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怖い / ばん
私はとても怖がりの様な気がします、
人を傷つけてしまいそうで怖い
自分が傷つくのが怖い
自分がとてつもなく不幸になってしまいそうで怖い

そういう、恐怖心て皆さんありますか?

No.757 - 2008/05/07(Wed) 15:36:40

Re: 怖い / peer
人を傷つける、ということが
いったいどういうことか。
理解する必要があります。
当座の相手の痛みは、即、自分の痛みでもあります。
それからは逃げられません。

で・・・こんな言葉もありますね。
真実ほど、人を傷つける。。と。
それならばと、真実を見せないとしたら
傷つかないとしても、その人は幸福でしょうか。
真実を知らされないままでいる、その人。は。

No.758 - 2008/05/08(Thu) 00:15:39

Re: 怖い / ubik0101
とくに恐怖を感じません。それで。もしかして守りたい、失いたくないことがあると恐怖を感じるのかな、と思いました。

また。日常では人は、光や風や他人や動物などの状況を変える要員、要素として、互いに機能しています。そういう変化に関わるのが、もしかしてですが、嫌なのかな。と、思いました。

No.760 - 2008/05/09(Fri) 07:12:31

Re: 怖い / ばん
あーわかりました。
安全、平和、幸せに執着しています。
傷つきたくない、ずっと安心、平和でいたい

どーでもいいでした。どう考えてもいいでした。
いつの間にか、何かしらに執着、依存してしまっています。

No.762 - 2008/05/09(Fri) 07:44:28

Re: 怖い / ubik0101
なにかに依存することで。その人は、その依存した対象によって、その自分を感じて、拠り所のない不安から解放され、安心することができると無意識に思うのかもしれません。

しかし逆です。依存すればするほど、その人は、対象に惑わされ、その人自身ではなくなります。この、人の逆説的な有り様。これを見るのは役に立つかもしれません。

しかし、また。なににも依存しないと頑張ると、その、なににも依存しないという姿勢に依存する可能性があります。ここらは、よく理解して、どこにも縛られないことが大切と思います。

No.766 - 2008/05/10(Sat) 06:22:43
知覚 / hato

ubik0101さんが言われる知覚、とは、気付き、とも言い換えることができるのでしょうか?
すこし前に、知覚、の話に触れて頂いたと思います。

意識は、すでに必ず識である、ということだったでしょうか。

接触、とはどういうことでしょうか。

No.725 - 2008/04/29(Tue) 21:06:24

Re: 知覚 / ubik0101
>ubik0101さんが言われる知覚、とは、気付き、とも言い換えることができるのでしょうか?

ひとつには、眼や耳が、なにかを対象にして見る、聞くという機能を、知覚、と呼ぶことがあります。たとえば、赤い花が見える、電車の音が聞こえる。感覚、ということを、知覚、と呼ぶことがあります。

そして、意識が、なにか思考を対象にして、それを見るという機能のことを、知覚、と呼ぶことがあります。思考を知覚。こっちの意味で主に、知覚、すると言います。

どちらの意味でも、なにかを知覚するということを、なにかに気づく、と言い換えられます。

ただ「気付き」という言葉は、それまで迷ってたけど、そのことを理解して、解放された、とかいう意味では、よほど対話者との了解事項でなければ、使いません。 それを「気付き」と呼ぶのは、なんだかの意識の働きに命名しただけで、不正確だからです。

また。たとえば、世界と自分との分裂、また自分のなかに分裂した観察者が、知覚されないから「観察者のない観察」と呼ばれたりします。その言葉は、人の有り様に命名したことなので、それを実現してない人が言葉として対象化すると、かなり迷う恐れがあります。

>意識は、すでに必ず識である、ということだったでしょうか。

これは、意識と、その対象は、別のこと?という質問でしょうか。自分には、別のことと感じられます。赤い花を見る、喜怒哀楽を見る、思考を見る(とある対象から、ほかの対象への変化は切れ切れなような気がします)・・・対象が変わるからです。     

しかし、知覚と内容は同じ、という見方もあります。これは、ないことは知覚されないという、つまり知覚されないことは自分にとっては、ない、という、自分の知覚に依存した、惟我的な見方に思えます。

そこには。たとえば無意識に葛藤があっても、倒錯していても、自我が機能してても、それを知覚できないから、自分にとっては、ない、と思いかねない危険があります。顕在意識だけを見てる状態かもしれません。

>接触、とはどういうことでしょうか。

たとえば赤い花に、緑の葉に、鳥の声に感覚が・・・ある感情や、また思考に意識が・・・接近し触れる、それで接触、です。くっつく、という意味です。でなければ知覚が成立しません。

この。なにかと、なにかが、接触する。知覚する。そのことだけで、すでに欲の働きとも言えます。そうであって、それを利用して、さらなる融合、分離を強調することを・・・欲望する、ということと見ることもできます。

また、自然に個人は別々の立場がありますが、そうであることを利用して、さらなる融合、分離を強調することが、自我の機能と見ることもできます。

No.726 - 2008/04/30(Wed) 00:18:56

Re: 知覚 / hato

> 意識は、すでに必ず識である、ということだったでしょうか。

これは無意識、もそうですね?

