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(No Subject) / ubik0101
続々・思考の機能

>このように思考するということは、思考しないということは、それに捕らわれていても、解放されていても可能です。つまり、その人の状態には、無関係です。ゆえに思考は正確に機能します。

と、いう投稿No.1135からの続きです。

たとえば。嘘をつかないということは、嘘をついてはいけないという信念、規範、観念があって、嘘をつかないのかもしれません。それは、いくらでも世間にある、たくさんの信念の一つを選択したのだとして、その人は、なぜそれを選択したのでしょう。 そういう性向が、その人に、選択する前にも、あったのかもしれません。つまり、自発的な、それかもしれません。

どちらにしても、まずは、その人が捕らわれた有り様があるだけです。その有り様でなく、起きてる思考だけに注目して。その信念、規範、観念・・・いわゆる軋轢、苦痛などを起こす心理的思考としてそれは現れるとしても・・・その思考は教育とか宣伝によってもたらされた過去のものだからと決めつけるとかして・・・その思考をなくすだけでは、またその思考がないだけでは、知覚できる表面だけを問題にしてるだけで、その囚われから解放されることは困難でしょう。 問題は、思考ではなく、その人の有り様です。

そうでなく、この表面だけを問題にしてる問題を避けるために、たとえば「思考とは思考者」だ。とかいう思考が必要になるかもしれません。ここは、その思考の発見者、また再発見者は、それなりの経緯においての、もっと深い了解があるはずです。しかし追従者は、その未熟な有り様において、どんな思考であっても受け入れるなら、その思考に支配され、思考ばかりを検討し観察し、苦労することになるでしょう。

ところで、今日は、鮭のムニエル、ペペロンチーノ、野菜のオニオンクリーム煮添え弁当です。これから洗濯して、ちょい散歩です。そのあと続きます。

No.1159 - 2008/10/20(Mon) 09:49:36

Re: / ubik0101
ところで繰り返します。たとえば嘘をつかないという、その信念、規範、観念を否定するだけでは、不完全です。たとえば、それでは、自分は状況によっては、嘘をついてもいい、ということを隠し持つことになるかもしれません。そして、そうでなくあろうとするなら、なにかを否定するということは、いつまでも、なんでも否定し続けることを要するでしょう。

そのようにして。また嘘をついてもいいという信念、規範、観念も否定しなくてはならないでしょう。それは、いかなる信念、規範、観念も持たないでありたいということです。それはその人のあり方が飛躍、変容したことと、たとえば、そういう信念、規範、観念があろうとなかろうと倒錯せず、嘘をつかないことと、そっくりでしょう。それで、たしかに嘘をつくことは、ないかもしれません。けど、馬と鹿のように、つまり動物のように、結局は、嘘も言えないとしても、真実も話せないでしょう。

そんな状態では、思考を観察、検討することに執着し、やはり、いかなる、信念、規範、観念も持たないという信念、規範、観念に捕らわれているでしょう。そうならば。おなじように素直、誠実であろうとしても、不素直、不誠実であろうとしなくても、誠実、素直ではないでしょう。ならばやはり、その人は、その人の思考に縛られているのです。そしてそうであることを自分に知られないように自分を操作、矯正するのです。

なにかを否定すると言うことは、否定し続ける・・・それは逃げる、守る、自我の機能ですが・・・だけではなく、そうしてることも否定しなければ、偏っています。また、なにかの思考を、ほかの人とか一般的なことに適応するだけでなく、それを自分に適応しなければ、いわゆる思考に同一化してる状態であり、思考に支配されたままでしょう。このように思考は、その人の有り様に無関係なゆえに、その人の有り様を正確に顕します。

ところで写真は、渡し船から見た、 江ノ島の裏磯です。

No.1160 - 2008/10/20(Mon) 12:43:42

Re: / ルー
あー、今日のお弁当はうまそう〜
No.1161 - 2008/10/20(Mon) 14:21:01

Re: / ubik0101
そーなんです。いつも美味しく作りたいのです。そう思わないで、美味しくできることはないと思います。

ところで。信念、規範、観念などの起源を、思考、あるいは過去に求めるのは、明らかに誤りです。

その人が、「いま」迷ってる状態にあることを、そのような思考が露わにしてるだけです。

ということを思考しつつ、これからhatoさんの実家に行って夕食を作ります。

No.1162 - 2008/10/20(Mon) 15:54:01

Re: / hato

いま、帰ってきました。
これから、温かい白湯をいただきます。

うーと、ubik弁当。
人参の甘みがやさしくて、おいしかったです。
いつも内容充実、ぎゅーっと詰まって、
おなかまんぷく、ありがとう、です。まる。

No.1163 - 2008/10/20(Mon) 23:27:00

Re: / しむじゃ
嘘をつかないという信念、規範、観念と、嘘を付いた自分、もしくは嘘を付くまいとする自分とのギャップに苦しむ、その苦痛は思考から起きるのでしょうか?苦痛が問題です。
No.1164 - 2008/10/22(Wed) 18:35:36

Re: / hato

こんばんは。

それは明らかに、状態の苦痛であって、思考はただその状態によって、強調されているのだと思います。
その苦痛から深く、的確に学ぶことによって、人は人を、自分自身を、見い出す、こともできるかもしれません。
的確に、というのは、そうでしかならないこと、ともいえます。

こうして、わたしも学ばせて頂くことができます。
ubik0101さんが、いま、すこし飲んでよっぱらって、いるので、あしたきちんとお返事しますね。

No.1165 - 2008/10/22(Wed) 22:30:20

Re: / しむじゃ
こんばんは。

以前にも「お酒はほどほどに」っていうhatoさんの書き込みがありましたね。ubik0101さんはお酒好きの様ですね、僕もお酒好き、黒糖焼酎大好きです。

No.1166 - 2008/10/23(Thu) 00:22:54

Re: / ubik0101
そういえば、一度だけ、沖縄の離島あたりの黒砂糖からつくられた焼酎を貰ったことがあります。それは、とてもまろやかで爽やかで深く、印象に残っています。この頃は、お湯割り、真露に梅干しです。

