なぜ、自我は、問題になるのでしょう。
たとえば自我など、ないのに、あると思ってることは、事実誤認だからでしょうか。ある人が、世界、また自分と、分裂して葛藤を起こすからでしょうか。なにかを主張しすぎて、ほかの人との軋轢を引き起こすからでしょうか。
ほかの人の自我の強さを見て嫌い、ほかの誰かから見ての自分を空想して、自分の自我を嫌われたくないからでしょうか。 また自我の機能が苦痛だからでしょうか。
そうだとしても。たとえば自我の解決を求める努力をしてるとしたら、そのことは、まだ自我が解決されてないということです。しかし。なにか解決を求めないというだけでは、解決してるということではありません。それは解決したゆえの、求めない、とは違います。
なのに。たとえば自我の解決などを求めないことによって、すでに解決していると思い違うことができます。また自らの自我の機能を知覚できないから問題はないと看做すことによって、すでに解決していると思い違いできます。それも自我の機能です。それは、いわば自我の受動的な機能です。
それは、いわゆる自我。いうならば、なにかを主張する自我の能動的な機能も。主張しない受動的な機能も。自我でありながら、そうと気がつかずに、それに埋没してるという意味で変わりありません。
しかし真摯に求める人は。そうではなく、なにか神や仏陀や悟りなどの目標を持って求めるとしても、知らないことを求めているのです。そして、どうしようもなく、ほかにできることなど何もなく、自分の状態を学び続けます。
それは、自分を知りたいという努力です。ここでも知りたいと求めないなら、知ってるわけではありません。すでに知ってると思いたいから、求めない、ということもあるでしょう。
それは巧妙で奇妙です。が、人は、そういうことを、ほかの誰かではなく、自分でしています。なので、それは困難でも自分で理解できます。
そんな自己を真摯に知る努力をする人は、また。なにも分裂とか、葛藤とか、軋轢とか、それからの解放を求めてるのでは絶対に、ありません。そんなことは実際、問題にさえなりません。
そして、その求めることが完成され、それから解放されて、その問題が自我、また欲望だった。と了解します。その人はその仕組みを見ます。
そうなら、その理解は無(潜在)意識に及びます。自我や欲望、苦痛を知覚できないから、それは、ない、というのは、傲慢で、それは、たとえば執着しないことに執着してることです。
そして。能動的でも受動的でも、自我が機能するなら、それは世界に投影され、その人の姿が、その人に見えることを知ります。 たとえば受動と能動、両極端を空想しながら、それから解放されることは困難です。
そのような自我や欲望、それは理解されてないから機能するのであり・・・理解されれば問題としては機能しなくなりますが・・・とくに自我、また欲望の、束縛や解放を、好き嫌いすることもありません。なら、その人の姿は世界に映る必要がなくなります。
スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」。
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No.971 - 2008/07/27(Sun) 23:06:33
| ☆ Re: 素朴な疑問。 / 大阪 | | | 自我を問題にするのは、どんな人なのでしょうか。
自我があると思い込んでいて、思い込んでいると思ってもいない人は、自我を問題にするでしょうか。
したとして、正しく自我を捉えられるでしょうか。
そういう人にとっては問題は、自我があること、働いていること、ではなく、自分はジコチューで我が強い、まだまだだ、自分のことしか考えていない、とかという風に感じられると思います。
もしかして、自我を問題にするのは、自我の仕組みを見た人なのではないでしょうか。
そうだとすれば、というか、どちらにせよ。
そんな自我の仕組みを見た人が、自我の問題を解決するには、どうすれば良いのでしょうか。
自我の仕組みを見直す、納得するまで見たことを言葉にすれば良いのでしょうか。
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No.972 - 2008/07/28(Mon) 16:47:21 |
| ☆ Re: 素朴な疑問。 / ubik0101 | | | 自我の仕組み見る、というのは体験です。それを理解しようとすることは、その体験を対象にして研究することになるので、それを研究してる、その状態にも問題が発生します。
たとえば自分の無我を実感したくて、自分の無我を掴んでしまう。また、ほかの人に自我を見てしまう。また、体験を特別視したり、無視してしまう。そのことに意味付けられた、偏った行動をしたり、話したり、思考したりすることになります。
そういう状態は、世界に投影されているので、自分に見えるようになっています。そんな自分を理解し、学ぶことによって人は、さらに成長します。見たことを正確に言葉にして理解することは、その有力な、ほとんど唯一の手段と思います。
