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(No Subject) / hato
>自我の解決が問題のすべてではないと思います。

それは明らかに、自我の解決だけ、に関わっているともいえません。

自我の捉え方として、それを、ツール、と受け取れるなら、
自我を単に悪いもの、とする必要はなくなります。
そこは大変に微妙なところです。けれども、非常に重要なところです。
でなければ、本当に省みられるべき自我は、
いつまでも言い逃れをしてしまうでしょう。

自我があろうがなかろうが、(というより、自我をそのままにしていても、)素晴らしいことはできます。
自分を省みることなく、世界の為、と働くことが出来ます。
ですがおそらく、根本的な解決にはならないでしょう。

まずは、
それはとても痛い事かも知れませんが、
手を付けるべきは自分であることを知ること、
或いはそれは、自分が関わっている、世界への本来の意味での責任感ともいえますが、
その上で、時々に出来ることをしていくなら、
道を歩いていくことができるように思います。

No.1256 - 2008/12/30(Tue) 13:57:04

Re: / ルー
世界を知ることが、私にとって必要なんです。
No.1257 - 2008/12/30(Tue) 15:18:21

Re: / ルー
私にとって知りたいことは、悪意と無知の関係のことと、それから泥沼の中にきれいな花を咲かせましょうということの意味についてでした。
そのことについて、江原さんの本に書いてあって、うびさんが書いていたことと似ているので、うびさんに話したくなったのです。

hatoさんが私に伝えたいことは、私にはまだよくわかりません。
世の中に起きている悲惨なことよりも、自分にできることに目を向けるべき、というようなふうに私は理解しましたが。
世の中に起きている悲惨な出来事は、私とちっとも離れてはいないのです。
その起きている出来事を理解しなければ、私についても理解できないのです。

No.1258 - 2008/12/30(Tue) 15:25:25

Re: / hato

ルーさん、途中からごめんなさいね。

昨晩は、ubik0101さんが大切なお客様をおもてなししていたので、ちょっとそうしたこともあって、書きました。
今日、ubik0101さんが続けるように、とのことだったので、続けてしまいましたが、気を悪くしないでくださいね。

たぶん、
なにかを知ることが必要だと思うのは、それが正に自我だからです。
それで、
その自我の状態を、嘘をつかず、正直に掘り起こしていくか、世界、といわれる場所に都合のよい言い訳を探しにいくか、それは人の分かれ道、なのかもしれません。

恩寵、という言葉を考えるときがあります。
それは本来、どんな人にも、どんな状態の人にも訪れている、ものかもしれません。
人が気付かざるを得ないようにしむけられる、ということもそうです。
それは、経験のあるなし、なにかを知ってる、知らないとは無関係、といえます。
世界はその意味でとても公平にあります。
その自分の有り様、その自分を取り巻く世界、で充分だと思います。

それでは、ubik0101さんにお願いしましょうね。

No.1259 - 2008/12/30(Tue) 16:59:06

Re: / ubik0101
>私にとって知りたいことは、悪意と無知の関係のことと、それから泥沼の中にきれいな花を咲かせましょうということの意味についてでした。

とりあえず、自分が自分を自覚したい、という運動があると思います。それは、自分について無知だからではないでしょうか。知らないから、自分を知りたい、のです。それで、あらゆることを知ることによって。その知ろうとしてる自分を知ろうとして、

この世界では。なぜか、なにかを行動したり、話したり、思考したりすることができるようになっています。そして、そうしてることは自覚できます。これが実は・・・不思議、神秘、秘密なのですが・・・その様式として。とくに、ほかの人との関係で、分類すれば、善意とか、悪意とか、どっちっでもないこととか、できるようになってると思います。その分類も、

いろんな時代や文化や個人によって異なり、明確な定義はできないでしょう。つまりそれが、善意でも、悪意でも、どうでもないことでも。損得でも。苦楽でも。その自分を知りたいための運動から派生したこと、ではないでしょうか。それで、

くり返しますが、問題は、悪意だけが、無知と結びついてるわけではありません。ありとあらゆることが、たとえば善意も、無知。損も無知。得も無知。成功も無知。失敗も無知。無知も無知。知識も無知・・・であれば無知。つまり自分を知りたいという運動の現れではないでしょうか。それで、そのどれか

たとえば悪意と無知を繋げて見ると言うことは。そう見る人が、そのように部分的な見方をする傾向にあって。その傾向があることを自分で気が付くことができます。そのように人は自分を学ぶことができるように出来てる。のだと思います。

続きます。

No.1260 - 2008/12/30(Tue) 18:42:32

Re: / ubik0101
そのように、自分が自分を知りたい運動。そうするために、ほかの人との軋轢や、意見の違いは、とくに効果的にできています。それを自我の機能と呼べます。それはとりあえずは、

ほかの人にも自分にも、自分の立ち位置が解りやすいこともあって、共感できることもあって、たとえば悲惨なこととか、悪意を問題にする。狭い範囲から始める傾向にあります。このことを分離がある。とか呼ばれることもあるのだと思います。それで、

たとえば、悪意。それと反対のこと、類似なこと、無関係なこと。もっと広い世界を経験したり、観察できます。それで、問題が解決するとは限りません。その根っこは、ただ、自分を知りたい運動。そこにあり、