> 接触、とはどういうことでしょうか。

これは、自分で見るしかない、ことかもしれませんが、
接触、とは、無意識、意識を含めて知らないのに可能だろうか、と思いました。
知っているものしか、接触は、あり得ないといえるでしょうか。それがどういうことか、を知らないとしても、世界の機構のなかで、依存関係の成り立ちも含めて、意識無意識のなかで知っている ?? ことしか、接触はあり得ない、でしょうか。おかしなことを言っているかもしれません。

ですが、ubik0101さんは、新たに見る、と言われました。
不要な識の働かない知覚が、新たに見る、ことを可能にする。

気付き、というとすこし、人間寄りな感じがします。
知覚、は機能に徹した感じを捉えます。

No.727 - 2008/04/30(Wed) 00:22:58

Re: 知覚 / hato

すみません、また返信を読めずに書いていました。
もう少し考えます。

No.728 - 2008/04/30(Wed) 00:36:52

Re: 知覚 / hato

自分には難しいことを言ってしまったので、
どう続けてよいかわかりません。

上記の投稿の、知らない、という言葉はその状態に
適切でない気がします。


知覚は、5感などの感覚的なものと、
思考や感情を知覚する、機能。
意識は、分別する顕在的機能、
無意識は、分別する潜在的機能。

縁によって接触の作用が働き、思考や感情が寄ってきて、
主体が仮定されて、(知覚が主?)
記憶や欲望を反芻するなどして、
意識や無意識はある意味、癖を付けられるといえるでしょうか?

誤ることができる意識の働き、とは、
事実でないように分別することができること。
では、事実とは、なんでしょう。
人によって、立ち位置、位相が違うにも拘わらず、
事実はひとつ。(とりあえず私の立場では。)
ここに誰かが書いている、という事実。
事実に意味を与えるのはその人の経緯。
そこで、
なぜそう意味を与えるのかを見るのが、前提を探る、こと。意識と無意識。
知覚とは、一番はじめにあること。


誤りは糺したいのです。
わたしの場合、筋道を正しくすることが必要な気がします。
ご指導を、どうぞよろしくお願い致します。

No.729 - 2008/04/30(Wed) 20:21:49

Re: 知覚 / ubik0101
>接触、とは、無意識、意識を含めて知らないのに可能だろうか、と思いました。

>知っているものしか、接触は、あり得ないといえるでしょうか。それがどういうことか、を知らないとしても、世界の機構のなかで、依存関係の成り立ちも含めて、意識無意識のなかで知っている ?? ことしか、接触はあり得ない、でしょうか。おかしなことを言っているかもしれません。

おかしなことではありません。

なにかを知覚するためには、なにかに接触して対象を、ある、とする必要があります。そして対象にすることによって、対象にしてる自分を、ある、と感じています。それを、ふつうには知る、と呼ぶと思います。

それで、顕在意識としては。知覚の対象にならないことは、つまり知らないことは、気がつかないので、ない、と看做す傾向があります。つまり知る、に依存してる、という限界があります。

しかし無(潜在)意識を見る人は、顕在意識の知覚にとっては、ない、たとえば知覚されない無知も、それが転換した知覚されない智恵も、ない、と看做していません。また。知覚できないから、ない、ではなく・・・自我のように、ない、ことを、ない、と知覚できます。

>知覚は、5感などの感覚的なものと、
>思考や感情を知覚する、機能。
>意識は、分別する顕在的機能、
>無意識は、分別する潜在的機能。


仏陀が明確に説明していますので、聞いてください。

“一切”
                     
その時、仏陀は、「修行者たちよ」と呼びかけました。修行者たちは、「大徳よ」と答えました。そこで、仏陀は話しました。

「修行者たちよ、なにを一切というのだろう。それは、眼と物質です。耳と声です。鼻と香です。舌と味です。身と感触です。意識と法です。これらを名づけて一切というのです。修行者たちよ、もし誰かが、(わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう)と言うなら、それは、ただ言葉があるだけで、他の人の問いに遇えば、よく説明できず、さらに困難に陥るであろう。なぜだろうか。修行者たちよ、それは、ありもしないものを語っているからです」(阿含経より)

つまり人には、5感とその対象(作用)と、意識とその対象(作用)しかない、ということです。そして意識/無意識に関わらず、無知や自我や欲望に惑わされてないなら、人としてはですが、世界をありのままに見ます。

(ただ、世界を対象にしても、思考を対象にしても、知覚、と呼んでるだけです。世界を対象にすることは感覚、思考を対象にすることは意識、と呼ぶほうが正確かもしれませんが、それはそれで混乱しそうです)。

>縁によって接触の作用が働き、思考や感情が寄ってきて、
>主体が仮定されて、(知覚が主?)
>記憶や欲望を反芻するなどして、
>意識や無意識はある意味、癖を付けられるといえるでしょうか?


それは。世界から人の内に向かって、感覚されたことを受動的に受け取るのではなく。人の内から世界に向かって能動的に働きかけるために、その仮の中心として、自我が設定されることに原因があると思います。

そうすることで、世界を、損得や善悪などの勝手な、価値基準で判断し、意味づけることができ、それに添った生きる上で便利な行動や話や思考ができます。けど。そうすると、それに類似の、それに反対の、それに関係ない、行動や話や思考が生じてしまうでしょう。そこで争いが起きる可能性があります。

それは、なんであれ、もともと仮に設定された、自我の機能です。なので、その中にいたら、どんな行動をしても、話しても、思考しても、その勝手な判断の中にいます。それは水が流れやすいところを流れるように癖だとしても、意識/無意識には癖はつかないと思います。

>誤ることができる意識の働き、とは、
>事実でないように分別することができること。
>では、事実とは、なんでしょう。
>人によって、立ち位置、位相が違うにも拘わらず、
>事実はひとつ。(とりあえず私の立場では。)
>ここに誰かが書いている、という事実。


意識/無意識が静まった“一切”が、人としての、事実です。それは知覚できないことも含めて一切があります。その総てを、知らない、です。

>事実に意味を与えるのはその人の経緯。
>そこで、
>なぜそう意味を与えるのかを見るのが、前提を探る、こと。意識と無意識。


それを否定の道と呼んでいます。

>知覚とは、一番はじめにあること。

No.730 - 2008/05/01(Thu) 00:02:08

Re: 知覚 / hato

> 仏陀が明確に説明していますので、聞いてください。
>
> “一切”
>                      
> その時、仏陀は、「修行者たちよ」と呼びかけました。修行者たちは、「大徳よ」と答えました。そこで、仏陀は話しました。
>
> 「修行者たちよ、なにを一切というのだろう。それは、眼と物質です。耳と声です。鼻と香です。舌と味です。身と感触です。意識と法です。これらを名づけて一切というのです。修行者たちよ、もし誰かが、(わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう)と言うなら、それは、ただ言葉があるだけで、他の人の問いに遇えば、よく説明できず、さらに困難に陥るであろう。なぜだろうか。修行者たちよ、それは、ありもしないものを語っているからです」(阿含経より)