ところで、嘘をついてはいけないという 信念、規範、観念が人にあるとします。それでも、ほかの人が嘘をついてるのを見るとか、自分が嘘をつきそうになる、嘘をつかされそうになる時や、それを思考、空想する時にしか、その信念、規範、観念とのギャップは、問題にならないかもしれません。

つまり問題になってない時には、信念、規範、観念はあっても意識されません。問題も生起しません。それで、問題になる時だけの信念、規範、観念、またそのいわゆる心理的な思考の運動だけを問題にすること。それを分析したり観察したりすること。また、その心理的な思考がないことに気づくこと。は、表面だけの問題です。

あれこれ心理的な思考の運動があって、それが知覚されてる「状態」。だけではなく心理的な思考の運動が生起してないときでも、人がそのような「形態」にあることが問題ではないでしょうか。どちらの場合も苦痛が生起すると思います。でも、「形態」の場合は、苦痛の理由が特定できないと思います。ただ胸が痛むと思います。

>その苦痛は思考から起きるのでしょうか?

ではなく、苦痛が、そういう問題のある人の有り様を教えてるのではないでしょうか。その問題は、単に嘘をついてはいけないという信念、規範、観念とか、それによる軋轢とか苦痛とかだけの範疇にあることではないでしょう。もっと広範囲というか深い原因、たとえば無知とか欲望とか自我の問題とか、があるのかもしれません。

とりあえず、それは解決されてる、あるいは解決が進行中だとして。嘘をついてはいけないという信念、規範、観念が苦痛をもたらすなら。その信念、規範、観念を完全に守ること、確立すること。信念、規範、観念の否定でも肯定でもなく完成。それが信念、規範、観念からの解放であり・・・なぜならそれを守ろうとする・守れないということが心理的思考の運動なので・・・それが楽をもたらせると思います。

そして、嘘とは。人の、行動、発言、思考が、たがいに矛盾することではないでしょうか。つねに真摯に、明晰であれば。それは矛盾できず問題は生起のしようがないのではないでしょうか。

ところで。その辺りを散歩してたら、月桂樹(ローレル)がありました。それですこし葉を摘んで、乾燥中です。トマトパスタなどに、ぴったりのハーブです。

No.1167 - 2008/10/23(Thu) 11:22:10

Re: / hato

はい、
一日おき、上記焼酎とー、、
日付が変わりましたけど、今日は赤ラベルの「歩いてるジョニー」??、てのを頂いておりました。

そこで、しかし彼は、「長崎ではー、もーっと、飲んでいたんだ。いまは3ぶんの1だよ、」て言っております。

いいことじゃ、ないの。ねっ?

そこで。
ルンルンも、お酒もけっこういけそうだけど、
今日はこちらで我慢して頂きました。

No.1168 - 2008/10/24(Fri) 00:19:13

Re: / ルー
> そこで、しかし彼は、「長崎ではー、もーっと、飲んでいたんだ。いまは3ぶんの1だよ、」て言っております。
>
> いいことじゃ、ないの。ねっ?


お手柄、お手柄。

No.1169 - 2008/10/24(Fri) 14:01:41

Re: / しむじゃ
悟りがあろうが、なかろうが、ある体験があったとか、ないとか、そうした事を置いておいて、
>
> そして、嘘とは。人の、行動、発言、思考が、たがいに矛盾することではないでしょうか。つねに真摯に、明晰であれば。それは矛盾できず問題は生起のしようがないのではないでしょうか。


矛盾なく生きていければそれでいい気がします。それだけが望みです。

No.1170 - 2008/10/25(Sat) 23:49:03

Re: / ubik0101
いつでも、どこでも目が覚めていれば。人は自分がしてる行動はそのままに感じることができます。発言は、そのままに自分に聞こえます。思考は、そのままに知覚できます。

そうなってることを、とても神秘とも、秘密とも、不思議とも感じます。まったく。真摯で明晰であって。なにも自分に隠すことはできないのです。そうであって、そこに矛盾、嘘が生じることを知りません。

それで、矛盾が生じるというのは。真摯に明晰に、自分の行動を見てないこと、自分の発言を聞いてないこと、自分の思考を知覚してないことによってではないでしょうか。おおまかに言って、その原因としては、人が愚かだからではないでしょうか。

たとえば行動、発言、思考が矛盾しても。ほかの人には、そういう自分の嘘は判らないということで、自分にも隠していれるほど愚かであれる場合ではないでしょうか。

また、いわゆる精神的なことで、自分が見たこと確認したことでないことを発言すること、その発言と自分の有り様との違いがある場合ではないでしょうか。その人が、その人ではなく、ほかの人の間に隠れて行動、発言、思考してるのではないでしょうか。

あと。矛盾があっても、馬と鹿になってしまえば、それに気がつかないで、矛盾がないと思ったりする場合もあります。その意味でも、やはり真摯で明晰なことは必要と思います。

ま。世間には、嘘をつく人はいるかもしれません。でも、ただ、そういう人がいるというだけです。そのことは嘘をつかない人には関係ないのです。そこには、嘘をつく人と、つかない人の分離があります。そうであって、当然です。

ところで探せばあるもので、山椒の木の苗がたくさん見つかりました。とりあえず、素焼きの鉢を買って三本、植えました。

No.1171 - 2008/10/26(Sun) 23:24:40

Re: / hato

ほんとうに。
探せばあるもので、手のひらに乗るほど小さな、
可愛い山椒も、みつけました。

なんだかちょっと不思議で、
嬉しい発見です。

No.1172 - 2008/10/26(Sun) 23:35:34

Re: / ルー
うん。
No.1173 - 2008/10/27(Mon) 09:05:46

Re: / hato

仕事からの帰り道、

細い、ちょっとした、林道を通ります。
そこで、たくさんのどんぐりや、
秋色の落ち葉を踏みしめながら
夕暮れどきの階段を上っていくと、
右手に、小さいけどなかなか元気な山椒の小木があって、
ひんやりとした空気と、その山椒の葉の香りを楽しみます。