それを解決せねば、たとえ世界の総てのことを知ったとしても、なにも解決しないのではないでしょうか。その自分を知ろうとして、世界を観察するのなら・・・それは生まれる前からも迷い、死んでも迷う・・・始まりも終わりもない迷いではないでしょうか。そうでなく、

その自分を知ること、を解決すれば、とくに総てを経験しなくても、観察しなくても、病気、健康、裕福、赤貧、悲惨、安穏・・・どの極端でも中間でも無関係に、問題は解決です。その解決した様が、泥沼に咲いた蓮の花。それは、とくに世界中のことを知っても、あんまり知らなくても、まったく無問題です。

No.1261 - 2008/12/30(Tue) 19:46:14

Re: / ルー
何だか、とてもズレているように感じます。
私は私の道を、犀の角のように、ひとり歩みます。
ちょっと話したかっただけでした。
何か問題が起きるようですか?
お邪魔しました。

No.1262 - 2008/12/30(Tue) 23:24:45

Re: / ルー
話せる人として、うびさんしか見あたらなかったのです。
でも、何だか、ズレているように感じます。
今までのように、ぴったりな感じがしません。
説明が足りないかも知れませんが。

No.1263 - 2008/12/30(Tue) 23:27:44

Re: / ルー
「悪意と無知を繋げて見る」とか「自分を知りたいという運動」とか、そのように捉えられるのは、今までのうびさんとは違うような感じがしました。

ま、私がどのように感じようが、うびさんには関係ないですね。
私も、うびさんやhatoさんがどのように感じようが関係ありませんのと同じですね。

私のことは私がわかっていればよいということでしょう。

そのようにして、私もひとつ大人になったのでしょう。

No.1264 - 2008/12/31(Wed) 00:01:35

Re: / ubik0101
うん。それはそれで。なのですが。ここでは。ルーさん個人の有り様を話したのではありません。こんなことは潜在的に理解してるのだけれど、ルーさんは、自分に見えるように言葉、思考にしてないようだ。それを明確に理解してみたらどうでしょう。という意味で、話してみました。
No.1265 - 2008/12/31(Wed) 09:27:04

Re: / ルー
何か、説明するのが面倒で。
うびさんは、私の最小限の説明でやりとりできる数少ない人。
なのですが。
やはり、もう、いいです。^^

No.1266 - 2008/12/31(Wed) 14:32:52

Re: / ルー
私は、この世に生まれて、うびさんと知り合えて幸せでした。
よいお年を。

No.1267 - 2008/12/31(Wed) 14:33:57

Re: / ルー
あ、自我の解決がすべてではない、ということを思ったんです。
自我が解決しても、さらに、そのうえに、それよりも広い範囲に目を向けるようになる、ということだと思います。
自分が思ったことなのに、詳しい説明ができなくてすみません。
そのへんのことを、うびさんは、自分に見えるように言葉、思考にしていない、と言われたのかな?
私にも、うっすらとしかわからないので。
すべてのことを自我に返還すると、間違うこともある、ように思います。
それは、自我を解決しなくてもいいということとは違います。
もっと広い問題がある、というか。
それについて詳しい説明ができなくてすみません。
それを明確に理解するには、材料を持っていません。
これから生きていく中で、出会う中で、見つけていくのではいけませんか。
というか、私の中では、それは、問題(問い)という形で存在しているのではなくて、「そのように感じる」というだけのことなんです。

No.1268 - 2008/12/31(Wed) 14:42:02

Re: / ubik0101
>自我が解決しても、さらに、そのうえに、それよりも広い範囲に目を向けるようになる、ということだと思います。

どういう意味で「自我の解決」を言ってるのでしょう。というのも、これが自我だという、その自我の定義、理解も、立ち位置によって違いがあります。理解の、深度(変な言い方)があります。

それで。いろんな自我の定義、理解があって、その広さ、深度が深まる可能性があるということでしょうか。もし無知とか悪意なら、それは自我の問題の範疇だと思います。

それとも、たとえば世にある悲惨な出来事を見て、そんな酷い目にあってる隣人を助ける気持ちがあるとして、そういう具体的なことは、自我の問題の範囲より広い、と言う意味でしょうか。

そのような人のためになる働きは、たとえば募金や争いの仲裁なら、偽善でも自我でもできるように思えるけど。まず自我の問題を解決したなら・・・問題を正確に見ることができるので、愛とか慈悲とかが発現するので。そうならば悲惨を継続させる、増長させるということではなく。世界の役に立ことができる。という意味でしょうか。

No.1269 - 2008/12/31(Wed) 17:40:34

Re: / ルー
悲惨な目にあうことは、自我の問題ではないということです。
No.1270 - 2009/01/01(Thu) 00:16:42

Re: / ルー
悪意を持つ、悪意を発揮する、悪意に従った行動をとることは、自我の問題だと思います。
その悪意の出どころは、弱さや無知であるということを最近知りました。
「自我かどうか」ということは、私には、その、自我と自我以外の境目がはっきりしていなくて、また、「自我」というものにこだわる気がないということです。
自我はない、ということが身についているのかも知れません。