意識と法。

了解致しました。
誤りを糺して、進みたいと思います。

No.731 - 2008/05/01(Thu) 08:25:01
(No Subject) / ubik0101
> これもすでにずいぶん説明してきたのですが、これは心理的な意味での「見る主体」ということですね?心理的な意味での解釈者、認識主体はありません。それが意識されない。ただ知覚があるだけです。知覚を再認識はしない。もし「超意識」のような「見る主体」が意識されていたとすれば、すでにそれは解釈者の産物でしょう。ただ知覚があるとき「自我」であったものは瞬時に転換しています。その知覚だけがあるときを「無我」と呼べば、そう呼べるだろうということです。

これまでのム−ミンさんの表現「「自我」を見ると同時に「無我」を見る」とか、その文章だけを見ると、自我というもの、無我というものがあると、言ってるのかな。と疑問に思ってたので。そうでないなら、了解です。

おなじことでしょうが。「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」その人が実際にそんな有り様であって、なぜ、「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」と認識するのかと。「如実知見」という表現にも。つまりそれも、知ってること、が限界になる、という疑問はありました。

おなじように対象としての超意識を話したのではありません。ほかのことが超意識を対象にしたのではありません。「どうもム−ミンさんと、話があわない、どうしてなんだろう」、と知人に聞いたくらいですが、およそ納得です。

それはそれとして。自我とか無我とかを問題にするのではなく・・・それはもう充分なので・・・その知覚だけがあるときの、知覚の機能を、調べたいと思ってるのです。まだ探ることがあると、思ってるのです。ここが問題提起してることです。

> 伝わっていなかったようですね。自我が機能しなくなると、つまり解釈者がいなくなると、無意識が開示されてくる、あるいはすでに開示されてはいたが、それが自我によって歪んでいたことなどが、わかってくる、ということがありませんか?そして、それらが理解され消えていくことで、それは再び感覚として生じないということがあるでしょう?人や物との関わりの中で、自我としては機能はしないけれども、さまざまな感覚的反応が生じるでしょ?それが知覚の機能によって、言い方は変かもしれませんが、どんどん供養されていく、ということなのですが。

ム−ミンさんの言うことを、疑ってるとか、批判してるということではありません。そうだとすれば、いつまで、もぐら叩きをやってるんだ?そのもぐらは何匹いるのか?とか聞きます。

> 今までの分とあわせて、これでも伝わらないとすれば、何か特定の体験でも想定されて質問されているのでしょうか?たとえば「超意識」の体験とか、「神」の体験とか?

いいえ。はじめの頃に言ったように、どんな体験があろうと、なかろうと、無問題です。

> ええ、イエス・キリストを見るとか、仏陀を見るという体験は、知っているものの投影でしょう。意識、無意識を問わず、知っているものしか見ない。

たぶん。そのサイトの主催者は「仏陀を見る」。などと言うと、あー、分かってないなーと苦笑すると思います。「仏陀から見られた」。だから投影じゃない。を言いたいのだと思います。ま。メールして期待してましたが、返信くれませんでした。

> ubikさんのされた体験というのは、人によって、その出来事の解釈に多少の違いはあるようですが、いわゆる至福感をともなう「意識の拡大」と一般的に呼ばれている現象です。これは何の前触れもなく起こることもありますが、ヨーガの呼吸法や覚醒剤で人工的に起こすことも出来るもので、ドーパミンなどの脳内物質による感覚的なもののようです。

> その時、その感覚の解釈者がいなければ、それはただ生じ、展開され、消えていくだけですが、解釈者が現れると、その感覚を解釈し、命名し、同一化するという一連の自我の機能、過程が始まり、その感覚に捕らわれますよね?その結果、その体験が重要なものとなったり、貴重なものとなったりします。あるいは人によっては、その体験をかたくなに否定するかもしれません。そして、そのことが当人に意識されないということです。つまり、無意識、無自覚だということです。元型というのは実際にあるのかないのかということではなく、心理現象を説明するための単なる概念です。

うん。「心理現象を説明するための単なる概念」なら問題ありません。上のほうで言ったように。やはり文章だけを読むと、「意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みます」とかを知識としてか、対象化してるのかな、とも思えたのです。

> それで、その感覚に捕らえられて、それが知覚されていないと、「超意識」や「神」の体験が批判されたり、否定されたり、何らかの妨害に出会うとき、あたかも自分が否定されたように不快感を感じ、攻撃的になったりするということです。「同一化」の問題とはこういうことですね。

うん。そうです。それを体験した人は、その体験を対象化して、人生の目的を果たしてしまった。もうこれ以上のことはない、自分は最高。と思い込んでしまう人もいます。その体験を対象にすることを残響のような自我と呼んでいます。(それはそれでいいのですが。たぶん。ヨガや瞑想や薬で体験しても、それはその人の知ってることの投影の範囲をでないでしょう)。それを克服するために、意識に依存しないこととか、なんにも依存しない素直さが必要と、この掲示板で、話しています。

No.710 - 2008/04/25(Fri) 14:08:40

Re: / ムーミン
>これまでのム−ミンさんの表現「「自我」を見ると同時に「無我」を見る」とか、その文章だけを見ると、自我というもの、無我というものがあると、言ってるのかな。と疑問に思ってたので。そうでないなら、了解です。

