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素朴な疑問。 / ubik0101
なぜ、自我は、問題になるのでしょう。

たとえば自我など、ないのに、あると思ってることは、事実誤認だからでしょうか。ある人が、世界、また自分と、分裂して葛藤を起こすからでしょうか。なにかを主張しすぎて、ほかの人との軋轢を引き起こすからでしょうか。

ほかの人の自我の強さを見て嫌い、ほかの誰かから見ての自分を空想して、自分の自我を嫌われたくないからでしょうか。 また自我の機能が苦痛だからでしょうか。

そうだとしても。たとえば自我の解決を求める努力をしてるとしたら、そのことは、まだ自我が解決されてないということです。しかし。なにか解決を求めないというだけでは、解決してるということではありません。それは解決したゆえの、求めない、とは違います。

なのに。たとえば自我の解決などを求めないことによって、すでに解決していると思い違うことができます。また自らの自我の機能を知覚できないから問題はないと看做すことによって、すでに解決していると思い違いできます。それも自我の機能です。それは、いわば自我の受動的な機能です。

それは、いわゆる自我。いうならば、なにかを主張する自我の能動的な機能も。主張しない受動的な機能も。自我でありながら、そうと気がつかずに、それに埋没してるという意味で変わりありません。

しかし真摯に求める人は。そうではなく、なにか神や仏陀や悟りなどの目標を持って求めるとしても、知らないことを求めているのです。そして、どうしようもなく、ほかにできることなど何もなく、自分の状態を学び続けます。

それは、自分を知りたいという努力です。ここでも知りたいと求めないなら、知ってるわけではありません。すでに知ってると思いたいから、求めない、ということもあるでしょう。

それは巧妙で奇妙です。が、人は、そういうことを、ほかの誰かではなく、自分でしています。なので、それは困難でも自分で理解できます。

そんな自己を真摯に知る努力をする人は、また。なにも分裂とか、葛藤とか、軋轢とか、それからの解放を求めてるのでは絶対に、ありません。そんなことは実際、問題にさえなりません。

そして、その求めることが完成され、それから解放されて、その問題が自我、また欲望だった。と了解します。その人はその仕組みを見ます。

そうなら、その理解は無(潜在)意識に及びます。自我や欲望、苦痛を知覚できないから、それは、ない、というのは、傲慢で、それは、たとえば執着しないことに執着してることです。

そして。能動的でも受動的でも、自我が機能するなら、それは世界に投影され、その人の姿が、その人に見えることを知ります。 たとえば受動と能動、両極端を空想しながら、それから解放されることは困難です。

そのような自我や欲望、それは理解されてないから機能するのであり・・・理解されれば問題としては機能しなくなりますが・・・とくに自我、また欲望の、束縛や解放を、好き嫌いすることもありません。なら、その人の姿は世界に映る必要がなくなります。

スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」。

No.971 - 2008/07/27(Sun) 23:06:33

Re: 素朴な疑問。 / 大阪
自我を問題にするのは、どんな人なのでしょうか。

自我があると思い込んでいて、思い込んでいると思ってもいない人は、自我を問題にするでしょうか。

したとして、正しく自我を捉えられるでしょうか。

そういう人にとっては問題は、自我があること、働いていること、ではなく、自分はジコチューで我が強い、まだまだだ、自分のことしか考えていない、とかという風に感じられると思います。



もしかして、自我を問題にするのは、自我の仕組みを見た人なのではないでしょうか。

そうだとすれば、というか、どちらにせよ。

そんな自我の仕組みを見た人が、自我の問題を解決するには、どうすれば良いのでしょうか。

自我の仕組みを見直す、納得するまで見たことを言葉にすれば良いのでしょうか。

No.972 - 2008/07/28(Mon) 16:47:21

Re: 素朴な疑問。 / ubik0101
自我の仕組み見る、というのは体験です。それを理解しようとすることは、その体験を対象にして研究することになるので、それを研究してる、その状態にも問題が発生します。

たとえば自分の無我を実感したくて、自分の無我を掴んでしまう。また、ほかの人に自我を見てしまう。また、体験を特別視したり、無視してしまう。そのことに意味付けられた、偏った行動をしたり、話したり、思考したりすることになります。

そういう状態は、世界に投影されているので、自分に見えるようになっています。そんな自分を理解し、学ぶことによって人は、さらに成長します。見たことを正確に言葉にして理解することは、その有力な、ほとんど唯一の手段と思います。

そうでなく。見たことの、理解が徹底してなかったり、いい加減な誰かの解釈に当てはめてしまったり、ただ感覚的に捉えたり、理解せず放置したりすると。それ相応な、世界に投影された中途半端な状態に巻き込まれ、捕われてしまうことがあります。せっかくの体験が、生かされない恐れがあります。

つまり。「 納得するまで見たことを言葉に」するということは、見たことを表現するということでもありますが。それだけでなく。そうしてる自分の有り様を学ぶ、成長する。残響のような自我を見て理解する。解決する。その意味があります。

