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(No Subject) / ubik0101
思考の機能

この前、hatoさんと一緒に、栗を拾いながら林を歩いてて、小さな山椒の木を見つけました。よく見ると、たぶん発芽して成長し3、4年くらいたったところで、整備の人に、根本から切られたようです。それが今年の春、その切り株から新芽がでたのでしょう。さっそく素焼きの植木鉢を買って植え替えました。

ところで。たとえば。ほかの人に迷惑をかけてはいけない。と教育する親もいるそうです。それは。ほかの人に自分が、迷惑をかけてることに気がつかなければ・・・ほかの人に迷惑をかけてもいい。と言ってることと同義かもしれません。

また。ほかの人のことに気がつかない無神経な人にも、自分は迷惑をかけられたくない。また、そんな無神経な人でありたくなく、人間関係に神経質になる。かもしれません。

続きます。

No.1097 - 2008/10/03(Fri) 18:12:19

Re: / ubik0101
そして迷惑といっても、なにが迷惑か、人によっても、その時によっても、違うでしょう。自分で理由を自覚できないようにしてることもあるでしょう。また理由があれば、それは変化して、違う理由がまた・・・ということもあるでしょう。そういうことは見極めようとしてもできないので、軋轢や苦痛が起きては、また忘れては 消える。ことを繰り返すこともあるでしょう。

それに、そもそも迷惑って、いったい何なのでしょう。なぜ迷惑が迷惑なんでしょう。それがわからないまま・・・そういう、わけのわからない迷惑を成立、持続させるために・・・始まりも終わりも自覚できない思考が必要なこともあるでしょう。

そのように人は考えることに捕らわれたりします。しかし、考えないことにも、おなじように捕らわれてもいるかもしれません。たとえば。ほかの人に迷惑をかけてはいけない。そんなことを考えない、ということを考えるも。ただ考えてない、つまり実際は、ほかの幾千のことを考えてる。もあるでしょう。

続きます。

No.1098 - 2008/10/03(Fri) 18:15:36

Re: / ubik0101
その、考えないことは、たとえば。ほかの人に迷惑をかけてはいけない。ということを解決してるでしょうか。それを思考しないことによって、傍若無人だったりしても、その類似な有り様の人だったりしても、その反対と見なされる静かな人だったりしても、それとは無関係な人だったりしても、それから解放されてるでしょうか。

たとえば、そういう思考は巧妙に人を迷わすから、それが問題だという思考があります。しかし、それでは常に思考から逃げ続けなければならないかもしれません。

すると思考でないことを探して、現実に現実逃避するしかなくなるかもしれません。それで一生、逃げ続けてることにも気がつかず、解決できない恐れがあります。

また、たとえば。ばんさんと話したように。悟りを対象化して思考することは、悟りと分離があるように見えてしまうこともあります。けど。悟りを対象化して思考しなければ、それで人は悟ってる。わけではありません。なのに対象化して思考しないから、そこに問題を見いだせないから、迷いがあると見なさない、こともあるでしょう。

続きます。

No.1099 - 2008/10/03(Fri) 18:20:52

Re: / ubik0101
あれは、どんぐりの落ちる音よ。そうhatoさんが言います。カツッ。と、夜の闇に聞こえます。すぐ近所にある家のトタン屋根の上に落ちてる、そうです。カツッ。それで朝になって、行ってみました。ありました。けっこう大きい実で、それを保護してる殻斗(かくと )も落ちています。クヌギ、カシワかもしれません。

ところで。そういう思考しない。いわゆる規範、観念、思考の拒否は、どうしても・・・そういう自分の状態を確認するために・・・いわゆる規範、観念、思考を、ほかの人にはあるとして対象化して、いわゆる規範、観念、思考が自分にないこととして執着しつづける傾向があるようです。このように思考することも、思考しないことにも、人は縛られ、倒錯する可能性があります。

それは、たとえば、俺が俺が、という。なにか主張する、拡張したい積極的な、攻める姿勢の自我ではなくて。縮こまっていく、なにか主張しない、消極的な、守る姿勢の自我の機能に捕らわれてる人に・・・それは、ほかの人にはあり自分には自我などないと思われるかもしれませんが・・・わりとよく見られる有り様です。なんにしても、自分を自覚したいことが、自我として現れるようです。

どちらにしても、人が迷ってるのです。思考が迷ってるわけでも、迷わせてるわけでもありません。思考は自ら矛盾にも、自らの範疇にないことにも、気がつくことだってできるのです。 思考は巧妙に人を騙す、というより、人の巧妙な迷いのあり方を理解できる。とも言えます。

たぶん、魚釣りの後に、続きます。

No.1101 - 2008/10/04(Sat) 08:35:44

Re: / peer
人に迷惑をかけてはいけない。ついうのは自分のエゴで、人を振り回してはいけない。ってことじゃないでしょうか。
なにがエゴか、エゴじゃないかは、判定しやすいでしょう。
「迷惑といっても、なにが迷惑か、人によっても、その時によっても、違うでしょう。」という思考の判断に迷うことも、なく。

No.1102 - 2008/10/05(Sun) 02:18:17

Re: / ubik0101
まあね。ほかの人を振り回す、攻める騒がしい自我は。それが起動しなければ、自我と認定できないから無問題。ではないでしょう。とか。ほかの人を振り回さない、逃げる静かな自我もあって。とか。そんなこと考えても、考えなくても解決しないけど。どうすればいいだろう。とか。

ほかの人の自我に振り回されたくない、っていう自我にも巻き込まれない日常。とか。なかなか、世界は人を鍛えるために、巧妙にできてる。って感じです。

ところで、hatoさんと一緒に、江ノ島の裏磯に行って来ました。とにかく魚は、なんでも食べてみようという作戦で、3時間くらい釣りをしました。

やはりシマダイは刺身も塩焼きも上品で緻密、メジナの刺身は食感が独特で絶品。ほとんど食べられることのないネンブツダイも、骨は硬いものの、唐揚げで香ばしくいただけました。

