>たとえば人は無意識に、自分を知りたくないという無謀な努力をしています。とします。それは日常の行動、言葉、思考に現れます。しかし、それは理解されることで成長の役に立ちます。
>その無謀な努力を止めることも役に立ちます。 また成長したいと望むことも役に立ちます。 どう転んでも、人は学ぶのです。まさにそのようでしかない、そんな感じ。です。
「無謀な努力をしている」ことになかなか気づかないということが難点です。気づかなければ理解されない。何が「無謀な努力」なのかわからなければ、それを止めることもできない。
また、なぜ成長しなければならないのか、なぜ成長を望むのか、また、そもそも前提としている成長とは何を意味しているのか、いろいろ問題が出てきそうです。
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No.793 - 2008/05/23(Fri) 10:02:36
| ☆ Re: 成長 / ubik0101 | | | とりあえず自我、欲望などが、自分を知りたくない「無謀な努力」として機能しています。しかし、その騒がしい運動に人は気がつかざるを得ず、その自我や欲望こそ、自分を鍛えるための、負荷として機能します。
しかし。それに関わらず、関わらないこともなく、人は、自我や欲望に依存しない、自分を知り(変な言い方)ます。それは人が、世界を完全に知り得る、完全に知り得ない、どちらでもないから、そういうことが起こるのだと思います。違う経緯もあるでしょう。
そして、成長ということも、定義できることではありません。もしできるなら、それは、世界に依存しきってるということで、成長ではありません。たとえば植物の種には、水や空気や光は不可欠ですが、それで花は定義できません。
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No.794 - 2008/05/23(Fri) 15:31:29 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >とりあえず自我、欲望などが、自分を知りたくない「無謀な努力」として機能しています。しかし、その騒がしい運動に人は気がつかざるを得ず、その自我や欲望こそ、自分を鍛えるための、負荷として機能します。
「無謀な努力」に気がつかずに、何人の人が自死してしまうことか。日本では一年に三万人を超える人が自死しています。
>そして、成長ということも、定義できることではありません。もしできるなら、それは、世界に依存しきってるということで、成長ではありません。たとえば植物の種には、水や空気や光は不可欠ですが、それで花は定義できません。
自分が思っている「成長」が、実は国家や学校や社会や家庭などで刷り込まれた「理想の姿」に過ぎない可能性があります。また「成長」を求めることが、今ある苦しみ、不満からの逃避ということもあるかもしれません。しかし追求や逃避という心理的な運動こそが苦しみを継続させているのでしょう。そんなとき「成長」を求めることは「無謀な努力」でしょう。この「無謀な努力」に気づき、理解したとき、もはや「成長」は何でもないものではないかと思います。
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No.795 - 2008/05/24(Sat) 13:25:19 |
| ☆ Re: 成長 / ubik0101 | | | >「無謀な努力」に気がつかずに、何人の人が自死してしまうことか。日本では一年に三万人を超える人が自死しています。
いろいろ空想できますが・・・たとえば自分を自分で要らないとか、理想の自分像と自分の違いを苦しむとか・・・それで、そういう結果なら、とんでもないことと思います。この世界の不思議。そういうことが見えなくなるのかもしれません。
>自分が思っている「成長」が、実は国家や学校や社会や家庭などで刷り込まれた「理想の姿」に過ぎない可能性があります。また「成長」を求めることが、今ある苦しみ、不満からの逃避ということもあるかもしれません。しかし追求や逃避という心理的な運動こそが苦しみを継続させているのでしょう。そんなとき「成長」を求めることは「無謀な努力」でしょう。
たしかに。成長、ということを自分の外に置いて対象にして目指すなら、それは成長とは言えません。それは空想です。それを動機づけ、根拠づけ、意味づけ、たりするために人は、「理想の姿」を捏造せねばならなくなることも。また、成長の代用品として、つまり意味を取り違えて、「追求や逃避」をすることも、あるかもしれません。しかし、その有り様からも、学ぶことができます。
>この「無謀な努力」に気づき、理解したとき、もはや「成長」は何でもないものではないかと思います。
もともと名前をつけられないことに、人は名前をつけているだけです。主に文章で伝達する手段として、そう呼ばないでも成長。なことを、成長と名前をつけて呼んでいます。愛、自由、幸福・・・何でもそうです。
なにかに名前をつけることが問題なのではなく。なにか問題がある状態において人が、名前をつけるなら、そのことで問題が鮮明になる、ということもあります。たとえば自我などの問題があれば、自我と名前をつけなくても、問題です。 とくに問題がなければ、名前をつけても、つけなくても無問題です。言葉とは、そのようなものだと思います。
けど。たとえば友達に、わたしたち友達だねと、言ったりすることは。幸せなときに、幸せと言うのは。たしかに奇妙であり、それは自分の外に置いて対象にしたと、思えることもあるでしょう。また、そうすると、そこに前提にされてる、それと類似なこと、反対のこと、無関係なことなどが、現れてしまう可能性はあります。それで違和感があることもあると思います。それは言葉や実感に依存してるのかもしれません。
