ム−ミンさん。
>ないものが知覚されないのが、知覚への依存ですか?
ある、ものだけしか見たり聞いたり思考できない、 知覚は、監視カメラやマイクのように自動的に機能してるだけです。知覚されてることがら…それは主体と客体の分離はありませんが…もっと正確には、完全な分離でも融合でも、見聞き思考不能ですが…その知覚は、ある現象を伝えるだけです。でないと知覚としては役割としての立場がないのです。
それに引きずられて顕在意識は、知覚されないことを、ない、と看做します。また潜在意識が静まり、知覚の作用を疑うことのできる意識を、忘れてると。また、蔑ろにすると。その反動、補償作用として、たとえば「事実に直面、いまここ」が重視され、それに偏るように思います。これは、いわゆる心理的思考…自我や欲望…を暗黙の内に邪魔者として、非難してるのかもしれません。
>知覚とは人間に備わった機能だと思いますが。すでに知覚によって成立しているものを、つまり意識にあってわかっているものを、またなくて意識されないものを、さらに意識するというのは、対象化の動きでしょう。
そうです。その意識も、人に備わった機能…構成要素…です。ただ対象化は、問題ではないのです。同一化も問題ないのです。自我や欲望による偏ったそれが問題…いや。ない、のに、ある、とされる自我の機能が問題なだけで…空想を空想と知ってれば問題ないように、混乱してなければ、無問題です。つまり、そんな知覚を受け取る意識にも依存しないこと、にも依存しないこと、が大切です。たとえば科学技術思考は問題ない、心理的思考は問題と区別することや。既知と未知の区別したりすることは無意味です。
>対象化の動きというのは、ubik0101さんがたまに仏教から借用されている「増/減」ということでしょう。知覚だけで止まっているならば「不増不減」。増減というのは物が増えたり減ったりということだけではないでしょう。訳によっては「執有論」「執無論」という言い方もあるようで、ある/ないにこだわったりするということでしょう。ubikさんの使う依存とは、このある/ない、どちらかへの偏り、依存ということではなかったですか?まだ、だめ?
もし対象化しても、不増不減です。仏教の言葉ですが、事実、見たことです。物質も、知覚も、意識も、森羅万象が、 不増不減です。その全活動が中道です。それを増やしたり減らしたりできると誤認し、自分勝手に期待するのが、欲望とも言えます。それは局所的な増滅です。ある/ないです。でないと欲望は成立しません。
> なぜ「日常が、なぜそうなのかを問う」のですか?何物にも依存しない日常に疑問を持っているということではないのでしょ?
なぜか、不思議も、知らない、も失い、そうなってしまいました。ほとんど思考停止になり、それを問うことが残ってるのかもしれません。たぶん。ひとつには復習でしょう。ひとつには人が世界に心理的にだけでなく、事実、依存してる、してない、どちらでもないから。の解消かもしれません。答えのない疑問かもしれません。
> 思考や感情は機能しています。が、とりあえず、その思考や感情は騒ぎを起こすタイプのものではないので、反対のものを持ち出して葛藤するということはないように思います。
どうして、葛藤しなくなったか。この自覚でない自覚。これは簡単に気がつくと思います。ピアノ演奏家は音楽を考えてもなくても、演奏家です。楽譜を見ても見ないでも演奏できます。そうでない素人は、音楽を聞いてても、素人です。楽譜を見ても見ないでも演奏できません。努力した、しない、理解した、しない、同じようで違います。
> 「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。
そうなんですけど。知覚できないから、ない、ということを疑がわない意識の状態に、それでは陥ってるかもしれないという指摘です。また、正確な表現でなければ、そこは正確に見えないと思われるからです。
> すでに知覚によって成立している対象をあらためて意識するということは、対象に対する能動的な働きかけがある可能性があるでしょう。そこから、ある、ないも生まれてくるのではないですか?
