ところで時間が、たとえば過去・現在・未来と均質に連綿と流れるとしたら、どうして、総べてと一緒に流れてる時計の、秒針は時を刻めるでしょう。どうして一緒に流れてる人が、その時計を見たり、部屋の外を走る電車の音を聞いたりできるでしょう。
そんな。わけわからない時間を、連綿として持続したものとして、解釈しないと、自我は、成立しないでしょう。つまり時間の、自我による解釈が、過去・現在・未来という線的な時間。たとえば過去の思考や、出来事と、未来の思考や出来事が、連綿としてると思い込まされてなければ、欲望も機能しないでしょう。
たとえば端的に言って。今日の自分と、明日の自分が、連続してないなら、なにかが欲しいとか、欲しくないとかいっても、とくに意味を見出せないのではないでしょうか。これが自我が機能してないなら、執着に巻き込まれないことの、ひとつの説明と思います。
そうであれば、今。この瞬間に生起する、思考や出来事。つまり総ての現象は、ここで、この瞬間に消滅してると、表現できます。そして、そんな今。は知覚できません。そうすると過去も未来も知覚できません。それは知覚できないというだけです。だからといって、時間が、ない、ということではありません。
おなじように、空間として。眼や耳の五感と意識の作用しか機能してないと(つまり無意識にも隠し事がなく素直だと)。その五感と意識の作用だけです。そのことを、見る主体も、対象もない。と表現できるだけで、それは、いわゆる無我に片寄った見方と思います。自我にも、無我にも片寄らない、それが日常ではないでしょうか。
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No.596 - 2008/04/03(Thu) 13:31:03
| ☆ Re: 知覚。 / hato | | |
> ところで時間が、たとえば過去・現在・未来と均質に連綿と流れるとしたら、どうして、総べてと一緒に流れてる時計の、秒針は時を刻めるでしょう。どうして一緒に流れてる人が、その時計を見たり、部屋の外を走る電車の音を聞いたりできるでしょう。
時間は、出来事に対して縦方向に流れている、ともいえる、 だから、過剰に自我に囚われている場合、縦に掘り下げる、といえるのでしょうか?
なにかの思考を捉えたときに自我が機能し、それは、無理に持続させなければ、とくに問題がないということでしょうか。仮の自己にとっては必然的に、現在過去未来が生起するといってよいでしょうか?
> そうであれば、今。この瞬間に生起する、思考や出来事。つまり総ての現象は、ここで、この瞬間に消滅してると、表現できます。そして、そんな今。は知覚できません。そうすると過去も未来も知覚できません。それは知覚できないというだけです。だからといって、時間が、ない、ということではありません。
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No.597 - 2008/04/04(Fri) 08:26:39 |
| ☆ Re: 知覚。 / ubik0101 | | | あるいは自我から見て、あるいは無我から見て、時間空間の解釈が変わる。その解釈の表現を詮索するより、自我が機能してるなら、自我の探究が、大切、ということを投稿しました。
そして、いわゆる無我の時間空間の解釈も、面白くはあるけど、ただの解釈ではないか?そして自我もなければ無我もない、であれば、そういう時間空間の解釈にも捕われない。という指摘をしました。けど。hatoさんの投稿を見て、時間の解釈には結構、実用的な意味も感じました。
>時間は、出来事に対して縦方向に流れている、ともいえる、 >だから、過剰に自我に囚われている場合、縦に掘り下げる、といえるのでしょうか?
どんなことでも、とくに自分の思考の前提の前提・・・と、可能な限り掘り下げることは、訓練するための負荷になる。という意味で、そうです。
>なにかの思考を捉えたときに自我が機能し、それは、無理に持続させなければ、とくに問題がないということでしょうか。仮の自己にとっては必然的に、現在過去未来が生起するといってよいでしょうか?
必然的かは解りません。ただ、自我にとっては、現在過去未来が連続してると解釈することは、非常に都合がいいのだと思います。なにかを自分勝手な思考をするとしても、現在過去未来の連続が前提になってなければ、思考の意味も失われるからです。
たとえば、誰かと嫌な出来事があったとして。だから、恨む・・・だから、気まずい・・・その、だからという思考は。やはり自分勝手な、現在過去未来の連続が、前提にされているのでしょう。それは時間に使われてるのでしょう。
そうでなければ、そんな自分勝手な思考すること自体が、無意味になります。もともと、そんな時間に使われてなければ、最初から、恨むとか、気まずい、とかも生じません。
「なにかの思考を捉えたときに自我が機能し、それは、無理に持続させなければ、とくに問題がないということでしょうか」。 そう意図しなくても、時間に使われなければ、自然に、そうなるという意味で、そうです。
また。自我が機能してても、誰かと約束して、困難があっても、守ろうとするとします。嘘を言わないようにするとします。それは、ある限定された意味かもしれませんが、現在過去未来の連続だとしても、計らずも、時間を使おうという姿勢を学んでるのだと思います。
なんか、うろ覚えですが趙州の言葉「わたしは12時を使いうる」を思い出しました。
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No.598 - 2008/04/04(Fri) 10:02:48 |
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