そうでなく。見たことの、理解が徹底してなかったり、いい加減な誰かの解釈に当てはめてしまったり、ただ感覚的に捉えたり、理解せず放置したりすると。それ相応な、世界に投影された中途半端な状態に巻き込まれ、捕われてしまうことがあります。せっかくの体験が、生かされない恐れがあります。
つまり。「 納得するまで見たことを言葉に」するということは、見たことを表現するということでもありますが。それだけでなく。そうしてる自分の有り様を学ぶ、成長する。残響のような自我を見て理解する。解決する。その意味があります。
そうと気がつきもしてなかったのに支配されてた、その自我の仕組みを見たということは、理解すべきことが明確になる。そんな体験とも言えるかもしれません。
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No.973 - 2008/07/28(Mon) 19:40:44 |
| ☆ Re: 素朴な疑問。 / 大阪 | | | 言われる通りになりました。
僕はずっと、どうしても他の人の自我を見てしまって、最近、気づけば、周りに嫌いな人しかいなくなっていました。
それで、愛おしかった気持ちを思い出そうとしたり。
無我を張る、とも言えそうです。
きっと、自分が自我を理解していないことで起こる苦痛を、人の自我の責任にしていたんでしょう。
それで、あの体験の、自我はない、というところから書いているところに、今回のうびさんの投稿がありました。
今更ですが、うびさんは人の躓くところを良く知っておられますね。
では帰って作業を続けます。
すぐにまた何か、質問に来るかもしれません。
いや、単に、世間話をしに来るかもしれません。
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No.974 - 2008/07/28(Mon) 22:54:58 |
| ☆ Re: 素朴な疑問。 / ubik0101 | | | あらためて思えば。なにかの状態になったら・・・それは自分の行動、発言、思考に現れるので、それを理解する・・・そのことで、その内容も、その仕組みも学びながら、その自分の状態の理解が進んで行きます。
そして、それが、それまで気がつかなかった深いところにある(変な言い方)ことの開示に繋がる、と思います。
うん。世間話も、いいですね。この部屋の隣の駐車場の蛍光灯の笠の上に燕の巣があります。ぢゃ、ぢゃ、ぢゃ、と鳴いて餌を求める雛も、けっこう大きくなって、飛ぶ練習を始めています。
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No.975 - 2008/07/29(Tue) 07:15:54 |
| ☆ Re: 素朴な疑問。 / 大阪 | | | うびさんは自分の状態を、とても正直、素直に見つめていて、それだから、成長・理解に繋がるような自分の有り様をちゃんと発見出来る。
そんな印象です。
どうすればそんなに正直、素直になれるのか、と聞きたくなります。
昨日思ったのですが。
自分は人と話したり仲良くしたり分かりあうことを拒否しているのでは、と。
人の話を良く聞かず、自分が相手に良く思われたく話してしまうのです。
ちゃんと聞けばもっと、相手の気になっていることや、言って欲しい言葉も分かるのに。
それはもしかして人に対して「あなた自身を愛すより、僕を愛しなさい」と思ってるのではないか、と思いました。
あの愛のことを思うと、人にそうしてもらうことなんて本当に必要ないことなんですけど。
ふふふ。
燕の雛の飛ぶ練習、ってどんなものなんですか?
巣の中でバッサバッサやるのですか、それとも実際に外を飛んでいるのですか?
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No.976 - 2008/07/29(Tue) 12:32:33 |
| ☆ Re: 素朴な疑問。 / ubik0101 | | | ただ、自分を弁護する立場から自分を見たり、自分で自分に隠し事をしない。直視。それだけのことだと思います。
こんなことを言っては、いけないのかも知れないけど。すでに大阪さんは、愚かなために何かに依存して自己主張し、軋轢が起きてるわけではないと思うので。人間関係が順調でなくても、気にすることはないと思います。
それよりも、自分を研究する準備もできてるし、それに集中したほうが、どちらかと言えば、いいように思います。
燕の雛は、巣の縁に掴まって、羽ばたいていました。いま、確認しに行ったら、3羽ともいなかったので、巣立ちしたのでしょう。けっこう長崎には沢山の燕が、ひらひら飛んでいます。これから南の国に向かうのだと思います。
すこし今日は、バスで遠出して、郊外の海岸まで行ってきました。まだほとんど人家もなく、自然の砂浜があって、数組の家族連れが海水浴。そんな風景でした。
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No.977 - 2008/07/29(Tue) 15:33:28 |
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