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(No Subject) / ubik0101
> これもすでにずいぶん説明してきたのですが、これは心理的な意味での「見る主体」ということですね?心理的な意味での解釈者、認識主体はありません。それが意識されない。ただ知覚があるだけです。知覚を再認識はしない。もし「超意識」のような「見る主体」が意識されていたとすれば、すでにそれは解釈者の産物でしょう。ただ知覚があるとき「自我」であったものは瞬時に転換しています。その知覚だけがあるときを「無我」と呼べば、そう呼べるだろうということです。

これまでのム−ミンさんの表現「「自我」を見ると同時に「無我」を見る」とか、その文章だけを見ると、自我というもの、無我というものがあると、言ってるのかな。と疑問に思ってたので。そうでないなら、了解です。

おなじことでしょうが。「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」その人が実際にそんな有り様であって、なぜ、「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」と認識するのかと。「如実知見」という表現にも。つまりそれも、知ってること、が限界になる、という疑問はありました。

おなじように対象としての超意識を話したのではありません。ほかのことが超意識を対象にしたのではありません。「どうもム−ミンさんと、話があわない、どうしてなんだろう」、と知人に聞いたくらいですが、およそ納得です。

それはそれとして。自我とか無我とかを問題にするのではなく・・・それはもう充分なので・・・その知覚だけがあるときの、知覚の機能を、調べたいと思ってるのです。まだ探ることがあると、思ってるのです。ここが問題提起してることです。

> 伝わっていなかったようですね。自我が機能しなくなると、つまり解釈者がいなくなると、無意識が開示されてくる、あるいはすでに開示されてはいたが、それが自我によって歪んでいたことなどが、わかってくる、ということがありませんか?そして、それらが理解され消えていくことで、それは再び感覚として生じないということがあるでしょう?人や物との関わりの中で、自我としては機能はしないけれども、さまざまな感覚的反応が生じるでしょ?それが知覚の機能によって、言い方は変かもしれませんが、どんどん供養されていく、ということなのですが。

ム−ミンさんの言うことを、疑ってるとか、批判してるということではありません。そうだとすれば、いつまで、もぐら叩きをやってるんだ?そのもぐらは何匹いるのか?とか聞きます。

> 今までの分とあわせて、これでも伝わらないとすれば、何か特定の体験でも想定されて質問されているのでしょうか?たとえば「超意識」の体験とか、「神」の体験とか?

いいえ。はじめの頃に言ったように、どんな体験があろうと、なかろうと、無問題です。

> ええ、イエス・キリストを見るとか、仏陀を見るという体験は、知っているものの投影でしょう。意識、無意識を問わず、知っているものしか見ない。

たぶん。そのサイトの主催者は「仏陀を見る」。などと言うと、あー、分かってないなーと苦笑すると思います。「仏陀から見られた」。だから投影じゃない。を言いたいのだと思います。ま。メールして期待してましたが、返信くれませんでした。

> ubikさんのされた体験というのは、人によって、その出来事の解釈に多少の違いはあるようですが、いわゆる至福感をともなう「意識の拡大」と一般的に呼ばれている現象です。これは何の前触れもなく起こることもありますが、ヨーガの呼吸法や覚醒剤で人工的に起こすことも出来るもので、ドーパミンなどの脳内物質による感覚的なもののようです。

> その時、その感覚の解釈者がいなければ、それはただ生じ、展開され、消えていくだけですが、解釈者が現れると、その感覚を解釈し、命名し、同一化するという一連の自我の機能、過程が始まり、その感覚に捕らわれますよね?その結果、その体験が重要なものとなったり、貴重なものとなったりします。あるいは人によっては、その体験をかたくなに否定するかもしれません。そして、そのことが当人に意識されないということです。つまり、無意識、無自覚だということです。元型というのは実際にあるのかないのかということではなく、心理現象を説明するための単なる概念です。

うん。「心理現象を説明するための単なる概念」なら問題ありません。上のほうで言ったように。やはり文章だけを読むと、「意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みます」とかを知識としてか、対象化してるのかな、とも思えたのです。

> それで、その感覚に捕らえられて、それが知覚されていないと、「超意識」や「神」の体験が批判されたり、否定されたり、何らかの妨害に出会うとき、あたかも自分が否定されたように不快感を感じ、攻撃的になったりするということです。「同一化」の問題とはこういうことですね。

うん。そうです。それを体験した人は、その体験を対象化して、人生の目的を果たしてしまった。もうこれ以上のことはない、自分は最高。と思い込んでしまう人もいます。その体験を対象にすることを残響のような自我と呼んでいます。(それはそれでいいのですが。たぶん。ヨガや瞑想や薬で体験しても、それはその人の知ってることの投影の範囲をでないでしょう)。それを克服するために、意識に依存しないこととか、なんにも依存しない素直さが必要と、この掲示板で、話しています。

No.710 - 2008/04/25(Fri) 14:08:40

Re: / ムーミン
>これまでのム−ミンさんの表現「「自我」を見ると同時に「無我」を見る」とか、その文章だけを見ると、自我というもの、無我というものがあると、言ってるのかな。と疑問に思ってたので。そうでないなら、了解です。

>おなじことでしょうが。「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」その人が実際にそんな有り様であって、なぜ、「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」と認識するのかと。「如実知見」という表現にも。つまりそれも、知ってること、が限界になる、という疑問はありました。

どの言葉も、表現も反省的(反省というのは、過去の行為に批判的な評価を与えるという意味ではないですよ)に使っているだけなのです。観察者が観察されるものであるとき、思考者が思考と同じものであるとき、つまり受動的な気づき(知覚)の状態にあるときには、概念による再認識は生じないのです。これについてはすでに申し上げてきたつもりですが。

>おなじように対象としての超意識を話したのではありません。ほかのことが超意識を対象にしたのではありません。「どうもム−ミンさんと、話があわない、どうしてなんだろう」、と知人に聞いたくらいですが、およそ納得です。

ubikさんの「超意識」「神」体験については、私の書き方が少し正確さを欠いていたのかもしれません。体験のすべてを否定しているわけではなくて、その体験の一部が、特殊なものではなく一般的なものであると、相対化しているのです。

過去の事例を見てみると、その「超意識」「神」体験のような「意識の拡大」体験の強烈さをもって自分を救世主のように勘違いする人、その人を救世主に仕立て上げたがる人たちがいるということ、そこまでいかなくても、何か自分がひとかどの人物にでもなったかのように勘違いして振舞う人がいるということ、それによって、苦しみを受ける人が多くいるということ、それはやはり相対化する必要があるだろうということです。

重要なのは、「超意識」や「神」の体験ではなく、ubikさんがその体験の中で理解したとおっしゃられる、自分という中心が分離・対立をもたらし、またそれが事実と空想の倒錯を生む、その結果「罪」が起こり、苦しみが生じるということ、この概念的分析的理解ではない、瞬時の理解によって自分という中心、倒錯が解消され、「罪が燃焼」され、苦しみから解放されたということでしょ?

>ム−ミンさんの言うことを、疑ってるとか、批判してるということではありません。そうだとすれば、いつまで、もぐら叩きをやってるんだ?そのもぐらは何匹いるのか?とか聞きます。

ああ、そういうふうには思っていないので安心してください。これについてもすでに書いてきましたが、「話が合わない」のではなく、術語が原因で食い違いがあるかもしれないので、ubikさんの術語に沿って説明を試みてみます。

ubikさんは「無我」と「自我」を見た体験をしたとおっしゃいました。これは私の使う言葉で言えば「観察者は観察されるもの」「思考者は思考と同じである」という洞察によってもたらされるもの、ということになります。そしてその洞察によって、「自我の全過程」が見られ、同時に「無我」を理解します。この洞察、知覚により、自我の暴力性・破壊性に対する質的理解があるので、基本的には心理的問題はなくなります。前にも書きましたが、洞察とは物事の全体を一瞬にして把握することであり、概念的分析的な理解ではないということです。

また、ubikさんは、体験の後には「残響の自我」が残っていて、「悟後の修行」として、体験の内容を意識に覚えさせることが必要だともおっしゃいましたね。これは私の使う言葉では「学び」と呼んでいます。これはubikさんとは使用方法が少し違うということはすでに確認しました。

私の場合は「学び」があるためには、上で述べた洞察が欠かせない。なぜならば、自我が機能している限りは「学び」が歪むからです。そして堂々巡りになります。これこそ、いつまでもモグラを叩かねばならないということになるでしょう。

また、私の使う「学び」は能動的なものではなく、知覚の受動性の中で行われているということです。洞察の後でも、何かを問題として認識することはまだ残っていますが、かりに認識してしまったとしても、それが知覚される中で、即座に理解され、解消され、心理的な問題にはなりません。この理解が「学び」です。理解され解消されたものは、再記憶されることはなく、次第に記憶の中から、消えていきます。記憶喪失や認知症ではないので、形式的な記憶はもちろん残りますが、その感情的内容は働きません。たとえば「怒り」が現れるたびにそれに「気づいて」、その都度解消するということではありません。理解されて終わりです。。「知覚」の機能についての質問がありましたが、知覚の機能とは、種を見つけ、燃やし、枯らす炎のようなものなのかもしれません。そしてそれを「学び」と呼んでいます。

洞察の中ですでに「転換」は行われ、知覚によって心理的な問題には発展しない、万が一発生したとしても知覚によって理解され解消されるので、いつまでモグラを叩くのかということにはなりません。

ubikさんは悟後の修行のとき、達成すべきゴールは見えていましたか?見えていたとしたら、それが達成されたときには、それはすでに知っているものの投影でしょ?達成した後に「ああ、あのときの体験はこういう意味だったのか。最初の一歩が最後の一歩だったのか」と反省的にわかったということはありませんか?悟後の修行とは後になって言えることではなかったですか?

>たぶん。そのサイトの主催者は「仏陀を見る」。などと言うと、あー、分かってないなーと苦笑すると思います。「仏陀から見られた」。だから投影じゃない。を言いたいのだと思います。ま。メールして期待してましたが、返信くれませんでした。

「仏陀から見られた」ということであれば、「見られるもの」がいるということなので同じことです。

>うん。「心理現象を説明するための単なる概念」なら問題ありません。上のほうで言ったように。やはり文章だけを読むと、「意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みます」とかを知識としてか、対象化してるのかな、とも思えたのです。

ああ、この部分は、ubikさんが「超意識」体験のことに触れられたときに、「意識と無意識」が統合され、「意識の全領域」を見渡したとおっしゃっていたので、上のような話をする人もいるけど、ubikさんは意識をどのように捉えているのか、そのすべてを見渡したのですか?という質問です。


なんだか少し疲れました。

No.713 - 2008/04/26(Sat) 16:54:29

Re: / ubik0101
>重要なのは、「超意識」や「神」の体験ではなく、ubikさんがその体験の中で理解したとおっしゃられる、自分という中心が分離・対立をもたらし、またそれが事実と空想の倒錯を生む、その結果「罪」が起こり、苦しみが生じるということ、この概念的分析的理解ではない、瞬時の理解によって自分という中心、倒錯が解消され、「罪が燃焼」され、苦しみから解放されたということでしょ?

その体験の効果は、そうです。ただ人間関係で惨めな自分を感じることなどを、解消することを目的で探究していませんでした。自分を知りたかったのです。たとえば無我になろうという意図もありませんでした。けど。通奏低音のように何年も続いていた絶対不自由の苦痛からも解放されました。

>理解され解消されたものは、再記憶されることはなく、次第に記憶の中から、消えていきます。記憶喪失や認知症ではないので、形式的な記憶はもちろん残りますが、その感情的内容は働きません。たとえば「怒り」が現れるたびにそれに「気づいて」、その都度解消するということではありません。理解されて終わりです。

それで、理解されたことは、意識の対象としては失われるのだけど、無くならないで、自覚されないまま十全に機能しています。だから、理解することによって人に変化があります。たとえば、自我もなければ無我もないなどとと、思っても、思いもしないでも、自我もなければ無我もなく・・・ほかのことも同様に・・・無自覚に機能してる日常です。なので、それをいつでも見れます。

>ubikさんは悟後の修行のとき、達成すべきゴールは見えていましたか?見えていたとしたら、それが達成されたときには、それはすでに知っているものの投影でしょ?達成した後に「ああ、あのときの体験はこういう意味だったのか。最初の一歩が最後の一歩だったのか」と反省的にわかったということはありませんか?悟後の修行とは後になって言えることではなかったですか?

