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自己 / ばん
自己がある、ない 自己は見るだけしか出来ない存在(それが自己か確定できないけど)

我がなければ、自我も機能しないはずなのですが、自我があるように思えてしまいます。
過去の記憶の反応として思考する、思考すると思考する我が発生します(これは自我ですよね)
私が我を捨て切れてないので自我が機能するのですか?
うびさんは、昔の記憶の反応として自我が発生しますか。?

完全に今の瞬間にあればいい、とよくいろんなとこで見ますがうびさんはそういうような生活をしていますか?

自我の機能で自分にも社会的にも善いことってありえますか?

No.599 - 2008/04/05(Sat) 09:29:44

Re: 自己 / ばん

> 我がなければ、自我も機能しないはずなのですが、自我があるように思えてしまいます。
> 過去の記憶の反応として思考する、思考すると思考する我が発生します(これは自我ですよね)

これってなんかわけわかんないですよね、
何を聞きたいのかわからなくなってしまいます。

人と話しているとき「あーこれ自我が機能しているなー」って思うのですが、それで、どうしたらよいのかを聞きたいですお願いします。

No.600 - 2008/04/05(Sat) 09:39:48

Re: 自己 / ばん
「あーこれ自我が機能してるなー」って思考することが自我が機能しているって事ですか?あー頭が爆発しそう
No.601 - 2008/04/05(Sat) 10:05:56

Re: 自己 / ubik0101
>人と話しているとき「あーこれ自我が機能しているなー」って思うのですが、それで、どうしたらよいのかを聞きたいですお願いします。

あまり複雑に考える必要はありません。とりあえず無我から説明してみます。たとえば、「あーこれ自我が機能しているなー」というのは、無我の観察、とも言えます。というのも、感情や意識は、ただ機能するだけ、そして、それだけしか知覚できない。のではないでしょうか。

そのことを、さらに思考しても、そのことしか、見えないのではないでしょうか。たとえ人と話してて、嫌な感情が生じても、それしか知覚できない。そうしてる主体が設定されてない、のではないでしょうか。それは、そのまま自己が知覚できないことの了解です。無我の働きです。しかし、これも、ある意味、 極端な片寄りです。

そんな無我、無自覚の自己にさえ拘わらなくなると・・・自我もなければ、無我もない。もちろん、無我もなければ、自我もない。です。ただの人です。

そうでないならば。どんな感情や意識も、世界の機能であり、不思議であり、それがなんであるか、誰も知らないということ。また、分離と融合、どちらでもないこと。たとえば無我の実感も、愛の実感も不要なこと。時間空間の解釈・・・そういう、まだ発見されてないことが、発見して欲しくて、ばんさんの、いまの過渡期な状態を招いてるのかもしれません。

No.602 - 2008/04/05(Sat) 10:33:25

Re: 自己 / ばん
> >人と話しているとき「あーこれ自我が機能しているなー」って思うのですが、それで、どうしたらよいのかを聞きたいですお願いします。
>
> あまり複雑に考える必要はありません。とりあえず無我から説明してみます。たとえば、「あーこれ自我が機能しているなー」というのは、無我の観察、とも言えます。というのも、感情や意識は、ただ機能するだけ、そして、それだけしか知覚できない。のではないでしょうか。
>
> そのことを、さらに思考しても、そのことしか、見えないのではないでしょうか。たとえ人と話してて、嫌な感情が生じても、それしか知覚できない。そうしてる主体が設定されてない、のではないでしょうか。それは、そのまま自己が知覚できないことの了解です。無我の働きです。しかし、これも、ある意味、 極端な片寄りです。
>
> そんな無我、無自覚の自己にさえ拘わらなくなると・・・

思考を無視するって事ですか?

自我もなければ、無我もない。もちろん、無我もなければ、自我もない。です。ただの人です。
>
何も考えずただの生き物だと思えばいいですか?

そうでないならば。どんな感情や意識も、世界の機能であり、不思議であり、それがなんであるか、誰も知らないということ。また、分離と融合、どちらでもないこと。たとえば無我の実感も、愛の実感も不要なこと。時間空間の解釈・・・そういう、まだ発見されてないことが、発見して欲しくて、ばんさんの、いまの過渡期な状態を招いてるのかもしれません。

んー何も考えるな世界は知ってるようで、知らない事がほとんどだ、何も知らない、知らないままがいいというような感じに思えてくるのですだ。

No.603 - 2008/04/05(Sat) 11:37:49

Re: 自己 / ubik0101
>思考を無視するって事ですか?

それは。思考が生じても生じるままに任せるという
意味での「思考を無視」すればいい?という質問でしょうか。
そうだとして、
その思考してる自分は、いる、のでしょうか。

または。なにか思考が生じます。
その生じた「思考を無視」する、追い払えばいい?という質問でしょうか。
そうだとして、
追い払う自分は、いる、でしょうか。

それで、いる、というのは、自我と呼ばれます。
それで、いない、というのは、無我と呼ばれます。

ところで。無我の体験。
そのときにも意識はあったでしょう。
その有り様は違うけど、思考できたでしょう。

そして、日常に戻り
それからが、学ぶことの始まりです。

ふつの日常では、自我もなければ無我もない、ではありませんか。

>何も考えずただの生き物だと思えばいいですか?