No.1103 - 2008/10/05(Sun) 11:22:52

わぉー / peer
大漁〜でしたね。
食べるのが・・・もったいない。ような。

はいな。巧妙ですね。
まぁ。しかし。
エゴっていうのは、生命エネルギーですから。
転換していくことで、、
ものすごい活力になるし〜大事なモンです。

No.1108 - 2008/10/06(Mon) 00:24:13

Re: / hato
そうですね。ただ自我や欲望や無知を、肯定したり、否定したり、無関心だったりすることは、せっかくの転換の可能性を自ら摘んでしまうことになります。

そんなことをしても、まあ、また我が儘な生活を実現できる。また自我や欲望や無知を、ほかの人や自分に隠すことができる。などと思い違いするだけで。どうしても、それに満足も、それを撲滅もできないんです。 それほど「大事なモン」です。

そんなことに気がつかないことも、また・・・そういうことを自分で掘り返すなら自分を鍛えるのですが・・・逃げたり埋没してるだけなら、自我や欲望や無知を十分に使ってない、それに使われて気がつかない、そんな有り様とも言えそうです。

ところで今日は、hatoさんに。昨日、スーパーで半額で買った。なめたカレイの甘辛煮付け弁当を作りました。そういうの、けっこう楽しいんです。

No.1109 - 2008/10/06(Mon) 10:02:23

Re: / peer
ほーほー。
おいしそう〜ですね。
思いマスに。私生活をバカにするものは、
私生活の逆襲を受けます♪
こういうコトが、大事だなっと思いマス。

たとえば、ちょっと悟りの境地なんかに遊ぶと
とたんにノボセ上がるというか・・・。
これも逃げるのと同じなんですね。
対極にいるから、気がつかない。ワケで。

No.1110 - 2008/10/06(Mon) 10:52:58

Re: / ubik0101

それは、いろんな経緯があると感じます。たぶん。その悟り体験前に、たとえば自発的な否定の道を歩いて、どうしようもなく、なにもないほど素直になる。そんな経緯がなかったので。そういうことが、体験後に学ぶ必要のあることとして現れてくる場合があります。

たとえば。悟ると人として完成するので、さらに学ぶ必要はない、などと。そういう思いこみとして、傲慢が理解されるために現れたのに。そういうはずはないと思いたくて却って、そのことに縛られたりもすることもありそうです。

また自分の無我を確認するために、根ほり葉ほり、ほかの人にさえ、自我を見つけだそうとして・・・そんなことは空想に依存してるのに・・・それが却って、自我として機能することもありそうです。そうでなく。ほかの人が自分の自我を投影して見てるだけ、ということもあります。

ところで、ドングリを煎ったのを、真露という焼酎に漬けてみました。苦い酒ができるのかもしれません。かもしれません(残響)。

No.1111 - 2008/10/06(Mon) 16:47:13

Re: / hato

我々には苦いのですが、、

ルンルンには、ちょっと、粋なおつまみて感じです。
ルンルン、けっこう、辛苦渋おっけー。

にこにこルンルンのお食事。

お酒はー。
ほどほどに、いきま、しょう。まる。(^^)

No.1112 - 2008/10/06(Mon) 21:20:50

Re: / peer
4つの智が人に顕現して、目覚める。
その時にも、とりあえずの自分はある。
この自分は、使命を生きる人となる。
自分の為に自分を使うコトから離れて。
自己関心が続くのは、悟りからは遠いかな〜と。
そんな気がします。

どんぐりのお酒ですか。
どんな味がするのかなぁ。

No.1113 - 2008/10/07(Tue) 09:50:54

Re: / ubik0101
うーん。あと数ヶ月は放置しておきましょう。なのですが、peerさんに聞かれて、ドングリ漬け焼酎、スプーン一杯だけ嘗めてみました。なんかカンパリのような味です。なかなか、よし、です。

ところで、ますます不思議なpeerさんです。4つの智?、使命?、なんか怪しい空想をしてしまいます。なんのことかなー。今日はhatoさんに、ちょい豪華そうな、からし明太子弁当をつくりました。

No.1114 - 2008/10/07(Tue) 12:15:18

Re: / peer
カンパリのような味・・なのですね。
なかなか、よし。と。
うん、味が創造できました。

ほーー。これも〜なるほど
男の料理という。わかります(^^)

よっつの智が発動したから、たとえば
なにごとも無問題と、分かるワケでしよ。
好きも嫌いも、善いもワルイも、
どうでもいいことになってる。でしょ。

そして〜使命っていうのは、ウルトラマンになる
ことじゃないのです。
妖しい想像は。。大外れ〜♪

No.1119 - 2008/10/08(Wed) 01:37:35

Re: / ubik0101
もしかしてー。
あの秘密の花園の、
迷いの森から
南に7 東に3の、命の泉の、
女神から、なんでも映る
透明な鏡をもらったのでしょうか。

そ、それなら大変です。
それは、ばるたん星人の陰謀です。
この際です。
peerさんも、
さわらの西京焼き弁当を
作らねばなりません。なりません(残響)。
えいっ。

