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絶対不自由 / ルー
ubikさん。
絶対不自由という言葉は、ubikさんによって初めて知りました。
今まで、「わかりそうもない」感じがしていたのですが、少しだけ、私にもわかるかも知れないという気になりました。
自分の欲求に支配されて、その行動しか選べない状態のことなのでしょうか。

それとも、この世がこのようにできているということに関しているのでしょうか。
この世は、それはできないようにできている、というような。人間は空を飛ぶことができない、というような不自由のことでしょうか。

「私は、あなたからどう思われるということからは自由です」と言うとします。
もし、その言葉を言わずにはおれない、言わないという行動は絶対に選べないとしたら、それは、絶対不自由なのでしょうか。

No.209 - 2008/01/25(Fri) 08:42:34

Re: 絶対不自由 / ubik0101
どんなことでも人ができることは、そう人ができるように、世界ができてるから、できるだけ・・・たとえ自由意志を認めるとしても、そうすることができるように世界ができてるだけ・・・そうでない有り様はない・・・そんな片寄った、極端な有り様です。絶対不自由。かつて、そんな絶望と名前もつけられない絶望の日々を過ごしました。

>自分の欲求に支配されて、その行動しか選べない状態のことなのでしょうか。

だからというわけではないのです。けど。そういうこととして端的に強調されて、人が不自由であることが見える姿になって現れてる、とも言えると思います。

>この世は、それはできないようにできている、というような。人間は空を飛ぶことができない、というような不自由のことでしょうか。

これは、できるようにできてるから、ということを逆から見たのだと思います。できないようにできてるから、できない。これも人が不自由であることが端的に強調されて、見える姿になって現れてる、とも言えると思います。

>「私は、あなたからどう思われるということからは自由です」と言うとします。
>もし、その言葉を言わずにはおれない、言わないという行動は絶対に選べないとしたら、それは、絶対不自由なのでしょうか。


そういう心理的なことだけではありません。その言葉を言っても、その言葉を言えるように世界ができてるから、言える、もともと言えないようにできてなければ、言えない。どう人が選択しても、選択できなくても、そうできてるから、できるだけです。

なら、自由は、空想、妄想、幻想です。たとえば自由という言葉を、簡単に書いたり話してしまうことには疑問があると思います。と言えることも、そう言えるようにできてるから、言えるだけです。

しかし、それゆえ、そこには、たとえば、自我など、あり得ないのです。それさえ世界が、そうできてるから、できるだけです。それで、この意味ばかりではありませんが、自我は無我です。

No.210 - 2008/01/25(Fri) 09:59:35

Re: 絶対不自由 / ルー
何かを質問されて、「はい」と口で言う機能は人間にあるけれど、自分は「はい」と言えない時、それは、言えないように世界はできているのですか?
No.211 - 2008/01/25(Fri) 10:25:34

Re: 絶対不自由 / ubik0101
そのように「はい」と言えない、ということも、できるように、世界ができているということです。
No.212 - 2008/01/25(Fri) 10:35:36

Re: 絶対不自由 / ルー
「できる」「できない」について、まだ腑に落ちません。
たとえば、結婚しているのに、他の人とつきあうということができる人がいるとします。
それは、この世が、そうできるようにできているからですよね。
もし、その人の自我が成長して、そういうことができなくなったとします。
それは、自我が完成に一歩近づいたということなのでしょうか?
この場合、絶対不自由というものは、どの状態のことなのでしょうか?
まだ、「自由」「不自由」「絶望」が理解できていなくて、お手数かけます。

No.217 - 2008/01/25(Fri) 14:54:21

Re: 絶対不自由 / ubik0101
いくらでも話しかけてください。

ところで。なにかが「できる」とか、なにかが「できない」、ということではありません。どんな「できる」も、どんな「できない」も、絶対不自由です。たとえば自分は不自由だと、あるいは自由だと、思えることも、絶対不自由です。それは、どうしようもない人の有り様に気がついた状態です。

>たとえば、結婚しているのに、他の人とつきあうということができる人がいるとします。
>それは、この世が、そうできるようにできているからですよね。
>もし、その人の自我が成長して、そういうことができなくなったとします。
>それは、自我が完成に一歩近づいたということなのでしょうか?


とくに自我が完成してなくても、「結婚しているのに、他の人とつきあうということが」できない、しない、性格の人もいると思います。おおくの人はそうと思います。

もちろん自分は道徳や規範に縛られないから、「結婚しているのに、他の人とつきあうということが」できる。といったことは、自由だとは断じて言えません。

しかし自我が完成すると、道徳とか、軋轢を避けるとか、性格という理由なしに、そういうことはしようとも、したくないとも思わないで、事実しないでしょう。わざわざ、そんな不自由なことは望まないでしょう。

どういう言葉か忘れましたが、たとえば思考のない即時行動?というような。なにかを、しない、する、を問題にしては、理解困難と思います。

イエス・キリストの「人の子は安息日の主です」。これだけの言葉に、明確に表現されているのではないでしょうか。

No.220 - 2008/01/25(Fri) 16:38:19

Re: 絶対不自由 / ルー
現実は、絶対不自由。
自由は、空想。
このような理解で、よろしいのでしょうか?

No.221 - 2008/01/25(Fri) 17:24:59

Re: 絶対不自由 / ubik0101
うん。それこそ
絶望とも知れない絶望です。

No.222 - 2008/01/25(Fri) 17:43:50

Re: 絶対不自由 / ルー
それが、絶望に繋がるのが、よくわからないのです。
自由は、空想の中にしかないからでしょうか?

絶対不自由といっても、できることはたくさんあるでしょう。それではダメなんですか。とてつもない野望を持っているのですか?

現実の世界で、「できること」「できないこと」を自分の好きなように決められたら、自由と言えるということでしょうか。そうでないから、絶望するということでしょうか。

No.223 - 2008/01/25(Fri) 18:44:41

Re: 絶対不自由 / ubik0101
>それが、絶望に繋がるのが、よくわからないのです。
>自由は、空想の中にしかないからでしょうか?


なにか繋がるということではありません。自由は、空想でしかない、というより、空想することも、人が空想できるから、空想することができるだけです。どうやっても不自由でしかない、これは絶望と名前をつけなくても、絶望と思います。

>絶対不自由といっても、できることはたくさんあるでしょう。それではダメなんですか。とてつもない野望を持っているのですか?

うん。自分を知る、という、とてつもない野望を持っていたのです。

>現実の世界で、「できること」「できないこと」を自分の好きなように決められたら、自由と言えるということでしょうか。そうでないから、絶望するということでしょうか。

どんな選択も自由とは思えません。選択できるように世界ができてるから、選択できるだけ、ではないでしょうか。いわゆる希望も、絶望でしかないのではないでしょうか。

ところで。自由がないということではないのです。愛、自由、幸福、これは同義語と思います。

No.225 - 2008/01/25(Fri) 19:45:11

Re: 絶対不自由 / ルー
> ところで。自由がないということではないのです。愛、自由、幸福、これは同義語と思います。

これは、空想ではないのですか?

No.226 - 2008/01/25(Fri) 21:22:35

Re: 絶対不自由 / ubik0101
うん。空想もできないのです。
ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。

No.227 - 2008/01/25(Fri) 21:46:03

Re: 絶対不自由 / ルー
> うん。空想もできないのです。

空想も、この世がそのように空想できるようにできていなければ空想できない。という意味でしょうか。
絶望のことですが、そのように空想できるのだから、絶望になるとは思えないのですが。
たとえば、こういうふうに空想したいけれどもできないのならば、絶望というものが出てくると思うのです。
つまり、「自分を知りたい」と思うけれど、「自分を知る」というふうには、この世はできていないので絶望するのだと思います。欲望がなければ絶望も感じないと思うのですが、それとは全く違うことなのでしょうか。
それから、ubikさんは、「神を知っている」のでしたよね。
その「知っている」というふうには、「自分を知ることはできない」という意味でしょうか。

> ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。

愛・自由・平和は、空想以外に、状態として存在できませんか?

