「別のもの」ではなくて、「差がある」なら受け入れられます。 それは、続いているものだと思えるから。 「別のもの」だと、とりつく島がない。 自分がどんなに泳いでも、そこまでたどり着けないということだから。
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No.477 - 2008/03/08(Sat) 11:48:44
| ☆ Re: 「差」のこと / ubik0101 | | | そうですね。まったく「別のもの」だったら知覚不能です。その、なにかを「別のもの」と知ることさえ不可能です。
物理的な意味では、人の見てる物質は、人の感覚の通りではない何か。ということはあります。(昆虫や鳥や機械は違う世界を見てるでしょう)。でも、それは「別のもの」ではなく、人は人の感覚を通して感じてる、と言ったほうがいいと思います。
心理的な問題では、相手は、自分が思う人とは「別のもの」。相手が、自分を思っても、それは自分とは「別のもの」。自分が、思う自分と、自分は「別のもの」。と思考することはできます。しかし実際は、「差」が知覚なだけです。それは関係、のことでもあります。それがないのは完全な分離か、融合かです。
ここに問題があるとすれば「差」を知覚されることが、正確に行われてるか?という疑問はあると思います。なんだかの好き嫌い、欲望とか、判断、価値基準などで、お互い愚かにも、「差」を歪めて見てないか。という問題はあると思います。
けど、それゆえに人はそれを成長のために使えるということもあります。なんか歪みを知るために。軋轢とかの問題を引き起こして。そういう愚かさは、しかし理解によって無自覚の智恵に転換されます。
ほかの人と関係してなく、1人でいて、自分が自分を「別のもの」と思うのは、奇妙です。自我の機能と思えます。そして。なんであれ。自己は、まったく「別のもの」。これは意識に依らずに了解すること、です。
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No.478 - 2008/03/08(Sat) 14:15:24 |
| ☆ Re: 「差」のこと / ルー | | | > 心理的な問題では、相手は、自分が思う人とは「別のもの」。相手が、自分を思っても、それは自分とは「別のもの」。自分が、思う自分と、自分は「別のもの」。と思考することはできます。しかし実際は、「差」が知覚なだけです。それは関係、のことでもあります。それがないのは完全な分離か、融合かです。
はい。よくわかります。 やっと、そこまで来ました。 > ここに問題があるとすれば「差」を知覚されることが、正確に行われてるか?という疑問はあると思います。なんだかの好き嫌い、欲望とか、判断、価値基準などで、お互い愚かにも、「差」を歪めて見てないか。という問題はあると思います。
思いというのは、その思っている人に帰属するもので、人はひとりひとり「別のもの」であるから、別のものであるのは事実なのでしょうが、ひとりひとり別な人間を繋ぐものが「思い」であると思います。 その「思い」と現実との間にズレとか差とか思い違いとかがあるなら、それに気づくには注意深さが必要ということだと思うのですが。
「常に別である」ということが大事なところであるとしたら、それはそれで「こだわり」があるのだと思いますが、分離か融合していれば気づけないのでしょう・・・
> けど、それゆえに人はそれを成長のために使えるということもあります。なんか歪みを知るために。軋轢とかの問題を引き起こして。そういう愚かさは、しかし理解によって無自覚の智恵に転換されます。
実際には、成長のために使うということをしない人は多いのかなと思います。
> ほかの人と関係してなく、1人でいて、自分が自分を「別のもの」と思うのは、奇妙です。自我の機能と思えます。そして。なんであれ。自己は、まったく「別のもの」。これは意識に依らずに了解すること、です。
ふむ。
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No.481 - 2008/03/08(Sat) 17:50:28 |
| ☆ Re: 「差」のこと / ルー | | | こうして文字にして表してみると、自分のこだわりが見えてきますね。
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No.482 - 2008/03/08(Sat) 17:53:05 |
| ☆ Re: 「差」のこと / ubik0101 | | | >思いというのは、その思っている人に帰属するもので、人はひとりひとり「別のもの」であるから、別のものであるのは事実なのでしょうが、ひとりひとり別な人間を繋ぐものが「思い」であると思います。
たしかに。違いで争うことも、違いを楽しむこともできます。無関心なこともできます。そして、どれかだけというわけではなく、どうであれ、それから学ぶ、ように人はなってるのでしょう。
>その「思い」と現実との間にズレとか差とか思い違いとかがあるなら、それに気づくには注意深さが必要ということだと思うのですが。
うん。微細に見ることが望ましいと思います。ただそれも人を鍛えるための、ひとつの負荷なのでしょう。そしてそのことは目的でなく、手段と思います。いつもは意識されないかもしれませんが、なんと呼ぼうと、自己、真理を求める気持ちが動機になってると思います。そのために見る、ならば、それはもう退化なし、と思います。
>「常に別である」ということが大事なところであるとしたら、それはそれで「こだわり」があるのだと思いますが、分離か融合していれば気づけないのでしょう・・・
たしかに心理的には、そうでしょう。そして 完全な分離も融合もないことが、完全な分離も融合もないこと・・・これも中道・・・それ自身を学ばせてくれます。
>実際には、成長のために使うということをしない人は多いのかなと思います。
たぶん誰でも人は無意識でも、学ぶというか、学ばさられてる、のでしょう。それでは、とてもとても成長が遅いと思います。また自分は未完成とは感じてないという、傲慢もあるのでしょう。でも意識して学ぶなら、それは、しっかりした足取りになると思います。
>こうして文字にして表してみると、自分のこだわりが見えてきますね。
たしかに。書くということは、なんとなく思ってるだけではなく、その深くにあることも見えるようにしてくれると思います。そして、確実に言葉で、それを見てる。と思います。PCのワープロ機能は、ほんとに、「ホント発見機」と思います。
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No.484 - 2008/03/08(Sat) 19:26:28 |
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