ム−ミンさん、長くなったので新規にしました。
> ええ。その体験は短い時間にたくさんのことを教えてくれますね。ただそれを理解するのに手間がかかる。それで、下記にもありますが、それまで、つまりその体験をするまでは、自我に捕まったままで、自我に基づく行為だったのが、その体験以降は、理解された思考はそのまま瞬時に消えていって、自我のあり方には入っていかなくなったということでしょ?これが行為の大きな転換ということでいったことです。「見ること(理解すること)」が「行為」である、といったのは、行為に二元性の思考が介入しない、知覚からのダイレクトの行為がある、ということです。
うーんと。自我が機能してた頃でも、自分が自分と思う拠り所を捨てて行った過程・・・それは必然的に人が素直にならざるを得ないということであり・・・ほとんど自我は磨り減ってた、という印象があります。
しかし人との関係で、ほかの人が嘘をついたり、約束を守らなかったりするのを見るのは、苦痛だった。そんな自分の眼から隠れて生きる情けない有り様に対して、激怒しました。そういう自我、が機能してたと思います。
あの体験で、そんな自我も問題にならなくなったので、自分のこととしては「自我のあり方には入っていかなくなった」「知覚からのダイレクトの行為がある」は、それほど重要な課題ではなかったのでしょう。
> ええ、ですから真の自己理解、自己認識、自己観察というのは、この「体験」以降にはじまるということでしょ?自我を抱えたままで、自我の眼鏡を通しては、見るものが歪む。
まず体験で見たことは、意識は理解できないので、それを自分の意識に教える。また意識の管轄にないことは、そのことを意識に教える、必要があります。
とくに「真の自己理解、自己認識、自己観察」とかは、そうしようとしてしているのではありませんが。ずっとそうしてる。とも言えます。けど。自己を観察してる、ほかの誰かが、いる、わけではないので、これも変ですが「観察しない」という言い方が近いとは思います。
ふつうには。なにかを理解すると、自分の有り様が変わってしまってる、その変わってしまった有り様を見て学んでる。です。それでいつも、その、そのままの有り様を話しています。なんか、ム−ミンさんが学んだことを聞きたくなります。
> 苦悩や絶望があるときは、すでに苦悩や絶望は問題として認識され、操作の対象となっているものなので、「苦悩や絶望が無問題」として問題をやり過ごそうとしたり、苦悩や絶望を克服しようとして取り組んだりすることは、さらに問題を複雑化する、したがって問題の解決にはならないですね。自我の眼鏡を通して問題に接近しているわけですから。で、ubikさんがおっしゃっている「苦悩や絶望が無問題」というのは、問題をやり過ごすという意味ではないわけですね。
ほかの言い方をすれば。自我や欲望が、葛藤や心理的思考が、あったらいけない、なくあらねばならない。という観念も不要という意味です。そして、そう自覚してなくても、秩序があることを了解しています。ついでに怒ってはならない、悲しんではならない、もありません。でも基本的には静かさが、いつもあります。
> つまり、クリシュナムルティ流にいうなら、「観察者は観察されるもの」であるし、「思考者は思考と同じもの」ということになりますが、それを洞察するしかないのでしょう。それは手段も目的も尽きることを意味します。ubikさんも「それ」が起こったときには、目的も手段も尽きていたでしょ?
それは絶望と意識されることもできない絶望でした。どんなことも人が出来ることは、そう出来るように、この世界が出来てるから、出来るだけ・・・ということを見ても、まさにそれから逃れられない、絶対不自由の状態でした。
クリシュナムルティについても、ほとんど知りません。それ関係の掲示板を見ると。なにか起きたことに命名しない、とか言いながら、どうでもいいことに「観察者は観察されるもの」とか「観察者のいない観察」とか命名して、それに多くの人が迷わされてる印象があります。
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No.692 - 2008/04/21(Mon) 15:44:59
| ☆ Re: / ムーミン | | | >とくに「真の自己理解、自己認識、自己観察」とかは、そ >うしようとしてしているのではありませんが。ずっとそう >してる。とも言えます。けど。自己を観察してる、ほかの >誰かが、いる、わけではないので、これも変ですが「観察 >しない」という言い方が近いとは思います。
それをクリシュナムルティは「観察者のいない観察」とか「無選択の気づき」と呼んでいるわけです。で、それらがあって初めて自己の理解があるというわけです。
>ふつうには。なにかを理解すると、自分の有り様が変わっ >てしまってる、その変わってしまった有り様を見て学んで >る。です。それでいつも、その、そのままの有り様を話し >ています。なんか、ム−ミンさんが学んだことを聞きたく >なります
私の場合は激しい怒りの中にいて、その激しい怒りをどうにかしようと躍起になっているとき、どういうわけか、ふと「自我」を見ました。知覚したといっていいのかもしれません。
それと同時に「無我」も見ました。そのとき「怒り」はもう「怒り」ではありませんでした。そして「怒り」と名づけていない感情は、静かに消えていきました。
この一連の過程で、過程と言っても、時間があったのかなかったのかよく解りませんが、とにかく自我=思考の全過程が、つまり思考がどのようにして生まれ、それが何を引き起こしているのかという理解がありました。そのときクリシュナムルティの言っていることがはじめて解りました。それ以来「怒り」は次第に萎んで、今はほとんど「怒り」というものがありません。また人のやっていることもよく見えるようになりました。
しかし、それで全部が終わったわけではないと思っています。何かの物事の関わりの中で、まだ感覚的な反応(思考・感情の反応)は生じますから。ただ、それが生じたときには、それが何かはわかるし、それを思考の介入なしに、つまり、否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察されているということはあります。 そうすると、完全にみられ、理解されたものについては、不思議とその後は、感覚的反応として生じません。「こんなことがあったな」という形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません。
>ほかの言い方をすれば。自我や欲望が、葛藤や心理的思考 >が、あったらいけない、なくあらねばならない。という観 >念も不要という意味です。そして、そう自覚してなくて >も、秩序があることを了解しています。ついでに怒っては >ならない、悲しんではならない、もありません。でも基本 >的には静かさが、いつもあります。
ええ、もちろん、あってもいい、あらねばならないというこでもないわけです。で、そういう否定も肯定も、正当化も非難も、受容も拒絶もないとき、つまり観念を持ち出していないとき、こころは静かだということでしょ?