そうと気がつきもしてなかったのに支配されてた、その自我の仕組みを見たということは、理解すべきことが明確になる。そんな体験とも言えるかもしれません。

No.973 - 2008/07/28(Mon) 19:40:44

Re: 素朴な疑問。 / 大阪
言われる通りになりました。

僕はずっと、どうしても他の人の自我を見てしまって、最近、気づけば、周りに嫌いな人しかいなくなっていました。

それで、愛おしかった気持ちを思い出そうとしたり。

無我を張る、とも言えそうです。

きっと、自分が自我を理解していないことで起こる苦痛を、人の自我の責任にしていたんでしょう。

それで、あの体験の、自我はない、というところから書いているところに、今回のうびさんの投稿がありました。


今更ですが、うびさんは人の躓くところを良く知っておられますね。


では帰って作業を続けます。

すぐにまた何か、質問に来るかもしれません。

いや、単に、世間話をしに来るかもしれません。

No.974 - 2008/07/28(Mon) 22:54:58

Re: 素朴な疑問。 / ubik0101
あらためて思えば。なにかの状態になったら・・・それは自分の行動、発言、思考に現れるので、それを理解する・・・そのことで、その内容も、その仕組みも学びながら、その自分の状態の理解が進んで行きます。

そして、それが、それまで気がつかなかった深いところにある(変な言い方)ことの開示に繋がる、と思います。

うん。世間話も、いいですね。この部屋の隣の駐車場の蛍光灯の笠の上に燕の巣があります。ぢゃ、ぢゃ、ぢゃ、と鳴いて餌を求める雛も、けっこう大きくなって、飛ぶ練習を始めています。

No.975 - 2008/07/29(Tue) 07:15:54

Re: 素朴な疑問。 / 大阪
うびさんは自分の状態を、とても正直、素直に見つめていて、それだから、成長・理解に繋がるような自分の有り様をちゃんと発見出来る。

そんな印象です。

どうすればそんなに正直、素直になれるのか、と聞きたくなります。


昨日思ったのですが。

自分は人と話したり仲良くしたり分かりあうことを拒否しているのでは、と。

人の話を良く聞かず、自分が相手に良く思われたく話してしまうのです。

ちゃんと聞けばもっと、相手の気になっていることや、言って欲しい言葉も分かるのに。

それはもしかして人に対して「あなた自身を愛すより、僕を愛しなさい」と思ってるのではないか、と思いました。

あの愛のことを思うと、人にそうしてもらうことなんて本当に必要ないことなんですけど。



ふふふ。

燕の雛の飛ぶ練習、ってどんなものなんですか?

巣の中でバッサバッサやるのですか、それとも実際に外を飛んでいるのですか?

No.976 - 2008/07/29(Tue) 12:32:33

Re: 素朴な疑問。 / ubik0101
ただ、自分を弁護する立場から自分を見たり、自分で自分に隠し事をしない。直視。それだけのことだと思います。

こんなことを言っては、いけないのかも知れないけど。すでに大阪さんは、愚かなために何かに依存して自己主張し、軋轢が起きてるわけではないと思うので。人間関係が順調でなくても、気にすることはないと思います。

それよりも、自分を研究する準備もできてるし、それに集中したほうが、どちらかと言えば、いいように思います。

燕の雛は、巣の縁に掴まって、羽ばたいていました。いま、確認しに行ったら、3羽ともいなかったので、巣立ちしたのでしょう。けっこう長崎には沢山の燕が、ひらひら飛んでいます。これから南の国に向かうのだと思います。

すこし今日は、バスで遠出して、郊外の海岸まで行ってきました。まだほとんど人家もなく、自然の砂浜があって、数組の家族連れが海水浴。そんな風景でした。

No.977 - 2008/07/29(Tue) 15:33:28
暑いですね^^ / ルー
「無理を承知で、なりふり構わず求めるしかない場合があります」という文章は、かなり気に入りました。

正しいとか間違っているとか効率とかを考える余裕もないほど、切羽詰って、勢いで飛び込んでいくというか、そういうことを人はすることがあって、それは、愛っぽいです。

No.950 - 2008/07/13(Sun) 16:26:55

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
たしかに暑いですね。

ところで。自分の行動や発言や思考を、非難また正当化することが、どうして問題なのでしょう。なぜ非難も正当化もなく観察することを、よし、とするのでしょう。たとえば誰かと葛藤が起きたら・・・それはすでに非難や正当化ですが・・・それを徹底的に突き詰めるべきではないでしょうか。

そのためにこそ、葛藤はあるのです。そうしなくて、どうして、葛藤させてる判断の根拠が見えるでしょう。その限界を探り尽くさないために、中途半端なために、その補償作用として。たとえば、ほかの人への反発とかの、なんだかの軋轢が起きるとも言えます。

No.952 - 2008/07/13(Sun) 18:09:45

Re: 暑いですね^^ / ルー
非難なしに、正当化することなしに、葛藤なしに、好き嫌いなしに、比較なしに、観念なしに、こだわりなしに、努力なしに、尊重なしに、信じることなしに、、、、、、、ただし、ものづくりとの比較だけはOK(んー、ものづくりと比較してどうーなるのか、全く不思議)
まー、それは、もしかして、がんじがらめ?
ものづくりと比較するのが、もっとも自然なことなのでしょうね〜その人にとっては。
かわいそうなほどです。
両親とも教師の人って、結構、不幸です。
がんじがらめ。

