> これもすでにずいぶん説明してきたのですが、これは心理的な意味での「見る主体」ということですね?心理的な意味での解釈者、認識主体はありません。それが意識されない。ただ知覚があるだけです。知覚を再認識はしない。もし「超意識」のような「見る主体」が意識されていたとすれば、すでにそれは解釈者の産物でしょう。ただ知覚があるとき「自我」であったものは瞬時に転換しています。その知覚だけがあるときを「無我」と呼べば、そう呼べるだろうということです。
これまでのム−ミンさんの表現「「自我」を見ると同時に「無我」を見る」とか、その文章だけを見ると、自我というもの、無我というものがあると、言ってるのかな。と疑問に思ってたので。そうでないなら、了解です。
おなじことでしょうが。「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」その人が実際にそんな有り様であって、なぜ、「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」と認識するのかと。「如実知見」という表現にも。つまりそれも、知ってること、が限界になる、という疑問はありました。
おなじように対象としての超意識を話したのではありません。ほかのことが超意識を対象にしたのではありません。「どうもム−ミンさんと、話があわない、どうしてなんだろう」、と知人に聞いたくらいですが、およそ納得です。
それはそれとして。自我とか無我とかを問題にするのではなく・・・それはもう充分なので・・・その知覚だけがあるときの、知覚の機能を、調べたいと思ってるのです。まだ探ることがあると、思ってるのです。ここが問題提起してることです。
> 伝わっていなかったようですね。自我が機能しなくなると、つまり解釈者がいなくなると、無意識が開示されてくる、あるいはすでに開示されてはいたが、それが自我によって歪んでいたことなどが、わかってくる、ということがありませんか?そして、それらが理解され消えていくことで、それは再び感覚として生じないということがあるでしょう?人や物との関わりの中で、自我としては機能はしないけれども、さまざまな感覚的反応が生じるでしょ?それが知覚の機能によって、言い方は変かもしれませんが、どんどん供養されていく、ということなのですが。
ム−ミンさんの言うことを、疑ってるとか、批判してるということではありません。そうだとすれば、いつまで、もぐら叩きをやってるんだ?そのもぐらは何匹いるのか?とか聞きます。
> 今までの分とあわせて、これでも伝わらないとすれば、何か特定の体験でも想定されて質問されているのでしょうか?たとえば「超意識」の体験とか、「神」の体験とか?
いいえ。はじめの頃に言ったように、どんな体験があろうと、なかろうと、無問題です。
> ええ、イエス・キリストを見るとか、仏陀を見るという体験は、知っているものの投影でしょう。意識、無意識を問わず、知っているものしか見ない。
たぶん。そのサイトの主催者は「仏陀を見る」。などと言うと、あー、分かってないなーと苦笑すると思います。「仏陀から見られた」。だから投影じゃない。を言いたいのだと思います。ま。メールして期待してましたが、返信くれませんでした。
> ubikさんのされた体験というのは、人によって、その出来事の解釈に多少の違いはあるようですが、いわゆる至福感をともなう「意識の拡大」と一般的に呼ばれている現象です。これは何の前触れもなく起こることもありますが、ヨーガの呼吸法や覚醒剤で人工的に起こすことも出来るもので、ドーパミンなどの脳内物質による感覚的なもののようです。
> その時、その感覚の解釈者がいなければ、それはただ生じ、展開され、消えていくだけですが、解釈者が現れると、その感覚を解釈し、命名し、同一化するという一連の自我の機能、過程が始まり、その感覚に捕らわれますよね?その結果、その体験が重要なものとなったり、貴重なものとなったりします。あるいは人によっては、その体験をかたくなに否定するかもしれません。そして、そのことが当人に意識されないということです。つまり、無意識、無自覚だということです。元型というのは実際にあるのかないのかということではなく、心理現象を説明するための単なる概念です。
うん。「心理現象を説明するための単なる概念」なら問題ありません。上のほうで言ったように。やはり文章だけを読むと、「意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みます」とかを知識としてか、対象化してるのかな、とも思えたのです。
> それで、その感覚に捕らえられて、それが知覚されていないと、「超意識」や「神」の体験が批判されたり、否定されたり、何らかの妨害に出会うとき、あたかも自分が否定されたように不快感を感じ、攻撃的になったりするということです。「同一化」の問題とはこういうことですね。
うん。そうです。それを体験した人は、その体験を対象化して、人生の目的を果たしてしまった。もうこれ以上のことはない、自分は最高。と思い込んでしまう人もいます。その体験を対象にすることを残響のような自我と呼んでいます。(それはそれでいいのですが。たぶん。ヨガや瞑想や薬で体験しても、それはその人の知ってることの投影の範囲をでないでしょう)。それを克服するために、意識に依存しないこととか、なんにも依存しない素直さが必要と、この掲示板で、話しています。
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No.710 - 2008/04/25(Fri) 14:08:40
