横からすみません。 私はウビさんの以下のこのコメントが大好きです。
<とりあえず質問があります。○○さんの、生きる目的、理由は、なんでしょう。これだ、と決められるでしょうか。
たとえば、楽しむことでしょうか。戦うことでしょうか。平和を築くことでしょうか。子孫を残すことでしょうか。ただ生きることでしょうか。死ぬことでしょうか。
どのような個別のことでも、ないのではないでしょうか。どのような人生を送っても満足できないのではないでしょうか。
その総べてでもないのではないでしょうか。この意味では生きる目的、理由はない、分からない、のではないでしょうか。それでもなお、満足を得たい気持ちがあるのではないでしょうか。
そして、満足したい気持ちがなくなるとしたら、ひとつには、諦めてしまうということがあるでしょう。そして、たとえば、きままに生きるとか、希望を持って生きるとか、したいようにしようとすることができます。それでも、それは基本が不満なのではないでしょうか。 そうでなく、ひとつには満足したい気持ちが達成されたから、満足したい気持ちがなくなるということがあるでしょう。それも、これだ、という個別のことではありません。どのようなことでもないでしょう。また、その総べてでもないでしょう。 ほとんど定義できません。
にも関わらず、人の生きる目的、理由は、成長と言います。たとえば無知の解決。欲望、自我の完成。物質、身体、感覚、感情、意識(つまり世界)への倒錯からの解放。自己。それは人が生まれたままの有り様では不可能なこと。という意味を込めて、成長と言っています。そのためには、この世界全体を活用しなくてはなりません。
つまり怠惰も勤勉も。善も悪も。偽善も嫉妬も。正しいことも誤りも。そして否定も肯定も。そして成長を望まないでいることも、成長を望むことも。つまり、とあることも、その類似のことも、反対のことも、関係ないことも。その総てを活用しなければ、ここで成長と言われていることは不可能と思います。
そのような有り様として、この世界全体は、成長する人のために機能しているのではないでしょうか。> ただ今、この瞬間、生命を生きれるようになる。ために成長が必要な気がします。全ての道は悟りに通ず?
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No.842 - 2008/06/05(Thu) 16:24:18
| ☆ Re: 成長、昔のコメント / ubik0101 | | | > ただ今、この瞬間、生命を生きれるようになる。ために成長が必要な気がします。全ての道は悟りに通ず?
そうです。読み返しても、間違いはありません。そして「この瞬間、生命を生きれるようになる」にも、限定された話ではないのは、のりさんは了解ずみ、と思います。それで、ここのところ話題にしてるのは。
まったく人が努力しなければ、規範や、観念を持ったりしなければ、はじめから叡智がある。執着のない、知覚からの行動がある。と、クリシュナムルティが言ってるらしいのですが、そうだとして、それが事実か?ということを探っています。自分としては、そんなことは泣いてる子供をあやすようなことで。事実ではない、と思っています。
まったく自我は最初から、ありません。けど自我は成長の役に立ちます。そして自我がないことを見るまでの過程で人は学びます。その結果としての、自我がなければ叡智がある、ということを、最初から自我がなければいいのだ、と混同してるのだと思います。
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No.846 - 2008/06/05(Thu) 18:19:22 |
| ☆ Re: 成長、昔のコメント / ムーミン | | | 話を一箇所にまとめたいのですが、若干の補足をして置きます。
>まったく人が努力しなければ、規範や、観念を持ったりしなければ、はじめから叡智がある。執着のない、知覚からの行動がある。と、クリシュナムルティが言ってるらしいのですが、そうだとして、それが事実か?ということを探っています。自分としては、そんなことは泣いてる子供をあやすようなことで。事実ではない、と思っています。
「努力」というのは、思い通りにならないことを思い通りにしようとする、心理的な格闘、苦しみのことです。規範や観念どおりに生きようとすることもこれに含まれます。この心理的格闘が叡智が働くのを妨げているということです。
>まったく自我は最初から、ありません。けど自我は成長の役に立ちます。そして自我がないことを見るまでの過程で人は学びます。その結果としての、自我がなければ叡智がある、ということを、最初から自我がなければいいのだ、と混同してるのだと思います。
現実には自我が機能し、叡智の働きを妨げているということですから、自我のしていることをよく理解しましょう、ということでしょう。その理解の結果として「成長」と呼ばれるもの、つまり叡智が、妨げられることなく働くでしょうということでしょう。ただ、理解の過程で、いわゆる観念として「成長」を目指すときには、それも自我の格闘なので、注意しましょう、ということです。「静かな心を求める」ときの心は静かではないということに気づきましょう、ということでしょう。
ここはこれで終わります。
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No.859 - 2008/06/07(Sat) 16:34:40 |
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