あることと、その反対のことは、同じこと。そんな思考があります。たとえば慈しみと、憎しみは・・・傲慢と、卑下は・・・おなじことの現れという主張です。おおくの場合は、どれも苦悩、葛藤の現れ、だからおなじ、というわけです。
しかし、苦悩、葛藤があるなら、あることと、類似のことと、反対のことと、無関係なことは、この意味での同じことです。つまり、その人の総てが、苦悩、葛藤なのです。けれど、あることと反対のことしか見えない、その見えないには、理由があります。
ひとつには、その人が実感できる、ことだけに捕われてる。ということです。その人が知覚してないことには、無意識ということです。ならば、捕われを意識しなければ、捕われてない、と看做させられているということです。そうであれば無意識であることにも、捕われている。そのことに気がつかないでしょう。
続きます。
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No.1008 - 2008/08/03(Sun) 08:47:53
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | それでは、人は、あるときには、慈しみと憎しみに捕われるでしょう。あるときは傲慢と卑下に捕われるでしょう。あるときは暴力と非暴力に捕われるでしょう。あるときは意識する、しないに捕われるでしょう・・・以下同様です。
そして、そのようである、その理由に気がつかず、永遠に、あることと、反対の、苦悩、葛藤を巡るでしょう。
それは 苦悩、葛藤の永遠の、意識する、しないに関わらず、もぐら叩き、です。苦悩、葛藤があれば必ず、それは見える、知覚できるという傲慢に埋没してることの報いかもしれません。
それなのに、見えない、知覚できないところでは、どこかで問題から解放されてる、という空想、妄想、幻想に捕われてるのかもしれません。なぜ、そういうことに巻き込まれるのでしょう。
続きます。
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No.1009 - 2008/08/03(Sun) 08:56:13 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | ひとつには、関係ないことを結合させるのは、欲望の働きです。たとえば慈しみと憎しみと、なぜそれを結び付けるのでしょう。結び付かねばならない理由があるでしょうか。それは、その人に、欲望が機能し、それに気がつかずに、埋没しているからです。
ひとつには。その苦悩、葛藤は、その今、機能してるのですが。その原因を過去に求めて責任逃れをすることも多々あります。いわゆる思考とは過去のことだと。その今と過去、分裂を捏造してる自分を見逃します。その分裂を捏造することも、それを見逃すことも、その人が、そうしています。
このようなことは、その人の行動、発言、思考に現れざるをえないのですが・・・・つねに自分の救難信号を自分に向かって打ち上げてるのですが・・・つねに近視眼であり、つねに見逃し、つねに理解から遠ざかります。そしてそれを解放、と思い違うこともできます。
続きます。
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No.1010 - 2008/08/03(Sun) 09:08:57 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | このような、あることと、その反対のことは、同じこと。という思考の形式、あるいは、そういう形式の思考は、そうする人が、意識する、しないに関わらず、葛藤、苦悩に・・・自我、欲望・・・無明の現れ・・・に捕われてるということを表明してることに過ぎません。
(ここでは意識してて、人がそうなことを、状態。意識できないでもなお、人がそうなことを、有り様、あるいは形態と呼びます)。
そうならば、どちらにしても、どこかに、それから外れたことを捏造せずにはいられないでしょう。たとえば、そういう苦悩、葛藤から離れた静かさ、あるいは苦悩、葛藤は、心理的な運動だから、それがない事実の知覚、と。空想、妄想、幻想します。
それで、そういうときは、人は思いなしに、いきいきと新しい生を生きる。知覚そのまま行動。と。しかしこのことは、やはり、そうでないこととの分裂であり、自分に知覚できない苦悩、葛藤はないとする。また欲望に埋没してる。また責任逃れ。などの、状態、形態において、愚かさに捕われている恐れがあります。
続きます。
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No.1011 - 2008/08/03(Sun) 09:26:12 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | ここには、葛藤と無葛藤は、束縛と解放は。あきらかに。あることと、その反対のことではない。と看做されています。あることと反対のことは、同じことと、いうことを自らに、適応していません。それだけのことです。
このこと全体は、意識できる状態、できない形態に関わらず、やはり、あることと、その反対のことは同じこと。の領域でしか機能してないかもしれません。ではなぜ、そうなのでしょう。