| ☆ Re: / ムーミン | | | >これまでのム−ミンさんの表現「「自我」を見ると同時に「無我」を見る」とか、その文章だけを見ると、自我というもの、無我というものがあると、言ってるのかな。と疑問に思ってたので。そうでないなら、了解です。
>おなじことでしょうが。「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」その人が実際にそんな有り様であって、なぜ、「否定も肯定もなく、非難も正当化もなく、受容も拒絶もなく見られている、観察」と認識するのかと。「如実知見」という表現にも。つまりそれも、知ってること、が限界になる、という疑問はありました。
どの言葉も、表現も反省的(反省というのは、過去の行為に批判的な評価を与えるという意味ではないですよ)に使っているだけなのです。観察者が観察されるものであるとき、思考者が思考と同じものであるとき、つまり受動的な気づき(知覚)の状態にあるときには、概念による再認識は生じないのです。これについてはすでに申し上げてきたつもりですが。
>おなじように対象としての超意識を話したのではありません。ほかのことが超意識を対象にしたのではありません。「どうもム−ミンさんと、話があわない、どうしてなんだろう」、と知人に聞いたくらいですが、およそ納得です。
ubikさんの「超意識」「神」体験については、私の書き方が少し正確さを欠いていたのかもしれません。体験のすべてを否定しているわけではなくて、その体験の一部が、特殊なものではなく一般的なものであると、相対化しているのです。
過去の事例を見てみると、その「超意識」「神」体験のような「意識の拡大」体験の強烈さをもって自分を救世主のように勘違いする人、その人を救世主に仕立て上げたがる人たちがいるということ、そこまでいかなくても、何か自分がひとかどの人物にでもなったかのように勘違いして振舞う人がいるということ、それによって、苦しみを受ける人が多くいるということ、それはやはり相対化する必要があるだろうということです。
重要なのは、「超意識」や「神」の体験ではなく、ubikさんがその体験の中で理解したとおっしゃられる、自分という中心が分離・対立をもたらし、またそれが事実と空想の倒錯を生む、その結果「罪」が起こり、苦しみが生じるということ、この概念的分析的理解ではない、瞬時の理解によって自分という中心、倒錯が解消され、「罪が燃焼」され、苦しみから解放されたということでしょ?
>ム−ミンさんの言うことを、疑ってるとか、批判してるということではありません。そうだとすれば、いつまで、もぐら叩きをやってるんだ?そのもぐらは何匹いるのか?とか聞きます。
ああ、そういうふうには思っていないので安心してください。これについてもすでに書いてきましたが、「話が合わない」のではなく、術語が原因で食い違いがあるかもしれないので、ubikさんの術語に沿って説明を試みてみます。
ubikさんは「無我」と「自我」を見た体験をしたとおっしゃいました。これは私の使う言葉で言えば「観察者は観察されるもの」「思考者は思考と同じである」という洞察によってもたらされるもの、ということになります。そしてその洞察によって、「自我の全過程」が見られ、同時に「無我」を理解します。この洞察、知覚により、自我の暴力性・破壊性に対する質的理解があるので、基本的には心理的問題はなくなります。前にも書きましたが、洞察とは物事の全体を一瞬にして把握することであり、概念的分析的な理解ではないということです。
また、ubikさんは、体験の後には「残響の自我」が残っていて、「悟後の修行」として、体験の内容を意識に覚えさせることが必要だともおっしゃいましたね。これは私の使う言葉では「学び」と呼んでいます。これはubikさんとは使用方法が少し違うということはすでに確認しました。
私の場合は「学び」があるためには、上で述べた洞察が欠かせない。なぜならば、自我が機能している限りは「学び」が歪むからです。そして堂々巡りになります。これこそ、いつまでもモグラを叩かねばならないということになるでしょう。
また、私の使う「学び」は能動的なものではなく、知覚の受動性の中で行われているということです。洞察の後でも、何かを問題として認識することはまだ残っていますが、かりに認識してしまったとしても、それが知覚される中で、即座に理解され、解消され、心理的な問題にはなりません。この理解が「学び」です。理解され解消されたものは、再記憶されることはなく、次第に記憶の中から、消えていきます。記憶喪失や認知症ではないので、形式的な記憶はもちろん残りますが、その感情的内容は働きません。たとえば「怒り」が現れるたびにそれに「気づいて」、その都度解消するということではありません。理解されて終わりです。。「知覚」の機能についての質問がありましたが、知覚の機能とは、種を見つけ、燃やし、枯らす炎のようなものなのかもしれません。そしてそれを「学び」と呼んでいます。
洞察の中ですでに「転換」は行われ、知覚によって心理的な問題には発展しない、万が一発生したとしても知覚によって理解され解消されるので、いつまでモグラを叩くのかということにはなりません。
ubikさんは悟後の修行のとき、達成すべきゴールは見えていましたか?見えていたとしたら、それが達成されたときには、それはすでに知っているものの投影でしょ?達成した後に「ああ、あのときの体験はこういう意味だったのか。最初の一歩が最後の一歩だったのか」と反省的にわかったということはありませんか?悟後の修行とは後になって言えることではなかったですか?
