うびさんこんばんは。
美女に出会うと色々と苦しめられるのです。
しかし。
コレは、美女を美女と判断した、自分に執着している、ということなのでしょうか。
美女の正体は空。そう判断した自分も空。
なのに自分の感覚で感じた女を美しいと判断した意識。
それを確かだ、と思ってるから美女が美女でしかなくなるのでしょうか。
そしてそれによって苦しめられることになるのでしょうか。
本当は、そうではなく。
その意識の判断と、それを確実だと思う自分、は、誤り。 (でもその誤りは、どんな誤りも許されてる)
そんな、意識の判断も、それを確実だと思う自分も、正体は、空。
なのに、自分だと思ってしまうから、色々限定されてしまう。
本当は空であるこの意識を、自分と思ってしまうのは、それを成り立たせている前提に気づいていないから。
と、僕なりに、こんな感じになったのですが、違うでしょうか?
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No.543 - 2008/03/22(Sat) 20:52:12
| ☆ Re: 難しいです。 / ubik0101 | | | たとえ意識が自分であろうと、なかろうと、総てが空であろうと、なかろうと、それだけでは問題になりません。そういうことには関係なく「自分」の問題が残ってるのでしょう。もしかして、「空であるこの意識」と、無理に思いたい「自分」が、いる、のかもしれません。
ふつうは人の感覚や感情や意識は、樹や街や、ほかの人など、対象を必要とします。それは完全な分離も、完全な融合もありません。そうでなくては関係が成立しません。そして自分も、ほかの人から対象にされます。それは自然の選択で、とくに問題はありません。意識があることも問題はありません。
けれど相手と、より融合したいなら。すでに自然の選択が行われてるのに、さらに美人、不美人という意図的な選択も重なるのでしょう。ことさら「わたし」中心に、または、「あなた」から「わたし」を見たりすると、選択が限定されてしまうことがあります。「色々限定されてしまう」から 、そこに「自分」が、いる、と強調されて意識されるのではないでしょうか。
ところで苦痛は、「わたし」と「あなた」が、現状より融合したいのに分離、または分離したいのに融合が求められる、関係の葛藤でしょう。悲しみは、望まない分離。解放は、望んだ分離。喜びは、望んだ融合。憎しみは望まない融合。怒りは関係に変化を求めること。安定は平穏。なのですが、なんであれ望むということは欲望です。たぶん、上昇してる閾値(しきいち)の、限界を越える超美人が現れたのでしょう。
まだ大阪さんの投稿を明確に理解してないかもしれないので、指摘してください。
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No.544 - 2008/03/23(Sun) 11:15:35 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | >たとえ意識が自分であろうと、なかろうと、総てが空であろうと、なかろうと、それだけでは問題になりません。そういうことには関係なく「自分」の問題が残ってるのでしょう。
人付き合いのときに感じる問題とかを、一つ一つ、解消していけば良い、のでしょうか。それともそういうのは、根こそぎなくなるものなのでしょうか。
>もしかして、「空であるこの意識」と、無理に思いたい「自分」が、いる、のかもしれません。
それは正解のような気がします。
そして今日言葉に出来たのは、自分が行動したり何かを感じる時に、「覚者ならこうする/こう感じるだろう」という風に空想の自分と実際の自分を比べてる、ようです。
また、早く覚醒したい、とか思ってるのです。
これらの、自分を成り立たせている前提を一つ一つ、解消していけば良いのでしょうか。
> ふつうは人の感覚や感情や意識は、樹や街や、ほかの人など、対象を必要とします。それは完全な分離も、完全な融合もありません。そうでなくては関係が成立しません。そして自分も、ほかの人から対象にされます。それは自然の選択で、とくに問題はありません。意識があることも問題はありません。
