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理解。 / ubik0101
たとえば、いま、ここ。不思議。でもいいのですが。ある人が、その自分の有り様を表現するなら。それは自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という印象があって、なにか違和感があることがあります。

そうだとして。たとえば天上天下唯我独尊、を思考します。するとその思考が自分の有り様の表現なら、つまりそれを理解してるなら、自分と違う視点から自分を見てる空想は不要になり、天上天下唯我独尊は思考として持続できません。その瞬間に、天上天下唯我独尊、は消滅してしまいます。

いまここ。無我もなければ自我もない。依存しないことにも依存しない。とか、なんでもいいのですが、その思考が、自らを閉じてしまいます。そして、ふつうに見えたり聞かれたりされてる世界が現前します。それで人は、なにも考えることもなく、日常を生きます。

とくに意識せずに、いまここであり、ただの人であり、不思議であり、 天上天下唯我独尊です。これが学ぶ人の日常ではないでしょうか。はじめは無知ゆえに学ぶべき問題が知覚できないとしても、それを理解したら思考を知覚する必要がなくなります。

たとえば愛を忘れ、自己を忘れ、実在を忘れ、日常に生きながら。なんでもないけど、なんでもあり。依存しないことにも依存しないのではないでしょうか。

けれど、そのように理解されたことは、意識に昇らないままに、その人に機能してると思います。それだから人は、ほかの人から尋ねられたりすると、それについて説明できるのだと思います。そうであれば、自分と違う視点から自分を見るから、空想、という違和感は起こらないと思います。

また、空想、ということが理解され、意識に昇らないでも、その人に機能してるなら。すでに、自分と違う視点から自分を見てるので・・・そのことは空想・・・という問題から解放され、違和感がない、ということもあります。

そうでなく。その表明が自己表明でないなら、つまり人が自分の有り様を理解してないなら。その思考は、この思考を理解して欲しいと、その人に留まり繰り返されるのだと思います。

No.937 - 2008/07/09(Wed) 07:59:02

Re: 理解。 / peer
まあ、ともかく。自分の外部に展開されている世界、すべてが自分の内面なのだ、と理解されていることが必要、でしょうね。そこが土台でしょうから。
No.938 - 2008/07/09(Wed) 10:30:04

Re: 理解。 / ubik0101
ふーむ。あらためて指摘されると。とりあえずは、たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、として、現れると思います。つまり自分との差が知覚。そして人の意識は、現れたこと(現象)しか、見たり聞いたり思考したりできないと思います。

だからといって人は、自分が自分を(空想しなければ)知覚できるわけではありません。そこで。風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)は自分の知覚の対象だから、自分ではない、と決めることは不可能です。

また風景や樹や鳥や人や感情や思考(現象)しか知覚できないから、それは自分だと、決めるのも不可能です。どちらにしても、 対象にできることは、完全にどちらかだということはないって、ことになるように思えます。

でも、どうであれ対象にできるということは、自分と無関係ということではないので、 世界と、自分は、不可分です。そして対象にできること(現象)と、対象にできないこと(素直さなどのよい特質。愛。自己。実在。理解された思考)も無関係でないと思えます。

No.939 - 2008/07/09(Wed) 20:44:53

Re: 理解。 / peer
>たとえば風景や樹や鳥や人や感情や思考、総てが、この自分でない、
>として、現れると思います。


単純に現すと「たとえば風景や樹や鳥や人や総て」を
どういうものだ、こういうものだと認識している自分。
ということです。
どう認識するか、ですから、当然私達ひとりひとりの
認識する世界は、違うものになります。
どう認識しているかが個性といえましょうか。

No.940 - 2008/07/10(Thu) 00:29:24

Re: 理解。 / ubik0101
その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。 あるいは、人は自分が何かの世界観を持ってないと思っても、ほかの人から見たりしたら、そうでもない。ということもありそうです。

ということは世界は、そのまま、ありのままの姿では認識できない。その人なりの世界観によらずには、見ることができない、と理解したのは。peerさんは、どんな認識にもよらない世界を見た。ということかもしれません。また。そう理解したというのも、そういう認識、世界観なのかもしれません。

