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中道 / ルー
悟りにも迷いにもいない、その場所を生きることを中道と呼ぶのかどうかは、よく知らないのですが、そうであるとして。

「悟り」も「迷い」もわかって、あえて「中道」を選ぶということがあると思います。
そうではなくて、その道を通らずして、生まれたまま、そのままに生きて、中道のような生き方をする人というのは、はたして、いるのでしょうか。

No.903 - 2008/06/17(Tue) 10:19:45

Re: 中道 / ubik0101
うーん。たとえば物質的なことや、喜びや怒り、思考にしても、それは世界の機能で。そう世界が人にしてあげてるのに、人は、この自分があり、それをしてると思い違うことが自我だとも言えます。

そうであれば。そういう物質、感情、思考を、自分のこと、また、ほかの人のこととして捉えても、捉えないないようにしても、それは執着です。まず、そういう「迷い」があって、それからの解放なしには「中道」は困難と思います。

そうでなく。はじめから 幼子は「中道」だとしても。世の中に生きてる間に、いつ偏ってしまうかもしれません。また偏る、その可能性も 「迷い」なので、それを「悟り」理解し、変化し、執着しなくなることが必要とも言えます。

そうだとしたら人は、生まれつきのように執着できず、そのことに、理由も見出せません。けど。禅の、黄檗、だったか、馬祖、だったか、生まれつき悟っていた。と聞いたことがあります。また貧しく文字も読めず薪を売り歩いてた、恵能、は誰かが声を出して読んでいた、金剛経を聞いただけで悟った。と言われています。

No.904 - 2008/06/17(Tue) 11:57:25

Re: 中道 / ルー
現実にも依存しない、できない、ということについて考えています。
心が静かな場合、ただ現実の中に生きる、ということになると思うのです。
心が静かでなくても、現実の中で生きるようになる、と思うのです。
現実の中で生きるのだけれども、現実のみに執着せずに生きる、という方法を仰っているのかな。

現実を受け入れ、対処しながら生きる、ということをすると思います。
それでも、現実のみに執着する必要がないということかな。

人に依存しない、できないっていうことは、わかってきたのです。
でも、現実にも依存しない、できないってどういうことかな。
自分が宙に浮くような気がします。
自分なんかいない、という、何か宗教のようなことみたいな気がするのです。
現実以外に何があるかというと、空想、夢、過去、創作物などが思いつきますが。
現実に依存しないというと、そういうものとも仲良く暮らすみたいなことかと思います。

No.905 - 2008/06/17(Tue) 21:19:16

Re: 中道 / ルー
> そうでなく。はじめから 幼子は「中道」だとしても。世の中に生きてる間に、いつ偏ってしまうかもしれません。また偏る、その可能性も 「迷い」なので、それを「悟り」理解し、変化し、執着しなくなることが必要とも言えます。

現実の中に生きるということは、偏りを生きるということではないですか。
現実と繋がっているには、自我は必要なのではないですか。

そういう意味で、現実に依存しない、ということは、理にかなっていると思えます。

No.906 - 2008/06/18(Wed) 09:36:33

Re: 中道 / ルー
しかし、それでは、「足場を失う」という気がします。

やっぱりubikさんは幽霊なのかな〜

No.907 - 2008/06/18(Wed) 09:40:19

Re: 中道 / ubik0101
たぶん自己を感じなくなった、のでしょう。それで、この現実が自分の有り様の基準にならないのでしょう。だからと言って、このままでいいとか、違ってもいいとか、いうことでも、どんなことでもないのです。

>心が静かな場合、ただ現実の中に生きる、ということになると思うのです。
>心が静かでなくても、現実の中で生きるようになる、と思うのです。


たぶん、それは、そう自覚してなくても現実を基準にして自分を感じてるのでしょう。そうだとしたら知覚に。また、自分の状態、また、ほかの人の状態が見えてる。それに依存してるのかもしれません。

>現実の中で生きるのだけれども、現実のみに執着せずに生きる、という方法を仰っているのかな。
>自分なんかいない、という、何か宗教のようなことみたいな気がするのです。


もしかしたら単に。 現実が、ある、と伝える知覚。そうか、ある、のかと受けることで自分が、ある、と感じる意識・・・生きてる人の基本の機能・・・それを忘れただけかもしれません。

>現実以外に何があるかというと、空想、夢、過去、創作物などが思いつきますが。
>現実に依存しないというと、そういうものとも仲良く暮らすみたいなことかと思います。


この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。それに生きる自分は、いるとか、いないとか。でもないような感じです。あまりに当たり前で、とくに考えることをしなくても無問題のようです。

No.908 - 2008/06/18(Wed) 09:45:03

Re: 中道 / ルー
自分の状態を書いておられるのですね。
誰かに何かを質問されたりすることがあると思いますが、その質問について、考えるとか考えなくてもいいとかを判断するのは、残響のような自我の機能なんですか。

No.909 - 2008/06/18(Wed) 18:02:24

Re: 中道 / ubik0101
なにか質問をもらうと、そこで見えることを、なるべく正確に話してるだけです。ただ質問によっては、ほかのこととの関係とか、これまでと違う角度からとか、もっと細部まで見る必要がでて、それによって、学ばせてもらうことが多々あります。

きっと、これまで見なかったことには、返信ができないと思います。「考えるとか考えなくてもいいとかを判断する」ことはありません。ルーさんの質問を読み違えてたら指摘ください。

ところで残響のような自我については、このところ書いてることの復習になりますが、纏めてみます。無我体験の後。自分の無我を自覚するということは。ほかの人に自我を見る。過去の自分に自我を見る。ということで、自分の無我と比較することになりやすいのです。

ほかの人に自我を設定しながら、そのことによって自分の無我を対象にして掴んでるということで、それに気がつかないで、ほかの人を非難、拒否するなら、その対立関係に縛られます。それは自分で気がつかずにしてる空想とも言えます。それが残響のような自我の傾向です。

そうでなく自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。それで自分にも、ほかの人とかにも、自我を見る、空想する必要がなくなります。

そうであれば。自分の無我を自覚しなくても、無問題です。というか、それも忘れています。それでも自我はありません。これはやはり、なにか、物質にしても思考にしても対象を、ある、と伝える知覚、それを受けて、自分が、ある、と感じる意識。そのようなことは生きてる人に備わった基本の機能で。(その強調が自我とか欲望とも解釈できます)。 それに依存しない、ということだと思います。

No.910 - 2008/06/18(Wed) 20:05:44

Re: 中道 / ルー
> きっと、これまで見なかったことには、返信ができないと思います。「考えるとか考えなくてもいいとかを判断する」ことはありません。ルーさんの質問を読み違えてたら指摘ください。

えーっと、ムーミンさんの問いに対して「そうとも、そうでないとも意識していません。」と答えられたことに対する疑問でした。
「これまで見なかったことには返信できない」ということですね。
質問されて初めて考えるということが多いように思いますが、この時は、考えてみるというよりは、「そういうことは意識していない」という返事でした。
それで、「考える必要がない」と判断されたのかと思ったのですが、「返信できない」ということだったのですね。

No.911 - 2008/06/18(Wed) 22:14:31

Re: 中道 / ルー
> この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。

んー。
これは、ちょっと。
「この世界」って何?というところから始まってしまいます。
「この世界」と呼んでいるものを「現実」とするなら、「現実にも依存できない」というのは、そうかも知れません。

No.912 - 2008/06/18(Wed) 22:27:20

Re: 中道 / ルー
> この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。それに生きる自分は、いるとか、いないとか。でもないような感じです。あまりに当たり前で、とくに考えることをしなくても無問題のようです。

「無問題である」と判断したのではなく、「問題はないと感じる」ということなのかな。
自我も無我もない、ということなので、もし何かを判断するとしたら、それは自己の働きなのかなと思いますが、その自己さえも、もはや意識しなくなったということですね。

No.913 - 2008/06/19(Thu) 08:39:31

Re: 中道 / ルー
「この世界」と呼んでいるのは、「自分が知覚できる世界」というふうに理解します。
No.914 - 2008/06/19(Thu) 08:41:05

Re: 中道 / ルー
「自分が」というと、意味の取り違えがあるかも知れないので、「自分で」にしておきます。「自分によって知覚できる世界」。
ということは、知覚にも依存しないっていうことかな。

No.915 - 2008/06/19(Thu) 08:44:51

Re: 中道 / ubik0101
>えーっと、ムーミンさんの問いに対して「そうとも、そうでないとも意識していません。」と答えられたことに対する疑問でした。
>「これまで見なかったことには返信できない」ということですね。
>質問されて初めて考えるということが多いように思いますが、この時は、考えてみるというよりは、「そういうことは意識していない」という返事でした。
>それで、「考える必要がない」と判断されたのかと思ったのですが、ということだったのですね。


なにか質問をもらって、初めて考える。というのではなく。質問によって、これまで見たことが呼び起こされて、あるいは演繹されて、それを話します。見てないことは、呼び起こされない、なので「返信できない」ということです。

>「この世界」と呼んでいるのは、「自分が知覚できる世界」というふうに理解します。

> 「自分が」というと、意味の取り違えがあるかも知れないので、「自分で」にしておきます。「自分によって知覚できる世界」。
>ということは、知覚にも依存しないっていうことかな。


うーん。知覚は、ある、と伝える機能。どんなことも意識に伝えられないことはないとして、機能してると思います。つまり、ないことは知覚できない・・・知覚できないことはない・・・と暗黙の前提があります。それを見ると、それに捕われなくなります。

でも、それを見て捕われなくなるためには。実は、無我のように、ない、ことを、ない、と知覚できる 。また実在のように、ある、から知覚できない。ということを了解してなければ、困難と思います。

そういうことも 、忘れて。とくに知覚されたことによって、自分を、ある、と実感する必要もなく。 現実って、なにか買い物したり話したり考えたり・・・ある、に偏ってるように見えて、偏りなんてありようもない・・・なにかに依存できないって、ふつうのことと思います。ルーさんも、そうなのでしょう。

No.918 - 2008/06/19(Thu) 09:46:31

Re: 中道 / ルー
> なにか質問をもらって、初めて考える。というのではなく。質問によって、これまで見たことが呼び起こされて、あるいは演繹されて、それを話します。見てないことは、呼び起こされない、なので「返信できない」ということです。

なるほど。
私は、質問されて初めて考えるということが多いです。
質問されるまでは、それについて考えたことがない、ということが多いのです。

> そういうことも 、忘れて。とくに知覚されたことによって、自分を、ある、と実感する必要もなく。 現実って、なにか買い物したり話したり考えたり・・・ある、に偏ってるように見えて、偏りなんてありようもない・・・なにかに依存できないって、ふつうのことと思います。ルーさんも、そうなのでしょう。

知覚に依存できないとか、現実に依存できないとか、依存しているとか、していないとか、考えたこともありませんでした。
ただ、「人に依存できない」ということは、最近、わかりました。それも、現実の中に生きてこそ、のことです。
知覚があってこそ、のことです。
私にとっては、「生きている」ということと、現実や知覚に依存するというのは、同格です。
しかし、その「依存する」という言葉の意味は、突き詰めてはいません。
「人に依存する」というのは意味はわかりますが、「現実に依存する」とか「知覚に依存する」というのは、あまりよくわかりません。
以前、「世界が人に、このようにしてくれている」というふうに言われていたでしょう。そのように世界を捉えるならば、依存は当たり前と思うのです。

No.921 - 2008/06/19(Thu) 11:06:55

Re: 中道 / ubik0101
> 以前、「世界が人に、このようにしてくれている」というふうに言われていたでしょう。そのように世界を捉えるならば、依存は当たり前と思うのです。