なにも考えないなら、ただの生き物、とも思えないでしょう。

>んー何も考えるな世界は知ってるようで、知らない事がほとんどだ、何も知らない、知らないままがいいというような感じに思えてくるのですだ。

なにを考えても、考えなくても、
そもそも、それが、
なにかも、知りません。
思考がないのが、良いのではありません。

それまでは、たとえば思考に使われてた、かもしれません。
しかし、それからは、思考を使うのです。

No.604 - 2008/04/05(Sat) 13:46:37

Re: 自己 / ばん

>
> それで、いる、というのは、自我と呼ばれます。
> それで、いない、というのは、無我と呼ばれます。

自我と無我の意味がわかりました。ありがとうございます

> ところで。無我の体験。
> そのときにも意識はあったでしょう。
> その有り様は違うけど、思考できたでしょう。
>
> そして、日常に戻り
> それからが、学ぶことの始まりです。
>
> ふつの日常では、自我もなければ無我もない、ではありませんか。
>

日常ってあの体験の起こる前のことなんですね

> >んー何も考えるな世界は知ってるようで、知らない事がほとんどだ、何も知らない、知らないままがいいというような感じに思えてくるのですだ。
>
> なにを考えても、考えなくても、
> そもそも、それが、
> なにかも、知りません。
> 思考がないのが、良いのではありません。
>
> それまでは、たとえば思考に使われてた、かもしれません。
> しかし、それからは、思考を使うのです。


あの体験の後、忘れっぽくなって自分がどう変わったのか思い出せません、でも思考が脳の勝手な働きで考えだす、ということはわかりました、あと、自己が何とも言い表せないものだったというのも、何を学べばよいかわかりりませんが
うびさんの投稿に質問しながらやっていきます、
ありがとうございます

No.605 - 2008/04/05(Sat) 14:19:17

Re: 自己 / ubik0101
>日常ってあの体験の起こる前のことなんですね

その後、そうである、この日常を意識することができると思います。

>あの体験の後、忘れっぽくなって自分がどう変わったのか思い出せません、でも思考が脳の勝手な働きで考えだす、ということはわかりました、あと、自己が何とも言い表せないものだったというのも、何を学べばよいかわかりりませんがうびさんの投稿に質問しながらやっていきます、

その前を、思い出すのは困難と思うことも、たしかにありました。そして自己は、なんとも、これとも、意識では掴めないのだけど。たとえば泥の沼に咲いた蓮の華の、香りです。

No.606 - 2008/04/05(Sat) 14:56:05
知覚。 / ubik0101
ところで時間が、たとえば過去・現在・未来と均質に連綿と流れるとしたら、どうして、総べてと一緒に流れてる時計の、秒針は時を刻めるでしょう。どうして一緒に流れてる人が、その時計を見たり、部屋の外を走る電車の音を聞いたりできるでしょう。

そんな。わけわからない時間を、連綿として持続したものとして、解釈しないと、自我は、成立しないでしょう。つまり時間の、自我による解釈が、過去・現在・未来という線的な時間。たとえば過去の思考や、出来事と、未来の思考や出来事が、連綿としてると思い込まされてなければ、欲望も機能しないでしょう。

たとえば端的に言って。今日の自分と、明日の自分が、連続してないなら、なにかが欲しいとか、欲しくないとかいっても、とくに意味を見出せないのではないでしょうか。これが自我が機能してないなら、執着に巻き込まれないことの、ひとつの説明と思います。

そうであれば、今。この瞬間に生起する、思考や出来事。つまり総ての現象は、ここで、この瞬間に消滅してると、表現できます。そして、そんな今。は知覚できません。そうすると過去も未来も知覚できません。それは知覚できないというだけです。だからといって、時間が、ない、ということではありません。

おなじように、空間として。眼や耳の五感と意識の作用しか機能してないと(つまり無意識にも隠し事がなく素直だと)。その五感と意識の作用だけです。そのことを、見る主体も、対象もない。と表現できるだけで、それは、いわゆる無我に片寄った見方と思います。自我にも、無我にも片寄らない、それが日常ではないでしょうか。

No.596 - 2008/04/03(Thu) 13:31:03

Re: 知覚。 / hato


> ところで時間が、たとえば過去・現在・未来と均質に連綿と流れるとしたら、どうして、総べてと一緒に流れてる時計の、秒針は時を刻めるでしょう。どうして一緒に流れてる人が、その時計を見たり、部屋の外を走る電車の音を聞いたりできるでしょう。


時間は、出来事に対して縦方向に流れている、ともいえる、
だから、過剰に自我に囚われている場合、縦に掘り下げる、といえるのでしょうか?

なにかの思考を捉えたときに自我が機能し、それは、無理に持続させなければ、とくに問題がないということでしょうか。仮の自己にとっては必然的に、現在過去未来が生起するといってよいでしょうか?


> そうであれば、今。この瞬間に生起する、思考や出来事。つまり総ての現象は、ここで、この瞬間に消滅してると、表現できます。そして、そんな今。は知覚できません。そうすると過去も未来も知覚できません。それは知覚できないというだけです。だからといって、時間が、ない、ということではありません。

No.597 - 2008/04/04(Fri) 08:26:39

Re: 知覚。 / ubik0101
あるいは自我から見て、あるいは無我から見て、時間空間の解釈が変わる。その解釈の表現を詮索するより、自我が機能してるなら、自我の探究が、大切、ということを投稿しました。

そして、いわゆる無我の時間空間の解釈も、面白くはあるけど、ただの解釈ではないか?そして自我もなければ無我もない、であれば、そういう時間空間の解釈にも捕われない。という指摘をしました。けど。hatoさんの投稿を見て、時間の解釈には結構、実用的な意味も感じました。

>時間は、出来事に対して縦方向に流れている、ともいえる、
>だから、過剰に自我に囚われている場合、縦に掘り下げる、といえるのでしょうか?


どんなことでも、とくに自分の思考の前提の前提・・・と、可能な限り掘り下げることは、訓練するための負荷になる。という意味で、そうです。

>なにかの思考を捉えたときに自我が機能し、それは、無理に持続させなければ、とくに問題がないということでしょうか。仮の自己にとっては必然的に、現在過去未来が生起するといってよいでしょうか?