No.1271 - 2009/01/01(Thu) 00:20:51

Re: / ルー
それとも、自我という目に見えないものに興味が持てないだけかも知れません。
または、悪意というものがよくわからないというだけなのかも知れません。

No.1272 - 2009/01/01(Thu) 00:36:54

Re: / ubik0101
たとえば愉快な、悲惨な、安穏な、どんな状況にあるとしても、それに依存、執着、縛られることは、自我の問題になり得ます。それで、自我を解決しても。たとえば嬉しければ楽しみ、たとえば悲惨な出来事に、悲しみ、怒ります。くり返しますが、

そういうことが削除されるのなら、なにかの病気です。そんな、たとえば感情は、自我の問題ではなく、世界の機能で、大袈裟に言えば、神秘です。不思議、知らない、です。それで、自我の問題としての、悲しみ、怒りと、神秘の、悲しみ、怒りは、おなじであろうと、違っていようと、

それを同一の地平、平野で、 そうでない人に話して伝えることは、ほとんど不可能です。また、嫉妬や、偽善や、恨みや、意地悪や、悪意・・・たぶん特定の人間関係に依存することは・・・自分の場合なのかも知れませんが、まったく機能しません。 そのようなことの了解は深いところではあっても、

このサイトや掲示板で話してるように、言葉にする 。自分の意識に教えなくては、それを維持できないということはないのですが、そうすることで・・・経験則ですが・・・さらに学ぶことができるようになっています。ところで、

>悲惨な目にあうことは、自我の問題ではないということです。

まず自分の意識が理解してるかは別として、深いところで自我が解決されて、たとえば自我とは関係ない悲惨が見えてくると思います。それに悲しみ、怒ったとしても、そのことに依存、執着、縛られることができません。そして、そのような人ばかりであるなら、

その自我による人為的な、争いなどは、もともと起こらないことが期待されます。そのためばかりではありませんが、ほかの人の成長の役に立つことは、とても大切です。そのためばかりではありませんが、自分の意識に教えること、学ぶことが必要です。

>自我はない、ということが身についているのかも知れません。

そうなのだと、睨んだり踏んだりしてるのです。けど。自分の意識に教える、言葉で理解することは、不明解でないためにも、大切です。まったくubik0101にとっても、自我など、言葉上のことでしかありません。たしかに、

なにか自我というものが、 身体の中にあるとか、中心とか、世界や自分との分離という感覚が、ほかの人にあるという人の話を聞いて、自分を探っても知覚できません。なんだかの好ましくない感情や思考に、自我と名前を付けてるだけなのかなとか。とも思ってもみます。それを、ない、と知覚する必要があるのも、自我であり、それもないことを知っています。また、

ほんとうの自分、自己を、自覚する必要があるのは自我の機能であり、それを言葉による理解によって、その必要もないことを知っています。それだけのことです。

No.1273 - 2009/01/01(Thu) 14:06:21

Re: / hato

自我、というテーマについて出来るだけ明快に、誠実に踏まえることで、自分自身を助け、より人に適切である、あろうとすることが出来ます。むやみな反応をする必要がなくなります。或いは、その人のテーマ(という表現が適切かは解りませんが)であるかどうかを度外視すれば、悲惨な状況を悪化、長引かせる必要もなくなると思います。なぜなら、その世界、その自我の機能への不理解が問題となっているのは明確だからです。

また、人にはそれぞれに時期があり、タイミングがあり、テーマがあり、それを守る為に自我が機能するときには、ただそのことを受け取り、出来るだけ敏感に生きていくなら、学ぶに必要なことは、ただ起きているのだと思います。


旧年中は、皆さまに大変にお世話になりました。
ありがとうございます。
今年も、どうぞよろしくお願い致します。

ubik0101
hato

No.1274 - 2009/01/01(Thu) 14:55:13
悪意と無知のことについて / ルー
江原さんの最新の本に、ヒントになることが書いてありました。
弱さと無知によって悪意はできている、とかなんとか。

No.1240 - 2008/12/25(Thu) 19:29:30

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
見せ掛けの強さを演じること、見せ掛けの叡智を装うことによって、見せ掛けの善意を信じさせること。
一皮剥けば、弱さと無知があった。
そして、見えてきたものは、他人が恐いということ。
他人が恐いということの裏返しで、身内には支配する。
身内というのは、自分の子供、孫。
それも、言うことを聞いてくれないのなら、敵扱い。
他人は敵。
言うことを聞かぬ身内も敵。

No.1241 - 2008/12/26(Fri) 09:27:30

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。
No.1242 - 2008/12/26(Fri) 09:30:55

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
おおくの場合、 愚かな人は、その自分の愚かなことには気が付きたくないようです。また、その愚かなことに気が付かなければ、愚かではない・・・たとえば叡智がある・・・これまでの人生に自信がある。と思い込めるほど、愚かでもあると思います。 そうでなければ、

たとえば見せかけの強さも、見せかけの善意も、その人にとっては、正当性を持たないと思います。そういうこともあって、その見かけの叡智、つまり愚かさを自分自身のように守りたい・・・自己保存することが・・・優先される傾向にあると思います。そういう人の日常は、