そうです。知覚は、ある、ない、とか判別しません。見聞き思考だけです。その判別しない知覚に意識が、依存して、知覚されたことをある、されないことを、ない、と暗黙の内に認めます。そこである、ない、を疑える意識の機能を理解し、それに依存しないこと、にも依存しないことが望ましいと思います。
こういうことは、あの無我の体験で、総べて見てるはずです。ただ意識は愚かで、忘れます。体験を対象化したりして、そうしてる主体は、いない、のだけど残響のような自我が機能し、それは苦痛をもたらせます。でも、苦痛が原動力です。苦痛が測定器です。それで、体験を余さず理解して失う、そのことによって得る。意識の管轄にないことは、そうだと意識に教える。それを勝手に悟後の修行と呼んでいます。
うーん。とても長文になりました。でも話してることは、どの段落も同じようなことです。とりあえず返信は興味のある部分だけで大丈夫です。
補足。ネットで、こんな仏陀の言葉を見つけました。スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する」。
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No.822 - 2008/06/01(Sun) 16:23:46
| ☆ Re: 続々・成長 / ubik0101 | | | > こういうのを、自我の残響とよんでるのですか・・
ううん。これは無自覚の智恵、あるいは無知が転換された智恵、と呼んでいます。でも「自我の残響」そう呼んでも、なんか、ちょい誤解はされつつも意味は通じる感じです。
また。「残響のような自我」。それは自分の無我体験と日常生活との落差に悩み・・・無我体験を対象にして掴んでしまって・・・たとえば、ほかの人に自我を見る・・・そうしてる自分の自我に捕われることです。
> ・・グー・・!
そう思います。
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No.824 - 2008/06/02(Mon) 07:39:12 |
| ☆ Re: 続々・成長 / ムーミン | | | >ある、ものだけしか見たり聞いたり思考できない、 知覚は、監視カメラやマイクのように自動的に機能してるだけです。知覚されてることがら…それは主体と客体の分離はありませんが…もっと正確には、完全な分離でも融合でも、見聞き思考不能ですが…その知覚は、ある現象を伝えるだけです。でないと知覚としては役割としての立場がないのです。
知覚は何かを写したり、音を拾ったりしているだけではないでしょう。知覚とは分離しがたい知覚からの直接の行為があるでしょう。急激な、大きな変化を察知すれば、例えば、大きなものや速いものや尖ったものなどが現れば警戒するし、熱いものに触ったりすれば、とっさに離れたりします。
>それに引きずられて顕在意識は、知覚されないことを、ない、と看做します。また潜在意識が静まり、知覚の作用を疑うことのできる意識を、忘れてると。また、蔑ろにすると。その反動、補償作用として、たとえば「事実に直面、いまここ」が重視され、それに偏るように思います。これは、いわゆる心理的思考…自我や欲望…を暗黙の内に邪魔者として、非難してるのかもしれません。
私が言ってきたのは、テーブルの上にりんごがあるかと聞かれれば、あれば(知覚すれば)あると答えるし、なければ(知覚しなければ)ない、と答えるでしょう、ということです。それだけのことです。顕在意識や潜在意識を持ち出すまでもないでしょう。ある、ないをことさらに意識すること、換言すれば、すでにわかっていることを再度意識すること、つまり「ある」にこだわり、「ない」にこだわるならば、話は別だということです。そのときは、知覚(事実に直面)/知覚出来ない、という枠の中の話で争いに過ぎなくなります。これはubik0101さんが、苦しみ/成長ということでおっしゃっていたことと同じでしょう。
>そうです。その意識も、人に備わった機能…構成要素…です。ただ対象化は、問題ではないのです。同一化も問題ないのです。自我や欲望による偏ったそれが問題…いや。ない、のに、ある、とされる自我の機能が問題なだけで…空想を空想と知ってれば問題ないように、混乱してなければ、無問題です。つまり、そんな知覚を受け取る意識にも依存しないこと、にも依存しないこと、が大切です。
