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疑問。 / ubik0101
なにかを人は、思考します。そして思考されたことは言葉によるにしても、映像によるにしても、そのまま見える、自覚されるかもしれません。そして、それは、そのまま、その人の状態を現わすと考えられることもあるでしょう。それでは思考されないことは、どうなのでしょう。

もしかして、自覚されないでも、人は、なにかの有り様かもしれません。その人が、その人を、そう思ったことがなくても、その人は傲慢かもしれません。偽善者かも、欲張りかも、意地悪かも。優しいかも、素直かも、しれません。

そんな有り様・・・形態・・・は見る、観察する、自覚することが可能でしょうか。また、思考できない形態、それを、どう思考しても、まったくの誤解かもしれません。たとえば善悪について思考するとして、それを思考する人の思考してない、たとえば傲慢さを、素直さを、現わすでしょうか。

たとえば。思考してないで、傲慢でないなら、どうして、傲慢でないことが確認できるでしょうか。たとえ思考できない総ての可能性を、思考によって、また知覚によって、探るとして。 それは、ありとあらゆる思考できないこと、に及ばないでは、無意味なのではないでしょうか。

そこで思考しないことを認めて、そこには問題が認められないからといって、たとえば自我、欲望、絶望・・・それが解決されてるわけでもなく。そこになんだかの平穏、優しさ、素直が自覚できないからといって、それが実現されてるわけでもないのではないでしょうか。

さらに。たとえば善悪について、傲慢、素直、偽善などについて思考するとして。それが、その思考する人の状態を現わす、現わさない、と言えるのでしょうか。どちらかだと看做すなら、それは思考に依存し、それに埋没し、気がつかないでいるだけかもしれません。

そのような、ありとあらゆることが、取り替え可能な、人を成長させるための負荷、なだけではないでしょうか。そして、どうして、そうでなくて人が学ぶということ、理解すること、成長することが可能でしょう。

No.1024 - 2008/08/16(Sat) 09:30:55
束縛と解放 / ubik0101
あることと、その反対のことは、同じこと。そんな思考があります。たとえば慈しみと、憎しみは・・・傲慢と、卑下は・・・おなじことの現れという主張です。おおくの場合は、どれも苦悩、葛藤の現れ、だからおなじ、というわけです。

しかし、苦悩、葛藤があるなら、あることと、類似のことと、反対のことと、無関係なことは、この意味での同じことです。つまり、その人の総てが、苦悩、葛藤なのです。けれど、あることと反対のことしか見えない、その見えないには、理由があります。

ひとつには、その人が実感できる、ことだけに捕われてる。ということです。その人が知覚してないことには、無意識ということです。ならば、捕われを意識しなければ、捕われてない、と看做させられているということです。そうであれば無意識であることにも、捕われている。そのことに気がつかないでしょう。

続きます。

No.1008 - 2008/08/03(Sun) 08:47:53

Re: 束縛と解放 / ubik0101
それでは、人は、あるときには、慈しみと憎しみに捕われるでしょう。あるときは傲慢と卑下に捕われるでしょう。あるときは暴力と非暴力に捕われるでしょう。あるときは意識する、しないに捕われるでしょう・・・以下同様です。

そして、そのようである、その理由に気がつかず、永遠に、あることと、反対の、苦悩、葛藤を巡るでしょう。

それは 苦悩、葛藤の永遠の、意識する、しないに関わらず、もぐら叩き、です。苦悩、葛藤があれば必ず、それは見える、知覚できるという傲慢に埋没してることの報いかもしれません。

それなのに、見えない、知覚できないところでは、どこかで問題から解放されてる、という空想、妄想、幻想に捕われてるのかもしれません。なぜ、そういうことに巻き込まれるのでしょう。

続きます。

No.1009 - 2008/08/03(Sun) 08:56:13

Re: 束縛と解放 / ubik0101
ひとつには、関係ないことを結合させるのは、欲望の働きです。たとえば慈しみと憎しみと、なぜそれを結び付けるのでしょう。結び付かねばならない理由があるでしょうか。それは、その人に、欲望が機能し、それに気がつかずに、埋没しているからです。

ひとつには。その苦悩、葛藤は、その今、機能してるのですが。その原因を過去に求めて責任逃れをすることも多々あります。いわゆる思考とは過去のことだと。その今と過去、分裂を捏造してる自分を見逃します。その分裂を捏造することも、それを見逃すことも、その人が、そうしています。

このようなことは、その人の行動、発言、思考に現れざるをえないのですが・・・・つねに自分の救難信号を自分に向かって打ち上げてるのですが・・・つねに近視眼であり、つねに見逃し、つねに理解から遠ざかります。そしてそれを解放、と思い違うこともできます。

