なぜ人は、自我を嫌うのでしょう。そうしてるのは、あきらかに、自我ではないでしょうか。これは自我、あるいは自我に対する無我という名前の自我、の機能ではないでしょうか。そうです。至道無難・・・つまり道とは、何でもないことです・・・唯嫌揀択・・・ただ選り好みを嫌います・・・そうです。 自我を、好むこと、厭うこと、選り好みを、道は嫌います。
どこに自我はあるのでしょう。 それは人にあるでしょうか。いいえ。人は生まれついて、そのようなものはありません。では世界にあるでしょうか。いいえ。海の深みを、山の高みを、草の根を分けて探しても、ありません。では思考にあるでしょうか。いいえ。いくら思考しても、ありません。では、人と人、人と世界の関係にあるのでしょうか。
それは人と人、人と世界、人と思考の関係の破綻において現象すると思われるのかもしれません。では関係の破綻は、必ず自我を生むでしょうか。いいえ。では、関係の破綻を、修復することが自我を生むのでしょうか。いいえ。自我はただ、倒錯において現れるのかもしれません。
どんなことも、ある、でも、ない、でも、どちらでもある、どちらでもない、どう言っても誤りなのに。自我という、または無我という単に、ない、ことを、ある、としてる誤認、それが自我。ではないでしょうか。
この誤認が人には、面白くて、惹き付けられる。それだけのことかもしれません。どこに無我は、あるでしょう。実際は、自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。ではないでしょうか。
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No.825 - 2008/06/03(Tue) 09:39:59
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | いつもですが。このような自分の有り様、それを、そのまま話してるだけです。
ところで。気軽さんには、自我は機能していますか。していませんか。無我ですか。無我だとして、どうして自分が無我と判りますか。
それが判るとして、それは過去、自分に自我が機能してた。また、ほかの人に自我を見てるからではありませんか。そう見るのは、自分の無我に捕われていませんか。ない、ことを掴んでも、しょうがないと思います。ほかの言い方では、自我と無我の対立、分離。非難、正当化。ではないでしょうか。
そして、そういう対立、分離などをしない有り様なら。自我と無我、どちらも対象にせず、どちらにも依存しないなら。自我も無我も、ないのではありませんか。ふつうの日常、自分は、このようです。
そして、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」それさえ失ってしまうのではないでしょうか。しかし、その有り様を表現すると、そうなります。実際、どこに自我や、無我があるでしょう。
ほかにいい言い方があるといいのですが。とりあえずかもしれませんが。これでいいと思っています。
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No.829 - 2008/06/04(Wed) 17:45:14 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」 これを言っているのは、何なんですか?
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No.830 - 2008/06/05(Thu) 09:41:39 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | >これを言っているのは、何なんですか?
と、言ってるのは、何なんですか?と、ルーさんに聞きたくなります。けど。それはともかく。それは。自我が言ってるのでも、無我が言ってるのでもないので。
「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」と、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」が言ってる。のかもしれません。
だって、ubik0101も言えるし、ルーさんも言えるし、誰も言えるでしょう。また、誰が言わなくっても、そうでしょう。これで、うまく誤魔化せたでしょうか?
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No.831 - 2008/06/05(Thu) 10:05:54 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | > >これを言っているのは、何なんですか? > > と、言ってるのは、何なんですか?と、ルーさんに聞きたくなります。けど。それはともかく。それは。自我が言ってるのでも、無我が言ってるのでもないので。
自我が言っているのか、それとも無我が言っているのかと聞きたかったわけではありません。 それはともかく、自我が言っているのでもなく無我が言っているのでもないということはお返事いただけました。 それは、そうでしょう。自我もなければ無我もないのですから、それが何かを言うわけがありません。 「意識」が言っているのかな、と思ったのですが。 それも否定されそうですね。
> 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」と、「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」が言ってる。のかもしれません。 > > だって、ubik0101も言えるし、ルーさんも言えるし、誰も言えるでしょう。また、誰が言わなくっても、そうでしょう。これで、うまく誤魔化せたでしょうか?
状態を実況している。。。そういうことなのでしょう。 実況しているのだから、実況する主体がいるのだと思ってしまうけれど、そうではなく、主体は「ない」のだと言いたいのでしょう。 あなたは、それを発見しました。 発見しました。 発見したので、発見した本人が存在すると思ってしまうでしょうが、そうではなく、本人は不在なのです。 不思議ですね。本当に不思議ですね。 あなたは、いるけど、いない、のだ。 恐いですね、恐いですね、怖いです。
幽霊なのですね。。。。。。。。。。。。。きゃー!
