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続々々々・成長 / ubik0101
ム−ミンさん

>それで、世界のすべてを理解し終えて、菩薩の修行も悟後の修行も終わったというわけですか。

とくに、そうとも、そうでないとも意識していません。

>そうですか?ある掲示板で「クリシュナムルティ」のハンドルネームで投稿されたり、偽クリシュナムルティと名乗られたりして書き込みをされていましたよね。ほかにも「にせ新しい芽」というハンドルネームでも書いていらっしゃったと、その掲示板には書いてあったと記憶しています。その掲示板で、ある人のことを「馬と鹿」と呼んだり、ある人たちのことを「青鬼、赤鬼」と表現していらっしゃいましたよね。

>その掲示板を読んでいて、ある人のクリシュナムルティ解釈をubik0101さんが解釈して、その解釈を持って別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをやっていらっしゃいませんでしたか?何重にもバイアスがかかって、それに基づく誤解が修正されないまま話が進んでいったという印象でした。それで同じことが何度も繰り返されていました。

「クリシュナムルティ」のハンドルネーム は憶えがあります。けど。憶えてないということはないと思いますが「偽クリシュナムルティ」「青鬼、赤鬼」は知りません。「 ある人のクリシュナムルティ解釈 」は、まったく知りません。「ある人」「別の人」って、誰なんでしょう。 「それで同じことが何度も繰り返されていました。」ということも、ム−ミンさんの記憶にある限りでいいので、ここで話しても無問題です。

>それで、「その人の状態について批判」といっても、その人の状態の本当のところはわからないでしょう。表現の上手い、下手もある。掲示板では言葉を頼りにして想像するしかない。空想するしかない。それで言葉の使い方、定義がずれているにもかかわらず、それにこだわれば、繰り返しが続きます。また、前にubik0101さんは、ある人に「指摘したけれども無駄だから、もう止めた」という結論付け、断定をされていましたね。それはどこからくるのでしょう。自分の体験を絶対的だとする確信からですか?

「ある人」って、新しい芽さんのことでしょうか。なら「馬と鹿」です。彼には、できるだけのことはしました。「その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。」。この通りです。新しい芽さん以外の人、たとえばム−ミンさんと、このことを話しても意味はないと思いますが、するのはかまいません。

>空想、想像ならいくらでも出来ます。たとえば、ある掲示板やこの掲示板の書き込みを読んで、「クリシュナムルティ」と名乗ったり、ある人たちに対して「馬と鹿」とか「赤鬼、青鬼」とかという表現を使用するのは、何かubik0101さんは、クリシュナムルティやその愛読者に対してルサンチマンというか、反感でもあるのではないか、その無意識に気づいていないのではないか、とか。

クリシュナムルティは読んだ限りでは、つまらないと思います。

No.876 - 2008/06/14(Sat) 17:37:49

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>>それで、世界のすべてを理解し終えて、菩薩の修行も悟後の修行も終わったというわけですか。

>とくに、そうとも、そうでないとも意識していません。

「自我の完成」とおっしゃっていましたが、「完成」が何かをはっきりとわからないとそうはいえないでしょう。例えばお釈迦様が解脱したときには、はっきりと解脱したとわかる、と仏典に書いてあるように、「完成」がはっきりわかるのだと思っていました。

>「クリシュナムルティ」のハンドルネーム は憶えがあります。けど。憶えてないということはないと思いますが「偽クリシュナムルティ」「青鬼、赤鬼」は知りません。「 ある人のクリシュナムルティ解釈 」は、まったく知りません。「ある人」「別の人」って、誰なんでしょう。 「それで同じことが何度も繰り返されていました。」ということも、ム−ミンさんの記憶にある限りでいいので、ここで話しても無問題です。

そうですか、忘れてしまわれましたか。「ゴトの読書室」のことです。覚えていらっしゃらないのなら、これ以上はなしても、無駄ですね。確か「赤鬼、青鬼」は夢の形式を借りてお話されていたように思います。

>「ある人」って、新しい芽さんのことでしょうか。なら「馬と鹿」です。彼には、できるだけのことはしました。「その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。」。この通りです。新しい芽さん以外の人、たとえばム−ミンさんと、このことを話しても意味はないと思いますが、するのはかまいません。

そう判断、結論付けされますが、本当のところはわからないでしょう。ubik0101さんは新しい芽さんという方をよくご存知なのですか?できるだけのことをしたってなんなのでしょう。差し支えなければお聞かせください。

>クリシュナムルティは読んだ限りでは、つまらないと思います。

はい。
それはそれで構わないと思います。私もつまらないな、と感じることもあります。余計な幻想や希望を与えないほうがいいのじゃないかと、思うこともありました。だけれども、まったく無視できないものもあると、感じました。

No.877 - 2008/06/14(Sat) 17:53:30

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
>「自我の完成」とおっしゃっていましたが、「完成」が何かをはっきりとわからないとそうはいえないでしょう。例えばお釈迦様が解脱したときには、はっきりと解脱したとわかる、と仏典に書いてあるように、「完成」がはっきりわかるのだと思っていました。

そういう意味なら、完成です。自我の問題は解決です。それでも、悟後の修行が必要だということです。「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか? 」こうム−ミンさんに質問しましたが。叡智とは葛藤の理解なので・・・ふつうの日常で・・・もう葛藤は起こらない、です。

>そうですか、忘れてしまわれましたか。「ゴトの読書室」のことです。覚えていらっしゃらないのなら、これ以上はなしても、無駄ですね。確か「赤鬼、青鬼」は夢の形式を借りてお話されていたように思います。

それなら、「赤鬼、青鬼」ではなく、妖精の話です。それは、この“掲示板”にも投稿、本文の『った』にも掲載してますが、誰の批判とか非難とか、受け取れないと思います。

>そう判断、結論付けされますが、本当のところはわからないでしょう。ubik0101さんは新しい芽さんという方をよくご存知なのですか?できるだけのことをしたってなんなのでしょう。差し支えなければお聞かせください。

うーん。読書会から、喫茶店、飲み屋に行き、たぶん6時間ほど会っただけです。なんにしても、ほかの誰かを拒否するという意味で、批判することはありません。そういえば2年ほど前、「雑感」で、自我が解消されたらそれは永続的なことか?など。いくつか新しい芽さんに質問しました。本人が実践してるなら、答えられることです。

まったく返信をせず、ほかの人と話してはどうか、と言われました。ほかの人も、新しい芽さんに、答えられるはずの質問しますが、肝心なものは返事しません。

そして、自分が突っ込まれて、答えなかったことを、違う人に対して、突っ込むことばかり、繰り返しています。また、ほかの人のことは検討しますが、自分のことは検討しません。

そういうことは、自分を正しいと思いたいからでは?と指摘したりしますが。「ubik0101には問題がないようだから、話することはない」。とか、大事な話をしてると「興味がなくなった」と、これは数回も言われました。

はじめから自分を見る自分などいない。と言っても信じません。そして人は、ふたつに分裂してて、ひとつが本物、などと言ったりします。このままでは新しい芽さんにとって問題だろう。ということで話すのですが、いつも同じ結果です。

No.880 - 2008/06/14(Sat) 19:29:21

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>そういう意味なら、完成です。自我の問題は解決です。それでも、悟後の修行が必要だということです。「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか? 」こうム−ミンさんに質問しましたが。叡智とは葛藤の理解なので・・・ふつうの日常で・・・もう葛藤は起こらない、です。

はい。それで、葛藤は起こらないと、どうしてわかるのか、ということで、今までお話をしてきたつもりでした。それが実践、学びで欠かせないことだからです。それで知覚の話もしました。

>それなら、「赤鬼、青鬼」ではなく、妖精の話です。それは、この“掲示板”にも投稿、本文の『った』にも掲載してますが、誰の批判とか非難とか、受け取れないと思います。

『った』を拝見しました。妖精の文章はありましたが、「ゴトの読書室」に投稿されていた「青鬼、赤鬼」の文章は出ていませんでした。この夢の形を借りた文章をわざわざ「ゴトの読書室」に投稿されたのは、ubik0101さんと、ゴトさん、新しい芽さんとの対話が紛糾して途絶えた直後のことでしたので、お二人のことを比喩的に語られているのだろうと思いました。私の解釈の違いであれば申し訳なく思います。

>うーん。読書会から、喫茶店、飲み屋に行き、たぶん6時間ほど会っただけです。なんにしても、ほかの誰かを拒否するという意味で、批判することはありません。そういえば2年ほど前、「雑感」で、自我が解消されたらそれは永続的なことか?など。いくつか新しい芽さんに質問しました。本人が実践してるなら、答えられることです。

>まったく返信をせず、ほかの人と話してはどうか、と言われました。ほかの人も、新しい芽さんに、答えられるはずの質問しますが、肝心なものは返事しません。

>そして、自分が突っ込まれて、答えなかったことを、違う人に対して、突っ込むことばかり、繰り返しています。また、ほかの人のことは検討しますが、自分のことは検討しません。

>そういうことは、自分を正しいと思いたいからでは?と指摘したりしますが。「ubik0101には問題がないようだから、話することはない」。とか、大事な話をしてると「興味がなくなった」と、これは数回も言われました。

>はじめから自分を見る自分などいない。と言っても信じません。そして人は、ふたつに分裂してて、ひとつが本物、などと言ったりします。このままでは新しい芽さんにとって問題だろう。ということで話すのですが、いつも同じ結果です。

そうですか。私は新しい芽さんのことはわかりません。解釈はいろいろとできるだろうと思います。問題がなくなったというのなら、人が自我が解消したとか、解消していないとか、永続的かどうかなど問題にもならないだろう、それは自分自身の目で確かめればよいだろう、そして、一つの問題もないときには、生き生きとした生を生きているだけではないか、という趣旨のことを書いていらっしゃるのはよく見かけますね。

No.882 - 2008/06/15(Sun) 14:51:18

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
> 『った』を拝見しました。妖精の文章はありましたが、「ゴトの読書室」に投稿されていた「青鬼、赤鬼」の文章は出ていませんでした。この夢の形を借りた文章をわざわざ「ゴトの読書室」に投稿されたのは、ubik0101さんと、ゴトさん、新しい芽さんとの対話が紛糾して途絶えた直後のことでしたので、お二人のことを比喩的に語られているのだろうと思いました。私の解釈の違いであれば申し訳なく思います。

まったく、「申し訳なく」なんてこともないことです。妖精の話は、楽しんでもらおうとして投稿したことです。でも、「青鬼、赤鬼」そんな投稿したかは?です。ゴトさんは慎重で、なかなか好感を持っています。2、3回、話しただけで、紛糾?ではないと思います。いろんな読み方があっても無問題です。

ところで。もう、ほかの人に自我を見る必要はないのではないでしょうか。たしかに自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。

No.889 - 2008/06/15(Sun) 17:34:05

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>まったく、「申し訳なく」なんてこともないことです。妖精の話は、楽しんでもらおうとして投稿したことです。でも、「青鬼、赤鬼」そんな投稿したかは?です。ゴトさんは慎重で、なかなか好感を持っています。2、3回、話しただけで、紛糾?ではないと思います。いろんな読み方があっても無問題です。

そういっていただければ、幸いです。
「青鬼、赤鬼」の投稿は、私の幻覚だったのでしょうか。今では確かめる術もありませんが。

>ところで。もう、ほかの人に自我を見る必要はないのではないでしょうか。たしかに自分は無我です。そして世界も無我です。いわゆる心理的な運動、欲望も葛藤も自我も、機能としては無我です。自我なんて、どこにもありません。

ええ、ただ、ubik0101さんとか誰がということではありませんが、見逃された微妙な、微細な自我が働いている、葛藤がかもしれない、と自分のことのように心配してしまうということがあるのですね。

そろそろやめようと思いますが、何か質問をし残したとすれば、単なる表現の問題で、言葉の使い方の違いの問題かもしれませんが、自我は実体ではないとおっしゃる一方で、自我の完成を説いておられるのはどうしてなのか?ということがあります。

No.893 - 2008/06/16(Mon) 10:18:02

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
それは最初の頃に話したと思います。機能として未完だから自我は機能するという意味です。