どちらか片方だけなら、やはり偏りの表現と思います。どのようなことも世界が人にしてくれてるのに、人が、それを自分でしてると思い違うなら、それが自我の機能。ということです。

また。知覚にしても、その機能を正確に見なければ、それを正確に見る必要が生じ、それが躓きとして、依存として、意識される。ということです。

No.923 - 2008/06/19(Thu) 12:57:10

Re: 中道 / ルー
どちらか片方とは?
No.924 - 2008/06/19(Thu) 13:27:06

Re: 中道 / ubik0101
「どのようなことも世界が人にしてくれてる」。これは人が、消極、に偏っています。また。「それを自分でしてると思い違うなら」。これは人が、積極、に偏っています。どちらか片方なら偏りです。
No.925 - 2008/06/19(Thu) 13:40:30

Re: 中道 / ルー
どう思っていようが、どうでもいいんじゃないですか。
No.926 - 2008/06/19(Thu) 14:29:13

Re: 中道 / ubik0101
うん。それに依存しなければ、どうでもいいのです。そして、依存しないなら。思っても、思わないでも、どうでもいいってことです。
No.927 - 2008/06/19(Thu) 14:37:46

Re: 中道 / ルー
まぁ、「どう思っていようが」の中には、「何も思っていないであろうが」も含まれているわけですが。

「何も思っていない」に依存する、という場合もありますか。

No.928 - 2008/06/19(Thu) 14:45:38

Re: 中道 / ubik0101
うん。まったく問題を問題とも知覚できない、意識できないから、問題ではない。という場合が、あると思います。
No.929 - 2008/06/19(Thu) 15:43:21

Re: 中道 / ルー
なるほどね〜。
依存するっていうことの意味が、ちょっとわかったような。

No.930 - 2008/06/19(Thu) 17:44:14
自己 / ルー
>たぶん自己を感じなくなった、のでしょう。それで、この現実が自分の有り様の基準にならないのでしょう。だからと言って、このままでいいとか、違ってもいいとか、いうことでも、どんなことでもないのです。

覚醒していない人でも、「自分を感じない」ということは起きていると思います。
しかし、この現実が自分の有り様の基準であるということは、感じると思います。
何か問題がある時に、それは出現するのです。
そして、「自分を感じない」体質であれば、問題はすべて周りの人にあるのだと感じるのです。

ところで、「どんなことでもない」というのは、何なのでしょう。
現実は自分の有り様の基準にはならないが、だからといって、「何でもあり」というわけではないということ?
以前、掲示板に出ていた「自分の欲することをして矩を超えず」みたいな言葉を思い出しました。

No.916 - 2008/06/19(Thu) 09:10:38

Re: 自己 / ルー
「心の欲する所に従ひて、矩を超えず」でした。
No.917 - 2008/06/19(Thu) 09:16:59

Re: 自己 / ubik0101
なにか「このままでいいとか、違ってもいい」「何でもあり」とか判断することも不要。です。当たり前のことです。

たとえば中道と意識する、ことも不要なのだと思います。が 意識しても、意識することに捕われないなら、無問題です。

「自分の欲することをして矩を超えず」は。人は倒錯してなければ、自己を空想できず、とくに悪いことをせず、良いことをしようと望んでも。望まないでも。行動に規制がかかるという訳ではなく、矩を超えない、です。

やはり、はじめからは「自分の欲することをして矩を超えず」ではなく。「自分の欲することをして矩を超える」可能性があるわけで。それまでの人生で学んだこと、成長したことが大切と思います。

No.922 - 2008/06/19(Thu) 12:39:06
究極の前提 / ムーミン
hatoさん。おはようございます。

>>>それは、自分でわかります。
>>>了解されている、とは、そういうことです。


>>自分でわかる、というのは、そうだと、どのようにしてわかるのですか?

>それは、人が 0101 故に、ともいえるかも知れません。

>答えに適切かは、わかりませんが。

これはすごい。
つまり、ubik0101さんがおっしゃっていたのは、前提を掘り起こしていくことでしたが、究極のところにubik0101さんを持ってくるというところがすごいですね。

ところで、自我が働いているとき、葛藤があるときというのはある特質を持っています。それは思考によって「ある、ない」と思うことではなく、知覚による事実として明確に把握できることですが、それが把握されていないと、葛藤が見逃されてしまい、理解されることなく、機会を得て(縁によって)再び生じてきます。それでも気づかないということがあります。「葛藤」が知覚される事実として把握されると、葛藤に入ることはなくなります。ただ、余習はあるので、関わりの中で浮上した余習を肯定も否定もしないで、よい者にも悪者にもしないで感じていると、それが理解され力を失い、記憶が形骸化します。「葛藤」という言葉と「葛藤」という事実、実際に起こっていることとは違います。この混同が倒錯でもあります。

私も、前提を掘り起こす、疑うということをしてきていますので、ubik0101さんとお話をするときも、なるべく前提を持たないように話を進めてきたつもりです。もちろん前提を逃しているということもあるでしょう。それで次のようなことも書きました。

>>>>対話していく中で、いろいろなものが明確になっていくことがあります。たとえそれが停滞しているように見えても、停滞の中にさえ発見があります。もちろんそれは心が静かなときだけですが。自我による締め付けがなくなると、自分の中に隠れていた無意識の部分が浮上して理解されることもあります。ubik0101さんも、今まで自分は覚醒して何も問題がないと思っていた、完成したと思っていたが、まだ見逃していた、こんなにも微妙な葛藤が存在していたのか、と気づかれることもあるかもしれません。これが私が使っている学びです。

No.891 - 2008/06/16(Mon) 09:55:08

Re: 究極の前提 / ムーミン
suhoさん、おはようございます。

suhoさんのことを少し知りたくて、別の掲示板をみてみました。その掲示板にたくさん投稿されていて、その真摯な求道の姿勢に敬服しました。

ところで、その掲示板に「空をみながらベランダで煙草をしたり」とありました。私は煙草は吸わないのでわかりませんが、煙草を吸いたくなるときの気持ちってどんなものなのでしょうか?それは葛藤とは関係なく、煙草を楽しんでいらっしゃる、という感じでしょうか?

No.892 - 2008/06/16(Mon) 10:01:45

Re: 究極の前提 / suho
> suhoさん、おはようございます。
> suhoさんのことを少し知りたくて、別の掲示板をみてみました。その掲示板にたくさん投稿されていて、その真摯な求道の姿勢に敬服しました。


ん?どこの掲示板だろう?笑
新芽さんのとこかなぁ。

> ところで、その掲示板に「空をみながらベランダで煙草をしたり」とありました。私は煙草は吸わないのでわかりませんが、煙草を吸いたくなるときの気持ちってどんなものなのでしょうか?それは葛藤とは関係なく、煙草を楽しんでいらっしゃる、という感じでしょうか?

端的に言うと病気です(爆
身体が中毒化しています。
ニコチンの密度が薄くなると、体が欲するという感じです。
気持ち的には欠乏感。(楽しんでいるところも確かにあるかな)
掘り下げれば、心理的な問題に突き当たる予感もありますが、いまのところその気が起きないので保留です(爆
ですので、僕は「真摯な求道者」ではないでしょう^^

No.896 - 2008/06/16(Mon) 12:36:09

Re: 究極の前提 / hato

0101 とは、状態であり、
とくに個人を指すものでは、ないと思います。

究極の前提。
理解するなら形態の消滅。
ということを、ふと思い出しました。

ubik0101さんは、
自分の状態について、あれこれ思案していません。
素晴らしいことに、気付いてもいません。
ですが、
思案していても、どう思っていても、
まったく、よいのです。
原因がない、ということ。

そうした人の言葉、有り様に触れたとき、
人の内奥には、
呼び起こされるものが必ず、あります。

謙虚に、
ならざるを得ません。

しかし。
こうしたことを述べると、
夜中にカラスが喚きそうです。

とりあえず、ムーミンさん。
きっと、また。

No.898 - 2008/06/16(Mon) 19:11:42

Re: 究極の前提 / hato


> 素晴らしいことに、気付いてもいません。

すこし、
付け加えますね。

これはもちろん、

ご自身が、その素晴らしさに、気付いてもいない、

という意味です。

No.899 - 2008/06/17(Tue) 00:01:11

Re: 究極の前提 / ムーミン
>端的に言うと病気です(爆
>身体が中毒化しています。
>ニコチンの密度が薄くなると、体が欲するという感じで
>す。


禁煙するとなると大変なのでしょうね。
「子を持つものは子に喜び、牛を持つものは牛に喜び・・・」と言った悪魔と、「子を持つものは子に憂い、牛を持つものは牛に憂い・・・」と言ったお釈迦様の対話を思い出しました。

煙草は、自身のまた他の人に健康にもよくないようなので、やめることが出来るといいですね。

ま、「無問題」なのかな。

No.919 - 2008/06/19(Thu) 10:08:05

Re: 究極の前提 / ムーミン
>すこし、
>付け加えますね。


>これはもちろん、

>ご自身が、その素晴らしさに、気付いてもいない、

>という意味です。

ん?hatoさんはubik0101さん?

hatoさんは、もう松葉杖がなくても歩けるのではないかと思いますが。

No.920 - 2008/06/19(Thu) 10:13:00
続々々々・成長 / ubik0101
ム−ミンさん

>それで、世界のすべてを理解し終えて、菩薩の修行も悟後の修行も終わったというわけですか。

とくに、そうとも、そうでないとも意識していません。

>そうですか?ある掲示板で「クリシュナムルティ」のハンドルネームで投稿されたり、偽クリシュナムルティと名乗られたりして書き込みをされていましたよね。ほかにも「にせ新しい芽」というハンドルネームでも書いていらっしゃったと、その掲示板には書いてあったと記憶しています。その掲示板で、ある人のことを「馬と鹿」と呼んだり、ある人たちのことを「青鬼、赤鬼」と表現していらっしゃいましたよね。

>その掲示板を読んでいて、ある人のクリシュナムルティ解釈をubik0101さんが解釈して、その解釈を持って別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをやっていらっしゃいませんでしたか?何重にもバイアスがかかって、それに基づく誤解が修正されないまま話が進んでいったという印象でした。それで同じことが何度も繰り返されていました。

「クリシュナムルティ」のハンドルネーム は憶えがあります。けど。憶えてないということはないと思いますが「偽クリシュナムルティ」「青鬼、赤鬼」は知りません。「 ある人のクリシュナムルティ解釈 」は、まったく知りません。「ある人」「別の人」って、誰なんでしょう。 「それで同じことが何度も繰り返されていました。」ということも、ム−ミンさんの記憶にある限りでいいので、ここで話しても無問題です。

>それで、「その人の状態について批判」といっても、その人の状態の本当のところはわからないでしょう。表現の上手い、下手もある。掲示板では言葉を頼りにして想像するしかない。空想するしかない。それで言葉の使い方、定義がずれているにもかかわらず、それにこだわれば、繰り返しが続きます。また、前にubik0101さんは、ある人に「指摘したけれども無駄だから、もう止めた」という結論付け、断定をされていましたね。それはどこからくるのでしょう。自分の体験を絶対的だとする確信からですか?

