自己を知ろうとする運動
ところで。自分が自分を知覚、つまり自覚したいという衝動も、自我の機能です。それで、日常生活では、スポーツしたり、季節の変化を感じたり、怒ったり、悲しんだり、あれこれ思考したりする・・・学んだり、遊んだり、勤勉も、怠惰も、ただ生きてるだけでも、その総てが、自分を知りたいという衝動の現れと見なすことができます。そうだとして見ると、
もちろん、自分を知りたいとも思いもしない・・・起きたり眠ったり嫁いだり娶ったり、日常に埋没して自分を知りたいという意図さえ感じないことも。すでに自分は、このままで完成してると思いたいので、知りたいとも思いもしない・・・ということさえ、そういう自分を知りたい自我の運動の一環でありえます。 それで、
たとえば、なにかをしたいのだけど、できない。またしたくないのだけど、せざるをえない。また。変化していくことを変化させたくない、変化しないことを変化させたい。また。ほとんど関係ないことを関係づける。関係あることを関係ないことにしたい。とかの日常生活での欲望の運動も、自分が自分を知りたいということの起源ではないとしても、そこから派生した運動ではないでしょうか。 それで、
その派生した運動を観察、研究しても、実際は、自分で自分を知覚したい、という衝動の直接の現れを見ることではないかもしれません。つまり、その日常の嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏、そのあたりをいくら観察しても、研究しても、理解しようとしても、その、自分が自分を知覚したい、知りたいことの中心に届かないかもしれません。また、
そのような嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏は、理解可能なことではないのかもしれません。と言うより。理解してるということもまた、執着・・・自分の状態を知覚したい・・・なのかもしれません。たしかに理解したら、理解は不要でもあります。そして、自分が自分を知る衝動、つまり自我が満たされたら、その自我は不要になります。
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No.1213 - 2008/11/30(Sun) 16:30:03
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