最近思うことは、自分の苦労なしに、自分の周りに存在しているもの、それから、存在していないもの、のことについてです。 たとえば、お金、家族の愛、美貌、健康、文化的なもの、伝統的なものなどなど。 人、それぞれの違いについて、あまり気づいてはいませんでした。 当たり前に存在するものは、人によって違うのでしょう。 ですから、自分が力を注いで築き上げたものも、人によって違うのでしょう。
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No.1196 - 2008/11/19(Wed) 12:32:40
| ☆ Re: / ubik0101 | | | うーん、自分は。この頃、因果とか縁って、何?て、 思います。たぶん、なにか原因があって、結果があるということなのでしょうけど。その言葉の意味が判りませんでした。また、もともと興味がありませんでした。それでも考えてみると、
たとえば高校を卒業して長崎から東京の学校に行って、働いて。それから隠岐に行って、また長崎に。そして、いまhatoさんと神奈川にいます。その何が原因だろう、何が結果だろう。どこかを結果として、それを導く原因となるなにか基準があるとも思えません。という感じです。そして、ただ、
どんな感覚や、感情や、思考も、現れては去っていくだけです。そう知覚してる自分は、それら現れては去っていくものでも、それらを現象を受容する、たとえば不動のものでもありません。それでも、こじつけるとして、
もしかして原因は、そのまま結果。あるいは、そんなことも壊滅、なだけなのでしょうか。 そういうことは「自分の周りに存在しているもの」を思考してるのでしょう。また、「それから、存在していないもの」も視野にいれるなら、その人の経緯を浮き彫りにしてくれるのかもしれないと思いました。でも、
そういう経緯に依存できないし、そういうことに・・・ありのままも、いまここも・・・基準にならず、依存できないことにも依存できないだけ、とも言えそうです。ところで、
とても天気がいい今日は、毛布を洗濯をしました。そうでなくてもいいのに、そう。の、この部屋の絨毯の上に、散りつつある紅葉で隙間が開いた樹々の枝から、ゆらめく木漏れ日が射し込んでいます。
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No.1197 - 2008/11/19(Wed) 14:45:02 |
| ☆ Re: / ルー | | | 私は、子供時代、食べるものに苦労するということはありませんでした。 お弁当は毎日、母が自動的に作ってくれていたし、時間がなくてろくに食べられないのに朝食を作ってくれて、結構豪華な夕食も作ってくれていました。 そのことに気づかずにいたのです。 どうしてかというと、隠されていたもの、に焦点を当てていたからです。 「いい母親、いい奥さん」という印象の裏に隠されたものを見るために、表面にでている姿はカモフラージュであるとして、認めていませんでした。 たぶん、私の母は料理好きなんでしょう。 うびさんみたいに。
親が食事を作ってくれず、カップラーメンばかり食べていた子供もいるのではないですか。
比較する、というわけではないのですが、自然に当たり前として与えられた環境というものは、気づきにくいと思います。 苦痛があって初めて、考えるのではないでしょうか。
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No.1198 - 2008/11/19(Wed) 17:45:16 |
| ☆ Re: / ルー | | | > とても天気がいい今日は、毛布を洗濯をしました。そうでなくてもいいのに、そう。の、この部屋の絨毯の上に、散りつつある紅葉で隙間が開いた樹々の枝から、ゆらめく木漏れ日が射し込んでいます。
「そうでなくてもいいのに、そう。」というのは、縁のことではないですか?