ええ、ここもテーブルの上にりんごがあるかと聞かれて、あればある、なければない、と答えるという話です。ただ、同一化が問題ないというのはどうなのでしょう。前にも話しましたが、同一化の問題というのは、観念、価値観などへの同一化があるとき、それらを攻撃されたとき、あたかも自分が攻撃されたように感じて、破壊的な関係が生じるということですから。
>たとえば科学技術思考は問題ない、心理的思考は問題と区別することや。既知と未知の区別したりすることは無意味です。
科学技術思考は問題ないというのは楽観的ですね。核兵器、生物兵器などみればすぐわかるように、心理的思考が深く絡んでいるでしょう。区別できる問題ではないと思いますね。ただ物を分解したり、組み立てたりする思考は心理とは関係ないですね。
また、既知と未知と区別することがすでに既知でしょう。そういう意味でなら無意味ですね。しかし、今までの話の流れからすると、無意味と言い切ってしまうのも、偏りということでしょうから、意味も無意味もないということになりますか。
>もし対象化しても、不増不減です。仏教の言葉ですが、事実、見たことです。物質も、知覚も、意識も、森羅万象が、 不増不減です。その全活動が中道です。それを増やしたり減らしたりできると誤認し、自分勝手に期待するのが、欲望とも言えます。それは局所的な増滅です。ある/ないです。でないと欲望は成立しません。
ええ、これはおそらく誰もが、ふと経験していることだと思います。ただその意味になかなか気づけないということがあると思います。だから自我の流れの中に入っていってしまうのでしょう。
>なぜか、不思議も、知らない、も失い、そうなってしまいました。ほとんど思考停止になり、それを問うことが残ってるのかもしれません。たぶん。ひとつには復習でしょう。ひとつには人が世界に心理的にだけでなく、事実、依存してる、してない、どちらでもないから。の解消かもしれません。答えのない疑問かもしれません。
超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているubik0101さんでもまだ疑問がある、わからないことがあるものなのですね。まあ、疑うということは、結論なく現象を見ているということなのでしょうね。それはあえて名づけるとすれば「未知」ということでしょう。
>どうして、葛藤しなくなったか。この自覚でない自覚。これは簡単に気がつくと思います。ピアノ演奏家は音楽を考えてもなくても、演奏家です。楽譜を見ても見ないでも演奏できます。そうでない素人は、音楽を聞いてても、素人です。楽譜を見ても見ないでも演奏できません。努力した、しない、理解した、しない、同じようで違います。
ただ、一口に覚醒とか悟りといってもいろいろ深浅があるようですよ。仏教などはそのメルクマールとして、例えば華厳なら十地、唯識なら五位、禅なら十牛図のようなものがありますよね。さらに、どの状態を見性や見道に位置づけるかについても、いろいろと解釈がが違ってくるようです。
それらに照らし合わせてみると、私の場合は、ある着眼を得た感じはありますが、もしかして気づきにくい微細な葛藤は見逃している可能性はないとはいえない。そのために仏教でも、禅ならば見牛から入廛垂手、唯識ならば見道位から究竟位、華厳なら初地から法雲地まで修行が続くのでしょう。だからこうして、このようなサイトへ来て自己を学んでいるといえなくもない。
ubik0101さんの場合は、超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているわけですから、最終地点におられるということなのでしょう。つまりブッダ(如来)だとおっしゃっているのでしょう。
>>「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。
>そうなんですけど。知覚できないから、ない、ということを疑がわない意識の状態に、それでは陥ってるかもしれないという指摘です。また、正確な表現でなければ、そこは正確に見えないと思われるからです。
「時間の知覚がない」というのは、時間があるかないかをわざわざ意識していないということです。
ubik0101さんは、「知覚できないから、ないということを疑わない」ということで、何かUFOとかスピリチュアルなもの、たとえば前世とか心霊とかを想定しておっしゃっているのですか?
