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執着 / ばん
何故かまた解らなくなってしまいました
覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど
それから離れていっている様な
覚醒、悟りに執着しすぎているのでしょうか

あの体験で感じた本当の私は何ともいえないものだった
それで終わりにしていた方がよいのかな

私は考えているような自分でなかった、なんとも言えない自分だった、だから、執着、依存して不安や恐怖にとらわれることなく頭に何が浮かんでも出来る事をする

これが一番、自分は楽なのですがどうでしょう。

No.1095 - 2008/09/30(Tue) 08:46:47

Re: 執着 / ubik0101
うん。この日常こそ、真理です。たとえば禅などは、ばんさんの言うような生き方ををめざして修行することもあるようです。けれど反面。まったく悟ってもないのに、そのようにありたいと、それに自分の、なんでもない愚かな日常生活をあてはめて、たとえば始めも終わりもなく生きてると自分を騙し、迷ってることにも気がつけない人も見かけます。

その両者の行動、発言、思考は、紙一重です。とある立ち位置から見ると、まったく同じということもあり得ます。でも、その息づかいというか、その歌というか、その踊りというか、どうしても違います。と、そんなことを気にするのも、迷ってるなら、その迷いを露わにすることになり得ます。悟ってるなら、その悟りを露わにすることになり得ます。

たとえばイエス・キリストの、仏陀の、誰か賢者の言葉を、また自分の状態を、うまく思考したり検討したり演繹したりできることが、悟ってるわけではありません。できないことが悟ってないわけではありません。そういう思考とか検討とか演繹とかと、その人の悟りとは、まったく関係ありません。

つまり違いは行動、発言、思考ではなく、その人そのこと(変な言い方)です。それで、「だから、執着、依存して不安や恐怖にとらわれることなく頭に何が浮かんでも出来る事をする」。でも。「何故かまた解らなくなってしまいました」。でも。悟った人には、悟りの状態であり、その表現です。おなじことが迷ってる人には、迷いの状態であり、その表現です。ところで

どうでしょう。ばんさんは、悟った人でしょうか、迷ってる人でしょうか。ubik0101は、どっちでもなくあります。ばんさんもそうなのかもしれません。悟りと迷い、どちらにもいるとも言えるし。なにか思考に使われるのじゃなく、使うとも言えるし。そんな使われたり使ったりする主体は、いるとも、いないとも言えるし。悟りと迷いの分離、分別、対立がない、あっても、かまわない。そんなことに依存しない。「なんとも言えない自分」、ただの人とも言えます。言わなくても違うわけでもありません。

>覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど
>それから離れていっている様な
>覚醒、悟りに執着しすぎているのでしょうか


ここのところは。悟ってる人は、まったく悟りだけなので。その悟りを、とあることとして対象化して思考すると、そのことは、たとえば迷いと比較する可能性がでてしまうので。そのことが分離、分別、対立を生じさせるので。そもそも対象化することが分離なので。つまり、その人は悟りだけ、でなくなるのだ、という理解ができます。

そう理解すれば、「覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど」考えても、その立ち位置に縛られなくなります。

とういうのも実は、分離、分別、対立だって、悟りを離れることはないのですが・・・不完全もない完全など完全ではないので・・・とある立ち位置から見ると、悟りから離れたように見えるので。一応は。そういう理解が必要なこともある。それも無自覚の叡智の確認になる。ということです。

>あの体験で感じた本当の私は何ともいえないものだった
>それで終わりにしていた方がよいのかな


それで。まあ。たとえば終わりにして、あの体験を掴んでしまったり、それを日常で実現しようとしたり。また忘れてしまうという意味で言ってるわけではないと思います。

No.1096 - 2008/09/30(Tue) 12:01:53

Re: 執着 / しむじゃ
掲示板を遡って読んでいると、「あの体験」と出てきました。ここにも「あの体験」っておっしゃってます。「あの体験」とはどういう体験ですか?

「それで終わりにしていた方がよいのかな」で終わることはできるのでしょうか?終わるのと「あの体験」は関係があるんですか?

No.1123 - 2008/10/08(Wed) 17:56:59

Re: 執着 / hato
それは、いわゆる至高体験とか、たぶん光明とか、変性意識とか呼ばれてる体験です。それぞれの人の経緯によって違うのですが、おおくの場合、自分が自分だと思ってた自分・・・自我・・・がないことを実感します。

それを、空っぽとか、無我とか、自分はない、とか表現しています。そのとき自我の仕組みの理解があります。

そして。ほかのどんなことでもない愛を感じます。それに伴い、また自我ではない、自己。そして実在。を実感します。 これも、その人の経緯によって違い、またその表現も違います。それは。ほとんど瞬間的な変化、変容、飛躍、成長だと思います。

>「それで終わりにしていた方がよいのかな」で終わることはできるのでしょうか?終わるのと「あの体験」は関係があるんですか?

