最近、禅の本をとても楽しく読んでいます。
ところで、今朝、布団の中で、まだ寝ぼけている時に浮かんできた話なんですが、何か意味がありそうです。
ある所に店がありました。 中には誰もおらず、外に客が集まっていました。 店の外から中を覗いて、ある男が言いました。 「ココは、花屋だ!花屋だ!」 別の男が言いました。 「ココのパンはおいしい。」 貴婦人が言いました。 「綺麗なお店ね。」 隅では老人が椅子に座って居眠りしていました。
さて、店の奥から、店主が入ってくる音が聴こえてきました。 一同は帰りました。 店には客が入るようになりました。
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No.646 - 2008/04/15(Tue) 20:07:35
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | その「店」とは、自我=無我。そして「主人の入ってくる音」とは自己を無自覚に自覚。でしょう。ところで、椅子に座って居眠りしてた老人って、なんでしょう。
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No.647 - 2008/04/16(Wed) 08:05:35 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >その「店」とは、自我=無我。
ここが少し気になりました。 自我という言葉の使い方にもよりますが、無我とは自我がないことだとすれば、自我と無我が等号で結ばれることがあるのでしょうか?仏教では「即」という繋辞があります。例えば「煩悩即菩提」というように使われます。相反する二つのものが、そのまま同等で差別のないときに使われています。
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No.659 - 2008/04/17(Thu) 10:29:04 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | なにか苦悩、葛藤してる、その中心を自我と呼ぶとして。その中心は、ありません。もともと、いない、のです。それは無我です。自我という何かがあれば、そうでないこととしての無我も感じるのかもしれませんが、対概念ではありません。
また。なにかを主張したり、思考や感情に巻き込まれてることを自我と呼ぶとして、それは、世界が、そう機能するというだけのことです。(それを自分の主張や思考や感情と思ってるだけです)。この両方の意味で、自我=無我です。
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No.663 - 2008/04/17(Thu) 11:46:31 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >なにか苦悩、葛藤してる、その中心を自我と呼ぶとして。 >その中心は、ありません。もともと、いない、のです。そ >れは無我です。自我という何かがあれば、そうでないこと >としての無我も感じるのかもしれませんが、対概念ではあ >りません。
>また。なにかを主張したり、思考や感情に巻き込まれてる >ことを自我と呼ぶとして、それは、世界が、そう機能する >というだけのことです。(それを自分の主張や思考や感情 >と思ってるだけです)。この両方の意味で、自我=無我で >す。
内容以前に、形式的に難解な文章ですが、要するに両極端の否定をおっしゃっているのでしょうか?
「ない」が「ある」の反対のものであるならば、「ある」も「ない」も同じこだわりである。つまり「自我」も「無我」もこだわりという点では同じである、したがって「自我=無我」であると。ubikさんの表現を借りれば、それは「偏り」である、と。
「ある」へのこだわりもなく、「ない」へのこだわりもない、そんな世界のことをおっしゃっているのでしょうか?
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No.667 - 2008/04/18(Fri) 10:19:03 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | >内容以前に、形式的に難解な文章ですが、要するに両極端の否定をおっしゃっているのでしょうか?
ただの事実として、自我の中身は、ない、ということです。空っぽということです。また、自我の殻?と言うか、自我の運動として使われ得る素材(物質、身体、感覚、感情、意識)も、自我ではない、という意味です。では、なんのために自我が設定されるのかといえば、学ぶためです。
>「ない」が「ある」の反対のものであるならば、「ある」も「ない」も同じこだわりである。つまり「自我」も「無我」もこだわりという点では同じである、 したがって「自我=無我」であると。ubikさんの表現を借りれば、それは「偏り」である、と。
そうです。ただ、それが「偏り」になるためには、まず無我を(覚醒体験などで)了解してる必要があります。その無我を、ことさら(自我と反対のこととして比較)実感するのは、残響のような自我です。そこに分裂が機能します。その残響のような自我が、問題といえば、問題ということです。
それが解決されたら、自我もなければ、無我もなく。無我もなければ、自我もない。です。この意味で、「ある」にも「ない」にも、こだわれません。逆に言えば、自我があろうが、なかろうが無問題です。誰であれ、困難な問題に陥ったら、ものごとに集中する、自我の機能を使って、自分の状態から学んでいます。
>「ある」へのこだわりもなく、「ない」へのこだわりもない、そんな世界のことをおっしゃっているのでしょうか?
