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青い鳥。 / ubik0101

結婚します。


それまでは、すこし敏感な30才代の青年だと思っていました。 6月に、長崎空港に迎えに行って、はじめてhatoさんが、女性だと知りました。手を繋いだとき、世界が喜んでるのを感じました。

そしてまた、3日前から、再び、hatoさんが長崎を訪れています。いろいろ話合って。ずっと学びあうことに決めました。そこで hatoさんとubik0101、一緒に諏訪神社に行って、五円ずつでお参りして、結婚式を挙げました。

ubik0101


昨年の夏。
母から貰った小さなダイヤのネックレスの鎖を、小さな青い鳥が遊んで噛んで、きってしまいました。
お店に直して貰いに行ったら、ペンダントの裏側に小さく、QV0101と、入っていることを知りました。
こういうことも、あるのかなと、思いました。

6月に初めて、会って。
この2ヵ月間。なんとよく、育んだことでしょう。
慈しみ合うことは、自然に起きてきたことだと思います。

結婚。入籍。一緒の生活。
ほんとに、不思議です。

hato

No.1018 - 2008/08/09(Sat) 10:54:10

Re: 青い鳥。 / suho
ウビさんhatoさん、おめでとうございます。
めでたいめでたい^^
まるで小林秀雄と池田晶子の結婚のようだ。ひひひ。

ところで、不思議は不思議であるありようそのものが愛なので、お二人が結ばれたことそのものが愛ですね。

お幸せに。

No.1019 - 2008/08/09(Sat) 14:24:11

Re: 青い鳥。 / ubik0101

ありがとうございます。近くの島に新婚旅行ということにしました。神奈川に住むことになりますので、機会がありましたら、お寄りください。

ubik0101

suhoさん、こんばんは。
ubik0101さんは。
実はどこかクリシュナムルティそっくりです。
(本人は、とても、嫌がって、ますけどー・・)

hato

No.1020 - 2008/08/09(Sat) 23:10:44

Re: 青い鳥。 / 大阪
hatoさんが長崎に行かれる前から、そうなったりしてと考えたりしていて、うびさんが東京近郊に引っ越されると聞いて、もしや、と思いました。


お二人が幸せであることを願って、眺めています。


おめでとうございます。

No.1021 - 2008/08/11(Mon) 20:32:59

Re: 青い鳥。 / ubik0101

ありがとうございます。
神奈川に泊まり掛けで遊びに来てくれるのを、いまから、2人で楽しみにしています。一緒に、お酒でも飲みましょう。都会にも近いし、自然に囲まれた、環境です。

ubik0101

大阪さん、こんばんは。ありがとう、ございます。
大阪さんとは、楽しい話ができそうです。ubik0101さんは、とてもお話好きですよ。
たくさん。語り合いましょうね。待っています。

hato

No.1022 - 2008/08/11(Mon) 22:31:35

Re: 青い鳥。 / potanpotan
以前少しだけお邪魔させていただきました。
suhoさんより結婚されたと伺い・・

わーー。

hatoさん、ubik0101さん。
おめでとうございます。

神奈川に?
わーー。

私も神奈川です。
お会いできることがあるとうれしいな。

わーーー。

なんだか。
とてもうれしいです。

No.1041 - 2008/08/27(Wed) 06:43:32

Re: 青い鳥。 / ubik0101
potanpotanさんの
とても叙情的な文章が印象に残っています。
また話せて、嬉しく感じています。

長崎でも、potanpotanさんのかもしれない、 HP?
を見つけたよ、とか
hatoさんに話したりしていました。

こちらは
hatoさんが見つけてくれた
緑に囲まれた、山荘のようなアパートです。
江ノ島が近い、小田急沿線です。

そうですね。
お会いできると思います。

ubik0101

potanpotanさん、ご無沙汰しています。
ありがとうございます。

なんだか、たくさんのことが、
静かに慌ただしく流れていきます。
まだ、小さな部屋のなかはごった返していますが、
窓を開けてとなりの小さな保存山林では、
春に鶯の声も聞くことができます。

ubik0101さんは、お皿洗いも名人の域です。

hato

No.1043 - 2008/09/01(Mon) 20:37:39

Re: 青い鳥。 / potanpotan
> 長崎でも、potanpotanさんのかもしれない、 HP?
> を見つけたよ、とか
> hatoさんに話したりしていました。