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No.796 - 2008/05/24(Sat) 18:46:40 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >もともと名前をつけられないことに、人は名前をつけているだけです。主に文章で伝達する手段として、そう呼ばないでも成長。なことを、成長と名前をつけて呼んでいます。愛、自由、幸福・・・何でもそうです。
言葉と言葉の指し示すものとのギャップは、人間にとって永遠の課題のようです。言葉によって個別性が一般性に、具体性が抽象性に回収されてしてしまいます。一般性や抽象性から思考することは物事の生々しさを失わせてしまいます。たとえば、猫を飼っている人は、その猫を単に「猫」という一般性では語れないでしょう。おそらく「事象そのもの」とは、この個別性であり、具体性なのでしょう。
>なにかに名前をつけることが問題なのではなく。なにか問題がある状態において人が、名前をつけるなら、そのことで問題が鮮明になる、ということもあります。たとえば自我などの問題があれば、自我と名前をつけなくても、問題です。 とくに問題がなければ、名前をつけても、つけなくても無問題です。言葉とは、そのようなものだと思います。
名前、言葉はさまざまなイメージを喚起させ、それとともに過去に記憶された感情を呼び起こします。イメージや過去の記憶からの自由がないとき、人は実際に起こっていることよりもイメージや記憶に翻弄され、傷つき、苦しみます。
>けど。たとえば友達に、わたしたち友達だねと、言ったりすることは。幸せなときに、幸せと言うのは。たしかに奇妙であり、それは自分の外に置いて対象にしたと、思えることもあるでしょう。また、そうすると、そこに前提にされてる、それと類似なこと、反対のこと、無関係なことなどが、現れてしまう可能性はあります。それで違和感があることもあると思います。それは言葉や実感に依存してるのかもしれません。
「対象化」。言葉を換えれば「知る者と知られるもの」「思考者と思考」の分離・対立。その分離・対立があるときとは、ある何かを操作したい、つまりそれは追求や逃避があるときですが、それは苦しみを生みますね。分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。言葉やイメージなどの媒介なしに「事象そのもの」と触れ合うこと。そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。
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No.797 - 2008/05/25(Sun) 16:26:18 |
| ☆ Re: 成長 / hato | | | おはようございます。 ムーミンさん、 もりあおがえるには、会えましたか?
ムーミンさんは、私たちが、自我の機能に捉えられたときの状態に警鐘を鳴らしてくださっているのだと、思います。 事象そのもの。 どちらか一方の状態では、物事が起きていてもわからない、ということ。 自我の機能がことさら働いていないなら、言葉を使うことも とくに問題ではないかもしれません。 この世界は、どういうわけか、そのようになっている、 私たちが、自分を学ぶ、という仕様になっている、ということ、だったでしょうか。
> 「そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。
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No.798 - 2008/05/26(Mon) 08:51:35 |
| ☆ Re: 成長 / ubik0101 | | | >「対象化」。言葉を換えれば「知る者と知られるもの」「思考者と思考」の分離・対立。その分離・対立があるときとは、ある何かを操作したい、つまりそれは追求や逃避があるときですが、それは苦しみを生みますね。分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。言葉やイメージなどの媒介なしに「事象そのもの」と触れ合うこと。そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。
そうですね。言葉によるイメージと事実との違い・・・そのことも、けっこう意味があるというか、役に立つと思います。でなければ、どうして、ことさら悩んだり苦しんだりできるのか、難しいところです。そして、それは、欲望や自我の機能で、それは結局、自分って何?に繋がると思います。そのために、必要だからあると、思います。
はじめから、ものごころもつかない子供のように天真爛漫で、「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」なら、人は未発達なだけで、自分を問えないかもしれません。そうして問えないなら「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」の了解も、成り立たないように思います。これは同じようで違うでしょう。
おそらく、そうなってる理由が。事実と、言葉の問題もあるでしょうが。事実と、人の知覚の内容は、同じではない。ということにあると思います。たぶん厳密な意味での、「事象そのもの」は知覚できないでしょう。そこにズレがあるから、それが恩恵を与えてくれてるとも思えます。どんなことも不可知なのに、どんなことも不可欠。なぜか、ここは、そういう不思議な世界です。
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No.799 - 2008/05/27(Tue) 09:33:31 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >おはようございます。 >ムーミンさん、 >もりあおがえるには、会えましたか?