すると、ubik0101さんの待ってる部屋がすぐそこです。

山椒。
えーと。

この部屋に、すでにー、5本。
近くに住む、母の家に、2本。
す、すでに。7本。に、なってしまいました。

今日、きのう一緒に見つけた小さな小さな山椒の苗と、
親木についてた種(たぶん)を、ubik0101さんがとってきてくれました。
種は、欲しい方がおられたら、お送りしようといってます。

No.1174 - 2008/10/27(Mon) 23:44:58

Re: / hato

手のひらに乗るくらいの、山椒の苗です。

No.1175 - 2008/10/27(Mon) 23:48:18

Re: / しむじゃ
知覚するのは思考ですか?思考を知覚するのは思考なんですか?その思考は誰ですか?

思考を思考したり、思考しないってことを思考したり、そんな思考を繰り返していると、あるとき、落とし穴にはまったように、スポッと何もない空間に落ちることがあります。

No.1178 - 2008/10/29(Wed) 17:18:11

Re: / hato
なにか鳥や樹や海を知覚する。また。怒り、喜び、苦痛、平穏を知覚する。また。なにか思考を知覚する、その主体は、知覚されません。それで、主体が、ない。と言われたりすることもあります。

とくに思考について注目するなら。その思考されてることだけで、ほかの思考されてない思考も、また、それを知覚してる自分も、知覚されません。それで、思考は思考者、と言われたりもします。

どちらも、そう言えば言えるだけです。その主体が知覚されないからといって、その主体が、ない、というわけではありません。また、それだけが、ある。という意味で、「思考を知覚するのは思考」でもありません。

ともかく。知覚してる主体が知覚されないということを示してるだけです。思考が知覚されるのですが、それも、Aさん、Bさん、Cさんに関係なく知覚されるので、つまり思考は、知覚する誰かには無関係に知覚されるので、そうなのかもしれません。

ここで。知覚できることは、ある。知覚できないことは、ない、と見なしてしまう愚かさを、学ぶことができます。また、ある、ない、とは、どういうことか?ということを思考することもできるでしょう。

「 スポッと何もない空間に落ちる」。これは、「何も」が示す意味が、不明ですが、無思考ということなのでしょうか。それならば、思考は、それを止めようと意図しても、止まります。

あるいは。なにも思考してない、その主体も、ない、ということなのでしょうか。なんにしても、なにかが知覚される、されないに関わらず、そうしてることによって、その主体の、あるない、は決められないように思います。また、あるない、その意味は解りません。

それでも、自我は、ない。自己は、ある。けど、どちらも知覚できない、自覚できない。のが実情です。

No.1179 - 2008/10/30(Thu) 00:05:26
(No Subject) / ubik0101
続・思考の機能

>どちらにしても、人が迷ってるのです。思考が迷ってるわけでも、迷わせてるわけでもありません。思考は自ら矛盾にも、自らの範疇にないことにも、気がつくことだってできるのです。 思考は巧妙に人を騙す、というより、人の巧妙な迷いのあり方を理解できる。とも言えます。

と、いう投稿No.1101からの続きです。

たとえば。慈しみと憎しみは、おなじこと。善と悪は。暴力と非暴力は。おなじこと。と、いう思考があります。それは自我の機能としての、思考の運動なので、そのような対になった思考は、その自我の範疇にあることだ。ということです。

そこで、問題は、そういう思考だ、と見なされることがあります。しかし違います。また、思考は過去のものだから、思考は事実、現実、ではないと、見なされることがあります。しかし違います。

それは。なにかの状態、たとえば自我が機能してる人があり、また過去に捕らわれた人があり、そのようであることを、『たまたま』表してるのが、たとえばそのような思考です。

というのも、対になった思考をしてないときでも、過去からの影響を自覚してないときでも、その人は捕らわれてるなら、そういう自我や、過去に捕らわれてる形態なのです。 そう思考をしてても、それに捕らわれてないなら、捕らわれてないのです。

それで、そういうことから自分は解放されてないのに、解放されてると思い込みたいなら・・・たとえば対になった思考に責任を負わせて、それが機能してないから・・・過去のことを思考せず、いまに、現実を生きてるから・・・それに縛られてない。などと、思わざるを得ないでしょう。

ところで今日は、hatoさんと一緒に、多摩センターに行きました。ちいさな植物園があって、ローズマリーを「お持ちください」。だったので、魚の香草焼きにと、貰って。新芽の部分は、赤玉土に、挿し木してみました。根がでたら、タイムなどと、ハーブの寄せ植えにしようと思っています。

続きます。

No.1134 - 2008/10/11(Sat) 20:18:34

Re: / ubik0101
また思考から逃げ続けなくてはならないでしょう。また。自我や欲望があれば、かならず知覚されると思わざるを得ないでしょう。

つまり。たとえば自我を自覚しなければ、自我はない、と思わざるを得ないでしょう。けれど。それは、自分に知覚できることしかない、できないことは、ないと見なす、そんな知覚依存症でもあります。

また、たとえば、慈しみと憎しみとは対になってるとしても。それと、悲しさと、喜びと、ありとあらゆることとの関係は、どうなってるでしょう。そういうことを思考せずに、ただ対として思考されやすい、関係だけを見ているのなら、それは明らかに執着の機能です。

それでは永遠に悩んでいられます。それが、そういう思考として現れているということです。 そのように思考は正確に機能します。

また。対になった思考は、おなじこと。と表明しても、それを対象にしてるのだから、その対象にしてる自分はそれから離れてると思い込むとしても。それに実は捕らわれてる人がいます。そんな思考をしなくても、それから解放される人がいます。

このように思考するということは、思考しないということは、それに捕らわれていても、解放されていても可能です。つまり、その人の状態には、無関係です。ゆえに思考は正確に機能します。

