ubikさん。 絶対不自由という言葉は、ubikさんによって初めて知りました。 今まで、「わかりそうもない」感じがしていたのですが、少しだけ、私にもわかるかも知れないという気になりました。 自分の欲求に支配されて、その行動しか選べない状態のことなのでしょうか。
それとも、この世がこのようにできているということに関しているのでしょうか。 この世は、それはできないようにできている、というような。人間は空を飛ぶことができない、というような不自由のことでしょうか。
「私は、あなたからどう思われるということからは自由です」と言うとします。 もし、その言葉を言わずにはおれない、言わないという行動は絶対に選べないとしたら、それは、絶対不自由なのでしょうか。
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No.209 - 2008/01/25(Fri) 08:42:34
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | どんなことでも人ができることは、そう人ができるように、世界ができてるから、できるだけ・・・たとえ自由意志を認めるとしても、そうすることができるように世界ができてるだけ・・・そうでない有り様はない・・・そんな片寄った、極端な有り様です。絶対不自由。かつて、そんな絶望と名前もつけられない絶望の日々を過ごしました。
>自分の欲求に支配されて、その行動しか選べない状態のことなのでしょうか。
だからというわけではないのです。けど。そういうこととして端的に強調されて、人が不自由であることが見える姿になって現れてる、とも言えると思います。
>この世は、それはできないようにできている、というような。人間は空を飛ぶことができない、というような不自由のことでしょうか。
これは、できるようにできてるから、ということを逆から見たのだと思います。できないようにできてるから、できない。これも人が不自由であることが端的に強調されて、見える姿になって現れてる、とも言えると思います。
>「私は、あなたからどう思われるということからは自由です」と言うとします。 >もし、その言葉を言わずにはおれない、言わないという行動は絶対に選べないとしたら、それは、絶対不自由なのでしょうか。
そういう心理的なことだけではありません。その言葉を言っても、その言葉を言えるように世界ができてるから、言える、もともと言えないようにできてなければ、言えない。どう人が選択しても、選択できなくても、そうできてるから、できるだけです。
なら、自由は、空想、妄想、幻想です。たとえば自由という言葉を、簡単に書いたり話してしまうことには疑問があると思います。と言えることも、そう言えるようにできてるから、言えるだけです。
しかし、それゆえ、そこには、たとえば、自我など、あり得ないのです。それさえ世界が、そうできてるから、できるだけです。それで、この意味ばかりではありませんが、自我は無我です。
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No.210 - 2008/01/25(Fri) 09:59:35 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | 何かを質問されて、「はい」と口で言う機能は人間にあるけれど、自分は「はい」と言えない時、それは、言えないように世界はできているのですか?
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No.211 - 2008/01/25(Fri) 10:25:34 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | そのように「はい」と言えない、ということも、できるように、世界ができているということです。
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No.212 - 2008/01/25(Fri) 10:35:36 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | 「できる」「できない」について、まだ腑に落ちません。 たとえば、結婚しているのに、他の人とつきあうということができる人がいるとします。 それは、この世が、そうできるようにできているからですよね。 もし、その人の自我が成長して、そういうことができなくなったとします。 それは、自我が完成に一歩近づいたということなのでしょうか? この場合、絶対不自由というものは、どの状態のことなのでしょうか? まだ、「自由」「不自由」「絶望」が理解できていなくて、お手数かけます。
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No.217 - 2008/01/25(Fri) 14:54:21 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | いくらでも話しかけてください。
ところで。なにかが「できる」とか、なにかが「できない」、ということではありません。どんな「できる」も、どんな「できない」も、絶対不自由です。たとえば自分は不自由だと、あるいは自由だと、思えることも、絶対不自由です。それは、どうしようもない人の有り様に気がついた状態です。
>たとえば、結婚しているのに、他の人とつきあうということができる人がいるとします。 >それは、この世が、そうできるようにできているからですよね。 >もし、その人の自我が成長して、そういうことができなくなったとします。 >それは、自我が完成に一歩近づいたということなのでしょうか?
とくに自我が完成してなくても、「結婚しているのに、他の人とつきあうということが」できない、しない、性格の人もいると思います。おおくの人はそうと思います。
もちろん自分は道徳や規範に縛られないから、「結婚しているのに、他の人とつきあうということが」できる。といったことは、自由だとは断じて言えません。
しかし自我が完成すると、道徳とか、軋轢を避けるとか、性格という理由なしに、そういうことはしようとも、したくないとも思わないで、事実しないでしょう。わざわざ、そんな不自由なことは望まないでしょう。
どういう言葉か忘れましたが、たとえば思考のない即時行動?というような。なにかを、しない、する、を問題にしては、理解困難と思います。
イエス・キリストの「人の子は安息日の主です」。これだけの言葉に、明確に表現されているのではないでしょうか。
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No.220 - 2008/01/25(Fri) 16:38:19 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | 現実は、絶対不自由。 自由は、空想。 このような理解で、よろしいのでしょうか?
