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(No Subject) / ubik0101
自己を知ろうとする運動

ところで。自分が自分を知覚、つまり自覚したいという衝動も、自我の機能です。それで、日常生活では、スポーツしたり、季節の変化を感じたり、怒ったり、悲しんだり、あれこれ思考したりする・・・学んだり、遊んだり、勤勉も、怠惰も、ただ生きてるだけでも、その総てが、自分を知りたいという衝動の現れと見なすことができます。そうだとして見ると、

もちろん、自分を知りたいとも思いもしない・・・起きたり眠ったり嫁いだり娶ったり、日常に埋没して自分を知りたいという意図さえ感じないことも。すでに自分は、このままで完成してると思いたいので、知りたいとも思いもしない・・・ということさえ、そういう自分を知りたい自我の運動の一環でありえます。 それで、

たとえば、なにかをしたいのだけど、できない。またしたくないのだけど、せざるをえない。また。変化していくことを変化させたくない、変化しないことを変化させたい。また。ほとんど関係ないことを関係づける。関係あることを関係ないことにしたい。とかの日常生活での欲望の運動も、自分が自分を知りたいということの起源ではないとしても、そこから派生した運動ではないでしょうか。 それで、

その派生した運動を観察、研究しても、実際は、自分で自分を知覚したい、という衝動の直接の現れを見ることではないかもしれません。つまり、その日常の嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏、そのあたりをいくら観察しても、研究しても、理解しようとしても、その、自分が自分を知覚したい、知りたいことの中心に届かないかもしれません。また、

そのような嫉妬や、偽善や、暴力や、非暴力や、怒りや、平穏は、理解可能なことではないのかもしれません。と言うより。理解してるということもまた、執着・・・自分の状態を知覚したい・・・なのかもしれません。たしかに理解したら、理解は不要でもあります。そして、自分が自分を知る衝動、つまり自我が満たされたら、その自我は不要になります。

No.1213 - 2008/11/30(Sun) 16:30:03
(No Subject) / ルー
最近思うことは、自分の苦労なしに、自分の周りに存在しているもの、それから、存在していないもの、のことについてです。
たとえば、お金、家族の愛、美貌、健康、文化的なもの、伝統的なものなどなど。
人、それぞれの違いについて、あまり気づいてはいませんでした。
当たり前に存在するものは、人によって違うのでしょう。
ですから、自分が力を注いで築き上げたものも、人によって違うのでしょう。

No.1196 - 2008/11/19(Wed) 12:32:40

Re: / ubik0101
うーん、自分は。この頃、因果とか縁って、何?て、 思います。たぶん、なにか原因があって、結果があるということなのでしょうけど。その言葉の意味が判りませんでした。また、もともと興味がありませんでした。それでも考えてみると、

たとえば高校を卒業して長崎から東京の学校に行って、働いて。それから隠岐に行って、また長崎に。そして、いまhatoさんと神奈川にいます。その何が原因だろう、何が結果だろう。どこかを結果として、それを導く原因となるなにか基準があるとも思えません。という感じです。そして、ただ、

どんな感覚や、感情や、思考も、現れては去っていくだけです。そう知覚してる自分は、それら現れては去っていくものでも、それらを現象を受容する、たとえば不動のものでもありません。それでも、こじつけるとして、

もしかして原因は、そのまま結果。あるいは、そんなことも壊滅、なだけなのでしょうか。 そういうことは「自分の周りに存在しているもの」を思考してるのでしょう。また、「それから、存在していないもの」も視野にいれるなら、その人の経緯を浮き彫りにしてくれるのかもしれないと思いました。でも、

そういう経緯に依存できないし、そういうことに・・・ありのままも、いまここも・・・基準にならず、依存できないことにも依存できないだけ、とも言えそうです。ところで、

とても天気がいい今日は、毛布を洗濯をしました。そうでなくてもいいのに、そう。の、この部屋の絨毯の上に、散りつつある紅葉で隙間が開いた樹々の枝から、ゆらめく木漏れ日が射し込んでいます。

