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ちょっとこっちに移動
/ ばん
(うびさん質問です。
単純な作業をしている時、作業自体に慣れてきて、脳をあまり使わなくなって無意識状態で作業していると、雑念というか勝手に頭が歌を歌っていたり、あれこれ考えていたりするのですが、うびさんもそういうことありますか?
皆さんのコメントを見ると、思考は脳の機能か何かで勝手に出続ける、その思考に意味を考えようとするとつかまるから無視しとけばいいってことになるのかな
満たされない思いも無視すればよいか
それとも、徹底的に探るのがよいか
どっちもやってみます
ありがとうございました。
No.532 - 2008/03/18(Tue) 18:04:16
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ 大阪
>大阪さんもお会いしてないけど愛してますよ
それで安心です。
あぁ、良かった。
では僕はこれで失礼します。
No.533 - 2008/03/18(Tue) 18:20:56
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
どっちもやってみました。
なんか、脳の機能の記憶が関係しているような気がします。
何か無意識になった時、フッと脳が勝手に昔の記憶を呼び起こす。
そして、その記憶について脳が勝手に考え出す。
自分がいつの間にか考えている事に気づく。
考えないようにしようとしてもやめられない。
徹底的に考えても答えが出ない。
まとめると考えてる事に気づいた瞬間に「これは、脳が勝手に考えてる事だ、脳の機能で自然と起こることだと考え、丸ごと無視というか、自然に流れさせておく」
どうでしょう?
No.553 - 2008/03/25(Tue) 11:55:33
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Re: ちょっとこっちに移動
/ ubik0101
ずっと前に投稿したかもしれませんが。ある人が子供のとき、頭の中で勝手に話してる誰かがいることに気がつきました。
それが不思議だったので、友達に聞いたそうです。すると、みんなも、それが不思議だということだった、という話を、ネットで読んだことがあります。
そのように、あっちが勝手に考えてるだけなので、自然にしておく。けど、徹底的に考えても答えがないから考えるとも言えます。
その内容は、その自分の有り様でなければ生じないこと、自分の有り様に、関わっているはずです。それを、こっちから見て、自分主導のつもりで思考を展開できるのでしょう。
そして、あっちと、こっちが同じことを話てるなら、思考を見てる主体は自覚できず、思考だけが知覚されてる。集中が起きています。
こういうことを、あまりに主観的に、見てる観察者が、ない、とか表現しては問題ありと思います。ある、ない、と知覚の関係は、まだ探究の余地が感じられます。
No.554 - 2008/03/25(Tue) 13:17:47
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
あっちというのは過去の記憶の反応で無意識的に考えてる。
こっちは意識的な想像ということですか?
No.555 - 2008/03/25(Tue) 13:45:04
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Re: ちょっとこっちに移動
/ ubik0101
あっちは、その人の現状を示すために、ほかの素材もないので、過去の記憶を使って話していると思います。
こっちは、その話を見ながら、それを意図的に展開して思考しようとすることです。それは現在と思います。
No.556 - 2008/03/25(Tue) 14:06:09
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Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
これって自我を観察にもなりますか?
自我は脳の機能で勝手に出でくる
その自我を観察して
脳の機能だとして自然に起こることとして無視というかとりあわない
No.557 - 2008/03/25(Tue) 15:25:56
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ubik0101
あっちが勝手に話してることを、こっちが展開して探ることは。たとえば、ほかの人の投稿を思い出して意味を探るということは、学んでる、研究してる、眼を凝らして見ている、ことだと思います。
そうでなく自我が機能していて・・・たとえば誰かのことを不公平に判断したいとか、とくに偽善者でない人を偽善者と判断したいとか(そういう不可能を可能にしようと)欲望・・・するなら、それは自我の働く様子の観察になると思います。 相手に自分の有り様を投影してることの観察になったりします。
なんとなく考えてしまうことを「脳の機能だとして自然に起こることとして無視というかとりあわない」のは、 ばんさんは、すでに、そういう自我の機能に巻き込まれない有り様なのでしょう。でも自我そのものの観察ではないと思います。自我は、最初から、いない、です。いない、から見つかりません。
No.558 - 2008/03/25(Tue) 17:06:49
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
私が考えている自我って空想ですか?
自己がないから自我もないてことですか?
No.559 - 2008/03/26(Wed) 08:37:54
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ubik0101
>私が考えている自我って空想ですか?