ところで。「ひとりひとりの認識する世界は、違う」として、そこから、どういう意味が汲み取れるのでしょう。その人なりの、ありのままにしか見れないと言うことは、人は、どんなことを行動しても、話しても、思考しても結局は、その世界としての自分を学んでる、作ってる、しかない。ということなのでしょうか。

No.941 - 2008/07/10(Thu) 08:36:55

Re: 理解。 / peer
たとえば、口煩いお姑さんがいます。何かに付けて若いお嫁さんを叱りつける。とします。こうじゃない・・ああじゃない・・ダメだねぇ。と言う。

「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」と、受け取るお嫁さんが居ます。
「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」と、受け取るお嫁さんが居ます。

どちらも、おなじお姑さんであるのに、対応も心の持ち様も違いますから。前者は、その口煩いお姑さんを『上手く使って』要領良く生活するでしょうし、常にニコニコしている。かもしれません。
後者は・・・想像するに、地獄を生きているようなもの。でしょうか。
世界がどのようにあろうとも、無関係で無問題。
どのように生きるのも、その人なり。と、なりましょうか。

No.942 - 2008/07/10(Thu) 15:07:28

Re: 理解。 / ubik0101
ま。 お姑さんにとって、どっちの、若いお嫁さんが良いとか悪いとか判らない。てこともあるかもしれません。

「あー、お母さん。至らない私にどうか色々と教えて下さい。叱って下さい」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとっては、甘えさせてもらってるだけ・・・

「まったく、何をしても文句しか言わないのだから、憎らしいわね」って態度の、お嫁さんは。お姑さんにとって学ばせてもらえる・・・そして、それぞれに類似の認識も、無関係な認識も、逆の認識も、ありそうです。

つまり、どっちの若いお嫁さん自身の態度が、どのように、お姑さんに影響するか判りません。お姑さん次第です。お嫁さんも、お嫁さん次第です。また。おなじ出来事からも、それぞれが、いろんな意味を汲み取れそうです。

そいうことの総てを理解して、学んで成長すれば。お互いに、相手の、どれかの限定された態度にも、とくに依存、執着する必要がなくなるわけで。そのことで自分の行動、発言、思考が、左右されなくなる、偏らなくなる。かもしれません。

それでもまあ課題があるとすれば、こんなことを考えてる。考えない。こんなことを判断する。判断しない。それがそのまま、peerさんとか、ubik0101の有り様を示すようです。

No.943 - 2008/07/10(Thu) 23:49:31

Re: 理解。 / peer
はい。そのままがその人の有り様でしょう。
>その人には、その人の世界がある。その原因は、世界を、どう認識するかということで。それが人の個性と言える。つまり世界は、その人の認識に沿って、その姿を現わす、ということなのでしょうか。

前者の若いお嫁さんと後者の有り様は、違う状況でも展開される可能性はありましょう。
直属の上司と、新入社員になった場合でも、同じようなパターンになりがち。
前者ならば、上司をたてて、素直に従うでしょうし、後者の世界認識をしていると、絶えず反発して空回りしつづける。とか。
学ぶというのは、自分のパターンに気づいて行く。ということでもありましょうか。

No.944 - 2008/07/11(Fri) 10:15:32

Re: 理解。 / ubik0101
それでは困難です。お姑さんと若いお嫁さんの場合、上司と新入社員の場合、そのような関係に埋没していたとして、その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。

つまり理解とは、その、いつ何が起きるかも知れない可能性。また無(潜在)意識の理解でなくては、対症治療になります。根本治療としては実効しません。それこそ迷いです。

また。たとえば人間関係の葛藤が苦しいから、苦しくないように望んでの理解なら。それは、楽を求めてることであり、それは、苦しくなければいい、平穏、静寂ならいい、という限定された解放かもしれません。

そのようにして、たとえば人間関係の葛藤からの解放を得ても。その解放されたという状態に、依存してしまう可能性があります。

どの場合も、その人の有り様は世界に投影され、自分で見えるようになりますが。これも、振り返ってみたら、自分のパターンがあった。ということに気がつくかもしれませんが。自分の有り様が、鏡としての世界に映っていても、それに気がついていても気がつかず、埋没するかもしれません。

ここは、なにかをしたりしなかったりする。その自分は何?を見る。経験する。ことが、望ましいでしょう。実は、自分が思う自分なんて、幻想だったんだよ。って、了解することが必要だと思います。