それは、ばんさんの表現です。たぶん。あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまうので。そういうことを了解して。自分の変化、変容、飛躍、成長を、意識によらず、無自覚に自覚する。という意味ではないかと思います。

No.1126 - 2008/10/08(Wed) 23:36:16

Re: 執着 / しむじゃ
hatoさん、ありがとうございます。
hatoさんはubikさんの奥さまなんですね、掲示板を遡って読んでいたら、2人の結婚しますって書き込みがあって、なんだか2人の人柄で出ていて、こっちもすごく幸せな気分になりました。

どうも僕は
>あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまう
っているようです。『自分が自分だと思ってた自分・・・自我・・・がない』とか『愛』『実在』とか、はっきり自分自身で理解したにもかかわらず、それ以上の理解があるのじゃないか?自分はまだまだじゃないかと納得しない。人の言っているあの体験の話に迷わされてる。

>無自覚に自覚する。
は、納得しないまま納得する、ってことですか?

No.1129 - 2008/10/09(Thu) 00:52:59

Re: 執着 / ubik0101
ううん。あの体験と、あの体験で見たことを、正確に理解することが必要と思います。そうしてないことが、迷いとか苦痛として顕れます。その苦痛が、それを理解させる原動力になります。

とりあえず。まず。どのようなことであれ理解するということは、どう機能するのかを、理解することが望ましいでしょう。それは、なにかを得る。というよりも、失うことに似ているのではないでしょうか。

そして理解されたことは。意識にとっては、見えなくなる。意識にとっては失われてしまいます。けど、なくなるわけではない。のではないでしょうか。

それは、なにかを理解していない、つまり自分が理解してないということにも気がついてない無知な有り様と、意識にとっては見かけは変わりませんが、まったく違います。

たとえば。迷いは無知の現れだとして。あの体験によって。それが意識の範疇にない、意識には依存しない、知恵に転換されています。そういうことを了解する機能が、あの体験で実感した、自己にあります。

続きます。

No.1131 - 2008/10/09(Thu) 12:14:25

Re: 執着 / ubik0101
それは・・・なにか問題が知覚されるなら、そこから始めて、思考しつくして・・・誤ったり、嘘をついたりする機能がある意識によらず・・・意識の領域にないことを、了解するしかありません。なのに本性が愚かな意識が「あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまう」のではないでしょうか。

そのように。あの体験を自分の対象にして知覚、自覚することを望んで、そのことは分離があるので、迷いだ。と思い過ごしてしまうこともあります。また。あまりに完全を求めて、根ほり葉ほり自分の好ましくない有り様を、探してしまうこともあります。

そうならば。しかし自我や、欲望や、葛藤や、思考、過去、苦しみさえ、不思議な、未知な、世界の機能です。とか。不完全もなければ、完全ではない。とか。知覚、実感に依存しては不可です。とか。その無自覚の知恵を確認する意味での思考が必要なことがあります。また。なにかの、とある問題を検討しないでも、解決されてることもあります。

そして、その自己も、まったく意識にとっては無自覚になります。自己は自己を確認、知覚、自覚する必要がなくなります。そうなら。たとえば。その自己を実感したい・・自分で自分を認識したい・・・そういうことも自我の機能だ。ということも学んでいきます。

たしかに 「それ以上の理解があるのじゃないか?」。そうなのですが。それは忘れても忘れたりすることはないので。とりあえずは、いま知覚される問題を理解していくことが先決と思います。

「人の言っているあの体験の話に迷わされてる」。自分が虚偽の申告をしてることにも気がつかない自然外道もいます。それさえあり得る、この不思議な世界。です。

ところでNo.1126の投稿は、名前hatoの設定保存のまま投稿したもので、実際は、ubik0101の投稿です。

No.1132 - 2008/10/09(Thu) 13:31:34

Re: 執着 / hato

しむじゃさん、はじめまして。

優しいお気持ちを、ありがとうございます。
お元気でいられるでしょうか。

おくさまー、て感じじゃないんですけど、、(笑)

人生に導かれている、ことは誰しもそのようです。
不思議ですね、そうしたことすべてが。
なんでしょうね。

苦しいとき、
ここでできることをしてみます、
それしか詰まるところ、ないわけですし、

ubik0101さんがお話されたように、自分自身の有り様を書き尽くす、ことは、大変有効かも知れません。
その中で落ち着くものが落ち着き、新たに騒ぎ出すものもあるかもしれませんが、
ふと、理解されている事態を見い出すことも、あるかもしれません。

この間拾ってきた、銀杏の種です。

No.1140 - 2008/10/13(Mon) 22:33:56

Re: 執着 / hato

そうそう、さっき食事中に、煎った銀杏の実を、
ルンルンがとても気に入って食べてました。

No.1141 - 2008/10/13(Mon) 23:27:44
悩んでます / ばん
新しい取引先が出来たのですが、そこの担当者が下請けの私に威圧的な態度でいろんなことを強要してきます
断るにも断れず
その人のことばかり考えてしまいます。
気が滅入ってしまって、落ち込んでいます。

みなさんだったら、こういうことありますか?
どうしたらよいでしょうか?

