[ 掲示板に戻る ]

過去ログ閲覧モード

続々・成長 / ubik0101
ム−ミンさん。

>ないものが知覚されないのが、知覚への依存ですか?

ある、ものだけしか見たり聞いたり思考できない、 知覚は、監視カメラやマイクのように自動的に機能してるだけです。知覚されてることがら…それは主体と客体の分離はありませんが…もっと正確には、完全な分離でも融合でも、見聞き思考不能ですが…その知覚は、ある現象を伝えるだけです。でないと知覚としては役割としての立場がないのです。

それに引きずられて顕在意識は、知覚されないことを、ない、と看做します。また潜在意識が静まり、知覚の作用を疑うことのできる意識を、忘れてると。また、蔑ろにすると。その反動、補償作用として、たとえば「事実に直面、いまここ」が重視され、それに偏るように思います。これは、いわゆる心理的思考…自我や欲望…を暗黙の内に邪魔者として、非難してるのかもしれません。

>知覚とは人間に備わった機能だと思いますが。すでに知覚によって成立しているものを、つまり意識にあってわかっているものを、またなくて意識されないものを、さらに意識するというのは、対象化の動きでしょう。

そうです。その意識も、人に備わった機能…構成要素…です。ただ対象化は、問題ではないのです。同一化も問題ないのです。自我や欲望による偏ったそれが問題…いや。ない、のに、ある、とされる自我の機能が問題なだけで…空想を空想と知ってれば問題ないように、混乱してなければ、無問題です。つまり、そんな知覚を受け取る意識にも依存しないこと、にも依存しないこと、が大切です。たとえば科学技術思考は問題ない、心理的思考は問題と区別することや。既知と未知の区別したりすることは無意味です。

>対象化の動きというのは、ubik0101さんがたまに仏教から借用されている「増/減」ということでしょう。知覚だけで止まっているならば「不増不減」。増減というのは物が増えたり減ったりということだけではないでしょう。訳によっては「執有論」「執無論」という言い方もあるようで、ある/ないにこだわったりするということでしょう。ubikさんの使う依存とは、このある/ない、どちらかへの偏り、依存ということではなかったですか?まだ、だめ?

もし対象化しても、不増不減です。仏教の言葉ですが、事実、見たことです。物質も、知覚も、意識も、森羅万象が、 不増不減です。その全活動が中道です。それを増やしたり減らしたりできると誤認し、自分勝手に期待するのが、欲望とも言えます。それは局所的な増滅です。ある/ないです。でないと欲望は成立しません。

> なぜ「日常が、なぜそうなのかを問う」のですか?何物にも依存しない日常に疑問を持っているということではないのでしょ?

なぜか、不思議も、知らない、も失い、そうなってしまいました。ほとんど思考停止になり、それを問うことが残ってるのかもしれません。たぶん。ひとつには復習でしょう。ひとつには人が世界に心理的にだけでなく、事実、依存してる、してない、どちらでもないから。の解消かもしれません。答えのない疑問かもしれません。

> 思考や感情は機能しています。が、とりあえず、その思考や感情は騒ぎを起こすタイプのものではないので、反対のものを持ち出して葛藤するということはないように思います。

どうして、葛藤しなくなったか。この自覚でない自覚。これは簡単に気がつくと思います。ピアノ演奏家は音楽を考えてもなくても、演奏家です。楽譜を見ても見ないでも演奏できます。そうでない素人は、音楽を聞いてても、素人です。楽譜を見ても見ないでも演奏できません。努力した、しない、理解した、しない、同じようで違います。

> 「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。

そうなんですけど。知覚できないから、ない、ということを疑がわない意識の状態に、それでは陥ってるかもしれないという指摘です。また、正確な表現でなければ、そこは正確に見えないと思われるからです。

> すでに知覚によって成立している対象をあらためて意識するということは、対象に対する能動的な働きかけがある可能性があるでしょう。そこから、ある、ないも生まれてくるのではないですか?

そうです。知覚は、ある、ない、とか判別しません。見聞き思考だけです。その判別しない知覚に意識が、依存して、知覚されたことをある、されないことを、ない、と暗黙の内に認めます。そこである、ない、を疑える意識の機能を理解し、それに依存しないこと、にも依存しないことが望ましいと思います。

こういうことは、あの無我の体験で、総べて見てるはずです。ただ意識は愚かで、忘れます。体験を対象化したりして、そうしてる主体は、いない、のだけど残響のような自我が機能し、それは苦痛をもたらせます。でも、苦痛が原動力です。苦痛が測定器です。それで、体験を余さず理解して失う、そのことによって得る。意識の管轄にないことは、そうだと意識に教える。それを勝手に悟後の修行と呼んでいます。

うーん。とても長文になりました。でも話してることは、どの段落も同じようなことです。とりあえず返信は興味のある部分だけで大丈夫です。

補足。ネットで、こんな仏陀の言葉を見つけました。スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する」。

No.822 - 2008/06/01(Sun) 16:23:46

Re: 続々・成長 / ubik0101
> こういうのを、自我の残響とよんでるのですか・・

ううん。これは無自覚の智恵、あるいは無知が転換された智恵、と呼んでいます。でも「自我の残響」そう呼んでも、なんか、ちょい誤解はされつつも意味は通じる感じです。

また。「残響のような自我」。それは自分の無我体験と日常生活との落差に悩み・・・無我体験を対象にして掴んでしまって・・・たとえば、ほかの人に自我を見る・・・そうしてる自分の自我に捕われることです。

> ・・グー・・!

そう思います。

No.824 - 2008/06/02(Mon) 07:39:12

Re: 続々・成長 / ムーミン
>ある、ものだけしか見たり聞いたり思考できない、 知覚は、監視カメラやマイクのように自動的に機能してるだけです。知覚されてることがら…それは主体と客体の分離はありませんが…もっと正確には、完全な分離でも融合でも、見聞き思考不能ですが…その知覚は、ある現象を伝えるだけです。でないと知覚としては役割としての立場がないのです。

知覚は何かを写したり、音を拾ったりしているだけではないでしょう。知覚とは分離しがたい知覚からの直接の行為があるでしょう。急激な、大きな変化を察知すれば、例えば、大きなものや速いものや尖ったものなどが現れば警戒するし、熱いものに触ったりすれば、とっさに離れたりします。

>それに引きずられて顕在意識は、知覚されないことを、ない、と看做します。また潜在意識が静まり、知覚の作用を疑うことのできる意識を、忘れてると。また、蔑ろにすると。その反動、補償作用として、たとえば「事実に直面、いまここ」が重視され、それに偏るように思います。これは、いわゆる心理的思考…自我や欲望…を暗黙の内に邪魔者として、非難してるのかもしれません。

私が言ってきたのは、テーブルの上にりんごがあるかと聞かれれば、あれば(知覚すれば)あると答えるし、なければ(知覚しなければ)ない、と答えるでしょう、ということです。それだけのことです。顕在意識や潜在意識を持ち出すまでもないでしょう。ある、ないをことさらに意識すること、換言すれば、すでにわかっていることを再度意識すること、つまり「ある」にこだわり、「ない」にこだわるならば、話は別だということです。そのときは、知覚(事実に直面)/知覚出来ない、という枠の中の話で争いに過ぎなくなります。これはubik0101さんが、苦しみ/成長ということでおっしゃっていたことと同じでしょう。

>そうです。その意識も、人に備わった機能…構成要素…です。ただ対象化は、問題ではないのです。同一化も問題ないのです。自我や欲望による偏ったそれが問題…いや。ない、のに、ある、とされる自我の機能が問題なだけで…空想を空想と知ってれば問題ないように、混乱してなければ、無問題です。つまり、そんな知覚を受け取る意識にも依存しないこと、にも依存しないこと、が大切です。

ええ、ここもテーブルの上にりんごがあるかと聞かれて、あればある、なければない、と答えるという話です。ただ、同一化が問題ないというのはどうなのでしょう。前にも話しましたが、同一化の問題というのは、観念、価値観などへの同一化があるとき、それらを攻撃されたとき、あたかも自分が攻撃されたように感じて、破壊的な関係が生じるということですから。

>たとえば科学技術思考は問題ない、心理的思考は問題と区別することや。既知と未知の区別したりすることは無意味です。

科学技術思考は問題ないというのは楽観的ですね。核兵器、生物兵器などみればすぐわかるように、心理的思考が深く絡んでいるでしょう。区別できる問題ではないと思いますね。ただ物を分解したり、組み立てたりする思考は心理とは関係ないですね。

また、既知と未知と区別することがすでに既知でしょう。そういう意味でなら無意味ですね。しかし、今までの話の流れからすると、無意味と言い切ってしまうのも、偏りということでしょうから、意味も無意味もないということになりますか。

>もし対象化しても、不増不減です。仏教の言葉ですが、事実、見たことです。物質も、知覚も、意識も、森羅万象が、 不増不減です。その全活動が中道です。それを増やしたり減らしたりできると誤認し、自分勝手に期待するのが、欲望とも言えます。それは局所的な増滅です。ある/ないです。でないと欲望は成立しません。

ええ、これはおそらく誰もが、ふと経験していることだと思います。ただその意味になかなか気づけないということがあると思います。だから自我の流れの中に入っていってしまうのでしょう。

>なぜか、不思議も、知らない、も失い、そうなってしまいました。ほとんど思考停止になり、それを問うことが残ってるのかもしれません。たぶん。ひとつには復習でしょう。ひとつには人が世界に心理的にだけでなく、事実、依存してる、してない、どちらでもないから。の解消かもしれません。答えのない疑問かもしれません。

超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているubik0101さんでもまだ疑問がある、わからないことがあるものなのですね。まあ、疑うということは、結論なく現象を見ているということなのでしょうね。それはあえて名づけるとすれば「未知」ということでしょう。

>どうして、葛藤しなくなったか。この自覚でない自覚。これは簡単に気がつくと思います。ピアノ演奏家は音楽を考えてもなくても、演奏家です。楽譜を見ても見ないでも演奏できます。そうでない素人は、音楽を聞いてても、素人です。楽譜を見ても見ないでも演奏できません。努力した、しない、理解した、しない、同じようで違います。

ただ、一口に覚醒とか悟りといってもいろいろ深浅があるようですよ。仏教などはそのメルクマールとして、例えば華厳なら十地、唯識なら五位、禅なら十牛図のようなものがありますよね。さらに、どの状態を見性や見道に位置づけるかについても、いろいろと解釈がが違ってくるようです。

それらに照らし合わせてみると、私の場合は、ある着眼を得た感じはありますが、もしかして気づきにくい微細な葛藤は見逃している可能性はないとはいえない。そのために仏教でも、禅ならば見牛から入廛垂手、唯識ならば見道位から究竟位、華厳なら初地から法雲地まで修行が続くのでしょう。だからこうして、このようなサイトへ来て自己を学んでいるといえなくもない。

ubik0101さんの場合は、超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているわけですから、最終地点におられるということなのでしょう。つまりブッダ(如来)だとおっしゃっているのでしょう。

>>「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。

>そうなんですけど。知覚できないから、ない、ということを疑がわない意識の状態に、それでは陥ってるかもしれないという指摘です。また、正確な表現でなければ、そこは正確に見えないと思われるからです。

「時間の知覚がない」というのは、時間があるかないかをわざわざ意識していないということです。

ubik0101さんは、「知覚できないから、ないということを疑わない」ということで、何かUFOとかスピリチュアルなもの、たとえば前世とか心霊とかを想定しておっしゃっているのですか?

>そうです。知覚は、ある、ない、とか判別しません。見聞き思考だけです。その判別しない知覚に意識が、依存して、知覚されたことをある、されないことを、ない、と暗黙の内に認めます。そこである、ない、を疑える意識の機能を理解し、それに依存しないこと、にも依存しないことが望ましいと思います。

知覚についてはすでに書きました。意識が対象に能動的に働きかけて、統御しようとしていれば依存ということにもなるでしょう。ないときには、観察の状態にあります。唯識でいうならば、妙観察智が働いているといえるかもしれません。下にもあるように、これは無我の体験のとき学びますね。

>こういうことは、あの無我の体験で、総べて見てるはずです。ただ意識は愚かで、忘れます。体験を対象化したりして、そうしてる主体は、いない、のだけど残響のような自我が機能し、それは苦痛をもたらせます。でも、苦痛が原動力です。苦痛が測定器です。それで、体験を余さず理解して失う、そのことによって得る。意識の管轄にないことは、そうだと意識に教える。それを勝手に悟後の修行と呼んでいます。

おっしゃりたいことはわかりました。

>うーん。とても長文になりました。でも話してることは、どの段落も同じようなことです。とりあえず返信は興味のある部分だけで大丈夫です。

今日は少し余裕があったので、全部に返信しておきました。

>補足。ネットで、こんな仏陀の言葉を見つけました。スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する」。

これは中村元さんの訳ですね。このあとに「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」と続きますね。つまり、想いが生じていないとき、ありのままがあるだけだということでしょう。ま、あるといっても不正確だし、ないといっても不正確ですが。不二の法門は「維摩の一黙」ということでしょう。

No.826 - 2008/06/03(Tue) 12:05:16

Re: 続々・成長 / ubik0101
>知覚は何かを写したり、音を拾ったりしているだけではないでしょう。知覚とは分離しがたい知覚からの直接の行為があるでしょう。急激な、大きな変化を察知すれば、例えば、大きなものや速いものや尖ったものなどが現れば警戒するし、熱いものに触ったりすれば、とっさに離れたりします。

それは。熱いものに触ったことを知覚した、その反応と思います。それは全体の働きと思います。とっさなので、意識の入る余地もないのだと思います。あまり関係ない話ですが。たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。という意見がありますが、どうなんでしょう。

>ええ、ここもテーブルの上にりんごがあるかと聞かれて、あればある、なければない、と答えるという話です。ただ、同一化が問題ないというのはどうなのでしょう。前にも話しましたが、同一化の問題というのは、観念、価値観などへの同一化があるとき、それらを攻撃されたとき、あたかも自分が攻撃されたように感じて、破壊的な関係が生じるということですから。