必然的かは解りません。ただ、自我にとっては、現在過去未来が連続してると解釈することは、非常に都合がいいのだと思います。なにかを自分勝手な思考をするとしても、現在過去未来の連続が前提になってなければ、思考の意味も失われるからです。

たとえば、誰かと嫌な出来事があったとして。だから、恨む・・・だから、気まずい・・・その、だからという思考は。やはり自分勝手な、現在過去未来の連続が、前提にされているのでしょう。それは時間に使われてるのでしょう。

そうでなければ、そんな自分勝手な思考すること自体が、無意味になります。もともと、そんな時間に使われてなければ、最初から、恨むとか、気まずい、とかも生じません。

「なにかの思考を捉えたときに自我が機能し、それは、無理に持続させなければ、とくに問題がないということでしょうか」。 そう意図しなくても、時間に使われなければ、自然に、そうなるという意味で、そうです。

また。自我が機能してても、誰かと約束して、困難があっても、守ろうとするとします。嘘を言わないようにするとします。それは、ある限定された意味かもしれませんが、現在過去未来の連続だとしても、計らずも、時間を使おうという姿勢を学んでるのだと思います。

なんか、うろ覚えですが趙州の言葉「わたしは12時を使いうる」を思い出しました。

No.598 - 2008/04/04(Fri) 10:02:48
ウソをつく / peer
>なにか世界が歪んでしまうという恐いほどの違和感が襲って
>きました。たとえ友達のためにも、嘘をついてはいけない、
>そう思ったのだと思います。


どうなんでしょうね。
表面的には「友達の為にウソをついた」ように見えますが
自分を守るために、ウソをついてしまった。
のではないでしょうか。
だから、恐怖が現われたのではないか、とも思うのですが。
もし、完全に友達の為だったのであれば・・・
まあ、それほどに。
人は「人の為」という行為が、出来難い。
とも言えそうな気がします。

No.577 - 2008/03/27(Thu) 09:42:04

Re: ウソをつく / ubik0101
その場合。嘘をつくことが、
どうして自分を守ることになるのでしょう。

たぶん、peerさんは。友達が鴨を持って行ったよ、
と言えば。あとで友達から恨まれる、
という空想をしたと指摘しているのでしょうか。
それなら違います。

この自分が、自分でない
(この現実が、この現実でない)と言うのですから、
嘘をつくということ、
そのこと、
それだけで、自分を失うほどの恐怖です。

No.578 - 2008/03/27(Thu) 10:16:11

Re: ウソをつく / peer
そういうことなんですが。

自分で自分を守ろうとしたんですよね。
自分が自分でないことを怖れたんですよね。
自分で自分の認めている世界が壊れてしまうことを怖れた。
んですよね。

つまり、自分を失うことは恐怖。なんですね。

No.579 - 2008/03/27(Thu) 13:40:48

Re: ウソをつく / ubik0101
どうであれ。その頃は、自我は、まだ未発達でしょう。嘘を言うと、現実が、現実でないことになる、つまり自分勝手な現実をつくる(それが自我になるので)それが恐かったのでしょう。

それで。ふつうに嘘を言うことが恐くないということは、自我であることが平気だからなのでしょう。嘘を言って自我であることは(自己でないことは)、恐怖ではないでしょうか。

No.580 - 2008/03/27(Thu) 14:16:39

Re: ウソをつく / peer
うーん。
そのくらいの小さな子供は、あんがい簡単に
ウソをつくものです。
ちょっと怖そうな状況になると
その場しのぎの、すぐにバレるだろう
と思われるようなウソをつく。
先のことを読めないですからね。
ウソを言えるようになったら、自我が
出来始めたと判断できる・・・
などと児童心理学では、言っているようです。

そしてまた、そのくらいの子供には
友達も自分も、さほど区別はないようで。
友達の負は、自分にとっても負だと感じる
こともあるように思います。
相手の痛みを自分の痛みのように感じるとか。
すべての責任を自分で背負ってしまうとか。
だから子供といると、人は癒される〜
のかしらね。

No.581 - 2008/03/28(Fri) 00:39:43

Re: ウソをつく / ubik0101
ところで。 その小川の側の、たんぼの用水路には、フナの稚魚が、無数に泳いでいました。あるとき、その友達と、網で、たくさん捕りました。すると友達は、いつの間にか一緒に使ってたバケツを、自分の家に持って帰ってしまいました。

あとで、家に見に来いと言います。すると水浴び用の、大たらいに一杯、フナの稚魚が泳いでいました。その友達の親は、佃煮にするとか言います。それを見て思いました。これはなにか違うかもしれません。半分は、自分が捕ったのではないだろうか・・・。

まあ自他の区別がないと、誰のものでもない、があるでしょう。みんな自分のもの、と思うこともあるでしょう。みんな君のもの、もあるでしょう。また自他の区別があれば、半分半分、もあるでしょう。また、みんな自分のもの、もあるのでしょう。みんな、君のもの、もあるでしょう。

ところで、たとえばフナの稚魚のような理不尽なことをされる。だから懲りる。もあるでしょう。だからがなく、懲りない。もあるでしょう。また嘘を言われて。だから、自分も嘘を言っても、いい。もあるでしょう。だからがなく、よくない。もあるでしょう。そういうことがありそうです。

No.582 - 2008/03/28(Fri) 08:58:48

Re: ウソをつく / hato


peerさんは、皆が学ぶ為に、
いつもそのように言われるのでしょうか?


> ところで、たとえばフナの稚魚のような理不尽なことをされる。だから懲りる。もあるでしょう。だからがなく、懲りない。もあるでしょう。また嘘を言われて。だから、自分も嘘を言っても、いい。もあるでしょう。だからがなく、よくない。もあるでしょう。そういうことがありそうです。


それは、関係性とは無関係にあること、
といってよかったでしょうか。


改めて、隣人を愛す、ということについて、
敏感さが必要です。
適切か、否か。
これはすべてにいえるのでした。

協調する、とはどういうことか、よく考えてみなさい、

と言われたことがあります。
自分をごまかしながら人に合わせるなら、
それはとても違うのです。
どんなに微妙なことでも、判らないほど、鈍らせてはいけませんでした。

自分と他人にとって何が適切なのか、
日々学ばせて頂いてます。

No.583 - 2008/03/28(Fri) 23:04:45

Re: ウソをつく / hato

Peerさん。
表現が悪かったでしょう、
ごめんなさいね。

なぜ、そう思ったかというと、

「嘘をついたとき、世界が歪むほどの恐怖を感じた」
ということ。
正直、そこまで徹底した自己の感覚を、
まだ眩しく感じるしかないけれども、
もし同じものを了解しているなら、
peerさんの反応を不思議に感じるときがあるからです。

なのでそれは、もしかして、よくわからない不思議な様相?をことさら私たちに喚起させる為に、
常になにかはずされる表現をされるのでしょうか、
とふと思ったということでした。