それで自我の否定(それも自我)でもなく、肯定(それも自我)でもなく、完成が無我です。と言います。もちろん実体としての自我は、はじめからありません。

No.894 - 2008/06/16(Mon) 11:10:36

Re: 続々々々・成長 / ムーミン
>>そろそろやめようと思いますが、何か質問をし残したとすれば、単なる表現の問題で、言葉の使い方の違いの問題かもしれませんが、自我は実体ではないとおっしゃる一方で、自我の完成を説いておられるのはどうしてなのか?ということがあります。

>>それは最初の頃に話したと思います。機能として未完だから自我は機能するという意味です。

>>それで自我の否定(それも自我)でもなく、肯定(それも自我)でもなく、完成が無我です。と言います。もちろん実体としての自我は、はじめからありません。

わかりました。
仏教では「自我の完成」とは言わないので、「自我」「実体」という意味、言葉の使い方が仏教とは、少し違うわけですね。これがubik0101さんの言う「自分の言葉」なのですね。少し紛らわしくて混同してしまいました。

それでは長きにわたって、ありがとうございました。お疲れ様でした。これから暑くなりますので、お体にはくれぐれもお気をつけください。

No.895 - 2008/06/16(Mon) 11:23:27

Re: 続々々々・成長 / ubik0101
とりあえず、この一連の対話の印象として。その人の経緯の違いはともかく。たとえば自我でも、無我でも、叡智でも。

それを自分の、こと。あるいは。ほかの誰かの、こと、と看做すと、それだけで問題になってしまうのかな。と感じました。それでは。いつでも。また。

No.897 - 2008/06/16(Mon) 14:12:52

Re: 続々々々・成長 / ルー
「ubikさんの言葉の使い方は、一般のものとは違う」というだけのことではないですか。
人によって、言葉の使い方が違う、ということだと思います。
林檎を梨と呼び、梨を林檎と呼ぶのでは問題があるというか、話が通じにくいという問題がありますが。
どれを林檎と呼び、どれを梨と呼んでいるのかということが説明の中でわかれば、話は通じると思います。ただ、面倒ではありますが。

普通、「ただの人」と言えば、覚醒していなくて、自我が完成していない人のことを指すを思いますが、そうではない人を「ただの人」と呼ぼうが、意味が通じていればよいかな、と思います。その人独特の経緯というものを尊重して、そう思うのかな。

No.900 - 2008/06/17(Tue) 09:34:01

Re: 続々々々・成長 / ルー
「悟りにも迷いにもいない人」というのは、私は、「悟りにいる人」と思います。「葛藤することはない」というのなら、なおさら「悟りにいる人」だと思います。
それを「ただの人」と呼ぶのは、自分を「特別」と思うことを許していないからではないかと思います。

「ただの犬」と言う時、その犬は「特別な犬」ではないことを意味します。しかし、そういう観念のようなものを持ち合わせていない場合、「ただの犬」というのは、「まさに犬らしい犬」を指すかも知れません。
そういう意味で、「ただの人」というのが、「まさに、人間らしい人間」を指すこともあるかな。

「恋におちて」という歌の中に、「I just a woman」という歌詞があるのですが、「私は、ただの女」であり「まさに女」である、ということだと思います。
「ただの人」という表現の中には、「just」に匹敵するものがあるように思いました。

No.901 - 2008/06/17(Tue) 09:49:31

Re: 続々々々・成長 / ルー
「am」が抜けていました。「I'm just a woman」でした。

ま、空想。。。ですね。
聞き流してください。

No.902 - 2008/06/17(Tue) 10:01:44
続々々・成長 / ubik0101
ム−ミンさん。

>知覚からの直接の行為の意味が了解できたとき、了解する前には気づかなかったけれども、実はそのときにも直接の行為をしているときがあったのだな、と知るでしょう。人は叡智を得て初めて、知覚からの直接の行為があるのでしょうか。はたして、その行為は「覚醒者」の占有物なのでしょうか?

ここでは、はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?と質問しました。叡智とは、葛藤の理解です。それは葛藤からの学びによらずには、不可能と思います。「了解する前」と了解した後の「知覚からの直接の行為」を一括して叡智と呼ぶことは疑問です。

そこには、葛藤を知覚できなければ、それは、ない、という姿勢に、こだわってる、ように思えます。 たまたま周囲の人や環境に恵まれてて、葛藤が起きない場合、葛藤や苦しみは潜在して知覚できません。その葛藤を知覚できないことを叡智と命名?葛藤の理解も、叡智と命名?

と、言うのも。なぜ叡智と行動を結び付けるのでしょう。それには理由がありませんか。と思うからです。そこには、葛藤などのない人間関係などを、よし、とする。また自我を邪魔者とする。暗黙の前提がありませんか。そう自覚してなくても、そういう非難、正当性が、隠れていませんか。

ほんとうに全否定は、全肯定ではありませんか。これも、無我の了解のときに体験してるのですが、意識には受け入れがたいことのようです。これも、直接の道がない場合があります。どこまでも自分を理解し尽くし、意識の領域だけでなく、つまり意識にも依存せず、徹底することが望ましく思えます。

もちろん、ム−ミンさんは無自覚でも、どこかで。叡智など不要。と徹底してるのかもしれません。それならば、たとえば「知覚からの直接の行為」も蛇足。になると思います。

>観察者が意識されない、観察されていることが意識されない、ということではないですか?つまり、自意識、自我意識、自己意識、いろいろ呼び名はありますが、それがないということでしょう。で、そういうものの干渉がなく、ただ見ているということではないですか?

ここでは。観察者が自覚されないことを「観察者がいない観察」と表現するのは、 「観察者がいる観察」と対になった思考で、それは自覚してないけど。あることと、反対のことの葛藤であり、それでは「堂々巡り」といわれてる状態では?と質問したのです。それは一応、説明概念かもしれませんが。

その「堂々巡り」に気がつかなくするために。たとえば観察者がいなければ、それだけで、「叡智がある」、「知覚からの直接行動がある」という「前提」に落とし込んで、「観察者がいない観察」は正当性を与えられてるのではないでしょうか。けれど、その「前提」の正しさを疑えると思います。

それでも、たとえばム−ミンさんが、「観察者がいない観察」。それで納得してるなら、たとえばubik0101が、なにも指摘することはありません。しかし。そこを、もっと検討すれば、さらに可能性があると思います。クリシュナムルティの言葉、概念を使うことを、とやかく言いません。しかし、クリシュナムルティに「同一化」してるのでないなら、もっと自分の言葉で話せると思います。

あとは、これまでの繰り返しになると思うので省きますが、要点を抜かしたなら、指摘してくれれば大丈夫です。今日は、高速船で、小旅行です。

No.860 - 2008/06/09(Mon) 07:30:42

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>ここでは、はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?と質問しました。叡智とは、葛藤の理解です。それは葛藤からの学びによらずには、不可能と思います。「了解する前」と了解した後の「知覚からの直接の行為」を一括して叡智と呼ぶことは疑問です。

「覚醒」がなければ、本当の叡智はないということをおっしゃっているのでしょう。本当にその叡智は、言葉を換えれば、知覚や知覚からの直接の行為は「覚醒者」だけが持つ特権ですか?「覚醒者」でなくても、思考(二元性の)がないとき、叡智が働くのでは、ということを言っています。

では逆に、「覚醒者」を自負していらっしゃるubik0101さんの、その特権的な「叡智」とは、どんなに特別なものなのですか?つい先には「ただの人だ」とおっしゃっていたと思いますが。

義務からでも、道徳からでも、人に言われたからでもなく、ああしなければいけない、ああしたい、誰かにどう思われたい、思われたくないなどの思いなく、知覚からの自発的な行為は世界中に見られるのではないですか?日曜日に起こった秋葉原での事件で、被害者の方を介抱されていた方々、阪神大震災のときも、自分の利益そっちのけで、人を助けるということがあったでしょう。これらの人々の行為のすべてが偽善の叡智だということでしょうか?

で、私の記述では伝わらないようなので、「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?」という問いについては、では何故、仏教で「菩薩道」が成り立ったり、禅において「悟後の修行」が存在するのかを考えればいいと思います。

>と、言うのも。なぜ叡智と行動を結び付けるのでしょう。それには理由がありませんか。と思うからです。そこには、葛藤などのない人間関係などを、よし、とする。また自我を邪魔者とする。暗黙の前提がありませんか。そう自覚してなくても、そういう非難、正当性が、隠れていませんか。

まったく伝わっていなかったみたいです。現に自我は問題を起こしています。しかし、その「自我を邪魔者」にすることは問題を解決しないということを言ってきたのです。実践において、善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだと、という思いがあるのなら、それは倒錯だろうということです。そのときには方便としての言葉の理解がないのではないか、ということです。

叡智と行動とは別のものですか?分離のない全体の動きではないですか?

>ほんとうに全否定は、全肯定ではありませんか。これも、無我の了解のときに体験してるのですが、意識には受け入れがたいことのようです。これも、直接の道がない場合があります。どこまでも自分を理解し尽くし、意識の領域だけでなく、つまり意識にも依存せず、徹底することが望ましく思えます。

否定も肯定もないものです。それをとりあえずのものとして「全否定」といいます。そしてそこに、叡智と行動との分離のない全体の動きがあるのではないですか?それを「意識に依存しない」と呼ぶのではないですか?全肯定をいうなら、そこには、全肯定に対する依存が隠れている可能性もあります。

>そこには、葛藤を知覚できなければ、それは、ない、という姿勢に、こだわってる、ように思えます。 たまたま周囲の人や環境に恵まれてて、葛藤が起きない場合、葛藤や苦しみは潜在して知覚できません。その葛藤を知覚できないことを叡智と命名?葛藤の理解も、叡智と命名?

たまたま人や環境に恵まれて、自分には葛藤がないよ、という場合、それは、思考や認識の判断であって、つまり思いであって、知覚される事実ではない可能性があるでしょう。葛藤が明確であれば、それは知覚され、理解されるでしょう。

ここの部分も何度か説明してきましたが、私の説明では伝わらないようなので、上にも書いたように、では何故、仏教で「菩薩道」が成り立ったり、禅において「悟後の修行」が存在するのかを考えればいいと思います。

>ここでは。観察者が自覚されないことを「観察者がいない観察」と表現するのは、 「観察者がいる観察」と対になった思考で、それは自覚してないけど。あることと、反対のことの葛藤であり、それでは「堂々巡り」といわれてる状態では?と質問したのです。それは一応、説明概念かもしれませんが。

ここも伝わっていなかったみたいですね。

>その「堂々巡り」に気がつかなくするために。たとえば観察者がいなければ、それだけで、「叡智がある」、「知覚からの直接行動がある」という「前提」に落とし込んで、「観察者がいない観察」は正当性を与えられてるのではないでしょうか。けれど、その「前提」の正しさを疑えると思います。

「知覚」と「観察者のいない観察」とは同じ意味で使っています。このなかで「堂々巡り」の意味と実態が理解されるのではありませんか?