たとえば、妬んだり、恨んだりする、その働きを、自我と呼ぶのでしょうか。そうでなく、そういうことを行為している、中心、主体、を自我と呼ぶのではないでしょうか。
その中心、主体である自我が、たとえば憎んだり、執着したり、嘲ったり、慈しんだり、すると思われるのではないでしょうか。
これは、そのような妬んだり、卑下したり、威張ったりする、空想を、蜃気楼のように成立させているということは、逆に、そういうことをしている自我という、中心、主体が、想定されざるを得ないだけではないでしょうか。
つまり欲望という結果が機能してるのは、自我という原因があるからと。しかし。そのような自我は、ありません。虚構です。自我とは、無我です。
このように、自我など、いない、と見破れば。妬んだり、憎んだり、威張ったりする、その中心、主体が、いない、のに。どうして 妬んだり、憎んだり、威張ったりできるでしょう。 意識のほかに、なにが機能しているでしょう。これは、自我が、いない、という端的な理解です。ただし、ある意味、極端な片寄りになる可能性を孕んでいます。この世界の機能、中道、に気がつく必要があります。
この続きを、ほかの見方で説明してみます。この世界では、人は、風や花や鳥ではありません。ほかの人ではありません。しかし、そうでない、わけでもありません。完全に分離してるわけでも、完全に融合してるわけでもありません。それが差であり、知覚です。
なにかを見たり感じたり思考したりする、中心、主体は、事実として、いない、わけではないのです。いる、わけでもないのです。この分離でも融合でもないことを、ことさら接近させたり、隔離しようとすることで。自我が、いる、とか、いない、とか感じるとも言えます。それで自我が、いない、ということさえ執着になり得ます。
これを了解して、世界の機能は中道だと見る。そうであれば、たとえば喜怒哀楽が問題だという問題は不要です。
>自己がないから自我もないてことですか?
そして意識は、たとえば樹や街や人など何かを対象にし、樹や街や人など何かから対象にされます。たとえば人の愛、慈しみは、対象と対象にされるという制限があります。無差別の愛ではありません。
自己は、そんな意識の領域にはありません。どちらかといえば実在の領域です。それは自覚できません。その自覚できないことを了解すると、ことさらなにかを実感したいと欲望する、中心、主体という、(残響のような)自我、を空想する必要がなくなります。
No.560 - 2008/03/26(Wed) 10:13:27
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
すみません、わからないことがいっぱいです。
> これは、そのような妬んだり、卑下したり、威張ったりする、空想を、蜃気楼のように成立させているということは、逆に、そういうことをしている自我という、中心、主体が、想定されざるを得ないだけではないでしょうか。
> ある出来事を妬んだり、卑下したりすると、架空の自我
できる。自我が後から出来るって事ですか?
中道
> 中道て、たとえばどんな事ですか?
> この続きを、ほかの見方で説明してみます。この世界では、人は、風や花や鳥ではありません。ほかの人ではありません。しかし、そうでない、わけでもありません。完全に分離してるわけでも、完全に融合してるわけでもありません。それが差であり、知覚です。
> 人のなにが分離、融合してる、してないのですか?
個体として分離、宇宙として融合てことですか?
>
たとえば人の愛、慈しみは、対象と対象にされるという制限があります。無差別の愛ではありません。
> 何の対象と対象にされるのですか?
No.561 - 2008/03/26(Wed) 11:30:28
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ubik0101
> ある出来事を妬んだり、卑下したりすると、架空の自我
>できる。自我が後から出来るって事ですか?
なにか恨んだり妬んだりする、その中心としての自我が設定されると、それは恨んだり妬んだりすることよりも前に(心理的な時間を遡って)予め、いる、として機能します。
なのですが、それほど難しく考えなくても。妬んだり、卑下したりしない時には、自我は、いない、わけではないでしょう。いる、と設定されてるなら、楽しい時にも、平静な時にも、つまり自覚してなくても、いる、のではないでしょうか。
> 中道て、たとえばどんな事ですか?
それは人の総ての構成要素の完全な活動のことです。たとえば、肯定(ある)と、否定(ない)、が完全に機能します。すると、肯定(ある)、否定(ない)という両極に留まれません。すると、その中間のどこかにも、真ん中にも、自我の拠り所がありません。
また。たとえば善悪の概念です。人は、絶対の悪、絶対の善を、なし得るでしょうか。なしえないのではないでしょうか。その両極端は空想です。ならば、真ん中も空想です。人は、善悪の概念が成立すると誤解しています。成立してないことに依存できません。しかし日常で実際に、良いことをし、悪いことをしない、ことができます。
> 人のなにが分離、融合してる、してないのですか?