もし、回収され得るようなものなら、
それこそ、きっと自己では、ありませんもんね?
ありがとう、
この場面できっと、私は表現しなければならなかったのです。
また、お話、して下さい。

今日はねー、
とてもよい春日和。
鶯の素敵な声を聞きながら、朝寝坊、しました。
窓の外の木にとまって、
餌を探しながら、全身を膨らませて、ほんとにいい響きで鳴きました。
春風の祝福。
皆さまもきっと、たくさん、頂いているのでしょうね。

No.585 - 2008/03/29(Sat) 19:33:48

Re: ウソをつく / 大阪
peerさんは、心理学的な所から自分を知ろうとしているのではないでしょうか。

こないだの
>自分は何かに苦しむのに、他の人は苦しまない。
>としたら、自分の中の何が反応するのか。
>ど、自分の中を見る。。。ですよね。
>そして、どうして他の人は無反応でいられるのか。とも。


コレは、自分は心理学的なことが気になるのに、どうして他の人は気にならないのか、ということも含んでいるのではないでしょうか。(ちゃうかもしれませんが)

もしそうなら、自分を知る、というのは心理を探求することばかりではないと思います。

では他に何なのか、と聞かれても、僕は分からないです。良ければうびさん、教えてください。

No.586 - 2008/03/29(Sat) 23:23:48

Re: ウソをつく / ubik0101
>それは、関係性とは無関係にあること、
>といってよかったでしょうか。


そう思います。なにかの出来事を、理不尽として看做して、それを原因として・・・懲りるとか、警戒するとか、怒るとか、我慢しようとか、相手を望ましい時だけ利用しようと思うとか・・・いう結果になる、ということには必然性がありません。

そういう結果になったのは、こういう理不尽な原因があった、と後づけで、思うことができるだけではないでしょうか。それは、その時すでに機能してる自我の判断でしょう。なにかの出来事が、自我があることを露にして見せてくれるとも言えます。

そういう自我を解決してれば、なにかの出来事を、理不尽だ、相手には何かの理由があるのだ、などと様々に判断をしても、しないでも、だから、こうする、どうしない、とかには依存しないでしょう。

No.522のhatoさんの投稿を思いました。

>それでも、出来事、といえるすべては、
>ただそのようであった、としかいえないこと、
>ではないでしょうか。


きっと出来事。そして偽善も、嫉妬も、傲慢も、卑下も、慈しみも、憎しみも、また無関心も・・・あることと、類似なことと、反対なことと、無関係なこと、総てがそうかもしれません。

No.587 - 2008/03/30(Sun) 08:24:26

Re: ウソをつく / ubik0101
>もしそうなら、自分を知る、というのは心理を探求することばかりではないと思います。

>では他に何なのか、と聞かれても、僕は分からないです。良ければうびさん、教えてください。

なにがなんでも、自分を知りたい、という衝動がなければ、なにを学んでも無駄と思います。そして、衝動があれば。それだけで充分と思います。そうすると、総てが、そのために機能してくれます。たとえば怠惰なことも、勤勉なことも、善も、悪も。役に立ちます。この日常で充分です。

どうすれば、そんな衝動が持てるのか疑問に思うかもしれません。けど、実際は、自分を知りたくない努力をすることは、ほとんど絶対に不可能です。というのも自分を知りたくない努力・・・それが自我とか欲望として現れる・・・それこそ自分を知るための手段なので。どうであれ、総ての人が、自分を知るために生きてると思います。

たぶん、自分を知りたくない努力をすること、それが苦痛です。そして自分を知る努力をすることは、ずっと楽なことだと思います。迷いがあれば解放は必然です。だからことさらに、人は、悩みを好む面もあるのかもしれません。

No.588 - 2008/03/30(Sun) 08:28:23

Re: ウソをつく / peer
大阪さんの言うところの
「美女に出会うと色々と苦しめられるのです」
というのは、とりあえずの現象を「美女に」と
表現しているだけで、問題は美女ではない。
だろう、と思ってました。

苦しめるのは、美女だけでなく、お金だったり
仕事だったり、家族とか、、人それぞれで。
それが、まあ。
>自分は何かに苦しむのに、他の人は苦しまない。
>としたら、自分の中の何が反応するのか。
>ど、自分の中を見る。。。ですよね。
>そして、どうして他の人は無反応でいられるのか。とも。


何が自分を苦しめるのか・・・。
で、それを確認してみようとしてのヨコレスでした。
余所見させてしまったなら、ごめんなさい。です。

No.589 - 2008/03/31(Mon) 13:38:24

Re: ウソをつく / 大阪
> なにがなんでも、自分を知りたい、という衝動がなければ、なにを学んでも無駄と思います。そして、衝動があれば。それだけで充分と思います。そうすると、総てが、そのために機能してくれます。たとえば怠惰なことも、勤勉なことも、善も、悪も。役に立ちます。この日常で充分です。

本当に勉強になります。そらそうだ、ということを良く気付かさせて頂いています。

>どうであれ、総ての人が、自分を知るために生きてると思います。

> たぶん、自分を知りたくない努力をすること、それが苦痛です。そして自分を知る努力をすることは、ずっと楽なことだと思います。迷いがあれば解放は必然です。だからことさらに、人は、悩みを好む面もあるのかもしれません。

そうですね。自分を知りたくない努力をしているということは、本当は自分を知るために生きている、のでしょう。日常を使って成長すれば良いのですね。だんだんわかってきたように思います。また質問させて下さい。

