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(No Subject) / ubik0101
このまえ長崎に訪ねてきてくれたhatoさんが、ubik0101の超古代より以前の日記を持って行って、文字入力してくれました。右も左も判らない時代の文書ですが、それでも姿勢は今と、そんなに変わらない、という印象です。このHPの「超古代の日記」のページに掲載していくことにしました。
No.931 - 2008/06/25(Wed) 18:22:08

Re: / 図書館閲覧者
hatoさん、文字入力お疲れ様でした。

ubik0101さん、拝見させてもらいますね。
この文章は、以前ゲストブックで話しておられた「否定の研究」の一部でしょうか?
ubik0101さんが、まだubik0101さんになられる前のもの?

No.933 - 2008/06/26(Thu) 09:30:29

Re: / 図書館閲覧者

>この文章は、以前ゲストブックで話しておられた「否定の研究」の一部でしょうか?

ああ、拝見したら「否定の研究」と題名がついていますね。
失礼しました。^^;

No.934 - 2008/06/26(Thu) 09:43:58

Re: / ubik0101
ubik0101になる、ずっと、ずっと前の日記です。最初の無思考状態を経験する数年前です。とくに名前を付けてないノートが多かったと思います。「否定の研究」「哲人28号の日記」「我々は現実と交信状態にあります」とかあったと思います。

いま掲載中のノートの名前は不明確なんですが(あとで改正するかもしれませんが)まとめて 「否定の研究」にしました。自分でも読み返したことがないので(かすかに憶えていますが)すこし驚いたり、当時の生活を思い出したりしています。

No.935 - 2008/06/26(Thu) 13:05:29

Re: / hato

図書館閲覧者さんだ!!!

なんか、
とてもほんとにうれしいです。

ノートの名前は、いまのところ
とくに付いてないみたいです。

No.936 - 2008/06/26(Thu) 21:37:36
/ ubik0101
それは様々な経緯があるでしょう。が、人の構成要素の完全な活動であり、歓喜でもある覚醒体験から冷めて、日常の意識に戻ると。その落差に、苦痛を感じてしまいます。

その状態では、 自分が無我であることを、実感したいので・・・自分の過去や、ほかの人に自我を見てしまう・・・残響のような自我が機能します。それは対立関係であり、苦痛です。

そこにこそ、自我や欲望に苦しむ人のために働きたいと思う気持ちが、起こってしまいます。でも、実に苦しんでる知人友人隣人は、ありありと見えるのですが。ほかの人に自我が機能してるってことは、空想かもしれません。そのような空想をすることが、自我をなりたたせてる、大きな要因です。

また、 冷静に考えれば、みんな自分が自分のためにすればいいので。とくに師に教わったとかいうことでなく無我を了解した人は、ほかの人のために働く必要など、なさそうです。

けど。ほかの人が自我を理解する役に立ちたいということが、ほかの人の空想の自我を起因にしてるとしても。なぜか、ほかの人のために働きたいという人を必要としてる人が世界には、いて、実際に役に立つことがあると思います。とても世界は、よくできています。

すこし話を戻します。とにかく人のために働かないことが苦しいのです。それは覚醒体験と較べた、日常の意識の、惨じめさ、苦しさと重なるところがあると思います。それで、ほかにできることもなく。苦し紛れに体験の理解を始めます。その理解がなくては、ほかの人の役に立つというのは、困難なのは明らかですが、そのことにさえ気がつかないほどです。

そして。いったん人のために働くことを始めれば、それは、ことさら誰のために、そうしようと思うことを必要としない。になります。もともと迷いも、それからの解放も・・・世界の機能で・・・誰のもの、こと、でもないし、自分とか他人とかのこととしては意識できません。

そう意識してないことにさえ本人は、なかなか気がつかない。と思います。そして、そんな自分であることに気がつくというだけなので、それに気がついても、それに縛られません(たとえば、なにも考えてない窓から風景を見てる自分、それに注目する、それから始める、ことで学べることが多々あります)。

たとえば医者が患者を見るとして、いろんな状態はあるでしょうが、たしかに誰かの病気なんですが、ことさら個人としての誰の病気、として見てないかもしれません。おなじように、ただ人としての自我の状態を見てるだけです。もちろん自分と、ほかの人が違うとかの設定ができないので、冷たいとか、事務的なとか、どんな態度も不可能です。