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No.221 - 2008/01/25(Fri) 17:24:59 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | No.222 - 2008/01/25(Fri) 17:43:50 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | それが、絶望に繋がるのが、よくわからないのです。 自由は、空想の中にしかないからでしょうか?
絶対不自由といっても、できることはたくさんあるでしょう。それではダメなんですか。とてつもない野望を持っているのですか?
現実の世界で、「できること」「できないこと」を自分の好きなように決められたら、自由と言えるということでしょうか。そうでないから、絶望するということでしょうか。
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No.223 - 2008/01/25(Fri) 18:44:41 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | >それが、絶望に繋がるのが、よくわからないのです。 >自由は、空想の中にしかないからでしょうか?
なにか繋がるということではありません。自由は、空想でしかない、というより、空想することも、人が空想できるから、空想することができるだけです。どうやっても不自由でしかない、これは絶望と名前をつけなくても、絶望と思います。
>絶対不自由といっても、できることはたくさんあるでしょう。それではダメなんですか。とてつもない野望を持っているのですか?
うん。自分を知る、という、とてつもない野望を持っていたのです。
>現実の世界で、「できること」「できないこと」を自分の好きなように決められたら、自由と言えるということでしょうか。そうでないから、絶望するということでしょうか。
どんな選択も自由とは思えません。選択できるように世界ができてるから、選択できるだけ、ではないでしょうか。いわゆる希望も、絶望でしかないのではないでしょうか。
ところで。自由がないということではないのです。愛、自由、幸福、これは同義語と思います。
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No.225 - 2008/01/25(Fri) 19:45:11 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | > ところで。自由がないということではないのです。愛、自由、幸福、これは同義語と思います。
これは、空想ではないのですか?
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No.226 - 2008/01/25(Fri) 21:22:35 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | うん。空想もできないのです。 ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。
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No.227 - 2008/01/25(Fri) 21:46:03 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | > うん。空想もできないのです。
空想も、この世がそのように空想できるようにできていなければ空想できない。という意味でしょうか。 絶望のことですが、そのように空想できるのだから、絶望になるとは思えないのですが。 たとえば、こういうふうに空想したいけれどもできないのならば、絶望というものが出てくると思うのです。 つまり、「自分を知りたい」と思うけれど、「自分を知る」というふうには、この世はできていないので絶望するのだと思います。欲望がなければ絶望も感じないと思うのですが、それとは全く違うことなのでしょうか。 それから、ubikさんは、「神を知っている」のでしたよね。 その「知っている」というふうには、「自分を知ることはできない」という意味でしょうか。
> ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。
愛・自由・平和は、空想以外に、状態として存在できませんか?
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No.229 - 2008/01/26(Sat) 08:50:18 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | > どんなことでも人ができることは、そう人ができるように、世界ができてるから、できるだけ・・・たとえ自由意志を認めるとしても、そうすることができるように世界ができてるだけ・・・そうでない有り様はない・・・そんな片寄った、極端な有り様です。絶対不自由。かつて、そんな絶望と名前もつけられない絶望の日々を過ごしました。
「そうでない有り様はない」「そんな片寄った、極端な有り様」これがわかりません。片寄っている? > >自分の欲求に支配されて、その行動しか選べない状態のことなのでしょうか。 > > だからというわけではないのです。けど。そういうこととして端的に強調されて、人が不自由であることが見える姿になって現れてる、とも言えると思います。
たとえば、買い物をしていて、「ああ、疲れた」と思って、喫茶店に入ってコーヒーを飲む、そういうことも「不自由」ということですよね。何をしても、不自由。不自由を感じていなくても不自由。自由を感じていても不自由。という意味ですよね。 私も、よくついていってるなぁと感心します。 そのように感心するのは、空想であり、そのように空想するのも不自由。 あれ?空想は自由だったのに。 空想さえ、不自由の管轄と思います。 「これは空想である」というふうに、捉えなおす時に、矛盾してしまうのかな。
愛・平和・自由は、不自由の管轄ではない? 神がもたらしたもの? 神の国は、あの世ではなくて、そこここに存在すると言いますが。
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No.231 - 2008/01/26(Sat) 09:06:56 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | > うん。空想もできないのです。 > ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。
ちょっと、読み間違えていました。 愛・幸福・自由は、空想することもできないのですね。