No.1116 - 2008/10/07(Tue) 16:19:00

Re: 悩んでます / ubik0101
もしかして。俺は、お前に、仕事をさせてやってるんだぞー。そんな依頼心の奴隷。という滑稽というか、悲しいというか、哀れというか、そんな担当者に、ぶつかった、のかもしれません。

それは自分の場合は、性格の悪さで対応しました。つまり上司や顧客、もちろん後輩や下請けにも、友人にも、分け隔てなく接するということです。だって、いちいち態度を変えるのって、面倒じゃないですか。

すると、ある人からは、傍若無人。ある人からは、自我の強い人。ある人からは、素直な人。ある人からは、できる人とか。いろいろ思われて、波瀾万丈。ある意味、楽しめます。けど、

イエス・キリストの言うように。たとえば10km歩けと言われたら、その人と一緒に20km歩くのも、いいように思います。その人のために、全力を尽くすんです。実際。「なんとも言えない自分」て、そんなもののようです。

No.1120 - 2008/10/08(Wed) 12:33:03

Re: 悩んでます / peer
取引先に対して
「こうであってほしい」という期待を持っていると
それにそぐわない相手に対して、嫌な感情を持つことがあります。
あの取引先はイイのに、この取引先は、イヤだな。とか。
そう考えると、どんな状況にあっても、問題になるのは
自分の姿勢でもあるかな。と考えます。
こういう場合、きつい状態は、自分を鍛えてくれる。
と思い直したら、頑張れるコトもあるし。

まぁ〜ホントにウザイなら、蹴ってもイイんじゃないでしょうか。
それが、お互いが生長するコトとなる。かも知れないし。
「みなさんだったら」ということなので、発言してみましたが。
余計なヨコヤリだったかも知れません。よろしく。

No.1121 - 2008/10/08(Wed) 13:14:23

Re: 悩んでます / ばん
うびさん、peerさんありがとうございます
心がふっと軽くなりました

なんか、自分に都合つけて物事を受け容れるのが、私はとても下手なのかなと思いました。
怒りを感じるのはよくない事だとか、
こんなにクヨクヨ考える自分は嫌だとか
こんな態度とっちゃ嫌われるかなとか

いろんなことが心の中で渦巻いて嫌になります。
こんな事考えたりしますか?

なんか、私は安心したいという欲求が強いみたいです。
何事にも動じない心になりたいです。

自分がすごい平和な体験をして、あの時みたいな心でいれたらどんなに幸せだろうなと思って、いろいろ調べたりしてそんな気分になったりして、うかれたり、落ち込んだりして、なんか疲れてしまいました。

あーどうしたらいいんでしょう、何から手をつけていいやら

No.1124 - 2008/10/08(Wed) 18:25:55

Re: 悩んでます / peer
どうもーどうも〜
コメ受け取って貰えて、助かりました。

>怒りを感じるのはよくない事だとか、
>こんなにクヨクヨ考える自分は嫌だとか
>こんな態度とっちゃ嫌われるかなとか


んんー。同じようなことは、普通にあることかな
と思いマスよ。
クヨクヨ〜メソメソ〜グチグチで。
「こうであるべきだ」というワクがある。
そのことに気づいていないコトが悲劇を作るだけで。

クヨクヨして落ち込んで、自分はダメだと
結論に至ったら、そこから這い上がればイイ。
修正していくことはできるし、それも学びのひとつ、と。

日々安心して、霞をくって、何事にも動じず。
というのも、ステキかも知れないけど〜
なかなかの大人物に見えるだろうし。
それを想像すると・・・
つまらないな〜面白くないな〜という気もして。
つまって面白い生き方の方へ向かいたいような。

No.1127 - 2008/10/09(Thu) 00:24:55

Re: 悩んでます / ubik0101
>怒りを感じるのはよくない事だとか

まったく怒りを感じても、問題ありません。peerさんも言ってますが、そんな「こうであるべきだ」という意味での「怒りを感じるのはよくない事」は不要です。

たとえ生起しても、すぐに消滅する。その程度のことです。それに、怒りが、なんであるかも、知りません。そして知らないことには、執着が不可能です。

>こんなにクヨクヨ考える自分は嫌だとか

なにかを考えてるってことは、その考えしか知覚できないのではないでしょうか。なにかを考えてる自分は、知覚できるでしょうか。

そして知覚できないから、ない、わけではありませんが。そんな知覚できない。また。なんとも言えない自分、を嫌がることは可能でしょうか。

>こんな態度とっちゃ嫌われるかなとか

そうかどうかは。その相手に確認すればいいのでは、と思います。相手に確認しないことを理由にして、さまざまな空想に巻き込まれるのは、不可と思います。

その場その場で、力を尽くすだけです。それなら、相手に嫌われても、自分に問題があるわけではないことも多々あります。と理解できます。

> あーどうしたらいいんでしょう、何から手をつけていいやら

どれから始めても。あのときと、このときの状態とか形態とか。それは美しく繋がった関係を見せてくれます。それが学ぶことであり、自分を育てることです。始めましょう。自灯明です。

ところで金木犀です。どこかに香りでできた世界があると思わせてくれるような、ほのかな感覚が、街中に漂っています。

その花は、遠目では、ごちゃごちゃな、なんだかわからない固まりに見えます。が、近づいて、よく見ると、なかなか可愛くて素敵です。

No.1133 - 2008/10/10(Fri) 12:52:06
(No Subject) / ubik0101
思考の機能

この前、hatoさんと一緒に、栗を拾いながら林を歩いてて、小さな山椒の木を見つけました。よく見ると、たぶん発芽して成長し3、4年くらいたったところで、整備の人に、根本から切られたようです。それが今年の春、その切り株から新芽がでたのでしょう。さっそく素焼きの植木鉢を買って植え替えました。