いろいろな傾向のある、ほかの人と軋轢を生じるでしょう・・・また軋轢の可能性を持っているでしょう・・・それは、その愚かさが、愚かな自分にも見えるように人間関係の軋轢として、現れたのです。けど。それだけで、その自分の言動の正当性の正否を探ろうともしない傾向にあると思います。つまり愚かな自分は、自分の愚かさを守りたいのでしょう。 たとえば、

それをほかの人から指摘されるのを嫌う傾向にもあるようです。それは自分で理解しなくてはならないので、ほかの人の指摘は困るので、拒まなくてはならないから、ということもあるでしょう。そのように、

いわゆる自我は、機能すると。それを学び、それから解放されることができることを知らないということもあるでしょう。そのように自分を学びたくないことが、ほかの人との軋轢で苦しむことよりも・・・そうであれば、敵もいるかもしれませんが味方もいるので・・・拠り所がある。楽だと感じてるのかもしれません。そのように。愚かな人は、愚かでいたいのだと思います。

続きます。

No.1243 - 2008/12/26(Fri) 17:27:21

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
>私は、こういうことを学ぶために、あの母親から生まれたのでしょうか。

そのために生まれた、のだとしても。とくに、そうではない、としても。「こういうことを学ぶ」。また、学んだ。なら、その人生、状況、環境は活用され、満たさてるので。どちらでも問題にならないのではないでしょうか。

というのも、「こういうことを学ぶ」という状況は、ただ自己を知るための 取り替え可能な負荷と思うからです。それだから、そんな問題から解放されることもできるのだと思います。

ところで、テレビを持ってないこともあって、江原さんの番組も見ていません。

ちょっと昨日は泊まりがけで出かけて、今日の夕方に帰ってきたので、返信が遅くなりました。

No.1244 - 2008/12/26(Fri) 18:17:06

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
本屋さんで江原さんの本を見つけて立ち読みした時に、まず、泥の中に蓮の華が咲くということが書いてあって、興味を持ったのです。
私は、まだ、そのことがよくわかっていません。
キリスト教では、天の国は現世にあるのだと言っているでしょう。
しかし、泥の沼の中にきれいな花が咲くということは、現世は泥沼であるということでしょう。

No.1245 - 2008/12/27(Sat) 20:54:19

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
それから、私は、学ぶとか成長するために生きているということは、まだはっきりとは知らないんです。
No.1246 - 2008/12/27(Sat) 20:59:56

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
うろ覚えですが、イエス・キリストの言葉は。「天の国は、ここにある、あそこにあるというのではない。ただ人の心(人と人の間)にあるのだ」。だと思います。つまり、現世にある。また、天上にある。とは言われていません。さらに、

まずは天の国という言葉が、なにを意味するのか了解しないで、それが現世にある。たとえば、どこか天上にある。どこか天上ではないとか、と。表現するなら、誤りです。それは、天の国とか、現世とか、いう言葉に勝手な意味をつけて、そんな空想を、前提にしているのかもしれません。おなじように、

また現世が、泥沼である、も。その現世とか泥沼という言葉で、なにを意味してるのか、明確でないならば、それは自分の了解してないことを言ってるのでしょうし、無知な空想かもしれません。 ところで、

ここで言う泥沼とは、自我のことです。その自我が成長し、完成するなら、ほかの言い方では・・・自我が機能する必要がないので・・・自我が死ぬなら・・・咲くのは蓮の花。それは、愛を、実在を実感し、そう実感する自己が与えられる。あるいは目覚める。その有り様が、天の国です。安息日の主です。聖書でも、一粒の種が死ぬなら、おおきな収穫が得られる。とか言われてると思います。

No.1247 - 2008/12/28(Sun) 12:19:42

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
現世は修行の場であるということをわかりかけています。
何度も何度も言葉ではわかるのですが、身にしみてわかるには、あと一歩というところです。

No.1248 - 2008/12/28(Sun) 13:53:52

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
それは、自我の完成。空っぽ体験。愛の体験。自分自身を知る・・・などと表現される結果、体験によって、明確だと思います。けど、

その人の経緯、状態によって、そこから汲み取れる意味も・・・その人の意識による理解としてですが・・・変わってきます。すこしししか汲み取れない人も、おおくを汲み取る人もいると思います。たとえば、

「おおくを持つ者は、さらにおおくを与えられる」。とあるように、です。自分の体験の了解、納得が、困難といえば、困難だと思います。そういう意味ばかりではありませんが、

それが学びの終わりではなく始まりです。たとえば、偽りの叡智を育てた人なら、それに依存・執着した経緯がある人なら・・・そのことが偽りでなく完成され叡智として機能していることを見出すので・・・どんなことも、無意味ではないことを知ります。

No.1249 - 2008/12/28(Sun) 15:08:04

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
無意味ではない〜
そうなのだと思いますが、どうしてそんな目にあわなくてはならないのかという疑問と、そんな目にあわずに生きている人がいる(共存している)ということに納得がいっていません。
キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。

No.1250 - 2008/12/29(Mon) 10:27:15

Re: 悪意と無知のことについて / ubik0101
まあ。どんな自我でも、たとえば、ほかの人との軋轢を避けるための偽りの叡智でも、はじめから悟ってるつもりで迷ってる自覚さえない自然外道でも、それは臨界、最強度にまで達しなければならないのだと思います。そうであって、やっと、そういう自分の意味を探る、反省する、状態になるのでしょう。そして、

