愛し合いたい、 それを確認したい、
という思いを掴むから、 身体、性、世界 に縛られるでしょうか。 そこで、ことさら差を空想するでしょうか。
実感が欲しい、 確認したい、 そうでなければ満たされていないのでは、 という思いは、とても強いものだと思います。
それでも、 それだから、 まずはじめに、自己であろう、 ことが大切な気がします。
本当に愛し合う、 そうでなければ、と思うからです。
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No.534 - 2008/03/18(Tue) 23:16:22
| ☆ Re: 愛 / ubik0101 | | | とりあえず愛は空想として現れるようです。その場合は、実感が求められるでしょう。たとえば優しくされることとか、楽しくしてくれることとかを、愛される。ってことにするのかもしれません。
すると優しくすることとか、楽しさをあげるとかが、愛する。ってことになるのかもしれません。すると、これは愛、あれは愛じゃない、それは無関係、という判断も生じるかもしれません。だからと言って問題はないのですが、そういうことに執着してることが問題、と言うこともできます。
それは自分という実感を求めてる自我の機能、とも言えます。もともと、ない、自我が、ある、と振る舞うことが、すでに迷いです。けれど、どんな迷いも単なる負荷でしかなく、人が成長するために機能します。
たとえば優しくされること、すること。楽しくしてくれること、すること。無関係なことと。また性や身体など。実感の愛。それは世界の機能で、まったく無問題なのですが。それに人は使われて、ある意味では宿命的に望んで迷って、それを煩悩とか呼んで、そこで限界まで自分を鍛える、とも言えます。
ところで愛は、実在から自己を承認したという証明とも言えます。 その愛なしに、自己を感じることは困難かもしれません。
なん度も言うけど。「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい」。まず、 どういうことが自分を愛すことなのか?これとか、あれとか、決められるでしょうか。これを探究しました。
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No.536 - 2008/03/19(Wed) 16:59:28 |
| ☆ Re: 愛 / hato | | | > なん度も言うけど。「あなた自身を愛すように、あなたの隣人を愛しなさい」。まず、 どういうことが自分を愛すことなのか?これとか、あれとか、決められるでしょうか。これを探究しました。
それは、愛の命令だと学びました。
どういうことが自分を愛すことか?
その時々で、適切にある、あろうとする、ことではないのでしょうか。 それしか、思いつきません。 自分を、隣人を、愛していないでしょうか。 そうであるなら、わからないのです。
愛の欠如とは、なんでしょう。 それは、なかったりあったりするものなのでしょうか?
愛というとき、幸せな羽衣のような感覚、とか、楽しいこと、だけを指すことはできまん。母性、とも言い難いのです。
まだ何かから逸脱しているでしょうか。 誤りは、糺そうと思います。
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No.537 - 2008/03/19(Wed) 23:54:06 |
| ☆ Re: 愛 / ubik0101 | | | >愛の欠如とは、なんでしょう。 >それは、なかったりあったりするものなのでしょうか?
とても仲のいい夫婦が、喧嘩して、離婚したとします。その楽しく暮らしてた、愛しあってる感情として実感があった時にも、不満、憎しみ、怒り、無関心になる可能性が隠れてたのかもしれません。それは愛と呼べるでしょうか。愛は、実感できるからあったり、実感できないから、なかったりするのでしょうか。
そうでない、愛。純粋な愛。どんなことでもない愛。「無差別な愛」。その欠如として、代理として、たとえば憎しみに変わるかもしれない、無関心に変わるかもしれない、感情の一種としての愛が現れるのではないでしょうか。それが愛ではないこと、愛の欠如であることが、人に愛を求めさせるのではないでしょうか。そんな愛を、聖書では「神は愛です」と言っています。
そんな、愛は、地上では、ほとんど不可能に思えます。しかし求めれば可能です。知ってる限りでは、自我がないという体験、そうであれば、愛が現れることもあります。それは、なにかの行動とかいうことには関わりません。それは感じるだけしかできないかもしれません。しかし生まれて初めて感じるとしても、それを誰もが間違いなく、愛、としか呼べないでしょう。それは感じても感じなくても世界に溢れています。
そして、たとえば夫婦が、友人が、隣人が、雨の日も晴の日も、一生に渡って辛い時にも努力したりして暮らしていくこと。そのほうが別れるより、断然いいと、思われるのではないでしょうか。
それは、ほとんど愛と呼べるかもしれない、からではないでしょうか。また愛がなければ、そうできないからではないでしょうか。たしかに「その時々で、適切にある、あろうとする、こと」。それしか出来ないと思います。
ほかの例。たとえば相手のことを思って、と思って、怒ることがあります。それは自分では愛と思ってる、ということもあります。それは、ここに愛がないこと、愛の欠如、愛の代理として、そういう怒りが現れたと見ることができます。
もしかして、優しくすること、仲良くすること、そういうことも愛の欠如かもしれません。そういうことを拒否されたりすると怒りが現れる可能性があるからです。それは愛がないために実感を求められる愛着、執着である可能性があります。
それは愛の欠如であり、それは愛がないからです。その愛の欠如は、実感してるときだけ、あるのではありません。実感しないとき、ないのではありません。愛の欠如は常に愛の欠如です。それが愛を求めさせます。
>愛というとき、幸せな羽衣のような感覚、とか、楽しいこと、だけを指すことはできません。母性、とも言い難いのです。
そうです。hatoさんは誤っていません。愛は(どのようなことにも関わらず、どのようなことにも関わり)ただ愛です。
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No.538 - 2008/03/20(Thu) 07:39:48 |
| ☆ Re: 愛 / peer | | | わたしたちは、無から誕生しましたので 生まれた時は形はありません。 まずは、形として存在するために、 誰かを真似ます。 家にいては、家族(親)を真似ます。 仕事については、親方を真似ます。 よい形になりたかったら、よい親を真似ればよい。 で、この世の婚本は、神(宇宙)ですから〜 最終的には、神に倣う・・・が、よいでしょう。 神と人間は、違うんです。と思ったら、真似られません。ね。
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No.539 - 2008/03/20(Thu) 10:20:23 |
| ☆ Re: 愛 / hato | | |
> ほかの例。たとえば相手のことを思って、と思って、怒ることがあります。それは自分では愛と思ってる、ということもあります。それは、ここに愛がないこと、愛の欠如、愛の代理として、そういう怒りが現れたと見ることができます。
とても、了解しました。 もう少し見て、学びたいと思います。 愛の欠如、了解しました。
> 愛は(どのようなことにも関わらず、どのようなことにも関わり)ただ愛です。
これならば、了解していました。 だから、 どうしても、出来ないことも、あったと思います。 その愛、 全面的でなければ、それでなければ、違う、との了解がある故に、できないことはできなかった、とおもいます。
生活のなかで、学ぶでしょうか、 それを生きよう、と思うことができます。
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No.540 - 2008/03/20(Thu) 12:03:21 |
| ☆ Re: 愛 / ubik0101 | | | そうですね。 お互い、できることを、 無理なく、 やっていきましょう。
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No.541 - 2008/03/20(Thu) 13:16:16 |
| ☆ Re: 愛 / hato | | |
> 無理なく、
ubik0101さん、 peerさん、 ありがとうございます。
ひな祭り、終わったばかりでした、
パタパタ、 パタパタ、 やっと、飛ぶ、練習。
今日はubik0101さんのページが始まった日、 ですね。 春は、感謝の気持ちのようです。
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No.542 - 2008/03/20(Thu) 16:34:01 |
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