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世界 / ばん
自我・無我・悟り・覚醒・・・
どうでもいいのではないでしょうか?

土・空気・原子・・・この世界は何一つ欠けても存在できないのではと思いました。

この世界、すべて存在に感謝と思います

No.851 - 2008/06/06(Fri) 11:35:13

Re: 世界 / hato

ほんとうに、そう思います。

No.852 - 2008/06/06(Fri) 19:31:46

Re: 世界 / ばん
1、未来は神様の計画によって決まっている。
今日あったことも、今日考えた事も、砂漠の砂1粒までも


2、私が消滅すれば、この世界は消滅する。
誰かが消滅すれば、この世界は消滅する。
何1つ欠けてはならない、すべてが、存在することによって完成されている。

なーんて考えてたら悩みが無くなりました。
私は私なりに完成しました。

No.861 - 2008/06/09(Mon) 17:04:03
成長、昔のコメント / のり
横からすみません。
私はウビさんの以下のこのコメントが大好きです。

<とりあえず質問があります。○○さんの、生きる目的、理由は、なんでしょう。これだ、と決められるでしょうか。

たとえば、楽しむことでしょうか。戦うことでしょうか。平和を築くことでしょうか。子孫を残すことでしょうか。ただ生きることでしょうか。死ぬことでしょうか。

どのような個別のことでも、ないのではないでしょうか。どのような人生を送っても満足できないのではないでしょうか。

その総べてでもないのではないでしょうか。この意味では生きる目的、理由はない、分からない、のではないでしょうか。それでもなお、満足を得たい気持ちがあるのではないでしょうか。

そして、満足したい気持ちがなくなるとしたら、ひとつには、諦めてしまうということがあるでしょう。そして、たとえば、きままに生きるとか、希望を持って生きるとか、したいようにしようとすることができます。それでも、それは基本が不満なのではないでしょうか。
そうでなく、ひとつには満足したい気持ちが達成されたから、満足したい気持ちがなくなるということがあるでしょう。それも、これだ、という個別のことではありません。どのようなことでもないでしょう。また、その総べてでもないでしょう。 ほとんど定義できません。

にも関わらず、人の生きる目的、理由は、成長と言います。たとえば無知の解決。欲望、自我の完成。物質、身体、感覚、感情、意識(つまり世界)への倒錯からの解放。自己。それは人が生まれたままの有り様では不可能なこと。という意味を込めて、成長と言っています。そのためには、この世界全体を活用しなくてはなりません。

つまり怠惰も勤勉も。善も悪も。偽善も嫉妬も。正しいことも誤りも。そして否定も肯定も。そして成長を望まないでいることも、成長を望むことも。つまり、とあることも、その類似のことも、反対のことも、関係ないことも。その総てを活用しなければ、ここで成長と言われていることは不可能と思います。

そのような有り様として、この世界全体は、成長する人のために機能しているのではないでしょうか。>
ただ今、この瞬間、生命を生きれるようになる。ために成長が必要な気がします。全ての道は悟りに通ず?

No.842 - 2008/06/05(Thu) 16:24:18

Re: 成長、昔のコメント / ubik0101
> ただ今、この瞬間、生命を生きれるようになる。ために成長が必要な気がします。全ての道は悟りに通ず?

そうです。読み返しても、間違いはありません。そして「この瞬間、生命を生きれるようになる」にも、限定された話ではないのは、のりさんは了解ずみ、と思います。それで、ここのところ話題にしてるのは。

まったく人が努力しなければ、規範や、観念を持ったりしなければ、はじめから叡智がある。執着のない、知覚からの行動がある。と、クリシュナムルティが言ってるらしいのですが、そうだとして、それが事実か?ということを探っています。自分としては、そんなことは泣いてる子供をあやすようなことで。事実ではない、と思っています。

まったく自我は最初から、ありません。けど自我は成長の役に立ちます。そして自我がないことを見るまでの過程で人は学びます。その結果としての、自我がなければ叡智がある、ということを、最初から自我がなければいいのだ、と混同してるのだと思います。

No.846 - 2008/06/05(Thu) 18:19:22

Re: 成長、昔のコメント / ムーミン
話を一箇所にまとめたいのですが、若干の補足をして置きます。

>まったく人が努力しなければ、規範や、観念を持ったりしなければ、はじめから叡智がある。執着のない、知覚からの行動がある。と、クリシュナムルティが言ってるらしいのですが、そうだとして、それが事実か?ということを探っています。自分としては、そんなことは泣いてる子供をあやすようなことで。事実ではない、と思っています。

「努力」というのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとする、心理的な格闘、苦しみのことです。規範や観念どおりに生きようとすることもこれに含まれます。この心理的格闘が叡智が働くのを妨げているということです。

>まったく自我は最初から、ありません。けど自我は成長の役に立ちます。そして自我がないことを見るまでの過程で人は学びます。その結果としての、自我がなければ叡智がある、ということを、最初から自我がなければいいのだ、と混同してるのだと思います。

現実には自我が機能し、叡智の働きを妨げているということですから、自我のしていることをよく理解しましょう、ということでしょう。その理解の結果として「成長」と呼ばれるもの、つまり叡智が、妨げられることなく働くでしょうということでしょう。ただ、理解の過程で、いわゆる観念として「成長」を目指すときには、それも自我の格闘なので、注意しましょう、ということです。「静かな心を求める」ときの心は静かではないということに気づきましょう、ということでしょう。

ここはこれで終わります。

No.859 - 2008/06/07(Sat) 16:34:40
どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
なぜ人は、自我を嫌うのでしょう。そうしてるのは、あきらかに、自我ではないでしょうか。これは自我、あるいは自我に対する無我という名前の自我、の機能ではないでしょうか。そうです。至道無難・・・つまり道とは、何でもないことです・・・唯嫌揀択・・・ただ選り好みを嫌います・・・そうです。 自我を、好むこと、厭うこと、選り好みを、道は嫌います。

どこに自我はあるのでしょう。 それは人にあるでしょうか。いいえ。人は生まれついて、そのようなものはありません。では世界にあるでしょうか。いいえ。海の深みを、山の高みを、草の根を分けて探しても、ありません。では思考にあるでしょうか。いいえ。いくら思考しても、ありません。では、人と人、人と世界の関係にあるのでしょうか。

それは人と人、人と世界、人と思考の関係の破綻において現象すると思われるのかもしれません。では関係の破綻は、必ず自我を生むでしょうか。いいえ。では、関係の破綻を、修復することが自我を生むのでしょうか。いいえ。自我はただ、倒錯において現れるのかもしれません。

どんなことも、ある、でも、ない、でも、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りなのに。自我という、または無我という単に、ない、ことを、ある、としてる誤認、それが自我。ではないでしょうか。

この誤認が人には、面白くて、惹き付けられる。それだけのことかもしれません。どこに無我は、あるでしょう。実際は、自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。ではないでしょうか。

No.825 - 2008/06/03(Tue) 09:39:59

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
いつもですが。このような自分の有り様、それを、そのまま話してるだけです。

ところで。気軽さんには、自我は機能していますか。していませんか。無我ですか。無我だとして、どうして自分が無我と判りますか。

それが判るとして、それは過去、自分に自我が機能してた。また、ほかの人に自我を見てるからではありませんか。そう見るのは、自分の無我に捕われていませんか。ない、ことを掴んでも、しょうがないと思います。ほかの言い方では、自我と無我の対立、分離。非難、正当化。ではないでしょうか。

そして、そういう対立、分離などをしない有り様なら。自我と無我、どちらも対象にせず、どちらにも依存しないなら。自我も無我も、ないのではありませんか。ふつうの日常、自分は、このようです。

そして、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」それさえ失ってしまうのではないでしょうか。しかし、その有り様を表現すると、そうなります。実際、どこに自我や、無我があるでしょう。

ほかにいい言い方があるといいのですが。とりあえずかもしれませんが。これでいいと思っています。

No.829 - 2008/06/04(Wed) 17:45:14

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」
これを言っているのは、何なんですか?

No.830 - 2008/06/05(Thu) 09:41:39

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
>これを言っているのは、何なんですか?

と、言ってるのは、何なんですか?と、ルーさんに聞きたくなります。けど。それはともかく。それは。自我が言ってるのでも、無我が言ってるのでもないので。

「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」と、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」が言ってる。のかもしれません。

だって、ubik0101も言えるし、ルーさんも言えるし、誰も言えるでしょう。また、誰が言わなくっても、そうでしょう。これで、うまく誤魔化せたでしょうか?

No.831 - 2008/06/05(Thu) 10:05:54

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> >これを言っているのは、何なんですか?
>
> と、言ってるのは、何なんですか?と、ルーさんに聞きたくなります。けど。それはともかく。それは。自我が言ってるのでも、無我が言ってるのでもないので。


自我が言っているのか、それとも無我が言っているのかと聞きたかったわけではありません。
それはともかく、自我が言っているのでもなく無我が言っているのでもないということはお返事いただけました。
それは、そうでしょう。自我もなければ無我もないのですから、それが何かを言うわけがありません。
「意識」が言っているのかな、と思ったのですが。
それも否定されそうですね。

> 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」と、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」が言ってる。のかもしれません。
>
> だって、ubik0101も言えるし、ルーさんも言えるし、誰も言えるでしょう。また、誰が言わなくっても、そうでしょう。これで、うまく誤魔化せたでしょうか?