この言葉で申し上げてきたのは、いかなるあり方においてあるものでもない、というあり方において、物事はあるということです。そのことも意識されません。もちろん、「知覚」が葛藤の反対のものという捉えかたであるならば、それは葛藤の事項で「堂々巡り」になります。

>それでも、たとえばム−ミンさんが、「観察者がいない観察」。それで納得してるなら、たとえばubik0101が、なにも指摘することはありません。しかし。そこを、もっと検討すれば、さらに可能性があると思います。クリシュナムルティの言葉、概念を使うことを、とやかく言いません。しかし、クリシュナムルティに「同一化」してるのでないなら、もっと自分の言葉で話せると思います。

過去の経緯を見ていただければわかるともいますが、私のほうからクリシュナムルティについて話したのは、少ないと思います。ubik0101さんがクリシュナムルティについてよく言及されるので、共通の言葉として理解がしやすい、そのほうが手っ取り早いのかなと思い使用してきました。

ところで、過去の書き込みを読むと、ubik0101さんはクリシュナムルティをほとんど知らないと書かれていました。にもかかわらずクリシュナムルティのことをよく引き合いに出され、批判されていらっしゃいますが、それは誰経由のクリシュナムルティなのでしょうか。

また、ubik0101さんは、仏教の用語をよく使われますね。それは、それがご自分の表現にぴったり来る、表現しやすいからということでしょう。言葉はある何かを表現するものでしょう。それならば、クリシュナムルティを使おうが仏教を使おうが関係ないのではないですか?クリシュナムルティの術語を使うから「同一化」だとおっしゃるのは、逆に何かへのこだわり、とらわれがあるという可能性もあります。

何を持って自分の言葉といえるのか、これも大きな問題を孕んでいます。

No.862 - 2008/06/10(Tue) 11:16:53

Re: 続々々・成長 / ubik0101
> 「覚醒」がなければ、本当の叡智はないということをおっしゃっているのでしょう。本当にその叡智は、言葉を換えれば、知覚や知覚からの直接の行為は「覚醒者」だけが持つ特権ですか?「覚醒者」でなくても、思考(二元性の)がないとき、叡智が働くのでは、ということを言っています。

まったく叡智と、知覚からの直接の行動を結び付ける必要も、意味も、理由も、感じていません。とくに、知覚からの直接の行動を目標に、探究しているのではありません。

ただ人間関係から学ぶことは沢山あります。結果としては、とくに葛藤がない人間関係が実現されるということです。 結果としてでなく、それを目標として求めるなら、その目標によって結果が限定される恐れがあるかもしれません。

けど。目的でも、手段でも、結果でもない、観察、をするために、 「知覚からの直接の行為」を続ける。そんな姿勢に依存しなければ。そうでないことが見える。と思うのです。「知覚からの直接の行為」。これだけが、どう呼ぶにしても叡智でしょうか。

> では逆に、「覚醒者」を自負していらっしゃるubik0101さんの、その特権的な「叡智」とは、どんなに特別なものなのですか?つい先には「ただの人だ」とおっしゃっていたと思いますが。

たとえば知覚する主体は、知覚できません。知覚できないから、観察者がいない、わけではありません。 くどいですが。主体は、いる、けど自覚できない、つまり知覚や、意識の管轄にない、のではないでしょうか。これは日常では、「知覚」だけがあること、また「観察者のいない観察」と現象としては、まったく同じです。けど、まったく違います。

また。たとえば迷っているなら、迷ってることに気がついても、気つかないでも。迷っています。迷ってないなら、迷ってないことに気がついても、気がつかないでも。迷っていません。このことは知覚できるから、ある。できないから、ない。に依存していては、理解不能。と理解します。

>義務からでも、道徳からでも、人に言われたからでもなく、ああしなければいけない、ああしたい、誰かにどう思われたい、思われたくないなどの思いなく、知覚からの自発的な行為は世界中に見られるのではないですか?日曜日に起こった秋葉原での事件で、被害者の方を介抱されていた方々、阪神大震災のときも、自分の利益そっちのけで、人を助けるということがあったでしょう。これらの人々の行為のすべてが偽善の叡智だということでしょうか?

なにかの行動からは、その人の状態、たとえば叡智の有無を判定することはできません。被害者を介抱するという行動は、優しさからも、偽善からも、道徳からも、教育からも行われます。なにか葛藤などの問題があるのに忘れて、そう行動するかもしれません。そしてまた、それらの問題を解決してるから、それに躓かずに、介抱することもあります。これを区別する必要はありませんが、一括して叡智と呼ぶ必要もありません。

>で、私の記述では伝わらないようなので、「はじめから叡智があれば、人は、葛藤することができないのに、なぜ葛藤するか?」という問いについては、では何故、仏教で「菩薩道」が成り立ったり、禅において「悟後の修行」が存在するのかを考えればいいと思います。

「悟後の修行」は、無我の体験の後、行うことです。しかし人は、はじめから無我、という指摘なのでしょうか。しかし。はじめから無我であれば、そこに、はじめから叡智があるわけではありません。だから人は学び、成長するのでしょう。そうでなく、人がクリアになったら、はじめから隠れてた叡智が現れてくる。という指摘なのでしょうか。

> まったく伝わっていなかったみたいです。現に自我は問題を起こしています。しかし、その「自我を邪魔者」にすることは問題を解決しないということを言ってきたのです。実践において、善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだと、という思いがあるのなら、それは倒錯だろうということです。そのときには方便としての言葉の理解がないのではないか、ということです。

たとえば自我を邪魔者にする、その自我の運動のことを指摘したのではありません。「まったく伝わっていなかったみたいです」。 は、指摘の真意を受け取れないための誤解だと思いますが。ム−ミンさんとの話では、そういうことが起きるのですが。それはそれで、話を進めてみます。

たとえば神や、仏陀や、自己や、悟りを求め、「善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだ」と目標を持っても・・・それも倒錯ですが、その倒錯を浮き彫りにする可能性があるので・・・それも、あり、と思います。

なぜなら、人は、神や、仏陀や、自己や、悟り、を知らないで、求めてるのです。その求める機能も、未知のことです。あえて、いわゆる既知の方法だけを拒むことは、(その偏りさえ役に立つのですが)偏りと思います。

また、よほど愚かでなくては、あらかじめ求めるものを見い出して満足することはないと思います。それで満足なら、満足したいから満足を見い出すだけで、探究者ではないと思います。

ただ自分の場合は、自分を知りたいというだけで、その方法だとも認識せず、ただ闇雲に思考の前提を探ることをしました。それでも、そういうことには、関係なく、関係ないこともなく、無我は了解されます。

たとえば自我を邪魔者にしても、しない、でも。その理解には、直接の方法は、ないのではありませんか。だから、変化が起きるのではありませんか。どのような変化の方法もない、という方法もない、のではありませんか。

> 否定も肯定もないものです。それをとりあえずのものとして「全否定」といいます。そしてそこに、叡智と行動との分離のない全体の動きがあるのではないですか?それを「意識に依存しない」と呼ぶのではないですか?全肯定をいうなら、そこには、全肯定に対する依存が隠れている可能性もあります。

それは 「全否定」呼ばないで、中道と呼ぶ方が、適切と思います。

>たまたま人や環境に恵まれて、自分には葛藤がないよ、という場合、それは、思考や認識の判断であって、つまり思いであって、知覚される事実ではない可能性があるでしょう。葛藤が明確であれば、それは知覚され、理解されるでしょう。

ここでは、思考や認識の判断とかに昇らない、無意識に隠れた、知覚されない葛藤は無視できない。ということを話しています。

> 「知覚」と「観察者のいない観察」とは同じ意味で使っています。このなかで「堂々巡り」の意味と実態が理解されるのではありませんか?

けれど 「観察者のいない観察」においては、 「堂々巡り」の意味と実態は、すでに理解されています。 葛藤などは実動していません。 ならば、理解された 「堂々巡り」は叡智に転換されて。無自覚でも、機能しています。

それは、 「知覚」「観察者のいない観察」なら、すでに顕在した葛藤だけでなく、潜在してる、葛藤の意味と実態も理解されてるということです。そうでなくては、「知覚」「観察者のいない観察」は不可能と思います。

つまり事態は逆で。「知覚」「観察者のいない観察」のなかで「堂々巡り」の意味と実態が理解されるのではないと思います。ただ方法としては、なんでもありなので、それで突然の変化が起きないとは限らない、ということではないでしょうか。

>この言葉で申し上げてきたのは、いかなるあり方においてあるものでもない、というあり方において、物事はあるということです。そのことも意識されません。もちろん、「知覚」が葛藤の反対のものという捉えかたであるならば、それは葛藤の事項で「堂々巡り」になります。

>ところで、過去の書き込みを読むと、ubik0101さんはクリシュナムルティをほとんど知らないと書かれていました。にもかかわらずクリシュナムルティのことをよく引き合いに出され、批判されていらっしゃいますが、それは誰経由のクリシュナムルティなのでしょうか。

たとえば観察者のいない観察とか、思考するものは思考されるもの、とか話すので。ム−ミンさんは、クリシュナムルティ関係の人という印象がありました。この頃はム−ミンさん経由です。

それから、なりきりクリシュナムルティと呼んでますが。新しい芽さんとか。その追従者。思い過ごしでなければ、観察者のいない観察とか、提唱してるようですが。それは無我のことと思います。

その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。

>また、ubik0101さんは、仏教の用語をよく使われますね。それは、それがご自分の表現にぴったり来る、表現しやすいからということでしょう。言葉はある何かを表現するものでしょう。それならば、クリシュナムルティを使おうが仏教を使おうが関係ないのではないですか?クリシュナムルティの術語を使うから「同一化」だとおっしゃるのは、逆に何かへのこだわり、とらわれがあるという可能性もあります。

その可能性は一般的にはあるかもしれません。が、ないです。仏教の言葉から学んだのではなく、再発見したことを、仏教の言葉で説明しています。こだわりがあるとすれば、できるだけ正確な表現をする、ということです。

No.863 - 2008/06/12(Thu) 08:49:48

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>けど。目的でも、手段でも、結果でもない、観察、をするために、 「知覚からの直接の行為」を続ける。そんな姿勢に依存しなければ。そうでないことが見える。と思うのです。「知覚からの直接の行為」。これだけが、どう呼ぶにしても叡智でしょうか。

目的も手段も結果もないものが「知覚」であり、「知覚からの直接の行為」でしょう。だから「何々のために」ということはありません。行為の際に、これが「叡智」だと意識していたら、それは叡智ではないでしょう。

>たとえば知覚する主体は、知覚できません。知覚できないから、観察者がいない、わけではありません。 くどいですが。主体は、いる、けど自覚できない、つまり知覚や、意識の管轄にない、のではないでしょうか。これは日常では、「知覚」だけがあること、また「観察者のいない観察」と現象としては、まったく同じです。けど、まったく違います。

ええ、そのことを言ってきたのですが。

>また。たとえば迷っているなら、迷ってることに気がついても、気つかないでも。迷っています。迷ってないなら、迷ってないことに気がついても、気がつかないでも。迷っていません。このことは知覚できるから、ある。できないから、ない。に依存していては、理解不能。と理解します。

「自我」を実体として捉えていませんか?「自我」は関係性の中で生まれてくるものでしょう。日常生活の中では、「自我」なしに暮らしていることはよくあることです。それに気づく(知覚する)と気づかないとでは大きな違いがあるのではないですか?だから悟後の修行や菩薩道が成り立つ。

>なにかの行動からは、その人の状態、たとえば叡智の有無を判定することはできません。被害者を介抱するという行動は、優しさからも、偽善からも、道徳からも、教育からも行われます。なにか葛藤などの問題があるのに忘れて、そう行動するかもしれません。そしてまた、それらの問題を解決してるから、それに躓かずに、介抱することもあります。これを区別する必要はありませんが、一括して叡智と呼ぶ必要もありません。

ここも何か、「自我」を実体として捉えて、ずーっと「自我」があったり、ずーっと「葛藤」があったり、ということになっていませんか?介抱の経験は私の経験でもあるのですが、即座の行為で、あとで考えてみると、危険と隣り合わせで自分の行動が不思議だったですね。

>たとえば自我を邪魔者にする、その自我の運動のことを指摘したのではありません。「まったく伝わっていなかったみたいです」。 は、指摘の真意を受け取れないための誤解だと思いますが。ム−ミンさんとの話では、そういうことが起きるのですが。それはそれで、話を進めてみます。

そういえばubik0101さんは、私とは「話が合わない」とおっしゃっていましたね。「指摘の真意を受け取れない」というのは本当にそうなのですかね。結論を持って臨んでおられないといいのですが。

>たとえば神や、仏陀や、自己や、悟りを求め、「善を目指したり、悪をなくしたり、煩悩をなくそうとしたり、叡智が獲得できるのだ」と目標を持っても・・・それも倒錯ですが、その倒錯を浮き彫りにする可能性があるので・・・それも、あり、と思います。

>なぜなら、人は、神や、仏陀や、自己や、悟り、を知らないで、求めてるのです。その求める機能も、未知のことです。あえて、いわゆる既知の方法だけを拒むことは、(その偏りさえ役に立つのですが)偏りと思います。

ええ、その倒錯に気づく、知覚するということが「倒錯を浮き彫りにする」意味だと今まで言ったきました。そして最初から倒錯が原因だと知っていれば、回り道はないのかもしれません。

>それは 「全否定」呼ばないで、中道と呼ぶ方が、適切と思います。

そうですね。どの角度から見るかということでしょうね。

>ここでは、思考や認識の判断とかに昇らない、無意識に隠れた、知覚されない葛藤は無視できない。ということを話しています。

葛藤も関係性のなかで露になってくるものではないですか?実体としてあるわけではありません。認識や判断で忙しいときには、葛藤は知覚出来ませんが。

>けれど 「観察者のいない観察」においては、 「堂々巡り」の意味と実態は、すでに理解されています。 葛藤などは実動していません。 ならば、理解された 「堂々巡り」は叡智に転換されて。無自覚でも、機能しています。

>それは、 「知覚」「観察者のいない観察」なら、すでに顕在した葛藤だけでなく、潜在してる、葛藤の意味と実態も理解されてるということです。そうでなくては、「知覚」「観察者のいない観察」は不可能と思います。

ではなぜ、菩薩道や悟後の修行が成り立ちますか?