No.1122 - 2008/10/08(Wed) 13:32:38

Re: / hato

うーと、
とてーも、おいしかった、です。
ちょっと見た目お魚がー、生々しー、ですけどー。
柔らかく焼けてました。まる。

No.1125 - 2008/10/08(Wed) 22:45:26

Re: / peer
あっっ。大発見。

オカズのメインはひとつ。だけど。
付き添っているサブは、ふたつづつ。
ニンジンふたつ。ウズラもふたつ♪

女神様から貰った鏡は
どうも、まだ透明ともいえず。
つまりは、、、研いて使え。
ということらしい。

No.1128 - 2008/10/09(Thu) 00:31:55

Re: / ubik0101
そ、そんな鏡など、ないのじゃ。とか。なんとか。禅の神州と慧能の話を思い起こします。ま。ない鏡を研くのも一興かもしれません。しかーし。その埃さえ・・・それを知らない・・・神秘なのじゃ。

ところで山椒は一本あるなら、もっとあるかもしれないと思って探してみました。で、すぐ近くに、山椒としては大きい木が、見つかりました。今日は、それで、鯛の塩焼き弁当にしました。

No.1130 - 2008/10/09(Thu) 09:45:00
夜ですねぇ / 大阪
自己愛、というものについて考えていて。


無知な意識は、胸の愛が自分に向いている、と思わせようとしている。

その解放、胸の愛が本当に向きたい所へ向く時、人はやっと自分の胸の愛に気づくのではないか、と思いました。

No.1104 - 2008/10/05(Sun) 18:48:07

Re: 夜ですねぇ / ubik0101
どんぐり、たくさん拾ってきました。たぶん3種類はありそうです。それをルンルンが嬉しそうに囓っています。じゃ。自分も食べてみよう、ということで、囓ってみました。苦いんです。それでネットで検索して、フライパンで煎ってみました。うーん。食べられないことはないけど、苦いものは、やっぱり苦い、のでした。

それはともかく。大阪さんは、あの愛を実感する前から、なんとなく、リークのようにそれを感じてて、それが愛されたい気持ちとして現れてたのかな、って思いました。自分は、執着とか欲望が、あの愛の代用品として機能してると思いました。

No.1105 - 2008/10/05(Sun) 22:02:52

Re: 夜ですねぇ / hato

雨あがりの朝に、微かに香る、金木犀。
仕事帰りの夕暮れにも、
初秋が染みわたる芳醇な香りです。
秋の夜長は、ゆっくり物事に取り組めるようです。

夏から秋へ、移りゆくその朝に、
ひっそり咲いている、つゆ草。
ふとしたことから、ひとつ手折りました。

今、ガラスの器のなかで、小さな白い根が生えています。

No.1106 - 2008/10/05(Sun) 22:05:49

Re: 夜ですねぇ / hato

こんなとき、嬉しそうな、ルンルンです。

No.1107 - 2008/10/05(Sun) 22:13:11

Re: 夜ですねぇ / 大阪
ルンルン、本当においしそうに食べていますね。



それも、愛されたいという気持ちがある、理由の一つかもしれません。

でもやはり、甘やかされて育った、とか、そんな理由のほうが大きいです。自分は努力しないでも、与えられて、幸せに生きていける、と思い違えているぞ、と思ったりします。

たとえそれが実現しても、(というかそんなものは本当は幸福ではなく)もっと幸せなことがあるだろう、と言い聞かせたりしています。

No.1115 - 2008/10/07(Tue) 14:24:13

Re: 夜ですねぇ / hato
> ルンルン、本当においしそうに食べていますね。

そうでしょ?
かわいんです。

育て方、育ち方の仔細に拘わらず、おそらくは、
人の資質というものは、自分で掘り起こしていくことが基本なのかもしれません。

また、育み合うことは必ず、一方的ではないと思います。
育てる側、育てられる側。ある意味ではその通りでも、
一方的な見方、関係性に固執するなら、それは傲慢かもしれません。
徒然に、思いました。

今日は、大学の構内の、大きな銀杏の木の下で、
銀杏拾いをしました。
なんか、仕事は忙しかったんですけど、
お昼休みに資料室の人と、一緒に。
どうやって、食べるんだろ、ubik0101さんはうれしいかな、
なんて思って、ちょっと、楽しかったです。

うーと、ubik弁当。とてもー、おいしいです。
ごーか、てゆーか、デザイン性としては男の料理って感じですけど、
味は、優しくとても繊細です。

No.1117 - 2008/10/07(Tue) 21:57:05

Re: 夜ですねぇ / ubik0101
そういえば誰かが「どうして幸せは空想的で、不幸せは現実的なのでしょう」。なんて言ってました。どういう幸せか判りませんが、いま、ない幸せを求めると、ここ、が不幸せに感じることもありそうです。また。いま不幸せだから、幸せを求めるのでしょうか。

とくに自分は。幸せになろうとしたことがありません。だから不幸もない。ってわけじゃなくって。幸せ、不幸せは、気になりません。なにかの状況や出来事を、幸せ、不幸せとか判断しないのだと思います。

うーん。たとえば感覚で言えば快・不快。感情で言えば好き・嫌い。その片方を重視するわけでも、望むわけでも、嫌うわけでもありません。そういう快・不快などは知覚されるだけです。きっと、なにかと比較することがないのだと思います。金木犀です。

No.1118 - 2008/10/07(Tue) 23:13:38
覚醒のあと / しむじゃ
はじめまして。

「この世界は人を覚醒させるための触媒です。」
であるなら、覚醒したあと、この世界はどうなるのですか?
この世界の苦は、覚醒によって救われますか?