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No.833 - 2008/06/05(Thu) 11:07:23 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | > > 「自我もなければ、無我もない。無我もなければ、自我もない。」 > > これを言っているのは、何なんですか? > > ルーさん、あなたもいってるじゃないですか。 > だから、あなたも何が言っているのか、その「それ」を知っている。
それを何と呼ぶのかを知りたかったのです。 自我とか無我とかの名づけに詳しい人なら、何と呼んでいるのかを知りたかったのです。
> あなたの「それ」とおなじものが、言っているんじゃないですか。
どれが自我でどれが無我で、どれがそれなのか、知りません。
> あなたが、これを言っている、「そのところのもの」が、 > それ、「その何か」です。
あなたに聞いていません。 勝手に答えないでください。
> なぜ、それがそうなのか、不思議、神秘、どう表現しても、おかしな世界です。
うるさい。 卵投げたろか(笑)
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No.836 - 2008/06/05(Thu) 11:49:07 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | 自我も無我もないのだったら、もはや「ただの人」でもない、ように思います。 というか、その「ただの人」と自分を呼ぶのは、とても、「ただの人ではない」と言っているように聞こえるんです。 ただの人は、自分を「ただの人」とは言わないと思うんです。 その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。 特別な人だと思われたくない、ということの表れなのでしょうか。 それとも、「中道」を歩む人のあり方として、「ただの人」と言っているのか。 まぁ、「ただの人」というのは、「普通の人」という意味ではない、ということは確かだと思います。
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No.837 - 2008/06/05(Thu) 12:36:25 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | 気軽さん。
気にせず、今のままで、気軽に参加してください。
すみません。
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No.838 - 2008/06/05(Thu) 12:38:31 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | > その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。
うーん。なんにも名乗らなくても、いいんです。でも、はじめは、悟りにも迷いにもいない、ただの人と言ってたと思います。いまは、ほんとーに、ふつーの、ただの人です。事実です。
たとえば、女性が、わたしは女性です。と主張するなら、それを聞く人は、なんか、ほかの意味があって、言ってるのかな。と思ったりするかもしれませんが。とくに主張ではないです。
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No.839 - 2008/06/05(Thu) 14:08:37 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | > > その、自分を「ただの人」と名乗りたいのは、いったい何だろうかと思います。 > > うーん。なんにも名乗らなくても、いいんです。でも、はじめは、悟りにも迷いにもいない、ただの人と言ってたと思います。いまは、ほんとーに、ふつーの、ただの人です。事実です。
「悟りにも迷いにもいない」=ただの人 という図式が、納得いきません。 ただの人は、迷いの中にいることもあるでしょう。 迷いの中にいる人は、ただの人ではない、のですか? 「自分は、迷いの中にいない」と言えるのは、悟りではないですか?
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No.840 - 2008/06/05(Thu) 14:36:41 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | >ただの人は、迷いの中にいることもあるでしょう。 >迷いの中にいる人は、ただの人ではない、のですか?
悟りにいるなら悟りの人で、迷いにいるなら迷いの人です。ただの人は、どっちでもない、と思います。なんでもない、それだけの、ふつうの、人と言っても変わりません。
> 「自分は、迷いの中にいない」と言えるのは、悟りではないですか?
うーん。迷いも、それからの解放も、その解放を掴む迷いも経験し、それを理解し、どれにも依存できなくなった、ということです。でも、泣き、笑いします。そういえば、日常、とも呼んでいます。
ルーさんも、そうではありませんか。迷っていますか。なら、どうして、迷ってると判りますか。それから解放されて、はじめて迷いが判るのではないでしょうか。 自分は、迷ってるとき、迷ってるとも思ってませんでした。
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No.841 - 2008/06/05(Thu) 16:14:03 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | 「迷っているとき、迷っているとも思っていなかった」 そして、「今、迷いから解放されている」 今、迷いから解放されていて、以前は迷いの中にいた、とわかる。
私は、迷っている時、迷っているとわかっていました。 そして、今は、その迷いからは解放されているけれど、また違う迷いに遭遇するかも知れないと思っています。 正確には、「違う迷いに遭遇するかも知れない」と思っているのではなくて、未知だと思っているのです。 「もう迷わない」とは言えないのです。 同じことでは躓かないと思いますが。
こういうを「ただの人」と呼ぶのなら、納得します。
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No.844 - 2008/06/05(Thu) 18:10:41 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | ついでに。
「完全な分離も完全な融合もない」についてです。