ある人と、ほかの人。ある人と、樹や山や鳥・・・森羅万象・・・の関係です。それは差があるから知覚できます。それは完全な融合ではありません。この世界が水だけでできてるとして、それで水だけでできている知覚ができるでしょうか。完全な分離でもありません。たとえば世界の外を知覚できるでしょうか。完全な融合も分離もあり得ません。
>個体として分離、宇宙として融合てことですか?
そういう覚醒体験も、人によっては起こるようです。たとえば、それに眼を向けると、犬や、働いてる労働者が自分だった。走ってる電車さえ自分だった。また禅の一系列としてもあります。宇宙いっぱいの自分、とか。ひとつ、とか言われたりします。これをここでは緯(よこいと)と呼んでいます。そこから、やっと学ぶことが始まります。
>>たとえば人の愛、慈しみは、対象と対象にされるという制限があります。無差別の愛ではありません。
> 何の対象と対象にされるのですか?
たとえば、ある人は、ある人を、対象にしています。もちろん、ある人は、ある人から、対象にされています。ありとあらゆる知覚できることを人は対象にし、それから対象にされています。
ここは、その眼は、その眼を見ることはできない。とか。どうして舌が無味でなければ、たとえば林檎の味が知覚できるだろう。とか、言われます。もし自分が、まったく自分なら、どうして自分を知覚できるでしょう。
No.562 - 2008/03/26(Wed) 13:18:21
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Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
頭がこんがらがって、自分が何を知りたいかわからなくなってしまいました。
よく私は肉体ではないとか死ぬことはないとかって言ってるのを見たりするのですが、どう思いますか?
No.563 - 2008/03/26(Wed) 14:42:50
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Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
あと、もうひとつ
うびさんは自分のことを何だと思いますか
No.564 - 2008/03/26(Wed) 14:47:37
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Re: ちょっとこっちに移動
/ ubik0101
>よく私は肉体ではないとか死ぬことはないとかって言ってるのを見たりするのですが、どう思いますか?
みんな空想です。死ぬと、なくなる。死んでも、なくならない。どちらでもある。どちらでもない。総べて空想であり、すべて誤りです。ただ、まったく個人の妄想として言うだけですが・・・青は藍より出でて、藍より青し・・・ です。
それはともかく。
http://members.jcom.home.ne.jp/khiroaki/buddhism/buddha.htm
ここの 8 毒矢の例えが、もっぱらの定説です。
>うびさんは自分のことを何だと思いますか
なにも思ってませんが、あえて言うなら、ただの人です。
No.565 - 2008/03/26(Wed) 16:01:47
☆
Re: ちょっとこっちに移動
/ ばん
うびさん、ありがとうございます
私は何か神秘的なものにとても期待していたようです。
なんか期待していた事が崩れたとたん幸せな気分になりました。
自分の内面を変える事で世界が変わるようです
愛溢れる世界、誠実な世界を感じたいので、自分の内面をよーく見て変えて行きたいと思います。
ありがとうございました。
No.566 - 2008/03/26(Wed) 16:57:16
★
愛
/ hato
愛し合いたい、
それを確認したい、
という思いを掴むから、
身体、性、世界
に縛られるでしょうか。
そこで、ことさら差を空想するでしょうか。
実感が欲しい、
確認したい、
そうでなければ満たされていないのでは、
という思いは、とても強いものだと思います。
それでも、
それだから、
まずはじめに、自己であろう、
ことが大切な気がします。
本当に愛し合う、
そうでなければ、と思うからです。
No.534 - 2008/03/18(Tue) 23:16:22
☆
Re: 愛
/ ubik0101
とりあえず愛は空想として現れるようです。その場合は、実感が求められるでしょう。たとえば優しくされることとか、楽しくしてくれることとかを、愛される。ってことにするのかもしれません。
すると優しくすることとか、楽しさをあげるとかが、愛する。ってことになるのかもしれません。すると、これは愛、あれは愛じゃない、それは無関係、という判断も生じるかもしれません。だからと言って問題はないのですが、そういうことに執着してることが問題、と言うこともできます。
それは自分という実感を求めてる自我の機能、とも言えます。もともと、ない、自我が、ある、と振る舞うことが、すでに迷いです。けれど、どんな迷いも単なる負荷でしかなく、人が成長するために機能します。
たとえば優しくされること、すること。楽しくしてくれること、すること。無関係なことと。また性や身体など。実感の愛。それは世界の機能で、まったく無問題なのですが。それに人は使われて、ある意味では宿命的に望んで迷って、それを煩悩とか呼んで、そこで限界まで自分を鍛える、とも言えます。
ところで愛は、実在から自己を承認したという証明とも言えます。 その愛なしに、自己を感じることは困難かもしれません。
なん度も言うけど。「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい」。まず、 どういうことが自分を愛すことなのか?これとか、あれとか、決められるでしょうか。これを探究しました。
No.536 - 2008/03/19(Wed) 16:59:28
☆
Re: 愛
/ hato
> なん度も言うけど。「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい」。まず、 どういうことが自分を愛すことなのか?これとか、あれとか、決められるでしょうか。これを探究しました。
それは、愛の命令だと学びました。
どういうことが自分を愛すことか?
