悟ると自他の境界がなくなるというのを聞いたのですが どういうことか解らなくて、解りますか?
|
No.1075 - 2008/09/17(Wed) 16:46:34
| ☆ Re: 自他の境界 / potanpotan | | | 子供の頃、お友達が先生にものすごく誉められていたので、 母に「やまちゃんがね、すごくお勉強を一生懸命やっていてね、お掃除やお当番じゃないときも一生懸命やっていてね、先生がすごく偉いですねって言てたんだよ。」 などと、家で話をすると・・ 「うんうん。ヤマちゃんは偉いんだね。でも朋ちゃんが誉められたわけじゃないでしょ」と必ずゆわれたものでした。 でも、意味がわからなかったんですねー。
うちでは上の子を怒ると、下の子が泣きます。
保育園では一人の子が泣くと、みんなが泣き始めます。
バス停ではだれかのあくびがふわっとうつります。
私を見ていた犬があくびをします。(実話ですよ)
自分が考えるよりも・・世界は溶け合っているし・・ 連動。振動。共鳴しているのじゃないでしょうか。
でも、意識の置き所によって、切り離したり、 ばらばらにしたり、固めたりできるので、溶け合っている感覚に意識が行かなくなるような・・そんな感覚があります。
でも、リラーっクスできたり、相性の良い関係性と出会ったりすると、自他の区別のない感覚を意識したり・・ということは普通にあるのではないでしょうか。
意識が・・そんなリラーっクスした大元に触れると ああ・・自他っていうのは幻想なんだ。 全部が世界で。エネルギーで。自分じゃないものはなくて ・・とか、喜ぶんじゃないでしょうか。
でもでも・・きっと、どこかにあるものじゃなくて・・ 遠くにあるものでもなくて。 意識が届かないだけのような・・そんな感覚を持ちます。
|
No.1076 - 2008/09/17(Wed) 20:24:57 |
| ☆ Re: 自他の境界 / ubik0101 | | | >悟ると自他の境界がなくなるというのを聞いたのですが >どういうことか解らなくて、解りますか?
たとえば山や海や銀河などの物質にしても、鳥を見る聞くなどの感覚にしても、好き嫌いなどの感情にしても、思考などの意識にしても。どんなことも人の構成要素は、自分のもの、こととか、誰のもの、こととか、共有されてるとか、どんな限定されることではないと思います。
でも、それだから、それは自分のもの、こととか、誰かのもの、こととか感じる可能性も含まれてるのでしょう。そのようにして日常生活が、ほかの人と自分の違いを感じたりして、たとえば孤立感、疎外感、その類似なこと、その反対と看做される共感、一体感などに捕われてる・・・それを自我とも呼べますが・・・そんな場合。人の構成要素のフル活動である悟り体験をすると、自他の区別がなく感じることがあるのではないでしょうか。
つまり、どうにでもある物質や感覚や感情や意識など人の構成要素が、それまでは自分のもの、こと、誰かのもの、ことに偏ってて、それがフル活動することによって・・・そうなら自我など消し飛んでしまいますが・・・逆に。自分のもの、ことでもなく、誰のもの、ことでもない有り様に振られて知覚され、その投影として、自他の境界がなくなるとか、世界はひとつ、といった体験をするのだと思います。
でもそれは、その人にとっては事実です・・・ほかの体験をした人には、ほかの体験が事実です・・・それで体験前の、たとえば、なにかを自分のもの、こととか、誰かのもの、こととか感じる日常も。その人は、その知覚、実感に依存してきたわけです。そして体験の、自他の境界がなくなるとか、世界はひとつも、その知覚、実感に依存してる。ことが明らかに見える体験とも言えるでしょう。
そこから、たとえば、そんな体験にも依存しないということなどを。学ぶことの始まりと思います。
|
No.1081 - 2008/09/18(Thu) 10:03:50 |
| ☆ Re: 自他の境界 / ばん | | | ありがとうございます