あら。。。素性がばれましたか(笑

> こちらは
> hatoさんが見つけてくれた
> 緑に囲まれた、山荘のようなアパートです。
> 江ノ島が近い、小田急沿線です。


おお。良いところですね。


>
> potanpotanさん、ご無沙汰しています。
> ありがとうございます。
>
> なんだか、たくさんのことが、
> 静かに慌ただしく流れていきます。
> まだ、小さな部屋のなかはごった返していますが、
> 窓を開けてとなりの小さな保存山林では、
> 春に鶯の声も聞くことができます。
>
> ubik0101さんは、お皿洗いも名人の域です。
>


お二人の幸せが伝わってくる感じで・・すごく楽しくなります。お目にかかれる日を楽しみにしております!

No.1046 - 2008/09/02(Tue) 21:12:06
(No Subject) / ルー
私にとって大事なことは、人に対してどのように接するかということです。
それには、自分をどのように捉え、周りの人をどのように捉えているか、ということがそれを左右してくると思います。
ですから、その人が自分自身をどのように捉え、周りの人をどのように捉えているのか、ということをしっかり見ていこうと思います。
もちろん、自分についてもそうです。

No.1023 - 2008/08/16(Sat) 09:23:01

Re: / ubik0101
もしかして。「自分をどのように捉え、周りの人をどのように捉えているか」の理解が進み、その限界、臨界、に達したら、人は、意識できない自分の総ての可能性を探るようになるのだと思います。

たとえば自分が思ってもなくても、自分は傲慢ではないか?自分が思ってもなくても、自分は偽善者ではないか?自分が思っても、思ってなくても、自分は優しくないのではないか?

つまり傲慢だと思ってないなら、傲慢でないことはないのでは?偽善者と思ってないなら、偽善者でないことではないのでは?優しくないとか、あるとか思っても、思ってなくても、優しくないのでは?

おおくの場合は・・・ふとした出来事によって人間関係の軋轢が生じたとします。なら。その、軋轢が生じる出来事が起こらなくても、自分には、そういう軋轢を起こすかもしれない原因があったはずです。と、して認識できると思います。

そのように、その自分の無意識の原因を掘り返すことに通じると思います。それは理解することによって、素直になり、自分を直視するようになった姿勢の現れではないかと、思います。

No.1025 - 2008/08/16(Sat) 10:26:19

Re: / ルー
> もしかして。「自分をどのように捉え、周りの人をどのように捉えているか」の理解が進み、その限界、臨界、に達したら、人は、意識できない自分の総ての可能性を探るようになるのだと思います。

そうなのですか。
私は、「理解が進む」という方向に行くのではなくて、ただ、その時その時で、「今、どうなのか」という「新しく見直す」つもりで、「自分をどのように捉え、周りの人をどのように捉えているのか」を知っていき、それを参考に、相手と接していく、ということをしたいなぁと思っているのです。
その「見る力」が発達していくと、うびさんの言う「理解が進む」という方向になっていくのかも知れませんが、そのエリアのことは私はもういいかなと思います。
どのように人と接していくか、という現実的な具体的な次元の話で私の人生が終わってもいいと思っています。
いい人生を送りたいです。

No.1026 - 2008/08/16(Sat) 22:22:31

Re: / ubik0101
きっと。人には、自分の、世界の、ありとあらゆることを理解する可能性が秘められています。しかし、それを理解しなければ、その理解できるはずの可能性が・・・つまり無知が・・・逆に、その人を縛るでしょう。

その、まだ理解してないこと、無知、に惹き付けられ、執着させられてしまうでしょう。なにかの自覚できる自分の状態・・・自我や欲望、苦痛、葛藤、思想・・・に人が躓いたり、縛られたりするのは、そのような現れと思います。

しかし、それを見る、観察、研究、理解したい働きこそ、人を無知に捕らえる罠でもあります。そして罠に捕われたと自覚できないけど、実際は捕われてる形態。もあります。

ルーさんは、そういう罠に捕われて、もがいてる、ほかの人や自分を見て、嫌になったので避けたいのかもしれません。また。そういう罠から飛躍し、解決したので自然に、 離れたくなったのかもしれません。 そういう日常で「新しく見直す」ことで進んでいくのかもしれません。