その時々で、適切にある、あろうとする、ことではないのでしょうか。
それしか、思いつきません。
自分を、隣人を、愛していないでしょうか。
そうであるなら、わからないのです。
愛の欠如とは、なんでしょう。
それは、なかったりあったりするものなのでしょうか?
愛というとき、幸せな羽衣のような感覚、とか、楽しいこと、だけを指すことはできまん。母性、とも言い難いのです。
まだ何かから逸脱しているでしょうか。
誤りは、糺そうと思います。
No.537 - 2008/03/19(Wed) 23:54:06
☆
Re: 愛
/ ubik0101
>愛の欠如とは、なんでしょう。
>それは、なかったりあったりするものなのでしょうか?
とても仲のいい夫婦が、喧嘩して、離婚したとします。その楽しく暮らしてた、愛しあってる感情として実感があった時にも、不満、憎しみ、怒り、無関心になる可能性が隠れてたのかもしれません。それは愛と呼べるでしょうか。愛は、実感できるからあったり、実感できないから、なかったりするのでしょうか。
そうでない、愛。純粋な愛。どんなことでもない愛。「無差別な愛」。その欠如として、代理として、たとえば憎しみに変わるかもしれない、無関心に変わるかもしれない、感情の一種としての愛が現れるのではないでしょうか。それが愛ではないこと、愛の欠如であることが、人に愛を求めさせるのではないでしょうか。そんな愛を、聖書では「神は愛です」と言っています。
そんな、愛は、地上では、ほとんど不可能に思えます。しかし求めれば可能です。知ってる限りでは、自我がないという体験、そうであれば、愛が現れることもあります。それは、なにかの行動とかいうことには関わりません。それは感じるだけしかできないかもしれません。しかし生まれて初めて感じるとしても、それを誰もが間違いなく、愛、としか呼べないでしょう。それは感じても感じなくても世界に溢れています。
そして、たとえば夫婦が、友人が、隣人が、雨の日も晴の日も、一生に渡って辛い時にも努力したりして暮らしていくこと。そのほうが別れるより、断然いいと、思われるのではないでしょうか。
それは、ほとんど愛と呼べるかもしれない、からではないでしょうか。また愛がなければ、そうできないからではないでしょうか。たしかに「その時々で、適切にある、あろうとする、こと」。それしか出来ないと思います。
ほかの例。たとえば相手のことを思って、と思って、怒ることがあります。それは自分では愛と思ってる、ということもあります。それは、ここに愛がないこと、愛の欠如、愛の代理として、そういう怒りが現れたと見ることができます。
もしかして、優しくすること、仲良くすること、そういうことも愛の欠如かもしれません。そういうことを拒否されたりすると怒りが現れる可能性があるからです。それは愛がないために実感を求められる愛着、執着である可能性があります。
それは愛の欠如であり、それは愛がないからです。その愛の欠如は、実感してるときだけ、あるのではありません。実感しないとき、ないのではありません。愛の欠如は常に愛の欠如です。それが愛を求めさせます。
>愛というとき、幸せな羽衣のような感覚、とか、楽しいこと、だけを指すことはできません。母性、とも言い難いのです。
そうです。hatoさんは誤っていません。愛は(どのようなことにも関わらず、どのようなことにも関わり)ただ愛です。
No.538 - 2008/03/20(Thu) 07:39:48
☆
Re: 愛
/ peer
わたしたちは、無から誕生しましたので
生まれた時は形はありません。
まずは、形として存在するために、
誰かを真似ます。
家にいては、家族(親)を真似ます。
仕事については、親方を真似ます。
よい形になりたかったら、よい親を真似ればよい。
で、この世の婚本は、神(宇宙)ですから〜
最終的には、神に倣う・・・が、よいでしょう。
神と人間は、違うんです。と思ったら、真似られません。ね。
No.539 - 2008/03/20(Thu) 10:20:23
☆
Re: 愛
/ hato
> ほかの例。たとえば相手のことを思って、と思って、怒ることがあります。それは自分では愛と思ってる、ということもあります。それは、ここに愛がないこと、愛の欠如、愛の代理として、そういう怒りが現れたと見ることができます。
とても、了解しました。
もう少し見て、学びたいと思います。
愛の欠如、了解しました。
> 愛は(どのようなことにも関わらず、どのようなことにも関わり)ただ愛です。