「ある人」って、新しい芽さんのことでしょうか。なら「馬と鹿」です。彼には、できるだけのことはしました。「その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。」。この通りです。新しい芽さん以外の人、たとえばム−ミンさんと、このことを話しても意味はないと思いますが、するのはかまいません。

>空想、想像ならいくらでも出来ます。たとえば、ある掲示板やこの掲示板の書き込みを読んで、「クリシュナムルティ」と名乗ったり、ある人たちに対して「馬と鹿」とか「赤鬼、青鬼」とかという表現を使用するのは、何かubik0101さんは、クリシュナムルティやその愛読者に対してルサンチマンというか、反感でもあるのではないか、その無意識に気づいていないのではないか、とか。

クリシュナムルティは読んだ限りでは、つまらないと思います。

No.876 - 2008/06/14(Sat) 17:37:49

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>>それで、世界のすべてを理解し終えて、菩薩の修行も悟後の修行も終わったというわけですか。

>とくに、そうとも、そうでないとも意識していません。

「自我の完成」とおっしゃっていましたが、「完成」が何かをはっきりとわからないとそうはいえないでしょう。例えばお釈迦様が解脱したときには、はっきりと解脱したとわかる、と仏典に書いてあるように、「完成」がはっきりわかるのだと思っていました。

>「クリシュナムルティ」のハンドルネーム は憶えがあります。けど。憶えてないということはないと思いますが「偽クリシュナムルティ」「青鬼、赤鬼」は知りません。「 ある人のクリシュナムルティ解釈 」は、まったく知りません。「ある人」「別の人」って、誰なんでしょう。 「それで同じことが何度も繰り返されていました。」ということも、ム−ミンさんの記憶にある限りでいいので、ここで話しても無問題です。

そうですか、忘れてしまわれましたか。「ゴトの読書室」のことです。覚えていらっしゃらないのなら、これ以上はなしても、無駄ですね。確か「赤鬼、青鬼」は夢の形式を借りてお話されていたように思います。

>「ある人」って、新しい芽さんのことでしょうか。なら「馬と鹿」です。彼には、できるだけのことはしました。「その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。」。この通りです。新しい芽さん以外の人、たとえばム−ミンさんと、このことを話しても意味はないと思いますが、するのはかまいません。

そう判断、結論付けされますが、本当のところはわからないでしょう。ubik0101さんは新しい芽さんという方をよくご存知なのですか?できるだけのことをしたってなんなのでしょう。差し支えなければお聞かせください。

>クリシュナムルティは読んだ限りでは、つまらないと思います。

はい。
それはそれで構わないと思います。私もつまらないな、と感じることもあります。余計な幻想や希望を与えないほうがいいのじゃないかと、思うこともありました。だけれども、まったく無視できないものもあると、感じました。

No.877 - 2008/06/14(Sat) 17:53:30

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
>「自我の完成」とおっしゃっていましたが、「完成」が何かをはっきりとわからないとそうはいえないでしょう。例えばお釈迦様が解脱したときには、はっきりと解脱したとわかる、と仏典に書いてあるように、「完成」がはっきりわかるのだと思っていました。

そういう意味なら、完成です。自我の問題は解決です。それでも、悟後の修行が必要だということです。「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか? 」こうム−ミンさんに質問しましたが。叡智とは葛藤の理解なので・・・ふつうの日常で・・・もう葛藤は起こらない、です。

>そうですか、忘れてしまわれましたか。「ゴトの読書室」のことです。覚えていらっしゃらないのなら、これ以上はなしても、無駄ですね。確か「赤鬼、青鬼」は夢の形式を借りてお話されていたように思います。

それなら、「赤鬼、青鬼」ではなく、妖精の話です。それは、この“掲示板”にも投稿、本文の『った』にも掲載してますが、誰の批判とか非難とか、受け取れないと思います。

>そう判断、結論付けされますが、本当のところはわからないでしょう。ubik0101さんは新しい芽さんという方をよくご存知なのですか?できるだけのことをしたってなんなのでしょう。差し支えなければお聞かせください。

うーん。読書会から、喫茶店、飲み屋に行き、たぶん6時間ほど会っただけです。なんにしても、ほかの誰かを拒否するという意味で、批判することはありません。そういえば2年ほど前、「雑感」で、自我が解消されたらそれは永続的なことか?など。いくつか新しい芽さんに質問しました。本人が実践してるなら、答えられることです。

まったく返信をせず、ほかの人と話してはどうか、と言われました。ほかの人も、新しい芽さんに、答えられるはずの質問しますが、肝心なものは返事しません。

そして、自分が突っ込まれて、答えなかったことを、違う人に対して、突っ込むことばかり、繰り返しています。また、ほかの人のことは検討しますが、自分のことは検討しません。

そういうことは、自分を正しいと思いたいからでは?と指摘したりしますが。「ubik0101には問題がないようだから、話することはない」。とか、大事な話をしてると「興味がなくなった」と、これは数回も言われました。

はじめから自分を見る自分などいない。と言っても信じません。そして人は、ふたつに分裂してて、ひとつが本物、などと言ったりします。このままでは新しい芽さんにとって問題だろう。ということで話すのですが、いつも同じ結果です。

No.880 - 2008/06/14(Sat) 19:29:21

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>そういう意味なら、完成です。自我の問題は解決です。それでも、悟後の修行が必要だということです。「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか? 」こうム−ミンさんに質問しましたが。叡智とは葛藤の理解なので・・・ふつうの日常で・・・もう葛藤は起こらない、です。

はい。それで、葛藤は起こらないと、どうしてわかるのか、ということで、今までお話をしてきたつもりでした。それが実践、学びで欠かせないことだからです。それで知覚の話もしました。

>それなら、「赤鬼、青鬼」ではなく、妖精の話です。それは、この“掲示板”にも投稿、本文の『った』にも掲載してますが、誰の批判とか非難とか、受け取れないと思います。

『った』を拝見しました。妖精の文章はありましたが、「ゴトの読書室」に投稿されていた「青鬼、赤鬼」の文章は出ていませんでした。この夢の形を借りた文章をわざわざ「ゴトの読書室」に投稿されたのは、ubik0101さんと、ゴトさん、新しい芽さんとの対話が紛糾して途絶えた直後のことでしたので、お二人のことを比喩的に語られているのだろうと思いました。私の解釈の違いであれば申し訳なく思います。

>うーん。読書会から、喫茶店、飲み屋に行き、たぶん6時間ほど会っただけです。なんにしても、ほかの誰かを拒否するという意味で、批判することはありません。そういえば2年ほど前、「雑感」で、自我が解消されたらそれは永続的なことか?など。いくつか新しい芽さんに質問しました。本人が実践してるなら、答えられることです。

>まったく返信をせず、ほかの人と話してはどうか、と言われました。ほかの人も、新しい芽さんに、答えられるはずの質問しますが、肝心なものは返事しません。

>そして、自分が突っ込まれて、答えなかったことを、違う人に対して、突っ込むことばかり、繰り返しています。また、ほかの人のことは検討しますが、自分のことは検討しません。

>そういうことは、自分を正しいと思いたいからでは?と指摘したりしますが。「ubik0101には問題がないようだから、話することはない」。とか、大事な話をしてると「興味がなくなった」と、これは数回も言われました。

>はじめから自分を見る自分などいない。と言っても信じません。そして人は、ふたつに分裂してて、ひとつが本物、などと言ったりします。このままでは新しい芽さんにとって問題だろう。ということで話すのですが、いつも同じ結果です。

そうですか。私は新しい芽さんのことはわかりません。解釈はいろいろとできるだろうと思います。問題がなくなったというのなら、人が自我が解消したとか、解消していないとか、永続的かどうかなど問題にもならないだろう、それは自分自身の目で確かめればよいだろう、そして、一つの問題もないときには、生き生きとした生を生きているだけではないか、という趣旨のことを書いていらっしゃるのはよく見かけますね。

No.882 - 2008/06/15(Sun) 14:51:18

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
> 『った』を拝見しました。妖精の文章はありましたが、「ゴトの読書室」に投稿されていた「青鬼、赤鬼」の文章は出ていませんでした。この夢の形を借りた文章をわざわざ「ゴトの読書室」に投稿されたのは、ubik0101さんと、ゴトさん、新しい芽さんとの対話が紛糾して途絶えた直後のことでしたので、お二人のことを比喩的に語られているのだろうと思いました。私の解釈の違いであれば申し訳なく思います。

まったく、「申し訳なく」なんてこともないことです。妖精の話は、楽しんでもらおうとして投稿したことです。でも、「青鬼、赤鬼」そんな投稿したかは?です。ゴトさんは慎重で、なかなか好感を持っています。2、3回、話しただけで、紛糾?ではないと思います。いろんな読み方があっても無問題です。

ところで。もう、ほかの人に自我を見る必要はないのではないでしょうか。たしかに自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。

No.889 - 2008/06/15(Sun) 17:34:05

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>まったく、「申し訳なく」なんてこともないことです。妖精の話は、楽しんでもらおうとして投稿したことです。でも、「青鬼、赤鬼」そんな投稿したかは?です。ゴトさんは慎重で、なかなか好感を持っています。2、3回、話しただけで、紛糾?ではないと思います。いろんな読み方があっても無問題です。

そういっていただければ、幸いです。
「青鬼、赤鬼」の投稿は、私の幻覚だったのでしょうか。今では確かめる術もありませんが。

>ところで。もう、ほかの人に自我を見る必要はないのではないでしょうか。たしかに自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。

ええ、ただ、ubik0101さんとか誰がということではありませんが、見逃された微妙な、微細な自我が働いている、葛藤がかもしれない、と自分のことのように心配してしまうということがあるのですね。

そろそろやめようと思いますが、何か質問をし残したとすれば、単なる表現の問題で、言葉の使い方の違いの問題かもしれませんが、自我は実体ではないとおっしゃる一方で、自我の完成を説いておられるのはどうしてなのか?ということがあります。

No.893 - 2008/06/16(Mon) 10:18:02

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
それは最初の頃に話したと思います。機能として未完だから自我は機能するという意味です。

それで自我の否定(それも自我)でもなく、肯定(それも自我)でもなく、完成が無我です。と言います。もちろん実体としての自我は、はじめからありません。

No.894 - 2008/06/16(Mon) 11:10:36

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>>そろそろやめようと思いますが、何か質問をし残したとすれば、単なる表現の問題で、言葉の使い方の違いの問題かもしれませんが、自我は実体ではないとおっしゃる一方で、自我の完成を説いておられるのはどうしてなのか?ということがあります。

>>それは最初の頃に話したと思います。機能として未完だから自我は機能するという意味です。

>>それで自我の否定(それも自我)でもなく、肯定(それも自我)でもなく、完成が無我です。と言います。もちろん実体としての自我は、はじめからありません。

わかりました。
仏教では「自我の完成」とは言わないので、「自我」「実体」という意味、言葉の使い方が仏教とは、少し違うわけですね。これがubik0101さんの言う「自分の言葉」なのですね。少し紛らわしくて混同してしまいました。

それでは長きにわたって、ありがとうございました。お疲れ様でした。これから暑くなりますので、お体にはくれぐれもお気をつけください。

No.895 - 2008/06/16(Mon) 11:23:27

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
とりあえず、この一連の対話の印象として。その人の経緯の違いはともかく。たとえば自我でも、無我でも、叡智でも。

それを自分の、こと。あるいは。ほかの誰かの、こと、と看做すと、それだけで問題になってしまうのかな。と感じました。それでは。いつでも。また。

No.897 - 2008/06/16(Mon) 14:12:52

Re: 続々々々・成長 / ルー
「ubikさんの言葉の使い方は、一般のものとは違う」というだけのことではないですか。
人によって、言葉の使い方が違う、ということだと思います。
林檎を梨と呼び、梨を林檎と呼ぶのでは問題があるというか、話が通じにくいという問題がありますが。
どれを林檎と呼び、どれを梨と呼んでいるのかということが説明の中でわかれば、話は通じると思います。ただ、面倒ではありますが。