No.1088 - 2008/09/22(Mon) 11:13:48

Re: 覚醒のあと / ubik0101
はじめまして。

たしかに世界は、人を成長させますが、触媒で。それ自体は、なんの変化もしません。その触媒によって変化するのは、人、という意味です。たとえば自我や欲望の機能は、世界の機能で、触媒で。それによって成長するのは人、という意味です。

そして人にとっての世界は、どのような、このような規定、限定される、記述される、もの、こと。ではないでしょう。つまり、たとえば知る知らないとかの限定された意味で、知られ得ることなら、それは方向性があり、枠があり、触媒として機能し得ないのではないでしょうか。

たとえば成長ということだけに限定された方向性、枠さえない、それゆえそれに関係なく関係なくもなく、成長ができるのではないでしょうか。そんな世界は、人にとって、知ってるというそのことも何であるか知らない。のではないでしょうか。

そのように知られ得ないから、触媒として機能することが可能になってるのではないでしょうか。「であるなら、覚醒したあと、この世界はどうなるのですか?」。どんな世界観が変化しても、変化したのは世界ではなく、人ではないでしょうか。 ところで、

この世界が苦。ということは、どのようなことでしょう。もしかして。たとえば身体の病気とか、なにかが自分の思い通りにならないとか、について苦を感じるのでしょうか。

そうでなく日常の総てが、たとえば健康な身体、自分の思い通りになる楽も含めて。苦ということなのでしょうか。苦、楽、どちらにしても欲望や自我の機能で、それは苦という意味なのでしょうか。

そうならば。人はどんなことも、できることはできるように世界ができてるからできるだけ・・・絶対不自由と呼んでいますが・・・それが覚醒によって、逆転します。人が世界の主、になります。

この世界に拠り所を持つ必要がなくなります。そして。その主は無自覚・・・自覚あれば自我・・・です。しかしそれさえ世界の機能です。人が迷うのも覚醒するもの世界の機能です。

ところで世界とは、物質、感覚器感、感覚、感情、意識です。それは人の構成要素です。つまり世界と人、触媒と変化する人、これは不可分です。しかし、

その人の構成要素の範疇にない、愛、自己、実在。まずは、これを自覚する体験を覚醒と呼んでいます。

No.1089 - 2008/09/22(Mon) 13:12:59

Re: 覚醒のあと / しむじゃ
ありがとうございます。

迷いです。人生をどう生きればいいのか、いろんな人がいろんな事をいいます。迷って、それが苦しいです。「日常の総てが苦」に観念的には行き着くけど、苦しいことは苦しいし、楽な事はやっぱり楽です。楽と苦があるから迷うのですか?だから覚醒を求めますが、やっぱりそれも苦しいです。

No.1090 - 2008/09/23(Tue) 12:19:32

Re: 覚醒のあと / ubik0101
まったく、 ほかの人の言うことを気にする必要は、ありません。たとえば。「わたしは、ない」、というのも真理です。そして「わたしは、ある」。これも真理です。たとえば。楽や苦と同一化することは迷い、というのも真実です。楽や苦と同一化するのが悟りだ、というのも真実です。

そういう表現に迷わされてはなりません。それは、とある立ち位置から見える、とある範疇の表現です。そして、そういう構造については不問にされているのが普通です。それにしても。たとえば、ない、と、ある。同一化、非同一化。それは何なのか?それがなぜ、そうなのか?誰が知ってるというのでしょう。

また、覚醒を求めない時、それは訪れる。などど、言う人もいるようです。そんな程度でも、覚醒は訪れるのでしょうか。また。ただ苦しさから逃れるという動機、目的で、求めて得られるとしても、それは覚醒でしょうか。それでも動機、目的と、結果の直接の関係は、あるとは言えないかもしれません。

そういうことを含めて。しむじゃさんが。何かを見る、思考する。なんの基準も拠り所も立ち位置も見いだせず、渾沌としてることに気がついてしまった状態なのかもしれません。たしかに。なにか現実の出来事も、なんの見る、思考する、の基準になりません。また見ない、思考してない。それはどうなってるのか?そういうことも視野にあるのかもしれません。

ところで実践です。「迷いです」。なら、どう迷ってる?「いろんな人がいろんなことをいう」からでしょうか。どういう意味で理由で、それが自分の迷いになる?のでしょう。それが、 なぜ苦しいのでしょう?苦は、なぜ苦なのでしょう?楽は、なぜ楽なのでしょう? 「日常の総てが苦」に「観念的に行き着く」なら、どうしてそう思うのでしょう?「観念的に行き着く」とは、どういう意味なのでしょう?隠すことなく、どんな恥ずかしいことも洗いざらい、正確に書き出し尽くすことをお薦めします。

また「楽と苦があるから迷うのですか?」。この疑問。苦と楽があるから迷いがあるのではなく、迷うから苦と楽が迷いとして認知されるのかもしれません。

ここで。苦と楽がなければ迷ってないとか、迷ってなければ苦と楽がないとか、決めつける意味で、とある立ち位置を不覚にも認めてしまうことになる、思考をしてはなりません。思考するなら、思考し尽くしましょう。

どの思考の立ち位置も基準にならないほど、思考し尽くすことをお薦めします。どうであれ、「楽と苦があるから迷うのですか?」それが真摯な疑問なら、それが手掛かり、突破口になるでしょう。

とりあえず、そのようにしてると、そうしてる、その自分の有り様の、前提とか、見逃していた微妙なことが見えてくるでしょう。 そして、そのような見る、思考の運動は、取り替え可能な、人を鍛えるための負荷というだけ・・・触媒・・・などということも、とある立ち位置からは明確に見える・・・ことに気がついたりするかもしれません。

その、自分を、ただ、その自分の有り様を正確に理解すればいいのです。逆に言えば人は、ほかの人のことや、世界の状態などまで視野にいれる必要はありません。その自分の疑問を解決すればいいのです。ほかの人の意見など度外視して、という意見さえ聞く必要はなく、自分の有り様を理解するのです。

そして。どんなことも。たとえば自分の立ち位置、基準さえ見出せない混沌さえ、迷いさえ、その自分のためにあるのです。そうでなく自分が、たとえば渾沌、迷いのためにある・・・それを倒錯と呼んでいますが・・・問題はそれだけとも言えます。それを解決する、「わたしは、ある」。「わたしは、ない」。また、ほかのどんなこともオーケーです。