>おなじことでしょうが。「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」その人が実際にそんな有り様であって、なぜ、「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」と認識するのかと。「如実知見」という表現にも。つまりそれも、知ってること、が限界になる、という疑問はありました。

どの言葉も、表現も反省的(反省というのは、過去の行為に批判的な評価を与えるという意味ではないですよ)に使っているだけなのです。観察者が観察されるものであるとき、思考者が思考と同じものであるとき、つまり受動的な気づき(知覚)の状態にあるときには、概念による再認識は生じないのです。これについてはすでに申し上げてきたつもりですが。

>おなじように対象としての超意識を話したのではありません。ほかのことが超意識を対象にしたのではありません。「どうもム−ミンさんと、話があわない、どうしてなんだろう」、と知人に聞いたくらいですが、およそ納得です。

ubikさんの「超意識」「神」体験については、私の書き方が少し正確さを欠いていたのかもしれません。体験のすべてを否定しているわけではなくて、その体験の一部が、特殊なものではなく一般的なものであると、相対化しているのです。

過去の事例を見てみると、その「超意識」「神」体験のような「意識の拡大」体験の強烈さをもって自分を救世主のように勘違いする人、その人を救世主に仕立て上げたがる人たちがいるということ、そこまでいかなくても、何か自分がひとかどの人物にでもなったかのように勘違いして振舞う人がいるということ、それによって、苦しみを受ける人が多くいるということ、それはやはり相対化する必要があるだろうということです。

重要なのは、「超意識」や「神」の体験ではなく、ubikさんがその体験の中で理解したとおっしゃられる、自分という中心が分離・対立をもたらし、またそれが事実と空想の倒錯を生む、その結果「罪」が起こり、苦しみが生じるということ、この概念的分析的理解ではない、瞬時の理解によって自分という中心、倒錯が解消され、「罪が燃焼」され、苦しみから解放されたということでしょ?

>ム−ミンさんの言うことを、疑ってるとか、批判してるということではありません。そうだとすれば、いつまで、もぐら叩きをやってるんだ?そのもぐらは何匹いるのか?とか聞きます。

ああ、そういうふうには思っていないので安心してください。これについてもすでに書いてきましたが、「話が合わない」のではなく、術語が原因で食い違いがあるかもしれないので、ubikさんの術語に沿って説明を試みてみます。

ubikさんは「無我」と「自我」を見た体験をしたとおっしゃいました。これは私の使う言葉で言えば「観察者は観察されるもの」「思考者は思考と同じである」という洞察によってもたらされるもの、ということになります。そしてその洞察によって、「自我の全過程」が見られ、同時に「無我」を理解します。この洞察、知覚により、自我の暴力性・破壊性に対する質的理解があるので、基本的には心理的問題はなくなります。前にも書きましたが、洞察とは物事の全体を一瞬にして把握することであり、概念的分析的な理解ではないということです。

また、ubikさんは、体験の後には「残響の自我」が残っていて、「悟後の修行」として、体験の内容を意識に覚えさせることが必要だともおっしゃいましたね。これは私の使う言葉では「学び」と呼んでいます。これはubikさんとは使用方法が少し違うということはすでに確認しました。

私の場合は「学び」があるためには、上で述べた洞察が欠かせない。なぜならば、自我が機能している限りは「学び」が歪むからです。そして堂々巡りになります。これこそ、いつまでもモグラを叩かねばならないということになるでしょう。

また、私の使う「学び」は能動的なものではなく、知覚の受動性の中で行われているということです。洞察の後でも、何かを問題として認識することはまだ残っていますが、かりに認識してしまったとしても、それが知覚される中で、即座に理解され、解消され、心理的な問題にはなりません。この理解が「学び」です。理解され解消されたものは、再記憶されることはなく、次第に記憶の中から、消えていきます。記憶喪失や認知症ではないので、形式的な記憶はもちろん残りますが、その感情的内容は働きません。たとえば「怒り」が現れるたびにそれに「気づいて」、その都度解消するということではありません。理解されて終わりです。。「知覚」の機能についての質問がありましたが、知覚の機能とは、種を見つけ、燃やし、枯らす炎のようなものなのかもしれません。そしてそれを「学び」と呼んでいます。

洞察の中ですでに「転換」は行われ、知覚によって心理的な問題には発展しない、万が一発生したとしても知覚によって理解され解消されるので、いつまでモグラを叩くのかということにはなりません。

ubikさんは悟後の修行のとき、達成すべきゴールは見えていましたか?見えていたとしたら、それが達成されたときには、それはすでに知っているものの投影でしょ?達成した後に「ああ、あのときの体験はこういう意味だったのか。最初の一歩が最後の一歩だったのか」と反省的にわかったということはありませんか?悟後の修行とは後になって言えることではなかったですか?

>たぶん。そのサイトの主催者は「仏陀を見る」。などと言うと、あー、分かってないなーと苦笑すると思います。「仏陀から見られた」。だから投影じゃない。を言いたいのだと思います。ま。メールして期待してましたが、返信くれませんでした。

「仏陀から見られた」ということであれば、「見られるもの」がいるということなので同じことです。

>うん。「心理現象を説明するための単なる概念」なら問題ありません。上のほうで言ったように。やはり文章だけを読むと、「意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みます」とかを知識としてか、対象化してるのかな、とも思えたのです。

ああ、この部分は、ubikさんが「超意識」体験のことに触れられたときに、「意識と無意識」が統合され、「意識の全領域」を見渡したとおっしゃっていたので、上のような話をする人もいるけど、ubikさんは意識をどのように捉えているのか、そのすべてを見渡したのですか?という質問です。


なんだか少し疲れました。

No.713 - 2008/04/26(Sat) 16:54:29

Re: / ubik0101
>重要なのは、「超意識」や「神」の体験ではなく、ubikさんがその体験の中で理解したとおっしゃられる、自分という中心が分離・対立をもたらし、またそれが事実と空想の倒錯を生む、その結果「罪」が起こり、苦しみが生じるということ、この概念的分析的理解ではない、瞬時の理解によって自分という中心、倒錯が解消され、「罪が燃焼」され、苦しみから解放されたということでしょ?

