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腑に落ちる / ルー
「腑に落ちる」って何だろうかと思います。
あの方の死について、いろいろと考え、情報を得ようとしたのは、腑に落ちないものを腑に落ちるようにしたかったのだと思います。
そして、私の場合、「母について」ものすごくエネルギーを費やして考えてきたのも、腑に落ちるようにしたかったのだと思います。
「腑に落ちる」のは、いいことです。
だって、もうそれ以上は、そのことについてエネルギーを費やさずに済むのですから、他の事(本来の仕事など)に精を出すことができ、時間を有意義に使えます。
しかし、「腑に落ちる」までの時間は、どうなのかと思います。
それが、ものすごく膨大な時間とエネルギーを要するものであるとしたら・・・
そして、その「腑に落ちた」結果、得たものが、間違っているものだとしたら・・・?
「その得た結果によって、さらに葛藤が続くのですよ!」という脅しも耳に入ってきますが。
しかし、その継続される葛藤が収束した時点のことを「腑に落ちた」と言うのですよね。
ですから、本当に腑に落ちたのなら、それでいいじゃないですか。腑に落ちたあとも、生きていかねばならないのですから、その腑に落ちた結果に得た物というものも、変化していくことはあるでしょう。
しかし、一旦は、腑に落ちるまでは、考えたいのです。
腑に落ちる責任があると思います。
腑に落ちないまま生きていくなんて、わけのわからぬ子供のままに生きていくようなものです。

No.990 - 2008/08/01(Fri) 09:21:10

Re: 腑に落ちる / ubik0101
じたばたするときは、徹底して、じたばたする。思考するなら、徹底して根掘り葉掘り、思考する。そうでなく、悟ってないのに初めから悟ったつもりで努力しない人の有り様は、自然外道とか、無事禅とか呼ばれていると思います。

じつは、単なる印象ですが、そういう人は、悟った人よりも、希少だと思います。そうであり続けるために、努力しないという努力をしてて、そこから離れられず、そのためにエネルギーの無駄をし、成長を自分で拒んでいるように見えます。

それも、人の採り得る有り様の一種であり、どうだということではありませんが。それだけじゃ、せっかく生きてて、もったいない。なにかを考えるにしても、考えないにしても、その何かではなく、その努力が・・・努力しないという努力も、ある意味では凄い努力ですが・・・それさえいずれ不要になるとしても・・・大切と思います。

また。葛藤は収束しますが。たとえ疑問が解けず、腑に落ちないとしても。たとえば自分とは何か、世界とは何か?これは、こうだとして解決できない問題もあるでしょう。そのことは、そのことで自分を鍛える負荷として意味があると、思います。

No.1001 - 2008/08/01(Fri) 12:08:50

Re: 腑に落ちる / ルー
うん。そう思います。
No.1002 - 2008/08/01(Fri) 16:53:27
形態。 / ubik0101
なにかに依存しない人の状態は、可能です。たとえば家や財産や名誉。自我や欲望・・・その機能は依存なのですが・・・その人に於いて対象になる、あるいは対象になる可能性のある総てに依存しないことは可能です。

ここで、なにかの対象に依存する状態は、対象になってないことには依存する、しない、とかの意識もしようがないのですが。それほど愚かな状態であり、自分が依存してることにさえ無知であり得ます。そこにはそれを意識する、しないに関わらず、分裂、対立が起こります。

そうでなく知覚できる、または知覚できる可能性のある対象に依存しないということは、飛躍、変容が起こったということです。それは、そうでない状態、つまり、なにかに依存する状態、とは断絶があります。それでも、注意深く素直でないと、そのような自分に依存する、状態が起こることがあります。 つまり、対象に依存しない、ということに依存する可能性があります。

そうならば、その状態は世界に投影され、その人に知覚できるようになります。その人が世界に、自分の状態を見ようと、確認しようとする意志が働いているからです。それで、自分の依存しない状態を、意識的に確認するという働きを発生させます。

また、もっと簡単に。なにかに依存してる、ほかの誰か、を見て嫌うかもしれません。そんな人は、それを意識する、しないに関わらず、依存を否定する運動を常時、行っています。それが生活の機縁などによって、見えたり見えなかったりするだけです。 それは無我を張る。なども同様です。

ここにも、意識する、しないに関わらず、たとえば既知と未知。思考と現実。などの分裂、対立が起こります。それは、その人の、行動、発言、思考に、明確に見えるように投影されているのですが、なかなか気がつかないのが実情のようです。

そのことにも依存しないこと。つまり依存しないことにも依存しないこと。そこにも実は、そうでないこととの、つまり依存しないことに依存する状態との、断絶があります。それは、なにかに依存するとか、しないとか、とある状態でさえありません。

あえて意識する、しないに関わらず、たとえば依存を否定する必要も、肯定する必要もなくなります。意識すると、しないで、事態が変わるということは奇妙なんです。おなじようなことですが、葛藤としての思考、技術的な思考。自我、欲望。無我、無欲。それを区別することも、否定も肯定もする必要がありません。

それで、その人は、依存する、しない、を世界に投影して確認する必要がなくなります。依存する、依存しないという機能が完成され、役目を果たしたのです。ほかの言い方では、その人の形態が滅します。

No.978 - 2008/07/30(Wed) 09:37:02

Re: 形態。 / suho
> それで、その人は、依存する、しない、を世界に投影して確認する必要がなくなります。依存する、依存しないという機能が完成され、役目を果たしたのです。ほかの言い方では、その人の形態が滅します。

素朴な質問です。
「役目」とはなんのための役目なのでしょうか。
「役目」を終えた後、自己はなにをするのでしょうか。
「形態」とは物質的な意味でしょうか、それとも、なんらかの表象のことでしょうか。

No.979 - 2008/07/30(Wed) 12:45:56

Re: 形態。 / ubik0101
>「役目」とはなんのための役目なのでしょうか。

なにかに依存したり、しなかったりという機能が
人が成長するための、負荷としての役目を果たしています。

>「役目」を終えた後、自己はなにをするのでしょうか。

できれば、さらに頑張って先を見る、になるのでしょう。

>「形態」とは物質的な意味でしょうか、それとも、なんらかの表象のことでしょうか。

ここでは、
その人の状態、という意味です。

No.980 - 2008/07/30(Wed) 13:15:20

Re: 形態。 / 大阪
依存しないことにも依存しない。


依存しないことに依存する、は。

「依存してはいけない」という思考や「自我なんて、ない」という思考など、そんな自分の思考に依存している状態、そう捉えると納得出来ました。

これまでうびさんが口を酸っぱくして言っていたのと同じことなんですけど。


ここのところはよく、それに依存していた自分の状態、仕組み、を見直しておかないといけない気がします。

でないと、また同じことをしそうです。

No.981 - 2008/07/30(Wed) 17:01:34

Re: 形態。 / 大阪
追伸

燕は南の国で、何をして過ごすんでしょうね。南の国の人たちに、なんて呼ばれてるんでしょう、南の国で見ると、ひとつイメージが違うでしょうね。一度、一緒に行ってみたいもんです。