なにかの観念、価値観があるとして。それとの同一化が問題になるというのは、同一化したいけど同一化しきってないということで・・・しきってないので観察者(自我)が、いる、という状態ではないでしょうか。それで、観念、価値観が攻撃される、そう思うだけで、あたかも観察者としての自分が攻撃されたように感じるのではないでしょうか。それはもともと、観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいからと思います。

そうでなく。たとえば怒るとします。その怒りと、完全に同一しきってれば、そこに観察者は、いる、でも、いない、でもありませんか。また、ふつう無我を了解した人の日常は、感覚や、思考と自分は、違うのものではない。という意味で同一で、そうなら、知覚にとってですけど、感覚や思考という反応が起きてるだけ、と思います。そうなら、なにかの観念、価値観に依存する観察者が、いる、いない、という問題は発生しようもないのは、たしかです。

>科学技術思考は問題ないというのは楽観的ですね。核兵器、生物兵器などみればすぐわかるように、心理的思考が深く絡んでいるでしょう。区別できる問題ではないと思いますね。ただ物を分解したり、組み立てたりする思考は心理とは関係ないですね。

>また、既知と未知と区別することがすでに既知でしょう。そういう意味でなら無意味ですね。しかし、今までの話の流れからすると、無意味と言い切ってしまうのも、偏りということでしょうから、意味も無意味もないということになりますか。

「ただ物を分解したり、組み立てたりする」思考と、心理的思考を区別するのは、そう区別する捕われがあるのでは。ということです。心理的思考も、観察者が問題なだけではないでしょうか。思考の内容や機能にも問題があるのでしょうか。

>ubik0101さんの場合は、超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているわけですから、最終地点におられるということなのでしょう。つまりブッダ(如来)だとおっしゃっているのでしょう。

ううん。自分を仏陀と感じてるなら、そう言わないはずがありません。ただの人、と思うまでもない、ただの人です。超意識、訪ねられたりすると思い出しますが、まったく忘れていました。

>ubik0101さんは、「知覚できないから、ないということを疑わない」ということで、何かUFOとかスピリチュアルなもの、たとえば前世とか心霊とかを想定しておっしゃっているのですか?

いや。なにも想定してません。ただ空っぽ体験、無我体験は、ない、ことの知覚です。自我が、ない、ことの体験です。なにかを見てる中心がないことです。そうでなく無我が、ある、なら簡単です。探せば見つかります。けど、中心は、ないのだから、見つかりません。だから無我は、理解が困難と言えます。

その、ない、ことの体験は。暗黙の、ないことは知覚できないという、知覚の常識から外れた体験です。これを明確にすると、知覚が、対象を、ある、と決めたがってる。そして実は、知覚を受ける意識が、そのことによって、自分は、ある、と感じたがってる。ことが見えます。これが上の、同一化の問題、自我の機能の素とも言えます。人によっては、意識があるだけで自我があるような気がするのも、そういう理由だと思います。

> これは中村元さんの訳ですね。このあとに「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」と続きますね。つまり、想いが生じていないとき、ありのままがあるだけだということでしょう。ま、あるといっても不正確だし、ないといっても不正確ですが。不二の法門は「維摩の一黙」ということでしょう。

「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」。これは全文掲載のサイトにはなかったので、載せませんでした。そこの管理者が書き忘れたのかもしれません。指摘、ありがとう。また長文になりました。適当に端折ってください。

No.827 - 2008/06/04(Wed) 12:03:07

Re: 続々・成長 / ムーミン
>それは。熱いものに触ったことを知覚した、その反応と思います。それは全体の働きと思います。とっさなので、意識の入る余地もないのだと思います。あまり関係ない話ですが。たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。という意見がありますが、どうなんでしょう。

人の意見は単なる意見なので置くとして、自分で見てどうですか?それが一番確かではないですか?クリシュナムルティのサイトで長い間、分別されていないゴミ処理の問題が取り上げられていましたが、葛藤しているときと、静かなときとは行動が違うでしょう。知覚からの行為は自分と対象との分離がないから全体的な働きではないですか?司祭やラビが見てみぬ振りをして通りすぎた半殺しにあって倒れているユダヤ人をサマリア人が助けたという聖書の話も、もしかしてこの部類に入るかもしれません。

>なにかの観念、価値観があるとして。それとの同一化が問題になるというのは、同一化したいけど同一化しきってないということで・・・しきってないので観察者(自我)が、いる、という状態ではないでしょうか。それで、観念、価値観が攻撃される、そう思うだけで、あたかも観察者としての自分が攻撃されたように感じるのではないでしょうか。それはもともと、観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいからと思います。

観念、価値観が観察者を作り上げているのでしょう。もし、何の観念も価値観もないとすれば、空っぽです。それで、その空っぽさから逃れようとするときには、すでにそれを対象化しているわけですから、観念、価値観が働き始めているわけです。そして、そのときの感情を恐怖と呼んだり、虚しい、孤独だ、寂しいなどと呼んだりしているわけです。そういう意味では、「観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいから」ということは言えると思います。

>そうでなく。たとえば怒るとします。その怒りと、完全に同一しきってれば、そこに観察者は、いる、でも、いない、でもありませんか。また、ふつう無我を了解した人の日常は、感覚や、思考と自分は、違うのものではない。という意味で同一で、そうなら、知覚にとってですけど、感覚や思考という反応が起きてるだけ、と思います。そうなら、なにかの観念、価値観に依存する観察者が、いる、いない、という問題は発生しようもないのは、たしかです。

「怒り」と名づけていた感情を「怒り」と名づけることがないとき、観察者はいません。感情の知覚があるだけです。そのとき、観察者のいない観察がある、ということでしょう。すでに何回か言いましたが、知覚はいわば、対象即意識、主観即客観の状態ということでしょう。知覚しているときには知覚していることも知りません。だから知覚者のいない知覚といえるかも知れません。

>「ただ物を分解したり、組み立てたりする」思考と、心理的思考を区別するのは、そう区別する捕われがあるのでは。ということです。心理的思考も、観察者が問題なだけではないでしょうか。思考の内容や機能にも問題があるのでしょうか。

思考自体は問題はないのではないですか。おっしゃるように問題は観察者でしょう。観察者があることで問題が起こってくる。だから区別は囚われではなくて、観察者があるときとないときでは、起こっていることが違うよ、という単なる指摘でしょう。

>ううん。自分を仏陀と感じてるなら、そう言わないはずがありません。ただの人、と思うまでもない、ただの人です。超意識、訪ねられたりすると思い出しますが、まったく忘れていました。

私の知る限りでは、この掲示板はもちろん、ヤフー掲示板でも「ゴトの読書室」でも、ご自身の体験を喧伝されていますよね。「ただの人」というのも曖昧な言葉ですね。

>いや。なにも想定してません。ただ空っぽ体験、無我体験は、ない、ことの知覚です。自我が、ない、ことの体験です。なにかを見てる中心がないことです。そうでなく無我が、ある、なら簡単です。探せば見つかります。けど、中心は、ないのだから、見つかりません。だから無我は、理解が困難と言えます。

それだったらいいのですが。私が、知覚とは知覚者がいないことであり、知覚していることも知らない状態で、ただ聞かれればある、ないは答えると言ってきたのに対し、ubik0101さんが、ないものが知覚されないのは知覚への依存だ、ということにこだわっていらっしゃったから。

>その、ない、ことの体験は。暗黙の、ないことは知覚できないという、知覚の常識から外れた体験です。これを明確にすると、知覚が、対象を、ある、と決めたがってる。そして実は、知覚を受ける意識が、そのことによって、自分は、ある、と感じたがってる。ことが見えます。これが上の、同一化の問題、自我の機能の素とも言えます。人によっては、意識があるだけで自我があるような気がするのも、そういう理由だと思います。

知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。

No.832 - 2008/06/05(Thu) 10:24:27

Re: 続々・成長 / ubik0101
>人の意見は単なる意見なので置くとして、自分で見てどうですか?それが一番確かではないですか?クリシュナムルティのサイトで長い間、分別されていないゴミ処理の問題が取り上げられていましたが、葛藤しているときと、静かなときとは行動が違うでしょう。知覚からの行為は自分と対象との分離がないから全体的な働きではないですか?司祭やラビが見てみぬ振りをして通りすぎた半殺しにあって倒れているユダヤ人をサマリア人が助けたという聖書の話も、もしかしてこの部類に入るかもしれません。

クリシュナムルティ関係の人は 「たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。」を前提にしてる人がいるようです。これは空想です。はじめから叡智があるなら、なぜ、葛藤が始まったりするのでしょう。はじめから叡智がないから、と思います。

>観念、価値観が観察者を作り上げているのでしょう。もし、何の観念も価値観もないとすれば、空っぽです。それで、その空っぽさから逃れようとするときには、すでにそれを対象化しているわけですから、観念、価値観が働き始めているわけです。そして、そのときの感情を恐怖と呼んだり、虚しい、孤独だ、寂しいなどと呼んだりしているわけです。そういう意味では、「観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいから」ということは言えると思います。

じゃ、まず、なぜ観念、価値観があるのでしょう。過去の記憶でしょうか。けど。その過去の時点では今なのに。それが、つまり過去が、なぜ問題なのでしょう。いま問題がある、たとえば観察者がいる状態なので、過去の記憶や未来を空想して、いま問題があることが現れるのではありませんか。問題は気がつかなかったけど、過去にもあったのです。なんども言いますが、気がつかないから、ない、というのは疑問です。気がつかないから静かであっても、それは愚かなために静かなだけです。誤りです。

そして観察者。これ、ほんとうに、ない、なら。どうして観察ができますか。たとえば死んでしまったりして観察できますか。「観察者のない観察」とは。クリシュナムルティの表現でしょうが、明らかに不正確に思えます。

> 「怒り」と名づけていた感情を「怒り」と名づけることがないとき、観察者はいません。感情の知覚があるだけです。そのとき、観察者のいない観察がある、ということでしょう。すでに何回か言いましたが、知覚はいわば、対象即意識、主観即客観の状態ということでしょう。知覚しているときには知覚していることも知りません。だから知覚者のいない知覚といえるかも知れません。

それは、まず怒りと名づける観察者がいて、怒りと名づけてることが問題。なだけです。それは。なにかに命名するとか、しないとか、の問題ではありません。怒りと名づけないでも、なにか問題なら問題です。クリシュナムルティが命名が問題と、そのように言ってるなら、クリシュナムルティには言葉についての理解がなされていません。

>私の知る限りでは、この掲示板はもちろん、ヤフー掲示板でも「ゴトの読書室」でも、ご自身の体験を喧伝されていますよね。「ただの人」というのも曖昧な言葉ですね。

ム−ミンさんが「喧伝」と思うのは、かまいません。ただ、相手から聞かれた場合、誰かに役に立つ場合、話しています。事実は、事実なだけです。なにも隠す必要はありません。そういう超意識の話にubik0101が依存していると思うなら、ム−ミンさんは、そう誤解してると思います。

> それだったらいいのですが。私が、知覚とは知覚者がいないことであり、知覚していることも知らない状態で、ただ聞かれればある、ないは答えると言ってきたのに対し、ubik0101さんが、ないものが知覚されないのは知覚への依存だ、ということにこだわっていらっしゃったから。

それはubik0101を、ム−ミンさんが、対象化してるのだと思います。または、知覚と、あるないのことが、ム−ミンさんに明確ではないので、躓いているように思えます。これは、ほんとうは見るのが困難なことです。

>知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。

なにか問題があるから、「再意識化」して、問題を解決しようとする。です。つまり、観察者の、自分との分離、世界との分離は、人が問題に集中して、それを理解するための方法です。その機能が問題なのではなく。それを理解してないことが問題です。

No.843 - 2008/06/05(Thu) 17:39:50

Re: 続々・成長 / ムーミン
>クリシュナムルティ関係の人は 「たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。」を前提にしてる人がいるようです。これは空想です。はじめから叡智があるなら、なぜ、葛藤が始まったりするのでしょう。はじめから叡智がないから、と思います。

知覚からの直接の行為の意味が了解できたとき、了解する前には気づかなかったけれども、実はそのときにも直接の行為をしているときがあったのだな、と知るでしょう。人は叡智を得て初めて、知覚からの直接の行為があるのでしょうか。はたして、その行為は「覚醒者」の占有物なのでしょうか?

>じゃ、まず、なぜ観念、価値観があるのでしょう。過去の記憶でしょうか。けど。その過去の時点では今なのに。それが、つまり過去が、なぜ問題なのでしょう。いま問題がある、たとえば観察者がいる状態なので、過去の記憶や未来を空想して、いま問題があることが現れるのではありませんか。問題は気がつかなかったけど、過去にもあったのです。なんども言いますが、気がつかないから、ない、というのは疑問です。気がつかないから静かであっても、それは愚かなために静かなだけです。誤りです。

生まれてからずっと、国家、社会、宗教、家庭、教育、本などから刷り込みが行われているでしょう。それら過去のものが、現在に息を吹き返す。ただ、それが形だけのものであって、機能しなければ、つまり、思いがあって、思い通りにならない事態がある、それを思い通りにしようと格闘することがなくなっていれば、過去のものが蘇ったとしても問題はないでしょう。形だけのものならば、それは、ないと言ってもいいでしょう。

>そして観察者。これ、ほんとうに、ない、なら。どうして観察ができますか。たとえば死んでしまったりして観察できますか。「観察者のない観察」とは。クリシュナムルティの表現でしょうが、明らかに不正確に思えます。

観察者が意識されない、観察されていることが意識されない、ということではないですか?つまり、自意識、自我意識、自己意識、いろいろ呼び名はありますが、それがないということでしょう。で、そういうものの干渉がなく、ただ見ているということではないですか?

