何故かまた解らなくなってしまいました 覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど それから離れていっている様な 覚醒、悟りに執着しすぎているのでしょうか
あの体験で感じた本当の私は何ともいえないものだった それで終わりにしていた方がよいのかな
私は考えているような自分でなかった、なんとも言えない自分だった、だから、執着、依存して不安や恐怖にとらわれることなく頭に何が浮かんでも出来る事をする
これが一番、自分は楽なのですがどうでしょう。
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No.1095 - 2008/09/30(Tue) 08:46:47
| ☆ Re: 執着 / ubik0101 | | | うん。この日常こそ、真理です。たとえば禅などは、ばんさんの言うような生き方ををめざして修行することもあるようです。けれど反面。まったく悟ってもないのに、そのようにありたいと、それに自分の、なんでもない愚かな日常生活をあてはめて、たとえば始めも終わりもなく生きてると自分を騙し、迷ってることにも気がつけない人も見かけます。
その両者の行動、発言、思考は、紙一重です。とある立ち位置から見ると、まったく同じということもあり得ます。でも、その息づかいというか、その歌というか、その踊りというか、どうしても違います。と、そんなことを気にするのも、迷ってるなら、その迷いを露わにすることになり得ます。悟ってるなら、その悟りを露わにすることになり得ます。
たとえばイエス・キリストの、仏陀の、誰か賢者の言葉を、また自分の状態を、うまく思考したり検討したり演繹したりできることが、悟ってるわけではありません。できないことが悟ってないわけではありません。そういう思考とか検討とか演繹とかと、その人の悟りとは、まったく関係ありません。
つまり違いは行動、発言、思考ではなく、その人そのこと(変な言い方)です。それで、「だから、執着、依存して不安や恐怖にとらわれることなく頭に何が浮かんでも出来る事をする」。でも。「何故かまた解らなくなってしまいました」。でも。悟った人には、悟りの状態であり、その表現です。おなじことが迷ってる人には、迷いの状態であり、その表現です。ところで
どうでしょう。ばんさんは、悟った人でしょうか、迷ってる人でしょうか。ubik0101は、どっちでもなくあります。ばんさんもそうなのかもしれません。悟りと迷い、どちらにもいるとも言えるし。なにか思考に使われるのじゃなく、使うとも言えるし。そんな使われたり使ったりする主体は、いるとも、いないとも言えるし。悟りと迷いの分離、分別、対立がない、あっても、かまわない。そんなことに依存しない。「なんとも言えない自分」、ただの人とも言えます。言わなくても違うわけでもありません。
>覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど >それから離れていっている様な >覚醒、悟りに執着しすぎているのでしょうか
ここのところは。悟ってる人は、まったく悟りだけなので。その悟りを、とあることとして対象化して思考すると、そのことは、たとえば迷いと比較する可能性がでてしまうので。そのことが分離、分別、対立を生じさせるので。そもそも対象化することが分離なので。つまり、その人は悟りだけ、でなくなるのだ、という理解ができます。
そう理解すれば、「覚醒、悟りなどのことを考えれば考えるほど」考えても、その立ち位置に縛られなくなります。
とういうのも実は、分離、分別、対立だって、悟りを離れることはないのですが・・・不完全もない完全など完全ではないので・・・とある立ち位置から見ると、悟りから離れたように見えるので。一応は。そういう理解が必要なこともある。それも無自覚の叡智の確認になる。ということです。
>あの体験で感じた本当の私は何ともいえないものだった >それで終わりにしていた方がよいのかな
それで。まあ。たとえば終わりにして、あの体験を掴んでしまったり、それを日常で実現しようとしたり。また忘れてしまうという意味で言ってるわけではないと思います。
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No.1096 - 2008/09/30(Tue) 12:01:53 |
| ☆ Re: 執着 / しむじゃ | | | 掲示板を遡って読んでいると、「あの体験」と出てきました。ここにも「あの体験」っておっしゃってます。「あの体験」とはどういう体験ですか?
「それで終わりにしていた方がよいのかな」で終わることはできるのでしょうか?終わるのと「あの体験」は関係があるんですか?
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No.1123 - 2008/10/08(Wed) 17:56:59 |
| ☆ Re: 執着 / hato | | | それは、いわゆる至高体験とか、たぶん光明とか、変性意識とか呼ばれてる体験です。それぞれの人の経緯によって違うのですが、おおくの場合、自分が自分だと思ってた自分・・・自我・・・がないことを実感します。
それを、空っぽとか、無我とか、自分はない、とか表現しています。そのとき自我の仕組みの理解があります。
そして。ほかのどんなことでもない愛を感じます。それに伴い、また自我ではない、自己。そして実在。を実感します。 これも、その人の経緯によって違い、またその表現も違います。それは。ほとんど瞬間的な変化、変容、飛躍、成長だと思います。
>「それで終わりにしていた方がよいのかな」で終わることはできるのでしょうか?終わるのと「あの体験」は関係があるんですか?