その体験で受け取った圧縮された情報が、理解できませんでした。それが解凍されるのを、自分に望んだ、のです。そのあとは理解することで変化した、その日常の自分から学んでいます。それは、意図的ではなく。どう変わるとか予想できません。

>「仏陀から見られた」ということであれば、「見られるもの」がいるということなので同じことです。

まあ、そうかどうかは第三者なので判断できません。ということでいいようです。

>ああ、この部分は、ubikさんが「超意識」体験のことに触れられたときに、「意識と無意識」が統合され、「意識の全領域」を見渡したとおっしゃっていたので、上のような話をする人もいるけど、ubikさんは意識をどのように捉えているのか、そのすべてを見渡したのですか?という質問です。

おそらく総ての生き物の身体は、水や炭素などの物質でできています。それは宇宙にある物質を共有してるという認識も不要なくらい個人のものでないことは、当たり前の事実です。そんなことより生きることが大切です。そして 感情も、意識/無意識も、そんな個人のものではなく単なる素材です(まったく不増不減です)。そんなことより学ぶことが大切です。

これまでのム−ミンさんの話でしか知りませんが「無意識の中の元型」とかがあるとしなければ、自我インフレーション説も無意味に思えますが。そのように総ての生き物に共通の記憶があるとかは、まったく無意味で、成長こそ必要です。それが失われることはないこと、と感じます。

>なんだか少し疲れました。

そうですね。気が向くままが、
いいと感じます。

No.716 - 2008/04/27(Sun) 08:31:41

Re: / ムーミン
>それで、理解されたことは、意識の対象としては失われるのだけど、無くならないで、自覚されないまま十全に機能しています。だから、理解することによって人に変化があります。たとえば、自我もなければ無我もないなどとと、思っても、思いもしないでも、自我もなければ無我もなく・・・ほかのことも同様に・・・無自覚に機能してる日常です。なので、それをいつでも見れます。

ええ、言葉の使い方の細かい点を除けば、それが私の言ってきた「解釈者」がいない、ということです。それで、苦しみのない、まあごく普通の日常を送っているということでしょう?ただ私の場合は、心理的なものが何もないこと以上に完成があるのかどうかも含め、「完成」という終着が何かを知りませんので、方向性もなく、常に原点である静かな心で「学び」続けています。

>その体験で受け取った圧縮された情報が、理解できませんでした。それが解凍されるのを、自分に望んだ、のです。そのあとは理解することで変化した、その日常の自分から学んでいます。それは、意図的ではなく。どう変わるとか予想できません。

「圧縮」「解凍」という表現はよくわかります。そのときの体験は、なにしろ時間があるのかないのかわからないような、瞬時の理解でしたでしょうから。どう変わるか予想できないというのは「学び」に終わりがないということでしょうね。

>おそらく総ての生き物の身体は、水や炭素などの物質でできています。それは宇宙にある物質を共有してるという認識も不要なくらい個人のものでないことは、当たり前の事実です。そんなことより生きることが大切です。そして 感情も、意識/無意識も、そんな個人のものではなく単なる素材です(まったく不増不減です)。そんなことより学ぶことが大切です。

ubikさんはしばしば唯識の名前を出されていますし、また「種子と発芽」の比喩も使われており、唯識のことはある程度ご存知だと思いますので、それに沿って簡単な説明をしようと思います。あくまでも私の唯識理解なので、オーソドクスなものかどうかはわかりませんが。

唯識では深層心理を説明するために、末那識と阿頼耶識を設定します。末那識は自我執着心といわれるもので、私の使う言葉で言えば、否定・肯定、非難・正当化、拒絶・受容、同一化などといった形で現れるものです。阿頼耶識は種子、つまり過去の全記憶がつめられた貯蔵庫です。しかし阿頼耶識には善や不善、煩悩などの働きを持つ心作用はありません。阿頼耶識にある種子を発芽させるのは、末那識の自我執着心です。それが苦しみをもたらせます。つまり、末那識が阿頼耶識を「我」として誤認するところにその働きがあるということです。

しかし、末那識、阿頼耶識は深層というか無意識で、見えにくい。そこで「学び」が必要になるということでしょうね。

>これまでのム−ミンさんの話でしか知りませんが「無意識の中の元型」とかがあるとしなければ、自我インフレーション説も無意味に思えますが。そのように総ての生き物に共通の記憶があるとかは、まったく無意味で、成長こそ必要です。それが失われることはないこと、と感じます。

ええ、あってもなくてもということではなくて、重要なのは、末那識が阿頼耶識を「我」と誤認することなければよい、ということだと思います。いうならば「自我インフレーション」も末那識が阿頼耶識にある、あるものを「我」と誤認しているのです。

しかし、末那識も阿頼耶識も、意識現象を説明するための単なる概念に過ぎませんから、概念抜きに、直接、実際に自分の中で起こっていることの観察、理解は欠かせないということでしょう。実際に自分の中で起こっていることの理解というのは、知的理解では単なる観念ですから、これまでも言ってきたように「知覚」による理解しかないということなんです。それが「学び」であるということ。「自我インフレーション」という同一化現象も、ある特質を持っていますから、知覚でわかります。わかって、理解すればそれで終わりです。

>>なんだか少し疲れました。

>そうですね。気が向くままが、
>いいと感じます。


返信の量を減らしていただいた気配りに感謝します。もとはといえば、この掲示板を訪れて目にした「自我=無我」という表現に興味を持って、質問しただけだったのが、とんだ長い対話になってしまいました。

No.719 - 2008/04/27(Sun) 11:16:58

Re: / ubik0101
ム−ミンさんの話で。なにかを知覚することによって、そのとき知覚する主体が、すでに設定されていると看做される現象。それが末那識と阿頼耶識の関係で説明できる。のだろうと、思いました。自我はそう機能するのですが、そうでなくても、ただ知覚、する、しないということも、そうかもしれません。

そこでは、とくに知覚の、ある、ない・・・とその対象の無意識の思考の、ある、ないの関係。もしかして。ある、と、ない、の関係。そういうことも見ることができるかもしれないと思えます。それに引っ掛かった場合の解放、それが意識に依存しないこと、とも言えそうです。また、自分は心理的な問題がなく、普通の日常を送ることが、完成とは思っていません。長い間ありがとうございました。いつでも。また。です。

No.720 - 2008/04/27(Sun) 16:10:06

Re: / hato

ムーミンさん。
丁寧にご指導頂きましたこと、
本当に感謝申しあげます。
ご存じの通りこちらは未熟ですが、
なんとか。進みます。

ありがとうございます。

No.721 - 2008/04/27(Sun) 23:36:04

Re: / ムーミン
>ム−ミンさんの話で。なにかを知覚することによって、そのとき知覚する主体が、すでに設定されていると看做される現象。それが末那識と阿頼耶識の関係で説明できる。のだろうと、思いました。自我はそう機能するのですが、そうでなくても、ただ知覚、する、しないということも、そうかもしれません。

>そこでは、とくに知覚の、ある、ない・・・とその対象の無意識の思考の、ある、ないの関係。もしかして。ある、と、ない、の関係。そういうことも見ることができるかもしれないと思えます。それに引っ掛かった場合の解放、それが意識に依存しないこと、とも言えそうです。また、自分は心理的な問題がなく、普通の日常を送ることが、完成とは思っていません。長い間ありがとうございました。いつでも。また。です。

「知覚」とは、心が空っぽであるときの状態、心が静かなときの状態、純粋経験、直覚など、いろいろ言い換えができそうです。けど、これは特別なものではなくて、基本的に誰にでも備わった機能だと思います。ただ、「自我」がそれを妨げているのだと思います。で、それを取り除こうとするのではなくて、つまり問題とするのでもなく、また逆に、それでいいのだと、つまり問題ないとするのでもなく、「自我」がしていること、その格闘が、ただ知覚されるとき、そのとき「自我」は機能していないと言えそうです。

鳥の声、川のせせらぎからも、今、外を通ったバイクのマフラーの爆音からも学んでいます。ありがとうございました。
気が向いたら、また訪れようと思います。

No.722 - 2008/04/28(Mon) 11:30:16

Re: / ムーミン
>ムーミンさん。
>丁寧にご指導頂きましたこと、
>本当に感謝申しあげます。
>ご存じの通りこちらは未熟ですが、
>なんとか。進みます。


こちらの方は、大都市のごみごみしたところに住んでいますので、残念ながらウグイスの鳴き声が聞けません。G.W.には渓谷へウォーキングに出かける予定でいます。きっとウグイスもモリアオガエルも歓迎してくれると思います。

ubikさんの言葉を借りれば、hatoさんのような「求道の仲間」に出会えて嬉しかったです。こちらこそ、ありがとうございました。

No.723 - 2008/04/28(Mon) 11:43:29

Re: / hato

> こちらの方は、大都市のごみごみしたところに住んでいますので、残念ながらウグイスの鳴き声が聞けません。G.W.には渓谷へウォーキングに出かける予定でいます。きっとウグイスもモリアオガエルも歓迎してくれると思います。


きっと大歓迎ですね。
どうぞ、お気を付けて
楽しんでいらしてください。

No.724 - 2008/04/28(Mon) 23:55:44
もしかして。 / hato

ちょっとまって。

見ていない概念と見ていない概念との関係?

無我の絶対主観。

世界は人を覚醒させる触媒である。

わたしが見ているもの、
学んできたすべては、
無我の絶対主観がただ、現れているだけ?

とするなら、
喜びのなかでできる覚醒、も
見ることができるでしょうか。

No.685 - 2008/04/21(Mon) 05:52:51

Re: もしかして。 / ubik0101
覚醒は、
突然に起こる変化であり、体験です。
けど、人によって
その現れる状態は異なります。

hatoさんは、
とても真摯で、
ubik0101と同じことを見てるような
印象があります。

愛を感じる時
その愛の放射される源、
つまり実在から見られてる自己の
感覚があるでしょうか。

No.686 - 2008/04/21(Mon) 08:19:01

Re: もしかして。 / hato

なにを言っているのか。
間違っているかもしれません、
ただ再評価、組み替え、再調整の信号が届いた、
気がしました。

No.687 - 2008/04/21(Mon) 08:21:18

Re: もしかして。 / hato

> 愛を感じる時
> その愛の放射される源、
> つまり実在から見られてる自己の
> 感覚があるでしょうか。


はい。
これは、ほんの、ほんの微細な感触かもしれませんが、
あると、思います。

No.688 - 2008/04/21(Mon) 08:24:23

Re: もしかして。 / hato

二つ目の投稿は、
ubik0101さんのを見ていないで書いてました、

これから、ちょっと出かけます。
もう少し、受け取って、みます。

いつも、助けて頂いてほんとにありがとう。

No.689 - 2008/04/21(Mon) 08:31:41

Re: もしかして。 / hato

> ubik0101と同じことを見てるような
> 印象があります。


そうですか、
少し、言い過ぎたのではと心配しました。
ですが、そう体験できるよう、
なので、すこし、とっておきたい、気がしてしまいます。


> 愛を感じる時
> その愛の放射される源、
> つまり実在から見られてる自己の
> 感覚があるでしょうか。


愛と実在を分けて考えたことがありませんでした。
愛、というとき、正直なところ、
非常にシビアな感じでもあるからです。
誤解を恐れずにいえば、無機質、な感じです。

ですが、
愛は、現象として体験できる、という意味で、
その通りに思います。

とんでもなく、
愛されている、と思います。
世界は、愛しいのです。
そして、課題はなくもありません。
学びたい、と思います。

No.693 - 2008/04/22(Tue) 08:12:21

Re: もしかして。 / ubik0101
そうですね。
いつも言いますが、
おたがいに学びあいましょう。

自分の印象では・・・
実在(神)からの眼差し、絆、承認、それが愛です。
それを受けるのが自己です。

No.694 - 2008/04/22(Tue) 08:40:14

Re: もしかして。 / hato

家に帰る、

とはもちろん、
それで終わってしまう、
ということではありません。

わたしはいつも、
0101
から始めなければなりませんでした。

意識が何と言おうが、
自我や無我が、
身体や思考や感情や、
欲望、執着、
嫉妬や悲しみ、
また、喜びが、
あろうが、なかろうが、
感じようが、感じまいが、
そう、あるしかないのだったと、

そう、思います。

No.700 - 2008/04/23(Wed) 18:23:08

Re: もしかして。 / ubik0101
うん。

そういえば、
誰かが、
「毎日死んで、毎日生きる」。
と言いました。

この
いつも新しい
この、この自分の有り様を見るのです。
それが、
学ぶということだと感じます。

No.702 - 2008/04/23(Wed) 19:24:15

Re: もしかして。 / hato

誠に、
ありがとうございます。

愛は、愛としかいえません。
あらゆる様相に分かち合われながら、
愛と了解されている、と思います。

実在と愛の差違が了解されたように思います。

今日も鶯がきもちよさそうでした。
春雨のなかを、よい響きでした。

聞こえているでしょうか。

No.715 - 2008/04/26(Sat) 21:24:27

Re: もしかして。 / ubik0101
うん。喜ばせてもらってます。
No.718 - 2008/04/27(Sun) 08:39:47
人と話すとき / ばん
私は、対人恐怖症なのでお客様と話すときどうしても「不愉快な気分にさせてないかな」とか価格交渉の時など「騙そうとしているな」と思われてないか不安になります。

