| > たぶん自信がないだけです。あの体験と、日常の落差を感じ過ぎているのかもしれません。そうならば。ふつうの日常の自分、その現状を、そのまま認めるだけで大丈夫と思います。そして、認めてしまえば。自分は、あの体験の状態でも、その前の、自分の状態でもないのではありませんか。その現状が大切です。 > > >でも、喧嘩したときやイライラしたときに自我があるような気がします、そして「あー自分はないのに思考して怒ってる」とも思います。 > > いくら怒ってもいいのです。泣いても、笑っても、無問題です。自我があっても、なくても。思考しても、しなくても、いいのです。それだって、あの体験と同じように、世界の不思議な機能ではありませんか。問題は、自分が、どう成長するかだけです。そのために、様々な出来事があるので、それから学びましょう。
学び成長していくことが大切なんですね、ありがとうございます。
> ところで。ここしばらく、ヤフ−掲示板の「禅」に投稿していました。参考になるかもしれないので、抜粋して掲載します。 > > ubik0101の投稿 > > もひとつ質問がありました。 > 自己=世界。として、自己って、その世界の、範囲に収まっていますか。 > > 愚さんの投稿 > > いくつかのパターンがあり、一概にはいえませんが、オーソドックスな > ところとしては、 > > 1、公案とひとつになる、でも、なんでもいいですが、自我という > カタマリがないとわかる。 > > 2、このとき、自分のアイデンティティが、肉体から離れる > > 3、すると、見るもの、聞くもの・・・いわゆる対象と自分が > 一緒であったことに気づく・・・・いまの > 状況で言うと、「わたし」は、「この部屋」です。 > これがわたしの全宇宙です。 > つまり、六識のうち五識のところ・・・・眼、耳、鼻、舌、身 > > 4、そして、思いをめぐらすと、いま、ここにはいない人々、 > 出来事、記憶のなかにある過去、想像される未来、 > 想像される宇宙・・・これが、わたしの全宇宙であり、 > わたしだということです・・・ここで時空を超えます。 > > オシャカサンも、ダルマさんも、ヒトラーも、自分の宇宙の > 住人だったってわかります。
そういわれるとそうですね
> まあ、六識の意のところ > まあ、書くと、なんか、ギョウギョウしくなっちゃうんですが > 実際は、手間はかかりません。一気にいきます。 > > とにかく要点は、過去の記憶、肉体、とのアイデンティテイを > ぶっ潰しちゃうことなんですが・・・記憶とのアイデンティティのほうが > 問題ですが・・・なかなか敵は手ごわいんで、気合と忍耐がいるんです。 > でも、この勝負、こっちの勝ちは約束されてんです・・・ギブアップさえ > しなきゃいいんです
気合と忍耐で学びたいと思います。
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No.638 - 2008/04/12(Sat) 18:34:49 |