状態を実況している。。。そういうことなのでしょう。
実況しているのだから、実況する主体がいるのだと思ってしまうけれど、そうではなく、主体は「ない」のだと言いたいのでしょう。
あなたは、それを発見しました。
発見しました。
発見したので、発見した本人が存在すると思ってしまうでしょうが、そうではなく、本人は不在なのです。
不思議ですね。本当に不思議ですね。
あなたは、いるけど、いない、のだ。
恐いですね、恐いですね、怖いです。

幽霊なのですね。。。。。。。。。。。。。きゃー!

No.833 - 2008/06/05(Thu) 11:07:23

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> > 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」
> > これを言っているのは、何なんですか?
>
> ルーさん、あなたもいってるじゃないですか。
> だから、あなたも何が言っているのか、その「それ」を知っている。


それを何と呼ぶのかを知りたかったのです。
自我とか無我とかの名づけに詳しい人なら、何と呼んでいるのかを知りたかったのです。

> あなたの「それ」とおなじものが、言っているんじゃないですか。

どれが自我でどれが無我で、どれがそれなのか、知りません。

> あなたが、これを言っている、「そのところのもの」が、
> それ、「その何か」です。


あなたに聞いていません。
勝手に答えないでください。

> なぜ、それがそうなのか、不思議、神秘、どう表現しても、おかしな世界です。

うるさい。
卵投げたろか(笑)

No.836 - 2008/06/05(Thu) 11:49:07

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
自我も無我もないのだったら、もはや「ただの人」でもない、ように思います。
というか、その「ただの人」と自分を呼ぶのは、とても、「ただの人ではない」と言っているように聞こえるんです。
ただの人は、自分を「ただの人」とは言わないと思うんです。
その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。
特別な人だと思われたくない、ということの表れなのでしょうか。
それとも、「中道」を歩む人のあり方として、「ただの人」と言っているのか。
まぁ、「ただの人」というのは、「普通の人」という意味ではない、ということは確かだと思います。

No.837 - 2008/06/05(Thu) 12:36:25

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
気軽さん。

気にせず、今のままで、気軽に参加してください。

すみません。

No.838 - 2008/06/05(Thu) 12:38:31

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
> その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。

うーん。なんにも名乗らなくても、いいんです。でも、はじめは、悟りにも迷いにもいない、ただの人と言ってたと思います。いまは、ほんとーに、ふつーの、ただの人です。事実です。

たとえば、女性が、わたしは女性です。と主張するなら、それを聞く人は、なんか、ほかの意味があって、言ってるのかな。と思ったりするかもしれませんが。とくに主張ではないです。

No.839 - 2008/06/05(Thu) 14:08:37

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> > その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。
>
> うーん。なんにも名乗らなくても、いいんです。でも、はじめは、悟りにも迷いにもいない、ただの人と言ってたと思います。いまは、ほんとーに、ふつーの、ただの人です。事実です。


「悟りにも迷いにもいない」=ただの人
という図式が、納得いきません。
ただの人は、迷いの中にいることもあるでしょう。
迷いの中にいる人は、ただの人ではない、のですか?
「自分は、迷いの中にいない」と言えるのは、悟りではないですか?

No.840 - 2008/06/05(Thu) 14:36:41

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
>ただの人は、迷いの中にいることもあるでしょう。
>迷いの中にいる人は、ただの人ではない、のですか?


悟りにいるなら悟りの人で、迷いにいるなら迷いの人です。ただの人は、どっちでもない、と思います。なんでもない、それだけの、ふつうの、人と言っても変わりません。

> 「自分は、迷いの中にいない」と言えるのは、悟りではないですか?

うーん。迷いも、それからの解放も、その解放を掴む迷いも経験し、それを理解し、どれにも依存できなくなった、ということです。でも、泣き、笑いします。そういえば、日常、とも呼んでいます。

ルーさんも、そうではありませんか。迷っていますか。なら、どうして、迷ってると判りますか。それから解放されて、はじめて迷いが判るのではないでしょうか。 自分は、迷ってるとき、迷ってるとも思ってませんでした。

No.841 - 2008/06/05(Thu) 16:14:03

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
「迷っているとき、迷っているとも思っていなかった」
そして、「今、迷いから解放されている」
今、迷いから解放されていて、以前は迷いの中にいた、とわかる。

私は、迷っている時、迷っているとわかっていました。
そして、今は、その迷いからは解放されているけれど、また違う迷いに遭遇するかも知れないと思っています。
正確には、「違う迷いに遭遇するかも知れない」と思っているのではなくて、未知だと思っているのです。
「もう迷わない」とは言えないのです。
同じことでは躓かないと思いますが。

こういうを「ただの人」と呼ぶのなら、納得します。

No.844 - 2008/06/05(Thu) 18:10:41

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
ついでに。

「完全な分離も完全な融合もない」についてです。

自分を「ただの人」であるというのが事実であるとする時、それは、もし、そのままの事実であれば認識できないのではなかったですか?
自分が、まさに「ただの人」である時、自分では「ただの人」であると知覚できないのではなかったですか?
「ただの人」というものに完全に融合しているなら、知覚できないのでしょう?
ということは、ほんのちょっとズレているので感知できるのですか?ほんのちょっぴりだけ、かわいくズレている、と。

No.845 - 2008/06/05(Thu) 18:17:09

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
これは言葉の機能の問題です。林檎を林檎と呼んでも、
変じゃないように。ただの人を、
ただの人と呼んでも変じゃありません。

言葉は、それが表現したことを、
まったく表現しないのです。
林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。
ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。
だから、表現したことを、
正確に、表現できます。

この言葉の機能の理解がないと
たとえば命名に対する疑問がでて
それに捕われる恐れがあります。

「完全な分離も完全な融合もない」

このことの意味は、たとえば総てが完全に均質、
であれば、それ自身がそれ自身を。
また、あることと、あることが完全に異質であれば、
互いに、知覚できないという意味で。
そんなことは、ない、ということです。
あらゆることは関係がある
という意味でもあります。

そんな
この世界で、言葉は
世界を世界と呼べるように機能しています。

No.847 - 2008/06/05(Thu) 19:21:27

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> これは言葉の機能の問題です。林檎を林檎と呼んでも、
> 変じゃないように。ただの人を、
> ただの人と呼んでも変じゃありません。


「それは林檎ですか?」と訊ねても、変じゃないでしょう。

> 言葉は、それが表現したことを、
> まったく表現しないのです。
> 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。
> ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。
> だから、表現したことを、
> 正確に、表現できます。


「だから」という接続詞は、理解できません。
「それなのに」ではありませんか?
「正確に」も、わかりません。
「正確に表現できない」というのなら、話していることが理解できます。

>
> この言葉の機能の理解がないと
> たとえば命名に対する疑問がでて
> それに捕われる恐れがあります。


「ただの人」についての疑問は、命名に対する疑問というよりは、内容に対する疑問だと思いますが。

> 「完全な分離も完全な融合もない」
>
> このことの意味は、たとえば総てが完全に均質、
> であれば、それ自身がそれ自身を。
> また、あることと、あることが完全に異質であれば、
> 互いに、知覚できないという意味で。
> そんなことは、ない、ということです。


「そんなことは、ない」というのは、どういうこと?
完全に均質であるものや、完全に異質であるものは、知覚できない、というのはわかりますが。
知覚できないものは、存在しないのであるなら、それは、知覚に依存しているのではありませんか?

> あらゆることは関係がある
> という意味でもあります。


知覚できるものは、接触しているものというのは、わかりますが。

> そんな
> この世界で、言葉は
> 世界を世界と呼べるように機能しています。


「世界」と呼ぶことで、それは、「世界」を「正確に」表しているのですか?
「世界」という言葉は「世界」を表現しない、とは、どういうことですか?

「理解したい」という気持ちは、正直なところ、50%ぐらいです。

No.848 - 2008/06/05(Thu) 21:41:07

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
> 「それは林檎ですか?」と訊ねても、変じゃないでしょう。

うん。

>> 言葉は、それが表現したことを、
>>まったく表現しないのです。
>> 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。
>> ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。
>>だから、表現したことを、
>>正確に、表現できます。


>「だから」という接続詞は、理解できません。
>「それなのに」ではありませんか?


どっちかといえば「だから」です。

>「正確に」も、わかりません。
>「正確に表現できない」というのなら、話していることが理解できます。


そうすると、意味不明な文書になると思います。

これは林檎を知らない人に
林檎と言っても、どう言っても理解できない。という疑問でしょうか。
林檎を知ってる(学んだ)人と知らない(学ばなかった)人、
違って当然です。

>「ただの人」についての疑問は、命名に対する疑問というよりは、内容に対する疑問だと思いますが。

ただの人の状態については、
ルーさんが844で話した通りです。もう
たとえば、悲しいこととかがあったとしても
それが自己憐憫とか嘆きになって
迷うことはありません。
それをどう呼ぶかの問題がなければ、疑問はないと思います。

>「そんなことは、ない」というのは、どういうこと?
>完全に均質であるものや、完全に異質であるものは、知覚できない、というのはわかりますが。
>知覚できないものは、存在しないのであるなら、それは、知覚に依存しているのではありませんか?