>それは絶望と意識されることもできない絶望でした。どん >なことも人が出来ることは、そう出来るように、この世界 >が出来てるから、出来るだけ・・・ということを見ても、 >まさにそれから逃れられない、絶対不自由の状態でした。
ええ、まさに手段も目的も尽きたのでしょう。そのとき「命がけの跳躍」(キルケゴール)が起こったのでしょう。
>クリシュナムルティについても、ほとんど知りません。そ >れ関係の掲示板を見ると。なにか起きたことに命名しな >い、とか言いながら、どうでもいいことに「観察者は観察 >されるもの」とか「観察者のいない観察」とか命名して、 >それに多くの人が迷わされてる印象があります。
印象ではなくて、そのとおりです。すでに今まで書いてきましたが、「観察者は観察されるもの」の理解は概念的分析的理解で出来るものではないからです。それなのに知的アプローチをとってしまっているのです。これは洞察なのです。洞察とは、物事を瞬時に把握することです。
そして「観察者のいない観察」が始まるためには、「観察者は観察されるもの」という洞察が欠かせないのです。その観察の中で始めて、命名なしに物事が見られるということです。だから「観察者は観察されるもの」ということがわからないうちは、何を言っても、何をやっても、堂々巡りと矛盾に終わります。
4月上旬あたりにubikさんも投稿されていた、ヤフー掲示板の禅トピで、瓦を磨いて鏡にするという禅の公案の議論がありましたが、瓦を磨いても鏡にならないということ、それにせっせと励んでいるということがわからないと、先に進めないのではないかと思うのです。つまり自分に戻る、落ち着くということです。それに気づいたとき、瓦が鏡になっているということもあるのでしょう。
ここの掲示板でも、皆さんが、瓦を一生懸命磨いているという印象を持ちます。で、ubikさんは、瓦を一生懸命磨くことを勧める(「機能としての自我を使おう」)と同時に、そうしても鏡にはならないというか、その問題点を指摘されているように思いました。私は、瓦を磨いても鏡にはならないという指摘で十分だと思いましたが、まあ、対話の相手と状況にもよるのでしょう。
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No.695 - 2008/04/22(Tue) 10:32:30 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | > 私の場合は激しい怒りの中にいて、その激しい怒りをどうにかしようと躍起になっているとき、どういうわけか、ふと「自我」を見ました。知覚したといっていいのかもしれません。
> それと同時に「無我」も見ました。そのとき「怒り」はもう「怒り」ではありませんでした。そして「怒り」と名づけていない感情は、静かに消えていきました。
> この一連の過程で、過程と言っても、時間があったのかなかったのかよく解りませんが、とにかく自我=思考の全過程が、つまり思考がどのようにして生まれ、それが何を引き起こしているのかという理解がありました。そのときクリシュナムルティの言っていることがはじめて解りました。それ以来「怒り」は次第に萎んで、今はほとんど「怒り」というものがありません。また人のやっていることもよく見えるようになりました。
たしかに。怒りは滅多に経験できませんが・・・それは、流星のように明るく現れ、瞬時に消え去り、痕跡を残しません。その美しい怒りを、ほとんど忘我状態で見てる、と言っていいほどの現象です。そして怒ってた理由も失われてしまいます。
ム−ミンさんは、そんな怒りの光に照らされて、理解が起こったのかもしれません。もしかして公案の、「無」の字に成り切るように、怒りに成り切ったからかもしれません。というのも。なにかに自己同一することを嫌うと言っても、自己同一しきれない有り様に問題があるってことも、考えられます。
> しかし、それで全部が終わったわけではないと思っています。何かの物事の関わりの中で、まだ感覚的な反応(思考・感情の反応)は生じますから。ただ、それが生じたときには、それが何かはわかるし、それを思考の介入なしに、つまり、否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察されているということはあります。
> そうすると、完全にみられ、理解されたものについては、不思議とその後は、感覚的反応として生じません。「こんなことがあったな」という形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません。
そこで。それが、なぜそうなってるか?ということがあります。とりあえず「感覚的な反応(思考・感情の反応)」は、知覚できるときだけあるのでしょうか。もしかして、なにかの出来事、物事によって、それが無(潜在)意識から偶発的に引き出されて、見えるようになっただけかもしれません。隠された種から芽が出た、からかもしれません。
ならば、その隠された種は、根絶できるでしょうか。それが発芽するということは、実は、まだ理解されてない、たとえば非難や正当化などの理由がある可能性が否めません。だとしたら現れる度に「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られて」も、直接に解決に結びつくのは困難かもしれません。
それは・・・「形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません」。どうして、そうなのか。この理由に解決の糸口がありそうです。ここは、その人の経緯によって違うし、どう了解するかも人それぞれだし、複雑で微妙な話になります。
とりあえず自分のことを話します。それは、そうだと知らないで働いてる無知(無明)が、そうだと知らないで働いてる智恵に転換してるからです。これは知覚できる、実感できる、とある思考だけを、ある、と見ていては、理解は困難です。
それを無知が転換された智恵などと、勝手に呼んでいまが、それを自覚しないで自覚する。そうするのは、自覚できない自己。その自己にとっては、ありとあらゆることが・・・たとえば怒り、非難や正当、記憶が・・・単なる物質、身体、感覚、感情、意識という人の構成要素(素材)の運動です。それが人を成長させる触媒です。
それで、その素材は、触媒であり、無くなるということはないのです。ただ変わるのは、人、です。これは、あとの瓦の話に続きます。
> ええ、もちろん、あってもいい、あらねばならないというこでもないわけです。で、そういう否定も肯定も、正当化も非難も、受容も拒絶もないとき、つまり観念を持ち出し ていないとき、こころは静かだということでしょ?