これならば、了解していました。
だから、
どうしても、出来ないことも、あったと思います。
その愛、
全面的でなければ、それでなければ、違う、との了解がある故に、できないことはできなかった、とおもいます。
生活のなかで、学ぶでしょうか、
それを生きよう、と思うことができます。
No.540 - 2008/03/20(Thu) 12:03:21
☆
Re: 愛
/ ubik0101
そうですね。
お互い、できることを、
無理なく、
やっていきましょう。
No.541 - 2008/03/20(Thu) 13:16:16
☆
Re: 愛
/ hato
> 無理なく、
ubik0101さん、
peerさん、
ありがとうございます。
ひな祭り、終わったばかりでした、
パタパタ、
パタパタ、
やっと、飛ぶ、練習。
今日はubik0101さんのページが始まった日、
ですね。
春は、感謝の気持ちのようです。
No.542 - 2008/03/20(Thu) 16:34:01
★
無意識
/ ばん
うびさん質問です。
単純な作業をしている時、作業自体に慣れてきて、脳をあまり使わなくなって無意識状態で作業していると、雑念というか勝手に頭が歌を歌っていたり、あれこれ考えていたりするのですが、うびさんもそういうことありますか?
No.516 - 2008/03/15(Sat) 16:30:21
☆
Re: 無意識
/ ubik0101
それは、自分の意図とは関係なく、考えたりするという意味でしょうか。なにか単純作業をしたことはないと思うので、日常のことを話します。
やはり意図して考えてると思うのですが。この、意図する、ということは、100パーセント自分がそうしようとして、しているとは言えないようです。
どちらかといえば、考えのほうから、考えてくれと言って来て、それを見る感じです。それで、よく見えない場合、考えようとする、と思います。
No.517 - 2008/03/15(Sat) 17:37:26
☆
Re: 無意識
/ ばん
そうです、意図して考えてない時って、
何も考えてない状態が続くはずなんですけど、
考えてくれー、歌ってくれー、空想してくれーて感じで雑念がやってきて疲れるんです。どうしたらいいいでしょう。
No.518 - 2008/03/17(Mon) 08:40:28
☆
Re: 無意識
/ ubik0101
どうしようとした、こともありません。瞑想などしたことがないので分かりませんが、日常で、思考は途切れ途切れです。
どんな思考があるのも、ないのも、この世界の機能であり、意識が途切れず働いてることは変わりない感じです。ただ意識としては、思考は途切れてないと思ってしまうようです。
どんな思考も歌も空想も、意図しても止まりますが、また始まってしまいます。単純作業とか日常で、意識が勝手に、いずれ何かに集中するために、アイドリングするのかもしれません。
そういうのを観察すると、そう観察する仮の中心が生じ、疲れるかもしれません。でなければ、どっちが楽とか疲れるとか、大差ないように思います。
そうでなく、 ばんさんには、「何も考えてない状態が続くはず」関連のほうから、これがどういう仕組みになってるか見てくれ、考えてくれ、と言って来てるのかもしれません。そうだったら、よく見る機会であり、発見があるかもしれません。
ところで端的には、それは(時間がないというわけではないけど、時間の知覚がないので、時間がないと思えてしまう、今さえない) それ、 には、感覚だけ機能し、思考が成立しないようです。それは、ほとんど実在と違わないような気がしますが・・・検討中です。
No.519 - 2008/03/17(Mon) 11:05:26
☆
Re: 無意識
/ ばん
私もルーさんの様に過激派なのでしょうか、
何か刺激を求めているような・・・
思考が次々やってきて、つい刺激を求めて、空想しまう、
その空想は無意味で疲れるから空想したくないと空想している。
何も求めなければいいのかもしれなうけど
No.520 - 2008/03/17(Mon) 15:01:34
☆
Re: 無意識
/ ルー
私に「過激派」という名前を与えたのは、ひとりしずかさんでした。
彼女は掲示板では、何にもとらわれていないようなことを書いておられましたが、突然の
CENSORED
。
私は、浮気のひとつもせずに子供を育てて暮らしています。
意識の表面に出てくるものと実際にしていることは、ズレているのかも知れません。