とても鋭い指摘だけど。それは逆です。
完全な存在である実在、ある、は知覚できない
(知覚の管轄にはない)と、
いうことです。完全な融合も、分離もない
ということは、知覚の限界を言っています。

>知覚できるものは、接触しているものというのは、わかりますが。

これも鋭いです。完全な融合も、
完全な分離も、接触が成立しません。
その通りです。

そうでなく個人的に接触がないことは、
その個人に知覚できないという意味なら、
それは知覚に依存しています。
ここは、たしかに、個人的でないことは空想に
なるので、曖昧です。

>「世界」と呼ぶことで、それは、「世界」を「正確に」表しているのですか?
>「世界」という言葉は「世界」を表現しない、とは、どういうことですか?


世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、
るるるるると呼んでも
世界です。どう呼んでも世界を表現しません。
まったく名前と事実は無関係です。
なので 「世界」を表現します。

これから
ちょっと出かけます。

No.849 - 2008/06/06(Fri) 07:57:47

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
> 世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、
> るるるるると呼んでも
> 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。
> まったく名前と事実は無関係です。
> なので 「世界」を表現します。


「なので」がわかりません。

まぁ、わかるとして、言葉とはそういう機能であるとして。
「世界」を表現するとは?
「世界」を表現しない、のではないですか?
まぁ、世界を表現するとして。
言葉とは、そういう機能であるとして。
最初の「どう呼んでも世界を表現しません」という時の「世界」と、最後の「世界を表現します」の「世界」は、違うものを指しているのですか?
実際にある「世界」と、その人が思っている「世界」ということですか?

言葉で表現されるのは、「その人が思っている世界」ということですか?

No.850 - 2008/06/06(Fri) 08:55:43

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / hato
>> 世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、
>> るるるるると呼んでも
>> 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。
>> まったく名前と事実は無関係です。
>> なので 「世界」を表現します。


>「世界」を表現するとは?
>「世界」を表現しない、のではないですか?


ありとあらゆる辞書に載ってる、名詞、動詞、形容詞・・・辞書に載ってない言葉の総てで、世界を呼んでみましょう。その言葉が、世界を表現できるでしょうか。しないと思います。

そして、ありとあらゆる言葉で、林檎、鳥、樹を、呼んで見ましょう。その言葉が、それを表現しないと思います。どんな言葉も、どんなことを表現できません。

なのに、世界。 林檎、鳥、樹と呼べば、人は、それを表現したと看做します。自分で思考するにしても。ほかの人に伝えるにしても。それは、名前をつけられないことに対して、名前をつけてるだけです。まったく名前と実態は無関係です。 この、まったくの関係なさのゆえに、 言葉は、それ、を表現します。

まったく、なんと呼ばなくても世界は世界です。林檎、鳥、樹。です。それを世界、林檎、鳥、樹と呼んでる。ということでは、どうでしょう。

もしなにか言葉と実態が、関係あるとしましょう。それでは正確に表現できません。たとえば、ただの人、その言葉だけではなく。その言葉に何かのイメージを持ったり、それ自身がそれ自身を現わすのは変だと考えたりするなら、その言葉は、ただの人、を示しません。違和感が残ります。

それでも言葉全体で言えば。はじめて聞いた言葉でも、なんとなく意味がわかることもあります。それは人が、言葉を教師として、学んでる状態かもしれません。いわば言葉が人の、上位にあります。そうでなく言葉を使うようになれば、言葉は、名前をつけられないことに、名前をつけてるだけと、理解できます。

>最初の「どう呼んでも世界を表現しません」という時の「世界」と、最後の「世界を表現します」の「世界」は、違うものを指しているのですか?

ううん。同じです。

>実際にある「世界」と、その人が思っている「世界」ということですか?
>言葉で表現されるのは、「その人が思っている世界」ということですか?


なんにしても。世界を経験しない人には。林檎、鳥、樹を見たことない人には。なんと呼んでも、呼ばなくても、伝達できません。その意味では、そうです。学んだ人、学ばなかった人、違って当然です。

No.853 - 2008/06/07(Sat) 07:20:28

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
世界を表すのか表さないのか、全くわかりません。
この掲示板で話されている日本語がわかりません。
混乱するので、もういいです。

No.854 - 2008/06/07(Sat) 09:51:26

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
hatoさんは、ubikさん本人なのですか?
それだけは、質問の通りに返事してもらいたいです。
そうなのか違うのかを答えてもらわないと、私にはその質問が残ったままです。そこから先に進めないということです。
同じ説明を言葉を変えていくらしてもらっても、質問は、取り残されます。

No.855 - 2008/06/07(Sat) 09:57:24

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー
すみません。ubikさんのお話を理解したくて質問しているので、ubikさんからの返事ではなかったことで、逆上してしまいました。
よく読めば、意味は、わかりました。
「その意味では、そうです。」というのが、意味がとれなくて見落としていました。

しばらく休みます。

No.856 - 2008/06/07(Sat) 10:19:29

Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101
じつはhatoさんが長崎に来ています。それで、このPCを使って、ばんさんに返信しました。その設定保存のまま、ubik0101が、ルーさんに投稿したので。hatoさんが、ルーさんに返信した表示になりました。
No.858 - 2008/06/07(Sat) 14:38:43
続々・成長 / ubik0101
ム−ミンさん。

>ないものが知覚されないのが、知覚への依存ですか?

ある、ものだけしか見たり聞いたり思考できない、 知覚は、監視カメラやマイクのように自動的に機能してるだけです。知覚されてることがら…それは主体と客体の分離はありませんが…もっと正確には、完全な分離でも融合でも、見聞き思考不能ですが…その知覚は、ある現象を伝えるだけです。でないと知覚としては役割としての立場がないのです。

それに引きずられて顕在意識は、知覚されないことを、ない、と看做します。また潜在意識が静まり、知覚の作用を疑うことのできる意識を、忘れてると。また、蔑ろにすると。その反動、補償作用として、たとえば「事実に直面、いまここ」が重視され、それに偏るように思います。これは、いわゆる心理的思考…自我や欲望…を暗黙の内に邪魔者として、非難してるのかもしれません。

>知覚とは人間に備わった機能だと思いますが。すでに知覚によって成立しているものを、つまり意識にあってわかっているものを、またなくて意識されないものを、さらに意識するというのは、対象化の動きでしょう。

そうです。その意識も、人に備わった機能…構成要素…です。ただ対象化は、問題ではないのです。同一化も問題ないのです。自我や欲望による偏ったそれが問題…いや。ない、のに、ある、とされる自我の機能が問題なだけで…空想を空想と知ってれば問題ないように、混乱してなければ、無問題です。つまり、そんな知覚を受け取る意識にも依存しないこと、にも依存しないこと、が大切です。たとえば科学技術思考は問題ない、心理的思考は問題と区別することや。既知と未知の区別したりすることは無意味です。

>対象化の動きというのは、ubik0101さんがたまに仏教から借用されている「増/減」ということでしょう。知覚だけで止まっているならば「不増不減」。増減というのは物が増えたり減ったりということだけではないでしょう。訳によっては「執有論」「執無論」という言い方もあるようで、ある/ないにこだわったりするということでしょう。ubikさんの使う依存とは、このある/ない、どちらかへの偏り、依存ということではなかったですか?まだ、だめ?

もし対象化しても、不増不減です。仏教の言葉ですが、事実、見たことです。物質も、知覚も、意識も、森羅万象が、 不増不減です。その全活動が中道です。それを増やしたり減らしたりできると誤認し、自分勝手に期待するのが、欲望とも言えます。それは局所的な増滅です。ある/ないです。でないと欲望は成立しません。

> なぜ「日常が、なぜそうなのかを問う」のですか?何物にも依存しない日常に疑問を持っているということではないのでしょ?

なぜか、不思議も、知らない、も失い、そうなってしまいました。ほとんど思考停止になり、それを問うことが残ってるのかもしれません。たぶん。ひとつには復習でしょう。ひとつには人が世界に心理的にだけでなく、事実、依存してる、してない、どちらでもないから。の解消かもしれません。答えのない疑問かもしれません。

> 思考や感情は機能しています。が、とりあえず、その思考や感情は騒ぎを起こすタイプのものではないので、反対のものを持ち出して葛藤するということはないように思います。

どうして、葛藤しなくなったか。この自覚でない自覚。これは簡単に気がつくと思います。ピアノ演奏家は音楽を考えてもなくても、演奏家です。楽譜を見ても見ないでも演奏できます。そうでない素人は、音楽を聞いてても、素人です。楽譜を見ても見ないでも演奏できません。努力した、しない、理解した、しない、同じようで違います。

> 「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。

そうなんですけど。知覚できないから、ない、ということを疑がわない意識の状態に、それでは陥ってるかもしれないという指摘です。また、正確な表現でなければ、そこは正確に見えないと思われるからです。

> すでに知覚によって成立している対象をあらためて意識するということは、対象に対する能動的な働きかけがある可能性があるでしょう。そこから、ある、ないも生まれてくるのではないですか?