続きます。

No.1010 - 2008/08/03(Sun) 09:08:57

Re: 束縛と解放 / ubik0101
このような、あることと、その反対のことは、同じこと。という思考の形式、あるいは、そういう形式の思考は、そうする人が、意識する、しないに関わらず、葛藤、苦悩に・・・自我、欲望・・・無明の現れ・・・に捕われてるということを表明してることに過ぎません。

(ここでは意識してて、人がそうなことを、状態。意識できないでもなお、人がそうなことを、有り様、あるいは形態と呼びます)。

そうならば、どちらにしても、どこかに、それから外れたことを捏造せずにはいられないでしょう。たとえば、そういう苦悩、葛藤から離れた静かさ、あるいは苦悩、葛藤は、心理的な運動だから、それがない事実の知覚、と。空想、妄想、幻想します。

それで、そういうときは、人は思いなしに、いきいきと新しい生を生きる。知覚そのまま行動。と。しかしこのことは、やはり、そうでないこととの分裂であり、自分に知覚できない苦悩、葛藤はないとする。また欲望に埋没してる。また責任逃れ。などの、状態、形態において、愚かさに捕われている恐れがあります。

続きます。

No.1011 - 2008/08/03(Sun) 09:26:12

Re: 束縛と解放 / ubik0101
ここには、葛藤と無葛藤は、束縛と解放は。あきらかに。あることと、その反対のことではない。と看做されています。あることと反対のことは、同じことと、いうことを自らに、適応していません。それだけのことです。

このこと全体は、意識できる状態、できない形態に関わらず、やはり、あることと、その反対のことは同じこと。の領域でしか機能してないかもしれません。ではなぜ、そうなのでしょう。

そしてまた。あることと、その反対のことは、同じこと。それは苦悩、葛藤だけに適応されるとは限りません。慈しみも憎しみも、愛・・・厳格も、放任も、優しさ・・・さて、このような何でもありの世界にあって人は、どうすればいいのでしょうか。どうしなければいいのでしょう。

そのうち続きます。

No.1012 - 2008/08/03(Sun) 09:50:09

Re: 束縛と解放 / ubik0101
このようなことを理解するためには、自分の状態を観察することだけで可能でしょうか。断じて、否。それでは、ただ、苦悩、葛藤が・・・自我、欲望・・・が機能してる、だからそれが見える。状態。または機能してても見えない。形態。それだけのことではないでしょうか。

あれやこれや行動したり、発言したり、思考してる、そういうことを対象にしてる、その自分こそ、知られねばならないことではないでしょうか。

たとえば知覚と直接行動。それとそれ、を結び付けることとは欲望に支配されてること、と気が付くかもしれません。そうなら人は、ほとんど必然的に否定の道を歩きます。その思考の、その背後を探り、露にするのです。

ここで見逃していけないのは、たとえば権力欲、顕示欲・・・苦悩、葛藤・・・自我、欲望・・・などが機能してるとして、それを排除する、削除する、という意味での否定をしてはならないということです。

そのような厭うべき人の状態、形態は、もしかして、なんだかの良い特質の準備段階かもしれません。その泥の沼から咲くのは蓮の花かもしれません。

続きます。

No.1013 - 2008/08/03(Sun) 17:06:03

Re: 束縛と解放 / ubik0101
たとえば権力欲は、ほかの人に、自分がすべきことをさせて満足するのではなく。その人が、ものごとを十全になしとげるということの萌芽かもしれません。偽善は、その人が、良い人になるための通り道かもしれません。権力を嫌うということは、対極を必要としない優しさの種かもしれません。自我は無我の、欲望は無欲の可能性、まだ幼い姿かもしれません。

それでも。そのような闇雲な否定をしたとしても、それは人の採り得る状態、形態であり、なんだということはないのですが。しかも何も否定することはできず、ただ自分や、ほかの人に隠すことができ得るだけですが。誰かから教えてもらった、否定の道は、そこに陥り、留まりやすいのです。そこに留まることに無駄なエネルギーを使いやすいのです。

しかしそのようでも、つねに、その自分、その自分を、問わねばなりません。それは、ほかの人に向かうのではなく、自分に向かわねばなりません。なにかを分かったつもりでいるなら、そのわかったつもりでいることの背後、それを探るのです。

そのうち続きます。

No.1014 - 2008/08/03(Sun) 17:21:10

Re: 束縛と解放 / ubik0101
なぜ、これは、こうなのでしょう。それを探るのです。たとえば。あることと、その反対のことは同じです。とか思考するなら。なぜ、それは、そうなのでしょう。と、問うのです。こうである必要がないのに、なぜ、これはこうなのかと、問うのです。