No.1027 - 2008/08/17(Sun) 08:30:15

Re: / ルー
うん。うびさんが書いておられること、よく理解できます。
No.1028 - 2008/08/17(Sun) 09:47:40

Re: / ubik0101
補足です。

その飛躍についてですが。それが激しく瞬間に起こった場合は、神秘体験、至高体験として自覚されます。そうでなく、もともと人が素直だったり、じっくり着実に進歩したりしたら、その飛躍の自覚が希薄だと思います。

どちらにしても。なにかを見る、観察する、理解したい、ということが罠として機能してること。そして、そんな罠から解放された自分を、そうだと自覚するのは、飛躍した人でも、なかなか困難なことがあるかもしれません。たとえば「非難も正当化もない観察」。それこそ、その罠になり得ます。

真摯な求道者には関係はありませんが・・・自我や欲望に巻き込まれることも、そんな自我や欲望を活用しないで逃げることも・・・飛躍してないのに飛躍したと思うことも・・・罠です。

もちろん、その罠は、ほかの人ではなく、自分で、それを仕掛けているのです。そうしてることを、ほかの人や自分に隠して気がつかないようにしてるのも、その人です。 それは自分で自分の成長を拒んでいるので、そうなるだけです。 世界は正確に機能しています。

そうであっても、なお。自分を知るという最高の志を持ち。いかなる観念、価値観も前提にしない、ということも前提にせず、つねに注意して正確に、その自分、その自分の有り様を理解すれば、その罠も、その自らの仕組みを開示します。

もし、なにかを見る、観察する、理解したい、ということが罠として機能してるなら。どんな自我や欲望や、苦悩、思考、葛藤も、人を鍛えるための単なる負荷にすぎないことを見て理解されるかもしれません。

No.1029 - 2008/08/17(Sun) 19:18:13

Re: / ルー
> もちろん、その罠は、ほかの人ではなく、自分で、それを仕掛けているのです。そうしてることを、ほかの人や自分に隠して気がつかないようにしてるのも、その人です。 それは自分で自分の成長を拒んでいるので、そうなるだけです。 世界は正確に機能しています。

そうですね。
おもしろいほどに。

No.1030 - 2008/08/17(Sun) 20:18:16

Re: / ルー
> もし、なにかを見る、観察する、理解したい、ということが罠として機能してるなら。どんな自我や欲望や、苦悩、思考、葛藤も、人を鍛えるための単なる負荷にすぎないことを見て理解されるかもしれません。

それは、人が成長するためにあるとか、人が鍛えられるためにあるとか、表現されますが、私は、その意味合いに変換する前の、ただ起きているものごとそのものを味わいたいのです。感動するために生きている、ぐらいに思っています。
それは、成長するためにあるという意味に変換する前にあるのか、成長することによって(成長した後に)得られるものなのか、そのへんはハッキリしませんが。

No.1031 - 2008/08/18(Mon) 10:15:12

Re: / ubik0101
ただ起きてるものごとを味わう、その「私」。それはどうも、こんなもの、あんなものとは言えないようです。それは、よく言われるようには意識でもありません。それを敢えて、なに、と規定したり表現したり思考したりすると、それは空想になります。

そんな自分を空想するとは、ことさら自分の存在を確認したいという、満たされてない、未完成の欲望の機能です。しかし人は、自分を確認する必要がないくらい、自己でないことなど、ありえないのです。まったく自己は自覚できないのです。

それは人は初めからそうだとも言えます。そうであれば、自我や欲望という邪魔を取り除き、いわゆる無我を見い出すのでしょう。それが見出せないことを見い出すのでしょう。また欲望や自我の機能を使って成長したからだとも言えます。

ここでは成長したからだと睨んでいます。それで自我が完成した・・・無我・・・と呼んだり、無自覚の自己・・・安息日の主・・・と呼んだりするのですが。この自我や無我や自己は、違うことがらと最初は感じられるにしても、その区別さえ不要になります。

そうならば初めから人はそうでも、成長したのでも、どちらかということではありません。どちらかであれば、やはり欠点があります。そんな「私」が、透明になって、まったく無自覚になって、ただ起きてるものごとを味わうことができるのではないでしょうか。