No.953 - 2008/07/13(Sun) 20:35:57

Re: 暑いですね^^ / ルー
すみません。
誹謗中傷っぽいことを書いてしまいました。
そんなつもりはなかったのに。
指が勝手にキーを押していたんですっ
不幸だなんて決め付けて、ごめんなさい。

えーっと、突き詰めて考えるべきだと思いますよ。
そうしないと本当のことは見えないと思います。

No.954 - 2008/07/13(Sun) 20:45:57

Re: 暑いですね^^ / suho
ウビさんこんばんわ。

> ところで。自分の行動や発言や思考を、非難また正当化することが、どうして問題なのでしょう。なぜ非難も正当化もなく観察することを、よし、とするのでしょう。たとえば誰かと葛藤が起きたら・・・それはすでに非難や正当化ですが・・・それを徹底的に突き詰めるべきではないでしょうか。

これKの言ってることの問題として書かれているのかなと、だとして。
僕の感覚では、非難や正当化が起きていることをさらに非難や正当化せずに観察すること。例えば、自分の中で非難や正当化が起き、そしてそこからどんどん考えを詰めていく、という運動が起きたら、そのままに、その運動のままに抑圧せずに見守る、ということを言っているのかなと理解していましたが。。
つまり、どんな心理運動が起きても、その内容によらず、そのままに見る感じる、ということなのかなと。

No.955 - 2008/07/13(Sun) 22:07:34

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
うん。たとえば実用的思考と、心理的思考を、区別するのは、なにか狂っています。まったく奇妙です。それは、やはり平穏だったら無問題、という規範に捕われて、そこから判断しているのかもしれません。それは偏ってるというより、歪んでると思います。

そういえば、どこかの掲示板で、心理的思考がなければ愛がある。とかいう投稿を見ましたが。自分で確認してないことを言ってはならないと思いました。自分で確認したことなら、誤ったことを言うほうが、まだましです。

>両親とも教師の人って、結構、不幸です。

どういう意味か、誰のことか、判りませんが。どういう生まれであれ、懸命になれない、がむしゃらになれない人はいます。すると、そういう事態が、その人にとって、蜘蛛の糸なんですが。すでに自分は解放されてると思い込んで、解放を自ら、拒絶する人も、たしかに見たことがあります。

なんにしても。自己であれ、神であれ、覚醒であれ、なり振り構わず求めないで、どうして求められるのか、と思います。

なのに。求めて見い出すなら、見い出されたことは既知のことだから、偽物。という人も見たことがあります。 なにも、どこにも既知のことなどないのに。ま。そいうことを言う人は、そいうことを言う人で、それなりの役割はあるのでしょう。

そんな。そいう人を思いきり批判しても無問題です。それは、批判してる、その人の問題ですから。そのようにして互いに誰も学んでるのですから。そのことを理解しないことが、問題なだけです。

>えーっと、突き詰めて考えるべきだと思いますよ。
>そうしないと本当のことは見えないと思います。


うん。ルーさんは、なり振り構わない求道者と、睨んでいます。ネット上だけど、知り合えて、嬉しいとか、感謝するとかいうことではないのだけど。よかった、と思います。

No.956 - 2008/07/13(Sun) 22:12:08

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
suhoさん。こんばんは。

そうです。たとえば非難、正当化してることを、非難、正当化しないで観察する。ということは、非難、正当化を、突き詰める。ということです。非難、正当化の拒否ではありません。

とことん非難、正当化してる事態を探究する、という意味です。そのためには極限の、激しい、非難、正当化が役に立つと思います。

No.957 - 2008/07/13(Sun) 22:27:02

Re: 暑いですね^^ / suho
> そうです。たとえば非難、正当化してることを、非難、正当化しないで観察する。ということは、非難、正当化を、突き詰める。ということです。非難、正当化の拒否ではありません。
>
> とことん非難、正当化してる事態を探究する、という意味です。そのためには極限の、激しい、非難、正当化が役に立つと思います。


はい。
Kの表現(あるいは訳)は、どうもその辺を勘違いさせてしまうのでないか、と感じます。
「Kの見る」を使って、魅力的な知覚を体験したい、という思いに気づけないでいる。というかその想いを抑圧している。Kが「そんな意図を持ってはダメだ」といっているから(笑
と解釈し、それを疑っていないから。
それで、グルグルと同じところをまわりはじめるのだと思います。

ところで、ここ数日、アーヴィン・ラズロという方の「生ける宇宙―科学による万物の一貫性の発見 」という本を読んでいるのですが、なかなか面白いです。
量子力学や物理学などの最先端では、宇宙で起っている全ての情報や宇宙的な意思、創造の場を「Aフィールド」と名づけ万物に通低する包括的な概念を提唱するまでに至っているようです。
Aフィールドは「量子真空」と表現されていて、ようするに僕らが知覚している時空間では特定できない「場」であり、全ての物質現象、心理現象、知覚、個の意識が生じるおおもとであり、情報の記憶媒体であり、「量子真空でない場」はないと言っています。
そしてこれは「進化」の方向性を持って、あらゆるはたらきを生じせしめている精神のようなもの、とまで書かれています。
うーん。科学もここまで進んでいたのかと感慨深いものを感じました。