私が自分は空っぽだと感じたのと愛を感じたという様に 人それぞれの体験の感じ方がだいぶ違うのだなー、そういう風にいわれるとそうだなと思いました
最近、他の人の感じた体験談を見るのが楽しいです
|
No.1082 - 2008/09/18(Thu) 14:17:12 |
| ☆ Re: 自他の境界 / potanpotan | | | ubikiさん・・ああ。なるほど。
>どんなことも人の構成要素は どんな限定されることではない。
人の構成要素のフル活動である悟り つまり、人の構成要素がフル活動することによって・・・自他の境界がなくなるとか、世界はひとつ、といった体験・・
ああ。なるほど。と思いました。 そうなんですね。
人の構成要素は「限定されることではない」 人の構成要素のフル活動・・
意識が勝手に限定しても、流れって不思議なもので。 変化の源泉て不思議なもので。 限定してもしても・・拡張してゆくように働き続けている・・ように見えるのですが・・
きっとこれも・・限定なのでしょうね。 でも・・限定しても・・拡張してゆくんですね・・
|
No.1084 - 2008/09/18(Thu) 21:44:27 |
| ☆ Re: 自他の境界 / ubik0101 | | | どうであれ、意識が見ることができるのは、この世界、つまり物質、感覚、感情、意識の、人の構成要素だけではないでしょうか。 そんな意識は、その範疇にない、たとえば・・・愛、自己、実在・・・を空想、妄想、幻想するしかないのではないでしょうか。
そして意識が空想、妄想、幻想する・・・愛は、欲望の機能として・・・自己は、自我の機能として・・・実在は、信仰の機能の対象としての神として・・・捏造され日常の世界に現れるのではないでしょうか。それに人は、自ら依存するのではないでしょうか。
そんな、自分にも嘘をつく機能がある、もともと縄を蛇と誤る機能がある、あれやこれや、を対象にして自らを確認したい機能がある、根っから愚かな意識に依存する必要はないのではないでしょうか。それは意識の拡張ということではなく、意識によらずに、意識の範疇にないこと、は了解せねばならないのではないでしょうか。
そうでない人の生は、あれやこれや、騒がしく、また平穏な現実であれ、さまざまな出来事を起こるままに知覚するだけであれ、空想であれ、それに依存する意識に、依存してることに気がつかないままに、過ごしてしまう恐れがあります。現実に現実逃避してしまう恐れがあります。
そうでなく了解されるなら、人は日常にあって。愛、自己、実在に、まったく無自覚ではないでしょうか。それは、それを知覚して意識が確認する必要がないからではないでしょうか。それは、それはなにかが知覚されて、ある、とか、ない、とかの範疇にもない、のではないでしょうか。
|
No.1085 - 2008/09/19(Fri) 11:29:25 |
| ☆ Re: 自他の境界 / potanpotan | | | > どうであれ、意識が見ることができるのは、この世界、つまり物質、感覚、感情、意識の、人の構成要素だけではないでしょうか。
そんな意識は、その範疇にない、たとえば・・・愛、自己、実在・・・を空想、妄想、幻想するしかないのではないでしょうか。
◆ なるほど。物質。感覚。感情。意識・・そこに愛が存在しないというふうに感じたことがなかったです。
> そして意識が空想、妄想、幻想する・・・愛は、欲望の機能として・・・自己は、自我の機能として・・・実在は、信仰の機能の対象としての神として・・・捏造され日常の世界に現れるのではないでしょうか。それに人は、自ら依存するのではないでしょうか。
◆ そうですね。でも、意識はよく壊れます。自分で定めてつくっている自分というものや、豊かさの夢や・・人の構成要素で、組上げているものは、けっこう壊れます。 なかなか壊れないように感じても、それはまだ、壊れる流れにないだけで・・よく壊れます。 人の構成要素は・・組上げては、壊れ、組上げては壊れ・・ 「壊れるタイミングにあるもの」と出会うと・・ 私の中の「ロック魂」が沸き起こったり・・ 壊れたあとにあるものと出会うと私の中の「調和魂」や「生の喜び謳歌魂」が反応したりするのがわかります。 > そんな、自分にも嘘をつく機能がある、もともと縄を蛇と誤る機能がある、あれやこれや、を対象にして自らを確認したい機能がある、根っから愚かな意識に依存する必要はないのではないでしょうか。それは意識の拡張ということではなく、意識によらずに、意識の範疇にないこと、は了解せねばならないのではないでしょうか。