なぜか知りませんが、どうも、ほかの人のことはどうであれ、自分のことは自分で解決する。逆に言えば、この自分のことを解決すればいい。みんな人が、そうするだけで充分、世界の苦は解決です。というのは、基本的なルールのようです。

●ここ2,3日は、ネットに繋げることが、できません。それで返信いただければ、その後、週末にも返信します。

No.1091 - 2008/09/24(Wed) 10:13:38

Re: 覚醒のあと / しむじゃ
とにかく「思考し尽くすこと」だと頭では痛感していますが、「思考し尽くす」というところには至りません。苦しさがあるからなのか、「思考し尽く」したと感じるところを自分で作ってしまうのです。いくつかの思考の立ち位置を越した段階で、勝手に解決する位置に逃げるというか、最後まで苦しめないというか、結局、それも「ある立ち位置」でしかないと、あとになって気付くのです。
No.1093 - 2008/09/28(Sun) 10:47:39

Re: 覚醒のあと / ubik0101
とにかく「思考し尽くすこと」ですが、その逆。なにかの思考を持続させて、そうしている自らを自覚、実感したいという、意識の性質、その罠に捕らわれることもあります。それは。思考では解決できないことを、思考対象にして、さまざま検討することで、その思考が自己保存を図る機能です。

たとえば嫉妬。その仕組みを細部まで見ようとして検討するのですが、その決定的な姿を見ることは不可能です。それでもなお見ようとする、そのことが、その検討する思考を持続させてしまう、そんな迷いもあります。そのために、すでに自分には機能してなくても嫉妬も思考にとっては、なければ困ります。どこか自分の無意識とか、ほかの人にあると捏造することもあるかもしれません。

これは愛、自己、実在についても。また苦と楽、善と悪、迷いと悟り、などの対立(分裂)概念・・・そんな無理に捏造された世界観・・・についても。そういうことは起こり得るでしょう。この意味では、ほとんどの思考は、思考では理解しきれないことを対象にしてるのかもしれません。それで、なにかに迷う、その迷う思考の運動も、その人を鍛える取り替え可能な負荷なだけ、として機能するのではないでしょうか。(それで飛躍、変容、生長には、その人なりの経緯を要するのかもしれません) 。

でなくては、なにかの思考・・・感覚、感情にしても・・・を知覚することによって生じる立ち位置。また、なにかの立ち位置から見える思考などに依存、執着したり、それから解放されたりすることは不可能なのかもしれません。

それで、そんな完全には思考の理解の届きもしないことを、あれこれ検討する運動を持続することによって、自らを自覚、実感したい意識の性質に気が付けば、それを見切って、それから離れるということもできるのではないでしょうか。そういう了解は、飛躍、変容、生長した人には困難ではないと思います。

それで、なにかを。まったく十全に感覚、感情、思考して・・・そのことにも、そんな立ち位置にも・・・それに依存しない、というよりできない・・・なにか感覚、感情、思考との同一化は、非同一化・・・その主体は無自覚、ではないでしょうか。

No.1094 - 2008/09/28(Sun) 19:00:41
復帰しました。 / ubik0101
プロバイダ−などの変更により、メールアドレスが変更になりました。

kakuseiあっとまーくnexyzbb.ne.jp

です。お手数ですが、あっとまーくの部分を@に入れ替えて連絡ください。

No.1092 - 2008/09/26(Fri) 13:39:16
自他の境界 / ばん
悟ると自他の境界がなくなるというのを聞いたのですが
どういうことか解らなくて、解りますか?

No.1075 - 2008/09/17(Wed) 16:46:34

Re: 自他の境界 / potanpotan
子供の頃、お友達が先生にものすごく誉められていたので、
母に「やまちゃんがね、すごくお勉強を一生懸命やっていてね、お掃除やお当番じゃないときも一生懸命やっていてね、先生がすごく偉いですねって言てたんだよ。」
などと、家で話をすると・・
「うんうん。ヤマちゃんは偉いんだね。でも朋ちゃんが誉められたわけじゃないでしょ」と必ずゆわれたものでした。
でも、意味がわからなかったんですねー。

うちでは上の子を怒ると、下の子が泣きます。

保育園では一人の子が泣くと、みんなが泣き始めます。

バス停ではだれかのあくびがふわっとうつります。

私を見ていた犬があくびをします。(実話ですよ)

自分が考えるよりも・・世界は溶け合っているし・・
連動。振動。共鳴しているのじゃないでしょうか。

でも、意識の置き所によって、切り離したり、
ばらばらにしたり、固めたりできるので、溶け合っている感覚に意識が行かなくなるような・・そんな感覚があります。

でも、リラーっクスできたり、相性の良い関係性と出会ったりすると、自他の区別のない感覚を意識したり・・ということは普通にあるのではないでしょうか。

意識が・・そんなリラーっクスした大元に触れると
ああ・・自他っていうのは幻想なんだ。
全部が世界で。エネルギーで。自分じゃないものはなくて
・・とか、喜ぶんじゃないでしょうか。

でもでも・・きっと、どこかにあるものじゃなくて・・
遠くにあるものでもなくて。
意識が届かないだけのような・・そんな感覚を持ちます。

No.1076 - 2008/09/17(Wed) 20:24:57

Re: 自他の境界 / ubik0101
>悟ると自他の境界がなくなるというのを聞いたのですが
>どういうことか解らなくて、解りますか?