そんな日常です。たとえば 欲望、また無欲を求めることは「ある」 「ない」の、こだわりとも言えます。たとえば車が、ある、それを見てる自分が、ある、と思い偏っていなければ、成立しにくいのです。自我が、ある、無我が、ある、も同様です。そこから学ぶことで、「ある」 「ない」に、こだわらなくなる。という意味ではそうです。ただ 「ある」ということ 「ない」ということ、この意味は不明です。
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No.668 - 2008/04/18(Fri) 12:34:17 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >ただの事実として、自我の中身は、ない、ということで >す。空っぽということです。また、自我の殻?と言うか、 >自我の運動として使われ得る素材(物質、身体、感覚、感 >情、意識)も、自我ではない、という意味です。では、な >んのために自我が設定されるのかといえば、学ぶためで >す。
「自我が設定される」とはどういう意味なのでしょうか?
>そうです。ただ、それが「偏り」になるためには、まず無 >我を(覚醒体験などで)了解してる必要があります。その >無我を、ことさら(自我と反対のこととして比較)実感 >するのは、残響のような自我です。そこに分裂が機能しま >す。その残響のような自我が、問題といえば、問題という >ことです。
実感というよりも、獲得すべき理想という対象として「無我」を認識するということでしょう。そして、それもまた「自我」の働きの一部である。そこに自己満足が発生し、停滞する。
>それが解決されたら、自我もなければ、無我もなく。無我 >もなければ、自我もない。です。この意味で、「ある」に >も「ない」にも、こだわれません。逆に言えば、自我があ >ろうが、なかろうが無問題です。誰であれ、困難な問題に >陥ったら、ものごとに集中する、自我の機能を使って、自 >分の状態から学んでいます。
「自我」も、その対概念、つまり獲得すべき理想としての「無我」もなければ問題は生じないでしょう。しかし、「自我があろうが、なかろうが無問題」というのはどうでしょうか。
もともと「自我」を「なにか苦悩、葛藤してる、その中心を自我と呼ぶとして」また「なにかを主張したり、思考や感情に巻き込まれてることを自我と呼ぶとして」として捉えられているわけですから、やはり「自我」があれば問題ということでしょう。ただ、その「自我」の取り扱いに注意が必要だということでしょう。
ですから、「自我」の問題が解決された後に、困難な問題に対処する行為や認識の主体は、すでに「自我」とは呼ばれないのではないでしょうか。
>そんな日常です。たとえば 欲望、また無欲を求めることは>「ある」 「ない」の、こだわりとも言えます。たとえば車>が、ある、それを見てる自分が、ある、と思い偏っていな >ければ、成立しにくいのです。自我が、ある、無我が、あ >る、も同様です。そこから学ぶことで、「ある」 「ない」>に、こだわらなくなる。という意味ではそうです。ただ >「ある」ということ 「ない」ということ、この意味は不明>です。
実際には「ある」「ない」について語られているわけですから、正確に言えば「意味不明」ということでもないでしょう?むしろ「ある」「ない」を意識しない、つまり何らかの操作の対象として認識しない、ということではないですか? つまりは「知らない」(不識)。
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No.672 - 2008/04/19(Sat) 10:27:37 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | >「自我が設定される」とはどういう意味なのでしょうか?