自分を「ただの人」であるというのが事実であるとする時、それは、もし、そのままの事実であれば認識できないのではなかったですか? 自分が、まさに「ただの人」である時、自分では「ただの人」であると知覚できないのではなかったですか? 「ただの人」というものに完全に融合しているなら、知覚できないのでしょう? ということは、ほんのちょっとズレているので感知できるのですか?ほんのちょっぴりだけ、かわいくズレている、と。
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No.845 - 2008/06/05(Thu) 18:17:09 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | これは言葉の機能の問題です。林檎を林檎と呼んでも、 変じゃないように。ただの人を、 ただの人と呼んでも変じゃありません。
言葉は、それが表現したことを、 まったく表現しないのです。 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。 ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。 だから、表現したことを、 正確に、表現できます。
この言葉の機能の理解がないと たとえば命名に対する疑問がでて それに捕われる恐れがあります。
「完全な分離も完全な融合もない」
このことの意味は、たとえば総てが完全に均質、 であれば、それ自身がそれ自身を。 また、あることと、あることが完全に異質であれば、 互いに、知覚できないという意味で。 そんなことは、ない、ということです。 あらゆることは関係がある という意味でもあります。
そんな この世界で、言葉は 世界を世界と呼べるように機能しています。
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No.847 - 2008/06/05(Thu) 19:21:27 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | > これは言葉の機能の問題です。林檎を林檎と呼んでも、 > 変じゃないように。ただの人を、 > ただの人と呼んでも変じゃありません。
「それは林檎ですか?」と訊ねても、変じゃないでしょう。
> 言葉は、それが表現したことを、 > まったく表現しないのです。 > 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。 > ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。 > だから、表現したことを、 > 正確に、表現できます。
「だから」という接続詞は、理解できません。 「それなのに」ではありませんか? 「正確に」も、わかりません。 「正確に表現できない」というのなら、話していることが理解できます。
> > この言葉の機能の理解がないと > たとえば命名に対する疑問がでて > それに捕われる恐れがあります。
「ただの人」についての疑問は、命名に対する疑問というよりは、内容に対する疑問だと思いますが。
> 「完全な分離も完全な融合もない」 > > このことの意味は、たとえば総てが完全に均質、 > であれば、それ自身がそれ自身を。 > また、あることと、あることが完全に異質であれば、 > 互いに、知覚できないという意味で。 > そんなことは、ない、ということです。
「そんなことは、ない」というのは、どういうこと? 完全に均質であるものや、完全に異質であるものは、知覚できない、というのはわかりますが。 知覚できないものは、存在しないのであるなら、それは、知覚に依存しているのではありませんか?
> あらゆることは関係がある > という意味でもあります。
知覚できるものは、接触しているものというのは、わかりますが。
> そんな > この世界で、言葉は > 世界を世界と呼べるように機能しています。
「世界」と呼ぶことで、それは、「世界」を「正確に」表しているのですか? 「世界」という言葉は「世界」を表現しない、とは、どういうことですか?
「理解したい」という気持ちは、正直なところ、50%ぐらいです。
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No.848 - 2008/06/05(Thu) 21:41:07 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | > 「それは林檎ですか?」と訊ねても、変じゃないでしょう。
うん。
>> 言葉は、それが表現したことを、 >>まったく表現しないのです。 >> 林檎という言葉は、林檎を表現しないのです。 >> ただの人という言葉は、ただの人を表現しないのです。 >>だから、表現したことを、 >>正確に、表現できます。
>「だから」という接続詞は、理解できません。 >「それなのに」ではありませんか?
どっちかといえば「だから」です。
>「正確に」も、わかりません。 >「正確に表現できない」というのなら、話していることが理解できます。
そうすると、意味不明な文書になると思います。
これは林檎を知らない人に 林檎と言っても、どう言っても理解できない。という疑問でしょうか。 林檎を知ってる(学んだ)人と知らない(学ばなかった)人、 違って当然です。
>「ただの人」についての疑問は、命名に対する疑問というよりは、内容に対する疑問だと思いますが。
ただの人の状態については、 ルーさんが844で話した通りです。もう たとえば、悲しいこととかがあったとしても それが自己憐憫とか嘆きになって 迷うことはありません。 それをどう呼ぶかの問題がなければ、疑問はないと思います。
>「そんなことは、ない」というのは、どういうこと? >完全に均質であるものや、完全に異質であるものは、知覚できない、というのはわかりますが。 >知覚できないものは、存在しないのであるなら、それは、知覚に依存しているのではありませんか?
とても鋭い指摘だけど。それは逆です。 完全な存在である実在、ある、は知覚できない (知覚の管轄にはない)と、 いうことです。完全な融合も、分離もない ということは、知覚の限界を言っています。
>知覚できるものは、接触しているものというのは、わかりますが。
これも鋭いです。完全な融合も、 完全な分離も、接触が成立しません。 その通りです。
そうでなく個人的に接触がないことは、 その個人に知覚できないという意味なら、 それは知覚に依存しています。 ここは、たしかに、個人的でないことは空想に なるので、曖昧です。
>「世界」と呼ぶことで、それは、「世界」を「正確に」表しているのですか? >「世界」という言葉は「世界」を表現しない、とは、どういうことですか?