けど。ただ伝統的な教えにしても、それに反対する教えにしても、誰かの言うことを受け入れただけで、その人が発見したことでないなら。その人は、ありのままに生きるとか、なにかを求めて得るなら既知のものですとか、なんとでも言うにしても。それを生きていず、なぜこれはこうなのかと、問うことに及ばないものです。

そして、とりあえず自分の状態を問うことができるならば。理解するということは、どういう意味なんでしょう。意味ということは、どういう意味なんでしょう。それを探る言葉は、どのように機能するのでしょう・・・これは、なぜ、このようにあるのでしょう・・・そのようなことは、真摯に思考する人には、それ自らが開示してくれます。

続きます。

No.1015 - 2008/08/04(Mon) 12:56:54

Re: 束縛と解放 / ubik0101
そうでなく、どうして思考することさえできるのでしょう。そうしてる自分を探ることさえできるのでしょう。どうして自分が空想してる、ということさえ気がつくことができるでしょう。そこには傲慢が隠れてるかもしれず、そうならば、そのことが、そのことを、問う人に開示してくれます。

このように人は、自分を州として、自分を島として、自分を拠り所として、歩まねばなりません。しかしその自分、それは、まったくなにも拠り所が見いだせないのです。

No.1016 - 2008/08/04(Mon) 13:15:14
相手を受け入れる素地 / ルー
今朝、急に気づいたのです。
私には、「相手を受け入れる素地が無い」ということに。
それは、とても恐ろしいことです。
すべてを自分で切り盛りしていかねばならないのですから、大変です。
そんな大変なことを、私はしようとしていたのでした。

No.991 - 2008/08/01(Fri) 09:37:59

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
そういうことに気づいたということは、
すでに、
そうでない自分に気づいたということだと思います。

そして、それは相手を受け入れる素地が無いの、
反対の、相手を受け入れる素地が有る。ではないのでしょう。

もし無いの反対の有るなら、
たとえば「すべてを自分で切り盛りしていかねばならない」
の反対の姿勢に、振れるだけ、の可能性があります。

そうなら、それと類似なこと
無関係なことについても
人としての有り様は変わりありません。
支配してるつもりで
支配されてるということです。

そういうことからの解放。
相手を受け入れる 素地が、有る無いを、包括して成長してた
自分に気がついた。

もしかして自分の思い通りにしたいという
傾向があって。そうする中心を空想してたけど
その空想が不要になった。それこそ
空想できない自覚できない安息日の主。

ということかな。と思いました。

No.993 - 2008/08/01(Fri) 10:51:14

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「相手を受け入れる素地」というのは、物として、在るか無いか、だと思うんです。
これは、観念ではなくて、物だと思うのです。
「無い」と気づいた私は、「相手を受け入れる素地」というものがこの世に存在するのだということを知った私でした。
それまでは、「相手を受け入れる素地」というものの存在を知らない私でした。
そして、それが、「無い」と気づいたのです。
「それが無いからしんどいのだ」と気づいたのです。
「無い」と気づいた時、それ(相手を受け入れる素地)は、私の中に生まれたと思います。
私の中に生まれた相手を受け入れる素地の上に、相手を住まわせながら、これからは生きていくのだと思います。
すべてを自分で切り盛りしなくてもいいので、少しは楽です。たぶん、すべての責任を自分で背負おうとしていたのだと思います。

No.994 - 2008/08/01(Fri) 11:17:49

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「すべてを自分で切り盛りしていかねばならない」の反対の姿勢というのは、どんなものなのでしょう。
「すべてを他人が切り盛りしていかなくてはならない」かな。反対に振れる状態というのは、そういうことでしょうか。
それとも、「すべてを自分で切り盛りしていかなくてもよい」なのでしょうか?

多分、「無い」が「在る」になったのは、反対のものになったのではないのだと思います。

No.995 - 2008/08/01(Fri) 11:33:56

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
例えば、「心が無い」というのと、「心がある」というのは、反対ではないでしょう?
No.996 - 2008/08/01(Fri) 11:38:29

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
例えば、「すべての責任を自分で背負おうとしていた」と「すべての責任を他人に背負ってもらう」なら、反対のものですか?
それとも、「すべての責任を自分ひとりで背負わなくてもよい」と思うことが、反対のものですか?

