこともあって、共感できることもあって、たとえば悲惨なこととか、悪意を問題にする。狭い範囲から始める傾向にあります。このことを分離がある。とか呼ばれることもあるのだと思います。それで、
たとえば、悪意。それと反対のこと、類似なこと、無関係なこと。もっと広い世界を経験したり、観察できます。それで、問題が解決するとは限りません。その根っこは、ただ、自分を知りたい運動。そこにあり、
それを解決せねば、たとえ世界の総てのことを知ったとしても、なにも解決しないのではないでしょうか。その自分を知ろうとして、世界を観察するのなら・・・それは生まれる前からも迷い、死んでも迷う・・・始まりも終わりもない迷いではないでしょうか。そうでなく、
その自分を知ること、を解決すれば、とくに総てを経験しなくても、観察しなくても、病気、健康、裕福、赤貧、悲惨、安穏・・・どの極端でも中間でも無関係に、問題は解決です。その解決した様が、泥沼に咲いた蓮の花。それは、とくに世界中のことを知っても、あんまり知らなくても、まったく無問題です。
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No.1261 - 2008/12/30(Tue) 19:46:14 |
| ☆ Re: / ルー | | | 何だか、とてもズレているように感じます。 私は私の道を、犀の角のように、ひとり歩みます。 ちょっと話したかっただけでした。 何か問題が起きるようですか? お邪魔しました。
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No.1262 - 2008/12/30(Tue) 23:24:45 |
| ☆ Re: / ルー | | | 話せる人として、うびさんしか見あたらなかったのです。 でも、何だか、ズレているように感じます。 今までのように、ぴったりな感じがしません。 説明が足りないかも知れませんが。
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No.1263 - 2008/12/30(Tue) 23:27:44 |
| ☆ Re: / ルー | | | 「悪意と無知を繋げて見る」とか「自分を知りたいという運動」とか、そのように捉えられるのは、今までのうびさんとは違うような感じがしました。
ま、私がどのように感じようが、うびさんには関係ないですね。 私も、うびさんやhatoさんがどのように感じようが関係ありませんのと同じですね。
私のことは私がわかっていればよいということでしょう。
そのようにして、私もひとつ大人になったのでしょう。
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No.1264 - 2008/12/31(Wed) 00:01:35 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | うん。それはそれで。なのですが。ここでは。ルーさん個人の有り様を話したのではありません。こんなことは潜在的に理解してるのだけれど、ルーさんは、自分に見えるように言葉、思考にしてないようだ。それを明確に理解してみたらどうでしょう。という意味で、話してみました。
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No.1265 - 2008/12/31(Wed) 09:27:04 |
| ☆ Re: / ルー | | | 何か、説明するのが面倒で。 うびさんは、私の最小限の説明でやりとりできる数少ない人。 なのですが。 やはり、もう、いいです。^^
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No.1266 - 2008/12/31(Wed) 14:32:52 |
| ☆ Re: / ルー | | | 私は、この世に生まれて、うびさんと知り合えて幸せでした。 よいお年を。
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No.1267 - 2008/12/31(Wed) 14:33:57 |
| ☆ Re: / ルー | | | あ、自我の解決がすべてではない、ということを思ったんです。 自我が解決しても、さらに、そのうえに、それよりも広い範囲に目を向けるようになる、ということだと思います。 自分が思ったことなのに、詳しい説明ができなくてすみません。 そのへんのことを、うびさんは、自分に見えるように言葉、思考にしていない、と言われたのかな? 私にも、うっすらとしかわからないので。 すべてのことを自我に返還すると、間違うこともある、ように思います。 それは、自我を解決しなくてもいいということとは違います。 もっと広い問題がある、というか。 それについて詳しい説明ができなくてすみません。 それを明確に理解するには、材料を持っていません。 これから生きていく中で、出会う中で、見つけていくのではいけませんか。 というか、私の中では、それは、問題(問い)という形で存在しているのではなくて、「そのように感じる」というだけのことなんです。
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No.1268 - 2008/12/31(Wed) 14:42:02 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >自我が解決しても、さらに、そのうえに、それよりも広い範囲に目を向けるようになる、ということだと思います。
どういう意味で「自我の解決」を言ってるのでしょう。というのも、これが自我だという、その自我の定義、理解も、立ち位置によって違いがあります。理解の、深度(変な言い方)があります。
それで。いろんな自我の定義、理解があって、その広さ、深度が深まる可能性があるということでしょうか。もし無知とか悪意なら、それは自我の問題の範疇だと思います。
それとも、たとえば世にある悲惨な出来事を見て、そんな酷い目にあってる隣人を助ける気持ちがあるとして、そういう具体的なことは、自我の問題の範囲より広い、と言う意味でしょうか。