>それは、まず怒りと名づける観察者がいて、怒りと名づけてることが問題。なだけです。それは。なにかに命名するとか、しないとか、の問題ではありません。怒りと名づけないでも、なにか問題なら問題です。クリシュナムルティが命名が問題と、そのように言ってるなら、クリシュナムルティには言葉についての理解がなされていません。

これは苦しみが何かの知覚があったときによくわかるでしょう。命名することなく、ただ苦しみと今まで呼んでいたもののだけがある状態があります。そのとき、そのギャップがあるとき、命名することがすでに、操作、統御、対処を含んでいたことがわかります。命名のないときには、苦しみと呼んでいたものは、消えていきます。

>ム−ミンさんが「喧伝」と思うのは、かまいません。ただ、相手から聞かれた場合、誰かに役に立つ場合、話しています。事実は、事実なだけです。なにも隠す必要はありません。そういう超意識の話にubik0101が依存していると思うなら、ム−ミンさんは、そう誤解してると思います。

わかりました。「喧伝」と書いたのは表現が正確ではなかったかもしれません。「忘れた」とおっしゃりながらも、いろいろと書いていらっしゃるな、という意味です。ただ「ただの人、というのも曖昧な言葉」と書いたように、「覚醒」の内容も、「超意識」も曖昧だな、ということはあります。

>それはubik0101を、ム−ミンさんが、対象化してるのだと思います。または、知覚と、あるないのことが、ム−ミンさんに明確ではないので、躓いているように思えます。これは、ほんとうは見るのが困難なことです。

知覚については、自分でも不思議なことがいっぱいある、起きているので、言葉に表現しきれない部分がある、まだ検討課題があるというのは確かです。ただ私が、ubik0101さんを対象化しているというのはどういう意味でしょうか?

また「これは、ほんとうは見るのが困難なことです。」ということは、ubik0101さんはその困難なものをわかっていらっしゃると思いますので、その点を書いていただければ、私の、もちろん皆さんの参考にもなると思います。

>>知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。

>なにか問題があるから、「再意識化」して、問題を解決しようとする。です。つまり、観察者の、自分との分離、世界との分離は、人が問題に集中して、それを理解するための方法です。その機能が問題なのではなく。それを理解してないことが問題です。

観察者が生じるというのは、観察者と観察されるものが分離しているということでしょう。その分離の理解についてはすでに書いてきました。

No.857 - 2008/06/07(Sat) 10:39:01
続・成長 / ubik0101
ム−ミンさん。

>事実と空想の誤認に気づいていないのが倒錯でしょう。その誤認に気づけば、その時、空想がもたらす格闘は終わりますから、苦しみも終わるでしょう。「苦しみは必要悪である」というのは一つの考え方としてはあるのかもしれませんが、私は採りません。これについては後でも少し書きます。また、「苦しみを自覚しなければ・・・」とありますが、現に苦しみがあるのに、苦しみを自覚しない人っていますか?苦しみがあれば、それはわかるでしょう。

ここで言おうとしてるのは、倒錯してる人は、その倒錯してる自分に気がつかない、ということです。そして、倒錯の現れとして、「事実と空想を誤認」して、それを苦しむということです。その苦しみは自覚できない人はいないと思います。

けれど倒錯していながら、苦しみが現れないこともあります。たとえば夢中で映画を見ていれば、苦しむことはないでしょう。人生が順風満帆なら、喜びさえするでしょう。倒錯してる人が、その時だけは、倒錯してない、わけではありません。苦しみがあるときだけ倒錯してるわけではありません。つまり苦しみを自覚できないでも倒錯です。このこと全体が苦しみだということなら、意見の違いはないと思えます。

ところで。事実と知覚のズレ、これが面白いのです。そのズレゆえ知覚ができる。そのズレゆえ自我や欲望の機能が生起し、そのズレゆえ人の成長がある。このことの全体が鳥瞰できる感じがしています。そして事実とともに生きるだけでいいのか、いまここにあるだけでいいのか。という疑問はあります。

> 「ありのまま」と「勝手な判断」とは「事実」と「虚構」と言い換えられると思います。それらははっきりと区別がつきませんか?その区別がつかない時に苦しみは生まれます。

まず「勝手な判断」「虚構」が生じません。それが普段の有り様です。もしも、なにか空想したら、それは空想だ、ということは明確です。なので、区別がつきます。「事実」と空想を混同しているなら、苦しむでしょう。

>人間はアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などから学ぶことは出来ますが、人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などがあったのではないでしょう。

>ある哲学者が「現実は理念的である」というようなことを言いました。この言葉の意味するところは、歴史や人間の精神現象は理念に向けての合理的運動、究極目標へと前進する過程だ、ということでしょう。これは一つの解釈に過ぎませんが、前世紀の出来事をみれば、その解釈の楽観性に疑問は生じるでしょう。人間そのものが消滅する可能性もあるのですから。

>同様に、私は、苦しみが成長などの何かのためにという考え方は採りません。やはり、解釈としてではなく、事実として、苦しみは、事実と虚構との誤認によって生まれていると言えますし、それに気づくことで苦しみは滅するということでしょう。もちろん、苦しみから学ぶことはできるでしょう。しかし、学ぶために苦しみがある、という考え方には今のところ懐疑的です。

しかし苦しみがなければ、倒錯には気がつかないでしょう。そして苦しみは苦しみである必要はないのですが苦しみです。倒錯は倒錯である必要はないのですが倒錯です。おそらくですが、子供の頃にも、成人してからも、老年になっても、それに巻き込まれなかったという人はいないと思います。この世界に自分だけでなく、ほかの人がいる、というだけのことからでも、倒錯や苦痛は、現れると思います。 結果的に必要だったということです。

そうでなく、必要だから初めからある、と看做せば、それは偏った意見です。また倒錯が、不必要と看做せば、やはり同じように偏った見方です。倒錯、苦しみを対象化してると言えそうです。そして対象化したら、そのことに縛られ課題として現れます。あたりまえに絶妙です。

ふつうは隣近所との軋轢とか、思い通りにならない人生とか、そんなことだけで、学ぶためには充分です。戦争など必要はありません。が、そこまで大騒ぎにしても倒錯してることに気がつかないほど、あまりに愚かなんだと思います。

No.811 - 2008/05/30(Fri) 08:31:58

Re: 続・成長 / ムーミン
>けれど倒錯していながら、苦しみが現れないこともあります。たとえば夢中で映画を見ていれば、苦しむことはないでしょう。人生が順風満帆なら、喜びさえするでしょう。倒錯してる人が、その時だけは、倒錯してない、わけではありません。苦しみがあるときだけ倒錯してるわけではありません。つまり苦しみを自覚できないでも倒錯です。このこと全体が苦しみだということなら、意見の違いはないと思えます。

ここはすんなりと理解できますね。

>ところで。事実と知覚のズレ、これが面白いのです。そのズレゆえ知覚ができる。そのズレゆえ自我や欲望の機能が生起し、そのズレゆえ人の成長がある。このことの全体が鳥瞰できる感じがしています。

言葉の使い方にもよりますが、知覚によって把握されるものを事実と私は呼んでいます。客観ともいいます。主観(自我や欲望)によって歪んでいないものですね。

>そして事実とともに生きるだけでいいのか、いまここにあるだけでいいのか。という疑問はあります。

なぜ、そう思うのですか?

>まず「勝手な判断」「虚構」が生じません。それが普段の有り様です。もしも、なにか空想したら、それは空想だ、ということは明確です。なので、区別がつきます。「事実」と空想を混同しているなら、苦しむでしょう。

おっしゃていたように、「勝手な判断」「虚構」があっても、そうとは思っていない、自覚がないという場合もありますね。それで「明確」「区別がつく」場合は、それらに囚われることなく、生まれては消えていくのみですね。明確ではないがゆえに囚われて、虚構の中で争うこと、それが苦しみですね。

>しかし苦しみがなければ、倒錯には気がつかないでしょう。そして苦しみは苦しみである必要はないのですが苦しみです。倒錯は倒錯である必要はないのですが倒錯です。おそらくですが、子供の頃にも、成人してからも、老年になっても、それに巻き込まれなかったという人はいないと思います。この世界に自分だけでなく、ほかの人がいる、というだけのことからでも、倒錯や苦痛は、現れると思います。 結果的に必要だったということです。

ubik0101さんは、常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ、というように語られています。これは、歴史や人間を神のような、見えない力によって支配する計画だと捉える考えにも通じかねませんので、ひとまず、「人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などが起こったのではない」ということが確認できればそれでいいです。

>そうでなく、必要だから初めからある、と看做せば、それは偏った意見です。また倒錯が、不必要と看做せば、やはり同じように偏った見方です。倒錯、苦しみを対象化してると言えそうです。そして対象化したら、そのことに縛られ課題として現れます。あたりまえに絶妙です。

現に世界中に倒錯はあり、苦しみは存在します。そして、それを滅する必要性があります。その必要性は欲望でも対象化でもありません。倒錯がアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などを生んだのです。もし「苦しみ」の反対のものとして「成長」を捉えるのなら、そこには「対象化」の罠があるのでしょう。それは苦しみからの逃避としての「成長」であり、虚構ですから、堂々巡りがあり、さらに苦しみは続くでしょう。

>ふつうは隣近所との軋轢とか、思い通りにならない人生とか、そんなことだけで、学ぶためには充分です。戦争など必要はありません。が、そこまで大騒ぎにしても倒錯してることに気がつかないほど、あまりに愚かなんだと思います。

ええ、そう思います。

No.812 - 2008/05/30(Fri) 16:08:47

Re: 続・成長 / ubik0101
>言葉の使い方にもよりますが、知覚によって把握されるものを事実と私は呼んでいます。客観ともいいます。主観(自我や欲望)によって歪んでいないものですね。

これは言葉の使い方ではなく。ここで言われてる「主観(自我や欲望)によって歪んでいない」知覚の機能を、疑ってるんです。「客観」は知覚し得ないかもしれません。

また。見られるものと見るものの、聞かれることと聞かれるもの、思考されるものと思考されるものの、ことさらの分離はなく。ここで、見る、聞く、思考だけが機能していますが、そのことを・・・見る主体が、いない、という表現は一応は、許容範囲にはあるのですが・・・いる、いない、と言っても、誤りで・・・「客観」も、ある、ない、と言っても誤りと思いますが。どうも知覚に、どちらかに決めたがる性質があるようです。

>なぜ、そう思うのですか?

いつか話したように思いますが、一般的には、「事実とともに生きる、いまここにある」が・・・既成の方法になってしまっていて、それに縛られてると、いうのでなければ・・・それで充分です。そうであって。なぜ、そのように世界が機能するかを探りたいからです。

>おっしゃていたように、「勝手な判断」「虚構」があっても、そうとは思っていない、自覚がないという場合もありますね。それで「明確」「区別がつく」場合は、それらに囚われることなく、生まれては消えていくのみですね。明確ではないがゆえに囚われて、虚構の中で争うこと、それが苦しみですね。

とくにそうと意識してなくても、「勝手な判断」「虚構」が解消されてる。ということがあります。生まれもしないけど、消えもしないけど、理解されてる。ということです。それが苦しみの理解の結果です。これは見逃してはいけないことです。でなければ「成長」は言いません。

> ubik0101さんは、常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ、というように語られています。

たぶん、それは誤解と思います。倒錯の現れは、役に立つ、ということです。自我や欲望が機能してるんだったら、それに埋没するのではなく、それを理解しよう、ということです。

そのようにubik0101が言ってると、たとえばム−ミンさんが対象化したら、“常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ” と言ってるように、思える。ということではないでしょうか。

また。成長という言葉を対象化すると、それも誤解です。倒錯の、なんだかの反対のものを想定するなら、それは倒錯であり、成長ではありません。いまさらム−ミンさんには、言うほどのことではないかもしれません。

No.813 - 2008/05/30(Fri) 19:31:07

Re: 続・成長 / ムーミン
>これは言葉の使い方ではなく。ここで言われてる「主観(自我や欲望)によって歪んでいない」知覚の機能を、疑ってるんです。「客観」は知覚し得ないかもしれません。

>また。見られるものと見るものの、聞かれることと聞かれるもの、思考されるものと思考されるものの、ことさらの分離はなく。ここで、見る、聞く、思考だけが機能していますが、そのことを・・・見る主体が、いない、という表現は一応は、許容範囲にはあるのですが・・・いる、いない、と言っても、誤りで・・・「客観」も、ある、ない、と言っても誤りと思いますが。どうも知覚に、どちらかに決めたがる性質があるようです。

私の使っている意味の知覚は、主客を分別しません。分別するのは認識です。認識という一つのコーディネーターというか、まとめ役がいないときは五感はばらばらに働いているような感じです。また認識して分別が発生したしても、認識と知覚が一致しているとき、例えばりんごを単に「りんご」と認識しても問題はないでしょう。問題は知覚が自我や渇望という主観的認識によって歪むときです。

>いつか話したように思いますが、一般的には、「事実とともに生きる、いまここにある」が・・・既成の方法になってしまっていて、それに縛られてると、いうのでなければ・・・それで充分です。そうであって。なぜ、そのように世界が機能するかを探りたいからです。

ええ、それが規定の方法、目標となってしまっては、それに縛られていることになるでしょうね。同様に「成長」も一つの目標になってしまえば、それに縛られるということでしょう。求道は一つのパラドクスです。重要なのは、そのパラドクスを解くということなのだと思います。パラドクスに気づいたときにはもうパラドクスではなくなっているということもありますが。

>> ubik0101さんは、常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ、というように語られています。

>たぶん、それは誤解と思います。倒錯の現れは、役に立つ、ということです。自我や欲望が機能してるんだったら、それに埋没するのではなく、それを理解しよう、ということです。

それならば問題はありません。たとえば宗教の現場では、成長のために苦しみがあるということで、苦しい現状が肯定的に語られ、来世に希望が託され、そこに搾取がなされているということもあります。そういう意味ではないということで、了解しました。

