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成長 / ムーミン
>たとえば人は無意識に、自分を知りたくないという無謀な努力をしています。とします。それは日常の行動、言葉、思考に現れます。しかし、それは理解されることで成長の役に立ちます。

>その無謀な努力を止めることも役に立ちます。 また成長したいと望むことも役に立ちます。 どう転んでも、人は学ぶのです。まさにそのようでしかない、そんな感じ。です。

「無謀な努力をしている」ことになかなか気づかないということが難点です。気づかなければ理解されない。何が「無謀な努力」なのかわからなければ、それを止めることもできない。

また、なぜ成長しなければならないのか、なぜ成長を望むのか、また、そもそも前提としている成長とは何を意味しているのか、いろいろ問題が出てきそうです。

No.793 - 2008/05/23(Fri) 10:02:36

Re: 成長 / ubik0101
とりあえず自我、欲望などが、自分を知りたくない「無謀な努力」として機能しています。しかし、その騒がしい運動に人は気がつかざるを得ず、その自我や欲望こそ、自分を鍛えるための、負荷として機能します。

しかし。それに関わらず、関わらないこともなく、人は、自我や欲望に依存しない、自分を知り(変な言い方)ます。それは人が、世界を完全に知り得る、完全に知り得ない、どちらでもないから、そういうことが起こるのだと思います。違う経緯もあるでしょう。

そして、成長ということも、定義できることではありません。もしできるなら、それは、世界に依存しきってるということで、成長ではありません。たとえば植物の種には、水や空気や光は不可欠ですが、それで花は定義できません。

No.794 - 2008/05/23(Fri) 15:31:29

Re: 成長 / ムーミン
>とりあえず自我、欲望などが、自分を知りたくない「無謀な努力」として機能しています。しかし、その騒がしい運動に人は気がつかざるを得ず、その自我や欲望こそ、自分を鍛えるための、負荷として機能します。

「無謀な努力」に気がつかずに、何人の人が自死してしまうことか。日本では一年に三万人を超える人が自死しています。

>そして、成長ということも、定義できることではありません。もしできるなら、それは、世界に依存しきってるということで、成長ではありません。たとえば植物の種には、水や空気や光は不可欠ですが、それで花は定義できません。

自分が思っている「成長」が、実は国家や学校や社会や家庭などで刷り込まれた「理想の姿」に過ぎない可能性があります。また「成長」を求めることが、今ある苦しみ、不満からの逃避ということもあるかもしれません。しかし追求や逃避という心理的な運動こそが苦しみを継続させているのでしょう。そんなとき「成長」を求めることは「無謀な努力」でしょう。この「無謀な努力」に気づき、理解したとき、もはや「成長」は何でもないものではないかと思います。

No.795 - 2008/05/24(Sat) 13:25:19

Re: 成長 / ubik0101
>「無謀な努力」に気がつかずに、何人の人が自死してしまうことか。日本では一年に三万人を超える人が自死しています。

いろいろ空想できますが・・・たとえば自分を自分で要らないとか、理想の自分像と自分の違いを苦しむとか・・・それで、そういう結果なら、とんでもないことと思います。この世界の不思議。そういうことが見えなくなるのかもしれません。

>自分が思っている「成長」が、実は国家や学校や社会や家庭などで刷り込まれた「理想の姿」に過ぎない可能性があります。また「成長」を求めることが、今ある苦しみ、不満からの逃避ということもあるかもしれません。しかし追求や逃避という心理的な運動こそが苦しみを継続させているのでしょう。そんなとき「成長」を求めることは「無謀な努力」でしょう。

たしかに。成長、ということを自分の外に置いて対象にして目指すなら、それは成長とは言えません。それは空想です。それを動機づけ、根拠づけ、意味づけ、たりするために人は、「理想の姿」を捏造せねばならなくなることも。また、成長の代用品として、つまり意味を取り違えて、「追求や逃避」をすることも、あるかもしれません。しかし、その有り様からも、学ぶことができます。

>この「無謀な努力」に気づき、理解したとき、もはや「成長」は何でもないものではないかと思います。

もともと名前をつけられないことに、人は名前をつけているだけです。主に文章で伝達する手段として、そう呼ばないでも成長。なことを、成長と名前をつけて呼んでいます。愛、自由、幸福・・・何でもそうです。

なにかに名前をつけることが問題なのではなく。なにか問題がある状態において人が、名前をつけるなら、そのことで問題が鮮明になる、ということもあります。たとえば自我などの問題があれば、自我と名前をつけなくても、問題です。 とくに問題がなければ、名前をつけても、つけなくても無問題です。言葉とは、そのようなものだと思います。

けど。たとえば友達に、わたしたち友達だねと、言ったりすることは。幸せなときに、幸せと言うのは。たしかに奇妙であり、それは自分の外に置いて対象にしたと、思えることもあるでしょう。また、そうすると、そこに前提にされてる、それと類似なこと、反対のこと、無関係なことなどが、現れてしまう可能性はあります。それで違和感があることもあると思います。それは言葉や実感に依存してるのかもしれません。

No.796 - 2008/05/24(Sat) 18:46:40

Re: 成長 / ムーミン
>もともと名前をつけられないことに、人は名前をつけているだけです。主に文章で伝達する手段として、そう呼ばないでも成長。なことを、成長と名前をつけて呼んでいます。愛、自由、幸福・・・何でもそうです。

言葉と言葉の指し示すものとのギャップは、人間にとって永遠の課題のようです。言葉によって個別性が一般性に、具体性が抽象性に回収されてしてしまいます。一般性や抽象性から思考することは物事の生々しさを失わせてしまいます。たとえば、猫を飼っている人は、その猫を単に「猫」という一般性では語れないでしょう。おそらく「事象そのもの」とは、この個別性であり、具体性なのでしょう。

>なにかに名前をつけることが問題なのではなく。なにか問題がある状態において人が、名前をつけるなら、そのことで問題が鮮明になる、ということもあります。たとえば自我などの問題があれば、自我と名前をつけなくても、問題です。 とくに問題がなければ、名前をつけても、つけなくても無問題です。言葉とは、そのようなものだと思います。

名前、言葉はさまざまなイメージを喚起させ、それとともに過去に記憶された感情を呼び起こします。イメージや過去の記憶からの自由がないとき、人は実際に起こっていることよりもイメージや記憶に翻弄され、傷つき、苦しみます。

>けど。たとえば友達に、わたしたち友達だねと、言ったりすることは。幸せなときに、幸せと言うのは。たしかに奇妙であり、それは自分の外に置いて対象にしたと、思えることもあるでしょう。また、そうすると、そこに前提にされてる、それと類似なこと、反対のこと、無関係なことなどが、現れてしまう可能性はあります。それで違和感があることもあると思います。それは言葉や実感に依存してるのかもしれません。

「対象化」。言葉を換えれば「知る者と知られるもの」「思考者と思考」の分離・対立。その分離・対立があるときとは、ある何かを操作したい、つまりそれは追求や逃避があるときですが、それは苦しみを生みますね。分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。言葉やイメージなどの媒介なしに「事象そのもの」と触れ合うこと。そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。

No.797 - 2008/05/25(Sun) 16:26:18

Re: 成長 / hato

おはようございます。
ムーミンさん、
もりあおがえるには、会えましたか?


ムーミンさんは、私たちが、自我の機能に捉えられたときの状態に警鐘を鳴らしてくださっているのだと、思います。
事象そのもの。
どちらか一方の状態では、物事が起きていてもわからない、ということ。
自我の機能がことさら働いていないなら、言葉を使うことも
とくに問題ではないかもしれません。
この世界は、どういうわけか、そのようになっている、
私たちが、自分を学ぶ、という仕様になっている、ということ、だったでしょうか。

> 「そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。

No.798 - 2008/05/26(Mon) 08:51:35

Re: 成長 / ubik0101
>「対象化」。言葉を換えれば「知る者と知られるもの」「思考者と思考」の分離・対立。その分離・対立があるときとは、ある何かを操作したい、つまりそれは追求や逃避があるときですが、それは苦しみを生みますね。分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。言葉やイメージなどの媒介なしに「事象そのもの」と触れ合うこと。そのためには、まず言葉やイメージが引き起こしている生々しい事態に直面することかもしれません。

そうですね。言葉によるイメージと事実との違い・・・そのことも、けっこう意味があるというか、役に立つと思います。でなければ、どうして、ことさら悩んだり苦しんだりできるのか、難しいところです。そして、それは、欲望や自我の機能で、それは結局、自分って何?に繋がると思います。そのために、必要だからあると、思います。

はじめから、ものごころもつかない子供のように天真爛漫で、「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」なら、人は未発達なだけで、自分を問えないかもしれません。そうして問えないなら「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」の了解も、成り立たないように思います。これは同じようで違うでしょう。

おそらく、そうなってる理由が。事実と、言葉の問題もあるでしょうが。事実と、人の知覚の内容は、同じではない。ということにあると思います。たぶん厳密な意味での、「事象そのもの」は知覚できないでしょう。そこにズレがあるから、それが恩恵を与えてくれてるとも思えます。どんなことも不可知なのに、どんなことも不可欠。なぜか、ここは、そういう不思議な世界です。

No.799 - 2008/05/27(Tue) 09:33:31

Re: 成長 / ムーミン
>おはようございます。
>ムーミンさん、
>もりあおがえるには、会えましたか?