ないけれど、あるように機能すると、いう意味です。
>実感というよりも、獲得すべき理想という対象として「無我」を認識するということでしょう。そして、それもまた「自我」の働きの一部である。そこに自己満足が発生し、停滞する。
それは、あらかじめ「無我」を知識として知っていたりして、目標にしてるからだと思います。その働きは、ムーミンさんの言うように、自我の機能だと思います。そうであれば、その無我は空想です。
けど、そういう空想をしなければ無問題、ではありません。ただ自我の問題から逃避してる可能性もあります。そして極端な場合は。自我を知覚できないから、ない、と看做して、つまり自分は無我と看做して、自我満足して。自分の生活に安住する、現実に現実逃避する可能性もあります。
ところで、どんな既存の修行をしたこともなく、無我を目標にしたことがありません。無我だということを、体験したということです。そのとき、それまで自我が機能してることさえ知りませんでした。それは努力に関係なく、関係なくもなく、訪れました。残響のような自我などの問題は、その後です。
>「自我」も、その対概念、つまり獲得すべき理想としての「無我」もなければ問題は生じないでしょう。しかし、「自我があろうが、なかろうが無問題」というのはどうでしょうか。
こうである、そのままの有り様を言っています。ついでに欲望もあろうが、なかろうが無問題です。これは主に、自我や欲望が機能してる誰かを空想して、その誰かに向かって「そのままで、いいんだよ」と言ってるのではありません。とくに探究する人に向かって話しています。
>もともと「自我」を「なにか苦悩、葛藤してる、その中心を自我と呼ぶとして」また「なにかを主張したり、思考や感情に巻き込まれてることを自我と呼ぶとして」として捉えられているわけですから、やはり「自我」があれば問題ということでしょう。ただ、その「自我」の取り扱いに注意が必要だということでしょう。
>ですから、「自我」の問題が解決された後に、困難な問題に対処する行為や認識の主体は、すでに「自我」とは呼ばれないのではないでしょうか。
おそらく一般的には、そうなのでしょう。でも、たとえば意識は働いています。その意識の機能としての、自我に使われるのではなく、機能としての自我を使おう、ということです。もちろん、使う中心は、いわゆる自我ではありません。これも徹底的に探究しようとする人に向かって話しています。
>実際には「ある」「ない」について語られているわけですから、正確に言えば「意味不明」ということでもないでしょう?むしろ「ある」「ない」を意識しない、つまり何らかの操作の対象として認識しない、ということではないですか? >つまりは「知らない」(不識)。
まあ、そうです。けど。「知らない」は、ほんとうに、知らない、です。たとえば“「ある」「ない」を意識しても、また何らかの操作の対象として認識しても ”知らない、のです。まったく、知ってるということが何かを知らず、知らないということも何かを知らない。です。
それで。たとえば「ある」「ない」を前提にしてなければ、知らない、もないかもしれません。ということは「ある」「ない」には、知らない、が届かないと思います。このことを、知らない、と言ってもいいのですが、そうじゃないだろ、と思います。そのうち解るような気がする、ということで「意味不明」としています。
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No.674 - 2008/04/19(Sat) 12:42:55 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >ところで、どんな既存の修行をしたこともなく、無我を目 >標にしたことがありません。無我だということを、体験し >たということです。そのとき、それまで自我が機能してる >ことさえ知りませんでした。それは努力に関係なく、関係 >なくもなく、訪れました。残響のような自我などの問題 >は、その後です。
「無我」を知るときに「自我」を知る、ここが面白いところだと思います。「無我」を知ることと「自我」を知ることとは同時だったということでしょ?
