> > 知ってる、は比べてる、コトかも知れません。 > > 知っている、と思うことはとても傲慢でした。 > 執着も、依存も、嫉妬もきっと、 > 傲慢だからできるのかもしれません。
う〜ん、それもあるかもしれませんが、チョッと違うかも。 何かを知る、為には他の何か、それと違うものと比べる必要がある。と何かにありました。それで > 知ってる、は比べてる、コトかも知れません。 となりました。 雪の卵も実は雪なのですが、違うようにありたいと卵になってエデンの園を抜け出たのかもしれません。自分は卵だ!いつか達磨になろう!とエデンの園を出た瞬間から原罪を背負っている気がします。 早く殻を破って雪ダルマなんだ!と気付くといいと思います。
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No.443 - 2008/02/28(Thu) 12:33:28
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | > 何かを知る、為には他の何か、それと違うものと比べる必要がある。と何かにありました。それで > > 知ってる、は比べてる、コトかも知れません。 となりました。
はい。 なのできっと、 知らない、ということは、差がない、のかと思ったのだと思います。
でもきっと、のりさんの言われる、知っている、よりも遙かに固まりの位相、そこからみた、知っている、をわたしはきちんと直視する必要があるでしょう。
殻を破ること。 のりさん本当に、 ありがとうございます。
> 雪の卵も実は雪なのですが、違うようにありたいと卵になってエデンの園を抜け出たのかもしれません。自分は卵だ!いつか達磨になろう!とエデンの園を出た瞬間から原罪を背負っている気がします。 早く殻を破って雪ダルマなんだ!と気付くといいと思います。
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No.446 - 2008/02/28(Thu) 21:05:38 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | きゃーっ !
と思って考えました。
この空白はなに?
なんにもないのもいいな。 でも違うな。 無意識の抵抗かもしれません。 意識して抵抗かもしれません。
人生は、贖罪なのでしょうか? それとも、 それは、方便なのでしょうか?
> > 雪の卵も実は雪なのですが、違うようにありたいと卵になってエデンの園を抜け出たのかもしれません。自分は卵だ!いつか達磨になろう!とエデンの園を出た瞬間から原罪を背負っている気がします。 早く殻を破って雪ダルマなんだ!と気付くといいと思います。
でもまだわたしには、それは過ぎた問いでした。 どっちでも同じだー! の状況です。
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No.447 - 2008/02/28(Thu) 22:13:14 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | |
> エデンの園を出た瞬間から原罪を背負っている気がします。
ubik0101さんが言われたように、
逆転した依存関係、 倒錯した状態で物事を見ること、 それを生きてしまうこと、 こそが罪、と思います。
わたしの段階では、 それが適切な捉え方のように感じます。
ubik0101さん。
盗む、ということに気が付きました。 今まで直視できなかったのです。
わたしがそこで学ぶのは、 もう自分の言葉で考えよ、 ということかもしれません。 盗むとは、人の構成要素を自分で消化しないままに拾い上げる、ことでしょうか。
また、盗むなとは、人に知られないようにしてなにかを得ようとしてはいけない、 ということでしょうか。
後ろめたさ、に気付くときもあり、迷いが深いときには、 それに気付かないこともあります。 それは狡いことです。 恥、の意識を守っていたのです。 また、攪乱されることを恐れていたのです。 もう少しいくと、 大事にしている思い込みを、失うことが恐かったのです。
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No.450 - 2008/03/01(Sat) 15:32:24 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / ubik0101 | | | >盗むとは、人の構成要素を自分で消化しないままに拾い上げる、ことでしょうか。
あまり難しく考えなくても大丈夫です。盗むとは、ほかの人の、また誰の所有でない物を、自分の所有にすることです。hatoさんの言う「人の構成要素を自分で消化しないままに拾い上げる」ことが、知識として得たことに、振り回されるということなら、たしかに注意が必要です。
>また、盗むなとは、人に知られないようにしてなにかを得ようとしてはいけない、ということでしょうか。