ところで。このアパートの近所には、ススキが生えています。秋の月。虫の声。そういえば子供の頃、しーん、という音を聞いたような思いがあります。多摩センターには、巨大なススキがありました。

No.1135 - 2008/10/11(Sat) 21:53:17

Re: / hato

上の大きなススキは、パンパスグラス、というそうです。
パンパスって、どこか南米だったか、お父さん、との意味があるそうですが、
この秋、散歩で二度見かけましたが、見事な様子に感激しました。

さて今日も、海日和。
休みのたびにちょっくら釣りに、なあんて、
今まで考えてもみませんでしたけど、
なかなか、お陰さまでこれもよい感じです。

その音。
やはり、ここでも。

ルンルンは、
秋を楽しむ、そんな近況です。

No.1136 - 2008/10/12(Sun) 23:57:13

Re: / peer
昔こんな言葉を、聞いたことがあります。

悟りとは、損をすることである。
迷いとは、得をすることである。

この、損と得をするのは、我(エゴ)。なのですね。
自我からみると、こういう世界です。
まぁ。我の住んでいる世界は、アベコベ世界ですから。
こうなるのでしょうね。

No.1137 - 2008/10/13(Mon) 08:11:46

Re: / ubik0101
ま。悟ってしまったら、それを確認する必要がないので、悟りという概念、観念を失う、とも言えそうです。また、そんな自分の自覚も失う、とも言えそうです。達磨は武帝に向かって・・・廓然無聖(かくねんむしょう)・・・とくに聖なることなどない・・・と言ったと伝えられています。

ならば、悟りを得ようとするのは・・・おなじように地位や名誉や知識を得ようとするのは・・・迷いです。ということでしょう。しかーし。これは、迷ってないなら、悟りを得ようとしない、という無意識の空想に繋がります。

それで。悟りを得ようとしてなければ。たとえば自然に生きれば。知覚からの直接行動があれば。迷ってない、と。無意識も妄想します。しかし、そんなわけはありません。

けど。それは見かけは、迷ってない、悟ってる。に、そっくりです。でも、無意識を見たくないから、知覚できる感覚、思考だけに執着する傾向があります。そのようにして自我は、逃げこむ裏道があります。裏道があります(残響)。

ところでpeerさんは、とくに自我からも、悟りからも、見ないから。あべこべとも思う必要もないから。損も、得も無関係。て、いうことでしょうか。そういえば柿の季節です。えいっ。

No.1138 - 2008/10/13(Mon) 09:58:16

Re: / hato

ほんとーに。

損得、そんなん、無関係です。

人って。

多種多様です。

No.1139 - 2008/10/13(Mon) 12:58:15

Re: / peer
そういえば、同じこととして。

自分を1パーセントも守ろうとしなければ
完全に守られている。ンですね。
守ろうとすればするほど、守るのが難しい。
そんなことも、感じます。
ホントに、この社会はアベコベです。

No.1142 - 2008/10/14(Tue) 01:00:17

Re: / ubik0101
うーん。守ろうとしなければ、それが損なわれたとしても、無頓着、無関心だと思います。それでも生きてるなら、人生いたるところに青山あり、で、とくに問題ありません。と言っても、いつでも守られてる。というわけでは現実は、ないと思います。病気も、事故も起きるでしょう。それでも無問題なら、もともと守られる必要もないでしょう。

と、いうことは。たとえば。なにかを守ろうとしてる誰かや自分を批判して。なにも守ろうとしなければ・・・ということと、どこか無意識にでも隠れてる、自分は守られたい。ということが結びついて、思考された。つまり、いつでもどこでも守られたい自分の不安や欲望を見つけた。だけ、かもしれません。そのように巧妙に、思考は、その人の有り様を露わにするとも言えます。

また。「守ろうとしなければ、守られている」ということは。心理的な問題には、適応できるけど。身体的とか、物理的なことには適応できないのだ。ということかもしれません。なら、その思考が問題というより、そうする人の有り様を、思考が、巧妙に露わにしてる。そんな事態を思考すると面白い。のでは、ないでしょうか。

それはそれとして。何から、何を、守ってもらえると、想定してるのでしょう。 それで、誰も、何かからも、守られてないよ。でも、ちゃっんと生きてるし、守られてるんだ。なんて思考も出来るかもしれません。かもしれません(残響)。ところで。なんでも100円ショップで買った、なかなか素敵といえる、ソムリエナイフです。

No.1143 - 2008/10/14(Tue) 11:24:08

Re: / peer
「守ろうとしない」
例えていうと。
ウビさんが書いていたように
「自分にも誰にもウソをつかない」
というようなことかな、と思いマス。
インスピレーションのままに・・・みたいなことです。

自分を守ろうとしてウソをつく。
また、人を守ろうとしてウソをつく。
と、たいていは、この後、混乱しますね。

あと・・・そうねぇ。守ろうとしない〜は。
素直でいる。とか、ですねぇ。
それで、じっさい、困ることなんか、ないですし。

No.1148 - 2008/10/15(Wed) 13:59:40

Re: / hato
そうですね。
そんなところも、あるように思います。

そして、
ぴあさんは、ぴあさんのその有り様を
見ているでしょうか。

つねに、どこか煙に巻くような風合いは、
それもまた味わいとして、決してわるいものではないのだけれど。
そのまま、どこでも、どちらつかずのように。

どこかの位置に決定されることは、
たとえ一瞬であれ、
誰しも、躊躇があるかもしれませんが。

そうした人にとっては、勇気が必要だと思います。

散歩の途中で見つけた、石垣から生えている、
山椒の木です。

No.1149 - 2008/10/15(Wed) 22:01:26

Re: / peer
もちろん。私が私の関わっている世界から
湧き出た言葉を書いていますから。
私の有り様ですね。すべては。

>どこか煙に巻くような風合い
>どちらつかずのように。


というふうに、見える。というコトですね。
なんだかね。
たぶん確定していないから、位置がはっきりしない
のかも。
まるで、波になったり、粒になったりする光の要素が
それぞれの人間の中にある。からかもしれません。