それは、ばんさんの表現です。たぶん。あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまうので。そういうことを了解して。自分の変化、変容、飛躍、成長を、意識によらず、無自覚に自覚する。という意味ではないかと思います。
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No.1126 - 2008/10/08(Wed) 23:36:16 |
| ☆ Re: 執着 / しむじゃ | | | hatoさん、ありがとうございます。 hatoさんはubikさんの奥さまなんですね、掲示板を遡って読んでいたら、2人の結婚しますって書き込みがあって、なんだか2人の人柄で出ていて、こっちもすごく幸せな気分になりました。
どうも僕は >あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまう っているようです。『自分が自分だと思ってた自分・・・自我・・・がない』とか『愛』『実在』とか、はっきり自分自身で理解したにもかかわらず、それ以上の理解があるのじゃないか?自分はまだまだじゃないかと納得しない。人の言っているあの体験の話に迷わされてる。
>無自覚に自覚する。 は、納得しないまま納得する、ってことですか?
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No.1129 - 2008/10/09(Thu) 00:52:59 |
| ☆ Re: 執着 / ubik0101 | | | ううん。あの体験と、あの体験で見たことを、正確に理解することが必要と思います。そうしてないことが、迷いとか苦痛として顕れます。その苦痛が、それを理解させる原動力になります。
とりあえず。まず。どのようなことであれ理解するということは、どう機能するのかを、理解することが望ましいでしょう。それは、なにかを得る。というよりも、失うことに似ているのではないでしょうか。
そして理解されたことは。意識にとっては、見えなくなる。意識にとっては失われてしまいます。けど、なくなるわけではない。のではないでしょうか。
それは、なにかを理解していない、つまり自分が理解してないということにも気がついてない無知な有り様と、意識にとっては見かけは変わりませんが、まったく違います。
たとえば。迷いは無知の現れだとして。あの体験によって。それが意識の範疇にない、意識には依存しない、知恵に転換されています。そういうことを了解する機能が、あの体験で実感した、自己にあります。
続きます。
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No.1131 - 2008/10/09(Thu) 12:14:25 |
| ☆ Re: 執着 / ubik0101 | | | それは・・・なにか問題が知覚されるなら、そこから始めて、思考しつくして・・・誤ったり、嘘をついたりする機能がある意識によらず・・・意識の領域にないことを、了解するしかありません。なのに本性が愚かな意識が「あの体験を思考したり表現したりすると、却って迷ってしまう」のではないでしょうか。
そのように。あの体験を自分の対象にして知覚、自覚することを望んで、そのことは分離があるので、迷いだ。と思い過ごしてしまうこともあります。また。あまりに完全を求めて、根ほり葉ほり自分の好ましくない有り様を、探してしまうこともあります。
そうならば。しかし自我や、欲望や、葛藤や、思考、過去、苦しみさえ、不思議な、未知な、世界の機能です。とか。不完全もなければ、完全ではない。とか。知覚、実感に依存しては不可です。とか。その無自覚の知恵を確認する意味での思考が必要なことがあります。また。なにかの、とある問題を検討しないでも、解決されてることもあります。
そして、その自己も、まったく意識にとっては無自覚になります。自己は自己を確認、知覚、自覚する必要がなくなります。そうなら。たとえば。その自己を実感したい・・自分で自分を認識したい・・・そういうことも自我の機能だ。ということも学んでいきます。
たしかに 「それ以上の理解があるのじゃないか?」。そうなのですが。それは忘れても忘れたりすることはないので。とりあえずは、いま知覚される問題を理解していくことが先決と思います。
「人の言っているあの体験の話に迷わされてる」。自分が虚偽の申告をしてることにも気がつかない自然外道もいます。それさえあり得る、この不思議な世界。です。
ところでNo.1126の投稿は、名前hatoの設定保存のまま投稿したもので、実際は、ubik0101の投稿です。
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No.1132 - 2008/10/09(Thu) 13:31:34 |
| ☆ Re: 執着 / hato | | | しむじゃさん、はじめまして。
優しいお気持ちを、ありがとうございます。 お元気でいられるでしょうか。
おくさまー、て感じじゃないんですけど、、(笑)
人生に導かれている、ことは誰しもそのようです。 不思議ですね、そうしたことすべてが。 なんでしょうね。
苦しいとき、 ここでできることをしてみます、 それしか詰まるところ、ないわけですし、
ubik0101さんがお話されたように、自分自身の有り様を書き尽くす、ことは、大変有効かも知れません。 その中で落ち着くものが落ち着き、新たに騒ぎ出すものもあるかもしれませんが、 ふと、理解されている事態を見い出すことも、あるかもしれません。
この間拾ってきた、銀杏の種です。
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No.1140 - 2008/10/13(Mon) 22:33:56 |
| ☆ Re: 執着 / hato | | | そうそう、さっき食事中に、煎った銀杏の実を、 ルンルンがとても気に入って食べてました。
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No.1141 - 2008/10/13(Mon) 23:27:44 |
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