また、なんにしろ誰彼のもの、こと、でないのに、それを自分の状態と看做してることが、まさに自我とか、依存とかなので。なにかの葛藤を起こすような勝手な固定観念や価値観とかだけではなく。迷いも解放も、自分とか誰かのもの、こと、とするなら、それだけで問題発生です。

つまり迷いからの解放さえ、躓きになります。 が、それは無駄にあるのではありません。そこから学ぶことができます。

そうしてるうちに、そのような自分の状態の理解も進みます。たとえば執着しないことにも執着しないこと。世界の不思議。生まれつきのように理由なく素直なこと。無我の実感を求める必要がないこと。誤ることのできる意識に依存しないこと。欲望や自我の機能さえ、無我ということ。

こういうことは、覚醒体験そのものからは学ぶことはできないと思います。覚醒体験と日常。それは、あまりに、都合良くと言えるほどに、よく出来てる。と思います。

No.932 - 2008/06/25(Wed) 21:50:01
中道 / ルー
悟りにも迷いにもいない、その場所を生きることを中道と呼ぶのかどうかは、よく知らないのですが、そうであるとして。

「悟り」も「迷い」もわかって、あえて「中道」を選ぶということがあると思います。
そうではなくて、その道を通らずして、生まれたまま、そのままに生きて、中道のような生き方をする人というのは、はたして、いるのでしょうか。

No.903 - 2008/06/17(Tue) 10:19:45

Re: 中道 / ubik0101
うーん。たとえば物質的なことや、喜びや怒り、思考にしても、それは世界の機能で。そう世界が人にしてあげてるのに、人は、この自分があり、それをしてると思い違うことが自我だとも言えます。

そうであれば。そういう物質、感情、思考を、自分のこと、また、ほかの人のこととして捉えても、捉えないないようにしても、それは執着です。まず、そういう「迷い」があって、それからの解放なしには「中道」は困難と思います。

そうでなく。はじめから 幼子は「中道」だとしても。世の中に生きてる間に、いつ偏ってしまうかもしれません。また偏る、その可能性も 「迷い」なので、それを「悟り」理解し、変化し、執着しなくなることが必要とも言えます。

そうだとしたら人は、生まれつきのように執着できず、そのことに、理由も見出せません。けど。禅の、黄檗、だったか、馬祖、だったか、生まれつき悟っていた。と聞いたことがあります。また貧しく文字も読めず薪を売り歩いてた、恵能、は誰かが声を出して読んでいた、金剛経を聞いただけで悟った。と言われています。

No.904 - 2008/06/17(Tue) 11:57:25

Re: 中道 / ルー
現実にも依存しない、できない、ということについて考えています。
心が静かな場合、ただ現実の中に生きる、ということになると思うのです。
心が静かでなくても、現実の中で生きるようになる、と思うのです。
現実の中で生きるのだけれども、現実のみに執着せずに生きる、という方法を仰っているのかな。

現実を受け入れ、対処しながら生きる、ということをすると思います。
それでも、現実のみに執着する必要がないということかな。

人に依存しない、できないっていうことは、わかってきたのです。
でも、現実にも依存しない、できないってどういうことかな。
自分が宙に浮くような気がします。
自分なんかいない、という、何か宗教のようなことみたいな気がするのです。
現実以外に何があるかというと、空想、夢、過去、創作物などが思いつきますが。
現実に依存しないというと、そういうものとも仲良く暮らすみたいなことかと思います。

No.905 - 2008/06/17(Tue) 21:19:16

Re: 中道 / ルー
> そうでなく。はじめから 幼子は「中道」だとしても。世の中に生きてる間に、いつ偏ってしまうかもしれません。また偏る、その可能性も 「迷い」なので、それを「悟り」理解し、変化し、執着しなくなることが必要とも言えます。

現実の中に生きるということは、偏りを生きるということではないですか。
現実と繋がっているには、自我は必要なのではないですか。

そういう意味で、現実に依存しない、ということは、理にかなっていると思えます。

No.906 - 2008/06/18(Wed) 09:36:33

Re: 中道 / ルー
しかし、それでは、「足場を失う」という気がします。

やっぱりubikさんは幽霊なのかな〜

No.907 - 2008/06/18(Wed) 09:40:19

Re: 中道 / ubik0101
たぶん自己を感じなくなった、のでしょう。それで、この現実が自分の有り様の基準にならないのでしょう。だからと言って、このままでいいとか、違ってもいいとか、いうことでも、どんなことでもないのです。