そしてまた。あることと、その反対のことは、同じこと。それは苦悩、葛藤だけに適応されるとは限りません。慈しみも憎しみも、愛・・・厳格も、放任も、優しさ・・・さて、このような何でもありの世界にあって人は、どうすればいいのでしょうか。どうしなければいいのでしょう。
そのうち続きます。
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No.1012 - 2008/08/03(Sun) 09:50:09 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | このようなことを理解するためには、自分の状態を観察することだけで可能でしょうか。断じて、否。それでは、ただ、苦悩、葛藤が・・・自我、欲望・・・が機能してる、だからそれが見える。状態。または機能してても見えない。形態。それだけのことではないでしょうか。
あれやこれや行動したり、発言したり、思考してる、そういうことを対象にしてる、その自分こそ、知られねばならないことではないでしょうか。
たとえば知覚と直接行動。それとそれ、を結び付けることとは欲望に支配されてること、と気が付くかもしれません。そうなら人は、ほとんど必然的に否定の道を歩きます。その思考の、その背後を探り、露にするのです。
ここで見逃していけないのは、たとえば権力欲、顕示欲・・・苦悩、葛藤・・・自我、欲望・・・などが機能してるとして、それを排除する、削除する、という意味での否定をしてはならないということです。
そのような厭うべき人の状態、形態は、もしかして、なんだかの良い特質の準備段階かもしれません。その泥の沼から咲くのは蓮の花かもしれません。
続きます。
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No.1013 - 2008/08/03(Sun) 17:06:03 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | たとえば権力欲は、ほかの人に、自分がすべきことをさせて満足するのではなく。その人が、ものごとを十全になしとげるということの萌芽かもしれません。偽善は、その人が、良い人になるための通り道かもしれません。権力を嫌うということは、対極を必要としない優しさの種かもしれません。自我は無我の、欲望は無欲の可能性、まだ幼い姿かもしれません。
それでも。そのような闇雲な否定をしたとしても、それは人の採り得る状態、形態であり、なんだということはないのですが。しかも何も否定することはできず、ただ自分や、ほかの人に隠すことができ得るだけですが。誰かから教えてもらった、否定の道は、そこに陥り、留まりやすいのです。そこに留まることに無駄なエネルギーを使いやすいのです。
しかしそのようでも、つねに、その自分、その自分を、問わねばなりません。それは、ほかの人に向かうのではなく、自分に向かわねばなりません。なにかを分かったつもりでいるなら、そのわかったつもりでいることの背後、それを探るのです。
そのうち続きます。
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No.1014 - 2008/08/03(Sun) 17:21:10 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | なぜ、これは、こうなのでしょう。それを探るのです。たとえば。あることと、その反対のことは同じです。とか思考するなら。なぜ、それは、そうなのでしょう。と、問うのです。こうである必要がないのに、なぜ、これはこうなのかと、問うのです。
けど。ただ伝統的な教えにしても、それに反対する教えにしても、誰かの言うことを受け入れただけで、その人が発見したことでないなら。その人は、ありのままに生きるとか、なにかを求めて得るなら既知のものですとか、なんとでも言うにしても。それを生きていず、なぜこれはこうなのかと、問うことに及ばないものです。
そして、とりあえず自分の状態を問うことができるならば。理解するということは、どういう意味なんでしょう。意味ということは、どういう意味なんでしょう。それを探る言葉は、どのように機能するのでしょう・・・これは、なぜ、このようにあるのでしょう・・・そのようなことは、真摯に思考する人には、それ自らが開示してくれます。
続きます。
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No.1015 - 2008/08/04(Mon) 12:56:54 |
| ☆ Re: 束縛と解放 / ubik0101 | | | そうでなく、どうして思考することさえできるのでしょう。そうしてる自分を探ることさえできるのでしょう。どうして自分が空想してる、ということさえ気がつくことができるでしょう。そこには傲慢が隠れてるかもしれず、そうならば、そのことが、そのことを、問う人に開示してくれます。
このように人は、自分を州として、自分を島として、自分を拠り所として、歩まねばなりません。しかしその自分、それは、まったくなにも拠り所が見いだせないのです。
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No.1016 - 2008/08/04(Mon) 13:15:14 |
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