No.590 - 2008/03/31(Mon) 21:07:24

Re: ウソをつく / 大阪
peerさん。
そうです、美女に苦しめられるということは、他にも色々苦しいのです。

確かに、自分が何に苦しんでいるか、知らないといけないですね。

というか、それを知ることが、自分を知ること、のような気がします。

No.591 - 2008/03/31(Mon) 21:13:11

Re: ウソをつく / ルー
美女に楽しまされるということもあるよね〜
No.592 - 2008/04/01(Tue) 15:19:22

Re: ウソをつく / 大阪
ありますね。
でも美女はあまり人を楽しませようとしないですよね。

No.593 - 2008/04/02(Wed) 11:51:26

Re: ウソをつく / ルー
美しいものを見るのは楽しくないですか〜?
No.594 - 2008/04/02(Wed) 12:03:41

Re: ウソをつく / 大阪
美しいものを見るのは楽しいです。
美しくないものを見るのは困難です。

No.595 - 2008/04/02(Wed) 13:36:05
難しいです。 / 大阪
うびさんこんばんは。

美女に出会うと色々と苦しめられるのです。

しかし。

コレは、美女を美女と判断した、自分に執着している、ということなのでしょうか。

美女の正体は空。そう判断した自分も空。

なのに自分の感覚で感じた女を美しいと判断した意識。

それを確かだ、と思ってるから美女が美女でしかなくなるのでしょうか。

そしてそれによって苦しめられることになるのでしょうか。


本当は、そうではなく。

その意識の判断と、それを確実だと思う自分、は、誤り。
(でもその誤りは、どんな誤りも許されてる)

そんな、意識の判断も、それを確実だと思う自分も、正体は、空。

なのに、自分だと思ってしまうから、色々限定されてしまう。


本当は空であるこの意識を、自分と思ってしまうのは、それを成り立たせている前提に気づいていないから。

と、僕なりに、こんな感じになったのですが、違うでしょうか?

No.543 - 2008/03/22(Sat) 20:52:12

Re: 難しいです。 / ubik0101
たとえ意識が自分であろうと、なかろうと、総てが空であろうと、なかろうと、それだけでは問題になりません。そういうことには関係なく「自分」の問題が残ってるのでしょう。もしかして、「空であるこの意識」と、無理に思いたい「自分」が、いる、のかもしれません。

ふつうは人の感覚や感情や意識は、樹や街や、ほかの人など、対象を必要とします。それは完全な分離も、完全な融合もありません。そうでなくては関係が成立しません。そして自分も、ほかの人から対象にされます。それは自然の選択で、とくに問題はありません。意識があることも問題はありません。

けれど相手と、より融合したいなら。すでに自然の選択が行われてるのに、さらに美人、不美人という意図的な選択も重なるのでしょう。ことさら「わたし」中心に、または、「あなた」から「わたし」を見たりすると、選択が限定されてしまうことがあります。「色々限定されてしまう」から 、そこに「自分」が、いる、と強調されて意識されるのではないでしょうか。

ところで苦痛は、「わたし」と「あなた」が、現状より融合したいのに分離、または分離したいのに融合が求められる、関係の葛藤でしょう。悲しみは、望まない分離。解放は、望んだ分離。喜びは、望んだ融合。憎しみは望まない融合。怒りは関係に変化を求めること。安定は平穏。なのですが、なんであれ望むということは欲望です。たぶん、上昇してる閾値(しきいち)の、限界を越える超美人が現れたのでしょう。

まだ大阪さんの投稿を明確に理解してないかもしれないので、指摘してください。

No.544 - 2008/03/23(Sun) 11:15:35

Re: 難しいです。 / 大阪
>たとえ意識が自分であろうと、なかろうと、総てが空であろうと、なかろうと、それだけでは問題になりません。そういうことには関係なく「自分」の問題が残ってるのでしょう。

人付き合いのときに感じる問題とかを、一つ一つ、解消していけば良い、のでしょうか。それともそういうのは、根こそぎなくなるものなのでしょうか。

>もしかして、「空であるこの意識」と、無理に思いたい「自分」が、いる、のかもしれません。

それは正解のような気がします。

そして今日言葉に出来たのは、自分が行動したり何かを感じる時に、「覚者ならこうする/こう感じるだろう」という風に空想の自分と実際の自分を比べてる、ようです。

また、早く覚醒したい、とか思ってるのです。

これらの、自分を成り立たせている前提を一つ一つ、解消していけば良いのでしょうか。

> ふつうは人の感覚や感情や意識は、樹や街や、ほかの人など、対象を必要とします。それは完全な分離も、完全な融合もありません。そうでなくては関係が成立しません。そして自分も、ほかの人から対象にされます。それは自然の選択で、とくに問題はありません。意識があることも問題はありません。

意識があることは問題ではないのですね。でも僕の意識は自己主張とか、自己防衛とか、そんなことばかりしているので、意識があること自体が問題、と思っていたりしたのでしょう。

> けれど相手と、より融合したいなら。すでに自然の選択が行われてるのに、さらに美人、不美人という意図的な選択も重なるのでしょう。

>ことさら「わたし」中心に、または、「あなた」から「わたし」を見たりすると、選択が限定されてしまうことがあります。「色々限定されてしまう」から 、そこに「自分」が、いる、と強調されて意識されるのではないでしょうか。

> ところで苦痛は、「わたし」と「あなた」が、現状より融合したいのに分離、または分離したいのに融合が求められる、関係の葛藤でしょう。悲しみは、望まない分離。解放は、望んだ分離。喜びは、望んだ融合。憎しみは望まない融合。怒りは関係に変化を求めること。安定は平穏。なのですが、なんであれ望むということは欲望です。たぶん、上昇してる閾値(しきいち)の、限界を越える超美人が現れたのでしょう。
>

この辺はちょっと分かりません。難しいのはとても苦手なのです。隠岐で、泊めていただいた部屋にクリシュナムルティの本が沢山ありました。しずかさんが「興味があったら読んでみて下さい」と仰ったので読みやすそうなのを一つ読んでみたのですが、2ページぐらいで諦めました。こんなややこしいこと必要なのか、と思ってしまうのです。

No.545 - 2008/03/23(Sun) 16:18:04

Re: 難しいです。 / ubik0101
>人付き合いのときに感じる問題とかを、一つ一つ、解消していけば良い、のでしょうか。それともそういうのは、根こそぎなくなるものなのでしょうか。

どちらかと言えば、限界はありますが、根こそぎです。というより、問題が問題でなくなるのです。たとえば怒ること悲しむこと楽しいこと考えること、そういうことも世界の不思議な機能です。それがなんであるか、誰も知りません。ありとあらゆることが、そうです。