>心が静かな場合、ただ現実の中に生きる、ということになると思うのです。
>心が静かでなくても、現実の中で生きるようになる、と思うのです。


たぶん、それは、そう自覚してなくても現実を基準にして自分を感じてるのでしょう。そうだとしたら知覚に。また、自分の状態、また、ほかの人の状態が見えてる。それに依存してるのかもしれません。

>現実の中で生きるのだけれども、現実のみに執着せずに生きる、という方法を仰っているのかな。
>自分なんかいない、という、何か宗教のようなことみたいな気がするのです。


もしかしたら単に。 現実が、ある、と伝える知覚。そうか、ある、のかと受けることで自分が、ある、と感じる意識・・・生きてる人の基本の機能・・・それを忘れただけかもしれません。

>現実以外に何があるかというと、空想、夢、過去、創作物などが思いつきますが。
>現実に依存しないというと、そういうものとも仲良く暮らすみたいなことかと思います。


この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。それに生きる自分は、いるとか、いないとか。でもないような感じです。あまりに当たり前で、とくに考えることをしなくても無問題のようです。

No.908 - 2008/06/18(Wed) 09:45:03

Re: 中道 / ルー
自分の状態を書いておられるのですね。
誰かに何かを質問されたりすることがあると思いますが、その質問について、考えるとか考えなくてもいいとかを判断するのは、残響のような自我の機能なんですか。

No.909 - 2008/06/18(Wed) 18:02:24

Re: 中道 / ubik0101
なにか質問をもらうと、そこで見えることを、なるべく正確に話してるだけです。ただ質問によっては、ほかのこととの関係とか、これまでと違う角度からとか、もっと細部まで見る必要がでて、それによって、学ばせてもらうことが多々あります。

きっと、これまで見なかったことには、返信ができないと思います。「考えるとか考えなくてもいいとかを判断する」ことはありません。ルーさんの質問を読み違えてたら指摘ください。

ところで残響のような自我については、このところ書いてることの復習になりますが、纏めてみます。無我体験の後。自分の無我を自覚するということは。ほかの人に自我を見る。過去の自分に自我を見る。ということで、自分の無我と比較することになりやすいのです。

ほかの人に自我を設定しながら、そのことによって自分の無我を対象にして掴んでるということで、それに気がつかないで、ほかの人を非難、拒否するなら、その対立関係に縛られます。それは自分で気がつかずにしてる空想とも言えます。それが残響のような自我の傾向です。

そうでなく自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。それで自分にも、ほかの人とかにも、自我を見る、空想する必要がなくなります。

そうであれば。自分の無我を自覚しなくても、無問題です。というか、それも忘れています。それでも自我はありません。これはやはり、なにか、物質にしても思考にしても対象を、ある、と伝える知覚、それを受けて、自分が、ある、と感じる意識。そのようなことは生きてる人に備わった基本の機能で。(その強調が自我とか欲望とも解釈できます)。 それに依存しない、ということだと思います。

No.910 - 2008/06/18(Wed) 20:05:44

Re: 中道 / ルー
> きっと、これまで見なかったことには、返信ができないと思います。「考えるとか考えなくてもいいとかを判断する」ことはありません。ルーさんの質問を読み違えてたら指摘ください。

えーっと、ムーミンさんの問いに対して「そうとも、そうでないとも意識していません。」と答えられたことに対する疑問でした。
「これまで見なかったことには返信できない」ということですね。
質問されて初めて考えるということが多いように思いますが、この時は、考えてみるというよりは、「そういうことは意識していない」という返事でした。
それで、「考える必要がない」と判断されたのかと思ったのですが、「返信できない」ということだったのですね。

No.911 - 2008/06/18(Wed) 22:14:31

Re: 中道 / ルー
> この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。

んー。
これは、ちょっと。
「この世界」って何?というところから始まってしまいます。
「この世界」と呼んでいるものを「現実」とするなら、「現実にも依存できない」というのは、そうかも知れません。

No.912 - 2008/06/18(Wed) 22:27:20

Re: 中道 / ルー
> この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。それに生きる自分は、いるとか、いないとか。でもないような感じです。あまりに当たり前で、とくに考えることをしなくても無問題のようです。

「無問題である」と判断したのではなく、「問題はないと感じる」ということなのかな。
自我も無我もない、ということなので、もし何かを判断するとしたら、それは自己の働きなのかなと思いますが、その自己さえも、もはや意識しなくなったということですね。