普通、「ただの人」と言えば、覚醒していなくて、自我が完成していない人のことを指すを思いますが、そうではない人を「ただの人」と呼ぼうが、意味が通じていればよいかな、と思います。その人独特の経緯というものを尊重して、そう思うのかな。

No.900 - 2008/06/17(Tue) 09:34:01

Re: 続々々々・成長 / ルー
「悟りにも迷いにもいない人」というのは、私は、「悟りにいる人」と思います。「葛藤することはない」というのなら、なおさら「悟りにいる人」だと思います。
それを「ただの人」と呼ぶのは、自分を「特別」と思うことを許していないからではないかと思います。

「ただの犬」と言う時、その犬は「特別な犬」ではないことを意味します。しかし、そういう観念のようなものを持ち合わせていない場合、「ただの犬」というのは、「まさに犬らしい犬」を指すかも知れません。
そういう意味で、「ただの人」というのが、「まさに、人間らしい人間」を指すこともあるかな。

「恋におちて」という歌の中に、「I just a woman」という歌詞があるのですが、「私は、ただの女」であり「まさに女」である、ということだと思います。
「ただの人」という表現の中には、「just」に匹敵するものがあるように思いました。

No.901 - 2008/06/17(Tue) 09:49:31

Re: 続々々々・成長 / ルー
「am」が抜けていました。「I'm just a woman」でした。

ま、空想。。。ですね。
聞き流してください。

No.902 - 2008/06/17(Tue) 10:01:44
続々々・成長 / ubik0101
ム−ミンさん。

>知覚からの直接の行為の意味が了解できたとき、了解する前には気づかなかったけれども、実はそのときにも直接の行為をしているときがあったのだな、と知るでしょう。人は叡智を得て初めて、知覚からの直接の行為があるのでしょうか。はたして、その行為は「覚醒者」の占有物なのでしょうか?

ここでは、はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?と質問しました。叡智とは、葛藤の理解です。それは葛藤からの学びによらずには、不可能と思います。「了解する前」と了解した後の「知覚からの直接の行為」を一括して叡智と呼ぶことは疑問です。

そこには、葛藤を知覚できなければ、それは、ない、という姿勢に、こだわってる、ように思えます。 たまたま周囲の人や環境に恵まれてて、葛藤が起きない場合、葛藤や苦しみは潜在して知覚できません。その葛藤を知覚できないことを叡智と命名?葛藤の理解も、叡智と命名?

と、言うのも。なぜ叡智と行動を結び付けるのでしょう。それには理由がありませんか。と思うからです。そこには、葛藤などのない人間関係などを、よし、とする。また自我を邪魔者とする。暗黙の前提がありませんか。そう自覚してなくても、そういう非難、正当性が、隠れていませんか。

ほんとうに全否定は、全肯定ではありませんか。これも、無我の了解のときに体験してるのですが、意識には受け入れがたいことのようです。これも、直接の道がない場合があります。どこまでも自分を理解し尽くし、意識の領域だけでなく、つまり意識にも依存せず、徹底することが望ましく思えます。

もちろん、ム−ミンさんは無自覚でも、どこかで。叡智など不要。と徹底してるのかもしれません。それならば、たとえば「知覚からの直接の行為」も蛇足。になると思います。

>観察者が意識されない、観察されていることが意識されない、ということではないですか?つまり、自意識、自我意識、自己意識、いろいろ呼び名はありますが、それがないということでしょう。で、そういうものの干渉がなく、ただ見ているということではないですか?

ここでは。観察者が自覚されないことを「観察者がいない観察」と表現するのは、 「観察者がいる観察」と対になった思考で、それは自覚してないけど。あることと、反対のことの葛藤であり、それでは「堂々巡り」といわれてる状態では?と質問したのです。それは一応、説明概念かもしれませんが。

その「堂々巡り」に気がつかなくするために。たとえば観察者がいなければ、それだけで、「叡智がある」、「知覚からの直接行動がある」という「前提」に落とし込んで、「観察者がいない観察」は正当性を与えられてるのではないでしょうか。けれど、その「前提」の正しさを疑えると思います。

それでも、たとえばム−ミンさんが、「観察者がいない観察」。それで納得してるなら、たとえばubik0101が、なにも指摘することはありません。しかし。そこを、もっと検討すれば、さらに可能性があると思います。クリシュナムルティの言葉、概念を使うことを、とやかく言いません。しかし、クリシュナムルティに「同一化」してるのでないなら、もっと自分の言葉で話せると思います。

あとは、これまでの繰り返しになると思うので省きますが、要点を抜かしたなら、指摘してくれれば大丈夫です。今日は、高速船で、小旅行です。

No.860 - 2008/06/09(Mon) 07:30:42

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>ここでは、はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?と質問しました。叡智とは、葛藤の理解です。それは葛藤からの学びによらずには、不可能と思います。「了解する前」と了解した後の「知覚からの直接の行為」を一括して叡智と呼ぶことは疑問です。

「覚醒」がなければ、本当の叡智はないということをおっしゃっているのでしょう。本当にその叡智は、言葉を換えれば、知覚や知覚からの直接の行為は「覚醒者」だけが持つ特権ですか?「覚醒者」でなくても、思考(二元性の)がないとき、叡智が働くのでは、ということを言っています。

では逆に、「覚醒者」を自負していらっしゃるubik0101さんの、その特権的な「叡智」とは、どんなに特別なものなのですか?つい先には「ただの人だ」とおっしゃっていたと思いますが。

義務からでも、道徳からでも、人に言われたからでもなく、ああしなければいけない、ああしたい、誰かにどう思われたい、思われたくないなどの思いなく、知覚からの自発的な行為は世界中に見られるのではないですか?日曜日に起こった秋葉原での事件で、被害者の方を介抱されていた方々、阪神大震災のときも、自分の利益そっちのけで、人を助けるということがあったでしょう。これらの人々の行為のすべてが偽善の叡智だということでしょうか?

で、私の記述では伝わらないようなので、「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?」という問いについては、では何故、仏教で「菩薩道」が成り立ったり、禅において「悟後の修行」が存在するのかを考えればいいと思います。

>と、言うのも。なぜ叡智と行動を結び付けるのでしょう。それには理由がありませんか。と思うからです。そこには、葛藤などのない人間関係などを、よし、とする。また自我を邪魔者とする。暗黙の前提がありませんか。そう自覚してなくても、そういう非難、正当性が、隠れていませんか。

まったく伝わっていなかったみたいです。現に自我は問題を起こしています。しかし、その「自我を邪魔者」にすることは問題を解決しないということを言ってきたのです。実践において、善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだと、という思いがあるのなら、それは倒錯だろうということです。そのときには方便としての言葉の理解がないのではないか、ということです。

叡智と行動とは別のものですか?分離のない全体の動きではないですか?

>ほんとうに全否定は、全肯定ではありませんか。これも、無我の了解のときに体験してるのですが、意識には受け入れがたいことのようです。これも、直接の道がない場合があります。どこまでも自分を理解し尽くし、意識の領域だけでなく、つまり意識にも依存せず、徹底することが望ましく思えます。

否定も肯定もないものです。それをとりあえずのものとして「全否定」といいます。そしてそこに、叡智と行動との分離のない全体の動きがあるのではないですか?それを「意識に依存しない」と呼ぶのではないですか?全肯定をいうなら、そこには、全肯定に対する依存が隠れている可能性もあります。

>そこには、葛藤を知覚できなければ、それは、ない、という姿勢に、こだわってる、ように思えます。 たまたま周囲の人や環境に恵まれてて、葛藤が起きない場合、葛藤や苦しみは潜在して知覚できません。その葛藤を知覚できないことを叡智と命名?葛藤の理解も、叡智と命名?

たまたま人や環境に恵まれて、自分には葛藤がないよ、という場合、それは、思考や認識の判断であって、つまり思いであって、知覚される事実ではない可能性があるでしょう。葛藤が明確であれば、それは知覚され、理解されるでしょう。

ここの部分も何度か説明してきましたが、私の説明では伝わらないようなので、上にも書いたように、では何故、仏教で「菩薩道」が成り立ったり、禅において「悟後の修行」が存在するのかを考えればいいと思います。

>ここでは。観察者が自覚されないことを「観察者がいない観察」と表現するのは、 「観察者がいる観察」と対になった思考で、それは自覚してないけど。あることと、反対のことの葛藤であり、それでは「堂々巡り」といわれてる状態では?と質問したのです。それは一応、説明概念かもしれませんが。

ここも伝わっていなかったみたいですね。

>その「堂々巡り」に気がつかなくするために。たとえば観察者がいなければ、それだけで、「叡智がある」、「知覚からの直接行動がある」という「前提」に落とし込んで、「観察者がいない観察」は正当性を与えられてるのではないでしょうか。けれど、その「前提」の正しさを疑えると思います。

「知覚」と「観察者のいない観察」とは同じ意味で使っています。このなかで「堂々巡り」の意味と実態が理解されるのではありませんか?

この言葉で申し上げてきたのは、いかなるあり方においてあるものでもない、というあり方において、物事はあるということです。そのことも意識されません。もちろん、「知覚」が葛藤の反対のものという捉えかたであるならば、それは葛藤の事項で「堂々巡り」になります。

>それでも、たとえばム−ミンさんが、「観察者がいない観察」。それで納得してるなら、たとえばubik0101が、なにも指摘することはありません。しかし。そこを、もっと検討すれば、さらに可能性があると思います。クリシュナムルティの言葉、概念を使うことを、とやかく言いません。しかし、クリシュナムルティに「同一化」してるのでないなら、もっと自分の言葉で話せると思います。

過去の経緯を見ていただければわかるともいますが、私のほうからクリシュナムルティについて話したのは、少ないと思います。ubik0101さんがクリシュナムルティについてよく言及されるので、共通の言葉として理解がしやすい、そのほうが手っ取り早いのかなと思い使用してきました。

ところで、過去の書き込みを読むと、ubik0101さんはクリシュナムルティをほとんど知らないと書かれていました。にもかかわらずクリシュナムルティのことをよく引き合いに出され、批判されていらっしゃいますが、それは誰経由のクリシュナムルティなのでしょうか。

また、ubik0101さんは、仏教の用語をよく使われますね。それは、それがご自分の表現にぴったり来る、表現しやすいからということでしょう。言葉はある何かを表現するものでしょう。それならば、クリシュナムルティを使おうが仏教を使おうが関係ないのではないですか?クリシュナムルティの術語を使うから「同一化」だとおっしゃるのは、逆に何かへのこだわり、とらわれがあるという可能性もあります。

何を持って自分の言葉といえるのか、これも大きな問題を孕んでいます。

No.862 - 2008/06/10(Tue) 11:16:53

Re: 続々々・成長 / ubik0101
> 「覚醒」がなければ、本当の叡智はないということをおっしゃっているのでしょう。本当にその叡智は、言葉を換えれば、知覚や知覚からの直接の行為は「覚醒者」だけが持つ特権ですか?「覚醒者」でなくても、思考(二元性の)がないとき、叡智が働くのでは、ということを言っています。

まったく叡智と、知覚からの直接の行動を結び付ける必要も、意味も、理由も、感じていません。とくに、知覚からの直接の行動を目標に、探究しているのではありません。

ただ人間関係から学ぶことは沢山あります。結果としては、とくに葛藤がない人間関係が実現されるということです。 結果としてでなく、それを目標として求めるなら、その目標によって結果が限定される恐れがあるかもしれません。

けど。目的でも、手段でも、結果でもない、観察、をするために、 「知覚からの直接の行為」を続ける。そんな姿勢に依存しなければ。そうでないことが見える。と思うのです。「知覚からの直接の行為」。これだけが、どう呼ぶにしても叡智でしょうか。

> では逆に、「覚醒者」を自負していらっしゃるubik0101さんの、その特権的な「叡智」とは、どんなに特別なものなのですか?つい先には「ただの人だ」とおっしゃっていたと思いますが。

たとえば知覚する主体は、知覚できません。知覚できないから、観察者がいない、わけではありません。 くどいですが。主体は、いる、けど自覚できない、つまり知覚や、意識の管轄にない、のではないでしょうか。これは日常では、「知覚」だけがあること、また「観察者のいない観察」と現象としては、まったく同じです。けど、まったく違います。

また。たとえば迷っているなら、迷ってることに気がついても、気つかないでも。迷っています。迷ってないなら、迷ってないことに気がついても、気がつかないでも。迷っていません。このことは知覚できるから、ある。できないから、ない。に依存していては、理解不能。と理解します。

>義務からでも、道徳からでも、人に言われたからでもなく、ああしなければいけない、ああしたい、誰かにどう思われたい、思われたくないなどの思いなく、知覚からの自発的な行為は世界中に見られるのではないですか?日曜日に起こった秋葉原での事件で、被害者の方を介抱されていた方々、阪神大震災のときも、自分の利益そっちのけで、人を助けるということがあったでしょう。これらの人々の行為のすべてが偽善の叡智だということでしょうか?