それが成長の必要な人には、負荷として機能するだけです。 そういう、たとえば反省材料が新たに現れるということは、限界が見えるサインでもあるので、それはよく理解しましょう。けど、なにか軋轢が起きたとして、自分に責任があるとは限りません。

>そして今日言葉に出来たのは、自分が行動したり何かを感じる時に、「覚者ならこうする/こう感じるだろう」という風に空想の自分と実際の自分を比べてる、ようです。

自灯明、だけで充分です。いつも、この自分の、この状態の理解から始めましょう。それは考えようとしないでも必要なだけ、やって来ます。それを正確に見ましょう。そうすることで、こだわらないことにも、こだわらない、とか。悪をせず、善をする、とか。意識に依存しない、とかが了解されていきます。

>また、早く覚醒したい、とか思ってるのです。

それを、大阪さんは、起こそうとして起こしたのでしょうか。

>これらの、自分を成り立たせている前提を一つ一つ、解消していけば良いのでしょうか。

あの愛や自己は自覚できる範疇にないことを見極めれば大丈夫です。そうでないと、自分が空想されます。それが、「空想の自分と実際の自分を比べ」たりします。

>この辺はちょっと分かりません。難しいのはとても苦手なのです。隠岐で、泊めていただいた部屋にクリシュナムルティの本が沢山ありました。しずかさんが「興味があったら読んでみて下さい」と仰ったので読みやすそうなのを一つ読んでみたのですが、2ページぐらいで諦めました。こんなややこしいこと必要なのか、と思ってしまうのです。

クリシュナムルティは、不要でした。

No.546 - 2008/03/23(Sun) 19:49:31

Re: 難しいです。 / peer
>美女に出会うと色々と苦しめられる

って、どんなふうに、苦しめられるのかしら??

あれが美女だと思う。
というのは〜それぞれの嗜好もありまして〜
美女が好きという人もいれば、嫌いという人もいる。
どうでもいいという人もいる。

No.547 - 2008/03/24(Mon) 01:08:39

Re: 難しいです。 / 大阪
> どちらかと言えば、限界はありますが、根こそぎです。というより、問題が問題でなくなるのです。たとえば怒ること悲しむこと楽しいこと考えること、そういうことも世界の不思議な機能です。それがなんであるか、誰も知りません。ありとあらゆることが、そうです。
>

とても暖かい心地良い文章です。
本文に、釣りに行く途中の車内で、提案されて怒った人の話があります。そんな風に、僕も怒ったりするのです。確かに、そんな問題も、問題ではないんでしょう。でも、そんなんで怒ったりしたくないのです。それをやめることは出来るのでしょうか。うびさんは塩を舐めると辛い、と仰いました。そんな風に、しょうもないことに腹を立ててしまったりもするのでしょうか。あの体験をすると、そんなしょうもないことで怒ったり恥ずかしがったりすることはなくなったのでしょうか。それとも否定の道、を進んでいる時に解消していったのでしょうか。

> それが成長の必要な人には、負荷として機能するだけです。 そういう、たとえば反省材料が新たに現れるということは、限界が見えるサインでもあるので、それはよく理解しましょう。

限界、とは何の限界でしょうか。成長の限界?努力の限界?精神の限界?

>けど、なにか軋轢が起きたとして、自分に責任があるとは限りません。

なんでも自分の責任にするのも、傲慢かもしれないですね。

> 自灯明、だけで充分です。いつも、この自分の、この状態の理解から始めましょう。それは考えようとしないでも必要なだけ、やって来ます。それを正確に見ましょう。そうすることで、こだわらないことにも、こだわらない、とか。悪をせず、善をする、とか。意識に依存しない、とかが了解されていきます。

自灯明・法灯明は、苦手分野なのです。よく意味が分からないのです。自分が赤と思ったものは、誰がなんと言おうと、赤だ。世間や親やキリストが黄色といっても赤だ。とか、そういうことですか?もし良ければお時間のあるときに、説明して頂けませんか?色々お聞きしてスミマセン。

> それを、大阪さんは、起こそうとして起こしたのでしょうか。
ここでの「また」は再び、ではなく、アンドとかそして、です。望んで起きたのではなく、向こうから、でした。
これはお聞きしたかったのですが、うびさんは、あの体験をした人を覚醒した人と呼んでいるのでしょうか。あの体験を悟後の修行とかして理解、捨てきった人を呼ぶのでしょうか。

> あの愛や自己は自覚できる範疇にないことを見極めれば大丈夫です。そうでないと、自分が空想されます。それが、「空想の自分と実際の自分を比べ」たりします。

コレが難しいのです。出来た、と思ってもまた実感を求めてたりで。じっくり時間をかけないといけないようです。

> クリシュナムルティは、不要でした。

誰が不要で誰が必要か、気づかなかったのかもしれない。

No.548 - 2008/03/24(Mon) 21:11:31

Re: 難しいです。 / 大阪
peerさん。

うーん、何というか、難しいです。

ど、どうしてそれを聞くのでしょうか?






(ところで、ここでは顔文字は禁止なのでしょうか?)

No.549 - 2008/03/24(Mon) 21:54:03

Re: 難しいです。 / 大阪
うびさん、嘘をつかない、とは、まるで裏技ですか!?

嘘をついた所に、自分の守りたい物がある。
それを一度じっくり眺めてみる。
そして、もう一度じっくり眺めてみる。
そして、他の物を眺めてみる。

うーんむずかし、い、そういうことですか?

No.550 - 2008/03/24(Mon) 22:06:05

Re: 難しいです。 / peer
>ど、どうしてそれを聞くのでしょうか?