それは、この世は、愛・幸福・自由は空想できるようにはできていない、のでしょうか。
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No.234 - 2008/01/26(Sat) 11:03:56 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | >絶望のことですが、そのように空想できるのだから、絶望になるとは思えないのですが。 >たとえば、こういうふうに空想したいけれどもできないのならば、絶望というものが出てくると思うのです。
なにかの能力のことではありません。空想も空想できるように世界ができてるから、できるので、不自由です。
>つまり、「自分を知りたい」と思うけれど、「自分を知る」というふうには、この世はできていないので絶望するのだと思います。欲望がなければ絶望も感じないと思うのですが、それとは全く違うことなのでしょうか。
たぶん、「自分を知る」を望まなければ、絶望しないと思います。
>それから、ubikさんは、「神を知っている」のでしたよね。 >その「知っている」というふうには、「自分を知ることはできない」という意味でしょうか。
自分は、知られる、と思います。でももう、知られる必要もなくなりました。
>「これは空想である」というふうに、捉えなおす時に、矛盾してしまうのかな。
たぶん、知らないことには、絶対不自由は適応できないからでしょう。
けど、どうしても自分を知りたい。その限界、極端な有り様でないと、絶対不自由には気がつかないと思います。そうでないなら、なにかできるから自由、できないから不自由で、無問題なのだと思います。でも、そんな有り様は、そうと気がつかないだけで、絶対不自由かもしれません。
>愛・平和・自由は、不自由の管轄ではない? >神がもたらしたもの? >神の国は、あの世ではなくて、そこここに存在すると言いますが。
うん。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここ』『あそこ』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。ほかの訳では、「人の心の中にあるのだ」とか「人と人の間にあるのだ」。だったと思います。
>> うん。空想もできないのです。 >> ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。
>ちょっと、読み間違えていました。
> 愛・幸福・自由は、空想することもできないのですね。 > それは、この世は、愛・幸福・自由は空想できるようにはできていない、のでしょうか。
ううん。愛、自由、幸福は、空想として世界に現れるのだけど、空想できないほど真実(変な言い方)だという意味です。でももう、ほとんど空想と真実の区別ができなくなりました。
実感!
きっと 愛じゃなくっても 笑いあえるだろう。 きっと 愛じゃなくっても 子供を育てられるだろう。 きっと 愛じゃなくっても 愛してるって囁けるだろう。
そうだ、 笑顔は愛じゃない。 そうだ、 慈しみは、愛じゃない。 そうだ、 怠惰は愛じゃない。 そうだ、 勤勉は愛じゃない。 そうだ、 悲しみは愛じゃない。
どんなことも愛じゃない、 愛は、 この世界に、ない、のだろう。 空想なのだろう。 愛は どこを探しても見つからないだろう。
だから 憎しみは愛じゃない。 だから 喜びは愛じゃない。 だから 嫉妬は愛じゃない。 だから 愛は愛じゃない?
いま自分が愛されてる実感がないから、愛されてない?いま愛してる実感がないから、自分は愛してない?とは言えない、です。これは愛、これは愛じゃないって、思うことはできても、思うことができるだけでしょう。きっと自由でなくても、きっと幸福でなくっても、愛してるって言えるだろう。
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No.235 - 2008/01/26(Sat) 11:43:38 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | わかりました。 あと、「片寄っている」だけ教えてください。 何がどう片寄っているのですか?
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No.237 - 2008/01/26(Sat) 16:31:43 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | 「どうしても自分を知りたい」という欲望を持つことが、片寄った有り方ということでしょうか?
それ以外の有り方は考えられないというのは、「自分を知りたい」という欲望を持たぬ有り方がありえない、ということなのでしょうか?
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No.238 - 2008/01/26(Sat) 16:35:33 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ルー | | | 愛・幸福・自由が指すものは、その片寄りのないものなのでしょうか。
空想できないほど真実なものなのですね。
しかし、空想として現れる。
空想しなくても存在しているんでしょう?
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No.239 - 2008/01/26(Sat) 16:45:51 |
| ☆ Re: 絶対不自由 / ubik0101 | | | >あと、「片寄っている」だけ教えてください。 >何がどう片寄っているのですか?
それは、人の有り様が片寄ってるのです。 それは外れようもない中道から外れることです。 そのエネルギーを活用するのだと思います。
>それ以外の有り方は考えられないというのは、「自分を知りたい」という欲望を持たぬ有り方がありえない、ということなのでしょうか?
とくに「自分を知りたい」を望まないでも、また自分を知りたくないと頑張ったとしても、遊んで暮らしたいも、学びたいも、儲けたいも、愛したいも、「自分を知りたい」に収束すると思います。「自分を知りたい」なくして、これら総てが無意味ではないでしょうか。
>愛・幸福・自由が指すものは、その片寄りのないものなのでしょうか。 >空想できないほど真実なものなのですね。 >しかし、空想として現れる。 >空想しなくても存在しているんでしょう?
うん。その通りです。
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No.241 - 2008/01/26(Sat) 17:44:46 |
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