そうであれば、ふつうの場合は、問題解決は一気であり、瞬間に行われざるを得ません。たとえば部分的な理解、ということはあり得ないからです。そうならば、さまざまな経緯があるでしょうが。人は、自己、愛、実在を、了解します。学ぶということは、そこからが始まりです。

No.945 - 2008/07/11(Fri) 12:44:14

Re: 理解。 / peer
>その場の理解を得たとしても、さらに違う状況では、同じことを繰り返す可能性があります。

はい。ですから、パターンを見つけるコトが、切り口・・・ですね。
私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。
ココが、まず原点と成ります。
対象が無くても、自分のありのままの姿が見えています。理解しています。という人は、また別の話で。
酔っ払いのドライバーに運転をさせて、どこへ向かっているのかわからないまま、の車に乗っているようなのが普通の人間です。

前者の人がよい、後者は悪い。ということではありません。人によって、対応がまちまちである。見ているものの認識が変化します。
何かと接触すると、必ず「自分としての対応」が行われます。
どうしてこういう対応を自分はするのか。そこを見る。
まっ。ubikさんと同じことを言っているだけですが。

No.946 - 2008/07/12(Sat) 01:03:28

Re: 理解。 / ubik0101
なにかに接触して、その自分の反応を見る。ならば、なにかに接触しなくても、その反応は現れてなくても、無(潜在)意識にある。と思われます。それも掘り返す必要があるでしょう。でなければ怠惰かもしれません。

たとえば、いかなる努力もしない、規範を持たない観察も一面ですが、それだけでは言語道断です。そういうことを求めたら、そういうことしか得られない恐れがあります。そんなことでも、どんなことでもない、自己を、人は求めているのだと思います。

そうなら否定の道を本能的に歩くと思います。たまねぎの皮を剥き続けるでしょう。けど。そういう具体的な出来事、また思考の運動としての・・・自我、欲望・・・は人を鍛えるための取り替え可能な負荷であり、それ自体は、なんの変化もしません。変化、変質、変容するのは、そんな自我や欲望の機能ではなく、人です。そうだから人は解放されます。

この世界に執着しない自己を、この世界に於いて了解する。この不可能が起こります。これは無理を承知で、なり振り構わず求めるしかない場合があります。それでも、その人の、どんな努力に関係なく、関係なくもなく、それは起こります。この世界において人は自己になります。

No.947 - 2008/07/12(Sat) 10:50:39

Re: 理解。 / ubik0101
>私達は、自分で自分を正当に見ることが出来ない。
>ココが、まず原点と成ります。


たしかに、自分は自分を、正確に見ることはできません。もし定義できるように正確に見れるとしたら、その自分は、そういう規定、限定された、ほかのこと、もの、とは区別された個別なこと、もの、です。

しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。

No.948 - 2008/07/13(Sun) 09:40:02

Re: 理解。 / peer
>しかし人の自己は、そのようであり得ないので、自己認識は総て空想であり、総べて誤りです。と、いうこともあります。

はい。「気がついた」なんてのは
あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。

たまたまワクが見えることもあって。
「こういう自分が居る」と見えますが。
自分というのはワクの反射で作られている。。。
ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。

No.949 - 2008/07/13(Sun) 10:04:44

Re: 理解。 / ubik0101
>はい。「気がついた」なんてのは
>あるワクに入っているのを、別のワクに押し込む瞬間に起こるコトで、ワクの中に居たら気づきもせず・・・で。


うん。その仕組みが面白いです。まったく人が、どのようかであれば。どのようかである、そのことを露にするために総て(世界)が、どのようかであると見えるように現れます。けど、総てがそう見えるから、却ってそれが、どのようかであることが見えなくなります。

そうなのに、どういうわけか人に、日々の変化が起こります。そのことは人には、その自分の行動、発言、思考、そのままの有り様・・・知覚対象と主体の分離不能・・・として見えます。それは、出来事であれ思考であれ、無理解と理解との狭間に、一時の夢のように現象します。

>たまたまワクが見えることもあって。
>「こういう自分が居る」と見えますが。
>自分というのはワクの反射で作られている。。。
>ワクが実体で、自分はその投影された影の存在。なんてこともありますか。