>そのようにubik0101が言ってると、たとえばム−ミンさんが対象化したら、“常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ” と言ってるように、思える。ということではないでしょうか。

文章には誤解が付き物でしょう。結論や断定的意見に囚われているのならば、それを対象化して、どうにかしようということもあるでしょうが、ubik0101さんが言ってることについて、質問を提出しているだけですから。誤解があれば、その都度、修正していくだけの話でしょう。

>また。成長という言葉を対象化すると、それも誤解です。倒錯の、なんだかの反対のものを想定するなら、それは倒錯であり、成長ではありません。いまさらム−ミンさんには、言うほどのことではないかもしれません。

了解しました。
「苦しみ」と「成長」は、「絶望」と「希望」に置き換えられなくもないように思います。「絶望」からの逃避としての架空の「希望」ではなく、現にある「絶望」を理解すること。そのとき逃避そのものが「苦しみ」だったと理解できると思います。

No.814 - 2008/05/31(Sat) 10:02:00

Re: 続・成長 / ubik0101
>私の使っている意味の知覚は、主客を分別しません。分別するのは認識です。認識という一つのコーディネーターというか、まとめ役がいないときは五感はばらばらに働いているような感じです。また認識して分別が発生したしても、認識と知覚が一致しているとき、例えばりんごを単に「りんご」と認識しても問題はないでしょう。問題は知覚が自我や渇望という主観的認識によって歪むときです。

ところで。知覚は、見たこと、聞いたこと、思考したことが、そのものでない、と疑うことができません。それは知覚されないことも、ある、と疑いもできないように働いてると思います。あるが、知覚で、知覚が、ある。と思うこともなく、ある、です。

しかし意識は、これを疑う機能があります。ある、ない、を疑えます。知覚できないことも、ある、と。知覚は不正確と。そこで、まだ学んでない混乱した意識が「自我や渇望」で騒ぐなら、ここにない事実、つまり空想と、ここにある事実を混同したりするでしょう。ことさら自他の分離を事実以上に助長したりもするでしょう。しかし「自我や渇望」が理解され静まるなら、意識は無駄な働きを止めて、そのまま知覚を承認するようになります。

しかし、そんな混乱から意識は、知覚の機能を学びました。それが現実の知覚にしても、思考の知覚にしても、知覚の言う通りでないことを知ります。たとえば「自我や渇望」が理解されたなら、その理解されたことは、知覚、自覚されないけど、なくならない・・・無知が転換した智恵・・・を了解しています。とくに、自己が、あるないの範囲にないことを、自覚しないまま自覚してます。それを自覚したら空想です。

ここは、まずは無我の体験が望ましいのです。それからは、様々な経緯があるようです。ケースとしては。まず、主体が、いない。けど、世界は、ある。この場合には。ほかの人に自我があると、空想することで残響のような自我が機能します。ここに人を助けたい思いが発現します。それが自分の状態を教える、信号になります。さらに、主体も、いない。世界も、ない。この場合は、知覚に重点をおいてしまうこともあります。知覚しかない、時間の知覚がない、ことが自分の状態を教える、信号になります。

No.816 - 2008/05/31(Sat) 15:03:31

Re: 続・成長 / ムーミン
>しかし意識は、これを疑う機能があります。ある、ない、を疑えます。知覚できないことも、ある、と。知覚は不正確と。そこで、まだ学んでない混乱した意識が「自我や渇望」で騒ぐなら、ここにない事実、つまり空想と、ここにある事実を混同したりするでしょう。ことさら自他の分離を事実以上に助長したりもするでしょう。しかし「自我や渇望」が理解され静まるなら、意識は無駄な働きを止めて、そのまま知覚を承認するようになります。

知覚は感覚が意識に上ることですから、混乱した意識がそれをとらえれば、当然歪んでくるでしょう。

>しかし、そんな混乱から意識は、知覚の機能を学びました。それが現実の知覚にしても、思考の知覚にしても、知覚の言う通りでないことを知ります。たとえば「自我や渇望」が理解されたなら、その理解されたことは、知覚、自覚されないけど、なくならない・・・無知が転換した智恵・・・を了解しています。とくに、自己が、あるないの範囲にないことを、自覚しないまま自覚してます。それを自覚したら空想です。

渇望などの自我の働きは、なければ当然、知覚はしないでしょう。つまり意識には上りません。意識に上らないことをしいて意識するということもないでしょう。

>ここは、まずは無我の体験が望ましいのです。それからは、様々な経緯があるようです。ケースとしては。まず、主体が、いない。けど、世界は、ある。この場合には。ほかの人に自我があると、空想することで残響のような自我が機能します。ここに人を助けたい思いが発現します。それが自分の状態を教える、信号になります。

無我の体験は、夢から覚めるようなものでしょう。夢の中にいるときにはそれが夢だとは気がつかない。だから人に夢を見ているのですよ、と助言したくなるでしょう。

>さらに、主体も、いない。世界も、ない。この場合は、知覚に重点をおいてしまうこともあります。知覚しかない、時間の知覚がない、ことが自分の状態を教える、信号になります。

「知覚に重点をおく」という意味がわかりませんが、瞑想時の状態を伝えるためにあえて表現するときには「知覚しかない、時間の感覚がない」と言うことはあるでしょう。が、実際「知覚しかない、時間の感覚がない」ときは、あらためて意識もしないでしょう。

No.817 - 2008/05/31(Sat) 16:55:23

Re: 続・成長 / ubik0101
> 渇望などの自我の働きは、なければ当然、知覚はしないでしょう。つまり意識には上りません。意識に上らないことをしいて意識するということもないでしょう。

そういうことを言ってるのではないのです。ム−ミンさんが、このへんに反応しないのは、理由があるように思うのです。ないものは知覚されないといった、知覚に依存してるように、話の印象だけですけど、思えるのです。誤解?でしょうか。

とりあえず自分は、自我とか欲望を持ちだして、そうでない有り様を思うこともなく。つまり、無我や無欲にも、自己や実在にも、依存しない日常です。それで日常が、なぜそうなのかを問うています。ム−ミンさんは、どういう状態ですか。

>「知覚に重点をおく」という意味がわかりませんが、瞑想時の状態を伝えるためにあえて表現するときには「知覚しかない、時間の感覚がない」と言うことはあるでしょう。が、実際「知覚しかない、時間の感覚がない」ときは、あらためて意識もしないでしょう。

あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、とかに関わらない話です。たとえば「時間の知覚がない」からと言って、時間が、ない、というのは変だ、と言ってるのです。

あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、対象や主体は、ある、ない、に関わらない、という話をしていたつもりなんですが。きっと言葉不足だったのかもしれません。

No.819 - 2008/05/31(Sat) 21:25:09

Re: 続・成長 / ムーミン
> >渇望などの自我の働きは、なければ当然、知覚はしないでしょう。つまり意識には上りません。意識に上らないことをしいて意識するということもないでしょう。

>そういうことを言ってるのではないのです。ム−ミンさんが、このへんに反応しないのは、理由があるように思うのです。ないものは知覚されないといった、知覚に依存してるように、話の印象だけですけど、思えるのです。誤解?でしょうか。

ないものが知覚されないのが、知覚への依存ですか?
知覚とは人間に備わった機能だと思いますが。すでに知覚によって成立しているものを、つまり意識にあってわかっているものを、またなくて意識されないものを、さらに意識するというのは、対象化の動きでしょう。対象化の動きというのは、ubik0101さんがたまに仏教から借用されている「増/減」ということでしょう。知覚だけで止まっているならば「不増不減」。増減というのは物が増えたり減ったりということだけではないでしょう。訳によっては「執有論」「執無論」という言い方もあるようで、ある/ないにこだわったりするということでしょう。ubikさんの使う依存とは、このある/ない、どちらかへの偏り、依存ということではなかったですか?まだ、だめ?

>とりあえず自分は、自我とか欲望を持ちだして、そうでない有り様を思うこともなく。つまり、無我や無欲にも、自己や実在にも、依存しない日常です。それで日常が、なぜそうなのかを問うています。

なぜ「日常が、なぜそうなのかを問う」のですか?何物にも依存しない日常に疑問を持っているということではないのでしょ?

>ム−ミンさんは、どういう状態ですか。

思考や感情は機能しています。が、とりあえず、その思考や感情は騒ぎを起こすタイプのものではないので、反対のものを持ち出して葛藤するということはないように思います。

>あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、とかに関わらない話です。たとえば「時間の知覚がない」からと言って、時間が、ない、というのは変だ、と言ってるのです。

「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。

>あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、対象や主体は、ある、ない、に関わらない、という話をしていたつもりなんですが。きっと言葉不足だったのかもしれません。

すでに知覚によって成立している対象をあらためて意識するということは、対象に対する能動的な働きかけがある可能性があるでしょう。そこから、ある、ないも生まれてくるのではないですか?

No.820 - 2008/06/01(Sun) 11:53:31
成長 / ムーミン
>たとえば人は無意識に、自分を知りたくないという無謀な努力をしています。とします。それは日常の行動、言葉、思考に現れます。しかし、それは理解されることで成長の役に立ちます。

>その無謀な努力を止めることも役に立ちます。 また成長したいと望むことも役に立ちます。 どう転んでも、人は学ぶのです。まさにそのようでしかない、そんな感じ。です。

「無謀な努力をしている」ことになかなか気づかないということが難点です。気づかなければ理解されない。何が「無謀な努力」なのかわからなければ、それを止めることもできない。

また、なぜ成長しなければならないのか、なぜ成長を望むのか、また、そもそも前提としている成長とは何を意味しているのか、いろいろ問題が出てきそうです。

No.793 - 2008/05/23(Fri) 10:02:36

Re: 成長 / ubik0101
とりあえず自我、欲望などが、自分を知りたくない「無謀な努力」として機能しています。しかし、その騒がしい運動に人は気がつかざるを得ず、その自我や欲望こそ、自分を鍛えるための、負荷として機能します。

しかし。それに関わらず、関わらないこともなく、人は、自我や欲望に依存しない、自分を知り(変な言い方)ます。それは人が、世界を完全に知り得る、完全に知り得ない、どちらでもないから、そういうことが起こるのだと思います。違う経緯もあるでしょう。

そして、成長ということも、定義できることではありません。もしできるなら、それは、世界に依存しきってるということで、成長ではありません。たとえば植物の種には、水や空気や光は不可欠ですが、それで花は定義できません。

No.794 - 2008/05/23(Fri) 15:31:29

Re: 成長 / ムーミン
>とりあえず自我、欲望などが、自分を知りたくない「無謀な努力」として機能しています。しかし、その騒がしい運動に人は気がつかざるを得ず、その自我や欲望こそ、自分を鍛えるための、負荷として機能します。

「無謀な努力」に気がつかずに、何人の人が自死してしまうことか。日本では一年に三万人を超える人が自死しています。

>そして、成長ということも、定義できることではありません。もしできるなら、それは、世界に依存しきってるということで、成長ではありません。たとえば植物の種には、水や空気や光は不可欠ですが、それで花は定義できません。

自分が思っている「成長」が、実は国家や学校や社会や家庭などで刷り込まれた「理想の姿」に過ぎない可能性があります。また「成長」を求めることが、今ある苦しみ、不満からの逃避ということもあるかもしれません。しかし追求や逃避という心理的な運動こそが苦しみを継続させているのでしょう。そんなとき「成長」を求めることは「無謀な努力」でしょう。この「無謀な努力」に気づき、理解したとき、もはや「成長」は何でもないものではないかと思います。

No.795 - 2008/05/24(Sat) 13:25:19

Re: 成長 / ubik0101
>「無謀な努力」に気がつかずに、何人の人が自死してしまうことか。日本では一年に三万人を超える人が自死しています。

いろいろ空想できますが・・・たとえば自分を自分で要らないとか、理想の自分像と自分の違いを苦しむとか・・・それで、そういう結果なら、とんでもないことと思います。この世界の不思議。そういうことが見えなくなるのかもしれません。

>自分が思っている「成長」が、実は国家や学校や社会や家庭などで刷り込まれた「理想の姿」に過ぎない可能性があります。また「成長」を求めることが、今ある苦しみ、不満からの逃避ということもあるかもしれません。しかし追求や逃避という心理的な運動こそが苦しみを継続させているのでしょう。そんなとき「成長」を求めることは「無謀な努力」でしょう。

たしかに。成長、ということを自分の外に置いて対象にして目指すなら、それは成長とは言えません。それは空想です。それを動機づけ、根拠づけ、意味づけ、たりするために人は、「理想の姿」を捏造せねばならなくなることも。また、成長の代用品として、つまり意味を取り違えて、「追求や逃避」をすることも、あるかもしれません。しかし、その有り様からも、学ぶことができます。

>この「無謀な努力」に気づき、理解したとき、もはや「成長」は何でもないものではないかと思います。

もともと名前をつけられないことに、人は名前をつけているだけです。主に文章で伝達する手段として、そう呼ばないでも成長。なことを、成長と名前をつけて呼んでいます。愛、自由、幸福・・・何でもそうです。

なにかに名前をつけることが問題なのではなく。なにか問題がある状態において人が、名前をつけるなら、そのことで問題が鮮明になる、ということもあります。たとえば自我などの問題があれば、自我と名前をつけなくても、問題です。 とくに問題がなければ、名前をつけても、つけなくても無問題です。言葉とは、そのようなものだと思います。

けど。たとえば友達に、わたしたち友達だねと、言ったりすることは。幸せなときに、幸せと言うのは。たしかに奇妙であり、それは自分の外に置いて対象にしたと、思えることもあるでしょう。また、そうすると、そこに前提にされてる、それと類似なこと、反対のこと、無関係なことなどが、現れてしまう可能性はあります。それで違和感があることもあると思います。それは言葉や実感に依存してるのかもしれません。

No.796 - 2008/05/24(Sat) 18:46:40

Re: 成長 / ムーミン
>もともと名前をつけられないことに、人は名前をつけているだけです。主に文章で伝達する手段として、そう呼ばないでも成長。なことを、成長と名前をつけて呼んでいます。愛、自由、幸福・・・何でもそうです。

言葉と言葉の指し示すものとのギャップは、人間にとって永遠の課題のようです。言葉によって個別性が一般性に、具体性が抽象性に回収されてしてしまいます。一般性や抽象性から思考することは物事の生々しさを失わせてしまいます。たとえば、猫を飼っている人は、その猫を単に「猫」という一般性では語れないでしょう。おそらく「事象そのもの」とは、この個別性であり、具体性なのでしょう。

>なにかに名前をつけることが問題なのではなく。なにか問題がある状態において人が、名前をつけるなら、そのことで問題が鮮明になる、ということもあります。たとえば自我などの問題があれば、自我と名前をつけなくても、問題です。 とくに問題がなければ、名前をつけても、つけなくても無問題です。言葉とは、そのようなものだと思います。

名前、言葉はさまざまなイメージを喚起させ、それとともに過去に記憶された感情を呼び起こします。イメージや過去の記憶からの自由がないとき、人は実際に起こっていることよりもイメージや記憶に翻弄され、傷つき、苦しみます。

>けど。たとえば友達に、わたしたち友達だねと、言ったりすることは。幸せなときに、幸せと言うのは。たしかに奇妙であり、それは自分の外に置いて対象にしたと、思えることもあるでしょう。また、そうすると、そこに前提にされてる、それと類似なこと、反対のこと、無関係なことなどが、現れてしまう可能性はあります。それで違和感があることもあると思います。それは言葉や実感に依存してるのかもしれません。

「対象化」。言葉を換えれば「知る者と知られるもの」「思考者と思考」の分離・対立。その分離・対立があるときとは、ある何かを操作したい、つまりそれは追求や逃避があるときですが、それは苦しみを生みますね。分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。言葉やイメージなどの媒介なしに「事象そのもの」と触れ合うこと。そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。

No.797 - 2008/05/25(Sun) 16:26:18

Re: 成長 / hato

おはようございます。
ムーミンさん、
もりあおがえるには、会えましたか?