ところで。たとえば。ほかの人に迷惑をかけてはいけない。と教育する親もいるそうです。それは。ほかの人に自分が、迷惑をかけてることに気がつかなければ・・・ほかの人に迷惑をかけてもいい。と言ってることと同義かもしれません。

また。ほかの人のことに気がつかない無神経な人にも、自分は迷惑をかけられたくない。また、そんな無神経な人でありたくなく、人間関係に神経質になる。かもしれません。

続きます。

No.1097 - 2008/10/03(Fri) 18:12:19

Re: / ubik0101
そして迷惑といっても、なにが迷惑か、人によっても、その時によっても、違うでしょう。自分で理由を自覚できないようにしてることもあるでしょう。また理由があれば、それは変化して、違う理由がまた・・・ということもあるでしょう。そういうことは見極めようとしてもできないので、軋轢や苦痛が起きては、また忘れては 消える。ことを繰り返すこともあるでしょう。

それに、そもそも迷惑って、いったい何なのでしょう。なぜ迷惑が迷惑なんでしょう。それがわからないまま・・・そういう、わけのわからない迷惑を成立、持続させるために・・・始まりも終わりも自覚できない思考が必要なこともあるでしょう。

そのように人は考えることに捕らわれたりします。しかし、考えないことにも、おなじように捕らわれてもいるかもしれません。たとえば。ほかの人に迷惑をかけてはいけない。そんなことを考えない、ということを考えるも。ただ考えてない、つまり実際は、ほかの幾千のことを考えてる。もあるでしょう。

続きます。

No.1098 - 2008/10/03(Fri) 18:15:36

Re: / ubik0101
その、考えないことは、たとえば。ほかの人に迷惑をかけてはいけない。ということを解決してるでしょうか。それを思考しないことによって、傍若無人だったりしても、その類似な有り様の人だったりしても、その反対と見なされる静かな人だったりしても、それとは無関係な人だったりしても、それから解放されてるでしょうか。

たとえば、そういう思考は巧妙に人を迷わすから、それが問題だという思考があります。しかし、それでは常に思考から逃げ続けなければならないかもしれません。

すると思考でないことを探して、現実に現実逃避するしかなくなるかもしれません。それで一生、逃げ続けてることにも気がつかず、解決できない恐れがあります。

また、たとえば。ばんさんと話したように。悟りを対象化して思考することは、悟りと分離があるように見えてしまうこともあります。けど。悟りを対象化して思考しなければ、それで人は悟ってる。わけではありません。なのに対象化して思考しないから、そこに問題を見いだせないから、迷いがあると見なさない、こともあるでしょう。

続きます。

No.1099 - 2008/10/03(Fri) 18:20:52

Re: / ubik0101
あれは、どんぐりの落ちる音よ。そうhatoさんが言います。カツッ。と、夜の闇に聞こえます。すぐ近所にある家のトタン屋根の上に落ちてる、そうです。カツッ。それで朝になって、行ってみました。ありました。けっこう大きい実で、それを保護してる殻斗(かくと )も落ちています。クヌギ、カシワかもしれません。

ところで。そういう思考しない。いわゆる規範、観念、思考の拒否は、どうしても・・・そういう自分の状態を確認するために・・・いわゆる規範、観念、思考を、ほかの人にはあるとして対象化して、いわゆる規範、観念、思考が自分にないこととして執着しつづける傾向があるようです。このように思考することも、思考しないことにも、人は縛られ、倒錯する可能性があります。

それは、たとえば、俺が俺が、という。なにか主張する、拡張したい積極的な、攻める姿勢の自我ではなくて。縮こまっていく、なにか主張しない、消極的な、守る姿勢の自我の機能に捕らわれてる人に・・・それは、ほかの人にはあり自分には自我などないと思われるかもしれませんが・・・わりとよく見られる有り様です。なんにしても、自分を自覚したいことが、自我として現れるようです。

どちらにしても、人が迷ってるのです。思考が迷ってるわけでも、迷わせてるわけでもありません。思考は自ら矛盾にも、自らの範疇にないことにも、気がつくことだってできるのです。 思考は巧妙に人を騙す、というより、人の巧妙な迷いのあり方を理解できる。とも言えます。

たぶん、魚釣りの後に、続きます。

No.1101 - 2008/10/04(Sat) 08:35:44

Re: / peer
人に迷惑をかけてはいけない。ついうのは自分のエゴで、人を振り回してはいけない。ってことじゃないでしょうか。
なにがエゴか、エゴじゃないかは、判定しやすいでしょう。
「迷惑といっても、なにが迷惑か、人によっても、その時によっても、違うでしょう。」という思考の判断に迷うことも、なく。

No.1102 - 2008/10/05(Sun) 02:18:17

Re: / ubik0101
まあね。ほかの人を振り回す、攻める騒がしい自我は。それが起動しなければ、自我と認定できないから無問題。ではないでしょう。とか。ほかの人を振り回さない、逃げる静かな自我もあって。とか。そんなこと考えても、考えなくても解決しないけど。どうすればいいだろう。とか。