反対のものを掴もうとしているのかどうか、ハッキリと知りたいので、しばらく考えてみます。

No.997 - 2008/08/01(Fri) 11:45:20

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
そう思ったのですが、今は、「相手を受け入れる素地」というものの存在に気づいたことを祝って、自分がどうであるとか、反対のものであるとかは考えずにおきます。
気づくきっかけは、その反対のものに気づいたからなのですが、だからといって、それが、自分の満足のためであるとは思えないので。

とにかく、「相手を受け入れる素地が無い」という状態に気づいた時は、びっくりしました。

No.998 - 2008/08/01(Fri) 11:54:34

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
素地がないということは、つまり、空中格闘ですよ。
そりゃあ、疲れるでしょうよ。

No.999 - 2008/08/01(Fri) 11:57:11

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
>多分、「無い」が「在る」になったのは、反対のものになったのではないのだと思います。

うん。反対のものになったのではありません。単に人任せにしてしまう。「すべてを他人が切り盛りしていかなくてはならない」なら、無責任になる。だけど、そのことで実は、見張ったり支配したくて、葛藤してる。のが、いわゆる反対のもの、だと思います。

また「すべてを自分で切り盛りしていかなくてもよい」も、程度問題かもしれません。なので、そういうことでなく、そういうことを包括して解放された自分に、気がついた。のだと思いました。

そして、その気がついた自分、そういうことに依存しない自分。それは空想できない自覚できない安息日の主ではないでしょうか。

No.1000 - 2008/08/01(Fri) 11:57:17

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「空想できない」という言葉の意味が、ちょっとわかりました。
「安息日の主」は、まだちょっとわかりません。
そのうちわかるかも〜
私は、私の具体的な問題にひっかかりながら、それを解きながら、うびさんが使う言葉の意味がわかったりして、おもしろいね。

No.1003 - 2008/08/01(Fri) 16:57:40

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
>そのうちわかるかも〜

うん。楽しみです。ふつうは、自己は自己を対象にできないんです。それでも、それが自覚できてしまうことがあります。神から自分を見て信じる信仰や、自分が自分を思う自我は、その練習のような状態です。

そして、自己を自覚して。さらに。その体験を理解すると、その体験に捕われたりすることも、そこで見た自己を掴んだりする・・・残響のような自我・・・も必要なくなり、忘れます。

それで、自覚できない自己を、自覚できない自己、と呼ぶことができます。それが安息日の主です。それは完全に無自覚です。この意味でも人は無我です。

(もしかしてですが、自己を自覚してないとしても。すでに人が主であれば、あらためて自覚の体験の必要がない、ということもあり得るかもしれません)。

No.1004 - 2008/08/01(Fri) 20:14:19

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
「安息日の主」というのは、「人が主である」というのと同じ意味ですか。
No.1005 - 2008/08/02(Sat) 02:00:25

Re: 相手を受け入れる素地 / ubik0101
>「安息日の主」というのは、「人が主である」というのと同じ意味ですか。

うん。イエス・キリストの言葉の通りです。説明としては、安息日は人のためにあり、人は安息日のためにあるのではありません。そんな人は、あらゆることの主であり奴隷ではない、という意味です。倒錯から解放された、という意味です。

しかし。人が、この主を、対象にすると、つまり空想したり思考したりすると、倒錯です。

まったく同じことですが「人が主である」の「人」を、ほかの人のこと、また自分のこと、一般的な誰かのことと想定、空想、思考すると、そういう仕方で対象にすると、倒錯です。この 「人」は、まったく、自覚できないのです。

なのに、自分が自分を思うことは、ふつうは空想であり、それは執着、つまり倒錯の作用です。

ここで混乱を避けるために・・・主と奴隷、これは、比較できることではないほどの。まったくの逆です。たとえば、「あることと、その反対のことは同じこと」。などという思考は、それらが、どちらも自我の機能ならば、同じ。といった程度のことです。

たとえば暴力と、(呼び名はともかく)非暴力。これ、比較できることではなく。同じことではありません。「あることと、その反対のことは同じこと」。とは。暴力の範疇で働く空想の非暴力は、暴力。と言ってるに過ぎません。そんな形式の思考が、そもそも執着、倒錯です。

ルーさんのいう、相手を受け入れる素地が、有る無いも、そういう意味での、反対のもの、ではないのではないでしょうか。

No.1006 - 2008/08/02(Sat) 08:06:45

Re: 相手を受け入れる素地 / ルー
あー、なるほど。よくわかりました。
私がひっかかっているところが、そのままピッタリとわかってもらえているみたいです。
「自我の機能ならば」というところがミソなんですね。
私は、そういう時点での検討をしているのではないので、話がすれ違うのだということが、よくわかりました。ありがとうございます。