ムーミンさんは、私たちが、自我の機能に捉えられたときの状態に警鐘を鳴らしてくださっているのだと、思います。
事象そのもの。
どちらか一方の状態では、物事が起きていてもわからない、ということ。
自我の機能がことさら働いていないなら、言葉を使うことも
とくに問題ではないかもしれません。
この世界は、どういうわけか、そのようになっている、
私たちが、自分を学ぶ、という仕様になっている、ということ、だったでしょうか。

> 「そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。

No.798 - 2008/05/26(Mon) 08:51:35

Re: 成長 / ubik0101
>「対象化」。言葉を換えれば「知る者と知られるもの」「思考者と思考」の分離・対立。その分離・対立があるときとは、ある何かを操作したい、つまりそれは追求や逃避があるときですが、それは苦しみを生みますね。分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。言葉やイメージなどの媒介なしに「事象そのもの」と触れ合うこと。そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。

そうですね。言葉によるイメージと事実との違い・・・そのことも、けっこう意味があるというか、役に立つと思います。でなければ、どうして、ことさら悩んだり苦しんだりできるのか、難しいところです。そして、それは、欲望や自我の機能で、それは結局、自分って何?に繋がると思います。そのために、必要だからあると、思います。

はじめから、ものごころもつかない子供のように天真爛漫で、「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」なら、人は未発達なだけで、自分を問えないかもしれません。そうして問えないなら「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」の了解も、成り立たないように思います。これは同じようで違うでしょう。

おそらく、そうなってる理由が。事実と、言葉の問題もあるでしょうが。事実と、人の知覚の内容は、同じではない。ということにあると思います。たぶん厳密な意味での、「事象そのもの」は知覚できないでしょう。そこにズレがあるから、それが恩恵を与えてくれてるとも思えます。どんなことも不可知なのに、どんなことも不可欠。なぜか、ここは、そういう不思議な世界です。

No.799 - 2008/05/27(Tue) 09:33:31

Re: 成長 / ムーミン
>おはようございます。
>ムーミンさん、
>もりあおがえるには、会えましたか?


はい。大合唱で出迎えてくれました。ウグイスも口笛を吹くと、応えてくれました。

>自我の機能がことさら働いていないなら、言葉を使うこともとくに問題ではないかもしれません。

はい。要点は、言葉にまとわりついているイメージ(感情を含む)からの自由ということではないかと思います。

>この世界は、どういうわけか、そのようになっている、
>私たちが、自分を学ぶ、という仕様になっている、ということ、だったでしょうか。


目的論的に考えることについては、今のところ懐疑的でいます。目的論は心理的運動、時間そのものじゃないだろうか、と思うからです。未来とは、こうあってほしい、ほしくない、という現在の思いの投影ではないかと思います。私にとって「学び」とは、さ迷うこころを「いま・ここ」に連れ戻してくれるもののような気がします。

No.800 - 2008/05/27(Tue) 11:12:17

Re: 成長 / ムーミン
>そうですね。言葉によるイメージと事実との違い・・・そのことも、けっこう意味があるというか、役に立つと思います。でなければ、どうして、ことさら悩んだり苦しんだりできるのか、難しいところです。そして、それは、欲望や自我の機能で、それは結局、自分って何?に繋がると思います。そのために、必要だからあると、思います。

本来ないものをあると見る。事実と空想を誤認する。この倒錯が苦しみを生んでいるのでしょう。とすれば、倒錯が必要ということはないでしょう。倒錯が不要なものだと気づくことではないでしょうか。

>はじめから、ものごころもつかない子供のように天真爛漫で、「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」なら、人は未発達なだけで、自分を問えないかもしれません。そうして問えないなら「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」の了解も、成り立たないように思います。これは同じようで違うでしょう。

「あえて言語化する必要はない」。ここは「イメージや過去の記憶からの自由がないとき」と書いた流れの中で書きました。言語にまとわりつくイメージ(感情を含む)から自由であれば、必要に応じて、つまり伝達の手段としての言語は有用なものですね。ただ、菖蒲の花を見て「菖蒲」だと、あえて対象化し、言語化する必要もないかと思います。対象化、言語化する自分がいないとき、生々しい未知の花に出会っていないでしょうか?

>おそらく、そうなってる理由が。事実と、言葉の問題もあるでしょうが。事実と、人の知覚の内容は、同じではない。ということにあると思います。たぶん厳密な意味での、「事象そのもの」は知覚できないでしょう。そこにズレがあるから、それが恩恵を与えてくれてるとも思えます。どんなことも不可知なのに、どんなことも不可欠。なぜか、ここは、そういう不思議な世界です。

「事象そのもの」、「知覚」という言葉の意味にもよりますが、「事象そのもの」と「認識」とは別だということではないかと思います。「認識」とは過去の知識、経験等の枠組みによるものだからです。「知覚」という言葉の使用には、ずいぶんと幅があるようです。私の場合には「認識」を経由しない、「直接知覚」という意味で「知覚」と使います。

No.801 - 2008/05/27(Tue) 11:47:28

Re: 成長 / ubik0101
>本来ないものをあると見る。事実と空想を誤認する。この倒錯が苦しみを生んでいるのでしょう。とすれば、倒錯が必要ということはないでしょう。倒錯が不要なものだと気づくことではないでしょうか。

たとえば、倒錯してる人が、「事実と空想を誤認する 」です。その誤認を自覚しないでも倒錯しています。そして、ときに心理的な運動に巻き込まれて、倒錯してることに気づかないまま、なんとか気づこうとして苦しみます。その苦しみが、人を鍛えています。いわば必要悪です。せっかくの苦しみを使わないでいる場合もあります。苦しみを自覚しなければ万事OK、ではありません。

>「あえて言語化する必要はない」。ここは「イメージや過去の記憶からの自由がないとき」と書いた流れの中で書きました。言語にまとわりつくイメージ(感情を含む)から自由であれば、必要に応じて、つまり伝達の手段としての言語は有用なものですね。ただ、菖蒲の花を見て「菖蒲」だと、あえて対象化し、言語化する必要もないかと思います。対象化、言語化する自分がいないとき、生々しい未知の花に出会っていないでしょうか?

そうです。ただ「対象化、言語化」する、その機能も、未知です。そのようにして、対象と対象にしてる主体を、知る、と誤解できるだけです。実際は、知りません。そして「対象化、言語化する自分がいない」、そのことも、なぜそうなってるか、知りません。つまり、未知と既知の違いはありません。知るということも、知らないということも、それがなにか知りません。です。

>「事象そのもの」、「知覚」という言葉の意味にもよりますが、「事象そのもの」と「認識」とは別だということではないかと思います。「認識」とは過去の知識、経験等の枠組みによるものだからです。「知覚」という言葉の使用には、ずいぶんと幅があるようです。私の場合には「認識」を経由しない、「直接知覚」という意味で「知覚」と使います。

すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。

そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。

そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。

もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。

No.802 - 2008/05/27(Tue) 17:43:25

Re: 成長 / hato

> 目的論的に考えることについては、今のところ懐疑的でいます。目的論は心理的運動、時間そのものじゃないだろうか、と思うからです。

ほんとうに。
それを目的、と言ってしまうなら、
そうではないと思います。
やはり、どう言ってみても、誤り、といえるのかもしれません。

もりあおがえる、よかったです。
東京では、多摩川がきれいになって、
かれいが帰ってきた、
と聞きました。

No.803 - 2008/05/28(Wed) 08:38:20

Re: 成長 / kigaru

>
> すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。
>
> そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。
>
> そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。
>
> もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。

No.804 - 2008/05/29(Thu) 10:58:01

Re: 成長 / ubik0101
>質問・・・これは、どういうことをいいたいんですか?

それはタイトルの通り、成長についての説明の一環です。

>「ありのまま」さえ、わからないんじゃないかと、そういうことですか?

あくまで世界は、生き物として人が知覚してる、その世界です。気軽さんは、「ありのまま」に知覚してると思っているのでしょうか。そして。「ありのまま」に知覚してるとして、世界って、何でしょう。 また、そういうことは思ってもないのでしょうか。なら。どうして思ってもないのでしょうか。

>可能性・・ですか、言葉だけ、表現上のことだけですか?
>フィクションということですか?
>なにやら、意味不明、ちょっとは考えたんですが・・


それは人の有り様によって違います。理解してれば、勝手な判断と「ありのまま」の分裂、対立に縛られません。しかし、理解してない場合は、縛られてることにも気がつかずに、縛られてる可能性があります。たとえば、あるときは勝手な判断をする、あるときは「ありのまま」と感じる。けど実は、その分裂、対立に縛られてる。そんな状態になる、可能性があります。

>上のほうで、知る、知らない、を知らないとか・・・
>そんなに知らない、知らないという人が、変容とか、成長とか・・・そういう意味はわかるんですか・・・


そうです。知らない、ということを見るためには。変容とか、成長が望ましいのです。気軽さんは、知ってる、ということが、何かを知ってるでしょうか。また。知ってるとしても、知ってる、その自分を知ってるでしょうか。

>それと、なんか、あなたのいってることは、矛盾している、わけのわからないことを独善的に言ってるような気がして・・・わけがわかりません、こういうのを禅問答というんですかね。
>突然、横からすいませんが、もちょっと、わかりやすく言ってください。
>こういうことに興味はあるほうなんですが。


とくに禅問答ではありません。できるだけ正確に表現しています。なんとなく理解したと思うだけでは、誤解の恐れがあります。

なぜか依頼された記事を削除できませんでした。

No.806 - 2008/05/29(Thu) 13:51:33

Re: 成長 / ムーミン
>たとえば、倒錯してる人が、「事実と空想を誤認する 」です。その誤認を自覚しないでも倒錯しています。そして、ときに心理的な運動に巻き込まれて、倒錯してることに気づかないまま、なんとか気づこうとして苦しみます。その苦しみが、人を鍛えています。いわば必要悪です。せっかくの苦しみを使わないでいる場合もあります。苦しみを自覚しなければ万事OK、ではありません。

事実と空想の誤認に気づいていないのが倒錯でしょう。その誤認に気づけば、その時、空想がもたらす格闘は終わりますから、苦しみも終わるでしょう。「苦しみは必要悪である」というのは一つの考え方としてはあるのかもしれませんが、私は採りません。これについては後でも少し書きます。また、「苦しみを自覚しなければ・・・」とありますが、現に苦しみがあるのに、苦しみを自覚しない人っていますか?苦しみがあれば、それはわかるでしょう。

>そうです。ただ「対象化、言語化」する、その機能も、未知です。そのようにして、対象と対象にしてる主体を、知る、と誤解できるだけです。実際は、知りません。そして「対象化、言語化する自分がいない」、そのことも、なぜそうなってるか、知りません。つまり、未知と既知の違いはありません。知るということも、知らないということも、それがなにか知りません。です。

ええ、自意識がないわけですから、そうなるでしょう。主体も客体もないのですから。また未知も既知もない。自意識がない時、生々しい事実とともにいるということを表現したのです。もちろん自意識がない時には「事実とともにいる」とも意識されませんが。

>すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。

魚や鳥や犬の知覚がどんなものかは知りません。が、おそらく自意識というものはないのではないかと推測はできます。人間も自意識がない時、見ている世界が、ありのままか、ありのままでないのか、判断はしないでしょう。

>そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。

「ありのまま」と「勝手な判断」とは「事実」と「虚構」と言い換えられると思います。それらははっきりと区別がつきませんか?その区別がつかない時に苦しみは生まれます。

>そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。

ええ、行動は事実がし示してくれますから。「対立を意識しないまま、それに縛られている」としたら、やはり苦しみが生じるでしょう。

>もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。

人間はアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などから学ぶことは出来ますが、人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などがあったのではないでしょう。

ある哲学者が「現実は理念的である」というようなことを言いました。この言葉の意味するところは、歴史や人間の精神現象は理念に向けての合理的運動、究極目標へと前進する過程だ、ということでしょう。これは一つの解釈に過ぎませんが、前世紀の出来事をみれば、その解釈の楽観性に疑問は生じるでしょう。人間そのものが消滅する可能性もあるのですから。

同様に、私は、苦しみが成長などの何かのためにという考え方は採りません。やはり、解釈としてではなく、事実として、苦しみは、事実と虚構との誤認によって生まれていると言えますし、それに気づくことで苦しみは滅するということでしょう。もちろん、苦しみから学ぶことはできるでしょう。しかし、学ぶために苦しみがある、という考え方には今のところ懐疑的です。

No.807 - 2008/05/29(Thu) 16:17:02

Re: 成長 / ムーミン
>ほんとうに。
>それを目的、と言ってしまうなら、
>そうではないと思います。
>やはり、どう言ってみても、誤り、といえるのかもしれま
>せん。


はい。「どう言っても誤り」です。それが表現の限界なのだと思います。ある哲学者が言いました。「語りえぬものは沈黙するしかない」と。こころが沈黙した時、何が見える、聞こえるでしょうか?