>そうです。知覚は、ある、ない、とか判別しません。見聞き思考だけです。その判別しない知覚に意識が、依存して、知覚されたことをある、されないことを、ない、と暗黙の内に認めます。そこである、ない、を疑える意識の機能を理解し、それに依存しないこと、にも依存しないことが望ましいと思います。
知覚についてはすでに書きました。意識が対象に能動的に働きかけて、統御しようとしていれば依存ということにもなるでしょう。ないときには、観察の状態にあります。唯識でいうならば、妙観察智が働いているといえるかもしれません。下にもあるように、これは無我の体験のとき学びますね。
>こういうことは、あの無我の体験で、総べて見てるはずです。ただ意識は愚かで、忘れます。体験を対象化したりして、そうしてる主体は、いない、のだけど残響のような自我が機能し、それは苦痛をもたらせます。でも、苦痛が原動力です。苦痛が測定器です。それで、体験を余さず理解して失う、そのことによって得る。意識の管轄にないことは、そうだと意識に教える。それを勝手に悟後の修行と呼んでいます。
おっしゃりたいことはわかりました。
>うーん。とても長文になりました。でも話してることは、どの段落も同じようなことです。とりあえず返信は興味のある部分だけで大丈夫です。
今日は少し余裕があったので、全部に返信しておきました。
>補足。ネットで、こんな仏陀の言葉を見つけました。スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する」。
これは中村元さんの訳ですね。このあとに「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」と続きますね。つまり、想いが生じていないとき、ありのままがあるだけだということでしょう。ま、あるといっても不正確だし、ないといっても不正確ですが。不二の法門は「維摩の一黙」ということでしょう。
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No.826 - 2008/06/03(Tue) 12:05:16 |
| ☆ Re: 続々・成長 / ubik0101 | | | >知覚は何かを写したり、音を拾ったりしているだけではないでしょう。知覚とは分離しがたい知覚からの直接の行為があるでしょう。急激な、大きな変化を察知すれば、例えば、大きなものや速いものや尖ったものなどが現れば警戒するし、熱いものに触ったりすれば、とっさに離れたりします。
それは。熱いものに触ったことを知覚した、その反応と思います。それは全体の働きと思います。とっさなので、意識の入る余地もないのだと思います。あまり関係ない話ですが。たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。という意見がありますが、どうなんでしょう。
>ええ、ここもテーブルの上にりんごがあるかと聞かれて、あればある、なければない、と答えるという話です。ただ、同一化が問題ないというのはどうなのでしょう。前にも話しましたが、同一化の問題というのは、観念、価値観などへの同一化があるとき、それらを攻撃されたとき、あたかも自分が攻撃されたように感じて、破壊的な関係が生じるということですから。
なにかの観念、価値観があるとして。それとの同一化が問題になるというのは、同一化したいけど同一化しきってないということで・・・しきってないので観察者(自我)が、いる、という状態ではないでしょうか。それで、観念、価値観が攻撃される、そう思うだけで、あたかも観察者としての自分が攻撃されたように感じるのではないでしょうか。それはもともと、観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいからと思います。
そうでなく。たとえば怒るとします。その怒りと、完全に同一しきってれば、そこに観察者は、いる、でも、いない、でもありませんか。また、ふつう無我を了解した人の日常は、感覚や、思考と自分は、違うのものではない。という意味で同一で、そうなら、知覚にとってですけど、感覚や思考という反応が起きてるだけ、と思います。そうなら、なにかの観念、価値観に依存する観察者が、いる、いない、という問題は発生しようもないのは、たしかです。
>科学技術思考は問題ないというのは楽観的ですね。核兵器、生物兵器などみればすぐわかるように、心理的思考が深く絡んでいるでしょう。区別できる問題ではないと思いますね。ただ物を分解したり、組み立てたりする思考は心理とは関係ないですね。
>また、既知と未知と区別することがすでに既知でしょう。そういう意味でなら無意味ですね。しかし、今までの話の流れからすると、無意味と言い切ってしまうのも、偏りということでしょうから、意味も無意味もないということになりますか。
「ただ物を分解したり、組み立てたりする」思考と、心理的思考を区別するのは、そう区別する捕われがあるのでは。ということです。心理的思考も、観察者が問題なだけではないでしょうか。思考の内容や機能にも問題があるのでしょうか。
>ubik0101さんの場合は、超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているわけですから、最終地点におられるということなのでしょう。つまりブッダ(如来)だとおっしゃっているのでしょう。
ううん。自分を仏陀と感じてるなら、そう言わないはずがありません。ただの人、と思うまでもない、ただの人です。超意識、訪ねられたりすると思い出しますが、まったく忘れていました。
>ubik0101さんは、「知覚できないから、ないということを疑わない」ということで、何かUFOとかスピリチュアルなもの、たとえば前世とか心霊とかを想定しておっしゃっているのですか?
