たとえば、いま、ここ。不思議。でもいいのですが。ある人が、その自分の有り様を表現するなら。それは自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という印象があって、なにか違和感があることがあります。
そうだとして。たとえば天上天下唯我独尊、を思考します。するとその思考が自分の有り様の表現なら、つまりそれを理解してるなら、自分と違う視点から自分を見てる空想は不要になり、天上天下唯我独尊は思考として持続できません。その瞬間に、天上天下唯我独尊、は消滅してしまいます。
いまここ。無我もなければ自我もない。依存しないことにも依存しない。とか、なんでもいいのですが、その思考が、自らを閉じてしまいます。そして、ふつうに見えたり聞かれたりされてる世界が現前します。それで人は、なにも考えることもなく、日常を生きます。
とくに意識せずに、いまここであり、ただの人であり、不思議であり、 天上天下唯我独尊です。これが学ぶ人の日常ではないでしょうか。はじめは無知ゆえに学ぶべき問題が知覚できないとしても、それを理解したら思考を知覚する必要がなくなります。
たとえば愛を忘れ、自己を忘れ、実在を忘れ、日常に生きながら。なんでもないけど、なんでもあり。依存しないことにも依存しないのではないでしょうか。
けれど、そのように理解されたことは、意識に昇らないままに、その人に機能してると思います。それだから人は、ほかの人から尋ねられたりすると、それについて説明できるのだと思います。そうであれば、自分と違う視点から自分を見るから、空想、という違和感は起こらないと思います。
また、空想、ということが理解され、意識に昇らないでも、その人に機能してるなら。すでに、自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という問題から解放され、違和感がない、ということもあります。
そうでなく。その表明が自己表明でないなら、つまり人が自分の有り様を理解してないなら。その思考は、この思考を理解して欲しいと、その人に留まり繰り返されるのだと思います。
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No.937 - 2008/07/09(Wed) 07:59:02
| ☆ Re: 理解。 / peer | | | まあ、ともかく。自分の外部に展開されている世界、すべてが自分の内面なのだ、と理解されていることが必要、でしょうね。そこが土台でしょうから。
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No.938 - 2008/07/09(Wed) 10:30:04 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | ふーむ。あらためて指摘されると。とりあえずは、たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、として、現れると思います。つまり自分との差が知覚。そして人の意識は、現れたこと(現象)しか、見たり聞いたり思考したりできないと思います。
だからといって人は、自分が自分を(空想しなければ)知覚できるわけではありません。そこで。風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)は自分の知覚の対象だから、自分ではない、と決めることは不可能です。
また風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)しか知覚できないから、それは自分だと、決めるのも不可能です。どちらにしても、 対象にできることは、完全にどちらかだということはないって、ことになるように思えます。
でも、どうであれ対象にできるということは、自分と無関係ということではないので、 世界と、自分は、不可分です。そして対象にできること(現象)と、対象にできないこと(素直さなどのよい特質。愛。自己。実在。理解された思考)も無関係でないと思えます。
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No.939 - 2008/07/09(Wed) 20:44:53 |
| ☆ Re: 理解。 / peer | | | >たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、 >として、現れると思います。
単純に現すと「たとえば風景や樹や鳥や人や総て」を どういうものだ、こういうものだと認識している自分。 ということです。 どう認識するか、ですから、当然私達ひとりひとりの 認識する世界は、違うものになります。 どう認識しているかが個性といえましょうか。
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No.940 - 2008/07/10(Thu) 00:29:24 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。 あるいは、人は自分が何かの世界観を持ってないと思っても、ほかの人から見たりしたら、そうでもない。ということもありそうです。
ということは世界は、そのまま、ありのままの姿では認識できない。その人なりの世界観によらずには、見ることができない、と理解したのは。peerさんは、どんな認識にもよらない世界を見た。ということかもしれません。また。そう理解したというのも、そういう認識、世界観なのかもしれません。
ところで。「ひとりひとりの認識する世界は、違う」として、そこから、どういう意味が汲み取れるのでしょう。その人なりの、ありのままにしか見れないと言うことは、人は、どんなことを行動しても、話しても、思考しても結局は、その世界としての自分を学んでる、作ってる、しかない。ということなのでしょうか。