ほかの人の自我に振り回されたくない、っていう自我にも巻き込まれない日常。とか。なかなか、世界は人を鍛えるために、巧妙にできてる。って感じです。

ところで、hatoさんと一緒に、江ノ島の裏磯に行って来ました。とにかく魚は、なんでも食べてみようという作戦で、3時間くらい釣りをしました。

やはりシマダイは刺身も塩焼きも上品で緻密、メジナの刺身は食感が独特で絶品。ほとんど食べられることのないネンブツダイも、骨は硬いものの、唐揚げで香ばしくいただけました。

No.1103 - 2008/10/05(Sun) 11:22:52

わぉー / peer
大漁〜でしたね。
食べるのが・・・もったいない。ような。

はいな。巧妙ですね。
まぁ。しかし。
エゴっていうのは、生命エネルギーですから。
転換していくことで、、
ものすごい活力になるし〜大事なモンです。

No.1108 - 2008/10/06(Mon) 00:24:13

Re: / hato
そうですね。ただ自我や欲望や無知を、肯定したり、否定したり、無関心だったりすることは、せっかくの転換の可能性を自ら摘んでしまうことになります。

そんなことをしても、まあ、また我が儘な生活を実現できる。また自我や欲望や無知を、ほかの人や自分に隠すことができる。などと思い違いするだけで。どうしても、それに満足も、それを撲滅もできないんです。 それほど「大事なモン」です。

そんなことに気がつかないことも、また・・・そういうことを自分で掘り返すなら自分を鍛えるのですが・・・逃げたり埋没してるだけなら、自我や欲望や無知を十分に使ってない、それに使われて気がつかない、そんな有り様とも言えそうです。

ところで今日は、hatoさんに。昨日、スーパーで半額で買った。なめたカレイの甘辛煮付け弁当を作りました。そういうの、けっこう楽しいんです。

No.1109 - 2008/10/06(Mon) 10:02:23

Re: / peer
ほーほー。
おいしそう〜ですね。
思いマスに。私生活をバカにするものは、
私生活の逆襲を受けます♪
こういうコトが、大事だなっと思いマス。

たとえば、ちょっと悟りの境地なんかに遊ぶと
とたんにノボセ上がるというか・・・。
これも逃げるのと同じなんですね。
対極にいるから、気がつかない。ワケで。

No.1110 - 2008/10/06(Mon) 10:52:58

Re: / ubik0101

それは、いろんな経緯があると感じます。たぶん。その悟り体験前に、たとえば自発的な否定の道を歩いて、どうしようもなく、なにもないほど素直になる。そんな経緯がなかったので。そういうことが、体験後に学ぶ必要のあることとして現れてくる場合があります。

たとえば。悟ると人として完成するので、さらに学ぶ必要はない、などと。そういう思いこみとして、傲慢が理解されるために現れたのに。そういうはずはないと思いたくて却って、そのことに縛られたりもすることもありそうです。

また自分の無我を確認するために、根ほり葉ほり、ほかの人にさえ、自我を見つけだそうとして・・・そんなことは空想に依存してるのに・・・それが却って、自我として機能することもありそうです。そうでなく。ほかの人が自分の自我を投影して見てるだけ、ということもあります。

ところで、ドングリを煎ったのを、真露という焼酎に漬けてみました。苦い酒ができるのかもしれません。かもしれません(残響)。

No.1111 - 2008/10/06(Mon) 16:47:13

Re: / hato

我々には苦いのですが、、

ルンルンには、ちょっと、粋なおつまみて感じです。
ルンルン、けっこう、辛苦渋おっけー。

にこにこルンルンのお食事。

お酒はー。
ほどほどに、いきま、しょう。まる。(^^)

No.1112 - 2008/10/06(Mon) 21:20:50

Re: / peer
4つの智が人に顕現して、目覚める。
その時にも、とりあえずの自分はある。
この自分は、使命を生きる人となる。
自分の為に自分を使うコトから離れて。
自己関心が続くのは、悟りからは遠いかな〜と。
そんな気がします。

どんぐりのお酒ですか。
どんな味がするのかなぁ。

No.1113 - 2008/10/07(Tue) 09:50:54

Re: / ubik0101
うーん。あと数ヶ月は放置しておきましょう。なのですが、peerさんに聞かれて、ドングリ漬け焼酎、スプーン一杯だけ嘗めてみました。なんかカンパリのような味です。なかなか、よし、です。

ところで、ますます不思議なpeerさんです。4つの智?、使命?、なんか怪しい空想をしてしまいます。なんのことかなー。今日はhatoさんに、ちょい豪華そうな、からし明太子弁当をつくりました。

No.1114 - 2008/10/07(Tue) 12:15:18

Re: / peer
カンパリのような味・・なのですね。
なかなか、よし。と。
うん、味が創造できました。

ほーー。これも〜なるほど
男の料理という。わかります(^^)