それは、あるがままの、とも呼ばない、全肯定の道だと思います。 たとえば自我や欲望などが、実際に問題として機能していない。そんな人は。自我や欲望は、あってもなくても、かまいません。と思考、明言します。未完成だから機能する自我や欲望に捕われてないからです。

No.1032 - 2008/08/18(Mon) 11:45:21

Re: / ルー
そうですね。
「成長するため」というふうに限定されるとは思えなくて、いろいろ考えていたのです。
さっき、「感動するため」と書いて、何だか、それも、しっくりきませんでした。
何とも呼べませんが、そのままでいいかなと思います。

No.1033 - 2008/08/18(Mon) 14:39:33

Re: / ubik0101
それで、もともと、ない、自我による葛藤などは、生起しなくなります。なにかに執着してしまうような欲望も起こりません。それに、ふたたび巻き込まれる、そのような愚かな可能性も解決されたのです。それは、そうと自覚しても、無自覚でも、そうです。

けど、人としての感覚や、感情や、意識が機能しなるわけではありません。怒ったり、悲しんだり、思考したりすることが、なくなるわけではありません。なくなると思ったら空想です。また実際に、なくなったら、なにかの病気です。

ここのところ、倒錯からの解放。 安息日の主。無自覚の智恵。実感に依存しない。とか、いろいろな理解、叡智が働いています。はじめから無我、また成長して無我、どちらからも学んだのです。

とりあえず世界の機能ということでの理解で言えば。なにも否定する必要はありません。たとえば。自我が機能してる人には誤解されるでしょうが、たとえ自我さえ排除すべきことではなくなります。自我を拒否するのは自我です。分離を嫌うのは分離です。

No.1034 - 2008/08/18(Mon) 23:45:33

Re: / ルー
あるていどの分離はあたりまえです。
No.1035 - 2008/08/19(Tue) 08:37:11

Re: / ubik0101
そうですね。それで日常が生起しています。でも。その「あるていど」が、どのような、「あるていど」か、探ってみると、そこから見えることがあるように感じました。

というところで。ルーさんの投稿を見てて、ふと。自我という、ない、ことを否定することはできません。と思いつきました。

あるとして、自我とは、「あるていど」の分離をことさら分離したり融合したりしたい運動と見ることもできそうです。

それで、自我を肯定したり否定しようとする運動も、そのようなので、自我の機能になるのではないかと思いました。

No.1036 - 2008/08/19(Tue) 14:41:31

Re: / ubik0101
ところで、引越のため、明日から、ネットに繋げられません。復活しましたら連絡しますので、それまで暫く、お休みになります。そのときは、またよろしく。です。
No.1037 - 2008/08/19(Tue) 18:53:11
疑問。 / ubik0101
なにかを人は、思考します。そして思考されたことは言葉によるにしても、映像によるにしても、そのまま見える、自覚されるかもしれません。そして、それは、そのまま、その人の状態を現わすと考えられることもあるでしょう。それでは思考されないことは、どうなのでしょう。

もしかして、自覚されないでも、人は、なにかの有り様かもしれません。その人が、その人を、そう思ったことがなくても、その人は傲慢かもしれません。偽善者かも、欲張りかも、意地悪かも。優しいかも、素直かも、しれません。

そんな有り様・・・形態・・・は見る、観察する、自覚することが可能でしょうか。また、思考できない形態、それを、どう思考しても、まったくの誤解かもしれません。たとえば善悪について思考するとして、それを思考する人の思考してない、たとえば傲慢さを、素直さを、現わすでしょうか。

たとえば。思考してないで、傲慢でないなら、どうして、傲慢でないことが確認できるでしょうか。たとえ思考できない総ての可能性を、思考によって、また知覚によって、探るとして。 それは、ありとあらゆる思考できないこと、に及ばないでは、無意味なのではないでしょうか。

そこで思考しないことを認めて、そこには問題が認められないからといって、たとえば自我、欲望、絶望・・・それが解決されてるわけでもなく。そこになんだかの平穏、優しさ、素直が自覚できないからといって、それが実現されてるわけでもないのではないでしょうか。