「無我」を知ったとき、自我の原因と結果、つまり、どのように自我が生じ、どのように展開し、どのように消えていくかが理解できませんでしたか?たとえば、そのとき「苦しみ」があったとして、瞬時に「苦しみ」がもう苦しみでなくなっている。そのときある事実がただ静かに見られている。
竜樹菩薩も言いました。「空性を理解する人には縁起が理解される。縁起を理解する人には四聖諦が理解される」と。ま、誰が言おうと関係はないのですが。
>こうである、そのままの有り様を言っています。ついでに >欲望もあろうが、なかろうが無問題です。これは主に、自 >我や欲望が機能してる誰かを空想して、その誰かに向かっ >て「そのままで、いいんだよ」と言ってるのではありませ >ん。とくに探究する人に向かって話しています。
>おそらく一般的には、そうなのでしょう。でも、たとえば >意識は働いています。その意識の機能としての、自我に使 >われるのではなく、機能としての自我を使おう、というこ >とです。もちろん、使う中心は、いわゆる自我ではありま >せん。これも徹底的に探究しようとする人に向かって話し >ています。
「機能としての自我を使おう」という言葉が少しわかりにくいです。
これは、いままで「自我」に使われ、混乱をもたらしていた思考(あるいは感情や欲望も)が、「自我」が機能しなくなると、日常生活において必要に応じて適正に使用されるようになるということがありますが、そういうことではないわけですか?
それとも、苦悩や絶望や恐怖などを「自我の成長?」(完成?)のために利用しようということですか?
>まあ、そうです。けど。「知らない」は、ほんとうに、知 >らない、です。たとえば“「ある」「ない」を意識して >も、また何らかの操作の対象として認識しても ”知らな >い、のです。まったく、知ってるということが何かを知ら >ず、知らないということも何かを知らない。です。
このレトリックだけを読んでいると、アルツハイマー型認知症のようでもありますが、ubikさんはその状態を認知されていると言う点では、アルツハイマー型認知症とは違うわけですね。
>それで。たとえば「ある」「ない」を前提にしてなけれ >ば、知らない、もないかもしれません。ということは「あ >る」「ない」には、知らない、が届かないと思います。こ >のことを、知らない、と言ってもいいのですが、そうじゃ >ないだろ、と思います。そのうち解るような気がする、と >いうことで「意味不明」としています。
私ならば「未知」という言葉を使うかもしれません。だとすれば「そのうち解るような気がする」というのもないのかもしれません。
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No.675 - 2008/04/19(Sat) 14:57:19 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | >「無我」を知るときに「自我」を知る、ここが面白いところだと思います。「無我」を知ることと「自我」を知ることとは同時だったということでしょ?
ほとんど瞬間です。まず自分が変化を始め、変化しながら変化してる自分を見て、変化が完成するのを見ていました。そして。
>「無我」を知ったとき、自我の原因と結果、つまり、どのように自我が生じ、どのように展開し、どのように消えていくかが理解できませんでしたか?
その変化が完成してすぐ、 自我の仕組みを見ました。それについては、どこかに、「自我が死ぬとき、その最期の姿を見せてくれる」と投稿したことがあるのを思い出しました。
>たとえば、そのとき「苦しみ」があったとして、瞬時に「苦しみ」がもう苦しみでなくなっている。そのときある事実がただ静かに見られている。
ちょっと違いました。歓喜です。それでも。総ての感情も活動してるので、自分に起こったことに驚くというだけの感情が個別に機能してるわけではないので、その意味では、静か、とも呼べます。また。これまで捨ててきた総ての思考が、活動してるのを見ました。この現実にも、心理的に依存しているとは感じません。ただ依存しないことにも、依存しないと、学ぶ必要がありました。
>これは、いままで「自我」に使われ、混乱をもたらしていた思考(あるいは感情や欲望も)が、「自我」が機能しなくなると、日常生活において必要に応じて適正に使用されるようになるということがありますが、そういうことではないわけですか?
そうとも言えます。おおくの人にとっては、それでいいと思います。ただ自分は、このような、この自分を言うだけです。とくに「日常生活において必要に応じて適正に使用される」より、たぶん生まれつきのように探究者なのでしょう。
>それとも、苦悩や絶望や恐怖などを「自我の成長?」(完成?)のために利用しようということですか?