>たぶん。そのサイトの主催者は「仏陀を見る」。などと言うと、あー、分かってないなーと苦笑すると思います。「仏陀から見られた」。だから投影じゃない。を言いたいのだと思います。ま。メールして期待してましたが、返信くれませんでした。
「仏陀から見られた」ということであれば、「見られるもの」がいるということなので同じことです。
>うん。「心理現象を説明するための単なる概念」なら問題ありません。上のほうで言ったように。やはり文章だけを読むと、「意識・無意識は全人類史にとどまらず、動物、植物まで含みます」とかを知識としてか、対象化してるのかな、とも思えたのです。
ああ、この部分は、ubikさんが「超意識」体験のことに触れられたときに、「意識と無意識」が統合され、「意識の全領域」を見渡したとおっしゃっていたので、上のような話をする人もいるけど、ubikさんは意識をどのように捉えているのか、そのすべてを見渡したのですか?という質問です。
なんだか少し疲れました。
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No.713 - 2008/04/26(Sat) 16:54:29 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | >重要なのは、「超意識」や「神」の体験ではなく、ubikさんがその体験の中で理解したとおっしゃられる、自分という中心が分離・対立をもたらし、またそれが事実と空想の倒錯を生む、その結果「罪」が起こり、苦しみが生じるということ、この概念的分析的理解ではない、瞬時の理解によって自分という中心、倒錯が解消され、「罪が燃焼」され、苦しみから解放されたということでしょ?
その体験の効果は、そうです。ただ人間関係で惨めな自分を感じることなどを、解消することを目的で探究していませんでした。自分を知りたかったのです。たとえば無我になろうという意図もありませんでした。けど。通奏低音のように何年も続いていた絶対不自由の苦痛からも解放されました。
>理解され解消されたものは、再記憶されることはなく、次第に記憶の中から、消えていきます。記憶喪失や認知症ではないので、形式的な記憶はもちろん残りますが、その感情的内容は働きません。たとえば「怒り」が現れるたびにそれに「気づいて」、その都度解消するということではありません。理解されて終わりです。
それで、理解されたことは、意識の対象としては失われるのだけど、無くならないで、自覚されないまま十全に機能しています。だから、理解することによって人に変化があります。たとえば、自我もなければ無我もないなどとと、思っても、思いもしないでも、自我もなければ無我もなく・・・ほかのことも同様に・・・無自覚に機能してる日常です。なので、それをいつでも見れます。
>ubikさんは悟後の修行のとき、達成すべきゴールは見えていましたか?見えていたとしたら、それが達成されたときには、それはすでに知っているものの投影でしょ?達成した後に「ああ、あのときの体験はこういう意味だったのか。最初の一歩が最後の一歩だったのか」と反省的にわかったということはありませんか?悟後の修行とは後になって言えることではなかったですか?
