| > いつでも、そのようである、そのままの、その自分の状態、思考を正直に言葉にしていけば、理解は自然に進んでいきます。徹底しないと、いつまでたっても苦痛です。 > > あの愛を感じない、その感じない自分を、そのまま認めれば、それだけですみます。感じても感じなくても、問題ありません。野山に咲く花、それを摘むことは欲望なのかもしれません。 > こう言って頂いて、なんか、助けられました。 愚かなことに、苦しんでいないといけない、とか、苦しんでいる姿こそ正しい、というような意識があったようです。 自分を、自由を追いかけさせることで不自由にしていた、感じです。
> 中道は、再現と言うより、日常が中道でしかありません。この不思議な世界のほか求める必要はありません。それをどう理解するかは個人の問題だし、いろいろあるから人に学べるのです。 > 中道に関して質問です。
例えば、ある人が世界を眺めて美しい、と感じる。そこへ父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る。彼は、あぁ世界を幾ら眺めても、腹の足しにならないし、両親に恩返し出来ない。そういって世の中の辛さをなげき、自分の仕事に戻る。 コレは破滅の道でしょうか。蟻地獄に自分から飛び込むようなものでしょうか。
そうではなく。ある人が世界を眺めて美しい、と感じる。そこへ父親が疲労しきった姿で仕事から帰って来る。彼は、あぁやはり世界は幾ら眺めても、美しい。父の仕事を奪ってはならない、といってお風呂に湯をはった、または仕事に戻った、また何もしなかった。 コレは中道でしょうか。
> ほかの人、たとえばubik0101の言うこと、などを空想しなければ、そんな自分なんて最初から、いません。天上天下唯我独尊。こそ無我と言われます。
なるほど。
中道を歩む人を天上天下唯我独尊、と表現するのでしょうか。いや。天上天下唯我独尊、という状態でしかいられない自分を確認することが、あの体験を理解して捨てる修行なのでしょうか。
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No.112 - 2008/01/15(Tue) 19:03:22 |