No.982 - 2008/07/30(Wed) 19:00:31

Re: 形態。 / ubik0101
そうですね。依存しないことに依存する。と、依存しないことに依存しない。これは対概念ではありません。同列に比較、対応していません。なので、ここも、直接の方法と言うか、道を辿ることは難しいのです。

ただ、あの体験をした人は、いわば無自覚だけど達してて。意識が邪魔をしてるだけなので、投影(鏡としての世界)の仕組み、知覚の機能、などを理解して失うことで、おなじことを繰り返す・・・躓く・・・必要がなくなるのだと、感じています。

なんか燕って、巣立ちしてすぐに南に向かうのではないかと感じてしまいます。ところで、もうすぐ引っ越しする予定です。大阪さんの地区から新幹線で3時間くらいのところに住むことになります。

No.983 - 2008/07/30(Wed) 19:56:18

Re: 形態。 / 大阪
きちんと言葉にして表現していないと、人が同じことに躓いていても、何も言ってあげられない、ということにもなるのかもしれませんね。


ほんとに、意識は色んなことを気にしています。

部屋の家具や本、靴、CDに埃がたまります、買った時は綺麗でも使ったり放ったらかしていくうちにどうしても汚くなります。

それが凄く気になって、部屋ごと一度、水で丸洗いしてしまおうか、なんて考えることがあります。


酔っ払ったりすると、「ぴっかぴかやんけ」とか思うんですけど。




つまり大阪、から新幹線で3時間ということは、博多ですか?

No.984 - 2008/07/30(Wed) 21:09:10

Re: 形態。 / ubik0101
> 部屋の家具や本、靴、CDに埃がたまります、買った時は綺麗でも使ったり放ったらかしていくうちにどうしても汚くなります。

これ。なんか、神秀と恵能の話を思い出しました。

> それが凄く気になって、部屋ごと一度、水で丸洗いしてしまおうか、なんて考えることがあります。

ホースの水で、部屋中を洗う、そんな夢を見たことがあります。たぶん、地下室でした。

> つまり大阪、から新幹線で3時間ということは、博多ですか?

ううん。逆方向、東京近郊です。

No.985 - 2008/07/30(Wed) 21:31:26

Re: 形態。 / suho
> >「役目」とはなんのための役目なのでしょうか。
>
> なにかに依存したり、しなかったりという機能が
> 人が成長するための、負荷としての役目を果たしています。


相対関係。相互反対。相互依存。肯定と否定。
これらの関係が、運動を生じさせ、迷いを生じさせ、葛藤を生じさせ、苦楽を生じさせ、現象を生じせしめる力の基底でしょうか。
偏って安定しようと思っても、実は偏らせてくれない運動。
偏って安定をしたと思っても、実は偏らせてくれない運動。
そんな運動の中で、人はその両極を統合せざるを得ないプロセスそのものなのかもしれないと感じました。

> >「役目」を終えた後、自己はなにをするのでしょうか。
>
> できれば、さらに頑張って先を見る、になるのでしょう。


なんとなくですが。
両極を統合せざるを得ないプロセスというのは、知覚する世界が変わっても、ずーっと続くプロセスのような気がします。このプロセスが成長なのかなと感じます。

> >「形態」とは物質的な意味でしょうか、それとも、なんらかの表象のことでしょうか。
>
> ここでは、
> その人の状態、という意味です。


例えば「知覚」は自己の形態が滅しているからこそ生じている現象の様に感じます。そうでない人は誰もいない。
でも、対象を創造し「依存しようとしている」場合、知覚のしくみを知ることはできないのかな、と感じます。
で、知覚のしくみを知ったとしても、その状態が、また「依存であった」ということに気づき、さらに知ったとして、また依存であった、ということに気づき、というふうに、成長はどこまでも続いているような気がしています。
なので、ウビさんがおしゃるような「依存にも依存しない」という滅の状態でさえ、別の次元からみれば「偏り」という可能性もあるのでは、というふうに感じますが、いずれ空想です。

No.986 - 2008/07/31(Thu) 00:19:35

Re: 形態。 / ubik0101
>相対関係。相互反対。相互依存。肯定と否定。
>これらの関係が、運動を生じさせ、迷いを生じさせ、葛藤を生じさせ、苦楽を生じさせ、現象を生じせしめる力の基底でしょうか。
>偏って安定しようと思っても、実は偏らせてくれない運動。
>偏って安定をしたと思っても、実は偏らせてくれない運動。
>そんな運動の中で、人はその両極を統合せざるを得ないプロセスそのものなのかもしれないと感じました。


ここまでが人、ここからが世界、といった明確な区別が不能です。たとえば「なにかに依存したり、しなかったりという機能」、自我や欲望や思考、これは世界の機能なんですが、「人」は、それと別ではなく同じでもなく。この世界と人、区別できないのに区別してる、矛盾というか、渾沌というか、そんな関係があって。そこに自分という立場が生起する。それは世界が成長するために人を成長させる運動・・・のりさんが言ってた・・・そんな感覚を、suhoさんへの返信を書きながら感じていました。

>例えば「知覚」は自己の形態が滅しているからこそ生じている現象の様に感じます。そうでない人は誰もいない。
>でも、対象を創造し「依存しようとしている」場合、知覚のしくみを知ることはできないのかな、と感じます。
>で、知覚のしくみを知ったとしても、その状態が、また「依存であった」ということに気づき、さらに知ったとして、また依存であった、ということに気づき、というふうに、成長はどこまでも続いているような気がしています。
>なので、ウビさんがおしゃるような「依存にも依存しない」という滅の状態でさえ、別の次元からみれば「偏り」という可能性もあるのでは、というふうに感じますが、いずれ空想です。


たとえば元の意味はともかくとして「非難も正当化もない観察」という言葉があります。けど。まず非難も正当化もなければ、観察できるような、なにかを非難、正当化する思考が生じないと思います。

つまり非難も正当化もなければ、たとえば心理的な葛藤としての思考は知覚されないので、その知覚されない思考を「非難も正当化もない観察」するのは不可能と思います。つまり観察できるということは、非難、正当化してるってことです。

そして「非難も正当化もない観察」という姿勢も。それを思考したり、主張したりするなら。また、心理的な葛藤の思考と、そうでない実用的な思考や、現実と比較したりしてるなら。それは非難、正当化です。また、それを思考しなくても、それに依存、縛られているなら、とある形態・・・価値観、世界観だと思います。