「空想できない」というのは、「リアルに生きること」というふうに解釈しています。

「安息日の主」は、今のところ、空想できません。
なので、それについて話せないという感じdす。

No.1007 - 2008/08/02(Sat) 11:34:05
腑に落ちる / ルー
「腑に落ちる」って何だろうかと思います。
あの方の死について、いろいろと考え、情報を得ようとしたのは、腑に落ちないものを腑に落ちるようにしたかったのだと思います。
そして、私の場合、「母について」ものすごくエネルギーを費やして考えてきたのも、腑に落ちるようにしたかったのだと思います。
「腑に落ちる」のは、いいことです。
だって、もうそれ以上は、そのことについてエネルギーを費やさずに済むのですから、他の事(本来の仕事など)に精を出すことができ、時間を有意義に使えます。
しかし、「腑に落ちる」までの時間は、どうなのかと思います。
それが、ものすごく膨大な時間とエネルギーを要するものであるとしたら・・・
そして、その「腑に落ちた」結果、得たものが、間違っているものだとしたら・・・?
「その得た結果によって、さらに葛藤が続くのですよ!」という脅しも耳に入ってきますが。
しかし、その継続される葛藤が収束した時点のことを「腑に落ちた」と言うのですよね。
ですから、本当に腑に落ちたのなら、それでいいじゃないですか。腑に落ちたあとも、生きていかねばならないのですから、その腑に落ちた結果に得た物というものも、変化していくことはあるでしょう。
しかし、一旦は、腑に落ちるまでは、考えたいのです。
腑に落ちる責任があると思います。
腑に落ちないまま生きていくなんて、わけのわからぬ子供のままに生きていくようなものです。

No.990 - 2008/08/01(Fri) 09:21:10

Re: 腑に落ちる / ubik0101
じたばたするときは、徹底して、じたばたする。思考するなら、徹底して根掘り葉掘り、思考する。そうでなく、悟ってないのに初めから悟ったつもりで努力しない人の有り様は、自然外道とか、無事禅とか呼ばれていると思います。

じつは、単なる印象ですが、そういう人は、悟った人よりも、希少だと思います。そうであり続けるために、努力しないという努力をしてて、そこから離れられず、そのためにエネルギーの無駄をし、成長を自分で拒んでいるように見えます。

それも、人の採り得る有り様の一種であり、どうだということではありませんが。それだけじゃ、せっかく生きてて、もったいない。なにかを考えるにしても、考えないにしても、その何かではなく、その努力が・・・努力しないという努力も、ある意味では凄い努力ですが・・・それさえいずれ不要になるとしても・・・大切と思います。

また。葛藤は収束しますが。たとえ疑問が解けず、腑に落ちないとしても。たとえば自分とは何か、世界とは何か?これは、こうだとして解決できない問題もあるでしょう。そのことは、そのことで自分を鍛える負荷として意味があると、思います。

No.1001 - 2008/08/01(Fri) 12:08:50

Re: 腑に落ちる / ルー
うん。そう思います。
No.1002 - 2008/08/01(Fri) 16:53:27
形態。 / ubik0101
なにかに依存しない人の状態は、可能です。たとえば家や財産や名誉。自我や欲望・・・その機能は依存なのですが・・・その人に於いて対象になる、あるいは対象になる可能性のある総てに依存しないことは可能です。

ここで、なにかの対象に依存する状態は、対象になってないことには依存する、しない、とかの意識もしようがないのですが。それほど愚かな状態であり、自分が依存してることにさえ無知であり得ます。そこにはそれを意識する、しないに関わらず、分裂、対立が起こります。

そうでなく知覚できる、または知覚できる可能性のある対象に依存しないということは、飛躍、変容が起こったということです。それは、そうでない状態、つまり、なにかに依存する状態、とは断絶があります。それでも、注意深く素直でないと、そのような自分に依存する、状態が起こることがあります。 つまり、対象に依存しない、ということに依存する可能性があります。

そうならば、その状態は世界に投影され、その人に知覚できるようになります。その人が世界に、自分の状態を見ようと、確認しようとする意志が働いているからです。それで、自分の依存しない状態を、意識的に確認するという働きを発生させます。

また、もっと簡単に。なにかに依存してる、ほかの誰か、を見て嫌うかもしれません。そんな人は、それを意識する、しないに関わらず、依存を否定する運動を常時、行っています。それが生活の機縁などによって、見えたり見えなかったりするだけです。 それは無我を張る。なども同様です。

ここにも、意識する、しないに関わらず、たとえば既知と未知。思考と現実。などの分裂、対立が起こります。それは、その人の、行動、発言、思考に、明確に見えるように投影されているのですが、なかなか気がつかないのが実情のようです。