うん、半分です。どういうわけか人の意識は、まず、ワクを実体と看做して、それを対象にしてる自分は仮に、ある、とされるだけで。つまり無我・・・空と言っても言いかも・・・なことを納得します。

つまり山や樹や鳥や人や感情や思考など、それを対象にしてるから仮の自分が設定されるだけで、その自分を、無我、と了解します。しかし、ワク、つまり対象、山や樹や鳥や人や感情や思考なども、無我です。

No.951 - 2008/07/13(Sun) 17:22:22
(No Subject) / ubik0101
このまえ長崎に訪ねてきてくれたhatoさんが、ubik0101の超古代より以前の日記を持って行って、文字入力してくれました。右も左も判らない時代の文書ですが、それでも姿勢は今と、そんなに変わらない、という印象です。このHPの「超古代の日記」のページに掲載していくことにしました。
No.931 - 2008/06/25(Wed) 18:22:08

Re: / 図書館閲覧者
hatoさん、文字入力お疲れ様でした。

ubik0101さん、拝見させてもらいますね。
この文章は、以前ゲストブックで話しておられた「否定の研究」の一部でしょうか?
ubik0101さんが、まだubik0101さんになられる前のもの?

No.933 - 2008/06/26(Thu) 09:30:29

Re: / 図書館閲覧者

>この文章は、以前ゲストブックで話しておられた「否定の研究」の一部でしょうか?

ああ、拝見したら「否定の研究」と題名がついていますね。
失礼しました。^^;

No.934 - 2008/06/26(Thu) 09:43:58

Re: / ubik0101
ubik0101になる、ずっと、ずっと前の日記です。最初の無思考状態を経験する数年前です。とくに名前を付けてないノートが多かったと思います。「否定の研究」「哲人28号の日記」「我々は現実と交信状態にあります」とかあったと思います。

いま掲載中のノートの名前は不明確なんですが(あとで改正するかもしれませんが)まとめて 「否定の研究」にしました。自分でも読み返したことがないので(かすかに憶えていますが)すこし驚いたり、当時の生活を思い出したりしています。

No.935 - 2008/06/26(Thu) 13:05:29

Re: / hato

図書館閲覧者さんだ!!!

なんか、
とてもほんとにうれしいです。

ノートの名前は、いまのところ
とくに付いてないみたいです。

No.936 - 2008/06/26(Thu) 21:37:36
/ ubik0101
それは様々な経緯があるでしょう。が、人の構成要素の完全な活動であり、歓喜でもある覚醒体験から冷めて、日常の意識に戻ると。その落差に、苦痛を感じてしまいます。

その状態では、 自分が無我であることを、実感したいので・・・自分の過去や、ほかの人に自我を見てしまう・・・残響のような自我が機能します。それは対立関係であり、苦痛です。

そこにこそ、自我や欲望に苦しむ人のために働きたいと思う気持ちが、起こってしまいます。でも、実に苦しんでる知人友人隣人は、ありありと見えるのですが。ほかの人に自我が機能してるってことは、空想かもしれません。そのような空想をすることが、自我をなりたたせてる、大きな要因です。

また、 冷静に考えれば、みんな自分が自分のためにすればいいので。とくに師に教わったとかいうことでなく無我を了解した人は、ほかの人のために働く必要など、なさそうです。

けど。ほかの人が自我を理解する役に立ちたいということが、ほかの人の空想の自我を起因にしてるとしても。なぜか、ほかの人のために働きたいという人を必要としてる人が世界には、いて、実際に役に立つことがあると思います。とても世界は、よくできています。

すこし話を戻します。とにかく人のために働かないことが苦しいのです。それは覚醒体験と較べた、日常の意識の、惨じめさ、苦しさと重なるところがあると思います。それで、ほかにできることもなく。苦し紛れに体験の理解を始めます。その理解がなくては、ほかの人の役に立つというのは、困難なのは明らかですが、そのことにさえ気がつかないほどです。

そして。いったん人のために働くことを始めれば、それは、ことさら誰のために、そうしようと思うことを必要としない。になります。もともと迷いも、それからの解放も・・・世界の機能で・・・誰のもの、こと、でもないし、自分とか他人とかのこととしては意識できません。