さらに。たとえば善悪について、傲慢、素直、偽善などについて思考するとして。それが、その思考する人の状態を現わす、現わさない、と言えるのでしょうか。どちらかだと看做すなら、それは思考に依存し、それに埋没し、気がつかないでいるだけかもしれません。

そのような、ありとあらゆることが、取り替え可能な、人を成長させるための負荷、なだけではないでしょうか。そして、どうして、そうでなくて人が学ぶということ、理解すること、成長することが可能でしょう。

No.1024 - 2008/08/16(Sat) 09:30:55
束縛と解放 / ubik0101
あることと、その反対のことは、同じこと。そんな思考があります。たとえば慈しみと、憎しみは・・・傲慢と、卑下は・・・おなじことの現れという主張です。おおくの場合は、どれも苦悩、葛藤の現れ、だからおなじ、というわけです。

しかし、苦悩、葛藤があるなら、あることと、類似のことと、反対のことと、無関係なことは、この意味での同じことです。つまり、その人の総てが、苦悩、葛藤なのです。けれど、あることと反対のことしか見えない、その見えないには、理由があります。

ひとつには、その人が実感できる、ことだけに捕われてる。ということです。その人が知覚してないことには、無意識ということです。ならば、捕われを意識しなければ、捕われてない、と看做させられているということです。そうであれば無意識であることにも、捕われている。そのことに気がつかないでしょう。

続きます。

No.1008 - 2008/08/03(Sun) 08:47:53

Re: 束縛と解放 / ubik0101
それでは、人は、あるときには、慈しみと憎しみに捕われるでしょう。あるときは傲慢と卑下に捕われるでしょう。あるときは暴力と非暴力に捕われるでしょう。あるときは意識する、しないに捕われるでしょう・・・以下同様です。

そして、そのようである、その理由に気がつかず、永遠に、あることと、反対の、苦悩、葛藤を巡るでしょう。

それは 苦悩、葛藤の永遠の、意識する、しないに関わらず、もぐら叩き、です。苦悩、葛藤があれば必ず、それは見える、知覚できるという傲慢に埋没してることの報いかもしれません。

それなのに、見えない、知覚できないところでは、どこかで問題から解放されてる、という空想、妄想、幻想に捕われてるのかもしれません。なぜ、そういうことに巻き込まれるのでしょう。

続きます。

No.1009 - 2008/08/03(Sun) 08:56:13

Re: 束縛と解放 / ubik0101
ひとつには、関係ないことを結合させるのは、欲望の働きです。たとえば慈しみと憎しみと、なぜそれを結び付けるのでしょう。結び付かねばならない理由があるでしょうか。それは、その人に、欲望が機能し、それに気がつかずに、埋没しているからです。

ひとつには。その苦悩、葛藤は、その今、機能してるのですが。その原因を過去に求めて責任逃れをすることも多々あります。いわゆる思考とは過去のことだと。その今と過去、分裂を捏造してる自分を見逃します。その分裂を捏造することも、それを見逃すことも、その人が、そうしています。

このようなことは、その人の行動、発言、思考に現れざるをえないのですが・・・・つねに自分の救難信号を自分に向かって打ち上げてるのですが・・・つねに近視眼であり、つねに見逃し、つねに理解から遠ざかります。そしてそれを解放、と思い違うこともできます。

続きます。

No.1010 - 2008/08/03(Sun) 09:08:57

Re: 束縛と解放 / ubik0101
このような、あることと、その反対のことは、同じこと。という思考の形式、あるいは、そういう形式の思考は、そうする人が、意識する、しないに関わらず、葛藤、苦悩に・・・自我、欲望・・・無明の現れ・・・に捕われてるということを表明してることに過ぎません。

(ここでは意識してて、人がそうなことを、状態。意識できないでもなお、人がそうなことを、有り様、あるいは形態と呼びます)。

そうならば、どちらにしても、どこかに、それから外れたことを捏造せずにはいられないでしょう。たとえば、そういう苦悩、葛藤から離れた静かさ、あるいは苦悩、葛藤は、心理的な運動だから、それがない事実の知覚、と。空想、妄想、幻想します。

それで、そういうときは、人は思いなしに、いきいきと新しい生を生きる。知覚そのまま行動。と。しかしこのことは、やはり、そうでないこととの分裂であり、自分に知覚できない苦悩、葛藤はないとする。また欲望に埋没してる。また責任逃れ。などの、状態、形態において、愚かさに捕われている恐れがあります。