No.1197 - 2008/11/19(Wed) 14:45:02

Re: / ルー
私は、子供時代、食べるものに苦労するということはありませんでした。
お弁当は毎日、母が自動的に作ってくれていたし、時間がなくてろくに食べられないのに朝食を作ってくれて、結構豪華な夕食も作ってくれていました。
そのことに気づかずにいたのです。
どうしてかというと、隠されていたもの、に焦点を当てていたからです。
「いい母親、いい奥さん」という印象の裏に隠されたものを見るために、表面にでている姿はカモフラージュであるとして、認めていませんでした。
たぶん、私の母は料理好きなんでしょう。
うびさんみたいに。

親が食事を作ってくれず、カップラーメンばかり食べていた子供もいるのではないですか。

比較する、というわけではないのですが、自然に当たり前として与えられた環境というものは、気づきにくいと思います。
苦痛があって初めて、考えるのではないでしょうか。

No.1198 - 2008/11/19(Wed) 17:45:16

Re: / ルー
> とても天気がいい今日は、毛布を洗濯をしました。そうでなくてもいいのに、そう。の、この部屋の絨毯の上に、散りつつある紅葉で隙間が開いた樹々の枝から、ゆらめく木漏れ日が射し込んでいます。

「そうでなくてもいいのに、そう。」というのは、縁のことではないですか?

No.1199 - 2008/11/19(Wed) 21:39:04

Re: / ubik0101
そういえば。一人暮らしで経済的に不安なときに、子供の頃は、心配なく暮らしてた。食事も母親に作ってもらってたんだなと、そんな子供の頃の安心感、を思い出したことがありました。たしかに、

そうであることを、そうであることとして、気がつかず、そこにないことばかり考えてしまうことがあると思います。 そして、それが、もっと楽をしたいとか、 素敵なもの、ことが欲しいとか、ここにないものばかり求めたりすることとして現れたりします。それだけで、

それは、ここにないことを求めてるので、苦痛を感じることもあります。また求めることで、ほかの人との意見も違い、衝突、軋轢を生じることもあるでしょう。それは欲望、自我としても機能すると思います。そういう自我は、ほかの人の自我を探るのでしょう。そういうことによって、 ここにないことや、ほかの人の有り様などを、考える自我の機能を学びます。というのも、

もともと、そうであることを、そうであることとして(そのものがそのものを)、考える、知覚することは・・・たぶん理論的に不可能でしょうが・・・まずは関係のある、そこにないことばかり考えるしかできないのですが、ついに、自分で自分を自覚、確認したい、そんな自我の機能が完成する。そこで、

ここにあることを、ここにあることとして。そうであることを、そうであることとして。なにかの生活というよりも、自分自身、つまりまさに自己が自己であるとの了解・・・しかしそれは意識に依らずに自覚する・・・と機能するのだと思います。

> 「そうでなくてもいいのに、そう。」というのは、縁のことではないですか?

そうとも、世界とも、不思議とも、未知とも呼べると思います。それで、そうであって、それに依存できないのですが、それはなぜそうなのか?と思うのです。

No.1201 - 2008/11/20(Thu) 14:01:57

Re: / ルー
「なぜそうなのか?」と思うのですね。
答えらしきものがあるとは思わないままに・・・

No.1202 - 2008/11/20(Thu) 15:29:26

Re: / ubik0101
たしかに。なぜ、これが、こうなってるのか?それは、答えはないのかもしれません。

でも、この、不思議、未知、世界を露わにしてくれるのでしょう。

そして。それを問わないなら、風のざわめき、落ち葉の舞、木漏れ日のゆらめきです。

ところで今日は、めばち鮪のムニエル、エビと野菜の塩茹で弁当です。

No.1204 - 2008/11/21(Fri) 11:26:44

Re: / hato

ほんとうに。

出来事といえることは、ただ、そう、であったとしか、いえないこと。
そう、でなくてもよいのに、そう、であること。
そう、
でしか、ありえないこと。

その不思議。

鮪のムニエルは、柔らかい身がさっぱり優しい、よいお味でした。

お弁当。
こんな可愛いのも、ありました。

No.1205 - 2008/11/21(Fri) 23:51:36

Re: / 大阪
コレは良い!(笑)
No.1206 - 2008/11/24(Mon) 12:03:55

Re: / ubik0101
そうです。朝の7時ころに起きて作っています。
No.1207 - 2008/11/24(Mon) 15:01:47

Re: / ubik0101
ついでに、イントラ反転真空管アンプと、ルンルンです。
No.1208 - 2008/11/24(Mon) 17:05:18

Re: / 大阪
こんな寒い季節は、その真空管アンプで聞く方があうのかも、と思いました。
No.1209 - 2008/11/24(Mon) 17:40:37

Re: / hato

イントラ反転真空管、たしかに、冬の季節に似合うようです。
今この部屋で、フルートの音が深くいい響きです。


それは、なにか。
なぜ、そうなのか。

そうでありながら
そこを生きるなら幸いです。


> コレは良い!(笑)

で、しょ?