よっつの智が発動したから、たとえば
なにごとも無問題と、分かるワケでしよ。
好きも嫌いも、善いもワルイも、
どうでもいいことになってる。でしょ。

そして〜使命っていうのは、ウルトラマンになる
ことじゃないのです。
妖しい想像は。。大外れ〜♪

No.1119 - 2008/10/08(Wed) 01:37:35

Re: / ubik0101
もしかしてー。
あの秘密の花園の、
迷いの森から
南に7 東に3の、命の泉の、
女神から、なんでも映る
透明な鏡をもらったのでしょうか。

そ、それなら大変です。
それは、ばるたん星人の陰謀です。
この際です。
peerさんも、
さわらの西京焼き弁当を
作らねばなりません。なりません(残響)。
えいっ。

No.1122 - 2008/10/08(Wed) 13:32:38

Re: / hato

うーと、
とてーも、おいしかった、です。
ちょっと見た目お魚がー、生々しー、ですけどー。
柔らかく焼けてました。まる。

No.1125 - 2008/10/08(Wed) 22:45:26

Re: / peer
あっっ。大発見。

オカズのメインはひとつ。だけど。
付き添っているサブは、ふたつづつ。
ニンジンふたつ。ウズラもふたつ♪

女神様から貰った鏡は
どうも、まだ透明ともいえず。
つまりは、、、研いて使え。
ということらしい。

No.1128 - 2008/10/09(Thu) 00:31:55

Re: / ubik0101
そ、そんな鏡など、ないのじゃ。とか。なんとか。禅の神州と慧能の話を思い起こします。ま。ない鏡を研くのも一興かもしれません。しかーし。その埃さえ・・・それを知らない・・・神秘なのじゃ。

ところで山椒は一本あるなら、もっとあるかもしれないと思って探してみました。で、すぐ近くに、山椒としては大きい木が、見つかりました。今日は、それで、鯛の塩焼き弁当にしました。

No.1130 - 2008/10/09(Thu) 09:45:00
夜ですねぇ / 大阪
自己愛、というものについて考えていて。


無知な意識は、胸の愛が自分に向いている、と思わせようとしている。

その解放、胸の愛が本当に向きたい所へ向く時、人はやっと自分の胸の愛に気づくのではないか、と思いました。

No.1104 - 2008/10/05(Sun) 18:48:07

Re: 夜ですねぇ / ubik0101
どんぐり、たくさん拾ってきました。たぶん3種類はありそうです。それをルンルンが嬉しそうに囓っています。じゃ。自分も食べてみよう、ということで、囓ってみました。苦いんです。それでネットで検索して、フライパンで煎ってみました。うーん。食べられないことはないけど、苦いものは、やっぱり苦い、のでした。

それはともかく。大阪さんは、あの愛を実感する前から、なんとなく、リークのようにそれを感じてて、それが愛されたい気持ちとして現れてたのかな、って思いました。自分は、執着とか欲望が、あの愛の代用品として機能してると思いました。

No.1105 - 2008/10/05(Sun) 22:02:52

Re: 夜ですねぇ / hato

雨あがりの朝に、微かに香る、金木犀。
仕事帰りの夕暮れにも、
初秋が染みわたる芳醇な香りです。
秋の夜長は、ゆっくり物事に取り組めるようです。

夏から秋へ、移りゆくその朝に、
ひっそり咲いている、つゆ草。
ふとしたことから、ひとつ手折りました。

今、ガラスの器のなかで、小さな白い根が生えています。

No.1106 - 2008/10/05(Sun) 22:05:49

Re: 夜ですねぇ / hato

こんなとき、嬉しそうな、ルンルンです。

No.1107 - 2008/10/05(Sun) 22:13:11

Re: 夜ですねぇ / 大阪
ルンルン、本当においしそうに食べていますね。



それも、愛されたいという気持ちがある、理由の一つかもしれません。

でもやはり、甘やかされて育った、とか、そんな理由のほうが大きいです。自分は努力しないでも、与えられて、幸せに生きていける、と思い違えているぞ、と思ったりします。

たとえそれが実現しても、(というかそんなものは本当は幸福ではなく)もっと幸せなことがあるだろう、と言い聞かせたりしています。

No.1115 - 2008/10/07(Tue) 14:24:13

Re: 夜ですねぇ / hato
> ルンルン、本当においしそうに食べていますね。

そうでしょ?
かわいんです。

育て方、育ち方の仔細に拘わらず、おそらくは、
人の資質というものは、自分で掘り起こしていくことが基本なのかもしれません。

また、育み合うことは必ず、一方的ではないと思います。
育てる側、育てられる側。ある意味ではその通りでも、
一方的な見方、関係性に固執するなら、それは傲慢かもしれません。
徒然に、思いました。

今日は、大学の構内の、大きな銀杏の木の下で、
銀杏拾いをしました。
なんか、仕事は忙しかったんですけど、
お昼休みに資料室の人と、一緒に。
どうやって、食べるんだろ、ubik0101さんはうれしいかな、
なんて思って、ちょっと、楽しかったです。

うーと、ubik弁当。とてもー、おいしいです。
ごーか、てゆーか、デザイン性としては男の料理って感じですけど、
味は、優しくとても繊細です。

No.1117 - 2008/10/07(Tue) 21:57:05

Re: 夜ですねぇ / ubik0101
そういえば誰かが「どうして幸せは空想的で、不幸せは現実的なのでしょう」。なんて言ってました。どういう幸せか判りませんが、いま、ない幸せを求めると、ここ、が不幸せに感じることもありそうです。また。いま不幸せだから、幸せを求めるのでしょうか。