意識があることは問題ではないのですね。でも僕の意識は自己主張とか、自己防衛とか、そんなことばかりしているので、意識があること自体が問題、と思っていたりしたのでしょう。 > けれど相手と、より融合したいなら。すでに自然の選択が行われてるのに、さらに美人、不美人という意図的な選択も重なるのでしょう。
>ことさら「わたし」中心に、または、「あなた」から「わたし」を見たりすると、選択が限定されてしまうことがあります。「色々限定されてしまう」から 、そこに「自分」が、いる、と強調されて意識されるのではないでしょうか。 > ところで苦痛は、「わたし」と「あなた」が、現状より融合したいのに分離、または分離したいのに融合が求められる、関係の葛藤でしょう。悲しみは、望まない分離。解放は、望んだ分離。喜びは、望んだ融合。憎しみは望まない融合。怒りは関係に変化を求めること。安定は平穏。なのですが、なんであれ望むということは欲望です。たぶん、上昇してる閾値(しきいち)の、限界を越える超美人が現れたのでしょう。 > この辺はちょっと分かりません。難しいのはとても苦手なのです。隠岐で、泊めていただいた部屋にクリシュナムルティの本が沢山ありました。しずかさんが「興味があったら読んでみて下さい」と仰ったので読みやすそうなのを一つ読んでみたのですが、2ページぐらいで諦めました。こんなややこしいこと必要なのか、と思ってしまうのです。
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No.545 - 2008/03/23(Sun) 16:18:04 |
| ☆ Re: 難しいです。 / ubik0101 | | | >人付き合いのときに感じる問題とかを、一つ一つ、解消していけば良い、のでしょうか。それともそういうのは、根こそぎなくなるものなのでしょうか。
どちらかと言えば、限界はありますが、根こそぎです。というより、問題が問題でなくなるのです。たとえば怒ること悲しむこと楽しいこと考えること、そういうことも世界の不思議な機能です。それがなんであるか、誰も知りません。ありとあらゆることが、そうです。
それが成長の必要な人には、負荷として機能するだけです。 そういう、たとえば反省材料が新たに現れるということは、限界が見えるサインでもあるので、それはよく理解しましょう。けど、なにか軋轢が起きたとして、自分に責任があるとは限りません。
>そして今日言葉に出来たのは、自分が行動したり何かを感じる時に、「覚者ならこうする/こう感じるだろう」という風に空想の自分と実際の自分を比べてる、ようです。
自灯明、だけで充分です。いつも、この自分の、この状態の理解から始めましょう。それは考えようとしないでも必要なだけ、やって来ます。それを正確に見ましょう。そうすることで、こだわらないことにも、こだわらない、とか。悪をせず、善をする、とか。意識に依存しない、とかが了解されていきます。
>また、早く覚醒したい、とか思ってるのです。
それを、大阪さんは、起こそうとして起こしたのでしょうか。
>これらの、自分を成り立たせている前提を一つ一つ、解消していけば良いのでしょうか。
あの愛や自己は自覚できる範疇にないことを見極めれば大丈夫です。そうでないと、自分が空想されます。それが、「空想の自分と実際の自分を比べ」たりします。
>この辺はちょっと分かりません。難しいのはとても苦手なのです。隠岐で、泊めていただいた部屋にクリシュナムルティの本が沢山ありました。しずかさんが「興味があったら読んでみて下さい」と仰ったので読みやすそうなのを一つ読んでみたのですが、2ページぐらいで諦めました。こんなややこしいこと必要なのか、と思ってしまうのです。
クリシュナムルティは、不要でした。
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No.546 - 2008/03/23(Sun) 19:49:31 |
| ☆ Re: 難しいです。 / peer | | | >美女に出会うと色々と苦しめられる
って、どんなふうに、苦しめられるのかしら??