そのことにも依存しないこと。つまり依存しないことにも依存しないこと。そこにも実は、そうでないこととの、つまり依存しないことに依存する状態との、断絶があります。それは、なにかに依存するとか、しないとか、とある状態でさえありません。

あえて意識する、しないに関わらず、たとえば依存を否定する必要も、肯定する必要もなくなります。意識すると、しないで、事態が変わるということは奇妙なんです。おなじようなことですが、葛藤としての思考、技術的な思考。自我、欲望。無我、無欲。それを区別することも、否定も肯定もする必要がありません。

それで、その人は、依存する、しない、を世界に投影して確認する必要がなくなります。依存する、依存しないという機能が完成され、役目を果たしたのです。ほかの言い方では、その人の形態が滅します。

No.978 - 2008/07/30(Wed) 09:37:02

Re: 形態。 / suho
> それで、その人は、依存する、しない、を世界に投影して確認する必要がなくなります。依存する、依存しないという機能が完成され、役目を果たしたのです。ほかの言い方では、その人の形態が滅します。

素朴な質問です。
「役目」とはなんのための役目なのでしょうか。
「役目」を終えた後、自己はなにをするのでしょうか。
「形態」とは物質的な意味でしょうか、それとも、なんらかの表象のことでしょうか。

No.979 - 2008/07/30(Wed) 12:45:56

Re: 形態。 / ubik0101
>「役目」とはなんのための役目なのでしょうか。

なにかに依存したり、しなかったりという機能が
人が成長するための、負荷としての役目を果たしています。

>「役目」を終えた後、自己はなにをするのでしょうか。

できれば、さらに頑張って先を見る、になるのでしょう。

>「形態」とは物質的な意味でしょうか、それとも、なんらかの表象のことでしょうか。

ここでは、
その人の状態、という意味です。

No.980 - 2008/07/30(Wed) 13:15:20

Re: 形態。 / 大阪
依存しないことにも依存しない。


依存しないことに依存する、は。

「依存してはいけない」という思考や「自我なんて、ない」という思考など、そんな自分の思考に依存している状態、そう捉えると納得出来ました。

これまでうびさんが口を酸っぱくして言っていたのと同じことなんですけど。


ここのところはよく、それに依存していた自分の状態、仕組み、を見直しておかないといけない気がします。

でないと、また同じことをしそうです。

No.981 - 2008/07/30(Wed) 17:01:34

Re: 形態。 / 大阪
追伸

燕は南の国で、何をして過ごすんでしょうね。南の国の人たちに、なんて呼ばれてるんでしょう、南の国で見ると、ひとつイメージが違うでしょうね。一度、一緒に行ってみたいもんです。

No.982 - 2008/07/30(Wed) 19:00:31

Re: 形態。 / ubik0101
そうですね。依存しないことに依存する。と、依存しないことに依存しない。これは対概念ではありません。同列に比較、対応していません。なので、ここも、直接の方法と言うか、道を辿ることは難しいのです。

ただ、あの体験をした人は、いわば無自覚だけど達してて。意識が邪魔をしてるだけなので、投影(鏡としての世界)の仕組み、知覚の機能、などを理解して失うことで、おなじことを繰り返す・・・躓く・・・必要がなくなるのだと、感じています。

なんか燕って、巣立ちしてすぐに南に向かうのではないかと感じてしまいます。ところで、もうすぐ引っ越しする予定です。大阪さんの地区から新幹線で3時間くらいのところに住むことになります。

No.983 - 2008/07/30(Wed) 19:56:18

Re: 形態。 / 大阪
きちんと言葉にして表現していないと、人が同じことに躓いていても、何も言ってあげられない、ということにもなるのかもしれませんね。


ほんとに、意識は色んなことを気にしています。

部屋の家具や本、靴、CDに埃がたまります、買った時は綺麗でも使ったり放ったらかしていくうちにどうしても汚くなります。

それが凄く気になって、部屋ごと一度、水で丸洗いしてしまおうか、なんて考えることがあります。


酔っ払ったりすると、「ぴっかぴかやんけ」とか思うんですけど。




つまり大阪、から新幹線で3時間ということは、博多ですか?

No.984 - 2008/07/30(Wed) 21:09:10

Re: 形態。 / ubik0101
> 部屋の家具や本、靴、CDに埃がたまります、買った時は綺麗でも使ったり放ったらかしていくうちにどうしても汚くなります。

これ。なんか、神秀と恵能の話を思い出しました。

> それが凄く気になって、部屋ごと一度、水で丸洗いしてしまおうか、なんて考えることがあります。

ホースの水で、部屋中を洗う、そんな夢を見たことがあります。たぶん、地下室でした。

> つまり大阪、から新幹線で3時間ということは、博多ですか?