はい。大合唱で出迎えてくれました。ウグイスも口笛を吹くと、応えてくれました。

>自我の機能がことさら働いていないなら、言葉を使うこともとくに問題ではないかもしれません。

はい。要点は、言葉にまとわりついているイメージ(感情を含む)からの自由ということではないかと思います。

>この世界は、どういうわけか、そのようになっている、
>私たちが、自分を学ぶ、という仕様になっている、ということ、だったでしょうか。


目的論的に考えることについては、今のところ懐疑的でいます。目的論は心理的運動、時間そのものじゃないだろうか、と思うからです。未来とは、こうあってほしい、ほしくない、という現在の思いの投影ではないかと思います。私にとって「学び」とは、さ迷うこころを「いま・ここ」に連れ戻してくれるもののような気がします。

No.800 - 2008/05/27(Tue) 11:12:17

Re: 成長 / ムーミン
>そうですね。言葉によるイメージと事実との違い・・・そのことも、けっこう意味があるというか、役に立つと思います。でなければ、どうして、ことさら悩んだり苦しんだりできるのか、難しいところです。そして、それは、欲望や自我の機能で、それは結局、自分って何?に繋がると思います。そのために、必要だからあると、思います。

本来ないものをあると見る。事実と空想を誤認する。この倒錯が苦しみを生んでいるのでしょう。とすれば、倒錯が必要ということはないでしょう。倒錯が不要なものだと気づくことではないでしょうか。

>はじめから、ものごころもつかない子供のように天真爛漫で、「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」なら、人は未発達なだけで、自分を問えないかもしれません。そうして問えないなら「分離・対立がないときには、あえて言語化する必要もない。」の了解も、成り立たないように思います。これは同じようで違うでしょう。

「あえて言語化する必要はない」。ここは「イメージや過去の記憶からの自由がないとき」と書いた流れの中で書きました。言語にまとわりつくイメージ(感情を含む)から自由であれば、必要に応じて、つまり伝達の手段としての言語は有用なものですね。ただ、菖蒲の花を見て「菖蒲」だと、あえて対象化し、言語化する必要もないかと思います。対象化、言語化する自分がいないとき、生々しい未知の花に出会っていないでしょうか?

>おそらく、そうなってる理由が。事実と、言葉の問題もあるでしょうが。事実と、人の知覚の内容は、同じではない。ということにあると思います。たぶん厳密な意味での、「事象そのもの」は知覚できないでしょう。そこにズレがあるから、それが恩恵を与えてくれてるとも思えます。どんなことも不可知なのに、どんなことも不可欠。なぜか、ここは、そういう不思議な世界です。

「事象そのもの」、「知覚」という言葉の意味にもよりますが、「事象そのもの」と「認識」とは別だということではないかと思います。「認識」とは過去の知識、経験等の枠組みによるものだからです。「知覚」という言葉の使用には、ずいぶんと幅があるようです。私の場合には「認識」を経由しない、「直接知覚」という意味で「知覚」と使います。

No.801 - 2008/05/27(Tue) 11:47:28

Re: 成長 / ubik0101
>本来ないものをあると見る。事実と空想を誤認する。この倒錯が苦しみを生んでいるのでしょう。とすれば、倒錯が必要ということはないでしょう。倒錯が不要なものだと気づくことではないでしょうか。

たとえば、倒錯してる人が、「事実と空想を誤認する 」です。その誤認を自覚しないでも倒錯しています。そして、ときに心理的な運動に巻き込まれて、倒錯してることに気づかないまま、なんとか気づこうとして苦しみます。その苦しみが、人を鍛えています。いわば必要悪です。せっかくの苦しみを使わないでいる場合もあります。苦しみを自覚しなければ万事OK、ではありません。

>「あえて言語化する必要はない」。ここは「イメージや過去の記憶からの自由がないとき」と書いた流れの中で書きました。言語にまとわりつくイメージ(感情を含む)から自由であれば、必要に応じて、つまり伝達の手段としての言語は有用なものですね。ただ、菖蒲の花を見て「菖蒲」だと、あえて対象化し、言語化する必要もないかと思います。対象化、言語化する自分がいないとき、生々しい未知の花に出会っていないでしょうか?

そうです。ただ「対象化、言語化」する、その機能も、未知です。そのようにして、対象と対象にしてる主体を、知る、と誤解できるだけです。実際は、知りません。そして「対象化、言語化する自分がいない」、そのことも、なぜそうなってるか、知りません。つまり、未知と既知の違いはありません。知るということも、知らないということも、それがなにか知りません。です。

>「事象そのもの」、「知覚」という言葉の意味にもよりますが、「事象そのもの」と「認識」とは別だということではないかと思います。「認識」とは過去の知識、経験等の枠組みによるものだからです。「知覚」という言葉の使用には、ずいぶんと幅があるようです。私の場合には「認識」を経由しない、「直接知覚」という意味で「知覚」と使います。

すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。

そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。

そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。

もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。

No.802 - 2008/05/27(Tue) 17:43:25

Re: 成長 / hato

> 目的論的に考えることについては、今のところ懐疑的でいます。目的論は心理的運動、時間そのものじゃないだろうか、と思うからです。

ほんとうに。
それを目的、と言ってしまうなら、
そうではないと思います。
やはり、どう言ってみても、誤り、といえるのかもしれません。

もりあおがえる、よかったです。
東京では、多摩川がきれいになって、
かれいが帰ってきた、
と聞きました。

No.803 - 2008/05/28(Wed) 08:38:20

Re: 成長 / kigaru

>
> すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。
>
> そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。
>
> そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。
>
> もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。

No.804 - 2008/05/29(Thu) 10:58:01

Re: 成長 / ubik0101
>質問・・・これは、どういうことをいいたいんですか?

それはタイトルの通り、成長についての説明の一環です。

>「ありのまま」さえ、わからないんじゃないかと、そういうことですか?

あくまで世界は、生き物として人が知覚してる、その世界です。気軽さんは、「ありのまま」に知覚してると思っているのでしょうか。そして。「ありのまま」に知覚してるとして、世界って、何でしょう。 また、そういうことは思ってもないのでしょうか。なら。どうして思ってもないのでしょうか。

>可能性・・ですか、言葉だけ、表現上のことだけですか?
>フィクションということですか?
>なにやら、意味不明、ちょっとは考えたんですが・・


それは人の有り様によって違います。理解してれば、勝手な判断と「ありのまま」の分裂、対立に縛られません。しかし、理解してない場合は、縛られてることにも気がつかずに、縛られてる可能性があります。たとえば、あるときは勝手な判断をする、あるときは「ありのまま」と感じる。けど実は、その分裂、対立に縛られてる。そんな状態になる、可能性があります。

>上のほうで、知る、知らない、を知らないとか・・・
>そんなに知らない、知らないという人が、変容とか、成長とか・・・そういう意味はわかるんですか・・・


そうです。知らない、ということを見るためには。変容とか、成長が望ましいのです。気軽さんは、知ってる、ということが、何かを知ってるでしょうか。また。知ってるとしても、知ってる、その自分を知ってるでしょうか。

>それと、なんか、あなたのいってることは、矛盾している、わけのわからないことを独善的に言ってるような気がして・・・わけがわかりません、こういうのを禅問答というんですかね。
>突然、横からすいませんが、もちょっと、わかりやすく言ってください。
>こういうことに興味はあるほうなんですが。


とくに禅問答ではありません。できるだけ正確に表現しています。なんとなく理解したと思うだけでは、誤解の恐れがあります。

なぜか依頼された記事を削除できませんでした。

No.806 - 2008/05/29(Thu) 13:51:33

Re: 成長 / ムーミン
>たとえば、倒錯してる人が、「事実と空想を誤認する 」です。その誤認を自覚しないでも倒錯しています。そして、ときに心理的な運動に巻き込まれて、倒錯してることに気づかないまま、なんとか気づこうとして苦しみます。その苦しみが、人を鍛えています。いわば必要悪です。せっかくの苦しみを使わないでいる場合もあります。苦しみを自覚しなければ万事OK、ではありません。

事実と空想の誤認に気づいていないのが倒錯でしょう。その誤認に気づけば、その時、空想がもたらす格闘は終わりますから、苦しみも終わるでしょう。「苦しみは必要悪である」というのは一つの考え方としてはあるのかもしれませんが、私は採りません。これについては後でも少し書きます。また、「苦しみを自覚しなければ・・・」とありますが、現に苦しみがあるのに、苦しみを自覚しない人っていますか?苦しみがあれば、それはわかるでしょう。

>そうです。ただ「対象化、言語化」する、その機能も、未知です。そのようにして、対象と対象にしてる主体を、知る、と誤解できるだけです。実際は、知りません。そして「対象化、言語化する自分がいない」、そのことも、なぜそうなってるか、知りません。つまり、未知と既知の違いはありません。知るということも、知らないということも、それがなにか知りません。です。

ええ、自意識がないわけですから、そうなるでしょう。主体も客体もないのですから。また未知も既知もない。自意識がない時、生々しい事実とともにいるということを表現したのです。もちろん自意識がない時には「事実とともにいる」とも意識されませんが。

>すごく当然ですが、魚や鳥や犬の知覚は人と違います。それなりの「ありのまま」しか人は、世界を知覚していません。(また。知覚によって人が、そうしてる自分を知っても「ありのまま」ではないかもしれません)。もちろん認識とは、やはり、なんだかの基準による勝手な判断なので、それなりの「ありのまま」でさえありません。