続きます。

No.1011 - 2008/08/03(Sun) 09:26:12

Re: 束縛と解放 / ubik0101
ここには、葛藤と無葛藤は、束縛と解放は。あきらかに。あることと、その反対のことではない。と看做されています。あることと反対のことは、同じことと、いうことを自らに、適応していません。それだけのことです。

このこと全体は、意識できる状態、できない形態に関わらず、やはり、あることと、その反対のことは同じこと。の領域でしか機能してないかもしれません。ではなぜ、そうなのでしょう。

そしてまた。あることと、その反対のことは、同じこと。それは苦悩、葛藤だけに適応されるとは限りません。慈しみも憎しみも、愛・・・厳格も、放任も、優しさ・・・さて、このような何でもありの世界にあって人は、どうすればいいのでしょうか。どうしなければいいのでしょう。

そのうち続きます。

No.1012 - 2008/08/03(Sun) 09:50:09

Re: 束縛と解放 / ubik0101
このようなことを理解するためには、自分の状態を観察することだけで可能でしょうか。断じて、否。それでは、ただ、苦悩、葛藤が・・・自我、欲望・・・が機能してる、だからそれが見える。状態。または機能してても見えない。形態。それだけのことではないでしょうか。

あれやこれや行動したり、発言したり、思考してる、そういうことを対象にしてる、その自分こそ、知られねばならないことではないでしょうか。

たとえば知覚と直接行動。それとそれ、を結び付けることとは欲望に支配されてること、と気が付くかもしれません。そうなら人は、ほとんど必然的に否定の道を歩きます。その思考の、その背後を探り、露にするのです。

ここで見逃していけないのは、たとえば権力欲、顕示欲・・・苦悩、葛藤・・・自我、欲望・・・などが機能してるとして、それを排除する、削除する、という意味での否定をしてはならないということです。

そのような厭うべき人の状態、形態は、もしかして、なんだかの良い特質の準備段階かもしれません。その泥の沼から咲くのは蓮の花かもしれません。

続きます。

No.1013 - 2008/08/03(Sun) 17:06:03

Re: 束縛と解放 / ubik0101
たとえば権力欲は、ほかの人に、自分がすべきことをさせて満足するのではなく。その人が、ものごとを十全になしとげるということの萌芽かもしれません。偽善は、その人が、良い人になるための通り道かもしれません。権力を嫌うということは、対極を必要としない優しさの種かもしれません。自我は無我の、欲望は無欲の可能性、まだ幼い姿かもしれません。

それでも。そのような闇雲な否定をしたとしても、それは人の採り得る状態、形態であり、なんだということはないのですが。しかも何も否定することはできず、ただ自分や、ほかの人に隠すことができ得るだけですが。誰かから教えてもらった、否定の道は、そこに陥り、留まりやすいのです。そこに留まることに無駄なエネルギーを使いやすいのです。

しかしそのようでも、つねに、その自分、その自分を、問わねばなりません。それは、ほかの人に向かうのではなく、自分に向かわねばなりません。なにかを分かったつもりでいるなら、そのわかったつもりでいることの背後、それを探るのです。

そのうち続きます。

No.1014 - 2008/08/03(Sun) 17:21:10

Re: 束縛と解放 / ubik0101
なぜ、これは、こうなのでしょう。それを探るのです。たとえば。あることと、その反対のことは同じです。とか思考するなら。なぜ、それは、そうなのでしょう。と、問うのです。こうである必要がないのに、なぜ、これはこうなのかと、問うのです。

けど。ただ伝統的な教えにしても、それに反対する教えにしても、誰かの言うことを受け入れただけで、その人が発見したことでないなら。その人は、ありのままに生きるとか、なにかを求めて得るなら既知のものですとか、なんとでも言うにしても。それを生きていず、なぜこれはこうなのかと、問うことに及ばないものです。

そして、とりあえず自分の状態を問うことができるならば。理解するということは、どういう意味なんでしょう。意味ということは、どういう意味なんでしょう。それを探る言葉は、どのように機能するのでしょう・・・これは、なぜ、このようにあるのでしょう・・・そのようなことは、真摯に思考する人には、それ自らが開示してくれます。