じつは、心という言葉の意味が解りません。意識のことでしょうか。ふつうの静かな意識には、固定観念は無縁です。そういう名前ですが固定観念も、やはり運動だと思います。否定も肯定も、非難も正当化も、受容も拒絶も、運動でなければ、成立しないと思います。それが運動だということに気がつくことは大切です。
もしかして。そういう運動が、心理的時間と呼ばれているのでしょうか。自分は、意識の時間旅行、と呼んだことがあります。そうだとして、心理的時間のないことを、時間の終焉と命名することには疑問を感じます。やはり心理的時間の終焉と、表現したほうがいいと思います。
また。たとえば慈しみと憎しみ、怒りと冷静、非難や正当化、のように。なにかとなにかを、あることと反対のことというように、対極と見る。このことが、すでに、とんでもない誤解であり、問題です。
それはともかく、身体にいくつかの力の塊を感じています。その位置によって、感じることが違います。そして静かさは、胸の位置です。とくに波風が立ってないから静かというわけではなく、たとえ街を歩いていても、静か、という感覚が生じています。これは、だからなんだということではありません。
> ええ、まさに手段も目的も尽きたのでしょう。そのとき「命がけの跳躍」(キルケゴール)が起こったのでしょう。
キルケゴール、そんなことを言っていたのですか。彼の書は、読んだ時は意味が解りませんでしたが、自分が見たことだけを明確に話す姿勢が感じられ、それに惹き付けられました。
それはそれとして。自分の場合は、なんの切っ掛けもありませんでした。ふつうに部屋を歩いていて、突然に起こりました。たぶんもう、起こらざるを得ない、どうしようもない状態だったのではないかと思います。
> 印象ではなくて、そのとおりです。すでに今まで書いてきましたが、「観察者は観察されるもの」の理解は概念的分析的理解で出来るものではないからです。それなのに知的アプローチをとってしまっているのです。これは洞察なのです。洞察とは、物事を瞬時に把握することです。
> そして「観察者のいない観察」が始まるためには、「観察者は観察されるもの」という洞察が欠かせないのです。その観察の中で始めて、命名なしに物事が見られるということです。だから「観察者は観察されるもの」ということがわからないうちは、何を言っても、何をやっても、堂々巡りと矛盾に終わります。
もしかして堂々巡りと矛盾に終わるのは。クリシュナムルティが命名したことを、実体化して、対象として、考えてるのかもしれません。ただ、クリシュナムルティ関係の掲示板には、ほとんど、意識の限界に至ってる人を見かけます。
> ここの掲示板でも、皆さんが、瓦を一生懸命磨いているという印象を持ちます。で、ubikさんは、瓦を一生懸命磨くことを勧める(「機能としての自我を使おう」)と同時に、そうしても鏡にはならないというか、その問題点を指摘されているように思いました。私は、瓦を磨いても鏡にはならないという指摘で十分だと思いましたが、まあ、対話の相手と状況にもよるのでしょう。
いくら瓦を磨いても、鏡にはなりません。しかし、どんな瓦も触媒であり、鏡を磨く人は、鏡にならない、どんな瓦でもありません。それで鏡になったら、初めから人は鏡だった。もあり、磨く作業をした努力こそ、その人を鏡にした。もあり。です。ただの瓦。もあり。です。
たしかに、磨く(自分の有り様を理解する)ことを、お奨めしています。また、そういうことを実践してる人が、話しかけてくれます。それは、とことん触媒を活用することです。また、無(潜在)意識にある種を掘り返すことにも意味があるからです。
それは体験が起こったら、自分に起こったことを理解しやすいからでもあります。また深い理解が起こります。さらに悟ってもないのに生まれつき悟ったように思い込んでる(もとの言葉の意味はともかく)無事禅、自然外道の有り様に陥らない効果もあります。
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No.696 - 2008/04/22(Tue) 17:36:34 |
| ☆ Re: / ムーミン | | | >そこで。それが、なぜそうなってるか?ということがあります。とりあえず「感覚的な反応(思考・感情の反応)」は、知覚できるときだけあるのでしょうか。もしかして、なにかの出来事、物事によって、それが無(潜在)意識から偶発的に引き出されて、見えるようになっただけかもしれません。隠された種から芽が出た、からかもしれません。
>ならば、その隠された種は、根絶できるでしょうか。それが発芽するということは、実は、まだ理解されてない、たとえば非難や正当化などの理由がある可能性が否めません。だとしたら現れる度に「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られて」も、直接に解決に結びつくのは困難かもしれません。
おっしゃっている意味がよく解りませんが、まず、生きている以上は、さまざまな感覚が刻々と生じ、変化し、滅していくということがあります。もちろん、その感覚は知覚して初めてわかるわけですが、その知覚を解釈する者がいないということです。解釈者がいないことで、その感覚が問題視をされることはありませんし、名づけることも、制御されることもありません。したがって、心理的問題が発生しないということなのです。ただ変化していく感覚を静かにながめているだけなのです。もちろん、日常生活の必要に応じて、認識、命名することはありますが。それで何か問題ですか?