No.229 - 2008/01/26(Sat) 08:50:18

Re: 絶対不自由 / ルー
> どんなことでも人ができることは、そう人ができるように、世界ができてるから、できるだけ・・・たとえ自由意志を認めるとしても、そうすることができるように世界ができてるだけ・・・そうでない有り様はない・・・そんな片寄った、極端な有り様です。絶対不自由。かつて、そんな絶望と名前もつけられない絶望の日々を過ごしました。

「そうでない有り様はない」「そんな片寄った、極端な有り様」これがわかりません。片寄っている?

> >自分の欲求に支配されて、その行動しか選べない状態のことなのでしょうか。
>
> だからというわけではないのです。けど。そういうこととして端的に強調されて、人が不自由であることが見える姿になって現れてる、とも言えると思います。


たとえば、買い物をしていて、「ああ、疲れた」と思って、喫茶店に入ってコーヒーを飲む、そういうことも「不自由」ということですよね。何をしても、不自由。不自由を感じていなくても不自由。自由を感じていても不自由。という意味ですよね。
私も、よくついていってるなぁと感心します。
そのように感心するのは、空想であり、そのように空想するのも不自由。
あれ?空想は自由だったのに。
空想さえ、不自由の管轄と思います。
「これは空想である」というふうに、捉えなおす時に、矛盾してしまうのかな。

愛・平和・自由は、不自由の管轄ではない?
神がもたらしたもの?
神の国は、あの世ではなくて、そこここに存在すると言いますが。

No.231 - 2008/01/26(Sat) 09:06:56

Re: 絶対不自由 / ルー
> うん。空想もできないのです。
> ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。


ちょっと、読み間違えていました。
愛・幸福・自由は、空想することもできないのですね。

それは、この世は、愛・幸福・自由は空想できるようにはできていない、のでしょうか。

No.234 - 2008/01/26(Sat) 11:03:56

Re: 絶対不自由 / ubik0101
>絶望のことですが、そのように空想できるのだから、絶望になるとは思えないのですが。
>たとえば、こういうふうに空想したいけれどもできないのならば、絶望というものが出てくると思うのです。


なにかの能力のことではありません。空想も空想できるように世界ができてるから、できるので、不自由です。

>つまり、「自分を知りたい」と思うけれど、「自分を知る」というふうには、この世はできていないので絶望するのだと思います。欲望がなければ絶望も感じないと思うのですが、それとは全く違うことなのでしょうか。

たぶん、「自分を知る」を望まなければ、絶望しないと思います。

>それから、ubikさんは、「神を知っている」のでしたよね。
>その「知っている」というふうには、「自分を知ることはできない」という意味でしょうか。


自分は、知られる、と思います。でももう、知られる必要もなくなりました。

>「これは空想である」というふうに、捉えなおす時に、矛盾してしまうのかな。

たぶん、知らないことには、絶対不自由は適応できないからでしょう。

けど、どうしても自分を知りたい。その限界、極端な有り様でないと、絶対不自由には気がつかないと思います。そうでないなら、なにかできるから自由、できないから不自由で、無問題なのだと思います。でも、そんな有り様は、そうと気がつかないだけで、絶対不自由かもしれません。

>愛・平和・自由は、不自由の管轄ではない?
>神がもたらしたもの?
>神の国は、あの世ではなくて、そこここに存在すると言いますが。


うん。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここ』『あそこ』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。ほかの訳では、「人の心の中にあるのだ」とか「人と人の間にあるのだ」。だったと思います。

>> うん。空想もできないのです。
>> ただ、どんな説明をしても空想になるかもしれません。


>ちょっと、読み間違えていました。

> 愛・幸福・自由は、空想することもできないのですね。
> それは、この世は、愛・幸福・自由は空想できるようにはできていない、のでしょうか。


ううん。愛、自由、幸福は、空想として世界に現れるのだけど、空想できないほど真実(変な言い方)だという意味です。でももう、ほとんど空想と真実の区別ができなくなりました。

実感!

きっと
愛じゃなくっても
笑いあえるだろう。
きっと
愛じゃなくっても
子供を育てられるだろう。
きっと
愛じゃなくっても
愛してるって囁けるだろう。

そうだ、
笑顔は愛じゃない。
そうだ、
慈しみは、愛じゃない。
そうだ、
怠惰は愛じゃない。
そうだ、
勤勉は愛じゃない。
そうだ、
悲しみは愛じゃない。

どんなことも愛じゃない、
愛は、
この世界に、ない、のだろう。
空想なのだろう。
愛は
どこを探しても見つからないだろう。

だから
憎しみは愛じゃない。
だから
喜びは愛じゃない。
だから
嫉妬は愛じゃない。
だから
愛は愛じゃない?

いま自分が愛されてる実感がないから、愛されてない?いま愛してる実感がないから、自分は愛してない?とは言えない、です。これは愛、これは愛じゃないって、思うことはできても、思うことができるだけでしょう。きっと自由でなくても、きっと幸福でなくっても、愛してるって言えるだろう。

No.235 - 2008/01/26(Sat) 11:43:38

Re: 絶対不自由 / ルー
わかりました。
あと、「片寄っている」だけ教えてください。
何がどう片寄っているのですか?

No.237 - 2008/01/26(Sat) 16:31:43

Re: 絶対不自由 / ルー
「どうしても自分を知りたい」という欲望を持つことが、片寄った有り方ということでしょうか?

それ以外の有り方は考えられないというのは、「自分を知りたい」という欲望を持たぬ有り方がありえない、ということなのでしょうか?

No.238 - 2008/01/26(Sat) 16:35:33

Re: 絶対不自由 / ルー
愛・幸福・自由が指すものは、その片寄りのないものなのでしょうか。

空想できないほど真実なものなのですね。

しかし、空想として現れる。

空想しなくても存在しているんでしょう?

No.239 - 2008/01/26(Sat) 16:45:51

Re: 絶対不自由 / ubik0101
>あと、「片寄っている」だけ教えてください。
>何がどう片寄っているのですか?


それは、人の有り様が片寄ってるのです。
それは外れようもない中道から外れることです。
そのエネルギーを活用するのだと思います。

>それ以外の有り方は考えられないというのは、「自分を知りたい」という欲望を持たぬ有り方がありえない、ということなのでしょうか?

とくに「自分を知りたい」を望まないでも、また自分を知りたくないと頑張ったとしても、遊んで暮らしたいも、学びたいも、儲けたいも、愛したいも、「自分を知りたい」に収束すると思います。「自分を知りたい」なくして、これら総てが無意味ではないでしょうか。

>愛・幸福・自由が指すものは、その片寄りのないものなのでしょうか。
>空想できないほど真実なものなのですね。
>しかし、空想として現れる。
>空想しなくても存在しているんでしょう?