はい。大合唱で出迎えてくれました。ウグイスも口笛を吹くと、応えてくれました。
>自我の機能がことさら働いていないなら、言葉を使うこともとくに問題ではないかもしれません。
はい。要点は、言葉にまとわりついているイメージ(感情を含む)からの自由ということではないかと思います。
>この世界は、どういうわけか、そのようになっている、 >私たちが、自分を学ぶ、という仕様になっている、ということ、だったでしょうか。
目的論的に考えることについては、今のところ懐疑的でいます。目的論は心理的運動、時間そのものじゃないだろうか、と思うからです。未来とは、こうあってほしい、ほしくない、という現在の思いの投影ではないかと思います。私にとって「学び」とは、さ迷うこころを「いま・ここ」に連れ戻してくれるもののような気がします。
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No.800 - 2008/05/27(Tue) 11:12:17 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >そうですね。言葉によるイメージと事実との違い・・・そのことも、けっこう意味があるというか、役に立つと思います。でなければ、どうして、ことさら悩んだり苦しんだりできるのか、難しいところです。そして、それは、欲望や自我の機能で、それは結局、自分って何?に繋がると思います。そのために、必要だからあると、思います。
本来ないものをあると見る。事実と空想を誤認する。この倒錯が苦しみを生んでいるのでしょう。とすれば、倒錯が必要ということはないでしょう。倒錯が不要なものだと気づくことではないでしょうか。
>はじめから、ものごころもつかない子供のように天真爛漫で、「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」なら、人は未発達なだけで、自分を問えないかもしれません。そうして問えないなら「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」の了解も、成り立たないように思います。これは同じようで違うでしょう。
「あえて言語化する必要はない」。ここは「イメージや過去の記憶からの自由がないとき」と書いた流れの中で書きました。言語にまとわりつくイメージ(感情を含む)から自由であれば、必要に応じて、つまり伝達の手段としての言語は有用なものですね。ただ、菖蒲の花を見て「菖蒲」だと、あえて対象化し、言語化する必要もないかと思います。対象化、言語化する自分がいないとき、生々しい未知の花に出会っていないでしょうか?
>おそらく、そうなってる理由が。事実と、言葉の問題もあるでしょうが。事実と、人の知覚の内容は、同じではない。ということにあると思います。たぶん厳密な意味での、「事象そのもの」は知覚できないでしょう。そこにズレがあるから、それが恩恵を与えてくれてるとも思えます。どんなことも不可知なのに、どんなことも不可欠。なぜか、ここは、そういう不思議な世界です。
「事象そのもの」、「知覚」という言葉の意味にもよりますが、「事象そのもの」と「認識」とは別だということではないかと思います。「認識」とは過去の知識、経験等の枠組みによるものだからです。「知覚」という言葉の使用には、ずいぶんと幅があるようです。私の場合には「認識」を経由しない、「直接知覚」という意味で「知覚」と使います。
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No.801 - 2008/05/27(Tue) 11:47:28 |
| ☆ Re: 成長 / ubik0101 | | | >本来ないものをあると見る。事実と空想を誤認する。この倒錯が苦しみを生んでいるのでしょう。とすれば、倒錯が必要ということはないでしょう。倒錯が不要なものだと気づくことではないでしょうか。
たとえば、倒錯してる人が、「事実と空想を誤認する 」です。その誤認を自覚しないでも倒錯しています。そして、ときに心理的な運動に巻き込まれて、倒錯してることに気づかないまま、なんとか気づこうとして苦しみます。その苦しみが、人を鍛えています。いわば必要悪です。せっかくの苦しみを使わないでいる場合もあります。苦しみを自覚しなければ万事OK、ではありません。
>「あえて言語化する必要はない」。ここは「イメージや過去の記憶からの自由がないとき」と書いた流れの中で書きました。言語にまとわりつくイメージ(感情を含む)から自由であれば、必要に応じて、つまり伝達の手段としての言語は有用なものですね。ただ、菖蒲の花を見て「菖蒲」だと、あえて対象化し、言語化する必要もないかと思います。対象化、言語化する自分がいないとき、生々しい未知の花に出会っていないでしょうか?