世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、 るるるるると呼んでも 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。 まったく名前と事実は無関係です。 なので 「世界」を表現します。
これから ちょっと出かけます。
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No.849 - 2008/06/06(Fri) 07:57:47 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | > 世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、 > るるるるると呼んでも > 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。 > まったく名前と事実は無関係です。 > なので 「世界」を表現します。
「なので」がわかりません。
まぁ、わかるとして、言葉とはそういう機能であるとして。 「世界」を表現するとは? 「世界」を表現しない、のではないですか? まぁ、世界を表現するとして。 言葉とは、そういう機能であるとして。 最初の「どう呼んでも世界を表現しません」という時の「世界」と、最後の「世界を表現します」の「世界」は、違うものを指しているのですか? 実際にある「世界」と、その人が思っている「世界」ということですか?
言葉で表現されるのは、「その人が思っている世界」ということですか?
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No.850 - 2008/06/06(Fri) 08:55:43 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / hato | | | >> 世界を、ほかの言い方、たとえば林檎と呼んでも、 >> るるるるると呼んでも >> 世界です。どう呼んでも世界を表現しません。 >> まったく名前と事実は無関係です。 >> なので 「世界」を表現します。
>「世界」を表現するとは? >「世界」を表現しない、のではないですか?
ありとあらゆる辞書に載ってる、名詞、動詞、形容詞・・・辞書に載ってない言葉の総てで、世界を呼んでみましょう。その言葉が、世界を表現できるでしょうか。しないと思います。
そして、ありとあらゆる言葉で、林檎、鳥、樹を、呼んで見ましょう。その言葉が、それを表現しないと思います。どんな言葉も、どんなことを表現できません。
なのに、世界。 林檎、鳥、樹と呼べば、人は、それを表現したと看做します。自分で思考するにしても。ほかの人に伝えるにしても。それは、名前をつけられないことに対して、名前をつけてるだけです。まったく名前と実態は無関係です。 この、まったくの関係なさのゆえに、 言葉は、それ、を表現します。
まったく、なんと呼ばなくても世界は世界です。林檎、鳥、樹。です。それを世界、林檎、鳥、樹と呼んでる。ということでは、どうでしょう。
もしなにか言葉と実態が、関係あるとしましょう。それでは正確に表現できません。たとえば、ただの人、その言葉だけではなく。その言葉に何かのイメージを持ったり、それ自身がそれ自身を現わすのは変だと考えたりするなら、その言葉は、ただの人、を示しません。違和感が残ります。
それでも言葉全体で言えば。はじめて聞いた言葉でも、なんとなく意味がわかることもあります。それは人が、言葉を教師として、学んでる状態かもしれません。いわば言葉が人の、上位にあります。そうでなく言葉を使うようになれば、言葉は、名前をつけられないことに、名前をつけてるだけと、理解できます。
>最初の「どう呼んでも世界を表現しません」という時の「世界」と、最後の「世界を表現します」の「世界」は、違うものを指しているのですか?
ううん。同じです。
>実際にある「世界」と、その人が思っている「世界」ということですか? >言葉で表現されるのは、「その人が思っている世界」ということですか?
なんにしても。世界を経験しない人には。林檎、鳥、樹を見たことない人には。なんと呼んでも、呼ばなくても、伝達できません。その意味では、そうです。学んだ人、学ばなかった人、違って当然です。
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No.853 - 2008/06/07(Sat) 07:20:28 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | 世界を表すのか表さないのか、全くわかりません。 この掲示板で話されている日本語がわかりません。 混乱するので、もういいです。
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No.854 - 2008/06/07(Sat) 09:51:26 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | hatoさんは、ubikさん本人なのですか? それだけは、質問の通りに返事してもらいたいです。 そうなのか違うのかを答えてもらわないと、私にはその質問が残ったままです。そこから先に進めないということです。 同じ説明を言葉を変えていくらしてもらっても、質問は、取り残されます。
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No.855 - 2008/06/07(Sat) 09:57:24 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ルー | | | すみません。ubikさんのお話を理解したくて質問しているので、ubikさんからの返事ではなかったことで、逆上してしまいました。 よく読めば、意味は、わかりました。 「その意味では、そうです。」というのが、意味がとれなくて見落としていました。
しばらく休みます。
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No.856 - 2008/06/07(Sat) 10:19:29 |
| ☆ Re: どこに自我は、あるのでしょう。 / ubik0101 | | | じつはhatoさんが長崎に来ています。それで、このPCを使って、ばんさんに返信しました。その設定保存のまま、ubik0101が、ルーさんに投稿したので。hatoさんが、ルーさんに返信した表示になりました。
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No.858 - 2008/06/07(Sat) 14:38:43 |
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