どういう意味なのかな〜と純粋に興味が湧いて。
自分は何かに苦しむのに、他の人は苦しまない。
としたら、自分の中の何が反応するのか。
ど、自分の中を見る。。。ですよね。
そして、どうして他の人は無反応でいられるのか。とも。

No.551 - 2008/03/24(Mon) 23:52:10

Re: 難しいです。 / ubik0101
>本文に、釣りに行く途中の車内で、提案されて怒った人の話があります。そんな風に、僕も怒ったりするのです。確かに、そんな問題も、問題ではないんでしょう。でも、そんなんで怒ったりしたくないのです。それをやめることは出来るのでしょうか。うびさんは塩を舐めると辛い、と仰いました。そんな風に、しょうもないことに腹を立ててしまったりもするのでしょうか。あの体験をすると、そんなしょうもないことで怒ったり恥ずかしがったりすることはなくなったのでしょうか。それとも否定の道、を進んでいる時に解消していったのでしょうか。

たとえば社会的なこと・・・食品工場で従業員として働いているとして、毒餃子をつくれ、と社長から命令されたとします。そうしたら、そんな社長と、なにも知りようがない消費者のために怒る。それは当然です。

たとえば個人的なこと・・・ネットの接続が悪く、もう何ヵ月も何回もサービスセンターに電話し、モデムを替えても解決していません。しかも治ってないのに、この部屋に修理に来た人が、退社時刻になったのでしょう、帰ってしまいました。また仕事をしても報酬をくれないとか。そういう状況では怒りません。

これは社会的なこと、これは個人的なこと、と完全に区別はできないかもしれませんが、個人的なことでは、よほど理不尽なことでなければ怒りません。つまり、その閾値(しきいち)がほとんど限界まで上がります。

これは体験の後です。実感できることに依存する必要がない、に関係ありそうです。そうでなくても人生経験を積むと、自然に、そうなっていくこともあると思います。羞恥心は、ほとんど感じません。

もしかして。「誰でも、その状況に置かれたら怒ってしまう」という理由を無意識にでも捏造したりすると、それを隠れ蓑にして、怒りやすくなるかもしれません。なら、それを理解すれば解決します。また理解ではなく、人が無知のため怒らない(知らぬが仏)もあります。

>限界、とは何の限界でしょうか。成長の限界?努力の限界?精神の限界?

たとえば怒りを感じるための閾値(しきいち)が上がっても、限界があるという意味です。それは学ぶために貴重な体験でもあります。

>自灯明・法灯明は、苦手分野なのです。よく意味が分からないのです。自分が赤と思ったものは、誰がなんと言おうと、赤だ。世間や親やキリストが黄色といっても赤だ。とか、そういうことですか?もし良ければお時間のあるときに、説明して頂けませんか?色々お聞きしてスミマセン。

とりあえず元の意味はともかく。たとえば感覚や感情や意識に依存せず、素直に、この自分の、この有り様を、理解するということです。それが学ぶということです。これは欲望や自我が機能してるとき、それを否定も肯定もせずに観察しよう、と言ってるのではありません。素直であって、自分の状態を見ることが、たとえば人と世界との関係を学ぶことになります。

>これはお聞きしたかったのですが、うびさんは、あの体験をした人を覚醒した人と呼んでいるのでしょうか。あの体験を悟後の修行とかして理解、捨てきった人を呼ぶのでしょうか。

あの体験が、覚醒体験です。それを理解した状態を覚醒と呼びます。でも、それも、どうでもいいというか、そうでない人とか状態とかと、較べることも不要です。みんな、ただの人です。

>> クリシュナムルティは、不要でした。

>誰が不要で誰が必要か、気づかなかったのかもしれない。

たとえば仏陀は、法華経や般若心経を読んで、悟ったのではありません。けど、なにか書が役に立つ人には役に立つでしょう。



>うびさん、嘘をつかない、とは、まるで裏技ですか!?

>嘘をついた所に、自分の守りたい物がある。
>それを一度じっくり眺めてみる。
>そして、もう一度じっくり眺めてみる。
>そして、他の物を眺めてみる。


>うーんむずかし、い、そういうことですか?

そのように嘘をつかないという規範は、嘘をついた人を、理解に導く効果もあります。そして、主観的でなく不公平でなくあろうとする決意、またその実現でもあります。また、ふつうの日常で、自分に守りたいことがなければ、嘘をつかないという自戒も不要で、嘘も不要です。

>(ところで、ここでは顔文字は禁止なのでしょうか?)

ううん。そういう決まりはありません。

No.552 - 2008/03/25(Tue) 08:26:00

Re: 難しいです。 / 大阪
> どういう意味なのかな〜と純粋に興味が湧いて。

甘いものを食べる食べない、と同じです。

仲良くなりたい、恥ずかしい、浮気したくない、とかそういう葛藤、です。

> 自分は何かに苦しむのに、他の人は苦しまない。
> としたら、自分の中の何が反応するのか。
> ど、自分の中を見る。。。ですよね。
> そして、どうして他の人は無反応でいられるのか。とも。


上手く言葉に出来ないのですが。
僕は、例えば卒業式とか、みんなで遊んだ帰りとか、どうしてみんなそんなに寂しくないのだろう。どうしてそんな平然としてられるのだろう、という風なことが良くありました。
みんなが簡単に通っていく所で、ちょっと待って、となってしまうことが、良くあります。

どうしてそうなるのか、理由を考えても良く分かりません。そのことを、無意識に自分は人と違っていて優れているのかも、とか思ってたりするかもしれません。

何にせよ、正体不明です。でもいつか見破ろうと思ってます。
スミマセン、peerさんの言っておられる事と関係ないかもしれません。

No.569 - 2008/03/26(Wed) 20:45:09

Re: 難しいです。 / peer
>仲良くなりたい、恥ずかしい、浮気したくない、とかそういう葛藤、です。

なるほど〜関わりあいになりたい、ということかしら。
はい・・・まっ。。色々なモノと私たちは関わりたい。
と、解釈させていただきます(^^)

>僕は、例えば卒業式とか、みんなで遊んだ帰りとか、どうしてみんな
>そんなに寂しくないのだろう。
>どうしてそんな平然としてられるのだろう、という風なことが
>良くありました。
>みんなが簡単に通っていく所で、ちょっと待って、
>となってしまうことが、良くあります。


その気持は、よく分かります。
祭りのあとの淋しさも、近いものがあるような〜

良いこと楽しいことは「時間よ止まれ」ですが
悪いこと苦しいことは「時間よ早く去れ」のような。
私たちの日常は常に変化していきますね。
もしかしたら、変化に無心でついていく人は
寂しさを感じるヒマもない、のかも。