魚や鳥や犬の知覚がどんなものかは知りません。が、おそらく自意識というものはないのではないかと推測はできます。人間も自意識がない時、見ている世界が、ありのままか、ありのままでないのか、判断はしないでしょう。

>そうでなく、ある人間関係や、出来事を 、勝手な判断によらずに、それなりにですが「ありのまま」知覚する。という言い方はできると思います。でもそうすると表現上だけかもしれませんが、勝手な判断と 「ありのまま」の分裂、対立に、縛られる可能性があります。

「ありのまま」と「勝手な判断」とは「事実」と「虚構」と言い換えられると思います。それらははっきりと区別がつきませんか?その区別がつかない時に苦しみは生まれます。

>そして、それを了解した人は。その対立を意識しないでも、つまり忘れてても・・限界はありますが・・そのことに縛られません。それは。その対立を意識しないまま、それに縛られてることと、同じようで違います。ここはやはり、学ぶ、理解する、ことによって人が、変質、変容、成長する、ことの意味があります。

ええ、行動は事実がし示してくれますから。「対立を意識しないまま、それに縛られている」としたら、やはり苦しみが生じるでしょう。

>もちろん、はじめから人は完全で、それを発見すればいいのだ。という姿勢もあるようです。しかしそれだと、なぜ自我や欲望があるのか、その理由が掴めません。はじめから、そんなこと、なければいいからです。それを使って人は誰も、成長してるはずです。でも、どちらにしても、こだわる必要はありません。

人間はアウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などから学ぶことは出来ますが、人間が学ぶために、アウシュビッツ、広島・長崎、収容所群島などがあったのではないでしょう。

ある哲学者が「現実は理念的である」というようなことを言いました。この言葉の意味するところは、歴史や人間の精神現象は理念に向けての合理的運動、究極目標へと前進する過程だ、ということでしょう。これは一つの解釈に過ぎませんが、前世紀の出来事をみれば、その解釈の楽観性に疑問は生じるでしょう。人間そのものが消滅する可能性もあるのですから。

同様に、私は、苦しみが成長などの何かのためにという考え方は採りません。やはり、解釈としてではなく、事実として、苦しみは、事実と虚構との誤認によって生まれていると言えますし、それに気づくことで苦しみは滅するということでしょう。もちろん、苦しみから学ぶことはできるでしょう。しかし、学ぶために苦しみがある、という考え方には今のところ懐疑的です。

No.807 - 2008/05/29(Thu) 16:17:02

Re: 成長 / ムーミン
>ほんとうに。
>それを目的、と言ってしまうなら、
>そうではないと思います。
>やはり、どう言ってみても、誤り、といえるのかもしれま
>せん。


はい。「どう言っても誤り」です。それが表現の限界なのだと思います。ある哲学者が言いました。「語りえぬものは沈黙するしかない」と。こころが沈黙した時、何が見える、聞こえるでしょうか?

>もりあおがえる、よかったです。

「カラコロ、カラカラコロ・・・」。
どう言ってみても誤りです。

>東京では、多摩川がきれいになって、
>かれいが帰ってきた、
>と聞きました。


清流にしか生息できないという、鮎もしばしば見かけるようになったそうです。

No.808 - 2008/05/29(Thu) 16:27:16

Re: 成長 / hato

世界、といえる事象から、学ぶ、ということしか、
人にできることはないのではないでしょうか。
そう意識していなくとも、そうでしか、ないのでしょう。
世界は人を覚醒させる「触媒」である。
怒り、悲しみ、苦しみ、なぜ、そうなのか、
それは人に問いかけを発生させる。
世界にただ満足するではなく、
関わっているのに関わってもいない、世界。
それは、一体、何なのか?
なぜ、それであり、それを見るのか。

それは、人が、未熟であるなら意識無意識に拘わらず、
どの立ち位置においても、
問いかけざるを得ないことだと思います。


> はい。「どう言っても誤り」です。それが表現の限界なのだと思います。ある哲学者が言いました。「語りえぬものは沈黙するしかない」と。こころが沈黙した時、何が見える、聞こえるでしょうか?

No.810 - 2008/05/30(Fri) 07:41:55

Re: 成長 / ムーミン
>世界、といえる事象から、学ぶ、ということしか、
>人にできることはないのではないでしょうか。
>そう意識していなくとも、そうでしか、ないのでしょう。
>世界は人を覚醒させる「触媒」である。
>怒り、悲しみ、苦しみ、なぜ、そうなのか、
>それは人に問いかけを発生させる。
>世界にただ満足するではなく、
>関わっているのに関わってもいない、世界。
>それは、一体、何なのか?
>なぜ、それであり、それを見るのか。


はい。
求道は一つのパラドクスです。重要なのは、そのパラドクスが解けるということなのだと思います。

>それは、人が、未熟であるなら意識無意識に拘わらず、
>どの立ち位置においても、
>問いかけざるを得ないことだと思います。


はい。
空想に思いを馳せることではなく、今ある自分を問うことだと思います。そして、その問いの中に、もしかすると答えが見つかるのかもしれません。

No.815 - 2008/05/31(Sat) 10:09:51
他人 / ばん
他人って重要だと思いました。
まるで、鏡のように自分の執着している事を映し出してます

嫌な人の嫌な部分に自分の執着していることが、見えました

嫌な人、変わった人に会うのが楽しみになりました。

No.781 - 2008/05/15(Thu) 17:11:02

Re: 他人 / ubik0101
とても凄っ。です。 たぶん。ばんさんの状態を、ほかの人に投影して、それを見ただけ、ではないと思います。投影していれば、投影してることに気がつかず、ほかの人の実際の状態だと思うことがあります。 そのようにして、ほかの人の状態を拒否する場合があります。

そして、ほかの人を拒否することで、とくに根拠がないのに、そのような嫌な部分がないだろう優れた自分に、執着してるってこともあります。それは自分を学びたくない、ことに繋がりやすいのです。

そうでなく、ほかの人の実際の状態を、見て。そこに、自分の状態を見たのでしょう。それでいて、ほかの人の状態を拒否しないで「嫌な人、変わった人に会うのが楽しみになりました」 。 それは、自分の執着、また執着してないことを直視すること、学ぶことだと思います。

No.782 - 2008/05/15(Thu) 20:35:37

Re: 他人 / hato

> 他人って重要だと思いました。
> まるで、鏡のように自分の執着している事を映し出してます
> 嫌な人の嫌な部分に自分の執着していることが、見えました


ほんとうに、。
ぴったりな表現と思いました。

執着していること。
執着していないことを学ぶ。

偏りがない、とは、
どうでもよい、
けれどどうでもよくない、

偏っていても別によい、
でも、それだけ、でもない。

人がとりあえず、自分でないもの、として他を見る。
見るときにそのような状態になる。
その時の自分の状態を学ぶ。
それと引き合っているという状態を学ぶ。

知覚とは差。
なんでしょう、それは。

学ぶ、とはなぜ、そうなのでしょうか。
人が本当に平和である為でしょうか。

No.783 - 2008/05/16(Fri) 23:13:05

Re: 他人 / ubik0101
なにかを知覚します。すると人は、その対象と知覚の内容が、同じだと思う傾向があります。その花は、その花です。あの鳥は、あの鳥です。この思考は、この思考です。と思うまでもなく、思っています。

それでいながら、その人と、対象との「差 」 が知覚です。けど。 花や蝶や思考を見ながら、それを、ある、ない、と思いもしません。そして対象にしている、自分を、ある、ない、と感じもしません。

けれど。なにか対象や、対象にしてる自分が、ある、としたりすると。つまり、ある、に偏ると・・花や鳥や思考や自分は、たがいに違うという帰結になりやすく・・それにまた執着し・・それは変化することを拒否したり、過剰な変化を望んだりすることに繋がりやすく・・それが自我の機能になり得ます。そうなら、ほかの人と自分の、ことさらの分離/融合が問題になるでしょう。

しかし、その執着は不要です。その花は、その花です。あの鳥は、あの鳥です。この思考は、この思考です。そして。その学んでいる自分は、ある、とか、ない、とかさえ、見ようもありません。

その学んでる中心は、知覚できないし、誰もいない、と言えます。(ここでは 知覚=対象ではない、という問題は度外視します)。それなのに自分や、ほかの人の、中心に誰かを設定する、そのことは人が成長してないことで、それが不安などとして現れるのでしょう。

そして人が、自分にも、ほかの人にも、その中心に誰も、ある、と設定しなければ、ほかの人と自分を、ことさら以上に違うとすることによって生じる、争いなどの問題は起こらず、平和が実現すると期待はできます。

なんにしても人は、自分でないことを学ぶのかもしれません。けど。それ全体で言えばなんの目的があって学ぶということもなく。ただ学ぶ。のかもしれません。また。学ぶこと、でないことはないと思います。

> 学ぶ、とはなぜ、そうなのでしょうか。

うーん。なぜ、学ぶことが、学ぶことなのか。なぜ、この世界が、この世界なのか。これは困難な疑問です。解釈、説明ができるだけなのかもしれません。

No.784 - 2008/05/18(Sun) 12:04:32

Re: 他人 / hato

ここではお見通しですから、隠すことはないのです。
hataさん、と言われた通りです。
それは自分でない、と思いたい面がありました。
けれど、よくわかっていると思います。
それは自分でもあります。
怒りは、芽吹き、稲妻のエネルギー、変化。
それは、その人から学んだのです。
たがいに、成長を止めなければ、よいのですね。