続きます。

No.1015 - 2008/08/04(Mon) 12:56:54

Re: 束縛と解放 / ubik0101
そうでなく、どうして思考することさえできるのでしょう。そうしてる自分を探ることさえできるのでしょう。どうして自分が空想してる、ということさえ気がつくことができるでしょう。そこには傲慢が隠れてるかもしれず、そうならば、そのことが、そのことを、問う人に開示してくれます。

このように人は、自分を州として、自分を島として、自分を拠り所として、歩まねばなりません。しかしその自分、それは、まったくなにも拠り所が見いだせないのです。

No.1016 - 2008/08/04(Mon) 13:15:14
相手を受け入れる素地 / ルー
今朝、急に気づいたのです。
私には、「相手を受け入れる素地が無い」ということに。
それは、とても恐ろしいことです。
すべてを自分で切り盛りしていかねばならないのですから、大変です。
そんな大変なことを、私はしようとしていたのでした。

No.991 - 2008/08/01(Fri) 09:37:59

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
そういうことに気づいたということは、
すでに、
そうでない自分に気づいたということだと思います。

そして、それは相手を受け入れる素地が無いの、
反対の、相手を受け入れる素地が有る。ではないのでしょう。

もし無いの反対の有るなら、
たとえば「すべてを自分で切り盛りしていかねばならない」
の反対の姿勢に、振れるだけ、の可能性があります。

そうなら、それと類似なこと
無関係なことについても
人としての有り様は変わりありません。
支配してるつもりで
支配されてるということです。

そういうことからの解放。
相手を受け入れる 素地が、有る無いを、包括して成長してた
自分に気がついた。

もしかして自分の思い通りにしたいという
傾向があって。そうする中心を空想してたけど
その空想が不要になった。それこそ
空想できない自覚できない安息日の主。

ということかな。と思いました。

No.993 - 2008/08/01(Fri) 10:51:14

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「相手を受け入れる素地」というのは、物として、在るか無いか、だと思うんです。
これは、観念ではなくて、物だと思うのです。
「無い」と気づいた私は、「相手を受け入れる素地」というものがこの世に存在するのだということを知った私でした。
それまでは、「相手を受け入れる素地」というものの存在を知らない私でした。
そして、それが、「無い」と気づいたのです。
「それが無いからしんどいのだ」と気づいたのです。
「無い」と気づいた時、それ(相手を受け入れる素地)は、私の中に生まれたと思います。
私の中に生まれた相手を受け入れる素地の上に、相手を住まわせながら、これからは生きていくのだと思います。
すべてを自分で切り盛りしなくてもいいので、少しは楽です。たぶん、すべての責任を自分で背負おうとしていたのだと思います。

No.994 - 2008/08/01(Fri) 11:17:49

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「すべてを自分で切り盛りしていかねばならない」の反対の姿勢というのは、どんなものなのでしょう。
「すべてを他人が切り盛りしていかなくてはならない」かな。反対に振れる状態というのは、そういうことでしょうか。
それとも、「すべてを自分で切り盛りしていかなくてもよい」なのでしょうか?

多分、「無い」が「在る」になったのは、反対のものになったのではないのだと思います。

No.995 - 2008/08/01(Fri) 11:33:56

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
例えば、「心が無い」というのと、「心がある」というのは、反対ではないでしょう?
No.996 - 2008/08/01(Fri) 11:38:29

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
例えば、「すべての責任を自分で背負おうとしていた」と「すべての責任を他人に背負ってもらう」なら、反対のものですか?
それとも、「すべての責任を自分ひとりで背負わなくてもよい」と思うことが、反対のものですか?