その体験で受け取った圧縮された情報が、理解できませんでした。それが解凍されるのを、自分に望んだ、のです。そのあとは理解することで変化した、その日常の自分から学んでいます。それは、意図的ではなく。どう変わるとか予想できません。
>「仏陀から見られた」ということであれば、「見られるもの」がいるということなので同じことです。
まあ、そうかどうかは第三者なので判断できません。ということでいいようです。
>ああ、この部分は、ubikさんが「超意識」体験のことに触れられたときに、「意識と無意識」が統合され、「意識の全領域」を見渡したとおっしゃっていたので、上のような話をする人もいるけど、ubikさんは意識をどのように捉えているのか、そのすべてを見渡したのですか?という質問です。
おそらく総ての生き物の身体は、水や炭素などの物質でできています。それは宇宙にある物質を共有してるという認識も不要なくらい個人のものでないことは、当たり前の事実です。そんなことより生きることが大切です。そして 感情も、意識/無意識も、そんな個人のものではなく単なる素材です(まったく不増不減です)。そんなことより学ぶことが大切です。
これまでのム−ミンさんの話でしか知りませんが「無意識の中の元型」とかがあるとしなければ、自我インフレーション説も無意味に思えますが。そのように総ての生き物に共通の記憶があるとかは、まったく無意味で、成長こそ必要です。それが失われることはないこと、と感じます。
>なんだか少し疲れました。
そうですね。気が向くままが、 いいと感じます。
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No.716 - 2008/04/27(Sun) 08:31:41 |
| ☆ Re: / ムーミン | | | >それで、理解されたことは、意識の対象としては失われるのだけど、無くならないで、自覚されないまま十全に機能しています。だから、理解することによって人に変化があります。たとえば、自我もなければ無我もないなどとと、思っても、思いもしないでも、自我もなければ無我もなく・・・ほかのことも同様に・・・無自覚に機能してる日常です。なので、それをいつでも見れます。
ええ、言葉の使い方の細かい点を除けば、それが私の言ってきた「解釈者」がいない、ということです。それで、苦しみのない、まあごく普通の日常を送っているということでしょう?ただ私の場合は、心理的なものが何もないこと以上に完成があるのかどうかも含め、「完成」という終着が何かを知りませんので、方向性もなく、常に原点である静かな心で「学び」続けています。
>その体験で受け取った圧縮された情報が、理解できませんでした。それが解凍されるのを、自分に望んだ、のです。そのあとは理解することで変化した、その日常の自分から学んでいます。それは、意図的ではなく。どう変わるとか予想できません。
「圧縮」「解凍」という表現はよくわかります。そのときの体験は、なにしろ時間があるのかないのかわからないような、瞬時の理解でしたでしょうから。どう変わるか予想できないというのは「学び」に終わりがないということでしょうね。
>おそらく総ての生き物の身体は、水や炭素などの物質でできています。それは宇宙にある物質を共有してるという認識も不要なくらい個人のものでないことは、当たり前の事実です。そんなことより生きることが大切です。そして 感情も、意識/無意識も、そんな個人のものではなく単なる素材です(まったく不増不減です)。そんなことより学ぶことが大切です。
ubikさんはしばしば唯識の名前を出されていますし、また「種子と発芽」の比喩も使われており、唯識のことはある程度ご存知だと思いますので、それに沿って簡単な説明をしようと思います。あくまでも私の唯識理解なので、オーソドクスなものかどうかはわかりませんが。
唯識では深層心理を説明するために、末那識と阿頼耶識を設定します。末那識は自我執着心といわれるもので、私の使う言葉で言えば、否定・肯定、非難・正当化、拒絶・受容、同一化などといった形で現れるものです。阿頼耶識は種子、つまり過去の全記憶がつめられた貯蔵庫です。しかし阿頼耶識には善や不善、煩悩などの働きを持つ心作用はありません。阿頼耶識にある種子を発芽させるのは、末那識の自我執着心です。それが苦しみをもたらせます。つまり、末那識が阿頼耶識を「我」として誤認するところにその働きがあるということです。
しかし、末那識、阿頼耶識は深層というか無意識で、見えにくい。そこで「学び」が必要になるということでしょうね。
>これまでのム−ミンさんの話でしか知りませんが「無意識の中の元型」とかがあるとしなければ、自我インフレーション説も無意味に思えますが。そのように総ての生き物に共通の記憶があるとかは、まったく無意味で、成長こそ必要です。それが失われることはないこと、と感じます。
ええ、あってもなくてもということではなくて、重要なのは、末那識が阿頼耶識を「我」と誤認することなければよい、ということだと思います。いうならば「自我インフレーション」も末那識が阿頼耶識にある、あるものを「我」と誤認しているのです。
しかし、末那識も阿頼耶識も、意識現象を説明するための単なる概念に過ぎませんから、概念抜きに、直接、実際に自分の中で起こっていることの観察、理解は欠かせないということでしょう。実際に自分の中で起こっていることの理解というのは、知的理解では単なる観念ですから、これまでも言ってきたように「知覚」による理解しかないということなんです。それが「学び」であるということ。「自我インフレーション」という同一化現象も、ある特質を持っていますから、知覚でわかります。わかって、理解すればそれで終わりです。