No.521 - 2008/03/17(Mon) 18:00:37
☆
Re: 無意識
/ hato
詰まるところ、なにが出来るかということについては、自分を超えた、仕組み、があるように思います。
それを意図といってよいのかわからないけれど、そう思います。
思考と時間がひとつということ。
それを考えます。
ならば、連綿と流れている思考の波のなかで、縁がある思考、興味を惹かれる思考の仕組みを解くこと、を
ubik0101さんは言われているかもしれません。
それは、ヒントかもしれません。
思考に単にエネルギーを注ぐことは、
火に油を注ぐことかもしれません。
自分を解放させることを意図するとしたなら、
それは無謀なことかもしれません。
けれども、これもまた、ある意味無謀かもしれません。
サイクルの流れに甘んじて乗らない、
ことと思うからです。
感情や思考を流れに任せること、
それに不適切に拘わらない、ことでしょうか。
ときどきしか、上手くいかないこともあります。
それでも、出来事、といえるすべては、
ただそのようであった、としかいえないこと、
ではないでしょうか。
No.522 - 2008/03/17(Mon) 21:59:33
☆
Re: 無意識
/ ばん
私は何かを常に求め続けていて満たされない
ここで書いているのも、何かを見つけたい、賛同されたいというような欲だと思う。
本当は、満たされている。でも、気づいてない何かに気づいてない
これって自我の働き?だと思う、どこまでも欲しがる。
私は過激派ではなく寂しがりやなのだと思う。
さみしくって、さみしくって、おかあさんを求めているのだと思う。でも、甘えるのはかっこ悪い、いつまでも甘えてておかあさんを心配させたくない、強い子になろう、でも葛藤があるから苦しい
何か子供の頃あったのかな、あまり覚えてない、思い出せれば満たされるのかな
No.523 - 2008/03/18(Tue) 09:39:15
☆
Re: 無意識
/ peer
>何かを常に求め続けていて満たされない
これを称して煩悩ですよね。
人として生まれたモノには、必ず付いて来るものでしょ。
仏教的には「貪」。貪計する性質があるわけですね。
なにか原因があって、満たされない思いがある。のではない。
と思いますよ〜。
No.524 - 2008/03/18(Tue) 10:21:47
☆
Re: 無意識
/ ばん
煩悩ってなくす事できますか?
No.525 - 2008/03/18(Tue) 10:37:21
☆
Re: 無意識
/ 大阪
ばんさん、こんにちは。
あれから、僕も、お母さんの愛について考えてたんですが。
僕にとっても、お母さんの胸の温もりや、優しく甘えさせてくれる心地良さ、それはそれは良いものでした。
それで、やはり、その変わりになるものを探しているかもしれない、とか考えました。
そこで思いました。
お母さんの胸が温かいのも、優しく甘えさせてくれて心地良いのも、神様がそうさせてくれているからじゃないか。
つまり、お母さんの愛も、神様の愛の一部分に過ぎない。
お母さんの愛を心地良いと感じたなら、それは、神様の愛の一部分が心地良かった、ということ。
お母さんの愛を素晴らしいと感じたなら、それは、そんなお母さんの愛よりも大きな神様の愛があることを表している。
例えば、お母さんの愛を、800ポイント、素晴らしいと思ったら、神様の愛はそれ以上。
更新されて、1300ポイント、素晴らしいと思ったら、神様の愛はそれ以上。
簡単にいうと、お母さんの愛に依存することは、大きな神様の愛のほんの一部分に執着してるだけ、ということ。
こんな風に、考えてみました。
No.526 - 2008/03/18(Tue) 12:29:43
☆
Re: 無意識
/ ばん
大阪さんこんにちは
私はお母さんの愛って、神様の愛と同じものだと思います。
お母さんが愛を出している時って、お母さんの中の神様が出てきているんだと思います。
私も自分の子供を愛する時って自分の中の神様が出てきているような感じがします。神様のままでいれたら幸せなんですけどすぐ日常のめまぐるしさにおわれ自我まみれになってしまいます。
山で一人修行して悟った人が日常生活に戻ったらそれがわからなくなったって感じです。
No.527 - 2008/03/18(Tue) 13:47:34
☆
Re: 無意識
/ 大阪
では、どうして、ばんさんは、自分の子供を愛せるのでしょうか。