あれが美女だと思う。 というのは〜それぞれの嗜好もありまして〜 美女が好きという人もいれば、嫌いという人もいる。 どうでもいいという人もいる。
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No.547 - 2008/03/24(Mon) 01:08:39 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | > どちらかと言えば、限界はありますが、根こそぎです。というより、問題が問題でなくなるのです。たとえば怒ること悲しむこと楽しいこと考えること、そういうことも世界の不思議な機能です。それがなんであるか、誰も知りません。ありとあらゆることが、そうです。 > とても暖かい心地良い文章です。 本文に、釣りに行く途中の車内で、提案されて怒った人の話があります。そんな風に、僕も怒ったりするのです。確かに、そんな問題も、問題ではないんでしょう。でも、そんなんで怒ったりしたくないのです。それをやめることは出来るのでしょうか。うびさんは塩を舐めると辛い、と仰いました。そんな風に、しょうもないことに腹を立ててしまったりもするのでしょうか。あの体験をすると、そんなしょうもないことで怒ったり恥ずかしがったりすることはなくなったのでしょうか。それとも否定の道、を進んでいる時に解消していったのでしょうか。 > それが成長の必要な人には、負荷として機能するだけです。 そういう、たとえば反省材料が新たに現れるということは、限界が見えるサインでもあるので、それはよく理解しましょう。
限界、とは何の限界でしょうか。成長の限界?努力の限界?精神の限界?
>けど、なにか軋轢が起きたとして、自分に責任があるとは限りません。
なんでも自分の責任にするのも、傲慢かもしれないですね。
> 自灯明、だけで充分です。いつも、この自分の、この状態の理解から始めましょう。それは考えようとしないでも必要なだけ、やって来ます。それを正確に見ましょう。そうすることで、こだわらないことにも、こだわらない、とか。悪をせず、善をする、とか。意識に依存しない、とかが了解されていきます。
自灯明・法灯明は、苦手分野なのです。よく意味が分からないのです。自分が赤と思ったものは、誰がなんと言おうと、赤だ。世間や親やキリストが黄色といっても赤だ。とか、そういうことですか?もし良ければお時間のあるときに、説明して頂けませんか?色々お聞きしてスミマセン。
> それを、大阪さんは、起こそうとして起こしたのでしょうか。 ここでの「また」は再び、ではなく、アンドとかそして、です。望んで起きたのではなく、向こうから、でした。 これはお聞きしたかったのですが、うびさんは、あの体験をした人を覚醒した人と呼んでいるのでしょうか。あの体験を悟後の修行とかして理解、捨てきった人を呼ぶのでしょうか。 > あの愛や自己は自覚できる範疇にないことを見極めれば大丈夫です。そうでないと、自分が空想されます。それが、「空想の自分と実際の自分を比べ」たりします。
コレが難しいのです。出来た、と思ってもまた実感を求めてたりで。じっくり時間をかけないといけないようです。 > クリシュナムルティは、不要でした。
誰が不要で誰が必要か、気づかなかったのかもしれない。
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No.548 - 2008/03/24(Mon) 21:11:31 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | peerさん。
うーん、何というか、難しいです。
ど、どうしてそれを聞くのでしょうか?
(ところで、ここでは顔文字は禁止なのでしょうか?)
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No.549 - 2008/03/24(Mon) 21:54:03 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | うびさん、嘘をつかない、とは、まるで裏技ですか!?
嘘をついた所に、自分の守りたい物がある。 それを一度じっくり眺めてみる。 そして、もう一度じっくり眺めてみる。 そして、他の物を眺めてみる。
うーんむずかし、い、そういうことですか?
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No.550 - 2008/03/24(Mon) 22:06:05 |
| ☆ Re: 難しいです。 / peer | | | >ど、どうしてそれを聞くのでしょうか?