そうです。知覚は、ある、ない、とか判別しません。見聞き思考だけです。その判別しない知覚に意識が、依存して、知覚されたことをある、されないことを、ない、と暗黙の内に認めます。そこである、ない、を疑える意識の機能を理解し、それに依存しないこと、にも依存しないことが望ましいと思います。

こういうことは、あの無我の体験で、総べて見てるはずです。ただ意識は愚かで、忘れます。体験を対象化したりして、そうしてる主体は、いない、のだけど残響のような自我が機能し、それは苦痛をもたらせます。でも、苦痛が原動力です。苦痛が測定器です。それで、体験を余さず理解して失う、そのことによって得る。意識の管轄にないことは、そうだと意識に教える。それを勝手に悟後の修行と呼んでいます。

うーん。とても長文になりました。でも話してることは、どの段落も同じようなことです。とりあえず返信は興味のある部分だけで大丈夫です。

補足。ネットで、こんな仏陀の言葉を見つけました。スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する」。

No.822 - 2008/06/01(Sun) 16:23:46

Re: 続々・成長 / ubik0101
> こういうのを、自我の残響とよんでるのですか・・

ううん。これは無自覚の智恵、あるいは無知が転換された智恵、と呼んでいます。でも「自我の残響」そう呼んでも、なんか、ちょい誤解はされつつも意味は通じる感じです。

また。「残響のような自我」。それは自分の無我体験と日常生活との落差に悩み・・・無我体験を対象にして掴んでしまって・・・たとえば、ほかの人に自我を見る・・・そうしてる自分の自我に捕われることです。

> ・・グー・・!

そう思います。

No.824 - 2008/06/02(Mon) 07:39:12

Re: 続々・成長 / ムーミン
>ある、ものだけしか見たり聞いたり思考できない、 知覚は、監視カメラやマイクのように自動的に機能してるだけです。知覚されてることがら…それは主体と客体の分離はありませんが…もっと正確には、完全な分離でも融合でも、見聞き思考不能ですが…その知覚は、ある現象を伝えるだけです。でないと知覚としては役割としての立場がないのです。

知覚は何かを写したり、音を拾ったりしているだけではないでしょう。知覚とは分離しがたい知覚からの直接の行為があるでしょう。急激な、大きな変化を察知すれば、例えば、大きなものや速いものや尖ったものなどが現れば警戒するし、熱いものに触ったりすれば、とっさに離れたりします。

>それに引きずられて顕在意識は、知覚されないことを、ない、と看做します。また潜在意識が静まり、知覚の作用を疑うことのできる意識を、忘れてると。また、蔑ろにすると。その反動、補償作用として、たとえば「事実に直面、いまここ」が重視され、それに偏るように思います。これは、いわゆる心理的思考…自我や欲望…を暗黙の内に邪魔者として、非難してるのかもしれません。

私が言ってきたのは、テーブルの上にりんごがあるかと聞かれれば、あれば(知覚すれば)あると答えるし、なければ(知覚しなければ)ない、と答えるでしょう、ということです。それだけのことです。顕在意識や潜在意識を持ち出すまでもないでしょう。ある、ないをことさらに意識すること、換言すれば、すでにわかっていることを再度意識すること、つまり「ある」にこだわり、「ない」にこだわるならば、話は別だということです。そのときは、知覚(事実に直面)/知覚出来ない、という枠の中の話で争いに過ぎなくなります。これはubik0101さんが、苦しみ/成長ということでおっしゃっていたことと同じでしょう。

>そうです。その意識も、人に備わった機能…構成要素…です。ただ対象化は、問題ではないのです。同一化も問題ないのです。自我や欲望による偏ったそれが問題…いや。ない、のに、ある、とされる自我の機能が問題なだけで…空想を空想と知ってれば問題ないように、混乱してなければ、無問題です。つまり、そんな知覚を受け取る意識にも依存しないこと、にも依存しないこと、が大切です。

ええ、ここもテーブルの上にりんごがあるかと聞かれて、あればある、なければない、と答えるという話です。ただ、同一化が問題ないというのはどうなのでしょう。前にも話しましたが、同一化の問題というのは、観念、価値観などへの同一化があるとき、それらを攻撃されたとき、あたかも自分が攻撃されたように感じて、破壊的な関係が生じるということですから。

>たとえば科学技術思考は問題ない、心理的思考は問題と区別することや。既知と未知の区別したりすることは無意味です。

科学技術思考は問題ないというのは楽観的ですね。核兵器、生物兵器などみればすぐわかるように、心理的思考が深く絡んでいるでしょう。区別できる問題ではないと思いますね。ただ物を分解したり、組み立てたりする思考は心理とは関係ないですね。

また、既知と未知と区別することがすでに既知でしょう。そういう意味でなら無意味ですね。しかし、今までの話の流れからすると、無意味と言い切ってしまうのも、偏りということでしょうから、意味も無意味もないということになりますか。

>もし対象化しても、不増不減です。仏教の言葉ですが、事実、見たことです。物質も、知覚も、意識も、森羅万象が、 不増不減です。その全活動が中道です。それを増やしたり減らしたりできると誤認し、自分勝手に期待するのが、欲望とも言えます。それは局所的な増滅です。ある/ないです。でないと欲望は成立しません。

ええ、これはおそらく誰もが、ふと経験していることだと思います。ただその意味になかなか気づけないということがあると思います。だから自我の流れの中に入っていってしまうのでしょう。

>なぜか、不思議も、知らない、も失い、そうなってしまいました。ほとんど思考停止になり、それを問うことが残ってるのかもしれません。たぶん。ひとつには復習でしょう。ひとつには人が世界に心理的にだけでなく、事実、依存してる、してない、どちらでもないから。の解消かもしれません。答えのない疑問かもしれません。

超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているubik0101さんでもまだ疑問がある、わからないことがあるものなのですね。まあ、疑うということは、結論なく現象を見ているということなのでしょうね。それはあえて名づけるとすれば「未知」ということでしょう。

>どうして、葛藤しなくなったか。この自覚でない自覚。これは簡単に気がつくと思います。ピアノ演奏家は音楽を考えてもなくても、演奏家です。楽譜を見ても見ないでも演奏できます。そうでない素人は、音楽を聞いてても、素人です。楽譜を見ても見ないでも演奏できません。努力した、しない、理解した、しない、同じようで違います。

ただ、一口に覚醒とか悟りといってもいろいろ深浅があるようですよ。仏教などはそのメルクマールとして、例えば華厳なら十地、唯識なら五位、禅なら十牛図のようなものがありますよね。さらに、どの状態を見性や見道に位置づけるかについても、いろいろと解釈がが違ってくるようです。

それらに照らし合わせてみると、私の場合は、ある着眼を得た感じはありますが、もしかして気づきにくい微細な葛藤は見逃している可能性はないとはいえない。そのために仏教でも、禅ならば見牛から入廛垂手、唯識ならば見道位から究竟位、華厳なら初地から法雲地まで修行が続くのでしょう。だからこうして、このようなサイトへ来て自己を学んでいるといえなくもない。

ubik0101さんの場合は、超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているわけですから、最終地点におられるということなのでしょう。つまりブッダ(如来)だとおっしゃっているのでしょう。

>>「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。

>そうなんですけど。知覚できないから、ない、ということを疑がわない意識の状態に、それでは陥ってるかもしれないという指摘です。また、正確な表現でなければ、そこは正確に見えないと思われるからです。

「時間の知覚がない」というのは、時間があるかないかをわざわざ意識していないということです。

ubik0101さんは、「知覚できないから、ないということを疑わない」ということで、何かUFOとかスピリチュアルなもの、たとえば前世とか心霊とかを想定しておっしゃっているのですか?

>そうです。知覚は、ある、ない、とか判別しません。見聞き思考だけです。その判別しない知覚に意識が、依存して、知覚されたことをある、されないことを、ない、と暗黙の内に認めます。そこである、ない、を疑える意識の機能を理解し、それに依存しないこと、にも依存しないことが望ましいと思います。

知覚についてはすでに書きました。意識が対象に能動的に働きかけて、統御しようとしていれば依存ということにもなるでしょう。ないときには、観察の状態にあります。唯識でいうならば、妙観察智が働いているといえるかもしれません。下にもあるように、これは無我の体験のとき学びますね。

>こういうことは、あの無我の体験で、総べて見てるはずです。ただ意識は愚かで、忘れます。体験を対象化したりして、そうしてる主体は、いない、のだけど残響のような自我が機能し、それは苦痛をもたらせます。でも、苦痛が原動力です。苦痛が測定器です。それで、体験を余さず理解して失う、そのことによって得る。意識の管轄にないことは、そうだと意識に教える。それを勝手に悟後の修行と呼んでいます。

おっしゃりたいことはわかりました。

>うーん。とても長文になりました。でも話してることは、どの段落も同じようなことです。とりあえず返信は興味のある部分だけで大丈夫です。

今日は少し余裕があったので、全部に返信しておきました。

>補足。ネットで、こんな仏陀の言葉を見つけました。スッタニパータ874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない・・・このように理解した者の形態は消滅する」。

これは中村元さんの訳ですね。このあとに「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」と続きますね。つまり、想いが生じていないとき、ありのままがあるだけだということでしょう。ま、あるといっても不正確だし、ないといっても不正確ですが。不二の法門は「維摩の一黙」ということでしょう。

No.826 - 2008/06/03(Tue) 12:05:16

Re: 続々・成長 / ubik0101
>知覚は何かを写したり、音を拾ったりしているだけではないでしょう。知覚とは分離しがたい知覚からの直接の行為があるでしょう。急激な、大きな変化を察知すれば、例えば、大きなものや速いものや尖ったものなどが現れば警戒するし、熱いものに触ったりすれば、とっさに離れたりします。

それは。熱いものに触ったことを知覚した、その反応と思います。それは全体の働きと思います。とっさなので、意識の入る余地もないのだと思います。あまり関係ない話ですが。たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。という意見がありますが、どうなんでしょう。

>ええ、ここもテーブルの上にりんごがあるかと聞かれて、あればある、なければない、と答えるという話です。ただ、同一化が問題ないというのはどうなのでしょう。前にも話しましたが、同一化の問題というのは、観念、価値観などへの同一化があるとき、それらを攻撃されたとき、あたかも自分が攻撃されたように感じて、破壊的な関係が生じるということですから。