>たとえば観察者のいない観察とか、思考するものは思考されるもの、とか話すので。ム−ミンさんは、クリシュナムルティ関係の人という印象がありました。この頃はム−ミンさん経由です。

あはは。いろんなクリシュナムルティがあるので、もしクリシュナムルティに言及するなら、直に確かめたほうがいいですよ。中観派や如来蔵思想から見たクリシュナムルティというのもありますよ。それと私はクリシュナムルティは読みましたが「関係者」ではありませんよ。「関係者」という言葉にもよるのでしょうが。

>それから、なりきりクリシュナムルティと呼んでますが。新しい芽さんとか。その追従者。思い過ごしでなければ、観察者のいない観察とか、提唱してるようですが。それは無我のことと思います。

「観察者のいない観察」はやろうと思うとできないですよ。
それは「自我」を知覚したときに起こることですから。そういう意味では、それは「無我」の状態ですね。

>その無我を、自我が機能してる人が、現実に直面とか、空想して辻褄あわせをして話しては、ならないと思います。これまでいくら、それを指摘しても徒労でした。この頃は、もう読んでいません。

どうなんでしょうね。一つの解釈としてはそういう結論付けもあるのでしょうが。

「現実に直面」したときには、「自我」が自我ならざるものに変容している、ということでしょう。それが最初の一歩だと。だから、それで全部終わったわけではなくて、日々の関係の中で、自己を学んでいくことが重要だとおっしゃっているのだと、私は受け取っていましたが。そして、その静けさの中から、完全な解放がありうるのではないか、もちろんそれは確約されたものではないのだが、ということでしょう。
そう考えると、菩薩道や悟後の修行が成立する意味もわかるように思いますが。


もしかすると、同じことの繰り返しのやり取りになっているのかもしれません。

No.864 - 2008/06/12(Thu) 10:52:20

Re: 続々々・成長 / ubik0101
>「自我」を実体として捉えていませんか?「自我」は関係性の中で生まれてくるものでしょう。日常生活の中では、「自我」なしに暮らしていることはよくあることです。それに気づく(知覚する)と気づかないとでは大きな違いがあるのではないですか?だから悟後の修行や菩薩道が成り立つ。

>ここも何か、「自我」を実体として捉えて、ずーっと「自我」があったり、ずーっと「葛藤」があったり、ということになっていませんか?介抱の経験は私の経験でもあるのですが、即座の行為で、あとで考えてみると、危険と隣り合わせで自分の行動が不思議だったですね。

>葛藤も関係性のなかで露になってくるものではないですか?実体としてあるわけではありません。認識や判断で忙しいときには、葛藤は知覚出来ませんが。

そうでなく。ずーっと「自我」がない、ずーっと「葛藤」がない。のが実情です。そのためには自覚できる、つまり現れてくる自我や葛藤だけを理解しても徹底しません。無我の体験をした人は、知覚できない潜在意識の自我や葛藤も理解されてるはずです。それは無自覚の叡智に転換され機能しています。

それさえ忘れて、人が静まってるなら・・・知覚は、対象を、ある、と訴えたがってる。意識はそれを受けて自分が、ある、ことを確認したがってる。知覚できるが、ある、できないが、ない。という、人として自然に備わった基本の依存が見えます・・・そんな暗黙の前提にも依存しない。ということを話してきました。

そこに 反応が見られない、または、反応が見られないように思えたのが。とくに間違ってることを言ってる訳ではないム−ミンさんと、話が合うはずなのに、「話が合わない」と感じた原因です。

> ではなぜ、菩薩道や悟後の修行が成り立ちますか?

しようとしても、 おおくの場合は悟後の修行は、無我の体験がないと、できません。それは、そこで見たことを解凍、解読すること。それを理解するのは、かなりの努力を要します。

また、その体験と日常の落差を感じて、自分の無我を掴むこと・・・それを残響のような自我、と呼んでいますが・・・そこにこそ自我に苦しむ衆生が現前し、救いたいと思う気持ちが発現します。

その過程で、たとえば。無我や愛の実感を求めなくてもいい、意識に依存しない、とか。自我の機能は、なにかに集中して分離を引き起こしてでも問題を解決しようとする機能なので。それに使われないで、それを使おう。という理解が生じたりします。そのようなことにム−ミンさんが抵抗を感じ、また反応しないように思えたのです。

ただの人は、この現実にいて、この現実に執着するのが、不可能です。それだけのことです。そして自我が現れたら・・・非難も正当化もなく観察するという意味ではなく・・・このすぐ上に話したように、自我の機能を嫌う必要もありません。それでこそ、それからの解放です。

> 「観察者のいない観察」はやろうと思うとできないですよ。

まったく、そうです。無我でないことを、無我だと思い込んでいます。自我を自覚できないことを無我だと、誤解をしてるのだと思います。それでもまあ人は、もともと誰も無我ですから、空想で辻褄あわせはできます。

> もしかすると、同じことの繰り返しのやり取りになっているのかもしれません。

もしかしないでも、そうだと感じます。

No.865 - 2008/06/13(Fri) 09:33:37

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>そうでなく。ずーっと「自我」がない、ずーっと「葛藤」がない。のが実情です。そのためには自覚できる、つまり現れてくる自我や葛藤だけを理解しても徹底しません。無我の体験をした人は、知覚できない潜在意識の自我や葛藤も理解されてるはずです。それは無自覚の叡智に転換され機能しています。

ここの部分は、ubik0101さんが、覚醒していない人は、ずーと「自我」があり、ずーっと葛藤していて、叡智が働かないとおっしゃっていたことについて書いたものです。

それで私が質問してきたことを今までのものも含めてまとめますと、ubik0101さんがおっしゃるように、覚醒していない人は、叡智のかけらもなく、ずーっと「自我」があり、ずーっと葛藤が続いていると仮定するならば、「自我」がどのように「自我」を学ぶのですか?ということです。ubik0101さんはこの掲示板で、「学ぶ」ことを提唱されていますから。それは血で血を洗うようなものでしょう。埃のついた布で埃をぬぐうようなものでしょう。

また、「自我」が自我自身の限界を自覚するという説明も成り立たなくはないですが、「自我」による自覚では、同じく血で血を洗うことになります。そうすると、それは「自我」によるものでない自覚だということになります。その自覚のことを「知覚」をともなった自覚と言います。「自我」はどう転んでも「自我」を学べないでしょう。

また、無我の体験時には、文字通り、自我も葛藤もありません。自我や葛藤がどんなものであるのかの強烈な知覚による理解があります。その理解が、錬金術のように、自我や葛藤を違うものに転換しています。このなかで「中道」が何かも教えてくれます。このことを「叡智への転換」というならそう呼べるかもしれません。「知覚」「潜在意識」「自我」という言葉の使い方は、私とubik0101さんでは違っていましたね。ここのあたりも「話が合わない」というところの一つでしょう。

あと「話が合わない」のは、過去のものをざっと見てみましたが、ubik0101さんが自分の体験や状態の話をしたがっていらっしゃるのに対して、私は実践的なことを中心に話を展開していることもあるでしょう。

また、無我の体験で「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているならば(「それが」の「それ」というのがいまひとつわかりませんが) 、悟後の修行は必要ないのではないですか?

>また、その体験と日常の落差を感じて、自分の無我を掴むこと・・・それを残響のような自我、と呼んでいますが・・・そこにこそ自我に苦しむ衆生が現前し、救いたいと思う気持ちが発現します。

「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているのではなかったですか?そうであるなら、無我を摑もうなどとするのですか?以下も同様ですが。

>その過程で、たとえば。無我や愛の実感を求めなくてもいい、意識に依存しない、とか。自我の機能は、なにかに集中して分離を引き起こしてでも問題を解決しようとする機能なので。それに使われないで、それを使おう。という理解が生じたりします。そのようなことにム−ミンさんが抵抗を感じ、また反応しないように思えたのです。

いいえ、ここに書かれたことは、クリシュナムルティの言葉を借りて私が言った「観察者のいない観察」や「無選択の気づき」によって理解されます。ただ、すでに言いましたが、私は「自我を使おう」という言い方はしません。

>ただの人は、この現実にいて、この現実に執着するのが、不可能です。それだけのことです。そして自我が現れたら・・・非難も正当化もなく観察するという意味ではなく・・・このすぐ上に話したように、自我の機能を嫌う必要もありません。それでこそ、それからの解放です。

「残響のような自我」が「ただの人」ですか?それとも「悟後の修行」を経て「覚醒した人」が「ただの人」なのですか?

それと、自我があれば「非難も正当化もなく観察する」のは不可能でしょう。それは自我からの解放とは関係ないことでしょう。ある人のクリシュナムルティの解釈を使って、別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをubik0101さんが別の掲示板でもよくやっていらっしゃいましたが、表現の正確さにこだわっておられるのなら、やはり直に読まれた上でされたほうがいいと思います。

>まったく、そうです。無我でないことを、無我だと思い込んでいます。自我を自覚できないことを無我だと、誤解をしてるのだと思います。それでもまあ人は、もともと誰も無我ですから、空想で辻褄あわせはできます。

ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

>> もしかすると、同じことの繰り返しのやり取りになっているのかもしれません。

>もしかしないでも、そうだと感じます。

そうですね。疲れてきたことだし、そろそろ、きりのいいところで止めましょう。

No.866 - 2008/06/13(Fri) 16:03:49

Re: 続々々・成長 / suho
> ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

わきからスミマセン。
ムーミンさんはじめまして。

ウビさんは「覚醒」と「非覚醒」という意味で「覚醒」を使っているのではないと思いますよ。
ムーミンさんは相対的な意味での「覚醒」として捉えているのでは?