それが 、 ある時、ついに叡智に転換されるのではないでしょうか。それが、おおくを持つ人は、さらにおおくを与えられる。つまり迷いが大きい人は、理解できる叡智も大きい。ということでしょう。それを知ってか知らないでか、人は、いくらでも迷えるのだと思います。 そして、

そういう自我の機能は、なんであれ役に立ちます。たとえばよく言われる、世界と自分との分離も、感情や思考との同一化の問題も、欲望、暴力なども、そのような取り替え可能な負荷、触媒です。そしておそらく、そういう人から酷い目に遭わない人は誰も、いないと思います。そんな目に遭わないように見える人も、その人には、なんの問題もないということはないでしょう。そこは、

お互いに、お互いが、自分の目の中の梁に気が付かずに、相手の眼の中のゴミを取ってあげようとしてる、そんな有り様なのでしょう。それはそれで、かなりの混乱、おおきな迷いですが、それが成就するならばですが、おおきな叡智の可能性が育ってる。泥沼。そのために、

お互いがお互いに活用しあってる。とも言えないことはないのです。そこに、不公平なことはないと思います。 イエス・キリストは、まず自分の目の梁を取ることを薦めています。また、そういう人間関係の問題もですが、この自分のたとえば無明。老病死苦の問題を解決すること、それが根っこの問題だと思います。

>キリスト教でいう「天の国」というのは場所のことではなくて、状態のことなのかと思いました。やっぱり、泥沼の中に咲く蓮の華のことなんですね。

うん。けど。そのことは意識の管轄、範疇にないことです。それを、意識で理解しようとしたりすることも、知識で得ようとすることも、迷いになっています。そしてそのことさえ叡智に転換され得ます。

No.1251 - 2008/12/29(Mon) 11:46:59

Re: 悪意と無知のことについて / hato

師走るころ。

空では小春日和に、鳥たちが和んでいるようです。
メジロ、
窓を開けて、ぱたぱた掃除をしていても、
だいじょうぶ、
こっちを見ながらミカンをついばんでいます。

ちょっと素敵なお客様、

ubik0101邸に、ようこそ。

No.1252 - 2008/12/29(Mon) 12:10:06

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
例えば、虐待の被害者になる子供は、何のために生まれてきたのか。
未熟な母親が何かを学ぶため?
そんな、誰かの為だけに生まれてくる人はいるのでしょうか?
酒鬼薔薇に殺された子供は、何のために生まれてきたのか。
今は、生まれ変わって幸せになっているのか、気になります。
そして、「気にならなくなる」ということが最終地点なのだと思っていましたが、そうでもないように思えます。
そういうことが気にならなくなる方が、こわいことです。

No.1253 - 2008/12/29(Mon) 23:30:45

Re: 悪意と無知のことについて / hato

世界に痛みは多く、あるように思えます。
理不尽なことも多く、あるようです。

そして、
だからこそ人ができるのは、
というより、
しなければならないことは、
自分を糺すこと、なのだと思います。

極端に言えば、それしかできないのだと思います。
極端に言えば、それでよいのだと思います。

それは必ず、世界に繋がっていくからです。

痛みが正に痛みとして感じられないなら、
おかしなことと思います。

けれど、ことさら外や人に目が向いてしまうなら、
自分の内にある何かから、目を背けたいだけかもしれません。あるいは、気付いていないことがあるかもしれません。
人は、まず、自分に手が届くこと、ここにあるチャレンジを尽くすこと、で充分です。

どこかの地点で、
なにか、見逃しているのではないだろうか。
決意してしまったこと、
ささいな、こと。けれど、大事なこと。

それは、その人にしか、わかりません。
私たちは、そうして自分を省みながら、学んでいくことができるのだと思います。

No.1254 - 2008/12/30(Tue) 01:39:32

Re: 悪意と無知のことについて / ルー
自我の解決が問題のすべてではないと思います。
No.1255 - 2008/12/30(Tue) 12:21:30
ネールノット / ubik0101
あるとき、一人で飲み屋に行きました。たまたま隣の席に座った人と仲良くなり、教えて貰った、日本古来の釣り針の結び方です。

それは本結び(内掛け本結び、外掛け本結び、とは違います)とも、地獄結び、とも呼ばれます。

できあがりは同じですが、違う手順で。釘を使って結んだから、英語では、ネールノットと呼ぶそうです。

よく釣り道具店などで、ハリスに釣り針が結んで、売ってる商品がありますが、おなじ結び方です。ほとんど最強で、簡単で、薄暗闇でも。チヌ針0.5号でも結べます。

まず、写真のように。針先を、こちら(釣り針を結ぶ人)に向けるようにして、釣り針の、ちもとを、左手の親指と人差し指の間に挟んで持ちます。このとき親指の爪先で押さえつけるようにすると、しっかり固定できます。

No.1228 - 2008/12/19(Fri) 23:51:26

Re: ネールノット / ubik0101
ここからは釣り針では小さくて見えにくいので、ペンで撮影します。

ハリスを、釣り針に添えて、輪を作ります。

No.1229 - 2008/12/20(Sat) 00:33:42

Re: ネールノット / ubik0101
こちら(釣り針を結ぶ人)から見て、その輪の向こう側から、右手の親指と人差し指を差し込みます。
No.1230 - 2008/12/20(Sat) 00:40:35