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No.941 - 2008/07/10(Thu) 08:36:55 |
| ☆ Re: 理解。 / peer | | | たとえば、口煩いお姑さんがいます。何かに付けて若いお嫁さんを叱りつける。とします。こうじゃない・・ああじゃない・・ダメだねぇ。と言う。
「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」と、受け取るお嫁さんが居ます。 「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」と、受け取るお嫁さんが居ます。
どちらも、おなじお姑さんであるのに、対応も心の持ち様も違いますから。前者は、その口煩いお姑さんを『上手く使って』要領良く生活するでしょうし、常にニコニコしている。かもしれません。 後者は・・・想像するに、地獄を生きているようなもの。でしょうか。 世界がどのようにあろうとも、無関係で無問題。 どのように生きるのも、その人なり。と、なりましょうか。
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No.942 - 2008/07/10(Thu) 15:07:28 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | ま。 お姑さんにとって、どっちの、若いお嫁さんが良いとか悪いとか判らない。てこともあるかもしれません。
「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとっては、甘えさせてもらってるだけ・・・
「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとって学ばせてもらえる・・・そして、それぞれに類似の認識も、無関係な認識も、逆の認識も、ありそうです。
つまり、どっちの若いお嫁さん自身の態度が、どのように、お姑さんに影響するか判りません。お姑さん次第です。お嫁さんも、お嫁さん次第です。また。おなじ出来事からも、それぞれが、いろんな意味を汲み取れそうです。
そいうことの総てを理解して、学んで成長すれば。お互いに、相手の、どれかの限定された態度にも、とくに依存、執着する必要がなくなるわけで。そのことで自分の行動、発言、思考が、左右されなくなる、偏らなくなる。かもしれません。
それでもまあ課題があるとすれば、こんなことを考えてる。考えない。こんなことを判断する。判断しない。それがそのまま、peerさんとか、ubik0101の有り様を示すようです。
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No.943 - 2008/07/10(Thu) 23:49:31 |
| ☆ Re: 理解。 / peer | | | はい。そのままがその人の有り様でしょう。 >その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。
前者の若いお嫁さんと後者の有り様は、違う状況でも展開される可能性はありましょう。 直属の上司と、新入社員になった場合でも、同じようなパターンになりがち。 前者ならば、上司をたてて、素直に従うでしょうし、後者の世界認識をしていると、絶えず反発して空回りしつづける。とか。 学ぶというのは、自分のパターンに気づいて行く。ということでもありましょうか。
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No.944 - 2008/07/11(Fri) 10:15:32 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | それでは困難です。お姑さんと若いお嫁さんの場合、上司と新入社員の場合、そのような関係に埋没していたとして、その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。
つまり理解とは、その、いつ何が起きるかも知れない可能性。また無(潜在)意識の理解でなくては、対症治療になります。根本治療としては実効しません。それこそ迷いです。
また。たとえば人間関係の葛藤が苦しいから、苦しくないように望んでの理解なら。それは、楽を求めてることであり、それは、苦しくなければいい、平穏、静寂ならいい、という限定された解放かもしれません。
そのようにして、たとえば人間関係の葛藤からの解放を得ても。その解放されたという状態に、依存してしまう可能性があります。
どの場合も、その人の有り様は世界に投影され、自分で見えるようになりますが。これも、振り返ってみたら、自分のパターンがあった。ということに気がつくかもしれませんが。自分の有り様が、鏡としての世界に映っていても、それに気がついていても気がつかず、埋没するかもしれません。
ここは、なにかをしたりしなかったりする。その自分は何?を見る。経験する。ことが、望ましいでしょう。実は、自分が思う自分なんて、幻想だったんだよ。って、了解することが必要だと思います。
そうであれば、ふつうの場合は、問題解決は一気であり、瞬間に行われざるを得ません。たとえば部分的な理解、ということはあり得ないからです。そうならば、さまざまな経緯があるでしょうが。人は、自己、愛、実在を、了解します。学ぶということは、そこからが始まりです。
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No.945 - 2008/07/11(Fri) 12:44:14 |
| ☆ Re: 理解。 / peer | | | >その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。