うーん。 苦悩や絶望や恐怖などは、用なし、です。
>このレトリックだけを読んでいると、アルツハイマー型認知症のようでもありますが、ubikさんはその状態を認知されていると言う点では、アルツハイマー型認知症とは違うわけですね。
レトリックではなく、実際そうです。たとえば(クリシュナムルティ用語でしょうか)既知と呼ばれることもある、心理的思考、過去も、未知です。あることが既知、ほかのことが未知ではありません。ただ、酔っ払いではあります。
>私ならば「未知」という言葉を使うかもしれません。だとすれば「そのうち解るような気がする」というのもないのかもしれません。
まあ。楽しみの領域ですが、見える限り見る、です。
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No.676 - 2008/04/19(Sat) 17:07:56 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >ほとんど瞬間です。まず自分が変化を始め、変化しながら >変化してる自分を見て、変化が完成するのを見ていまし >た。そして。
>その変化が完成してすぐ、 自我の仕組みを見ました。それ>については、どこかに、「自我が死ぬとき、その最期の姿 >を見せてくれる」と投稿したことがあるのを思い出しまし >た。
おそらくこの転換を仏教では「煩悩即菩提」と表現したのだと思います。このことが念頭にあって「自我即無我」を「自我=無我」表現されたのかと思ってそもそも質問が始まったのでした。しかし、そういう意味ではないという事でしたので、それはそれでいいです。
>ちょっと違いました。歓喜です。それでも。総ての感情も >活動してるので、自分に起こったことに驚くというだけの >感情が個別に機能してるわけではないので、その意味で >は、静か、とも呼べます。また。これまで捨ててきた総て >の思考が、活動してるのを見ました。この現実にも、心理 >的に依存しているとは感じません。ただ依存しないことに >も、依存しないと、学ぶ必要がありました。
「歓喜」というのは注意が必要な場合がありますね。仮にエネルギーという概念を使いますが、長く思い煩っていたできごとが解決を見たときに、思い煩いのときのエネルギーの消耗が一時的に止んで、相対的にエネルギーがあふれる感覚を持つことがあります。これを「歓喜」と呼ぶ場合もあります。この相対的なエネルギーの増加をいわゆる「覚醒」と勘違いして、探求が停滞する場合がありますね。「神秘体験」や「至高体験」を喧伝している人たちによく見られる現象です。
>そうとも言えます。おおくの人にとっては、それでいいと >思います。ただ自分は、このような、この自分を言うだけ >です。とくに「日常生活において必要に応じて適正に使用 >される」より、たぶん生まれつきのように探究者なのでし >ょう。
ちょっと伝わっていないような気がしました。ここで言っていたのは、「自我」が姿を消したとき、そのとき思考は本来の持ち場を与えられ、日常生活のなかで、現実をゆがめることなく、必要に応じて働く、ということです。
つまり「空想」ではなく、「事実」に基づいた生がある、ということです。いわゆる「如実知見」、事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動があるということです。
>うーん。 苦悩や絶望や恐怖などは、用なし、です。
もちろん「自我」が姿を消しているのならば、苦悩や絶望や恐怖など存在しないでしょう。ここでの質問は「機能としての自我を使おう」というのは何に使おうというのかという意味です。
ubikさんは「自我の完成」とどこかに書いていましたね。「自我がない」と洞察し、実際に自我が機能しなくなれば、完成すべき自我もなにもないと思いますが。ま、ここはお互いの「自我」の定義、捉え方の違いかもしれません。
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No.679 - 2008/04/20(Sun) 11:21:07 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | ただ、歓喜だった、と話しました。 とくに、どういう「神秘体験」や「至高体験」でも(体験がなくても)かまわないと思います。なんであれ、それで人生の完成、と看做すことに問題があるでしょう。そうであれば、ほかの人から見てのことですが、その体験が、起こらなかったらよかった。という場合もあります。
もしかして。ム−ミンさんは。いわゆる 「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動」を、目指して、それを求めたので、「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動」が得られるのかもしれません。と空想します。(と自分が空想したと知っています)。それは、そう求めたのなら当然です。が、それは、それで 「探究が停滞」しなければ、無問題かもしれません。