>>なんだか少し疲れました。
>そうですね。気が向くままが、 >いいと感じます。
返信の量を減らしていただいた気配りに感謝します。もとはといえば、この掲示板を訪れて目にした「自我=無我」という表現に興味を持って、質問しただけだったのが、とんだ長い対話になってしまいました。
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No.719 - 2008/04/27(Sun) 11:16:58 |
| ☆ Re: / ubik0101 | | | ム−ミンさんの話で。なにかを知覚することによって、そのとき知覚する主体が、すでに設定されていると看做される現象。それが末那識と阿頼耶識の関係で説明できる。のだろうと、思いました。自我はそう機能するのですが、そうでなくても、ただ知覚、する、しないということも、そうかもしれません。
そこでは、とくに知覚の、ある、ない・・・とその対象の無意識の思考の、ある、ないの関係。もしかして。ある、と、ない、の関係。そういうことも見ることができるかもしれないと思えます。それに引っ掛かった場合の解放、それが意識に依存しないこと、とも言えそうです。また、自分は心理的な問題がなく、普通の日常を送ることが、完成とは思っていません。長い間ありがとうございました。いつでも。また。です。
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No.720 - 2008/04/27(Sun) 16:10:06 |
| ☆ Re: / hato | | | ムーミンさん。 丁寧にご指導頂きましたこと、 本当に感謝申しあげます。 ご存じの通りこちらは未熟ですが、 なんとか。進みます。
ありがとうございます。
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No.721 - 2008/04/27(Sun) 23:36:04 |
| ☆ Re: / ムーミン | | | >ム−ミンさんの話で。なにかを知覚することによって、そのとき知覚する主体が、すでに設定されていると看做される現象。それが末那識と阿頼耶識の関係で説明できる。のだろうと、思いました。自我はそう機能するのですが、そうでなくても、ただ知覚、する、しないということも、そうかもしれません。
>そこでは、とくに知覚の、ある、ない・・・とその対象の無意識の思考の、ある、ないの関係。もしかして。ある、と、ない、の関係。そういうことも見ることができるかもしれないと思えます。それに引っ掛かった場合の解放、それが意識に依存しないこと、とも言えそうです。また、自分は心理的な問題がなく、普通の日常を送ることが、完成とは思っていません。長い間ありがとうございました。いつでも。また。です。
「知覚」とは、心が空っぽであるときの状態、心が静かなときの状態、純粋経験、直覚など、いろいろ言い換えができそうです。けど、これは特別なものではなくて、基本的に誰にでも備わった機能だと思います。ただ、「自我」がそれを妨げているのだと思います。で、それを取り除こうとするのではなくて、つまり問題とするのでもなく、また逆に、それでいいのだと、つまり問題ないとするのでもなく、「自我」がしていること、その格闘が、ただ知覚されるとき、そのとき「自我」は機能していないと言えそうです。
鳥の声、川のせせらぎからも、今、外を通ったバイクのマフラーの爆音からも学んでいます。ありがとうございました。 気が向いたら、また訪れようと思います。
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No.722 - 2008/04/28(Mon) 11:30:16 |
| ☆ Re: / ムーミン | | | >ムーミンさん。 >丁寧にご指導頂きましたこと、 >本当に感謝申しあげます。 >ご存じの通りこちらは未熟ですが、 >なんとか。進みます。
こちらの方は、大都市のごみごみしたところに住んでいますので、残念ながらウグイスの鳴き声が聞けません。G.W.には渓谷へウォーキングに出かける予定でいます。きっとウグイスもモリアオガエルも歓迎してくれると思います。
ubikさんの言葉を借りれば、hatoさんのような「求道の仲間」に出会えて嬉しかったです。こちらこそ、ありがとうございました。
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No.723 - 2008/04/28(Mon) 11:43:29 |
| ☆ Re: / hato | | | > こちらの方は、大都市のごみごみしたところに住んでいますので、残念ながらウグイスの鳴き声が聞けません。G.W.には渓谷へウォーキングに出かける予定でいます。きっとウグイスもモリアオガエルも歓迎してくれると思います。
きっと大歓迎ですね。 どうぞ、お気を付けて 楽しんでいらしてください。
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No.724 - 2008/04/28(Mon) 23:55:44 |
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