そのような人のためになる働きは、たとえば募金や争いの仲裁なら、偽善でも自我でもできるように思えるけど。まず自我の問題を解決したなら・・・問題を正確に見ることができるので、愛とか慈悲とかが発現するので。そうならば悲惨を継続させる、増長させるということではなく。世界の役に立ことができる。という意味でしょうか。
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No.1269 - 2008/12/31(Wed) 17:40:34 |
| ☆ Re: / ルー | | | 悲惨な目にあうことは、自我の問題ではないということです。
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No.1270 - 2009/01/01(Thu) 00:16:42 |
| ☆ Re: / ルー | | | 悪意を持つ、悪意を発揮する、悪意に従った行動をとることは、自我の問題だと思います。 その悪意の出どころは、弱さや無知であるということを最近知りました。 「自我かどうか」ということは、私には、その、自我と自我以外の境目がはっきりしていなくて、また、「自我」というものにこだわる気がないということです。 自我はない、ということが身についているのかも知れません。
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No.1271 - 2009/01/01(Thu) 00:20:51 |
| ☆ Re: / ルー | | | それとも、自我という目に見えないものに興味が持てないだけかも知れません。 または、悪意というものがよくわからないというだけなのかも知れません。
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No.1272 - 2009/01/01(Thu) 00:36:54 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | たとえば愉快な、悲惨な、安穏な、どんな状況にあるとしても、それに依存、執着、縛られることは、自我の問題になり得ます。それで、自我を解決しても。たとえば嬉しければ楽しみ、たとえば悲惨な出来事に、悲しみ、怒ります。くり返しますが、
そういうことが削除されるのなら、なにかの病気です。そんな、たとえば感情は、自我の問題ではなく、世界の機能で、大袈裟に言えば、神秘です。不思議、知らない、です。それで、自我の問題としての、悲しみ、怒りと、神秘の、悲しみ、怒りは、おなじであろうと、違っていようと、
それを同一の地平、平野で、 そうでない人に話して伝えることは、ほとんど不可能です。また、嫉妬や、偽善や、恨みや、意地悪や、悪意・・・たぶん特定の人間関係に依存することは・・・自分の場合なのかも知れませんが、まったく機能しません。 そのようなことの了解は深いところではあっても、
このサイトや掲示板で話してるように、言葉にする 。自分の意識に教えなくては、それを維持できないということはないのですが、そうすることで・・・経験則ですが・・・さらに学ぶことができるようになっています。ところで、
>悲惨な目にあうことは、自我の問題ではないということです。
まず自分の意識が理解してるかは別として、深いところで自我が解決されて、たとえば自我とは関係ない悲惨が見えてくると思います。それに悲しみ、怒ったとしても、そのことに依存、執着、縛られることができません。そして、そのような人ばかりであるなら、
その自我による人為的な、争いなどは、もともと起こらないことが期待されます。そのためばかりではありませんが、ほかの人の成長の役に立つことは、とても大切です。そのためばかりではありませんが、自分の意識に教えること、学ぶことが必要です。
>自我はない、ということが身についているのかも知れません。
そうなのだと、睨んだり踏んだりしてるのです。けど。自分の意識に教える、言葉で理解することは、不明解でないためにも、大切です。まったくubik0101にとっても、自我など、言葉上のことでしかありません。たしかに、
なにか自我というものが、 身体の中にあるとか、中心とか、世界や自分との分離という感覚が、ほかの人にあるという人の話を聞いて、自分を探っても知覚できません。なんだかの好ましくない感情や思考に、自我と名前を付けてるだけなのかなとか。とも思ってもみます。それを、ない、と知覚する必要があるのも、自我であり、それもないことを知っています。また、
ほんとうの自分、自己を、自覚する必要があるのは自我の機能であり、それを言葉による理解によって、その必要もないことを知っています。それだけのことです。
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No.1273 - 2009/01/01(Thu) 14:06:21 |
| ☆ Re: / hato | | | 自我、というテーマについて出来るだけ明快に、誠実に踏まえることで、自分自身を助け、より人に適切である、あろうとすることが出来ます。むやみな反応をする必要がなくなります。或いは、その人のテーマ(という表現が適切かは解りませんが)であるかどうかを度外視すれば、悲惨な状況を悪化、長引かせる必要もなくなると思います。なぜなら、その世界、その自我の機能への不理解が問題となっているのは明確だからです。
また、人にはそれぞれに時期があり、タイミングがあり、テーマがあり、それを守る為に自我が機能するときには、ただそのことを受け取り、出来るだけ敏感に生きていくなら、学ぶに必要なことは、ただ起きているのだと思います。
旧年中は、皆さまに大変にお世話になりました。 ありがとうございます。 今年も、どうぞよろしくお願い致します。
ubik0101 hato
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No.1274 - 2009/01/01(Thu) 14:55:13 |
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