って、なにを言われたのかわからないから。
そんなふうに、書いておきます〜

No.1151 - 2008/10/16(Thu) 06:59:25

Re: / hato
まず、自分の中でしっかりと確認、或いは、理解されていることを
明確に語ろうとすること、それがとても大切なことだと思います。
未熟であったとしても、中途半端な表現だとしても、
人が本心から、丁寧に生きた実質から出た言葉には、違和感がありません。
明確に語ろうとする意志と勇気、即ち、現状に即した有り様を語る、ことは、
素直といえるでしょう。嘘がない、といえるでしょう。

また、いわゆるなにか事実、例えば、「波と粒子」、とか、そうした様相を見た、それらが事実、であったとしても、、日常の様々なことを生き、見る、ということ自体に、無関係である、(ここはしかし、気を付けて表現されなければなりませんが、)こと。
ここでは、了解されることとして語られていると思いますが
そのこと、そのものは、正にそこ、でしか明白になりません。
なので、似たようなそうでないもの、が多く氾濫できるのだと思います。

今日は、実家に行ってごはんを食べてテレビを見て帰ってきました。
ubik0101さんは、食べ過ぎて、お腹いっぱい。
でも今は元気になったので、お茶を入れたところです。

それでは今日も、おつかれさまでした。

No.1152 - 2008/10/16(Thu) 23:59:32

Re: / peer
やあやあ。おつかれさまです。

>自分の中でしっかりと確認、或いは、理解されていることを
明確に語ろうとすること、それがとても大切なことだと思います。


つまりは、未熟と言えばいえますが。
「しっかりと確認している」とか「理解されている」ことが
ある人は、いいのですが。
書いてから、自分がなにを感じていたのかが、わかる。
ようなことが、あります。
だから、書くと言うことが大事なのだろうな。と思いマス。

・・・まったく。
いつも思いマス。私ごときは、毛の先ほども、モノゴトを
知らない。理解していない。。と。
まっ、すべてを理解したら、また書きに来ます〜
いつになるやら。ですが。

あっそうそう。
光の波と粒子の例えは。
過去・現在・未来を統合した現実が、波と例え。
粒子は、ただこの一瞬の現実。のこと。
だったと、書いてから気づきました。
では。

No.1153 - 2008/10/17(Fri) 00:18:31

Re: / hato

> 書いてから、自分がなにを感じていたのかが、わかる。
> ようなことが、あります。
> だから、書くと言うことが大事なのだろうな。と思いマス。


なんにしても、
常に、真剣さ、は鍵となると思います。
そしてここに関しては、借り物ではならない、のだと思います。
情報や言葉を集めてみても、
そんな気がしてしまうだけなら、悲しいことだと思います。

そして尚、
peerさんがしたいようになさること、
そしてわたしは、いまpeerさんにお話したいと思ったことを、表現しました。

それでよいのだと思います。

それでは、また。

No.1157 - 2008/10/19(Sun) 01:23:05

Re: / peer
>そしてここに関しては、借り物ではならない、のだと思います。
>情報や言葉を集めてみても、
>そんな気がしてしまうだけなら、悲しいことだと思います。


たぶん、私はhatoさんが、伝えたいことが、理解できない。
状態なのだと、思いマス。
なにを言っているのかな。とズット考えてましたが。
やはり、分かりません。

hatoさんの心が、ダイレクトに入って来ないのか、
わたしが受け取ろうとしないのか・・・
これも、また「気がする」だけですが。

こういうのを、ふだん、波長が合わない。というふうに
表現してしまうのですが。そこで、そのまま「まぁ、いいか」
と流して、他の関心事に、心が動いて行く。
そういうクセが、私にはある。ワケで。
その時がくれば、波長があうこともある。
「なるほど、あのことは、このことか」と。
なることも、あるだろうと、思いながら。
長くなりましたが、このへんで失礼。
ほんとうに〜では、また。

No.1158 - 2008/10/19(Sun) 10:06:12
(No Subject) / ばん
うびさんとなんか雰囲気の似た人発見
http://108.houhu.net/
http://blog.goo.ne.jp/hyakuhachi/

なにか伝えた事が同じ事の様な気がするのですが、ちょっと違う、同じ頂上に立っているけど登り方が違ったと言うような、
文章の感じも似ていないですが、なんか同じ匂いがするというか、私はよく理解できないのですが、うびさん、hatoさんなら書いてある意味がわかるんじないかなと思いました。

No.1144 - 2008/10/15(Wed) 08:52:23

Re: / ubik0101
ありがとう。ただ、このPCはOSが、とても古いので、ブログしか表示できませんでした。それは、まだ記事もあまり書かれてないので、これからの楽しみにします。そういえば図書館閲覧者さんに教えてもらった、672夜さんのサイト、

http://www.672ya.com/

は、なんか背景が、神智学関係?らしくて難しいのですが。楽しめるかもしれません。

それはそれとして、どういうわけか、サイト「覚醒」の中国語版が見つかりました。接続できたり、できなかったりします。

http://jp2tc.mojolingo.com.tw/m2m-0000/www.geocities.jp/ubik0101/

No.1145 - 2008/10/15(Wed) 10:50:18

Re: / ばん
うおっ「心身の神癒」先月注文して届きました。
まだ読んでませんが・・・

中国のサイト誰か翻訳してるのでしょうか、不思議ですね、それと図書館閲覧者さんのブログみれなくなってしまってますね

No.1146 - 2008/10/15(Wed) 11:13:08

Re: / ubik0101
とくに興味がないわけじゃなく、この頃672夜さんのサイトは見てなかったのですが。たぶん「心身の神癒」って、672夜さんの著作なのでしょう。

なんか図書館閲覧者さんは心境・・・そんなもんあるとして・・・の変化なのでしょうか。理由を聞くことも野暮な気がしますが。それはそれ。です。

この頃、弁当作りが趣味になってしまいました。昨日はブリの照り焼き弁当です。

No.1147 - 2008/10/15(Wed) 13:14:44

Re: / ばん
「心身の神癒」はM・マグドナルド・ベインさんて方が書いた本です。
説明にはイエス・キリストとの霊交によって書かれたとありますが本文にはキリスト=神我と書かれているので、大まかに言うと「本当の自分に気づいちゃったよ、みんなにおしえるね」と言うような本みたいです。

ちょっと質問
うびさんはお仕事ってされてますか?
スローライフな感じにみえて、憧れます。

それと、今、固定観念と投影について考えています、あと、うびさんが言われていた、自我はないという事がわかったような、思考している架空の自分の事を自我とよんでいるというか、思考しているからそれをしている主体をつくりだしているというか・・・なんかそんな感じですか?