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No.1199 - 2008/11/19(Wed) 21:39:04 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | そういえば。一人暮らしで経済的に不安なときに、子供の頃は、心配なく暮らしてた。食事も母親に作ってもらってたんだなと、そんな子供の頃の安心感、を思い出したことがありました。たしかに、
そうであることを、そうであることとして、気がつかず、そこにないことばかり考えてしまうことがあると思います。 そして、それが、もっと楽をしたいとか、 素敵なもの、ことが欲しいとか、ここにないものばかり求めたりすることとして現れたりします。それだけで、
それは、ここにないことを求めてるので、苦痛を感じることもあります。また求めることで、ほかの人との意見も違い、衝突、軋轢を生じることもあるでしょう。それは欲望、自我としても機能すると思います。そういう自我は、ほかの人の自我を探るのでしょう。そういうことによって、 ここにないことや、ほかの人の有り様などを、考える自我の機能を学びます。というのも、
もともと、そうであることを、そうであることとして(そのものがそのものを)、考える、知覚することは・・・たぶん理論的に不可能でしょうが・・・まずは関係のある、そこにないことばかり考えるしかできないのですが、ついに、自分で自分を自覚、確認したい、そんな自我の機能が完成する。そこで、
ここにあることを、ここにあることとして。そうであることを、そうであることとして。なにかの生活というよりも、自分自身、つまりまさに自己が自己であるとの了解・・・しかしそれは意識に依らずに自覚する・・・と機能するのだと思います。
> 「そうでなくてもいいのに、そう。」というのは、縁のことではないですか?
そうとも、世界とも、不思議とも、未知とも呼べると思います。それで、そうであって、それに依存できないのですが、それはなぜそうなのか?と思うのです。
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No.1201 - 2008/11/20(Thu) 14:01:57 |
| ☆ Re: / ルー | | | 「なぜそうなのか?」と思うのですね。 答えらしきものがあるとは思わないままに・・・
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No.1202 - 2008/11/20(Thu) 15:29:26 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | たしかに。なぜ、これが、こうなってるのか?それは、答えはないのかもしれません。
でも、この、不思議、未知、世界を露わにしてくれるのでしょう。
そして。それを問わないなら、風のざわめき、落ち葉の舞、木漏れ日のゆらめきです。
ところで今日は、めばち鮪のムニエル、エビと野菜の塩茹で弁当です。
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No.1204 - 2008/11/21(Fri) 11:26:44 |
| ☆ Re: / hato | | | ほんとうに。
出来事といえることは、ただ、そう、であったとしか、いえないこと。 そう、でなくてもよいのに、そう、であること。 そう、 でしか、ありえないこと。
その不思議。
鮪のムニエルは、柔らかい身がさっぱり優しい、よいお味でした。
お弁当。 こんな可愛いのも、ありました。
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No.1205 - 2008/11/21(Fri) 23:51:36 |
| ☆ Re: / 大阪 | | | No.1206 - 2008/11/24(Mon) 12:03:55 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | No.1207 - 2008/11/24(Mon) 15:01:47 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ついでに、イントラ反転真空管アンプと、ルンルンです。
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No.1208 - 2008/11/24(Mon) 17:05:18 |
| ☆ Re: / 大阪 | | | こんな寒い季節は、その真空管アンプで聞く方があうのかも、と思いました。
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No.1209 - 2008/11/24(Mon) 17:40:37 |
| ☆ Re: / hato | | | イントラ反転真空管、たしかに、冬の季節に似合うようです。 今この部屋で、フルートの音が深くいい響きです。
それは、なにか。 なぜ、そうなのか。
そうでありながら そこを生きるなら幸いです。
> コレは良い!(笑)
で、しょ?
お弁当を開けて、ちょっと嬉しはずかしびっくりしたので、 「では今度は、赤いのね」 と逆襲しました。 「えーっ、赤いのっ?!赤ピーマンかなーっ、なんだろうなーっ??」 と、不思議の次の悩みになりました。
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No.1210 - 2008/11/24(Mon) 20:19:44 |
| ☆ Re: / 大阪 | | | >それは、なにか。 >なぜ、そうなのか。
>そうでありながら >そこを生きるなら幸いです。
これは、どういう意味ですか?
赤のハート、確かに手ごわそうですね。うびさんに悩んでもらいましょう。
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No.1211 - 2008/11/26(Wed) 13:11:50 |
| ☆ Re: / hato | | | 不思議であるこの世界をまったく生きて、 世界であるこの不思議にすら埋没することもない、
そこは、 ここ、とかあそこ、とかいえるものでないことを 了解されている、ことかも知れません。
大阪さんをさらに笑わせるための、 ダメ押し画像を送りましょう。
(ubik0101さんお気に入りの、携帯ストラップ。です。)
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No.1212 - 2008/11/26(Wed) 21:19:28 |
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