それは、神様の愛がばんさんも、ばんさんの子供も、親が子供を愛する事も、愛してくれているから出来るのではないでしょうか。
だから、お母さんの愛も、神様の愛から出てきたもの、と思うのですが。(同じものと、言えない事もないと思いますが)
>山で一人修行して悟った人が日常生活に戻ったら、それがわからなくなったって感じです。
ということはその人は、悟ったんじゃないと思います。
山で一人の時に適応できて、都会の日常で適応できないのは、おかしいと思います。
No.528 - 2008/03/18(Tue) 14:03:45
☆
Re: 無意識
/ ばん
> では、どうして、ばんさんは、自分の子供を愛せるのでしょうか。
> それは、神様の愛がばんさんも、ばんさんの子供も、親が子供を愛する事も、愛してくれているから出来るのではないでしょうか。
> だから、お母さんの愛も、神様の愛から出てきたもの、と思うのですが。(同じものと、言えない事もないと思いますが)
えーっと私の考えなのでどうかわかりませんが
人の中には神様がいて無償の愛、無条件の愛とかの形で出てくるのかも、それは、宇宙に一つだけで、お母さんの中にもあるし、大阪さんの中にもある、それでみんな繋がっている
のかもと思ったりしてます
No.529 - 2008/03/18(Tue) 14:47:38
☆
Re: 無意識
/ 大阪
> 人の中には神様がいて無償の愛、無条件の愛とかの形で出てくるのかも、それは、宇宙に一つだけで、お母さんの中にもあるし、大阪さんの中にもある、それでみんな繋がっている
では、少しきつい、質問です。
ばんさんは、子供を愛している時に神様が出てくる、と言っておられましたが、それが無条件の愛なら、どうして自分の子供なのでしょうか。
「自分の子供」という条件があるのではないでしょうか?
No.530 - 2008/03/18(Tue) 16:07:06
☆
Re: 無意識
/ ばん
んーと、私が文を書くのがへたなのでうまく伝わらなかったみたいです。
(神様=愛)という意味です。
自分の子供と書いたのは、たとえばという事です。
他の子供も愛してますよ
大阪さんもお会いしてないけど愛してますよ
全てを愛してます
でも、自分も愛してます
だから、ご飯を食べる時、感謝して食べます
No.531 - 2008/03/18(Tue) 17:23:45
☆
Re: 無意識
/ peer
>煩悩ってなくす事できますか?
煩悩の仕組みが、頭ではなく、身体と
心で納得できたら、必要なくなります。
No.535 - 2008/03/19(Wed) 08:45:58
★
意識
/ ルー
意識につかまらないとしたら、人は、何で繋がるのかと思いますが、存在しているだけで繋がっているのかなと思いました。
いろいろと困らせた結果、そのことが浮かび上がりました。
存在しているだけでは、喜びは湧き上がらないのだけれど、子供のことを考えたら、まさにそうだなとわかります。
「静かな喜び」というか。
田舎の人が「何も起こらないのが幸せ」と言っているのが、そういうことなんかなと感じました。
人間の根源的なもの。
いつのまにか、刺激がないと生きている気がしない方向に行ってしまうのかなと思いました。
No.513 - 2008/03/14(Fri) 05:37:53
☆
Re: 意識
/ ubik0101
はい。意識に依存しないということは、意識が、滞りなく機能してるということでもあります。 自分の行動、発言、思考。それを、そのまま見ています。 それだけで不思議な世界にいます。
そうであって、たとえば意識の範疇にない、愛を、意識する必要のないことを了解しているでしょう。もともと意識できない愛を意識するためには、意識は、愛を空想せざるを得なくなります。それは、愛憎の愛、になりやすいのです。
それは葛藤。それは自分が愛してる愛されてる愛してない愛されてない、愛の、実感がある、なら、ある。ない、なら、ない。に縛られてるともいえます。
それは「刺激がないと生きている気がしない」欲望のことでもあります。実感に依存してることでもあるでしょう。それは、意識に依存してる、自分が愛を、知ってる、と誤解してることでもあるでしょう。
そのように、知ってる、意識に依存してるなら、自己も、自他の分離を意識せざるを得ない、自我であり。実在も、空想の神になり得るでしょう。