Re: ネールノット / ubik0101
その親指と人差し指を広げて・・・針先と、ハリスの先を一緒に・・・輪の中に入れます。そうすると親指と人差し指は、下(地面)を向いています。
No.1231 - 2008/12/20(Sat) 00:51:52

Re: ネールノット / ubik0101
その輪に差し込んだ、親指と人差し指の先を閉じて、時計回りに円を描くように、こちら(針を結ぶ人)側に移動させます。その輪は、常に、緩めずに。軽いテンションをかけていきます。
No.1232 - 2008/12/20(Sat) 01:01:22

Re: ネールノット / ubik0101
その輪を、こちらに移動させたら、そこで。それまで下を向いてた親指と人差し指を、上を向くように・・・こちらから見て、親指が手前で、人差し指が向こう側になるように・・・右手首を、回転させて。親指と人差し指の先を広げます。手首は、このようにしか回転できません。
No.1233 - 2008/12/20(Sat) 01:11:34

Re: ネールノット / ubik0101
そして、親指と人差し指で広げた輪の中に、針先とハリスの先を一緒に、入れます。
No.1234 - 2008/12/20(Sat) 01:25:29

Re: ネールノット / ubik0101
あとは、同じように繰り返して、6、7回ほど結びます。
No.1235 - 2008/12/20(Sat) 01:30:19

Re: ネールノット / ubik0101
それから、ハリスの巻いたところが解けないように、巻き終わり部分を左手の中指で押さえます。ここで右手の親指と人差し指を輪から抜きます。このときハリスの輪には、より、がはいっています。

つぎに、右手の親指と人差し指で、ハリスの元を引っ張って、あるていど締め、次にハリスの先を引っ張って、あるていど締めます。結び目(ハリスの巻いたところ)が、解けずに、移動出来る程度に。です。

そして最後に、ハリスの結び目を、釣り針のちもとに移動させてから、ハリスの元と先を引っ張って。強く締め付けます。

No.1236 - 2008/12/20(Sat) 08:58:24

Re: ネールノット / 大阪
隠岐で、教わったやつですね。

次にお会いするときに忘れていたら失礼だと思っていました。

覚えなおしておきます。

No.1237 - 2008/12/22(Mon) 20:10:56

Re: ネールノット / hato

はい、hatoも、やっと覚えました。
(でもすーぐ忘れるかもですー)

きのう、部屋で日向ぼっこしていて
窓の外の木々の紅葉が、
風がふくたびに舞っているのを見ていました。

メジロ、四十雀、とても可愛いエナガ、ヒヨドリ。

メジロはことに人なつこそうで、木々の枝枝から、
まるで動く音符のようになって、皆でやってきます。

わーい、おいでおいで、

て喜んでいたら、手摺まで飛んできたりします。
窓から顔を出して上を覗いてみると、高い場所の枝には、
コゲラがいたりします。

冬の鳥たち、なかなか元気です。

そこで、小さな部屋の片隅には、
お気に入りの
アラジンストーブ。
ubik0101さんが手入れしてきれいにしてくれました。

No.1238 - 2008/12/22(Mon) 21:37:37

Re: ネールノット / ubik0101
ついさっき、ミカンを1つ、2つに切って、手摺に置いて。キッチンから、も、ひとつ持ってこようとして戻ってきたら・・・その間に、もう、ひよどりが飛んできて、食べています。あちこちにメジロもやってきて、その後を待っているようです。
No.1239 - 2008/12/23(Tue) 09:29:30
(No Subject) / しむじゃ
ubik0101さんは「至高体験による覚醒の、始まりと、中間と、成就が自覚されます。」と書かれています。またどこかに覚醒は一瞬だ、ともありました。「覚醒の、始まりと、中間と、成就」とは一瞬の中にあるということでしょうか?
No.1226 - 2008/12/14(Sun) 07:41:37

Re: / ubik0101
それは、ほかの人のことを書いたのではなく、ただ自分に起こったことです。どうしようもない衝動によって、なにがなんでも、ほかのあらゆることを差し置いて、

これが自分だと思う自分の有り様を捨てて、自分の中心に向かう過程で。知覚される限りでは、偽善や嫉妬や傲慢や卑下など、なにも問題がない、有り様になりました。 それでも、

さらに自分の無意識に隠れた問題を掘り起こして、その前提、動機を探し出す、つまり、徹底して隠れた自分の中心をさらけ出すこと。その時には起こってはないけど、起こりえる、悪、自尊心などの可能性も見ることによって正当性をなくす・・・理解することは得ることではなく失うことに似てる・・・捨てる。をしていました。たぶん、

それが結果的にですが、意識・無意識を通じての訓練になっていて、意識・無意識に跨る、至高体験の過程を自覚できたのだと思います。その変化の始まりを、そして変化しながら、変化しつつある自分を、その過程を、自覚しました。その過程の始まりと、中間と、成就は、