No.958 - 2008/07/13(Sun) 23:05:43

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
Aフィールド
初めて聞きました。

うーん。じゃぁこの世界は、
なぜ、こうなってるの?という疑問は
どこまでも続くような気がしますが、
なんだか、人の成長って、
闇雲ではなく
合目的的なところがあるように思えます。

No.959 - 2008/07/14(Mon) 09:08:06

Re: 暑いですね^^ / ルー
> うん。たとえば実用的思考と、心理的思考を、区別するのは、なにか狂っています。まったく奇妙です。それは、やはり平穏だったら無問題、という規範に捕われて、そこから判断しているのかもしれません。それは偏ってるというより、歪んでると思います。

「平穏だったら無問題」という地点が目標にされているのだと思います。
平穏を愛しているのでしょう。
平穏にはいかない世の中のあれやこれやについて、それでも平穏に対処することが一番だと思っているのでしょう。
それこそ、間違っていても自分の確認したことを行っているのかも知れません。

> そういえば、どこかの掲示板で、心理的思考がなければ愛がある。とかいう投稿を見ましたが。自分で確認してないことを言ってはならないと思いました。自分で確認したことなら、誤ったことを言うほうが、まだましです。

あー、「心理的思考がなければ愛がある」という文章は、私も見ました。
そこまでいくと、もう、言葉遊びのような感じがします。
愛を求めてもいないくせに、愛について語りたがるようですね。愛なんて、そんなところにはないでしょーに。

> >両親とも教師の人って、結構、不幸です。
>
> どういう意味か、誰のことか、判りませんが。どういう生まれであれ、懸命になれない、がむしゃらになれない人はいます。すると、そういう事態が、その人にとって、蜘蛛の糸なんですが。すでに自分は解放されてると思い込んで、解放を自ら、拒絶する人も、たしかに見たことがあります。


教師の人は、学校だけではなく家の中でも社会の中でも、自分は教師らしくあらねばならないと思って、人を導こうとする傾向にあるようです。
子供にしてみれば、教師は学校だけでよいのに、家の中でも親じゃなくて教師がいるのでは、まともに育ちにくいのではないかと思いました。特に愛情面が。
深いところで洗脳されていると思います。
教師や警察官などは、世間の対面を気にするので、「問題などあるはずがない」ということを子供に強いるかも知れません。

> なんにしても。自己であれ、神であれ、覚醒であれ、なり振り構わず求めないで、どうして求められるのか、と思います。

自分というものを、どこか、あきらめているのではないかと思うフシがあります。求めているフリをしているだけのように思えます。ダメでもいいじゃない、それも受け入れましょう〜とか。ダメではいけない時があるのですが。それが必要なのだという切羽詰った状態にはならないのですね。

> なのに。求めて見い出すなら、見い出されたことは既知のことだから、偽物。という人も見たことがあります。 なにも、どこにも既知のことなどないのに。ま。そいうことを言う人は、そいうことを言う人で、それなりの役割はあるのでしょう。

「見出されたことは既知のこと」というのは、それを既知だと決めてしまっているのが、すでに、「見出されたことは既知のこと」だという世界に住んでいることの証明ですね。

No.960 - 2008/07/14(Mon) 09:13:45

Re: 暑いですね^^ / ルー
> >えーっと、突き詰めて考えるべきだと思いますよ。
> >そうしないと本当のことは見えないと思います。
>
> うん。ルーさんは、なり振り構わない求道者と、睨んでいます。ネット上だけど、知り合えて、嬉しいとか、感謝するとかいうことではないのだけど。よかった、と思います。


うん。お互いが「場」となっている気がします。

No.961 - 2008/07/14(Mon) 09:29:58

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
いまさらとは思いますが。人は、どのようかの有り様であって、その自己認識ができないから、ほかの人と衝突して、自分の有り様を見る機会を得るのでしょう。

けど、それでは、あれこれとして見えるだけの自分です。そんなことをしても、自己でないことを見てるので、永遠に困難、無駄な努力と思われるかもしれません。

だからといって、そんな騒ぎを避けて努力を嫌い、平穏を求めても、成長を放棄してるだけです。そうすると、無意識さえ、このままで人は完全だ。だから努力は不要とか、人は不完全な生き物とか、いろんな空想をして、成長を放棄してることの代用品にします。

けど。そういうことからも、また学ぶことができます。それが成長の手段になり得ます。そのように、どんなことも役に立つ、あまりに人は恵まれてると言えます。

それに甘えて怠惰になったりします。でも。そのことにも気がつくことができます。気がつかないのは、気がつかないように、自分で操作して隠してるからです。それは、たしかに巧妙です。

と、いったことも自分で掘り返しながら。なんであれ、なり振り構わず頑張る。求める人は、見い出すと思います。そうなら、結果的に、努力も怠惰も傲慢も、善も悪も、嘘も、空想も、総てが必要だった、と知ります。

No.962 - 2008/07/14(Mon) 12:27:51

Re: 暑いですね^^ / suho
> Aフィールド
> 初めて聞きました。


例えば、仏教で言うところの輪廻転生(生まれ変わり)や、遠く離れているのに情報を伝達できるような科学で証明できない不思議な能力も全て包括的に説明がつくと書かれていました。