いや。なにも想定してません。ただ空っぽ体験、無我体験は、ない、ことの知覚です。自我が、ない、ことの体験です。なにかを見てる中心がないことです。そうでなく無我が、ある、なら簡単です。探せば見つかります。けど、中心は、ないのだから、見つかりません。だから無我は、理解が困難と言えます。
その、ない、ことの体験は。暗黙の、ないことは知覚できないという、知覚の常識から外れた体験です。これを明確にすると、知覚が、対象を、ある、と決めたがってる。そして実は、知覚を受ける意識が、そのことによって、自分は、ある、と感じたがってる。ことが見えます。これが上の、同一化の問題、自我の機能の素とも言えます。人によっては、意識があるだけで自我があるような気がするのも、そういう理由だと思います。
> これは中村元さんの訳ですね。このあとに「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」と続きますね。つまり、想いが生じていないとき、ありのままがあるだけだということでしょう。ま、あるといっても不正確だし、ないといっても不正確ですが。不二の法門は「維摩の一黙」ということでしょう。
「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」。これは全文掲載のサイトにはなかったので、載せませんでした。そこの管理者が書き忘れたのかもしれません。指摘、ありがとう。また長文になりました。適当に端折ってください。
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No.827 - 2008/06/04(Wed) 12:03:07 |
| ☆ Re: 続々・成長 / ムーミン | | | >それは。熱いものに触ったことを知覚した、その反応と思います。それは全体の働きと思います。とっさなので、意識の入る余地もないのだと思います。あまり関係ない話ですが。たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。という意見がありますが、どうなんでしょう。
人の意見は単なる意見なので置くとして、自分で見てどうですか?それが一番確かではないですか?クリシュナムルティのサイトで長い間、分別されていないゴミ処理の問題が取り上げられていましたが、葛藤しているときと、静かなときとは行動が違うでしょう。知覚からの行為は自分と対象との分離がないから全体的な働きではないですか?司祭やラビが見てみぬ振りをして通りすぎた半殺しにあって倒れているユダヤ人をサマリア人が助けたという聖書の話も、もしかしてこの部類に入るかもしれません。
>なにかの観念、価値観があるとして。それとの同一化が問題になるというのは、同一化したいけど同一化しきってないということで・・・しきってないので観察者(自我)が、いる、という状態ではないでしょうか。それで、観念、価値観が攻撃される、そう思うだけで、あたかも観察者としての自分が攻撃されたように感じるのではないでしょうか。それはもともと、観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいからと思います。
観念、価値観が観察者を作り上げているのでしょう。もし、何の観念も価値観もないとすれば、空っぽです。それで、その空っぽさから逃れようとするときには、すでにそれを対象化しているわけですから、観念、価値観が働き始めているわけです。そして、そのときの感情を恐怖と呼んだり、虚しい、孤独だ、寂しいなどと呼んだりしているわけです。そういう意味では、「観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいから」ということは言えると思います。
>そうでなく。たとえば怒るとします。その怒りと、完全に同一しきってれば、そこに観察者は、いる、でも、いない、でもありませんか。また、ふつう無我を了解した人の日常は、感覚や、思考と自分は、違うのものではない。という意味で同一で、そうなら、知覚にとってですけど、感覚や思考という反応が起きてるだけ、と思います。そうなら、なにかの観念、価値観に依存する観察者が、いる、いない、という問題は発生しようもないのは、たしかです。