ふつうに会社からアパートに帰り、玄関を開け、障子を開け、片足が上がり、それが畳に降りつくまでの、ほとんど瞬間でした。そうでなく、

たぶん人の部分的な変化なら、暫定的な経緯もあるかもしれませんが、それでは成就の自覚も困難だと思います。人の変化の、最も簡単な明確な出来事と思います。それで、

この一瞬とか、今、ということに、覚醒が見つかる。という意味ではありません。そのように思ったのであれば、それに正当性を持たせる、その隠れた前提、動機をさらけだし、そう思うことを捨ててた、だろうと思います。まったく、

どんな瞑想、座禅、いかなるメソッドも試したことはありません。そういうことにも無知なくらい、ほとんど書も読まず、社会的なことも個人的なことも捨てたのです。たぶん、ほかの人から見れば、たとえば素直にして傲慢、異常な日常生活だったと思います。自分に何が起こるか、というより、何かが起こることさえ知りませんでした。

No.1227 - 2008/12/14(Sun) 13:18:22
アホだなと思うことについて。 / ルー
他の人を見ていて、アホだなと思うことに、とても抵抗がありました。
アホかも知れないと思ってしまう瞬間、そのことを忘れようと、考えないようにしようとするのです。
それは何故なのかを考えてみました。
私は、たぶん、他の人から自分がアホだなと思われることにも耐えられないのです。
ですから、そういうことは、ナシにしてしまいたいのです。
しかし、自分が他の人をアホだなと思うことも、自分が他の人にアホだなと思われることも、現実にはあるわけで。
あることはあるのだと受け入れてしまえば、大したことではないみたいです。
しかし、それに慣れてしまうと、他のアホだと思われることに敏感な人との間に溝ができてしまうと思うんです。
その溝は、しかたないのかな。
それも、あるものはあるということで、しかたないかな。
無神経にはなりたくないんです。

すべてを憶えていることが必要なのでしょうか。

No.1214 - 2008/12/01(Mon) 14:25:17

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ううん。覚えておく必要はありません。なにかを理解したら、それは意識から失われ、知覚されなくなり・・・それが問題からの解放ですが・・・だからといって、その理解はなくなり、無神経になり、愚かになるのではありません。飛躍したのです。

なにかの問題がある場合は、それを理解するために、そのことに意識の焦点、照明があてられる必要があります。問題が解決されれば、そうする必要もなくなり、その理解は、意識にとっては無自覚の智恵として機能しています。

そうでなく理解したということを記憶しておく、掴む、基準にするなら、その理解したことに、依存してる、 縛られてる、恐れがあります。それは解放ではありません。

つまり徹底して理解されてるというわけではない、可能性もあります。また、そこに隠れてた、ほかの問題が理解されるために現れてきた、可能性もあります。

続きます。

No.1215 - 2008/12/01(Mon) 18:40:18

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ところで。たとえばアホを、アホと。たとえば偽善者を、偽善者と、思うことを自分は躊躇したことがありません。アホを、アホと思わないのは鈍感です。賢者と呼ぶのはアホです。偽善者を、偽善者と呼ばないのは鈍感です。誠実な人と呼ぶのは、偽善者です。そういう嘘をつくことは、自分にも、ほかの人にも、無神経でなければ不可能です。

ほかの人が、事実、アホであり、偽善者なら、そう呼んで当然です。でも、 事実そうでなく、自分の勝手な判断で、ほかの人を、アホ、とか、偽善者とか、自我の人とか、欲望の人とか、賢者とか、誠実な人とか、無我の人とか、無欲の人とか、思うのであれば問題です。

また、ほかの人が自分を、アホと思ってもないのに、そう思ってると思ってしまう、ということもあるかもしれません。

しかし自分がアホ、偽善、自我、欲望を理解しているなら、その問題を解決してる、その智恵があります。それは無自覚ですが、いつでも引き出せます。それに依存してないので、それをほかの人に言葉で説明できます。もしも、それが誤ってたり立ち位置が違ってたりするなら、互いに学ぶ機会になると思います。

また、ほかの人から自分がアホと言われたら、その理由を聞いて理解する必要があります。ほかの人の判断が誤ってるかもしれません。また、相手の理解が正しくて、自分が学ぶ機会になるかもしれません。また立ち位置が違うのかもしれません。

ただ、それを理解したからでなく、飛躍してることもあると思います。飛躍の後に理解することもあります。たとえば自分は傲慢を理解してるわけではありません。卑下を理解してるわけでもありません。けど、傲慢や卑下に縛られることは、ないと言えます。

No.1216 - 2008/12/01(Mon) 19:58:59

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
> ところで。たとえばアホを、アホと。たとえば偽善者を、偽善者と、思うことを自分は躊躇したことがありません。

カッコイイ!・・・ぞ

>アホを、アホと思わないのは鈍感です。

ああ、そうなんですね。
そのへんを私は曖昧にしています。

いろいろな悲惨な出来事の原因は、悪意によるものか無知によるものか、と考えます。
無知であるならしかたがない、という考えが底の方にあるようです。
そして、悪意があるなら、許せないこと、という考えがあります。
アホならしかたがない、と。
極端に言えば、殺人などを犯しても、責任能力がないなら無罪になるというようなことです。

アホだから、無知だから、知能が低いから。。。。。相手が苦しんでいるのがわからない、相手の人生を破壊していることに気づかない。。。。それなら許せるか?
それとも、自分の人生が破壊しているので相手の人生も破壊してやろうという悪意があるなら許せないのか?