なにかの観念、価値観があるとして。それとの同一化が問題になるというのは、同一化したいけど同一化しきってないということで・・・しきってないので観察者(自我)が、いる、という状態ではないでしょうか。それで、観念、価値観が攻撃される、そう思うだけで、あたかも観察者としての自分が攻撃されたように感じるのではないでしょうか。それはもともと、観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいからと思います。

そうでなく。たとえば怒るとします。その怒りと、完全に同一しきってれば、そこに観察者は、いる、でも、いない、でもありませんか。また、ふつう無我を了解した人の日常は、感覚や、思考と自分は、違うのものではない。という意味で同一で、そうなら、知覚にとってですけど、感覚や思考という反応が起きてるだけ、と思います。そうなら、なにかの観念、価値観に依存する観察者が、いる、いない、という問題は発生しようもないのは、たしかです。

>科学技術思考は問題ないというのは楽観的ですね。核兵器、生物兵器などみればすぐわかるように、心理的思考が深く絡んでいるでしょう。区別できる問題ではないと思いますね。ただ物を分解したり、組み立てたりする思考は心理とは関係ないですね。

>また、既知と未知と区別することがすでに既知でしょう。そういう意味でなら無意味ですね。しかし、今までの話の流れからすると、無意味と言い切ってしまうのも、偏りということでしょうから、意味も無意味もないということになりますか。

「ただ物を分解したり、組み立てたりする」思考と、心理的思考を区別するのは、そう区別する捕われがあるのでは。ということです。心理的思考も、観察者が問題なだけではないでしょうか。思考の内容や機能にも問題があるのでしょうか。

>ubik0101さんの場合は、超意識の体験によって、意識と無意識のすべてを見通したと自負されているわけですから、最終地点におられるということなのでしょう。つまりブッダ(如来)だとおっしゃっているのでしょう。

ううん。自分を仏陀と感じてるなら、そう言わないはずがありません。ただの人、と思うまでもない、ただの人です。超意識、訪ねられたりすると思い出しますが、まったく忘れていました。

>ubik0101さんは、「知覚できないから、ないということを疑わない」ということで、何かUFOとかスピリチュアルなもの、たとえば前世とか心霊とかを想定しておっしゃっているのですか?

いや。なにも想定してません。ただ空っぽ体験、無我体験は、ない、ことの知覚です。自我が、ない、ことの体験です。なにかを見てる中心がないことです。そうでなく無我が、ある、なら簡単です。探せば見つかります。けど、中心は、ないのだから、見つかりません。だから無我は、理解が困難と言えます。

その、ない、ことの体験は。暗黙の、ないことは知覚できないという、知覚の常識から外れた体験です。これを明確にすると、知覚が、対象を、ある、と決めたがってる。そして実は、知覚を受ける意識が、そのことによって、自分は、ある、と感じたがってる。ことが見えます。これが上の、同一化の問題、自我の機能の素とも言えます。人によっては、意識があるだけで自我があるような気がするのも、そういう理由だと思います。

> これは中村元さんの訳ですね。このあとに「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである。」と続きますね。つまり、想いが生じていないとき、ありのままがあるだけだということでしょう。ま、あるといっても不正確だし、ないといっても不正確ですが。不二の法門は「維摩の一黙」ということでしょう。

「けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起こるからである」。これは全文掲載のサイトにはなかったので、載せませんでした。そこの管理者が書き忘れたのかもしれません。指摘、ありがとう。また長文になりました。適当に端折ってください。

No.827 - 2008/06/04(Wed) 12:03:07

Re: 続々・成長 / ムーミン
>それは。熱いものに触ったことを知覚した、その反応と思います。それは全体の働きと思います。とっさなので、意識の入る余地もないのだと思います。あまり関係ない話ですが。たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。という意見がありますが、どうなんでしょう。

人の意見は単なる意見なので置くとして、自分で見てどうですか?それが一番確かではないですか?クリシュナムルティのサイトで長い間、分別されていないゴミ処理の問題が取り上げられていましたが、葛藤しているときと、静かなときとは行動が違うでしょう。知覚からの行為は自分と対象との分離がないから全体的な働きではないですか?司祭やラビが見てみぬ振りをして通りすぎた半殺しにあって倒れているユダヤ人をサマリア人が助けたという聖書の話も、もしかしてこの部類に入るかもしれません。

>なにかの観念、価値観があるとして。それとの同一化が問題になるというのは、同一化したいけど同一化しきってないということで・・・しきってないので観察者(自我)が、いる、という状態ではないでしょうか。それで、観念、価値観が攻撃される、そう思うだけで、あたかも観察者としての自分が攻撃されたように感じるのではないでしょうか。それはもともと、観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいからと思います。

観念、価値観が観察者を作り上げているのでしょう。もし、何の観念も価値観もないとすれば、空っぽです。それで、その空っぽさから逃れようとするときには、すでにそれを対象化しているわけですから、観念、価値観が働き始めているわけです。そして、そのときの感情を恐怖と呼んだり、虚しい、孤独だ、寂しいなどと呼んだりしているわけです。そういう意味では、「観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいから」ということは言えると思います。

>そうでなく。たとえば怒るとします。その怒りと、完全に同一しきってれば、そこに観察者は、いる、でも、いない、でもありませんか。また、ふつう無我を了解した人の日常は、感覚や、思考と自分は、違うのものではない。という意味で同一で、そうなら、知覚にとってですけど、感覚や思考という反応が起きてるだけ、と思います。そうなら、なにかの観念、価値観に依存する観察者が、いる、いない、という問題は発生しようもないのは、たしかです。

「怒り」と名づけていた感情を「怒り」と名づけることがないとき、観察者はいません。感情の知覚があるだけです。そのとき、観察者のいない観察がある、ということでしょう。すでに何回か言いましたが、知覚はいわば、対象即意識、主観即客観の状態ということでしょう。知覚しているときには知覚していることも知りません。だから知覚者のいない知覚といえるかも知れません。

>「ただ物を分解したり、組み立てたりする」思考と、心理的思考を区別するのは、そう区別する捕われがあるのでは。ということです。心理的思考も、観察者が問題なだけではないでしょうか。思考の内容や機能にも問題があるのでしょうか。

思考自体は問題はないのではないですか。おっしゃるように問題は観察者でしょう。観察者があることで問題が起こってくる。だから区別は囚われではなくて、観察者があるときとないときでは、起こっていることが違うよ、という単なる指摘でしょう。

>ううん。自分を仏陀と感じてるなら、そう言わないはずがありません。ただの人、と思うまでもない、ただの人です。超意識、訪ねられたりすると思い出しますが、まったく忘れていました。

私の知る限りでは、この掲示板はもちろん、ヤフー掲示板でも「ゴトの読書室」でも、ご自身の体験を喧伝されていますよね。「ただの人」というのも曖昧な言葉ですね。

>いや。なにも想定してません。ただ空っぽ体験、無我体験は、ない、ことの知覚です。自我が、ない、ことの体験です。なにかを見てる中心がないことです。そうでなく無我が、ある、なら簡単です。探せば見つかります。けど、中心は、ないのだから、見つかりません。だから無我は、理解が困難と言えます。

それだったらいいのですが。私が、知覚とは知覚者がいないことであり、知覚していることも知らない状態で、ただ聞かれればある、ないは答えると言ってきたのに対し、ubik0101さんが、ないものが知覚されないのは知覚への依存だ、ということにこだわっていらっしゃったから。

>その、ない、ことの体験は。暗黙の、ないことは知覚できないという、知覚の常識から外れた体験です。これを明確にすると、知覚が、対象を、ある、と決めたがってる。そして実は、知覚を受ける意識が、そのことによって、自分は、ある、と感じたがってる。ことが見えます。これが上の、同一化の問題、自我の機能の素とも言えます。人によっては、意識があるだけで自我があるような気がするのも、そういう理由だと思います。

知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。

No.832 - 2008/06/05(Thu) 10:24:27

Re: 続々・成長 / ubik0101
>人の意見は単なる意見なので置くとして、自分で見てどうですか?それが一番確かではないですか?クリシュナムルティのサイトで長い間、分別されていないゴミ処理の問題が取り上げられていましたが、葛藤しているときと、静かなときとは行動が違うでしょう。知覚からの行為は自分と対象との分離がないから全体的な働きではないですか?司祭やラビが見てみぬ振りをして通りすぎた半殺しにあって倒れているユダヤ人をサマリア人が助けたという聖書の話も、もしかしてこの部類に入るかもしれません。

クリシュナムルティ関係の人は 「たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。」を前提にしてる人がいるようです。これは空想です。はじめから叡智があるなら、なぜ、葛藤が始まったりするのでしょう。はじめから叡智がないから、と思います。

>観念、価値観が観察者を作り上げているのでしょう。もし、何の観念も価値観もないとすれば、空っぽです。それで、その空っぽさから逃れようとするときには、すでにそれを対象化しているわけですから、観念、価値観が働き始めているわけです。そして、そのときの感情を恐怖と呼んだり、虚しい、孤独だ、寂しいなどと呼んだりしているわけです。そういう意味では、「観念や価値観に依存しながら、そのような自分を、ある、と実感したいから」ということは言えると思います。