思考を無視すればよいのですがどうしても出来ません。
どうしたらよいでしょうか
ちょっと人生相談お願いします。

No.697 - 2008/04/23(Wed) 10:13:26

Re: 人と話すとき / ubik0101
えーっ。まったく空想の領域になります。話半分で聞いてください。もしかして。不安になるのは、お客さんを、大切にしてるってことかな、と思いました。ふつうの適切な対応を心掛けるようにすればいい、という以上の気持ちがあるのかもしれません。

けど、努力したりすると、ますます自意識過剰になるのでしょうか。ならばそれは他意識過剰と呼んだ方がいいでしょう。 それは経験値がすくなく、緊張しすぎなのかもしれません。たぶん。対人恐怖症でない人は、人が好きなのか、警戒心がなく、ほかの人から見た自分を感じる必要がないのだと思います。でも、まったく緊張しない人はないと思います。自信がないんです。

そんな緊張を回避するために、みんながやってるように、会社に勤める人はスーツにネクタイとか、ユニフォームとか、業界用語とか、出世するとか、女性は化粧するとかが、効果があるのでしょう。そういことが嫌でなければ、単純に。お客さんとフレンドリーに対応するための準備を含めて、その場その場で全力を尽くしてない、ということかもしれません。

また、そういう社会の様式に紛れて生きることが嫌い、ということなのかもしれません。あるいは誠実な店員を演技できない誠実さがあるのかもしれません。なら、ほかの人のプロトタイプのような対応ではなく。その誠実さ、そのままの有り様で、対応してはどうでしょう。それはお客さんにとっても、とても好ましいのではないでしょうか。

また、お客さんを、自分と同じとか、家族のように思う必要はありませんが。ことさら見知らぬ人と、思う必要もないと思います。さらに恥ずかしさは、自分の弱さの表現ということでもあり、それに気がつくと効果があるかも知れません。 もしかして、お客さんを不快にしたら上司に睨まれるとかの不安を感じるのでしょうか。

また、成長のために、ほんの微かな自分の状態を自覚する必要があり、その補償作用として、とりあえず緊張とか不安を、拡大して感じるのかもしれません。いわゆるトラウマによることなら、過去に依存しないということで、それはもう、ばんさんには問題になってないような気がします。

No.699 - 2008/04/23(Wed) 13:42:04

Re: 人と話すとき / ばん
うびさんの言われることがぴったり当てはまります。

恐れる理由はいくらでもつくりだされるという感じがします。世界の機能としてやってくる?

昔は自分の中で思考が起こると思っていたのですが、最近、向こう側からやってくる思考、感情、と自発的に考える思考、二つがあって、やってくるものは、世界の機能としてやってくるどうしようもないものであって、自発的に行動、思考しているのとは別だなと思うようになってます。

話を戻します
誠実に普通に対応すればよいのですが、不器用なのか、今までと違う自分で対応するのに恥ずかしさ、変わることへの恐怖心があります。

成長する事への恐怖心、変化を恐れることはありますか?

No.703 - 2008/04/24(Thu) 08:22:15

Re: 人と話すとき / ばん
> そうですね。
> いつも言いますが、
> おたがいに学びあいましょう。
>
> 自分の印象では・・・
> 実在(神)からの眼差し、絆、承認、それが愛です。
> それを受けるのが自己です。


実在と愛と自己は別なのですか?この関係がよく理解できません。教えてください。

No.704 - 2008/04/24(Thu) 09:25:52

Re: 人と話すとき / ubik0101
>恐れる理由はいくらでもつくりだされるという感じがします。世界の機能としてやってくる?

そうですね。ばんさんに、たとえば「恐れる理由」が、これを理解して欲しいと、向こうから願って、やってくる。つまり、ばんさんの成長を世界が促してる、と捕らえることができます。そんなことが自分にも実感としてあります。また世界と自分は不可分です。なので、もしかして無意識にも、自分が成長を望んでるって、捕らえることもできるかもしれません。

どちらにしても準備はできてる、ってことでしょう。そしてたとえば「恐れる理由」を理解したら、いまあるより以上のことが見えるようになると思います。ばんさんの状態が変わっても、心配しないで、大丈夫です。この今の状態は、理解することで失われるように思えても、無自覚の智恵に転換され、なくなることはありません。

>成長する事への恐怖心、変化を恐れることはありますか?

なんか、ばんさんの気持ちは、わかるような感じがします。ひとつには。ほかの人から見た、ばんさんのイメージが、変わるのが、気恥ずかしい・・・うまく社会に適応したな・・・と誰かに思われるのが、後ろめたい。ということはあるかもしれないと空想しました。

もちろん社会に飛び込んでも無問題です。いつも成長する気持ちがあれば、自己を失うことは決して、ありません。それに社会から学ぶこともたくさん、です。 これで自分は完成、と思ったところが、その人の限界になるだけです。

また。成長することに躊躇いがあるのかもしれません。だって、自分でも、どうなっていくか、予想できないのです。でも、世界、自分を信頼して大丈夫です。昨日の自分を顧みず、今日にも留まらず・・・進んでも・・・昨日は今日に、今日は明日に繋がっています。

No.705 - 2008/04/24(Thu) 10:01:06

Re: 人と話すとき / ubik0101
>実在と愛と自己は別なのですか?この関係がよく理解できません。教えてください。

おなじ風景でも人の立つ位置で、違って見えます。自分の場合は、自己と、愛と、実在には、秩序というか、関係があります。ですので、まったく同じではありません。でも、自己とはアートマン、実在とはブラフマンなら、両者は同じと言われています。

そして、おそらくは、そうなのだと思います。この前、のりさんが、その廻転?を経験して、おなじところにでたと投稿してくれたと思います。たとえば自分も、世界と実在、違うという理由が、ほとんど見つからなくなっています。

No.706 - 2008/04/24(Thu) 10:31:39

Re: 人と話すとき / ばん
世界の機能、それに巻き込まれずに、よい事をする、なんかこれ精神療法の認知行動療法に似ていて何かを足したような

世界で起こる思考、感情、その認知は歪められていて、しかも自分がその思考、感情を起こしたと思っていて苦しむ、

でも、起こしてたのは自分ではない自分は(実在、無い、神、宇宙、愛、その他、人によって違う)と気づく、世界の機能として起こるどうすることも出来ないからそれには、巻き込まれないようにして、自発的に正しい?行動をする

No.711 - 2008/04/25(Fri) 18:23:30

Re: 人と話すとき / ubik0101
この世界しか、ない、というのではありません。けど。この世界だけじゃなく、違う世界が、ある、のでもありません。どうでもいいのです。そして思考や感情なども、それが思考や感情である必要さえないのだから、不思議だから、どうでもいいのです。たとえば輪廻があろうとなかろうと、自我があろうとなかろうと。どうでもいのです。まさに、どうでもいい。でなくてはならないのです。

>世界で起こる思考、感情、その認知は歪められていて、しかも自分がその思考、感情を起こしたと思っていて苦しむ、

そうです。どうでもいい、こうである必要がないのに、こうである世界だから、つまり未知だから、「自分がその思考、感情を起こしたと思っていて苦しむ」ことも可能です。なお、それを使って成長する。その成長することが結果であれば、泥の沼でも、清い湧き水でも、どんな世界が原因だろうと不問です。

たとえば思い込み、勝手な判断。それは、世界が何であれ、この自分が、そう判断した、その自分であることを得たということです。それならば。とくに正しい善いことをする。というのは、正しい善い自分を育てやすい、成長させやすい。ということです。みな人は、そんな世界に生きています。認知行動療法。ちらっとネットで検索してみましたが、とくに関係ない概念のようです。

No.712 - 2008/04/25(Fri) 19:41:15

Re: 人と話すとき / ばん
そうですね、どうでもいい、ま、いっかですね
あれやこれやに執着、依存せず
楽しくやっていきたいと人を幸せに出来る人になりたいと思います。
うびさん、私の質問、人生相談して頂きありがとうございます

うびさんの誠実な態度、すごいと思います、感謝しています。
見習って成長していきたいと思います。
ありがとうございました。

No.714 - 2008/04/26(Sat) 17:25:00

Re: 人と話すとき / ubik0101
ただ。もう素直であれば成長は必然、と思います。
No.717 - 2008/04/27(Sun) 08:37:41
(No Subject) / ubik0101
ム−ミンさん、長くなったので新規にしました。

> ええ。その体験は短い時間にたくさんのことを教えてくれますね。ただそれを理解するのに手間がかかる。それで、下記にもありますが、それまで、つまりその体験をするまでは、自我に捕まったままで、自我に基づく行為だったのが、その体験以降は、理解された思考はそのまま瞬時に消えていって、自我のあり方には入っていかなくなったということでしょ?これが行為の大きな転換ということでいったことです。「見ること(理解すること)」が「行為」である、といったのは、行為に二元性の思考が介入しない、知覚からのダイレクトの行為がある、ということです。

うーんと。自我が機能してた頃でも、自分が自分と思う拠り所を捨てて行った過程・・・それは必然的に人が素直にならざるを得ないということであり・・・ほとんど自我は磨り減ってた、という印象があります。

しかし人との関係で、ほかの人が嘘をついたり、約束を守らなかったりするのを見るのは、苦痛だった。そんな自分の眼から隠れて生きる情けない有り様に対して、激怒しました。そういう自我、が機能してたと思います。

あの体験で、そんな自我も問題にならなくなったので、自分のこととしては「自我のあり方には入っていかなくなった」「知覚からのダイレクトの行為がある」は、それほど重要な課題ではなかったのでしょう。

> ええ、ですから真の自己理解、自己認識、自己観察というのは、この「体験」以降にはじまるということでしょ?自我を抱えたままで、自我の眼鏡を通しては、見るものが歪む。

まず体験で見たことは、意識は理解できないので、それを自分の意識に教える。また意識の管轄にないことは、そのことを意識に教える、必要があります。

とくに「真の自己理解、自己認識、自己観察」とかは、そうしようとしてしているのではありませんが。ずっとそうしてる。とも言えます。けど。自己を観察してる、ほかの誰かが、いる、わけではないので、これも変ですが「観察しない」という言い方が近いとは思います。

ふつうには。なにかを理解すると、自分の有り様が変わってしまってる、その変わってしまった有り様を見て学んでる。です。それでいつも、その、そのままの有り様を話しています。なんか、ム−ミンさんが学んだことを聞きたくなります。

> 苦悩や絶望があるときは、すでに苦悩や絶望は問題として認識され、操作の対象となっているものなので、「苦悩や絶望が無問題」として問題をやり過ごそうとしたり、苦悩や絶望を克服しようとして取り組んだりすることは、さらに問題を複雑化する、したがって問題の解決にはならないですね。自我の眼鏡を通して問題に接近しているわけですから。で、ubikさんがおっしゃっている「苦悩や絶望が無問題」というのは、問題をやり過ごすという意味ではないわけですね。

ほかの言い方をすれば。自我や欲望が、葛藤や心理的思考が、あったらいけない、なくあらねばならない。という観念も不要という意味です。そして、そう自覚してなくても、秩序があることを了解しています。ついでに怒ってはならない、悲しんではならない、もありません。でも基本的には静かさが、いつもあります。

> つまり、クリシュナムルティ流にいうなら、「観察者は観察されるもの」であるし、「思考者は思考と同じもの」ということになりますが、それを洞察するしかないのでしょう。それは手段も目的も尽きることを意味します。ubikさんも「それ」が起こったときには、目的も手段も尽きていたでしょ?