> うーん。じゃぁこの世界は、
> なぜ、こうなってるの?という疑問は
> どこまでも続くような気がしますが、


はい、そうですね。
この本の中では、今僕らが知覚しているの宇宙が生じたのは、単なる偶然の産物ではなく、Aフィールドにストックされている「他の宇宙」の創造に関する情報をもとに、より進化したものとして意図的に創造された、というふうに解釈していますね。Aフィールドの中では、それこそ無数の「宇宙」が創造されていて、その情報をストックし続け、そしてそれぞれにフィードバックし続けている、と考えるようです。

> なんだか、人の成長って、
> 闇雲ではなく
> 合目的的なところがあるように思えます。


Aフィールド自体の進化、成長という目的のために、的なところは感じますね。

No.963 - 2008/07/14(Mon) 12:45:16

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
おーし、それならそれで、遥かな道、どこまでも。です。
No.964 - 2008/07/14(Mon) 18:05:38

Re: 暑いですね^^ / hato

> おーし、それならそれで、遥かな道、どこまでも。です。


遙かな道。どこまでも。
すごいです。

No.965 - 2008/07/14(Mon) 23:51:38

Re: 暑いですね^^ / suho
> おーし、それならそれで、遥かな道、どこまでも。です。

ウビさんと小林秀雄。似たような匂いを感じる。
ということで、これをきっかけに、前から気になっていた小林秀雄をぼちぼち読み始めようか、と思いましたが、さてどうなることやら。

No.966 - 2008/07/15(Tue) 00:29:22

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
hatoさん。

たぶん。頑張るぞって、
意識しないでも、そう機能する・・・
そのように、そいうことも忘れて、
歩くのでしょう。

suhoさん。

そういえば小林秀雄。学生時代に、
「 考えるヒント」って書名だけ見て
まったく読まずに、
考えることなんか、誰かに教えてもらわなくていい、とか
感想文を提出したことを思い出しました。

No.967 - 2008/07/15(Tue) 12:01:54

Re: 暑いですね^^ / suho
> そういえば小林秀雄。学生時代に、
> 「 考えるヒント」って書名だけ見て
> まったく読まずに、
> 考えることなんか、誰かに教えてもらわなくていい、とか
> 感想文を提出したことを思い出しました。


ウビさんらしくてイイ感じ。

で、まさしくいま「考えるヒント」を読み始めているのですが、あらあら大変です。
この方の言葉は、あまりにも繊細で素直で、僕の粗い意識はただただ言葉の隙間をダダ流れするだけ、ということになっています。では引き続きダダ流れの世界へ戻ります。

ウビさん、どうもでした。

No.968 - 2008/07/16(Wed) 00:20:56

Re: 暑いですね^^ / ubik0101
こちらこそ、どうも。です。「考えるヒント」アマゾンに注文しました。
No.969 - 2008/07/16(Wed) 07:49:56

Re: 暑いですね^^ / hato

> そういえば小林秀雄。

そういえば長崎で、ふと小林秀雄さんのことに触れたら、ubik0101さんはちょっと懐かしそうに、やはりこんな話しをしていて。日記のどこかに、それについてのコメントがあったと思います。

> たぶん。頑張るぞって、
> 意識しないでも、そう機能する・・・
> そのように、そいうことも忘れて、
> 歩くのでしょう。


ほんとうに。
そうですね。
ありがとうございます。

No.970 - 2008/07/16(Wed) 23:36:10
理解。 / ubik0101
たとえば、いま、ここ。不思議。でもいいのですが。ある人が、その自分の有り様を表現するなら。それは自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という印象があって、なにか違和感があることがあります。

そうだとして。たとえば天上天下唯我独尊、を思考します。するとその思考が自分の有り様の表現なら、つまりそれを理解してるなら、自分と違う視点から自分を見てる空想は不要になり、天上天下唯我独尊は思考として持続できません。その瞬間に、天上天下唯我独尊、は消滅してしまいます。

いまここ。無我もなければ自我もない。依存しないことにも依存しない。とか、なんでもいいのですが、その思考が、自らを閉じてしまいます。そして、ふつうに見えたり聞かれたりされてる世界が現前します。それで人は、なにも考えることもなく、日常を生きます。

とくに意識せずに、いまここであり、ただの人であり、不思議であり、 天上天下唯我独尊です。これが学ぶ人の日常ではないでしょうか。はじめは無知ゆえに学ぶべき問題が知覚できないとしても、それを理解したら思考を知覚する必要がなくなります。

たとえば愛を忘れ、自己を忘れ、実在を忘れ、日常に生きながら。なんでもないけど、なんでもあり。依存しないことにも依存しないのではないでしょうか。

けれど、そのように理解されたことは、意識に昇らないままに、その人に機能してると思います。それだから人は、ほかの人から尋ねられたりすると、それについて説明できるのだと思います。そうであれば、自分と違う視点から自分を見るから、空想、という違和感は起こらないと思います。

また、空想、ということが理解され、意識に昇らないでも、その人に機能してるなら。すでに、自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という問題から解放され、違和感がない、ということもあります。

そうでなく。その表明が自己表明でないなら、つまり人が自分の有り様を理解してないなら。その思考は、この思考を理解して欲しいと、その人に留まり繰り返されるのだと思います。