ううん。逆方向、東京近郊です。

No.985 - 2008/07/30(Wed) 21:31:26

Re: 形態。 / suho
> >「役目」とはなんのための役目なのでしょうか。
>
> なにかに依存したり、しなかったりという機能が
> 人が成長するための、負荷としての役目を果たしています。


相対関係。相互反対。相互依存。肯定と否定。
これらの関係が、運動を生じさせ、迷いを生じさせ、葛藤を生じさせ、苦楽を生じさせ、現象を生じせしめる力の基底でしょうか。
偏って安定しようと思っても、実は偏らせてくれない運動。
偏って安定をしたと思っても、実は偏らせてくれない運動。
そんな運動の中で、人はその両極を統合せざるを得ないプロセスそのものなのかもしれないと感じました。

> >「役目」を終えた後、自己はなにをするのでしょうか。
>
> できれば、さらに頑張って先を見る、になるのでしょう。


なんとなくですが。
両極を統合せざるを得ないプロセスというのは、知覚する世界が変わっても、ずーっと続くプロセスのような気がします。このプロセスが成長なのかなと感じます。

> >「形態」とは物質的な意味でしょうか、それとも、なんらかの表象のことでしょうか。
>
> ここでは、
> その人の状態、という意味です。


例えば「知覚」は自己の形態が滅しているからこそ生じている現象の様に感じます。そうでない人は誰もいない。
でも、対象を創造し「依存しようとしている」場合、知覚のしくみを知ることはできないのかな、と感じます。
で、知覚のしくみを知ったとしても、その状態が、また「依存であった」ということに気づき、さらに知ったとして、また依存であった、ということに気づき、というふうに、成長はどこまでも続いているような気がしています。
なので、ウビさんがおしゃるような「依存にも依存しない」という滅の状態でさえ、別の次元からみれば「偏り」という可能性もあるのでは、というふうに感じますが、いずれ空想です。

No.986 - 2008/07/31(Thu) 00:19:35

Re: 形態。 / ubik0101
>相対関係。相互反対。相互依存。肯定と否定。
>これらの関係が、運動を生じさせ、迷いを生じさせ、葛藤を生じさせ、苦楽を生じさせ、現象を生じせしめる力の基底でしょうか。
>偏って安定しようと思っても、実は偏らせてくれない運動。
>偏って安定をしたと思っても、実は偏らせてくれない運動。
>そんな運動の中で、人はその両極を統合せざるを得ないプロセスそのものなのかもしれないと感じました。


ここまでが人、ここからが世界、といった明確な区別が不能です。たとえば「なにかに依存したり、しなかったりという機能」、自我や欲望や思考、これは世界の機能なんですが、「人」は、それと別ではなく同じでもなく。この世界と人、区別できないのに区別してる、矛盾というか、渾沌というか、そんな関係があって。そこに自分という立場が生起する。それは世界が成長するために人を成長させる運動・・・のりさんが言ってた・・・そんな感覚を、suhoさんへの返信を書きながら感じていました。

>例えば「知覚」は自己の形態が滅しているからこそ生じている現象の様に感じます。そうでない人は誰もいない。
>でも、対象を創造し「依存しようとしている」場合、知覚のしくみを知ることはできないのかな、と感じます。
>で、知覚のしくみを知ったとしても、その状態が、また「依存であった」ということに気づき、さらに知ったとして、また依存であった、ということに気づき、というふうに、成長はどこまでも続いているような気がしています。
>なので、ウビさんがおしゃるような「依存にも依存しない」という滅の状態でさえ、別の次元からみれば「偏り」という可能性もあるのでは、というふうに感じますが、いずれ空想です。


たとえば元の意味はともかくとして「非難も正当化もない観察」という言葉があります。けど。まず非難も正当化もなければ、観察できるような、なにかを非難、正当化する思考が生じないと思います。

つまり非難も正当化もなければ、たとえば心理的な葛藤としての思考は知覚されないので、その知覚されない思考を「非難も正当化もない観察」するのは不可能と思います。つまり観察できるということは、非難、正当化してるってことです。

そして「非難も正当化もない観察」という姿勢も。それを思考したり、主張したりするなら。また、心理的な葛藤の思考と、そうでない実用的な思考や、現実と比較したりしてるなら。それは非難、正当化です。また、それを思考しなくても、それに依存、縛られているなら、とある形態・・・価値観、世界観だと思います。

(ただ、非難、正当化という形式をとって、なにかの思考や主張が内容として現れるだけで、それは非難、正当化には拘わらない、とは言えます。たとえば「相対関係。相互反対。相互依存。肯定と否定。」も非難、正当化として現れ得ます。だからといって、それが非難、正当化とは限りません)。