うーん。盗むということでなら、ほかの人に知られても、知られなくでも。どちらも問題です。そして盗んだとして(なにをしても)ほかの誰が知らなくても、自分は知ってるので、それは全世界の人が知ってることと等価です。一般に悪いことは、(自分の中の)ほかの誰かに知られなければいい・・・という愚かさによって行えるのでしょう。
なんにしても「自灯明、法灯明」です。 仏陀、最後の説法の中にあるそうです。修行者が、「仏陀が亡くなられた後、 なにを拠り所にして生きたらいいのでしょうか」と聞きます。 仏陀は、「自灯明、つまり自らを灯火として生きなさい。法灯明、つまり法を灯火として生きなさい。」と言ったと伝えられています。
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No.451 - 2008/03/01(Sat) 17:49:49 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | > うーん。盗むということでなら、ほかの人に知られても、知られなくでも。どちらも問題です。そして盗んだとして(なにをしても)ほかの誰が知らなくても、自分は知ってるので、それは全世界の人が知ってることと等価です。一般に悪いことは、(自分の中の)ほかの誰かに知られなければいい・・・という愚かさによって行えるのでしょう。
本当に愚かです。 了解しました。 頭がわるいのでしょう。 自分がそのようだったのでしょう。
誰のものでもないものを、自分のものにしようとすること。 本当に。
> 仏陀は、「自灯明、つまり自らを灯火として生きなさい。法灯明、つまり法を灯火として生きなさい。」と言ったと伝えられています。
心したいと思います。 泣けてきます。 ありがとう、ございます。
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No.452 - 2008/03/01(Sat) 19:21:54 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | |
> > 知っている、と思うことはとても傲慢でした。
ちょっとまって。
きっと何か、大きな誤りをしていました。
のりさん、ubik0101さん、ごめんなさい。 こうして自我保存を。 迷いに突っ込んでいくとこでした。 もうそれは充分です。 盗む、 も、なにか違うかもしれません。 ただ、そうでなければよいことを。 言葉は、よく考えて、使わせて頂いていると思います。 なにを言っていたんでしょう。
依存することにも、しないことにも、 執着することにも、しないことにも、 依存、執着しない、ように。
不快だって、いいじゃない。 それもきっと、だいじょうぶ。
偏るから、おかしくなるのでしょう。
平和、幸せなきもち、平静さ、 それもちゃんと、あるのでした。
すみませんでした。
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No.453 - 2008/03/02(Sun) 00:46:26 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | |
ちょっとまって。
> 平和、幸せなきもち、平静さ、 > それもちゃんと、あるのでした。
見つけられる、 のほうが正確かもしれません。
また、ご指導下さい。 よろしくお願い致します。
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No.454 - 2008/03/02(Sun) 07:00:44 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | ちょっと、ちょっと、まって。
ああ、hatoだらけにしてごめんなさい。
なにか、違います。
外の新鮮な空気を吸って、 春のお日様を浴びてきます。 あたまを冷やしてきます。
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No.455 - 2008/03/02(Sun) 10:09:32 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | ubik0101さんに伺います。
知っている、ことは知覚の機能。 ならば、それは世界・自己の機能。 知ること自体が傲慢であることはない。 といってよいでしょうか。 ある局面においては、殊更知っている、とすることは傲慢だといえると思いました。 知る、ことは誤ることのできる機能なら、どうなのでしょうか。
それよりも、ある、ない、の ある、に片寄っていた為に、 殊更、無い、とか、または単に無、であることをよいとしていたかも知れません。 知る為には何かがある、ということなので、 基本的にそれは分離していて悪いこと、だという気がしたかも知れません。 ここを誤っていると、妙な方向に行くのでしょうか? 世界を疎かにしてしまうなら違う、と気付きました。
わたしはまだ、質問できるでしょうか?