また。なにを求めてるかも想定せずに求めたのだけど、結果は「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動」だった、ということかもしれません。また、ある種の体験を、自分で理解できずに、ありあわせの解釈に従って、そうだと思い込んでしまうこともあるようです。けど。それで「探究が停滞」しなければ、無問題なのでしょう。けど。どうしてもここは、本人次第なのでしょう。
たとえば、「あるがままに見、知り」することは、自分勝手な判断なしに見るということであれば、とくに「行動」に繋がるとは思えません。「行動」しても、しなくても、判断なしに見ています。なにも行動しないということも行動でないなら、「事実をあるがままに見」て、それになぜ「それに基づいた行動」に結びつくの?という疑問が生じます。まだ未解決な問題があって、それが、「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動」として現れてるのかな、と空想しました。
ところで。たとえば、いつまでも、あれは既知、これは未知などと言ってるなら、そのことに縛られてる、だけです。 どんな既知も未知ということも、それを理解したら、その思考は現れた瞬間に、消滅します。そうでないなら、それに縛られています。ただ質問されれば答えることができます。
>もちろん「自我」が姿を消しているのならば、苦悩や絶望や恐怖など存在しないでしょう。ここでの質問は「機能としての自我を使おう」というのは何に使おうというのかという意味です。
それは、とてつもない悲しみ・・・それを、たとえば嘆くとか、自己憐憫とかに転換してしまう、そんな自我が機能してれば、どんなに慰めになるだろう。けど。なにがなんでも、ないはずの自我を使ってでも、起こったことを理解したい、そういう経験で、自覚できたことです。そういう経験がなければ、決して見ることはなかったと思います。
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No.681 - 2008/04/20(Sun) 14:14:33 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >もしかして。ム−ミンさんは。いわゆる 「事実をあるがま>まに見、知り、それに基づいた行動」を、目指して、それ >を求めたので、「事実をあるがままに見、知り、それに基 >づいた行動」が得られるのかもしれません。と空想しま >す。(と自分が空想したと知っています)。それは、そう >求めたのなら当然です。が、それは、それで 「探究が停 >滞」しなければ、無問題かもしれません。
「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動」をめざし、求めたのならば、それはまた自我の働きでしょう。ですから、そこに気づかないと停滞、同じところをぐるぐる回ることになります。そこが厄介なところなのです。
>また。なにを求めてるかも想定せずに求めたのだけど、結 >果は「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行 >動」だった、ということかもしれません。また、ある種の >体験を、自分で理解できずに、ありあわせの解釈に従っ >て、そうだと思い込んでしまうこともあるようです。け >ど。それで「探究が停滞」しなければ、無問題なのでしょ >う。けど。どうしてもここは、本人次第なのでしょう。
そうですね。体験すればそれで終わりということではないでしょうね。その体験で一瞬に把握したことを理解する、言語化するというのはかなり手間がかかりますでしょ?禅のようなシステムがあると助かるかもしれませんが。
>たとえば、「あるがままに見、知り」することは、自分勝 >手な判断なしに見るということであれば、とくに「行動」 >に繋がるとは思えません。「行動」しても、しなくても、 >判断なしに見ています。なにも行動しないということも行 >動でないなら、「事実をあるがままに見」て、それになぜ >「それに基づいた行動」に結びつくの?という疑問が生じ >ます。まだ未解決な問題があって、それが、「事実をある >がままに見、知り、それに基づいた行動」として現れてる >のかな、と空想しました。
「自我」を見ると同時に「無我」見たとき、そのとき「自我」を手放していませんでしたか?この「自我」を手放すことが、行動、行為といえるのではないかと思います。この「見る=手放す」という行為が大きな「転換」ではないですか?その後は、状況に応じて行動したりしなかったりいろいろあるのでしょうけれども。
>ところで。たとえば、いつまでも、あれは既知、これは未 >知などと言ってるなら、そのことに縛られてる、だけで >す。 どんな既知も未知ということも、 >それを理解したら、その思考は現れた瞬間に、消滅しま >す。そうでないなら、それに縛られています。ただ質問さ >れれば答えることができます。
ええ、その「未知」が、「既知」と「未知」の対概念の「未知」であれば「既知」の枠内のものでしょう。ただ、思考が消滅するといっても、必要な思考は消滅しないでしょ?いくらアルツハイマー型認知症のような状態であっても、アルツハイマー型認知症ではないのだから、日常生活を支障なく送るわけですから。消えるのは二元的なというか、心理的なというか、何かを操作の対象として認識するような思考でしょう?