その体験の効果は、そうです。ただ人間関係で惨めな自分を感じることなどを、解消することを目的で探究していませんでした。自分を知りたかったのです。たとえば無我になろうという意図もありませんでした。けど。通奏低音のように何年も続いていた絶対不自由の苦痛からも解放されました。

>理解され解消されたものは、再記憶されることはなく、次第に記憶の中から、消えていきます。記憶喪失や認知症ではないので、形式的な記憶はもちろん残りますが、その感情的内容は働きません。たとえば「怒り」が現れるたびにそれに「気づいて」、その都度解消するということではありません。理解されて終わりです。

それで、理解されたことは、意識の対象としては失われるのだけど、無くならないで、自覚されないまま十全に機能しています。だから、理解することによって人に変化があります。たとえば、自我もなければ無我もないなどとと、思っても、思いもしないでも、自我もなければ無我もなく・・・ほかのことも同様に・・・無自覚に機能してる日常です。なので、それをいつでも見れます。

>ubikさんは悟後の修行のとき、達成すべきゴールは見えていましたか?見えていたとしたら、それが達成されたときには、それはすでに知っているものの投影でしょ?達成した後に「ああ、あのときの体験はこういう意味だったのか。最初の一歩が最後の一歩だったのか」と反省的にわかったということはありませんか?悟後の修行とは後になって言えることではなかったですか?

その体験で受け取った圧縮された情報が、理解できませんでした。それが解凍されるのを、自分に望んだ、のです。そのあとは理解することで変化した、その日常の自分から学んでいます。それは、意図的ではなく。どう変わるとか予想できません。

>「仏陀から見られた」ということであれば、「見られるもの」がいるということなので同じことです。

まあ、そうかどうかは第三者なので判断できません。ということでいいようです。

>ああ、この部分は、ubikさんが「超意識」体験のことに触れられたときに、「意識と無意識」が統合され、「意識の全領域」を見渡したとおっしゃっていたので、上のような話をする人もいるけど、ubikさんは意識をどのように捉えているのか、そのすべてを見渡したのですか?という質問です。

おそらく総ての生き物の身体は、水や炭素などの物質でできています。それは宇宙にある物質を共有してるという認識も不要なくらい個人のものでないことは、当たり前の事実です。そんなことより生きることが大切です。そして 感情も、意識/無意識も、そんな個人のものではなく単なる素材です(まったく不増不減です)。そんなことより学ぶことが大切です。

これまでのム−ミンさんの話でしか知りませんが「無意識の中の元型」とかがあるとしなければ、自我インフレーション説も無意味に思えますが。そのように総ての生き物に共通の記憶があるとかは、まったく無意味で、成長こそ必要です。それが失われることはないこと、と感じます。

>なんだか少し疲れました。

そうですね。気が向くままが、
いいと感じます。

No.716 - 2008/04/27(Sun) 08:31:41

Re: / ムーミン
>それで、理解されたことは、意識の対象としては失われるのだけど、無くならないで、自覚されないまま十全に機能しています。だから、理解することによって人に変化があります。たとえば、自我もなければ無我もないなどとと、思っても、思いもしないでも、自我もなければ無我もなく・・・ほかのことも同様に・・・無自覚に機能してる日常です。なので、それをいつでも見れます。

ええ、言葉の使い方の細かい点を除けば、それが私の言ってきた「解釈者」がいない、ということです。それで、苦しみのない、まあごく普通の日常を送っているということでしょう?ただ私の場合は、心理的なものが何もないこと以上に完成があるのかどうかも含め、「完成」という終着が何かを知りませんので、方向性もなく、常に原点である静かな心で「学び」続けています。

>その体験で受け取った圧縮された情報が、理解できませんでした。それが解凍されるのを、自分に望んだ、のです。そのあとは理解することで変化した、その日常の自分から学んでいます。それは、意図的ではなく。どう変わるとか予想できません。

「圧縮」「解凍」という表現はよくわかります。そのときの体験は、なにしろ時間があるのかないのかわからないような、瞬時の理解でしたでしょうから。どう変わるか予想できないというのは「学び」に終わりがないということでしょうね。

>おそらく総ての生き物の身体は、水や炭素などの物質でできています。それは宇宙にある物質を共有してるという認識も不要なくらい個人のものでないことは、当たり前の事実です。そんなことより生きることが大切です。そして 感情も、意識/無意識も、そんな個人のものではなく単なる素材です(まったく不増不減です)。そんなことより学ぶことが大切です。

ubikさんはしばしば唯識の名前を出されていますし、また「種子と発芽」の比喩も使われており、唯識のことはある程度ご存知だと思いますので、それに沿って簡単な説明をしようと思います。あくまでも私の唯識理解なので、オーソドクスなものかどうかはわかりませんが。

唯識では深層心理を説明するために、末那識と阿頼耶識を設定します。末那識は自我執着心といわれるもので、私の使う言葉で言えば、否定・肯定、非難・正当化、拒絶・受容、同一化などといった形で現れるものです。阿頼耶識は種子、つまり過去の全記憶がつめられた貯蔵庫です。しかし阿頼耶識には善や不善、煩悩などの働きを持つ心作用はありません。阿頼耶識にある種子を発芽させるのは、末那識の自我執着心です。それが苦しみをもたらせます。つまり、末那識が阿頼耶識を「我」として誤認するところにその働きがあるということです。

しかし、末那識、阿頼耶識は深層というか無意識で、見えにくい。そこで「学び」が必要になるということでしょうね。

>これまでのム−ミンさんの話でしか知りませんが「無意識の中の元型」とかがあるとしなければ、自我インフレーション説も無意味に思えますが。そのように総ての生き物に共通の記憶があるとかは、まったく無意味で、成長こそ必要です。それが失われることはないこと、と感じます。