>もりあおがえる、よかったです。

「カラコロ、カラカラコロ・・・」。
どう言ってみても誤りです。

>東京では、多摩川がきれいになって、
>かれいが帰ってきた、
>と聞きました。


清流にしか生息できないという、鮎もしばしば見かけるようになったそうです。

No.808 - 2008/05/29(Thu) 16:27:16

Re: 成長 / hato

世界、といえる事象から、学ぶ、ということしか、
人にできることはないのではないでしょうか。
そう意識していなくとも、そうでしか、ないのでしょう。
世界は人を覚醒させる「触媒」である。
怒り、悲しみ、苦しみ、なぜ、そうなのか、
それは人に問いかけを発生させる。
世界にただ満足するではなく、
関わっているのに関わってもいない、世界。
それは、一体、何なのか?
なぜ、それであり、それを見るのか。

それは、人が、未熟であるなら意識無意識に拘わらず、
どの立ち位置においても、
問いかけざるを得ないことだと思います。


> はい。「どう言っても誤り」です。それが表現の限界なのだと思います。ある哲学者が言いました。「語りえぬものは沈黙するしかない」と。こころが沈黙した時、何が見える、聞こえるでしょうか?

No.810 - 2008/05/30(Fri) 07:41:55

Re: 成長 / ムーミン
>世界、といえる事象から、学ぶ、ということしか、
>人にできることはないのではないでしょうか。
>そう意識していなくとも、そうでしか、ないのでしょう。
>世界は人を覚醒させる「触媒」である。
>怒り、悲しみ、苦しみ、なぜ、そうなのか、
>それは人に問いかけを発生させる。
>世界にただ満足するではなく、
>関わっているのに関わってもいない、世界。
>それは、一体、何なのか?
>なぜ、それであり、それを見るのか。


はい。
求道は一つのパラドクスです。重要なのは、そのパラドクスが解けるということなのだと思います。

>それは、人が、未熟であるなら意識無意識に拘わらず、
>どの立ち位置においても、
>問いかけざるを得ないことだと思います。


はい。
空想に思いを馳せることではなく、今ある自分を問うことだと思います。そして、その問いの中に、もしかすると答えが見つかるのかもしれません。

No.815 - 2008/05/31(Sat) 10:09:51
他人 / ばん
他人って重要だと思いました。
まるで、鏡のように自分の執着している事を映し出してます

嫌な人の嫌な部分に自分の執着していることが、見えました

嫌な人、変わった人に会うのが楽しみになりました。

No.781 - 2008/05/15(Thu) 17:11:02

Re: 他人 / ubik0101
とても凄っ。です。 たぶん。ばんさんの状態を、ほかの人に投影して、それを見ただけ、ではないと思います。投影していれば、投影してることに気がつかず、ほかの人の実際の状態だと思うことがあります。 そのようにして、ほかの人の状態を拒否する場合があります。

そして、ほかの人を拒否することで、とくに根拠がないのに、そのような嫌な部分がないだろう優れた自分に、執着してるってこともあります。それは自分を学びたくない、ことに繋がりやすいのです。

そうでなく、ほかの人の実際の状態を、見て。そこに、自分の状態を見たのでしょう。それでいて、ほかの人の状態を拒否しないで「嫌な人、変わった人に会うのが楽しみになりました」 。 それは、自分の執着、また執着してないことを直視すること、学ぶことだと思います。

No.782 - 2008/05/15(Thu) 20:35:37

Re: 他人 / hato

> 他人って重要だと思いました。
> まるで、鏡のように自分の執着している事を映し出してます
> 嫌な人の嫌な部分に自分の執着していることが、見えました


ほんとうに、。
ぴったりな表現と思いました。

執着していること。
執着していないことを学ぶ。

偏りがない、とは、
どうでもよい、
けれどどうでもよくない、

偏っていても別によい、
でも、それだけ、でもない。

人がとりあえず、自分でないもの、として他を見る。
見るときにそのような状態になる。
その時の自分の状態を学ぶ。
それと引き合っているという状態を学ぶ。

知覚とは差。
なんでしょう、それは。

学ぶ、とはなぜ、そうなのでしょうか。
人が本当に平和である為でしょうか。

No.783 - 2008/05/16(Fri) 23:13:05

Re: 他人 / ubik0101
なにかを知覚します。すると人は、その対象と知覚の内容が、同じだと思う傾向があります。その花は、その花です。あの鳥は、あの鳥です。この思考は、この思考です。と思うまでもなく、思っています。

それでいながら、その人と、対象との「差 」 が知覚です。けど。 花や蝶や思考を見ながら、それを、ある、ない、と思いもしません。そして対象にしている、自分を、ある、ない、と感じもしません。

けれど。なにか対象や、対象にしてる自分が、ある、としたりすると。つまり、ある、に偏ると・・花や鳥や思考や自分は、たがいに違うという帰結になりやすく・・それにまた執着し・・それは変化することを拒否したり、過剰な変化を望んだりすることに繋がりやすく・・それが自我の機能になり得ます。そうなら、ほかの人と自分の、ことさらの分離/融合が問題になるでしょう。

しかし、その執着は不要です。その花は、その花です。あの鳥は、あの鳥です。この思考は、この思考です。そして。その学んでいる自分は、ある、とか、ない、とかさえ、見ようもありません。

その学んでる中心は、知覚できないし、誰もいない、と言えます。(ここでは 知覚=対象ではない、という問題は度外視します)。それなのに自分や、ほかの人の、中心に誰かを設定する、そのことは人が成長してないことで、それが不安などとして現れるのでしょう。

そして人が、自分にも、ほかの人にも、その中心に誰も、ある、と設定しなければ、ほかの人と自分を、ことさら以上に違うとすることによって生じる、争いなどの問題は起こらず、平和が実現すると期待はできます。

なんにしても人は、自分でないことを学ぶのかもしれません。けど。それ全体で言えばなんの目的があって学ぶということもなく。ただ学ぶ。のかもしれません。また。学ぶこと、でないことはないと思います。

> 学ぶ、とはなぜ、そうなのでしょうか。

うーん。なぜ、学ぶことが、学ぶことなのか。なぜ、この世界が、この世界なのか。これは困難な疑問です。解釈、説明ができるだけなのかもしれません。

No.784 - 2008/05/18(Sun) 12:04:32

Re: 他人 / hato

ここではお見通しですから、隠すことはないのです。
hataさん、と言われた通りです。
それは自分でない、と思いたい面がありました。
けれど、よくわかっていると思います。
それは自分でもあります。
怒りは、芽吹き、稲妻のエネルギー、変化。
それは、その人から学んだのです。
たがいに、成長を止めなければ、よいのですね。

不安。これもその通りです。でもきっと、超えていきます。
変化。常にそうせざるを得ないと思います。

> うーん。なぜ、学ぶことが、学ぶことなのか。なぜ、この世界が、この世界なのか。これは困難な疑問です。解釈、説明ができるだけなのかもしれません。

これは。
ubik0101さんは既に、見られたのでは、と思いました。
人が、どんなことがあっても、善であること。
そのために世界がある、と、ubik0101さんは提唱されていると思います。

No.785 - 2008/05/19(Mon) 00:12:54

Re: 他人 / hato

また。
叩き起こされてしまいました。
もう少し、きちんと言わなければならないようです。

なので、
ことさら判別する必要はない、ということです。
人との関係性において、それが必要になるのは、自我が設定されているとき、即ち、自分の為を考えているときです。
そうです、あのときは、自我そのものを生きていたので、
そのなかでは、判別すること、が必要でした。

けれど、自分の為、は必要ないのです。
なので、その執着も不要、なのですね。

No.786 - 2008/05/19(Mon) 05:35:12

Re: 他人 / ubik0101

> けれど、自分の為、は必要ないのです。
> なので、その執着も不要、なのですね。


これは。hatoさんは解ってるでしょうが、おなじことを逆の表現もできます。

あれやこれやに迷わされる執着や自我を満足させるためではなく、ほんとうに、ほんとうに、自分のために、するのです。徹底的に、自分のために、するのです。

そのために執着や自我の機能が不要になるのです。

No.787 - 2008/05/19(Mon) 09:05:27

Re: 他人 / ばん
もしかしてなんですけど

世界は私を覚醒させる為に働き、私は誰かを覚醒させる為に働いている。

だから、人の迷惑になるとか、嫌なやつと思われるとかで、いろんな事を我慢する、これは自分の為にも、人の為にもならない。

人は何も考えず、何かに自動運転されながら、感じる事(苦しい事、悲しい事、楽しい事、嬉しい事)の出来る喜びを味わう為に生きてる(生かされてる)のかなと思いました。

No.788 - 2008/05/19(Mon) 15:25:16

Re: 他人 / ubik0101
もし人が世界を、このような世界と思うなら、その通りに、世界は現れます。たとえば世界を、なんだかの意味があると思うと、そのように。無意味と思うと、そのように、現れます。

けど。それは総べて、世界観です。そして、それは。それと類似のこと、それと反対のこと、それと無関係な、世界観を発生させます。どれも、事実ではありません。

あのような、このような、どのようなこと、でも世界は、ないと思います。たとえば「人の迷惑になるとか、嫌なやつと思われるとかで、いろんな事を我慢する」。この、どんなことも人の役に立ちません。しかし、まさに、その。どんなことも人の役に立ちます。そうであってこそ、人の成長が可能です。

と、言うのも。そうでないなら、それは鋳型に入れられた学びや成長で、実際のことではないからです。いかなる世界観も持たないこと。持たないことも持たないこと。素直。それが始まりです。そしてそうであれば、それが総てと言っていいでしょう。

しかし人が、世界観を持つとしても。それが問題ではありません。世界は、その世界観を助長させる働きもします。人が成長を望まないなら、それなりに、欲望、自我、偽善、怠惰・・・そして望むなら、それなりに、修行、努力、意志・・・世界はそのために働きます。そして。この総べてが、成長のために役に立ちます。なにか真理があり、なにか不真理があるのではありません。

No.789 - 2008/05/19(Mon) 19:45:30

Re: 他人 / peer
アレですかね。

>あのような、このような、どのようなこと、でも世界は、ないと思います。たとえば「人の迷惑になるとか、嫌なやつと思われるとかで、いろんな事を我慢する」。この、どんなことも人の役に立ちません。しかし、まさに、その。どんなことも人の役に立ちます。そうであってこそ、人の成長が可能です。


蜜蜂が・・・そっと蜜をいただくように。
蜜蜂は花から蜜をいただきますが、意図せず花の役にたつ。
自然の摂理がただそこにある。
そんな感じ?

No.790 - 2008/05/20(Tue) 01:36:30

Re: 他人 / ubik0101
たとえば人は無意識に、自分を知りたくないという無謀な努力をしています。とします。それは日常の行動、言葉、思考に現れます。しかし、それは理解されることで成長の役に立ちます。

その無謀な努力を止めることも役に立ちます。 また成長したいと望むことも役に立ちます。 どう転んでも、人は学ぶのです。まさにそのようでしかない、そんな感じ。です。

No.791 - 2008/05/20(Tue) 09:09:37

Re: 他人 / hato

ほんとうに、そう、思います。

No.792 - 2008/05/21(Wed) 09:00:49
眠りと知覚 / hato

知覚、について続けられるでしょうか。

眠りのとき、それはどうなっているでしょう。
通常、知覚はされているけれどもそれが、
身体的に過剰に意識されないですむように止められていると思います。
多くの情報が届いていて、それを上手く消化できないと、
抵抗として眠り過ぎる、ということがあるかもしれません。
自我が働いている場合はとくに、外から届く情報は速やかに処理されないので、疲労感、抵抗が発生し、ことさら無自覚でいようとする、ということもあるかもしれません。
すべてがそうとは限りませんが、そんなことがあるように思います。

No.732 - 2008/05/03(Sat) 10:55:54

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ふつうには身体の感覚器官は働いているけど、接触が切れているので、意識が、感覚を見てないのが、眠りだと思います。そして眠り過ぎたりすると、それに飽きて意識が、勝手に対象を作って、つまり夢を見て、意識が自分を感じたくなるのだと思います。

わりとよく。たとえば知覚と対象との関係とは・・・とか、眠りながら考えています。でも、その考えは、ほとんど概念として固定された姿です。それを違う角度から見たり、動かしたりするのは、できることもありますが、困難です。

また眠っていて、思考や夢などの対象がない意識は、記憶には関わってないと思います。それは目覚めてるときも同じで、風景を見ながらも思考してない意識、それは積極的には、記憶に関わってないと思います。

ところで、自我。それは人が自己を知るための機能ですが、同じことが、自己を知りたくない努力としても機能するので。無意識にも自己を知りたくないなら、目覚めている時だけでなく、確認していませんが、眠っていても。問題に背を向け、自分を知りたくない努力をする、ということもあるかもしれません。