お弁当を開けて、ちょっと嬉しはずかしびっくりしたので、
「では今度は、赤いのね」
と逆襲しました。
「えーっ、赤いのっ?!赤ピーマンかなーっ、なんだろうなーっ??」
と、不思議の次の悩みになりました。

No.1210 - 2008/11/24(Mon) 20:19:44

Re: / 大阪
>それは、なにか。
>なぜ、そうなのか。


>そうでありながら
>そこを生きるなら幸いです。


これは、どういう意味ですか?



赤のハート、確かに手ごわそうですね。うびさんに悩んでもらいましょう。

No.1211 - 2008/11/26(Wed) 13:11:50

Re: / hato

不思議であるこの世界をまったく生きて、
世界であるこの不思議にすら埋没することもない、

そこは、
ここ、とかあそこ、とかいえるものでないことを
了解されている、ことかも知れません。

大阪さんをさらに笑わせるための、
ダメ押し画像を送りましょう。

(ubik0101さんお気に入りの、携帯ストラップ。です。)

No.1212 - 2008/11/26(Wed) 21:19:28
(No Subject) / ubik0101
続々々々・思考の機能

ところで、たとえば偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・そのことは、とある行動、発言、思考に、名前をつけて、そう呼んでるのでしょうが・・・それを観察すること、あるいは、それを理解すること、それが自己を知ることでしょうか。そうではないと思います。

それは、もしも、たとえば偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・などを理解できたと思うにしても、偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・などの理解ではないでしょうか。それは自己の理解とは言えないのではないでしょうか。

ここで、たとえば偽善を理解した、としてみます。それから解放された、としてみます。では、嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・また、幾多の名前の付けられない行動、発言、思考などは、偽善の理解で理解されるでしょうか。それからの解放なのでしょうか。 そうではないなら、永遠に迷い続けることができるのではないでしょうか。

続きます。

ゆうまずめ(魚が釣れる日没前の時間帯)の江ノ島の裏磯です。かなりの人が、寄せては返す波に足を洗われながら、釣りをしています。

No.1187 - 2008/11/06(Thu) 12:05:26

Re: / ubik0101
ところで。思考は、知覚されるのは、その思考だけです。たとえば偽善の思考は、偽善の思考だけです。たとえば傲慢。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・の思考とは、なんか関係ありそうだけど、思考されてはいません。

それを思考するには人は、今度は、たとえば傲慢の思考をせねばなりません。そのようにその知覚される思考は、人を集中させます。それしか見えないのです。概念と概念との関係は、度外視される傾向があります。

とりあえず・・・たとえば偽善の思考は、それしか見えません。それで、それを思考することは、『自己を知ることでは、ない、とは思わ、ない』のです。

もちろん嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・も同様です。それで人が愚かなら、そのような思考は自己を知ることだと暗黙に、『思わ、ない、でも、ない』、のです。しかし、その奇妙さに気が付くのも思考です。鳩のように素直に、蛇のように賢く、正確に思考せねばなりません。

とりあえず、思考は、その思考だけです。ここで問題が発生してることもあります。もし人が、自己を知りたいなら、自己を知ろうとしなければなりません。そうでなくて、どうして知ることができるのでしょう。

けど。たとえば何かを知ろうとして知ったのは、事実それを知ったのではない、という思考もあります。

続きます。

そのあたりを歩いて、蕗を見つけました。すこし摘んで、すじを取り、塩茹でにして、だし汁に浸けて、冷蔵庫で数時間。煮浸しで頂いてみました。なかなかhatoさんと、母にも好評です。ほうれん草、ゴボウ、人参、インゲン、オクラそのほかの野菜でも煮浸しは、お勧めです。