うん。その通りです。

No.241 - 2008/01/26(Sat) 17:44:46
空想 / ubik0101
大阪さん

>> おなじように。これも空想しないこと。天上天下唯我独尊という言葉の意味も、空想しないこと。それだけではないでしょうか。

>どんなことも空想するな、ということでしょうか。
>そんなこと出来るのでしょうか。


とりあえずは、空想してるのに、それを空想と気がつかないで、事実を思考してると思ってることが問題です。空想してるなら、空想してるという事実を理解しなくては誤るでしょう。

まずは、ほかの人と自分を上下関係などで判定しようとするから、天上天下唯我独尊と思ってしまうのではないでしょうか。そのように較べることは空想です。

けど。まったく天上天下唯我独尊なら、どうして天上天下唯我独尊と思う必要があるでしょう。ということで。自分と、ほかの人と、たとえば友人とか「父親」とか、平等だとか、違うけど、違っていいよ。また、自分は謙ってるよ、みんなが天上天下唯我独尊だよ、とか思うことができます。

というのも空想でしょう。たとえば「ありのまま」「今ここ」と言っても空想かもしれません。そんな空想をしてることに気がついて空想はできません。そのように空想してないことを、天上天下唯我独尊。と表現できるでしょう。

長くなったので新規投稿にしました。

No.123 - 2008/01/16(Wed) 22:15:53

Re: 空想 / のり
大阪さんは私の聞きたい事を的確に質問して頂けます。
私も★ 残響のような自我?に引きずり回されそうです。
このHPは本当に勉強になります、ありがとうございます。
私もお聞きしたい事が沢山あるのですが、それが何なのか良く分からないのです。   ちょっと質問出来そうですのでウビさんに質問させて頂ければと思います。
?@世界は世界自身が成長しようとし、そのために人に協力させ、どうしても成長させようとしていますか?
?A最近、突然自分の中が静まりかえる時が度々あります。外は変わりなく、自分の中(?)が活動停止(?)のような状態です。ウビさん、思い当たることはありますか?

横からゴメンナサイ、でした。

No.131 - 2008/01/17(Thu) 15:59:04

Re: 空想 / ubik0101
ある人が、成長したいと思わなければ、成長しないでいることもできます。また成長したいと思っても、できないこともあるでしょう。成長したいと思わなくても成長することもあるでしょう。なんでもありなんですが、どれでもないのです。でなくては、人は成長できないと思います。

たとえば成長するための決まった方法、道があれば、成長しないための決まった方法、道が、別にあることになるでしょう。そんなことは事実ありません。たとえば無知によって、欲望、自我が働くということ、それを成長したくないと呼ぶとしても。それもまた、成長にしか向かってないと思います。そのように世界は人を成長させると思います。ところで。

> ?@世界は世界自身が成長しようとし、そのために人に協力させ、どうしても成長させようとしていますか?

のりさんが成長し続けていることを世界に投影して確認してるのかもしれません。または、のりさん独特の世界の機能の発見かもしれません。もし人が成長して世界が成長するなら、もしかして永遠に成長するのかもしれません。このように感じるという、それを聞かせてもらいたいと思います。

> ?A最近、突然自分の中が静まりかえる時が度々あります。外は変わりなく、自分の中(?)が活動停止(?)のような状態です。ウビさん、思い当たることはありますか?

それは安らぎ、静寂を感じるということでしょうか。そういう意味なら、日常の基本はそうなのですが、そうでないこともあります。

No.132 - 2008/01/17(Thu) 17:59:32

Re: 空想 / のり
 横からの頓珍漢なコメントにお返事頂きましてありがとうございます。未だ、掲示板の勝手がわからず変な事をしてしまいそうです、ごめんなさい。お返事頂けますとホントに嬉しいです。
○人はどうしてもどうしても成長するようにできているように感じます。ただ、遠回りしたり時間が掛かったりする事が多いのですが。。。時間の事を考えたり気にしなければ、永遠です。のような気がします。
?@世界は世界自身が成長しようとし、そのために人に協力させ、どうしても成長させようとしていますか?
を感じる。は、文字にすると陳腐になってしまうのですが、
 全てが成長に向かっている。世界が成長しようとするエネルギーのようなものを感じます。この場合は世界は人と同じであり、同じではない。矛盾がそのまま存在していて、無問題。この意識が認識する矛盾の存在など、無問題、整合性一貫性など“ピャー”の感じです。 そのままでは世界に利用されるだけ(それでも無問題ですが)、これに気付くと自身の成長の為に世界を活用できる、ような気がします。 ウビさんはもう世界側に居る感じです。
○こう感じたのは、私自身の事では無問題、理不尽という言葉も忘れた日常をおくっていても、子供が大人に理不尽なめにあいますともうダメ全てがぶっ飛び、
全世界を敵にしても“戦う・守る”という自我の防衛隊(どこかで見た?)と化すためです。 何でかな?と常々思ってました。 どうして子供の事では自我に引きずり回されるのかな?世界も覚醒したいのかな?それでどうするのかな?愛になるのかな?
です。
?A突然の静まりかえり
 これは今までの安らぎ、静寂等とは質・レベルが違うのです。回りの喧騒、雑然はあるのですが、あの体験と通常の間ぐらいの感じです。う〜ん、自分の中が眠ってしまう感じかな?これが始まると筋肉もモンドリ打って弛緩します。

大阪さん、横から頓珍漢でごめんなさい。私と同じような体験をされたとの事!いつも私が聞いて頂きたいことを素直に質問して頂いて、感謝しております。

コメント遅れると思います。すみません。

No.144 - 2008/01/18(Fri) 10:58:56

Re: 空想 / ubik0101
> 全てが成長に向かっている。世界が成長しようとするエネルギーのようなものを感じます。

どこかで書いたと思いますが、残響のような自我、そこにこそ衆生が現前し、慈愛が発現します。ほかの人に成長してもらいたい気持ち、救いたい気持ち、愛を感じて欲しい気持ち・・・です。それ、実行しないと苦痛です。なぜかそうなってる。ほんとーに世界って、よくできてます。そして世界と人、同じでもあるし、同じでもないし、総てが成長に向かってる。それを実感したのでしょう。

> これは今までの安らぎ、静寂等とは質・レベルが違うのです。回りの喧騒、雑然はあるのですが、あの体験と通常の間ぐらいの感じです。う〜ん、自分の中が眠ってしまう感じかな?これが始まると筋肉もモンドリ打って弛緩します。

のりさんって、凄っ。あらためて、そう思います。いくらでも話を聞きたいと思います。 自分は 、そういう「突然の静まりかえり」は感じません。この世界は美しい、大阪さんと同じ状態と思います。くらべるのも変だけど最初の無思考状態と変わらない感じです。

掲示板の使い方、無問題です。新規の投稿も、いくらでも。ただ親記事が削除されると、子記事が総べて消去されるそうです。これは説明文に加えておきます。

No.149 - 2008/01/18(Fri) 14:22:14

Re: 空想 / 大阪
うびさん

> とりあえずは、空想してるのに、それを空想と気がつかないで、事実を思考してると思ってることが問題です。空想してるなら、空想してるという事実を理解しなくては誤るでしょう。

> まずは、ほかの人と自分を上下関係などで判定しようとするから、天上天下唯我独尊と思ってしまうのではないでしょうか。そのように較べることは空想です。

いや、上下関係で判定しようとしているのではないと思います。
自分は偉くないが、卑しくもない。
自分は賢くないが、馬鹿でもない。
自分は美しくないが、汚くもない。
偉いのは、賢いのは、美しいのは、天の父だけ。
木村拓哉が美しいのも、この世に美があるから、と思います。
そういうことをもっとしっかり理解していること、を天上天下唯我独尊と表現できるかな、と思っています。
それで、天上天下唯我独尊でしかいられない自分を理解する、と言いました。
これも空想になるでしょうか。

> けど。まったく天上天下唯我独尊なら、どうして天上天下唯我独尊と思う必要があるでしょう。ということで。自分と、ほかの人と、たとえば友人とか「父親」とか、平等だとか、違うけど、違っていいよ。また、自分は謙ってるよ、みんなが天上天下唯我独尊だよ、とか思うことができます。
>
> というのも空想でしょう。


うーん。「みんなが天上天下唯我独尊」と思っていました。
どうしても事実、だと思ってしまいます。

No.154 - 2008/01/18(Fri) 20:08:06

Re: 空想 / 大阪
のりさん

> 大阪さん、横から頓珍漢でごめんなさい。私と同じような体験をされたとの事!いつも私が聞いて頂きたいことを素直に質問して頂いて、感謝しております。

おぉ。ちょうど今朝、のりさんは僕のするような質問はもうクリアされてるんだろうなぁ、なんて勝手に考えていました。そう言われて以外です。
最近は、嘘や誤魔化しじゃなく、絶対に、理解してやろう、なんて思っているんです。それで前より素直になれてるかな、って思います。
相変わらずお仕事がお忙しそうですね。家族を養うのも大変でしょうね。ではまた。