とくに自分は。幸せになろうとしたことがありません。だから不幸もない。ってわけじゃなくって。幸せ、不幸せは、気になりません。なにかの状況や出来事を、幸せ、不幸せとか判断しないのだと思います。

うーん。たとえば感覚で言えば快・不快。感情で言えば好き・嫌い。その片方を重視するわけでも、望むわけでも、嫌うわけでもありません。そういう快・不快などは知覚されるだけです。きっと、なにかと比較することがないのだと思います。金木犀です。

No.1118 - 2008/10/07(Tue) 23:13:38
覚醒のあと / しむじゃ
はじめまして。

「この世界は人を覚醒させるための触媒です。」
であるなら、覚醒したあと、この世界はどうなるのですか?
この世界の苦は、覚醒によって救われますか?

No.1088 - 2008/09/22(Mon) 11:13:48

Re: 覚醒のあと / ubik0101
はじめまして。

たしかに世界は、人を成長させますが、触媒で。それ自体は、なんの変化もしません。その触媒によって変化するのは、人、という意味です。たとえば自我や欲望の機能は、世界の機能で、触媒で。それによって成長するのは人、という意味です。

そして人にとっての世界は、どのような、このような規定、限定される、記述される、もの、こと。ではないでしょう。つまり、たとえば知る知らないとかの限定された意味で、知られ得ることなら、それは方向性があり、枠があり、触媒として機能し得ないのではないでしょうか。

たとえば成長ということだけに限定された方向性、枠さえない、それゆえそれに関係なく関係なくもなく、成長ができるのではないでしょうか。そんな世界は、人にとって、知ってるというそのことも何であるか知らない。のではないでしょうか。

そのように知られ得ないから、触媒として機能することが可能になってるのではないでしょうか。「であるなら、覚醒したあと、この世界はどうなるのですか?」。どんな世界観が変化しても、変化したのは世界ではなく、人ではないでしょうか。 ところで、

この世界が苦。ということは、どのようなことでしょう。もしかして。たとえば身体の病気とか、なにかが自分の思い通りにならないとか、について苦を感じるのでしょうか。

そうでなく日常の総てが、たとえば健康な身体、自分の思い通りになる楽も含めて。苦ということなのでしょうか。苦、楽、どちらにしても欲望や自我の機能で、それは苦という意味なのでしょうか。

そうならば。人はどんなことも、できることはできるように世界ができてるからできるだけ・・・絶対不自由と呼んでいますが・・・それが覚醒によって、逆転します。人が世界の主、になります。

この世界に拠り所を持つ必要がなくなります。そして。その主は無自覚・・・自覚あれば自我・・・です。しかしそれさえ世界の機能です。人が迷うのも覚醒するもの世界の機能です。

ところで世界とは、物質、感覚器感、感覚、感情、意識です。それは人の構成要素です。つまり世界と人、触媒と変化する人、これは不可分です。しかし、

その人の構成要素の範疇にない、愛、自己、実在。まずは、これを自覚する体験を覚醒と呼んでいます。

No.1089 - 2008/09/22(Mon) 13:12:59

Re: 覚醒のあと / しむじゃ
ありがとうございます。

迷いです。人生をどう生きればいいのか、いろんな人がいろんな事をいいます。迷って、それが苦しいです。「日常の総てが苦」に観念的には行き着くけど、苦しいことは苦しいし、楽な事はやっぱり楽です。楽と苦があるから迷うのですか?だから覚醒を求めますが、やっぱりそれも苦しいです。

No.1090 - 2008/09/23(Tue) 12:19:32

Re: 覚醒のあと / ubik0101
まったく、 ほかの人の言うことを気にする必要は、ありません。たとえば。「わたしは、ない」、というのも真理です。そして「わたしは、ある」。これも真理です。たとえば。楽や苦と同一化することは迷い、というのも真実です。楽や苦と同一化するのが悟りだ、というのも真実です。

そういう表現に迷わされてはなりません。それは、とある立ち位置から見える、とある範疇の表現です。そして、そういう構造については不問にされているのが普通です。それにしても。たとえば、ない、と、ある。同一化、非同一化。それは何なのか?それがなぜ、そうなのか?誰が知ってるというのでしょう。

また、覚醒を求めない時、それは訪れる。などど、言う人もいるようです。そんな程度でも、覚醒は訪れるのでしょうか。また。ただ苦しさから逃れるという動機、目的で、求めて得られるとしても、それは覚醒でしょうか。それでも動機、目的と、結果の直接の関係は、あるとは言えないかもしれません。

そういうことを含めて。しむじゃさんが。何かを見る、思考する。なんの基準も拠り所も立ち位置も見いだせず、渾沌としてることに気がついてしまった状態なのかもしれません。たしかに。なにか現実の出来事も、なんの見る、思考する、の基準になりません。また見ない、思考してない。それはどうなってるのか?そういうことも視野にあるのかもしれません。