No.1188 - 2008/11/09(Sun) 09:54:46

Re: / hato

すっかり、冬の気配になりました。
ここずっと、結婚ご報告の葉書を作っていて、一昨日ようやく、出しました。

もう、11月も半ば。
海の景色が、冬らしい薄灰色です。
きのうは雨の中で釣りをしました。
とても寒かったけれど、なんでしょう、釣りもいいな、と思いました。

竿一本で、がんばるのだ。

(ほんとは、ubikおにぎりを食べに行ってるhato、ともいえます)

海タナゴ、カワハギ、念仏ダイなどのなかで、
香草焼きで頂くと、やっぱりちょっと意外ですけど、念仏ダイが美味、と我が家では評判です。

No.1189 - 2008/11/10(Mon) 23:08:54

Re: / ubik0101
しかし、それは、その人が、実際に確認したことなのでしょうか。自己を知ろうとして知った、けど、それは自己ではなかった。神を知ろうとして知ったら、それは空想の神だった。愛、自由、幸福・・・ありのまま。素直。真実。真摯。叡智・・・についても同様です。

それを規範とも、あるべき姿と呼ぶにしても、それを求めて得たとして、空想されたそれ、を見るでしょうか。まったく人は、それを知らないで求めているというのに。そうなのでしょうか。

それら総てについて自分で確認し・・・それは不可能でしょうが・・・さらにそれから解放されてるのでないなら、そう思考する人が・・・また思考しなくても・・・そんな空想をしてるしかないことを示しはしないでしょうか。そして、その人が得てない、その有り様だというだけです。

また。自己、神、愛。ありのまま。素直。真実。真摯。叡智・・・それを実現してない人が、それを思考すると、その思考がその人に理解を望んで、思考に執着することを望みます。 そして、それを思考しなくても、その人は、そのような有り様ではないでしょうか。このように思考は、その人の有り様を現すように、正確に機能します。

また、たとえば。自己、神、愛。素直。真実。真摯。叡智・・・を知ろうとして知ったのは、事実それを知ったのではないならば。偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・を知ろうとして知ったのなら、偽善。嫉妬。傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力・・・を、知ったのではない。空想の理解ではないか。と検討すべきです。

続きます。

No.1190 - 2008/11/11(Tue) 09:39:32

Re: / ubik0101
そのように検討しないなら、それは自己、神、愛、自由、幸福、素直。真実。真摯。叡智・・・を自分で勝手に、規範、あるべき姿、規範、目標、伝統、権威だと名前を付けて・・・そんな空想をして・・・それを自分で勝手に否定してることに気付いてない、マッチポンプ(自作自演)、だというだけです。

また。自我とか欲望とかが機能してる人の有り様を既知と呼び、そうでない有り様を未知と呼んで区別し、既知からの自由を提唱したりするのも同様です。

そういうことは、人を鍛えるための、取り替え可能な負荷・・・触媒・・・なだけではないでしょうか。それは、規範、あるべき姿、規範、目標、伝統、権威の追求、肯定と、変わりありません。それは人が、それを実際に生きるなら、真摯に思考すれば、そのことに気が付かざるを得ないのです。

なにかを判断するなら、それを、ほかにことに適応して、一般化しなくてななりません。また、その思考してる自分の有り様にも、それを適応せねばなりません。そのように適応してないという前提においてしか、たとえば知ろうとして知ったのは、事実を知ったのではない、とかいう思考は正当性を持たないでしょう。

これは、あることと反対のことは同じこと、という思考も同じではないでしょうか。たとえば既知と未知が同じことであれば、それを区別不可能です。その人の有り様が、それを区別する思考として現れる。だけです。

続きます。

このあたりを歩いてて、あちこちに百合の花そっくりの花が咲いてる木が見つかりました。

No.1191 - 2008/11/13(Thu) 11:57:32

Re: / ubik0101
たとえば、暴力と非暴力は違います。しかし。暴力と非暴力を同じと言うのは、そう言う人が、そういう有り様で。それが、そういう思考として現れて、その思考に依存、執着してるということでもあります。

そして、現実に、ほかの人が暴力に反対して非暴力を主張しても無駄だった、世界には現実に、暴力がある。暴力と非暴力は、おなじこと。と言うかも知れません。

これは心理的な問題と、現実の問題は違うということでしょうか。そうではありません。そこで問題にされてる、ほかの人も暴力に、依存、執着させられてるというだけです。それは自作自演の空想です。投影です。たとえば偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨み・・・。も同じことではないでしょうか。