不安。これもその通りです。でもきっと、超えていきます。
変化。常にそうせざるを得ないと思います。

> うーん。なぜ、学ぶことが、学ぶことなのか。なぜ、この世界が、この世界なのか。これは困難な疑問です。解釈、説明ができるだけなのかもしれません。

これは。
ubik0101さんは既に、見られたのでは、と思いました。
人が、どんなことがあっても、善であること。
そのために世界がある、と、ubik0101さんは提唱されていると思います。

No.785 - 2008/05/19(Mon) 00:12:54

Re: 他人 / hato

また。
叩き起こされてしまいました。
もう少し、きちんと言わなければならないようです。

なので、
ことさら判別する必要はない、ということです。
人との関係性において、それが必要になるのは、自我が設定されているとき、即ち、自分の為を考えているときです。
そうです、あのときは、自我そのものを生きていたので、
そのなかでは、判別すること、が必要でした。

けれど、自分の為、は必要ないのです。
なので、その執着も不要、なのですね。

No.786 - 2008/05/19(Mon) 05:35:12

Re: 他人 / ubik0101

> けれど、自分の為、は必要ないのです。
> なので、その執着も不要、なのですね。


これは。hatoさんは解ってるでしょうが、おなじことを逆の表現もできます。

あれやこれやに迷わされる執着や自我を満足させるためではなく、ほんとうに、ほんとうに、自分のために、するのです。徹底的に、自分のために、するのです。

そのために執着や自我の機能が不要になるのです。

No.787 - 2008/05/19(Mon) 09:05:27

Re: 他人 / ばん
もしかしてなんですけど

世界は私を覚醒させる為に働き、私は誰かを覚醒させる為に働いている。

だから、人の迷惑になるとか、嫌なやつと思われるとかで、いろんな事を我慢する、これは自分の為にも、人の為にもならない。

人は何も考えず、何かに自動運転されながら、感じる事(苦しい事、悲しい事、楽しい事、嬉しい事)の出来る喜びを味わう為に生きてる(生かされてる)のかなと思いました。

No.788 - 2008/05/19(Mon) 15:25:16

Re: 他人 / ubik0101
もし人が世界を、このような世界と思うなら、その通りに、世界は現れます。たとえば世界を、なんだかの意味があると思うと、そのように。無意味と思うと、そのように、現れます。

けど。それは総べて、世界観です。そして、それは。それと類似のこと、それと反対のこと、それと無関係な、世界観を発生させます。どれも、事実ではありません。

あのような、このような、どのようなこと、でも世界は、ないと思います。たとえば「人の迷惑になるとか、嫌なやつと思われるとかで、いろんな事を我慢する」。この、どんなことも人の役に立ちません。しかし、まさに、その。どんなことも人の役に立ちます。そうであってこそ、人の成長が可能です。

と、言うのも。そうでないなら、それは鋳型に入れられた学びや成長で、実際のことではないからです。いかなる世界観も持たないこと。持たないことも持たないこと。素直。それが始まりです。そしてそうであれば、それが総てと言っていいでしょう。

しかし人が、世界観を持つとしても。それが問題ではありません。世界は、その世界観を助長させる働きもします。人が成長を望まないなら、それなりに、欲望、自我、偽善、怠惰・・・そして望むなら、それなりに、修行、努力、意志・・・世界はそのために働きます。そして。この総べてが、成長のために役に立ちます。なにか真理があり、なにか不真理があるのではありません。

No.789 - 2008/05/19(Mon) 19:45:30

Re: 他人 / peer
アレですかね。

>あのような、このような、どのようなこと、でも世界は、ないと思います。たとえば「人の迷惑になるとか、嫌なやつと思われるとかで、いろんな事を我慢する」。この、どんなことも人の役に立ちません。しかし、まさに、その。どんなことも人の役に立ちます。そうであってこそ、人の成長が可能です。


蜜蜂が・・・そっと蜜をいただくように。
蜜蜂は花から蜜をいただきますが、意図せず花の役にたつ。
自然の摂理がただそこにある。
そんな感じ?

No.790 - 2008/05/20(Tue) 01:36:30

Re: 他人 / ubik0101
たとえば人は無意識に、自分を知りたくないという無謀な努力をしています。とします。それは日常の行動、言葉、思考に現れます。しかし、それは理解されることで成長の役に立ちます。

その無謀な努力を止めることも役に立ちます。 また成長したいと望むことも役に立ちます。 どう転んでも、人は学ぶのです。まさにそのようでしかない、そんな感じ。です。

No.791 - 2008/05/20(Tue) 09:09:37

Re: 他人 / hato

ほんとうに、そう、思います。

No.792 - 2008/05/21(Wed) 09:00:49
眠りと知覚 / hato

知覚、について続けられるでしょうか。

眠りのとき、それはどうなっているでしょう。
通常、知覚はされているけれどもそれが、
身体的に過剰に意識されないですむように止められていると思います。
多くの情報が届いていて、それを上手く消化できないと、
抵抗として眠り過ぎる、ということがあるかもしれません。
自我が働いている場合はとくに、外から届く情報は速やかに処理されないので、疲労感、抵抗が発生し、ことさら無自覚でいようとする、ということもあるかもしれません。
すべてがそうとは限りませんが、そんなことがあるように思います。

No.732 - 2008/05/03(Sat) 10:55:54

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ふつうには身体の感覚器官は働いているけど、接触が切れているので、意識が、感覚を見てないのが、眠りだと思います。そして眠り過ぎたりすると、それに飽きて意識が、勝手に対象を作って、つまり夢を見て、意識が自分を感じたくなるのだと思います。

わりとよく。たとえば知覚と対象との関係とは・・・とか、眠りながら考えています。でも、その考えは、ほとんど概念として固定された姿です。それを違う角度から見たり、動かしたりするのは、できることもありますが、困難です。

また眠っていて、思考や夢などの対象がない意識は、記憶には関わってないと思います。それは目覚めてるときも同じで、風景を見ながらも思考してない意識、それは積極的には、記憶に関わってないと思います。

ところで、自我。それは人が自己を知るための機能ですが、同じことが、自己を知りたくない努力としても機能するので。無意識にも自己を知りたくないなら、目覚めている時だけでなく、確認していませんが、眠っていても。問題に背を向け、自分を知りたくない努力をする、ということもあるかもしれません。

No.733 - 2008/05/03(Sat) 14:06:45

Re: 眠りと知覚 / hato

> ふつうには身体の感覚器官は働いているけど、接触が切れているので、意識が、感覚を見てないのが、眠りだと思います。そして眠り過ぎたりすると、それに飽きて意識が、勝手に対象を作って、つまり夢を見て、意識が自分を感じたくなるのだと思います。

> わりとよく。たとえば知覚と対象との関係とは・・・とか、眠りながら考えています。でも、その考えは、ほとんど概念として固定された姿です。それを違う角度から見たり、動かしたりするのは、できることもありますが、困難です。

これは、やはりわたしにとっては、起きているときに学ぶ、ということ。

> また眠っていて、思考や夢などの対象がない意識は、記憶には関わってないと思います。それは目覚めてるときも同じで、風景を見ながらも思考してない意識、それは積極的には、記憶に関わってないと思います。

夢がやってくる瞬間を見たことがありました。見ていた意識、には知覚の機能、しかなかったような気がします。
風景を見ながら思考していない意識、と思います。
ですが、意識は自分を感じようとする。そのように出来ている。
知る、とは対象にしたものを見ている自分を感じること。
それを、知る、という。
その自分が対象から受けている、学んでいる感覚。
それが、知る。
その意識にとってはその自分も、その自分が対象にしている事象も、対象。

> ところで、自我。それは人が自己を知るための機能ですが、同じことが、自己を知りたくない努力としても機能するので。無意識にも自己を知りたくないなら、目覚めている時だけでなく、確認していませんが、眠っていても。問題に背を向け、自分を知りたくない努力をする、ということもあるかもしれません。

また叱られてしまいました。
問題の根幹はそこと思います。

それでも少しずつ、
なにかが剥がれている気がします。

No.734 - 2008/05/03(Sat) 18:04:36

Re: 眠りと知覚 / hato

思えばたくさんお話させて頂きました。
ありがとうございます。

待っている方もおられると思います。

皆様どうぞ、お話してください。

No.735 - 2008/05/03(Sat) 23:13:37

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>その意識にとってはその自分も、その自分が対象にしている事象も、対象。

ここで。ほんとうに、hatoさんの日常で、「その意識にとっては、その意識も、対象 」。かどうか確認してみると、いいと思います。

No.736 - 2008/05/04(Sun) 08:03:57

Re: 眠りと知覚 / hato

>その意識にとってはその自分も、その自分が対象にしている事象も、対象。
>
> ここで。ほんとうに、hatoさんの日常で、「その意識にとっては、その意識も、対象 」。かどうか確認してみると、いいと思います。


今、パソコンを対象にしている自分を感じている、それが意識だといえます。パソコンも自分も、ある意味自分という、そんな感じがあります。見ている景色もそのようです。
わたしの場合は、この身体のほうに、意識がより捉えられている、と思います。

互換性がなければ、接触は起きないということでしたでしょうか。その思考が届きましたが、そこを明確に認識されているとは、まだいえないと思います。

ubik0101さんや、のりさんの超意識、とは、
意識/無意識が静まった一切。
それは、事象そのものであり、それを見る、ということでしょうか?