それは絶望と意識されることもできない絶望でした。どんなことも人が出来ることは、そう出来るように、この世界が出来てるから、出来るだけ・・・ということを見ても、まさにそれから逃れられない、絶対不自由の状態でした。

クリシュナムルティについても、ほとんど知りません。それ関係の掲示板を見ると。なにか起きたことに命名しない、とか言いながら、どうでもいいことに「観察者は観察されるもの」とか「観察者のいない観察」とか命名して、それに多くの人が迷わされてる印象があります。

No.692 - 2008/04/21(Mon) 15:44:59

Re: / ムーミン
>とくに「真の自己理解、自己認識、自己観察」とかは、そ
>うしようとしてしているのではありませんが。ずっとそう
>してる。とも言えます。けど。自己を観察してる、ほかの
>誰かが、いる、わけではないので、これも変ですが「観察
>しない」という言い方が近いとは思います。


それをクリシュナムルティは「観察者のいない観察」とか「無選択の気づき」と呼んでいるわけです。で、それらがあって初めて自己の理解があるというわけです。

>ふつうには。なにかを理解すると、自分の有り様が変わっ
>てしまってる、その変わってしまった有り様を見て学んで
>る。です。それでいつも、その、そのままの有り様を話し
>ています。なんか、ム−ミンさんが学んだことを聞きたく
>なります


私の場合は激しい怒りの中にいて、その激しい怒りをどうにかしようと躍起になっているとき、どういうわけか、ふと「自我」を見ました。知覚したといっていいのかもしれません。

それと同時に「無我」も見ました。そのとき「怒り」はもう「怒り」ではありませんでした。そして「怒り」と名づけていない感情は、静かに消えていきました。

この一連の過程で、過程と言っても、時間があったのかなかったのかよく解りませんが、とにかく自我=思考の全過程が、つまり思考がどのようにして生まれ、それが何を引き起こしているのかという理解がありました。そのときクリシュナムルティの言っていることがはじめて解りました。それ以来「怒り」は次第に萎んで、今はほとんど「怒り」というものがありません。また人のやっていることもよく見えるようになりました。

しかし、それで全部が終わったわけではないと思っています。何かの物事の関わりの中で、まだ感覚的な反応(思考・感情の反応)は生じますから。ただ、それが生じたときには、それが何かはわかるし、それを思考の介入なしに、つまり、否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察されているということはあります。
そうすると、完全にみられ、理解されたものについては、不思議とその後は、感覚的反応として生じません。「こんなことがあったな」という形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません。

>ほかの言い方をすれば。自我や欲望が、葛藤や心理的思考
>が、あったらいけない、なくあらねばならない。という観
>念も不要という意味です。そして、そう自覚してなくて
>も、秩序があることを了解しています。ついでに怒っては
>ならない、悲しんではならない、もありません。でも基本
>的には静かさが、いつもあります。


ええ、もちろん、あってもいい、あらねばならないというこでもないわけです。で、そういう否定も肯定も、正当化も非難も、受容も拒絶もないとき、つまり観念を持ち出していないとき、こころは静かだということでしょ?

>それは絶望と意識されることもできない絶望でした。どん
>なことも人が出来ることは、そう出来るように、この世界
>が出来てるから、出来るだけ・・・ということを見ても、
>まさにそれから逃れられない、絶対不自由の状態でした。


ええ、まさに手段も目的も尽きたのでしょう。そのとき「命がけの跳躍」(キルケゴール)が起こったのでしょう。

>クリシュナムルティについても、ほとんど知りません。そ
>れ関係の掲示板を見ると。なにか起きたことに命名しな
>い、とか言いながら、どうでもいいことに「観察者は観察
>されるもの」とか「観察者のいない観察」とか命名して、
>それに多くの人が迷わされてる印象があります。


印象ではなくて、そのとおりです。すでに今まで書いてきましたが、「観察者は観察されるもの」の理解は概念的分析的理解で出来るものではないからです。それなのに知的アプローチをとってしまっているのです。これは洞察なのです。洞察とは、物事を瞬時に把握することです。

そして「観察者のいない観察」が始まるためには、「観察者は観察されるもの」という洞察が欠かせないのです。その観察の中で始めて、命名なしに物事が見られるということです。だから「観察者は観察されるもの」ということがわからないうちは、何を言っても、何をやっても、堂々巡りと矛盾に終わります。

4月上旬あたりにubikさんも投稿されていた、ヤフー掲示板の禅トピで、瓦を磨いて鏡にするという禅の公案の議論がありましたが、瓦を磨いても鏡にならないということ、それにせっせと励んでいるということがわからないと、先に進めないのではないかと思うのです。つまり自分に戻る、落ち着くということです。それに気づいたとき、瓦が鏡になっているということもあるのでしょう。

ここの掲示板でも、皆さんが、瓦を一生懸命磨いているという印象を持ちます。で、ubikさんは、瓦を一生懸命磨くことを勧める(「機能としての自我を使おう」)と同時に、そうしても鏡にはならないというか、その問題点を指摘されているように思いました。私は、瓦を磨いても鏡にはならないという指摘で十分だと思いましたが、まあ、対話の相手と状況にもよるのでしょう。

No.695 - 2008/04/22(Tue) 10:32:30

Re: / ubik0101
> 私の場合は激しい怒りの中にいて、その激しい怒りをどうにかしようと躍起になっているとき、どういうわけか、ふと「自我」を見ました。知覚したといっていいのかもしれません。

> それと同時に「無我」も見ました。そのとき「怒り」はもう「怒り」ではありませんでした。そして「怒り」と名づけていない感情は、静かに消えていきました。

> この一連の過程で、過程と言っても、時間があったのかなかったのかよく解りませんが、とにかく自我=思考の全過程が、つまり思考がどのようにして生まれ、それが何を引き起こしているのかという理解がありました。そのときクリシュナムルティの言っていることがはじめて解りました。それ以来「怒り」は次第に萎んで、今はほとんど「怒り」というものがありません。また人のやっていることもよく見えるようになりました。

たしかに。怒りは滅多に経験できませんが・・・それは、流星のように明るく現れ、瞬時に消え去り、痕跡を残しません。その美しい怒りを、ほとんど忘我状態で見てる、と言っていいほどの現象です。そして怒ってた理由も失われてしまいます。

ム−ミンさんは、そんな怒りの光に照らされて、理解が起こったのかもしれません。もしかして公案の、「無」の字に成り切るように、怒りに成り切ったからかもしれません。というのも。なにかに自己同一することを嫌うと言っても、自己同一しきれない有り様に問題があるってことも、考えられます。

> しかし、それで全部が終わったわけではないと思っています。何かの物事の関わりの中で、まだ感覚的な反応(思考・感情の反応)は生じますから。ただ、それが生じたときには、それが何かはわかるし、それを思考の介入なしに、つまり、否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察されているということはあります。

> そうすると、完全にみられ、理解されたものについては、不思議とその後は、感覚的反応として生じません。「こんなことがあったな」という形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません。

そこで。それが、なぜそうなってるか?ということがあります。とりあえず「感覚的な反応(思考・感情の反応)」は、知覚できるときだけあるのでしょうか。もしかして、なにかの出来事、物事によって、それが無(潜在)意識から偶発的に引き出されて、見えるようになっただけかもしれません。隠された種から芽が出た、からかもしれません。

ならば、その隠された種は、根絶できるでしょうか。それが発芽するということは、実は、まだ理解されてない、たとえば非難や正当化などの理由がある可能性が否めません。だとしたら現れる度に「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られて」も、直接に解決に結びつくのは困難かもしれません。

それは・・・「形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません」。どうして、そうなのか。この理由に解決の糸口がありそうです。ここは、その人の経緯によって違うし、どう了解するかも人それぞれだし、複雑で微妙な話になります。

とりあえず自分のことを話します。それは、そうだと知らないで働いてる無知(無明)が、そうだと知らないで働いてる智恵に転換してるからです。これは知覚できる、実感できる、とある思考だけを、ある、と見ていては、理解は困難です。

それを無知が転換された智恵などと、勝手に呼んでいまが、それを自覚しないで自覚する。そうするのは、自覚できない自己。その自己にとっては、ありとあらゆることが・・・たとえば怒り、非難や正当、記憶が・・・単なる物質、身体、感覚、感情、意識という人の構成要素(素材)の運動です。それが人を成長させる触媒です。

それで、その素材は、触媒であり、無くなるということはないのです。ただ変わるのは、人、です。これは、あとの瓦の話に続きます。

> ええ、もちろん、あってもいい、あらねばならないというこでもないわけです。で、そういう否定も肯定も、正当化も非難も、受容も拒絶もないとき、つまり観念を持ち出し ていないとき、こころは静かだということでしょ?

じつは、心という言葉の意味が解りません。意識のことでしょうか。ふつうの静かな意識には、固定観念は無縁です。そういう名前ですが固定観念も、やはり運動だと思います。否定も肯定も、非難も正当化も、受容も拒絶も、運動でなければ、成立しないと思います。それが運動だということに気がつくことは大切です。

もしかして。そういう運動が、心理的時間と呼ばれているのでしょうか。自分は、意識の時間旅行、と呼んだことがあります。そうだとして、心理的時間のないことを、時間の終焉と命名することには疑問を感じます。やはり心理的時間の終焉と、表現したほうがいいと思います。

また。たとえば慈しみと憎しみ、怒りと冷静、非難や正当化、のように。なにかとなにかを、あることと反対のことというように、対極と見る。このことが、すでに、とんでもない誤解であり、問題です。

それはともかく、身体にいくつかの力の塊を感じています。その位置によって、感じることが違います。そして静かさは、胸の位置です。とくに波風が立ってないから静かというわけではなく、たとえ街を歩いていても、静か、という感覚が生じています。これは、だからなんだということではありません。

> ええ、まさに手段も目的も尽きたのでしょう。そのとき「命がけの跳躍」(キルケゴール)が起こったのでしょう。

キルケゴール、そんなことを言っていたのですか。彼の書は、読んだ時は意味が解りませんでしたが、自分が見たことだけを明確に話す姿勢が感じられ、それに惹き付けられました。

それはそれとして。自分の場合は、なんの切っ掛けもありませんでした。ふつうに部屋を歩いていて、突然に起こりました。たぶんもう、起こらざるを得ない、どうしようもない状態だったのではないかと思います。

> 印象ではなくて、そのとおりです。すでに今まで書いてきましたが、「観察者は観察されるもの」の理解は概念的分析的理解で出来るものではないからです。それなのに知的アプローチをとってしまっているのです。これは洞察なのです。洞察とは、物事を瞬時に把握することです。

> そして「観察者のいない観察」が始まるためには、「観察者は観察されるもの」という洞察が欠かせないのです。その観察の中で始めて、命名なしに物事が見られるということです。だから「観察者は観察されるもの」ということがわからないうちは、何を言っても、何をやっても、堂々巡りと矛盾に終わります。

もしかして堂々巡りと矛盾に終わるのは。クリシュナムルティが命名したことを、実体化して、対象として、考えてるのかもしれません。ただ、クリシュナムルティ関係の掲示板には、ほとんど、意識の限界に至ってる人を見かけます。

> ここの掲示板でも、皆さんが、瓦を一生懸命磨いているという印象を持ちます。で、ubikさんは、瓦を一生懸命磨くことを勧める(「機能としての自我を使おう」)と同時に、そうしても鏡にはならないというか、その問題点を指摘されているように思いました。私は、瓦を磨いても鏡にはならないという指摘で十分だと思いましたが、まあ、対話の相手と状況にもよるのでしょう。

いくら瓦を磨いても、鏡にはなりません。しかし、どんな瓦も触媒であり、鏡を磨く人は、鏡にならない、どんな瓦でもありません。それで鏡になったら、初めから人は鏡だった。もあり、磨く作業をした努力こそ、その人を鏡にした。もあり。です。ただの瓦。もあり。です。

たしかに、磨く(自分の有り様を理解する)ことを、お奨めしています。また、そういうことを実践してる人が、話しかけてくれます。それは、とことん触媒を活用することです。また、無(潜在)意識にある種を掘り返すことにも意味があるからです。

それは体験が起こったら、自分に起こったことを理解しやすいからでもあります。また深い理解が起こります。さらに悟ってもないのに生まれつき悟ったように思い込んでる(もとの言葉の意味はともかく)無事禅、自然外道の有り様に陥らない効果もあります。

No.696 - 2008/04/22(Tue) 17:36:34

Re: / ムーミン
>そこで。それが、なぜそうなってるか?ということがあります。とりあえず「感覚的な反応(思考・感情の反応)」は、知覚できるときだけあるのでしょうか。もしかして、なにかの出来事、物事によって、それが無(潜在)意識から偶発的に引き出されて、見えるようになっただけかもしれません。隠された種から芽が出た、からかもしれません。

>ならば、その隠された種は、根絶できるでしょうか。それが発芽するということは、実は、まだ理解されてない、たとえば非難や正当化などの理由がある可能性が否めません。だとしたら現れる度に「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られて」も、直接に解決に結びつくのは困難かもしれません。

おっしゃっている意味がよく解りませんが、まず、生きている以上は、さまざまな感覚が刻々と生じ、変化し、滅していくということがあります。もちろん、その感覚は知覚して初めてわかるわけですが、その知覚を解釈する者がいないということです。解釈者がいないことで、その感覚が問題視をされることはありませんし、名づけることも、制御されることもありません。したがって、心理的問題が発生しないということなのです。ただ変化していく感覚を静かにながめているだけなのです。もちろん、日常生活の必要に応じて、認識、命名することはありますが。それで何か問題ですか?

>それは・・・「形式的記憶としては浮上しますが、記憶の感情的内容が働くということはありません」。どうして、そうなのか。この理由に解決の糸口がありそうです。ここは、その人の経緯によって違うし、どう了解するかも人それぞれだし、複雑で微妙な話になります。

解釈者がおらず、感情的内容が機能しなくなることで、心理的問題はなくなりますが、そこのどこに問題がありますか?