>それは・・・「形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません」。どうして、そうなのか。この理由に解決の糸口がありそうです。ここは、その人の経緯によって違うし、どう了解するかも人それぞれだし、複雑で微妙な話になります。
解釈者がおらず、感情的内容が機能しなくなることで、心理的問題はなくなりますが、そこのどこに問題がありますか?
>とりあえず自分のことを話します。それは、そうだと知らないで働いてる無知(無明)が、そうだと知らないで働いてる智恵に転換してるからです。これは知覚できる、実感できる、とある思考だけを、ある、と見ていては、理解は困難です。
「無明」の反対は、知恵ですが、より具体的にいえば「如実知見」ということです。「如実知見」というのは事実をありのままに見、知ることです。感覚の解釈者がいないとき、事実が何の歪みもなく見られます。「無明」とは虚妄分別ともいいますが、感覚を解釈、すなわち分別し、事実と空想を取り違えることです。この顛倒が苦しみを生むわけです。解釈者がいないことは、すでに転換があるのではありませんか?
もしかして、ubikさんは、ご自分は、意識も無意識も、それらの一切を理解し尽くした、とおっしゃっているのですか?
>それを無知が転換された智恵などと、勝手に呼んでいまが、それを自覚しないで自覚する。そうするのは、自覚できない自己。その自己にとっては、ありとあらゆることが・・・たとえば怒り、非難や正当、記憶が・・・単なる物質、身体、感覚、感情、意識という人の構成要素(素材)の運動です。それが人を成長させる触媒です。
>それで、その素材は、触媒であり、無くなるということはないのです。ただ変わるのは、人、です。これは、あとの瓦の話に続きます。
ええ、もちろん意識的に解釈しないようにすることが、解釈者がいないということではありません。解釈者がいないときには、肯定も否定も、非難も正当化も、受容も拒絶もありません。さらに、物質、身体、感覚、感情、意識への同一化もありません。ただあらゆるものの変化だけが知覚されます。
>じつは、心という言葉の意味が解りません。意識のことでしょうか。ふつうの静かな意識には、固定観念は無縁です。そういう名前ですが固定観念も、やはり運動だと思います。否定も肯定も、非難も正当化も、受容も拒絶も、運動でなければ、成立しないと思います。それが運動だということに気がつくことは大切です。
ええ、否定も肯定も、非難も正当化も、受容も拒絶もすべて、心理的な運動であり、心理的時間です。このことは「自我」と「無我」を見たとき、それがもたらす結果とともに、ありありとわかったでしょ?それで、静かな心というのは、心理的な運動がないということです。心が空っぽということです。
「自我」の持つ「思い」、すなわち観念、経験、知識など今までアイデンティティとしていたものが、すべてはがれると、心は「空っぽ」になります。これは「無我」を見たときに初めて把握できますよね。
たとえば、もし、それに恐怖を感じたとすれば、その「空っぽさ」から逃れる思考の運動が恐怖と呼ばれるものです。「空っぽさ」から一歩も動いていないときは、それはまったく静かで、また未知のものであるゆえに新鮮なものですよね。そのとき存在するものを、あえて言葉で表現するとすれば、状況に応じて、「真」であったり、「善」であったり、「美」であったり、「愛」であったりするということなのではないかと思います。これが本来の意味での宗教、芸術の源泉なのでしょう。これは心が静かでないとき、すなわち「自我」が機能している限りは決してわからないのではありませんか?それらを空想し、一時の慰め、満足に使うことはできるのでしょうが。
>もしかして。そういう運動が、心理的時間と呼ばれているのでしょうか。自分は、意識の時間旅行、と呼んだことがあります。そうだとして、心理的時間のないことを、時間の終焉と命名することには疑問を感じます。やはり心理的時間の終焉と、表現したほうがいいと思います。
時間の終焉というのは、どなたがおっしゃったのか知りませんが、もちろん心理的時間の終焉ということではないでしょうか。物質の生々流転の時間の意味ではないと思います。
>また。たとえば慈しみと憎しみ、怒りと冷静、非難や正当化、のように。なにかとなにかを、あることと反対のことというように、対極と見る。このことが、すでに、とんでもない誤解であり、問題です。
ええ、すべては心理的な運動です。したがって苦しみの流れの中にあります。「苦しみ」はサンスクリット語で「ドゥフカ」といいますが、原語の意味は「思い通りにならない」ということです。
>それはともかく、身体にいくつかの力の塊を感じています。その位置によって、感じることが違います。そして静かさは、胸の位置です。とくに波風が立ってないから静かというわけではなく、たとえ街を歩いていても、静か、という感覚が生じています。これは、だからなんだということではありません。
それはいわゆる、ヨーガでいわれるチャクラというやつで、身体の免疫中枢の場所でしょ?脳の神経中枢という中央集権的なシステムが静かになると、分散的な免疫系が活性化して、敏感に感じるようになってくるということはあるようですよ。胸のチャクラのことはラマナ・マハルシなどは「ハート・センター」などと呼んでいるようです。「静か」という感覚は私もよくわかります。
>もしかして堂々巡りと矛盾に終わるのは。クリシュナムルティが命名したことを、実体化して、対象として、考えてるのかもしれません。ただ、クリシュナムルティ関係の掲示板には、ほとんど、意識の限界に至ってる人を見かけます。
ええ、実体化、対象化それ自体が矛盾で、その帰結は堂々巡りなのです。「思考者」と「思考」の分離があるのです。
>いくら瓦を磨いても、鏡にはなりません。しかし、どんな瓦も触媒であり、鏡を磨く人は、鏡にならない、どんな瓦でもありません。それで鏡になったら、初めから人は鏡だった。もあり、磨く作業をした努力こそ、その人を鏡にした。もあり。です。ただの瓦。もあり。です。
ええ、ただ、私の言いたいことは「機能としての自我」を使う者と「自我」とは別のものなのかということです。それもまた自我の一部でしょう?「思考者」と「思考」と同じように。だから堂々巡りがおきる。それに気づくことで、手段も目的も尽きるのです。それで、それは手段も目的も尽きたときに、自分のしていたことがありありとわかる、ということなんです。
>たしかに、磨く(自分の有り様を理解する)ことを、お奨めしています。また、そういうことを実践してる人が、話しかけてくれます。それは、とことん触媒を活用することです。また、無(潜在)意識にある種を掘り返すことにも意味があるからです。
「無(潜在)意識にある種」は掘り返すというのではなくて、ただ気づいているとき、自然に掘り起こされてきませんか?その浮上を妨げているのが「自我」でしょ?