はい。ですから、パターンを見つけるコトが、切り口・・・ですね。 私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。 ココが、まず原点と成ります。 対象が無くても、自分のありのままの姿が見えています。理解しています。という人は、また別の話で。 酔っ払いのドライバーに運転をさせて、どこへ向かっているのかわからないまま、の車に乗っているようなのが普通の人間です。
前者の人がよい、後者は悪い。ということではありません。人によって、対応がまちまちである。見ているものの認識が変化します。 何かと接触すると、必ず「自分としての対応」が行われます。 どうしてこういう対応を自分はするのか。そこを見る。 まっ。ubikさんと同じことを言っているだけですが。
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No.946 - 2008/07/12(Sat) 01:03:28 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | なにかに接触して、その自分の反応を見る。ならば、なにかに接触しなくても、その反応は現れてなくても、無(潜在)意識にある。と思われます。それも掘り返す必要があるでしょう。でなければ怠惰かもしれません。
たとえば、いかなる努力もしない、規範を持たない観察も一面ですが、それだけでは言語道断です。そういうことを求めたら、そういうことしか得られない恐れがあります。そんなことでも、どんなことでもない、自己を、人は求めているのだと思います。
そうなら否定の道を本能的に歩くと思います。たまねぎの皮を剥き続けるでしょう。けど。そういう具体的な出来事、また思考の運動としての・・・自我、欲望・・・は人を鍛えるための取り替え可能な負荷であり、それ自体は、なんの変化もしません。変化、変質、変容するのは、そんな自我や欲望の機能ではなく、人です。そうだから人は解放されます。
この世界に執着しない自己を、この世界に於いて了解する。この不可能が起こります。これは無理を承知で、なり振り構わず求めるしかない場合があります。それでも、その人の、どんな努力に関係なく、関係なくもなく、それは起こります。この世界において人は自己になります。
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No.947 - 2008/07/12(Sat) 10:50:39 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | >私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。 >ココが、まず原点と成ります。
たしかに、自分は自分を、正確に見ることはできません。もし定義できるように正確に見れるとしたら、その自分は、そういう規定、限定された、ほかのこと、もの、とは区別された個別なこと、もの、です。
しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。
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No.948 - 2008/07/13(Sun) 09:40:02 |
| ☆ Re: 理解。 / peer | | | >しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。
はい。「気がついた」なんてのは あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。
たまたまワクが見えることもあって。 「こういう自分が居る」と見えますが。 自分というのはワクの反射で作られている。。。 ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。
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No.949 - 2008/07/13(Sun) 10:04:44 |
| ☆ Re: 理解。 / ubik0101 | | | >はい。「気がついた」なんてのは >あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。
うん。その仕組みが面白いです。まったく人が、どのようかであれば。どのようかである、そのことを露にするために総て(世界)が、どのようかであると見えるように現れます。けど、総てがそう見えるから、却ってそれが、どのようかであることが見えなくなります。
そうなのに、どういうわけか人に、日々の変化が起こります。そのことは人には、その自分の行動、発言、思考、そのままの有り様・・・知覚対象と主体の分離不能・・・として見えます。それは、出来事であれ思考であれ、無理解と理解との狭間に、一時の夢のように現象します。
>たまたまワクが見えることもあって。 >「こういう自分が居る」と見えますが。 >自分というのはワクの反射で作られている。。。 >ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。
うん、半分です。どういうわけか人の意識は、まず、ワクを実体と看做して、それを対象にしてる自分は仮に、ある、とされるだけで。つまり無我・・・空と言っても言いかも・・・なことを納得します。
つまり山や樹や鳥や人や感情や思考など、それを対象にしてるから仮の自分が設定されるだけで、その自分を、無我、と了解します。しかし、ワク、つまり対象、山や樹や鳥や人や感情や思考なども、無我です。
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No.951 - 2008/07/13(Sun) 17:22:22 |
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