No.155 - 2008/01/18(Fri) 20:32:22

Re: 空想 / ubik0101
それで。天上天下唯我独尊も使い捨てです。ubik0101の言うことも使い捨てです。
No.156 - 2008/01/18(Fri) 20:56:16

Re: 空想 / のり
大阪さん
 亀レスでごめんなさい。
 私は全然クリアできてないです。苦悩が来て自分なりの気付きがあってクリア!と思っていると又、苦悩が来て〜の繰り返しです。ウビさんも言われてましたが自分の事なら良いのですけど子供の事となるとお手上げ状態です。世界は徹底的に突っ込んで来ます。“ホントに残響のような自我”何とかしたいです。  こんな日常ですのでバラバラと悩みがあるのですが、何が聞きたいのか分からない中、大阪さんが素直に進まれているのが羨ましいですしとても参考になります。
 天上天下唯我独尊:あの体験からも自分の意識宇宙を感じました。自分の意識宇宙では自分が神でなくてはと思います。自分の意識の中で仏や神が主になったら倒すしかないと思います。そして意識のベールの働きから自我の運動を見、そのベールが破裂した時にこの意識宇宙が全体と同一である事を感じました。ここから私なりの三位一体=全体であり、全体の一部であり、独立体である、を思っています。
また、人は他の人より上でも下でも無い、まして同等などでは絶対無い!という言葉に出会い、なるほどと思いました。
 話しは散らかりますが、私なりの気付きの中でやはり、人はアレやコレやでは幸せに絶対なれない。アレやコレやで不幸になる。アレやコレやに没頭することで幸せでない事を忘れる事はできるが幸せにはなれない!と思っています。

 ウビさん、突然の静まり返りを詳しく書きますとチョッとオカルト的で変人と思われそう(既に思われている?)です。
亀レスになりますが、なにかありましたら御願いします。

では、

No.178 - 2008/01/21(Mon) 12:38:18

Re: 空想 / ubik0101
> 天上天下唯我独尊:あの体験からも自分の意識宇宙を感じました。自分の意識宇宙では自分が神でなくてはと思います。自分の意識の中で仏や神が主になったら倒すしかないと思います。そして意識のベールの働きから自我の運動を見、そのベールが破裂した時にこの意識宇宙が全体と同一である事を感じました。ここから私なりの三位一体=全体であり、全体の一部であり、独立体である、を思っています。

たしかに言い方はともかく「仏や神が主になったら倒すしかない」と思います。 ついでに「自分の意識宇宙では自分が神」その自分。それを倒そう。というより自己は、もともと「君臨すれど支配せず」ではないでしょうか。なにかを支配すると、それだけで強い関係ができ、それは欲望として機能しやすいと思います。

たとえば、楽しいとか、悲しいとか、苦しいとか。慈しみとか、憎しみとか、冷静とか。なにかが良い悪いと、選り好みをする必要もないと思います。なんだって、否定、肯定だって、苦悩、葛藤だって、残響のような自我だって、世界の機能です。人が自分だけでしてるのではないでしょう。しかも総べて、知らない、です。

そして人が、理解すべきことは理解し、隣人を愛すなら隣人を愛して、そうしている自己を自覚する必要もなくなったら・・・そうするために残響のような自我が機能・・・欲望は人が倒錯してることを示す機能をする欲望として、自我は人が倒錯してることを示す機能をする自我として、働く必要がなくなるでしょう。

そういうことは、人が成長するために片寄り、エネルギーを発生させ、理解するために活用してるだけです。そうでないなら、あってもなくても、どーでもいいのです。そうならば、却って人は静かになります。たとえば人が成長するために自我として機能する善悪の概念が、ことさら働く必要がなく(限界があるけど)、悪を行わず善を行うでしょう。

それでも、なんか空想っぽいですが、人が生きて眠って目覚めて、呼吸や散歩するだけでも(また死んでも)、常に世界を変えてい続けてると思います。

そんな世界を変えてい続けることは、とくに人間関係に現れやすいと感じます。そんな人間関係が、人の成長を強く促すのかもしれません。「自分の事なら良いのですけど子供の事となるとお手上げ状態」も、そうかもしれません。

たとえば、いくら正しいことを言っても、それを対象にしてる自分が、いる、なら、それも自我の機能と思います。そういえば、そこそこ地位がある人が、「人々を公平に見る」という絵に描いたような偽善者でした。

たとえば、なにかをする自分を自覚しない。それは無問題。だから、なにをしても無問題。と思うなら、問題でしょう。世界との関係において、自分が、いる、のほうに片寄り、エネルギーが発生し、学ぶ必要に気がつくのかもしれません。

そういう自分が、いる、ある、に片寄ってることが問題ですが、そのためには人と世界の関係を誤らず見ることが必要なのでしょう。

のりさんは、「自分の意識宇宙では自分が神」で、「全体であり、全体の一部であり、独立体である」。これは世界と人の片寄らない関係の理解だろうと思います。

東照寺
http://homepage3.nifty.com/toshoji/zen.htm
の「仏法とは」は参考になるかもしれません。

> 話しは散らかりますが、私なりの気付きの中でやはり、人はアレやコレやでは幸せに絶対なれない。アレやコレやで不幸になる。アレやコレやに没頭することで幸せでない事を忘れる事はできるが幸せにはなれない!と思っています。

たしかに、不幸せを感じなければ、不幸せでないことはありません。たとえば自我や欲望、苦悩を感じなければ、それはないんだ、と勘違いするようでは、実際に自我や欲望、苦悩がないことを、ないと見ることはできないと思います。これは、自覚できない自己を確信(変な言い方)してるから言えることでしょう。

No.183 - 2008/01/22(Tue) 09:47:31

Re: 空想 / のり
ウビさん、凄い、ありがとうございます。
> 東照寺
> http://homepage3.nifty.com/toshoji/zen.htm
> の「仏法とは」は参考になるかもしれません。

アレがソレならドンピシャです。流石です。
習い性になった脳みそと体が逆らいます。実は私もこの習慣・慣性の法則を感じてまして、これを私なりに“カルマ”と名づけています(巷の定義の前世の因縁等でなく)。この習慣からの離脱が難題です。
 チョッと成り切ってみます。

> 「君臨すれど支配せず」ではないでしょうか。
はい、支配する対象が見当たりません。

> たとえば、楽しいとか、悲しいとか、苦しいとか。慈しみとか、憎しみとか、冷静とか。なにかが良い悪いと、選り好みをする必要もないと思います。なんだって、否定、肯定だって、苦悩、葛藤だって、残響のような自我だって、世界の機能です。人が自分だけでしてるのではないでしょう。
 世界自身が成長しようとする機能。 子供が他の大人から理不尽な目に会って、その理不尽と感じた瞬間、理不尽のモノサシが発生し理不尽を感じる自分が居り苦悩が生じました。 そこで世界のどうしても成長しようという機能を感じました。そして理不尽とか矛盾とか不整合とか理屈とか、全ては人為的なモノに依存する事によって私の理不尽も発動するのだと思い知りました。
>しかも総べて、知らない、です。
ウビさんの、これがなかなか謎です。意識しない、意識にのぼらない、ということでしょうか。

どうすれば皆さんのように他の方の投稿を色違いにできるのでしょう?引用を使って試してみます。

No.184 - 2008/01/22(Tue) 17:03:45

Re: 空想 / ubik0101
>はい、支配する対象が見当たりません。

のりさんって、ほんとーに自己そのものです。(失礼な意味でなく)大爆笑です。

>>しかも総べて、知らない、です。

>ウビさんの、これがなかなか謎です。意識しない、意識にのぼらない、ということでしょうか。

ありありと緑の山々や、飛ぶ鳥を見てるのです。聞いてるのです・・・見られてる、聞かれてるとも言えますが・・・それだけしか機能してません。対象も、自分も、そのまま知らないです。それを知ってると呼んでもいいのですが、どうも納得できません。