なるほど。根っから愚かな意識・・・そうですね。 でも、根底のところかな。 私の中には意識は意識の範疇にないものを「恋しがる」。まさに、恋をする感覚がある気がします。 「なんのために知りたいのか」「なんのために拡張したいのか」それ自体、自我の欲望の・・切り取り。 でも・・本気で。マジのマジの・・命がけの・・ 意識の「意識の範疇を超えたものに対する恋」ともいう感じのものがあります。 あなた(意識の範疇を超えたもの)と一体になるために、私の、意識の範疇(その命、物質、感情、感覚全部。全部)を、私の意識の範疇を超えたところのものに、捧げたい。一体になりたい。衝動と沸いてやまない情熱の源泉。 そんな感覚。 私は・・心の底ではみんなそうなのかと思っていました・・ そこのところはよくわからないのですが・・私の見るところ・・ 割と深い深い深いところではみんなそうな気がします・・がそうでもないのかもしれないし・・いろいろ縁しながら、その源泉を学んでいるところです。
> そうでない人の生は、あれやこれや、騒がしく、また平穏な現実であれ、さまざまな出来事を起こるままに知覚するだけであれ、空想であれ、それに依存する意識に、依存してることに気がつかないままに、過ごしてしまう恐れがあります。現実に現実逃避してしまう恐れがあります。
心の平安。現実の平安。両方。求める感覚はないです。 でも、その、個々の現実であれ、精神であれ・・平安に対する願望と欲求の度合いが個々の「意識の範疇」を定めるでしょうか。恐怖がありますからね。「生きる」ための仕組みになっているので、「生きられなかった」記憶の蓄積がそうさせるのでしょうね。
「生きられない」のは、「意識」の未熟だからだと思います。「恐怖」も「意識」の未熟。
>そうでなく了解されるなら、人は日常にあって。愛、自己、実在に、まったく無自覚ではないでしょうか。それは、それを知覚して意識が確認する必要がないからではないでしょうか。それは、それはなにかが知覚されて、ある、とか、ない、とかの範疇にもない、のではないでしょうか。
●それは・・知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。 でも・・意識からみれば、知覚されなければない。 でも、それは 知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。 でも・・意識からみれば、ない。
「ある」
意識を鍛え上げていく。根っから愚かな意識を鍛え上げて・・生きている状態、意識があるこの状態の中で、鍛え上げていく。
知ったと思うなよ 意識していることがすべてだと思うなよ コントロールしきれるなんて思うなよ 絶望してるんじゃないよ 絶望してるなら、逃避するなよ 逃避するなら、逃避に気がつけよ 傲慢を破壊せよ 幻想に酔って 満足してるなよ 都合よく切り取って、ストーリー作ってんのに気がつけよ 苦しみは空想だろ 直感してるだけだろ、体現してみろ 自分で勝手に自分の枠を定めてんじゃねーよ
: :
そんな私だから・・私の周りに集まる人は・・厳しい人が多いんです。。たぶん無意識に反応しているのですが・・ 私の意識はそういうたくさんの意識に鍛えてもらっています。それに感謝です。 方向性はみんな深いところではきっと一緒。 そんな人たちとの関係は・・ 喜びが沸く。 こみあげる・・心の中心から喜びが沸く。
|
No.1086 - 2008/09/20(Sat) 05:35:42 |