No.937 - 2008/07/09(Wed) 07:59:02

Re: 理解。 / peer
まあ、ともかく。自分の外部に展開されている世界、すべてが自分の内面なのだ、と理解されていることが必要、でしょうね。そこが土台でしょうから。
No.938 - 2008/07/09(Wed) 10:30:04

Re: 理解。 / ubik0101
ふーむ。あらためて指摘されると。とりあえずは、たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、として、現れると思います。つまり自分との差が知覚。そして人の意識は、現れたこと(現象)しか、見たり聞いたり思考したりできないと思います。

だからといって人は、自分が自分を(空想しなければ)知覚できるわけではありません。そこで。風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)は自分の知覚の対象だから、自分ではない、と決めることは不可能です。

また風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)しか知覚できないから、それは自分だと、決めるのも不可能です。どちらにしても、 対象にできることは、完全にどちらかだということはないって、ことになるように思えます。

でも、どうであれ対象にできるということは、自分と無関係ということではないので、 世界と、自分は、不可分です。そして対象にできること(現象)と、対象にできないこと(素直さなどのよい特質。愛。自己。実在。理解された思考)も無関係でないと思えます。

No.939 - 2008/07/09(Wed) 20:44:53

Re: 理解。 / peer
>たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、
>として、現れると思います。


単純に現すと「たとえば風景や樹や鳥や人や総て」を
どういうものだ、こういうものだと認識している自分。
ということです。
どう認識するか、ですから、当然私達ひとりひとりの
認識する世界は、違うものになります。
どう認識しているかが個性といえましょうか。

No.940 - 2008/07/10(Thu) 00:29:24

Re: 理解。 / ubik0101
その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。 あるいは、人は自分が何かの世界観を持ってないと思っても、ほかの人から見たりしたら、そうでもない。ということもありそうです。

ということは世界は、そのまま、ありのままの姿では認識できない。その人なりの世界観によらずには、見ることができない、と理解したのは。peerさんは、どんな認識にもよらない世界を見た。ということかもしれません。また。そう理解したというのも、そういう認識、世界観なのかもしれません。

ところで。「ひとりひとりの認識する世界は、違う」として、そこから、どういう意味が汲み取れるのでしょう。その人なりの、ありのままにしか見れないと言うことは、人は、どんなことを行動しても、話しても、思考しても結局は、その世界としての自分を学んでる、作ってる、しかない。ということなのでしょうか。

No.941 - 2008/07/10(Thu) 08:36:55

Re: 理解。 / peer
たとえば、口煩いお姑さんがいます。何かに付けて若いお嫁さんを叱りつける。とします。こうじゃない・・ああじゃない・・ダメだねぇ。と言う。

「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」と、受け取るお嫁さんが居ます。
「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」と、受け取るお嫁さんが居ます。

どちらも、おなじお姑さんであるのに、対応も心の持ち様も違いますから。前者は、その口煩いお姑さんを『上手く使って』要領良く生活するでしょうし、常にニコニコしている。かもしれません。
後者は・・・想像するに、地獄を生きているようなもの。でしょうか。
世界がどのようにあろうとも、無関係で無問題。
どのように生きるのも、その人なり。と、なりましょうか。

No.942 - 2008/07/10(Thu) 15:07:28

Re: 理解。 / ubik0101
ま。 お姑さんにとって、どっちの、若いお嫁さんが良いとか悪いとか判らない。てこともあるかもしれません。

「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとっては、甘えさせてもらってるだけ・・・

「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとって学ばせてもらえる・・・そして、それぞれに類似の認識も、無関係な認識も、逆の認識も、ありそうです。

つまり、どっちの若いお嫁さん自身の態度が、どのように、お姑さんに影響するか判りません。お姑さん次第です。お嫁さんも、お嫁さん次第です。また。おなじ出来事からも、それぞれが、いろんな意味を汲み取れそうです。

そいうことの総てを理解して、学んで成長すれば。お互いに、相手の、どれかの限定された態度にも、とくに依存、執着する必要がなくなるわけで。そのことで自分の行動、発言、思考が、左右されなくなる、偏らなくなる。かもしれません。

それでもまあ課題があるとすれば、こんなことを考えてる。考えない。こんなことを判断する。判断しない。それがそのまま、peerさんとか、ubik0101の有り様を示すようです。

No.943 - 2008/07/10(Thu) 23:49:31

Re: 理解。 / peer
はい。そのままがその人の有り様でしょう。
>その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。

前者の若いお嫁さんと後者の有り様は、違う状況でも展開される可能性はありましょう。
直属の上司と、新入社員になった場合でも、同じようなパターンになりがち。
前者ならば、上司をたてて、素直に従うでしょうし、後者の世界認識をしていると、絶えず反発して空回りしつづける。とか。
学ぶというのは、自分のパターンに気づいて行く。ということでもありましょうか。

No.944 - 2008/07/11(Fri) 10:15:32

Re: 理解。 / ubik0101
それでは困難です。お姑さんと若いお嫁さんの場合、上司と新入社員の場合、そのような関係に埋没していたとして、その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。

