ほかの掲示板で対話したときの ルーさんの、空っぽ体験の、記録です。 ルーさんに了解を得たので掲載します。 ありがとう。 とても学ぶところがあると思います。
「からっぽ」を感じたことはあります。 最初は、からっぽになれて気持ちよかったのですが、すぐに退屈しました。何もない、ことに、耐えられなくなりました。寂しくなりました。
過激派なのでしょう。
あれですよ。 いろいろとよけいなものをたくさん身につけていたのでした。 それが、剥がれていったのです。 そして、無になってしまったのです。 私は、ただの器になってしまったのです。 何の個性も感じられないものに、なっていました。 まぁ、すべてと、つながっている、気はしました。 それは、暖かいものでした。
しかし、それは、過ぎていきました。 私は、確かに、変容したでしょう。 前とは違う私になったでしょう。
まぁ、すべてと、つながっている、気はしました。
この世に存在する、ひとつのものとして、あれとかこれとか、と同じように、自分も存在している、という感じですな。
しかし、それから、自我を愛することもできるようになった、かな。 他人の自我も、かわいい・・・愛すべきものに思えるようになりました。 壁がない、感じです。 しかし、その融合は、私は、存在しにくかったのです。
やはり、過激派なのです。
しかし、私にとっては、その体験は、独立して特別なものとして日常と切り離されているわけではないのです。 葛藤の中にいる時の方が強烈でした。 それが、努力はした(自然にその方向に向かったわけですが)のですが、知らぬ間に葛藤の外に出ていたという感じですので。 「ある体験」と呼べるほどのものも、ありません。 からっぽを感じ、また、からっぽを感じなくなった。 現実を相手に生きるようになった、かも知れません。 まず、葛藤の中にいる時、私は、何が起きているのかわかりませんでした。しかし、本を読んだり芸術に触れたり現実の問題に立ち向かったり対話をしたり勉強したりして、自分の置かれた環境や性質や好きなものなどについて、見えてきたのです。
どこかで自分をさらけ出すことは、私には必要なことだったと思います。 大きな救いは、私と同じようなことで悩んでいる人が他にもいるということを知ったことです。それは、本になっていました。
Kではありません。加藤諦三、斉藤学、岸田秀、美輪明宏、宮本輝、寺山修二など、いろいろな人の力を借りました。 そして、「怒り」と感じていたものが、「悲しみ」として初めて感じた時、言葉にはできない何かがやってきました。ひとりで受け止めるしかなかったので、言葉にする必要もなかったので、記憶はあやふやなのですが、あの時感じたものは「からっぽ」の半分ぐらいの感覚だったのかも知れません。
カウンセリング理論というHPの掲示板で、新しい芽さんの投稿を見つけ、このHPを知りました。それでKを知ったのです。
このHPに書いてあることしか、Kは知りません。 ミーハーなのです。 しかし、ここに書いてあることは、食い入るように読みました。 言葉が理解できる人間として教育されてきてよかったです。 書いてあることの意味は、かなりわかりました。 自分の現実と照らし合わせながら読みました。 実践できるかできないか、ということに拘らずに、まず、書いてあることを理解すればいいのです。
そして、新しい芽さんとの対話の中で、いろいろな発見があり、ふと気づくと、葛藤の外にいたのです。 その時に、世界とひとつになっている感覚がありました。 やっていけそうな気がしました。大丈夫だと思いました。 しかし、落としたものもあったのです。 葛藤と一緒に服も脱いでしまったので寒かったのです。 それで、また、服を着ました。 ちゃんと見て、服だけを着ました。
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No.514 - 2008/03/14(Fri) 08:41:31
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