「怒り」と名づけていた感情を「怒り」と名づけることがないとき、観察者はいません。感情の知覚があるだけです。そのとき、観察者のいない観察がある、ということでしょう。すでに何回か言いましたが、知覚はいわば、対象即意識、主観即客観の状態ということでしょう。知覚しているときには知覚していることも知りません。だから知覚者のいない知覚といえるかも知れません。
>「ただ物を分解したり、組み立てたりする」思考と、心理的思考を区別するのは、そう区別する捕われがあるのでは。ということです。心理的思考も、観察者が問題なだけではないでしょうか。思考の内容や機能にも問題があるのでしょうか。
思考自体は問題はないのではないですか。おっしゃるように問題は観察者でしょう。観察者があることで問題が起こってくる。だから区別は囚われではなくて、観察者があるときとないときでは、起こっていることが違うよ、という単なる指摘でしょう。
>ううん。自分を仏陀と感じてるなら、そう言わないはずがありません。ただの人、と思うまでもない、ただの人です。超意識、訪ねられたりすると思い出しますが、まったく忘れていました。
私の知る限りでは、この掲示板はもちろん、ヤフー掲示板でも「ゴトの読書室」でも、ご自身の体験を喧伝されていますよね。「ただの人」というのも曖昧な言葉ですね。
>いや。なにも想定してません。ただ空っぽ体験、無我体験は、ない、ことの知覚です。自我が、ない、ことの体験です。なにかを見てる中心がないことです。そうでなく無我が、ある、なら簡単です。探せば見つかります。けど、中心は、ないのだから、見つかりません。だから無我は、理解が困難と言えます。
それだったらいいのですが。私が、知覚とは知覚者がいないことであり、知覚していることも知らない状態で、ただ聞かれればある、ないは答えると言ってきたのに対し、ubik0101さんが、ないものが知覚されないのは知覚への依存だ、ということにこだわっていらっしゃったから。
>その、ない、ことの体験は。暗黙の、ないことは知覚できないという、知覚の常識から外れた体験です。これを明確にすると、知覚が、対象を、ある、と決めたがってる。そして実は、知覚を受ける意識が、そのことによって、自分は、ある、と感じたがってる。ことが見えます。これが上の、同一化の問題、自我の機能の素とも言えます。人によっては、意識があるだけで自我があるような気がするのも、そういう理由だと思います。
知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。
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No.832 - 2008/06/05(Thu) 10:24:27 |
| ☆ Re: 続々・成長 / ubik0101 | | | >人の意見は単なる意見なので置くとして、自分で見てどうですか?それが一番確かではないですか?クリシュナムルティのサイトで長い間、分別されていないゴミ処理の問題が取り上げられていましたが、葛藤しているときと、静かなときとは行動が違うでしょう。知覚からの行為は自分と対象との分離がないから全体的な働きではないですか?司祭やラビが見てみぬ振りをして通りすぎた半殺しにあって倒れているユダヤ人をサマリア人が助けたという聖書の話も、もしかしてこの部類に入るかもしれません。
クリシュナムルティ関係の人は 「たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。」を前提にしてる人がいるようです。これは空想です。はじめから叡智があるなら、なぜ、葛藤が始まったりするのでしょう。はじめから叡智がないから、と思います。
>観念、価値観が観察者を作り上げているのでしょう。もし、何の観念も価値観もないとすれば、空っぽです。それで、その空っぽさから逃れようとするときには、すでにそれを対象化しているわけですから、観念、価値観が働き始めているわけです。そして、そのときの感情を恐怖と呼んだり、虚しい、孤独だ、寂しいなどと呼んだりしているわけです。そういう意味では、「観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいから」ということは言えると思います。