じゃ、まず、なぜ観念、価値観があるのでしょう。過去の記憶でしょうか。けど。その過去の時点では今なのに。それが、つまり過去が、なぜ問題なのでしょう。いま問題がある、たとえば観察者がいる状態なので、過去の記憶や未来を空想して、いま問題があることが現れるのではありませんか。問題は気がつかなかったけど、過去にもあったのです。なんども言いますが、気がつかないから、ない、というのは疑問です。気がつかないから静かであっても、それは愚かなために静かなだけです。誤りです。

そして観察者。これ、ほんとうに、ない、なら。どうして観察ができますか。たとえば死んでしまったりして観察できますか。「観察者のない観察」とは。クリシュナムルティの表現でしょうが、明らかに不正確に思えます。

> 「怒り」と名づけていた感情を「怒り」と名づけることがないとき、観察者はいません。感情の知覚があるだけです。そのとき、観察者のいない観察がある、ということでしょう。すでに何回か言いましたが、知覚はいわば、対象即意識、主観即客観の状態ということでしょう。知覚しているときには知覚していることも知りません。だから知覚者のいない知覚といえるかも知れません。

それは、まず怒りと名づける観察者がいて、怒りと名づけてることが問題。なだけです。それは。なにかに命名するとか、しないとか、の問題ではありません。怒りと名づけないでも、なにか問題なら問題です。クリシュナムルティが命名が問題と、そのように言ってるなら、クリシュナムルティには言葉についての理解がなされていません。

>私の知る限りでは、この掲示板はもちろん、ヤフー掲示板でも「ゴトの読書室」でも、ご自身の体験を喧伝されていますよね。「ただの人」というのも曖昧な言葉ですね。

ム−ミンさんが「喧伝」と思うのは、かまいません。ただ、相手から聞かれた場合、誰かに役に立つ場合、話しています。事実は、事実なだけです。なにも隠す必要はありません。そういう超意識の話にubik0101が依存していると思うなら、ム−ミンさんは、そう誤解してると思います。

> それだったらいいのですが。私が、知覚とは知覚者がいないことであり、知覚していることも知らない状態で、ただ聞かれればある、ないは答えると言ってきたのに対し、ubik0101さんが、ないものが知覚されないのは知覚への依存だ、ということにこだわっていらっしゃったから。

それはubik0101を、ム−ミンさんが、対象化してるのだと思います。または、知覚と、あるないのことが、ム−ミンさんに明確ではないので、躓いているように思えます。これは、ほんとうは見るのが困難なことです。

>知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。

なにか問題があるから、「再意識化」して、問題を解決しようとする。です。つまり、観察者の、自分との分離、世界との分離は、人が問題に集中して、それを理解するための方法です。その機能が問題なのではなく。それを理解してないことが問題です。

No.843 - 2008/06/05(Thu) 17:39:50

Re: 続々・成長 / ムーミン
>クリシュナムルティ関係の人は 「たとえば葛藤してるときは直接ではなく混乱した行動が、葛藤してない静かなときは知覚からの直接行動がある。はじめから人が静かなら叡智がある。」を前提にしてる人がいるようです。これは空想です。はじめから叡智があるなら、なぜ、葛藤が始まったりするのでしょう。はじめから叡智がないから、と思います。

知覚からの直接の行為の意味が了解できたとき、了解する前には気づかなかったけれども、実はそのときにも直接の行為をしているときがあったのだな、と知るでしょう。人は叡智を得て初めて、知覚からの直接の行為があるのでしょうか。はたして、その行為は「覚醒者」の占有物なのでしょうか?

>じゃ、まず、なぜ観念、価値観があるのでしょう。過去の記憶でしょうか。けど。その過去の時点では今なのに。それが、つまり過去が、なぜ問題なのでしょう。いま問題がある、たとえば観察者がいる状態なので、過去の記憶や未来を空想して、いま問題があることが現れるのではありませんか。問題は気がつかなかったけど、過去にもあったのです。なんども言いますが、気がつかないから、ない、というのは疑問です。気がつかないから静かであっても、それは愚かなために静かなだけです。誤りです。

生まれてからずっと、国家、社会、宗教、家庭、教育、本などから刷り込みが行われているでしょう。それら過去のものが、現在に息を吹き返す。ただ、それが形だけのものであって、機能しなければ、つまり、思いがあって、思い通りにならない事態がある、それを思い通りにしようと格闘することがなくなっていれば、過去のものが蘇ったとしても問題はないでしょう。形だけのものならば、それは、ないと言ってもいいでしょう。

>そして観察者。これ、ほんとうに、ない、なら。どうして観察ができますか。たとえば死んでしまったりして観察できますか。「観察者のない観察」とは。クリシュナムルティの表現でしょうが、明らかに不正確に思えます。

観察者が意識されない、観察されていることが意識されない、ということではないですか?つまり、自意識、自我意識、自己意識、いろいろ呼び名はありますが、それがないということでしょう。で、そういうものの干渉がなく、ただ見ているということではないですか?

>それは、まず怒りと名づける観察者がいて、怒りと名づけてることが問題。なだけです。それは。なにかに命名するとか、しないとか、の問題ではありません。怒りと名づけないでも、なにか問題なら問題です。クリシュナムルティが命名が問題と、そのように言ってるなら、クリシュナムルティには言葉についての理解がなされていません。

これは苦しみが何かの知覚があったときによくわかるでしょう。命名することなく、ただ苦しみと今まで呼んでいたもののだけがある状態があります。そのとき、そのギャップがあるとき、命名することがすでに、操作、統御、対処を含んでいたことがわかります。命名のないときには、苦しみと呼んでいたものは、消えていきます。

>ム−ミンさんが「喧伝」と思うのは、かまいません。ただ、相手から聞かれた場合、誰かに役に立つ場合、話しています。事実は、事実なだけです。なにも隠す必要はありません。そういう超意識の話にubik0101が依存していると思うなら、ム−ミンさんは、そう誤解してると思います。

わかりました。「喧伝」と書いたのは表現が正確ではなかったかもしれません。「忘れた」とおっしゃりながらも、いろいろと書いていらっしゃるな、という意味です。ただ「ただの人、というのも曖昧な言葉」と書いたように、「覚醒」の内容も、「超意識」も曖昧だな、ということはあります。

>それはubik0101を、ム−ミンさんが、対象化してるのだと思います。または、知覚と、あるないのことが、ム−ミンさんに明確ではないので、躓いているように思えます。これは、ほんとうは見るのが困難なことです。

知覚については、自分でも不思議なことがいっぱいある、起きているので、言葉に表現しきれない部分がある、まだ検討課題があるというのは確かです。ただ私が、ubik0101さんを対象化しているというのはどういう意味でしょうか?

また「これは、ほんとうは見るのが困難なことです。」ということは、ubik0101さんはその困難なものをわかっていらっしゃると思いますので、その点を書いていただければ、私の、もちろん皆さんの参考にもなると思います。

>>知覚が対象を、あると決めたがっているということではないででしょう。というのは、ずっと申し上げてきましたが、私の知覚の捉え方は、対象即意識ですから。それで、それを再意識化する観察者が問題となってくるのではないかということです。

>なにか問題があるから、「再意識化」して、問題を解決しようとする。です。つまり、観察者の、自分との分離、世界との分離は、人が問題に集中して、それを理解するための方法です。その機能が問題なのではなく。それを理解してないことが問題です。

観察者が生じるというのは、観察者と観察されるものが分離しているということでしょう。その分離の理解についてはすでに書いてきました。

No.857 - 2008/06/07(Sat) 10:39:01
続・成長 / ubik0101
ム−ミンさん。

>事実と空想の誤認に気づいていないのが倒錯でしょう。その誤認に気づけば、その時、空想がもたらす格闘は終わりますから、苦しみも終わるでしょう。「苦しみは必要悪である」というのは一つの考え方としてはあるのかもしれませんが、私は採りません。これについては後でも少し書きます。また、「苦しみを自覚しなければ・・・」とありますが、現に苦しみがあるのに、苦しみを自覚しない人っていますか?苦しみがあれば、それはわかるでしょう。

ここで言おうとしてるのは、倒錯してる人は、その倒錯してる自分に気がつかない、ということです。そして、倒錯の現れとして、「事実と空想を誤認」して、それを苦しむということです。その苦しみは自覚できない人はいないと思います。

けれど倒錯していながら、苦しみが現れないこともあります。たとえば夢中で映画を見ていれば、苦しむことはないでしょう。人生が順風満帆なら、喜びさえするでしょう。倒錯してる人が、その時だけは、倒錯してない、わけではありません。苦しみがあるときだけ倒錯してるわけではありません。つまり苦しみを自覚できないでも倒錯です。このこと全体が苦しみだということなら、意見の違いはないと思えます。

ところで。事実と知覚のズレ、これが面白いのです。そのズレゆえ知覚ができる。そのズレゆえ自我や欲望の機能が生起し、そのズレゆえ人の成長がある。このことの全体が鳥瞰できる感じがしています。そして事実とともに生きるだけでいいのか、いまここにあるだけでいいのか。という疑問はあります。

> 「ありのまま」と「勝手な判断」とは「事実」と「虚構」と言い換えられると思います。それらははっきりと区別がつきませんか?その区別がつかない時に苦しみは生まれます。

まず「勝手な判断」「虚構」が生じません。それが普段の有り様です。もしも、なにか空想したら、それは空想だ、ということは明確です。なので、区別がつきます。「事実」と空想を混同しているなら、苦しむでしょう。

>人間はアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などから学ぶことは出来ますが、人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などがあったのではないでしょう。