そう意識してないことにさえ本人は、なかなか気がつかない。と思います。そして、そんな自分であることに気がつくというだけなので、それに気がついても、それに縛られません(たとえば、なにも考えてない窓から風景を見てる自分、それに注目する、それから始める、ことで学べることが多々あります)。

たとえば医者が患者を見るとして、いろんな状態はあるでしょうが、たしかに誰かの病気なんですが、ことさら個人としての誰の病気、として見てないかもしれません。おなじように、ただ人としての自我の状態を見てるだけです。もちろん自分と、ほかの人が違うとかの設定ができないので、冷たいとか、事務的なとか、どんな態度も不可能です。

また、なんにしろ誰彼のもの、こと、でないのに、それを自分の状態と看做してることが、まさに自我とか、依存とかなので。なにかの葛藤を起こすような勝手な固定観念や価値観とかだけではなく。迷いも解放も、自分とか誰かのもの、こと、とするなら、それだけで問題発生です。

つまり迷いからの解放さえ、躓きになります。 が、それは無駄にあるのではありません。そこから学ぶことができます。

そうしてるうちに、そのような自分の状態の理解も進みます。たとえば執着しないことにも執着しないこと。世界の不思議。生まれつきのように理由なく素直なこと。無我の実感を求める必要がないこと。誤ることのできる意識に依存しないこと。欲望や自我の機能さえ、無我ということ。

こういうことは、覚醒体験そのものからは学ぶことはできないと思います。覚醒体験と日常。それは、あまりに、都合良くと言えるほどに、よく出来てる。と思います。

No.932 - 2008/06/25(Wed) 21:50:01
中道 / ルー
悟りにも迷いにもいない、その場所を生きることを中道と呼ぶのかどうかは、よく知らないのですが、そうであるとして。

「悟り」も「迷い」もわかって、あえて「中道」を選ぶということがあると思います。
そうではなくて、その道を通らずして、生まれたまま、そのままに生きて、中道のような生き方をする人というのは、はたして、いるのでしょうか。

No.903 - 2008/06/17(Tue) 10:19:45

Re: 中道 / ubik0101
うーん。たとえば物質的なことや、喜びや怒り、思考にしても、それは世界の機能で。そう世界が人にしてあげてるのに、人は、この自分があり、それをしてると思い違うことが自我だとも言えます。

そうであれば。そういう物質、感情、思考を、自分のこと、また、ほかの人のこととして捉えても、捉えないないようにしても、それは執着です。まず、そういう「迷い」があって、それからの解放なしには「中道」は困難と思います。

そうでなく。はじめから 幼子は「中道」だとしても。世の中に生きてる間に、いつ偏ってしまうかもしれません。また偏る、その可能性も 「迷い」なので、それを「悟り」理解し、変化し、執着しなくなることが必要とも言えます。

そうだとしたら人は、生まれつきのように執着できず、そのことに、理由も見出せません。けど。禅の、黄檗、だったか、馬祖、だったか、生まれつき悟っていた。と聞いたことがあります。また貧しく文字も読めず薪を売り歩いてた、恵能、は誰かが声を出して読んでいた、金剛経を聞いただけで悟った。と言われています。

No.904 - 2008/06/17(Tue) 11:57:25

Re: 中道 / ルー
現実にも依存しない、できない、ということについて考えています。
心が静かな場合、ただ現実の中に生きる、ということになると思うのです。
心が静かでなくても、現実の中で生きるようになる、と思うのです。
現実の中で生きるのだけれども、現実のみに執着せずに生きる、という方法を仰っているのかな。

現実を受け入れ、対処しながら生きる、ということをすると思います。
それでも、現実のみに執着する必要がないということかな。

人に依存しない、できないっていうことは、わかってきたのです。
でも、現実にも依存しない、できないってどういうことかな。
自分が宙に浮くような気がします。
自分なんかいない、という、何か宗教のようなことみたいな気がするのです。
現実以外に何があるかというと、空想、夢、過去、創作物などが思いつきますが。
現実に依存しないというと、そういうものとも仲良く暮らすみたいなことかと思います。

No.905 - 2008/06/17(Tue) 21:19:16

Re: 中道 / ルー
> そうでなく。はじめから 幼子は「中道」だとしても。世の中に生きてる間に、いつ偏ってしまうかもしれません。また偏る、その可能性も 「迷い」なので、それを「悟り」理解し、変化し、執着しなくなることが必要とも言えます。