No.913 - 2008/06/19(Thu) 08:39:31

Re: 中道 / ルー
「この世界」と呼んでいるのは、「自分が知覚できる世界」というふうに理解します。
No.914 - 2008/06/19(Thu) 08:41:05

Re: 中道 / ルー
「自分が」というと、意味の取り違えがあるかも知れないので、「自分で」にしておきます。「自分によって知覚できる世界」。
ということは、知覚にも依存しないっていうことかな。

No.915 - 2008/06/19(Thu) 08:44:51

Re: 中道 / ubik0101
>えーっと、ムーミンさんの問いに対して「そうとも、そうでないとも意識していません。」と答えられたことに対する疑問でした。
>「これまで見なかったことには返信できない」ということですね。
>質問されて初めて考えるということが多いように思いますが、この時は、考えてみるというよりは、「そういうことは意識していない」という返事でした。
>それで、「考える必要がない」と判断されたのかと思ったのですが、ということだったのですね。


なにか質問をもらって、初めて考える。というのではなく。質問によって、これまで見たことが呼び起こされて、あるいは演繹されて、それを話します。見てないことは、呼び起こされない、なので「返信できない」ということです。

>「この世界」と呼んでいるのは、「自分が知覚できる世界」というふうに理解します。

> 「自分が」というと、意味の取り違えがあるかも知れないので、「自分で」にしておきます。「自分によって知覚できる世界」。
>ということは、知覚にも依存しないっていうことかな。


うーん。知覚は、ある、と伝える機能。どんなことも意識に伝えられないことはないとして、機能してると思います。つまり、ないことは知覚できない・・・知覚できないことはない・・・と暗黙の前提があります。それを見ると、それに捕われなくなります。

でも、それを見て捕われなくなるためには。実は、無我のように、ない、ことを、ない、と知覚できる 。また実在のように、ある、から知覚できない。ということを了解してなければ、困難と思います。

そういうことも 、忘れて。とくに知覚されたことによって、自分を、ある、と実感する必要もなく。 現実って、なにか買い物したり話したり考えたり・・・ある、に偏ってるように見えて、偏りなんてありようもない・・・なにかに依存できないって、ふつうのことと思います。ルーさんも、そうなのでしょう。

No.918 - 2008/06/19(Thu) 09:46:31

Re: 中道 / ルー
> なにか質問をもらって、初めて考える。というのではなく。質問によって、これまで見たことが呼び起こされて、あるいは演繹されて、それを話します。見てないことは、呼び起こされない、なので「返信できない」ということです。

なるほど。
私は、質問されて初めて考えるということが多いです。
質問されるまでは、それについて考えたことがない、ということが多いのです。

> そういうことも 、忘れて。とくに知覚されたことによって、自分を、ある、と実感する必要もなく。 現実って、なにか買い物したり話したり考えたり・・・ある、に偏ってるように見えて、偏りなんてありようもない・・・なにかに依存できないって、ふつうのことと思います。ルーさんも、そうなのでしょう。

知覚に依存できないとか、現実に依存できないとか、依存しているとか、していないとか、考えたこともありませんでした。
ただ、「人に依存できない」ということは、最近、わかりました。それも、現実の中に生きてこそ、のことです。
知覚があってこそ、のことです。
私にとっては、「生きている」ということと、現実や知覚に依存するというのは、同格です。
しかし、その「依存する」という言葉の意味は、突き詰めてはいません。
「人に依存する」というのは意味はわかりますが、「現実に依存する」とか「知覚に依存する」というのは、あまりよくわかりません。
以前、「世界が人に、このようにしてくれている」というふうに言われていたでしょう。そのように世界を捉えるならば、依存は当たり前と思うのです。

No.921 - 2008/06/19(Thu) 11:06:55

Re: 中道 / ubik0101
> 以前、「世界が人に、このようにしてくれている」というふうに言われていたでしょう。そのように世界を捉えるならば、依存は当たり前と思うのです。

どちらか片方だけなら、やはり偏りの表現と思います。どのようなことも世界が人にしてくれてるのに、人が、それを自分でしてると思い違うなら、それが自我の機能。ということです。

また。知覚にしても、その機能を正確に見なければ、それを正確に見る必要が生じ、それが躓きとして、依存として、意識される。ということです。

No.923 - 2008/06/19(Thu) 12:57:10

Re: 中道 / ルー
どちらか片方とは?
No.924 - 2008/06/19(Thu) 13:27:06

Re: 中道 / ubik0101
「どのようなことも世界が人にしてくれてる」。これは人が、消極、に偏っています。また。「それを自分でしてると思い違うなら」。これは人が、積極、に偏っています。どちらか片方なら偏りです。
No.925 - 2008/06/19(Thu) 13:40:30