ああああああああああああああああああああああああ、ああ、なるほど。
私は、人がアホかどうかをうやむやにせねばならなかったのだ。
という場所に生きねばならない運命を背負っているのだ。
ハッキリさせることはできないのだ。
この人はアホなのかな〜、悪意があるのかな〜、どうなんだろうな〜、ということをハッキリさせないままに生きていくということをさだめとしているのだ。

No.1217 - 2008/12/02(Tue) 10:26:59

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
まあ、あれですよ。ふつうは、アホでなくては、悪意を持ち得ないと思います。もしも人が悪意を持っていて、それを知りながら、ほかの人に、それを実行できるとしたら、知能が高くても、それはアホ、無知でしかない・・・知能が低くて善良な人はいる・・・と思います。それで、

その悪意の人は、その悪意を、相手にも自分にも隠してるのではないでしょうか。たとえば、なにか悪い相手に対して、自分は正しいことをしてるというように。そう操作してることも、自分で自分に隠して、気が付かないようにしてる、それがほかの人には判らないと思ってる、そんなアホだから、悪意が持てるのではないでしょうか。そして、

そんな、空想の悪を前提にある正しさは、それに正当性を与える、幾千の正しい理由が考えられるでしょう。けど、正しさとは言えません。空想の正しさです。ただの正しさには、そんな幾千の理由はありません。まったく理由なく正しいのです。

ならば、理由がなければ正しいとして、理由なく悪いことをする、ということも可能かもしれません。けど、そうなら、そのような自分が自分と思う自分が、ある、のです。その自分が、ない、なら、初めから悪意を持てないのではないでしょうか。その自分が、ある、それは偏りで、無知です。その無知は智恵に転換され得ます。それはそうでも、

たしかに、ほかの人からは、気が回らなく見えたりして、蔑ろにされたように判断されてしまうこともあると思います。そうなら、

その時その場で、理由もないくらい、素直に真摯に、ほかの人に対応する、ということが有効だと思います。それで、たとえば過剰に気を遣って貰いたい、ほかの人と溝ができても、後悔はしないし、学ぶことが多々と思います。

ところで今日は、鰆の煮付けと、ムニエル。鳥と野菜のコンソメ煮弁当です。この前、そのあたりで摘んで乾燥した月桂樹の葉を使いました。しかーし。なんでも100円ショップで買った20wの蛍光灯の色が青に偏ってて、なさけない色調に写っています。

No.1218 - 2008/12/02(Tue) 16:02:05

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
うわぁっ!青い弁当だ。
食欲減退ですなぁ。
赤い色のフィルターをかけて見てみます。

No.1219 - 2008/12/03(Wed) 15:28:25

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
たしかに、これはー、というわけで。やはり日本製の蛍光灯に変えました。今日は、鰆のムニエル、照り焼きと、エビと野菜の塩茹で弁当にしました。いつかは、ごろんと焼き芋が一本だけ、入ってる弁当もいいかもしれません。かもしれません(残響)。
No.1220 - 2008/12/03(Wed) 16:43:17

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
ところで、この頃、ベランダに野鳥のエサを置いてみました。穀類には反応がありませんでしたが、ミカンを置いてみると数日前から、ムクドリ?ヒヨドリ?がやって来て、食べて行くようになりました。その後、メジロも来て、賑やかです。窓から1mもないので、薄いカーテン越しに見ています。画像は、メジロです。

そういえば。子供の頃こんなことがありました。誰かが、ほかの人のことを「馬鹿」と言って走って逃げて行きました。すると言われた人は「馬鹿という人は馬鹿」と叫びました。すると走って逃げた人は振り向きながら「馬鹿と言う人は馬鹿という人は馬鹿」と叫び返して笑いました。

No.1221 - 2008/12/03(Wed) 17:00:57

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
馬鹿と言う人は馬鹿という人は馬鹿と言う人は馬鹿ぁ。。。あはは!
No.1222 - 2008/12/03(Wed) 22:45:05

Re: アホだなと思うことについて。 / hato
いもがごろん、は、やめてねーっ。

でもお気に入りアラジンで焼く焼き芋は、
最高です。美味しいのよね、

ムニエルは大好物。
なんでも美味しいのですが、
ムニエル、とても優しい食感です。

今日は、ちょっと、よい知らせ。
小さな部屋が、華やぎました。

こちらはhato画像のメジロちゃん。
どこにいるか、わかるかな。

No.1223 - 2008/12/03(Wed) 23:25:00

Re: アホだなと思うことについて。 / ルー
よい知らせ。。。
赤ちゃんができたとか。。。かしら?

No.1224 - 2008/12/04(Thu) 08:43:41

Re: アホだなと思うことについて。 / ubik0101
そうねー。コウノトリのような話かな・・・会いたかった道の仲間から、会いましょう、て連絡があったことです。と言って、hatoさんは、鮭の西京焼き、野菜の中華スープ茹で弁当を持って、出かけて行きました。
No.1225 - 2008/12/04(Thu) 09:36:22
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