ふと、気づいてしまいました。 私は、相手がどういう人かということについて、自分で責任を負うような癖を持っているということ。 相手がどんなに愚かな人間であろうが、私のせいではないのに、自分のことのように引き受けてしまうところがあるということです。 昨日、ある人と話していて、「お宅には関係がないけど」と言われて、とても違和感を感じたのです。 「お宅には関係のない用件だけど、回覧板を回してくれ」という用件でした。「関係がない」は、言わなくてもいいことだと思いました。関係なくはないけれど、差し迫った人たちに比べたら、関係が薄い話、という感じでした。 私は、その人に対して、ものすごく繋がっているのだと感じました。その人のあり方について、私は、無意識に繋がっていると感じました。 その人のあり方について、私が責任を持つことはないのだと思ったら、ものすごく楽になりました。
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No.388 - 2008/02/21(Thu) 10:09:25
| ☆ Re: 繋がりのこと / ubik0101 | | | >「お宅には関係のない用件だけど、回覧板を回してくれ」という用件でした。「関係がない」は、言わなくてもいいことだと思いました。関係なくはないけれど、差し迫った人たちに比べたら、関係が薄い話、という感じでした。
その、ある人は。ルーさんに、お手数ですけど、すみません。という気持ちで「お宅には関係がないけど」と言ったのかもしれません。ルーさんとしては、そこまで気を使う必要はないのにー。なのでしょうか。
そういえば。なにかの時に、人から嘲られたことがありました。そうすると、なんか苦痛でした。それで、嘲られた自分が苦痛なのかな?と思って、見てみました。すると、嘲る人の嘲る有り様も、自分にとって苦しいのだ。と感じたことがあります。
それは事実、伝わると思います。それは、嘲る人の有り様をなんとかしてあげたいという、たしかに「責任感」でもありました。また、もしかして、嘲られるのが嫌で、その気持ちを、嘲る人に反映してしまった、のかもしれません。
たしかに、 人と人は繋がっていても。なぜか、それぞれ人は自分の成長に責任を持つという、 ルールがあって、これは破ることができないようになってる、のではないかと思えます。 >その人のあり方について、私が責任を持つことはないのだと思ったら、ものすごく楽になりました
ということは、ルーさんが、執着、倒錯する必要がないことに気がついた、ということではないでしょうか。
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No.390 - 2008/02/21(Thu) 12:06:25 |
| ☆ Re: 繋がりのこと / ルー | | | > そういえば。なにかの時に、人から嘲られたことがありました。そうすると、なんか苦痛でした。それで、嘲られた自分が苦痛なのかな?と思って、見てみました。すると、嘲る人の嘲る有り様も、自分にとって苦しいのだ。と感じたことがあります。 > > それは事実、伝わると思います。それは、嘲る人の有り様をなんとかしてあげたいという、たしかに「責任感」でもありました。また、もしかして、嘲られるのが嫌で、その気持ちを、嘲る人に反映してしまった、のかもしれません。
ubikさんも、そういう気持ちは体験しておられるのですね。
> たしかに、 人と人は繋がっていても。なぜか、それぞれ人は自分の成長に責任を持つという、 ルールがあって、これは破ることができないようになってる、のではないかと思えます。
それが、自分の成長に責任を持つ気がないと思われる人がいるのです。 まぁ、たとえそうであっても、私まで責任を持つ必要はないですね。 > >その人のあり方について、私が責任を持つことはないのだと思ったら、ものすごく楽になりました > > ということは、ルーさんが、執着、倒錯する必要がないことに気がついた、ということではないでしょうか。
たぶん、そうだと思います。 発見をして、私は楽になりました。 そうすると、その人を応援する余裕さえ生まれますね。
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No.393 - 2008/02/21(Thu) 21:46:49 |
| ☆ Re: 繋がりのこと / ルー | | | あー、ダメダメ。 そうじゃない、そうじゃない、 そんな、きれいごとじゃない。
成長する気のない人なんて、いくらでもいるんだ。 悪口ばっかり言ってる人。 子供を虐待死させる人。 家族を巻き添えにしてCENSOREDする人。 娘に手を出すおやじ。
応援する余裕なんて言ってられない。
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No.394 - 2008/02/21(Thu) 21:55:14 |
| ☆ Re: 繋がりのこと / ubik0101 | | | うん。でもね。どんな人でも、善人でも、悪人でも。偽善者でも。威張る人でも、卑下する人でも。その、その自分を知ろうとすることはできるのです。そして、自分を知ろうとしたくない。そのことさえ、実は成長の役に立つのだと思います。
なにか、とあることを選択するということが成長ではないのです。なにか、とある真理というものがあって、それを見つけたら、真理というわけではないのです。そういう真理であれば、そうでないことは不真理になり、その不真理を隠し持つことになります。
また、見つければいいだけなら、たとえば真理の言葉を記憶すれば、人は真理になるかもしれません。それでいい、というようには世界は出来ていません。なんでもありだからこそ、成長したい、成長したくないということさえ、それを触媒として人は成長できるのです。世界は徹底して人の成長のためにあります。
けど。基本的に、根本的に、自分を知りたいとも、成長したいとも思わない、そんな人には、世界は、そうであり続けることを許しています。世界は人の意に添い、自己責任を認めています。どうしても、その自分が、成長したい、と思わなければ不可能です。それは、そのままで自分は完全と思ってるのかもしれません。
それで、そんな愚かな人は知ったことじゃない。と思っても正当です。また、思う必要さえありません。どう思っても、思わなくても、ほかのことを思っても、成長を望む人にとっては、そのことさえ役に立つと思います。
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No.395 - 2008/02/22(Fri) 01:55:41 |
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