(ただ、非難、正当化という形式をとって、なにかの思考や主張が内容として現れるだけで、それは非難、正当化には拘わらない、とは言えます。たとえば「相対関係。相互反対。相互依存。肯定と否定。」も非難、正当化として現れ得ます。だからといって、それが非難、正当化とは限りません)。

おなじように。たとえば「依存しないにも依存しない」思考が機能する限りは、とある非難、正当化の状態です。また、そう思考しても思考してなくても人が、そこに躓いてるなら、とある形態、と言えると思います。

そして、さらに。たとえば「非難も正当化もない観察」「依存しないにも依存しない」など、なんにしても・・・ここはたとえば知覚、空想、自我などの機能を見尽くさないと縛られてると言えますが・・・解放されたとして。形態の滅が最後ではない、と思えます。これは、なぜそれはそうなのか?を問うことでもあり、とんでもない遥かな道に感じます。

でも、たとえば人が自我を話題にするのは。自我という実体として、ない、ことを扱うのが楽しい、面白い、それで遊ぶ。それだけのことかもしれない。とか思ったりもします。でも。 これも、なぜそれはそうなのか?と問えます。そこから学ぶことが沢山と思います。

とりあえず、なんにしても。否定も肯定もない、ということは。人の構成要素の総てが完全に機能してる、自我、無我、欲望、無欲、も好き嫌いしない。覚醒状態のことです。

No.987 - 2008/07/31(Thu) 09:19:44

Re: 形態。 / suho
>形態の滅が最後ではない、と思えます。これは、なぜそれはそうなのか?を問うことでもあり、とんでもない遥かな道に感じます。

「なぜそれがそうなのか?」と問う時、すでにその次元を超えていると感じます。一方で、それは未知の次元との出会いでもあり、葛藤のはじまりでもあると思います。で、学びが生じ、未知の次元が顕在化され、統合されるのだと感じます。そして更に。。と、とんでもなく面白いことが連続するのだと感じます。むふふ。
で、たぶん、好きなところで留まる事もできるし、突き進むこともできる。そんな感じがします。

No.988 - 2008/08/01(Fri) 00:46:39

Re: 形態。 / suho
で、未知との出会いが「恋」で、統合が「愛」と感じます。
今見ている次元では「未知」の表象が「異性」であると感じます。
「恋」にとどまれば葛藤し「愛」にとどまれば満たされるとなりますが、世界はそうかんたんにとどまれせてはくれないのではないでしょうか。

という空想で遊んでいます。

No.989 - 2008/08/01(Fri) 00:55:54

Re: 形態。 / ubik0101
ちょい繰り返します。たとえば、「どんな対象にも依存しない」という人の状態にいる人がいるとして、やはりその人には、なにかの気がつかない隠れた思考の形式・・・価値観、世界観・・・たとえば求めなければ不完全な自分に気がつかない、だから求めなければ完全と思い違う、とかがあると思われます。

そんな人が「依存しない自分に依存してた」ということは、それまでの隠れた思考の形式では気がつかず埋没してることに気がついたことと思います。そこでは、そんな自分の状態は、能動的な姿勢、受動的な姿勢などの、行動、発言、思考として、世界に投影されてるので、その事実の観察というより、その投影の仕組みを理解する必要があります。

そして「依存しないことにも依存しない」は、投影の仕組みを見ることでは、 無理と思います。そこでは、おそらく、それまでは隠れていた、実感を求める知覚の機能を理解する必要があります。これは、どの状態でも、これはなぜこうなのか?と問うてきた結果と思います。

と、しても。そのような経緯は、それぞれの人が手探りで、みな人は同じではないかもしれません。また複雑に絡み合ってるようです。そこで。なぜこれがこうなのか?と問うことは、ひとつには経緯を復習し、それまでの全体の仕組みを理解することにありそうです。

ひとつには理解すると、その理解も忘れてしまうので、そこからまた、始める。これは果てしないけど。それならそうで、どこまでも。と思います。これはなぜこうなのか?ということは一応は、不思議、知らない、で解決するのですが、それさえ、これはなぜこうなのか?

もしかして、世界の機能を・・・たとえば感覚、感情、思考・・・それは誰の機能というわけではないのに、人は自分の機能だと、思い違って、それを研究したりするところに、そうしている中心が生起するのかもしれません。

これは、まず自我の仕組みとして見られることですが・・・だからといって自我を拒否するなら、やはりなにかの思考の形式に埋没するだけで・・・もっと基本的な人の有り様が、そうなのかもしれないと思います。

いくら迷っても、恋をしても。それまで学んだことは忘れても、失うことはないので。たとえば平穏を離れてるわけでも、平穏を求めてるわけでもなく。平穏でありながら探究するのだと思います。それが「非難も正当化もない観察」かもしれません。

No.992 - 2008/08/01(Fri) 10:41:03
素朴な疑問。 / ubik0101
なぜ、自我は、問題になるのでしょう。

たとえば自我など、ないのに、あると思ってることは、事実誤認だからでしょうか。ある人が、世界、また自分と、分裂して葛藤を起こすからでしょうか。なにかを主張しすぎて、ほかの人との軋轢を引き起こすからでしょうか。

ほかの人の自我の強さを見て嫌い、ほかの誰かから見ての自分を空想して、自分の自我を嫌われたくないからでしょうか。 また自我の機能が苦痛だからでしょうか。

そうだとしても。たとえば自我の解決を求める努力をしてるとしたら、そのことは、まだ自我が解決されてないということです。しかし。なにか解決を求めないというだけでは、解決してるということではありません。それは解決したゆえの、求めない、とは違います。

なのに。たとえば自我の解決などを求めないことによって、すでに解決していると思い違うことができます。また自らの自我の機能を知覚できないから問題はないと看做すことによって、すでに解決していると思い違いできます。それも自我の機能です。それは、いわば自我の受動的な機能です。

それは、いわゆる自我。いうならば、なにかを主張する自我の能動的な機能も。主張しない受動的な機能も。自我でありながら、そうと気がつかずに、それに埋没してるという意味で変わりありません。

しかし真摯に求める人は。そうではなく、なにか神や仏陀や悟りなどの目標を持って求めるとしても、知らないことを求めているのです。そして、どうしようもなく、ほかにできることなど何もなく、自分の状態を学び続けます。

それは、自分を知りたいという努力です。ここでも知りたいと求めないなら、知ってるわけではありません。すでに知ってると思いたいから、求めない、ということもあるでしょう。

それは巧妙で奇妙です。が、人は、そういうことを、ほかの誰かではなく、自分でしています。なので、それは困難でも自分で理解できます。

そんな自己を真摯に知る努力をする人は、また。なにも分裂とか、葛藤とか、軋轢とか、それからの解放を求めてるのでは絶対に、ありません。そんなことは実際、問題にさえなりません。