>とりあえず自分のことを話します。それは、そうだと知らないで働いてる無知(無明)が、そうだと知らないで働いてる智恵に転換してるからです。これは知覚できる、実感できる、とある思考だけを、ある、と見ていては、理解は困難です。

「無明」の反対は、知恵ですが、より具体的にいえば「如実知見」ということです。「如実知見」というのは事実をありのままに見、知ることです。感覚の解釈者がいないとき、事実が何の歪みもなく見られます。「無明」とは虚妄分別ともいいますが、感覚を解釈、すなわち分別し、事実と空想を取り違えることです。この顛倒が苦しみを生むわけです。解釈者がいないことは、すでに転換があるのではありませんか?

もしかして、ubikさんは、ご自分は、意識も無意識も、それらの一切を理解し尽くした、とおっしゃっているのですか?

>それを無知が転換された智恵などと、勝手に呼んでいまが、それを自覚しないで自覚する。そうするのは、自覚できない自己。その自己にとっては、ありとあらゆることが・・・たとえば怒り、非難や正当、記憶が・・・単なる物質、身体、感覚、感情、意識という人の構成要素(素材)の運動です。それが人を成長させる触媒です。

>それで、その素材は、触媒であり、無くなるということはないのです。ただ変わるのは、人、です。これは、あとの瓦の話に続きます。

ええ、もちろん意識的に解釈しないようにすることが、解釈者がいないということではありません。解釈者がいないときには、肯定も否定も、非難も正当化も、受容も拒絶もありません。さらに、物質、身体、感覚、感情、意識への同一化もありません。ただあらゆるものの変化だけが知覚されます。


>じつは、心という言葉の意味が解りません。意識のことでしょうか。ふつうの静かな意識には、固定観念は無縁です。そういう名前ですが固定観念も、やはり運動だと思います。否定も肯定も、非難も正当化も、受容も拒絶も、運動でなければ、成立しないと思います。それが運動だということに気がつくことは大切です。

ええ、否定も肯定も、非難も正当化も、受容も拒絶もすべて、心理的な運動であり、心理的時間です。このことは「自我」と「無我」を見たとき、それがもたらす結果とともに、ありありとわかったでしょ?それで、静かな心というのは、心理的な運動がないということです。心が空っぽということです。

「自我」の持つ「思い」、すなわち観念、経験、知識など今までアイデンティティとしていたものが、すべてはがれると、心は「空っぽ」になります。これは「無我」を見たときに初めて把握できますよね。

たとえば、もし、それに恐怖を感じたとすれば、その「空っぽさ」から逃れる思考の運動が恐怖と呼ばれるものです。「空っぽさ」から一歩も動いていないときは、それはまったく静かで、また未知のものであるゆえに新鮮なものですよね。そのとき存在するものを、あえて言葉で表現するとすれば、状況に応じて、「真」であったり、「善」であったり、「美」であったり、「愛」であったりするということなのではないかと思います。これが本来の意味での宗教、芸術の源泉なのでしょう。これは心が静かでないとき、すなわち「自我」が機能している限りは決してわからないのではありませんか?それらを空想し、一時の慰め、満足に使うことはできるのでしょうが。


>もしかして。そういう運動が、心理的時間と呼ばれているのでしょうか。自分は、意識の時間旅行、と呼んだことがあります。そうだとして、心理的時間のないことを、時間の終焉と命名することには疑問を感じます。やはり心理的時間の終焉と、表現したほうがいいと思います。

時間の終焉というのは、どなたがおっしゃったのか知りませんが、もちろん心理的時間の終焉ということではないでしょうか。物質の生々流転の時間の意味ではないと思います。

>また。たとえば慈しみと憎しみ、怒りと冷静、非難や正当化、のように。なにかとなにかを、あることと反対のことというように、対極と見る。このことが、すでに、とんでもない誤解であり、問題です。

ええ、すべては心理的な運動です。したがって苦しみの流れの中にあります。「苦しみ」はサンスクリット語で「ドゥフカ」といいますが、原語の意味は「思い通りにならない」ということです。

>それはともかく、身体にいくつかの力の塊を感じています。その位置によって、感じることが違います。そして静かさは、胸の位置です。とくに波風が立ってないから静かというわけではなく、たとえ街を歩いていても、静か、という感覚が生じています。これは、だからなんだということではありません。

それはいわゆる、ヨーガでいわれるチャクラというやつで、身体の免疫中枢の場所でしょ?脳の神経中枢という中央集権的なシステムが静かになると、分散的な免疫系が活性化して、敏感に感じるようになってくるということはあるようですよ。胸のチャクラのことはラマナ・マハルシなどは「ハート・センター」などと呼んでいるようです。「静か」という感覚は私もよくわかります。

>もしかして堂々巡りと矛盾に終わるのは。クリシュナムルティが命名したことを、実体化して、対象として、考えてるのかもしれません。ただ、クリシュナムルティ関係の掲示板には、ほとんど、意識の限界に至ってる人を見かけます。

ええ、実体化、対象化それ自体が矛盾で、その帰結は堂々巡りなのです。「思考者」と「思考」の分離があるのです。

>いくら瓦を磨いても、鏡にはなりません。しかし、どんな瓦も触媒であり、鏡を磨く人は、鏡にならない、どんな瓦でもありません。それで鏡になったら、初めから人は鏡だった。もあり、磨く作業をした努力こそ、その人を鏡にした。もあり。です。ただの瓦。もあり。です。

ええ、ただ、私の言いたいことは「機能としての自我」を使う者と「自我」とは別のものなのかということです。それもまた自我の一部でしょう?「思考者」と「思考」と同じように。だから堂々巡りがおきる。それに気づくことで、手段も目的も尽きるのです。それで、それは手段も目的も尽きたときに、自分のしていたことがありありとわかる、ということなんです。

>たしかに、磨く(自分の有り様を理解する)ことを、お奨めしています。また、そういうことを実践してる人が、話しかけてくれます。それは、とことん触媒を活用することです。また、無(潜在)意識にある種を掘り返すことにも意味があるからです。

「無(潜在)意識にある種」は掘り返すというのではなくて、ただ気づいているとき、自然に掘り起こされてきませんか?その浮上を妨げているのが「自我」でしょ?

No.698 - 2008/04/23(Wed) 11:30:42

Re: / ubik0101
> おっしゃっている意味がよく解りませんが、まず、生きている以上は、さまざまな感覚が刻々と生じ、変化し、滅していくということがあります。もちろん、その感覚は知覚して初めてわかるわけですが、その知覚を解釈する者がいないということです。解釈者がいないことで、その感覚が問題視をされることはありませんし、名づけることも、制御されることもありません。したがって、心理的問題が発生しないということなのです 。ただ変化していく感覚を静かにながめているだけなのです。もちろん、日常生活の必 要に応じて、認識、命名することはありますが。それで何か問題ですか?

ただ命名ということなら、なんであれ、名前の付けられないことに、名前を付けてるだけですから、どんな命名も問題ありません。ただ命名することで、たとえば非難、偏見するために、対象との、また自分との、分裂が起こってるなら、すでに自我が機能してるということで、問題です。

> 解釈者がおらず、感情的内容が機能しなくなることで、心理的問題はなくなりますが、そこのどこに問題がありますか?

まったく無問題です。心理的問題が発生しないことは祝福すべきことです。ただ、どうして心理的問題がなくなったのか?その仕組みを見ることで、さらに学ぶことができる、という提案です。

> 「無明」の反対は、知恵ですが、より具体的にいえば「如実知見」ということです。「如実知見」というのは事実をありのままに見、知ることです。感覚の解釈者がいないとき、事実が何の歪みもなく見られます。「無明」とは虚妄分別ともいいますが、感覚を解釈、すなわち分別し、事実と空想を取り違えることです。この顛倒が苦しみを生むわけです。解釈者がいないことは、すでに転換があるのではありませんか?

そうです。すでに転換、変容、成長があります。

> もしかして、ubikさんは、ご自分は、意識も無意識も、それらの一切を理解し尽くした、とおっしゃっているのですか?

あの体験は、まずは意識と無意識の融合でした。それが始まり、その過程、その完成を見ていました。いつもは暗黒の無意識の領域までが明るくなって、総てを見渡せました。超意識と呼んでいますが、そういう状態になりました。

それは思考が止滅したのではなく、すべての感情や思考が、全活動状態になったのです。火が消えたのではなく煙のでない完全燃焼。エンジンで例えるなら、無音の超高速回転です。すべてが活動してるから両極端にも中間にも、どこにも偏れないのです。その意味で中道です。その超意識が、まず、自我の仕組みを見ました。

そこからは、それは凄く単純でした。なにかを見たり聞いたり思考してるから、その中心が『予め』設定される。というだけでした。つまり先に自分があって、それが見たり聞いたり思考してるのではない、ということです。たとえば子供を叱る親がいます。親としては自分が子供を叱っています。しかし叱ることによって、自我が設定されてるだけです。その中心は虚構です。

そのことを自我の機能から言って。自我の肯定でもなく、否定でもなく、完成が無我です。と表現しています。それが完成したから、もう必要なくなったのです。欲望の機能が完成したから、もう必要なくなったのです。自我や欲望は、完成してないから機能しています。そんな自我や欲望は、自らを犠牲にして、人を成長させるという役目があるのです。でなければ、必要ありません。

そして欲望や自我が機能してるなら、倒錯(もしかして仏教用語では顛倒)してるということを見ました。物質、身体、感覚、感情、意識は、自己のためにあります。けど。倒錯してるなら、それが自己より重視されています。それを崇めています。逆立ちで人は生きています。

その逆立ちが不断に人を鍛えています。そのことが、たとえば生活や、知識や、信仰に依存、執着する、ということです。欲望と自我です。それが完成して、機能しなくしなくなって初めて、人が自覚できなくても、24時間倒錯してた、ことを見ます。それを見たら、自己が総ての主です。ただその自己を空想したら、それは自我の機能です。

くり返しますが、なにかの人の状態を求めて修行したのではありません。または自分に起こったことを、なにかの知識によって、解釈したのでもありません。なにかを止滅させたり、成り切ったりするのではなく、人の構成要素の全活動なので、人為的に起こすのは不可能です。

その意味で、方法はありません。しかし怠惰も勤勉も善も悪も、総てが方法であったのです。それまでの人生の、どんなことも不可欠です。ただ自分と思う自分を捨てるだけを行い、その捨ててきた総てが、活動してるのを見たのです。全否定が全肯定になりました。失っても、なにもなくならない、というのは、その意味でもあります。

> 「自我」の持つ「思い」、すなわち観念、経験、知識など今までアイデンティティとしていたものが、すべてはがれると、心は「空っぽ」になります。これは「無我」を見たときに初めて把握できますよね。

それで、「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」ではなく、機能が完成したということです。完成したパズルは、もう遊んだり悩んだりする意味がない。ようなことです。でも「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」という表現も、あり、と思います。おなじ三角錐でも、切る角度で、円、楕円、放物面、三角に見える、ということだと思います。

もちろん、中心は虚構ですが、自我の運動として機能するのは、ふつうの感情や、意識など人の構成要素(素材)です。自我が機能してる間は、その運動に惑わされてきました。けど。その素材の機能には、なんの罪というか問題はありません。たぶん、事実に事実でない判断をしたりすることが、問題なのかもしれません。そうでないなら過去を思っても、未来を思っても、なにかに拘わっても、無問題です。それを使おう、ということです。

> たとえば、もし、それに恐怖を感じたとすれば、その「空っぽさ」から逃れる思考の運動が恐怖と呼ばれるものです。「空っぽさ」から一歩も動いていないときは、それはまったく静かで、また未知のものであるゆえに新鮮なものですよね。そのとき存在するものを、あえて言葉で表現するとすれば、状況に応じて、「真」であったり、「善」であったり、「美」であったり、「愛」であったりするということなのではないかと思います。これが本来の意味での宗教、芸術の源泉なのでしょう。これは心が静かでないとき、すなわち「自我」が機能している限りは決してわからないのではありませんか?それらを空想し、一時の慰め、満足に使うことはできるのでしょうが。

そうです。自我が機能してれば、不思議を見ることが不可能です。ただ真善美はともかく。愛は、ただ愛です。ほかのどんなことの表現でもありません。それは自己を満たし、世界を満たして、溢れています。それは人が感じても、感じなくても、そうです。そして愛の発信源が、実在です。神と呼んでも大丈夫です。それは実在なので、人が信じる信じないには無関係です。

> それはいわゆる、ヨーガでいわれるチャクラというやつで、身体の免疫中枢の場所でしょ?

たぶん、チャクラの位置にあると思います。そういえば昔、くり返し背骨の両側を震える電気のような凄い快感が駆け上がったことがあります。そんなことも、どーでもよかったのです。起こったことは、すべて顧みなかったのです。

> ええ、ただ、私の言いたいことは「機能としての自我」を使う者と「自我」とは別のものなのかということです。それもまた自我の一部でしょう?「思考者」と「思考」と同じように。だから堂々巡りがおきる。それに気づくことで、手段も目的も尽きるのです。それで、それは手段も目的も尽きたときに、自分のしていたことがありありとわかる 、ということなんです。

自我の機能を使うのは、自我にはできません。いわゆる自我は、使われてる状態です。自己の執事です。それが主がいない間だけ、主の代理をできるだけです。お金に使われるな、使え、という感じかもしれません。くり返しますが、その使う主を感じるなら、空想であり、自我の機能です。

> 「無(潜在)意識にある種」は掘り返すというのではなくて、ただ気づいているとき、自然に掘り起こされてきませんか?その浮上を妨げているのが「自我」でしょ?