そうです。ただ「対象化、言語化」する、その機能も、未知です。そのようにして、対象と対象にしてる主体を、知る、と誤解できるだけです。実際は、知りません。そして「対象化、言語化する自分がいない」、そのことも、なぜそうなってるか、知りません。つまり、未知と既知の違いはありません。知るということも、知らないということも、それがなにか知りません。です。
>「事象そのもの」、「知覚」という言葉の意味にもよりますが、「事象そのもの」と「認識」とは別だということではないかと思います。「認識」とは過去の知識、経験等の枠組みによるものだからです。「知覚」という言葉の使用には、ずいぶんと幅があるようです。私の場合には「認識」を経由しない、「直接知覚」という意味で「知覚」と使います。
すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。
そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。
そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。
もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。
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No.802 - 2008/05/27(Tue) 17:43:25 |
| ☆ Re: 成長 / hato | | | > 目的論的に考えることについては、今のところ懐疑的でいます。目的論は心理的運動、時間そのものじゃないだろうか、と思うからです。
ほんとうに。 それを目的、と言ってしまうなら、 そうではないと思います。 やはり、どう言ってみても、誤り、といえるのかもしれません。
もりあおがえる、よかったです。 東京では、多摩川がきれいになって、 かれいが帰ってきた、 と聞きました。
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No.803 - 2008/05/28(Wed) 08:38:20 |
| ☆ Re: 成長 / kigaru | | | > > すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。 > > そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。 > > そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。 > > もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。
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No.804 - 2008/05/29(Thu) 10:58:01 |
| ☆ Re: 成長 / ubik0101 | | | >質問・・・これは、どういうことをいいたいんですか?
それはタイトルの通り、成長についての説明の一環です。
>「ありのまま」さえ、わからないんじゃないかと、そういうことですか?
あくまで世界は、生き物として人が知覚してる、その世界です。気軽さんは、「ありのまま」に知覚してると思っているのでしょうか。そして。「ありのまま」に知覚してるとして、世界って、何でしょう。 また、そういうことは思ってもないのでしょうか。なら。どうして思ってもないのでしょうか。
>可能性・・ですか、言葉だけ、表現上のことだけですか? >フィクションということですか? >なにやら、意味不明、ちょっとは考えたんですが・・
それは人の有り様によって違います。理解してれば、勝手な判断と「ありのまま」の分裂、対立に縛られません。しかし、理解してない場合は、縛られてることにも気がつかずに、縛られてる可能性があります。たとえば、あるときは勝手な判断をする、あるときは「ありのまま」と感じる。けど実は、その分裂、対立に縛られてる。そんな状態になる、可能性があります。
>上のほうで、知る、知らない、を知らないとか・・・ >そんなに知らない、知らないという人が、変容とか、成長とか・・・そういう意味はわかるんですか・・・
そうです。知らない、ということを見るためには。変容とか、成長が望ましいのです。気軽さんは、知ってる、ということが、何かを知ってるでしょうか。また。知ってるとしても、知ってる、その自分を知ってるでしょうか。
>それと、なんか、あなたのいってることは、矛盾している、わけのわからないことを独善的に言ってるような気がして・・・わけがわかりません、こういうのを禅問答というんですかね。 >突然、横からすいませんが、もちょっと、わかりやすく言ってください。 >こういうことに興味はあるほうなんですが。
とくに禅問答ではありません。できるだけ正確に表現しています。なんとなく理解したと思うだけでは、誤解の恐れがあります。
なぜか依頼された記事を削除できませんでした。
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No.806 - 2008/05/29(Thu) 13:51:33 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >たとえば、倒錯してる人が、「事実と空想を誤認する 」です。その誤認を自覚しないでも倒錯しています。そして、ときに心理的な運動に巻き込まれて、倒錯してることに気づかないまま、なんとか気づこうとして苦しみます。その苦しみが、人を鍛えています。いわば必要悪です。せっかくの苦しみを使わないでいる場合もあります。苦しみを自覚しなければ万事OK、ではありません。
事実と空想の誤認に気づいていないのが倒錯でしょう。その誤認に気づけば、その時、空想がもたらす格闘は終わりますから、苦しみも終わるでしょう。「苦しみは必要悪である」というのは一つの考え方としてはあるのかもしれませんが、私は採りません。これについては後でも少し書きます。また、「苦しみを自覚しなければ・・・」とありますが、現に苦しみがあるのに、苦しみを自覚しない人っていますか?苦しみがあれば、それはわかるでしょう。