そして、その求めることが完成され、それから解放されて、その問題が自我、また欲望だった。と了解します。その人はその仕組みを見ます。

そうなら、その理解は無(潜在)意識に及びます。自我や欲望、苦痛を知覚できないから、それは、ない、というのは、傲慢で、それは、たとえば執着しないことに執着してることです。

そして。能動的でも受動的でも、自我が機能するなら、それは世界に投影され、その人の姿が、その人に見えることを知ります。 たとえば受動と能動、両極端を空想しながら、それから解放されることは困難です。

そのような自我や欲望、それは理解されてないから機能するのであり・・・理解されれば問題としては機能しなくなりますが・・・とくに自我、また欲望の、束縛や解放を、好き嫌いすることもありません。なら、その人の姿は世界に映る必要がなくなります。

スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」。

No.971 - 2008/07/27(Sun) 23:06:33

Re: 素朴な疑問。 / 大阪
自我を問題にするのは、どんな人なのでしょうか。

自我があると思い込んでいて、思い込んでいると思ってもいない人は、自我を問題にするでしょうか。

したとして、正しく自我を捉えられるでしょうか。

そういう人にとっては問題は、自我があること、働いていること、ではなく、自分はジコチューで我が強い、まだまだだ、自分のことしか考えていない、とかという風に感じられると思います。



もしかして、自我を問題にするのは、自我の仕組みを見た人なのではないでしょうか。

そうだとすれば、というか、どちらにせよ。

そんな自我の仕組みを見た人が、自我の問題を解決するには、どうすれば良いのでしょうか。

自我の仕組みを見直す、納得するまで見たことを言葉にすれば良いのでしょうか。

No.972 - 2008/07/28(Mon) 16:47:21

Re: 素朴な疑問。 / ubik0101
自我の仕組み見る、というのは体験です。それを理解しようとすることは、その体験を対象にして研究することになるので、それを研究してる、その状態にも問題が発生します。

たとえば自分の無我を実感したくて、自分の無我を掴んでしまう。また、ほかの人に自我を見てしまう。また、体験を特別視したり、無視してしまう。そのことに意味付けられた、偏った行動をしたり、話したり、思考したりすることになります。

そういう状態は、世界に投影されているので、自分に見えるようになっています。そんな自分を理解し、学ぶことによって人は、さらに成長します。見たことを正確に言葉にして理解することは、その有力な、ほとんど唯一の手段と思います。

そうでなく。見たことの、理解が徹底してなかったり、いい加減な誰かの解釈に当てはめてしまったり、ただ感覚的に捉えたり、理解せず放置したりすると。それ相応な、世界に投影された中途半端な状態に巻き込まれ、捕われてしまうことがあります。せっかくの体験が、生かされない恐れがあります。

つまり。「 納得するまで見たことを言葉に」するということは、見たことを表現するということでもありますが。それだけでなく。そうしてる自分の有り様を学ぶ、成長する。残響のような自我を見て理解する。解決する。その意味があります。

そうと気がつきもしてなかったのに支配されてた、その自我の仕組みを見たということは、理解すべきことが明確になる。そんな体験とも言えるかもしれません。

No.973 - 2008/07/28(Mon) 19:40:44

Re: 素朴な疑問。 / 大阪
言われる通りになりました。

僕はずっと、どうしても他の人の自我を見てしまって、最近、気づけば、周りに嫌いな人しかいなくなっていました。

それで、愛おしかった気持ちを思い出そうとしたり。

無我を張る、とも言えそうです。

きっと、自分が自我を理解していないことで起こる苦痛を、人の自我の責任にしていたんでしょう。

それで、あの体験の、自我はない、というところから書いているところに、今回のうびさんの投稿がありました。


今更ですが、うびさんは人の躓くところを良く知っておられますね。


では帰って作業を続けます。

すぐにまた何か、質問に来るかもしれません。

いや、単に、世間話をしに来るかもしれません。

No.974 - 2008/07/28(Mon) 22:54:58

Re: 素朴な疑問。 / ubik0101
あらためて思えば。なにかの状態になったら・・・それは自分の行動、発言、思考に現れるので、それを理解する・・・そのことで、その内容も、その仕組みも学びながら、その自分の状態の理解が進んで行きます。

そして、それが、それまで気がつかなかった深いところにある(変な言い方)ことの開示に繋がる、と思います。

うん。世間話も、いいですね。この部屋の隣の駐車場の蛍光灯の笠の上に燕の巣があります。ぢゃ、ぢゃ、ぢゃ、と鳴いて餌を求める雛も、けっこう大きくなって、飛ぶ練習を始めています。

No.975 - 2008/07/29(Tue) 07:15:54

Re: 素朴な疑問。 / 大阪
うびさんは自分の状態を、とても正直、素直に見つめていて、それだから、成長・理解に繋がるような自分の有り様をちゃんと発見出来る。

そんな印象です。

どうすればそんなに正直、素直になれるのか、と聞きたくなります。


昨日思ったのですが。

自分は人と話したり仲良くしたり分かりあうことを拒否しているのでは、と。

人の話を良く聞かず、自分が相手に良く思われたく話してしまうのです。

ちゃんと聞けばもっと、相手の気になっていることや、言って欲しい言葉も分かるのに。

それはもしかして人に対して「あなた自身を愛すより、僕を愛しなさい」と思ってるのではないか、と思いました。

あの愛のことを思うと、人にそうしてもらうことなんて本当に必要ないことなんですけど。



ふふふ。

燕の雛の飛ぶ練習、ってどんなものなんですか?

巣の中でバッサバッサやるのですか、それとも実際に外を飛んでいるのですか?

No.976 - 2008/07/29(Tue) 12:32:33

Re: 素朴な疑問。 / ubik0101
ただ、自分を弁護する立場から自分を見たり、自分で自分に隠し事をしない。直視。それだけのことだと思います。

こんなことを言っては、いけないのかも知れないけど。すでに大阪さんは、愚かなために何かに依存して自己主張し、軋轢が起きてるわけではないと思うので。人間関係が順調でなくても、気にすることはないと思います。

それよりも、自分を研究する準備もできてるし、それに集中したほうが、どちらかと言えば、いいように思います。

燕の雛は、巣の縁に掴まって、羽ばたいていました。いま、確認しに行ったら、3羽ともいなかったので、巣立ちしたのでしょう。けっこう長崎には沢山の燕が、ひらひら飛んでいます。これから南の国に向かうのだと思います。

すこし今日は、バスで遠出して、郊外の海岸まで行ってきました。まだほとんど人家もなく、自然の砂浜があって、数組の家族連れが海水浴。そんな風景でした。

No.977 - 2008/07/29(Tue) 15:33:28
暑いですね^^ / ルー
「無理を承知で、なりふり構わず求めるしかない場合があります」という文章は、かなり気に入りました。