この前、hatoさんが教えてくれたように「知るということは、想起、再認である」なのだと思います。そこで想起、再認したことを、知ってると呼ぶとしても、その知ってることも、知らないのです。この世界、また身体、感覚、感情、思考、それが、そうでなくてもいいのに、そうです。不思議です。それで、知らない、です。でなくては世界は機能しないかもしれません。

これに気がついたのは。あるとき禅の書を読んでて、難しい漢字だけの原文が解りませんでした。そこで、解る、知ってるって、どういうことなんだろう?と思いました。そして日本語を読むと解る、知ってる。でも、解る、知ってるって、解らない、知らない。それで世界も、見るも、聞くも、自分も知らない。です。

>どうすれば皆さんのように他の方の投稿を色違いにできるのでしょう?引用を使って試してみます。

「プレビュー」ボタンを押せば、投稿された場合の表示画面を、前もって確認することができます。そこで不都合が見つかれば修正して。必要であれば、また「プレビュー」ボタンを押して確認します。OKなら、「投稿する」ボタンを押してください。

No.185 - 2008/01/22(Tue) 18:37:50

Re: 空想 / のり
 う〜、ウビさんの“知らない”は深すぎて届けません。私の修行が足りないようです。
 大阪さんへのお返事を引っ張らせてください。
> あの体験を感じようとして、残響のような自我が発生するのですが、ひとつにはやはり、あの愛や真理や自己を理解しようとするために、そうなるのだと思います。けど。それは意識の対象ではありません。そのことを了解すること。
> もっと単純です。あの体験、あの愛や真理や自己を、思い出せない、再現できないと思います。つまり意識の対象にはなりません。それを微かに空想としてでも対象にしようとするから、苦痛であり、残響のような自我が機能せざるを得ないと思います。そこで、まったく意識されないのに、変容した自分。たとえば無明が転換した智恵。貪らないこと。などがあります。
> あの愛を感じない、その感じない自分を、そのまま認めれば、それだけですみます。感じても感じなくても、問題ありません。野山に咲く花、それを摘むことは欲望なのかもしれません。

“やはり野におけ蓮華草”という事でしょうか。私も意識の対象でない、は難しいです。「仏法とは」では“成り切れ”とありました。そのためにはアレを空想してしまいます。  ウビさんは“宇宙との一体を身につける”をどうお考えになりますか?もう身につけられて、そして知らない、
でしょうか。放っておけば変容して行くのでしょうか(そんな気もします)。兎にも角にも、自分でないこの肉体や心に引き摺り回されるのが癪にさわるのです。何とかしたいです(ホントに忘れた頃にやってきます)。

No.198 - 2008/01/24(Thu) 16:09:13

Re: 空想 / のり
やはり何をお聞きしたいのか分からなくなります、すみません。

> そういうことは、人が成長するために片寄り、エネルギーを発生させ、理解するために活用してるだけです。そうでないなら、あってもなくても、どーでもいいのです。そうならば、却って人は静かになります。
“突然の静まり返り”が少し解けた気がします。
片寄りによってエネルギーが発生している。その片寄りが落ち着くと静まり返りが起きる、ような気がします(でも新聞読んでたりする時なんですよね〜)。そんでもって、エネルギーは元々満ちていて、片寄りによって揺らぐために感ぜられる。 という感じです。
“知らない”チョッとピンと来ました。ウビさんの文章は深い、深い〜!そこらじゅうに善知識があります。

No.199 - 2008/01/24(Thu) 16:59:18

Re: 空想 / ubik0101
たぶん1000年以上前から、禅には、幾つかの宗派があります。それらは指導方法も違うのだと思います。さらに個人の体験も、それぞれの人で独特だと思います。そんなたくさんの蓄積があり、伝統の有利な点と思います。

のりさんは、おそらく東照寺が知れば喜ぶ体験でしょう。縁があるのかもしれません。4月に5日間の接心会(せっしんえ)を行うと、HPの「TOP」の「行事予告」に掲載されているので、参加するのもいいかもしれません。「TOP」にはメールフォームがあるので、自分の状態を相談するのもいいかもしれません。

それから東照寺関係?と思うのですが、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=5&board=552019920&tid=a5&sid=552019920&mid=16064
などのorokamono1950さん(愚さん)の話は、総べて同意できるわけではありませんが、参考になるかもしれません。
なんかずっと前、紹介したような気もしますが、
自身で「クリシュナムルティから禅へ」という掲示板もやっています。

ところで、自分の場合は東照寺の言うこととは、違う(種類?)の体験だと思います。またどんな指導も受けたことがないので、言うことが違うかもしれません。

おそらくですが。どうしてもアレ、は徹底するまで残り火のように燃え続けるのだし、そうでありながら、なんでもない日常に、成り切る、のだと思います。それで失うことはなにもありません。それが、奇しくもアレ、を徹底することになるのですが。そうであるなら、自分なら、どんな、たとえば成り切る訓練もしないと思います。

ただ、そうである自分の有り様を、そのまま理解していけば、それが導いてくれると思います。そのとき見えることでいいので。たとえば「支配する対象が見当たりません」。なら、なぜそうなのか徹底的に洗い出して、正確に見るのです。

たとえば「自分でないこの肉体や心に引き摺り回されるのが癪にさわる」。なら、それを展開説明してみるのです。そして、なぜそうなのか?そうしてる、その自分の状態を返り見るのです。(ずっと前、テレビで坊さんが、「説教するときは無知な衆生に対してではなく、仏陀に説教するつもりでする」。と言っていました)。それはやはり、そのとき、その本人にしかできないと思います。

それは愚かな意識に、無明が転じた智恵を教えることでも、意識に依存しないことにもなるでしょう。たくさんの学びがあるでしょう。 かなりの年数がかかります。それはそれで問題なければ、犀の角のように独り歩むのもいいでしょう。どちらにしても道の仲間がいます。

> 片寄りによってエネルギーが発生している。その片寄りが落ち着くと静まり返りが起きる、ような気がします(でも新聞読んでたりする時なんですよね〜)。そんでもって、エネルギーは元々満ちていて、片寄りによって揺らぐために感ぜられる。という感じです。

うん。たとえば葛藤は、エネルギーの無駄遣い、と言われることもあります。それは正確に見てないと思います。実際は、のりさんの言う通りと思います。

No.201 - 2008/01/24(Thu) 20:47:47

Re: 空想 / 大阪
のりさん、遅くなってスミマセン。
>ウビさんも言われてましたが自分の事なら良いのですけど子供の事となるとお手上げ状態です。世界は徹底的に突っ込んで来ます。“ホントに残響のような自我”何とかしたいです。

コレは僕も同じ感じだと思います。

家族、恋人、友人、他人。
何か出来事があって大きく苦しんでたり、特に何もなくて大きく苦しむ可能性を秘めてたりします。
どうしてあげられるだろう。
経験や言葉も力になるだろう。
でも何より大事なのは、幸せ者でいること、だろう。
その為には、残響の自我、こいつをどうにかしなければ。
とか、思うことがあります。
のりさんも似たような感じだと、勝手に思っています。

>話しは散らかりますが、私なりの気付きの中でやはり、人はアレやコレやでは幸せに絶対なれない。アレやコレやで不幸になる。アレやコレやに没頭することで幸せでない事を忘れる事はできるが幸せにはなれない!と思っています。

「幸せでない事を忘れる事はできる」
この言葉は使えますね。
映画とかテーマパークを出てすぐ「いやぁ楽しかった、幸せでない事を忘れられたぁ」とかいう使い方すると面白いかもしれないですね。(使いすぎるといけないですが)

No.214 - 2008/01/25(Fri) 13:20:29

Re: 空想 / のり
大阪さん、
何か大阪さんの投稿に横から出っ張ってしまってゴメンナサイ。
> のりさん、遅くなってスミマセン。
とんでもないです。私もこの後、いつコメントできるかわかりません。土日は基本的にNGですし。 お互いその時はその時、としておきましょうね!