Re: 中道 / ルー
どう思っていようが、どうでもいいんじゃないですか。
No.926 - 2008/06/19(Thu) 14:29:13

Re: 中道 / ubik0101
うん。それに依存しなければ、どうでもいいのです。そして、依存しないなら。思っても、思わないでも、どうでもいいってことです。
No.927 - 2008/06/19(Thu) 14:37:46

Re: 中道 / ルー
まぁ、「どう思っていようが」の中には、「何も思っていないであろうが」も含まれているわけですが。

「何も思っていない」に依存する、という場合もありますか。

No.928 - 2008/06/19(Thu) 14:45:38

Re: 中道 / ubik0101
うん。まったく問題を問題とも知覚できない、意識できないから、問題ではない。という場合が、あると思います。
No.929 - 2008/06/19(Thu) 15:43:21

Re: 中道 / ルー
なるほどね〜。
依存するっていうことの意味が、ちょっとわかったような。

No.930 - 2008/06/19(Thu) 17:44:14
自己 / ルー
>たぶん自己を感じなくなった、のでしょう。それで、この現実が自分の有り様の基準にならないのでしょう。だからと言って、このままでいいとか、違ってもいいとか、いうことでも、どんなことでもないのです。

覚醒していない人でも、「自分を感じない」ということは起きていると思います。
しかし、この現実が自分の有り様の基準であるということは、感じると思います。
何か問題がある時に、それは出現するのです。
そして、「自分を感じない」体質であれば、問題はすべて周りの人にあるのだと感じるのです。

ところで、「どんなことでもない」というのは、何なのでしょう。
現実は自分の有り様の基準にはならないが、だからといって、「何でもあり」というわけではないということ?
以前、掲示板に出ていた「自分の欲することをして矩を超えず」みたいな言葉を思い出しました。

No.916 - 2008/06/19(Thu) 09:10:38

Re: 自己 / ルー
「心の欲する所に従ひて、矩を超えず」でした。
No.917 - 2008/06/19(Thu) 09:16:59

Re: 自己 / ubik0101
なにか「このままでいいとか、違ってもいい」「何でもあり」とか判断することも不要。です。当たり前のことです。

たとえば中道と意識する、ことも不要なのだと思います。が 意識しても、意識することに捕われないなら、無問題です。

「自分の欲することをして矩を超えず」は。人は倒錯してなければ、自己を空想できず、とくに悪いことをせず、良いことをしようと望んでも。望まないでも。行動に規制がかかるという訳ではなく、矩を超えない、です。

やはり、はじめからは「自分の欲することをして矩を超えず」ではなく。「自分の欲することをして矩を超える」可能性があるわけで。それまでの人生で学んだこと、成長したことが大切と思います。

No.922 - 2008/06/19(Thu) 12:39:06
究極の前提 / ムーミン
hatoさん。おはようございます。

>>>それは、自分でわかります。
>>>了解されている、とは、そういうことです。


>>自分でわかる、というのは、そうだと、どのようにしてわかるのですか?

>それは、人が 0101 故に、ともいえるかも知れません。

>答えに適切かは、わかりませんが。

これはすごい。
つまり、ubik0101さんがおっしゃっていたのは、前提を掘り起こしていくことでしたが、究極のところにubik0101さんを持ってくるというところがすごいですね。

ところで、自我が働いているとき、葛藤があるときというのはある特質を持っています。それは思考によって「ある、ない」と思うことではなく、知覚による事実として明確に把握できることですが、それが把握されていないと、葛藤が見逃されてしまい、理解されることなく、機会を得て(縁によって)再び生じてきます。それでも気づかないということがあります。「葛藤」が知覚される事実として把握されると、葛藤に入ることはなくなります。ただ、余習はあるので、関わりの中で浮上した余習を肯定も否定もしないで、よい者にも悪者にもしないで感じていると、それが理解され力を失い、記憶が形骸化します。「葛藤」という言葉と「葛藤」という事実、実際に起こっていることとは違います。この混同が倒錯でもあります。

私も、前提を掘り起こす、疑うということをしてきていますので、ubik0101さんとお話をするときも、なるべく前提を持たないように話を進めてきたつもりです。もちろん前提を逃しているということもあるでしょう。それで次のようなことも書きました。