ところで実践です。「迷いです」。なら、どう迷ってる?「いろんな人がいろんなことをいう」からでしょうか。どういう意味で理由で、それが自分の迷いになる?のでしょう。それが、 なぜ苦しいのでしょう?苦は、なぜ苦なのでしょう?楽は、なぜ楽なのでしょう? 「日常の総てが苦」に「観念的に行き着く」なら、どうしてそう思うのでしょう?「観念的に行き着く」とは、どういう意味なのでしょう?隠すことなく、どんな恥ずかしいことも洗いざらい、正確に書き出し尽くすことをお薦めします。

また「楽と苦があるから迷うのですか?」。この疑問。苦と楽があるから迷いがあるのではなく、迷うから苦と楽が迷いとして認知されるのかもしれません。

ここで。苦と楽がなければ迷ってないとか、迷ってなければ苦と楽がないとか、決めつける意味で、とある立ち位置を不覚にも認めてしまうことになる、思考をしてはなりません。思考するなら、思考し尽くしましょう。

どの思考の立ち位置も基準にならないほど、思考し尽くすことをお薦めします。どうであれ、「楽と苦があるから迷うのですか?」それが真摯な疑問なら、それが手掛かり、突破口になるでしょう。

とりあえず、そのようにしてると、そうしてる、その自分の有り様の、前提とか、見逃していた微妙なことが見えてくるでしょう。 そして、そのような見る、思考の運動は、取り替え可能な、人を鍛えるための負荷というだけ・・・触媒・・・などということも、とある立ち位置からは明確に見える・・・ことに気がついたりするかもしれません。

その、自分を、ただ、その自分の有り様を正確に理解すればいいのです。逆に言えば人は、ほかの人のことや、世界の状態などまで視野にいれる必要はありません。その自分の疑問を解決すればいいのです。ほかの人の意見など度外視して、という意見さえ聞く必要はなく、自分の有り様を理解するのです。

そして。どんなことも。たとえば自分の立ち位置、基準さえ見出せない混沌さえ、迷いさえ、その自分のためにあるのです。そうでなく自分が、たとえば渾沌、迷いのためにある・・・それを倒錯と呼んでいますが・・・問題はそれだけとも言えます。それを解決する、「わたしは、ある」。「わたしは、ない」。また、ほかのどんなこともオーケーです。

なぜか知りませんが、どうも、ほかの人のことはどうであれ、自分のことは自分で解決する。逆に言えば、この自分のことを解決すればいい。みんな人が、そうするだけで充分、世界の苦は解決です。というのは、基本的なルールのようです。

●ここ2,3日は、ネットに繋げることが、できません。それで返信いただければ、その後、週末にも返信します。

No.1091 - 2008/09/24(Wed) 10:13:38

Re: 覚醒のあと / しむじゃ
とにかく「思考し尽くすこと」だと頭では痛感していますが、「思考し尽くす」というところには至りません。苦しさがあるからなのか、「思考し尽く」したと感じるところを自分で作ってしまうのです。いくつかの思考の立ち位置を越した段階で、勝手に解決する位置に逃げるというか、最後まで苦しめないというか、結局、それも「ある立ち位置」でしかないと、あとになって気付くのです。
No.1093 - 2008/09/28(Sun) 10:47:39

Re: 覚醒のあと / ubik0101
とにかく「思考し尽くすこと」ですが、その逆。なにかの思考を持続させて、そうしている自らを自覚、実感したいという、意識の性質、その罠に捕らわれることもあります。それは。思考では解決できないことを、思考対象にして、さまざま検討することで、その思考が自己保存を図る機能です。

たとえば嫉妬。その仕組みを細部まで見ようとして検討するのですが、その決定的な姿を見ることは不可能です。それでもなお見ようとする、そのことが、その検討する思考を持続させてしまう、そんな迷いもあります。そのために、すでに自分には機能してなくても嫉妬も思考にとっては、なければ困ります。どこか自分の無意識とか、ほかの人にあると捏造することもあるかもしれません。

これは愛、自己、実在についても。また苦と楽、善と悪、迷いと悟り、などの対立(分裂)概念・・・そんな無理に捏造された世界観・・・についても。そういうことは起こり得るでしょう。この意味では、ほとんどの思考は、思考では理解しきれないことを対象にしてるのかもしれません。それで、なにかに迷う、その迷う思考の運動も、その人を鍛える取り替え可能な負荷なだけ、として機能するのではないでしょうか。(それで飛躍、変容、生長には、その人なりの経緯を要するのかもしれません) 。

でなくては、なにかの思考・・・感覚、感情にしても・・・を知覚することによって生じる立ち位置。また、なにかの立ち位置から見える思考などに依存、執着したり、それから解放されたりすることは不可能なのかもしれません。

それで、そんな完全には思考の理解の届きもしないことを、あれこれ検討する運動を持続することによって、自らを自覚、実感したい意識の性質に気が付けば、それを見切って、それから離れるということもできるのではないでしょうか。そういう了解は、飛躍、変容、生長した人には困難ではないと思います。

それで、なにかを。まったく十全に感覚、感情、思考して・・・そのことにも、そんな立ち位置にも・・・それに依存しない、というよりできない・・・なにか感覚、感情、思考との同一化は、非同一化・・・その主体は無自覚、ではないでしょうか。

No.1094 - 2008/09/28(Sun) 19:00:41
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