実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。
ただ、お互い、言葉に誤解があるのでは?
残響で。

では、よっぱらい失礼しま〜す。

ウビさん、元気ですかぁ?
僕は元気ですよ〜。

No.867 - 2008/06/13(Fri) 22:40:59

Re: 続々々・成長 / hato

> 実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。

同じことを了解しているのでは、ないと思います。

この世界を触媒として経験し、自分を知ろうとし、
なんと表現されようとも、そこで学んで成長する。
そうしてこその昇華であり、理解であり、叡智。

自ら歩み、了解されているならば、
多くの言葉を費やして、問う必要がないと思います。

No.868 - 2008/06/13(Fri) 23:35:27

Re: 続々々・成長 / suho
> 自ら歩み、了解されているならば、
> 多くの言葉を費やして、問う必要がないと思います。


hatoさんはじめまして。
そのように解釈することもでき、またそうでないこともあるのが世界と感じます。

No.869 - 2008/06/14(Sat) 00:25:14

Re: 続々々・成長 / ubik0101
>それで私が質問してきたことを今までのものも含めてまとめますと、ubik0101さんがおっしゃるように、覚醒していない人は、叡智のかけらもなく、ずーっと「自我」があり、ずーっと葛藤が続いていると仮定するならば、「自我」がどのように「自我」を学ぶのですか?ということです。ubik0101さんはこの掲示板で、「学ぶ」ことを提唱されていますから。それは血で血を洗うようなものでしょう。埃のついた布で埃をぬぐうようなものでしょう。

>また、「自我」が自我自身の限界を自覚するという説明も成り立たなくはないですが、「自我」による自覚では、同じく血で血を洗うことになります。そうすると、それは「自我」によるものでない自覚だということになります。その自覚のことを「知覚」をともなった自覚と言います。「自我」はどう転んでも「自我」を学べないでしょう。

まず、自我という実体があるわけではないので、それを学ぶということではありません。自我は、いわゆる心理的な運動で、ただ人が、その人を訓練するための負荷なだけです。血で血を洗うことも厭う必要はありません。けど。なにか問題を理解するということは、問題を失うということなので実際は「堂々巡り」ではありません。そして人の努力に関係なく、関係なくもなく、無我は体験されます。

あるいは、騒がしい自我に巻き込まれてない静かなときに、とりあえず自我の機能を見て学ぼう、という作戦もあるかもしれません。しかし、その巻き込まれていると思ってない・・・自我と知覚できないときでも自我です・・・そういう自我も機能してなければ、どうして自我を学べるのでしょう。 機能してるから学べるのです。

あるときは騒がしいので自覚できる、あるときは静かだから自覚できない・・・それこそ自覚してない自我の「堂々巡り」です・・・その自覚できない自我を含めて無我体験は起こるのです。でないと自我は復活するかもしれません。徹底が必要です。そのように無我を了解したら、もう無我体験は起こる必要がないのも、その理由です。

>あと「話が合わない」のは、過去のものをざっと見てみましたが、ubik0101さんが自分の体験や状態の話をしたがっていらっしゃるのに対して、私は実践的なことを中心に話を展開していることもあるでしょう。

うーん。実践という感じはしません。ubik0101の言うことを、合ってる合ってないと判断するだけで、理解しようとか、ム−ミンさんが自分の状態を検討する姿勢が見えないのです。実践を話したければ“返信不要 ”ということで、いくら投稿しても大丈夫です。

>また、無我の体験で「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているならば(「それが」の「それ」というのがいまひとつわかりませんが) 、悟後の修行は必要ないのではないですか?

>「それが無自覚の叡智に転換され機能」しているのではなかったですか?そうであるなら、無我を掴もうなどとするのですか?以下も同様ですが。

その体験は圧倒的な情報量があり、それを意識が理解するのは困難だからです。自分の場合は必要でした。でも空想ですが。仏教の修行者とかが、自我が機能してる段階でも、人を救いたいということを実践してれば。また無我体験をすると、無我を掴むという事例の知識などがあれば。無我を掴む、ことは起こらないかもしれません。そういう経緯もあるかも、です。

> いいえ、ここに書かれたことは、クリシュナムルティの言葉を借りて私が言った「観察者のいない観察」や「無選択の気づき」によって理解されます。ただ、すでに言いましたが、私は「自我を使おう」という言い方はしません。

そうだとして、ほかの言い方は問題。ではありません。

>「残響のような自我」が「ただの人」ですか?それとも「悟後の修行」を経て「覚醒した人」が「ただの人」なのですか?

ただの人とは、 自我、無我体験、残響のような自我、総てに依存しなくなった人です。依存しないことにも依存しない、です。

> それと、自我があれば「非難も正当化もなく観察する」のは不可能でしょう。それは自我からの解放とは関係ないことでしょう。ある人のクリシュナムルティの解釈を使って、別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをubik0101さんが別の掲示板でもよくやっていらっしゃいましたが、

ム−ミンさんは、なにか誤認してるか、ほかの誰かをubik0101だと空想しているのではありませんか。まず「ある人のクリシュナムルティの解釈」も、まったく知りません。「別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつける」にも関心がありません。

なにか批判的な投稿をしても話相手、その人の状態についてです。クリシュナムルティの書は「自我の終焉」と、あと何か半分ほど読みましたが、なにも興味を感じませんでした。

> ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

たぶん。欲望や葛藤の心理的な運動のことを自我と呼んでるだけで、実体があるわけではありません。なので、ム−ミンさんは、その運動が自覚できないときは、自我がない、と看做すのでしょう。それで自我があったり、なかったりと言いたいのではないでしょうか。

それは、表面だけのことで、潜在したことは度外視しての話です。自我は、自我だと、気がつかれないように機能しています。みな人は無我ですが、そのような機能としての自我が働いています。

しかも 「叡智」=「知覚からの直接の行動」とすれば、自覚できる騒がしいことしか問題にできないのではありませんか。また。自我があっても、美しい音楽や文学や絵画や体操はできます。それだけのことです。ここを一歩もでないので、話が通じないのだと思います。 どうでもいいですが、特権、と思ってるのは、ubik0101ではありません。

No.870 - 2008/06/14(Sat) 09:24:58

Re: 続々々・成長 / ubik0101
> ウビさん、元気ですかぁ?
> 僕は元気ですよ〜。


こっちも
ときどき元気な酔っ払いです。

No.871 - 2008/06/14(Sat) 09:51:24

Re: 続々々・成長 / hato

suhoさん、はじめまして。


> hatoさんはじめまして。
> そのように解釈することもでき、またそうでないこともあるのが世界と感じます。



はい。
ほんとうに。

そしてやはり、
なので、どうしても。

人は、そのときどきで、
その人自身であること。
その時の、表現であること。
それがとても大事なことと、思います。

No.872 - 2008/06/14(Sat) 10:33:50

Re: 続々々・成長 / ムーミン
繰り返しになる部分については、省きます。

>うーん。実践という感じはしません。ubik0101の言うことを、合ってる合ってないと判断するだけで、理解しようとか、ム−ミンさんが自分の状態を検討する姿勢が見えないのです。実践を話したければ“返信不要 ”ということで、いくら投稿しても大丈夫です。

まず、「話が合わない」とおっしゃったのは、判断されたのはubik0101さんでした。それで、もしそういうことがあるのならということで、私がいくつか原因を探ってみただけなのですが。

「実践」云々については、「実践」という言葉の使い方が違うのでしょう。私は日々、刻々と「実践」の中にあります。もちろんこの掲示板においても。

自我のたががはずれて、自我が抑圧していたときに浮上してこなかった無意識部分が関わりの中で浮上し、それが知覚の光に照らされて、過去の余習を消していきます。これが私の実践、学びという意味です。この自我のたがが外れるということがどういうことなのか、とういうことについてずっと書いてきました。

>その体験は圧倒的な情報量があり、それを意識が理解するのは困難だからです。自分の場合は必要でした。でも空想ですが。仏教の修行者とかが、自我が機能してる段階でも、人を救いたいということを実践してれば。また無我体験をすると、無我を掴むという事例の知識などがあれば。無我を掴む、ことは起こらないかもしれません。そういう経緯もあるかも、です。

それで、世界のすべてを理解し終えて、菩薩の修行も悟後の修行も終わったというわけですか。

>>それと、自我があれば「非難も正当化もなく観察する」のは不可能でしょう。それは自我からの解放とは関係ないことでしょう。ある人のクリシュナムルティの解釈を使って、別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをubik0101さんが別の掲示板でもよくやっていらっしゃいましたが、

>ム−ミンさんは、なにか誤認してるか、ほかの誰かをubik0101だと空想しているのではありませんか。まず「ある人のクリシュナムルティの解釈」も、まったく知りません。「別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつける」にも関心がありません。

そうですか?ある掲示板で「クリシュナムルティ」のハンドルネームで投稿されたり、偽クリシュナムルティと名乗られたりして書き込みをされていましたよね。ほかにも「にせ新しい芽」というハンドルネームでも書いていらっしゃったと、その掲示板には書いてあったと記憶しています。その掲示板で、ある人のことを「馬と鹿」と呼んだり、ある人たちのことを「青鬼、赤鬼」と表現していらっしゃいましたよね。

その掲示板を読んでいて、ある人のクリシュナムルティ解釈をubik0101さんが解釈して、その解釈を持って別の人のクリシュナムルティ解釈にコメントをつけるということをやっていらっしゃいませんでしたか?何重にもバイアスがかかって、それに基づく誤解が修正されないまま話が進んでいったという印象でした。それで同じことが何度も繰り返されていました。

>なにか批判的な投稿をしても話相手、その人の状態についてです。クリシュナムルティの書は「自我の終焉」と、あと何か半分ほど読みましたが、なにも興味を感じませんでした。

ええ、クリシュナムルティについて興味を感じないのは、それは少しも構わないことだと思います。ある体験をした人々は、同じ体験をしたとしても、それぞれの持つ背景の言葉で自分の体験を理解し、人に伝えていくでしょう。たとえばキリスト教徒なら聖書の言葉、仏教徒なら仏典の言葉、哲学者なら哲学の言葉、何も持たない人なら、いろいろな言葉を寄せ集めて。

それで、「その人の状態について批判」といっても、その人の状態の本当のところはわからないでしょう。表現の上手い、下手もある。掲示板では言葉を頼りにして想像するしかない。空想するしかない。それで言葉の使い方、定義がずれているにもかかわらず、それにこだわれば、繰り返しが続きます。また、前にubik0101さんは、ある人に「指摘したけれども無駄だから、もう止めた」という結論付け、断定をされていましたね。それはどこからくるのでしょう。自分の体験を絶対的だとする確信からですか?

空想、想像ならいくらでも出来ます。たとえば、ある掲示板やこの掲示板の書き込みを読んで、「クリシュナムルティ」と名乗ったり、ある人たちに対して「馬と鹿」とか「赤鬼、青鬼」とかという表現を使用するのは、何かubik0101さんは、クリシュナムルティやその愛読者に対してルサンチマンというか、反感でもあるのではないか、その無意識に気づいていないのではないか、とか。

>しかも 「叡智」=「知覚からの直接の行動」とすれば、自覚できる騒がしいことしか問題にできないのではありませんか。また。自我があっても、美しい音楽や文学や絵画や体操はできます。それだけのことです。ここを一歩もでないので、話が通じないのだと思います。 どうでもいいですが、特権、と思ってるのは、ubik0101ではありません。

ここも、ずっと説明してきましたが、「自我」という言葉の使い方の違いから来るすれ違いです。私の場合はこう言います。美しい音楽や文学や絵画や体操が出来るのは、またそれらや自然に感動するのは自我がないときである。自我があるとき(自意識でもよいですが)には、それらの美しさ、素晴らしさは相対的なものにとどまるだろう。と。

No.873 - 2008/06/14(Sat) 15:22:20

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>> ん?覚醒しないと「叡智」はないとおっしゃっていましたよね。覚醒者の特権だって。もともと誰でも無我ならば、誰でも「叡智」を持っているということでしょう。

>わきからスミマセン。
>ムーミンさんはじめまして。


こんにちは。別の掲示板でお名前を拝見したことがあります。

>ウビさんは「覚醒」と「非覚醒」という意味で「覚醒」を
>使っているのではないと思いますよ。
>ムーミンさんは相対的な意味での「覚醒」として捉えてい
>るのでは?


上の部分は、ubik0101さんが、覚醒していない人は、ずっと自我と葛藤ばかりで、叡智がないとおっしゃったので、そんなこともないだろう、日常生活で自我のないときだってあって、そのとき生き生きと生活していることもあるだろうし、何か危険な目に遭遇したときには、即時の行為もあるだろう、また人が倒れていたら危険を顧みず助けることもあるだろう、すなわち叡智が働いているだろう、その叡智と覚醒者の叡智とは質的に違うものだろうか?という私の問いの流れを受けてのものです。

それでsuhoさんは、上に書いたような覚醒していない人の叡智と、覚醒者の叡智とは質的に違うということをおっしゃっているのですか?つまり、覚醒者の叡智は絶対的で、たまにではあるが働くことがある、覚醒していない人の叡智は相対的なものだということですか?