どういう意味なのかな〜と純粋に興味が湧いて。 自分は何かに苦しむのに、他の人は苦しまない。 としたら、自分の中の何が反応するのか。 ど、自分の中を見る。。。ですよね。 そして、どうして他の人は無反応でいられるのか。とも。
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No.551 - 2008/03/24(Mon) 23:52:10 |
| ☆ Re: 難しいです。 / ubik0101 | | | >本文に、釣りに行く途中の車内で、提案されて怒った人の話があります。そんな風に、僕も怒ったりするのです。確かに、そんな問題も、問題ではないんでしょう。でも、そんなんで怒ったりしたくないのです。それをやめることは出来るのでしょうか。うびさんは塩を舐めると辛い、と仰いました。そんな風に、しょうもないことに腹を立ててしまったりもするのでしょうか。あの体験をすると、そんなしょうもないことで怒ったり恥ずかしがったりすることはなくなったのでしょうか。それとも否定の道、を進んでいる時に解消していったのでしょうか。
たとえば社会的なこと・・・食品工場で従業員として働いているとして、毒餃子をつくれ、と社長から命令されたとします。そうしたら、そんな社長と、なにも知りようがない消費者のために怒る。それは当然です。
たとえば個人的なこと・・・ネットの接続が悪く、もう何ヵ月も何回もサービスセンターに電話し、モデムを替えても解決していません。しかも治ってないのに、この部屋に修理に来た人が、退社時刻になったのでしょう、帰ってしまいました。また仕事をしても報酬をくれないとか。そういう状況では怒りません。
これは社会的なこと、これは個人的なこと、と完全に区別はできないかもしれませんが、個人的なことでは、よほど理不尽なことでなければ怒りません。つまり、その閾値(しきいち)がほとんど限界まで上がります。
これは体験の後です。実感できることに依存する必要がない、に関係ありそうです。そうでなくても人生経験を積むと、自然に、そうなっていくこともあると思います。羞恥心は、ほとんど感じません。
もしかして。「誰でも、その状況に置かれたら怒ってしまう」という理由を無意識にでも捏造したりすると、それを隠れ蓑にして、怒りやすくなるかもしれません。なら、それを理解すれば解決します。また理解ではなく、人が無知のため怒らない(知らぬが仏)もあります。
>限界、とは何の限界でしょうか。成長の限界?努力の限界?精神の限界?
たとえば怒りを感じるための閾値(しきいち)が上がっても、限界があるという意味です。それは学ぶために貴重な体験でもあります。
>自灯明・法灯明は、苦手分野なのです。よく意味が分からないのです。自分が赤と思ったものは、誰がなんと言おうと、赤だ。世間や親やキリストが黄色といっても赤だ。とか、そういうことですか?もし良ければお時間のあるときに、説明して頂けませんか?色々お聞きしてスミマセン。
とりあえず元の意味はともかく。たとえば感覚や感情や意識に依存せず、素直に、この自分の、この有り様を、理解するということです。それが学ぶということです。これは欲望や自我が機能してるとき、それを否定も肯定もせずに観察しよう、と言ってるのではありません。素直であって、自分の状態を見ることが、たとえば人と世界との関係を学ぶことになります。
>これはお聞きしたかったのですが、うびさんは、あの体験をした人を覚醒した人と呼んでいるのでしょうか。あの体験を悟後の修行とかして理解、捨てきった人を呼ぶのでしょうか。
あの体験が、覚醒体験です。それを理解した状態を覚醒と呼びます。でも、それも、どうでもいいというか、そうでない人とか状態とかと、較べることも不要です。みんな、ただの人です。 >> クリシュナムルティは、不要でした。
>誰が不要で誰が必要か、気づかなかったのかもしれない。
たとえば仏陀は、法華経や般若心経を読んで、悟ったのではありません。けど、なにか書が役に立つ人には役に立つでしょう。
>うびさん、嘘をつかない、とは、まるで裏技ですか!?
>嘘をついた所に、自分の守りたい物がある。 >それを一度じっくり眺めてみる。 >そして、もう一度じっくり眺めてみる。 >そして、他の物を眺めてみる。
>うーんむずかし、い、そういうことですか?