正しいとか間違っているとか効率とかを考える余裕もないほど、切羽詰って、勢いで飛び込んでいくというか、そういうことを人はすることがあって、それは、愛っぽいです。

No.950 - 2008/07/13(Sun) 16:26:55

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
たしかに暑いですね。

ところで。自分の行動や発言や思考を、非難また正当化することが、どうして問題なのでしょう。なぜ非難も正当化もなく観察することを、よし、とするのでしょう。たとえば誰かと葛藤が起きたら・・・それはすでに非難や正当化ですが・・・それを徹底的に突き詰めるべきではないでしょうか。

そのためにこそ、葛藤はあるのです。そうしなくて、どうして、葛藤させてる判断の根拠が見えるでしょう。その限界を探り尽くさないために、中途半端なために、その補償作用として。たとえば、ほかの人への反発とかの、なんだかの軋轢が起きるとも言えます。

No.952 - 2008/07/13(Sun) 18:09:45

Re: 暑いですね^^ / ルー
非難なしに、正当化することなしに、葛藤なしに、好き嫌いなしに、比較なしに、観念なしに、こだわりなしに、努力なしに、尊重なしに、信じることなしに、、、、、、、ただし、ものづくりとの比較だけはOK(んー、ものづくりと比較してどうーなるのか、全く不思議)
まー、それは、もしかして、がんじがらめ?
ものづくりと比較するのが、もっとも自然なことなのでしょうね〜その人にとっては。
かわいそうなほどです。
両親とも教師の人って、結構、不幸です。
がんじがらめ。

No.953 - 2008/07/13(Sun) 20:35:57

Re: 暑いですね^^ / ルー
すみません。
誹謗中傷っぽいことを書いてしまいました。
そんなつもりはなかったのに。
指が勝手にキーを押していたんですっ
不幸だなんて決め付けて、ごめんなさい。

えーっと、突き詰めて考えるべきだと思いますよ。
そうしないと本当のことは見えないと思います。

No.954 - 2008/07/13(Sun) 20:45:57

Re: 暑いですね^^ / suho
ウビさんこんばんわ。

> ところで。自分の行動や発言や思考を、非難また正当化することが、どうして問題なのでしょう。なぜ非難も正当化もなく観察することを、よし、とするのでしょう。たとえば誰かと葛藤が起きたら・・・それはすでに非難や正当化ですが・・・それを徹底的に突き詰めるべきではないでしょうか。

これKの言ってることの問題として書かれているのかなと、だとして。
僕の感覚では、非難や正当化が起きていることをさらに非難や正当化せずに観察すること。例えば、自分の中で非難や正当化が起き、そしてそこからどんどん考えを詰めていく、という運動が起きたら、そのままに、その運動のままに抑圧せずに見守る、ということを言っているのかなと理解していましたが。。
つまり、どんな心理運動が起きても、その内容によらず、そのままに見る感じる、ということなのかなと。

No.955 - 2008/07/13(Sun) 22:07:34

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
うん。たとえば実用的思考と、心理的思考を、区別するのは、なにか狂っています。まったく奇妙です。それは、やはり平穏だったら無問題、という規範に捕われて、そこから判断しているのかもしれません。それは偏ってるというより、歪んでると思います。

そういえば、どこかの掲示板で、心理的思考がなければ愛がある。とかいう投稿を見ましたが。自分で確認してないことを言ってはならないと思いました。自分で確認したことなら、誤ったことを言うほうが、まだましです。

>両親とも教師の人って、結構、不幸です。

どういう意味か、誰のことか、判りませんが。どういう生まれであれ、懸命になれない、がむしゃらになれない人はいます。すると、そういう事態が、その人にとって、蜘蛛の糸なんですが。すでに自分は解放されてると思い込んで、解放を自ら、拒絶する人も、たしかに見たことがあります。

なんにしても。自己であれ、神であれ、覚醒であれ、なり振り構わず求めないで、どうして求められるのか、と思います。

なのに。求めて見い出すなら、見い出されたことは既知のことだから、偽物。という人も見たことがあります。 なにも、どこにも既知のことなどないのに。ま。そいうことを言う人は、そいうことを言う人で、それなりの役割はあるのでしょう。

そんな。そいう人を思いきり批判しても無問題です。それは、批判してる、その人の問題ですから。そのようにして互いに誰も学んでるのですから。そのことを理解しないことが、問題なだけです。

>えーっと、突き詰めて考えるべきだと思いますよ。
>そうしないと本当のことは見えないと思います。


うん。ルーさんは、なり振り構わない求道者と、睨んでいます。ネット上だけど、知り合えて、嬉しいとか、感謝するとかいうことではないのだけど。よかった、と思います。

No.956 - 2008/07/13(Sun) 22:12:08

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
suhoさん。こんばんは。

そうです。たとえば非難、正当化してることを、非難、正当化しないで観察する。ということは、非難、正当化を、突き詰める。ということです。非難、正当化の拒否ではありません。

とことん非難、正当化してる事態を探究する、という意味です。そのためには極限の、激しい、非難、正当化が役に立つと思います。

No.957 - 2008/07/13(Sun) 22:27:02

Re: 暑いですね^^ / suho
> そうです。たとえば非難、正当化してることを、非難、正当化しないで観察する。ということは、非難、正当化を、突き詰める。ということです。非難、正当化の拒否ではありません。
>
> とことん非難、正当化してる事態を探究する、という意味です。そのためには極限の、激しい、非難、正当化が役に立つと思います。


はい。
Kの表現(あるいは訳)は、どうもその辺を勘違いさせてしまうのでないか、と感じます。
「Kの見る」を使って、魅力的な知覚を体験したい、という思いに気づけないでいる。というかその想いを抑圧している。Kが「そんな意図を持ってはダメだ」といっているから(笑
と解釈し、それを疑っていないから。
それで、グルグルと同じところをまわりはじめるのだと思います。

ところで、ここ数日、アーヴィン・ラズロという方の「生ける宇宙―科学による万物の一貫性の発見 」という本を読んでいるのですが、なかなか面白いです。
量子力学や物理学などの最先端では、宇宙で起っている全ての情報や宇宙的な意思、創造の場を「Aフィールド」と名づけ万物に通低する包括的な概念を提唱するまでに至っているようです。
Aフィールドは「量子真空」と表現されていて、ようするに僕らが知覚している時空間では特定できない「場」であり、全ての物質現象、心理現象、知覚、個の意識が生じるおおもとであり、情報の記憶媒体であり、「量子真空でない場」はないと言っています。
そしてこれは「進化」の方向性を持って、あらゆるはたらきを生じせしめている精神のようなもの、とまで書かれています。
うーん。科学もここまで進んでいたのかと感慨深いものを感じました。

No.958 - 2008/07/13(Sun) 23:05:43

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
Aフィールド
初めて聞きました。

うーん。じゃぁこの世界は、
なぜ、こうなってるの?という疑問は
どこまでも続くような気がしますが、
なんだか、人の成長って、
闇雲ではなく
合目的的なところがあるように思えます。