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No.698 - 2008/04/23(Wed) 11:30:42 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | > おっしゃっている意味がよく解りませんが、まず、生きている以上は、さまざまな感覚が刻々と生じ、変化し、滅していくということがあります。もちろん、その感覚は知覚して初めてわかるわけですが、その知覚を解釈する者がいないということです。解釈者がいないことで、その感覚が問題視をされることはありませんし、名づけることも、制御されることもありません。したがって、心理的問題が発生しないということなのです 。ただ変化していく感覚を静かにながめているだけなのです。もちろん、日常生活の必 要に応じて、認識、命名することはありますが。それで何か問題ですか?
ただ命名ということなら、なんであれ、名前の付けられないことに、名前を付けてるだけですから、どんな命名も問題ありません。ただ命名することで、たとえば非難、偏見するために、対象との、また自分との、分裂が起こってるなら、すでに自我が機能してるということで、問題です。
> 解釈者がおらず、感情的内容が機能しなくなることで、心理的問題はなくなりますが、そこのどこに問題がありますか?
まったく無問題です。心理的問題が発生しないことは祝福すべきことです。ただ、どうして心理的問題がなくなったのか?その仕組みを見ることで、さらに学ぶことができる、という提案です。
> 「無明」の反対は、知恵ですが、より具体的にいえば「如実知見」ということです。「如実知見」というのは事実をありのままに見、知ることです。感覚の解釈者がいないとき、事実が何の歪みもなく見られます。「無明」とは虚妄分別ともいいますが、感覚を解釈、すなわち分別し、事実と空想を取り違えることです。この顛倒が苦しみを生むわけです。解釈者がいないことは、すでに転換があるのではありませんか?
そうです。すでに転換、変容、成長があります。
> もしかして、ubikさんは、ご自分は、意識も無意識も、それらの一切を理解し尽くした、とおっしゃっているのですか?
あの体験は、まずは意識と無意識の融合でした。それが始まり、その過程、その完成を見ていました。いつもは暗黒の無意識の領域までが明るくなって、総てを見渡せました。超意識と呼んでいますが、そういう状態になりました。
それは思考が止滅したのではなく、すべての感情や思考が、全活動状態になったのです。火が消えたのではなく煙のでない完全燃焼。エンジンで例えるなら、無音の超高速回転です。すべてが活動してるから両極端にも中間にも、どこにも偏れないのです。その意味で中道です。その超意識が、まず、自我の仕組みを見ました。
そこからは、それは凄く単純でした。なにかを見たり聞いたり思考してるから、その中心が『予め』設定される。というだけでした。つまり先に自分があって、それが見たり聞いたり思考してるのではない、ということです。たとえば子供を叱る親がいます。親としては自分が子供を叱っています。しかし叱ることによって、自我が設定されてるだけです。その中心は虚構です。
そのことを自我の機能から言って。自我の肯定でもなく、否定でもなく、完成が無我です。と表現しています。それが完成したから、もう必要なくなったのです。欲望の機能が完成したから、もう必要なくなったのです。自我や欲望は、完成してないから機能しています。そんな自我や欲望は、自らを犠牲にして、人を成長させるという役目があるのです。でなければ、必要ありません。
そして欲望や自我が機能してるなら、倒錯(もしかして仏教用語では顛倒)してるということを見ました。物質、身体、感覚、感情、意識は、自己のためにあります。けど。倒錯してるなら、それが自己より重視されています。それを崇めています。逆立ちで人は生きています。
その逆立ちが不断に人を鍛えています。そのことが、たとえば生活や、知識や、信仰に依存、執着する、ということです。欲望と自我です。それが完成して、機能しなくしなくなって初めて、人が自覚できなくても、24時間倒錯してた、ことを見ます。それを見たら、自己が総ての主です。ただその自己を空想したら、それは自我の機能です。
くり返しますが、なにかの人の状態を求めて修行したのではありません。または自分に起こったことを、なにかの知識によって、解釈したのでもありません。なにかを止滅させたり、成り切ったりするのではなく、人の構成要素の全活動なので、人為的に起こすのは不可能です。
その意味で、方法はありません。しかし怠惰も勤勉も善も悪も、総てが方法であったのです。それまでの人生の、どんなことも不可欠です。ただ自分と思う自分を捨てるだけを行い、その捨ててきた総てが、活動してるのを見たのです。全否定が全肯定になりました。失っても、なにもなくならない、というのは、その意味でもあります。
> 「自我」の持つ「思い」、すなわち観念、経験、知識など今までアイデンティティとしていたものが、すべてはがれると、心は「空っぽ」になります。これは「無我」を見たときに初めて把握できますよね。
それで、「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」ではなく、機能が完成したということです。完成したパズルは、もう遊んだり悩んだりする意味がない。ようなことです。でも「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」という表現も、あり、と思います。おなじ三角錐でも、切る角度で、円、楕円、放物面、三角に見える、ということだと思います。
もちろん、中心は虚構ですが、自我の運動として機能するのは、ふつうの感情や、意識など人の構成要素(素材)です。自我が機能してる間は、その運動に惑わされてきました。けど。その素材の機能には、なんの罪というか問題はありません。たぶん、事実に事実でない判断をしたりすることが、問題なのかもしれません。そうでないなら過去を思っても、未来を思っても、なにかに拘わっても、無問題です。それを使おう、ということです。