No.737 - 2008/05/04(Sun) 14:00:57

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>ubik0101さんや、のりさんの超意識、とは、
>意識/無意識が静まった一切。
>それは、事象そのものであり、それを見る、ということでしょうか?


意識/無意識が静まった、というより、その全活動状態が超意識です。そのことによって、不完全だから機能している、主張し続ける自我や、求め続ける欲望が完成されるから、それが機能する必要がなくなるために、そういう自我や欲望に巻き込まれる必要がなくなります。

だから、自我や欲望に騒がされてた意識/無意識は、静まるのです。それで世界は、人としてはですが、ありのままに見られます。哲学的な意味(ほとんど知らないので)では、事象そのもの、と呼べるかはわかりません。

No.738 - 2008/05/04(Sun) 15:47:27

Re: 眠りと知覚 / hato

> だから、自我や欲望に騒がされてた意識/無意識は、静まるのです。それで世界は、人としてはですが、ありのままに見られます。哲学的な意味(ほとんど知らないので)では、事象そのもの、と呼べるかはわかりません。

はい。
わたしは、自分の経験に沿った言葉だけを、正確に使わなければなりませんでした。
哲学などはよく知りません。事象そのもの、というのは、起きている事実、ということだと思いました。
なので今、ubik0101さんが、人としては、という表現をされる意味が腑に落ちたと思います。

No.739 - 2008/05/04(Sun) 22:10:29

Re: 眠りと知覚 / hato

わたしは、なによりまず
謙虚に、素直でなければなりません。
申し訳ありません。
めったうち状態です。

No.740 - 2008/05/04(Sun) 23:11:57

Re: 眠りと知覚 / hato

ubik0101さん、皆様に、ありがとうございます。

ubik0101さんの絶妙な先導で、
やっと、ここまできました。
傲慢さ。特別でいたい、いなければ、
自分はなにか、稀なのだと、そうでなければというところ。
いつも表現されていたけれど、今ここで捨てられるのではと思います。

No.741 - 2008/05/05(Mon) 07:57:51

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ところで。なにか、言葉や映像として思考だけを見てるとき、その思考を見てる誰かは知覚されるでしょうか。また、風景だけを見てるとき、その見てる意識が、意識の対象になるでしょうか。
No.742 - 2008/05/05(Mon) 08:21:21

Re: 眠りと知覚 / hato

> ところで。なにか、言葉や映像として思考だけを見てるとき、その思考を見てる誰かは知覚されるでしょうか。また、風景だけを見てるとき、その見てる意識が、意識の対象になるでしょうか。

ならないと思います。

No.743 - 2008/05/05(Mon) 16:30:23

Re: 眠りと知覚 / hato
>
> > ところで。なにか、言葉や映像として思考だけを見てるとき、その思考を見てる誰かは知覚されるでしょうか。また、風景だけを見てるとき、その見てる意識が、意識の対象になるでしょうか。



うー。ちょっと、混乱しました。

意識、に依存しない、ということは、
わたしは意識ではないもの、
と言っていると思います。

No.744 - 2008/05/05(Mon) 17:24:46

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
> ならないと思います。

うん。では自我はどこにいるでしょう。

> うー。ちょっと、混乱しました。
> 意識、に依存しない、ということは、
> わたしは意識ではないもの、
> と言っていると思います。


そうです。けど、自己は意識の範疇にはありません。あるのなら、これ、とか、それ、とか探せば見つかるのですが、そうではありません。また、ある、とか、ない、とかいう限定されたものでもありません。どんなことにも依存できないし、依存の対象になりません。

それで、意識にとっては、自己は知覚の対象にならず、この世界しか対象になりません。この世界は、誰のものでもない素材でできていて、どこにも自我はいません。また世界も、ある、とか、ない、とか限定されたものではありません。( 自我は、あるに偏って空想された自己とも言えます)。

そして。見たと思いますが、図書館閲覧者さんのブログより引用します。「その思考・感情・感覚は、本当に「あなたのもの」だろうか?」。

No.745 - 2008/05/05(Mon) 18:25:31

Re: 眠りと知覚 / hato

再度改めてみます。

風景を見ているとき、一体感があります。
それは、ひとつ、という感じです。
なので、そのときに、意識が意識の対象となることはないと思います。

そして、そこになにか思考が流れてきても、そうしたことに無関係に、確定しているものがあります。それは、感覚とはいえない気がします。

No.746 - 2008/05/05(Mon) 18:27:19

Re: 眠りと知覚 / hato

また。すみません。

> うん。では自我はどこにいるでしょう。

自我は、機能、なのですね。
それを、学ぶのですよね。
しつこく学び過ぎているでしょうか。

> 「その思考・感情・感覚は、本当に「あなたのもの」だろ   うか?」。

それが世界の機能だと、了解していると思います。

No.747 - 2008/05/05(Mon) 18:46:48

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>風景を見ているとき、一体感があります。
>それは、ひとつ、という感じです。
>なので、そのときに、意識が意識の対象となることはないと思います。


そうです。

>そして、そこになにか思考が流れてきても、そうしたことに無関係に、確定しているものがあります。それは、感覚とはいえない気がします。

その無関係に確定してることとは、もしかして完全な分離も融合もない、ということかもしれません。

No.748 - 2008/05/05(Mon) 18:48:01

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>自我は、機能、なのですね。
>それを、学ぶのですよね。
>しつこく学び過ぎているでしょうか。


ううん。自我そのものは、虚構、と了解してれば無問題です。

No.749 - 2008/05/05(Mon) 18:59:23

Re: 眠りと知覚 / hato

> >そして、そこになにか思考が流れてきても、そうしたことに無関係に、確定しているものがあります。それは、感覚とはいえない気がします。

> その無関係に確定してることとは、もしかして完全な分離も融合もない、ということかもしれません。


ありがとうございます。
大事なところを飛ばしてしまう傾向があります。
先にそうしたことがあるのですね。
言葉を、使うことは、本当に学びと思います。

No.750 - 2008/05/05(Mon) 19:57:30

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ほんとうに。言葉で見ることは、学ぶことと思います。それはすでに、人が、見られたこととは距離があるということでもあり・・そこに留まるなら自我が設定されることもありますが・・でないなら成長する、ということでもあります。
No.751 - 2008/05/05(Mon) 20:21:54

Re: 眠りと知覚 / hato

> ほんとうに。言葉で見ることは、学ぶことと思います。それはすでに、人が、見られたこととは距離があるということでもあり・・そこに留まるなら自我が設定されることもありますが・・でないなら成長する、ということでもあります。

はい。
貴重な学びとなりました。
上記お話の通り、どうするの、と思いましたが、
留まらないことが大事。
0101ですね。
無関係に確定・・の件、ちょっとたぶん。でも、
了解致しましたと思います。
ありがとうございます。

No.752 - 2008/05/05(Mon) 21:05:08

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
こちらこそ、です。
No.753 - 2008/05/06(Tue) 00:01:13

Re: 眠りと知覚 / hato

0101・・

ここに出会えたこと、
とても嬉しいです。

No.754 - 2008/05/06(Tue) 21:21:33

Re: 眠りと知覚 / hato

いや。

嬉しいだけではもちろん。
ないけれど。
そうでないことも多いけれども。

学び、成長する、ことを改めて、
響かせて頂いたこと。

No.755 - 2008/05/06(Tue) 21:55:15

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
これ、と体験を聞かなくても、言葉は真摯で、染み込んできます。
No.756 - 2008/05/06(Tue) 22:28:31

Re: 眠りと知覚 / のり
hatoさん、ウビさん、こんにちは。ご無沙汰です。
 最近の私の感想です。
 この社会は大自然・野生の王国です。人間自身の中身も精神的にも同じで大自然・野生の王国です。アフリカのジャングルに負けません。これを止めるのは太陽が昇るのを止めるようなモノです。思考も感情も大自然の作用です。自分を構築したり、破壊して発展させたりする宇宙の作用です。   それが意識の鏡に映ります。鏡に映らないようにしようとするのも大自然に歯向かう行動です。意識は世界全てをただ映すだけです。自分が得てきた記憶から焦点を変えて抽出します。自然は自然のままです。この作用を学ぶのも道ですが、作用と作用の間、思考と思考の間には何があるのでしょう?ずーっと考え続けている訳ではないので間があります。この間を学ぶのも一つの道として善いのではと思っています。私の場合、いろいろなエネルギーに異常に敏感体質で、この間に居ますとビンビンきます。
それでは

No.759 - 2008/05/08(Thu) 16:54:36

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
ひさしぶりです。ところで。たとえば思考が止まったまま世界を見ると、感覚しか機能していません。