なにかの行動からは、その人の状態、たとえば叡智の有無を判定することはできません。被害者を介抱するという行動は、優しさからも、偽善からも、道徳からも、教育からも行われます。なにか葛藤などの問題があるのに忘れて、そう行動するかもしれません。そしてまた、それらの問題を解決してるから、それに躓かずに、介抱することもあります。これを区別する必要はありませんが、一括して叡智と呼ぶ必要もありません。

>で、私の記述では伝わらないようなので、「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?」という問いについては、では何故、仏教で「菩薩道」が成り立ったり、禅において「悟後の修行」が存在するのかを考えればいいと思います。

「悟後の修行」は、無我の体験の後、行うことです。しかし人は、はじめから無我、という指摘なのでしょうか。しかし。はじめから無我であれば、そこに、はじめから叡智があるわけではありません。だから人は学び、成長するのでしょう。そうでなく、人がクリアになったら、はじめから隠れてた叡智が現れてくる。という指摘なのでしょうか。

> まったく伝わっていなかったみたいです。現に自我は問題を起こしています。しかし、その「自我を邪魔者」にすることは問題を解決しないということを言ってきたのです。実践において、善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだと、という思いがあるのなら、それは倒錯だろうということです。そのときには方便としての言葉の理解がないのではないか、ということです。

たとえば自我を邪魔者にする、その自我の運動のことを指摘したのではありません。「まったく伝わっていなかったみたいです」。 は、指摘の真意を受け取れないための誤解だと思いますが。ム−ミンさんとの話では、そういうことが起きるのですが。それはそれで、話を進めてみます。

たとえば神や、仏陀や、自己や、悟りを求め、「善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだ」と目標を持っても・・・それも倒錯ですが、その倒錯を浮き彫りにする可能性があるので・・・それも、あり、と思います。

なぜなら、人は、神や、仏陀や、自己や、悟り、を知らないで、求めてるのです。その求める機能も、未知のことです。あえて、いわゆる既知の方法だけを拒むことは、(その偏りさえ役に立つのですが)偏りと思います。

また、よほど愚かでなくては、あらかじめ求めるものを見い出して満足することはないと思います。それで満足なら、満足したいから満足を見い出すだけで、探究者ではないと思います。

ただ自分の場合は、自分を知りたいというだけで、その方法だとも認識せず、ただ闇雲に思考の前提を探ることをしました。それでも、そういうことには、関係なく、関係ないこともなく、無我は了解されます。

たとえば自我を邪魔者にしても、しない、でも。その理解には、直接の方法は、ないのではありませんか。だから、変化が起きるのではありませんか。どのような変化の方法もない、という方法もない、のではありませんか。

> 否定も肯定もないものです。それをとりあえずのものとして「全否定」といいます。そしてそこに、叡智と行動との分離のない全体の動きがあるのではないですか?それを「意識に依存しない」と呼ぶのではないですか?全肯定をいうなら、そこには、全肯定に対する依存が隠れている可能性もあります。

それは 「全否定」呼ばないで、中道と呼ぶ方が、適切と思います。

>たまたま人や環境に恵まれて、自分には葛藤がないよ、という場合、それは、思考や認識の判断であって、つまり思いであって、知覚される事実ではない可能性があるでしょう。葛藤が明確であれば、それは知覚され、理解されるでしょう。

ここでは、思考や認識の判断とかに昇らない、無意識に隠れた、知覚されない葛藤は無視できない。ということを話しています。

> 「知覚」と「観察者のいない観察」とは同じ意味で使っています。このなかで「堂々巡り」の意味と実態が理解されるのではありませんか?

けれど 「観察者のいない観察」においては、 「堂々巡り」の意味と実態は、すでに理解されています。 葛藤などは実動していません。 ならば、理解された 「堂々巡り」は叡智に転換されて。無自覚でも、機能しています。

それは、 「知覚」「観察者のいない観察」なら、すでに顕在した葛藤だけでなく、潜在してる、葛藤の意味と実態も理解されてるということです。そうでなくては、「知覚」「観察者のいない観察」は不可能と思います。

つまり事態は逆で。「知覚」「観察者のいない観察」のなかで「堂々巡り」の意味と実態が理解されるのではないと思います。ただ方法としては、なんでもありなので、それで突然の変化が起きないとは限らない、ということではないでしょうか。

>この言葉で申し上げてきたのは、いかなるあり方においてあるものでもない、というあり方において、物事はあるということです。そのことも意識されません。もちろん、「知覚」が葛藤の反対のものという捉えかたであるならば、それは葛藤の事項で「堂々巡り」になります。

>ところで、過去の書き込みを読むと、ubik0101さんはクリシュナムルティをほとんど知らないと書かれていました。にもかかわらずクリシュナムルティのことをよく引き合いに出され、批判されていらっしゃいますが、それは誰経由のクリシュナムルティなのでしょうか。

たとえば観察者のいない観察とか、思考するものは思考されるもの、とか話すので。ム−ミンさんは、クリシュナムルティ関係の人という印象がありました。この頃はム−ミンさん経由です。

それから、なりきりクリシュナムルティと呼んでますが。新しい芽さんとか。その追従者。思い過ごしでなければ、観察者のいない観察とか、提唱してるようですが。それは無我のことと思います。

その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。

>また、ubik0101さんは、仏教の用語をよく使われますね。それは、それがご自分の表現にぴったり来る、表現しやすいからということでしょう。言葉はある何かを表現するものでしょう。それならば、クリシュナムルティを使おうが仏教を使おうが関係ないのではないですか?クリシュナムルティの術語を使うから「同一化」だとおっしゃるのは、逆に何かへのこだわり、とらわれがあるという可能性もあります。

その可能性は一般的にはあるかもしれません。が、ないです。仏教の言葉から学んだのではなく、再発見したことを、仏教の言葉で説明しています。こだわりがあるとすれば、できるだけ正確な表現をする、ということです。

No.863 - 2008/06/12(Thu) 08:49:48

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>けど。目的でも、手段でも、結果でもない、観察、をするために、 「知覚からの直接の行為」を続ける。そんな姿勢に依存しなければ。そうでないことが見える。と思うのです。「知覚からの直接の行為」。これだけが、どう呼ぶにしても叡智でしょうか。

目的も手段も結果もないものが「知覚」であり、「知覚からの直接の行為」でしょう。だから「何々のために」ということはありません。行為の際に、これが「叡智」だと意識していたら、それは叡智ではないでしょう。

>たとえば知覚する主体は、知覚できません。知覚できないから、観察者がいない、わけではありません。 くどいですが。主体は、いる、けど自覚できない、つまり知覚や、意識の管轄にない、のではないでしょうか。これは日常では、「知覚」だけがあること、また「観察者のいない観察」と現象としては、まったく同じです。けど、まったく違います。

ええ、そのことを言ってきたのですが。

>また。たとえば迷っているなら、迷ってることに気がついても、気つかないでも。迷っています。迷ってないなら、迷ってないことに気がついても、気がつかないでも。迷っていません。このことは知覚できるから、ある。できないから、ない。に依存していては、理解不能。と理解します。

「自我」を実体として捉えていませんか?「自我」は関係性の中で生まれてくるものでしょう。日常生活の中では、「自我」なしに暮らしていることはよくあることです。それに気づく(知覚する)と気づかないとでは大きな違いがあるのではないですか?だから悟後の修行や菩薩道が成り立つ。

>なにかの行動からは、その人の状態、たとえば叡智の有無を判定することはできません。被害者を介抱するという行動は、優しさからも、偽善からも、道徳からも、教育からも行われます。なにか葛藤などの問題があるのに忘れて、そう行動するかもしれません。そしてまた、それらの問題を解決してるから、それに躓かずに、介抱することもあります。これを区別する必要はありませんが、一括して叡智と呼ぶ必要もありません。

ここも何か、「自我」を実体として捉えて、ずーっと「自我」があったり、ずーっと「葛藤」があったり、ということになっていませんか?介抱の経験は私の経験でもあるのですが、即座の行為で、あとで考えてみると、危険と隣り合わせで自分の行動が不思議だったですね。

>たとえば自我を邪魔者にする、その自我の運動のことを指摘したのではありません。「まったく伝わっていなかったみたいです」。 は、指摘の真意を受け取れないための誤解だと思いますが。ム−ミンさんとの話では、そういうことが起きるのですが。それはそれで、話を進めてみます。

そういえばubik0101さんは、私とは「話が合わない」とおっしゃっていましたね。「指摘の真意を受け取れない」というのは本当にそうなのですかね。結論を持って臨んでおられないといいのですが。

>たとえば神や、仏陀や、自己や、悟りを求め、「善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだ」と目標を持っても・・・それも倒錯ですが、その倒錯を浮き彫りにする可能性があるので・・・それも、あり、と思います。

>なぜなら、人は、神や、仏陀や、自己や、悟り、を知らないで、求めてるのです。その求める機能も、未知のことです。あえて、いわゆる既知の方法だけを拒むことは、(その偏りさえ役に立つのですが)偏りと思います。

ええ、その倒錯に気づく、知覚するということが「倒錯を浮き彫りにする」意味だと今まで言ったきました。そして最初から倒錯が原因だと知っていれば、回り道はないのかもしれません。

>それは 「全否定」呼ばないで、中道と呼ぶ方が、適切と思います。

そうですね。どの角度から見るかということでしょうね。

>ここでは、思考や認識の判断とかに昇らない、無意識に隠れた、知覚されない葛藤は無視できない。ということを話しています。

葛藤も関係性のなかで露になってくるものではないですか?実体としてあるわけではありません。認識や判断で忙しいときには、葛藤は知覚出来ませんが。

>けれど 「観察者のいない観察」においては、 「堂々巡り」の意味と実態は、すでに理解されています。 葛藤などは実動していません。 ならば、理解された 「堂々巡り」は叡智に転換されて。無自覚でも、機能しています。

>それは、 「知覚」「観察者のいない観察」なら、すでに顕在した葛藤だけでなく、潜在してる、葛藤の意味と実態も理解されてるということです。そうでなくては、「知覚」「観察者のいない観察」は不可能と思います。

ではなぜ、菩薩道や悟後の修行が成り立ちますか?