そして、ほかの人も、おなじような空想をしてる。また、ほかの人のことは判らない。そんなところに隠れて、たとえば、あることと反対のことは同じこと、たとえば暴力と非暴力は、慈しみと憎しみは同じこと、という思考は自己保存したくて、人を空想に埋没させてるだけです。

ところで。ある思考は、その思考しか示しません。また、そうする人の有り様とは無関係に関係します。そのために、ある人の、思考と思考。また、ある人の行動と、発言と、思考が矛盾することも可能になっています。つまり人が、真摯ではないと思っていなくても、嘘をつくことが可能になっています。

そういう矛盾に気が付くには、なにか判断したら、ほかのことにも適応してみる。また、それを自分の有り様に適応する。なぜ、これは、こうなのか、を問う。ことが有効です。それをしないのなら、愚かな人でありたいのでしかないでしょう。

まず自分のことを解決するのが先決です。そして解決した人は、偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨み・・・それを肯定しても否定しても、それを肯定も否定もなく観察しようとしても、無意味なことを了解してるのです。

続きます。

No.1192 - 2008/11/16(Sun) 12:20:55

Re: / hato
ここのところ少し、ハードでしたので、
たっぷり眠って回復しました。

今日は午後から、この小さな部屋で
実家の母とアフタヌーンティです。

なんでも手作り上手、の母が作ってくれる、
クリスマスリースが冬の楽しみのひとつです。

hatoはちょこっとお掃除。
ubik0101さんの、美味しいサンドイッチを頂きました。

No.1194 - 2008/11/16(Sun) 21:12:58

Re: / ubik0101
なんであれ問題は思考ではありません。その人の有り様です。どう思考しても、しなくても、たとえば暴力と、暴力のない人は、分離があります。嘘をつく人と、事実を話す人は、分離があります。成長しなかった人と、成長した人は、分離があります。当たり前です。これが、この世界で起こることです。

そして思考は、その人の有り様を現します。しかし。たとえば、偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨みを思考しないで、それが解決されている。ということがあります。それは、そういうことを思考し、理解したからではありません。それは、その人が、飛躍、変容、成長、した、というだけのことです。これが、この世界で起こることです。

ここでも問題は、思考ではありません。その人の有り様です。それを思考が正確に露わにするというだけです。また、 偽善。嫉妬。傲慢。謙虚。恨みを理解しなくても、それに縛られることはない人は、それに縛られることはないことを知っています。

ところで。熱い寒いなどの感覚にしても、嬉しい悲しいなどの感情にしても、なにかの思考にしても、それが、知覚されてるだけです。それを知覚してる、主体は知覚されません。それで、感覚、感情、思考に、同一化すれば、それを見てる自分は一応、いないのです。それはそのまま非同一化です。しかし、それも、その人の有り様がそうなので、それを世界が露わにしてるだけではないでしょうか。

そして。これは、なぜ、こうなのでしょう?たとえば、この感覚は、この感情は、この思考は、なぜ、この感覚、この感情、この思考なのでしょう?これを問うだけでも、また世界を、なにも知らない、に至るのではないでしょうか。

No.1195 - 2008/11/19(Wed) 11:32:30

Re: / しむじゃ
> 感覚、感情、思考に、同一化すれば、それを見てる自分は一応、いないのです。それはそのまま非同一化です。しかし、それも、その人の有り様がそうなので、それを世界が露わにしてるだけではないでしょうか。

覚醒した人、そんな人も、その有り様を世界がそのように露わにしているだけ、ということでしょうか。

> これを問うだけでも、また世界を、なにも知らない、に至るのではないでしょうか。

「なにも知らない」を知るに至るということですか。

No.1200 - 2008/11/19(Wed) 23:59:25

Re: / ubik0101
> 覚醒した人、そんな人も、その有り様を世界がそのように露わにしているだけ、ということでしょうか。

しむじゃさんの投稿の意図が掴めてないかもしれませんが、返信してみます。 どんな感覚、感情、思考も現れては去っていくだけです。同一化は、そのまま非同一化。そのようにして、人はこの世界の範疇、日常で、とくに問題が知覚されなければ、無我っぽい状態にあります。しかし、それを見ている自分は虚構・・・自我・・・ということを了解できず、自分が自分と思う自分が、ある、と感じてるのだと、思います。