現実の中に生きるということは、偏りを生きるということではないですか。
現実と繋がっているには、自我は必要なのではないですか。

そういう意味で、現実に依存しない、ということは、理にかなっていると思えます。

No.906 - 2008/06/18(Wed) 09:36:33

Re: 中道 / ルー
しかし、それでは、「足場を失う」という気がします。

やっぱりubikさんは幽霊なのかな〜

No.907 - 2008/06/18(Wed) 09:40:19

Re: 中道 / ubik0101
たぶん自己を感じなくなった、のでしょう。それで、この現実が自分の有り様の基準にならないのでしょう。だからと言って、このままでいいとか、違ってもいいとか、いうことでも、どんなことでもないのです。

>心が静かな場合、ただ現実の中に生きる、ということになると思うのです。
>心が静かでなくても、現実の中で生きるようになる、と思うのです。


たぶん、それは、そう自覚してなくても現実を基準にして自分を感じてるのでしょう。そうだとしたら知覚に。また、自分の状態、また、ほかの人の状態が見えてる。それに依存してるのかもしれません。

>現実の中で生きるのだけれども、現実のみに執着せずに生きる、という方法を仰っているのかな。
>自分なんかいない、という、何か宗教のようなことみたいな気がするのです。


もしかしたら単に。 現実が、ある、と伝える知覚。そうか、ある、のかと受けることで自分が、ある、と感じる意識・・・生きてる人の基本の機能・・・それを忘れただけかもしれません。

>現実以外に何があるかというと、空想、夢、過去、創作物などが思いつきますが。
>現実に依存しないというと、そういうものとも仲良く暮らすみたいなことかと思います。


この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。それに生きる自分は、いるとか、いないとか。でもないような感じです。あまりに当たり前で、とくに考えることをしなくても無問題のようです。

No.908 - 2008/06/18(Wed) 09:45:03

Re: 中道 / ルー
自分の状態を書いておられるのですね。
誰かに何かを質問されたりすることがあると思いますが、その質問について、考えるとか考えなくてもいいとかを判断するのは、残響のような自我の機能なんですか。

No.909 - 2008/06/18(Wed) 18:02:24

Re: 中道 / ubik0101
なにか質問をもらうと、そこで見えることを、なるべく正確に話してるだけです。ただ質問によっては、ほかのこととの関係とか、これまでと違う角度からとか、もっと細部まで見る必要がでて、それによって、学ばせてもらうことが多々あります。

きっと、これまで見なかったことには、返信ができないと思います。「考えるとか考えなくてもいいとかを判断する」ことはありません。ルーさんの質問を読み違えてたら指摘ください。

ところで残響のような自我については、このところ書いてることの復習になりますが、纏めてみます。無我体験の後。自分の無我を自覚するということは。ほかの人に自我を見る。過去の自分に自我を見る。ということで、自分の無我と比較することになりやすいのです。

ほかの人に自我を設定しながら、そのことによって自分の無我を対象にして掴んでるということで、それに気がつかないで、ほかの人を非難、拒否するなら、その対立関係に縛られます。それは自分で気がつかずにしてる空想とも言えます。それが残響のような自我の傾向です。

そうでなく自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。それで自分にも、ほかの人とかにも、自我を見る、空想する必要がなくなります。

そうであれば。自分の無我を自覚しなくても、無問題です。というか、それも忘れています。それでも自我はありません。これはやはり、なにか、物質にしても思考にしても対象を、ある、と伝える知覚、それを受けて、自分が、ある、と感じる意識。そのようなことは生きてる人に備わった基本の機能で。(その強調が自我とか欲望とも解釈できます)。 それに依存しない、ということだと思います。

No.910 - 2008/06/18(Wed) 20:05:44

Re: 中道 / ルー
> きっと、これまで見なかったことには、返信ができないと思います。「考えるとか考えなくてもいいとかを判断する」ことはありません。ルーさんの質問を読み違えてたら指摘ください。

えーっと、ムーミンさんの問いに対して「そうとも、そうでないとも意識していません。」と答えられたことに対する疑問でした。
「これまで見なかったことには返信できない」ということですね。
質問されて初めて考えるということが多いように思いますが、この時は、考えてみるというよりは、「そういうことは意識していない」という返事でした。
それで、「考える必要がない」と判断されたのかと思ったのですが、「返信できない」ということだったのですね。