ええ、あってもなくてもということではなくて、重要なのは、末那識が阿頼耶識を「我」と誤認することなければよい、ということだと思います。いうならば「自我インフレーション」も末那識が阿頼耶識にある、あるものを「我」と誤認しているのです。

しかし、末那識も阿頼耶識も、意識現象を説明するための単なる概念に過ぎませんから、概念抜きに、直接、実際に自分の中で起こっていることの観察、理解は欠かせないということでしょう。実際に自分の中で起こっていることの理解というのは、知的理解では単なる観念ですから、これまでも言ってきたように「知覚」による理解しかないということなんです。それが「学び」であるということ。「自我インフレーション」という同一化現象も、ある特質を持っていますから、知覚でわかります。わかって、理解すればそれで終わりです。

>>なんだか少し疲れました。

>そうですね。気が向くままが、
>いいと感じます。


返信の量を減らしていただいた気配りに感謝します。もとはといえば、この掲示板を訪れて目にした「自我=無我」という表現に興味を持って、質問しただけだったのが、とんだ長い対話になってしまいました。

No.719 - 2008/04/27(Sun) 11:16:58

Re: / ubik0101
ム−ミンさんの話で。なにかを知覚することによって、そのとき知覚する主体が、すでに設定されていると看做される現象。それが末那識と阿頼耶識の関係で説明できる。のだろうと、思いました。自我はそう機能するのですが、そうでなくても、ただ知覚、する、しないということも、そうかもしれません。

そこでは、とくに知覚の、ある、ない・・・とその対象の無意識の思考の、ある、ないの関係。もしかして。ある、と、ない、の関係。そういうことも見ることができるかもしれないと思えます。それに引っ掛かった場合の解放、それが意識に依存しないこと、とも言えそうです。また、自分は心理的な問題がなく、普通の日常を送ることが、完成とは思っていません。長い間ありがとうございました。いつでも。また。です。

No.720 - 2008/04/27(Sun) 16:10:06

Re: / hato

ムーミンさん。
丁寧にご指導頂きましたこと、
本当に感謝申しあげます。
ご存じの通りこちらは未熟ですが、
なんとか。進みます。

ありがとうございます。

No.721 - 2008/04/27(Sun) 23:36:04

Re: / ムーミン
>ム−ミンさんの話で。なにかを知覚することによって、そのとき知覚する主体が、すでに設定されていると看做される現象。それが末那識と阿頼耶識の関係で説明できる。のだろうと、思いました。自我はそう機能するのですが、そうでなくても、ただ知覚、する、しないということも、そうかもしれません。

>そこでは、とくに知覚の、ある、ない・・・とその対象の無意識の思考の、ある、ないの関係。もしかして。ある、と、ない、の関係。そういうことも見ることができるかもしれないと思えます。それに引っ掛かった場合の解放、それが意識に依存しないこと、とも言えそうです。また、自分は心理的な問題がなく、普通の日常を送ることが、完成とは思っていません。長い間ありがとうございました。いつでも。また。です。

「知覚」とは、心が空っぽであるときの状態、心が静かなときの状態、純粋経験、直覚など、いろいろ言い換えができそうです。けど、これは特別なものではなくて、基本的に誰にでも備わった機能だと思います。ただ、「自我」がそれを妨げているのだと思います。で、それを取り除こうとするのではなくて、つまり問題とするのでもなく、また逆に、それでいいのだと、つまり問題ないとするのでもなく、「自我」がしていること、その格闘が、ただ知覚されるとき、そのとき「自我」は機能していないと言えそうです。

鳥の声、川のせせらぎからも、今、外を通ったバイクのマフラーの爆音からも学んでいます。ありがとうございました。
気が向いたら、また訪れようと思います。

No.722 - 2008/04/28(Mon) 11:30:16

Re: / ムーミン
>ムーミンさん。
>丁寧にご指導頂きましたこと、
>本当に感謝申しあげます。
>ご存じの通りこちらは未熟ですが、
>なんとか。進みます。


こちらの方は、大都市のごみごみしたところに住んでいますので、残念ながらウグイスの鳴き声が聞けません。G.W.には渓谷へウォーキングに出かける予定でいます。きっとウグイスもモリアオガエルも歓迎してくれると思います。

ubikさんの言葉を借りれば、hatoさんのような「求道の仲間」に出会えて嬉しかったです。こちらこそ、ありがとうございました。

No.723 - 2008/04/28(Mon) 11:43:29

Re: / hato

> こちらの方は、大都市のごみごみしたところに住んでいますので、残念ながらウグイスの鳴き声が聞けません。G.W.には渓谷へウォーキングに出かける予定でいます。きっとウグイスもモリアオガエルも歓迎してくれると思います。


きっと大歓迎ですね。
どうぞ、お気を付けて
楽しんでいらしてください。

No.724 - 2008/04/28(Mon) 23:55:44
もしかして。 / hato

ちょっとまって。

見ていない概念と見ていない概念との関係?

無我の絶対主観。

世界は人を覚醒させる触媒である。

わたしが見ているもの、
学んできたすべては、
無我の絶対主観がただ、現れているだけ?