>たとえば観察者のいない観察とか、思考するものは思考されるもの、とか話すので。ム−ミンさんは、クリシュナムルティ関係の人という印象がありました。この頃はム−ミンさん経由です。

あはは。いろんなクリシュナムルティがあるので、もしクリシュナムルティに言及するなら、直に確かめたほうがいいですよ。中観派や如来蔵思想から見たクリシュナムルティというのもありますよ。それと私はクリシュナムルティは読みましたが「関係者」ではありませんよ。「関係者」という言葉にもよるのでしょうが。

>それから、なりきりクリシュナムルティと呼んでますが。新しい芽さんとか。その追従者。思い過ごしでなければ、観察者のいない観察とか、提唱してるようですが。それは無我のことと思います。

「観察者のいない観察」はやろうと思うとできないですよ。
それは「自我」を知覚したときに起こることですから。そういう意味では、それは「無我」の状態ですね。

>その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。

どうなんでしょうね。一つの解釈としてはそういう結論付けもあるのでしょうが。

「現実に直面」したときには、「自我」が自我ならざるものに変容している、ということでしょう。それが最初の一歩だと。だから、それで全部終わったわけではなくて、日々の関係の中で、自己を学んでいくことが重要だとおっしゃっているのだと、私は受け取っていましたが。そして、その静けさの中から、完全な解放がありうるのではないか、もちろんそれは確約されたものではないのだが、ということでしょう。
そう考えると、菩薩道や悟後の修行が成立する意味もわかるように思いますが。


もしかすると、同じことの繰り返しのやり取りになっているのかもしれません。

No.864 - 2008/06/12(Thu) 10:52:20

Re: 続々々・成長 / ubik0101
>「自我」を実体として捉えていませんか?「自我」は関係性の中で生まれてくるものでしょう。日常生活の中では、「自我」なしに暮らしていることはよくあることです。それに気づく(知覚する)と気づかないとでは大きな違いがあるのではないですか?だから悟後の修行や菩薩道が成り立つ。

>ここも何か、「自我」を実体として捉えて、ずーっと「自我」があったり、ずーっと「葛藤」があったり、ということになっていませんか?介抱の経験は私の経験でもあるのですが、即座の行為で、あとで考えてみると、危険と隣り合わせで自分の行動が不思議だったですね。

>葛藤も関係性のなかで露になってくるものではないですか?実体としてあるわけではありません。認識や判断で忙しいときには、葛藤は知覚出来ませんが。

そうでなく。ずーっと「自我」がない、ずーっと「葛藤」がない。のが実情です。そのためには自覚できる、つまり現れてくる自我や葛藤だけを理解しても徹底しません。無我の体験をした人は、知覚できない潜在意識の自我や葛藤も理解されてるはずです。それは無自覚の叡智に転換され機能しています。

それさえ忘れて、人が静まってるなら・・・知覚は、対象を、ある、と訴えたがってる。意識はそれを受けて自分が、ある、ことを確認したがってる。知覚できるが、ある、できないが、ない。という、人として自然に備わった基本の依存が見えます・・・そんな暗黙の前提にも依存しない。ということを話してきました。

そこに 反応が見られない、または、反応が見られないように思えたのが。とくに間違ってることを言ってる訳ではないム−ミンさんと、話が合うはずなのに、「話が合わない」と感じた原因です。

> ではなぜ、菩薩道や悟後の修行が成り立ちますか?

しようとしても、 おおくの場合は悟後の修行は、無我の体験がないと、できません。それは、そこで見たことを解凍、解読すること。それを理解するのは、かなりの努力を要します。

また、その体験と日常の落差を感じて、自分の無我を掴むこと・・・それを残響のような自我、と呼んでいますが・・・そこにこそ自我に苦しむ衆生が現前し、救いたいと思う気持ちが発現します。

その過程で、たとえば。無我や愛の実感を求めなくてもいい、意識に依存しない、とか。自我の機能は、なにかに集中して分離を引き起こしてでも問題を解決しようとする機能なので。それに使われないで、それを使おう。という理解が生じたりします。そのようなことにム−ミンさんが抵抗を感じ、また反応しないように思えたのです。

ただの人は、この現実にいて、この現実に執着するのが、不可能です。それだけのことです。そして自我が現れたら・・・非難も正当化もなく観察するという意味ではなく・・・このすぐ上に話したように、自我の機能を嫌う必要もありません。それでこそ、それからの解放です。

> 「観察者のいない観察」はやろうと思うとできないですよ。

まったく、そうです。無我でないことを、無我だと思い込んでいます。自我を自覚できないことを無我だと、誤解をしてるのだと思います。それでもまあ人は、もともと誰も無我ですから、空想で辻褄あわせはできます。

> もしかすると、同じことの繰り返しのやり取りになっているのかもしれません。

もしかしないでも、そうだと感じます。

No.865 - 2008/06/13(Fri) 09:33:37

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>そうでなく。ずーっと「自我」がない、ずーっと「葛藤」がない。のが実情です。そのためには自覚できる、つまり現れてくる自我や葛藤だけを理解しても徹底しません。無我の体験をした人は、知覚できない潜在意識の自我や葛藤も理解されてるはずです。それは無自覚の叡智に転換され機能しています。

ここの部分は、ubik0101さんが、覚醒していない人は、ずーと「自我」があり、ずーっと葛藤していて、叡智が働かないとおっしゃっていたことについて書いたものです。

それで私が質問してきたことを今までのものも含めてまとめますと、ubik0101さんがおっしゃるように、覚醒していない人は、叡智のかけらもなく、ずーっと「自我」があり、ずーっと葛藤が続いていると仮定するならば、「自我」がどのように「自我」を学ぶのですか?ということです。ubik0101さんはこの掲示板で、「学ぶ」ことを提唱されていますから。それは血で血を洗うようなものでしょう。埃のついた布で埃をぬぐうようなものでしょう。

また、「自我」が自我自身の限界を自覚するという説明も成り立たなくはないですが、「自我」による自覚では、同じく血で血を洗うことになります。そうすると、それは「自我」によるものでない自覚だということになります。その自覚のことを「知覚」をともなった自覚と言います。「自我」はどう転んでも「自我」を学べないでしょう。

また、無我の体験時には、文字通り、自我も葛藤もありません。自我や葛藤がどんなものであるのかの強烈な知覚による理解があります。その理解が、錬金術のように、自我や葛藤を違うものに転換しています。このなかで「中道」が何かも教えてくれます。このことを「叡智への転換」というならそう呼べるかもしれません。「知覚」「潜在意識」「自我」という言葉の使い方は、私とubik0101さんでは違っていましたね。ここのあたりも「話が合わない」というところの一つでしょう。

あと「話が合わない」のは、過去のものをざっと見てみましたが、ubik0101さんが自分の体験や状態の話をしたがっていらっしゃるのに対して、私は実践的なことを中心に話を展開していることもあるでしょう。

また、無我の体験で「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているならば(「それが」の「それ」というのがいまひとつわかりませんが) 、悟後の修行は必要ないのではないですか?

>また、その体験と日常の落差を感じて、自分の無我を掴むこと・・・それを残響のような自我、と呼んでいますが・・・そこにこそ自我に苦しむ衆生が現前し、救いたいと思う気持ちが発現します。

「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているのではなかったですか?そうであるなら、無我を摑もうなどとするのですか?以下も同様ですが。

>その過程で、たとえば。無我や愛の実感を求めなくてもいい、意識に依存しない、とか。自我の機能は、なにかに集中して分離を引き起こしてでも問題を解決しようとする機能なので。それに使われないで、それを使おう。という理解が生じたりします。そのようなことにム−ミンさんが抵抗を感じ、また反応しないように思えたのです。

いいえ、ここに書かれたことは、クリシュナムルティの言葉を借りて私が言った「観察者のいない観察」や「無選択の気づき」によって理解されます。ただ、すでに言いましたが、私は「自我を使おう」という言い方はしません。

>ただの人は、この現実にいて、この現実に執着するのが、不可能です。それだけのことです。そして自我が現れたら・・・非難も正当化もなく観察するという意味ではなく・・・このすぐ上に話したように、自我の機能を嫌う必要もありません。それでこそ、それからの解放です。

「残響のような自我」が「ただの人」ですか?それとも「悟後の修行」を経て「覚醒した人」が「ただの人」なのですか?

それと、自我があれば「非難も正当化もなく観察する」のは不可能でしょう。それは自我からの解放とは関係ないことでしょう。ある人のクリシュナムルティの解釈を使って、別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをubik0101さんが別の掲示板でもよくやっていらっしゃいましたが、表現の正確さにこだわっておられるのなら、やはり直に読まれた上でされたほうがいいと思います。

>まったく、そうです。無我でないことを、無我だと思い込んでいます。自我を自覚できないことを無我だと、誤解をしてるのだと思います。それでもまあ人は、もともと誰も無我ですから、空想で辻褄あわせはできます。

ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

>> もしかすると、同じことの繰り返しのやり取りになっているのかもしれません。

>もしかしないでも、そうだと感じます。

そうですね。疲れてきたことだし、そろそろ、きりのいいところで止めましょう。

No.866 - 2008/06/13(Fri) 16:03:49

Re: 続々々・成長 / suho
> ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

わきからスミマセン。
ムーミンさんはじめまして。

ウビさんは「覚醒」と「非覚醒」という意味で「覚醒」を使っているのではないと思いますよ。
ムーミンさんは相対的な意味での「覚醒」として捉えているのでは?

実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。
ただ、お互い、言葉に誤解があるのでは?
残響で。

では、よっぱらい失礼しま〜す。

ウビさん、元気ですかぁ?
僕は元気ですよ〜。

No.867 - 2008/06/13(Fri) 22:40:59

Re: 続々々・成長 / hato

> 実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。

同じことを了解しているのでは、ないと思います。

この世界を触媒として経験し、自分を知ろうとし、
なんと表現されようとも、そこで学んで成長する。
そうしてこその昇華であり、理解であり、叡智。

自ら歩み、了解されているならば、
多くの言葉を費やして、問う必要がないと思います。

No.868 - 2008/06/13(Fri) 23:35:27

Re: 続々々・成長 / suho
> 自ら歩み、了解されているならば、
> 多くの言葉を費やして、問う必要がないと思います。


hatoさんはじめまして。
そのように解釈することもでき、またそうでないこともあるのが世界と感じます。

No.869 - 2008/06/14(Sat) 00:25:14

Re: 続々々・成長 / ubik0101
>それで私が質問してきたことを今までのものも含めてまとめますと、ubik0101さんがおっしゃるように、覚醒していない人は、叡智のかけらもなく、ずーっと「自我」があり、ずーっと葛藤が続いていると仮定するならば、「自我」がどのように「自我」を学ぶのですか?ということです。ubik0101さんはこの掲示板で、「学ぶ」ことを提唱されていますから。それは血で血を洗うようなものでしょう。埃のついた布で埃をぬぐうようなものでしょう。

>また、「自我」が自我自身の限界を自覚するという説明も成り立たなくはないですが、「自我」による自覚では、同じく血で血を洗うことになります。そうすると、それは「自我」によるものでない自覚だということになります。その自覚のことを「知覚」をともなった自覚と言います。「自我」はどう転んでも「自我」を学べないでしょう。

まず、自我という実体があるわけではないので、それを学ぶということではありません。自我は、いわゆる心理的な運動で、ただ人が、その人を訓練するための負荷なだけです。血で血を洗うことも厭う必要はありません。けど。なにか問題を理解するということは、問題を失うということなので実際は「堂々巡り」ではありません。そして人の努力に関係なく、関係なくもなく、無我は体験されます。

あるいは、騒がしい自我に巻き込まれてない静かなときに、とりあえず自我の機能を見て学ぼう、という作戦もあるかもしれません。しかし、その巻き込まれていると思ってない・・・自我と知覚できないときでも自我です・・・そういう自我も機能してなければ、どうして自我を学べるのでしょう。 機能してるから学べるのです。

あるときは騒がしいので自覚できる、あるときは静かだから自覚できない・・・それこそ自覚してない自我の「堂々巡り」です・・・その自覚できない自我を含めて無我体験は起こるのです。でないと自我は復活するかもしれません。徹底が必要です。そのように無我を了解したら、もう無我体験は起こる必要がないのも、その理由です。

>あと「話が合わない」のは、過去のものをざっと見てみましたが、ubik0101さんが自分の体験や状態の話をしたがっていらっしゃるのに対して、私は実践的なことを中心に話を展開していることもあるでしょう。

うーん。実践という感じはしません。ubik0101の言うことを、合ってる合ってないと判断するだけで、理解しようとか、ム−ミンさんが自分の状態を検討する姿勢が見えないのです。実践を話したければ“返信不要 ”ということで、いくら投稿しても大丈夫です。

>また、無我の体験で「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているならば(「それが」の「それ」というのがいまひとつわかりませんが) 、悟後の修行は必要ないのではないですか?