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No.456 - 2008/03/02(Sun) 19:48:45 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / ubik0101 | | | >知っている、ことは知覚の機能。 >ならば、それは世界・自己の機能。 >知ること自体が傲慢であることはない。 >といってよいでしょうか。
>ある局面においては、殊更知っている、とすることは傲慢だといえると思いました。 >知る、ことは誤ることのできる機能なら、どうなのでしょうか。
とりあえず、なにかを「知ってる/知らない」ということが成立するとします。そのことは、大雑把に言えば、なにかの経験や知識が、ある、なら知ってる。その経験や知識が、ない、なら知らないと言ってるのだと思います。
それで、経験や知識が、ある、という意味での、知ってるということ、それは、ただそれだけのことです。けれど知ってることを傲慢と感じるとしたら、まず、傲慢な有り様があって、そのことを知ってる、に重ねて見てる。また、知ってるということに便乗して、傲慢が現れて見える、ということではないでしょうか。このように見ることは、なにかとなにかを重なって見る、ことがおおいいと思います。
ところで、なにか経験や知識がない、知らないなら、傲慢ではない、ということはありません。知らない、ということで、傲慢でも、謙虚でもあり得ます。もちろん、何かを知ってると思うことで、知らない誰かと比較して、傲慢にもなり得ると思います。逆に謙虚でもあり得ます。その知るが、誤っても、傲慢でも、謙虚でもあり得ます。
けれど、知らない、ということは、ただ、知らない、です。知ってるということも、知らないということも、それがどういうことか、知らない、です。傲慢や謙虚には関わりません。
それは、たとえば知ってる/知らないこと、またここでは傲慢や謙虚に依存できるとしたら、そういうことが何かを知ってると思う必要があるのではないでしょうか。知らないことには依存できない、という意味でもあります。
>それよりも、ある、ない、の ある、に片寄っていた為に、 >殊更、無い、とか、または単に無、であることをよいとしていたかも知れません。 >知る為には何かがある、ということなので、 >基本的にそれは分離していて悪いこと、だという気がしたかも知れません。
>ここを誤っていると、妙な方向に行くのでしょうか? >世界を疎かにしてしまうなら違う、と気付きました。
とくに完全な分離でも、完全な融合でもない・・・それも世界の有り様・・・だと思います。それをことさら分離しようとか、接近しようとして、片寄ると、問題が発生すると思います。これはまだ検討中ですが、まとめようとしてる文書がありますので、後で別に投稿します。
>わたしはまだ、質問できるでしょうか?
もちろんです。答えることが出来ないことがあるかもしれませんが、遠慮してるなら、まったく不要です。また、質問の意味を取り違えて返信したり、間違って答えたりしたら、指摘してください。
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No.457 - 2008/03/02(Sun) 22:03:07 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / ubik0101 | | | なにかを感じるのは、とりあえず「それは自分ではない」ということにして、感じるのかもしれません。たとえば樹や人や車を対象として、その自分ではない、「差」を、感じるのかもしれません。 つまり、知覚は「差」。
たとえば眼は、たとえば樹や人や車、赤と青の「差」を知覚する、というのではないでしょう。 まず「差」を知覚するために、たとえば眼や耳や舌が発生するのではないでしょうか。意識もそうかもしれません。
そして、なにか世界という全体から 「差」を引いた残りを、とりあえず「自分」として仮定するのかもしれません。それは世界の中心であり、主観になるでしょう。
そして、その「自分」と対象との「差」を縮めよう、なくそうとする働きが、欲望として機能することがあるでしょう。なにかを欲しい、つまり密着したい、と。また心理的な欲望も、 なにか理想を空想して 「差」を埋めたい、ということでしょう。
そして、 それは、「差」を広げよう、自分は独立した自分であろう、と意図しても不可能。なのだけど、ことさら、ほかから分離しようとする働きが、とりあえず、自我として機能しているから、なのでしょう。
そんな、自分勝手な「差」を広げようとしてる自我が、「差」を縮めよう、と意図しても不可能。なのだけど、そうしようとすることが、こうありたい欲望として機能する、 ということかもしれません。