>そうです。ただ「対象化、言語化」する、その機能も、未知です。そのようにして、対象と対象にしてる主体を、知る、と誤解できるだけです。実際は、知りません。そして「対象化、言語化する自分がいない」、そのことも、なぜそうなってるか、知りません。つまり、未知と既知の違いはありません。知るということも、知らないということも、それがなにか知りません。です。
ええ、自意識がないわけですから、そうなるでしょう。主体も客体もないのですから。また未知も既知もない。自意識がない時、生々しい事実とともにいるということを表現したのです。もちろん自意識がない時には「事実とともにいる」とも意識されませんが。
>すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。
魚や鳥や犬の知覚がどんなものかは知りません。が、おそらく自意識というものはないのではないかと推測はできます。人間も自意識がない時、見ている世界が、ありのままか、ありのままでないのか、判断はしないでしょう。
>そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。
「ありのまま」と「勝手な判断」とは「事実」と「虚構」と言い換えられると思います。それらははっきりと区別がつきませんか?その区別がつかない時に苦しみは生まれます。
>そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。
ええ、行動は事実がし示してくれますから。「対立を意識しないまま、それに縛られている」としたら、やはり苦しみが生じるでしょう。
>もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。
人間はアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などから学ぶことは出来ますが、人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などがあったのではないでしょう。
ある哲学者が「現実は理念的である」というようなことを言いました。この言葉の意味するところは、歴史や人間の精神現象は理念に向けての合理的運動、究極目標へと前進する過程だ、ということでしょう。これは一つの解釈に過ぎませんが、前世紀の出来事をみれば、その解釈の楽観性に疑問は生じるでしょう。人間そのものが消滅する可能性もあるのですから。
同様に、私は、苦しみが成長などの何かのためにという考え方は採りません。やはり、解釈としてではなく、事実として、苦しみは、事実と虚構との誤認によって生まれていると言えますし、それに気づくことで苦しみは滅するということでしょう。もちろん、苦しみから学ぶことはできるでしょう。しかし、学ぶために苦しみがある、という考え方には今のところ懐疑的です。
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No.807 - 2008/05/29(Thu) 16:17:02 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >ほんとうに。 >それを目的、と言ってしまうなら、 >そうではないと思います。 >やはり、どう言ってみても、誤り、といえるのかもしれま >せん。
はい。「どう言っても誤り」です。それが表現の限界なのだと思います。ある哲学者が言いました。「語りえぬものは沈黙するしかない」と。こころが沈黙した時、何が見える、聞こえるでしょうか?
>もりあおがえる、よかったです。
「カラコロ、カラカラコロ・・・」。 どう言ってみても誤りです。
>東京では、多摩川がきれいになって、 >かれいが帰ってきた、 >と聞きました。
清流にしか生息できないという、鮎もしばしば見かけるようになったそうです。
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No.808 - 2008/05/29(Thu) 16:27:16 |
| ☆ Re: 成長 / hato | | | 世界、といえる事象から、学ぶ、ということしか、 人にできることはないのではないでしょうか。 そう意識していなくとも、そうでしか、ないのでしょう。 世界は人を覚醒させる「触媒」である。 怒り、悲しみ、苦しみ、なぜ、そうなのか、 それは人に問いかけを発生させる。 世界にただ満足するではなく、 関わっているのに関わってもいない、世界。 それは、一体、何なのか? なぜ、それであり、それを見るのか。
それは、人が、未熟であるなら意識無意識に拘わらず、 どの立ち位置においても、 問いかけざるを得ないことだと思います。
> はい。「どう言っても誤り」です。それが表現の限界なのだと思います。ある哲学者が言いました。「語りえぬものは沈黙するしかない」と。こころが沈黙した時、何が見える、聞こえるでしょうか?
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No.810 - 2008/05/30(Fri) 07:41:55 |
| ☆ Re: 成長 / ムーミン | | | >世界、といえる事象から、学ぶ、ということしか、 >人にできることはないのではないでしょうか。 >そう意識していなくとも、そうでしか、ないのでしょう。 >世界は人を覚醒させる「触媒」である。 >怒り、悲しみ、苦しみ、なぜ、そうなのか、 >それは人に問いかけを発生させる。 >世界にただ満足するではなく、 >関わっているのに関わってもいない、世界。 >それは、一体、何なのか? >なぜ、それであり、それを見るのか。
はい。 求道は一つのパラドクスです。重要なのは、そのパラドクスが解けるということなのだと思います。
>それは、人が、未熟であるなら意識無意識に拘わらず、 >どの立ち位置においても、 >問いかけざるを得ないことだと思います。
はい。 空想に思いを馳せることではなく、今ある自分を問うことだと思います。そして、その問いの中に、もしかすると答えが見つかるのかもしれません。
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No.815 - 2008/05/31(Sat) 10:09:51 |
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