No.1154 - 2008/10/18(Sat) 09:15:24

Re: / ubik0101
うー。仕事、探しているところです。hatoさんに叱咤激励されています。

そうですね。あの体験が始まって、最初に見たのが、自我の仕組みでした。それは、まず自分があって、なにかを感じたり思考したりするのではなく、なにかを感じたり思考したりすることで、そうしてる中心としての自分が設定される。虚構。架空。ということです。

それは、また。自我は、自己・・・ほんとの自分とも表現できそうですが・・・のいない間だけ必要で、倒錯しながら、自己の代理、執事をしてる、とか。

どんなことも世界が人にしてあげてるのに、人が、それを自分でしてると思い違うこと、とか。

まったく自覚の必要もないのに。自分が、自分を自覚したい、実感したいという働きが、自我でもある、とか。いろんな立ち位置から見た自我の、理解ができます。

そういえば、たとえば自他の分離と、分離がない、たとえば「ひとつ」を、提唱する人もいるようです。でも、そうすることで、そうしてる自分を自覚、実感してしまう・・・自我の機能・・・に縛られることもあるようです。

それが、その人の経緯だとして、それを成り立たせてる前提、たとえば知覚の機能を理解することで、それから解放され、人は学び、成長するのだと思います。固定観念。投影。について思考することも、そのような一環になると思います。

No.1155 - 2008/10/18(Sat) 11:35:16

Re: / hato

きのうの、ubik弁当です。
いつも山椒が入ってて、一緒に頂くのが、
ちょっと素敵。

今日も、こちらは快晴です。

No.1156 - 2008/10/18(Sat) 12:06:16
執着 / ばん
何故かまた解らなくなってしまいました
覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど
それから離れていっている様な
覚醒、悟りに執着しすぎているのでしょうか

あの体験で感じた本当の私は何ともいえないものだった
それで終わりにしていた方がよいのかな

私は考えているような自分でなかった、なんとも言えない自分だった、だから、執着、依存して不安や恐怖にとらわれることなく頭に何が浮かんでも出来る事をする

これが一番、自分は楽なのですがどうでしょう。

No.1095 - 2008/09/30(Tue) 08:46:47

Re: 執着 / ubik0101
うん。この日常こそ、真理です。たとえば禅などは、ばんさんの言うような生き方ををめざして修行することもあるようです。けれど反面。まったく悟ってもないのに、そのようにありたいと、それに自分の、なんでもない愚かな日常生活をあてはめて、たとえば始めも終わりもなく生きてると自分を騙し、迷ってることにも気がつけない人も見かけます。

その両者の行動、発言、思考は、紙一重です。とある立ち位置から見ると、まったく同じということもあり得ます。でも、その息づかいというか、その歌というか、その踊りというか、どうしても違います。と、そんなことを気にするのも、迷ってるなら、その迷いを露わにすることになり得ます。悟ってるなら、その悟りを露わにすることになり得ます。

たとえばイエス・キリストの、仏陀の、誰か賢者の言葉を、また自分の状態を、うまく思考したり検討したり演繹したりできることが、悟ってるわけではありません。できないことが悟ってないわけではありません。そういう思考とか検討とか演繹とかと、その人の悟りとは、まったく関係ありません。

つまり違いは行動、発言、思考ではなく、その人そのこと(変な言い方)です。それで、「だから、執着、依存して不安や恐怖にとらわれることなく頭に何が浮かんでも出来る事をする」。でも。「何故かまた解らなくなってしまいました」。でも。悟った人には、悟りの状態であり、その表現です。おなじことが迷ってる人には、迷いの状態であり、その表現です。ところで

どうでしょう。ばんさんは、悟った人でしょうか、迷ってる人でしょうか。ubik0101は、どっちでもなくあります。ばんさんもそうなのかもしれません。悟りと迷い、どちらにもいるとも言えるし。なにか思考に使われるのじゃなく、使うとも言えるし。そんな使われたり使ったりする主体は、いるとも、いないとも言えるし。悟りと迷いの分離、分別、対立がない、あっても、かまわない。そんなことに依存しない。「なんとも言えない自分」、ただの人とも言えます。言わなくても違うわけでもありません。

>覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど
>それから離れていっている様な
>覚醒、悟りに執着しすぎているのでしょうか


ここのところは。悟ってる人は、まったく悟りだけなので。その悟りを、とあることとして対象化して思考すると、そのことは、たとえば迷いと比較する可能性がでてしまうので。そのことが分離、分別、対立を生じさせるので。そもそも対象化することが分離なので。つまり、その人は悟りだけ、でなくなるのだ、という理解ができます。

そう理解すれば、「覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど」考えても、その立ち位置に縛られなくなります。

とういうのも実は、分離、分別、対立だって、悟りを離れることはないのですが・・・不完全もない完全など完全ではないので・・・とある立ち位置から見ると、悟りから離れたように見えるので。一応は。そういう理解が必要なこともある。それも無自覚の叡智の確認になる。ということです。

>あの体験で感じた本当の私は何ともいえないものだった
>それで終わりにしていた方がよいのかな


それで。まあ。たとえば終わりにして、あの体験を掴んでしまったり、それを日常で実現しようとしたり。また忘れてしまうという意味で言ってるわけではないと思います。

No.1096 - 2008/09/30(Tue) 12:01:53

Re: 執着 / しむじゃ
掲示板を遡って読んでいると、「あの体験」と出てきました。ここにも「あの体験」っておっしゃってます。「あの体験」とはどういう体験ですか?