たとえば山や海や銀河などの物質にしても、鳥を見る聞くなどの感覚にしても、好き嫌いなどの感情にしても、思考などの意識にしても。どんなことも人の構成要素は、自分のもの、こととか、誰のもの、こととか、共有されてるとか、どんな限定されることではないと思います。

でも、それだから、それは自分のもの、こととか、誰かのもの、こととか感じる可能性も含まれてるのでしょう。そのようにして日常生活が、ほかの人と自分の違いを感じたりして、たとえば孤立感、疎外感、その類似なこと、その反対と看做される共感、一体感などに捕われてる・・・それを自我とも呼べますが・・・そんな場合。人の構成要素のフル活動である悟り体験をすると、自他の区別がなく感じることがあるのではないでしょうか。

つまり、どうにでもある物質や感覚や感情や意識など人の構成要素が、それまでは自分のもの、こと、誰かのもの、ことに偏ってて、それがフル活動することによって・・・そうなら自我など消し飛んでしまいますが・・・逆に。自分のもの、ことでもなく、誰のもの、ことでもない有り様に振られて知覚され、その投影として、自他の境界がなくなるとか、世界はひとつ、といった体験をするのだと思います。

でもそれは、その人にとっては事実です・・・ほかの体験をした人には、ほかの体験が事実です・・・それで体験前の、たとえば、なにかを自分のもの、こととか、誰かのもの、こととか感じる日常も。その人は、その知覚、実感に依存してきたわけです。そして体験の、自他の境界がなくなるとか、世界はひとつも、その知覚、実感に依存してる。ことが明らかに見える体験とも言えるでしょう。

そこから、たとえば、そんな体験にも依存しないということなどを。学ぶことの始まりと思います。

No.1081 - 2008/09/18(Thu) 10:03:50

Re: 自他の境界 / ばん
ありがとうございます

私が自分は空っぽだと感じたのと愛を感じたという様に
人それぞれの体験の感じ方がだいぶ違うのだなー、そういう風にいわれるとそうだなと思いました

最近、他の人の感じた体験談を見るのが楽しいです

No.1082 - 2008/09/18(Thu) 14:17:12

Re: 自他の境界 / potanpotan
ubikiさん・・ああ。なるほど。


>どんなことも人の構成要素は どんな限定されることではない。

人の構成要素のフル活動である悟り
つまり、人の構成要素がフル活動することによって・・・自他の境界がなくなるとか、世界はひとつ、といった体験・・

ああ。なるほど。と思いました。
そうなんですね。

人の構成要素は「限定されることではない」
人の構成要素のフル活動・・

意識が勝手に限定しても、流れって不思議なもので。
変化の源泉て不思議なもので。
限定してもしても・・拡張してゆくように働き続けている・・ように見えるのですが・・

きっとこれも・・限定なのでしょうね。
でも・・限定しても・・拡張してゆくんですね・・

No.1084 - 2008/09/18(Thu) 21:44:27

Re: 自他の境界 / ubik0101
どうであれ、意識が見ることができるのは、この世界、つまり物質、感覚、感情、意識の、人の構成要素だけではないでしょうか。 そんな意識は、その範疇にない、たとえば・・・愛、自己、実在・・・を空想、妄想、幻想するしかないのではないでしょうか。

そして意識が空想、妄想、幻想する・・・愛は、欲望の機能として・・・自己は、自我の機能として・・・実在は、信仰の機能の対象としての神として・・・捏造され日常の世界に現れるのではないでしょうか。それに人は、自ら依存するのではないでしょうか。

そんな、自分にも嘘をつく機能がある、もともと縄を蛇と誤る機能がある、あれやこれや、を対象にして自らを確認したい機能がある、根っから愚かな意識に依存する必要はないのではないでしょうか。それは意識の拡張ということではなく、意識によらずに、意識の範疇にないこと、は了解せねばならないのではないでしょうか。

そうでない人の生は、あれやこれや、騒がしく、また平穏な現実であれ、さまざまな出来事を起こるままに知覚するだけであれ、空想であれ、それに依存する意識に、依存してることに気がつかないままに、過ごしてしまう恐れがあります。現実に現実逃避してしまう恐れがあります。

そうでなく了解されるなら、人は日常にあって。愛、自己、実在に、まったく無自覚ではないでしょうか。それは、それを知覚して意識が確認する必要がないからではないでしょうか。それは、それはなにかが知覚されて、ある、とか、ない、とかの範疇にもない、のではないでしょうか。

No.1085 - 2008/09/19(Fri) 11:29:25

Re: 自他の境界 / potanpotan
> どうであれ、意識が見ることができるのは、この世界、つまり物質、感覚、感情、意識の、人の構成要素だけではないでしょうか。

そんな意識は、その範疇にない、たとえば・・・愛、自己、実在・・・を空想、妄想、幻想するしかないのではないでしょうか。


◆ なるほど。物質。感覚。感情。意識・・そこに愛が存在しないというふうに感じたことがなかったです。


> そして意識が空想、妄想、幻想する・・・愛は、欲望の機能として・・・自己は、自我の機能として・・・実在は、信仰の機能の対象としての神として・・・捏造され日常の世界に現れるのではないでしょうか。それに人は、自ら依存するのではないでしょうか。

◆ そうですね。でも、意識はよく壊れます。自分で定めてつくっている自分というものや、豊かさの夢や・・人の構成要素で、組上げているものは、けっこう壊れます。
なかなか壊れないように感じても、それはまだ、壊れる流れにないだけで・・よく壊れます。
人の構成要素は・・組上げては、壊れ、組上げては壊れ・・
「壊れるタイミングにあるもの」と出会うと・・
私の中の「ロック魂」が沸き起こったり・・
壊れたあとにあるものと出会うと私の中の「調和魂」や「生の喜び謳歌魂」が反応したりするのがわかります。