> たとえば、もし、それに恐怖を感じたとすれば、その「空っぽさ」から逃れる思考の運動が恐怖と呼ばれるものです。「空っぽさ」から一歩も動いていないときは、それはまったく静かで、また未知のものであるゆえに新鮮なものですよね。そのとき存在するものを、あえて言葉で表現するとすれば、状況に応じて、「真」であったり、「善」であったり、「美」であったり、「愛」であったりするということなのではないかと思います。これが本来の意味での宗教、芸術の源泉なのでしょう。これは心が静かでないとき、すなわち「自我」が機能している限りは決してわからないのではありませんか?それらを空想し、一時の慰め、満足に使うことはできるのでしょうが。
そうです。自我が機能してれば、不思議を見ることが不可能です。ただ真善美はともかく。愛は、ただ愛です。ほかのどんなことの表現でもありません。それは自己を満たし、世界を満たして、溢れています。それは人が感じても、感じなくても、そうです。そして愛の発信源が、実在です。神と呼んでも大丈夫です。それは実在なので、人が信じる信じないには無関係です。
> それはいわゆる、ヨーガでいわれるチャクラというやつで、身体の免疫中枢の場所でしょ?
たぶん、チャクラの位置にあると思います。そういえば昔、くり返し背骨の両側を震える電気のような凄い快感が駆け上がったことがあります。そんなことも、どーでもよかったのです。起こったことは、すべて顧みなかったのです。
> ええ、ただ、私の言いたいことは「機能としての自我」を使う者と「自我」とは別のものなのかということです。それもまた自我の一部でしょう?「思考者」と「思考」と同じように。だから堂々巡りがおきる。それに気づくことで、手段も目的も尽きるのです。それで、それは手段も目的も尽きたときに、自分のしていたことがありありとわかる 、ということなんです。
自我の機能を使うのは、自我にはできません。いわゆる自我は、使われてる状態です。自己の執事です。それが主がいない間だけ、主の代理をできるだけです。お金に使われるな、使え、という感じかもしれません。くり返しますが、その使う主を感じるなら、空想であり、自我の機能です。
> 「無(潜在)意識にある種」は掘り返すというのではなくて、ただ気づいているとき、自然に掘り起こされてきませんか?その浮上を妨げているのが「自我」でしょ?
なにか邪魔なことを解消することは、たしかに学ぶことです。しかし、そうでない学びがあります。新たに見る、ということです。たとえば自分の体験は、神に繋がる経(たていと)系と思います。ほかの体験者から(よこいと)系、「世界はひとつ」の体験を知りました。その緯系の体験を、自我の機能を使って見ました。
この世界の姿、は経緯と思います。それで誰かが神を認める、と言っても。その通り、です。また誰かが、分離などなく世界はひとつ、と言っても。その通りです。
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No.701 - 2008/04/23(Wed) 18:50:45 |
| ☆ Re: / ムーミン | | | >ただ命名ということなら、なんであれ、名前の付けられないことに、名前を付けてるだけですから、どんな命名も問題ありません。ただ命名することで、たとえば非難、偏見するために、対象との、また自分との、分裂が起こってるなら、すでに自我が機能してるということで、問題です。
ええ、ずっとそのことを言っています。
>まったく無問題です。心理的問題が発生しないことは祝福すべきことです。ただ、どうして心理的問題がなくなったのか?その仕組みを見ることで、さらに学ぶことができる、という提案です。
「自我」を見ると同時に「無我」を見るとき、自我の全過程、つまり仕組みが見えませんでしたか?そのとき、その暴力性と破壊性がありありとわかりませんでしたか?そこまでいわないにしても、何かに能動的に働きかけることの無益さが。それを見ると、自然と分離をもたらす思考が働かなくなります。それが働かなくなると、今まで気づかなかったさまざまなこと、つまり無意識の部分も気づくようになります。
それでさまざまなものが生じては理解されて消えていきます。私はそれを「学び」と呼んでいます。ですから、私の場合は自我が機能しているうちは「学び」がないと、感じています。なぜなら知っていることを確認しているに過ぎないからです。同じところをぐるぐる回っているだけでしたから。それが自我の機能です。実際、自分の中で大手を振って自我が闊歩しているときがそうでしたから。「自我」と「無我」を見て初めて「学び」が始まるという感じです。まぁ、これはubikさんと私の「学び」という言葉の使い方の違いのようですね。
>それで、「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」ではなく、機能が完成したということです。完成したパズルは、もう遊んだり悩んだりする意味がない。ようなことです。でも「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」という表現も、あり、と思います。おなじ三角錐でも、切る角度で、円、楕円、放物面、三角に見える、ということだと思います。
そうですね。上記の「学び」という言葉の使い方の違いのように、言葉、表現の違いですね。了解。
>あの体験は、まずは意識と無意識の融合でした。それが始まり、その過程、その完成を見ていました。いつもは暗黒の無意識の領域までが明るくなって、総てを見渡せました。超意識と呼んでいますが、そういう状態になりました。
>それは思考が止滅したのではなく、すべての感情や思考が、全活動状態になったのです。火が消えたのではなく煙のでない完全燃焼。エンジンで例えるなら、無音の超高速回転です。すべてが活動してるから両極端にも中間にも、どこにも偏れないのです。その意味で中道です。その超意識が、まず、自我の仕組みを見ました。
ubikさんの体験はわかりました。私には意識と無意識に境界があるという感覚はなく、個人的な部分、集団的な部分もふくめ、ただまだ知られていない意識の部分があるという感覚なのですが、気づくようになってからは新しい発見がいろいろとあります。
ただ、どうなんでしょうか。「無意識の全領域を見渡した」っていうのは。人によっては意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みますから。あとは下の部分。「神」という言葉がでてきますが、これはどんなものを指し示す言葉ですか?人格神のような実体としての「神」ではないのでしょ?