反対のものを掴もうとしているのかどうか、ハッキリと知りたいので、しばらく考えてみます。

No.997 - 2008/08/01(Fri) 11:45:20

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
そう思ったのですが、今は、「相手を受け入れる素地」というものの存在に気づいたことを祝って、自分がどうであるとか、反対のものであるとかは考えずにおきます。
気づくきっかけは、その反対のものに気づいたからなのですが、だからといって、それが、自分の満足のためであるとは思えないので。

とにかく、「相手を受け入れる素地が無い」という状態に気づいた時は、びっくりしました。

No.998 - 2008/08/01(Fri) 11:54:34

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
素地がないということは、つまり、空中格闘ですよ。
そりゃあ、疲れるでしょうよ。

No.999 - 2008/08/01(Fri) 11:57:11

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
>多分、「無い」が「在る」になったのは、反対のものになったのではないのだと思います。

うん。反対のものになったのではありません。単に人任せにしてしまう。「すべてを他人が切り盛りしていかなくてはならない」なら、無責任になる。だけど、そのことで実は、見張ったり支配したくて、葛藤してる。のが、いわゆる反対のもの、だと思います。

また「すべてを自分で切り盛りしていかなくてもよい」も、程度問題かもしれません。なので、そういうことでなく、そういうことを包括して解放された自分に、気がついた。のだと思いました。

そして、その気がついた自分、そういうことに依存しない自分。それは空想できない自覚できない安息日の主ではないでしょうか。

No.1000 - 2008/08/01(Fri) 11:57:17

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「空想できない」という言葉の意味が、ちょっとわかりました。
「安息日の主」は、まだちょっとわかりません。
そのうちわかるかも〜
私は、私の具体的な問題にひっかかりながら、それを解きながら、うびさんが使う言葉の意味がわかったりして、おもしろいね。

No.1003 - 2008/08/01(Fri) 16:57:40

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
>そのうちわかるかも〜

うん。楽しみです。ふつうは、自己は自己を対象にできないんです。それでも、それが自覚できてしまうことがあります。神から自分を見て信じる信仰や、自分が自分を思う自我は、その練習のような状態です。

そして、自己を自覚して。さらに。その体験を理解すると、その体験に捕われたりすることも、そこで見た自己を掴んだりする・・・残響のような自我・・・も必要なくなり、忘れます。

それで、自覚できない自己を、自覚できない自己、と呼ぶことができます。それが安息日の主です。それは完全に無自覚です。この意味でも人は無我です。

(もしかしてですが、自己を自覚してないとしても。すでに人が主であれば、あらためて自覚の体験の必要がない、ということもあり得るかもしれません)。

No.1004 - 2008/08/01(Fri) 20:14:19

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「安息日の主」というのは、「人が主である」というのと同じ意味ですか。
No.1005 - 2008/08/02(Sat) 02:00:25

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
>「安息日の主」というのは、「人が主である」というのと同じ意味ですか。

うん。イエス・キリストの言葉の通りです。説明としては、安息日は人のためにあり、人は安息日のためにあるのではありません。そんな人は、あらゆることの主であり奴隷ではない、という意味です。倒錯から解放された、という意味です。

しかし。人が、この主を、対象にすると、つまり空想したり思考したりすると、倒錯です。

まったく同じことですが「人が主である」の「人」を、ほかの人のこと、また自分のこと、一般的な誰かのことと想定、空想、思考すると、そういう仕方で対象にすると、倒錯です。この 「人」は、まったく、自覚できないのです。

なのに、自分が自分を思うことは、ふつうは空想であり、それは執着、つまり倒錯の作用です。

ここで混乱を避けるために・・・主と奴隷、これは、比較できることではないほどの。まったくの逆です。たとえば、「あることと、その反対のことは同じこと」。などという思考は、それらが、どちらも自我の機能ならば、同じ。といった程度のことです。

たとえば暴力と、(呼び名はともかく)非暴力。これ、比較できることではなく。同じことではありません。「あることと、その反対のことは同じこと」。とは。暴力の範疇で働く空想の非暴力は、暴力。と言ってるに過ぎません。そんな形式の思考が、そもそも執着、倒錯です。

ルーさんのいう、相手を受け入れる素地が、有る無いも、そういう意味での、反対のもの、ではないのではないでしょうか。

No.1006 - 2008/08/02(Sat) 08:06:45

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
あー、なるほど。よくわかりました。
私がひっかかっているところが、そのままピッタリとわかってもらえているみたいです。
「自我の機能ならば」というところがミソなんですね。
私は、そういう時点での検討をしているのではないので、話がすれ違うのだということが、よくわかりました。ありがとうございます。

「空想できない」というのは、「リアルに生きること」というふうに解釈しています。

「安息日の主」は、今のところ、空想できません。
なので、それについて話せないという感じdす。

No.1007 - 2008/08/02(Sat) 11:34:05
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