>ある哲学者が「現実は理念的である」というようなことを言いました。この言葉の意味するところは、歴史や人間の精神現象は理念に向けての合理的運動、究極目標へと前進する過程だ、ということでしょう。これは一つの解釈に過ぎませんが、前世紀の出来事をみれば、その解釈の楽観性に疑問は生じるでしょう。人間そのものが消滅する可能性もあるのですから。

>同様に、私は、苦しみが成長などの何かのためにという考え方は採りません。やはり、解釈としてではなく、事実として、苦しみは、事実と虚構との誤認によって生まれていると言えますし、それに気づくことで苦しみは滅するということでしょう。もちろん、苦しみから学ぶことはできるでしょう。しかし、学ぶために苦しみがある、という考え方には今のところ懐疑的です。

しかし苦しみがなければ、倒錯には気がつかないでしょう。そして苦しみは苦しみである必要はないのですが苦しみです。倒錯は倒錯である必要はないのですが倒錯です。おそらくですが、子供の頃にも、成人してからも、老年になっても、それに巻き込まれなかったという人はいないと思います。この世界に自分だけでなく、ほかの人がいる、というだけのことからでも、倒錯や苦痛は、現れると思います。 結果的に必要だったということです。

そうでなく、必要だから初めからある、と看做せば、それは偏った意見です。また倒錯が、不必要と看做せば、やはり同じように偏った見方です。倒錯、苦しみを対象化してると言えそうです。そして対象化したら、そのことに縛られ課題として現れます。あたりまえに絶妙です。

ふつうは隣近所との軋轢とか、思い通りにならない人生とか、そんなことだけで、学ぶためには充分です。戦争など必要はありません。が、そこまで大騒ぎにしても倒錯してることに気がつかないほど、あまりに愚かなんだと思います。

No.811 - 2008/05/30(Fri) 08:31:58

Re: 続・成長 / ムーミン
>けれど倒錯していながら、苦しみが現れないこともあります。たとえば夢中で映画を見ていれば、苦しむことはないでしょう。人生が順風満帆なら、喜びさえするでしょう。倒錯してる人が、その時だけは、倒錯してない、わけではありません。苦しみがあるときだけ倒錯してるわけではありません。つまり苦しみを自覚できないでも倒錯です。このこと全体が苦しみだということなら、意見の違いはないと思えます。

ここはすんなりと理解できますね。

>ところで。事実と知覚のズレ、これが面白いのです。そのズレゆえ知覚ができる。そのズレゆえ自我や欲望の機能が生起し、そのズレゆえ人の成長がある。このことの全体が鳥瞰できる感じがしています。

言葉の使い方にもよりますが、知覚によって把握されるものを事実と私は呼んでいます。客観ともいいます。主観(自我や欲望)によって歪んでいないものですね。

>そして事実とともに生きるだけでいいのか、いまここにあるだけでいいのか。という疑問はあります。

なぜ、そう思うのですか?

>まず「勝手な判断」「虚構」が生じません。それが普段の有り様です。もしも、なにか空想したら、それは空想だ、ということは明確です。なので、区別がつきます。「事実」と空想を混同しているなら、苦しむでしょう。

おっしゃていたように、「勝手な判断」「虚構」があっても、そうとは思っていない、自覚がないという場合もありますね。それで「明確」「区別がつく」場合は、それらに囚われることなく、生まれては消えていくのみですね。明確ではないがゆえに囚われて、虚構の中で争うこと、それが苦しみですね。

>しかし苦しみがなければ、倒錯には気がつかないでしょう。そして苦しみは苦しみである必要はないのですが苦しみです。倒錯は倒錯である必要はないのですが倒錯です。おそらくですが、子供の頃にも、成人してからも、老年になっても、それに巻き込まれなかったという人はいないと思います。この世界に自分だけでなく、ほかの人がいる、というだけのことからでも、倒錯や苦痛は、現れると思います。 結果的に必要だったということです。

ubik0101さんは、常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ、というように語られています。これは、歴史や人間を神のような、見えない力によって支配する計画だと捉える考えにも通じかねませんので、ひとまず、「人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などが起こったのではない」ということが確認できればそれでいいです。

>そうでなく、必要だから初めからある、と看做せば、それは偏った意見です。また倒錯が、不必要と看做せば、やはり同じように偏った見方です。倒錯、苦しみを対象化してると言えそうです。そして対象化したら、そのことに縛られ課題として現れます。あたりまえに絶妙です。

現に世界中に倒錯はあり、苦しみは存在します。そして、それを滅する必要性があります。その必要性は欲望でも対象化でもありません。倒錯がアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などを生んだのです。もし「苦しみ」の反対のものとして「成長」を捉えるのなら、そこには「対象化」の罠があるのでしょう。それは苦しみからの逃避としての「成長」であり、虚構ですから、堂々巡りがあり、さらに苦しみは続くでしょう。

>ふつうは隣近所との軋轢とか、思い通りにならない人生とか、そんなことだけで、学ぶためには充分です。戦争など必要はありません。が、そこまで大騒ぎにしても倒錯してることに気がつかないほど、あまりに愚かなんだと思います。

ええ、そう思います。

No.812 - 2008/05/30(Fri) 16:08:47

Re: 続・成長 / ubik0101
>言葉の使い方にもよりますが、知覚によって把握されるものを事実と私は呼んでいます。客観ともいいます。主観(自我や欲望)によって歪んでいないものですね。

これは言葉の使い方ではなく。ここで言われてる「主観(自我や欲望)によって歪んでいない」知覚の機能を、疑ってるんです。「客観」は知覚し得ないかもしれません。

また。見られるものと見るものの、聞かれることと聞かれるもの、思考されるものと思考されるものの、ことさらの分離はなく。ここで、見る、聞く、思考だけが機能していますが、そのことを・・・見る主体が、いない、という表現は一応は、許容範囲にはあるのですが・・・いる、いない、と言っても、誤りで・・・「客観」も、ある、ない、と言っても誤りと思いますが。どうも知覚に、どちらかに決めたがる性質があるようです。

>なぜ、そう思うのですか?

いつか話したように思いますが、一般的には、「事実とともに生きる、いまここにある」が・・・既成の方法になってしまっていて、それに縛られてると、いうのでなければ・・・それで充分です。そうであって。なぜ、そのように世界が機能するかを探りたいからです。

>おっしゃていたように、「勝手な判断」「虚構」があっても、そうとは思っていない、自覚がないという場合もありますね。それで「明確」「区別がつく」場合は、それらに囚われることなく、生まれては消えていくのみですね。明確ではないがゆえに囚われて、虚構の中で争うこと、それが苦しみですね。

とくにそうと意識してなくても、「勝手な判断」「虚構」が解消されてる。ということがあります。生まれもしないけど、消えもしないけど、理解されてる。ということです。それが苦しみの理解の結果です。これは見逃してはいけないことです。でなければ「成長」は言いません。

> ubik0101さんは、常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ、というように語られています。

たぶん、それは誤解と思います。倒錯の現れは、役に立つ、ということです。自我や欲望が機能してるんだったら、それに埋没するのではなく、それを理解しよう、ということです。

そのようにubik0101が言ってると、たとえばム−ミンさんが対象化したら、“常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ” と言ってるように、思える。ということではないでしょうか。

また。成長という言葉を対象化すると、それも誤解です。倒錯の、なんだかの反対のものを想定するなら、それは倒錯であり、成長ではありません。いまさらム−ミンさんには、言うほどのことではないかもしれません。

No.813 - 2008/05/30(Fri) 19:31:07

Re: 続・成長 / ムーミン
>これは言葉の使い方ではなく。ここで言われてる「主観(自我や欲望)によって歪んでいない」知覚の機能を、疑ってるんです。「客観」は知覚し得ないかもしれません。

>また。見られるものと見るものの、聞かれることと聞かれるもの、思考されるものと思考されるものの、ことさらの分離はなく。ここで、見る、聞く、思考だけが機能していますが、そのことを・・・見る主体が、いない、という表現は一応は、許容範囲にはあるのですが・・・いる、いない、と言っても、誤りで・・・「客観」も、ある、ない、と言っても誤りと思いますが。どうも知覚に、どちらかに決めたがる性質があるようです。

私の使っている意味の知覚は、主客を分別しません。分別するのは認識です。認識という一つのコーディネーターというか、まとめ役がいないときは五感はばらばらに働いているような感じです。また認識して分別が発生したしても、認識と知覚が一致しているとき、例えばりんごを単に「りんご」と認識しても問題はないでしょう。問題は知覚が自我や渇望という主観的認識によって歪むときです。

>いつか話したように思いますが、一般的には、「事実とともに生きる、いまここにある」が・・・既成の方法になってしまっていて、それに縛られてると、いうのでなければ・・・それで充分です。そうであって。なぜ、そのように世界が機能するかを探りたいからです。

ええ、それが規定の方法、目標となってしまっては、それに縛られていることになるでしょうね。同様に「成長」も一つの目標になってしまえば、それに縛られるということでしょう。求道は一つのパラドクスです。重要なのは、そのパラドクスを解くということなのだと思います。パラドクスに気づいたときにはもうパラドクスではなくなっているということもありますが。

>> ubik0101さんは、常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ、というように語られています。

>たぶん、それは誤解と思います。倒錯の現れは、役に立つ、ということです。自我や欲望が機能してるんだったら、それに埋没するのではなく、それを理解しよう、ということです。