じゃ、まず、なぜ観念、価値観があるのでしょう。過去の記憶でしょうか。けど。その過去の時点では今なのに。それが、つまり過去が、なぜ問題なのでしょう。いま問題がある、たとえば観察者がいる状態なので、過去の記憶や未来を空想して、いま問題があることが現れるのではありませんか。問題は気がつかなかったけど、過去にもあったのです。なんども言いますが、気がつかないから、ない、というのは疑問です。気がつかないから静かであっても、それは愚かなために静かなだけです。誤りです。
そして観察者。これ、ほんとうに、ない、なら。どうして観察ができますか。たとえば死んでしまったりして観察できますか。「観察者のない観察」とは。クリシュナムルティの表現でしょうが、明らかに不正確に思えます。
> 「怒り」と名づけていた感情を「怒り」と名づけることがないとき、観察者はいません。感情の知覚があるだけです。そのとき、観察者のいない観察がある、ということでしょう。すでに何回か言いましたが、知覚はいわば、対象即意識、主観即客観の状態ということでしょう。知覚しているときには知覚していることも知りません。だから知覚者のいない知覚といえるかも知れません。
それは、まず怒りと名づける観察者がいて、怒りと名づけてることが問題。なだけです。それは。なにかに命名するとか、しないとか、の問題ではありません。怒りと名づけないでも、なにか問題なら問題です。クリシュナムルティが命名が問題と、そのように言ってるなら、クリシュナムルティには言葉についての理解がなされていません。
>私の知る限りでは、この掲示板はもちろん、ヤフー掲示板でも「ゴトの読書室」でも、ご自身の体験を喧伝されていますよね。「ただの人」というのも曖昧な言葉ですね。
ム−ミンさんが「喧伝」と思うのは、かまいません。ただ、相手から聞かれた場合、誰かに役に立つ場合、話しています。事実は、事実なだけです。なにも隠す必要はありません。そういう超意識の話にubik0101が依存していると思うなら、ム−ミンさんは、そう誤解してると思います。
> それだったらいいのですが。私が、知覚とは知覚者がいないことであり、知覚していることも知らない状態で、ただ聞かれればある、ないは答えると言ってきたのに対し、ubik0101さんが、ないものが知覚されないのは知覚への依存だ、ということにこだわっていらっしゃったから。
それはubik0101を、ム−ミンさんが、対象化してるのだと思います。または、知覚と、あるないのことが、ム−ミンさんに明確ではないので、躓いているように思えます。これは、ほんとうは見るのが困難なことです。
>知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。
なにか問題があるから、「再意識化」して、問題を解決しようとする。です。つまり、観察者の、自分との分離、世界との分離は、人が問題に集中して、それを理解するための方法です。その機能が問題なのではなく。それを理解してないことが問題です。
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No.843 - 2008/06/05(Thu) 17:39:50 |
| ☆ Re: 続々・成長 / ムーミン | | | >クリシュナムルティ関係の人は 「たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。」を前提にしてる人がいるようです。これは空想です。はじめから叡智があるなら、なぜ、葛藤が始まったりするのでしょう。はじめから叡智がないから、と思います。
知覚からの直接の行為の意味が了解できたとき、了解する前には気づかなかったけれども、実はそのときにも直接の行為をしているときがあったのだな、と知るでしょう。人は叡智を得て初めて、知覚からの直接の行為があるのでしょうか。はたして、その行為は「覚醒者」の占有物なのでしょうか?