>「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているのではなかったですか?そうであるなら、無我を掴もうなどとするのですか?以下も同様ですが。

その体験は圧倒的な情報量があり、それを意識が理解するのは困難だからです。自分の場合は必要でした。でも空想ですが。仏教の修行者とかが、自我が機能してる段階でも、人を救いたいということを実践してれば。また無我体験をすると、無我を掴むという事例の知識などがあれば。無我を掴む、ことは起こらないかもしれません。そういう経緯もあるかも、です。

> いいえ、ここに書かれたことは、クリシュナムルティの言葉を借りて私が言った「観察者のいない観察」や「無選択の気づき」によって理解されます。ただ、すでに言いましたが、私は「自我を使おう」という言い方はしません。

そうだとして、ほかの言い方は問題。ではありません。

>「残響のような自我」が「ただの人」ですか?それとも「悟後の修行」を経て「覚醒した人」が「ただの人」なのですか?

ただの人とは、 自我、無我体験、残響のような自我、総てに依存しなくなった人です。依存しないことにも依存しない、です。

> それと、自我があれば「非難も正当化もなく観察する」のは不可能でしょう。それは自我からの解放とは関係ないことでしょう。ある人のクリシュナムルティの解釈を使って、別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをubik0101さんが別の掲示板でもよくやっていらっしゃいましたが、

ム−ミンさんは、なにか誤認してるか、ほかの誰かをubik0101だと空想しているのではありませんか。まず「ある人のクリシュナムルティの解釈」も、まったく知りません。「別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつける」にも関心がありません。

なにか批判的な投稿をしても話相手、その人の状態についてです。クリシュナムルティの書は「自我の終焉」と、あと何か半分ほど読みましたが、なにも興味を感じませんでした。

> ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

たぶん。欲望や葛藤の心理的な運動のことを自我と呼んでるだけで、実体があるわけではありません。なので、ム−ミンさんは、その運動が自覚できないときは、自我がない、と看做すのでしょう。それで自我があったり、なかったりと言いたいのではないでしょうか。

それは、表面だけのことで、潜在したことは度外視しての話です。自我は、自我だと、気がつかれないように機能しています。みな人は無我ですが、そのような機能としての自我が働いています。

しかも 「叡智」=「知覚からの直接の行動」とすれば、自覚できる騒がしいことしか問題にできないのではありませんか。また。自我があっても、美しい音楽や文学や絵画や体操はできます。それだけのことです。ここを一歩もでないので、話が通じないのだと思います。 どうでもいいですが、特権、と思ってるのは、ubik0101ではありません。

No.870 - 2008/06/14(Sat) 09:24:58

Re: 続々々・成長 / ubik0101
> ウビさん、元気ですかぁ?
> 僕は元気ですよ〜。


こっちも
ときどき元気な酔っ払いです。

No.871 - 2008/06/14(Sat) 09:51:24

Re: 続々々・成長 / hato

suhoさん、はじめまして。


> hatoさんはじめまして。
> そのように解釈することもでき、またそうでないこともあるのが世界と感じます。



はい。
ほんとうに。

そしてやはり、
なので、どうしても。

人は、そのときどきで、
その人自身であること。
その時の、表現であること。
それがとても大事なことと、思います。

No.872 - 2008/06/14(Sat) 10:33:50

Re: 続々々・成長 / ムーミン
繰り返しになる部分については、省きます。

>うーん。実践という感じはしません。ubik0101の言うことを、合ってる合ってないと判断するだけで、理解しようとか、ム−ミンさんが自分の状態を検討する姿勢が見えないのです。実践を話したければ“返信不要 ”ということで、いくら投稿しても大丈夫です。

まず、「話が合わない」とおっしゃったのは、判断されたのはubik0101さんでした。それで、もしそういうことがあるのならということで、私がいくつか原因を探ってみただけなのですが。

「実践」云々については、「実践」という言葉の使い方が違うのでしょう。私は日々、刻々と「実践」の中にあります。もちろんこの掲示板においても。

自我のたががはずれて、自我が抑圧していたときに浮上してこなかった無意識部分が関わりの中で浮上し、それが知覚の光に照らされて、過去の余習を消していきます。これが私の実践、学びという意味です。この自我のたがが外れるということがどういうことなのか、とういうことについてずっと書いてきました。

>その体験は圧倒的な情報量があり、それを意識が理解するのは困難だからです。自分の場合は必要でした。でも空想ですが。仏教の修行者とかが、自我が機能してる段階でも、人を救いたいということを実践してれば。また無我体験をすると、無我を掴むという事例の知識などがあれば。無我を掴む、ことは起こらないかもしれません。そういう経緯もあるかも、です。

それで、世界のすべてを理解し終えて、菩薩の修行も悟後の修行も終わったというわけですか。

>>それと、自我があれば「非難も正当化もなく観察する」のは不可能でしょう。それは自我からの解放とは関係ないことでしょう。ある人のクリシュナムルティの解釈を使って、別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをubik0101さんが別の掲示板でもよくやっていらっしゃいましたが、

>ム−ミンさんは、なにか誤認してるか、ほかの誰かをubik0101だと空想しているのではありませんか。まず「ある人のクリシュナムルティの解釈」も、まったく知りません。「別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつける」にも関心がありません。

そうですか?ある掲示板で「クリシュナムルティ」のハンドルネームで投稿されたり、偽クリシュナムルティと名乗られたりして書き込みをされていましたよね。ほかにも「にせ新しい芽」というハンドルネームでも書いていらっしゃったと、その掲示板には書いてあったと記憶しています。その掲示板で、ある人のことを「馬と鹿」と呼んだり、ある人たちのことを「青鬼、赤鬼」と表現していらっしゃいましたよね。

その掲示板を読んでいて、ある人のクリシュナムルティ解釈をubik0101さんが解釈して、その解釈を持って別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをやっていらっしゃいませんでしたか?何重にもバイアスがかかって、それに基づく誤解が修正されないまま話が進んでいったという印象でした。それで同じことが何度も繰り返されていました。

>なにか批判的な投稿をしても話相手、その人の状態についてです。クリシュナムルティの書は「自我の終焉」と、あと何か半分ほど読みましたが、なにも興味を感じませんでした。

ええ、クリシュナムルティについて興味を感じないのは、それは少しも構わないことだと思います。ある体験をした人々は、同じ体験をしたとしても、それぞれの持つ背景の言葉で自分の体験を理解し、人に伝えていくでしょう。たとえばキリスト教徒なら聖書の言葉、仏教徒なら仏典の言葉、哲学者なら哲学の言葉、何も持たない人なら、いろいろな言葉を寄せ集めて。

それで、「その人の状態について批判」といっても、その人の状態の本当のところはわからないでしょう。表現の上手い、下手もある。掲示板では言葉を頼りにして想像するしかない。空想するしかない。それで言葉の使い方、定義がずれているにもかかわらず、それにこだわれば、繰り返しが続きます。また、前にubik0101さんは、ある人に「指摘したけれども無駄だから、もう止めた」という結論付け、断定をされていましたね。それはどこからくるのでしょう。自分の体験を絶対的だとする確信からですか?

空想、想像ならいくらでも出来ます。たとえば、ある掲示板やこの掲示板の書き込みを読んで、「クリシュナムルティ」と名乗ったり、ある人たちに対して「馬と鹿」とか「赤鬼、青鬼」とかという表現を使用するのは、何かubik0101さんは、クリシュナムルティやその愛読者に対してルサンチマンというか、反感でもあるのではないか、その無意識に気づいていないのではないか、とか。

>しかも 「叡智」=「知覚からの直接の行動」とすれば、自覚できる騒がしいことしか問題にできないのではありませんか。また。自我があっても、美しい音楽や文学や絵画や体操はできます。それだけのことです。ここを一歩もでないので、話が通じないのだと思います。 どうでもいいですが、特権、と思ってるのは、ubik0101ではありません。

ここも、ずっと説明してきましたが、「自我」という言葉の使い方の違いから来るすれ違いです。私の場合はこう言います。美しい音楽や文学や絵画や体操が出来るのは、またそれらや自然に感動するのは自我がないときである。自我があるとき(自意識でもよいですが)には、それらの美しさ、素晴らしさは相対的なものにとどまるだろう。と。

No.873 - 2008/06/14(Sat) 15:22:20

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>> ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

>わきからスミマセン。
>ムーミンさんはじめまして。


こんにちは。別の掲示板でお名前を拝見したことがあります。

>ウビさんは「覚醒」と「非覚醒」という意味で「覚醒」を
>使っているのではないと思いますよ。
>ムーミンさんは相対的な意味での「覚醒」として捉えてい
>るのでは?


上の部分は、ubik0101さんが、覚醒していない人は、ずっと自我と葛藤ばかりで、叡智がないとおっしゃったので、そんなこともないだろう、日常生活で自我のないときだってあって、そのとき生き生きと生活していることもあるだろうし、何か危険な目に遭遇したときには、即時の行為もあるだろう、また人が倒れていたら危険を顧みず助けることもあるだろう、すなわち叡智が働いているだろう、その叡智と覚醒者の叡智とは質的に違うものだろうか?という私の問いの流れを受けてのものです。

それでsuhoさんは、上に書いたような覚醒していない人の叡智と、覚醒者の叡智とは質的に違うということをおっしゃっているのですか?つまり、覚醒者の叡智は絶対的で、たまにではあるが働くことがある、覚醒していない人の叡智は相対的なものだということですか?

>実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。
>ただ、お互い、言葉に誤解があるのでは?
>残響で。


上にも書きましたが、定義、言葉の背景が違うというのは確かです。それで誤解を少しずつ修正しながら進んできているつもりです。話していれば少しずつわかってくることもあると思います。まったく同じにならなくていいと思いますし、違いは違いでいいと思います。

一つsuhoさんに誤解していただきたくないことは、対話をしていると、険悪なけんかでもしているのではないかと勘違いされる方がよくいっしゃるので、今ubik0101さんとやっているのは、そういういうものではないということです。ここのところは、ubik0101さんにも同意していただけるのではないかと思っています。

No.874 - 2008/06/14(Sat) 15:55:14

Re: 続々々・成長 / ムーミン
hatoさん、こんにちは。お久しぶりです。長崎はいかがでしたか?