> そんな、自分にも嘘をつく機能がある、もともと縄を蛇と誤る機能がある、あれやこれや、を対象にして自らを確認したい機能がある、根っから愚かな意識に依存する必要はないのではないでしょうか。それは意識の拡張ということではなく、意識によらずに、意識の範疇にないこと、は了解せねばならないのではないでしょうか。

なるほど。根っから愚かな意識・・・そうですね。
でも、根底のところかな。
私の中には意識は意識の範疇にないものを「恋しがる」。まさに、恋をする感覚がある気がします。
「なんのために知りたいのか」「なんのために拡張したいのか」それ自体、自我の欲望の・・切り取り。
でも・・本気で。マジのマジの・・命がけの・・
意識の「意識の範疇を超えたものに対する恋」ともいう感じのものがあります。
あなた(意識の範疇を超えたもの)と一体になるために、私の、意識の範疇(その命、物質、感情、感覚全部。全部)を、私の意識の範疇を超えたところのものに、捧げたい。一体になりたい。衝動と沸いてやまない情熱の源泉。
そんな感覚。
私は・・心の底ではみんなそうなのかと思っていました・・
そこのところはよくわからないのですが・・私の見るところ・・
割と深い深い深いところではみんなそうな気がします・・がそうでもないのかもしれないし・・いろいろ縁しながら、その源泉を学んでいるところです。

> そうでない人の生は、あれやこれや、騒がしく、また平穏な現実であれ、さまざまな出来事を起こるままに知覚するだけであれ、空想であれ、それに依存する意識に、依存してることに気がつかないままに、過ごしてしまう恐れがあります。現実に現実逃避してしまう恐れがあります。

心の平安。現実の平安。両方。求める感覚はないです。
でも、その、個々の現実であれ、精神であれ・・平安に対する願望と欲求の度合いが個々の「意識の範疇」を定めるでしょうか。恐怖がありますからね。「生きる」ための仕組みになっているので、「生きられなかった」記憶の蓄積がそうさせるのでしょうね。

「生きられない」のは、「意識」の未熟だからだと思います。「恐怖」も「意識」の未熟。


>そうでなく了解されるなら、人は日常にあって。愛、自己、実在に、まったく無自覚ではないでしょうか。それは、それを知覚して意識が確認する必要がないからではないでしょうか。それは、それはなにかが知覚されて、ある、とか、ない、とかの範疇にもない、のではないでしょうか。

●それは・・知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。
でも・・意識からみれば、知覚されなければない。
でも、それは 知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。
でも・・意識からみれば、ない。

「ある」 

意識を鍛え上げていく。根っから愚かな意識を鍛え上げて・・生きている状態、意識があるこの状態の中で、鍛え上げていく。

知ったと思うなよ
意識していることがすべてだと思うなよ
コントロールしきれるなんて思うなよ
絶望してるんじゃないよ
絶望してるなら、逃避するなよ
逃避するなら、逃避に気がつけよ
傲慢を破壊せよ
幻想に酔って 満足してるなよ
都合よく切り取って、ストーリー作ってんのに気がつけよ
苦しみは空想だろ
直感してるだけだろ、体現してみろ
自分で勝手に自分の枠を定めてんじゃねーよ




そんな私だから・・私の周りに集まる人は・・厳しい人が多いんです。。たぶん無意識に反応しているのですが・・
私の意識はそういうたくさんの意識に鍛えてもらっています。それに感謝です。
方向性はみんな深いところではきっと一緒。
そんな人たちとの関係は・・
喜びが沸く。
こみあげる・・心の中心から喜びが沸く。

No.1086 - 2008/09/20(Sat) 05:35:42

Re: 自他の境界 / ubik0101
> ◆ なるほど。物質。感覚。感情。意識・・そこに愛が存在しないというふうに感じたことがなかったです。

それは。ただ愛。どのようなことでもない愛。この世界の誰かが誰かを愛す愛さないといった、憎しみや悲しみや嬉しさに移行したり変化したり、ほかのことと比較したりできない、愛。まったく執着、になり得ないという意味で、限定された主体も対象もない愛。それを感じても感じなくても世界に溢れてる愛。そうと知らず初めて経験しても、それは誰もが愛と呼ぶしかない。そんな愛です。

> ◆ そうですね。でも、意識はよく壊れます。自分で定めてつくっている自分というものや、豊かさの夢や・・人の構成要素で、組上げているものは、けっこう壊れます。
>なかなか壊れないように感じても、それはまだ、壊れる流れにないだけで・・よく壊れます。
>人の構成要素は・・組上げては、壊れ、組上げては壊れ・・
>「壊れるタイミングにあるもの」と出会うと・・
>私の中の「ロック魂」が沸き起こったり・・
>壊れたあとにあるものと出会うと私の中の「調和魂」や「生の喜び謳歌魂」が反応したりするのがわかります。


まったく人の構成要素は・・・もとの仏教の言葉としての意味はともかく・・・不増不減です。たぶん、壊れる、組み上げると感じられるとしたら、個人としての限定された立場から見た、とある個別の、ほかのことと区別されたり比較されたりでき得ると思われる、環境や感覚や感情や概念や観念のことでしょうか。それが壊れると浄化を感じるのでしょうか。

そういう区別されたり比較されたりされる、とある物質や感覚や感情や思考を対象に知覚する狭い範囲でしかありませんが、そんなことをしてる主体を、ある、と感じます。その主体が、ある、とされると、それが、その人の中心として、能動的にまた受動的に、行動したり発言したり思考したりしてると看做されます。それは狭い範囲にいるので、その、たとえば、ほかの人と区別、分離され得る主体を人は、わたし、俺、自分、とか呼ぶようです。それも自我として機能し得ます。