それで無我っぽいというのではなく、自分が自分と思う自分は、ない、ことを了解するなら、愛、自己、実在を了解します。それは、この世界の範疇にありません。なのに世界の範疇にないことを世界の範疇にある意識が対象にするなら、愛は執着として、自己は自我として、実在は神として、つまり空想として姿を現します。それは、世界の範疇にないことを実感、自覚しようとしたい運動とも言えます。

くり返しますが、それ、おもに自己を実感、自覚したい、という働きが、欲望、自我の機能です。なにかをしたいのだけど、できない。したくないけど、させられる、とかは、それから派生した運動とも言えます。 そしてそのような運動が不要になるほど完成したら・・・愛、自己、実在は、まったく無自覚に了解されます。すると、この日常が真理、不思議です。

>「なにも知らない」を知るに至るということですか。

「なにも知らない」を知る。としても、その、知る、も何かを、知らない、のです。そして、知らない、ということも、なにかを知らない。のです。それで料理をしたり、植木の世話をしたり、魚釣りをしたり、投稿したり、です。

たとえば怒り、悲しみ、さらに自我、欲望も、知らない・・・未知なことです。それから解放されて、なお、それを拒否する、避ける、必要はありません。それを拒否する、避けるなら、その人には、いわゆる分離があるのではないでしょうか。しかし自我は、その分離がないという、真似もできます。この何でもありゆえに、人は学ぶことができるのだと思います。

No.1203 - 2008/11/20(Thu) 15:51:36
(No Subject) / ubik0101
続々々・思考の機能

たとえば。ある人が素直だとします。行動、発言、思考に矛盾がなく、嘘をつかないとします。そんな人が、自分を素直だと思考することは、奇妙なことでしょうか。素直な人は、そう思考しないでしょうか。

まず、素直であろうとするなら、そのあろうとすることは、その人が素直でないことを顕してるでしょう。それは素直を目的としてるために、いわゆる客観化、対象化、観念化してるのでしょう。そのようなら、素直、ということを思考したりすることで、その人の、まだ素直でない有り様が、その思考として現れることもあるでしょう。

たしかに素直な人は、そういうことについての思考をしないでも素直でしょう。素直だと思考する必要は満たされているので、思考する必要はないからです。そうなら、思考しても素直でしょう。

なにかを、思考する、しないことによって、その人の有り様が変わるのでは奇妙です。その人の有り様が、思考に現れ意味を与えられるだけではないでしょうか。

ここで一律に、たとえば素直ということを目標にして客観化、対象化、観念化してた思考の有り様をあてはめるならば。素直ということを思考するだけで、もう素直ではない、と思い違いする可能性があります。

それはまだ、その素直ではない位置に、その人がいるだけではないでしょうか。それを、その思考が顕してるだけではないでしょうか。それをなんとかしようとするならば。思考することを拒み、現実に現実逃避せざるを得ないのではないでしょうか。

続きます。

ところで今日は、銀鱈の煮付け、ブリの照り焼き、ゴボウの肉巻き、野菜添え弁当です。この頃なかなかレイアウトも上手になってきたと思います。

No.1181 - 2008/10/31(Fri) 10:35:27

Re: / ubik0101
そのようなら、たとえば、素直、ということを思考しなければ、素直、と空想されるかもしれません。けれど、素直ということを思考しないだけで、その人が、素直ということはありません。

つまり、それについて思考しなければ、素直。おなじように。ありのまま。真実。真摯。叡智。成長・・・なわけはありません。それを思考しないで、傲慢、虚偽、愚鈍、迷妄、暴力、退化・・・なこともあります。

それで、傲慢。虚偽。愚鈍。迷妄。暴力。退化・・・の理解があれば、それから解放されてるでしょうか。そうでなく、必要なのは、ありのまま。真実。真摯。叡智。非暴力。成長・・・の理解ではないでしょうか。そうであって、その自分が、そうであるそのままを思考し・・・人を思考が縛るとして・・・その思考から解放されてるのではないでしょうか。

