意識につかまらないとしたら、人は、何で繋がるのかと思いますが、存在しているだけで繋がっているのかなと思いました。 いろいろと困らせた結果、そのことが浮かび上がりました。 存在しているだけでは、喜びは湧き上がらないのだけれど、子供のことを考えたら、まさにそうだなとわかります。 「静かな喜び」というか。 田舎の人が「何も起こらないのが幸せ」と言っているのが、そういうことなんかなと感じました。 人間の根源的なもの。
いつのまにか、刺激がないと生きている気がしない方向に行ってしまうのかなと思いました。
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No.513 - 2008/03/14(Fri) 05:37:53
| ☆ Re: 意識 / ubik0101 | | | はい。意識に依存しないということは、意識が、滞りなく機能してるということでもあります。 自分の行動、発言、思考。それを、そのまま見ています。 それだけで不思議な世界にいます。
そうであって、たとえば意識の範疇にない、愛を、意識する必要のないことを了解しているでしょう。もともと意識できない愛を意識するためには、意識は、愛を空想せざるを得なくなります。それは、愛憎の愛、になりやすいのです。
それは葛藤。それは自分が愛してる愛されてる愛してない愛されてない、愛の、実感がある、なら、ある。ない、なら、ない。に縛られてるともいえます。
それは「刺激がないと生きている気がしない」欲望のことでもあります。実感に依存してることでもあるでしょう。それは、意識に依存してる、自分が愛を、知ってる、と誤解してることでもあるでしょう。
そのように、知ってる、意識に依存してるなら、自己も、自他の分離を意識せざるを得ない、自我であり。実在も、空想の神になり得るでしょう。
しかしもう、知ってるという、ことが総てと思いたい、しかも誤ることのできる機能がある、意識に依存する必要はありません。意識に依存しないということは、知らない、を了解してるということです。迷いが転換した叡智も、分別したがる意識の領域にありません。素直さなどの良い特質も、自己も、実在も、そうです。
そうであれば、たとえば既知のものと言われる、自我も、欲望も、過去も、思考も、ありとあらゆることが未知であり・・・それ、それだけで静かな幸せ感があります。
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No.515 - 2008/03/14(Fri) 10:18:55 |
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