ところで、なぜ意図して、差を縮めようとしても、広げようとしても、不可能なのでしょう。それは、自分と対象。それは完全な分離でもなく、融合でもないのに、それを、どちらかに無理に片寄らせようとすることだからではないでしょうか。
そして、完全に「差」がないなら、つまり完全に一体なら、知覚不能。そして、完全な「差」があるなら、つまり完全な分離なら、知覚不能ではないでしょうか。
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No.458 - 2008/03/02(Sun) 22:10:13 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | > また、知ってるということに便乗して、傲慢が現れて見える、ということではないでしょうか。このように見ることは、なにかとなにかを重なって見る、ことがおおいいと思います。
知る、ことになにかの思いを重ねて見る自我、 と了解しました。
> >ここを誤っていると、妙な方向に行くのでしょうか? > >世界を疎かにしてしまうなら違う、と気付きました。 > > とくに完全な分離でも、完全な融合でもない・・・それも世界の有り様・・・だと思います。それをことさら分離しようとか、接近しようとして、片寄ると、問題が発生すると思います。
了解できると思います。
自分の表現は解りにくかったと思います。
存在、形あるものは、分離であらざるを得ないなら、無、は優位にある、という思い込みがありました。 分離が悪い、とは必ずしもいえないと思いますが、それは悪、として働きやすいのではないでしょうか。 差を知覚することによって、それが依存関係を倒錯させている者にとっては、殊更分離を加速させやすいのではないでしょうか。そのような状況を提供する「存在性」よりも、「無」を尊ぶ、希求する、ということがあると思います。 その観点からみると、知る、ということ自体、差を知覚するということその機能自体、がもしかして、傲慢、ともいえるだろうか、とふと思ったのです。
なのできっと、ubik0101さんの言われる、こうしたことは全て負荷をつけて訓練することだその為の世界、場なのだ、という理解がないと、世界を疎かにしやすいのではないか、と思ったということでした。
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No.459 - 2008/03/03(Mon) 22:39:16 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | |
> たとえば眼は、たとえば樹や人や車、赤と青の「差」を知覚する、というのではないでしょう。 まず「差」を知覚するために、たとえば眼や耳や舌が発生するのではないでしょうか。意識もそうかもしれません。
それは、意図が先にある、ということでしょうか。
ubik0101さんの文章を読むとき、ううー、てなります。 脳神経が発生する。感じです。
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No.460 - 2008/03/03(Mon) 23:23:25 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / ubik0101 | | | hatoさんの言葉。たぶん、ubik0101と同じことを見てる、と思いました。繊細な印象があります。 そして、ある、にも、ない、にも片寄らないことを、もう了解してる気配があります。
> それは、意図が先にある、ということでしょうか。
これは、知覚は「差」ということを 、自分中心に見ると、対象を分析したり分類したりしやすいよ、それは迷宮だよ・・・という意味です。
そうでなく、どちらかと言えば。世界が人に語りかけてる、それを人が見てる。それが知覚するということだよ・・・という意味です。
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No.461 - 2008/03/04(Tue) 07:47:44 |
| ☆ Re: ふしぎなたまご。 / hato | | | > これは、知覚は「差」ということを 、自分中心に見ると、対象を分析したり分類したりしやすいよ、それは迷宮だよ・・・という意味です。
メイキュウ。 はい。とても、了解しました。 垂直に、垂直に、掘り下げる、ですね。
> そうでなく、どちらかと言えば。世界が人に語りかけてる、それを人が見てる。それが知覚するということだよ・・・という意味です。
はい。 なんて優しいのでしょう。 世界は、なんて、愛しいのでしょう。
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No.462 - 2008/03/04(Tue) 23:33:32 |
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