>実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。
>ただ、お互い、言葉に誤解があるのでは?
>残響で。


上にも書きましたが、定義、言葉の背景が違うというのは確かです。それで誤解を少しずつ修正しながら進んできているつもりです。話していれば少しずつわかってくることもあると思います。まったく同じにならなくていいと思いますし、違いは違いでいいと思います。

一つsuhoさんに誤解していただきたくないことは、対話をしていると、険悪なけんかでもしているのではないかと勘違いされる方がよくいっしゃるので、今ubik0101さんとやっているのは、そういういうものではないということです。ここのところは、ubik0101さんにも同意していただけるのではないかと思っています。

No.874 - 2008/06/14(Sat) 15:55:14

Re: 続々々・成長 / ムーミン
hatoさん、こんにちは。お久しぶりです。長崎はいかがでしたか?

>>実はお2人とも同じ事を了解しているのだと感じます。

>同じことを了解しているのでは、ないと思います。

ubik0101さんといままでやり取りしてきて感じたのは、たぶん、ある地点までは、言葉や表現方法は違いますが、ubik0101さんと同じものを見ているなぁ、ということです。

>この世界を触媒として経験し、自分を知ろうとし、
>なんと表現されようとも、そこで学んで成長する。
>そうしてこその昇華であり、理解であり、叡智。


自我が自我を学ぶのは、埃のついた布で埃を払うが如しです。自我を学べるのは自我が何かがわかったときだけです。自我が何かがわかったときには、もうそれは自我ではありませんが。これは私の経験です。そのときやっと「学び」が始まりました。これが私の歩んでいる道です。
hatoさんにはhatoさんの道があるのでしょう。

>自ら歩み、了解されているならば、
>多くの言葉を費やして、問う必要がないと思います。


これはhatoさんのドクサだと思いますが。
ubik0101さんは自ら覚醒者と名乗っていらっしゃるのですから、求道者として、そんな方のお話を聞かない手はないでしょう。もちろん、聞き方はいろんなスタイルがあっていいと思います。気をつけねばならないのは、疑うことなく受け入れてしまうことだと思います。受け入れることは、肯定、否定の、肯定への依存でしょう。偏りでしょう。「素直さ」とは受け入れることではないでしょう。

No.875 - 2008/06/14(Sat) 16:19:06

Re: 続々々・成長 / suho
> それでsuhoさんは、上に書いたような覚醒していない人の叡智と、覚醒者の叡智とは質的に違うということをおっしゃっているのですか?つまり、覚醒者の叡智は絶対的で、たまにではあるが働くことがある、覚醒していない人の叡智は相対的なものだということですか?

いえいえ、そういうことではありません。
叡智というものに質的な違いはないと思います。
というか「叡智」という言葉が必要ないほど世界(現象)は、叡智そのものと感じています。
これはウビさんが「無我でない人はいない」と表現されていることと一緒かなと勝手に感じています。
自我と呼ばれる作用(思考、分節、判断などの作用)さえ叡智の中で生じているもの、と感じますし、自我という作用があるからこそ、個々に限定的な世界(空想)を創造できるのだと感じています。
ただ、自我の作用を知らずに、無自覚に反応している場合にいろいろな混乱や問題が生じるのでしょうし、混乱や問題として知覚できるようになっていること自体(例えば苦しみなどのネガティブな知覚)が、叡智そのものであるとも感じています。

> 一つsuhoさんに誤解していただきたくないことは、対話をしていると、険悪なけんかでもしているのではないかと勘違いされる方がよくいっしゃるので、今ubik0101さんとやっているのは、そういういうものではないということです。ここのところは、ubik0101さんにも同意していただけるのではないかと思っています。

そのような誤解はしていませんよ。
ただ、拝見していて、ちょっとのズレなのにもどかしい・・と感じたので、思わず書いてしまいました。
あ、あくまでも僕がそう感じた、というだけですが。

No.878 - 2008/06/14(Sat) 18:08:51

Re: 続々々・成長 / suho
>私の場合はこう言います。美しい音楽や文学や絵画や体操が出来るのは、またそれらや自然に感動するのは自我がないときである。自我があるとき(自意識でもよいですが)には、それらの美しさ、素晴らしさは相対的なものにとどまるだろう。と。

うーん。このような表現は「自我のある状態」を否定しているように解釈されやすいと感じます。
自我がないほうが素晴らしいから、無我に留まるべし、というような考えとして解釈されやすい。

No.879 - 2008/06/14(Sat) 18:32:25

Re: 続々々・成長 / hato

今度は、hoto になってしまいました。(笑)
はい、その通り。
なんにでも、なりましょう。

ムーミンさん、話かけて下さって、ありがとうございます。

長崎。
穏やかながら、
真摯な日々でありました。

わたしは、ubik0101さんとムーミンさんのお話を、
とても意義あるものでは、と拝聴しています。
ただ、現時点で同じものを了解している、との意見を、
そのままには出来なかっただけです。
ご存じの通り、
あらゆることには意味がないように見え、
あるようにも見え、その見方は一通りでないにしても、
私たちは、その瞬間の自分として誠実に、表現していくしかありません。
それでよい、それがよい、のだと思います。
同じ領域が視野にあることは、素晴らしいことと思います。
言葉に躓く様々な私たちにとって、一見して同じことの繰り返しは、これもご存じの通り、同じことではありません。
その対話の場所場所において、
気付きを得る恩恵が、あるのだと思います。

疑う必要がないほど、了解されていた、というだけです。
それでもわたしは、道の途上です。
皆様の意見は貴重です。そのことに、異存はないのです。

わたしにとっては、本質のみが必要です。
ubik0101さんの言われていることは、当たり前なことです。
逆になっていない、
ということ、だけです。










> 気をつけねばならないのは、疑うことなく受け入れてしまうことだと思います。受け入れることは、肯定、否定の、肯定への依存でしょう。偏りでしょう。「素直さ」とは受け入れることではないでしょう。

No.881 - 2008/06/14(Sat) 19:35:18

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>今度は、hoto になってしまいました。(笑)
>はい、その通り。
>なんにでも、なりましょう。


すいません。訂正しておきました。

>疑う必要がないほど、了解されていた、というだけです。
>それでもわたしは、道の途上です。
>皆様の意見は貴重です。そのことに、異存はないのです。


対話していく中で、いろいろなものが明確になっていくことがあります。たとえそれが停滞しているように見えても、停滞の中にさえ発見があります。もちろんそれは心が静かなときだけですが。自我による締め付けがなくなると、自分の中に隠れていた無意識の部分が浮上して理解されることもあります。ubik0101さんも、今まで自分は覚醒して何も問題がないと思っていた、完成したと思っていたが、まだ見逃していた、こんなにも微妙な葛藤が存在していたのか、と気づかれることもあるかもしれません。これが私が使っている学びです。

>わたしにとっては、本質のみが必要です。
>ubik0101さんの言われていることは、当たり前なことで
>す。
>逆になっていない、
>ということ、だけです。


「本質」かどうか、「当たり前」かどうか、「逆になっていない」かどうか、それは自分で身を持って確かめるほかないことでしょう。結論をもって臨むことをubik0101さんはおっしゃっていたのでしょうか?それを受容への偏りではないだろうか、依存ではないだろうかと先に書きました。

No.883 - 2008/06/15(Sun) 15:09:44

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>>私の場合はこう言います。美しい音楽や文学や絵画や体操が出来るのは、またそれらや自然に感動するのは自我がないときである。自我があるとき(自意識でもよいですが)には、それらの美しさ、素晴らしさは相対的なものにとどまるだろう。と。

>うーん。このような表現は「自我のある状態」を否定しているように解釈されやすいと感じます。
>自我がないほうが素晴らしいから、無我に留まるべし、というような考えとして解釈されやすい。


それなら、suhoさんはどう表現しますか?
suhoさんは実際にはどうですか?事実として、こんな経験はありませんか?

何かに遭遇して美を感じることがあります。そして、美とも意識していない、美が対象にあるのか、自分の中にあるのかもわからない、というとき、何か途方もない、圧倒されるようなものを感じることはないですか?それは自我が機能していないときではないでしょうか?無心の状態といってもいいのではないでしょうか?

一方、私と対象という分離の感覚があるとき、つまり自我が機能しているときには、美しいと思っても、それは過去に記憶されたものの反復に過ぎず、そのとき感じる美は、無心のときに感じるものとはまったく違うということはないでしょうか?

このような経験は、日常生活でも、多くの人が経験していることだと思います。しかし、もちろん、それは求めて得られるものではないでしょう。なぜならば求めることが自我そのものなのだから。それは、求めることが止んでいるとき、自我が不在のとき、ふと、訪れているのではないでしょうか?

No.884 - 2008/06/15(Sun) 15:33:27

Re: 続々々・成長 / suho
> >うーん。このような表現は「自我のある状態」を否定しているように解釈されやすいと感じます。
> >自我がないほうが素晴らしいから、無我に留まるべし、というような考えとして解釈されやすい。
>
> それなら、suhoさんはどう表現しますか?
> suhoさんは実際にはどうですか?事実として、こんな経験はありませんか?
>
> 何かに遭遇して美を感じることがあります。そして、美とも意識していない、美が対象にあるのか、自分の中にあるのかもわからない、というとき、何か途方もない、圧倒されるようなものを感じることはないですか?それは自我が機能していないときではないでしょうか?無心の状態といってもいいのではないでしょうか?
>
> 一方、私と対象という分離の感覚があるとき、つまり自我が機能しているときには、美しいと思っても、それは過去に記憶されたものの反復に過ぎず、そのとき感じる美は、無心のときに感じるものとはまったく違うということはないでしょうか?


新緑と背景の蒼さに美を感じる瞬間も多々ありますし、人の怒りの振る舞い、表情に美を感じることも多々あります。
また、自己の感情に埋没し、目前の美に気づかぬときも多々ありすし、対象に記憶を重ねニンマリすることも多々あります。
おっしゃるとおり、それぞれの体験には違いがあります。

ただ、違いがある。
それだけのことで、特にそれ以上でも以下でもありません。

ムーミンさんが上で説明されていたような理解。
以前はことさら意識していた時もありましたが、今は特にそのような分析が生ずることはありませんが、でもまたそのように意識することもあるかもしれません。

No.885 - 2008/06/15(Sun) 16:05:50

Re: 続々々・成長 / hato

> 対話していく中で、いろいろなものが明確になっていくことがあります。たとえそれが停滞しているように見えても、停滞の中にさえ発見があります。もちろんそれは心が静かなときだけですが。自我による締め付けがなくなると、自分の中に隠れていた無意識の部分が浮上して理解されることもあります。

自我は、おそらくは、ある段階を経るなら、
あろうがなかろうが、大丈夫です。
そのように、思います。
そんなに敵視する必要が、すでにないと思います。
その機能によって、学ぶことが多くあります。

> 「本質」かどうか、「当たり前」かどうか、「逆になっていない」かどうか、それは自分で身を持って確かめるほかないことでしょう。

その通りです。
それは、自分でわかります。
了解されている、とは、そういうことです。

そのように、思います。

No.886 - 2008/06/15(Sun) 16:35:18

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>新緑と背景の蒼さに美を感じる瞬間も多々ありますし、人
>の怒りの振る舞い、表情に美を感じることも多々ありま
>す。
>また、自己の感情に埋没し、目前の美に気づかぬときも
>多々ありすし、対象に記憶を重ねニンマリすることも多々
>あります。
>おっしゃるとおり、それぞれの体験には違いがあります。


>ただ、違いがある。
>それだけのことで、特にそれ以上でも以下でもありません。


ええ、それでいいのではないですか?
聞かれればこう答えるだろうということなので。

No.887 - 2008/06/15(Sun) 16:37:26

Re: 続々々・成長 / ムーミン
>自我は、おそらくは、ある段階を経るなら、
>あろうがなかろうが、大丈夫です。
>そのように、思います。
>そんなに敵視する必要が、すでにないと思います。
>その機能によって、学ぶことが多くあります。


先日、知人が、これおもしろいかも、と言って、『ポケットの中のダイヤモンド』という本をおいていきました。著者はガンガジというアメリカ人女性です。

>その通りです。
>それは、自分でわかります。
>了解されている、とは、そういうことです。


自分でわかる、というのは、そうだと、どのようにしてわかるのですか?