| ☆ Re: 自他の境界 / ubik0101 | | | > ◆ なるほど。物質。感覚。感情。意識・・そこに愛が存在しないというふうに感じたことがなかったです。
それは。ただ愛。どのようなことでもない愛。この世界の誰かが誰かを愛す愛さないといった、憎しみや悲しみや嬉しさに移行したり変化したり、ほかのことと比較したりできない、愛。まったく執着、になり得ないという意味で、限定された主体も対象もない愛。それを感じても感じなくても世界に溢れてる愛。そうと知らず初めて経験しても、それは誰もが愛と呼ぶしかない。そんな愛です。
> ◆ そうですね。でも、意識はよく壊れます。自分で定めてつくっている自分というものや、豊かさの夢や・・人の構成要素で、組上げているものは、けっこう壊れます。 >なかなか壊れないように感じても、それはまだ、壊れる流れにないだけで・・よく壊れます。 >人の構成要素は・・組上げては、壊れ、組上げては壊れ・・ >「壊れるタイミングにあるもの」と出会うと・・ >私の中の「ロック魂」が沸き起こったり・・ >壊れたあとにあるものと出会うと私の中の「調和魂」や「生の喜び謳歌魂」が反応したりするのがわかります。
まったく人の構成要素は・・・もとの仏教の言葉としての意味はともかく・・・不増不減です。たぶん、壊れる、組み上げると感じられるとしたら、個人としての限定された立場から見た、とある個別の、ほかのことと区別されたり比較されたりでき得ると思われる、環境や感覚や感情や概念や観念のことでしょうか。それが壊れると浄化を感じるのでしょうか。
そういう区別されたり比較されたりされる、とある物質や感覚や感情や思考を対象に知覚する狭い範囲でしかありませんが、そんなことをしてる主体を、ある、と感じます。その主体が、ある、とされると、それが、その人の中心として、能動的にまた受動的に、行動したり発言したり思考したりしてると看做されます。それは狭い範囲にいるので、その、たとえば、ほかの人と区別、分離され得る主体を人は、わたし、俺、自分、とか呼ぶようです。それも自我として機能し得ます。
> なるほど。根っから愚かな意識・・・そうですね。 >でも、根底のところかな。 >私の中には意識は意識の範疇にないものを「恋しがる」。まさに、恋をする感覚がある気がします。 >「なんのために知りたいのか」「なんのために拡張したいのか」それ自体、自我の欲望の・・切り取り。 >でも・・本気で。マジのマジの・・命がけの・・ >意識の「意識の範疇を超えたものに対する恋」ともいう感じのものがあります。 >あなた(意識の範疇を超えたもの)と一体になるために、私の、意識の範疇(その命、物質、感情、感覚全部。全部)を、私の意識の範疇を超えたところのものに、捧げたい。一体になりたい。衝動と沸いてやまない情熱の源泉。 >そんな感覚。 >私は・・心の底ではみんなそうなのかと思っていました・・ >そこのところはよくわからないのですが・・私の見るところ・・ >割と深い深い深いところではみんなそうな気がします・・がそうでもないのかもしれないし・・いろいろ縁しながら、その源泉を学んでいるところです。
とても素敵な一休の歌があります。「本来の面目坊が立ち姿 ひとめ見しより恋とこそなれ」。たとえ瞬間でも・・・自我ではなく、本来の面目・・・自己を見たら人は、それに恋をしてしまいます。それは相手が自己でも究極と言える片思いで、日常が超ど級の苦痛です。その苦痛が、自分に起こった悟り体験を理解させる原動力になります。
その悟り体験を理解することで、愚かな意識に教えることで、その片思いは解消され、自分は自分を確認する必要がなくなります。無知から生じる無理解の苦痛から解放されます。その悟り体験を対象にして自分を確認したい、自覚する残響のような自我の機能が必要がなくなるのです。
それで、日常が不思議、日常が未知・・・知らない・・・になります。たとえ自我や、欲望や、葛藤も、苦痛も、恐怖も、それが何だか誰も知りません。ただ知ってると、思うことができるだけです。