この瞬間に生まれた、この世界を見てる。その世界に時間は感じられないのですが。それより自分に過去が感じられません。

この世界が不思議ということも忘れ、自己も忘れ、実在も忘れ、それでいて自分の状態が変化します。

ネットで、こんなの見つけました。

http://www.grasshopper.com/stop-time-nihongo/

No.761 - 2008/05/09(Fri) 07:31:25

Re: 眠りと知覚 / hato

のりさん。おはようございます。
いつもありがとうございます。
お返事を頂けてとても、嬉しいです。

前にのりさんが、「個は全体に展開されることが恐い」
とお話されていたことを最近、思い出していました。
そのように出来ている、自我の機能を思いました。

わたしが最近学ばせて頂いているのは、白と白の違い、ということかと思います。
これは、自分がそうでなければ話にもなりませんけど。

こうしたことにも行く先があるらしい、もしくは、
そのように見えるだけ、学びの範疇なだけ、なのかどうか。
まだ、わたしには判断がつきません。
現象といえることは、宇宙を、世界を、或いは自己を、本源とするなら、なにがあってもよいのでは、とも思われてしまうからです。
ただここで、意識と法。ということを学べることを、幸せ、と思います。
何だかわからない、なかで、そこを生きようとする、ことを美しいと感じます。
そうした微妙で繊細なことを扱うとき、
ubik0101さんの言われる道が生きてくるのではと、思います。
そんなことを感じました。

No.763 - 2008/05/09(Fri) 08:07:17

Re: 眠りと知覚 / のり
 おはようございます。
> 思考が止まったまま世界を見ると、感覚しか機能していません。> この瞬間に生まれた、この世界を見てる。その世界に時間は感じられないのですが。それより自分に過去が感じられません。> この世界が不思議ということも忘れ、自己も忘れ、実在も忘れ、それでいて自分の状態が変化します。
 なるほど、感覚しか機能してないのですね。だからビンビンくるのですね。
確かに時間がなくなります。自分の範疇が広がって手足がジンジンして頭の中では何かがウワンウワン言ってます。<それでいて自分の状態が変化していきます。>です。
これを見ていますと、まさに大自然の営みです。前回の投稿で言葉にしましたが、(私が言葉にしますとどうしても陳腐になってしまいます)もっと、本当に大草原を見るように、アフリカのサバンナを見るように(本物は見たことありませんが)この街が、自分の中が大自然のように見える時があります。
> ネットで、こんなの見つけました。
> http://www.grasshopper.com/stop-time-nihongo/
<私達は経験と信念の間の割れ 目に気が付き、もっと探ってみたくなるだろう。>
そうそう今はこれに執着してます。これがアノ空間に繋がっている直感がするのです。ここに居ますといろいろな事が客観的に見えます。人の会話が自分の中の何かにぶつかって反応したり通り抜けていったりするのが良く見えます。でも空想もできませんので生活がどうなるか心配です。
もっと探ってみます。

No.764 - 2008/05/09(Fri) 09:46:41

Re: 眠りと知覚 / のり
> 前にのりさんが、「個は全体に展開されることが恐い」
> とお話されていたことを最近、思い出していました。
> そのように出来ている、自我の機能を思いました。

 はい、自分を作ろうというのと、壊して発展しようという二つの作用があるみたいです。
>
> わたしが最近学ばせて頂いているのは、白と白の違い、ということかと思います。

これはチョッと難しくてわかりません。私は“ゴミを捨てる時に中味はじっくり見ない”という言葉に出会い今は割れ目に執着しています。

>宇宙を、世界を、或いは自己を、本源とするなら、なにがあってもよいのでは、とも思われてしまうからです。
はい、何があっても良いと思います。それに引き摺られなければ良いと思います。
> ただここで、意識と法。ということを学べることを、幸せ、と思います。
本当に!次は何に出会うのか楽しみです。
> 何だかわからない、なかで、そこを生きようとする、ことを美しいと感じます。
何だかわからない自分をなんだかわからない自分で超えて行く。醍醐味です。

No.765 - 2008/05/09(Fri) 10:14:41

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
> もっと、本当に大草原を見るように、アフリカのサバンナを見るように(本物は見たことありませんが)この街が、自分の中が大自然のように見える時があります。

きっと、のりさんは、そういう感覚なんだろうな。と、その風景が見えるように伝わりました。また。どうやっても、呼吸するだけでも、人は世界を変え続けてることに、関係するのかな。とも思いました。

><私達は経験と信念の間の割れ 目に気が付き、もっと探ってみたくなるだろう。>
>そうそう今はこれに執着してます。これがアノ空間に繋がっている直感がするのです。


そんな感じはします。しかし自分にとっては、まだ、知覚と対象とか、自己や実在を忘れることとか、さまざまな関係あることを、理解する必要を感じています。

No.767 - 2008/05/10(Sat) 07:00:33

Re: 眠りと知覚 / hato

> 何だかわからない自分をなんだかわからない自分で超えて行く。醍醐味です。

ありがとうございます。
のりさん、また、学ばせて下さい。

No.768 - 2008/05/10(Sat) 23:53:00

Re: 眠りと知覚 / hato

ubik0101さん、

現象はなんだかわからない様相で起き続けていて、うねり続けていて。
それはその人の意識の位置、つまり事象を認識する焦点の位置と有り様によって勝手に判断決定されざるを得ない。
そこで物語が生起するかのように見える、もしくは実際にしている。
人の意識の焦点の位置、位相の違いによって、流れてくる思考、感情、の質は変わる。また、投影される内容の質も変わる。けれど、思考、感情、感覚そのものは、世界の機能。
意識されなくても失われたわけではない、
とするなら、
ひとつの見方として、それは、それを表出できる可能性のある人のところに向かう?ということでしょうか?

No.769 - 2008/05/11(Sun) 09:39:37

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
たとえば騒がしい街で、人の話を聞くには大声が必要です。けど、静かなら、小さな声でも、気配だけでも、聞こえる、ということかもしれません。つまり人が静かなら、微細なことまで見えるようになる、こともあります。

また、なにかに疑問を持つということは、その人に、なにかの問題が自覚されつつある、疑問を解く準備ができた、ことでもあります。まったく準備ができてなければ、また解決してしまってたら、なにかが訪れても、人は注意できないと思います。

そういう自分の状態という、罠を仕掛けて、人は、獲物を待っているのかもしれません。すると思考、感情、感覚が、罠にかかり、知覚され表現される、のかもしれません。

これまで、「それを表出できる可能性のある人のところに向かう?」のように、それが人に向かう意図、意志があるようには、思ってもみませんでした。 どうしてhatoさんは、そう思ったのだろうと思います。

No.770 - 2008/05/11(Sun) 10:59:25

Re: 眠りと知覚 / hato

> これまで、「それを表出できる可能性のある人のところに向かう?」のように、それが人に向かう意図、意志があるようには、思ってもみませんでした。 どうしてhatoさんは、そう思ったのだろうと思います。


また。投稿してから後悔してしまいました。
あたまが。いたいです。

人は呼吸をするだけで、世界を変え続けていける、ということは、すべてが共有されている、ともいえるのではと、思いました。そうでない、ともいえるけれども、そうとも、いえる、と思っていました。
そのように、了解していた、と思います。
感覚、思考、感情に意図や意志があるようには、思いませんでした。
それは人の状態による、接触作用によってと、思いました。

No.771 - 2008/05/11(Sun) 14:07:12

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
もちろん。表現は、何でもありです。 たとえば“イラストレーター”などの絵描きソフトは、1人が使っても、何十万人のユーザーが使っても。それはひとつ。共有されてるとも言えます。ちょっと意味は違いますが、不増不減。しかも、みんなが、それで違う絵を描く、ようなこと、とも言えると思います。

それでいいのです。hatoさんに、言うほどのことでもないと思いますが。ただ、真摯なことが大切です。そうでなく、誤魔化したり、隠し事をしたり、思いもしないことを言ったら、その自分さえ見逃します。真摯なら、たとえミスしても、それが役に立ちます。素直ならば、どこまでも大丈夫です。その意味ではミスはありません。

「それは人の状態による、接触作用によってと、思いました」。うん。この危うさ、はかなさ、まあ、手のひらに受けた瞬間に消えてしまう、淡雪の結晶。それは、美しい現象と思います。

ところで。たしかに、世界は、共有されています。しかし。総てのことが自分なら、そこからも、どこにも、自分は、いない、ことに帰結されると思います。無我。それは自我に対する無我でもあるけど。それよりも。まったく自己などいない、という意味でもあると思います。

No.772 - 2008/05/11(Sun) 15:30:34

Re: 眠りと知覚 / hato

> たとえば騒がしい街で、人の話を聞くには大声が必要です。けど、静かなら、小さな声でも、気配だけでも、聞こえる、ということかもしれません。つまり人が静かなら、微細なことまで見えるようになる、こともあります。

これは、のりさんとのお話のところでわたしが話したことに関連しているでしょうか。

静かさ。わたしの場所からでも、かろうじてそれがわかります。思考や感情の喧噪がある状態でも、必ずそこにも、
静かさがあるからです。
散歩をしてきました。街に出て、腰掛けていると、人の流れ、鳩やつばめが飛び交う様、木々の揺らめき、
目に見えない空気の流れが、のりさんの言われる、大自然の営み、と感じられます。

誤解を恐れず言ってみます。わたしの位置からは、ということですが、静けさ、は時として危うさでした。またもや表現を誤っているかもしれません。
静謐さを獲得し、人として魅力的で、社会に貢献すると自負する人に出会ったことがあります。
そこではなにより、成長に応じた自分の危うさを見たといえるし、その様な人であったともいえます。
敏感であり、非常に繊細であったのです。見えないものを見る人でした。
上手くいえません。ubik0101さんはきっとそれを、静か、とは決していわないでしょう。