ある思考に対しての人の有り様。それは無関係に関係するのですが・・・そうだから、素直な人が、素直だと、思考できます。また素直でない人が、自分は素直だと、思考したりもできます。その思考だけを見てると、どうしても、混乱が起きることがあります。

ところで、たとえば自動車を製造したり運転したりする科学的、実用的な思考は問題なく、たとえば対になった葛藤になり得る心理的思考は問題だという、思考があります。このように、思考を分別、区別して留まるなら、そうする人に問題がある可能性大です。というのも、問題は、思考ではなく、その人の有り様が、その思考に現れてる。だからです。

なんでも100円ショップで見つけた、ワイヤストリッパーです。簡単に電源コードなどの被覆を剥がします。

No.1182 - 2008/10/31(Fri) 11:49:37

Re: / ubik0101
ま。ところでこれは、木漏れ日の射し込む、恐怖の味噌汁です。
No.1183 - 2008/11/01(Sat) 11:16:46

Re: / hato

今日から、三連休。
ゆっくり朝ごはんは、ubik風ロコモコ。
熱い珈琲が、嬉しい休日の香りです。

きょう、ふの、味噌汁はー・・・
うーと、ノーコメントです・・・。

No.1184 - 2008/11/01(Sat) 11:28:16

Re: / しむじゃ

> きょう、ふの、味噌汁はー・・・
> うーと、ノーコメントです・・・。


ふふっ。

No.1185 - 2008/11/01(Sat) 21:23:44

Re: / hato

そういえば、芋焼酎の話。

夕方の買い物で、ubik0101さんとお魚やなんか、見て、
次に飲む酒はー、、、
で、たまたま一緒に立ち止まったところにあった焼酎、これにしよっ。
帰ってきて、飲む段になって、それが鹿児島産の芋焼酎だと気が付きました。
まあ、ばんさんみたい。
実は、芋焼酎、そ〜んなに好みではなかったようなのですが、
ちょっと飲んでみて「これ、うまいっ」

意外性が嬉しかったみたいで、けっこう喜んでいました。

No.1186 - 2008/11/01(Sat) 23:28:31
許し / ばん
最近、とってもムカつく人がいて、その人のことを恨んでしまいました。
私は自分が恨みを持つ事に罪悪感を感じてしまうので苦しくて、神様に恨みを持ってしまったことを許してくださいと
お願いしました。
そしたら、「そんなこともあるさー」と頭に浮かび、「あー許されたんだ」なんて冗談で思って気が晴れるような感じになりました。

でも、後で恨んでいたのは誰だろう?許してくれたのは誰だろう?なんて浮かんできて

あら、私の中に2人いる、恨んでいるのは本当の自分でないのでは?と思いました。
そして、本当の自分のことを「何で許しが出来たんだろう?」「許したのはなんだろう」と考えていたら、あの体験の時の様ななんともいえないものに行き着いて、言葉で表したらなんだと無理やり言葉にしたら「愛」でした。

No.1176 - 2008/10/29(Wed) 15:40:46

Re: 許し / ばん
私の中にあるのだから、あのムカつく人の中にもあるのだろうな、あのムカつく態度はあの人が持ってしまった、価値観、観念で反射的に動かされているだけで、本当のあの人ではないんだなーなんて思えてムカつきもおさまりました。

そして、私がムカつくのも価値観、観念に自己同一化してしまっているからなんだなーと反省しました。

すっきりしたので今日は、焼酎お湯割りだー
飲むぞー

あっ私は鹿児島なので芋焼酎です。

No.1177 - 2008/10/29(Wed) 15:53:43

Re: 許し / ubik0101
そういえば。とある広告会社に勤めてるとき、とても、うざい嫌な振る舞いをする人がいました。でも、その振る舞いは、その友人や家族には、好かれてるのかもしれません。だから、それを嫌うというのは、正当性がないな。と、思ったことを思い出しました。

ばんさんの言うほどの許しではありませんが、自分の執着を守る必要がないって、ことを学んだのでしょう。ところで、このあたりの街路樹の、花水木の赤い実です。これも囓ってみました。かなり苦い味です。なんでも囓ってみるのね。と、一緒に歩いてたhatoさんに言われました。鹿児島。桜島に行ったことがあります。かるかん饅頭。好物です。

No.1180 - 2008/10/30(Thu) 09:56:06
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