> 映画とかテーマパークを出てすぐ「いやぁ楽しかった、幸せでない事を忘れられたぁ」とかいう使い方すると面白いかもしれないですね。(使いすぎるといけないですが)
がはははは!大爆笑です。

> でも何より大事なのは、幸せ者でいること、だろう。
“幸せとは?”が重要と思います。

> その為には、残響の自我、こいつをどうにかしなければ。
> とか、思うことがあります。
> のりさんも似たような感じだと、勝手に思っています。


そうです、その通りです。  ウビさんとの会話の後でチョッと残響の自我の一部が見つかりました。 それは、
“在りたい、の発展系の<良く、在りたい>”です。
自分の中では消滅したと思っていたコレが、子供が理不尽な目に会う事で投影されてました。“良く在って欲しい”に形を変えていました。 う〜ん、コレは手ごわそうです。
続きます

No.215 - 2008/01/25(Fri) 14:08:57

Re: 空想 / のり
ウビさん
色々ご紹介下さり、ありがとうございます。
でも、やっぱりそういうのは何か違うような気がします。
私も犀の角のように独り歩みます。どちらにしても道の仲間がいます。本当に感謝して居ります。

> 自分なら、どんな、たとえば成り切る訓練もしないと思います。
はい、成り切る訓練は違う気がします。
> 「支配する対象が見当たりません」。なら、なぜそうなのか徹底的に洗い出して、正確に見るのです。
う〜ん、これはそのまんまです。これが即、浮かび、他に何も浮かびませんでした。何故、大爆笑なのかキョトン、としていました。
> そのとき、その本人にしかできないと思います。
やはり今まで通り一つ一つ自分で実感して行くしかない気がします。ウビさんの“知らない”、ちょっと自分なりに分かってきました。
 ところで残響の自我の一つ<良く、在りたい>が見つかりました。これは成長したい、とも繋がっており厄介そうです。

超古代の日記、勉強になります。もう無いのでしょうか。

では、

No.216 - 2008/01/25(Fri) 14:35:52

Re: 空想 / ubik0101
もしかして超古代の日記を書き込んだ、富士通オアシスの5インチFDに、あるかもしれませんが、読み取る機械がありません。

そういえば、プリントしたとき使ったリボンは、たぶんあると思いますが、それを調べるのは、大変な作業かな、と思っています。

No.218 - 2008/01/25(Fri) 15:01:20

Re: 空想 / のり
> もしかして超古代の日記を書き込んだ、富士通オアシスの5インチFDに、あるかもしれませんが、読み取る機械がありません。
>
> そういえば、プリントしたとき使ったリボンは、たぶんあると思いますが、それを調べるのは、大変な作業かな、と思っています。


いえいえ、内容は非常に興味がありますが、お手を煩わすのは本意ではありません。 また機が熟せば世に出てくるかもしれません。 ありがとうございます。

No.219 - 2008/01/25(Fri) 15:14:34
suhoさんえ / peer
お返事ありがとう〜

>> 「いい人と思われたい」とか「偉い人と思われたい」とか「気のきく人だと思われたい」とか・・。
>> そんなことを、思ったら、重くなる。
>> ようなことに、執着しない。という意味ですが。
>> これはみんな、自分の自由にならないことです。ね。
>> それを自由に扱いたいと思う気持・・・
>> これって、やっぱり重い〜と感じるのですが。


>そうですね。
>で「そのような状態」を意識して、そうならないようにする。
>そうならないように、心をコントロールする。


人間ですからね。誰にもエゴの部分と言うものはありましょう。
しかし「自分には、そんなものはない」と切り捨ててしまったら
それは、他者に投影してしまうでしょ。
「いい人と思われたい」という人をみたら、責めたくなったり。
ですね。

ですから。この場合
コントロールする・・・というよりも、
自分の中のエゴに向き合えばいい。のだと思うのです。
「自分のなかにも、その気持はあるじゃない」と。
そしたら、人を責められないでしょ。
自分と他者は、同じですから。

他者に投影して、自分はそれには無関係と、するのではなく。
ただただ、自分に向き合う。自分のエゴを「ない」と切り離さない。
それが「この世界は人を覚醒させるための触媒です。」の意味
かな〜と。

No.180 - 2008/01/22(Tue) 09:02:24

エゴは悪者ではない / peer
そのエゴは、人と人を真につなぐアイテムでもある。
と私は思います。
エゴがない人は、人とつながれません。
自分にもある。と思えるから、相手の痛みや苦しみが
自分の事のように、真に迫る。

どうしてその人はエゴ丸出しなのか・・・と。
本気で考えるでしょう。心の底から。丸裸で。
そうしたとき、責める気持は失われる。
共感して、受け止める。
相手と自分の心がつながる。
と・・・私は、思うのです。

No.181 - 2008/01/22(Tue) 09:10:48

Re: suhoさんえ / suho
> そのエゴは、人と人を真につなぐアイテムでもある。
> 自分にもある。と思えるから、相手の痛みや苦しみが
> 自分の事のように、真に迫る。
> どうしてその人はエゴ丸出しなのか・・・と。
> 本気で考えるでしょう。心の底から。丸裸で。
> そうしたとき、責める気持は失われる。
> 共感して、受け止める。
> 相手と自分の心がつながる。
> と・・・私は、思うのです。


おおっ。peerさん!
僕も全くそう感じています。
人間の意識って、強度、ありようの違いはあれど、エゴそのものだと感じています。どうあってもです。
なのでエゴとか自我とかをあえて問題にすること自体が、本質的には意味がないなと(そのことに気づくためのプロセスということでは、本気で検討する意義はあると感じますが)
「エゴは悪者ではない」
はい。善者でも悪者でもあり、善者でも悪者でもありませんね。ただ、そのような作用と思います。
エゴを互いに表現することで、反応の関係を見ることで、互いのエゴのありようが明確になる。
それがコミュニケーションと感じます。
というか、人間の意識は「エゴ(自我)」そのものなのだから、本来エゴ(自我)という言葉さえいらないと感じます。

No.182 - 2008/01/22(Tue) 09:37:50

Re: suhoさんえ / peer
私もまったくの同感です。

その考えはsuhoさんと会話た後に
頭の上で原爆が破裂した・・・と書いた
そのものでした。

エゴとそうでないものを分けようとしても
無理なのだな。と。
覚醒せねば分けられないと考えるもの、ただの逃げ。
で「こいつを、、ただ見て行くしかないか」
というワケです。
妙な表現ですが。

No.186 - 2008/01/23(Wed) 00:15:02

Re: suhoさんえ / suho
エゴとか自我とか名づけると、これまでの観念が想起してどこかネガティブな眼差しから見てしまいますね。

作用です。心の基本的な作用と感じます。
「求め」の作用とでもいいましょうか。
この「求め」の作用は、良いも悪いもありません。
変化、循環、創造の基本作用と感じます。

身体は身体なりの「求め」の作用があります。食べ物を摂取する「求め」、水分を補給するための「求め」、男女の求め。。

ただ人間の場合、心理的な「求め」作用は、自然や身体に生じる「求め」の作用のように、一定の強度を維持できないように作用していると感じます。
つまり、自然の「求め」の作用よりも強度が高く、直面する関係性によって、強度が変動するのです。
そして、どうも、自然や身体に作用している強度のレベルから、かけ離れるほど「興奮」「快感」「葛藤」「苦しみ」などの「手ごたえのある知覚」が生じるようです。
これはまるで、心の「求め」作用の強度を、自然の作用レベルへ押し戻すサインとして働いているように感じます。
(で、実際に自然な強度まで押し戻されます)