なにか邪魔なことを解消することは、たしかに学ぶことです。しかし、そうでない学びがあります。新たに見る、ということです。たとえば自分の体験は、神に繋がる経(たていと)系と思います。ほかの体験者から(よこいと)系、「世界はひとつ」の体験を知りました。その緯系の体験を、自我の機能を使って見ました。

この世界の姿、は経緯と思います。それで誰かが神を認める、と言っても。その通り、です。また誰かが、分離などなく世界はひとつ、と言っても。その通りです。

No.701 - 2008/04/23(Wed) 18:50:45

Re: / ムーミン
>ただ命名ということなら、なんであれ、名前の付けられないことに、名前を付けてるだけですから、どんな命名も問題ありません。ただ命名することで、たとえば非難、偏見するために、対象との、また自分との、分裂が起こってるなら、すでに自我が機能してるということで、問題です。

ええ、ずっとそのことを言っています。

>まったく無問題です。心理的問題が発生しないことは祝福すべきことです。ただ、どうして心理的問題がなくなったのか?その仕組みを見ることで、さらに学ぶことができる、という提案です。

「自我」を見ると同時に「無我」を見るとき、自我の全過程、つまり仕組みが見えませんでしたか?そのとき、その暴力性と破壊性がありありとわかりませんでしたか?そこまでいわないにしても、何かに能動的に働きかけることの無益さが。それを見ると、自然と分離をもたらす思考が働かなくなります。それが働かなくなると、今まで気づかなかったさまざまなこと、つまり無意識の部分も気づくようになります。

それでさまざまなものが生じては理解されて消えていきます。私はそれを「学び」と呼んでいます。ですから、私の場合は自我が機能しているうちは「学び」がないと、感じています。なぜなら知っていることを確認しているに過ぎないからです。同じところをぐるぐる回っているだけでしたから。それが自我の機能です。実際、自分の中で大手を振って自我が闊歩しているときがそうでしたから。「自我」と「無我」を見て初めて「学び」が始まるという感じです。まぁ、これはubikさんと私の「学び」という言葉の使い方の違いのようですね。

>それで、「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」ではなく、機能が完成したということです。完成したパズルは、もう遊んだり悩んだりする意味がない。ようなことです。でも「アイデンティティとしていたものが、すべてはがれる」という表現も、あり、と思います。おなじ三角錐でも、切る角度で、円、楕円、放物面、三角に見える、ということだと思います。

そうですね。上記の「学び」という言葉の使い方の違いのように、言葉、表現の違いですね。了解。

>あの体験は、まずは意識と無意識の融合でした。それが始まり、その過程、その完成を見ていました。いつもは暗黒の無意識の領域までが明るくなって、総てを見渡せました。超意識と呼んでいますが、そういう状態になりました。

>それは思考が止滅したのではなく、すべての感情や思考が、全活動状態になったのです。火が消えたのではなく煙のでない完全燃焼。エンジンで例えるなら、無音の超高速回転です。すべてが活動してるから両極端にも中間にも、どこにも偏れないのです。その意味で中道です。その超意識が、まず、自我の仕組みを見ました。

ubikさんの体験はわかりました。私には意識と無意識に境界があるという感覚はなく、個人的な部分、集団的な部分もふくめ、ただまだ知られていない意識の部分があるという感覚なのですが、気づくようになってからは新しい発見がいろいろとあります。

ただ、どうなんでしょうか。「無意識の全領域を見渡した」っていうのは。人によっては意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みますから。あとは下の部分。「神」という言葉がでてきますが、これはどんなものを指し示す言葉ですか?人格神のような実体としての「神」ではないのでしょ?

>なにか邪魔なことを解消することは、たしかに学ぶことです。しかし、そうでない学びがあります。新たに見る、ということです。たとえば自分の体験は、神に繋がる経(たていと)系と思います。ほかの体験者から(よこいと)系、「世界はひとつ」の体験を知りました。その緯系の体験を、自我の機能を使って見ました。

>この世界の姿、は経緯と思います。それで誰かが神を認める、と言っても。その通り、です。また誰かが、分離などなく世界はひとつ、と言っても。その通りです。

ここで注意が必要だと思うのは、ubikさんも自覚的だとは思いますが、これが、つまり「神」や「超意識」が知っているものの投影である可能性もある、また、ユングがいうところの「自我インフレーション」という可能性もあるということですよね。「自我インフレーション」というのは無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型に自分を同一化する、それを自分の姿だと思ってしまうことです。これは宗教団体の教祖などによく見られる現象です。いずれにせよ、慎重さと注意深さが必要だということなのでしょうね。

ちなみに、過去の聖者といわれる人を見てみますと、完全な心理的な死とともに、実際にいったん、肉体的な死を経験し、そののち復活、蘇生するという事例がよく見受けられます。まぁ、人によってそれぞれのようなので、実際の「死と復活」が必ずあるということは一概には言えませんが。

>そうです。自我が機能してれば、不思議を見ることが不可能です。ただ真善美はともかく。愛は、ただ愛です。ほかのどんなことの表現でもありません。それは自己を満たし、世界を満たして、溢れています。それは人が感じても、感じなくても、そうです。そして愛の発信源が、実在です。神と呼んでも大丈夫です。それは実在なので、人が信じる信じないには無関係です。

ええ、ただ「愛は、ただ愛」であるにしても、自我が機能しているうちは、それがはっきり見えませんし、「神」と同様に、「愛」と思っていたものが実は偽者、つまりは空想の「愛」、知っているものの投影だったということもあるでしょうね。

No.707 - 2008/04/24(Thu) 14:52:56

Re: / ubik0101
> 「自我」を見ると同時に「無我」を見るとき、自我の全過程、つまり仕組みが見えませんでしたか?そのとき、その暴力性と破壊性がありありとわかりませんでしたか?

ううん。超意識が見た仕組みだけです。その体験までに、ほかの体験もあり、捨てることが限界に達し(もう堂々回りの材料もなく)ただ生てることがあるだけ。どんなことにも執着しない状態になっていました。けど。どんなことにも執着してない、に執着してると微かに気がついてたと思います。

もしかして罪の燃焼ということなら、起こりました。それは倒錯からの解放。そして、どんな偏りも、じつは中道でしかない、ということです。極端もなく、中間もないのですから、どんな偏りも、善悪などとしての意味はないのを見ました。

ところで「自我」を見ると同時に「無我」を見る、その見た主体(変な言い方です)は何でしょう。また自我と、無我の関係は、どうなっていましたか。これを聞くことは随分、役に立つと感じます。

> それでさまざまなものが生じては理解されて消えていきます。私はそれを「学び」と呼んでいます。

それは、それまでは見えなかったことが、あるとき見えるようになっていく、ということなのでしょう。それで。まだ理解され消えてない「さまざまなもの」は、どういう理由で、まだ生じてない時は、まだ生じてないのだろう、と思います。また。理解され、消えていったことは、どうなるのだろう、と思います。ここに興味があって、ム−ミンさんに、しつこく質問してるんです。

> ただ、どうなんでしょうか。「無意識の全領域を見渡した」っていうのは。人によっては意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みますから。あとは下の部分。「神」という言葉がでてきますが、これはどんなものを指し示す言葉ですか?人格神のような実体としての「神」ではないのでしょ?

「人によっては意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みますから」これは空想、投影でないのなら、面白い見方です。それで、この世界のシステムを、そう見るとして、なぜ世界が、そう仕組まれてるのか?について話してる誰かを知ってるでしょうか。

神。実在。たとえば髭を生やした白い服を着た神ではありません。そういえば仏陀から見られた、これが回心だという記述を、どこかのサイトで見たことがあります。そうであれば、自分が自分を見るという不可能を可能にするために、自分の外に仮設された視点なのかもしれないと思います。それでも、そこに留まらなければいいのだろう、と思いました。というのも、なんであれ触媒です。

> ここで注意が必要だと思うのは、ubikさんも自覚的だとは思いますが、これが、つまり「神」や「超意識」が知っているものの投影である可能性もある、また、ユングがいうところの「自我インフレーション」という可能性もあるということですよね。「自我インフレーション」というのは無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型に自分を同一化する、それを自分の姿だと思ってしまうことです。これは宗教団体の教祖などによく見られる現象です。いずれにせよ、慎重さと注意深さが必要だということなのでしょうね。

たしかに。まず素直でなければ、見ることはできないと思います。ところで。「無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型」これ、実際にあるんでしょうか。空想なのでしょうか。あるとして、それに「自分を同一化する」ことが問題、という意味なのでしょうか。

> ええ、ただ「愛は、ただ愛」であるにしても、自我が機能しているうちは、それがはっきり見えませんし、「神」と同様に、「愛」と思っていたものが実は偽者、つまりは空想の「愛」、知っているものの投影だったということもあるでしょうね。

そうです。ある感情を愛と呼んでしまうこともあります。また自我が機能してる間も、愛について、理念的には、現実の生活を透かして見る、ことはできます。たとえば慈しみにも、憎しみにも、どんな状態にも関係なく、愛は愛と。そしていろいろ説明することも可能です。でも、そうできたことは、その時は、ちょっと嬉しい経験でした。

No.708 - 2008/04/24(Thu) 20:00:47

Re: / ムーミン
>ところで「自我」を見ると同時に「無我」を見る、その見た主体(変な言い方です)は何でしょう。また自我と、無我の関係は、どうなっていましたか。これを聞くことは随分、役に立つと感じます。

これもすでにずいぶん説明してきたのですが、これは心理的な意味での「見る主体」ということですね?心理的な意味での解釈者、認識主体はありません。それが意識されない。ただ知覚があるだけです。知覚を再認識はしない。もし「超意識」のような「見る主体」が意識されていたとすれば、すでにそれは解釈者の産物でしょう。ただ知覚があるとき、「自我」であったものは瞬時に転換しています。その知覚だけがあるときを「無我」と呼べば、そう呼べるだろうということです。

>それは、それまでは見えなかったことが、あるとき見えるようになっていく、ということなのでしょう。それで。まだ理解され消えてない「さまざまなもの」は、どういう理由で、まだ生じてない時は、まだ生じてないのだろう、と思います。また。理解され、消えていったことは、どうなるのだろう、と思います。ここに興味があって、ム−ミンさんに、しつこく質問してるんです。

伝わっていなかったようですね。自我が機能しなくなると、つまり解釈者がいなくなると、無意識が開示されてくる、あるいはすでに開示されてはいたが、それが自我によって歪んでいたことなどが、わかってくる、ということがありませんか?そして、それらが理解され消えていくことで、それは再び感覚として生じないということがあるでしょう?人や物との関わりの中で、自我としては機能はしないけれども、さまざまな感覚的反応が生じるでしょ?それが知覚の機能によって、言い方は変かもしれませんが、どんどん供養されていく、ということなのですが。

今までの分とあわせて、これでも伝わらないとすれば、何か特定の体験でも想定されて質問されているのでしょうか?たとえば「超意識」の体験とか、「神」の体験とか?

>神。実在。たとえば髭を生やした白い服を着た神ではありません。そういえば仏陀から見られた、これが回心だという記述を、どこかのサイトで見たことがあります。そうであれば、自分が自分を見るという不可能を可能にするために、自分の外に仮設された視点なのかもしれないと思います。それでも、そこに留まらなければいいのだろう、と思いました。というのも、なんであれ触媒です。

ええ、イエス・キリストを見るとか、仏陀を見るという体験は、知っているものの投影でしょう。意識、無意識を問わず、知っているものしか見ない。

>たしかに。まず素直でなければ、見ることはできないと思います。ところで。「無意識の中にある、より高いもの、より大きいものちう元型」これ、実際にあるんでしょうか。空想なのでしょうか。あるとして、それに「自分を同一化する」ことが問題、という意味なのでしょうか。

ubikさんのされた体験というのは、人によって、その出来事の解釈に多少の違いはあるようですが、いわゆる至福感をともなう「意識の拡大」と一般的に呼ばれている現象です。これは何の前触れもなく起こることもありますが、ヨーガの呼吸法や覚醒剤で人工的に起こすことも出来るもので、ドーパミンなどの脳内物質による感覚的なもののようです。

その時、その感覚の解釈者がいなければ、それはただ生じ、展開され、消えていくだけですが、解釈者が現れると、その感覚を解釈し、命名し、同一化するという一連の自我の機能、過程が始まり、その感覚に捕らわれますよね?その結果、その体験が重要なものとなったり、貴重なものとなったりします。あるいは人によっては、その体験をかたくなに否定するかもしれません。そして、そのことが当人に意識されないということです。つまり、無意識、無自覚だということです。元型というのは実際にあるのかないのかということではなく、心理現象を説明するための単なる概念です。

それで、その感覚に捕らえられて、それが知覚されていないと、「超意識」や「神」の体験が批判されたり、否定されたり、何らかの妨害に出会うとき、あたかも自分が否定されたように不快感を感じ、攻撃的になったりするということです。「同一化」の問題とはこういうことですね。

No.709 - 2008/04/25(Fri) 10:39:55
倫理 / hato

倫理は、愛からくるもの。

それに対して道徳は、外からくるもの、と池田晶子さんが言っていたように思います。


わたしはただいつも、
自我が壊されるのを恐れて、
逃げているだけでしょうか?