>なにか邪魔なことを解消することは、たしかに学ぶことです。しかし、そうでない学びがあります。新たに見る、ということです。たとえば自分の体験は、神に繋がる経(たていと)系と思います。ほかの体験者から(よこいと)系、「世界はひとつ」の体験を知りました。その緯系の体験を、自我の機能を使って見ました。
>この世界の姿、は経緯と思います。それで誰かが神を認める、と言っても。その通り、です。また誰かが、分離などなく世界はひとつ、と言っても。その通りです。
ここで注意が必要だと思うのは、ubikさんも自覚的だとは思いますが、これが、つまり「神」や「超意識」が知っているものの投影である可能性もある、また、ユングがいうところの「自我インフレーション」という可能性もあるということですよね。「自我インフレーション」というのは無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型に自分を同一化する、それを自分の姿だと思ってしまうことです。これは宗教団体の教祖などによく見られる現象です。いずれにせよ、慎重さと注意深さが必要だということなのでしょうね。
ちなみに、過去の聖者といわれる人を見てみますと、完全な心理的な死とともに、実際にいったん、肉体的な死を経験し、そののち復活、蘇生するという事例がよく見受けられます。まぁ、人によってそれぞれのようなので、実際の「死と復活」が必ずあるということは一概には言えませんが。
>そうです。自我が機能してれば、不思議を見ることが不可能です。ただ真善美はともかく。愛は、ただ愛です。ほかのどんなことの表現でもありません。それは自己を満たし、世界を満たして、溢れています。それは人が感じても、感じなくても、そうです。そして愛の発信源が、実在です。神と呼んでも大丈夫です。それは実在なので、人が信じる信じないには無関係です。
ええ、ただ「愛は、ただ愛」であるにしても、自我が機能しているうちは、それがはっきり見えませんし、「神」と同様に、「愛」と思っていたものが実は偽者、つまりは空想の「愛」、知っているものの投影だったということもあるでしょうね。
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No.707 - 2008/04/24(Thu) 14:52:56 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | > 「自我」を見ると同時に「無我」を見るとき、自我の全過程、つまり仕組みが見えませんでしたか?そのとき、その暴力性と破壊性がありありとわかりませんでしたか?
ううん。超意識が見た仕組みだけです。その体験までに、ほかの体験もあり、捨てることが限界に達し(もう堂々回りの材料もなく)ただ生てることがあるだけ。どんなことにも執着しない状態になっていました。けど。どんなことにも執着してない、に執着してると微かに気がついてたと思います。
もしかして罪の燃焼ということなら、起こりました。それは倒錯からの解放。そして、どんな偏りも、じつは中道でしかない、ということです。極端もなく、中間もないのですから、どんな偏りも、善悪などとしての意味はないのを見ました。
ところで「自我」を見ると同時に「無我」を見る、その見た主体(変な言い方です)は何でしょう。また自我と、無我の関係は、どうなっていましたか。これを聞くことは随分、役に立つと感じます。
> それでさまざまなものが生じては理解されて消えていきます。私はそれを「学び」と呼んでいます。
それは、それまでは見えなかったことが、あるとき見えるようになっていく、ということなのでしょう。それで。まだ理解され消えてない「さまざまなもの」は、どういう理由で、まだ生じてない時は、まだ生じてないのだろう、と思います。また。理解され、消えていったことは、どうなるのだろう、と思います。ここに興味があって、ム−ミンさんに、しつこく質問してるんです。 > ただ、どうなんでしょうか。「無意識の全領域を見渡した」っていうのは。人によっては意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みますから。あとは下の部分。「神」という言葉がでてきますが、これはどんなものを指し示す言葉ですか?人格神のような実体としての「神」ではないのでしょ?