No.733 - 2008/05/03(Sat) 14:06:45

Re: 眠りと知覚 / hato

> ふつうには身体の感覚器官は働いているけど、接触が切れているので、意識が、感覚を見てないのが、眠りだと思います。そして眠り過ぎたりすると、それに飽きて意識が、勝手に対象を作って、つまり夢を見て、意識が自分を感じたくなるのだと思います。

> わりとよく。たとえば知覚と対象との関係とは・・・とか、眠りながら考えています。でも、その考えは、ほとんど概念として固定された姿です。それを違う角度から見たり、動かしたりするのは、できることもありますが、困難です。

これは、やはりわたしにとっては、起きているときに学ぶ、ということ。

> また眠っていて、思考や夢などの対象がない意識は、記憶には関わってないと思います。それは目覚めてるときも同じで、風景を見ながらも思考してない意識、それは積極的には、記憶に関わってないと思います。

夢がやってくる瞬間を見たことがありました。見ていた意識、には知覚の機能、しかなかったような気がします。
風景を見ながら思考していない意識、と思います。
ですが、意識は自分を感じようとする。そのように出来ている。
知る、とは対象にしたものを見ている自分を感じること。
それを、知る、という。
その自分が対象から受けている、学んでいる感覚。
それが、知る。
その意識にとってはその自分も、その自分が対象にしている事象も、対象。

> ところで、自我。それは人が自己を知るための機能ですが、同じことが、自己を知りたくない努力としても機能するので。無意識にも自己を知りたくないなら、目覚めている時だけでなく、確認していませんが、眠っていても。問題に背を向け、自分を知りたくない努力をする、ということもあるかもしれません。

また叱られてしまいました。
問題の根幹はそこと思います。

それでも少しずつ、
なにかが剥がれている気がします。

No.734 - 2008/05/03(Sat) 18:04:36

Re: 眠りと知覚 / hato

思えばたくさんお話させて頂きました。
ありがとうございます。

待っている方もおられると思います。

皆様どうぞ、お話してください。

No.735 - 2008/05/03(Sat) 23:13:37

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>その意識にとってはその自分も、その自分が対象にしている事象も、対象。

ここで。ほんとうに、hatoさんの日常で、「その意識にとっては、その意識も、対象 」。かどうか確認してみると、いいと思います。

No.736 - 2008/05/04(Sun) 08:03:57

Re: 眠りと知覚 / hato

>その意識にとってはその自分も、その自分が対象にしている事象も、対象。
>
> ここで。ほんとうに、hatoさんの日常で、「その意識にとっては、その意識も、対象 」。かどうか確認してみると、いいと思います。


今、パソコンを対象にしている自分を感じている、それが意識だといえます。パソコンも自分も、ある意味自分という、そんな感じがあります。見ている景色もそのようです。
わたしの場合は、この身体のほうに、意識がより捉えられている、と思います。

互換性がなければ、接触は起きないということでしたでしょうか。その思考が届きましたが、そこを明確に認識されているとは、まだいえないと思います。

ubik0101さんや、のりさんの超意識、とは、
意識/無意識が静まった一切。
それは、事象そのものであり、それを見る、ということでしょうか?

No.737 - 2008/05/04(Sun) 14:00:57

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>ubik0101さんや、のりさんの超意識、とは、
>意識/無意識が静まった一切。
>それは、事象そのものであり、それを見る、ということでしょうか?


意識/無意識が静まった、というより、その全活動状態が超意識です。そのことによって、不完全だから機能している、主張し続ける自我や、求め続ける欲望が完成されるから、それが機能する必要がなくなるために、そういう自我や欲望に巻き込まれる必要がなくなります。

だから、自我や欲望に騒がされてた意識/無意識は、静まるのです。それで世界は、人としてはですが、ありのままに見られます。哲学的な意味(ほとんど知らないので)では、事象そのもの、と呼べるかはわかりません。

No.738 - 2008/05/04(Sun) 15:47:27

Re: 眠りと知覚 / hato

> だから、自我や欲望に騒がされてた意識/無意識は、静まるのです。それで世界は、人としてはですが、ありのままに見られます。哲学的な意味(ほとんど知らないので)では、事象そのもの、と呼べるかはわかりません。

はい。
わたしは、自分の経験に沿った言葉だけを、正確に使わなければなりませんでした。
哲学などはよく知りません。事象そのもの、というのは、起きている事実、ということだと思いました。
なので今、ubik0101さんが、人としては、という表現をされる意味が腑に落ちたと思います。

No.739 - 2008/05/04(Sun) 22:10:29

Re: 眠りと知覚 / hato

わたしは、なによりまず
謙虚に、素直でなければなりません。
申し訳ありません。
めったうち状態です。

No.740 - 2008/05/04(Sun) 23:11:57

Re: 眠りと知覚 / hato

ubik0101さん、皆様に、ありがとうございます。

ubik0101さんの絶妙な先導で、
やっと、ここまできました。
傲慢さ。特別でいたい、いなければ、
自分はなにか、稀なのだと、そうでなければというところ。
いつも表現されていたけれど、今ここで捨てられるのではと思います。

No.741 - 2008/05/05(Mon) 07:57:51

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ところで。なにか、言葉や映像として思考だけを見てるとき、その思考を見てる誰かは知覚されるでしょうか。また、風景だけを見てるとき、その見てる意識が、意識の対象になるでしょうか。
No.742 - 2008/05/05(Mon) 08:21:21

Re: 眠りと知覚 / hato

> ところで。なにか、言葉や映像として思考だけを見てるとき、その思考を見てる誰かは知覚されるでしょうか。また、風景だけを見てるとき、その見てる意識が、意識の対象になるでしょうか。

ならないと思います。

No.743 - 2008/05/05(Mon) 16:30:23

Re: 眠りと知覚 / hato
>
> > ところで。なにか、言葉や映像として思考だけを見てるとき、その思考を見てる誰かは知覚されるでしょうか。また、風景だけを見てるとき、その見てる意識が、意識の対象になるでしょうか。



うー。ちょっと、混乱しました。

意識、に依存しない、ということは、
わたしは意識ではないもの、
と言っていると思います。

No.744 - 2008/05/05(Mon) 17:24:46

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
> ならないと思います。

うん。では自我はどこにいるでしょう。

> うー。ちょっと、混乱しました。
> 意識、に依存しない、ということは、
> わたしは意識ではないもの、
> と言っていると思います。


そうです。けど、自己は意識の範疇にはありません。あるのなら、これ、とか、それ、とか探せば見つかるのですが、そうではありません。また、ある、とか、ない、とかいう限定されたものでもありません。どんなことにも依存できないし、依存の対象になりません。

それで、意識にとっては、自己は知覚の対象にならず、この世界しか対象になりません。この世界は、誰のものでもない素材でできていて、どこにも自我はいません。また世界も、ある、とか、ない、とか限定されたものではありません。( 自我は、あるに偏って空想された自己とも言えます)。

そして。見たと思いますが、図書館閲覧者さんのブログより引用します。「その思考・感情・感覚は、本当に「あなたのもの」だろうか?」。

No.745 - 2008/05/05(Mon) 18:25:31

Re: 眠りと知覚 / hato

再度改めてみます。

風景を見ているとき、一体感があります。
それは、ひとつ、という感じです。
なので、そのときに、意識が意識の対象となることはないと思います。

そして、そこになにか思考が流れてきても、そうしたことに無関係に、確定しているものがあります。それは、感覚とはいえない気がします。

No.746 - 2008/05/05(Mon) 18:27:19

Re: 眠りと知覚 / hato

また。すみません。

> うん。では自我はどこにいるでしょう。

自我は、機能、なのですね。
それを、学ぶのですよね。
しつこく学び過ぎているでしょうか。

> 「その思考・感情・感覚は、本当に「あなたのもの」だろ   うか?」。

それが世界の機能だと、了解していると思います。

No.747 - 2008/05/05(Mon) 18:46:48

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>風景を見ているとき、一体感があります。
>それは、ひとつ、という感じです。
>なので、そのときに、意識が意識の対象となることはないと思います。


そうです。

>そして、そこになにか思考が流れてきても、そうしたことに無関係に、確定しているものがあります。それは、感覚とはいえない気がします。

その無関係に確定してることとは、もしかして完全な分離も融合もない、ということかもしれません。

No.748 - 2008/05/05(Mon) 18:48:01

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>自我は、機能、なのですね。
>それを、学ぶのですよね。
>しつこく学び過ぎているでしょうか。


ううん。自我そのものは、虚構、と了解してれば無問題です。

No.749 - 2008/05/05(Mon) 18:59:23

Re: 眠りと知覚 / hato

> >そして、そこになにか思考が流れてきても、そうしたことに無関係に、確定しているものがあります。それは、感覚とはいえない気がします。

> その無関係に確定してることとは、もしかして完全な分離も融合もない、ということかもしれません。


ありがとうございます。
大事なところを飛ばしてしまう傾向があります。
先にそうしたことがあるのですね。
言葉を、使うことは、本当に学びと思います。

No.750 - 2008/05/05(Mon) 19:57:30

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ほんとうに。言葉で見ることは、学ぶことと思います。それはすでに、人が、見られたこととは距離があるということでもあり・・そこに留まるなら自我が設定されることもありますが・・でないなら成長する、ということでもあります。
No.751 - 2008/05/05(Mon) 20:21:54

Re: 眠りと知覚 / hato

> ほんとうに。言葉で見ることは、学ぶことと思います。それはすでに、人が、見られたこととは距離があるということでもあり・・そこに留まるなら自我が設定されることもありますが・・でないなら成長する、ということでもあります。

はい。
貴重な学びとなりました。
上記お話の通り、どうするの、と思いましたが、
留まらないことが大事。
0101ですね。
無関係に確定・・の件、ちょっとたぶん。でも、
了解致しましたと思います。
ありがとうございます。

No.752 - 2008/05/05(Mon) 21:05:08

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
こちらこそ、です。
No.753 - 2008/05/06(Tue) 00:01:13

Re: 眠りと知覚 / hato

0101・・

ここに出会えたこと、
とても嬉しいです。

No.754 - 2008/05/06(Tue) 21:21:33

Re: 眠りと知覚 / hato

いや。

嬉しいだけではもちろん。
ないけれど。
そうでないことも多いけれども。

学び、成長する、ことを改めて、
響かせて頂いたこと。

No.755 - 2008/05/06(Tue) 21:55:15

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
これ、と体験を聞かなくても、言葉は真摯で、染み込んできます。
No.756 - 2008/05/06(Tue) 22:28:31

Re: 眠りと知覚 / のり
hatoさん、ウビさん、こんにちは。ご無沙汰です。
 最近の私の感想です。
 この社会は大自然・野生の王国です。人間自身の中身も精神的にも同じで大自然・野生の王国です。アフリカのジャングルに負けません。これを止めるのは太陽が昇るのを止めるようなモノです。思考も感情も大自然の作用です。自分を構築したり、破壊して発展させたりする宇宙の作用です。   それが意識の鏡に映ります。鏡に映らないようにしようとするのも大自然に歯向かう行動です。意識は世界全てをただ映すだけです。自分が得てきた記憶から焦点を変えて抽出します。自然は自然のままです。この作用を学ぶのも道ですが、作用と作用の間、思考と思考の間には何があるのでしょう?ずーっと考え続けている訳ではないので間があります。この間を学ぶのも一つの道として善いのではと思っています。私の場合、いろいろなエネルギーに異常に敏感体質で、この間に居ますとビンビンきます。
それでは

No.759 - 2008/05/08(Thu) 16:54:36

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ひさしぶりです。ところで。たとえば思考が止まったまま世界を見ると、感覚しか機能していません。

この瞬間に生まれた、この世界を見てる。その世界に時間は感じられないのですが。それより自分に過去が感じられません。

この世界が不思議ということも忘れ、自己も忘れ、実在も忘れ、それでいて自分の状態が変化します。

ネットで、こんなの見つけました。

http://www.grasshopper.com/stop-time-nihongo/

No.761 - 2008/05/09(Fri) 07:31:25

Re: 眠りと知覚 / hato

のりさん。おはようございます。
いつもありがとうございます。
お返事を頂けてとても、嬉しいです。

前にのりさんが、「個は全体に展開されることが恐い」
とお話されていたことを最近、思い出していました。
そのように出来ている、自我の機能を思いました。

わたしが最近学ばせて頂いているのは、白と白の違い、ということかと思います。
これは、自分がそうでなければ話にもなりませんけど。

こうしたことにも行く先があるらしい、もしくは、
そのように見えるだけ、学びの範疇なだけ、なのかどうか。
まだ、わたしには判断がつきません。
現象といえることは、宇宙を、世界を、或いは自己を、本源とするなら、なにがあってもよいのでは、とも思われてしまうからです。
ただここで、意識と法。ということを学べることを、幸せ、と思います。
何だかわからない、なかで、そこを生きようとする、ことを美しいと感じます。
そうした微妙で繊細なことを扱うとき、
ubik0101さんの言われる道が生きてくるのではと、思います。
そんなことを感じました。

No.763 - 2008/05/09(Fri) 08:07:17

Re: 眠りと知覚 / のり
 おはようございます。
> 思考が止まったまま世界を見ると、感覚しか機能していません。> この瞬間に生まれた、この世界を見てる。その世界に時間は感じられないのですが。それより自分に過去が感じられません。> この世界が不思議ということも忘れ、自己も忘れ、実在も忘れ、それでいて自分の状態が変化します。
 なるほど、感覚しか機能してないのですね。だからビンビンくるのですね。
確かに時間がなくなります。自分の範疇が広がって手足がジンジンして頭の中では何かがウワンウワン言ってます。<それでいて自分の状態が変化していきます。>です。
これを見ていますと、まさに大自然の営みです。前回の投稿で言葉にしましたが、(私が言葉にしますとどうしても陳腐になってしまいます)もっと、本当に大草原を見るように、アフリカのサバンナを見るように(本物は見たことありませんが)この街が、自分の中が大自然のように見える時があります。
> ネットで、こんなの見つけました。
> http://www.grasshopper.com/stop-time-nihongo/
<私達は経験と信念の間の割れ 目に気が付き、もっと探ってみたくなるだろう。>
そうそう今はこれに執着してます。これがアノ空間に繋がっている直感がするのです。ここに居ますといろいろな事が客観的に見えます。人の会話が自分の中の何かにぶつかって反応したり通り抜けていったりするのが良く見えます。でも空想もできませんので生活がどうなるか心配です。
もっと探ってみます。