No.959 - 2008/07/14(Mon) 09:08:06

Re: 暑いですね^^ / ルー
> うん。たとえば実用的思考と、心理的思考を、区別するのは、なにか狂っています。まったく奇妙です。それは、やはり平穏だったら無問題、という規範に捕われて、そこから判断しているのかもしれません。それは偏ってるというより、歪んでると思います。

「平穏だったら無問題」という地点が目標にされているのだと思います。
平穏を愛しているのでしょう。
平穏にはいかない世の中のあれやこれやについて、それでも平穏に対処することが一番だと思っているのでしょう。
それこそ、間違っていても自分の確認したことを行っているのかも知れません。

> そういえば、どこかの掲示板で、心理的思考がなければ愛がある。とかいう投稿を見ましたが。自分で確認してないことを言ってはならないと思いました。自分で確認したことなら、誤ったことを言うほうが、まだましです。

あー、「心理的思考がなければ愛がある」という文章は、私も見ました。
そこまでいくと、もう、言葉遊びのような感じがします。
愛を求めてもいないくせに、愛について語りたがるようですね。愛なんて、そんなところにはないでしょーに。

> >両親とも教師の人って、結構、不幸です。
>
> どういう意味か、誰のことか、判りませんが。どういう生まれであれ、懸命になれない、がむしゃらになれない人はいます。すると、そういう事態が、その人にとって、蜘蛛の糸なんですが。すでに自分は解放されてると思い込んで、解放を自ら、拒絶する人も、たしかに見たことがあります。


教師の人は、学校だけではなく家の中でも社会の中でも、自分は教師らしくあらねばならないと思って、人を導こうとする傾向にあるようです。
子供にしてみれば、教師は学校だけでよいのに、家の中でも親じゃなくて教師がいるのでは、まともに育ちにくいのではないかと思いました。特に愛情面が。
深いところで洗脳されていると思います。
教師や警察官などは、世間の対面を気にするので、「問題などあるはずがない」ということを子供に強いるかも知れません。

> なんにしても。自己であれ、神であれ、覚醒であれ、なり振り構わず求めないで、どうして求められるのか、と思います。

自分というものを、どこか、あきらめているのではないかと思うフシがあります。求めているフリをしているだけのように思えます。ダメでもいいじゃない、それも受け入れましょう〜とか。ダメではいけない時があるのですが。それが必要なのだという切羽詰った状態にはならないのですね。

> なのに。求めて見い出すなら、見い出されたことは既知のことだから、偽物。という人も見たことがあります。 なにも、どこにも既知のことなどないのに。ま。そいうことを言う人は、そいうことを言う人で、それなりの役割はあるのでしょう。

「見出されたことは既知のこと」というのは、それを既知だと決めてしまっているのが、すでに、「見出されたことは既知のこと」だという世界に住んでいることの証明ですね。

No.960 - 2008/07/14(Mon) 09:13:45

Re: 暑いですね^^ / ルー
> >えーっと、突き詰めて考えるべきだと思いますよ。
> >そうしないと本当のことは見えないと思います。
>
> うん。ルーさんは、なり振り構わない求道者と、睨んでいます。ネット上だけど、知り合えて、嬉しいとか、感謝するとかいうことではないのだけど。よかった、と思います。


うん。お互いが「場」となっている気がします。

No.961 - 2008/07/14(Mon) 09:29:58

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
いまさらとは思いますが。人は、どのようかの有り様であって、その自己認識ができないから、ほかの人と衝突して、自分の有り様を見る機会を得るのでしょう。

けど、それでは、あれこれとして見えるだけの自分です。そんなことをしても、自己でないことを見てるので、永遠に困難、無駄な努力と思われるかもしれません。

だからといって、そんな騒ぎを避けて努力を嫌い、平穏を求めても、成長を放棄してるだけです。そうすると、無意識さえ、このままで人は完全だ。だから努力は不要とか、人は不完全な生き物とか、いろんな空想をして、成長を放棄してることの代用品にします。

けど。そういうことからも、また学ぶことができます。それが成長の手段になり得ます。そのように、どんなことも役に立つ、あまりに人は恵まれてると言えます。

それに甘えて怠惰になったりします。でも。そのことにも気がつくことができます。気がつかないのは、気がつかないように、自分で操作して隠してるからです。それは、たしかに巧妙です。

と、いったことも自分で掘り返しながら。なんであれ、なり振り構わず頑張る。求める人は、見い出すと思います。そうなら、結果的に、努力も怠惰も傲慢も、善も悪も、嘘も、空想も、総てが必要だった、と知ります。

No.962 - 2008/07/14(Mon) 12:27:51

Re: 暑いですね^^ / suho
> Aフィールド
> 初めて聞きました。


例えば、仏教で言うところの輪廻転生(生まれ変わり)や、遠く離れているのに情報を伝達できるような科学で証明できない不思議な能力も全て包括的に説明がつくと書かれていました。

> うーん。じゃぁこの世界は、
> なぜ、こうなってるの?という疑問は
> どこまでも続くような気がしますが、


はい、そうですね。
この本の中では、今僕らが知覚しているの宇宙が生じたのは、単なる偶然の産物ではなく、Aフィールドにストックされている「他の宇宙」の創造に関する情報をもとに、より進化したものとして意図的に創造された、というふうに解釈していますね。Aフィールドの中では、それこそ無数の「宇宙」が創造されていて、その情報をストックし続け、そしてそれぞれにフィードバックし続けている、と考えるようです。

> なんだか、人の成長って、
> 闇雲ではなく
> 合目的的なところがあるように思えます。


Aフィールド自体の進化、成長という目的のために、的なところは感じますね。

No.963 - 2008/07/14(Mon) 12:45:16

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
おーし、それならそれで、遥かな道、どこまでも。です。
No.964 - 2008/07/14(Mon) 18:05:38

Re: 暑いですね^^ / hato

> おーし、それならそれで、遥かな道、どこまでも。です。


遙かな道。どこまでも。
すごいです。

No.965 - 2008/07/14(Mon) 23:51:38

Re: 暑いですね^^ / suho
> おーし、それならそれで、遥かな道、どこまでも。です。

ウビさんと小林秀雄。似たような匂いを感じる。
ということで、これをきっかけに、前から気になっていた小林秀雄をぼちぼち読み始めようか、と思いましたが、さてどうなることやら。

No.966 - 2008/07/15(Tue) 00:29:22

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
hatoさん。

たぶん。頑張るぞって、
意識しないでも、そう機能する・・・
そのように、そいうことも忘れて、
歩くのでしょう。

suhoさん。

そういえば小林秀雄。学生時代に、
「 考えるヒント」って書名だけ見て
まったく読まずに、
考えることなんか、誰かに教えてもらわなくていい、とか
感想文を提出したことを思い出しました。