No.571 - 2008/03/26(Wed) 23:49:16

Re: 難しいです。 / 大阪
> なるほど〜関わりあいになりたい、ということかしら。
> はい・・・まっ。。色々なモノと私たちは関わりたい。
> と、解釈させていただきます(^^)


まぁ、そういうことです(^-^)

> その気持は、よく分かります。
> 祭りのあとの淋しさも、近いものがあるような〜


> 良いこと楽しいことは「時間よ止まれ」ですが
> 悪いこと苦しいことは「時間よ早く去れ」のような。
> 私たちの日常は常に変化していきますね。
> もしかしたら、変化に無心でついていく人は
> 寂しさを感じるヒマもない、のかも。


もしかしたら、僕が気になったのは「無常」かもしれない、って考えてました。

変化に無心でついていく人は寂しさを感じるヒマもない、そうかもしれません。というか、変化していること、ついていってること、も意識してないように見えました。

No.572 - 2008/03/27(Thu) 00:33:32

Re: 難しいです。 / 大阪
> たとえば社会的なこと・・・食品工場で従業員として働いているとして、毒餃子をつくれ、と社長から命令されたとします。そうしたら、そんな社長と、なにも知りようがない消費者のために怒る。それは当然です。

うーん。僕は当然、とはなりません。誰かに怒っても、自分もそうした可能性がある、と思うのです。そんな悪の可能性を摘みきってないと思うのです。まだ殺人者です。

> これは社会的なこと、これは個人的なこと、と完全に区別はできないかもしれませんが、個人的なことでは、よほど理不尽なことでなければ怒りません。つまり、その閾値(しきいち)がほとんど限界まで上がります。
>

でも、この気持ち良く分かります。

> これは体験の後です。実感できることに依存する必要がない、に関係ありそうです。そうでなくても人生経験を積むと、自然に、そうなっていくこともあると思います。羞恥心は、ほとんど感じません。

ココのゲストブックかな、に「怒ることを言われて怒ることに、必然性はありません。だから怒りません。コレが感情の中道です、と言ったらどうでしょう」というようなことが書いてあったと思います。

僕の場合、コレのような気がします。
(勿論、怒ることを言われて怒ることに、必然性はない。けど怒る、でも良いと思いますが。)

> もしかして。「誰でも、その状況に置かれたら怒ってしまう」という理由を無意識にでも捏造したりすると、それを隠れ蓑にして、怒りやすくなるかもしれません。なら、それを理解すれば解決します。また理解ではなく、人が無知のため怒らない(知らぬが仏)もあります。

そうかもしれません。もしかしたら、そんな閾値の上がった自分を拒否してるのかもしれない、とか思ったりもします。

> >限界、とは何の限界でしょうか。成長の限界?努力の限界?精神の限界?
>
> たとえば怒りを感じるための閾値(しきいち)が上がっても、限界があるという意味です。それは学ぶために貴重な体験でもあります。


コレは閾値の言葉の意味を知らないので生まれた質問でした。

> とりあえず元の意味はともかく。たとえば感覚や感情や意識に依存せず、素直に、この自分の、この有り様を、理解するということです。それが学ぶということです。これは欲望や自我が機能してるとき、それを否定も肯定もせずに観察しよう、と言ってるのではありません。素直であって、自分の状態を見ることが、たとえば人と世界との関係を学ぶことになります。
>

また質問です。僕にとって「感覚や感情や意識に依存せず、素直に」なることは出来ない、といっていいぐらい難しいのです。うびさんは、それをあの体験をする前から出来たのでしょうか。体験の後でしょうか。

> そのように嘘をつかないという規範は、嘘をついた人を、理解に導く効果もあります。そして、主観的でなく不公平でなくあろうとする決意、またその実現でもあります。

主観的でなく不公平でなくあろうとする決意。
それがこの世界で美しく出来ていることに喜びを感じたいです。

No.573 - 2008/03/27(Thu) 01:17:43

Re: 難しいです。 / ubik0101
>また質問です。僕にとって「感覚や感情や意識に依存せず、素直に」なることは出来ない、といっていいぐらい難しいのです。うびさんは、それをあの体験をする前から出来たのでしょうか。体験の後でしょうか。

それは体験の後です。でも前にも、その芽がありました。たとえば小学1、2年の頃、友達と歩いていました。すると、たんぼの側の小川で、一羽の鴨が矢に射られて暴れていました(野生の美と力を感じました)。その鴨を、驚いたことに友達が捕まえて家に持って帰りました。

そのあと大人が来て。鴨を見なかったか?と聞きました。 あまり憶えてないけど、知らない、と返事したように思います。すると、なにか世界が歪んでしまうという恐いほどの違和感が襲ってきました。たとえ友達のためにも、嘘をついてはいけない、そう思ったのだと思います。

そして、また。たとえば誰かに嘘をつかれたとして。だからと言って、なにかの機会に自分も嘘をついていいとは、なりませんでした。嘘をつく苦痛より、正直に言って自分を守らないで痛むことのほうが、楽でした。

さらに社会に出て、ほかの人が嘘をつくことも、嫌いでした。許せませんでした。ほんとーに、性格は悪く、性質は良かったのです。そういうことがあって「自らを義としてはならない」ということが課題になったのだと思います。

No.576 - 2008/03/27(Thu) 08:36:08
うびさん / ルー
うびさんは、少女っぽいと思います。
No.567 - 2008/03/26(Wed) 19:06:14

Re: うびさん / ubik0101
どーして、んな、大爆笑なことが、言えるのでしょう。ルーさん、って。とても嬉しくさせてくれます。

ところで、この頃、胸のエネルギーの塊が、ほかほか、ほぐれて。愛とも、幸せとも、言える、感覚が働いています。これを胸の少女と、呼んでいます。伝わったのかもしれません。

No.568 - 2008/03/26(Wed) 19:34:41

Re: うびさん / ルー
そーか。そーか。
そりゃーよかった。

私、やっと、愛を空想する必要がないっていう状態がわかりました。

おかげさまです。

No.570 - 2008/03/26(Wed) 22:46:46

Re: うびさん / ubik0101
うんと祝福しています。
No.574 - 2008/03/27(Thu) 08:12:21
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