なにかを人は、思考します。そして思考されたことは言葉によるにしても、映像によるにしても、そのまま見える、自覚されるかもしれません。そして、それは、そのまま、その人の状態を現わすと考えられることもあるでしょう。それでは思考されないことは、どうなのでしょう。
もしかして、自覚されないでも、人は、なにかの有り様かもしれません。その人が、その人を、そう思ったことがなくても、その人は傲慢かもしれません。偽善者かも、欲張りかも、意地悪かも。優しいかも、素直かも、しれません。
そんな有り様・・・形態・・・は見る、観察する、自覚することが可能でしょうか。また、思考できない形態、それを、どう思考しても、まったくの誤解かもしれません。たとえば善悪について思考するとして、それを思考する人の思考してない、たとえば傲慢さを、素直さを、現わすでしょうか。
たとえば。思考してないで、傲慢でないなら、どうして、傲慢でないことが確認できるでしょうか。たとえ思考できない総ての可能性を、思考によって、また知覚によって、探るとして。 それは、ありとあらゆる思考できないこと、に及ばないでは、無意味なのではないでしょうか。
そこで思考しないことを認めて、そこには問題が認められないからといって、たとえば自我、欲望、絶望・・・それが解決されてるわけでもなく。そこになんだかの平穏、優しさ、素直が自覚できないからといって、それが実現されてるわけでもないのではないでしょうか。
さらに。たとえば善悪について、傲慢、素直、偽善などについて思考するとして。それが、その思考する人の状態を現わす、現わさない、と言えるのでしょうか。どちらかだと看做すなら、それは思考に依存し、それに埋没し、気がつかないでいるだけかもしれません。
そのような、ありとあらゆることが、取り替え可能な、人を成長させるための負荷、なだけではないでしょうか。そして、どうして、そうでなくて人が学ぶということ、理解すること、成長することが可能でしょう。
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No.1024 - 2008/08/16(Sat) 09:30:55
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