「人によっては意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みますから」これは空想、投影でないのなら、面白い見方です。それで、この世界のシステムを、そう見るとして、なぜ世界が、そう仕組まれてるのか?について話してる誰かを知ってるでしょうか。
神。実在。たとえば髭を生やした白い服を着た神ではありません。そういえば仏陀から見られた、これが回心だという記述を、どこかのサイトで見たことがあります。そうであれば、自分が自分を見るという不可能を可能にするために、自分の外に仮設された視点なのかもしれないと思います。それでも、そこに留まらなければいいのだろう、と思いました。というのも、なんであれ触媒です。 > ここで注意が必要だと思うのは、ubikさんも自覚的だとは思いますが、これが、つまり「神」や「超意識」が知っているものの投影である可能性もある、また、ユングがいうところの「自我インフレーション」という可能性もあるということですよね。「自我インフレーション」というのは無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型に自分を同一化する、それを自分の姿だと思ってしまうことです。これは宗教団体の教祖などによく見られる現象です。いずれにせよ、慎重さと注意深さが必要だということなのでしょうね。
たしかに。まず素直でなければ、見ることはできないと思います。ところで。「無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型」これ、実際にあるんでしょうか。空想なのでしょうか。あるとして、それに「自分を同一化する」ことが問題、という意味なのでしょうか。
> ええ、ただ「愛は、ただ愛」であるにしても、自我が機能しているうちは、それがはっきり見えませんし、「神」と同様に、「愛」と思っていたものが実は偽者、つまりは空想の「愛」、知っているものの投影だったということもあるでしょうね。
そうです。ある感情を愛と呼んでしまうこともあります。また自我が機能してる間も、愛について、理念的には、現実の生活を透かして見る、ことはできます。たとえば慈しみにも、憎しみにも、どんな状態にも関係なく、愛は愛と。そしていろいろ説明することも可能です。でも、そうできたことは、その時は、ちょっと嬉しい経験でした。
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No.708 - 2008/04/24(Thu) 20:00:47 |
| ☆ Re: / ムーミン | | | >ところで「自我」を見ると同時に「無我」を見る、その見た主体(変な言い方です)は何でしょう。また自我と、無我の関係は、どうなっていましたか。これを聞くことは随分、役に立つと感じます。
これもすでにずいぶん説明してきたのですが、これは心理的な意味での「見る主体」ということですね?心理的な意味での解釈者、認識主体はありません。それが意識されない。ただ知覚があるだけです。知覚を再認識はしない。もし「超意識」のような「見る主体」が意識されていたとすれば、すでにそれは解釈者の産物でしょう。ただ知覚があるとき、「自我」であったものは瞬時に転換しています。その知覚だけがあるときを「無我」と呼べば、そう呼べるだろうということです。
>それは、それまでは見えなかったことが、あるとき見えるようになっていく、ということなのでしょう。それで。まだ理解され消えてない「さまざまなもの」は、どういう理由で、まだ生じてない時は、まだ生じてないのだろう、と思います。また。理解され、消えていったことは、どうなるのだろう、と思います。ここに興味があって、ム−ミンさんに、しつこく質問してるんです。
伝わっていなかったようですね。自我が機能しなくなると、つまり解釈者がいなくなると、無意識が開示されてくる、あるいはすでに開示されてはいたが、それが自我によって歪んでいたことなどが、わかってくる、ということがありませんか?そして、それらが理解され消えていくことで、それは再び感覚として生じないということがあるでしょう?人や物との関わりの中で、自我としては機能はしないけれども、さまざまな感覚的反応が生じるでしょ?それが知覚の機能によって、言い方は変かもしれませんが、どんどん供養されていく、ということなのですが。
今までの分とあわせて、これでも伝わらないとすれば、何か特定の体験でも想定されて質問されているのでしょうか?たとえば「超意識」の体験とか、「神」の体験とか?
>神。実在。たとえば髭を生やした白い服を着た神ではありません。そういえば仏陀から見られた、これが回心だという記述を、どこかのサイトで見たことがあります。そうであれば、自分が自分を見るという不可能を可能にするために、自分の外に仮設された視点なのかもしれないと思います。それでも、そこに留まらなければいいのだろう、と思いました。というのも、なんであれ触媒です。
ええ、イエス・キリストを見るとか、仏陀を見るという体験は、知っているものの投影でしょう。意識、無意識を問わず、知っているものしか見ない。
>たしかに。まず素直でなければ、見ることはできないと思います。ところで。「無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型」これ、実際にあるんでしょうか。空想なのでしょうか。あるとして、それに「自分を同一化する」ことが問題、という意味なのでしょうか。
ubikさんのされた体験というのは、人によって、その出来事の解釈に多少の違いはあるようですが、いわゆる至福感をともなう「意識の拡大」と一般的に呼ばれている現象です。これは何の前触れもなく起こることもありますが、ヨーガの呼吸法や覚醒剤で人工的に起こすことも出来るもので、ドーパミンなどの脳内物質による感覚的なもののようです。
その時、その感覚の解釈者がいなければ、それはただ生じ、展開され、消えていくだけですが、解釈者が現れると、その感覚を解釈し、命名し、同一化するという一連の自我の機能、過程が始まり、その感覚に捕らわれますよね?その結果、その体験が重要なものとなったり、貴重なものとなったりします。あるいは人によっては、その体験をかたくなに否定するかもしれません。そして、そのことが当人に意識されないということです。つまり、無意識、無自覚だということです。元型というのは実際にあるのかないのかということではなく、心理現象を説明するための単なる概念です。
それで、その感覚に捕らえられて、それが知覚されていないと、「超意識」や「神」の体験が批判されたり、否定されたり、何らかの妨害に出会うとき、あたかも自分が否定されたように不快感を感じ、攻撃的になったりするということです。「同一化」の問題とはこういうことですね。
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No.709 - 2008/04/25(Fri) 10:39:55 |
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