>>実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。

>同じことを了解しているのでは、ないと思います。

ubik0101さんといままでやり取りしてきて感じたのは、たぶん、ある地点までは、言葉や表現方法は違いますが、ubik0101さんと同じものを見ているなぁ、ということです。

>この世界を触媒として経験し、自分を知ろうとし、
>なんと表現されようとも、そこで学んで成長する。
>そうしてこその昇華であり、理解であり、叡智。


自我が自我を学ぶのは、埃のついた布で埃を払うが如しです。自我を学べるのは自我が何かがわかったときだけです。自我が何かがわかったときには、もうそれは自我ではありませんが。これは私の経験です。そのときやっと「学び」が始まりました。これが私の歩んでいる道です。
hatoさんにはhatoさんの道があるのでしょう。

>自ら歩み、了解されているならば、
>多くの言葉を費やして、問う必要がないと思います。


これはhatoさんのドクサだと思いますが。
ubik0101さんは自ら覚醒者と名乗っていらっしゃるのですから、求道者として、そんな方のお話を聞かない手はないでしょう。もちろん、聞き方はいろんなスタイルがあっていいと思います。気をつけねばならないのは、疑うことなく受け入れてしまうことだと思います。受け入れることは、肯定、否定の、肯定への依存でしょう。偏りでしょう。「素直さ」とは受け入れることではないでしょう。

No.875 - 2008/06/14(Sat) 16:19:06

Re: 続々々・成長 / suho
> それでsuhoさんは、上に書いたような覚醒していない人の叡智と、覚醒者の叡智とは質的に違うということをおっしゃっているのですか?つまり、覚醒者の叡智は絶対的で、たまにではあるが働くことがある、覚醒していない人の叡智は相対的なものだということですか?

いえいえ、そういうことではありません。
叡智というものに質的な違いはないと思います。
というか「叡智」という言葉が必要ないほど世界(現象)は、叡智そのものと感じています。
これはウビさんが「無我でない人はいない」と表現されていることと一緒かなと勝手に感じています。
自我と呼ばれる作用(思考、分節、判断などの作用)さえ叡智の中で生じているもの、と感じますし、自我という作用があるからこそ、個々に限定的な世界(空想)を創造できるのだと感じています。
ただ、自我の作用を知らずに、無自覚に反応している場合にいろいろな混乱や問題が生じるのでしょうし、混乱や問題として知覚できるようになっていること自体(例えば苦しみなどのネガティブな知覚)が、叡智そのものであるとも感じています。

> 一つsuhoさんに誤解していただきたくないことは、対話をしていると、険悪なけんかでもしているのではないかと勘違いされる方がよくいっしゃるので、今ubik0101さんとやっているのは、そういういうものではないということです。ここのところは、ubik0101さんにも同意していただけるのではないかと思っています。

そのような誤解はしていませんよ。
ただ、拝見していて、ちょっとのズレなのにもどかしい・・と感じたので、思わず書いてしまいました。
あ、あくまでも僕がそう感じた、というだけですが。

No.878 - 2008/06/14(Sat) 18:08:51

Re: 続々々・成長 / suho
>私の場合はこう言います。美しい音楽や文学や絵画や体操が出来るのは、またそれらや自然に感動するのは自我がないときである。自我があるとき(自意識でもよいですが)には、それらの美しさ、素晴らしさは相対的なものにとどまるだろう。と。

うーん。このような表現は「自我のある状態」を否定しているように解釈されやすいと感じます。
自我がないほうが素晴らしいから、無我に留まるべし、というような考えとして解釈されやすい。

No.879 - 2008/06/14(Sat) 18:32:25

Re: 続々々・成長 / hato

今度は、hoto になってしまいました。(笑)
はい、その通り。
なんにでも、なりましょう。

ムーミンさん、話かけて下さって、ありがとうございます。

長崎。
穏やかながら、
真摯な日々でありました。

わたしは、ubik0101さんとムーミンさんのお話を、
とても意義あるものでは、と拝聴しています。
ただ、現時点で同じものを了解している、との意見を、
そのままには出来なかっただけです。
ご存じの通り、
あらゆることには意味がないように見え、
あるようにも見え、その見方は一通りでないにしても、
私たちは、その瞬間の自分として誠実に、表現していくしかありません。
それでよい、それがよい、のだと思います。
同じ領域が視野にあることは、素晴らしいことと思います。
言葉に躓く様々な私たちにとって、一見して同じことの繰り返しは、これもご存じの通り、同じことではありません。
その対話の場所場所において、
気付きを得る恩恵が、あるのだと思います。

疑う必要がないほど、了解されていた、というだけです。
それでもわたしは、道の途上です。
皆様の意見は貴重です。そのことに、異存はないのです。

わたしにとっては、本質のみが必要です。
ubik0101さんの言われていることは、当たり前なことです。
逆になっていない、
ということ、だけです。










> 気をつけねばならないのは、疑うことなく受け入れてしまうことだと思います。受け入れることは、肯定、否定の、肯定への依存でしょう。偏りでしょう。「素直さ」とは受け入れることではないでしょう。

No.881 - 2008/06/14(Sat) 19:35:18

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>今度は、hoto になってしまいました。(笑)
>はい、その通り。
>なんにでも、なりましょう。


すいません。訂正しておきました。

>疑う必要がないほど、了解されていた、というだけです。
>それでもわたしは、道の途上です。
>皆様の意見は貴重です。そのことに、異存はないのです。


対話していく中で、いろいろなものが明確になっていくことがあります。たとえそれが停滞しているように見えても、停滞の中にさえ発見があります。もちろんそれは心が静かなときだけですが。自我による締め付けがなくなると、自分の中に隠れていた無意識の部分が浮上して理解されることもあります。ubik0101さんも、今まで自分は覚醒して何も問題がないと思っていた、完成したと思っていたが、まだ見逃していた、こんなにも微妙な葛藤が存在していたのか、と気づかれることもあるかもしれません。これが私が使っている学びです。

>わたしにとっては、本質のみが必要です。
>ubik0101さんの言われていることは、当たり前なことで
>す。
>逆になっていない、
>ということ、だけです。


「本質」かどうか、「当たり前」かどうか、「逆になっていない」かどうか、それは自分で身を持って確かめるほかないことでしょう。結論をもって臨むことをubik0101さんはおっしゃっていたのでしょうか?それを受容への偏りではないだろうか、依存ではないだろうかと先に書きました。

No.883 - 2008/06/15(Sun) 15:09:44

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>>私の場合はこう言います。美しい音楽や文学や絵画や体操が出来るのは、またそれらや自然に感動するのは自我がないときである。自我があるとき(自意識でもよいですが)には、それらの美しさ、素晴らしさは相対的なものにとどまるだろう。と。

>うーん。このような表現は「自我のある状態」を否定しているように解釈されやすいと感じます。
>自我がないほうが素晴らしいから、無我に留まるべし、というような考えとして解釈されやすい。


それなら、suhoさんはどう表現しますか?
suhoさんは実際にはどうですか?事実として、こんな経験はありませんか?

何かに遭遇して美を感じることがあります。そして、美とも意識していない、美が対象にあるのか、自分の中にあるのかもわからない、というとき、何か途方もない、圧倒されるようなものを感じることはないですか?それは自我が機能していないときではないでしょうか?無心の状態といってもいいのではないでしょうか?

一方、私と対象という分離の感覚があるとき、つまり自我が機能しているときには、美しいと思っても、それは過去に記憶されたものの反復に過ぎず、そのとき感じる美は、無心のときに感じるものとはまったく違うということはないでしょうか?

このような経験は、日常生活でも、多くの人が経験していることだと思います。しかし、もちろん、それは求めて得られるものではないでしょう。なぜならば求めることが自我そのものなのだから。それは、求めることが止んでいるとき、自我が不在のとき、ふと、訪れているのではないでしょうか?

No.884 - 2008/06/15(Sun) 15:33:27

Re: 続々々・成長 / suho
> >うーん。このような表現は「自我のある状態」を否定しているように解釈されやすいと感じます。
> >自我がないほうが素晴らしいから、無我に留まるべし、というような考えとして解釈されやすい。
>
> それなら、suhoさんはどう表現しますか?
> suhoさんは実際にはどうですか?事実として、こんな経験はありませんか?
>
> 何かに遭遇して美を感じることがあります。そして、美とも意識していない、美が対象にあるのか、自分の中にあるのかもわからない、というとき、何か途方もない、圧倒されるようなものを感じることはないですか?それは自我が機能していないときではないでしょうか?無心の状態といってもいいのではないでしょうか?
>
> 一方、私と対象という分離の感覚があるとき、つまり自我が機能しているときには、美しいと思っても、それは過去に記憶されたものの反復に過ぎず、そのとき感じる美は、無心のときに感じるものとはまったく違うということはないでしょうか?


新緑と背景の蒼さに美を感じる瞬間も多々ありますし、人の怒りの振る舞い、表情に美を感じることも多々あります。
また、自己の感情に埋没し、目前の美に気づかぬときも多々ありすし、対象に記憶を重ねニンマリすることも多々あります。
おっしゃるとおり、それぞれの体験には違いがあります。

ただ、違いがある。
それだけのことで、特にそれ以上でも以下でもありません。

ムーミンさんが上で説明されていたような理解。
以前はことさら意識していた時もありましたが、今は特にそのような分析が生ずることはありませんが、でもまたそのように意識することもあるかもしれません。

No.885 - 2008/06/15(Sun) 16:05:50

Re: 続々々・成長 / hato

> 対話していく中で、いろいろなものが明確になっていくことがあります。たとえそれが停滞しているように見えても、停滞の中にさえ発見があります。もちろんそれは心が静かなときだけですが。自我による締め付けがなくなると、自分の中に隠れていた無意識の部分が浮上して理解されることもあります。

自我は、おそらくは、ある段階を経るなら、
あろうがなかろうが、大丈夫です。
そのように、思います。
そんなに敵視する必要が、すでにないと思います。
その機能によって、学ぶことが多くあります。

> 「本質」かどうか、「当たり前」かどうか、「逆になっていない」かどうか、それは自分で身を持って確かめるほかないことでしょう。

その通りです。
それは、自分でわかります。
了解されている、とは、そういうことです。

そのように、思います。

No.886 - 2008/06/15(Sun) 16:35:18

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>新緑と背景の蒼さに美を感じる瞬間も多々ありますし、人
>の怒りの振る舞い、表情に美を感じることも多々ありま
>す。
>また、自己の感情に埋没し、目前の美に気づかぬときも
>多々ありすし、対象に記憶を重ねニンマリすることも多々
>あります。
>おっしゃるとおり、それぞれの体験には違いがあります。


>ただ、違いがある。
>それだけのことで、特にそれ以上でも以下でもありません。


ええ、それでいいのではないですか?
聞かれればこう答えるだろうということなので。

No.887 - 2008/06/15(Sun) 16:37:26

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>自我は、おそらくは、ある段階を経るなら、
>あろうがなかろうが、大丈夫です。
>そのように、思います。
>そんなに敵視する必要が、すでにないと思います。
>その機能によって、学ぶことが多くあります。


先日、知人が、これおもしろいかも、と言って、『ポケットの中のダイヤモンド』という本をおいていきました。著者はガンガジというアメリカ人女性です。

>その通りです。
>それは、自分でわかります。
>了解されている、とは、そういうことです。


自分でわかる、というのは、そうだと、どのようにしてわかるのですか?

No.888 - 2008/06/15(Sun) 16:52:26

Re: 続々々・成長 / hato


> 自分でわかる、というのは、そうだと、どのようにしてわかるのですか?

それは、人が 0101 故に、ともいえるかも知れません。

答えに適切かは、わかりませんが。

No.890 - 2008/06/15(Sun) 21:41:16
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