No.967 - 2008/07/15(Tue) 12:01:54

Re: 暑いですね^^ / suho
> そういえば小林秀雄。学生時代に、
> 「 考えるヒント」って書名だけ見て
> まったく読まずに、
> 考えることなんか、誰かに教えてもらわなくていい、とか
> 感想文を提出したことを思い出しました。


ウビさんらしくてイイ感じ。

で、まさしくいま「考えるヒント」を読み始めているのですが、あらあら大変です。
この方の言葉は、あまりにも繊細で素直で、僕の粗い意識はただただ言葉の隙間をダダ流れするだけ、ということになっています。では引き続きダダ流れの世界へ戻ります。

ウビさん、どうもでした。

No.968 - 2008/07/16(Wed) 00:20:56

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
こちらこそ、どうも。です。「考えるヒント」アマゾンに注文しました。
No.969 - 2008/07/16(Wed) 07:49:56

Re: 暑いですね^^ / hato

> そういえば小林秀雄。

そういえば長崎で、ふと小林秀雄さんのことに触れたら、ubik0101さんはちょっと懐かしそうに、やはりこんな話しをしていて。日記のどこかに、それについてのコメントがあったと思います。

> たぶん。頑張るぞって、
> 意識しないでも、そう機能する・・・
> そのように、そいうことも忘れて、
> 歩くのでしょう。


ほんとうに。
そうですね。
ありがとうございます。

No.970 - 2008/07/16(Wed) 23:36:10
理解。 / ubik0101
たとえば、いま、ここ。不思議。でもいいのですが。ある人が、その自分の有り様を表現するなら。それは自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という印象があって、なにか違和感があることがあります。

そうだとして。たとえば天上天下唯我独尊、を思考します。するとその思考が自分の有り様の表現なら、つまりそれを理解してるなら、自分と違う視点から自分を見てる空想は不要になり、天上天下唯我独尊は思考として持続できません。その瞬間に、天上天下唯我独尊、は消滅してしまいます。

いまここ。無我もなければ自我もない。依存しないことにも依存しない。とか、なんでもいいのですが、その思考が、自らを閉じてしまいます。そして、ふつうに見えたり聞かれたりされてる世界が現前します。それで人は、なにも考えることもなく、日常を生きます。

とくに意識せずに、いまここであり、ただの人であり、不思議であり、 天上天下唯我独尊です。これが学ぶ人の日常ではないでしょうか。はじめは無知ゆえに学ぶべき問題が知覚できないとしても、それを理解したら思考を知覚する必要がなくなります。

たとえば愛を忘れ、自己を忘れ、実在を忘れ、日常に生きながら。なんでもないけど、なんでもあり。依存しないことにも依存しないのではないでしょうか。

けれど、そのように理解されたことは、意識に昇らないままに、その人に機能してると思います。それだから人は、ほかの人から尋ねられたりすると、それについて説明できるのだと思います。そうであれば、自分と違う視点から自分を見るから、空想、という違和感は起こらないと思います。

また、空想、ということが理解され、意識に昇らないでも、その人に機能してるなら。すでに、自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という問題から解放され、違和感がない、ということもあります。

そうでなく。その表明が自己表明でないなら、つまり人が自分の有り様を理解してないなら。その思考は、この思考を理解して欲しいと、その人に留まり繰り返されるのだと思います。

No.937 - 2008/07/09(Wed) 07:59:02

Re: 理解。 / peer
まあ、ともかく。自分の外部に展開されている世界、すべてが自分の内面なのだ、と理解されていることが必要、でしょうね。そこが土台でしょうから。
No.938 - 2008/07/09(Wed) 10:30:04

Re: 理解。 / ubik0101
ふーむ。あらためて指摘されると。とりあえずは、たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、として、現れると思います。つまり自分との差が知覚。そして人の意識は、現れたこと(現象)しか、見たり聞いたり思考したりできないと思います。

だからといって人は、自分が自分を(空想しなければ)知覚できるわけではありません。そこで。風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)は自分の知覚の対象だから、自分ではない、と決めることは不可能です。

また風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)しか知覚できないから、それは自分だと、決めるのも不可能です。どちらにしても、 対象にできることは、完全にどちらかだということはないって、ことになるように思えます。

でも、どうであれ対象にできるということは、自分と無関係ということではないので、 世界と、自分は、不可分です。そして対象にできること(現象)と、対象にできないこと(素直さなどのよい特質。愛。自己。実在。理解された思考)も無関係でないと思えます。

No.939 - 2008/07/09(Wed) 20:44:53

Re: 理解。 / peer
>たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、
>として、現れると思います。


単純に現すと「たとえば風景や樹や鳥や人や総て」を
どういうものだ、こういうものだと認識している自分。
ということです。
どう認識するか、ですから、当然私達ひとりひとりの
認識する世界は、違うものになります。
どう認識しているかが個性といえましょうか。

No.940 - 2008/07/10(Thu) 00:29:24

Re: 理解。 / ubik0101
その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。 あるいは、人は自分が何かの世界観を持ってないと思っても、ほかの人から見たりしたら、そうでもない。ということもありそうです。

ということは世界は、そのまま、ありのままの姿では認識できない。その人なりの世界観によらずには、見ることができない、と理解したのは。peerさんは、どんな認識にもよらない世界を見た。ということかもしれません。また。そう理解したというのも、そういう認識、世界観なのかもしれません。

ところで。「ひとりひとりの認識する世界は、違う」として、そこから、どういう意味が汲み取れるのでしょう。その人なりの、ありのままにしか見れないと言うことは、人は、どんなことを行動しても、話しても、思考しても結局は、その世界としての自分を学んでる、作ってる、しかない。ということなのでしょうか。

No.941 - 2008/07/10(Thu) 08:36:55

Re: 理解。 / peer
たとえば、口煩いお姑さんがいます。何かに付けて若いお嫁さんを叱りつける。とします。こうじゃない・・ああじゃない・・ダメだねぇ。と言う。

「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」と、受け取るお嫁さんが居ます。
「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」と、受け取るお嫁さんが居ます。

どちらも、おなじお姑さんであるのに、対応も心の持ち様も違いますから。前者は、その口煩いお姑さんを『上手く使って』要領良く生活するでしょうし、常にニコニコしている。かもしれません。
後者は・・・想像するに、地獄を生きているようなもの。でしょうか。
世界がどのようにあろうとも、無関係で無問題。
どのように生きるのも、その人なり。と、なりましょうか。

No.942 - 2008/07/10(Thu) 15:07:28

Re: 理解。 / ubik0101
ま。 お姑さんにとって、どっちの、若いお嫁さんが良いとか悪いとか判らない。てこともあるかもしれません。

「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとっては、甘えさせてもらってるだけ・・・

「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとって学ばせてもらえる・・・そして、それぞれに類似の認識も、無関係な認識も、逆の認識も、ありそうです。