No.911 - 2008/06/18(Wed) 22:14:31

Re: 中道 / ルー
> この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。

んー。
これは、ちょっと。
「この世界」って何?というところから始まってしまいます。
「この世界」と呼んでいるものを「現実」とするなら、「現実にも依存できない」というのは、そうかも知れません。

No.912 - 2008/06/18(Wed) 22:27:20

Re: 中道 / ルー
> この世界でないことがある。わけでもありません。この世界しかない。わけでもありません。それに生きる自分は、いるとか、いないとか。でもないような感じです。あまりに当たり前で、とくに考えることをしなくても無問題のようです。

「無問題である」と判断したのではなく、「問題はないと感じる」ということなのかな。
自我も無我もない、ということなので、もし何かを判断するとしたら、それは自己の働きなのかなと思いますが、その自己さえも、もはや意識しなくなったということですね。

No.913 - 2008/06/19(Thu) 08:39:31

Re: 中道 / ルー
「この世界」と呼んでいるのは、「自分が知覚できる世界」というふうに理解します。
No.914 - 2008/06/19(Thu) 08:41:05

Re: 中道 / ルー
「自分が」というと、意味の取り違えがあるかも知れないので、「自分で」にしておきます。「自分によって知覚できる世界」。
ということは、知覚にも依存しないっていうことかな。

No.915 - 2008/06/19(Thu) 08:44:51

Re: 中道 / ubik0101
>えーっと、ムーミンさんの問いに対して「そうとも、そうでないとも意識していません。」と答えられたことに対する疑問でした。
>「これまで見なかったことには返信できない」ということですね。
>質問されて初めて考えるということが多いように思いますが、この時は、考えてみるというよりは、「そういうことは意識していない」という返事でした。
>それで、「考える必要がない」と判断されたのかと思ったのですが、ということだったのですね。


なにか質問をもらって、初めて考える。というのではなく。質問によって、これまで見たことが呼び起こされて、あるいは演繹されて、それを話します。見てないことは、呼び起こされない、なので「返信できない」ということです。

>「この世界」と呼んでいるのは、「自分が知覚できる世界」というふうに理解します。

> 「自分が」というと、意味の取り違えがあるかも知れないので、「自分で」にしておきます。「自分によって知覚できる世界」。
>ということは、知覚にも依存しないっていうことかな。


うーん。知覚は、ある、と伝える機能。どんなことも意識に伝えられないことはないとして、機能してると思います。つまり、ないことは知覚できない・・・知覚できないことはない・・・と暗黙の前提があります。それを見ると、それに捕われなくなります。

でも、それを見て捕われなくなるためには。実は、無我のように、ない、ことを、ない、と知覚できる 。また実在のように、ある、から知覚できない。ということを了解してなければ、困難と思います。

そういうことも 、忘れて。とくに知覚されたことによって、自分を、ある、と実感する必要もなく。 現実って、なにか買い物したり話したり考えたり・・・ある、に偏ってるように見えて、偏りなんてありようもない・・・なにかに依存できないって、ふつうのことと思います。ルーさんも、そうなのでしょう。

No.918 - 2008/06/19(Thu) 09:46:31

Re: 中道 / ルー
> なにか質問をもらって、初めて考える。というのではなく。質問によって、これまで見たことが呼び起こされて、あるいは演繹されて、それを話します。見てないことは、呼び起こされない、なので「返信できない」ということです。

なるほど。
私は、質問されて初めて考えるということが多いです。
質問されるまでは、それについて考えたことがない、ということが多いのです。

> そういうことも 、忘れて。とくに知覚されたことによって、自分を、ある、と実感する必要もなく。 現実って、なにか買い物したり話したり考えたり・・・ある、に偏ってるように見えて、偏りなんてありようもない・・・なにかに依存できないって、ふつうのことと思います。ルーさんも、そうなのでしょう。