しかしもう、知ってるという、ことが総てと思いたい、しかも誤ることのできる機能がある、意識に依存する必要はありません。意識に依存しないということは、知らない、を了解してるということです。迷いが転換した叡智も、分別したがる意識の領域にありません。素直さなどの良い特質も、自己も、実在も、そうです。
そうであれば、たとえば既知のものと言われる、自我も、欲望も、過去も、思考も、ありとあらゆることが未知であり・・・それ、それだけで静かな幸せ感があります。
No.515 - 2008/03/14(Fri) 10:18:55
★
ルーさんの体験。
/ ubik0101
ほかの掲示板で対話したときの
ルーさんの、空っぽ体験の、記録です。
ルーさんに了解を得たので掲載します。
ありがとう。
とても学ぶところがあると思います。
「からっぽ」を感じたことはあります。
最初は、からっぽになれて気持ちよかったのですが、すぐに退屈しました。何もない、ことに、耐えられなくなりました。寂しくなりました。
過激派なのでしょう。
あれですよ。
いろいろとよけいなものをたくさん身につけていたのでした。
それが、剥がれていったのです。
そして、無になってしまったのです。
私は、ただの器になってしまったのです。
何の個性も感じられないものに、なっていました。
まぁ、すべてと、つながっている、気はしました。
それは、暖かいものでした。
しかし、それは、過ぎていきました。
私は、確かに、変容したでしょう。
前とは違う私になったでしょう。
まぁ、すべてと、つながっている、気はしました。
この世に存在する、ひとつのものとして、あれとかこれとか、と同じように、自分も存在している、という感じですな。
しかし、それから、自我を愛することもできるようになった、かな。
他人の自我も、かわいい・・・愛すべきものに思えるようになりました。
壁がない、感じです。
しかし、その融合は、私は、存在しにくかったのです。
やはり、過激派なのです。
しかし、私にとっては、その体験は、独立して特別なものとして日常と切り離されているわけではないのです。
葛藤の中にいる時の方が強烈でした。
それが、努力はした(自然にその方向に向かったわけですが)のですが、知らぬ間に葛藤の外に出ていたという感じですので。
「ある体験」と呼べるほどのものも、ありません。
からっぽを感じ、また、からっぽを感じなくなった。
現実を相手に生きるようになった、かも知れません。
まず、葛藤の中にいる時、私は、何が起きているのかわかりませんでした。しかし、本を読んだり芸術に触れたり現実の問題に立ち向かったり対話をしたり勉強したりして、自分の置かれた環境や性質や好きなものなどについて、見えてきたのです。
どこかで自分をさらけ出すことは、私には必要なことだったと思います。
大きな救いは、私と同じようなことで悩んでいる人が他にもいるということを知ったことです。それは、本になっていました。
Kではありません。加藤諦三、斉藤学、岸田秀、美輪明宏、宮本輝、寺山修二など、いろいろな人の力を借りました。
そして、「怒り」と感じていたものが、「悲しみ」として初めて感じた時、言葉にはできない何かがやってきました。ひとりで受け止めるしかなかったので、言葉にする必要もなかったので、記憶はあやふやなのですが、あの時感じたものは「からっぽ」の半分ぐらいの感覚だったのかも知れません。
カウンセリング理論というHPの掲示板で、新しい芽さんの投稿を見つけ、このHPを知りました。それでKを知ったのです。
このHPに書いてあることしか、Kは知りません。
ミーハーなのです。
しかし、ここに書いてあることは、食い入るように読みました。
言葉が理解できる人間として教育されてきてよかったです。
書いてあることの意味は、かなりわかりました。
自分の現実と照らし合わせながら読みました。
実践できるかできないか、ということに拘らずに、まず、書いてあることを理解すればいいのです。
そして、新しい芽さんとの対話の中で、いろいろな発見があり、ふと気づくと、葛藤の外にいたのです。
その時に、世界とひとつになっている感覚がありました。
やっていけそうな気がしました。大丈夫だと思いました。
しかし、落としたものもあったのです。
葛藤と一緒に服も脱いでしまったので寒かったのです。
それで、また、服を着ました。
ちゃんと見て、服だけを着ました。
No.514 - 2008/03/14(Fri) 08:41:31
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