それならば問題はありません。たとえば宗教の現場では、成長のために苦しみがあるということで、苦しい現状が肯定的に語られ、来世に希望が託され、そこに搾取がなされているということもあります。そういう意味ではないということで、了解しました。

>そのようにubik0101が言ってると、たとえばム−ミンさんが対象化したら、“常に「成長」のために「苦しみ」はあるのだ” と言ってるように、思える。ということではないでしょうか。

文章には誤解が付き物でしょう。結論や断定的意見に囚われているのならば、それを対象化して、どうにかしようということもあるでしょうが、ubik0101さんが言ってることについて、質問を提出しているだけですから。誤解があれば、その都度、修正していくだけの話でしょう。

>また。成長という言葉を対象化すると、それも誤解です。倒錯の、なんだかの反対のものを想定するなら、それは倒錯であり、成長ではありません。いまさらム−ミンさんには、言うほどのことではないかもしれません。

了解しました。
「苦しみ」と「成長」は、「絶望」と「希望」に置き換えられなくもないように思います。「絶望」からの逃避としての架空の「希望」ではなく、現にある「絶望」を理解すること。そのとき逃避そのものが「苦しみ」だったと理解できると思います。

No.814 - 2008/05/31(Sat) 10:02:00

Re: 続・成長 / ubik0101
>私の使っている意味の知覚は、主客を分別しません。分別するのは認識です。認識という一つのコーディネーターというか、まとめ役がいないときは五感はばらばらに働いているような感じです。また認識して分別が発生したしても、認識と知覚が一致しているとき、例えばりんごを単に「りんご」と認識しても問題はないでしょう。問題は知覚が自我や渇望という主観的認識によって歪むときです。

ところで。知覚は、見たこと、聞いたこと、思考したことが、そのものでない、と疑うことができません。それは知覚されないことも、ある、と疑いもできないように働いてると思います。あるが、知覚で、知覚が、ある。と思うこともなく、ある、です。

しかし意識は、これを疑う機能があります。ある、ない、を疑えます。知覚できないことも、ある、と。知覚は不正確と。そこで、まだ学んでない混乱した意識が「自我や渇望」で騒ぐなら、ここにない事実、つまり空想と、ここにある事実を混同したりするでしょう。ことさら自他の分離を事実以上に助長したりもするでしょう。しかし「自我や渇望」が理解され静まるなら、意識は無駄な働きを止めて、そのまま知覚を承認するようになります。

しかし、そんな混乱から意識は、知覚の機能を学びました。それが現実の知覚にしても、思考の知覚にしても、知覚の言う通りでないことを知ります。たとえば「自我や渇望」が理解されたなら、その理解されたことは、知覚、自覚されないけど、なくならない・・・無知が転換した智恵・・・を了解しています。とくに、自己が、あるないの範囲にないことを、自覚しないまま自覚してます。それを自覚したら空想です。

ここは、まずは無我の体験が望ましいのです。それからは、様々な経緯があるようです。ケースとしては。まず、主体が、いない。けど、世界は、ある。この場合には。ほかの人に自我があると、空想することで残響のような自我が機能します。ここに人を助けたい思いが発現します。それが自分の状態を教える、信号になります。さらに、主体も、いない。世界も、ない。この場合は、知覚に重点をおいてしまうこともあります。知覚しかない、時間の知覚がない、ことが自分の状態を教える、信号になります。

No.816 - 2008/05/31(Sat) 15:03:31

Re: 続・成長 / ムーミン
>しかし意識は、これを疑う機能があります。ある、ない、を疑えます。知覚できないことも、ある、と。知覚は不正確と。そこで、まだ学んでない混乱した意識が「自我や渇望」で騒ぐなら、ここにない事実、つまり空想と、ここにある事実を混同したりするでしょう。ことさら自他の分離を事実以上に助長したりもするでしょう。しかし「自我や渇望」が理解され静まるなら、意識は無駄な働きを止めて、そのまま知覚を承認するようになります。

知覚は感覚が意識に上ることですから、混乱した意識がそれをとらえれば、当然歪んでくるでしょう。

>しかし、そんな混乱から意識は、知覚の機能を学びました。それが現実の知覚にしても、思考の知覚にしても、知覚の言う通りでないことを知ります。たとえば「自我や渇望」が理解されたなら、その理解されたことは、知覚、自覚されないけど、なくならない・・・無知が転換した智恵・・・を了解しています。とくに、自己が、あるないの範囲にないことを、自覚しないまま自覚してます。それを自覚したら空想です。

渇望などの自我の働きは、なければ当然、知覚はしないでしょう。つまり意識には上りません。意識に上らないことをしいて意識するということもないでしょう。

>ここは、まずは無我の体験が望ましいのです。それからは、様々な経緯があるようです。ケースとしては。まず、主体が、いない。けど、世界は、ある。この場合には。ほかの人に自我があると、空想することで残響のような自我が機能します。ここに人を助けたい思いが発現します。それが自分の状態を教える、信号になります。

無我の体験は、夢から覚めるようなものでしょう。夢の中にいるときにはそれが夢だとは気がつかない。だから人に夢を見ているのですよ、と助言したくなるでしょう。

>さらに、主体も、いない。世界も、ない。この場合は、知覚に重点をおいてしまうこともあります。知覚しかない、時間の知覚がない、ことが自分の状態を教える、信号になります。

「知覚に重点をおく」という意味がわかりませんが、瞑想時の状態を伝えるためにあえて表現するときには「知覚しかない、時間の感覚がない」と言うことはあるでしょう。が、実際「知覚しかない、時間の感覚がない」ときは、あらためて意識もしないでしょう。

No.817 - 2008/05/31(Sat) 16:55:23

Re: 続・成長 / ubik0101
> 渇望などの自我の働きは、なければ当然、知覚はしないでしょう。つまり意識には上りません。意識に上らないことをしいて意識するということもないでしょう。

そういうことを言ってるのではないのです。ム−ミンさんが、このへんに反応しないのは、理由があるように思うのです。ないものは知覚されないといった、知覚に依存してるように、話の印象だけですけど、思えるのです。誤解?でしょうか。

とりあえず自分は、自我とか欲望を持ちだして、そうでない有り様を思うこともなく。つまり、無我や無欲にも、自己や実在にも、依存しない日常です。それで日常が、なぜそうなのかを問うています。ム−ミンさんは、どういう状態ですか。

>「知覚に重点をおく」という意味がわかりませんが、瞑想時の状態を伝えるためにあえて表現するときには「知覚しかない、時間の感覚がない」と言うことはあるでしょう。が、実際「知覚しかない、時間の感覚がない」ときは、あらためて意識もしないでしょう。

あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、とかに関わらない話です。たとえば「時間の知覚がない」からと言って、時間が、ない、というのは変だ、と言ってるのです。

あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、対象や主体は、ある、ない、に関わらない、という話をしていたつもりなんですが。きっと言葉不足だったのかもしれません。

No.819 - 2008/05/31(Sat) 21:25:09

Re: 続・成長 / ムーミン
> >渇望などの自我の働きは、なければ当然、知覚はしないでしょう。つまり意識には上りません。意識に上らないことをしいて意識するということもないでしょう。

>そういうことを言ってるのではないのです。ム−ミンさんが、このへんに反応しないのは、理由があるように思うのです。ないものは知覚されないといった、知覚に依存してるように、話の印象だけですけど、思えるのです。誤解?でしょうか。

ないものが知覚されないのが、知覚への依存ですか?
知覚とは人間に備わった機能だと思いますが。すでに知覚によって成立しているものを、つまり意識にあってわかっているものを、またなくて意識されないものを、さらに意識するというのは、対象化の動きでしょう。対象化の動きというのは、ubik0101さんがたまに仏教から借用されている「増/減」ということでしょう。知覚だけで止まっているならば「不増不減」。増減というのは物が増えたり減ったりということだけではないでしょう。訳によっては「執有論」「執無論」という言い方もあるようで、ある/ないにこだわったりするということでしょう。ubikさんの使う依存とは、このある/ない、どちらかへの偏り、依存ということではなかったですか?まだ、だめ?

>とりあえず自分は、自我とか欲望を持ちだして、そうでない有り様を思うこともなく。つまり、無我や無欲にも、自己や実在にも、依存しない日常です。それで日常が、なぜそうなのかを問うています。

なぜ「日常が、なぜそうなのかを問う」のですか?何物にも依存しない日常に疑問を持っているということではないのでしょ?

>ム−ミンさんは、どういう状態ですか。

思考や感情は機能しています。が、とりあえず、その思考や感情は騒ぎを起こすタイプのものではないので、反対のものを持ち出して葛藤するということはないように思います。

>あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、とかに関わらない話です。たとえば「時間の知覚がない」からと言って、時間が、ない、というのは変だ、と言ってるのです。

「時間の知覚がない」というのは、心理的な時間のことでしょう。物理的には時間はあるわけです。だから年もとるし、物も壊れていく。それだけの話でしょう。あらためて意識するというのは、そこに何かを能動的な働きかけの対象としている可能性もあるでしょう。

>あらためて意識しないでも、あらためて意識しても、対象や主体は、ある、ない、に関わらない、という話をしていたつもりなんですが。きっと言葉不足だったのかもしれません。

すでに知覚によって成立している対象をあらためて意識するということは、対象に対する能動的な働きかけがある可能性があるでしょう。そこから、ある、ないも生まれてくるのではないですか?

No.820 - 2008/06/01(Sun) 11:53:31
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