知覚に依存できないとか、現実に依存できないとか、依存しているとか、していないとか、考えたこともありませんでした。
ただ、「人に依存できない」ということは、最近、わかりました。それも、現実の中に生きてこそ、のことです。
知覚があってこそ、のことです。
私にとっては、「生きている」ということと、現実や知覚に依存するというのは、同格です。
しかし、その「依存する」という言葉の意味は、突き詰めてはいません。
「人に依存する」というのは意味はわかりますが、「現実に依存する」とか「知覚に依存する」というのは、あまりよくわかりません。
以前、「世界が人に、このようにしてくれている」というふうに言われていたでしょう。そのように世界を捉えるならば、依存は当たり前と思うのです。

No.921 - 2008/06/19(Thu) 11:06:55

Re: 中道 / ubik0101
> 以前、「世界が人に、このようにしてくれている」というふうに言われていたでしょう。そのように世界を捉えるならば、依存は当たり前と思うのです。

どちらか片方だけなら、やはり偏りの表現と思います。どのようなことも世界が人にしてくれてるのに、人が、それを自分でしてると思い違うなら、それが自我の機能。ということです。

また。知覚にしても、その機能を正確に見なければ、それを正確に見る必要が生じ、それが躓きとして、依存として、意識される。ということです。

No.923 - 2008/06/19(Thu) 12:57:10

Re: 中道 / ルー
どちらか片方とは?
No.924 - 2008/06/19(Thu) 13:27:06

Re: 中道 / ubik0101
「どのようなことも世界が人にしてくれてる」。これは人が、消極、に偏っています。また。「それを自分でしてると思い違うなら」。これは人が、積極、に偏っています。どちらか片方なら偏りです。
No.925 - 2008/06/19(Thu) 13:40:30

Re: 中道 / ルー
どう思っていようが、どうでもいいんじゃないですか。
No.926 - 2008/06/19(Thu) 14:29:13

Re: 中道 / ubik0101
うん。それに依存しなければ、どうでもいいのです。そして、依存しないなら。思っても、思わないでも、どうでもいいってことです。
No.927 - 2008/06/19(Thu) 14:37:46

Re: 中道 / ルー
まぁ、「どう思っていようが」の中には、「何も思っていないであろうが」も含まれているわけですが。

「何も思っていない」に依存する、という場合もありますか。

No.928 - 2008/06/19(Thu) 14:45:38

Re: 中道 / ubik0101
うん。まったく問題を問題とも知覚できない、意識できないから、問題ではない。という場合が、あると思います。
No.929 - 2008/06/19(Thu) 15:43:21

Re: 中道 / ルー
なるほどね〜。
依存するっていうことの意味が、ちょっとわかったような。

No.930 - 2008/06/19(Thu) 17:44:14
自己 / ルー
>たぶん自己を感じなくなった、のでしょう。それで、この現実が自分の有り様の基準にならないのでしょう。だからと言って、このままでいいとか、違ってもいいとか、いうことでも、どんなことでもないのです。

覚醒していない人でも、「自分を感じない」ということは起きていると思います。
しかし、この現実が自分の有り様の基準であるということは、感じると思います。
何か問題がある時に、それは出現するのです。
そして、「自分を感じない」体質であれば、問題はすべて周りの人にあるのだと感じるのです。

ところで、「どんなことでもない」というのは、何なのでしょう。
現実は自分の有り様の基準にはならないが、だからといって、「何でもあり」というわけではないということ?
以前、掲示板に出ていた「自分の欲することをして矩を超えず」みたいな言葉を思い出しました。

No.916 - 2008/06/19(Thu) 09:10:38

Re: 自己 / ルー
「心の欲する所に従ひて、矩を超えず」でした。
No.917 - 2008/06/19(Thu) 09:16:59

Re: 自己 / ubik0101
なにか「このままでいいとか、違ってもいい」「何でもあり」とか判断することも不要。です。当たり前のことです。

たとえば中道と意識する、ことも不要なのだと思います。が 意識しても、意識することに捕われないなら、無問題です。

「自分の欲することをして矩を超えず」は。人は倒錯してなければ、自己を空想できず、とくに悪いことをせず、良いことをしようと望んでも。望まないでも。行動に規制がかかるという訳ではなく、矩を超えない、です。

やはり、はじめからは「自分の欲することをして矩を超えず」ではなく。「自分の欲することをして矩を超える」可能性があるわけで。それまでの人生で学んだこと、成長したことが大切と思います。

No.922 - 2008/06/19(Thu) 12:39:06
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