つまり理解とは、その、いつ何が起きるかも知れない可能性。また無(潜在)意識の理解でなくては、対症治療になります。根本治療としては実効しません。それこそ迷いです。

また。たとえば人間関係の葛藤が苦しいから、苦しくないように望んでの理解なら。それは、楽を求めてることであり、それは、苦しくなければいい、平穏、静寂ならいい、という限定された解放かもしれません。

そのようにして、たとえば人間関係の葛藤からの解放を得ても。その解放されたという状態に、依存してしまう可能性があります。

どの場合も、その人の有り様は世界に投影され、自分で見えるようになりますが。これも、振り返ってみたら、自分のパターンがあった。ということに気がつくかもしれませんが。自分の有り様が、鏡としての世界に映っていても、それに気がついていても気がつかず、埋没するかもしれません。

ここは、なにかをしたりしなかったりする。その自分は何?を見る。経験する。ことが、望ましいでしょう。実は、自分が思う自分なんて、幻想だったんだよ。って、了解することが必要だと思います。

そうであれば、ふつうの場合は、問題解決は一気であり、瞬間に行われざるを得ません。たとえば部分的な理解、ということはあり得ないからです。そうならば、さまざまな経緯があるでしょうが。人は、自己、愛、実在を、了解します。学ぶということは、そこからが始まりです。

No.945 - 2008/07/11(Fri) 12:44:14

Re: 理解。 / peer
>その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。

はい。ですから、パターンを見つけるコトが、切り口・・・ですね。
私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。
ココが、まず原点と成ります。
対象が無くても、自分のありのままの姿が見えています。理解しています。という人は、また別の話で。
酔っ払いのドライバーに運転をさせて、どこへ向かっているのかわからないまま、の車に乗っているようなのが普通の人間です。

前者の人がよい、後者は悪い。ということではありません。人によって、対応がまちまちである。見ているものの認識が変化します。
何かと接触すると、必ず「自分としての対応」が行われます。
どうしてこういう対応を自分はするのか。そこを見る。
まっ。ubikさんと同じことを言っているだけですが。

No.946 - 2008/07/12(Sat) 01:03:28

Re: 理解。 / ubik0101
なにかに接触して、その自分の反応を見る。ならば、なにかに接触しなくても、その反応は現れてなくても、無(潜在)意識にある。と思われます。それも掘り返す必要があるでしょう。でなければ怠惰かもしれません。

たとえば、いかなる努力もしない、規範を持たない観察も一面ですが、それだけでは言語道断です。そういうことを求めたら、そういうことしか得られない恐れがあります。そんなことでも、どんなことでもない、自己を、人は求めているのだと思います。

そうなら否定の道を本能的に歩くと思います。たまねぎの皮を剥き続けるでしょう。けど。そういう具体的な出来事、また思考の運動としての・・・自我、欲望・・・は人を鍛えるための取り替え可能な負荷であり、それ自体は、なんの変化もしません。変化、変質、変容するのは、そんな自我や欲望の機能ではなく、人です。そうだから人は解放されます。

この世界に執着しない自己を、この世界に於いて了解する。この不可能が起こります。これは無理を承知で、なり振り構わず求めるしかない場合があります。それでも、その人の、どんな努力に関係なく、関係なくもなく、それは起こります。この世界において人は自己になります。

No.947 - 2008/07/12(Sat) 10:50:39

Re: 理解。 / ubik0101
>私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。
>ココが、まず原点と成ります。


たしかに、自分は自分を、正確に見ることはできません。もし定義できるように正確に見れるとしたら、その自分は、そういう規定、限定された、ほかのこと、もの、とは区別された個別なこと、もの、です。

しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。

No.948 - 2008/07/13(Sun) 09:40:02

Re: 理解。 / peer
>しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。

はい。「気がついた」なんてのは
あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。

たまたまワクが見えることもあって。
「こういう自分が居る」と見えますが。
自分というのはワクの反射で作られている。。。
ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。

No.949 - 2008/07/13(Sun) 10:04:44

Re: 理解。 / ubik0101
>はい。「気がついた」なんてのは
>あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。


うん。その仕組みが面白いです。まったく人が、どのようかであれば。どのようかである、そのことを露にするために総て(世界)が、どのようかであると見えるように現れます。けど、総てがそう見えるから、却ってそれが、どのようかであることが見えなくなります。

そうなのに、どういうわけか人に、日々の変化が起こります。そのことは人には、その自分の行動、発言、思考、そのままの有り様・・・知覚対象と主体の分離不能・・・として見えます。それは、出来事であれ思考であれ、無理解と理解との狭間に、一時の夢のように現象します。

>たまたまワクが見えることもあって。
>「こういう自分が居る」と見えますが。
>自分というのはワクの反射で作られている。。。
>ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。


うん、半分です。どういうわけか人の意識は、まず、ワクを実体と看做して、それを対象にしてる自分は仮に、ある、とされるだけで。つまり無我・・・空と言っても言いかも・・・なことを納得します。

つまり山や樹や鳥や人や感情や思考など、それを対象にしてるから仮の自分が設定されるだけで、その自分を、無我、と了解します。しかし、ワク、つまり対象、山や樹や鳥や人や感情や思考なども、無我です。

No.951 - 2008/07/13(Sun) 17:22:22
(No Subject) / ubik0101
このまえ長崎に訪ねてきてくれたhatoさんが、ubik0101の超古代より以前の日記を持って行って、文字入力してくれました。右も左も判らない時代の文書ですが、それでも姿勢は今と、そんなに変わらない、という印象です。このHPの「超古代の日記」のページに掲載していくことにしました。
No.931 - 2008/06/25(Wed) 18:22:08

Re: / 図書館閲覧者
hatoさん、文字入力お疲れ様でした。

ubik0101さん、拝見させてもらいますね。
この文章は、以前ゲストブックで話しておられた「否定の研究」の一部でしょうか?
ubik0101さんが、まだubik0101さんになられる前のもの?