No.764 - 2008/05/09(Fri) 09:46:41

Re: 眠りと知覚 / のり
> 前にのりさんが、「個は全体に展開されることが恐い」
> とお話されていたことを最近、思い出していました。
> そのように出来ている、自我の機能を思いました。

 はい、自分を作ろうというのと、壊して発展しようという二つの作用があるみたいです。
>
> わたしが最近学ばせて頂いているのは、白と白の違い、ということかと思います。

これはチョッと難しくてわかりません。私は“ゴミを捨てる時に中味はじっくり見ない”という言葉に出会い今は割れ目に執着しています。

>宇宙を、世界を、或いは自己を、本源とするなら、なにがあってもよいのでは、とも思われてしまうからです。
はい、何があっても良いと思います。それに引き摺られなければ良いと思います。
> ただここで、意識と法。ということを学べることを、幸せ、と思います。
本当に!次は何に出会うのか楽しみです。
> 何だかわからない、なかで、そこを生きようとする、ことを美しいと感じます。
何だかわからない自分をなんだかわからない自分で超えて行く。醍醐味です。

No.765 - 2008/05/09(Fri) 10:14:41

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
> もっと、本当に大草原を見るように、アフリカのサバンナを見るように(本物は見たことありませんが)この街が、自分の中が大自然のように見える時があります。

きっと、のりさんは、そういう感覚なんだろうな。と、その風景が見えるように伝わりました。また。どうやっても、呼吸するだけでも、人は世界を変え続けてることに、関係するのかな。とも思いました。

><私達は経験と信念の間の割れ 目に気が付き、もっと探ってみたくなるだろう。>
>そうそう今はこれに執着してます。これがアノ空間に繋がっている直感がするのです。


そんな感じはします。しかし自分にとっては、まだ、知覚と対象とか、自己や実在を忘れることとか、さまざまな関係あることを、理解する必要を感じています。

No.767 - 2008/05/10(Sat) 07:00:33

Re: 眠りと知覚 / hato

> 何だかわからない自分をなんだかわからない自分で超えて行く。醍醐味です。

ありがとうございます。
のりさん、また、学ばせて下さい。

No.768 - 2008/05/10(Sat) 23:53:00

Re: 眠りと知覚 / hato

ubik0101さん、

現象はなんだかわからない様相で起き続けていて、うねり続けていて。
それはその人の意識の位置、つまり事象を認識する焦点の位置と有り様によって勝手に判断決定されざるを得ない。
そこで物語が生起するかのように見える、もしくは実際にしている。
人の意識の焦点の位置、位相の違いによって、流れてくる思考、感情、の質は変わる。また、投影される内容の質も変わる。けれど、思考、感情、感覚そのものは、世界の機能。
意識されなくても失われたわけではない、
とするなら、
ひとつの見方として、それは、それを表出できる可能性のある人のところに向かう?ということでしょうか?

No.769 - 2008/05/11(Sun) 09:39:37

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
たとえば騒がしい街で、人の話を聞くには大声が必要です。けど、静かなら、小さな声でも、気配だけでも、聞こえる、ということかもしれません。つまり人が静かなら、微細なことまで見えるようになる、こともあります。

また、なにかに疑問を持つということは、その人に、なにかの問題が自覚されつつある、疑問を解く準備ができた、ことでもあります。まったく準備ができてなければ、また解決してしまってたら、なにかが訪れても、人は注意できないと思います。

そういう自分の状態という、罠を仕掛けて、人は、獲物を待っているのかもしれません。すると思考、感情、感覚が、罠にかかり、知覚され表現される、のかもしれません。

これまで、「それを表出できる可能性のある人のところに向かう?」のように、それが人に向かう意図、意志があるようには、思ってもみませんでした。 どうしてhatoさんは、そう思ったのだろうと思います。

No.770 - 2008/05/11(Sun) 10:59:25

Re: 眠りと知覚 / hato

> これまで、「それを表出できる可能性のある人のところに向かう?」のように、それが人に向かう意図、意志があるようには、思ってもみませんでした。 どうしてhatoさんは、そう思ったのだろうと思います。


また。投稿してから後悔してしまいました。
あたまが。いたいです。

人は呼吸をするだけで、世界を変え続けていける、ということは、すべてが共有されている、ともいえるのではと、思いました。そうでない、ともいえるけれども、そうとも、いえる、と思っていました。
そのように、了解していた、と思います。
感覚、思考、感情に意図や意志があるようには、思いませんでした。
それは人の状態による、接触作用によってと、思いました。

No.771 - 2008/05/11(Sun) 14:07:12

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
もちろん。表現は、何でもありです。 たとえば“イラストレーター”などの絵描きソフトは、1人が使っても、何十万人のユーザーが使っても。それはひとつ。共有されてるとも言えます。ちょっと意味は違いますが、不増不減。しかも、みんなが、それで違う絵を描く、ようなこと、とも言えると思います。

それでいいのです。hatoさんに、言うほどのことでもないと思いますが。ただ、真摯なことが大切です。そうでなく、誤魔化したり、隠し事をしたり、思いもしないことを言ったら、その自分さえ見逃します。真摯なら、たとえミスしても、それが役に立ちます。素直ならば、どこまでも大丈夫です。その意味ではミスはありません。

「それは人の状態による、接触作用によってと、思いました」。うん。この危うさ、はかなさ、まあ、手のひらに受けた瞬間に消えてしまう、淡雪の結晶。それは、美しい現象と思います。

ところで。たしかに、世界は、共有されています。しかし。総てのことが自分なら、そこからも、どこにも、自分は、いない、ことに帰結されると思います。無我。それは自我に対する無我でもあるけど。それよりも。まったく自己などいない、という意味でもあると思います。

No.772 - 2008/05/11(Sun) 15:30:34

Re: 眠りと知覚 / hato

> たとえば騒がしい街で、人の話を聞くには大声が必要です。けど、静かなら、小さな声でも、気配だけでも、聞こえる、ということかもしれません。つまり人が静かなら、微細なことまで見えるようになる、こともあります。

これは、のりさんとのお話のところでわたしが話したことに関連しているでしょうか。

静かさ。わたしの場所からでも、かろうじてそれがわかります。思考や感情の喧噪がある状態でも、必ずそこにも、
静かさがあるからです。
散歩をしてきました。街に出て、腰掛けていると、人の流れ、鳩やつばめが飛び交う様、木々の揺らめき、
目に見えない空気の流れが、のりさんの言われる、大自然の営み、と感じられます。

誤解を恐れず言ってみます。わたしの位置からは、ということですが、静けさ、は時として危うさでした。またもや表現を誤っているかもしれません。
静謐さを獲得し、人として魅力的で、社会に貢献すると自負する人に出会ったことがあります。
そこではなにより、成長に応じた自分の危うさを見たといえるし、その様な人であったともいえます。
敏感であり、非常に繊細であったのです。見えないものを見る人でした。
上手くいえません。ubik0101さんはきっとそれを、静か、とは決していわないでしょう。

学ぶ必要のあることだけを学ぶために、
判別することは自分にはとても大切なことでした。

No.773 - 2008/05/11(Sun) 18:34:56

Re: 眠りと知覚 / hato

> ただ、真摯なことが大切です。そうでなく、誤魔化したり、隠し事をしたり、思いもしないことを言ったら、その自分さえ見逃します。真摯なら、たとえミスしても、それが役に立ちます。素直ならば、どこまでも大丈夫です。その意味ではミスはありません。

はい。
これは、反省します。

No.774 - 2008/05/11(Sun) 18:49:21

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>これは、のりさんとのお話のところでわたしが話したことに関連しているでしょうか。

とくにhatoさんが言った「微妙で繊細なことを扱う」という言葉は、意識はしてませんでした。たとえば、この世界が、この世界として、機能してるとして、なぜ、そうなってるのだろう。という疑問があります。

これは不思議でも、日常が真理でも、知らない、でも、充分かもしれません。けど。とりあえず無謀な問いかもしれませんが。それが、なぜそうなのかを探りたいのです。

なにか見ることができるのか、まったくできない相談なのかもしれませんが。自我や無我も忘れて、ほとんどなにも騒いでいない現状で、なりゆきでそんな疑問が生じ、注意深さの必要を感じています。そのことを念頭に話ました。

>静謐さを獲得し、人として魅力的で、社会に貢献すると自負する人に出会ったことがあります。
>そこではなにより、成長に応じた自分の危うさを見たといえるし、その様な人であったともいえます。


>敏感であり、非常に繊細であったのです。見えないものを見る人でした。
>上手くいえません。ubik0101さんはきっとそれを、静か、とは決していわないでしょう。


これはhataさんが、hatoさんに危うさを見たのか、その人に危うさを見たのか、その人がその人に危うさを見たのか、読み取れませんでしたが。素晴らしい人だろうと思いました。きっと、ubik0101と質の違いを感じるのでしょう。

>学ぶ必要のあることだけを学ぶために、
>判別することは自分にはとても大切なことでした。


うーん。日常から学べば充分ですが、たがいに学ぶことは無意味ではないと思います。

No.775 - 2008/05/11(Sun) 20:24:53

Re: 眠りと知覚 / hato

ああ。なんとどつぼに填ってしまうことでしょう。
もっと、整理してから言えばよかった。

> とくにhatoさんが言った「微妙で繊細なことを扱う」という言葉は、意識はしてませんでした。たとえば、この世界が、この世界として、機能してるとして、なぜ、そうなってるのだろう。という疑問があります。
> これは不思議でも、日常が真理でも、知らない、でも、充分かもしれません。けど。とりあえず無謀な問いかもしれませんが。それが、なぜそうなのかを探りたいのです。
> なにか見ることができるのか、まったくできない相談なのかもしれませんが。自我や無我も忘れて、ほとんどなにも騒いでいない現状で、なりゆきでそんな疑問が生じ、注意深さの必要を感じています。そのことを念頭に話ました。


はい、ubik0101さんはそのようだと思いました。
ubik0101さんは、新たに見る、と言われました。

> これはhataさんが、hatoさんに危うさを見たのか、その人に危うさを見たのか、その人がその人に危うさを見たのか、読み取れませんでしたが。素晴らしい人だろうと思いました。きっと、ubik0101と質の違いを感じるのでしょう。

ここで言いたかったのは、その人云々ではなくて、(というか、ubik0101さんにはやはり、素晴らしい人としか見えないのだから、問題はわたしにある。世界は絶対に、触媒なのだ。ということですね。了解です。)
静かであって見えないものが見えるとき、その人の無我の絶対主観?によっては、妙な方向にいく場合もある、のではないでしょうか、と、言いたかったと思います。
でもそれがいけないのかどうかは、よくわかりません。
その人にとってはそれが道だったけれど、わたしには単に違った、というだけのことです。
世界は人のためにある触媒なのだから、のりさんが言われたように、引っかからなければよいのでしょう。
了解です。

> >学ぶ必要のあることだけを学ぶために、
> >判別することは自分にはとても大切なことでした。
> うーん。日常から学べば充分ですが、たがいに学ぶことは 無意味ではないと思います。


上手く言えたでしょうか、、???

No.776 - 2008/05/11(Sun) 21:59:36

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
そうですね。ほかの人の状態を検討することも、それは結局は自分の状態を学ぶことになります。よほど、この世界が、自分を学ぶことができるようになってるって、ことだと思います。

そして。自分が自分を知るとしても。あれとかこれとかとして自分が知った自分は総べて誤解。ということもあります。

No.777 - 2008/05/12(Mon) 06:44:41

Re: 眠りと知覚 / hato

> そして。自分が自分を知るとしても。あれとかこれとかとして自分が知った自分は総べて誤解。ということもあります。

感謝はいつも、変わらずと思います。
成長できますようにと、自分に祈ります。

No.778 - 2008/05/12(Mon) 23:55:50

Re: 眠りと知覚 / のり
おはようございます。
> ああ。なんとどつぼに填ってしまうことでしょう。
> もっと、整理してから言えばよかった。

hatoさんは素晴らしいですね。

> 静謐さを獲得し、人として魅力的で、社会に貢献すると自負する人に出会ったことがあります。
う〜ん、これはhatoさんの洞察力で見抜いたのかもしれません。自分を抑圧して得られる静かさ、魅力的であろうと振る舞い、自負する表出はチョッと違う気がします。抑圧すれば外には静かに見えます。もし内も静かならばそのうち無感覚の痴呆症に繋がる気がします。本当の静かさは都会の喧騒の元に、我々の喜怒哀楽の元にある気がします。静けさがあるから音がある。大都会のビルの下に大地があり空間があるように、思考と思考の間に割れ目があるようにと思います。

No.779 - 2008/05/13(Tue) 09:15:39

Re: 眠りと知覚 / hato

おはようございます。

のりさんは、いつも助けてくださいます。
素晴らしいのは、のりさんと思います。
もちろん、ubik0101さんも。

たまごから外に出てみて、
ちょっとガンバってぱたぱたしてると。
ときどき、木からおっこちて、イターイ!
掘り下げているのか、めりこんでいるのか、
わからなくなって逆さまできーきーしていると、
あ、また埋もれてるー、と
ubik0101さんやのりさんが、つまみ上げてくれます。

昨日、もしかして ?
と思ったことがありました。
まだまだですが、
これからもよろしくお願い致します。

No.780 - 2008/05/14(Wed) 07:49:21
全1069件 [ ページ : << 1 ... 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 ... 214 >> ]