そのように嘘をつかないという規範は、嘘をついた人を、理解に導く効果もあります。そして、主観的でなく不公平でなくあろうとする決意、またその実現でもあります。また、ふつうの日常で、自分に守りたいことがなければ、嘘をつかないという自戒も不要で、嘘も不要です。
>(ところで、ここでは顔文字は禁止なのでしょうか?)
ううん。そういう決まりはありません。
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No.552 - 2008/03/25(Tue) 08:26:00 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | > どういう意味なのかな〜と純粋に興味が湧いて。
甘いものを食べる食べない、と同じです。
仲良くなりたい、恥ずかしい、浮気したくない、とかそういう葛藤、です。
> 自分は何かに苦しむのに、他の人は苦しまない。 > としたら、自分の中の何が反応するのか。 > ど、自分の中を見る。。。ですよね。 > そして、どうして他の人は無反応でいられるのか。とも。
上手く言葉に出来ないのですが。 僕は、例えば卒業式とか、みんなで遊んだ帰りとか、どうしてみんなそんなに寂しくないのだろう。どうしてそんな平然としてられるのだろう、という風なことが良くありました。 みんなが簡単に通っていく所で、ちょっと待って、となってしまうことが、良くあります。
どうしてそうなるのか、理由を考えても良く分かりません。そのことを、無意識に自分は人と違っていて優れているのかも、とか思ってたりするかもしれません。
何にせよ、正体不明です。でもいつか見破ろうと思ってます。 スミマセン、peerさんの言っておられる事と関係ないかもしれません。
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No.569 - 2008/03/26(Wed) 20:45:09 |
| ☆ Re: 難しいです。 / peer | | | >仲良くなりたい、恥ずかしい、浮気したくない、とかそういう葛藤、です。
なるほど〜関わりあいになりたい、ということかしら。 はい・・・まっ。。色々なモノと私たちは関わりたい。 と、解釈させていただきます(^^)
>僕は、例えば卒業式とか、みんなで遊んだ帰りとか、どうしてみんな >そんなに寂しくないのだろう。 >どうしてそんな平然としてられるのだろう、という風なことが >良くありました。 >みんなが簡単に通っていく所で、ちょっと待って、 >となってしまうことが、良くあります。
その気持は、よく分かります。 祭りのあとの淋しさも、近いものがあるような〜
良いこと楽しいことは「時間よ止まれ」ですが 悪いこと苦しいことは「時間よ早く去れ」のような。 私たちの日常は常に変化していきますね。 もしかしたら、変化に無心でついていく人は 寂しさを感じるヒマもない、のかも。
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No.571 - 2008/03/26(Wed) 23:49:16 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | > なるほど〜関わりあいになりたい、ということかしら。 > はい・・・まっ。。色々なモノと私たちは関わりたい。 > と、解釈させていただきます(^^)
まぁ、そういうことです(^-^) > その気持は、よく分かります。 > 祭りのあとの淋しさも、近いものがあるような〜
> 良いこと楽しいことは「時間よ止まれ」ですが > 悪いこと苦しいことは「時間よ早く去れ」のような。 > 私たちの日常は常に変化していきますね。 > もしかしたら、変化に無心でついていく人は > 寂しさを感じるヒマもない、のかも。
もしかしたら、僕が気になったのは「無常」かもしれない、って考えてました。
変化に無心でついていく人は寂しさを感じるヒマもない、そうかもしれません。というか、変化していること、ついていってること、も意識してないように見えました。
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No.572 - 2008/03/27(Thu) 00:33:32 |
| ☆ Re: 難しいです。 / 大阪 | | | > たとえば社会的なこと・・・食品工場で従業員として働いているとして、毒餃子をつくれ、と社長から命令されたとします。そうしたら、そんな社長と、なにも知りようがない消費者のために怒る。それは当然です。