>>>>対話していく中で、いろいろなものが明確になっていくことがあります。たとえそれが停滞しているように見えても、停滞の中にさえ発見があります。もちろんそれは心が静かなときだけですが。自我による締め付けがなくなると、自分の中に隠れていた無意識の部分が浮上して理解されることもあります。ubik0101さんも、今まで自分は覚醒して何も問題がないと思っていた、完成したと思っていたが、まだ見逃していた、こんなにも微妙な葛藤が存在していたのか、と気づかれることもあるかもしれません。これが私が使っている学びです。

No.891 - 2008/06/16(Mon) 09:55:08

Re: 究極の前提 / ムーミン
suhoさん、おはようございます。

suhoさんのことを少し知りたくて、別の掲示板をみてみました。その掲示板にたくさん投稿されていて、その真摯な求道の姿勢に敬服しました。

ところで、その掲示板に「空をみながらベランダで煙草をしたり」とありました。私は煙草は吸わないのでわかりませんが、煙草を吸いたくなるときの気持ちってどんなものなのでしょうか?それは葛藤とは関係なく、煙草を楽しんでいらっしゃる、という感じでしょうか?

No.892 - 2008/06/16(Mon) 10:01:45

Re: 究極の前提 / suho
> suhoさん、おはようございます。
> suhoさんのことを少し知りたくて、別の掲示板をみてみました。その掲示板にたくさん投稿されていて、その真摯な求道の姿勢に敬服しました。


ん?どこの掲示板だろう?笑
新芽さんのとこかなぁ。

> ところで、その掲示板に「空をみながらベランダで煙草をしたり」とありました。私は煙草は吸わないのでわかりませんが、煙草を吸いたくなるときの気持ちってどんなものなのでしょうか?それは葛藤とは関係なく、煙草を楽しんでいらっしゃる、という感じでしょうか?

端的に言うと病気です(爆
身体が中毒化しています。
ニコチンの密度が薄くなると、体が欲するという感じです。
気持ち的には欠乏感。(楽しんでいるところも確かにあるかな)
掘り下げれば、心理的な問題に突き当たる予感もありますが、いまのところその気が起きないので保留です(爆
ですので、僕は「真摯な求道者」ではないでしょう^^

No.896 - 2008/06/16(Mon) 12:36:09

Re: 究極の前提 / hato

0101 とは、状態であり、
とくに個人を指すものでは、ないと思います。

究極の前提。
理解するなら形態の消滅。
ということを、ふと思い出しました。

ubik0101さんは、
自分の状態について、あれこれ思案していません。
素晴らしいことに、気付いてもいません。
ですが、
思案していても、どう思っていても、
まったく、よいのです。
原因がない、ということ。

そうした人の言葉、有り様に触れたとき、
人の内奥には、
呼び起こされるものが必ず、あります。

謙虚に、
ならざるを得ません。

しかし。
こうしたことを述べると、
夜中にカラスが喚きそうです。

とりあえず、ムーミンさん。
きっと、また。

No.898 - 2008/06/16(Mon) 19:11:42

Re: 究極の前提 / hato


> 素晴らしいことに、気付いてもいません。

すこし、
付け加えますね。

これはもちろん、

ご自身が、その素晴らしさに、気付いてもいない、

という意味です。

No.899 - 2008/06/17(Tue) 00:01:11

Re: 究極の前提 / ムーミン
>端的に言うと病気です(爆
>身体が中毒化しています。
>ニコチンの密度が薄くなると、体が欲するという感じで
>す。


禁煙するとなると大変なのでしょうね。
「子を持つものは子に喜び、牛を持つものは牛に喜び・・・」と言った悪魔と、「子を持つものは子に憂い、牛を持つものは牛に憂い・・・」と言ったお釈迦様の対話を思い出しました。

煙草は、自身のまた他の人に健康にもよくないようなので、やめることが出来るといいですね。

ま、「無問題」なのかな。

No.919 - 2008/06/19(Thu) 10:08:05

Re: 究極の前提 / ムーミン
>すこし、
>付け加えますね。


>これはもちろん、

>ご自身が、その素晴らしさに、気付いてもいない、

>という意味です。

ん?hatoさんはubik0101さん?

hatoさんは、もう松葉杖がなくても歩けるのではないかと思いますが。

No.920 - 2008/06/19(Thu) 10:13:00
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