この「手ごたえのある知覚」が生じている「由来」を理解するまえに、それらの知覚を更に「求め」、あるいはそれらを排除しようとする「求め」を意図的に上乗せすると、ますます「求め」の強度は高まってゆき、自然の作用強度からさらにかけ離れてゆくという悪循環が生じるように感じます。

これが、今、自分も含めた人々が、社会が、していることと感じます。
そのような作用が、様々な「問題」という形で現象化しているように感じます。

罪人と呼ばれる人も、善人と呼ばれる人も、どんな人でも、その現れ方、強度の違いがあるだけで、もとを正せば「求め」の作用の中で皆生きている、と気づいたとき、
釈迦の言った「一切皆苦」という言葉を思い出しました。
また、ウビさんのおっしゃった「絶対不自由」を思い出しました。
そして、誰一人として、本質的に責めることはできないなと感じました。皆、一緒なのですから。

「求め」の強度は、どんないじり方にせよ、いじればいじるほど強度が増します。抑圧、抑制もいじりそのものと感じます。

なので、ただ、そのまま、見るだけです。
そうしている自分のありようを、他者のありようを、コミュニケーションを通じ、見守り、関係を理解するだけです。
どのようであっても、何をしていようとも。

そして、自然の作用は、世界は、
ほんとうに愛そのものと感じます。

そんなことを、最近感じていました。

※しかし、なんでまた「苦痛」だけじゃなく「快感」もセットするかなぁ。これも愛か、いたずらか。

No.187 - 2008/01/23(Wed) 01:54:08

Re: suhoさんえ / peer
>しかし、なんでまた「苦痛」だけじゃなく「快感」もセットするかなぁ。これも愛か、いたずらか。

エゴから欲が発生すると考えると、エゴ=ネガティブなもの、として抑圧されなければならないもの、となるような気がします。
エゴの底には、原体験による傷ついた痛みが在る。
その痛みの補償行為として欲が発生する・・・。

ですから、欲をみるのではなく、底に在る痛みを見ることが基本かな、と思います。
そうしないとエゴは、悪者になるのではないかなぁ。どう見ても。

No.192 - 2008/01/23(Wed) 23:51:49

Re: suhoさんえ / suho
> エゴの底には、原体験による傷ついた痛みが在る。
> その痛みの補償行為として欲が発生する・・・。


たしかに、それはあると感じます。
「痛み」というのは、自分が信じていたことを全否定された経験とか、自分の存在を排除された経験とかで、感情的にショックを受けた。そんな記憶のことを指しているのだと思いますが。
でも、それだけではないようにも感じるのです。
もっと、根源的に求心的な作用、を感じるのです。
たとえば、僕の場合、何もすることがなくなったとき、いわゆる「暇」なとき、暇つぶしに何かをし始める自分がいます。
それは、どこか本能的に、根源的に、そのような「暇をつぶす」作用が生じているように感じるのです。
心の中心には「空虚」があり、それを埋めるために、何かをするような。。
それ自体が空想なのかもしれません。
が、そのような作用が、生き物が生を営む、循環する、基本となっているような気がするのです。
その作用が最初からあり、つまり原因があって「求め」が生じるのではなく、はじめから「求め」の作用が基本としてある。
ということをエゴ(または自我)と名づけてみたのですが。。

No.193 - 2008/01/24(Thu) 01:07:42

Re: suhoさんえ / peer
>もっと、根源的に求心的な作用、を感じるのです。

お腹が空いたら、ご飯を食べたくなります。
食べたら満足して、それ以上は求めません。
しかし、それ以上を求めるとしたら、自然ではないですから
なんらかのヒズミがあると思えます。

何もすることがない・・・それで、ヒマつぶし。
どうなんでしょうね。
私たちは、愛するために、生まれた存在。
愛されるために生まれたと考えたら、大間違い。
もう〜愛のカタマリで生まれたのです。
ここが、まずは、の原点。と考えたい。

それが、どうして「愛されたい」に変わっちゃったのでしょうね。

No.197 - 2008/01/24(Thu) 09:19:58

Re: suhoさんえ / suho
> お腹が空いたら、ご飯を食べたくなります。
> 食べたら満足して、それ以上は求めません。
> しかし、それ以上を求めるとしたら、自然ではないですから
> なんらかのヒズミがあると思えます。


うーん。。
それは、たしかに「ヒズミ」と名づけるのはよいかもしれませんが、それが「良くない」という想いで書かれているのであれば、そのように考えている自分に、気づいている。
ということであれば、ヒズミではないかもしれません。

> 何もすることがない・・・それで、ヒマつぶし。
> どうなんでしょうね。


どうなんでしょうね。
ただ、ヒマツブシをしているのです(笑

> 私たちは、愛するために、生まれた存在。

僕は「愛する」ということがよく分かりません。
よく「愛は行為である」といわれる方がいますが、その意味が、よくわからないのです。
エゴ(自我)と同じように、愛も、特定の何かではないので、つまりそれしかないので「愛する」とあえて意志することがよくわからないのです。

> 愛されるために生まれたと考えたら、大間違い。
> もう〜愛のカタマリで生まれたのです。
> ここが、まずは、の原点。と考えたい。


はい。
そのように表現してもOKですし、ただ、世界のありよう、そのものと思います。

> それが、どうして「愛されたい」に変わっちゃったのでしょうね。

愛されるために愛する、というような、なにか特定の感情、感覚を求めている場合、それは本質的には「私の気分が良くなるようにしてほしい」ということなのでしょうね。
で、同じように「愛する」という意志?からくる行為の場合も、上記のような「取引的な求め」が潜在していないか?
あるいは、「愛する」という行為をしていることに満足している、つまり「愛するべき」という信念に行為を合わせていないか?
という調べをしてみるのも、ありですね。

No.204 - 2008/01/24(Thu) 23:24:37

Re: suhoさんえ / peer
>そのように考えている自分に、気づいている。
>ということであれば、ヒズミではないかもしれません。


自分のしていることが、本当は違う意味があったと気付くことがあります。
そういうとき、いかに自分は、自分のことを知らないのか・・・と思ったりします。

>「愛する」とあえて意志することがよくわからないのです。

はい。ふつうに意志だと考えると、行為だと思いやすいですね。
ただ、そこに存在しているだけで、愛。そんな感じです。
その人が何かイイコトをしてくれるから、じゃないですね。
んんー、その人がいる。それだけで嬉しい〜みたいな。

それなのに。
「おまえが居なかったら、よかったのに・・・」とか「産むんじゃなかった」とか「そんな子はウチの子じゃないよ」とか平気で言う大人が居ます。
人はね。自分の痛みには敏感ですが、人の痛みには鈍感ですよね。

No.205 - 2008/01/25(Fri) 00:22:07

Re: suhoさんえ / potanpotan
peerさん

こんにちわ。

人は愛のカタマリ

実感を持ってらっしゃるんですね。

もう少し、聞きたかったなと思いました。

私は愛も作用という感じがしています。

No.207 - 2008/01/25(Fri) 07:01:07

Re: suhoさんえ / peer
はじめまして〜potanpotanさん

私は過去で1人だけ、完全に「愛を知らない」という人に出会ったことがあります。
その人に出会ったことで、愛がどんなものかが、腑に落ちました。
本当に・・・どんな人も、愛のカタマリなんですけどね。
「愛したい」でも「愛されたい」でもない。何もない・・・。
それはもう、背筋が凍り付く。という体感でした。

人とは相互関係ですから。その人はどんなに毎日が背筋凍り付く瞬間を生きているか。と感じましたら、、、苦しいというか、せつない、というか。
愛がないとは、ほんとうに・・・ふつうなら一瞬も生きられない、そんな感じです。

No.213 - 2008/01/25(Fri) 12:15:01
(No Subject) / ルー
相手を責めるとか、相手をどう思うとか、そういうことは、二の次なのです。
自分に起きていることを、ちゃんと把握したい。
自分が何を感じているかを、自分で知りたい、受け止めたい。
まだ、そんな次元にいるのです。