学ぶ必要のあることだけを学ぶために、
判別することは自分にはとても大切なことでした。

No.773 - 2008/05/11(Sun) 18:34:56

Re: 眠りと知覚 / hato

> ただ、真摯なことが大切です。そうでなく、誤魔化したり、隠し事をしたり、思いもしないことを言ったら、その自分さえ見逃します。真摯なら、たとえミスしても、それが役に立ちます。素直ならば、どこまでも大丈夫です。その意味ではミスはありません。

はい。
これは、反省します。

No.774 - 2008/05/11(Sun) 18:49:21

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
>これは、のりさんとのお話のところでわたしが話したことに関連しているでしょうか。

とくにhatoさんが言った「微妙で繊細なことを扱う」という言葉は、意識はしてませんでした。たとえば、この世界が、この世界として、機能してるとして、なぜ、そうなってるのだろう。という疑問があります。

これは不思議でも、日常が真理でも、知らない、でも、充分かもしれません。けど。とりあえず無謀な問いかもしれませんが。それが、なぜそうなのかを探りたいのです。

なにか見ることができるのか、まったくできない相談なのかもしれませんが。自我や無我も忘れて、ほとんどなにも騒いでいない現状で、なりゆきでそんな疑問が生じ、注意深さの必要を感じています。そのことを念頭に話ました。

>静謐さを獲得し、人として魅力的で、社会に貢献すると自負する人に出会ったことがあります。
>そこではなにより、成長に応じた自分の危うさを見たといえるし、その様な人であったともいえます。


>敏感であり、非常に繊細であったのです。見えないものを見る人でした。
>上手くいえません。ubik0101さんはきっとそれを、静か、とは決していわないでしょう。


これはhataさんが、hatoさんに危うさを見たのか、その人に危うさを見たのか、その人がその人に危うさを見たのか、読み取れませんでしたが。素晴らしい人だろうと思いました。きっと、ubik0101と質の違いを感じるのでしょう。

>学ぶ必要のあることだけを学ぶために、
>判別することは自分にはとても大切なことでした。


うーん。日常から学べば充分ですが、たがいに学ぶことは無意味ではないと思います。

No.775 - 2008/05/11(Sun) 20:24:53

Re: 眠りと知覚 / hato

ああ。なんとどつぼに填ってしまうことでしょう。
もっと、整理してから言えばよかった。

> とくにhatoさんが言った「微妙で繊細なことを扱う」という言葉は、意識はしてませんでした。たとえば、この世界が、この世界として、機能してるとして、なぜ、そうなってるのだろう。という疑問があります。
> これは不思議でも、日常が真理でも、知らない、でも、充分かもしれません。けど。とりあえず無謀な問いかもしれませんが。それが、なぜそうなのかを探りたいのです。
> なにか見ることができるのか、まったくできない相談なのかもしれませんが。自我や無我も忘れて、ほとんどなにも騒いでいない現状で、なりゆきでそんな疑問が生じ、注意深さの必要を感じています。そのことを念頭に話ました。


はい、ubik0101さんはそのようだと思いました。
ubik0101さんは、新たに見る、と言われました。

> これはhataさんが、hatoさんに危うさを見たのか、その人に危うさを見たのか、その人がその人に危うさを見たのか、読み取れませんでしたが。素晴らしい人だろうと思いました。きっと、ubik0101と質の違いを感じるのでしょう。

ここで言いたかったのは、その人云々ではなくて、(というか、ubik0101さんにはやはり、素晴らしい人としか見えないのだから、問題はわたしにある。世界は絶対に、触媒なのだ。ということですね。了解です。)
静かであって見えないものが見えるとき、その人の無我の絶対主観?によっては、妙な方向にいく場合もある、のではないでしょうか、と、言いたかったと思います。
でもそれがいけないのかどうかは、よくわかりません。
その人にとってはそれが道だったけれど、わたしには単に違った、というだけのことです。
世界は人のためにある触媒なのだから、のりさんが言われたように、引っかからなければよいのでしょう。
了解です。

> >学ぶ必要のあることだけを学ぶために、
> >判別することは自分にはとても大切なことでした。
> うーん。日常から学べば充分ですが、たがいに学ぶことは 無意味ではないと思います。


上手く言えたでしょうか、、???

No.776 - 2008/05/11(Sun) 21:59:36

Re: 眠りと知覚 / ubik0101
そうですね。ほかの人の状態を検討することも、それは結局は自分の状態を学ぶことになります。よほど、この世界が、自分を学ぶことができるようになってるって、ことだと思います。

そして。自分が自分を知るとしても。あれとかこれとかとして自分が知った自分は総べて誤解。ということもあります。

No.777 - 2008/05/12(Mon) 06:44:41

Re: 眠りと知覚 / hato

> そして。自分が自分を知るとしても。あれとかこれとかとして自分が知った自分は総べて誤解。ということもあります。

感謝はいつも、変わらずと思います。
成長できますようにと、自分に祈ります。

No.778 - 2008/05/12(Mon) 23:55:50

Re: 眠りと知覚 / のり
おはようございます。
> ああ。なんとどつぼに填ってしまうことでしょう。
> もっと、整理してから言えばよかった。

hatoさんは素晴らしいですね。

> 静謐さを獲得し、人として魅力的で、社会に貢献すると自負する人に出会ったことがあります。
う〜ん、これはhatoさんの洞察力で見抜いたのかもしれません。自分を抑圧して得られる静かさ、魅力的であろうと振る舞い、自負する表出はチョッと違う気がします。抑圧すれば外には静かに見えます。もし内も静かならばそのうち無感覚の痴呆症に繋がる気がします。本当の静かさは都会の喧騒の元に、我々の喜怒哀楽の元にある気がします。静けさがあるから音がある。大都会のビルの下に大地があり空間があるように、思考と思考の間に割れ目があるようにと思います。

No.779 - 2008/05/13(Tue) 09:15:39

Re: 眠りと知覚 / hato

おはようございます。

のりさんは、いつも助けてくださいます。
素晴らしいのは、のりさんと思います。
もちろん、ubik0101さんも。

たまごから外に出てみて、
ちょっとガンバってぱたぱたしてると。
ときどき、木からおっこちて、イターイ!
掘り下げているのか、めりこんでいるのか、
わからなくなって逆さまできーきーしていると、
あ、また埋もれてるー、と
ubik0101さんやのりさんが、つまみ上げてくれます。

昨日、もしかして ?
と思ったことがありました。
まだまだですが、
これからもよろしくお願い致します。

No.780 - 2008/05/14(Wed) 07:49:21
怖い / ばん
私はとても怖がりの様な気がします、
人を傷つけてしまいそうで怖い
自分が傷つくのが怖い
自分がとてつもなく不幸になってしまいそうで怖い

そういう、恐怖心て皆さんありますか?

No.757 - 2008/05/07(Wed) 15:36:40

Re: 怖い / peer
人を傷つける、ということが
いったいどういうことか。
理解する必要があります。
当座の相手の痛みは、即、自分の痛みでもあります。
それからは逃げられません。

で・・・こんな言葉もありますね。
真実ほど、人を傷つける。。と。
それならばと、真実を見せないとしたら
傷つかないとしても、その人は幸福でしょうか。
真実を知らされないままでいる、その人。は。

No.758 - 2008/05/08(Thu) 00:15:39

Re: 怖い / ubik0101
とくに恐怖を感じません。それで。もしかして守りたい、失いたくないことがあると恐怖を感じるのかな、と思いました。

また。日常では人は、光や風や他人や動物などの状況を変える要員、要素として、互いに機能しています。そういう変化に関わるのが、もしかしてですが、嫌なのかな。と、思いました。

No.760 - 2008/05/09(Fri) 07:12:31

Re: 怖い / ばん
あーわかりました。
安全、平和、幸せに執着しています。
傷つきたくない、ずっと安心、平和でいたい

どーでもいいでした。どう考えてもいいでした。
いつの間にか、何かしらに執着、依存してしまっています。

No.762 - 2008/05/09(Fri) 07:44:28

Re: 怖い / ubik0101
なにかに依存することで。その人は、その依存した対象によって、その自分を感じて、拠り所のない不安から解放され、安心することができると無意識に思うのかもしれません。

しかし逆です。依存すればするほど、その人は、対象に惑わされ、その人自身ではなくなります。この、人の逆説的な有り様。これを見るのは役に立つかもしれません。

しかし、また。なににも依存しないと頑張ると、その、なににも依存しないという姿勢に依存する可能性があります。ここらは、よく理解して、どこにも縛られないことが大切と思います。

No.766 - 2008/05/10(Sat) 06:22:43
知覚 / hato

ubik0101さんが言われる知覚、とは、気付き、とも言い換えることができるのでしょうか?
すこし前に、知覚、の話に触れて頂いたと思います。

意識は、すでに必ず識である、ということだったでしょうか。

接触、とはどういうことでしょうか。

No.725 - 2008/04/29(Tue) 21:06:24

Re: 知覚 / ubik0101
>ubik0101さんが言われる知覚、とは、気付き、とも言い換えることができるのでしょうか?