> なるほど。根っから愚かな意識・・・そうですね。
>でも、根底のところかな。
>私の中には意識は意識の範疇にないものを「恋しがる」。まさに、恋をする感覚がある気がします。
>「なんのために知りたいのか」「なんのために拡張したいのか」それ自体、自我の欲望の・・切り取り。
>でも・・本気で。マジのマジの・・命がけの・・
>意識の「意識の範疇を超えたものに対する恋」ともいう感じのものがあります。
>あなた(意識の範疇を超えたもの)と一体になるために、私の、意識の範疇(その命、物質、感情、感覚全部。全部)を、私の意識の範疇を超えたところのものに、捧げたい。一体になりたい。衝動と沸いてやまない情熱の源泉。
>そんな感覚。
>私は・・心の底ではみんなそうなのかと思っていました・・
>そこのところはよくわからないのですが・・私の見るところ・・
>割と深い深い深いところではみんなそうな気がします・・がそうでもないのかもしれないし・・いろいろ縁しながら、その源泉を学んでいるところです。


とても素敵な一休の歌があります。「本来の面目坊が立ち姿 ひとめ見しより恋とこそなれ」。たとえ瞬間でも・・・自我ではなく、本来の面目・・・自己を見たら人は、それに恋をしてしまいます。それは相手が自己でも究極と言える片思いで、日常が超ど級の苦痛です。その苦痛が、自分に起こった悟り体験を理解させる原動力になります。

その悟り体験を理解することで、愚かな意識に教えることで、その片思いは解消され、自分は自分を確認する必要がなくなります。無知から生じる無理解の苦痛から解放されます。その悟り体験を対象にして自分を確認したい、自覚する残響のような自我の機能が必要がなくなるのです。

それで、日常が不思議、日常が未知・・・知らない・・・になります。たとえ自我や、欲望や、葛藤も、苦痛も、恐怖も、それが何だか誰も知りません。ただ知ってると、思うことができるだけです。

>心の平安。現実の平安。両方。求める感覚はないです。
>でも、その、個々の現実であれ、精神であれ・・平安に対する願望と欲求の度合いが個々の「意識の範疇」を定めるでしょうか。恐怖がありますからね。「生きる」ための仕組みになっているので、「生きられなかった」記憶の蓄積がそうさせるのでしょうね。


>「生きられない」のは、「意識」の未熟だからだと思います。「恐怖」も「意識」の未熟。

うーん。脳天気なのでしょう。自分のこと、とくに過去のことが原因で恐怖を感じることはありません。ここのところは罪の燃焼・・・依存関係・・・偏っても偏りようがない中道の理解が効果的と思います。でも。ほかの人などを心配することがあります。

>●それは・・知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。
>でも・・意識からみれば、知覚されなければない。
>でも、それは 知覚されるから ある とか ない とかじゃないですね。
>でも・・意識からみれば、ない。
>「ある」 
>意識を鍛え上げていく。根っから愚かな意識を鍛え上げて・・生きている状態、意識があるこの状態の中で、鍛え上げていく。
>知ったと思うなよ
>意識していることがすべてだと思うなよ
>コントロールしきれるなんて思うなよ
>絶望してるんじゃないよ
>絶望してるなら、逃避するなよ
>逃避するなら、逃避に気がつけよ
>傲慢を破壊せよ
>幻想に酔って 満足してるなよ
>都合よく切り取って、ストーリー作ってんのに気がつけよ
>苦しみは空想だろ
>直感してるだけだろ、体現してみろ
>自分で勝手に自分の枠を定めてんじゃねーよ
>:
>:


ところでまず、なにかを理解するということは。なにか無知が思考の運動として現れていた。その仕組みの理を解することによって無知が機能する必要がなくなり、そのことによって無知が転換された無自覚の叡智を得るということではないでしょうか。

また意識を鍛えるということは、ただ思考の運動を観察するだけでは届きません。そのような思考する仕組みの、見えない前提を含めた、理を解する必要があります。その、あまりの複雑さのために思考の、正誤の判定基準が渾沌とし、仕組みを理解することを手放して、流れるままになってしまうこともあります。そしたら、なぜそれがそうなのかの理を解する。という機会が現れています。

>そんな私だから・・私の周りに集まる人は・・厳しい人が多いんです。。たぶん無意識に反応しているのですが・・
>私の意識はそういうたくさんの意識に鍛えてもらっています。それに感謝です。
>方向性はみんな深いところではきっと一緒。
>そんな人たちとの関係は・・
>喜びが沸く。
>こみあげる・・心の中心から喜びが沸く。


そして。たとえば悲しさは、ただ悲しさ、嫌な気持ちは、ただ嫌な気持ち、喜びも、ただ喜び。です。そういうことは、なにかの基準にならず。悲しさや、嫌な気持ちや、喜びを、その類似なことや反対のことや無関係なことと比較したりする必要はありません。

また、現実を基準にして、そうだとか、そうでないとか思考する必要はありません。それは、すでに無自覚の叡智に転換されてるのですから、その理由を探る思考も不要です。そうでないなら、やはり無知の自分を知りたい、自分を確認したいという現れかもしれません。

ところで昨日は、いろいろありがとう。とくに10月は、いい季節です。楽しい釣りができると思います。

ubik0101

こんにちは。
きのうは遠くまで来ていただいて、ありがとうございます。
楽しいひととき、でした。

多くの出来事、そこには感受すること、感情、思考の発露、表現があります。
世界であり、それを見る、その視点、
理解されている位相自体を、成熟度ともいえるかもしれません。
刺激的な関係性である世界、出来事、感情にまったく関わりながら、まったく冷めている、
覚めて生である、ことへの了解と徹底如何に、それを見ることができると思います。

それではまた、よい機会に遊びましょうね。

hato

No.1087 - 2008/09/21(Sun) 12:31:19
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