No.888 - 2008/06/15(Sun) 16:52:26

Re: 続々々・成長 / hato


> 自分でわかる、というのは、そうだと、どのようにしてわかるのですか?

それは、人が 0101 故に、ともいえるかも知れません。

答えに適切かは、わかりませんが。

No.890 - 2008/06/15(Sun) 21:41:16
世界 / ばん
自我・無我・悟り・覚醒・・・
どうでもいいのではないでしょうか?

土・空気・原子・・・この世界は何一つ欠けても存在できないのではと思いました。

この世界、すべて存在に感謝と思います

No.851 - 2008/06/06(Fri) 11:35:13

Re: 世界 / hato

ほんとうに、そう思います。

No.852 - 2008/06/06(Fri) 19:31:46

Re: 世界 / ばん
1、未来は神様の計画によって決まっている。
今日あったことも、今日考えた事も、砂漠の砂1粒までも


2、私が消滅すれば、この世界は消滅する。
誰かが消滅すれば、この世界は消滅する。
何1つ欠けてはならない、すべてが、存在することによって完成されている。

なーんて考えてたら悩みが無くなりました。
私は私なりに完成しました。

No.861 - 2008/06/09(Mon) 17:04:03
成長、昔のコメント / のり
横からすみません。
私はウビさんの以下のこのコメントが大好きです。

<とりあえず質問があります。○○さんの、生きる目的、理由は、なんでしょう。これだ、と決められるでしょうか。

たとえば、楽しむことでしょうか。戦うことでしょうか。平和を築くことでしょうか。子孫を残すことでしょうか。ただ生きることでしょうか。死ぬことでしょうか。

どのような個別のことでも、ないのではないでしょうか。どのような人生を送っても満足できないのではないでしょうか。

その総べてでもないのではないでしょうか。この意味では生きる目的、理由はない、分からない、のではないでしょうか。それでもなお、満足を得たい気持ちがあるのではないでしょうか。

そして、満足したい気持ちがなくなるとしたら、ひとつには、諦めてしまうということがあるでしょう。そして、たとえば、きままに生きるとか、希望を持って生きるとか、したいようにしようとすることができます。それでも、それは基本が不満なのではないでしょうか。
そうでなく、ひとつには満足したい気持ちが達成されたから、満足したい気持ちがなくなるということがあるでしょう。それも、これだ、という個別のことではありません。どのようなことでもないでしょう。また、その総べてでもないでしょう。 ほとんど定義できません。

にも関わらず、人の生きる目的、理由は、成長と言います。たとえば無知の解決。欲望、自我の完成。物質、身体、感覚、感情、意識(つまり世界)への倒錯からの解放。自己。それは人が生まれたままの有り様では不可能なこと。という意味を込めて、成長と言っています。そのためには、この世界全体を活用しなくてはなりません。

つまり怠惰も勤勉も。善も悪も。偽善も嫉妬も。正しいことも誤りも。そして否定も肯定も。そして成長を望まないでいることも、成長を望むことも。つまり、とあることも、その類似のことも、反対のことも、関係ないことも。その総てを活用しなければ、ここで成長と言われていることは不可能と思います。

そのような有り様として、この世界全体は、成長する人のために機能しているのではないでしょうか。>
ただ今、この瞬間、生命を生きれるようになる。ために成長が必要な気がします。全ての道は悟りに通ず?

No.842 - 2008/06/05(Thu) 16:24:18

Re: 成長、昔のコメント / ubik0101
> ただ今、この瞬間、生命を生きれるようになる。ために成長が必要な気がします。全ての道は悟りに通ず?

そうです。読み返しても、間違いはありません。そして「この瞬間、生命を生きれるようになる」にも、限定された話ではないのは、のりさんは了解ずみ、と思います。それで、ここのところ話題にしてるのは。

まったく人が努力しなければ、規範や、観念を持ったりしなければ、はじめから叡智がある。執着のない、知覚からの行動がある。と、クリシュナムルティが言ってるらしいのですが、そうだとして、それが事実か?ということを探っています。自分としては、そんなことは泣いてる子供をあやすようなことで。事実ではない、と思っています。

まったく自我は最初から、ありません。けど自我は成長の役に立ちます。そして自我がないことを見るまでの過程で人は学びます。その結果としての、自我がなければ叡智がある、ということを、最初から自我がなければいいのだ、と混同してるのだと思います。

No.846 - 2008/06/05(Thu) 18:19:22

Re: 成長、昔のコメント / ムーミン
話を一箇所にまとめたいのですが、若干の補足をして置きます。

>まったく人が努力しなければ、規範や、観念を持ったりしなければ、はじめから叡智がある。執着のない、知覚からの行動がある。と、クリシュナムルティが言ってるらしいのですが、そうだとして、それが事実か?ということを探っています。自分としては、そんなことは泣いてる子供をあやすようなことで。事実ではない、と思っています。

「努力」というのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとする、心理的な格闘、苦しみのことです。規範や観念どおりに生きようとすることもこれに含まれます。この心理的格闘が叡智が働くのを妨げているということです。

>まったく自我は最初から、ありません。けど自我は成長の役に立ちます。そして自我がないことを見るまでの過程で人は学びます。その結果としての、自我がなければ叡智がある、ということを、最初から自我がなければいいのだ、と混同してるのだと思います。

現実には自我が機能し、叡智の働きを妨げているということですから、自我のしていることをよく理解しましょう、ということでしょう。その理解の結果として「成長」と呼ばれるもの、つまり叡智が、妨げられることなく働くでしょうということでしょう。ただ、理解の過程で、いわゆる観念として「成長」を目指すときには、それも自我の格闘なので、注意しましょう、ということです。「静かな心を求める」ときの心は静かではないということに気づきましょう、ということでしょう。

ここはこれで終わります。

No.859 - 2008/06/07(Sat) 16:34:40
どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
なぜ人は、自我を嫌うのでしょう。そうしてるのは、あきらかに、自我ではないでしょうか。これは自我、あるいは自我に対する無我という名前の自我、の機能ではないでしょうか。そうです。至道無難・・・つまり道とは、何でもないことです・・・唯嫌揀択・・・ただ選り好みを嫌います・・・そうです。 自我を、好むこと、厭うこと、選り好みを、道は嫌います。

どこに自我はあるのでしょう。 それは人にあるでしょうか。いいえ。人は生まれついて、そのようなものはありません。では世界にあるでしょうか。いいえ。海の深みを、山の高みを、草の根を分けて探しても、ありません。では思考にあるでしょうか。いいえ。いくら思考しても、ありません。では、人と人、人と世界の関係にあるのでしょうか。

それは人と人、人と世界、人と思考の関係の破綻において現象すると思われるのかもしれません。では関係の破綻は、必ず自我を生むでしょうか。いいえ。では、関係の破綻を、修復することが自我を生むのでしょうか。いいえ。自我はただ、倒錯において現れるのかもしれません。

どんなことも、ある、でも、ない、でも、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りなのに。自我という、または無我という単に、ない、ことを、ある、としてる誤認、それが自我。ではないでしょうか。

この誤認が人には、面白くて、惹き付けられる。それだけのことかもしれません。どこに無我は、あるでしょう。実際は、自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。ではないでしょうか。

No.825 - 2008/06/03(Tue) 09:39:59

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
いつもですが。このような自分の有り様、それを、そのまま話してるだけです。

ところで。気軽さんには、自我は機能していますか。していませんか。無我ですか。無我だとして、どうして自分が無我と判りますか。

それが判るとして、それは過去、自分に自我が機能してた。また、ほかの人に自我を見てるからではありませんか。そう見るのは、自分の無我に捕われていませんか。ない、ことを掴んでも、しょうがないと思います。ほかの言い方では、自我と無我の対立、分離。非難、正当化。ではないでしょうか。

そして、そういう対立、分離などをしない有り様なら。自我と無我、どちらも対象にせず、どちらにも依存しないなら。自我も無我も、ないのではありませんか。ふつうの日常、自分は、このようです。

そして、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」それさえ失ってしまうのではないでしょうか。しかし、その有り様を表現すると、そうなります。実際、どこに自我や、無我があるでしょう。

ほかにいい言い方があるといいのですが。とりあえずかもしれませんが。これでいいと思っています。

No.829 - 2008/06/04(Wed) 17:45:14

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」
これを言っているのは、何なんですか?

No.830 - 2008/06/05(Thu) 09:41:39

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
>これを言っているのは、何なんですか?

と、言ってるのは、何なんですか?と、ルーさんに聞きたくなります。けど。それはともかく。それは。自我が言ってるのでも、無我が言ってるのでもないので。

「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」と、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」が言ってる。のかもしれません。

だって、ubik0101も言えるし、ルーさんも言えるし、誰も言えるでしょう。また、誰が言わなくっても、そうでしょう。これで、うまく誤魔化せたでしょうか?

No.831 - 2008/06/05(Thu) 10:05:54

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> >これを言っているのは、何なんですか?
>
> と、言ってるのは、何なんですか?と、ルーさんに聞きたくなります。けど。それはともかく。それは。自我が言ってるのでも、無我が言ってるのでもないので。


自我が言っているのか、それとも無我が言っているのかと聞きたかったわけではありません。
それはともかく、自我が言っているのでもなく無我が言っているのでもないということはお返事いただけました。
それは、そうでしょう。自我もなければ無我もないのですから、それが何かを言うわけがありません。
「意識」が言っているのかな、と思ったのですが。
それも否定されそうですね。

> 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」と、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」が言ってる。のかもしれません。
>
> だって、ubik0101も言えるし、ルーさんも言えるし、誰も言えるでしょう。また、誰が言わなくっても、そうでしょう。これで、うまく誤魔化せたでしょうか?


状態を実況している。。。そういうことなのでしょう。
実況しているのだから、実況する主体がいるのだと思ってしまうけれど、そうではなく、主体は「ない」のだと言いたいのでしょう。
あなたは、それを発見しました。
発見しました。
発見したので、発見した本人が存在すると思ってしまうでしょうが、そうではなく、本人は不在なのです。
不思議ですね。本当に不思議ですね。
あなたは、いるけど、いない、のだ。
恐いですね、恐いですね、怖いです。

幽霊なのですね。。。。。。。。。。。。。きゃー!

No.833 - 2008/06/05(Thu) 11:07:23

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> > 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」
> > これを言っているのは、何なんですか?
>
> ルーさん、あなたもいってるじゃないですか。
> だから、あなたも何が言っているのか、その「それ」を知っている。


それを何と呼ぶのかを知りたかったのです。
自我とか無我とかの名づけに詳しい人なら、何と呼んでいるのかを知りたかったのです。

> あなたの「それ」とおなじものが、言っているんじゃないですか。

どれが自我でどれが無我で、どれがそれなのか、知りません。

> あなたが、これを言っている、「そのところのもの」が、
> それ、「その何か」です。


あなたに聞いていません。
勝手に答えないでください。

> なぜ、それがそうなのか、不思議、神秘、どう表現しても、おかしな世界です。

うるさい。
卵投げたろか(笑)

No.836 - 2008/06/05(Thu) 11:49:07

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
自我も無我もないのだったら、もはや「ただの人」でもない、ように思います。
というか、その「ただの人」と自分を呼ぶのは、とても、「ただの人ではない」と言っているように聞こえるんです。
ただの人は、自分を「ただの人」とは言わないと思うんです。
その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。
特別な人だと思われたくない、ということの表れなのでしょうか。
それとも、「中道」を歩む人のあり方として、「ただの人」と言っているのか。
まぁ、「ただの人」というのは、「普通の人」という意味ではない、ということは確かだと思います。

No.837 - 2008/06/05(Thu) 12:36:25

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
気軽さん。

気にせず、今のままで、気軽に参加してください。

すみません。

No.838 - 2008/06/05(Thu) 12:38:31

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
> その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。

うーん。なんにも名乗らなくても、いいんです。でも、はじめは、悟りにも迷いにもいない、ただの人と言ってたと思います。いまは、ほんとーに、ふつーの、ただの人です。事実です。

たとえば、女性が、わたしは女性です。と主張するなら、それを聞く人は、なんか、ほかの意味があって、言ってるのかな。と思ったりするかもしれませんが。とくに主張ではないです。

No.839 - 2008/06/05(Thu) 14:08:37

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> > その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。
>
> うーん。なんにも名乗らなくても、いいんです。でも、はじめは、悟りにも迷いにもいない、ただの人と言ってたと思います。いまは、ほんとーに、ふつーの、ただの人です。事実です。


「悟りにも迷いにもいない」=ただの人
という図式が、納得いきません。
ただの人は、迷いの中にいることもあるでしょう。
迷いの中にいる人は、ただの人ではない、のですか?
「自分は、迷いの中にいない」と言えるのは、悟りではないですか?