ひとつには、眼や耳が、なにかを対象にして見る、聞くという機能を、知覚、と呼ぶことがあります。たとえば、赤い花が見える、電車の音が聞こえる。感覚、ということを、知覚、と呼ぶことがあります。

そして、意識が、なにか思考を対象にして、それを見るという機能のことを、知覚、と呼ぶことがあります。思考を知覚。こっちの意味で主に、知覚、すると言います。

どちらの意味でも、なにかを知覚するということを、なにかに気づく、と言い換えられます。

ただ「気付き」という言葉は、それまで迷ってたけど、そのことを理解して、解放された、とかいう意味では、よほど対話者との了解事項でなければ、使いません。 それを「気付き」と呼ぶのは、なんだかの意識の働きに命名しただけで、不正確だからです。

また。たとえば、世界と自分との分裂、また自分のなかに分裂した観察者が、知覚されないから「観察者のない観察」と呼ばれたりします。その言葉は、人の有り様に命名したことなので、それを実現してない人が言葉として対象化すると、かなり迷う恐れがあります。

>意識は、すでに必ず識である、ということだったでしょうか。

これは、意識と、その対象は、別のこと?という質問でしょうか。自分には、別のことと感じられます。赤い花を見る、喜怒哀楽を見る、思考を見る(とある対象から、ほかの対象への変化は切れ切れなような気がします)・・・対象が変わるからです。     

しかし、知覚と内容は同じ、という見方もあります。これは、ないことは知覚されないという、つまり知覚されないことは自分にとっては、ない、という、自分の知覚に依存した、惟我的な見方に思えます。

そこには。たとえば無意識に葛藤があっても、倒錯していても、自我が機能してても、それを知覚できないから、自分にとっては、ない、と思いかねない危険があります。顕在意識だけを見てる状態かもしれません。

>接触、とはどういうことでしょうか。

たとえば赤い花に、緑の葉に、鳥の声に感覚が・・・ある感情や、また思考に意識が・・・接近し触れる、それで接触、です。くっつく、という意味です。でなければ知覚が成立しません。

この。なにかと、なにかが、接触する。知覚する。そのことだけで、すでに欲の働きとも言えます。そうであって、それを利用して、さらなる融合、分離を強調することを・・・欲望する、ということと見ることもできます。

また、自然に個人は別々の立場がありますが、そうであることを利用して、さらなる融合、分離を強調することが、自我の機能と見ることもできます。

No.726 - 2008/04/30(Wed) 00:18:56

Re: 知覚 / hato

> 意識は、すでに必ず識である、ということだったでしょうか。

これは無意識、もそうですね?

> 接触、とはどういうことでしょうか。

これは、自分で見るしかない、ことかもしれませんが、
接触、とは、無意識、意識を含めて知らないのに可能だろうか、と思いました。
知っているものしか、接触は、あり得ないといえるでしょうか。それがどういうことか、を知らないとしても、世界の機構のなかで、依存関係の成り立ちも含めて、意識無意識のなかで知っている ?? ことしか、接触はあり得ない、でしょうか。おかしなことを言っているかもしれません。

ですが、ubik0101さんは、新たに見る、と言われました。
不要な識の働かない知覚が、新たに見る、ことを可能にする。

気付き、というとすこし、人間寄りな感じがします。
知覚、は機能に徹した感じを捉えます。

No.727 - 2008/04/30(Wed) 00:22:58

Re: 知覚 / hato

すみません、また返信を読めずに書いていました。
もう少し考えます。

No.728 - 2008/04/30(Wed) 00:36:52

Re: 知覚 / hato

自分には難しいことを言ってしまったので、
どう続けてよいかわかりません。

上記の投稿の、知らない、という言葉はその状態に
適切でない気がします。


知覚は、5感などの感覚的なものと、
思考や感情を知覚する、機能。
意識は、分別する顕在的機能、
無意識は、分別する潜在的機能。

縁によって接触の作用が働き、思考や感情が寄ってきて、
主体が仮定されて、(知覚が主?)
記憶や欲望を反芻するなどして、
意識や無意識はある意味、癖を付けられるといえるでしょうか?

誤ることができる意識の働き、とは、
事実でないように分別することができること。
では、事実とは、なんでしょう。
人によって、立ち位置、位相が違うにも拘わらず、
事実はひとつ。(とりあえず私の立場では。)
ここに誰かが書いている、という事実。
事実に意味を与えるのはその人の経緯。
そこで、
なぜそう意味を与えるのかを見るのが、前提を探る、こと。意識と無意識。
知覚とは、一番はじめにあること。


誤りは糺したいのです。
わたしの場合、筋道を正しくすることが必要な気がします。
ご指導を、どうぞよろしくお願い致します。

No.729 - 2008/04/30(Wed) 20:21:49

Re: 知覚 / ubik0101
>接触、とは、無意識、意識を含めて知らないのに可能だろうか、と思いました。

>知っているものしか、接触は、あり得ないといえるでしょうか。それがどういうことか、を知らないとしても、世界の機構のなかで、依存関係の成り立ちも含めて、意識無意識のなかで知っている ?? ことしか、接触はあり得ない、でしょうか。おかしなことを言っているかもしれません。

おかしなことではありません。

なにかを知覚するためには、なにかに接触して対象を、ある、とする必要があります。そして対象にすることによって、対象にしてる自分を、ある、と感じています。それを、ふつうには知る、と呼ぶと思います。

それで、顕在意識としては。知覚の対象にならないことは、つまり知らないことは、気がつかないので、ない、と看做す傾向があります。つまり知る、に依存してる、という限界があります。

しかし無(潜在)意識を見る人は、顕在意識の知覚にとっては、ない、たとえば知覚されない無知も、それが転換した知覚されない智恵も、ない、と看做していません。また。知覚できないから、ない、ではなく・・・自我のように、ない、ことを、ない、と知覚できます。

>知覚は、5感などの感覚的なものと、
>思考や感情を知覚する、機能。
>意識は、分別する顕在的機能、
>無意識は、分別する潜在的機能。


仏陀が明確に説明していますので、聞いてください。

“一切”
                     
その時、仏陀は、「修行者たちよ」と呼びかけました。修行者たちは、「大徳よ」と答えました。そこで、仏陀は話しました。

「修行者たちよ、なにを一切というのだろう。それは、眼と物質です。耳と声です。鼻と香です。舌と味です。身と感触です。意識と法です。これらを名づけて一切というのです。修行者たちよ、もし誰かが、(わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう)と言うなら、それは、ただ言葉があるだけで、他の人の問いに遇えば、よく説明できず、さらに困難に陥るであろう。なぜだろうか。修行者たちよ、それは、ありもしないものを語っているからです」(阿含経より)

つまり人には、5感とその対象(作用)と、意識とその対象(作用)しかない、ということです。そして意識/無意識に関わらず、無知や自我や欲望に惑わされてないなら、人としてはですが、世界をありのままに見ます。

(ただ、世界を対象にしても、思考を対象にしても、知覚、と呼んでるだけです。世界を対象にすることは感覚、思考を対象にすることは意識、と呼ぶほうが正確かもしれませんが、それはそれで混乱しそうです)。

>縁によって接触の作用が働き、思考や感情が寄ってきて、
>主体が仮定されて、(知覚が主?)
>記憶や欲望を反芻するなどして、
>意識や無意識はある意味、癖を付けられるといえるでしょうか?


それは。世界から人の内に向かって、感覚されたことを受動的に受け取るのではなく。人の内から世界に向かって能動的に働きかけるために、その仮の中心として、自我が設定されることに原因があると思います。

そうすることで、世界を、損得や善悪などの勝手な、価値基準で判断し、意味づけることができ、それに添った生きる上で便利な行動や話や思考ができます。けど。そうすると、それに類似の、それに反対の、それに関係ない、行動や話や思考が生じてしまうでしょう。そこで争いが起きる可能性があります。

それは、なんであれ、もともと仮に設定された、自我の機能です。なので、その中にいたら、どんな行動をしても、話しても、思考しても、その勝手な判断の中にいます。それは水が流れやすいところを流れるように癖だとしても、意識/無意識には癖はつかないと思います。

>誤ることができる意識の働き、とは、
>事実でないように分別することができること。
>では、事実とは、なんでしょう。
>人によって、立ち位置、位相が違うにも拘わらず、
>事実はひとつ。(とりあえず私の立場では。)
>ここに誰かが書いている、という事実。


意識/無意識が静まった“一切”が、人としての、事実です。それは知覚できないことも含めて一切があります。その総てを、知らない、です。

>事実に意味を与えるのはその人の経緯。
>そこで、
>なぜそう意味を与えるのかを見るのが、前提を探る、こと。意識と無意識。


それを否定の道と呼んでいます。

>知覚とは、一番はじめにあること。

No.730 - 2008/05/01(Thu) 00:02:08

Re: 知覚 / hato

> 仏陀が明確に説明していますので、聞いてください。
>
> “一切”
>                      
> その時、仏陀は、「修行者たちよ」と呼びかけました。修行者たちは、「大徳よ」と答えました。そこで、仏陀は話しました。
>
> 「修行者たちよ、なにを一切というのだろう。それは、眼と物質です。耳と声です。鼻と香です。舌と味です。身と感触です。意識と法です。これらを名づけて一切というのです。修行者たちよ、もし誰かが、(わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう)と言うなら、それは、ただ言葉があるだけで、他の人の問いに遇えば、よく説明できず、さらに困難に陥るであろう。なぜだろうか。修行者たちよ、それは、ありもしないものを語っているからです」(阿含経より)



意識と法。

了解致しました。
誤りを糺して、進みたいと思います。

No.731 - 2008/05/01(Thu) 08:25:01
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