愛の導きから、
目を背けているでしょうか?

ときどき本当に、
わからなくなります。

No.640 - 2008/04/12(Sat) 22:01:47

Re: 倫理 / ubik0101
池田晶子さんの言葉は、それだけを聞いた範囲では・・・まず、「愛」と「愛でないもの」の区別をすることは、たぶん、もともと不可能です。

それで倫理と道徳の違いも、なんとなく自分の知識や感覚で、「愛からくるもの」とか「外からくるもの」とか、意味づけしなければ、定義できないと思います。

また。逆に見て倫理や、道徳で、愛が定義できるとは思えないのです。でも、人が、思考するってことは、そういう独断、無理をしています。そんな思考を負荷にして、自分を訓練すると言えるでしょう。

いま見てる思考と、見ていない思考との関係も、実は、よくわかりません。もちろん見てない概念と、見てない概念との関係。これ「本当に、わからなくなります」。このわからないところに、hatoさんも気がついたのでしょうか。

(たとえば、慈しみと憎しみ。これを、とあることと、反対のことと、看做す人もいます。これも錯覚なのに、解るような気がしてるだけということもあります)。

それで問題は、見られてる言葉や意味や思考ではなく。それを、なにが見てるのか?ということにあります。それで・・・

>わたしはただいつも、
>自我が壊されるのを恐れて、
>逃げているだけでしょうか?


>愛の導きから、
>目を背けているでしょうか?


その、わたしは、なに?

No.641 - 2008/04/13(Sun) 08:20:36

Re: 倫理 / hato

> その、わたしは、なに?


わかりません。


現時点では、自我を極力解消しようとする働きがあります。
世界を知覚する、だけのときもあります。
自我と欲望になって、しまうことも、あります。

捨てる為にいくつか、ここに書きます。
物語は、ここまでの成長に必要なだけだった、と思います。
不必要なことかもしれません。そのときは消去して下さい。
よろしくお願い致します。

頭の上を漂っていたのは、生まれてすぐの頃だと思います。
タンスに捕まって、立ち上がる自分を出たり入ったりしていて、嬉しそうに子供の様子を見ている両親を見ていました。その時、意識は子供というわけではない、
と不思議に感じていました。
子供の頃は、そんなことがあるかもしれません。
それから、殆ど純粋に近い恐怖をある時期感じていました。
このページに来て様々学びながら、虚無だったのか?と思いました。
ふいに訪れる愛、愛されている感覚はありますが、
まだ、解放されたといえません。
準備ができていないからと思います。

ubikさんがお話される、春のカイブツには、
一度忠告されたことがあります。(最近、あれがそうだったの?と気付いたのです)
ごくまともな話をされたので、口が耳まで裂けた怪物だとは。思いませんでした。
人違いかもしれないけれど、まあ、それはよいのです。

「とにかく自分のことを理解しなさい」

そして、自分の道をきちんと行っている人がいること。
そのようにしますか、
或いは自分をボロボロにしてしまいますか、と問い糺されたと思います。
そう言われても、なんのことかわからないほど、な状態でした。
きちんと道を行っている人。それがubik0101さんのことだった。と気付いたのは、靄が解けるように、最近でした。
愛があるのに、なぜ、ことさら狭さに気付くように自分を仕向けるのかと、叱られたのでしたが、時間でいえば10年以上も前のことでも、今に響く内容です。

自己に根差すこと、
自分の表現したいことをを明確に言えるようになること、
こうしたことを学ぶから偉いわけではないのだと、お話されました。

今日やっと、「どちらでもあり、どちらでもない」を状況に適応して、理解できるかもしれない、ことを覚えました。
概念を手放す爽快感、空の感じ、が、漸く、腑に落ちるときがある気がします。

No.642 - 2008/04/13(Sun) 21:08:03

Re: 倫理 / hato

> 池田晶子さんの言葉は、それだけを聞いた範囲では・・・まず、「愛」と「愛でないもの」の区別をすることは、たぶん、もともと不可能です。

> それで倫理と道徳の違いも、なんとなく自分の知識や感覚で、「愛からくるもの」とか「外からくるもの」とか、意味づけしなければ、定義できないと思います。
>
> また。逆に見て倫理や、道徳で、愛が定義できるとは思えないのです。でも、人が、思考するってことは、そういう独断、無理をしています。そんな思考を負荷にして、自分を訓練すると言えるでしょう。



こちらは曖昧なことを言って、すみません。

池田さんはおそらく、ある限定的な、社会の局面に向けて言っておられました。
たぶん、内と外、という言葉で表現されていました。
倫理は愛からくるのでは、と思ったのはわたしです。
この場合、逆方向に言える必要があるのでしょうか?

愛から倫理が派生する、
倫理から愛は必ずしも派生しない、

でも、よいのではないのでしょうか?
(こういう話は、正直なところ、よくわからないのです)
ある局面には適応できる、ものかもしれないと感じます。
でも、愛でないものがある、というのはおかしいと、了解します。

道徳、と倫理、は、使われている漢字をみても、
それが外部的なものから教え込まれる、ような意味合い、
一方は内奥から、即ち愛(といってよいかはわかりませんが)から響いてくるもの、というように、感じられます。
でも、そうですね、これは独断的なことかも知れません。

No.643 - 2008/04/13(Sun) 21:12:56

Re: 倫理 / ubik0101
「パタパタ、
パタパタ、
やっと、飛ぶ、練習。 」

すこし前に、hatoさんが、こんな投稿したとき、実は、おなじ世界を一緒に見てるよって、感じがしたのです。そして今回の示唆に富む投稿でも、いろんなことを思いました。

とくに学生時代“ああ、自分て、どんなことでない、そのことさえ表現できないくらい、どんなことでもないんだ”。こう感じていながら、それが言葉にならず、これを勝手に、無規定って、呼んでた。のを思い出しました。

とりあえず、自分の思考や生活を、自分と思ってなくては、人は、不安なのかもしれません。でも、なにかを自分と思わないのが、不安じゃなかった。というより自分が、なにかであるのは嫌だった。けど。それも、この現実が、ある、ということ、を暗黙の前提にしての有り様でした。

そんな自我があっても、あるってこと、自覚できませんでした。自覚できなくても、あったんです。何かの激しい思考や感情が生起することが、自我とは、言えないのです。欲望もそうで、何かを求めてることが、欲望ではありません。そんなことを思いました。

>愛から倫理が派生する、
>倫理から愛は必ずしも派生しない、


>でも、よいのではないのでしょうか?

倫理と道徳、
言葉を入れ替えても、おなじだけど、
そう思います。

No.644 - 2008/04/14(Mon) 08:31:26

Re: 倫理 / hato

> すこし前に、hatoさんが、こんな投稿したとき、実は、おなじ世界を一緒に見てるよって、感じがしたのです。そして今回の示唆に富む投稿でも、いろんなことを思いました。

いろんなことを。
それは何でしょう。
いつか伺いたい気がします。
同じものを、それが何かはわからないけれど、
了解し合う人がいる、ということが嬉しいのです。

> とりあえず、自分の思考や生活を、自分と思ってなくては、人は、不安なのかもしれません。でも、なにかを自分と思わないのが、不安じゃなかった。というより自分が、なにかであるのは嫌だった。けど。それも、この現実が、ある、ということ、を暗黙の前提にしての有り様でした。

ubikさんのレベルではないと思うけれど、なにか決定される、ことはとても、苦手だった。決まってしまう、と思うことが恐かったのです。わたしの場合は、ここで生きる覚悟が上手くできなかったのだと、思います。

> そんな自我があっても、あるってこと、自覚できませんでした。自覚できなくても、あったんです。何かの激しい思考や感情が生起することが、自我とは、言えないのです。欲望もそうで、何かを求めてることが、欲望ではありません。そんなことを思いました。

ここは、ゆっくり考えてみたいと思います。
ありがとうございます。

いつも、遅くなり、ごめんなさい。

皆さまがそうと思います、ubikさんはとくにそうなのではと思われますが、無理をしないで下さい、と思います。


> 倫理と道徳、
> 言葉を入れ替えても、おなじだけど、
> そう思います。


徳は外から知るものではないでしょうか、
そのものでないときにと、言いたかったと思います。
でもなにかただ、言い張っているだけ、のようです。


見てない概念と見てない概念との関係、
それは、なんでしょう。
またひとつ、課題を頂いたように思います。

No.645 - 2008/04/14(Mon) 23:55:50

Re: 倫理 / ムーミン
はじめまして。ヤフー掲示板経由できました。

>道徳、と倫理、は、使われている漢字をみても、
>それが外部的なものから教え込まれる、ような意味合い、
>一方は内奥から、即ち愛(といってよいかはわかりません
>が)から響いてくるもの、というように、感じられます。
>でも、そうですね、これは独断的なことかも知れません。


池田さんの本は読んだことはありませんが、うわさには聞いたことがあります。

池田さんは西洋哲学を学ばれた方なので、もしかするとこの「倫理」という言葉はスピノザの『エティカ』から来ているのかもしれません。「エティカ」というのは「倫理」という意味です。

まず「道徳」とは国家、社会、学校、家庭などで刷り込まれる「こうあるべし」というものだという気がします。つまり外部のもの。

スピノザが使う意味での「倫理」は、一種の「心の秩序」とか「心の生態系」とも言えるのではないかと思います。それで、この「心の秩序」があるときに働くものが「愛」と呼ばれるものではないかという気がします。したがって「倫理」は内在。

この「心の秩序」を歪めているのが、「こうあるべし」という道徳ではないかと思います。すべての道徳からの自由があるとき、「心の秩序」が生まれるのではないかという気がします。

スピノザは汎神論ですから、神の属性である「愛」が私たちの中にも宿っているということが言えるのではないかと思います。したがって、この「愛」は欲望に根ざすものではない、あらゆる限定を超えた「愛」ということができるのではないかと思います。

ヨハネの福音書に「最初に言葉(ロゴス)ありき」とあります。この「言葉」(ロゴス)を内的秩序と解釈する人もいます。

No.648 - 2008/04/16(Wed) 12:00:13

Re: 倫理 / ムーミン
>> その、わたしは、なに?

>わかりません。

おーい、hatoさーん。

No.649 - 2008/04/16(Wed) 12:03:10

Re: 倫理 / hato

大阪さん恐るべし。


ムーミンさん。
言葉で展開すると、仕組みがわかるような気がします。
ありがとうございます。
わたしは単純に、そのものでない、ときに見えること、
としての、道徳、を感じていただけなのです。

ubik0101さんは、わたしに正確に考えて表現させる為に、
倫理と道徳の違いとは、と提起されたと思いました。
が、もしかして
それだけではないかもしれないと感じています。
人の心配する前に自分よねと、叱られそうです。

見る視点を超えると、初めの意味も意味でなくなるでしょうか。それでも無秩序ではない、ということがあるかもしれません。
あらゆる限定を超えた、愛。
それでも、無秩序ではない、と。
少し、訓練が必要と思います。

この世界では初めに言葉ありき、
なので、思考の仕組みを解こうとするでしょうか。
言葉がなくても、愛はあると思うからです。


> おーい、hatoさーん。


はい。
これがわたしです。
わたしは、これです。

ならばhatoだと仮定されるこれは、なんなのでしょう。

No.654 - 2008/04/17(Thu) 00:27:47

Re: 倫理 / ムーミン
>見る視点を超えると、初めの意味も意味でなくなるでしょ
>うか。それでも無秩序ではない、ということがあるかもし
>れません。


「見る視点を超える」ことこそが「秩序」(心の生態系=自然)が発生することと思います。例えば「怒り」があるとき、その「怒り」を「見る視点」がないと、瞬時に「怒り」ではなくなるということがあります。そのとき「見る視点」があるから「怒り」がある、ということがわかると思います。

>あらゆる限定を超えた、愛。
>それでも、無秩序ではない、と。
>少し、訓練が必要と思います。


「愛」とは「私」(自我)がないとき働く何かでしょうか。
「愛」は訓練すればするほど遠ざかるものかもしれません。

>> おーい、hatoさーん。

>はい。
>これがわたしです。
>わたしは、これです。


「はい」と答えたときにあるもの。それ以外にない。

>ならばhatoだと仮定されるこれは、なんなのでしょう。

この問いの中に、すでに答えがあるかもしれません。「問う者」と「問い」。それは別のものでしょうか?