No.840 - 2008/06/05(Thu) 14:36:41

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
>ただの人は、迷いの中にいることもあるでしょう。
>迷いの中にいる人は、ただの人ではない、のですか?


悟りにいるなら悟りの人で、迷いにいるなら迷いの人です。ただの人は、どっちでもない、と思います。なんでもない、それだけの、ふつうの、人と言っても変わりません。

> 「自分は、迷いの中にいない」と言えるのは、悟りではないですか?

うーん。迷いも、それからの解放も、その解放を掴む迷いも経験し、それを理解し、どれにも依存できなくなった、ということです。でも、泣き、笑いします。そういえば、日常、とも呼んでいます。

ルーさんも、そうではありませんか。迷っていますか。なら、どうして、迷ってると判りますか。それから解放されて、はじめて迷いが判るのではないでしょうか。 自分は、迷ってるとき、迷ってるとも思ってませんでした。

No.841 - 2008/06/05(Thu) 16:14:03

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
「迷っているとき、迷っているとも思っていなかった」
そして、「今、迷いから解放されている」
今、迷いから解放されていて、以前は迷いの中にいた、とわかる。

私は、迷っている時、迷っているとわかっていました。
そして、今は、その迷いからは解放されているけれど、また違う迷いに遭遇するかも知れないと思っています。
正確には、「違う迷いに遭遇するかも知れない」と思っているのではなくて、未知だと思っているのです。
「もう迷わない」とは言えないのです。
同じことでは躓かないと思いますが。

こういうを「ただの人」と呼ぶのなら、納得します。

No.844 - 2008/06/05(Thu) 18:10:41

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
ついでに。

「完全な分離も完全な融合もない」についてです。

自分を「ただの人」であるというのが事実であるとする時、それは、もし、そのままの事実であれば認識できないのではなかったですか?
自分が、まさに「ただの人」である時、自分では「ただの人」であると知覚できないのではなかったですか?
「ただの人」というものに完全に融合しているなら、知覚できないのでしょう?
ということは、ほんのちょっとズレているので感知できるのですか?ほんのちょっぴりだけ、かわいくズレている、と。

No.845 - 2008/06/05(Thu) 18:17:09

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
これは言葉の機能の問題です。林檎を林檎と呼んでも、
変じゃないように。ただの人を、
ただの人と呼んでも変じゃありません。

言葉は、それが表現したことを、
まったく表現しないのです。
林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。
ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。
だから、表現したことを、
正確に、表現できます。

この言葉の機能の理解がないと
たとえば命名に対する疑問がでて
それに捕われる恐れがあります。

「完全な分離も完全な融合もない」

このことの意味は、たとえば総てが完全に均質、
であれば、それ自身がそれ自身を。
また、あることと、あることが完全に異質であれば、
互いに、知覚できないという意味で。
そんなことは、ない、ということです。
あらゆることは関係がある
という意味でもあります。

そんな
この世界で、言葉は
世界を世界と呼べるように機能しています。

No.847 - 2008/06/05(Thu) 19:21:27

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> これは言葉の機能の問題です。林檎を林檎と呼んでも、
> 変じゃないように。ただの人を、
> ただの人と呼んでも変じゃありません。


「それは林檎ですか?」と訊ねても、変じゃないでしょう。

> 言葉は、それが表現したことを、
> まったく表現しないのです。
> 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。
> ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。
> だから、表現したことを、
> 正確に、表現できます。


「だから」という接続詞は、理解できません。
「それなのに」ではありませんか?
「正確に」も、わかりません。
「正確に表現できない」というのなら、話していることが理解できます。

>
> この言葉の機能の理解がないと
> たとえば命名に対する疑問がでて
> それに捕われる恐れがあります。


「ただの人」についての疑問は、命名に対する疑問というよりは、内容に対する疑問だと思いますが。

> 「完全な分離も完全な融合もない」
>
> このことの意味は、たとえば総てが完全に均質、
> であれば、それ自身がそれ自身を。
> また、あることと、あることが完全に異質であれば、
> 互いに、知覚できないという意味で。
> そんなことは、ない、ということです。


「そんなことは、ない」というのは、どういうこと?
完全に均質であるものや、完全に異質であるものは、知覚できない、というのはわかりますが。
知覚できないものは、存在しないのであるなら、それは、知覚に依存しているのではありませんか?

> あらゆることは関係がある
> という意味でもあります。


知覚できるものは、接触しているものというのは、わかりますが。

> そんな
> この世界で、言葉は
> 世界を世界と呼べるように機能しています。


「世界」と呼ぶことで、それは、「世界」を「正確に」表しているのですか?
「世界」という言葉は「世界」を表現しない、とは、どういうことですか?

「理解したい」という気持ちは、正直なところ、50%ぐらいです。

No.848 - 2008/06/05(Thu) 21:41:07

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
> 「それは林檎ですか?」と訊ねても、変じゃないでしょう。

うん。

>> 言葉は、それが表現したことを、
>>まったく表現しないのです。
>> 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。
>> ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。
>>だから、表現したことを、
>>正確に、表現できます。


>「だから」という接続詞は、理解できません。
>「それなのに」ではありませんか?


どっちかといえば「だから」です。

>「正確に」も、わかりません。
>「正確に表現できない」というのなら、話していることが理解できます。


そうすると、意味不明な文書になると思います。

これは林檎を知らない人に
林檎と言っても、どう言っても理解できない。という疑問でしょうか。
林檎を知ってる(学んだ)人と知らない(学ばなかった)人、
違って当然です。

>「ただの人」についての疑問は、命名に対する疑問というよりは、内容に対する疑問だと思いますが。

ただの人の状態については、
ルーさんが844で話した通りです。もう
たとえば、悲しいこととかがあったとしても
それが自己憐憫とか嘆きになって
迷うことはありません。
それをどう呼ぶかの問題がなければ、疑問はないと思います。

>「そんなことは、ない」というのは、どういうこと?
>完全に均質であるものや、完全に異質であるものは、知覚できない、というのはわかりますが。
>知覚できないものは、存在しないのであるなら、それは、知覚に依存しているのではありませんか?


とても鋭い指摘だけど。それは逆です。
完全な存在である実在、ある、は知覚できない
(知覚の管轄にはない)と、
いうことです。完全な融合も、分離もない
ということは、知覚の限界を言っています。

>知覚できるものは、接触しているものというのは、わかりますが。

これも鋭いです。完全な融合も、
完全な分離も、接触が成立しません。
その通りです。

そうでなく個人的に接触がないことは、
その個人に知覚できないという意味なら、
それは知覚に依存しています。
ここは、たしかに、個人的でないことは空想に
なるので、曖昧です。

>「世界」と呼ぶことで、それは、「世界」を「正確に」表しているのですか?
>「世界」という言葉は「世界」を表現しない、とは、どういうことですか?


世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、
るるるるると呼んでも
世界です。どう呼んでも世界を表現しません。
まったく名前と事実は無関係です。
なので 「世界」を表現します。

これから
ちょっと出かけます。

No.849 - 2008/06/06(Fri) 07:57:47

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> 世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、
> るるるるると呼んでも
> 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。
> まったく名前と事実は無関係です。
> なので 「世界」を表現します。


「なので」がわかりません。

まぁ、わかるとして、言葉とはそういう機能であるとして。
「世界」を表現するとは?
「世界」を表現しない、のではないですか?
まぁ、世界を表現するとして。
言葉とは、そういう機能であるとして。
最初の「どう呼んでも世界を表現しません」という時の「世界」と、最後の「世界を表現します」の「世界」は、違うものを指しているのですか?
実際にある「世界」と、その人が思っている「世界」ということですか?

言葉で表現されるのは、「その人が思っている世界」ということですか?

No.850 - 2008/06/06(Fri) 08:55:43

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / hato
>> 世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、
>> るるるるると呼んでも
>> 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。
>> まったく名前と事実は無関係です。
>> なので 「世界」を表現します。


>「世界」を表現するとは?
>「世界」を表現しない、のではないですか?


ありとあらゆる辞書に載ってる、名詞、動詞、形容詞・・・辞書に載ってない言葉の総てで、世界を呼んでみましょう。その言葉が、世界を表現できるでしょうか。しないと思います。

そして、ありとあらゆる言葉で、林檎、鳥、樹を、呼んで見ましょう。その言葉が、それを表現しないと思います。どんな言葉も、どんなことを表現できません。

なのに、世界。 林檎、鳥、樹と呼べば、人は、それを表現したと看做します。自分で思考するにしても。ほかの人に伝えるにしても。それは、名前をつけられないことに対して、名前をつけてるだけです。まったく名前と実態は無関係です。 この、まったくの関係なさのゆえに、 言葉は、それ、を表現します。

まったく、なんと呼ばなくても世界は世界です。林檎、鳥、樹。です。それを世界、林檎、鳥、樹と呼んでる。ということでは、どうでしょう。

もしなにか言葉と実態が、関係あるとしましょう。それでは正確に表現できません。たとえば、ただの人、その言葉だけではなく。その言葉に何かのイメージを持ったり、それ自身がそれ自身を現わすのは変だと考えたりするなら、その言葉は、ただの人、を示しません。違和感が残ります。

それでも言葉全体で言えば。はじめて聞いた言葉でも、なんとなく意味がわかることもあります。それは人が、言葉を教師として、学んでる状態かもしれません。いわば言葉が人の、上位にあります。そうでなく言葉を使うようになれば、言葉は、名前をつけられないことに、名前をつけてるだけと、理解できます。

>最初の「どう呼んでも世界を表現しません」という時の「世界」と、最後の「世界を表現します」の「世界」は、違うものを指しているのですか?

ううん。同じです。

>実際にある「世界」と、その人が思っている「世界」ということですか?
>言葉で表現されるのは、「その人が思っている世界」ということですか?


なんにしても。世界を経験しない人には。林檎、鳥、樹を見たことない人には。なんと呼んでも、呼ばなくても、伝達できません。その意味では、そうです。学んだ人、学ばなかった人、違って当然です。

No.853 - 2008/06/07(Sat) 07:20:28

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
世界を表すのか表さないのか、全くわかりません。
この掲示板で話されている日本語がわかりません。
混乱するので、もういいです。

No.854 - 2008/06/07(Sat) 09:51:26

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
hatoさんは、ubikさん本人なのですか?
それだけは、質問の通りに返事してもらいたいです。
そうなのか違うのかを答えてもらわないと、私にはその質問が残ったままです。そこから先に進めないということです。
同じ説明を言葉を変えていくらしてもらっても、質問は、取り残されます。

No.855 - 2008/06/07(Sat) 09:57:24

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
すみません。ubikさんのお話を理解したくて質問しているので、ubikさんからの返事ではなかったことで、逆上してしまいました。
よく読めば、意味は、わかりました。
「その意味では、そうです。」というのが、意味がとれなくて見落としていました。

しばらく休みます。

No.856 - 2008/06/07(Sat) 10:19:29

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
じつはhatoさんが長崎に来ています。それで、このPCを使って、ばんさんに返信しました。その設定保存のまま、ubik0101が、ルーさんに投稿したので。hatoさんが、ルーさんに返信した表示になりました。
No.858 - 2008/06/07(Sat) 14:38:43
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