No.933 - 2008/06/26(Thu) 09:30:29

Re: / 図書館閲覧者

>この文章は、以前ゲストブックで話しておられた「否定の研究」の一部でしょうか?

ああ、拝見したら「否定の研究」と題名がついていますね。
失礼しました。^^;

No.934 - 2008/06/26(Thu) 09:43:58

Re: / ubik0101
ubik0101になる、ずっと、ずっと前の日記です。最初の無思考状態を経験する数年前です。とくに名前を付けてないノートが多かったと思います。「否定の研究」「哲人28号の日記」「我々は現実と交信状態にあります」とかあったと思います。

いま掲載中のノートの名前は不明確なんですが(あとで改正するかもしれませんが)まとめて 「否定の研究」にしました。自分でも読み返したことがないので(かすかに憶えていますが)すこし驚いたり、当時の生活を思い出したりしています。

No.935 - 2008/06/26(Thu) 13:05:29

Re: / hato

図書館閲覧者さんだ!!!

なんか、
とてもほんとにうれしいです。

ノートの名前は、いまのところ
とくに付いてないみたいです。

No.936 - 2008/06/26(Thu) 21:37:36
/ ubik0101
それは様々な経緯があるでしょう。が、人の構成要素の完全な活動であり、歓喜でもある覚醒体験から冷めて、日常の意識に戻ると。その落差に、苦痛を感じてしまいます。

その状態では、 自分が無我であることを、実感したいので・・・自分の過去や、ほかの人に自我を見てしまう・・・残響のような自我が機能します。それは対立関係であり、苦痛です。

そこにこそ、自我や欲望に苦しむ人のために働きたいと思う気持ちが、起こってしまいます。でも、実に苦しんでる知人友人隣人は、ありありと見えるのですが。ほかの人に自我が機能してるってことは、空想かもしれません。そのような空想をすることが、自我をなりたたせてる、大きな要因です。

また、 冷静に考えれば、みんな自分が自分のためにすればいいので。とくに師に教わったとかいうことでなく無我を了解した人は、ほかの人のために働く必要など、なさそうです。

けど。ほかの人が自我を理解する役に立ちたいということが、ほかの人の空想の自我を起因にしてるとしても。なぜか、ほかの人のために働きたいという人を必要としてる人が世界には、いて、実際に役に立つことがあると思います。とても世界は、よくできています。

すこし話を戻します。とにかく人のために働かないことが苦しいのです。それは覚醒体験と較べた、日常の意識の、惨じめさ、苦しさと重なるところがあると思います。それで、ほかにできることもなく。苦し紛れに体験の理解を始めます。その理解がなくては、ほかの人の役に立つというのは、困難なのは明らかですが、そのことにさえ気がつかないほどです。

そして。いったん人のために働くことを始めれば、それは、ことさら誰のために、そうしようと思うことを必要としない。になります。もともと迷いも、それからの解放も・・・世界の機能で・・・誰のもの、こと、でもないし、自分とか他人とかのこととしては意識できません。

そう意識してないことにさえ本人は、なかなか気がつかない。と思います。そして、そんな自分であることに気がつくというだけなので、それに気がついても、それに縛られません(たとえば、なにも考えてない窓から風景を見てる自分、それに注目する、それから始める、ことで学べることが多々あります)。

たとえば医者が患者を見るとして、いろんな状態はあるでしょうが、たしかに誰かの病気なんですが、ことさら個人としての誰の病気、として見てないかもしれません。おなじように、ただ人としての自我の状態を見てるだけです。もちろん自分と、ほかの人が違うとかの設定ができないので、冷たいとか、事務的なとか、どんな態度も不可能です。

また、なんにしろ誰彼のもの、こと、でないのに、それを自分の状態と看做してることが、まさに自我とか、依存とかなので。なにかの葛藤を起こすような勝手な固定観念や価値観とかだけではなく。迷いも解放も、自分とか誰かのもの、こと、とするなら、それだけで問題発生です。

つまり迷いからの解放さえ、躓きになります。 が、それは無駄にあるのではありません。そこから学ぶことができます。

そうしてるうちに、そのような自分の状態の理解も進みます。たとえば執着しないことにも執着しないこと。世界の不思議。生まれつきのように理由なく素直なこと。無我の実感を求める必要がないこと。誤ることのできる意識に依存しないこと。欲望や自我の機能さえ、無我ということ。

こういうことは、覚醒体験そのものからは学ぶことはできないと思います。覚醒体験と日常。それは、あまりに、都合良くと言えるほどに、よく出来てる。と思います。

No.932 - 2008/06/25(Wed) 21:50:01
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