では。

No.658 - 2008/04/17(Thu) 10:21:21

Re: 倫理 / hato

> 「愛」とは「私」(自我)がないとき働く何かでしょうか。
> 「愛」は訓練すればするほど遠ざかるものかもしれません。


愛は、自我のあるなしに関わらず、愛ではないでしょうか。
そうです。自我を解消しようとする働きこそ、自我の自己保存です。そこを通ってきていえることです。


> 「そのとき「見る視点」があるから「怒り」がある、ということがわかると思います。
> 「はい」と答えたときにあるもの。それ以外にない。


>ならばhatoだと仮定されるこれは、なんなのでしょう。
> この問いの中に、すでに答えがあるかもしれません。

「問う者」と「問い」。それは別のものでしょうか?


了解しました。
誠に、ありがとうございます。

No.662 - 2008/04/17(Thu) 11:21:41

Re: 倫理 / hato

ですが、すこし、
言葉が足りませんでした。

> 「はい」と答えたときにあるもの。それ以外にない。

それは、ない、から、ある、ということだったでしょうか。
または、ある、から、ない、のでしょうか。
ないからある、ならば、そのどちらも自分でしょうか。
自分でないと前提にしたもの、それは何でしょう。

それは、やはり、不思議、ではないでしょうか。

問う者と問い。
それは、同じもの、と一方的に言えるでしょうか?
思考は起きる、流れていくものだと感じます。

どちらでもあり、
どちらでもない、
どう表現しても、、
ではないのでしょうか。

やはり、不思議、ではないのでしょうか。

まだ学びの最中です。
誤りは糺そうと思います。

No.664 - 2008/04/17(Thu) 20:21:19

Re: 倫理 / ムーミン
>愛は、自我のあるなしに関わらず、愛ではないでしょうか。

自我が何かへの執着だとすれば、執着があるときの愛と執着がないときの愛は同じものなのでしょうか?

No.665 - 2008/04/18(Fri) 09:47:23

Re: 倫理 / ムーミン
>それは、ない、から、ある、ということだったでしょうか。
>または、ある、から、ない、のでしょうか。
>ないからある、ならば、そのどちらも自分でしょうか。
>自分でないと前提にしたもの、それは何でしょう。


「はい」と答えた瞬間に、「ある」も「ない」もあったでしょうか?つまり心に迷いがあったでしょうか?
上のように問い始めるとき「ある」か「ない」か始まるのではないかと思います。つまり心がさ迷い始めるのだと思います。

>問う者と問い。
>それは、同じもの、と一方的に言えるでしょうか?
>思考は起きる、流れていくものだと感じます。


「ある」「ない」の迷い、二元が生じるとき、「問う者」と「問い」の分離が始まるように思います。「ある」も「ない」もないとき、「問う者」と「問い」の分離があるのでしょうか?「問う者」と「問い」の分離が苦悩の始まりではないかと思います。

>どちらでもあり、
>どちらでもない、
>どう表現しても、、
>ではないのでしょうか。


これが実際に何を意味するか、ということだと思います。

No.666 - 2008/04/18(Fri) 10:05:00

Re: 倫理 / hato

> 「はい」と答えた瞬間に、「ある」も「ない」もあったでしょうか?つまり心に迷いがあったでしょうか?
> 上のように問い始めるとき「ある」か「ない」か始まるのではないかと思います。つまり心がさ迷い始めるのだと思います。


ムーミンさんがどのような意味で、ある、ない、と言われているのかを伺いたかったと思います。

> 「ある」「ない」の迷い、二元が生じるとき、「問う者」と「問い」の分離が始まるように思います。「ある」も「ない」もないとき、「問う者」と「問い」の分離があるのでしょうか?「問う者」と「問い」の分離が苦悩の始まりではないかと思います。

そのように思われます。
ただ、二元性を生きるなかでは、分離と融合、の運動を通して変容していくのではないでしょうか。
二元性、分離はそれを了解しながら、ある意味ではツールに成り得る、機能だと思います。
では何の為のツールか?
わたしはまだ言うことはできません。
ただそれを、了解している、だけなのです。

> >どちらでもあり、
> >どちらでもない、
> >どう表現しても、、
> >ではないのでしょうか。
>
> これが実際に何を意味するか、ということだと思います。


まだ言葉にする力量がないことを残念に思います。
機会を頂いて、感謝致します。

No.669 - 2008/04/18(Fri) 23:15:25

Re: 倫理 / hato

> >愛は、自我のあるなしに関わらず、愛ではないでしょうか。
> 自我が何かへの執着だとすれば、執着があるときの愛と執着がないときの愛は同じものなのでしょうか?



愛は愛、としか、いえないと思います。
愛はどんなことにも関わりながら、関わらずに愛であると思います。
自我の有り様によっては、自らそれを拒絶する、といえるでしょうか。
ですが愛は愛として絶対ではないでしょうか。

No.670 - 2008/04/18(Fri) 23:17:35

Re: 倫理 / ムーミン
>そのように思われます。
>ただ、二元性を生きるなかでは、分離と融合、の運動を通
>して変容していくのではないでしょうか。


二元性の運動が苦悩をもたらしているのだとすれば、二元性の運動が苦悩を解決することは出来ない、ということになります。二元性運動の終焉もたらす二元性の揚棄のみが苦悩を解決するということになると思います。

>二元性、分離はそれを了解しながら、ある意味ではツール
>に成り得る、機能だと思います。


はい。二元性の揚棄のためには、二元性、分離を理解する以外にないと思います。それが現実にあるものだからです。あらゆる理想は、目の前の事実として存在しない、つまり架空のものですから。ただその理解が、知的な分析的理解にとどまる限り、延々と二元性が続くように思います。

>では何の為のツールか?
>わたしはまだ言うことはできません。
>ただそれを、了解している、だけなのです。


「はい」と答えたときの心の状態から、あれこれと思案し始めている心の状態への変化。その違いの中に、知的な分析的理解ではない、二元性の理解があるのかもしれません。

>>>どちらでもあり、
>>>どちらでもない、
>>>どう表現しても、、
>>>ではないのでしょうか。
>>
>> これが実際に何を意味するか、ということだと思います。


>まだ言葉にする力量がないことを残念に思います。

言葉にする必要はないと思います。言葉の指し示すものを感じればいいのだと思います。「どちらでもあり、どちらでもない、どう表現しても」ってどんな状態なのでしょう。心は静かで、ありのままに物事が、ただ見られてはいないでしょうか?そんな気がします。

No.671 - 2008/04/19(Sat) 09:54:28

Re: 倫理 / ムーミン
>>>愛は、自我のあるなしに関わらず、愛ではないでしょうか。

>> 自我が何かへの執着だとすれば、執着があるときの愛と執着がないときの愛は同じものなのでしょうか?

>愛は愛、としか、いえないと思います。
>愛はどんなことにも関わりながら、関わらずに愛であると
>思います。
>自我の有り様によっては、自らそれを拒絶する、といえる
>でしょうか。
>ですが愛は愛として絶対ではないでしょうか。


「愛」と「愛着」(愛著、渇愛)とは見分けがつきにくい、ということを言いたかったのです。「愛」と思っていても、実は「愛着」に過ぎなかった、ということもままあります。では「愛」とはなにか、そこに話がいくように思います。

No.673 - 2008/04/19(Sat) 10:37:34

Re: 倫理 / hato


> 二元性の運動が苦悩をもたらしているのだとすれば、二元性の運動が苦悩を解決することは出来ない、ということになります。二元性運動の終焉もたらす二元性の揚棄のみが苦悩を解決するということになると思います。

> はい。二元性の揚棄のためには、二元性、分離を理解する以外にないと思います。それが現実にあるものだからです。あらゆる理想は、目の前の事実として存在しない、つまり架空のものですから。ただその理解が、知的な分析的理解にとどまる限り、延々と二元性が続くように思います。

> 「はい」と答えたときの心の状態から、あれこれと思案し始めている心の状態への変化。その違いの中に、知的な分析的理解ではない、二元性の理解があるのかもしれません。


知的な分析理解。その通りと思います。
全身全霊で了解しようとする、ということは、
今、あるとして二元性の真っ只中で、自我や執着(これを同じレベルで語れるものかはわかりませんが)に携わりながら自ら経験、掘り下げる、掘り起こす、作業をするしかないと思いました。自我に関わらなければよい、ということではないと、思います。
それは生々しく、痛々しいことかもしれません。そうでない道は与えられませんでした。
とにかくそれでも、挑戦する人たちがいました。

その上で、昇華という可能性があるように思います。

No.677 - 2008/04/19(Sat) 18:23:22

Re: 倫理 / hato

> 「愛」と「愛着」(愛著、渇愛)とは見分けがつきにくい、ということを言いたかったのです。「愛」と思っていても、実は「愛着」に過ぎなかった、ということもままあります。では「愛」とはなにか、そこに話がいくように思います。

愛はすべての様相に分かち合われながら、
ということは、それぞれの有り様にしかあり得ない表現がなされながら、
且つ絶対であり得る、
などと言うと、野暮な気がします。
なのでやはり、
愛は愛としかいえない、
どんなことにも関わりながら、関わらずに愛である、
としか、言えないのです。

そう、思います。

No.678 - 2008/04/19(Sat) 18:27:55

Re: 倫理 / ムーミン
>知的な分析理解。その通りと思います。
>全身全霊で了解しようとする、ということは、
>今、あるとして二元性の真っ只中で、自我や執着(これを
>同じレベルで語れるものかはわかりませんが)に携わりな
>がら自ら経験、掘り下げる、掘り起こす、作業をするしか
>ないと思いました。自我に関わらなければよい、というこ
>とではないと、思います。


「自我」があり、それが機能している以上は、「自我に関わらない」ことは不可能ですよね。どう転んでも。で、自我のやっていることに気づくこと、ということなのでしょうね。

>それは生々しく、痛々しいことかもしれません。そうでな
>い道は与えられませんでした。
>とにかくそれでも、挑戦する人たちがいました。


>その上で、昇華という可能性があるように思います。

ええ、生々しく、痛々しいですよね。しかし、終わってみると「灯台もと暗し」だったということをよく聞きます。これはつまり、「自我」から逃れよう逃れようとすることが、「自我」そのものだった、ということを意味すると思いました。

No.680 - 2008/04/20(Sun) 11:37:46

Re: 倫理 / hato

> 「自我」があり、それが機能している以上は、「自我に関わらない」ことは不可能ですよね。どう転んでも。で、自我のやっていることに気づくこと、ということなのでしょうね。

> ええ、生々しく、痛々しいですよね。しかし、終わってみると「灯台もと暗し」だったということをよく聞きます。これはつまり、「自我」から逃れよう逃れようとすることが、「自我」そのものだった、ということを意味すると思いました。

自我をそのまま機能させながら生きるのが、ふつうの生き方だと思います。
「自我に関わる」という場合は、そこに起きることを放置せずに前提を掘り起こす、こととして言いました。
思考がきて、それを捉えてどうにかしようとするときに、自我が設定されるといえるでしょうか。
本当に切ないのです。ですが、自我は有り様によって問題提起するけれども、探求する人にも重要な贈り物と思います。二元的な自我を感じなくても、ここにあるなら、そして家に帰るなら、自我の機能は貴重なのだと、学びました。

No.684 - 2008/04/20(Sun) 21:21:22

Re: 倫理 / ムーミン
>自我をそのまま機能させながら生きるのが、ふつうの生き方だと思います。

そうですね。ところが、そうでない生き方も可能性として誰にでもある、ということなのです。

>「自我に関わる」という場合は、そこに起きることを放置
>せずに前提を掘り起こす、こととして言いました。
>思考がきて、それを捉えてどうにかしようとするときに、
>自我が設定されるといえるでしょうか。


そうです、そうです。何かの物事に接したときに何らかの感覚的な反応があります。それで、それを好きだとか、嫌いだとか、よいとか悪いとか、思考が介入して判断しますよね。そのときはすでに、感覚的反応をどうにかしようとする対象として認識していますよね。その判断基準、そしてそれにしたがってどうにかしようとすること、思い通りにしようとすること、それを私は「自我」と呼んでいます。

>本当に切ないのです。ですが、自我は有り様によって問題
>提起するけれども、探求する人にも重要な贈り物と思いま
>す。二元的な自我を感じなくても、ここにあるなら、そし
>て家に帰るなら、自我の機能は貴重なのだと、学びまし
>た。


「自我」が貴重なものでも、また貴重なものでもないとき、もう「自我」はないかもしれません。それは「ふと」訪れるのでしょう。

No.691 - 2008/04/21(Mon) 11:05:52
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