>じゃ、まず、なぜ観念、価値観があるのでしょう。過去の記憶でしょうか。けど。その過去の時点では今なのに。それが、つまり過去が、なぜ問題なのでしょう。いま問題がある、たとえば観察者がいる状態なので、過去の記憶や未来を空想して、いま問題があることが現れるのではありませんか。問題は気がつかなかったけど、過去にもあったのです。なんども言いますが、気がつかないから、ない、というのは疑問です。気がつかないから静かであっても、それは愚かなために静かなだけです。誤りです。
生まれてからずっと、国家、社会、宗教、家庭、教育、本などから刷り込みが行われているでしょう。それら過去のものが、現在に息を吹き返す。ただ、それが形だけのものであって、機能しなければ、つまり、思いがあって、思い通りにならない事態がある、それを思い通りにしようと格闘することがなくなっていれば、過去のものが蘇ったとしても問題はないでしょう。形だけのものならば、それは、ないと言ってもいいでしょう。
>そして観察者。これ、ほんとうに、ない、なら。どうして観察ができますか。たとえば死んでしまったりして観察できますか。「観察者のない観察」とは。クリシュナムルティの表現でしょうが、明らかに不正確に思えます。
観察者が意識されない、観察されていることが意識されない、ということではないですか?つまり、自意識、自我意識、自己意識、いろいろ呼び名はありますが、それがないということでしょう。で、そういうものの干渉がなく、ただ見ているということではないですか?
>それは、まず怒りと名づける観察者がいて、怒りと名づけてることが問題。なだけです。それは。なにかに命名するとか、しないとか、の問題ではありません。怒りと名づけないでも、なにか問題なら問題です。クリシュナムルティが命名が問題と、そのように言ってるなら、クリシュナムルティには言葉についての理解がなされていません。
これは苦しみが何かの知覚があったときによくわかるでしょう。命名することなく、ただ苦しみと今まで呼んでいたもののだけがある状態があります。そのとき、そのギャップがあるとき、命名することがすでに、操作、統御、対処を含んでいたことがわかります。命名のないときには、苦しみと呼んでいたものは、消えていきます。
>ム−ミンさんが「喧伝」と思うのは、かまいません。ただ、相手から聞かれた場合、誰かに役に立つ場合、話しています。事実は、事実なだけです。なにも隠す必要はありません。そういう超意識の話にubik0101が依存していると思うなら、ム−ミンさんは、そう誤解してると思います。
わかりました。「喧伝」と書いたのは表現が正確ではなかったかもしれません。「忘れた」とおっしゃりながらも、いろいろと書いていらっしゃるな、という意味です。ただ「ただの人、というのも曖昧な言葉」と書いたように、「覚醒」の内容も、「超意識」も曖昧だな、ということはあります。
>それはubik0101を、ム−ミンさんが、対象化してるのだと思います。または、知覚と、あるないのことが、ム−ミンさんに明確ではないので、躓いているように思えます。これは、ほんとうは見るのが困難なことです。
知覚については、自分でも不思議なことがいっぱいある、起きているので、言葉に表現しきれない部分がある、まだ検討課題があるというのは確かです。ただ私が、ubik0101さんを対象化しているというのはどういう意味でしょうか?
また「これは、ほんとうは見るのが困難なことです。」ということは、ubik0101さんはその困難なものをわかっていらっしゃると思いますので、その点を書いていただければ、私の、もちろん皆さんの参考にもなると思います。
>>知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。
>なにか問題があるから、「再意識化」して、問題を解決しようとする。です。つまり、観察者の、自分との分離、世界との分離は、人が問題に集中して、それを理解するための方法です。その機能が問題なのではなく。それを理解してないことが問題です。
観察者が生じるというのは、観察者と観察されるものが分離しているということでしょう。その分離の理解についてはすでに書いてきました。
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No.857 - 2008/06/07(Sat) 10:39:01 |
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