つまり、どっちの若いお嫁さん自身の態度が、どのように、お姑さんに影響するか判りません。お姑さん次第です。お嫁さんも、お嫁さん次第です。また。おなじ出来事からも、それぞれが、いろんな意味を汲み取れそうです。

そいうことの総てを理解して、学んで成長すれば。お互いに、相手の、どれかの限定された態度にも、とくに依存、執着する必要がなくなるわけで。そのことで自分の行動、発言、思考が、左右されなくなる、偏らなくなる。かもしれません。

それでもまあ課題があるとすれば、こんなことを考えてる。考えない。こんなことを判断する。判断しない。それがそのまま、peerさんとか、ubik0101の有り様を示すようです。

No.943 - 2008/07/10(Thu) 23:49:31

Re: 理解。 / peer
はい。そのままがその人の有り様でしょう。
>その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。

前者の若いお嫁さんと後者の有り様は、違う状況でも展開される可能性はありましょう。
直属の上司と、新入社員になった場合でも、同じようなパターンになりがち。
前者ならば、上司をたてて、素直に従うでしょうし、後者の世界認識をしていると、絶えず反発して空回りしつづける。とか。
学ぶというのは、自分のパターンに気づいて行く。ということでもありましょうか。

No.944 - 2008/07/11(Fri) 10:15:32

Re: 理解。 / ubik0101
それでは困難です。お姑さんと若いお嫁さんの場合、上司と新入社員の場合、そのような関係に埋没していたとして、その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。

つまり理解とは、その、いつ何が起きるかも知れない可能性。また無(潜在)意識の理解でなくては、対症治療になります。根本治療としては実効しません。それこそ迷いです。

また。たとえば人間関係の葛藤が苦しいから、苦しくないように望んでの理解なら。それは、楽を求めてることであり、それは、苦しくなければいい、平穏、静寂ならいい、という限定された解放かもしれません。

そのようにして、たとえば人間関係の葛藤からの解放を得ても。その解放されたという状態に、依存してしまう可能性があります。

どの場合も、その人の有り様は世界に投影され、自分で見えるようになりますが。これも、振り返ってみたら、自分のパターンがあった。ということに気がつくかもしれませんが。自分の有り様が、鏡としての世界に映っていても、それに気がついていても気がつかず、埋没するかもしれません。

ここは、なにかをしたりしなかったりする。その自分は何?を見る。経験する。ことが、望ましいでしょう。実は、自分が思う自分なんて、幻想だったんだよ。って、了解することが必要だと思います。

そうであれば、ふつうの場合は、問題解決は一気であり、瞬間に行われざるを得ません。たとえば部分的な理解、ということはあり得ないからです。そうならば、さまざまな経緯があるでしょうが。人は、自己、愛、実在を、了解します。学ぶということは、そこからが始まりです。

No.945 - 2008/07/11(Fri) 12:44:14

Re: 理解。 / peer
>その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。

はい。ですから、パターンを見つけるコトが、切り口・・・ですね。
私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。
ココが、まず原点と成ります。
対象が無くても、自分のありのままの姿が見えています。理解しています。という人は、また別の話で。
酔っ払いのドライバーに運転をさせて、どこへ向かっているのかわからないまま、の車に乗っているようなのが普通の人間です。

前者の人がよい、後者は悪い。ということではありません。人によって、対応がまちまちである。見ているものの認識が変化します。
何かと接触すると、必ず「自分としての対応」が行われます。
どうしてこういう対応を自分はするのか。そこを見る。
まっ。ubikさんと同じことを言っているだけですが。

No.946 - 2008/07/12(Sat) 01:03:28

Re: 理解。 / ubik0101
なにかに接触して、その自分の反応を見る。ならば、なにかに接触しなくても、その反応は現れてなくても、無(潜在)意識にある。と思われます。それも掘り返す必要があるでしょう。でなければ怠惰かもしれません。

たとえば、いかなる努力もしない、規範を持たない観察も一面ですが、それだけでは言語道断です。そういうことを求めたら、そういうことしか得られない恐れがあります。そんなことでも、どんなことでもない、自己を、人は求めているのだと思います。

そうなら否定の道を本能的に歩くと思います。たまねぎの皮を剥き続けるでしょう。けど。そういう具体的な出来事、また思考の運動としての・・・自我、欲望・・・は人を鍛えるための取り替え可能な負荷であり、それ自体は、なんの変化もしません。変化、変質、変容するのは、そんな自我や欲望の機能ではなく、人です。そうだから人は解放されます。

この世界に執着しない自己を、この世界に於いて了解する。この不可能が起こります。これは無理を承知で、なり振り構わず求めるしかない場合があります。それでも、その人の、どんな努力に関係なく、関係なくもなく、それは起こります。この世界において人は自己になります。

No.947 - 2008/07/12(Sat) 10:50:39

Re: 理解。 / ubik0101
>私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。
>ココが、まず原点と成ります。


たしかに、自分は自分を、正確に見ることはできません。もし定義できるように正確に見れるとしたら、その自分は、そういう規定、限定された、ほかのこと、もの、とは区別された個別なこと、もの、です。

しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。

No.948 - 2008/07/13(Sun) 09:40:02

Re: 理解。 / peer
>しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。

はい。「気がついた」なんてのは
あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。

たまたまワクが見えることもあって。
「こういう自分が居る」と見えますが。
自分というのはワクの反射で作られている。。。
ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。

No.949 - 2008/07/13(Sun) 10:04:44

Re: 理解。 / ubik0101
>はい。「気がついた」なんてのは
>あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。


うん。その仕組みが面白いです。まったく人が、どのようかであれば。どのようかである、そのことを露にするために総て(世界)が、どのようかであると見えるように現れます。けど、総てがそう見えるから、却ってそれが、どのようかであることが見えなくなります。

そうなのに、どういうわけか人に、日々の変化が起こります。そのことは人には、その自分の行動、発言、思考、そのままの有り様・・・知覚対象と主体の分離不能・・・として見えます。それは、出来事であれ思考であれ、無理解と理解との狭間に、一時の夢のように現象します。

>たまたまワクが見えることもあって。
>「こういう自分が居る」と見えますが。
>自分というのはワクの反射で作られている。。。
>ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。


うん、半分です。どういうわけか人の意識は、まず、ワクを実体と看做して、それを対象にしてる自分は仮に、ある、とされるだけで。つまり無我・・・空と言っても言いかも・・・なことを納得します。

つまり山や樹や鳥や人や感情や思考など、それを対象にしてるから仮の自分が設定されるだけで、その自分を、無我、と了解します。しかし、ワク、つまり対象、山や樹や鳥や人や感情や思考なども、無我です。

No.951 - 2008/07/13(Sun) 17:22:22
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