「それで終わりにしていた方がよいのかな」で終わることはできるのでしょうか?終わるのと「あの体験」は関係があるんですか?

No.1123 - 2008/10/08(Wed) 17:56:59

Re: 執着 / hato
それは、いわゆる至高体験とか、たぶん光明とか、変性意識とか呼ばれてる体験です。それぞれの人の経緯によって違うのですが、おおくの場合、自分が自分だと思ってた自分・・・自我・・・がないことを実感します。

それを、空っぽとか、無我とか、自分はない、とか表現しています。そのとき自我の仕組みの理解があります。

そして。ほかのどんなことでもない愛を感じます。それに伴い、また自我ではない、自己。そして実在。を実感します。 これも、その人の経緯によって違い、またその表現も違います。それは。ほとんど瞬間的な変化、変容、飛躍、成長だと思います。

>「それで終わりにしていた方がよいのかな」で終わることはできるのでしょうか?終わるのと「あの体験」は関係があるんですか?

それは、ばんさんの表現です。たぶん。あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまうので。そういうことを了解して。自分の変化、変容、飛躍、成長を、意識によらず、無自覚に自覚する。という意味ではないかと思います。

No.1126 - 2008/10/08(Wed) 23:36:16

Re: 執着 / しむじゃ
hatoさん、ありがとうございます。
hatoさんはubikさんの奥さまなんですね、掲示板を遡って読んでいたら、2人の結婚しますって書き込みがあって、なんだか2人の人柄で出ていて、こっちもすごく幸せな気分になりました。

どうも僕は
>あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまう
っているようです。『自分が自分だと思ってた自分・・・自我・・・がない』とか『愛』『実在』とか、はっきり自分自身で理解したにもかかわらず、それ以上の理解があるのじゃないか?自分はまだまだじゃないかと納得しない。人の言っているあの体験の話に迷わされてる。

>無自覚に自覚する。
は、納得しないまま納得する、ってことですか?

No.1129 - 2008/10/09(Thu) 00:52:59

Re: 執着 / ubik0101
ううん。あの体験と、あの体験で見たことを、正確に理解することが必要と思います。そうしてないことが、迷いとか苦痛として顕れます。その苦痛が、それを理解させる原動力になります。

とりあえず。まず。どのようなことであれ理解するということは、どう機能するのかを、理解することが望ましいでしょう。それは、なにかを得る。というよりも、失うことに似ているのではないでしょうか。

そして理解されたことは。意識にとっては、見えなくなる。意識にとっては失われてしまいます。けど、なくなるわけではない。のではないでしょうか。

それは、なにかを理解していない、つまり自分が理解してないということにも気がついてない無知な有り様と、意識にとっては見かけは変わりませんが、まったく違います。

たとえば。迷いは無知の現れだとして。あの体験によって。それが意識の範疇にない、意識には依存しない、知恵に転換されています。そういうことを了解する機能が、あの体験で実感した、自己にあります。

続きます。

No.1131 - 2008/10/09(Thu) 12:14:25

Re: 執着 / ubik0101
それは・・・なにか問題が知覚されるなら、そこから始めて、思考しつくして・・・誤ったり、嘘をついたりする機能がある意識によらず・・・意識の領域にないことを、了解するしかありません。なのに本性が愚かな意識が「あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまう」のではないでしょうか。

そのように。あの体験を自分の対象にして知覚、自覚することを望んで、そのことは分離があるので、迷いだ。と思い過ごしてしまうこともあります。また。あまりに完全を求めて、根ほり葉ほり自分の好ましくない有り様を、探してしまうこともあります。

そうならば。しかし自我や、欲望や、葛藤や、思考、過去、苦しみさえ、不思議な、未知な、世界の機能です。とか。不完全もなければ、完全ではない。とか。知覚、実感に依存しては不可です。とか。その無自覚の知恵を確認する意味での思考が必要なことがあります。また。なにかの、とある問題を検討しないでも、解決されてることもあります。

そして、その自己も、まったく意識にとっては無自覚になります。自己は自己を確認、知覚、自覚する必要がなくなります。そうなら。たとえば。その自己を実感したい・・自分で自分を認識したい・・・そういうことも自我の機能だ。ということも学んでいきます。

たしかに 「それ以上の理解があるのじゃないか?」。そうなのですが。それは忘れても忘れたりすることはないので。とりあえずは、いま知覚される問題を理解していくことが先決と思います。

「人の言っているあの体験の話に迷わされてる」。自分が虚偽の申告をしてることにも気がつかない自然外道もいます。それさえあり得る、この不思議な世界。です。

ところでNo.1126の投稿は、名前hatoの設定保存のまま投稿したもので、実際は、ubik0101の投稿です。

No.1132 - 2008/10/09(Thu) 13:31:34

Re: 執着 / hato

しむじゃさん、はじめまして。

優しいお気持ちを、ありがとうございます。
お元気でいられるでしょうか。

おくさまー、て感じじゃないんですけど、、(笑)

人生に導かれている、ことは誰しもそのようです。
不思議ですね、そうしたことすべてが。
なんでしょうね。

苦しいとき、
ここでできることをしてみます、
それしか詰まるところ、ないわけですし、

ubik0101さんがお話されたように、自分自身の有り様を書き尽くす、ことは、大変有効かも知れません。
その中で落ち着くものが落ち着き、新たに騒ぎ出すものもあるかもしれませんが、
ふと、理解されている事態を見い出すことも、あるかもしれません。

この間拾ってきた、銀杏の種です。

No.1140 - 2008/10/13(Mon) 22:33:56

Re: 執着 / hato

そうそう、さっき食事中に、煎った銀杏の実を、
ルンルンがとても気に入って食べてました。

No.1141 - 2008/10/13(Mon) 23:27:44
悩んでます / ばん
新しい取引先が出来たのですが、そこの担当者が下請けの私に威圧的な態度でいろんなことを強要してきます
断るにも断れず
その人のことばかり考えてしまいます。
気が滅入ってしまって、落ち込んでいます。

みなさんだったら、こういうことありますか?
どうしたらよいでしょうか?