うーん。僕は当然、とはなりません。誰かに怒っても、自分もそうした可能性がある、と思うのです。そんな悪の可能性を摘みきってないと思うのです。まだ殺人者です。
> これは社会的なこと、これは個人的なこと、と完全に区別はできないかもしれませんが、個人的なことでは、よほど理不尽なことでなければ怒りません。つまり、その閾値(しきいち)がほとんど限界まで上がります。 > でも、この気持ち良く分かります。
> これは体験の後です。実感できることに依存する必要がない、に関係ありそうです。そうでなくても人生経験を積むと、自然に、そうなっていくこともあると思います。羞恥心は、ほとんど感じません。
ココのゲストブックかな、に「怒ることを言われて怒ることに、必然性はありません。だから怒りません。コレが感情の中道です、と言ったらどうでしょう」というようなことが書いてあったと思います。
僕の場合、コレのような気がします。 (勿論、怒ることを言われて怒ることに、必然性はない。けど怒る、でも良いと思いますが。)
> もしかして。「誰でも、その状況に置かれたら怒ってしまう」という理由を無意識にでも捏造したりすると、それを隠れ蓑にして、怒りやすくなるかもしれません。なら、それを理解すれば解決します。また理解ではなく、人が無知のため怒らない(知らぬが仏)もあります。
そうかもしれません。もしかしたら、そんな閾値の上がった自分を拒否してるのかもしれない、とか思ったりもします。
> >限界、とは何の限界でしょうか。成長の限界?努力の限界?精神の限界? > > たとえば怒りを感じるための閾値(しきいち)が上がっても、限界があるという意味です。それは学ぶために貴重な体験でもあります。
コレは閾値の言葉の意味を知らないので生まれた質問でした。 > とりあえず元の意味はともかく。たとえば感覚や感情や意識に依存せず、素直に、この自分の、この有り様を、理解するということです。それが学ぶということです。これは欲望や自我が機能してるとき、それを否定も肯定もせずに観察しよう、と言ってるのではありません。素直であって、自分の状態を見ることが、たとえば人と世界との関係を学ぶことになります。 > また質問です。僕にとって「感覚や感情や意識に依存せず、素直に」なることは出来ない、といっていいぐらい難しいのです。うびさんは、それをあの体験をする前から出来たのでしょうか。体験の後でしょうか。 > そのように嘘をつかないという規範は、嘘をついた人を、理解に導く効果もあります。そして、主観的でなく不公平でなくあろうとする決意、またその実現でもあります。
主観的でなく不公平でなくあろうとする決意。 それがこの世界で美しく出来ていることに喜びを感じたいです。
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No.573 - 2008/03/27(Thu) 01:17:43 |
| ☆ Re: 難しいです。 / ubik0101 | | | >また質問です。僕にとって「感覚や感情や意識に依存せず、素直に」なることは出来ない、といっていいぐらい難しいのです。うびさんは、それをあの体験をする前から出来たのでしょうか。体験の後でしょうか。
それは体験の後です。でも前にも、その芽がありました。たとえば小学1、2年の頃、友達と歩いていました。すると、たんぼの側の小川で、一羽の鴨が矢に射られて暴れていました(野生の美と力を感じました)。その鴨を、驚いたことに友達が捕まえて家に持って帰りました。
そのあと大人が来て。鴨を見なかったか?と聞きました。 あまり憶えてないけど、知らない、と返事したように思います。すると、なにか世界が歪んでしまうという恐いほどの違和感が襲ってきました。たとえ友達のためにも、嘘をついてはいけない、そう思ったのだと思います。
そして、また。たとえば誰かに嘘をつかれたとして。だからと言って、なにかの機会に自分も嘘をついていいとは、なりませんでした。嘘をつく苦痛より、正直に言って自分を守らないで痛むことのほうが、楽でした。
さらに社会に出て、ほかの人が嘘をつくことも、嫌いでした。許せませんでした。ほんとーに、性格は悪く、性質は良かったのです。そういうことがあって「自らを義としてはならない」ということが課題になったのだと思います。
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No.576 - 2008/03/27(Thu) 08:36:08 |
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