>それは、とてつもない悲しみ・・・それを、たとえば嘆く >とか、自己憐憫とかに転換してしまう、そんな自我が機能 >してれば、どんなに慰めになるだろう。
たぶん一時的な慰めにはなっても、悲しみは繰り返し現れて来るでしょうね。
>けど。なにがなんでも、ないはずの自我を使ってでも、起 >こったことを理解したい、そういう経験で、自覚できたこ >とです。そういう経験がなければ、決して見ることはなか >ったと思います。
そうですね。いろいろな人が「見る」という体験が起こったときの事を、よく「ふと」とか「突然」とか表現されますよね。けれども、たいていはそれなりに苦悩を抱えていらっしゃるのですよね。
もしかすると、苦悩しているときの自分に対する激しい、強烈な「問いかけ」が、深い自覚、転換を呼び起こすのかもしれません。脳がショートするとか、思考のブレーカーがあがるとか。この深い自覚がなければ、そのまま自我が突っ走っていくだけでしょうね。これが起こるのは「恩寵」としかいえないのかもしれません。だとすれば「方法」はないことになります。むしろ、目的も手段も尽きたときに、それは起こるといえるかもしれませんね。
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No.682 - 2008/04/20(Sun) 18:22:26 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ubik0101 | | | >「事実をあるがままに見、知り、それに基づいた行動」をめざし、求めたのならば、それはまた自我の働きでしょう。ですから、そこに気づかないと停滞、同じところをぐるぐる回ることになります。そこが厄介なところなのです。
うーん。そういうなにかを目指したのではなく。ただ目的は自分を知ろうとすること。そのために、これが自分だと思う自分の状態、の前提を見つけて、自分の状態を捨てることだけをしていたのです。
それはほとんど無意識についても行いました。そして、それでも、そういうことが直接に体験に結びついたのではないと思います。なにかが起きることさえ知りませんでした。それで、その努力に関係なく、関係なくもなく。と表現します。
それで結局は、どんな努力でもよく、それは、ただ負荷として機能する。たとえば、グランドを一直線に走っても、ぐるぐる回りしても、身体は鍛えられるように、いつのまにか世界に鍛えられて準備ができる。のだと思います。
そして自覚できないけど、準備ができたら、可能性が高まるのかもしれません。また自分の場合は、もう体験が起こらざるを得なかった、のかもしれません。
>そうですね。体験すればそれで終わりということではないでしょうね。その体験で一瞬に把握したことを理解する、言語化するというのはかなり手間がかかりますでしょ?禅のようなシステムがあると助かるかもしれませんが。
かなりの手間。たしかに。10年以上かかりました。それに体験は、言葉にできない。なんて思える根拠もないので、言葉で理解することを追求しました。そのことによって言葉から、言葉についても学びました。
たしかに体験は意図的にではありませんでしたが、それを理解するのは、意図的に頑張る必要があります。総力戦です。でも、教えてもらわなかったのは、よかった、とも思います。
>「自我」を見ると同時に「無我」見たとき、そのとき「自我」を手放していませんでしたか?この「自我」を手放すことが、行動、行為といえるのではないかと思います。この「見る=手放す」という行為が大きな「転換」ではないですか?その後は、状況に応じて行動したりしなかったりいろいろあるのでしょうけれども。
んーと。自我を手放そうとして手放したのではなく、それは起こったのです。それは大事と言えば大事なのですが、その体験で見たのは、それだけでは、なかったのです。それを読み解いたのが、このサイトの文章です。
>ええ、その「未知」が、「既知」と「未知」の対概念の「未知」であれば「既知」の枠内のものでしょう。ただ、思考が消滅するといっても、必要な思考は消滅しないでしょ?いくらアルツハイマー型認知症のような状態であっても、アルツハイマー型認知症ではないのだから、日常生活を支障なく送るわけですから。消えるのは二元的なというか、心理的なというか、何かを操作の対象として認識するような思考でしょう?