No.1116 - 2008/10/07(Tue) 16:19:00

Re: 悩んでます / ubik0101
もしかして。俺は、お前に、仕事をさせてやってるんだぞー。そんな依頼心の奴隷。という滑稽というか、悲しいというか、哀れというか、そんな担当者に、ぶつかった、のかもしれません。

それは自分の場合は、性格の悪さで対応しました。つまり上司や顧客、もちろん後輩や下請けにも、友人にも、分け隔てなく接するということです。だって、いちいち態度を変えるのって、面倒じゃないですか。

すると、ある人からは、傍若無人。ある人からは、自我の強い人。ある人からは、素直な人。ある人からは、できる人とか。いろいろ思われて、波瀾万丈。ある意味、楽しめます。けど、

イエス・キリストの言うように。たとえば10km歩けと言われたら、その人と一緒に20km歩くのも、いいように思います。その人のために、全力を尽くすんです。実際。「なんとも言えない自分」て、そんなもののようです。

No.1120 - 2008/10/08(Wed) 12:33:03

Re: 悩んでます / peer
取引先に対して
「こうであってほしい」という期待を持っていると
それにそぐわない相手に対して、嫌な感情を持つことがあります。
あの取引先はイイのに、この取引先は、イヤだな。とか。
そう考えると、どんな状況にあっても、問題になるのは
自分の姿勢でもあるかな。と考えます。
こういう場合、きつい状態は、自分を鍛えてくれる。
と思い直したら、頑張れるコトもあるし。

まぁ〜ホントにウザイなら、蹴ってもイイんじゃないでしょうか。
それが、お互いが生長するコトとなる。かも知れないし。
「みなさんだったら」ということなので、発言してみましたが。
余計なヨコヤリだったかも知れません。よろしく。

No.1121 - 2008/10/08(Wed) 13:14:23

Re: 悩んでます / ばん
うびさん、peerさんありがとうございます
心がふっと軽くなりました

なんか、自分に都合つけて物事を受け容れるのが、私はとても下手なのかなと思いました。
怒りを感じるのはよくない事だとか、
こんなにクヨクヨ考える自分は嫌だとか
こんな態度とっちゃ嫌われるかなとか

いろんなことが心の中で渦巻いて嫌になります。
こんな事考えたりしますか?

なんか、私は安心したいという欲求が強いみたいです。
何事にも動じない心になりたいです。

自分がすごい平和な体験をして、あの時みたいな心でいれたらどんなに幸せだろうなと思って、いろいろ調べたりしてそんな気分になったりして、うかれたり、落ち込んだりして、なんか疲れてしまいました。

あーどうしたらいいんでしょう、何から手をつけていいやら

No.1124 - 2008/10/08(Wed) 18:25:55

Re: 悩んでます / peer
どうもーどうも〜
コメ受け取って貰えて、助かりました。

>怒りを感じるのはよくない事だとか、
>こんなにクヨクヨ考える自分は嫌だとか
>こんな態度とっちゃ嫌われるかなとか


んんー。同じようなことは、普通にあることかな
と思いマスよ。
クヨクヨ〜メソメソ〜グチグチで。
「こうであるべきだ」というワクがある。
そのことに気づいていないコトが悲劇を作るだけで。

クヨクヨして落ち込んで、自分はダメだと
結論に至ったら、そこから這い上がればイイ。
修正していくことはできるし、それも学びのひとつ、と。

日々安心して、霞をくって、何事にも動じず。
というのも、ステキかも知れないけど〜
なかなかの大人物に見えるだろうし。
それを想像すると・・・
つまらないな〜面白くないな〜という気もして。
つまって面白い生き方の方へ向かいたいような。

No.1127 - 2008/10/09(Thu) 00:24:55

Re: 悩んでます / ubik0101
>怒りを感じるのはよくない事だとか

まったく怒りを感じても、問題ありません。peerさんも言ってますが、そんな「こうであるべきだ」という意味での「怒りを感じるのはよくない事」は不要です。

たとえ生起しても、すぐに消滅する。その程度のことです。それに、怒りが、なんであるかも、知りません。そして知らないことには、執着が不可能です。

>こんなにクヨクヨ考える自分は嫌だとか

なにかを考えてるってことは、その考えしか知覚できないのではないでしょうか。なにかを考えてる自分は、知覚できるでしょうか。

そして知覚できないから、ない、わけではありませんが。そんな知覚できない。また。なんとも言えない自分、を嫌がることは可能でしょうか。

>こんな態度とっちゃ嫌われるかなとか

そうかどうかは。その相手に確認すればいいのでは、と思います。相手に確認しないことを理由にして、さまざまな空想に巻き込まれるのは、不可と思います。

その場その場で、力を尽くすだけです。それなら、相手に嫌われても、自分に問題があるわけではないことも多々あります。と理解できます。

> あーどうしたらいいんでしょう、何から手をつけていいやら

どれから始めても。あのときと、このときの状態とか形態とか。それは美しく繋がった関係を見せてくれます。それが学ぶことであり、自分を育てることです。始めましょう。自灯明です。

ところで金木犀です。どこかに香りでできた世界があると思わせてくれるような、ほのかな感覚が、街中に漂っています。

その花は、遠目では、ごちゃごちゃな、なんだかわからない固まりに見えます。が、近づいて、よく見ると、なかなか可愛くて素敵です。

No.1133 - 2008/10/10(Fri) 12:52:06
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