とするなら、
喜びのなかでできる覚醒、も
見ることができるでしょうか。

No.685 - 2008/04/21(Mon) 05:52:51

Re: もしかして。 / ubik0101
覚醒は、
突然に起こる変化であり、体験です。
けど、人によって
その現れる状態は異なります。

hatoさんは、
とても真摯で、
ubik0101と同じことを見てるような
印象があります。

愛を感じる時
その愛の放射される源、
つまり実在から見られてる自己の
感覚があるでしょうか。

No.686 - 2008/04/21(Mon) 08:19:01

Re: もしかして。 / hato

なにを言っているのか。
間違っているかもしれません、
ただ再評価、組み替え、再調整の信号が届いた、
気がしました。

No.687 - 2008/04/21(Mon) 08:21:18

Re: もしかして。 / hato

> 愛を感じる時
> その愛の放射される源、
> つまり実在から見られてる自己の
> 感覚があるでしょうか。


はい。
これは、ほんの、ほんの微細な感触かもしれませんが、
あると、思います。

No.688 - 2008/04/21(Mon) 08:24:23

Re: もしかして。 / hato

二つ目の投稿は、
ubik0101さんのを見ていないで書いてました、

これから、ちょっと出かけます。
もう少し、受け取って、みます。

いつも、助けて頂いてほんとにありがとう。

No.689 - 2008/04/21(Mon) 08:31:41

Re: もしかして。 / hato

> ubik0101と同じことを見てるような
> 印象があります。


そうですか、
少し、言い過ぎたのではと心配しました。
ですが、そう体験できるよう、
なので、すこし、とっておきたい、気がしてしまいます。


> 愛を感じる時
> その愛の放射される源、
> つまり実在から見られてる自己の
> 感覚があるでしょうか。


愛と実在を分けて考えたことがありませんでした。
愛、というとき、正直なところ、
非常にシビアな感じでもあるからです。
誤解を恐れずにいえば、無機質、な感じです。

ですが、
愛は、現象として体験できる、という意味で、
その通りに思います。

とんでもなく、
愛されている、と思います。
世界は、愛しいのです。
そして、課題はなくもありません。
学びたい、と思います。

No.693 - 2008/04/22(Tue) 08:12:21

Re: もしかして。 / ubik0101
そうですね。
いつも言いますが、
おたがいに学びあいましょう。

自分の印象では・・・
実在(神)からの眼差し、絆、承認、それが愛です。
それを受けるのが自己です。

No.694 - 2008/04/22(Tue) 08:40:14

Re: もしかして。 / hato

家に帰る、

とはもちろん、
それで終わってしまう、
ということではありません。

わたしはいつも、
0101
から始めなければなりませんでした。

意識が何と言おうが、
自我や無我が、
身体や思考や感情や、
欲望、執着、
嫉妬や悲しみ、
また、喜びが、
あろうが、なかろうが、
感じようが、感じまいが、
そう、あるしかないのだったと、

そう、思います。

No.700 - 2008/04/23(Wed) 18:23:08

Re: もしかして。 / ubik0101
うん。

そういえば、
誰かが、
「毎日死んで、毎日生きる」。
と言いました。

この
いつも新しい
この、この自分の有り様を見るのです。
それが、
学ぶということだと感じます。

No.702 - 2008/04/23(Wed) 19:24:15

Re: もしかして。 / hato

誠に、
ありがとうございます。

愛は、愛としかいえません。
あらゆる様相に分かち合われながら、
愛と了解されている、と思います。

実在と愛の差違が了解されたように思います。

今日も鶯がきもちよさそうでした。
春雨のなかを、よい響きでした。

聞こえているでしょうか。

No.715 - 2008/04/26(Sat) 21:24:27

Re: もしかして。 / ubik0101
うん。喜ばせてもらってます。
No.718 - 2008/04/27(Sun) 08:39:47
人と話すとき / ばん
私は、対人恐怖症なのでお客様と話すときどうしても「不愉快な気分にさせてないかな」とか価格交渉の時など「騙そうとしているな」と思われてないか不安になります。

思考を無視すればよいのですがどうしても出来ません。
どうしたらよいでしょうか
ちょっと人生相談お願いします。

No.697 - 2008/04/23(Wed) 10:13:26

Re: 人と話すとき / ubik0101
えーっ。まったく空想の領域になります。話半分で聞いてください。もしかして。不安になるのは、お客さんを、大切にしてるってことかな、と思いました。ふつうの適切な対応を心掛けるようにすればいい、という以上の気持ちがあるのかもしれません。

けど、努力したりすると、ますます自意識過剰になるのでしょうか。ならばそれは他意識過剰と呼んだ方がいいでしょう。 それは経験値がすくなく、緊張しすぎなのかもしれません。たぶん。対人恐怖症でない人は、人が好きなのか、警戒心がなく、ほかの人から見た自分を感じる必要がないのだと思います。でも、まったく緊張しない人はないと思います。自信がないんです。

そんな緊張を回避するために、みんながやってるように、会社に勤める人はスーツにネクタイとか、ユニフォームとか、業界用語とか、出世するとか、女性は化粧するとかが、効果があるのでしょう。そういことが嫌でなければ、単純に。お客さんとフレンドリーに対応するための準備を含めて、その場その場で全力を尽くしてない、ということかもしれません。

また、そういう社会の様式に紛れて生きることが嫌い、ということなのかもしれません。あるいは誠実な店員を演技できない誠実さがあるのかもしれません。なら、ほかの人のプロトタイプのような対応ではなく。その誠実さ、そのままの有り様で、対応してはどうでしょう。それはお客さんにとっても、とても好ましいのではないでしょうか。

また、お客さんを、自分と同じとか、家族のように思う必要はありませんが。ことさら見知らぬ人と、思う必要もないと思います。さらに恥ずかしさは、自分の弱さの表現ということでもあり、それに気がつくと効果があるかも知れません。 もしかして、お客さんを不快にしたら上司に睨まれるとかの不安を感じるのでしょうか。

また、成長のために、ほんの微かな自分の状態を自覚する必要があり、その補償作用として、とりあえず緊張とか不安を、拡大して感じるのかもしれません。いわゆるトラウマによることなら、過去に依存しないということで、それはもう、ばんさんには問題になってないような気がします。

No.699 - 2008/04/23(Wed) 13:42:04

Re: 人と話すとき / ばん
うびさんの言われることがぴったり当てはまります。

恐れる理由はいくらでもつくりだされるという感じがします。世界の機能としてやってくる?