おなじように。たとえば「依存しないにも依存しない」思考が機能する限りは、とある非難、正当化の状態です。また、そう思考しても思考してなくても人が、そこに躓いてるなら、とある形態、と言えると思います。

そして、さらに。たとえば「非難も正当化もない観察」「依存しないにも依存しない」など、なんにしても・・・ここはたとえば知覚、空想、自我などの機能を見尽くさないと縛られてると言えますが・・・解放されたとして。形態の滅が最後ではない、と思えます。これは、なぜそれはそうなのか?を問うことでもあり、とんでもない遥かな道に感じます。

でも、たとえば人が自我を話題にするのは。自我という実体として、ない、ことを扱うのが楽しい、面白い、それで遊ぶ。それだけのことかもしれない。とか思ったりもします。でも。 これも、なぜそれはそうなのか?と問えます。そこから学ぶことが沢山と思います。

とりあえず、なんにしても。否定も肯定もない、ということは。人の構成要素の総てが完全に機能してる、自我、無我、欲望、無欲、も好き嫌いしない。覚醒状態のことです。

No.987 - 2008/07/31(Thu) 09:19:44

Re: 形態。 / suho
>形態の滅が最後ではない、と思えます。これは、なぜそれはそうなのか?を問うことでもあり、とんでもない遥かな道に感じます。

「なぜそれがそうなのか?」と問う時、すでにその次元を超えていると感じます。一方で、それは未知の次元との出会いでもあり、葛藤のはじまりでもあると思います。で、学びが生じ、未知の次元が顕在化され、統合されるのだと感じます。そして更に。。と、とんでもなく面白いことが連続するのだと感じます。むふふ。
で、たぶん、好きなところで留まる事もできるし、突き進むこともできる。そんな感じがします。

No.988 - 2008/08/01(Fri) 00:46:39

Re: 形態。 / suho
で、未知との出会いが「恋」で、統合が「愛」と感じます。
今見ている次元では「未知」の表象が「異性」であると感じます。
「恋」にとどまれば葛藤し「愛」にとどまれば満たされるとなりますが、世界はそうかんたんにとどまれせてはくれないのではないでしょうか。

という空想で遊んでいます。

No.989 - 2008/08/01(Fri) 00:55:54

Re: 形態。 / ubik0101
ちょい繰り返します。たとえば、「どんな対象にも依存しない」という人の状態にいる人がいるとして、やはりその人には、なにかの気がつかない隠れた思考の形式・・・価値観、世界観・・・たとえば求めなければ不完全な自分に気がつかない、だから求めなければ完全と思い違う、とかがあると思われます。

そんな人が「依存しない自分に依存してた」ということは、それまでの隠れた思考の形式では気がつかず埋没してることに気がついたことと思います。そこでは、そんな自分の状態は、能動的な姿勢、受動的な姿勢などの、行動、発言、思考として、世界に投影されてるので、その事実の観察というより、その投影の仕組みを理解する必要があります。

そして「依存しないことにも依存しない」は、投影の仕組みを見ることでは、 無理と思います。そこでは、おそらく、それまでは隠れていた、実感を求める知覚の機能を理解する必要があります。これは、どの状態でも、これはなぜこうなのか?と問うてきた結果と思います。

と、しても。そのような経緯は、それぞれの人が手探りで、みな人は同じではないかもしれません。また複雑に絡み合ってるようです。そこで。なぜこれがこうなのか?と問うことは、ひとつには経緯を復習し、それまでの全体の仕組みを理解することにありそうです。

ひとつには理解すると、その理解も忘れてしまうので、そこからまた、始める。これは果てしないけど。それならそうで、どこまでも。と思います。これはなぜこうなのか?ということは一応は、不思議、知らない、で解決するのですが、それさえ、これはなぜこうなのか?

もしかして、世界の機能を・・・たとえば感覚、感情、思考・・・それは誰の機能というわけではないのに、人は自分の機能だと、思い違って、それを研究したりするところに、そうしている中心が生起するのかもしれません。

これは、まず自我の仕組みとして見られることですが・・・だからといって自我を拒否するなら、やはりなにかの思考の形式に埋没するだけで・・・もっと基本的な人の有り様が、そうなのかもしれないと思います。

いくら迷っても、恋をしても。それまで学んだことは忘れても、失うことはないので。たとえば平穏を離れてるわけでも、平穏を求めてるわけでもなく。平穏でありながら探究するのだと思います。それが「非難も正当化もない観察」かもしれません。

No.992 - 2008/08/01(Fri) 10:41:03
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