ものごころついた時から、ずっと良い子を演じてきたために、自分の気持ちに気づくという機能が薄いのです。
自分の気持ちより、「どうすれば、うまくいくのか」ということを考えるようになっています。
それで、今、過去のことから現在のことまで、何が起きていたのか、何が起きているのかを見ようとしています。
私は、常に、母の立場に立っていました。
母がこれ以上不幸にならないように、自分のふるまいを決めていました。
ですので、今、出てくる事柄は、娘の立場に立って母を見る、ということに重点が置かれています。
そんな時に、母の方に気持ちを入れた意見を言われると、また、いつも母がこれ以上不幸にならないようにと考えていた自分に、引き戻されます。

No.188 - 2008/01/23(Wed) 10:13:26

Re: / ルー
引き戻されると、事実を把握確認するという作業が出来なくなります。良い子になろうとしてしまうからです。
それは、現実を見えなくしてしまいます。

現実がどうなのかというと、母の影響が出ています。
それを見ようとしているのです。
まだ、私は、子育て中だからです。

No.189 - 2008/01/23(Wed) 10:23:07

Re: / ubik0101
ルーさんの投稿を読ませてもらって。もしかして人は、とにかく生まれて、びっくり仰天。この見えてる世界が何かも解らない。それを見てる自分が何かも解らない、そう考えてるってことも何かも解らない。と、空想してしまいました。

それでしかたなく、何かに執着、密着したりして、そうすることで世界と自分を解ってる気持ちになりたい、のかもしれません。でも、そうすればするほど、自分が行方不明になるのに気がつくでしょう。それで執着などを否定したいのかもしれません。

また花や蝶や魚。無知や欲望や自我。思考や現実や自由。なにかに名前をつけたりして、そんなこと無理なのに、解ってるような気になりたいのかもしれないと、思いました。でも、そうすればするほど、解らないということも見失ってしまうかもしれません。

それでも、そういうことができることには、きっと意味があるのでしょう。また、自分を解らないこと。そのことに気がつくということは。なにも解らない状態でいい、というわけではなく、解ったつもりでいい状態でいい、というわけでもないのだと、思いました。また、なんだか解らない世界でなくては、人の成長は不可能かもしれません。

No.190 - 2008/01/23(Wed) 17:15:36

Re: / ルー
確かに、「わかる」という終着駅があるわけではないのですが。

救難信号にも気づきにくいというか、無視して頑張ってしまうところがあるかも知れません。

No.191 - 2008/01/23(Wed) 19:53:03

Re: / potanpotan
ルーさん
こんにちわ。

私も子育て中です^^。3歳と5歳のママです。

心は植物に似ているように思います。
そして、心にはいろんな種があるように思えます。

ルーさんの小さなころの環境・・・
発芽できなかった種が・・あるいは、凍結された種が
あるのですね。
その代わり、循環しずらい環境の中で、どうしたら循環するかという全体を見る視点の種がぐんぐん伸びたのでしょうか。

でも、ちゃんと、心の種は発芽したがっていて
発芽できる環境を無意識に目指しましていて・・
発芽できる環境になったとき、
発芽するように思えます。

きっと、それが今なのかもしれないですね。

No.194 - 2008/01/24(Thu) 06:58:06

Re: / potanpotan
> 引き戻されると、事実を把握確認するという作業が出来なくなります。良い子になろうとしてしまうからです。
> それは、現実を見えなくしてしまいます。
>
> 現実がどうなのかというと、母の影響が出ています。


良い子になろうとするのは当然。
つい良い子になってしまうのも当然。
良い子になるあまり・・自分が抑圧されて
ストレスがたまったり、苦しくなるのも当然。
良い子の心の癖と、自分の想いをまっすぐに生きたい思いが
ごちゃごちゃ・ずきずきするのも当然。

全部全部当然。

何が悪くて、何がいけなくて、何が正しくてなんて
なんにもなくて全部、心に起きている全部は本当に
当然。

全部当然。

何かをしようとしなくても
何かを救おうとしなくても

ちゃんと心は
生きられるものが生き始め
生きられるようにバランスを整え始め

私に出来ることと言えば
ただ見ているだけ。
ただ耳を澄ましているだけ。

誰も悪くない。
何も悪くない。

今も昔も

お母さんも
子供たちも
ルーさんも

心はただ、その環境を生きられるように
いつもひたすらだし
もっと生かされるように、ひたすら。

そんなふうに感じています。

No.195 - 2008/01/24(Thu) 07:12:51

おはようございます / ルー
potanpotanさんは、そんなに小さい子のお母さんだっだんですね。前の投稿で、老いが気になるような書き込みがあったように記憶していて、もうちょっと上(たとえば40代後半ぐらい)かと思っていました。
3才と5才なら、まだ手がかかるし、子供も活発になってきて、大変な時期でもありますね。見ている分には、かわいいですが〜。
うちの子は、もう学校に行っています。
進路が気になるぐらいの年齢の子供もいます。

ふむ。
心は、植物に似ている・・・か
いろんな種が、発芽したがっている。
仕事と家事と子育ての両立ができなくて、仕事をやめた時、まるで定年退職後のサラリーマンのような気分になりました。ああいう気持ちを味わった女の人って、どれぐらいいるだろう・・・
それから、始まったような気がします。
自分の気持ちを軸にすること?
それまでは、「超前向き」だったのです。
「超前向き」は、もしかして、考えなくてもいい、ということと同じかもしれない。
どんなにひどいことがあっても・・・

最近、梨木香歩さんの小説を読んでいます。
さりげなく、人の心のいやらしさが登場するところが、読んでいて面白いです。
いやらしさは、主題ではないのです。
それがいいです。

No.196 - 2008/01/24(Thu) 09:02:30

Re: / potanpotan
ルーさんは体調は大丈夫ですか?

がんばりすぎてしまう、と書いてありましたので
少し、心配になりました。

体の隅々をよく感じてあげるのは大事かもしれません。

痛いのに、疲れているのに、苦しいのに

他人も気が付いてくれないし
自分も気が付いてあげられない・・

のだと・・倒れちゃいますからね。

No.202 - 2008/01/24(Thu) 20:55:27

Re: / ルー
心配していただいて、ありがとうございます。
身体は、大丈夫ですよ。
やるべき仕事は、こなしていますが、疲れたと思った時は、短い時間でも昼寝をしたりしています。

potanpotanさんは、その後、体調はいかがですか。

小さいお子さんがいると、自分のことは後回しになってしまいますね。

No.203 - 2008/01/24(Thu) 22:38:05

Re: / potanpotan

> potanpotanさんは、その後、体調はいかがですか。
>
> 小さいお子さんがいると、自分のことは後回しになってしまいますね。


回復してきました。

自分のことはたいていあとまわしですが・・・
「ここぞ」というときは子供はわかるようで
協力してくれたりするので・・・不思議です。

あ・・

この2,3年・・生き方を再編?しました。

今は、音楽の仕事だけだと不安定なので、会社に勤めたり・・。
育児に家事に・・

でも、がんばってはないです。

がんばって何かをやることができないタチなんだなと思います。

必要に迫られるものをやる
やれなかったらやらない。

という感じです。

バランスなんだな、と思います。

No.206 - 2008/01/25(Fri) 06:50:14

Re: / ルー
potanpotanさんの最初の方の書き込みを読んでいて、とても頑張り屋さんのように思っていました。

ここ2,3年で再編されたのですね。
そして、今、また変身している・・・

どんどん変わってゆきましょう

No.208 - 2008/01/25(Fri) 08:25:17
感謝です / あだち
    失礼いたします  
   「ビジネス&バイブル研究」 のご案内です 
        ご笑覧ください。
     http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/

No.200 - 2008/01/24(Thu) 20:03:41
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