>心の平安。現実の平安。両方。求める感覚はないです。 >でも、その、個々の現実であれ、精神であれ・・平安に対する願望と欲求の度合いが個々の「意識の範疇」を定めるでしょうか。恐怖がありますからね。「生きる」ための仕組みになっているので、「生きられなかった」記憶の蓄積がそうさせるのでしょうね。
>「生きられない」のは、「意識」の未熟だからだと思います。「恐怖」も「意識」の未熟。
うーん。脳天気なのでしょう。自分のこと、とくに過去のことが原因で恐怖を感じることはありません。ここのところは罪の燃焼・・・依存関係・・・偏っても偏りようがない中道の理解が効果的と思います。でも。ほかの人などを心配することがあります。
>●それは・・知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。 >でも・・意識からみれば、知覚されなければない。 >でも、それは 知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。 >でも・・意識からみれば、ない。 >「ある」 >意識を鍛え上げていく。根っから愚かな意識を鍛え上げて・・生きている状態、意識があるこの状態の中で、鍛え上げていく。 >知ったと思うなよ >意識していることがすべてだと思うなよ >コントロールしきれるなんて思うなよ >絶望してるんじゃないよ >絶望してるなら、逃避するなよ >逃避するなら、逃避に気がつけよ >傲慢を破壊せよ >幻想に酔って 満足してるなよ >都合よく切り取って、ストーリー作ってんのに気がつけよ >苦しみは空想だろ >直感してるだけだろ、体現してみろ >自分で勝手に自分の枠を定めてんじゃねーよ >: >:
ところでまず、なにかを理解するということは。なにか無知が思考の運動として現れていた。その仕組みの理を解することによって無知が機能する必要がなくなり、そのことによって無知が転換された無自覚の叡智を得るということではないでしょうか。
また意識を鍛えるということは、ただ思考の運動を観察するだけでは届きません。そのような思考する仕組みの、見えない前提を含めた、理を解する必要があります。その、あまりの複雑さのために思考の、正誤の判定基準が渾沌とし、仕組みを理解することを手放して、流れるままになってしまうこともあります。そしたら、なぜそれがそうなのかの理を解する。という機会が現れています。
>そんな私だから・・私の周りに集まる人は・・厳しい人が多いんです。。たぶん無意識に反応しているのですが・・ >私の意識はそういうたくさんの意識に鍛えてもらっています。それに感謝です。 >方向性はみんな深いところではきっと一緒。 >そんな人たちとの関係は・・ >喜びが沸く。 >こみあげる・・心の中心から喜びが沸く。
そして。たとえば悲しさは、ただ悲しさ、嫌な気持ちは、ただ嫌な気持ち、喜びも、ただ喜び。です。そういうことは、なにかの基準にならず。悲しさや、嫌な気持ちや、喜びを、その類似なことや反対のことや無関係なことと比較したりする必要はありません。
また、現実を基準にして、そうだとか、そうでないとか思考する必要はありません。それは、すでに無自覚の叡智に転換されてるのですから、その理由を探る思考も不要です。そうでないなら、やはり無知の自分を知りたい、自分を確認したいという現れかもしれません。
ところで昨日は、いろいろありがとう。とくに10月は、いい季節です。楽しい釣りができると思います。
ubik0101
こんにちは。 きのうは遠くまで来ていただいて、ありがとうございます。 楽しいひととき、でした。
多くの出来事、そこには感受すること、感情、思考の発露、表現があります。 世界であり、それを見る、その視点、 理解されている位相自体を、成熟度ともいえるかもしれません。 刺激的な関係性である世界、出来事、感情にまったく関わりながら、まったく冷めている、 覚めて生である、ことへの了解と徹底如何に、それを見ることができると思います。
それではまた、よい機会に遊びましょうね。
hato
|
No.1087 - 2008/09/21(Sun) 12:31:19 |
|