ここでは、理解された思考は、その瞬間に、消滅する。という事実を話しました。そうでなければ、完全には理解されてはない可能性があります。まったく自分のものになったら(変な言い方)、それを見る必要はないのです。無自覚に自覚、してるんです。
そうでなければ眼鏡をかけたまま、その眼鏡を探すようなことです。テレビを見てて、そのテレビを探すようなことです。それが了解されないなら、もしかして。その人は、まだ自分の知覚、実感を信じる、意識に依存してる、状態なのかもしれません。これは見るのが困難なことです。
>そうですね。いろいろな人が「見る」という体験が起こったときの事を、よく「ふと」とか「突然」とか表現されますよね。けれども、たいていはそれなりに苦悩を抱えていらっしゃるのですよね。
ここで話した、とてつもない悲しみというのは、去年の出来事です。それはともかく、ほかの人の体験、または体験によって見たことから、お互いに学ぶことは多々あります。
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No.683 - 2008/04/20(Sun) 20:46:52 |
| ☆ Re: こんばんは。 / ムーミン | | | >んーと。自我を手放そうとして手放したのではなく、それ >は起こったのです。それは大事と言えば大事なのですが、 >その体験で見たのは、それだけでは、なかったのです。そ >れを読み解いたのが、このサイトの文章です。
ええ。その体験は短い時間にたくさんのことを教えてくれますね。ただそれを理解するのに手間がかかる。それで、下記にもありますが、それまで、つまりその体験をするまでは、自我に捕まったままで、自我に基づく行為だったのが、その体験以降は、理解された思考はそのまま瞬時に消えていって、自我のあり方には入っていかなくなったということでしょ?これが行為の大きな転換ということでいったことです。「見ること(理解すること)」が「行為」である、といったのは、行為に二元性の思考が介入しない、知覚からのダイレクトの行為がある、ということです。
>ここでは、理解された思考は、その瞬間に、消滅する。と >いう事実を話しました。そうでなければ、完全には理解さ >れてはない可能性があります。まったく自分のものになっ >たら(変な言い方)、それを見る必要はないのです。無自 >覚に自覚、してるんです。
了解。おそらく、それは記憶の感情的な内容が薄れて、その思考が繰り返し浮上しないということでしょう。
>そうでなければ眼鏡をかけたまま、その眼鏡を探すような >ことです。テレビを見てて、そのテレビを探すようなこと >です。それが了解されないなら、もしかして。その人は、 >まだ自分の知覚、実感を信じる、意識に依存してる、状態 >なのかもしれません。これは見るのが困難なことです。
ええ、ですから真の自己理解、自己認識、自己観察というのは、この「体験」以降にはじまるということでしょ?自我を抱えたままで、自我の眼鏡を通しては、見るものが歪む。
苦悩や絶望があるときは、すでに苦悩や絶望は問題として認識され、操作の対象となっているものなので、「苦悩や絶望が無問題」として問題をやり過ごそうとしたり、苦悩や絶望を克服しようとして取り組んだりすることは、さらに問題を複雑化する、したがって問題の解決にはならないですね。自我の眼鏡を通して問題に接近しているわけですから。で、ubikさんがおっしゃっている「苦悩や絶望が無問題」というのは、問題をやり過ごすという意味ではないわけですね。
つまり、クリシュナムルティ流にいうなら、「観察者は観察されるもの」であるし、「思考者は思考と同じもの」ということになりますが、それを洞察するしかないのでしょう。それは手段も目的も尽きることを意味します。ubikさんも「それ」が起こったときには、目的も手段も尽きていたでしょ?
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No.690 - 2008/04/21(Mon) 10:46:44 |
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