昔は自分の中で思考が起こると思っていたのですが、最近、向こう側からやってくる思考、感情、と自発的に考える思考、二つがあって、やってくるものは、世界の機能としてやってくるどうしようもないものであって、自発的に行動、思考しているのとは別だなと思うようになってます。

話を戻します
誠実に普通に対応すればよいのですが、不器用なのか、今までと違う自分で対応するのに恥ずかしさ、変わることへの恐怖心があります。

成長する事への恐怖心、変化を恐れることはありますか?

No.703 - 2008/04/24(Thu) 08:22:15

Re: 人と話すとき / ばん
> そうですね。
> いつも言いますが、
> おたがいに学びあいましょう。
>
> 自分の印象では・・・
> 実在(神)からの眼差し、絆、承認、それが愛です。
> それを受けるのが自己です。


実在と愛と自己は別なのですか?この関係がよく理解できません。教えてください。

No.704 - 2008/04/24(Thu) 09:25:52

Re: 人と話すとき / ubik0101
>恐れる理由はいくらでもつくりだされるという感じがします。世界の機能としてやってくる?

そうですね。ばんさんに、たとえば「恐れる理由」が、これを理解して欲しいと、向こうから願って、やってくる。つまり、ばんさんの成長を世界が促してる、と捕らえることができます。そんなことが自分にも実感としてあります。また世界と自分は不可分です。なので、もしかして無意識にも、自分が成長を望んでるって、捕らえることもできるかもしれません。

どちらにしても準備はできてる、ってことでしょう。そしてたとえば「恐れる理由」を理解したら、いまあるより以上のことが見えるようになると思います。ばんさんの状態が変わっても、心配しないで、大丈夫です。この今の状態は、理解することで失われるように思えても、無自覚の智恵に転換され、なくなることはありません。

>成長する事への恐怖心、変化を恐れることはありますか?

なんか、ばんさんの気持ちは、わかるような感じがします。ひとつには。ほかの人から見た、ばんさんのイメージが、変わるのが、気恥ずかしい・・・うまく社会に適応したな・・・と誰かに思われるのが、後ろめたい。ということはあるかもしれないと空想しました。

もちろん社会に飛び込んでも無問題です。いつも成長する気持ちがあれば、自己を失うことは決して、ありません。それに社会から学ぶこともたくさん、です。 これで自分は完成、と思ったところが、その人の限界になるだけです。

また。成長することに躊躇いがあるのかもしれません。だって、自分でも、どうなっていくか、予想できないのです。でも、世界、自分を信頼して大丈夫です。昨日の自分を顧みず、今日にも留まらず・・・進んでも・・・昨日は今日に、今日は明日に繋がっています。

No.705 - 2008/04/24(Thu) 10:01:06

Re: 人と話すとき / ubik0101
>実在と愛と自己は別なのですか?この関係がよく理解できません。教えてください。

おなじ風景でも人の立つ位置で、違って見えます。自分の場合は、自己と、愛と、実在には、秩序というか、関係があります。ですので、まったく同じではありません。でも、自己とはアートマン、実在とはブラフマンなら、両者は同じと言われています。

そして、おそらくは、そうなのだと思います。この前、のりさんが、その廻転?を経験して、おなじところにでたと投稿してくれたと思います。たとえば自分も、世界と実在、違うという理由が、ほとんど見つからなくなっています。

No.706 - 2008/04/24(Thu) 10:31:39

Re: 人と話すとき / ばん
世界の機能、それに巻き込まれずに、よい事をする、なんかこれ精神療法の認知行動療法に似ていて何かを足したような

世界で起こる思考、感情、その認知は歪められていて、しかも自分がその思考、感情を起こしたと思っていて苦しむ、

でも、起こしてたのは自分ではない自分は(実在、無い、神、宇宙、愛、その他、人によって違う)と気づく、世界の機能として起こるどうすることも出来ないからそれには、巻き込まれないようにして、自発的に正しい?行動をする

No.711 - 2008/04/25(Fri) 18:23:30

Re: 人と話すとき / ubik0101
この世界しか、ない、というのではありません。けど。この世界だけじゃなく、違う世界が、ある、のでもありません。どうでもいいのです。そして思考や感情なども、それが思考や感情である必要さえないのだから、不思議だから、どうでもいいのです。たとえば輪廻があろうとなかろうと、自我があろうとなかろうと。どうでもいのです。まさに、どうでもいい。でなくてはならないのです。

>世界で起こる思考、感情、その認知は歪められていて、しかも自分がその思考、感情を起こしたと思っていて苦しむ、

そうです。どうでもいい、こうである必要がないのに、こうである世界だから、つまり未知だから、「自分がその思考、感情を起こしたと思っていて苦しむ」ことも可能です。なお、それを使って成長する。その成長することが結果であれば、泥の沼でも、清い湧き水でも、どんな世界が原因だろうと不問です。

たとえば思い込み、勝手な判断。それは、世界が何であれ、この自分が、そう判断した、その自分であることを得たということです。それならば。とくに正しい善いことをする。というのは、正しい善い自分を育てやすい、成長させやすい。ということです。みな人は、そんな世界に生きています。認知行動療法。ちらっとネットで検索してみましたが、とくに関係ない概念のようです。

No.712 - 2008/04/25(Fri) 19:41:15

Re: 人と話すとき / ばん
そうですね、どうでもいい、ま、いっかですね
あれやこれやに執着、依存せず
楽しくやっていきたいと人を幸せに出来る人になりたいと思います。
うびさん、私の質問、人生相談して頂きありがとうございます

うびさんの誠実な態度、すごいと思います、感謝しています。
見習って成長していきたいと思います。
ありがとうございました。

No.714 - 2008/04/26(Sat) 17:25:00

Re: 人と話すとき / ubik0101
ただ。もう素直であれば成長は必然、と思います。
No.717 - 2008/04/27(Sun) 08:37:41
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